毛利梅園「梅園介譜」 蟶・アゲマキ /(種考証中)
「漳州府志」
蟶〔あげまき〕
丙申四月六日眞寫
前歌仙介三十六品の内
「後撰」 伊せの海の蜑(あま)のまでかた待てしばし
うらみて波のひまはなくとも
以つて「馬刀」、「マテ」とす。非なり。「マテ」は竹蟶なり。「浦の錦」には
「蟶」を「マテ」と
す。考ふべし。
[やぶちゃん注:「アゲマキ」という異名からは、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ナタマメガイ科アゲマキガイ Sinonovacula constricta の二個体の図となるが、どうも二個体ともに殻の形状が全くアゲマキガイらしくない。なお、最後の和歌の記載には「蟶ヲマテト」の下から左へ五行の記載が画像では見えるが、これは下に描かれたイガイの解説(後日電子化する)であるから無視されたい(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」の保護期間満了画像)。
「前歌仙介三十六品」寛延二(一七四九)年に刊行された本邦に於いて最初に印刷された貝類書である香道家大枝流芳の著になる「貝盡(かいづくし)浦の錦」(二巻)の上巻に載る「前歌仙貝三十六品評」のことと思われる。「Terumichi Kimura's Shell site」の「貝の和名と貝書」によれば、同書は『貝に関連する趣味的な事が記されて』おり、『著者自ら後に序して、「大和本草その他もろこしの諸書介名多しといえども是れ食用物産のために記す。この書はただ戯弄のために記せしものなれば玩とならざる類は是を載せず」と言っている』とある。
「後撰 伊せの海の蜑(あま)のまてかた待てしばし/うらみて波のひまはなくとも」「貝盡浦の錦」の「前歌仙貝三十六品評」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該作のここの画像を視認)、によると、
馬刀介(まてかひ) 右六
後撰 源英明
伊勢(いせ)の海(うみ)のあまのまてかたまてしばしうらみて波(なみ)のひまはなくとも
とあるのを指す。但し、「後撰和歌集」の「巻第十三 恋五」を見ると(岩波書店新日本古典文学大系版を使用)、この歌(九百十六番歌)は、「源英明朝臣」として、
心にもあらで久しくとはざりける人のもとに
つかはしける
伊勢の海(うみ)の海人のまでかた暇(いとま)なみ永らへにける身をぞ怨(うら)むる
と後半が全く異なる。この一首は古来より難解な詠とされるものである。校注者の片桐洋一氏の訳では、『伊勢の海で働く海人の左右の手と肩が休む暇とてないように、暇がないままにお訪ねもせず、このように生き永らえて来た我が身を、みずから怨んでおります』とはある。「前歌仙貝三十六品評」の方はもっと難解で私にはよく意味が分からない。なお、作者の源英明(みなもとのふさあきら ?~天慶二(九三九)年:底本の岩波版の人名索引では「ひであきら」とする)は宇多皇子斉世(ときよ)親王の第一王子で、母は菅原道真娘。左近衛中将・蔵人頭(くろうどのとう)。祖父宇多天皇の没後は不遇で、同じく不遇の詩人橘在列(たちばなのありつら)と親交を結んだ。作品は「本朝文粋(ほんちょうもんずい)」などに見える。父の遺言により「慈覚大師伝」を完成したとある人物である(彼の事蹟は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
『以つて「馬刀」、「マテ」とす。非なり。「マテ」は竹蟶なり。「浦の錦」には「蟶」を「マテ」とす。考ふべし』前のマテガイの図と、このアゲマキの図を示した上での、この和歌の「まて」の同定検討記載であるが、これまた難解である。
――【この歌の「貝盡浦の錦」の前書では】「馬刀」を以って「マテ」としているが、これは誤りである。「マテ」は「竹蟶」(マテガイ)のことであって、「馬刀」は違う。【片や、】「貝盡浦の錦」では【別な箇所で】「蟶」を「マテ」(マテガイ)としている。この不審は検討する余地がある。――
といった意味であろうか? なお、【 】部分は私の推定補填挿入部である。識者の御教授を乞う。
「丙甲」天保七年。西暦一八三六年。]