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2015/05/20

譚海 卷之一 火方御役儀祝儀に三芝居の座中參入の事

○江戸にて火事御役加役など仰付(おほせつけ)らるゝ時は、堺町ふきや町等の三芝居の座本太夫祝儀にまいる例なり。庭一すぢ畫(かく)して界をたて置(おき)、品川淺草の乞兒(かたゐ)の長松右衞門・善七、たちつけ羽織にて、玄關の左右の土間に坐し、式臺に手をかけながら、此度結構なる御役儀蒙らせられ、恐悦に存じ奉るよしを述(のぶ)る。用人玄關に坐して禮をうくる。扨詞儀(しぎ)畢(をはり)て三芝居の者共御祝儀に參上致(いたし)候よしを相述(あひのべ)、松右衞門・善七左右にわかれ向ひ坐する時、勘三郎・羽左衞門・勘禰等(ら)、席上下にて門のくゞりより入(いり)、土間のさかひを立置(たておき)たる所に坐し、同樣に祝詞(のりと)を述て後(のち)退出する事なり。

[やぶちゃん注:「堺町ふきや町」堺町と葺屋町現在の日本橋人形町。堺町と葺屋町は現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側で、歌舞伎小屋の中村座と市村座が、また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)もあった。一般には人形遣いが多く住んでいたことから人形町と名付けられたとされているが、江戸時代には「人形町」は通りを指す呼称で、昭和八(一九三三)年に正式にこの周辺の町を総称して「人形町」という町名に変更されたとウィキ日本橋人形町にある。

「三芝居」中村座・市村座・森田座(当時は木挽町五丁目、現在の中央区銀座六丁目にあった)の江戸三座。

「座元太夫」座本太夫とも書き、櫓主(やぐらぬし)或いは太夫元ともいう。当時の歌舞伎興行権を持つ者の称。

「火事御役加役」江戸市中の刑事組織として恐れられた火付盗賊改役(これも本来は先手組の加役)でも、火事の発生し易い十月から翌年三月まで、先手組が割り当てられて務めた増員組の火付盗賊改役加役のことと思われる。正確には火付盗賊改役の「当分加役」と称し、従来の火付盗賊改役は区別して「本役」と言ったとサイト「畝源三郎の捕物小説に役立つ知識」の火付盗賊改にある。

「品川淺草の乞兒の長松右衞門・善七」底本注には、『近世ではエタ非人などの賤民は特別に頭目を設けて自治的支配をさせた。浅草の車善七と品川の松右衛門は江戸の非人頭であった。町人百姓外なので、芝居役者も一応はその支配下に入ったのである』とある(「乞兒」は「乞食」と同義で「子」の意ではない)。部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「非人」によれば、非人の長吏頭であった弾左衛門(言葉上の誤解を生む嫌いがあるので注しておくと彼は、穢多・非人集団内の長であり支配者だったのであって、差別支配をしていた武士階級の側の上位支配者ではない)の支配下にあった四人(一時期は五人)の有力な非人頭の中でもこの車善七は特に有力で、享保四(一七一九)年以降になると弾左衛門や各地の長吏頭の支配から独立しようと幕府に訴えを繰り返したが、しかし弾左衛門を超える経済力・政治力(江戸中期まで弾左衛門は歌舞伎を興行面でも支配していた)を持っていなかった彼ら非人たちは、結局、最後まで弾左衛門の支配下に置かれ続けた、とある。なお、同サイト内には車善七のルーツを武家とする自筆の上申書『「浅草非人頭車千代松由緒書」(天保一〇(一八三七)年)』が載る(千代松は車善七の幼名)。必読である。そこには、また『非人頭として車善七につぐ勢力を持っていた品川非人頭松右衛門も、その元祖は三河出身の浪人三河長九郎であるという家伝を伝えてい』るともある。「弾左衛門を超える経済力・政治力」というのは、江戸中期まで弾左衛門が歌舞伎を興行面でも支配していたことを指す。但し、同サイトの歌舞伎と部落差別の関係には、『歌舞伎は大衆芸能として大きな人気を誇り、大奥や大名にまでファン層を拡大』すると、『歌舞伎関係者は、こうした自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざし』、宝永五(一七〇八)年に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、遂に「独立」を果たしたものの、『しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われ』、『彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受け』、『歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことで』あった、とある。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞録で、既に弾左衛門支配からは脱却して最低でも七十年近くは経っていたものの、本話で沢山の当時の歌舞伎の名優たちが車善七や松右衛門に従うように祝儀の挨拶に参るというのは、恐らくはそうした嘗て上位の弾左衛門の旧支配構造上の存在や、まさに歌舞伎役者らへの差別被差別の構造支配の深層的な根深い名残が依然としてあったことを示唆するものと考えてよいであろう。

「たちつけ」 裁ち着け。袴(はかま)の一種。膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもので、旅行の際などに用いた。]

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