橋本多佳子句集「命終」 昭和三十二年 賀名生村
賀名生村
蒟蒻掘る泥の臭(か)たてて女夫(めをと)仲
蒟蒻掘妻(め)と吉野山常に偕(とも)
蒟蒻掘顔をあげるを鴉まつ
蒟蒻掘る尻がのぞきて吉野谷
天が下土と同色蒟蒻掘
蒟蒻掘る顔を妻があげ山鳩翔つ
蒟蒻掘る穴に吐き捨つ夫(を)の言葉
蒟蒻掘る夫婦に吉野山幾重
蒟蒻負ひ馴れしこの道この傾斜
蒟蒻負ふ泥の重さも背に加へ
*
柿盗りの蹠(あうら)に老の樹のよき瘤
柿盗りを全樹の柿がうちかこみ
柘榴の裂けすでに継げざるまで深く
茸山に入る身を細め身を屈し
これが茸山うつうつ暗く冷やかに
[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三二(一九五七)年に、『晩秋、柿取りを見たく、柿の産地の賀名生(あのう)村に、清子と行く。時季遅れで柿無く、蒟蒻(こんにゃく)掘りを見る。僻地で、バスは日に二三回しか無く、ヒッチハイク式に、多佳子は手を上げて、「森本組」と書いた、土建業者の車に乗せてもらって帰る』とある。ウィキの「賀名生」によると、賀名生は和歌山線五条駅の南南東六・七キロメートルの『奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。南北朝時代(吉野朝時代)、南朝(吉野朝廷)の首都(ただし行宮であるため正式な首都ではない)となった地域の一つ』。『もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が皇居を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに』正平六/観応二(一三五一)年、一旦、『統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。後村上天皇の遷幸より前の』延元元/建武三(一三三六)年十二月二十一日に後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出て、同月二十三日には『穴生に至ったが、皇居とすべきところがなかったのと高野山衆徒の動向を警戒してここに留まるのを断念』、同月二十八日に『吉野山に至った』が、正平二/貞和三(一三四七)年に『正月に楠木正行が四条畷で戦死したのち、南朝では北朝方(室町幕府、足利軍)の来襲を防ぎ得ないのを知り、吉野を引き払い穴生に移った(皇居は総福寺であろうという)』(中略。リンク先にはこの間の詳細な歴史的経緯と南朝方の移動が記されてある)。『のち長慶天皇を経て後亀山天皇が践祚するに及び』、文中二/応安六(一三七三)年八月より、住吉から『また賀名生を皇居とし以後』元中九/明徳三(一三九二)年に『京都に帰って神器を後小松天皇に伝えるまで』の二十年の間、『賀名生は南朝の皇居の所在地であった』とある。『明治以降は吉野郡賀名生村が存在したが』、多佳子が訪れた二年後の昭和三十四(一九五九)年、『合併し西吉野村となった。日本国有鉄道五新線が通る予定で、途中の阪本まで建設が進められていたが中止され、用地の一部はバス専用道路に転用された』。その後、西吉野村は二〇〇五年の市町村合併で五條市の一部になって、一九五九年以降は『「賀名生」という地名は通称としてのみ使われていたが』、二〇一一年に『西吉野町和田地区の一部が西吉野町賀名生と変更され、住所表記として賀名生が復活し』ている。『賀名生の皇居は、従者の住まいだった一部が現存する』。『南北朝時代から賀名生梅林が有名であり、明治以降は実を収穫するための植林もされた。さらに』、大正一二(一九二三)年に当時の『東宮(後の昭和天皇)成婚を記念して』五千本の『梅が植林された。現在は柿の生産も盛んである』とあり、交通の項には『奈良交通バス五條西吉野線(五新線用地)賀名生バス停下車、または八木新宮線賀名生和田北口バス停下車』とある。それぞれのバス停の時刻表を見ると、後者は一日三便しかないが、前者は五本運行している。
「蒟蒻」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科コンニャク属コンニャク Amorphophallus konjac 及びその球茎。]
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