カテゴリ 神田玄泉「日東魚譜」 始動 / 老金鼠(ホヤ)
カテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を始動する。
「日東魚譜」全八巻は本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである(以上は主に上野益三「日本動物学史」平凡社一九八七年刊に基づく『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』の谷内透氏のこちらの解説に拠ったが、後で見るように、それよりも序についてみるともっと古い版がある模様)。多様な写本類については「Blog版『MANAしんぶん』」の「日東魚譜について」が詳しい。
著者神田玄泉(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある(事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
本文底本は国立国会図書館デジタルコレクションの請求番号「特7-197」の版の画像を視認した。割注は〔 〕同ポイントで示した。原文白文を一行字数を原画と合わせて電子化した後に(漢字の判読で迷ったものは正字を採った)、訓点を参考に私がかなり自由に書き下したものを示した。原典のカタカナの読みはそのままカタカナで附し、それ以外の平仮名のそれは独自に、しかも注を出来る限り制限する目的を主に、歴史的仮名遣で私が恣意的に附したものである。読み易さを考え、適宜改行した。その後に簡単な同定と注を附した(他の電子テクストで何度も附したものはもはやくどくどしいのでなるべく省略した。悪しからず)。
附図画像については当該写本のそれ(彩色)を用いた(同画像は国立国会図書館デジタルコレクションの保護期間満了の自由使用許可のものである)。それ以外に、ネットで視認出来る「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の「日東魚譜」(享保四(一七一四)年序の写本であるが刊行は嘉永七(一八五四)年刊のもの)を一部でリンクさせた。同データベースは学術目的のためのリンクは申請の必要がない(因みに私はアカデミズムの人間ではないものの、私のサイトが「学術的」でないとはさらさら思っていないことを附言しておく)。
まずは例によって「巻三」の「海蟲部」にある僕のフリークのホヤから始めよう。
老金鼠〔順和名抄〕
釋名保屋〔同上〕源順和
名抄作老金鼠訓保
屋也愚按此邦呼寄
生之者名保屋此物
附着于海岸如石蜐
牡蠣故名之保屋也
又作之於老金鼠此
殻有瘣※黄赤色恰
[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「畾」。]
似金鼠是以意會者
也全非沙噀類肉如
蚶腹中如蛤蜊腸肉
味如蚶氣似砂噀也
是故爲金鼠之老者乎凡其殻謂甲蟲而非
甲蟲又謂蛤類而非蛤類只如水牛皮生堅
硬而有瘣※如小角無口目肉形色頗似蚶
肉色而無肉帶與殻相附處有血已肉中有
腸茶褐色而如蛤蜊腸無佗腸臟生者作鱠
美味也又作脯者如薄革其色白而處々帶
紅色乾者味淡薄此者獨有奥之仙臺爾未
聞佗州有之也氣味甘温無毒主治益血補
氣止自汗盜汗
○やぶちゃんの書き下し文
老海鼠〔順(したがふ)「和名抄」。〕
釋名保屋(ホヤ)〔同上。〕。源の順「和名抄」、『老金鼠』に作り、保屋(ホヤ)と訓ず。愚、按ずるに、此の邦(くに)に寄生の者を呼びて、保屋と名づく。此の物、海岸に附着して石蜐(かめのて)・牡蠣(かき)のごとし。故に之を保屋と名づくなり。又、之を老金鼠と作ることは、此の殻、瘣※(いぼ)有りて黄赤色、恰も金鼠(きんこ)に似たり、是れを以つて意會(いくわい)する者なり。全く沙噀(なまこ)の類に非ず。肉は蚶(あかがひ)のごとく、腹中、蛤蜊(がふり)の腸(わた)のごとし。肉の味、蚶のごとく、氣は砂噀に似たり。是れ故に金鼠の老する者と爲すか。凡そ其の殻、甲蟲と謂ひて甲蟲に非ず。又、蛤類と謂ひて蛤類に非ず。只だ、水牛の皮の生(なま)なるが、堅硬にして瘣※(いぼ)有るがごとく、小角、口・目、無く、肉、形・色、頗る蚶の肉の色に似て、肉の帶、無く、殻と相ひ附く處(ところ)、血、有るのみ。肉の中、腸、有り、茶褐色にして蛤蜊(ノビガイ)の腸(ワタ)のごとくして佗(た)の腸臟、無し。生(なま)なる者の鱠(なます)に作(な)して美味なり。又、脯(ひもの)と作(な)すは、薄革(うすかは)のごとく、其の色白くして、處々に紅色を帶ぶ。乾(ひもの)は味、淡薄。此の者の獨り、奥の仙臺に有るのみ。未だ、佗州、之れ有ることを聞かざるなり。
[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「畾」。]
氣味 甘温。無毒。
主治 血を益し、氣を補ひ、自汗・盜汗を止む。
[やぶちゃん注:脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱マボヤ目マボヤ亜目マボヤ(ピウラ)科マボヤ
Halocynthia roretzi の成体個体と被嚢を除いた筋帯部の図(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクション「日東魚譜」の保護期間満了画像)。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」(冒頭注参照)の「日東魚譜」(こちらは巻六)の「老金鼠」の載る頁をリンクさせておく(底本版は項目名が前頁にあるが、その画像は省略した。後日、当該頁の「海燕」(タコノマクラ)を示した際にリンクさせる)。しかし乍ら按ずるに、この二つの彩色図を見ると、「肉」(筋帯部)はどうみてもマボヤのものではなく、赤みが強くてマボヤ(ピウラ)科アカボヤ Halocynthia aurantium にしか見えないのであるが、如何?
「老金鼠」ママ。「金鼠」は後注参照。普通は老海鼠で、こう記すものは珍しい。正直言うと、後掲する金海鼠(キンコ。実際にマナマコよりもずんぐりして形状はホヤにより近いとは言える)に似ているという記載から思わず、神田玄泉がうっかりこう記してしまった可能性を私は捨てきれない。
「愚」玄泉の自称卑辞。
「寄生の者を呼びて、保屋と名づく」半寄生性の灌木で他の樹木の枝の上に生育する双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ヤドリギViscum
album の古名を事実、「ほよ」と呼び、万葉集に用例がある。興味深い語源説ではある。「保屋」という漢字は確かにそうしたニュアンスを感じさせはする。但し、これは必ずしも一般的な語源説ではないので注意されたい。
「恰も金鼠に似たり」「金鼠」はナマコの仲間である樹手目キンコ科キンコ
Cucumaria frondosa var. japonica を指す。玄泉はこのホヤの記載の直後から始まる「海蟲柔魚部」という変わった分類項の中に、「沙噀」(ナマコ類)を挙げ、その後に「金海鼠」(キンコ)を掲げている(近日中に電子化する)。
「全く沙噀の類に非ず」実に明解に生物学的に正しい発言をしている点に着目すべきである。
「意會する」相同の性質に合わせて同音の命名をしたという謂いであろう。
「甲蟲」現行のエビ・カニの類を示す甲殻類の外骨格のような体制を持つ生物を指している。
「肉の帶」脂肪や筋がないことを言っているようである。但し、よく観察するならば、食用にする筋帯にはプランクトン捕食用のスクリーンの部分に細かな網目を観察出来るのであるが、と少し玄泉先生にツッコミたくはなる。
「ノビガイ」どう見ても「ノ」としか読めない。当初、「ツビガイ」かとも思ったが、「ツビ」は食用の巻貝を示す「螺」の古語であって、「蛤」には相応しくない。
「佗」他。
「自汗・盜汗」「自汗」は覚醒時の多汗の症状を、「盜汗」は寝汗の症状の呼称。]
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