カテゴリ 武蔵石寿「目八譜」 始動 / 「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」 ――真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)――
カテゴリ『武蔵石寿「目八譜」』を始動する。
全十五巻からなる膨大な貝類図鑑である「目八譜」は天保一四(一八四三)年に刊行された、武蔵石寿(明和三(一七六六)年~万延元・安政七(一八六〇)年)の著になる江戸時代介譜の最高峰である。底本(後掲)の磯野直秀先生の解題によれば、書名は貝の字を分解すると「目」と「八」になることと「岡目八目」(人の碁を脇から観戦していると打っている人よりも八目も先まで手が読めるという謂いから、第三者は当事者よりも情勢が客観的によく判断出来るということを言う。自らを貝の専門家ではないとする自負を潜ませた謙辞とも言えるか。碁石の白石は古来ハマグリ製であったからこの響きは相性も良い)貝類を掛けたもので、富山藩主前田利保の序は弘化二(一八四五)年だが、その後も書き足されている。『図の多くは正確で、二枚貝では貝殻の外側と内側、巻貝では口側と反口側をともに描き、同一種でも色彩・模様・大きさの違う複数の図を示すなど、行き届いている。記文は品名に異名・方言を添え、多数の書物を引用し、自己の見解も示す。構成は、冊1前半が序と凡例、二枚貝の図解、介の名産地』二五九の地名など。冊一後半から冊五までが二枚貝、冊六から九までが巻貝、冊十「貝宝」(題箋副題)はタカラガイ、冊十一「無對」(題箋副題)がアワビ類、冊十二「異形」がツノガイ・ヘビガイ・フジツボ・カメノテ・正形ウニなどの現行の広義の魚貝を含み、冊十三「支流」が貝の破片や巻貝の蓋を、冊十四「燕車」(海燕・海盤車の意味)が歪形ウニ類・ヒトデ・クモヒトデ、冊十五「粘着」が他物に付着している貝を記し、品数総計は千百六十九品にも及ぶ。『本書は博物画の名手服部雪斎一人が描いたように伝えられてきたが、最近の研究では雪斎以外の筆も少なくないことが判明している』とある。
武蔵石寿は幕臣。以下、ウィキの「武蔵石寿」によれば、現在の新宿区砂土原町で旗本武蔵十郎衛門義陳の長男として生まれ、二十五歳で家督を継いで二百五十石扶持の旗本として甲府勤番を勤めた後に江戸で隠居、本草学・博物学に専念した。天保元(一八三〇)年に当時舶来の鳥を飼うのが盛んであったらしく「風鳥韻呼類」を著し、天保七(一八三六)年に本草学に傾倒する余り「草癖大名」と揶揄された富山藩主前田利保を中心とした本草学・博物研究会「赭鞭会(しゃべんかい)」が発足すると、石寿もそのメンバーとして本領を発揮し出し、遂に天保十四年満七十七歳にして、この稀代の貝類図鑑の大作「目八譜」を完成させた。『現在日本における貝の和名は、この図鑑で命名されたものが多』く、『日本の博物学史上でも白眉と言えるこの図鑑は、当時世界的に見ても非常に優れたもので、その成果を見ると、日本の博物学の中で貝類学が突出していたといえるのである』とある。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の画像を視認、図も同所の保護期間満了(自由使用許可)の画像を使用した。これはあまりにも膨大なものであり、最初から始めても、恐らく僕の生きている内には終わりそうもないから、気ままに好き勝手なところを電子化することにする。アカデミックな同定研究はこうしたものがあるらしいが、あくまで僕の好き勝手で同定などもしてみたい。
まずは目についた最終第十五巻の最後から二つ目の色鮮やかにして猥雑なるこいつから行こう。――
「巻十五 粘着」より
○東開婦人ホヤ粘着ノモノ
[やぶちゃん注:斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus の外殻に粘着した脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱マボヤ目マボヤ亜目マボヤ(ピウラ)科マボヤ Halocynthia roretzi の図(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「目八譜」の保護期間満了画像)。本作は「目八譜」であるから、あくまで貝が主で、附着物は従であることに注意されたい。また、精査した訳ではないが「目八譜」にはホヤは載っていないようで、石寿はホヤを貝類とは見做していなかったことが分かる。なお、この図は良く見ると、絵総てを含む下半分(キャプションの「粘」以下の箇所)が明らかに紙質が新しい。これは本来の絵が剥落したものを、後から再画した者らしい。その剥落時に下のホヤの水管(恐らく出水管)の一部が破損していて、再現出来なかったのではあるまいか? それくらい、この構図は私にはおかしいものに見えるのである。
「東開婦人」「東開」はママ。本草書では大陸のものでも「東海夫人」が普通。……さても……確信犯か? はたまたフロイト的言い間違いか?]
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