一二
それから、私共は音に聞えた鎌倉の觀音の前へ達した。これは、人間の靈魂を救はんがため自から永遠の平安を讓渡たし、猶億劫年間人類と惱みを共にせんがため、涅槃の幸福を放棄した、憫みと慈悲の女神なのだ。
私は寺に通ずる石段の阪を、三つ上つて行つた。入口に坐せる若い娘が立ち上つて迎ヘて、奧へ人つて番僧を呼んできた。それは白衣を着けた老人であつた。彼は私に入るやう合圖をした。
この寺はこれまで見た寺に劣らず大きくあるし、また他の寺々の如く星霜六百年の損傷を受けて、古色蒼然としてゐる。祈願の献納品や、字を書いたものや、種々の面白い色に染めた澤山の提燈などが、屋根から吊り下つてゐる。
入口に殆ど對した處に、極めて人間らしい容貌で、等身大の珍しい坐像が非常に皺のよつた顏の中に埋もれた、小さな奇妙な眼で、私共を眺めてゐる。もと顏は肉色に、像の衣は淡靑色に賦彩してあつたが、今では年月と塵のため、全體一樣に灰色になつて、その色褪せた趣は、像の老朽とよく調和し、いかにも生ける托鉢僧を見るやうだ。これはお鬢づるで、無數の參詣者の指先に撫でられて形の磨滅してゐる。有名な淺草のものと同じい。入口の左右に筋肉逞しく、怖ろしげな仁王がある。深紅の胴體には參詣者の投げつけた白い紙玉が、班點をなしてゐる。壇上には、小さいけれども、頗る好ましげな觀音が、炎の明滅を模せる、長方形の金の光背を全身に負ひながら立つてゐる。
が、この像のため、この寺が有名なのではない。今一つ別の像があるのだ。それは或る條件で拜することが出來る。老僧は立派な英語で、盛んに述べ立てられたる懇願文を私に提示した。寺と住職を支へて行くため、參詣者から幾分の寄附を仰ぐといふ趣意で、他の宗旨の人々にも『苟も人を親切にし、善良ならしむる信仰は、すべて尊敬に値する』ことを記憶するやう訴へてあつた。私は幾らかの喜捨を捧げて、大觀音の拜觀を求めた。
すると、老僧は提燈に點火し案内して、佛壇の左の低い入口から、寺の内部の高い暗い處へ入つた。私は用心し乍ら隨いて行く。提燈の火がちらちらする外、何も見えない。やがて、何だか光つたものの前に停つた。暫くすると、私の眼が暗黑に慣れて、物の形狀が分明になつてきた。その光つたものは、次第々々に金の大きな足であることが分つて、足背の上に金の裙の紺が波を打つてゐるのが目についた。すると、片方の足も見えたから、これは立像に相違ないと思つた。私共の居る處は狹いが、餘程高い室であつて、上の方の神祕な暗黑から、金の足を照らしてゐる燈光の圈内へ繩がぶらさがつてゐるのが分つた。僧は更に二つの燈を點じて、一碼位離れて垂下した一對の繩に附着せる鈎に吊るし、それから徐々とたぐつて上げる。燈が搖れ乍ら上ぼるにつれて、金の衣はもつと澤山現れてくる。次には二つの大きな股の外形、その次には彫刻の衣裝を纏つた、圓柱のやうな股の曲線が現れる。して、燈光が猶ますますゆれつゝ上つて、金の幻影が暗中にますます高く聳えると共に、期待の心が緊張してくる。頭の上方で目に見えぬ滑車が蝙蝠の叫ぶ如く軋る外には、一つの音もしない。やがて金の帶の上の方に、胸に髣髴したものが現れた。次に祝福を示すために擧げられたる金の手が輝いて見えた。次には蓮華を持つた片方の金の手、それから最後が金の顏、久遠の若々しさと、無量の慈愛を帶びて微笑せる觀音の顏。
神聖な暗黑の裡から、かやうにして露はされた、この神々しい女性の理想――古代が産み、古代藝術が産んだ作品――は、たゞ強い印象を與へるといふだけに止まらない。私はこれが惹起した感情を驚嘆と稱しては物足りない。それは寧ろ敬畏の念である。
しかし、觀音の麗顏の邊で一寸停つた燈火が、また滑車の軋る音をたてて、更に上つて行くと、これはこれは、象徴の異常を極めた三重冠が現れた。幾つもの頭や、顏を疊んだ尖塔である――それらの顏は、觀音の顏の小型で、少女の愛らしい顏である。
といふのは、この觀音は十一面觀音だから。
[やぶちゃん注:長谷寺の十一面観音の拝観記。本尊のそれは高さ九・一八メートルで右手に錫杖を持つ長谷寺式立像。現存する古い木造仏像では最大とされる。私は本作のこのシークエンスがたまらなく好きである。一度でよい、私はこの演出によって、かの長谷観音(これは通称で海光山慈照院が正式な寺名)を見て見たかった。私は正直、何度も金ピカの長谷観音を拝観したが、この部分を読んだ若い日ほどに感銘したことは残念なことに一度もないのである。あらゆる荘厳な宗教建築も聖像も、そして、能も文楽も歌舞伎も――今や、赤裸々に細部まで照らし出されてしまうことによって聖性を消失し、おぞましいグロテクスなものへと変容してしまっている――というのが私の思いなのである。……
「お鬢づる」「お賓頭盧(びんづる)さま」である。釈迦の弟子中、獅子吼(ししく)第一と称された十六羅漢の第一に挙げられるビンドラ・バラダージャの尊像。本邦では病者が患部に相当する本像の部位を撫で摩ると除病の功徳があるとされる(現在は新造のものが本堂内にあったように記憶する)。ハーンは「有名な淺草のものと同じい」と述べているが、これは一年後の執筆時の、後に浅草寺のそれを見たあとの感懐である。私の電子テクスト「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 12 浅草寺にて」に絵入りで出るのが、まさにそれである(これはハーン来日の十三年前、明治一〇(一八七七)年にモースが見たもので、現在は浅草寺本堂外の宝蔵門西南側にある浅草不動尊――但し、浅草寺とは異なる天台宗宝光山大行院――に金属製の「なで仏」としてリニューアルして鎮座している)。
「裙」「もすそ」と訓じていよう。裳裾。
「一碼」既注。「碼」は「ヤード」。一ヤード(yard)は九十一・四四センチメートル。]
Sec. 12
And we
arrive before the far-famed Kamakura temple of Kwannon—Kwannon, who yielded up
her right to the Eternal Peace that she might save the souls of men, and
renounced Nirvana to suffer with humanity for other myriad million
ages—Kwannon, the Goddess of Pity and of Mercy.
I climb
three flights of steps leading to the temple, and a young girl, seated at the
threshold, rises to greet us. Then she disappears within the temple to summon
the guardian priest, a venerable man, white-robed, who makes me a sign to
enter.
The
temple is large as any that I have yet seen, and, like the others, grey with
the wearing of six hundred years. From the roof there hang down votive
offerings, inscriptions, and lanterns in multitude, painted with various
pleasing colours. Almost opposite to the entrance is a singular statue, a
seated figure, of human dimensions and most human aspect, looking upon us with
small weird eyes set in a wondrously wrinkled face. This face was originally
painted flesh-tint, and the robes of the image pale blue; but now the whole is
uniformly grey with age and dust, and its colourlessness harmonises so well
with the senility of the figure that one is almost ready to believe one's self
gazing at a living mendicant pilgrim. It is Benzuru, the same personage whose
famous image at Asakusa has been made featureless by the wearing touch of
countless pilgrim-fingers. To left and right of the entrance are the Ni-O,
enormously muscled, furious of aspect; their crimson bodies are speckled with a
white scum of paper pellets spat at them by worshippers. Above the altar is a
small but very pleasing image of Kwannon, with her entire figure relieved
against an oblong halo of gold, imitating the flickering of flame.
But
this is not the image for which the temple is famed; there is another to be
seen upon certain conditions. The old priest presents me with a petition,
written in excellent and eloquent English, praying visitors to contribute
something to the maintenance of the temple and its pontiff, and appealing to those
of another faith to remember that 'any belief which can make men kindly and
good is worthy of respect.' I contribute my mite, and I ask to see the great
Kwannon.
Then
the old priest lights a lantern, and leads the way, through a low doorway on
the left of the altar, into the interior of the temple, into some very lofty
darkness. I follow him cautiously awhile, discerning nothing whatever but the
flicker of the lantern; then we halt before something which gleams. A moment,
and my eyes, becoming more accustomed to the darkness, begin to distinguish
outlines; the gleaming object defines itself gradually as a Foot, an immense
golden Foot, and I perceive the hem of a golden robe undulating over the
instep. Now the other foot appears; the figure is certainly standing. I can
perceive that we are in a narrow but also very lofty chamber, and that out of
some mysterious blackness overhead ropes are dangling down into the circle of
lantern-light illuminating the golden feet. The priest lights two more
lanterns, and suspends them upon hooks attached to a pair of pendent ropes
about a yard apart; then he pulls up both together slowly. More of the golden
robe is revealed as the lanterns ascend, swinging on their way; then the
outlines of two mighty knees; then the curving of columnar thighs under
chiselled drapery, and, as with the still waving ascent of the lanterns the
golden Vision towers ever higher through the gloom, expectation intensifies.
There is no sound but the sound of the invisible pulleys overhead, which squeak
like bats. Now above the golden girdle, the suggestion of a bosom. Then the
glowing of a golden hand uplifted in benediction. Then another golden hand
holding a lotus. And at last a Face, golden, smiling with eternal youth and
infinite tenderness, the face of Kwannon.
So
revealed out of the consecrated darkness, this ideal of divine
feminity—creation of a forgotten art and time—is more than impressive. I can
scarcely call the emotion which it produces admiration; it is rather reverence.
But the lanterns, which paused awhile at the level of the beautiful face, now
ascend still higher, with a fresh squeaking of pulleys. And lo! the tiara of
the divinity appears with strangest symbolism. It is a pyramid of heads, of
faces-charming faces of maidens, miniature faces of Kwannon herself.
For
this is the Kwannon of the Eleven Faces—Jiu-ichimen-Kwannon.
一三
この像に對して、世間の尊信は頗る篤い。その傅説はかうである。
元正天皇の御宇に、大和の國に得度上人といふ僧がゐた。前生では法輝菩薩であつたが、俗人の靈魂を救ふため、また娑婆へ生れたのであつた。その頃、得度上人が大和の國のある谷を夜間歩いて行くとき、不思議に光り輝くものを見た。近寄つてみると、その光は大きな楠樹の倒れた幹から發してゐた。樹から芳香を放ち、光りは月の光のやうであつた。こんな奇瑞からして、上人はこの木は神聖なものと悟つて、その材木で觀音の像を彫刻させたらばと思ひ付いた。して、彼は讀經念佛して祈願を凝めた。すると忽ち彼の面前へ老人と老女が現れて、『貴僧の願は、この材木で觀音の像を彫つてもらひたいのだといふことを知りました。だから、もつと祈りをけなさい。私達が彫つて上げますから』と彼にいつた。
[やぶちゃん字注:「耀く」は底本では「耀ぐ」。誤植と断じて訂した。]
して、得度上人はその通り祈りを續けてゐると、男女の老人達は、大きな幹を易々と二つに等分し、その一個づゝに彫刻を始めた。彼等は三日間勞作して、三日目には二體の立派な觀音が出來上つた。上人は眼前にこの驚くべき像を見て、『どうか、御兩人の御名を知らせて下さい』と云つた。老人が春日明神だと答へ、女は天照皇大神だと答へた。して、彼等の答へてゐる内に、姿が變はり、聖天して、得度上人の目から消え失せた。
天皇がこれを聞召され、大和へ使者を遣はし、寄進の品を捧げ、また寺を建立させられた。名僧の行基菩薩も來て、觀音と寺の供養を催し、一體の像を、そこへ勤請し、『すべての生霊を救ふため、永遠こゝに留まり玉へ』と告げたが、他の一體を海中へ投じ、『すべての生靈を救ふため、何れなりとも最善の地へ行き玉へ』といつた。
その像が鎌倉へ漂流した。夜、そこへ着いて、恰も海上に日が照つたやうに光輝を放つた。鎌倉の漁夫どもは、大きな光に目を醒まされ、舟に乘つて沖へ出て、浮べる像を發見して、濱邊へ齎らした。そこで、天皇が詔して、像のために海光山、新長谷寺といふ寺を建てさせ玉ふたのであつた。
[やぶちゃん注:英文にある注6(後掲)は、仏教の本地垂迹説から廃仏稀釈と国家神道化、しかし別して出雲や西日本ではずっと神道の神々が支配的であったとし、神仏習合と逆本地垂迹思想辺りまで述べようとしているように見える。
「元正天皇の御宇」女帝元正(げんしょう)天皇の在位は霊亀元(七一五)年~養老八(七二四)年。「かまくら子ども風土記 上」(昭和四八(一九七三)年鎌倉市教育研究所刊・改訂八版)では、養老五(七二一)年とする。
「得度上人」「德道」の誤り。徳道(生没年不詳。但し、講談社「日本人名辞典」では斉明天皇二(六五六)年とする。前注の養老五年が正しいとすると満六十五の時の観音造立祈願であったことになる)は八世紀前後に生存した伝説的な僧侶で奈良長谷寺の開祖とされる。出身は播磨国揖保(いぼ)郡で、俗姓を辛矢田部(からやたべ)米麻呂と称し、有力豪族であったともいうが、出家受戒して沙弥となった(師は弘福寺(川原寺)の道明とも東大寺良弁とも伝える)。「長谷寺縁起文」には、徳道が聖武天皇の勅を受けて道明の指導のもとに精舎建立を発願、長谷寺を建立するに至る経緯が述べられている。近江国高嶋郡白蓮華谷にあった霊木をもって稽主勲(けいしゅんくん)・稽文会(けいもんえ)の二人の巧匠に命じて二丈六尺(約七・九メートル)の十一面観音を造らせ,天平五(七三三)年に行基を導師として開眼供養を行ったとされる。但し、行基の関与は疑わしいところもあり、長谷寺建立の時期は七百二十年代(養老四年から神亀六・天平元年)と考えられている。なお、長谷寺縁起関係ではすべて『德道』と記されるが、「東大寺要録」の「第六末寺章長谷寺」の項では『道德』と表記されている(主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「法輝菩薩」菩薩としての記載はあまりなく、不詳。この名は寧ろ、役行者の異名として知られる。
「大和の國のある谷」前掲「かまくら子ども風土記」(「子ども」と馬鹿にしてはいけない。初版は私の生まれた昭和三二(一九五七)年に刊行され、宅地開発による変容の過程をも今に伝える名著である。今ではこの本ぐらいでしか容易に知り得ぬ情報も満載で、若き日の私にとっては永らく最良の鎌倉案内書であった。改訂版執筆者には私の玉繩小学校時代の何人もの恩師が名を連ねておられる)では初瀬とし、楠からの芳香に引かれて分け入ったとあり、『そこで、その前に庵(いおり)をつくって二十一日の間』祈誓をなしていたところ、『終わりが近づいたある日、たまたま右大臣の藤原房前(ふささき)』(天武天皇一〇(六八一)年~天平九(七三七)年):藤原不比等二男。後に太政大臣)『が狩りに来てこの話を聞き感激して、このことを元正天皇に』上奏したところ、天皇よりその費用が下賜されたという。そして先に出た当時の名工であった稽文会と稽主勲に観音像を彫らせたが、その際、二人は『この楠を二つに切り二体の十一面観音を作り、木の本(もと)で作った観音をその地にとどめ初瀬町の長谷寺にまつり、木の末でつくった観音は、縁ある地へ行って、民衆を救ってくれるようにと祈って大阪から海に流し』たが、実に『それから十六年、この像は三浦郡の長井』に漂着、『そこでさきの徳道上人を迎えて寺を開き、この観音を本尊としておまつりしたのが長谷寺であるといわれてい』る、とある(なお、これも信ずるとするなら、この時、徳道は既に八十を越えていたことになる)。
「海光山、新長谷寺といふ寺を建てさせ玉ふた」海光山慈照院長谷寺の創建は寺伝によれば天平八(七三六)年とするが、これは大和長谷寺の縁起と前注の伝承に合わせたものと思われる。実際の草創年代はよく分からないが、当寺の梵鐘に文永元(一二六四)年七月十五日の銘があるから、鎌倉後期には成立していたと考えられる。]
Sec. 13
Most
sacred this statue is held; and this is its legend.
In the
reign of Emperor Gensei, there lived in the province of Yamato a Buddhist
priest, Tokudo Shonin, who had been in a previous birth Hold Bosatsu, but had
been reborn among common men to save their souls. Now at that time, in a valley
in Yamato, Tokudo Shonin, walking by night, saw a wonderful radiance; and going
toward it found that it came from the trunk of a great fallen tree, a kusunoki,
or camphor-tree. A delicious perfume came from the tree, and the shining of it
was like the shining of the moon. And by these signs Tokudo Shonin knew that
the wood was holy; and he bethought him that he should have the statue of
Kwannon carved from it. And he recited a sutra, and repeated the Nenbutsu,
praying for inspiration; and even while he prayed there came and stood before
him an aged man and an aged woman; and these said to him, 'We know that your
desire is to have the image of Kwannon-Sama carved from this tree with the help
of Heaven; continue therefore, to pray, and we shall carve the statue.'
And
Tokudo Shonin did as they bade him; and he saw them easily split the vast trunk
into two equal parts, and begin to carve each of the parts into an image. And he
saw them so labour for three days; and on the third day the work was done—and
he saw the two marvellous statues of Kwannon made perfect before him. And he
said to the strangers: 'Tell me, I pray you, by what names you are known.' Then
the old man answered: 'I am Kasuga Myojin.' And the woman answered: 'I am
called Ten-sho-ko-dai- jin; I am the Goddess of the Sun.' And as they spoke
both became transfigured and ascended to heaven and vanished from the sight of
Tokudo Shonin. [6]
And the
Emperor, hearing of these happenings, sent his representative to Yamato to make
offerings, and to have a temple built. Also the great priest, Gyogi-Bosatsu,
came and consecrated the images, and dedicated the temple which by order of the
Emperor was built. And one of the statues he placed in the temple, enshrining
it, and commanding it: 'Stay thou here always to save all living creatures!'
But the other statue he cast into the sea, saying to it: 'Go thou whithersoever
it is best, to save all the living.'
Now the
statue floated to Kamakura. And there arriving by night it shed a great
radiance all about it as if there were sunshine upon the sea; and the fishermen
of Kamakura were awakened by the great light; and they went out in boats, and
found the statue floating and brought it to shore. And the Emperor ordered that
a temple should be built for it, the temple called Shin-haseidera, on the
mountain called Kaiko-San, at Kamakura.
6 This
old legend has peculiar interest as an example of the efforts made by Buddhism
to absorb the Shinto divinities, as it had already absorbed those of India and
of China. These efforts were, to a great extent, successful prior to the
disestablishment of Buddhism and the revival of Shinto as the State religion.
But in Izumo, and other parts of western Japan, Shinto has always remained
dominant, and has even appropriated and amalgamated much belonging to Buddhism.
一四
觀音の寺を後にしてからは、最早路傍に人家はない。左右の翠丘は急峻になつて、頭上の樹陰は濃くなつた。が、それでも折々、蒼苔の蒸せる石段、彫刻を加へた山門、或は鳥居などが、私共の訪ねる遑なき社寺の存在を知らせてゐる。この邊の幾多崩壞せる祠堂は、癈都の昔の壯麗と宏大を無言に證明してゐる。して、到る處花香に混じて心地よい、樹脂の味を帶びた日本の薰香が漂つてゐる。時々私共は四角柱の斷片の如き彫刻された石――荒れ果てた墓地の古塚――が澤山散らばつた處や、夢みる阿彌陀又は微笑せる觀音の像などが淋しげに立てる邊を過ぎた。すべて古びて、色褪せ、磨損して、櫛風沐雨に見分け難くなつたのもある。私は霎時立停つて、哀れげな六個の群像に眺め入つた。死んだ小兒の靈魂を護る、美はしい六地藏も、碎けて鱗蘚を結び、苔を帶びたさま! 五個の像は、多年の祈り示す小石の埋積裡に肩まで埋もれ、亡兒の可愛さに泰納せる、さまざまの色の涎掛が、その頸に卷いてある。が、一個の塊は減茶々々に破碎されて、自から跳ね飛ばした小石の間に顚覆してゐる。通りがかりの荷車に毀されたのであらう。
[やぶちゃん注:順路から考えると、これは坂ノ下の虚空蔵堂の先、極楽寺坂切通の上り口にある日限六地蔵尊かと思われる。
「櫛風沐雨」「しつぷうもくう」と読む。風雨に曝されながら、苦労して働くこと。世の中の様々な辛苦に曝されることの譬え。「櫛風」は強い風に髪が櫛くしけずられるようになることを、「沐雨」は激しい雨に身を洗われることを指す。「晋書」文帝紀に基づく。
「霎時」「せふじ(しょうじ)」と読む。「暫時」に同じい。暫くの間。ちょっとの間。「霎」はさっと降っては直ぐ止む小雨、通り雨を原義とし、そこから瞬く間、しばしの意となった。
「鱗蘚」「うろこごけ」或いは当て読みで「ぜにごけ」とも読めそうだが、並列で「苔」と来るから、ここは「リンセン」と音で読むべきであろう。ゼニゴケ植物門ウロコゴケ綱ウロコゴケ亜綱ウロコゴケ目 Jungermanniales 、所謂鱗状に生え広がるゼニゴケ類を指す。ここの一文の原文は“Oh, how chipped and scurfed
and mossed they are!”で、当該語の“scurfy”はフケだらけの、カサカサしたの意である。]
Sec. 14
As we
leave the temple of Kwannon behind us, there are no more dwellings visible
along the road; the green slopes to left and right become steeper, and the
shadows of the great trees deepen over us. But still, at intervals, some flight
of venerable mossy steps, a carven Buddhist gateway, or a lofty torii, signals
the presence of sanctuaries we have no time to visit: countless crumbling
shrines are all around us, dumb witnesses to the antique splendour and vastness
of the dead capital; and everywhere, mingled with perfume of blossoms, hovers
the sweet, resinous smell of Japanese incense. Be-times we pass a scattered
multitude of sculptured stones, like segments of four-sided pillars—old haka,
the forgotten tombs of a long-abandoned cemetery; or the solitary image of some
Buddhist deity—a dreaming Amida or faintly smiling Kwannon. All are ancient,
time-discoloured, mutilated; a few have been weather-worn into
unrecognisability. I halt a moment to contemplate something pathetic, a group
of six images of the charming divinity who cares for the ghosts of little
children—the Roku-Jizo. Oh, how chipped and scurfed and mossed they are! Five
stand buried almost up to their shoulders in a heaping of little stones,
testifying to the prayers of generations; and votive yodarekake, infant bibs of
divers colours, have been put about the necks of these for the love of children
lost. But one of the gentle god's images lies shattered and overthrown in its
own scattered pebble-pile-broken perhaps by some passing wagon.
一五
行くに隨つて道は前下りになつて、大溪谷の壁のやうな絶崖の間を降つて、曲がると不意に峽間を脱し海に出でる。海は晴空の如く靑い――柔かな夢みるやうな靑色。
道は鋭く右に轉じ、廣い鼠色の沙濱を見おろした、磯山傳ひに迂折して行く。して、海風は心地よい潮の香を吹き送つて、肺を極度まで充滿させる。遙か向うに森に蔽はれた島の、綺麗な高い綠色の塊が、陸地から四分の一哩ほどの所に水上に聳えたのが見える。それは海の女神、美の女神を祀つた神聖なる江ノ島である。私は既にその嶮しい傾斜面に、灰色に散らばつてゐる小さな町を見ることが出來た。確かに今日は徒歩で、そこへ渡つて行ける。潮が落ちてゐて、私共が近づきつゝある向うの村から、堤道の如く伸びた、長い廣い沙洲が露出してゐるから。
島の對岸の小村、片瀨で私共は、人力車を棄てて歩行せねばならぬ。村から濱へ出る砂丘は、砂が深くて車を曳くことが出來ない。澤山他の人力車もこの村の狹い通りで、先きに行つた客を待つてゐた。が、今日辨天の祠に參詣した西洋人は、私だけだとのことであつた。
私共の二人の車夫が先きに立つて砂丘を越えて、やがて私共は濡れた固い砂地に下つた。私共が島に近くにつれて、小さな町の建築の細部が、海の微靄を透して面白く分かつてきた――怪奇な彎曲した靑い屋根、輕快な露臺、高く尖つた破風が、不思議な文字を一杯書いた、異樣な旗の翩翻たる上に見える。私共は平沙を越えた。すると、海の都、女神龍神の都の、いつも開かれた門である。美くしい鳥居が、私共の面前にあつた。それは全部靑銅で、上には靑銅の七五三繩が附いてゐて、また『江島辨天宮』と書いた眞鍮の額が掛つてゐる。太い柱脚には、渦卷く浪にもがく、龜の浮彫がある。これは陸路からは、辨天宮に面して實際、町の門である。が、片瀨の村につゞくものから云へば、第三番目の鳥居に當る、私共は海岸の方から來たので、村にある他の鳥居を見なかつたのだ。
さて、江ノ島へ來た。眼前に一筋の町が上ぼつてゐる。廣い石段の多い暗い町で、紺布に白い奇異な文字の交つたのが、海風にひらひらしてゐる。料理屋や小店が並んでゐて、一軒毎に私は立ち停らずには居られなかつた。日本の店頭へ立つて何かを視ると、必ず買ひたくなる、それで私は買つて、また買つた。
何故となれば、江ノ島は實際靑貝の都だからである。何れの店にも文字を染め拔いた暖簾の後ろに、法外に安い驚くべき貝細工を賣つてゐる。蓆を敷いた臺の上に平らかに載せた玻璃張りの箱や、壁に立て据ゑた棚の附いた陳列箱は、いづれの箱も眞珠母のやうな、非常に珍らしく、信じ難いほどに巧妙を凝らした品で、燦爛としてゐる。眞珠母製の魚や、鳥を絲に繫いだものは、虹の色に輝いてゐる。眞珠母で作つた子猫もある。小狐もある。子犬もある。それから娘の櫛、卷煙草の吸口、使用するには惜しいほど、綺麗な煙管がある。志(シリング)銀貨の大いさほどもない、貝製の龜は、輕く一寸觸はれば、頭と足と足を一齊に動かし、足を交互に引込めたり出したりする。眞正の龜かと思つて、びつくりさせられる。鶴、鳥、甲蟲、蝴蝶、蟹、蝦、悉く貝細工で巧みに作られ、手を觸れて見ねば、生物でないとは信じ難い。貝の蜂が貝の花の上に留まつてゐる――針金に停まつたのを花に插してあるのが、もし一枚の羽先きで動かせば、ぶんと唸りさうにも見える、日本の娘が愛好するもので、名狀し難い貝細工の寶玉類、さまざまの形狀に彫つた簪類、襟止、頸珠などがある。江ノ島の寫眞もある。
[やぶちゃん注:私の電子テクスト『大橋左狂「現在の鎌倉」 20 江の島』の注で述べたが、江の島に初めて本格的な桟橋が架けられたのは、このモースが訪れた翌年明治二四(一八九一)年のことであった(但し、砂州の途中からであった)、以下の原文の最初の一文中の“cañon”(キャニョン:峡谷/スペイン語であろう)の“ñ”は、文字化けしていたので、英文サイト“Internet Archive”の“Glimpses of
Unfamiliar Japan : Lafcadio Hearn”の原本画像を視認して挿入した。しばしばお世話になっているサイト「江の島マニアック」の「江の島の古写真」をリンクしておく。
「四分の一哩」一マイルは一六〇〇メートルであるから、四〇〇メートル。
「微靄」老婆心乍ら、「びあい」で、微かな靄(もや)である。
「七五三繩」老婆心乍ら、「しめなは(しめなわ)」である。
「靑貝」原文の“Mother-of-Pearl”は、ここでは広義の真珠層を持った貝類を総称する語で、所謂、以下に出る本格的な「靑貝」細工、即ち、螺鈿(らでん)細工、及び、屑青貝(この場合は狭義のアワビ・サザエ・シンジュガイ・ヤコウガイ・オウムガイといった螺鈿細工の材料に用いる真珠光沢を持った貝類を指す)を用いた安価でちゃちな貝細工総体を指している。次の「眞珠母のやうな」という訳はやや上手くないように思われる。「眞珠母」は真珠層の別名で、ここの原文“opalescent with nacreous
things”は、“nacreous things”が具体的な「真珠層を砕いて得たピース」を指しており、それが“opalescent”、「パールのような光を発していて」という謂いであろう。ここで「眞珠母のやうな」と訳してしまった結果、「いづれの箱も眞珠母のやうな、非常に珍らしく、信じ難いほどに巧妙を凝らした品で、燦爛としてゐる。眞珠母製の魚や、鳥を絲に繫いだものは、虹の色に輝いてゐる。眞珠母で作つた子猫もある」と、直後の「眞珠母製の魚」「眞珠母で作つた子猫」との流れが、それこそ曇って淀んでしまっているように思われるのである。なお、平井呈一氏はここを『ことごとく螺鈿(らでん)のようなもので、乳白色に光り輝いている』と訳しておられる。落合氏よりも達意の訳であると思うが、これも気になる。何故なら、ここでの対象は「螺鈿のようなもの」なのではなく、如何に安っぽいものであっても、これら皆、「螺鈿」、「靑貝細工」であると私は思うからである。
「志(シリング)銀貨の大いさ」本邦の骨董販売サイトのリストの中に、一八九一年鋳造貨のシリング銀貨で、直径二・三五センチメートル、重さ六グラム、厚さ一・五ミリメートルとあった。
「蝴蝶」胡蝶と同字。]
Sec. 15
The
road slopes before us as we go, sinks down between cliffs steep as the walls of
a cañon, and curves. Suddenly we emerge from the cliffs, and reach the sea. It
is blue like the unclouded sky—a soft dreamy blue.
And our
path turns sharply to the right, and winds along cliff-summits overlooking a
broad beach of dun-coloured sand; and the sea wind blows deliciously with a
sweet saline scent, urging the lungs to fill themselves to the very utmost; and
far away before me, I perceive a beautiful high green mass, an island
foliage-covered, rising out of the water about a quarter of a mile from the
mainland—Enoshima, the holy island, sacred to the goddess of the sea, the
goddess of beauty. I can already distinguish a tiny town, grey-sprinkling its
steep slope. Evidently it can be reached to-day on foot, for the tide is out,
and has left bare a long broad reach of sand, extending to it, from the
opposite village which we are approaching, like a causeway.
At
Katase, the little settlement facing the island, we must leave our jinricksha
and walk; the dunes between the village and the beach are too deep to pull the
vehicle over. Scores of other jinricksha are waiting here in the little narrow
street for pilgrims who have preceded me. But to-day, I am told, I am the only
European who visits the shrine of Benten.
Our two
men lead the way over the dunes, and we soon descend upon damp firm sand.
As we
near the island the architectural details of the little town define
delightfully through the faint sea-haze—curved bluish sweeps of fantastic
roofs, angles of airy balconies, high-peaked curious gables, all above a
fluttering of queerly shaped banners covered with mysterious lettering. We pass
the sand-flats; and the ever-open Portal of the Sea- city, the City of the
Dragon-goddess, is before us, a beautiful torii. All of bronze it is, with
shimenawa of bronze above it, and a brazen tablet inscribed with characters
declaring: 'This is the Palace of the Goddess of Enoshima.' About the bases of
the ponderous pillars are strange designs in relievo, eddyings of waves with
tortoises struggling in the flow. This is really the gate of the city, facing
the shrine of Benten by the land approach; but it is only the third torii of
the imposing series through Katase: we did not see the others, having come by
way of the coast.
And lo!
we are in Enoshima. High before us slopes the single street, a street of broad
steps, a street shadowy, full of multi-coloured flags and dank blue drapery
dashed with white fantasticalities, which are words, fluttered by the sea wind.
It is lined with taverns and miniature shops. At every one I must pause to
look; and to dare to look at anything in Japan is to want to buy it. So I buy,
and buy, and buy!
For
verily 'tis the City of Mother-of-Pearl, this Enoshima. In every shop, behind
the' lettered draperies there are miracles of shell-work for sale at absurdly
small prices. The glazed cases laid flat upon the matted platforms, the shelved
cabinets set against the walls, are all opalescent with nacreous things—extraordinary
surprises, incredible ingenuities; strings of mother-of-pearl fish, strings of
mother-of-pearl birds, all shimmering with rainbow colours. There are little
kittens of mother-of-pearl, and little foxes of mother-of-pearl, and little
puppies of mother-of-pearl, and girls' hair-combs, and cigarette-holders, and
pipes too beautiful to use. There are little tortoises, not larger than a
shilling, made of shells, that, when you touch them, however lightly, begin to
move head, legs, and tail, all at the same time, alternately withdrawing or
protruding their limbs so much like real tortoises as to give one a shock of
surprise. There are storks and birds, and beetles and butterflies, and crabs
and lobsters, made so cunningly of shells, that only touch convinces you they
are not alive. There are bees of shell, poised on flowers of the same
material—poised on wire in such a way that they seem to buzz if moved only with
the tip of a feather. There is shell-work jewellery indescribable, things that
Japanese girls love, enchantments in mother-of-pearl, hair-pins carven in a
hundred forms, brooches, necklaces. And there are photographs of Enoshima.