北條九代記 卷第七 武藏守泰時鑒察 付 博奕禁止
○武藏守泰時鑒察 付 博奕禁止
同八月十八日の早朝に、武藏守泰時は榎島(えのしま)の明神に參詣ありける所に、前濱に死人あり、年の比二十餘(はたちあなり)の男なりけるが、刺殺されたる者なりけり。泰時不便(ふびん)の事に思はれ、御神拜(ごじんはい)を差置(さしお)きて、直(すぐ)に御所へぞ參られける。評定衆を召して、沙汰を經られ、御家人等に仰せて、武藏大路、西濱、名越坂(なごやざか)、大倉、横大路(よこおほぢ)以下諸方の口々を堅めさせ、家々を搜して、犯科人(ぼんくわにん)をぞ求められける。かゝる所に、名越邊に、或男てづから、直垂(ひたゝれ)の袖に付きたる血を洗ひけるを怪しみて、岩平(いはひら)左衞門尉、この男を搦捕(からめとつ)て參らせけり。水火の拷問に及びしかば、ありの儘に白狀を致しける。「今夜ある人の家に集り、五六人博奕(ばくえき)して、勝負を爭ひ、潛(ひそか)に刺殺して捨て候。その血の付きたるを洗ひたりけるに、運命盡きて、顯れ候」とぞ申しける。是に依て、牢獄に入れられ、博奕停止(てうじ)の觸(ふれ)をぞ行はれける。泰時の鑒察(かんさつ)は、神(しん)に通じ給ひけりと、皆、感嘆せられけり。夫(それ)博奕の獘(へい)は世を以て大(おほい)なりとす。正直廉讓の人といへども、忽(たちまち)に奸僞(かんぎ)の者となり、武士は臆病起り、僧侶は道德を失ふ。君子の誡むる所、小人の好む所、貧困口論(こうろん)の根となり、盗賊放蕩の基(もとゐ)たり。國家政務の邪魔となる事、是に過ぎたるはなしとて、強く禁制(きんぜい)せられしは。理(ことわり)とぞ申し合ひける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福元(一二三三)年八月十八日の条に基づく。
「鑒察」「鑒」は「鑑」と同字。現在の「監察」(取り締まり、調べること)と同義。
「榎島の明神」江ノ島明神。現在の江島(えのしま)神社の古称。同神社の濫觴は天照大神が須佐之男命と神産み比べをした際に生まれた三姉妹の女神、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと/奥津宮に祭祀)・市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと/中津宮)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと/辺津宮)を祀ってこれを江島大神、江島明神と呼んだ。後に仏教との習合による本地垂迹説により三女神は弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至った。
「前濱」現在の由比ヶ浜の滑川河口から西部分及びそこに含まれる坂ノ下海岸の当時の称。巨視的には鶴岡八幡宮(或いはその前身である若宮)の「前」、或いは創建が遙かに古いとされる甘繩神明社の「前」の謂いであろう。
「武藏大路」諸説あって定まらぬ大路名であるが、最も有力なのはほぼ若宮大路と並行して、西口の市役所前を南北に走る道で、南行すれば御成小学校前・裁許橋を経て六地蔵で現在の由比ヶ浜通りに接し、北行すれば寿福寺前で横須賀線踏切を越えて、亀ヶ谷や化粧坂の切通を越えてまさに武蔵に至る道である。
「西濱」現在の材木座海岸及び飯島ヶ崎の東側一帯を指す古称。
「名越坂」現在の大町の名越(なごえ)にあった鎌倉七切通の一つ。三浦への重要な古道であったが、現在は寸断されたものが部分的に残るのみである(私は三十七年前の二十一の時、私は蜘蛛の巣と擦り傷だらけになって踏破したことがあるが、近年はかなり整備された模様である)。横須賀線の現在の名越トンネルの上部を越えていた。
「大倉」当初の大倉幕府(現在の清泉小学校附近)を中心とし、西は鶴岡八幡宮まで、東は浄妙寺辺まで(白井永二編「鎌倉事典」は朝比奈切通までとする)、南は滑川左岸、北は瑞泉寺辺りまでを指す古い地域名。
「横大路」現在の鶴岡八幡宮三の鳥居前の東西の道に比定されるが、「吾妻鏡」の叙述を見る限りでは、古くはもっと北の八幡宮内、現在の流鏑馬が行われる馬場辺りにあったのではないかと考えられる。
「岩平左衞門尉」「岩手左衞門尉」の誤判読か誤刻。後掲する「吾妻鏡」参照。人物不祥。「吾妻鏡」ではここ以外には見えない。
「奸僞」悪知恵をめぐらして巧みに取り繕うこと。
以下、「吾妻鏡」天福元 (一二三三)年八月十八日の条を示す。
○原文
十八日庚寅。早旦。武州爲奉幣于江嶋明神出給之處。前濱有死人。是被殺害者也。不遂神拜給。直參御所給。即召評定衆。被經沙汰。先令御家人等。武藏大路。西濱。名越坂。大倉。横大路已下。固方々途路。有犯科者否。可搜求其内家之由。被仰下之間。諸人奔走。而名越邊。或男洗直垂袖。其滴血也。成恠。岩手左衞門尉生虜之。相具參御所。推問之刻。所犯之條無所遁。是博奕人也。仍殊可停止其業之由。下知云々。]
○やぶちゃんの書き下し文
十八日庚寅。早旦、武州、江嶋明神(えのしまみやうじん)に奉幣せんが爲に出で給ふの處、前濱(まへはま)に死人有り。是れ、殺害(せつがい)せらるる者なり。神拜を遂げ給はず、直(すぐ)に御所に參り給ふひ、即ち、評定衆を召し、沙汰を經(へ)らる。先づ御家人等(ら)をして、武藏大路・西濱・名越坂・大倉・横大路已下、方々の途路(とぢ)を固めしめ、犯科者(はんくわしや)有りや否や、其の内の家を搜(さぐ)り求むべきの由、仰せ下さるの間、諸人、奔走す。而して名越の邊に、或る男、直垂(ひたたれ)の袖を洗ふ。其の滴(したたり)は血なり。恠(あや)しみを成して、岩手左衞門尉、之れを生虜(いけど)り、相ひ具して御所に參ず。推問(すゐもん)の刻(きざみ)、所犯の條、遁(のが)る所無し。是れ、博奕人(ばくえきにん)なり。仍つて殊に其の業を停止(ちやうじ)すべきの由、下知すと云々。]
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