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2015/06/30

氷の涯 夢野久作 (14)

 人間の運命といふものは大抵、一本調子の直線か弧線を描いてゐるものだが、それでも時々人を驚かす。だから、それが放物線なぞを描いて來ようものなら、ドレ位(くらゐ)、人を不思議がらせるかわからない。

 ところが僕の場合は、それが突然にポキンと折れ曲つた鋭角を描きあらはして來たのだ。

 それから一時間ばかり後(のち)の僕は、快速らしい白塗のモーターボートに乘つて、松花江(しようくわかう)を下流へ下流へと滑走していた。運轉をしてゐるのは一昨夜、僕を刺さうとしたニーナで、時速七、八哩(マイル)も出して居たらうか。

[やぶちゃん注:●「時速七、八哩(マイル)」時速十一・三~十二・九キロメートル。]

「このボートは英吉利(イギリス)の石炭屋さんが置いて行つたソアニー・クロストの十二シリンダーよ。素人(しろうと)に扱へないから買手(かひて)が無かつたんですつて……七十五哩(マイル)まで出るつて云ふのにタツタ八百五十弗(ドル)だつたのよ」

[やぶちゃん注:●「ソアニー・クロストの十二シリンダー」商標らしいが不詳。私はメカにも冥い。識者の御教授を乞う。それにしても十二気筒というのが凄いぐらいは分かる。 ●「七十五哩(マイル)」時速百二十一キロメートル(!)。 ●「八百五十弗(ドル)」ネット上の情報によれば、一九二〇年代(本作の作品内時間一九二〇年)の一米ドルは当時の日本円で二円で、凡そ現在の六百円相当とあるから、五十一万円相当となる。十九の娘の台詞としては法外な金額を「タツタ」と言うことを含め、台詞全体、完全にステキにイッてる!]

 とニーナが説明したが、しかし萬一を警戒するためにランタンを消して、成る可く岸沿(きしぞ)ひに走つてゐたので、微かな機械の音とダブリダブリと岸を打つ暗い波の音しか聞えなかつた。細い月はもうトツクに上流の方へ落ちて居たが、それでも河明りがタマラなく恐ろしかつた事を考へると僕は、いつの間にか醉ひから醒めてゐたらしい。

 ニーナは片手で巨大な日本梨(にほんなし)を嚙(かじ)つてゐた。ガソリンの罐(くわん)を蔽(おほ)うたアンペラの上に、新聞紙(しんぶんし)に包んで並べてあつた一つを、ニーナが云ふ通りに丸剝(まるむ)きにしてやつたものであつた。

[やぶちゃん注:●「アンペラ」アンペラの茎を打って編んだ筵。アンペラはイネ目カヤツリグサ科アンペライ属 Machaerinaの多年草。湿地に生え、葉は退化して鱗片状をなし、高さは〇・五~二メートル。茎の繊維が強い。熱帯地方原産。アンペラ藺(い)。呼称はポルトガル語“ampero”又はマレー語“ampela”に由来する。]

 それを受け取つたニーナは暫くジイツと考へて居た樣であつた。何が悲しいのか梨を持つた右手の黑い支那服の袖で、シキリに眼をコスリまはして涙を拭いて居る樣にも見えたが、やがてガブリと梨の横つ腹に嚙み付いて、美味(うま)さうに頰を膨らますと、汁を飮込(のみこ)み飮込み話し出した。案外に平氣な投げやりな口調で……。

[やぶちゃん注:●「何が悲しいのか梨を持つた右手の黑い支那服の袖で、シキリに眼をコスリまはして涙を拭いて居る樣にも見えた」この涙が――いい――。 ●「支那服」「全集」も同じく『支那服』である。本作から脱線するが一言言っておく。私は本作でここまで『支那人』を『中国人』と断りなしに書き換えてきた「全集」編者が『支那服』を書き換えないことを正当とする論理を全く以って認めない。おかしい。]

「……何處までもアンタと一緒に行(ゆ)くわ。アンタの樣な何も知らない正直な人間を、仕事の邪魔になるから殺す……なんて決議をした奴等は、モウ決議した時から妾(わたし)の敵だわ。日本の官憲だつて白軍だつて何だつてアンタに指一本でも指(さ)した奴はミンナ敵にして遣るわ。だつてアンタを怨んだり罰したりする法なんて何處にも無いんだもの。

 ……イイエ。アンタは何も知らないの。無賴漢街(ナハロカ)と、裸體踊(はだかをど)りと、陰謀ゴツコが哈爾賓の名物だつて事をアンタは知らないで居るのよ。殺される譯が無いつたつて殺される時には殺されるのが哈爾賓の風景なんだもの。だから何が何だか見當がつかなくなる筈よ。間違ひ無いのはお太陽樣(てんとさま)と松花江(スンガリー)が、毎日反對に流れて居ることだけなの。さうして其の中で妾(わたし)がタツタ一人ホントの事を知つてゐるだけなのよ……さうぢや無いつて云ふならアンタの手から短劍を奪(と)り上げて行つた人間の名前を云つて御覽なさい。當つたら豪(えら)いわ……ホーラ。ネ。知らないでせう……ホホホ……

[やぶちゃん注:●「無賴漢街(ナハロカ)」ナハロフカ。既注。プリスタン西側隣接地の低湿地帯で古くからの白系ロシア人難民の貧民街であった。志賀直哉に師事した女性作家池田小菊(明治二五(一八九二)年~昭和四二(一九六七)年)の、昨年発見された未発表小説の題名は「ナハロフカ(無能者)」である。池田が満州事変直前にハルピンを旅行した体験を素材に昭和七(一九三二)年に執筆したものとニュース記事にあった。ロシア語の綴りは探し得なかった。なお「全集」は『ナハロハ』とルビする。]

 ……だから妾(わたし)の云ふ事をお聞きなさいつて云ふのよ。馬鹿正直に人の云ふなりになつて、何が何だか解ら無いまゝマゴマゴウロウロして居るうちに、ヘツドライトもサイレンも番號札も何にも無いトラツクの下に敷(し)かれつ放(ぱな)しになつたら、ドウするの……誤解の解けるまでどこかに隱れて身の明(あか)りを立てなくちゃ噓だわよ。……捕まりさうになつたら構はない。此の河をハバロフスクまで行つて、あそこで油と食料を買ひ直(なほ)して、それからニコライエブスクまで下つて行(ゆ)く。そこから汽船で樺太(からふと)に渡つて日本に逃げ込むだけの事よ。妾(わたし)日本が見たくて見たくてたまらなかつたんだから丁度どいゝわ。

[やぶちゃん注:●「明り」「全集」は『証』(證)。ルビはないが、普通に読む者は「あかし」と訓ずるはずである。 ●「ニコライエブスク」「全集」は『ニコライエフスク』。現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ(Никола́евск-на-Аму́ре)はロシア極東部の文字通りの極東の町で間宮海峡の北を挟んでサハリン(樺太)の北部と対峙する。アムール川河口から八十キロメートルほど上流左岸(北岸)にある港湾都市で、ハバロフスク地方ニコラエフスキー地区の行政中心都市。漢字では「尼港」と表記された。ハバロフスクからは九百七十七キロメートルとウィキの「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」にはある。因みに地図上で単純に直線計測すると直線でもハバロフスクからここまでが六百五十キロメートル、ハルピンからではやはり直線で千三百キロメートルを超え、気の遠くなるような涯である。そこへ行くことを隣町に行くように語るニーナ……そこから樺太へ行って、日本へ行きましょうよ! 私、日本、大好きよ!……これまたステキな少女!]

 ……妾(わたし)は主義とか思想とか云ふものは大嫌いだ。チツトも解らないし面白くも無い。「理屈を云ふ奴は犬猫に劣る」つて本當だわ。

 ……妾(わたし)には好きと嫌いの二つしか道が無いのだ。妾(わたし)はその中で好きな方の道を一直線に行くだけだわよ。

 ……妾(わたし)が赤軍に加勢して居たのは、アブリコゾフを好いてゐたからだ。妾(わたし)はツイ二三日前まで赤軍がドンナ事をして居るものなのかチツトも知らなかつたのだ。たゞアブリコゾフを生命(いのち)がけの男らしい仕事をしてゐる人間と信じ切つて居ただけだ。それ以外に何の意味も無かつたのだ。

 ……今だつてオンナジ事だ。妾(わたし)は何がなしにアンタを救ひ出さずには居られなくなつたのだ。赤とか白とか云つて卑怯(ひけふ)な陰謀の引つかけくらばつかりしてゐるサナカに、アンタみたいなお人好しの正直者を放(ほ)つたらかしておくのが恐ろしくてたまらなくなつたのだ。コンナ危なつかしい馬鹿々々しい鬼ゴツコの中から、とりあへずアンタを引つぱり出してしまひた度(た)くなつたのだ。さうして二人でコツソリと事件のドン底に隱れてゐる十五萬圓を探り出して、日本の官憲と、白軍と、赤軍を一ペンにアツと云はせてみたくなつたのだ。

[やぶちゃん注:●「引つかけくら」引っ掛けっこ。掛け合い。「くら」は「競(くら)」で、所謂、「くらべ」の略。「にらめっくら」「かけっくら」、即ち、「にらめっこ」「かけっこ」の「~こ」と全く同じで、動詞の連用形或いはそれに促音の付いた形につけることで、そうしたある種の競争をすることの意を添える接尾語である。]

 ……妾(わたし)はブルジヨアでもプロレタリアトでもない。だからブルジヨアでもプロレタリアトでも乞食(こじき)でも泥棒でも構はない。正直な一本調子(ちようし)の人間が好きだ。だから賄賂(わいろ)を取らない。噓をつかない。ニユーとしてゐる日本の官憲は、地下室にモグリ込んでゴヂヤゴヂヤした策略ばかり考へて居る露西亞人だの、ジヤンクの帆みたいに噓のツギハギをしてゆく支那人なんぞよりもドレくらゐ好きだか知れやしない。

 ……だけども惜しい事に日本の軍人はアンマリ正直過ぎる樣だ。人の良い、職務に忠實な日本の軍人は惡い知惠にかけてはトテモ普通の日本人に敵(かな)はない樣だ。銀月の女將(おかみ)と十梨(となし)通譯が書いた筋書(すぢがき)に手もなく乘せられてオスロフをどうかしてしまつたのを見てもわかる。それが大間違ひだつた事は、赤軍の連中が肩を組み合つて喜んで居たのを見てもわかる。星黑(ほしぐろ)だつてさうだ。軍人だけに正直過ぎたから殺されたのだ。日本の軍人は普通の日本人と人種が違ふのぢや無いかと妾(わたし)は思つてゐる。

 ……その日本の軍人の中でも妾(わたし)はアンタが一番好きになつちやつた。妾(わたし)はアンタが銀月の中に這入つた事を知つてゐたけど、チツトも心配なんかしなかつた。アンタは外の軍人とおんなじくらゐ正直な上に、赤の連中がピリピリするくらゐ頭がよくて、おまけにスゴイ勇氣と力を持つて居るんだからね……銀月の女將の手管(てくだ)なんかに引つかゝる氣づかひは絶對に無い。キツト無事に切り拔けて銀月を出て來るに違ひ無いと思つてゐたんだからね……。

 ……イヽエ。オベツカなんて云つたら妾(わたし)、憤(おこ)るわよ。妾(わたし)はモウ其のズツト前からアンタを見貫いて居たんだよ。……妾(わたし)がアンタを殺さうとしてタタキつけられたでしよ。あの屋上でさ。あの時からよ……あの時から妾(わたし)はアンタを殺すのを止めたんだよ。アンタが弱蟲弱蟲つて云ふ評判を聞いて居たから、眞實(ほんたう)かと思つてたら、トテモ強いんだもの……おまけに彼(あ)の素早(すばや)さつたら……トテモこの人には敵(かな)はないと思つたわ。だから助けて貰つた時には、ずゐぶん極(きま)りが惡かつたわ。

 ……アンタの手から短劍を奪ひ取つたのほ、ヤツパリ妾(わたし)よ。……ナアニ……何でもなかつたの……妾(わたし)はあの時に追つかけて來た憲兵をモウ一度裏梯子の蔭に隱れてやり過したの。どこの憲兵でも、あんなボコボコした長靴を穿いてゐるから駄目よ。犯人を逃がす爲に穿いてゐるやうなもんよ。だけど其の憲兵が行つてしまつた後で、妾(わたし)はフト短劍の鞘だけ握つて居るのに氣が付いたから、惜しくなつて

引返したのよ。キツト其處いらに落ちて居るに違ひ無いと思つてね……たゞ夫れだけの事だつたのよ……だつてアノ短劍は、モスコー出來(でき)の上等なんだもの。惜しいぢや無いの、今こゝに持つてるわ……アンタだつて拔身(ぬきみ)のまゝ持つて居たら怪我するぢや無いの……ホホホ……。

 ところが引返してみるとアンタが大舞踏室の窓から覗き込んで居るでせう。今にも飛込みさうな恰好で、妾(わたし)の短劍を逆手に握つて居るでせう。だから妾(わたし)もソーツとアンタの背後(うしろ)から室の中を覗いてみたら、タツタ一眼(ひとめ)で、何もかもが駄目になつた事が判明(わか)つたの。それと一緒にアンタが斯樣(こん)な處へ飛込んで、オスロフを助けようとするのは危險(あぶな)いと思つたから、思ひ切つて短劍を引つたくると其のままモウ一度、屋上から裏階段へ拔けて駈け降りたの。さうして通りかゝつたタクシーに飛乘つて、埠頭に來て、そこから向う岸のコサツク部落に住んで居るドバンチコつて云ふ花造りの爺(ぢい)やのところへ遁込(にげこ)んだの。

薄き雨   村山槐多

  薄き雨

 

銀の雨ふりそそぐ

或時は朱に輝きつ

また或時はほのかなる紫にしばし光りぬ

涙ぐむ空の光に

 

寶玉にたとふべき戰慄(をののき)に

とろとろとふりしきるその爲めか

櫻は花は

流れ消ゆ薄赤く

 

銀の雨大方は空にふる

また雨やむときは

いづこにか吹き鳴らす濕りたる笛もあり

ほのかなる紫にしばしきこゆる

 

たらたらと落つる寶玉

悦びとかなしみの間にて列をつくり

大空の涙まなこに

濃き薄き樂音がひびくなり

 

 

   ×

忙ぎゆくわが身に

薄暮か幽かな月夜か

美少年の汗か

何かしらぬ情念がまつはりつくす、

 

未だ道は盡きぬ燈が消えぬ

こばるとの鋭い明るい道路

春の眞晝の霞に

明りつけたる美しう鋭き道路

 

   ×

美しき酒をとうべてわが『時』は

豐かに醉へり暮迫(せま)る

雨に都は浮き漂よひ

燈は蕩殺の靑かざす

 

耐へがたきかなしみに

五月よりそひ

湯殿より見る如き

君ぞ見へたる

 

あなあはれあなあはれ

美しき時

かなしみを越へてめぐれり

空を君が方にと

 

   ×

血は増す血は増す

春赤く血に醉ひにけり

美しき遊戯の庭に

春赤く血を吸ひ出す

 

濃き赤に坐せる人人

晝もなほ燈をとぼしたり

その燈赤くおびへて

その人の血は増しにけり

 

   ×

孔雀の尾のしだり尾の

薄紫の草生に身を投ぐれば

山の色はあせ

石の原は眞靑に涙ぐむ

 

春鹽田かすたれて

ほのかに霞む心に

時しもかつと日は照る

眩しく麻醉の如く

 

孔雀の尾の紋の如

華奢をつくせし小花に

吹くは三月の強き風

またあせしわが息

 

石原をのぞめば

朱の古りし、子供が一人

草生のはての池には

冷たき水ものこるなり

 

   ×

眞紅の玻璃窓に身を凭たせ

深夜の街を見下せば

ああ遠方に雨ぞふる見ゆ

つぶやく如く泣く如く

 

薄紫と銀とに

ものうくも怖ろしくもふる雨見ゆる

惡女の赤よりあざやかに

われは眞赤にひとりこの深夜の玻璃窓に照さる

 

深夜の空の暗きをば

焦げゆく思ひ打鎭め

見入れば怪し羽根ぬれしかうもりは

薄明をともなひて街上を走り狂ふ

 

血に彩られし怪館の眞紅の玻璃窓に

われのみあざやかに目覺めたり

冷めたき外面

雨はふるふる

 

深夜の街にいま人々の

數千のその寢いきは

泣くが如

わが赤き玻璃戸を通して來る

 

   ×

身ぞ濕る廢園の春

音樂す廢地の水面(みのも)

幽かなる夕ぐれか人くるけはひ

狂嘆の古りし貴婦人

 

豪情に身をばうしなひ

恐る可き貧困ののち

なほ猛る古りし貴婦人

ふととまる

 

 

[やぶちゃん注:本篇で大正二(一九一三)年のパートが終わる。例によって、「全集」は記号(底本は「×」)で区切られている五つのパートの最終連最終行末総てに句点を打つ。

第五連一行目の「忙ぎゆく」はママ。「全集」は「急ぎゆく」とする。

同じく第五連四行目「何かしらぬ情念がまつはりつくす、」は読点の後に『」』のようなものが見えるが、植字のスレと判断して、無視した。因みに例によって「全集」は読点はない。

第七連一行目の「とうべて」はママ。「全集」では「たうべて」に訂する。「食(た)ぶ」は吞むの上代からある古語。

同じく第七連三行目の「漂よひ」はママ。

同じくだ七連四行目の「蕩殺」とは聴き馴れぬ語であるが、「たうさつ(とうさつ)」と読んでおき、すっかりとろかすしてめろめろにする、の意で私は採る。

第八連四行目の「見へたる」はママ。

第九連三行目の「越へて」はママ。

第十連一行目は「全集」では「薄き赤に坐せる人人」とある。かく対義語で訂した理由、不明。頗る不審。

同じく第十連三行目の「おびへて」はママ。

第十一連一行目「春鹽田かすたれて」意味不詳。「春鹽田か/すたれて」もリズムが悪く、無理がある。しかし「かすたる」という動詞もピンとこない。春の塩田の朧に霞む実景のようにも思われるが、識者の御教授を乞うものである。

第十六連四行目の「かうもり」はママ。

最終連第一行の「豪情」はママ。「全集」は「豪奢」に訂してしまっている。]

氷の涯 夢野久作 (13)

 それは多分午後の二時か三時頃であつたらう。間もなく誰か奧へ知らせたものらしい。奧の方から昨日の通りの水々(みづみづ)しい丸髷(まるまげ)姿の女將(おかみ)が、如何にも驚いた恰好で走り出て來た。さうして大きな聲で、

「いらつしやいませ。よくまあ…」と云つた。

[やぶちゃん注:「…」ママ。単なる誤植であろうが、特異点。「全集」は通常の『……』。]

 それから僕は其夜の十一時頃まで一歩も外へ出なかつたのだ。銀月の大建築の中でも、これが哈爾賓の市中かと思はれる位もの靜かな、茶室好みの粹(すゐ)を盡した祕密室(ひみつしつ)の見事さと、調度の上品さと、それに相應しい水際だつた女將(おかみ)の魅力に、隙間(すきま)もなく封じ籠められて居たのだ。東洋の巴里(パリ―)を渦卷くエロ、グロのドン底の、芳烈を極めた純日本式情緒を滿喫して居たのだ。

 もちろん夫(そ)れは此方(こつち)から註文した譯ではなかつた。しかし昨日(きのふ)から一生懸命になつて突詰めた氣持が、生れて初めて口にした芳醇(はうじゆん)な酒のめぐりに解きほごされ始めると、自分でも不思議なくらゐ大きな氣持になつて來たやうに思つた。ちつとも醉つたやうな感じがしないまんまに、恐ろしいものが一つもなくなつた樣な……。何でも思ふ通(とほ)りにしていゝ樣な……。

 さうしてその氣持ちが更に女將の技巧によつて解放されると、いよいよスツキリとした、冴え返つた醉ひ心地(ごこち)に變化して行(い)つた。二度ばかり湯に入つて、冷めたいシヤワーを浴びて居るうちに、頭が切り立(た)ての氷(こほり)のやうになつて、何もかもを冷笑してみたいや樣な……平生(いつも)の僕とは全然正反對な性格に變化してしまつて居ることを、自分自身に透(す)きとほるほど意識して居ることまでも自分自身に冷笑して居るやうな……。

 しかも女將は其の間ぢう、一度も事件に觸れた話をしなかつた。だから、僕も銀の莨入(たばこい)れの話なんかオクビにも出さなかつた。これが銀の莨入れと思つてゐたから…。

 二人はお互ひの身上話(みのうへばなし)を、面白をかしく打明(うちあ)け合つた。平生(へいぜい)無口の僕が妙にオシヤベリになつて、今までの投げ遣りな生活の話を、投げ遣り式(しき)にブチマケたのに對して女將は、長崎を振出(ふりだ)しにして東京、上海(シヤンハイ)と渡り歩いて來た間(あひだ)に經驗した色々な男の話をして聞かせた。さうして年の若い割に女に冷淡な男は、年を老(と)つてから情(じよう)が深くなるものである。さうして、そんな男こそは一番賴もしい男だと聞いてゐたが、けふが今日(けふ)までソンナ人間に一人(ひとり)も出會はなかつたと云つて笑つた。だから僕も笑ひながら彼女に杯(さかづき)を差した。

「それぢや十梨(となし)が可哀(かはい)さうだよ」と口元まで出かかつたのを我慢しながら……。

 ところが其時だつた。僕が凭(よ)りかゝつて居た背後(うしろ)の床柱(とこばしら)の中で……ヂヂヂ……ヂイヂイヂイ……ヂヂヂ……と妙な音がしたのは……

 ……・・・―― ―― ――・・・……SOS!……

[やぶちゃん注:●「……・・・―― ―― ――・・・……SOS!……」は底本では中間部の最初の「――」が二分の一で切れて、後に短いダッシュが続くが、これはモールス信号を文字化したものである以上、これは植字の際のカスレと見做した。「全集」は上記と同じである。]

 僕はビツクリして振り返つた。萬一の時の用心に床柱の中へベルが仕掛(しかけ)て在る事を、タツタ今聞いたばかりだつたから……。

 しかし女將は驚かなかつた。

「待つて居なさいよ」

 と眼顏(めがほ)で押へつけながら立上つて手早く帶と襟元を直した。

「ここは妾(わたし)だけしか知らない地下室だからね。平氣で丹次郎(たんじらう)をきめて居なさいよ」

[やぶちゃん注:●「丹次郎」為永春水作の人情本「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」の主人公夏目丹次郎。色白の美男の高等遊民で徹頭徹尾の優男(やさおとこ)。複数の女性に愛されることから江戸末期の柔弱な色男の代名詞となったが、現在は廃れた。一見文弱な上村を比喩して妙。]

 と云ひ云ひ先刻(さつき)這入つて來た押入の中の廻轉壁(くわいてんかべ)から出て行つた。

 僕も直ぐに落付(おちつ)いてしまつた。……女將は俺を味方に付けて何かの役に立てる積りだな……俺を片付ける積りならコンナ馬鹿念(ばかねん)の入つたもてなしをする筈は無い……という事を最初の女將の素振(そぶ)りから百パーセント感付いて居たのだから……さうしてアトは十五萬圓の在所(ありか)と、ニーナの短劍の行方を探り出せば、一切合財(いつさいがつさい)が放了(ホーラ)になるんだ……と度胸をきめながら立上つて室の隅のガソリン煖爐(だんろ)の火を大きくした。すこし醉ひ醒めがして來た樣に思つたので……。それから元の座へ歸つて、膳の横に置いて在るカツトグラスの水瓶(みづびん)へ手をかけて居る處へ、思ひもかけない次の間(ま)の衣桁(いかう)の蔭から、幽靈の樣に女將の姿が現はれたので、ちよつと眼を瞠(みは)らせられた。

[やぶちゃん注:●「放了」車の免許を持たぬだけでなく、賭け事やゲームにも私は疎い迂闊な人間である。多分そうだとは思ったが、ウィキの「和了」から引いて注とする。『和了(ホーラ)とは、麻雀において、手牌を一定の形に揃えて公開すること。他のゲームにおける「あがり」に相当する。このため、一般的にはあがりと呼ばれ、これを動詞化して「和了る」「和がる」「和る」のように表記されることもある』。『最も典型的な得点方法であり、基本的には、各プレイヤーは自身の和了を目指すとともに、他のプレイヤーの和了を阻止するよう摸打する』(「摸打」は「モウダ」「モウター」と発音し、自摸(ツモ)と打牌(だはい)からなる一連の行為を指す。ここはウィキの「摸打」に拠った)『和了によりその局は終了し、次の局に移る』とある。]

「何だつたかね」

 と僕は水を飮み飮み問うた。

 しかし女將は答へなかつた。崩れた丸髷(まるまげ)をうつむけて下唇を嚙んだまゝ、僕の前まで來てペタリと坐り込むと、イキナリ僕の手に在つた水瓶(みづびん)を取上げてゴクゴクゴクと口から口へ飮んだ。それから氣を落付けるらしくフーウツと一つ溜息をすると、僕の顏を眞正面から見い見い大きな眼をパチパチさせた。

「どうしたんだ。一體……」

 女將はちよつと舌なめずりをした。

「お前さんは此處へ來る事を誰かに云つて來たの」

「ウン別段云つた譯では無いが……あの手紙を上等兵が見て居たからね」

「……まあ……あの手紙つて何の事……」

「君が會計係の名前で出したぢやないか。銀の莨入を渡すから來いと云つて……だから來たんぢや無いか」

 女將は又、眼をパチパチさせた。シンから呆れたやうな表情で僕を見て居たが、やがてヂツと眼を閉じてうなだれた。何か考へて居るらしく肩で息をしてゐたが、そのうちに其呼吸がだんだん荒くなつた。

 僕はその間(あひだ)に冷えた盃(さかづき)を干してゐた。また何か芝居を始めるのかな……と思ひながら……。

 その眼の前で女將は一切を否定する樣な恰好で、丸髷の頭を強く左右に振つたと思ふと、やがてパツチリと眼を見開ゐた。冴え切つた顏色(かほいろ)と据わつた眼付で、今一度ヂイツと僕の顏を見た。空虛な魘(おび)えた聲を出した。

「あんたは欺(だま)されて居るのね」

 僕は返事をしなかつた。モウ一パイ冷めたい酒を干しながら次の言葉を待つた。

「あんたは憲兵を馬鹿にしてゐたでしよう。何が出來るかと思つて……」

 僕は默つてうなづいた。

「……それが、いけなかつたんだよ」

「どうして……」

 と僕は冷笑した。女將は鬢(びん)のホツレ毛を搔き上げたが、噓かホントかその指がわなないて居た。やはり靜かな魘(おび)えた聲で云つた。

「……笑ひ事ぢや無いんですよ。憲兵は最初から、あの司令部の中に赤軍のスパイが居ると思つて疑ひをかけて居たんだよ。さうして其のスパイがイヨイヨあんたに違ひ無い事がわかつたから、わざと實地調査にかこつけて搜索本部を引上げたんだよ。さうして、あんたを僞(に)せ手紙で追ひ出して置いて、あんたの私物箱から何からスツカリ搜索したに違ひ無いんだよ」

「どうしてわかる」

「あんたはわからないの」

「わからないね」

「うちの會計の阪見(さかみ)はその筋のスパイに違ひ無いんだよ。お金を取り立てに行くふりをして、色んな人達と連絡を取つて居るに違ひ無いんだよ。妾(わたし)はズツと前から感付いてゐたんだけど……」

 女將の言葉は何處までも靜かに魘(おび)えて居た。

 僕はヂツと腕を組んで考へた。此處が生死の瀨戸際だと思つて……。その間に女將は話し續けた。一々念を押す樣に繰り返して……

 ……十梨と阪見は、どちらも特務機關の參謀に直屬する軍事探偵で、十五萬圓事件は單にオスロフを葬るための芝居に過ぎなかつたらしいこと……。

 ……星黑はキツト無事でゐて、何處かに隱れて居るに違ひ無いこと……

 ……オスロフ殺しの陰謀連中(れんぢう)は、無理にも全體の責任を僕(ぼく)……上村當番卒(うへむらたうばんそつ)の仕事にして發表して、白軍と哈爾賓市中に居るオスロフの乾兒(こぶん)たちの不平を押へ付けようとして居るに違ひ無いこと……。

[やぶちゃん注:●「乾兒」音「ケンジ」で、中国語で子分・手下の意(他に男の養子の意もある)。本邦では専ら、極道の用語として用いられた。]

 ……ツイ今しがた會計の阪見が家の中をグルグルまはつて誰かを探してゐるらしかつたが、間もなく司令部から電話が掛つて、女將へ直接に、僕の行方を問合(とひあ)はせて來たこと……。

 ……だから女將は取りあえず「モウお歸りになりました」と返事して置いたが、しかし司令部が、そんな事で納得したかどうかわからない。……だからモウ銀月の周圍には、水も洩らさない網が張つて在るに違ひ無いこと……。

 ……だからその網が解けるまで此の部屋に隱れて居なければならないこと……。

 そんな話を聞いて居るうちに僕はニヤニヤ笑ひ出した。……笑はずには居られなくなつたからだ。さうして無言のまゝ立上つて、部屋を出て行(ゆ)くべく押入れの襖(ふすま)を明(あ)けた。

 その時の僕の冷靜だつたこと……氣の強かつたこと……今思ひ出しても不思議な位(くらゐ)であつた。

 流石の女將も、さうした僕の態度を見るとハツとしたらしい。長襦袢(ながじゆばん)の裾(すそ)を亂しながら中腰になつた。

「何處へ行(ゆ)くの……あんたは……」

「ウン。司令部へ歸るんだ」

「そのまゝで……」

「あゝ。何なら軍服を出して呉れ給へ」

「……出して……上げてもいいけど何しに歸るの」

「わかり切つてゐるぢやないか。自首して出るのさ」

 女將は毒氣(どくき)を拔かれたらしくペタリと坐り込んだ。今度こそホンタウに驚いたらしい。ホツと太い息を吐いた。

「……まあ……殺されてもいゝの」

 僕は冷笑し續けた。ヤツト芝居氣(しばゐぎ)の拔けた女將の態度を見下ろしながら……。

「むろん。覺悟の前(まへ)さ。僕が銃殺される前に何もかもわかるだらう。ホントの事實が……」

「…………」

「僕は噓をつくのは嫌いだ」

「……まあッ……」

 と女將が僕に飛びついて來た。色も飾りも無い眞劍な泣き預匠なつた。

「……あんたは……妾を棄てて行くの……」

「ああ。その方が早わかりと思ふからさ。なるべく身體を大切にして、餘計な氣苦勞をし無いやうにしてね……か……ハハハ……」

 女將の顏色がサッと一變した。僕の兩腕をシッカリと掴まえたまま、限を剥き出して振り仰いだ。その顏を見ると僕は何かしら、あらん限りの殘忍な言葉を浴びせてみたくなつたから、不思議であつた。

「ハハハ。何も驚く事は無いさ。女の知惠つてものは底が知れてゐるからね」

「…………」

「阪見は要するにお前さんのオモチャさ。骨拔人形(ほねぬきにんぎやう)さ。モットはつきり云へば男妾(をとこめかけ)さ。まだ會つた事は無いが、大概寸法(すんぱふ)はきまつてゐるね。……さうだらう。僕に出したアノ手紙はこの家(うち)に在る器械で打たせたんだらう。お前さんが大急ぎで阪見に口うつしにしてね…‥さうだらう‥…女の文章はぢきにわかるんだよ……僕には……」

「…………」

「それで何もかも判然(わか)るぢやないか。十五萬圓事件の邪魔になるオスロフは十梨が打つた密告文で片付いた。星黑主計も、十梨とお前さんの知惠で始末してしまつた。日本の憲兵はどこまでも日本の憲兵で内地の警察とは違ふんだから、絶對に筋書が曝(ば)れる氣遣ひは無い。アトは十梨か僕かと云ふ寸法だらう。浮氣なお前さんの事だからね。ハハ…」

「…………」

「僕はね。僕のアタマの良さに愛憎(あいそ)が盡きたんだよ。何もかも解らなくなつちやつたんだよ……タツタ今」

 眞白になるまで嚙み締めてゐた女將の唇の兩端(りやうたん)がビクビタと震へ出した。兩方の白眼がギリギリと釣上(つりあが)つて血走つた。

「……だから……僕が銃殺されたら何もかもわかるだらうと思つてね……ハハハ……」

 僕の兩腕をシツカリと握つてゐる女將の手の戰(をのゝ)きが明瞭に感じられた。さうして血走つた白眼が、みるみる金屬じみた光をキラキラさせ始めたと思ふ間もなく、女將は、素早く僕の兩腕を離して、黑繻子(くろじゆす)の帶の間(あひだ)に指を突込んだ。

[やぶちゃん注:●「黑繻子」「繻子」は「緞子」に既注済み。このシーンではグーグル画像検索「繻子」をリンクしておくに若くはあるまい。ここに底本の挿絵を配す(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)。
 
Koorinohate3

 豫期してゐた僕は、その手を引つ摑んで思ひ切り引寄せた。キラリと光るピストルを引つたくりざま力任せに突飛ばした。

 女將の身體(からだ)にはニーナの半分程の力もなかつた。ヒヨロヒヨロと背後(うしろ)へよろめいて行(ゆ)く拍子にガソリン煖爐(ストーブ)を蹴返(けかへ)すと、細いパイプで繫がつてゐたタンクがケシ飛んで靑い焰(ほのほ)がパツと散つた。女將の白い膝小僧(ひざこぞう)のまはりから、水色(みづいろ)のゆもじの裾(すそ)にかけて飛び付いた……と思ふうちに慌てゝ起上(おきあが)りかけた女將の顏の前を、ボロボロとオリーブ色の焰(ほのほ)が流れ擴(ひろ)がつた。

「アレツ……助けてツ」

 と叫びながら女將は火の海の中を僕の方へ這ひ出して來た。燒けた片鬢(かたびん)の毛をブラ下げながら……。

「……お金を……お金を……みんな上げるから……アレツ……」

 その地獄じみた表情を見ると僕は一層殘忍な氣持になつた。……何だ腐つた金……と云ひ度(た)い氣持ちでその顏を眼(め)がけて力(ちから)一パイ短銃(ピストル)をタヽキ付けると、立上(たちあが)りかけた女將の胸に當つた。それを慌てゝ拾ひ取りながら彼女は、僕に狙(ねらひ)をつけようとしたがモウ駄目(だめ)だつた。

 その執念深い、靑鬼(あをおに)のやうな表情が、みるみる放神(はうしん)したやうに佛顏(ほとけがほ)になつて行つた……と思ふと、白い唇を力なくワナワナと震はしながら、黑焦(くろこ)げの斑紋(はんもん)を作つてゐる疊(たたみ)の上にグツタリと突伏(つゝぷ)してしまつた。

 僕は悠々と押入れの中紅這入つて、襖(ふすま)をピツタリと閉(た)て切つた。這入りがけに見て來た通りに正面の廻轉壁(くわいてんかべ)を拔けて、木の香(か)の籠もつた湯殿へ拔けて、何の苦もなく地下室の階段に出た。

 その階段の上の廊下へ出て、マツトの下の落し戸をキチンと閉めてしまつた處へ、知らない女中が一人通りかゝつたから何喰はぬ顏で、

「僕の軍服を出して呉れないか」

 と賴んでみると、

「ハイ。かしこまりました」

 と云ふなり大きな鏡の在る西洋間に案内した。芳ばしいお茶と一緒に番號札の附いた亂籠(みだれかご)を出して呉れた。

 ……ナアンダイ……と思はせられながらチヤンと着換へて玄關を出た。

 往來を一町ばかり歩いてみたが、誰も咎める者が無い。張番(はりばん)らしい人影すら見えない。星の光りが大空一パイに散らばつてゐるばかりである。

[やぶちゃん注:●「往來を一町ばかり歩いてみたが」は「全集」では(正字化した)『往來を司令部の方向へ一町ばかり歩いてみたが』と加筆している。 ●以下、一行空き。]

氷の涯 夢野久作 (12)

 僕は今でもさう思つてゐる。

 この十梨(となし)の言葉を疑ひ得る者は、餘程の名探偵でない限り絶無であらう……と……。

 十梨は眞實、正體も無いくらゐ疲れて居たのだから。……さうして恐ろしい憲兵の前に、絶望と無力とを一緒にした身體(からだ)を曝露(さら)しに歸つて來たのだから……。

 その中でも僕は此話を最も深く信じた一人だつたらしい。……と云ふよりも十梨の立場に衷心から同情を寄せてゐた一人と説明した方が適當だつたかも知れない。實に意外極まる口供(こうきやう)の爲に、昨夜(ゆふべ)、毛布の中で、あれだけ苦心して築き上げて居た推理と、想像の空中樓閣をドン底から引つくり返されながらも、十梨から煙草を拒絶されると直ぐに一階へ飛んで降りて、熱い澁茶を一杯、酌(く)んで來て遣つた位(くらゐ)であつた。

 憲兵連中も無論の事であつた。彼等の顏は十梨の口供の途中から見る見る輝き出してゐた。搜索本部が開設されてから三日目に、早くも勝利の端緒(たんしよ)を摑んだ喜びを、互ひに目顏で知らせ合ひながら點頭(うなづ)き合つて居た。

 十梨が熱い茶を飮み終るのを待ち兼ねた憲兵中尉は、僕をさし招いて自動車を呼ばせた。一刻も猶豫(いうよ)ならんといふ風に……さうして早くもスウスウ眠り始めて居る十梨を搖り起して、

「オイオイ。十梨通譯。起きろ起きろ。處罰されるのではないぞ。いゝか、貴樣は殊勳者に違ひ無いが、一應現場(げんぢやう)を調べる迄は許す譯に行(ゆ)かんからな。氣の毒だが、えゝか」

 十梨は搖(ゆす)ぶられながら小兒(こども)のやうにグニヤグニヤとうなづいた。

 自動車が來ると皆立上つた。何でも全員一齊にやるのが憲兵の習慣らしい。さうしてめいめいは自分の机の曳出(ひきだ)しを開けて、いくらも無い書類や文房具を抱へ込んだのは、搜索本部の仕事がモウ是切(これぎ)りになつた事を豫感して居たのであらう。

 「オイ。當番。モウ此處へは來んかも知れんが、しかし今二三日の間(あひだ)、當番を解除することはならんぞ。搜索本部を解散する時には此方(こつち)から通知すると上等兵に云ふて置け」

 と憲兵中尉が宣告した。

「ハ……モウ二三日間當番を解除する事はならんと上等兵殿に云ふて置きます」

 と復誦をすると今度は珍しく曹長が笑顏を作つた。

「フフフ。うまい事をするなあ貴樣は……フフン。慰勞休暇のやうなもんぢや。……ウン。それから新聞紙(しんぶんし)を一枚持つて來い。イヤ。封筒がよからう。一枚でえゝぞ……」

「ハツ封筒を一枚取つて來ます」

 といふうちに僕は部屋を飛び出して司令部から白い横封筒を一枚貰つて來た。皆はその間(ま)に玄關に出てゐたので、僕は追つかけて、自動車の外に立つてゐる曹長に、封筒を手渡した。

 曹長は封筒を受取ると自動車に乘つた。グツタリと顏を伏せてゐる十梨の横に坐りながら、ポケツトから札束を出して數へ始めたが、三百二十圓在る事を確かめると、「ヨシ」と云ひながら扉(ドア)を閉めた。同時に二人の憲兵上等兵が左右のステツプに飛乘ると、舊式のビツクがガツクリと後退しながらスタートした。その拍子に、札束を横にして封筒に入れようとした曹長の手許が狂つて、外側の一枚の裏面(りめん)がチラリと見えた。

[やぶちゃん注:●「ビツク」私は免許を持たない化石のような男で、車には冥いが、これは恐らく、アメリカのゼネラルモーターズ(GM)が製造販売する乗用車のブランドの一つ、ビュイック(Buick)であろう。]

「……アッ…‥」

 と僕はその時に叫んだやうに思ふ。敬禮するのも忘れて自動車の跡を追つかけ樣としたが、追付けなかつたので、又立ち止まつて額(ひたひ)を押へた。不思議さうに僕の顏を見て居る歩哨の視線から逃げる樣に、地下室へ駈降りて、自分の寢臺に引つくり返つた。猛烈な勢いで活躍し始める僕の腦細胞を、押し鎭めよう押し鎭めようと努力しながら兩手をシツカリと顏に當てた。

 僕は自分の耳を疑はなかつた。今、曹長が數へてゐる三百二十圓は、たしかに十梨が、机の上に投げ出したソレであつた。星黑(ほしぐろ)が、公金の包みの中から引出して呉れたたものだと十梨が説明してゐた二十圓札の十六枚に相違なかつた。……しかも同時に僕は自分の眼を疑はなかつた。タツタ今、其一番上の一枚の裏面(りめん)がチラリと見えた瞬間に、その裏面の片隅に二つ並んだ赤インキの斑點の恰好をハツキリと僕は認めたのだ。

 僕はその赤インキの斑點に見覺えがあつた。忘れもしない前月の初めに、星黑主計が供の前で、自分の俸給を勘定して居るうちに、誤つて赤インキの附いたペン先を跳ね返した時に、くつ付いた斑點だつたのだ。

 僕は、其時に大急ぎで吸取紙を持つて行つて遣つたので、其インキの恰好をハツキリと印象して居る。大きい方が吸取紙に押へられて象(ざう)のやうな歪んだ恰好になつてゐた。そのお尻の上に小さい方の一滴が太陽の形に光線を放射してゐた。ちやうどお伽話の插繪(さしゑ)か、印度(いんど)の壁畫(へきぐわ)みたやうな赤い影繪(かげゑ)の形になつた事を、不思議にハツキリと印象して居たのだ。其時に吸取紙を投げ返した星黑が珍しく「有難う」と云つたせゐかも知れないけれども……。

 若し世の中に、同じ形の赤インキの斑點をつけた二枚の二十圓札が、絶對に存在し得ないものとすれば、かの一枚の札は確かに前月の初めに、星黑主計が自分の俸給として受け取つて、舊式な博多織(はかたおり)の札入に挾んで、内ポケツトに納めた札の中の一枚でなければならぬ。それが丸一個月(かげつ)經つた二三日前の土曜日に銀行から引出したまゝの公金の札束に挾まつて居る理由は絶對にあり得ない。金扱ひの嚴格な星黑主計が自分の紙入の中の金を、公金の札束の中へ突込むといふのは、どう考へても不自然である。

 星黑は殺されたのだ。十梨が掘つた陷穽(おとしあな)に陷つて死んだのだ。

 オベツカ上手で色男の十梨は、星黑を誘ひ出して公金を費消(ひせう)さした……その窮況(きうきやう)に乘じて星黑に官金を盜み出さした。さうして其金を奪ひ取つたのだ。そのポケツト・マネーと一緒に……。

 十梨は其樣(そのやう)な事實の一切を晦ます爲に、二日(か)二夜(や)がゝりで恐ろしく骨の折れる芝居を打つて居るのだ。星黑が生き返つて來ない限り絶對にわかる氣づかひの無い芝居を……。

 十梨の知惠には頭が下がる。實地檢分に行つた憲兵は河岸(かはぎし)で星黑の軍服の燒殘(やけのこ)りを發見するであらう。それから河岸の一軒屋を檢分するであらう。さうして十梨の言葉の眞實性を認めたが最後、猛然として三姓(せい)の方向に突進するであらう。さうしてその結果は十五萬圓と、星黑の行方を、永久に諦めて歸つて來る事になるであらう。十梨の放免もそれと同時であらう。

 かくして十梨は官憲の保障の下(もと)に十五萬圓の持主となり得るであらう。

 ……僕はイキナリ起上つて駈出したい衝動に駈られた。すぐにも憲兵隊に駈込んで十梨の奸策を發(あば)いて遣らうか……と思つたが、又、思ひ直して寢臺の上に引つくり返つた。……イヤイヤイヤ。まだ早い。まだ早い……と氣付きながら……。この事件が放射してゐる、すべての謎の焦點を解決してしまはなければ……さうして動きの取れない實物の證據を押へた上でなけれは……と考へながら……。

 彼(か)の二十圓札は星黑を殺した時に、十梨が奪つた者に相違無いのだ。さうして他の持合はせの札と合はせた三百二十圓を、正直さうに憲兵の前に提出した一種の餌に外ならない事がわかり切つて居るのであるが、しかし是は僕だけがタツタ一人認めて居るに過ぎない極めて偶然の事實である。死んだ星黑が生き返つて來て、それに相違ない事を白狀しない限り、絶對に確實な證據とは云へないのだ。かうした證據の性質を考へないでウツカリした事を云ひ出しでもしようものなら、相手が無鐵砲な憲兵の事だから、あべこべにドンナ嫌疑をかけられるか知れたものでない。

[やぶちゃん注:「奪つた者」はママ。「全集」は『物』と訂する。]

 さう氣がつくと同時に僕は思はずブルブルと身ぶるひをした。この事件を仕組んだ人間の頭のヨサに今一度舌を捲いて感心しない譯に行(ゆ)かなかつた。

 見たまへ……。

 つい今しがたまで十梨の陳述によつて木葉微塵に打碎(うちくだ)かれてゐた僕の想像の空中樓閣が又も、巍々堂々(きゝだうだう)たる以前の形にモリモリと復活して來るではないか。

[やぶちゃん注:●「巍々堂々(きゝだうだう)」はママ。「ぎぎだうだう(ぎぎどうどう)」が正しい(「全集」は『ぎぎ』と訂されてある)。「巍巍」は「魏魏」とも書き、高く大きいさま、厳(おごそ)かで威厳のあるさまを言うから、そうした厳かな様態を少しも隠すところがなく、公然としているさまをいう。]

 しかも生き生きとした現實となつて眼の前に浮き出して來るではないか。

 此事件の背後から糸を操つて居る者は、やはり銀月の女將(おかみ)に相違ないのだ。銀月の女將は表面上オスロフや星黑に好意を表しながら、内實は、十梨と肝膽相照(かんたんあひてら)し合つて居るに違ひ無いのだ。あの年増盛(としまざか)りの女將の男妾(だんせふ)、兼(けん)、番頭として十梨は何と云ふ適任者であらう。彼の露西亞通(ロシアつう)と露西亜辨(ロシアべん)と、持つて生まれた愛嬌とは、銀月の女將に取つてドレ位(くらゐ)重寶なものであらう。

[やぶちゃん注:●「露西亞通と露西亜辨」悪知恵に長けた十梨の持つ、客観的なロシア政局の情報通としての冷徹な分析力と、通訳としての堪能なロシア語の語学力の駆使を、実に上手く、皮肉に表現している部分である。]

 彼は最初から彼女の手先となつて仕事をして居たもので、しかも目下(もつか)が其の大活躍のクライマクスに違ひ無いのだ。彼は、彼が司令部の内情に精通してゐる知識を利用した、事實無根の露西亞文(ロシアぶん)を彼女の註文通りにタタキ出して、一氣にオスロフを葬り去る手段を彼女に與へると同時に、一命を賭(と)して十五萬圓の金儲(かねまうけ)を巧らんでゐるのだ。搜索本部の視線を他(た)の方面に轉向させる可く、巧妙を極めた芝居を打つて居るのだ。十梨の樣な男に取つては、あの女將の魅力が、ソレ程の苦勞に價(あたひ)するに違ひ無いのだ。犯罪の裏面(りめん)に女……何といふ古めかしい解決であらう。さうして又……。

「オイ、上村(うへむら)。手紙だぞ」

 かう呼ばれた僕は、ビツクリして寢臺の上に起上つた。見ると眼の前に上等兵が立つて居る。

「晝間から寢る奴があるか。どこか惡いんか。」

[やぶちゃん注:末尾句点はママ。]

「ハ。すこし風邪を引ゐた樣です」

 と答へながら僕は手紙の上書(うはがき)を見た。「哈爾賓、第二公園裏(うら)、銀月事、富永トミ方、阪見芳太郎(さかみよしたらう)――電二七――」とゴム印が捺してある。

「前文御めん下さいませ。先日は失禮致しました。早速ですが其節お忘れになりました銀側(ぎんがは)の卷煙草入(まきたばこい)れを只今發見致しました。御屆け致しませうか。それとも御都合よろしき時お出で願はれませうか。まことに恐れ入りますが、御(お)ついでの時お電話をお願ひ致します。取りあへず右(みぎ)まで御意(ぎよい)を得ます。

敬具   

  上村作次郎(うへむらさくじらう)樣   阪見芳太郎」

 といふ邦文タイプライターの文句が其中味であつた。

「何だ。貴樣は銀月なんぞへ行つて遊んだことがあるのか」

 と上等兵は眼を剝いて尋ねた。僕は震える手附(てつき)を見せまいと苦心しいしい辛うじて答へた。

「イーヤ、此のあひだ公用でタツタ一度行つたことがある切(き)りです」

「その時に忘れて來たんか」

「そんな記憶(おぼえ)は無いのですが……銀の卷煙草入れなぞ持つて居た事は無いのですが……」

「ハハハ……いゝぢや無いか貰つて來たら……」

「外出してもいゝでしせうか」

「搜索本部は引上げたんぢや無いだらう」

「ハイ。モウ二三日當番を解除しない樣にと中尉殿が云つて行(ゆ)かれました」

「フーン。そんなら外出はお前の勝手次第ぢやろ。俺の權限ちう譯ぢやあるまい」

「ハイ。それぢや是から出かけて來ます。少し買物がありますから」

「また書物買(ほんか)ひか。まあチツト面白い奴を買うて來いよ。讀んで遣るから。ハハハ……」

 と冗談を云ひながら上等兵は出て行つた。

 僕はすぐに外出の支度を始めた。しかし夫(それ)は上等兵の手前だけで、實は息苦しい程の氣迷(きまよ)ひの中に鎖されて居たのであつた。

 ……正直のところ……僕は靑天の霹靂(へきれき)に打たれたのであつた。噂をすれば影といふが、タツタ今、考へてゐたばかりの當の本人から、コンナ風に巧妙を極めた呼出しをかけられた僕は、ちやうど自分の想像通りの幽靈にぶつかつた樣な脅迫觀念に襲はれたのであつた。

 見たまへ……僕の想像が想像でなくなりかけて居るではないか。

 ……かうした人知れぬ手段で僕を引つぱり出して片づけようとしてゐる……もしくはこの事件に一と役(やく)買はせようとしてゐる……らしい彼女の計畫が、此手紙の書き振りを通じてアリアリと窺はれるではないか。

 ……彼女は僕が、兵卒らしくないアタマの持主である事を、タツタ一眼(め)で看破(かんぱ)してゐるのだ。同時に彼女は僕が、此事件に關する幾多の重大な祕密を握りながら、野心滿々の虎視眈々(こしたんたん)たる態度で、司令部の當番に頑張つてゐる人間であるかのやうに、想像してゐるに違ひ無いのだ。ことに依ると彼女は、僕の身體がタツタ今閑散(かんさん)になつた事實と一緒に、その理由までも、憲兵隊の大袈裟な行動によつて察知してゐるかも知れない……だからコンナ詭計(トリツク)を平氣で使つて僕に呼出しをかけて居るのぢやないか……僕が十梨や何(なに)かと同樣に二つ返事で飛んで來るであらう事を確信して……。

 さう氣が付いた僕は、猶豫(いうよ)なく此の手紙を持つて特務機關の參謀の處へ行(ゆ)かうか知らん。さうして一身(しん)の處置を仰がうか知らん……と思ひ、震える手で脚絆(きやはん)を卷いてゐた。

 ……これは俺みたいな人間の手に合ふ事件ぢや無い。いくら文學靑年でも、兵卒は兵卒の仕事しか出來ないものなんだ。そればかりぢや無い。此間(このあひだ)、銀月の應接間でウツカリ軍機の祕密を饒舌(しやべ)つて居る以上、俺はモウ國家の罪

人ぢや無いか。自訴(じそ)して出る資格は充分に在るのだ……。

 と云つた樣な事實に後から氣付きながら、帶劍の尾錠(びぢやう)をギユーギユーと締め上げて居た。

[やぶちゃん注:●「尾錠」尾錠金(びじょうがね)。帯剣ベルトのバックルのこと。]

 恐らく其時の僕の顏は血の氣(け)を無くして居たであらう。屠所(としよ)の羊(ひつじ)とでも云ひ度い氣持ちで、うなだれうなだれ地下室の階段を登つて行つた事を記憶して居る。さうしてソンナ氣(け)ぶりを察しられないやうに帽子を冠(かぶ)り直して歩哨に外出證を見せると、其儘こそこそキタイスカヤの人ごみに紛れ込んだ事を記憶してゐる。實はキタイスカヤの人通(ひとどほり)と云ふと、十人が十人外國人ばかりと云つてよかつたので、却つて人眼(ひとめ)を惹く爲に紛れ込んだやうなものだつたが、それでも、そんな人混雜の中に揉まれて行つたら、その中(うち)に何とか決心が付くかも知れない……と云つたやうな心細い空賴(そらだの)みの氣持から、さうしたのであつたかも知れない。……さうしてまだ決心が付かないまゝ、何處を當(あ)てともなく歩いて行(ゆ)くうちにトルコワヤ街か何處かであつたらう。偶然に眼に付いた立派な理髮店に這入り込んで、フラフラと椅子に腰をかけたまゝ、正面の鏡に映つて居る病人じみた自分の顏を、いつまでもいつまでも凝視してゐたことを記憶してゐる。

[やぶちゃん注:「トルコワヤ街」先に引かせて戴いた「里村欣三ホームページ」の里村の「放浪病者の手記」についての評論「満州小考」によれば、『「トルゴワヤ街」はハルビン随一の繁華街キタイスカヤ街に並行する「売買街」』(商店街の意)とあり、「埠頭区拡大図」を見ると位置が分かる。しかも現在の哈爾濱でも簡体字でズバリ、「売買街」という街路名であることが地図で分かった。]

 それから先の事が僕としては實に書きにくいのだ。何とも申譯無(まうしわけな)い、面目無(めんぼくな)い事ばかりが連續して起つて來るのだから、成(な)らう事なら割愛したいのが山々だが、しかし、それを書くのが此遺書の眼目なんだから、しかたがない。

 眼の玉の飛び出る樣な料金を取られながら、格別驚きもせずにトルコワヤ? の理髮店を出た僕は、ショーウヰンドを覗いたり、のろい貨物車に遮られてゐる踏切を眺めたり、公園の劇場の看板を見上げたりして長い事考へたあげく、ついフラフラと銀月の玄關に立つてしまつたのであつた。

[やぶちゃん注:●「トルコワヤ? の理髮店」このクエスチョンは二段前で「トルコワヤ街か何處かであつたらう」と行った先の街路が不確かであったことに基づくもの。 ●「踏切」「満州小考」の地図を見ると、トルゴワヤ街の東北直近、一区画隣に平行して鉄道が走っているのが分かる。]

 その時の僕の氣持ちは僕自身にも記憶して居ない。しかし何(いづ)れにしても持つて生まれた臆病者の僕が、自分でもハツキリした自信のない證據物件をもつて、○○機關の首腦部の足下(あしもと)へ飛込んで行く勇氣を出し得なかつたのは當然であつたらう。さう云つて自分の卑怯さを云ひ逃れる譯では無いが、そんなにしてドンドコドンドコのドン詰(づめ)まで考へまはして……イツタイ俺はホンタウに此事件に關係があるのか……無いのか……ある樣に思ふのは俺の氣の迷ひぢや無いか……とまで迷ひ詰めて、氣が遠くなる程、思ひ惱んだ僕が、結局、最後に殘る事件全體の「不可思議の焦點」に引掛つて動きが取れなくなつてしまつたのは止むを得ない歸結であつたらう。「ニーナの短劍」に關する疑問を唯一の心賴(こゝろだの)みにして……銀月の女將が僕の味方か敵かを確かめて見る氣になつて來たのは、自然の結果として見逃して貰へるであらう。

[やぶちゃん注:●「○○機關」「全集」では伏字を外して(正字化した)『特務機關』となっている。]

 勿論それは實にタヨリナイ雲を摑むやうな想像……と云ふよりも寧ろ空想に近いヤマカンであつた。非常識と云ふよりも寧ろ馬鹿々々しいくらゐ情ない「空賴(そらだの)み」式(しき)の心理狀態であつた。けれども其時の僕としては、さうしたヤマカン式の「空賴み」よりほかに辿(たど)つて行(ゆ)く道が無いのであつた。此の疑問を解決してから自首して出ても遲くは無い……此の疑問を解決する爲には何もかも犧牲に供(きよう)しても構はない……と云つたやうな絶體絶命の氣持になつたまま、色硝子(いろガラス)と、茶色の化粧煉瓦(けしやうれんぐわ)と、蛇紋石(じやもんせき)で張詰(はりつ)めた、お寺のやうな感じのする銀月の玄關に茫然と突立つて居たのであつた。

[やぶちゃん注:●「蛇紋石」serpentine(サーペンティン)。マグネシウムの含水ケイ酸塩からなる鉱物で橄欖(かんらん)石や輝石が水と反応して変質したもの。岩石の表面に蛇のような紋様が見られ、高級装飾石材。]

氷の涯 夢野久作 (11)

 あくる朝は馬鹿に早く眼が醒めた。

 氣が付いてみると當番の連中(れんぢう)は、いつの間に歸つて來たものか、僕の左右にズラリと枕を並べてグーグーと眠りこけて居る。

 便所に行つた序(ついで)に歩哨の前から、表口の往來を覗いてみると素敵にいゝ天氣である。昨日の出來事は噓のやうな感じのする靑空が、時計臺の上に横たはつてゐる。

 歩哨に聞いてみると「司令部の連中はツイ今しがた、當番連中を引き連れて、どこからか歸つて來たところだ。昨夜は何らの異狀も無かつた」と云ふ。辻々の警戒も最早、解かれて居たのであらう。朝の人通りはいつもの通りで、向家(むかひ)のカポトキンの大扉(おほど)も開かれて、四、五人の人夫が方々の窓を拭いて居る。

 僕は何だか馬鹿にされて居る樣な氣持ちになつた。しかし、さうかと云つて文句を附ける處は何處にも無いので、少々睡(ね)むいのを我慢しいしい搜索本部の掃除を濟ましたが、その序にチヨット四階のオスロフの居室の樣子を覗きまはつてみると、どの部屋もどの部屋も窓掛(まどかけ)が卸(おろ)ろされて鍵が掛かつて居る上に、向う側のブラインドが卸してあるらしく、眞暗で何も見えない。そのシンカンとした氣はいに耳を澄まして居るうちに、又も、昨夜と同じやうな寒氣がして來さうになつたから、慌てゝ階下へ駈降りた。

 下へ降りてみると食事がモウ出來てゐるのに驚いた。むろんこれは炊事係が入代つたせいであつたが、その時に初めてさうした事實に氣が付いた僕は今更のやうに、オスロフ一家がどうなつたかと考へて暗然となつた。何だか自分が意氣地(いくぢ)が無い爲に見殺しにしたやうな、たまら無い責任觀念に囚はれながら、タツタ一人で箸を取つたが、久し振りに喰(く)つた軍隊飯の不味(まづ)かつたこと……オスロフ一家の事が胸に悶(つか)へてゐたせゐばかりではなかつた。

 そのうちに上等兵が起上つて煙草を吸ひ初めたので、早速、昨夜からの出來事をコツソリ話し合つたが、双方が双方とも眼を丸くして驚き合つた事は云ふ迄もない。それから夫れへと煙草を吹かしながら聲を潜めて居るうちに、いつの間にか時間が經つたらしい。突然に、いつもと違つた長靴の音がポカポカポカポカとコンクリートの階段を降りて來た……と思ふうちに、いつの間にか出勤したものか、憲兵上等兵の一人が僕の顏を見るなり

「オイ。何をしとるか。早く來んか」

 と階段の途中から怒鳴つた。又も大事件らしいのだ。

 僕は退屈だつた昨日の午前中が戀しくなつた。タツタ一晩考へただけで、頭がくたびれてしまつたものらしい。實に意氣地(いくぢ)の無い名探偵だ……と自分で思ひ思ひ上衣(うはぎ)を着て二階へ駈上つて、搜索本部の中を一眼(ひとめ)見ると、思はずサツと緊張してしまつた。……十梨(となし)通譯が歸つて來て居るのだ。星黑(ほしぐろ)と一緒に行方を晦まして居た十五萬圓事件の片割れが……。

 十梨は僕と向ひ合つた、室の隅に近い籐(とう)の肘掛椅子に、グンナリと腰をかけてゐた。女のやうに小肥りした男だつたが、二、三日の間に薄汚なく日に燒けて、ゲツソリと頰を瘠(こ)かしてしまつてゐる。靴もズボンも泥だらけになつて、此邊(このへん)の草原(くさはら)に特有の平べつたいヌスト草(ぐさ)の實が處々にヘバリ付いてゐる。何處からか生命(いのち)からがら逃げて來た恰好で、口を利く力も無いくらゐ疲れてゐるらしい。大勢の視線に睨み付けられながら、片肘を椅子に掛けて、ウトウト睡りかけてゐる樣子である。

[やぶちゃん注:●「ヌスト草」マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ヌスビトハギ亜連ヌスビトハギ属 Desmodium Desmodium podocarpum ヌスビトハギ(盗人萩) Desmodium podocarpum subsp. oxyphyllum 或いはその仲間であろう。]

 ……これは、どうした事だらうか……と思ふ間もなく僕は、曹長の命令で一階へ飛んで降りた。まだ殘つてゐるオスロフ家の冷藏庫の中から白パンを半斤(はんぎん)と、牛乳を三本持つて來た。そいつを十梨の鼻の先に突付けると、ヤツト氣がついたらしかつたが、それからホコリだらけの瞼(まぶた)を開(ひら)いて飮むこと飮むこと喰(く)ふ事喰ふ事。牛乳をモウ二本と、パンをモウ半斤追加して、あとから熱い茶をガブガブと飮んでゐるうちに、みるみる大粒の汗を、ホコリだらけの顏に浮かべた。それから憲兵中尉に貰つた煙草を一本吸つてゐるうちに、又も安心したらしく、グツタリと椅子に凭(もた)れかゝるのを、引きずり起し引きずり起し審問が開始されたのであつた。

 僕は十梨の一言一句に耳を澄ました。昨夜、僕が毛布の中で築き上げた理屈と想像の空中樓閣は、十梨の出現によつてアトカタもなく粉碎されるかも知れない……さうして昨夜(ゆふべ)の事件と、十五萬圓事件とを同時に解決するホンタウの鍵が、十梨の口供(こうきよう)の中から發見されるかも知れないのだ。…‥ことに依るとニーナの短劍の行方まで推定され得ないとどうして云へよう。……しかも、それを探り出すのは僕の正當防衞を意味する大きな權利に違ひ無いのだ。世界中に僕一人が持つて居る祕密の特權……と云つたやうな興味を極度に高潮させて、胸をドキドキさせながら、ボンヤリした十梨の表情を凝視して居た。

 十梨の口供(こうきよう)は、如何にも弱々しい……それこそ夢うつゝのやうな聲で續けられた。

「御承知か知りませんが、私は此間(このあひだ)から、面倒な飜譯の仕事でスツカリ疲れて居りましたので、土曜日の晩に外出を願ひまして、日曜日の朝早くから、傅家甸(フーチヤテン)に靴を買ひに行きました。御覽の通り皮が固くなつて穴が開いて居りますので、哈爾賓(こちら)へ參りますとすぐから、買はう買はうと思つて居たものでありました。

 ところが、第八區の筋かひ道(みち)を通つて居りますと、背後(うしろ)から私を呼ぶ聲がします。振返つてみますと、支那馬車の中から星黑主計殿が顏を出されました。いつもの通りの服裝で、膝の間に新しいリユツクサツクを挾んで居られました。

「何處に行くのか」と問はれましたから、「傅家甸(フーチヤテン)へ」と答へて敬禮しますと、「さうか。俺も其方(そつち)へ行(ゆ)くから此車に乘れ」と云はれましたので一緒に乘つて行(ゆ)きました。

 ところがまだ鐵道踏切を越えないうちに、主計殿がニコニコ笑いひながら「お前は松花江(しようくわかう)の下流に行つた事があるか」と問はれましたのでチヨツト困りました。私は露西亞の地理ならば内地で研究して居りましたお蔭で少々自信がありますが、滿州方面は後まはしにして居りましたので西も東も知りません。殊に當地に來る匆々(さうさう)の八月の初めから飜譯ばかりして居りまして、一歩も市外へ出(で)ずに居りましたのでどの道が何處へ行(ゆ)くのか、どの方向にドンナ町があるか、況(ま)して何處いらから先が、馬賊や赤軍のゐる危險區域になつて居るのか、全然白紙も同樣なのです。ですから萬一案内でも賴まれては大變と思ひましたので「イヽエ」と答へますと「さうか俺は今から行(ゆ)く處だ。露西亞人の友達と一緒に行く約束をして居たんだが、そいつが風邪を引いて寢てしまつたので、俺一人で行つて呉れと云つて、案内を知つてゐる支那人を雇つて呉れた上に、御馳走をコンナに遣(よこ)した。ナアニ。危險區域と云つたつて心配する程のものぢやない。……日本軍の居ない處を全部、危險區域とばかり思つて居るのは日本人だけだ……と云つて其露人(そいつ)が笑つて居た。酒もちやうど二人前(にんまへ)ある。それあ景色のえゝ處があるさうだぞ」と云はれました。後から考へますとこれは眞赤な噓で、郊外の地理に暗い私が外出することを、前の晩からチヤント睨んで、計畫を立てゝおられたものに違ひありません。しかし其時は全く氣付きませんでしたので、非常に喜んでお禮を申しました。ステキな日曜にぶつかつたものだと思つて、靴の事も何も忘れて居りました。

 支那馬車は傅家甸(フーチヤテン)を拔けて東へ東へと走りました。腕時計を修繕に出して居りますので時間がわかりませんでしたが、同じ樣な草原(くさはら)や耕地の間(あひだ)を隨分長い事走りましたので、ツイ飜譯の疲れが出たのでせう。ウトウ卜しておりますと、正午近いと思ふ頃から、小さな川の流れに沿うて行(ゆ)くうちに、廣い廣い草原(くさはら)の向うに、松花江(しようくわかう)の曲り角が見える處まで來て馬車が停まりました。

 主計殿はそこで馬車を降りられました。さうしていつの間に勉強されたものか流暢な支那語で、駁者と話して居られましたが、そのうちにニコニコしながら此方(こつち)へ來られますと「此處から向うの丘の上まで歩いて行(ゆ)くのださうだ。あそこが一番景色がいゝさうだからね。濟まないが其の背負袋(リユクサツク)を荷(かつ)いで呉れないか。駁者は泥棒が怖いからと云つて車を離れないからね」といふ賴みです。私は「何だ。そんな目的で自分を連れて來たのか」と少々馬鹿々々しくなりましたが、今更、仕樣がありませんでしたから、リユクサツクを擔(かつ)ぎ上げて、道の無い草原(くさはら)を、河の方向へ分入つて行(ゆ)きました。

[やぶちゃん注:●「支那語」「全集」では(正字化した)『滿州語』。全集編者が他を差別言辞として「支那語」を「中国語」に書き変えていると思われる中(推測。差別表現書換注記は全集当該巻にはない)、これは久作による書き換えと考えてよい。]

 私は直ぐ鼻の先に見えてゐる河岸(かはぎし)が、案外遠いので弱りましたが、それでも二十分位(くらゐ)歩きますと、すこし小高い、見晴しのいゝ處へ來ました。あたりに人影もありませんでしたが、主計殿が「イヤ御苦勞だつた。此處(ここ)らで休もうか」と云つて腰を卸(おろ)されましたので、私も草の中に尻餅を突きました。それから主計殿はリユクサツクを引寄せて、白い新しい毛布を引つぱり出して、自分の手で草の上に擴(ひろ)げられました。

「一杯飮め」と云つて差出されたのを見ますと封印したウヰスキーの小瓶でした。主計殿も新しいのを持つておられましたので、私は遠慮なしに咽喉(のど)を鳴らしました。それから主計殿は、リユクサツクの中からサンドウヰチだのサアヂンの罐(くわん)だのを二つ三つ出して、毛布の上に並べられました。

[やぶちゃん注:●「サアヂン」老婆心乍ら、サーディン(sardine)でオイル・サーディンのこと。]

 私はトテモいゝ氣持ちになつてしまひました。眞靑な空から凉しい風がドンドン吹いて來ます。珈琲(コーヒー)色の河に區切られた綠色の海みたやうな草原が、見渡す限り雲の下で大浪を打つて居ります。その向うを薄黑い船が音もなく、辷(すべ)つてゆくのを見て居りますうちに、いつの間にかウヰスキーの瓶が空になりました。そのまゝ横になつて睡つてしまひました。

 私は其時に火事の夢を見て居りました。哈爾賓のホルワツト將軍の邸だつた樣です。私は將軍の白い髯(ひげ)が燒けてはならぬと思つて頭からバケツの水を引つ冠(かぶ)せて居(ゐ)る積りでしたが、そのうちにアンマリ噎(む)せつぽいので、眼を擦(こす)つてよく見ますと、ツイ鼻の先に鼠色の背廣を着た男がウロウロして居ります。ハテ、何者か知らんと起上つて見ましたら、それが意外にも主計殿で、遙か離れた川岸から拾つて來られたらしい流木を集めて燃やして居られるのでした。しかし、御承知の通り流木は濕つて居ります上に、火力が弱くてなかなか燃え難(にく)いので、煙(けむり)に噎せながらシキリに世話を燒いて居られる樣子でしたが、そのうちに何だかヤタラにキナ臭いのでよく氣を附けてみますと、どうでせう。其煙(けむり)の中で燻(くすぶ)つて居るのは、今まで主計殿が着て居られた軍服ではありませんか。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、久作の確信犯か、夢から醒める部分をぼかしてあるので注意されたい。「そのうちにアンマリ噎せつぽいので」が覚醒前後で実感、「眼を擦つてよく見ますと」が覚醒時の十梨の行動である。]

 私は其時に初めてドキンとしました。

「軍服を燃やすのですか」と思はず大きな聲を出しましたが、主計殿は返事をされませんでした。たゞ私を振返つてジロリと睨(にら)まれただけでしたが、其の顏付のスゴかつたこと……臆病者の私はガタガタとふるへ出しました。道路の方向を見ますと私達を乘せて來た支那馬車は、影も形もありません。見渡す限り草の波です。

「主計殿、歸らうではありませんか」

 私は思ひ切つて、さう云ひかけてみましたが、まだ云ひ切つてしまわぬうちに、スツクと立上つた主計殿は、煙の向うからギラギラ光る拳銃(ピストル)を差付(さしつ)けられました。さうして白い齒を出して笑ひながら近付いて來られましたので、私は草の中に四ツン這ひになつて終(しま)ひました。

「オイ、十梨(となし)。俺はお前に賴みがあるのだ。默つて其のリユクサツクを擔(かつ)いで三姓(せい)まで從(つ)いて來て呉れんか。えゝ」

[やぶちゃん注:●「三姓」松花江の下流にある現在の黒竜江省ハルビン市依蘭(いらん)県。地図上で計測してみると、ハルピンの東北東直線で二百三十キロメートル、松花江の河川実測で凡そ三百キロメートル上流、ハルピンから松花江右岸(南岸)にある現行の道路で試みに実測してみると、約二百七十キロメートルの位置にある(グーグルマップ使用)。ウィキの「依蘭県」によれば、『満州族の古くからの居住地であり、清室祖宗発祥の地』で、『依蘭とは「依蘭哈喇」の略称であり、満州語で「三姓」を意味する「イランハラ」の音写。意訳した三姓という旧称も存在する』とある。地名の由来は、満洲国が編纂した「依蘭紀略」によれば、盧(ろ)・葛(かつ)・舒(じょ)の三つの姓を名乗る一族が『居住していたことより三姓の地という地名が発生したと記載されている』という。清代より『この地域に居住する諸民族が貢納する毛皮と絹布を初めとする中国物産との交易が行われ、 三姓は松花江水運の要衝として発展していった』ともある。ここから更に松花江を下ると(直線距離で東北四百八十キロメートル)、ハバロフスクに着く。]

 私はモウ一度そこいらを見廻しましたが、河を通る船すら見えません。太陽がズツト西に傾いたせゐでせう。哈爾賓の町が黑い一線になつて上流の方向に見えて居りました。

「俺は司令部の金を持つて逃げて來たんだ。明日の今頃は大騷ぎをやつて居ると思ふんだがな。ハハ……。幾日かゝるか知らんが三姓まで來てくれたら、持つて來た金の三分一だけ分けて遣る。それでも五萬圓だ。惡くないだらう。噓ぢや無い。此通りだ」と云ふうちに主計殿は、右手のピストルを私の方に向けたまゝ、左の手をリユクサツクにかけて口を大きく開かれました。さうして底の方に在る新聞紙包を片手で破いて、チラリと見えた分厚い札束の中から、よい加減に拔出した二十圓札を口に銜(くは)へて數へられました。

「三百二十圓ある。當座の小遣ひに分けて遣る。よく調べてみよ。一枚も贋札なんか無いから……」

「ありがたう御座います。行(ゆ)きませう」

と私は答へました。容易に逃げ出せないと思ひましたから、わざと金に眼が眩んだふりをしたのです。

「ウム。一緒に飮んだ馴染甲斐(なじみがひ)があるからな。無茶な事はせぬ積りだが……俺もタツタ一人の仕事だからナ」と星黑主計殿は獨言(ひとりごと)のやうに云はれました。

 私は默つてリユクサツクの革紐に兩手を突込みました。さうして、たまらない恐ろしさと不愉快さとを我慢しいしい、主計殿の指圖に從つて、草原(くさはら)の中を歩き出しました。主計殿はいつの間にか此邊(このへん)の地理を詳しく調べて居られたらしいのです。

 そのうちに日が暮れて、五日ばかりの細い月が出ておりましたが、間もなく引込んでしまひましたので、私は星黑主計殿の懷中電燈で足元を見い見い草原を分けて行(ゆ)きました。すると、又、そのうちにリユクサツクが堪らなく重くなつて來ましたが、それでも私の姿だけが懷中電燈に照(てら)し出されて居るのですから、逃げる素振りなどミヂンも見せられません。三姓(せい)に着いたら殺されるかも知れない……とも思ひましたが、今更どうにも仕樣が無い私でした。

[やぶちゃん注:●「五日ばかりの細い月」私は先に、この十万円の横領事件が発覚した日を大正九(一九二〇)年九月六日の月曜と推定したが、これによって私の推理が正しかったことが証明された。但し、気になることが一つある。調べてみると、この夜は月齢二十二で翌日が下弦の月、半月より膨らんでいて逆立ちしても「細い月」ではない。……この話、実は――月が嘘だ――と語っているのではなかろうか?……]

 そのうちに何處だかわかりませんが、松花江の向う岸の大きい星空の下に、人家の燈火がチラチラ見え始めますと、荷物を擔いで居ながらも可なりの寒さを感じて來ました。

「何處にも泊らないのですか」と云ひながら振返りましたら、俯向(うつむ)いて何か考へ考へ歩いてゐた主計殿が顏を上げて見廻されました。「ウム。支那人の家が在つたら泊らう」と云はれましたが、そこいらは人家の影すら見當らない、河沿ひの高原地帶らしく見えました。

 それから又一里も歩きますと、肥つた私はもうへトヘトに疲れてしまひましたから、立止つて暗闇の中を振り返りました。

「こゝいらで休まして下さい」と悲鳴をあげますと、主計殿も疲れて居られるらしく案外柔和な聲で「さうだな。人家は却つて物騷(ぶつさう)かも知れん。今夜は此處で野宿とするかな」さう云はれるうちにリユクサツクを下(おろ)した私は、あんまり寒いのでガタガタ震へ出しました。「主計殿。あそこに小舍(こや)が見えますよ」

 二、三町向うの河岸(かし)に、歪んだ掘立小舍(ほつたてごや)らしいものが見えて居(ゐ)る樣でした。主計殿もうなづかれました。

[やぶちゃん注:●「二三町」二百十九~三百二十七メートル。]

「ウン丁度えゝ。行つて見よう」

 近づいて見ますとそれは渡船場(とせんば)の番人小舍でした。一間幅(けんはゞ)に二間ぐらゐの極く粗末な板造りで、向う側の破れ穴から松花江の水の光が見えました。

[やぶちゃん注:●「一間」は一・八メートル。]

「中に這入つて見よ」と主計殿が命令しながら懷中電燈を私に渡されました。さうして自分は拳銃(ピストル)を持つたまゝ、家の背後にまはつて小便をして居られる樣です。

 ……今だ……と私は胸を躍らせました。其儘(そのまゝ)家の中に這入つてリユクサツクをドシンと卸(おろ)して、其上に點(つ)けつ放(ぱな)しの懷中電燈を乘せました。すぐに戸口から這ひ出して、丈高(たてたか)い草の中を下流の方へ十間ばかり這ひ込みましたらうか……。

「オイ。十梨。何處に居るのか」

 といふ聲が風上から聞えました。拳銃(ピストル)を片手に持つた向う向きの背廣姿が、上流の方を透かしてゐる恰好が、星あかりでよく見えました。私は立上つて一散に走りました。

 ……ズダーン……ズダーン……

 といふ大きな音が私の肩を追ひ越して行きましたので、私は夢中になつてしまひました。帽子は其時に落したのでせう。草の中を轉(こ)けつまろびつして行(ゆ)きましたが、そのお陰で彈丸(たま)が當らなかつたのかも知れません。三發目の爆音が可なり遠くに聞えましたので、チヨツト振返つてみますと、四五十米(メートル)ばかり離れて追蒐(おひか)けて來る黑い姿が見えました。

[やぶちゃん注:●「追蒐(おひか)けて來る」既注。「飛蒐(とびかゝ)つて來る」を参照。「蒐」には狩り・狩猟・探すの意があるから、その辺りからの用字であろうか。]

 私の左手は仄白(ほのじろ)い松花江(しようくわかう)の水で、右手は丘つゞきの涯しもない高原らしいのです。その中をピストルの音がアトカラアトカラ縫(ぬ)うて行(ゆ)くのです。そのうちに右手の方から川緣(かわぷち)へ降りて來る小徑らしいものを見つけましたから、構はずに其中へ走り込みまして、小高い處へ駈上りました。拳銃(ピストル)の音はソレツキリ聞えなかつた樣です。

 左右から生えかゝつて來る草を押分け押分け、三十分ばかりも走りますと息が切れて堪(たま)らなくなりましたので、倒れる樣に草の中へ坐りましたが、坐つてみると又寒いのに驚いて立上りました。さうして寒さと空腹と睡(ね)むたさとに責められながら夢うつゝの樣に當(あ)てどもなく狹迷(さまよ)つて行(ゆ)きました。

 翌る日の正午頃、何處かわからない廣い通りへ出ると間もなく支那人の部落に着きました。しかし露語(ろご)が通じませんので手眞似で高梁飯(かうりやんめし)を喰(く)はして貰つて物置の藁の中に寢ました。さうして昨日(きのふ)の正午頃になつてヤツト眼を醒ましましたが、それからお禮に銀貨を一枚遣つて「哈爾賓々々々(ハルピンハルピン)」と云ひますと支那人の老爺(ぢゝい)がわかつたらしく、撞木杖(しゆもくづゑ)を突張(つゝぱ)りながら廣い畠の中を案内しいしい通拔(とほりぬ)けて、大きな道路のマン中に私を連れて來ました。さうして西の方を指して見せながら幾度も幾度も頭を下げて見せましたが、それが一昨日(さくじつ)來た道だつたかどうかは今でも私にはわかりません。モウ一度行つてみたら往(ゆ)き路(みち)も歸り路もハツキリするだらうと思ひますが……。生憎、馬車が通りませんでしたので徒歩で引返しましたが、折より夕方になつて一臺捕まへまして、夜通しがゝりの全速力で走らせました。居睡(ゐねむ)りしいしい來ましたので、幾つ村を通つたか記憶しませんが案外、道程(みちのり)が遠いので驚きました。しかし其夜(そのよ)のほのぼの明けに哈爾賓の燈火を見た時には、その爲に氣が遠くなりかけました。

[やぶちゃん注:●「しかし其夜のほのぼの明けに哈爾賓の燈火を見た時には、その爲に氣が遠くなりかけました」非常に重大な事実であるが、一九六九年第一刷一九八九年第九刷第一書房刊「夢野久作全集」第三巻の「氷の涯」のこの前後は以下のようになっている。

   《引用開始》

居睡りしいしい来ましたので、幾つ村を通ったか記憶しませんが案外、道程が遠いので驚きました。しかしその為に気がとおくなりかけました。

   《引用終了》

この『しかしその為に気がとおくなりかけました』というのはおかしくないか? 「道程が遠いので驚」き、「その為に気がとおくなりかけ」たという順接なら、いい。逆接の「しかし」は明らかにおかしい。そこでよくみると、この底本の方が実に自然な叙述になっていることが分かる。即ち、ほっとして、思わず、かえって「その爲に氣が遠くなりかけ」たというのである。――これは本当に久作が単行本化の際に削除したのであろうか?――これは素人が見ても、悪しき改稿であることは言を俟たない(「しかし」もカットすれば問題はない)。私は彼の単行本化された方を現認していないので何とも言えないのであるが……これ……もしや――「全集」自体が「其夜のほのぼの明けに哈爾賓の燈火を見た時には、」をまるまる脱字させてしまったというあり得ない可能性も捨てきれない――のである。どなたか単行本をお持ちの方、是非ご確認戴けると助かる。

 ……ハイ。貰つたお金はこれです。……二十圓札十六枚です。……ズボンのポケツトに這入つて居たのです。……疲れて居りますからモウ一度よく睡らして下さい」

 さう云ふうちに、十梨はモウ、ぐつたりと籐椅子(とういす)の中に凭(もた)れ込んだ。僕が點(つ)けてやつた煙草を、手を振つて拒絶しながらウトウトとなりかけた。

[やぶちゃん注:●以下、一行空き。ここに底本の挿絵を配す(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)。
 
Koorinohate2

2015/06/29

氷の涯 夢野久作 (10)

 その靑年は案外、意氣地(いくぢ)の無い男であつた。ズラリと並んだ銃劍を見まはすと一も二もなく手を合はせて泣出しながら、白狀しなくともいゝ事まで饒舌(しやべ)つてしまつた。

[やぶちゃん注:●「ズラリと並んだ銃劍を見まはすと」「全集」では(正字化した)『自分の頭の周圍にズラリと並んだ銃劍を見まはすと』と加筆。]

 彼はアブリコゾフといふ貴族出の美靑年で、相當の學問があつた上に一種の畸型的(きけいてき)な頭の冴えを持つてゐたらしい。時計の玉や、指環の寶石スリカエの熟練家(エキスパート)であつたばかりでなく、暗號解讀の天才だつたので、赤軍の細胞に捲込まれて非常に重寶がられてゐた。それが此の二三年、カボトキン百貨店の三階に在る貴金屬部に雇はれて、懷中時計の修繕と、大時計の係を引受けて居たものであつたが、そのうちに窓越しのニーナと顏を見合はせて笑ひ合つたり、顏を赤らめ合つたりする樣になつたものであつた。

 けれども二人は話をする事は愚か、手紙の遣り取りすら思ふ樣に出來なかつた。アブリコゾフの背後には赤軍の監視の眼が光つてゐるし、ニーナの蔭には年老(としと)つた女が二人も附いて居るので何樣(どう)にも仕樣が無かつたが、そのうちにアブリコゾフの方が思ひ付いて、當時大流行の仙人掌(サボテン)を應用した暗號通信法を、僅かの機會を利用してニーナに教へると、これが見事に成功した。ニーナの神速(しんそく)な記憶力と、持つて生まれた冐險癖が、見る見る驚くべき作用を現はし始めたので、其のお蔭で二人はヤツト自由自在に媾曳(あひびき)の出來る嬉しい仲になつたのであつた。

 ところが最近に到(いた)つて日本軍の司令部が、ニーナの足の下(した)に引越して來る段取りになると、此の仙人掌(サボテン)通信の甘つたるい内容が俄然として一變し始めたのであつた。冐險好きのニーナの眼と耳が、司令部の中を飛び廻はつて拾ひ集めて來る、物凄い「殺人用語」ばかりが、仙人掌の行列の中に勇躍し、呼號するやうになつた。一方にアブリコゾフも毎日正午になると時計臺の上に昇つて、時計の時差を計る。そのほかイツ何時でもニーナの合圖を受け次第に、便所に行くふりをしてはコツソリと時計臺に登つて、文字板の横の隙間から、精巧な望遠鏡を使用しながら、向家(むかひ)の屋上に並んでゐる仙人掌の番號を、右から左の順に書き取つて來る、そいつを往來から合圖する通行人や、お客の風をして來るスパイの手に渡さなければならないので、トテモ忙しくなつてゐた……現にタツタ今もニーナから受けた、

「オスロフが殺されさう……全赤軍のスパイ網が暴露した。十五萬圓……」

 といふ意味の中途半端な暗號通信を傳票の裏面(りめん)に書き取つて、下を覗くと同時に帽子をウシロ向きにした通行人に投付けて、その續きを待つて居た處であつた……云々といふのがアブリコゾフ靑年の告白の大要であつたらしい。

 此の告白を聞いた軍人たちが「テツキリこれはオスロフの仕事」と思ひ込んだのは無理も無い話であらう。そこで此報告が一直線に特務機關に飛込む……

「……猶豫なくオスロフ一家を捕縛せよ。事態切迫の虞あり」

 と云つた樣な命令が出る……といふ順序になつたものであらう。ちやうど僕を殺し損ねたニーナが裏階段を駈降りて行く姿を、いつの間にか歸つて來てゐた憲兵が認めたので、又も獨斷で追駈けて行つた留守中に、食事を終つたはかりのオスロフ一家が、有無を云はさず椅子に縛付けられて拷問されることになつた。さうして、その拷問が始まつたばかりの光景を、僕が外から覗いてゐたのであつた。

 だからその瞬間は、後から考へると實に恐ろしい瞬間であつたのだ。單に眼の前の光景が恐ろしかつたばかりでない。哈爾賓市に横溢(わういつ)してゐる最も重大な危險な諸要素が、眼にも見えず、耳にも聞えない戰慄的な波動を作つて、二重三重の渦卷を起しかけてゐる。その中心の息苦しい無風帶に、僕は何も知らずに突立つてゐるのであつた。

 事實、僕は何も知らなかつた。否、そんな事を察するだけの餘裕が無かつた。二重硝子の中に生きた活人畫(くわつじんぐわ)とも形容すべきモノスゴイ光景を、タツタ一眼見ただけで、僕はモウ、驚きと恐怖を通り越した心理狀態に追ひ上げられてゐた。二重硝子の外側に顏の半面を押しつけながら今にも左側の窓掛の陰から……ダダーン……といふ大音響の火花が、迸り出るか迸り出るかと石の樣に固くなつて居るばかりであつた。

 しかし僕がさうして居た時間は、物の五分間と經過しなかつたであらう。間もなく更に更に驚くべき事件に僕は襲はれた。その固くなつて居る僕の右手から突然に、ニーナの短劍を奪ひ取つて行つた者が在つた……と思つて振り返る間もなく、誰だか解らない疾風(はやて)のやうな人影が、ヒラリと眞暗な屋上の方へ消え失せて行つたのであつた。

 その時に僕は何かしら奇妙な聲を揚げた樣に思ふ。しかし其聲は幸か不幸か、舞踏室の内部に反響しなかつたらしい。

 僕は氣が遠くなりかけた樣であつた。舞踏室内の光景も何も全然忘れてしまつて居たやうであつた。さうして間もなく、何者かゞ飛蒐(とびかゝ)つて來るやうな次の瞬間を、暗黑の廊下で想像すると、思はず身を飜して長い廊下を一走りに、四ツの階段を駈け降りて、地下室に轉がり込んだ。そこでやつと少しばかり氣を落付けて、冷(さ)め切つた白湯(さゆ)を二三杯飮むと、そのまゝ自分の寢臺に潜り込んで、頭から毛布を冠つてしまつた。臆病者と笑はれても仕方が無い。
 
[やぶちゃん注:●「飛蒐(とびかゝ)つて來る」見かけない熟語で辞書的にもよく分からないが、泉鏡花の「古狢(ふるむじな)」に『黑雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐(とびかか)る勢(いきほひ)で』と用例があった。]

 だから僕はオスロフ一家の運命が、それから先ドウなつたか知らない。たゞ……其翌(あく)る日からセントランの雇人が、金聾(かなつんぼ)同樣の朝鮮人とその妻を殘して、一人も居なくなつた事を知つてゐる。さうしてその代りに日本兵の伍長以下四名の兵卒が入り込んで來て兵營式の炊事を始めたこと……オスロフ一家が、それから後一度もセントランに姿を見せなかつたこと……さうして、それから間もなくセミヨノフとホルワツト兩將軍の反目が露骨になつて、白軍の勢力がバタバタと地に墜ち始めた事をズット後(あと)になつて聞き及んでゐるだけである。

 ……とは云へオスロフの一家がコンナ悲慘な運命の坑(あな)に急轉直下して行つた原因だけは、その夜の中(うち)にスツカリ見當を付けてゐた……東亞政局の中心に穿(うが)たれた底無しの坑(あな)に、彼等一家を突落した、白い、冷たい手の動きにチヤント氣が付いてゐた。

 ……と云つたら僕がトテモ素晴らしい名探偵に見えるだらう。又は性懲りもなく、この事件の外殼を包む探偵趣味の第二層へ、突入して行つた勇者とも思へるだらう。……ところが實は、それどころの沙汰ではなかつたのだ。けふの出來事に魘(おび)え切つてゐた僕は、一刻も早く事件の眞相を發見しなければ、安心して眠れない位(くらゐ)、神經が冴え返つてゐたのであつた。……とてもヂツとしては居られない位(くらゐ)たまらない脅迫觀念に襲はれてゐたのであつた。

 これは氣の弱い、神經質な僕が、永年囚(とら)はれて來た惡癖だつた。何でも變つた出來事にぶつかるたんびに、すぐに其の原因を考へて、結論を付けてしまはなければ安心出來ない性分だつたのだ。想像でもいゝ。假定でも構はない。又は文學靑年にあり勝ちな空想的ローマンス病と笑はれても仕方がない……。

 但(たゞし)……僕は其時まで仙人掌(サボテン)暗號通信を、オスロフの指導を受けたニーナの仕事とばかり思ひ込んでゐたものであつた。……アブリコゾフの捕縛事件を全然知らなかつたのだから……。又、哈爾賓市の大警戒の狀況も、翌日の朝になつてから上等兵に聞かされて初めて驚いた位(くらゐ)の事であつた。だから僕は、其時までに見聞した十五萬圓事件とか、銀月の女將の印象とか、仙人掌の不思議とか、ニーナの怪行動とか、舞踏室の戰慄的光景とか云つた樣な表面的な印象ばかりを毛布の中でガタガタ震へながら、頭の中でグルグルグルグルと走馬燈のやうに空轉させた結果に過ぎないのであつたが、それでも其中(そのなか)から辛うじて臆測し得た事件の眞相なるものは實に身の毛も悚立(よだ)つ性質のものであつた。

 それはその「臆測の中の臆測」とも云ふべき最後の結論を先にして説明すればすぐにわかる。

 此事件の中心になつて居る者は誰でも無い。やはり彼(か)の銀月の女將に相違ないと思へるのであつた。此の事件の表面に交錯して居る直線や、曲線の出發點を求心的に探つてゆくと、縱から見ても横から見てもかの女將の魅惑的な、自由自在な表情の上に落ちてゆくのであつた。凡(すべ)てを操る眼に見えぬ糸が、彼女の白い指の先に歸納(きなふ)されてゆくのであつた。

 彼女に對する僕の第一印象は誤つていなかつた。彼女は哈爾賓と名づくる北滿の美果(びくわ)の核心に潜み隱れてゐる一匹の美しい蟲であつた。その果實の表面に、一見別々に見える巨大な病斑(びやうはん)を描きあらはして居る……。

[やぶちゃん注:●「一匹の美しい蟲」「全集」では「一匹の美しい毒蟲」である。これはもう、後者でなくてはいかん。]

 彼女は流石に、哈爾賓一流の豪華建築の女主人公として、人氣の荒つぽい北滿の各都市に雄視(ゆうし)するだけの、アタマと度胸を持つてゐる女性であつた。彼女はその冷靜、透徹した頭腦でもつて、變幻極まり無い當時の北滿の政情の動きを豫測して、銀月の經營方針と一致させることを怠らなかつた。銀月と名づくる豪華壯麗な浮草の花を、何方(どつち)の岸に咲かせようかと、明け暮れ魘(おび)え占(うらな)つて居たに違ひなかつた。何故かといふと、その當時までは哈爾賓の將來が、日本軍と、赤白(せきはく)兩軍の何(いづ)れの支配下に置かれるか……殊に日本軍の駐屯期間がいつまで續くかといふことは、哈爾賓全市…‥否、北滿全局の生命(いのち)がけの疑問として、各方面の注視の焦點となつてゐたものだから……さうしてこの問題に關する日本政府の態度に就(つい)ては、肝心カナメの日本軍の司令部自體すら、云ひ知れぬ不安を抱いてゐるらしく見えたのだから……。

[やぶちゃん注:●「雄視」威勢を張って他に対すること。]

 しかし其間(かん)にタツタ一人、彼女だけは窮しなかつた。彼女は、彼女一流の知惠を絞つて、どつちに轉んでも間違ひの無い方針を執ることにきめた。日本軍と一緒に引上(ひきあげ)るにしても、亦は踏み止まつて第二期の發展を計畫するにしても、決定的に必要な、軍機の祕密と、資金を摑む手段を考へ始めた。さうして其の解決を女性のみが實行し得る非常手段に訴へた。

 彼女はオスロフと星黑の双方に彼女自身を任せたに違ひないのだ。さうしてその結果オスロフからは軍機の重大祕密を……又、星黑からはその正反對な機密事項と同時に、多額の資金を獲得したものに相違無いのだ。しかも其機密と巨萬の金とが、之を道に利用する時は、同時に二人を別々にノツクアウトするに足る程の恐ろしい性質のものであつた事は云ふ迄もない。

 しかし極度に用心深いと同時に、あく迄も機敏な彼女は、此處でモウ一つ感覺を緊張さした。問題の根本になつてゐる日本軍の進退についてオスロフの豫測と、星黑の口占(くちうら)とのドチラが眞相に觸れてゐるかを、全然違つた方面から當つて見る可く苦心してゐた。それによつてオスロフと星黑の兩人を如何に活殺(かつさつ)したらいゝかを決定すべく、全神經を尖がらしてゐる處であつた。

 ところが、そこへ司令部の内情と、搜索本部の形勢と、哈爾賓市内の實情に通じてゐるらしい僕が、公用でやつて來る事を早くも聞き知つたので彼女は、迅速に準備を整へて待ち構へた。さうして何喰はぬ顏で應接間に引入れて、さり氣ない問答をしながら樣子を探つてゐるうちに、僕が不用意にも洩らした兵營と、飛行場に關する一言(ごん)から、彼女は早くもオスロフが、最早トツクの昔に日本軍から見離されて居るらしい……日本軍が白軍を度外視して、滿州と西比利亞に雄飛しようとして居るらしい事實を推測する事が出來た。

 彼女は大膽にも此推測を確信する事にきめた。さうしてすぐに手を廻してオスロフを排斥にかかつた。しかもその排斥の手段たるや、古來の女流政治家とか毒婦とか云ふ連中が、必ず一度は使つてみる事にきめて居る世にも冷血、邪惡な逆手段であつた。彼女はオスロフから軍機の祕密を聞き出した事實を逆に利用した誣告文(ぶこくぶん)を誰かに打たして(もしくは打たして置いたものを)僕が、銀月の應接間で眠つてゐる間(ま)に、司令部の郵便受箱に投げ込ましたものと考へられる。ところがその誣告文の内容が又、そこに暗示されてゐる通りの軍機漏洩の形跡に惱まされ續けて來た(ニーナのいたずらとは氣づき得なかつた)日本軍最高幹部の注意の焦點を、忽ちピタリと合はせる事に役立つた。「成る程、ほかに疑ふべき人物は居ない」といふ事になつた……ものと見れば、前後の事實が殆んど完全に、一貫した筋道で説明出來るではないか。……タツタ一つニーナの短劍に關する不思議を除いては……すべてが合理的に首肯(うなづ)かれて行(ゆ)くではないか。

 僕はかうして推理とも想像ともつかない……もしくはその兩方をゴツチヤにした怖ろしい結論を、ホコリ臭い毛布の中で長いこと凝視してゐた。さうしてオスロフ一家の運命が、全然オスロフの自業自得であると同時に、全然僕の責任でもあるといふ不思議な結論の交錯を、何度も何度も考へ直してみた。

 それからモウ一歩を進めた萬一の場合に、銀月の女將、富永トミの致命的な祕密を摑んでゐる僕……あの邪惡な露語の誕告文が、僕の想像通りに彼女の手から出たものに相違ない事實が、何等かの理由で彼女の立場を危(あやふ)くしさうになつた場合に、最も重要な生き證據となるかも知れない僕……彼女がオスロフと星黑から軍機の祕密を聞き出してゐる事を知りすぎる位(くらゐ)知つてゐる僕を、彼女がドンナ風に處理するか……といふ問題に考へ及んだ時、僕は思はずドキンとして寢返りを打たせられた。頭を抱へて縮み上らせられた。僕の想像が的中して居るとすれば、彼女がキツトさうするに違ひ無いであらう手段と、それに對抗する手段を、あゝか斯樣(かう)かと取越苦勞(とりこしぐらう)しない譯に行(ゆ)かなかつた。さうして彼方(あつち)へ寢返り、此方(こつち)へ寢返りして居るうちにその取越苦勞が、いつの間にかタツタ一つ、最後に殘る重大な疑問に向つて集中して來たのであつた。……この事件に對する僕の臆測の全體が、確實であるか無いかを決定するものらしく見えるタツタ一つの疑問の鍵……。

 それはニーナの短劍が描きあらはした不可思議現象に對する疑問であつた。

 ニーナの短劍に關する不可思議現象……此の事件の中心の中心とも見るべき時間と、場所を選んで突發した奇怪事(きくわいじ)……事件の根本に觸れてゐるらしいデリケートな怪事件……あの嚴重な警戒の中で、あの戰慄的な場面を眼の前にして、僕の手から、あの短劍を奪ひ取つて行つた不敵な人間は何者か。赤の手か……白の手か……それとも夫れ以外の人間の手か……あんな大膽不敵な行動を敢へてした原因が何處に在るか……さうして、あれだけの冐險を敢へてしながら僕を殺さうとしなかつた理由は如何(いかん)……といふ疑問は、この事件に對する僕の結論では、どうしても説明し切れない疑問であつた。言葉を換えて云ふと、この疑問のタツタ一つが、僕の結論の眞實性の全部を裏切つてしまつて居るとさへ思へるのであつた。此のタツタ一つが説明出來ない以上、僕の結論は一片の空中樓閣になる……。

 ……ニーナの短劍を奪つた者は、僕の味方か……敵か……。

 といふ簡單な疑問が、この事件の全體を解決する最後の鍵としか思へなくなつたのであつた。同時に、その手によつて助けられるか、殺されるかが僕の運命の分れ目だとしか考へられなくなつたのであつた。

 かうした煩悶と迷ひが、要するに、事件全體の恐ろしさに脅(おび)え切つて、疲れ切つてしまつて居た僕の神經細胞から生み出されたところの、一種の笑ふべき幻覺であつた事は改めて説明するまでも無いであらう。…‥とは云へ、かうした思ひもかけない大事件にぶつかつて、徹底的に面喰らはせられた意氣地(いくぢ)の無い人間が、コンナ樣な幻覺的な結論をドンナに一所懸命になつて固執(こしつ)し行くものか……さうして見す見す大事を誤つて、悲慘な運命に陷入つて行(ゆ)くものかといふ事實は實地の體驗を持つた人でなければ首肯(しゆこう)出來ないであらう。

 毛布の中で縮こまつた僕は、此の幻覺的な結論を解決すべく、あらん限りの想像を逞しくしてみた。しかし、これはかりはイクラ考へてもわからなかつた。ドンナ想像を附け加へても説明が出來なくなつて行(ゆ)くうちに、とうとう頭が古い鏡餅みたやうに痺(しび)れ上つて、固結して、ピチピチとヒビが這入りさうな感じがして來た。

 そのうちにニーナの顏や、銀月の女將の笑顏が、オスロフの無表情な瞳や、その母親の白髮頭の横顏などと一緒に、眼の底の灰色の空間をグルリグルリと廻轉し始めた。さうしていつの間にかグツスリと眠つてしまつたものらしい。

[やぶちゃん注:以下、一行空き。]

醉へる時に   村山槐多

  醉へる時に

 

薄紫の酒の色朱の盃に注ぐ時は

猩々の息は情に火を放ち

血の太陽の亂醉は更にその度を

西、天空に極むるかな

 

薄紅の火はつたふわが足もとを

よろめきてふみしめひよろひよろと立ち

泣き泣きてまた笑ひ世の中の

美しき薄明にさぐりあてまたも泣く

 

情の色黄金に紫に暑くうるほひ

わが顏は火のおどり場となりにけり

赤道を行く八月の船の如、

われはゆくひたすらに醉ひの潮を

 

薄紫の酒の桶あぶらに染みし手にふれて

更にまた火を口中にうつすかな

この時あはれ世の中はほのかに笑ふ

いと惡しき獸の如くわれをながめて笑ふかな、

 

   ×

金泥を落したる

美しき空はほのかにほのかに

眞晝に暮れたり

浮びし雲もほのかに

 

わが園の秉燭者(ひともしびと)

燭をもて來

わが胸は暗しこの暮春と

夏との雨の境界(さかひ)に

 

華美なる酒盞は

痛さに泣けり

そこにうつる空はほのかにほのかに

暮れゆけり

 

この酒盞に赤き光を落し

わが胸をなまめかしくせん

秉燭者燭をとぼし

とくわが園にかゝげよ

 

空はほのかにほのかに

靑き色も霞みたり

すべてに執拗なる霞は

せまり來れり

 

わが國のうら若き秉燭者

とく燭をもて來

かくてのちわが心とわが酒盞は

赤と金に輝かん

 

たとへ燭はあまりに明く

空は暗すぎることなきとも

われは耐へがたく

いま燃えたる物を思ふ

 

   ×

廢園に見たる櫻か

幽かなる夕ぐれの忙がしき化粧のひとか

何となくおちぶれし面かげを

連れそへし美しき君

 

吹き荒む西の喇叭は

氣悦どき空の豪奢に

泥醉の赤き都は

今覺めぬ眞晝まん中

 

何となく汗ぐみし君

けふわれの心に君が形は

殺したる蜜蜂の腹の蜂見たるが如く

ただ甘くただあはれなり

 

   ×

とこしなへの薄暮君が御胸に

舞ひあそぶなり

美しき幽明に打しめり

薄靑くその世を飾れり

 

とこしなへに君を愛せん

そは精靈の末路に至るまで

君をわれは愛せん

しめりたるたそがれのうすらあかりに

 

かゝる時をわれは君が御胸に

永劫なる愛の時を

君が御胸に見る

美しく打しめるとこしなへのたそがれを

 

   ×

金ぽうげ金の飾りに

あせにけり五月の晝に

酒染みし指に觸られて

哀れにもあせはてにけり

 

毒もてる薄明の莖

黄のにほひ見すぼらし過ぐ

豐なる五月の光

音曲を奏で耽れば

 

金ぽうげ金の飾りに

指ふれて醉ひにかなしき

放蕩の子の思ひには

たえまなく酒をふらしぬ

 

金ぽうげ一輪ひらく

美しき五月の草生

蒸暑き脊に汗して

目はひとりあせし晝行く。

 

   ×

こは美しき歌壇のあけぼのに

まだ消えやまぬ樂の音よ

男のかれしのどぶへに

顫(ふる)ひてやまぬ深なさけ

 

血染の酒のみほせば去る

疲れのあとに

また來る美しき頽廢の

消ゆる時なき樂の音よ

 

空こそ六月のあけぼのに靑ざめにける

雨滴を滴たらす

美しき靑さよ

すでにここに眞晝の情熱を見る

 

とこしへに避け得ざる

深く美しき樂音よ

輕らかに顫へつつ耐へがたき苦みをさそふ

晝夜なき頽廢の樂音よ

 

 

[やぶちゃん注:●第三連二行目の「おどり場」、第二十四連(最後から二連目)二行目の「滴たらす」、第十二連二行目の「忙がしき」「豐なる」、第二十連四行目の「たへまなく」、第二十二連二行目の「のどぶへ」はママ。「全集」は「をどり場」と訂し、「忙しき」と「が」を除去、「豐かなる」と「な」を送って、「たへまなく」「のどぶへ」は「たえまなく」「のどぶえ」と正常になっている。今まで同様、総てに注記も何もなしにである。

第三連三行目の「赤道を行く八月の船の如、」の読点は視認する限り、汚れではない。「全集」は無視していて、読点はない。そのくせ、今までの各篇と全く同様に、ここでは記号「×」は「全集」では前後を一行空けて「+」であるが底本では一部を除いて前を一行空けるものの、後はすぐ続く詩文行に入っている。以下ではこの注を略すが、これは視認した際に「全集」と最も違った印象を感じさせる大きな違いであるによって分けられた五つのパートの中の総ての最終連(第四・十一・十四・十七二十一・二十五連)の最終行には総て亙って句点が打たれてある。非常に不思議且つ奇異である。

●第十連冒頭の「わが國のうら若き秉燭者」の「國」はママ。「全集」でも「国」である。これは「園」の誤判読或いは誤植である可能性も高いと思われるが、以下の注で述べるように、この「秉燭者(ひともしびと)」の濫觴を考えた時、私には絶対に「園」だと断ずることに、聊か躊躇を感ずるのである。

●「秉燭者(ひともしびと)」のルビは「秉燭者」全体に附されている。「秉燭」は一般には「燭(しょく)を秉(と)る」で、燈火を手に持つが原義であるが、「へいしょく」或いは「ひんそく」と読んで、手に灯火を持つこと以外に、「火の灯し頃」「夕方」の意をも持ち、また「ひょうそく」と読むと、昔の油皿の中央に置いた灯心に火をつける灯火器具を指す。漢字表記・訓読ともに実に美しい詩語で、本長詩を強靭に鮮やかに牽引するが、槐多は恐らく「日本書紀」に出る、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)での宴で日本武尊の歌に美事に唱和を成した老人の秉燭者(ひともしのもの)にルーツを求めているものと思われる。

●「酒盞」「しゆさん(しゅさん)」で、小さな盃、玉杯の意。

●第十三連と第十二連は実は底本では、

   *

吹き荒む西の喇叭は

氣悦どき空の豪奢に

泥醉の赤き都は

今覺めぬ眞晝まん中

何となく汗ぐみし君

けふわれの心に君が形は

殺したる蜜蜂の腹の蜂見たるが如く

ただ甘くただあはれなり

   *

と一続きになってしまっている。詩篇全体の構成から見て、ここが八行連続である必要性や可能性は私には殆んど全くないと考えられ、しかも底本では「今覺めぬ眞晝まん中」の前の部分で改頁になっていることから、単純にこのページ内での版組のミスと思われる。例外的に「全集」に拠って一行空きを施した。

●この第十三連二行目「氣悦どき空の豪奢に」はママ。これには「全集」はママ注記がないが、この「氣悦どき」というのは私には全く意味不明であった。当初は「喜悦」の意かとも思ったが、それでは「どき」と繋がらないし、そもそも前の行とも全く繋がらない。前の行の「喇叭」が「氣」の「悦ど」い「空の豪奢」に「吹き荒む」のだ読むならば、この「悦どき」とは「鋭どき」の誤字ではないかと思われてくるのであるが、さて如何であろう? 大方の御批判を俟つものである。

●第十五連三行目「美しき幽明に打しめり」の「打」は「全集」では「うち」と平仮名書きになっている。

●同じく第十七連四行目「美しく打しめるとこしなへのたそがれを」の「打」も「全集」では「うち」と平仮名書きになっている。

●「草生」「くさふ」と読み、草の生えている所、草原のこと。]

氷の涯 夢野久作 (9)

 ところで其の審問には、武裝した搜索本部の全員のほかに、オスロフも顏を知らないらしい、相當の年輩をした背廣服の二人が立會つてゐたさうである。二人とも額が白くて露語(ろご)が達者だつたと云ふから、多分それは日本軍の參謀か何かであつたらう。實に鋭い突込み方で、流石のオスロフも最初のうちは少々、受太刀(うけだち)であつたといふ。

 しかし其中(そのうち)にだんだんと樣子がわかつて來ると、其處は千軍萬馬(ぐんばんば)の陰謀政治家だけあつて、グングンと二人に逆襲し始めた。

[やぶちゃん注:●「千軍萬馬」原義は無論、非常に大きな軍隊であるがそこから転じて、その勢いが異様に強いことの形容となり、別に、数多くの修羅場を経験していること、さらに転じて、豊富な社会経験があること、多くの苦労を重ねているしたたかな老練の人の形容としても用いる(三省堂「新明解四字熟語辞典」に拠る)。]

 一、劈頭(へきとう)の赤軍スパイの件に關しては、近來市中に噂が高まつてゐる事だし、自分からも度々、日本軍の上官諸君に御注意申上げた事だからここには別に辨解しない。願わくば一日も早く、一擧に殲滅せられん事を希望するに止(とゞ)めて置く。

[やぶちゃん注:●「劈頭」最初。冒頭。オスロフを告発する密告書の最初の項を指すが、そこに書かれている彼自身の裏切りや内通の部分は馬鹿馬鹿しくて話にならないから取り立てて何も言わない、という謂いである。]

 一、自分の家族は御覽の通り、軍事や政治には全然無理解な老人と病人と、女の兒(こ)である。假(たとひ)拷問にかけられても知らない事は知らないと云ふより外は無いばかりでなく、そんな正體の知れない一片の投書によつて、諸君が狼狽して居られると、窮極する處、日本軍の權威に影響して來(き)はしないか。

 一、自分が日本軍と緊密な握手をしてゐる周圍に、どれだけの嫉妬深い、盲目の幽靈が渦卷いてゐるかを諸君は今日まで氣付かずに居られたのか。

 一、如何にも日本軍の機密に關する事項が、赤軍に洩れてゐるのは事實と認むべき理由がある。三週間ばかり前にも畠(はたけ)の向うのホルワツトと病床で面會した時に、同人からコンナ話を聞いた。「オスロフ君、君の手を通じて白軍に渡るべき日本軍の祕密通牒が、どこかで洩れてゐるのぢやないかと疑はれる事がよくあるぞ。ことに後方勤務で、日本軍と協定して糧食買込みの豫定地が、先廻りをした赤軍のスパイに荒されてゐる事がたびたびなので、實は此の間から不思議に思つてゐる次第だ。日本軍でも時々ソンナ眼に遭ふらしいが、一つ氣を付けてみたらどうか」云々と不平を並べてゐた。噓だと思はれるならばホルワツトに問うて御覽なさい。まだ畑(はたけ)の向うの舊(きう)哈爾賓の自宅に寢てゐる筈だ。自動車で行(ゆ)かれても十分とかゝらないであらう。

 一、何を隱さう今度の旅行は、其事實を實地調査に行つたものに外ならない。日軍(にちぐん)と白軍に對する自分の信用を、根底から覆(くつがへ)す大問題と思つたから、此の一週間半に亙つて、眞劍な調査と研究を遂げて歸つて來たものである。論より證據、滿州と西比利亞の地圖を持つて來て御覽なさい。此のノートに控へて來た場所と、時日と、司令部から命令の出た日附とを對照して、赤軍スパイの活動狀況を探り出すと同時に、祕密の漏洩してゐる場所を的確に推理してお眼にかけるから……。

 一、もし御面目(ごめんもく)に關しないならば、モウ一つ別に哈爾濱市街の明細圖を持つて來て頂き度い。私が今日(こんにち)まで眼をつけてゐるスパイの隱れ家らしい建築物の位置を一々指摘して印(しるし)をつけて差上げるから。但し、その中には貴官方(あなたがた)が非常に意外とされる建築物が在るかも知れないから豫(あらかじ)め御立腹の無い樣に、お斷りして置きます。

 一、尚それから序(ついで)に、十五萬圓事件の眞相は、此の密告書の出所(でどころ)と一緒に、凡(おほよそ)の見當が付くやうに思ふ。第一、この文章の語法が、露西亞人らしく無い上に、日本贔屓(びゐき)の白系露人などと、云ふまでもない無用の斷り書がして在る處から察すると、これは一種の敵本主義から出た奸策で、私といふ人間の存在を恐れてゐる、白軍赤軍以外の、或る一個人の所業(しわざ)ではないかと思ふ。甚だ抽象的な議論のやうであるが聲より姿だ(論より證據の意)。お差支へなければ詳細に事情を承つた上で、犯人の行動と、十五萬圓の所在を突き止めて遣り度いと思ふ。つまり犯人の恐れてゐる事態を實現さして、私の無罪を證明さして頂き度いと思ふがどうですか。私の部下は哈爾賓の裏面(りめん)といふ裏面のあらゆる方面に潜り込んでゐるのだから……たゞ日本軍の内部に立入つていないだけだから……。萬一此金が赤軍の手にでも這入つたら由々しい一大事だと思ひますが……ドンナものでせうか……

[やぶちゃん注:●「敵本主義」目的が他にあるように見せかけて、途中から急に本来の目的に向かうやり方。言うまでもなく、明智光秀の名台詞「敵は本能寺にあり」に基づく語。]

 と言つた樣な調子で、スツカリ煙(けむ)に捲いてしまつたものだといふ。

 尤もコンナ風に纏めて説明すると譯はないが、此の間(かん)の押問答がタツプリ三時間ぐらゐかゝつたさうである。それからオスロフは帳面を出して地圖の上に一々印(しるし)を附けながら、赤軍スパイの連絡網と活躍狀態を説明し初めたが、それが又二時間位かゝつたらしく可なり詳細を極めたものであつたといふ。

 ところでその説明を聞いてゐたニーナは、その間ぢう巨大な父親の傍(そば)へヘバリついて、それとなく圖面を覗いてゐた。さうして時々、話の切れ目切れ目に、

「サボテンが枯れる」

 と云つては父親から睨まれたり、鉛筆で頭をタタカレたりしてゐたさうであるが、しまひには泣き面(つら)になつて、

「……ねえ……お父さんてばよう……水をやりに行つていゝでしよ。ぢきに歸つて來ますから……ねえ。いゝでせう……お父さん……」

 と甘たれかゝるので、母親が無理に引取つて自分の膝に腰かけさした。ニーナは前にも云つた通り子供らしいお化粧をしてゐたばかりでなく、その態度が如何にもネンネエらしかつたので、ホントの年を知らない憲兵連中の眼には十四、五位(くらゐ)にしか見えなかつたであらう。

 その中にオスロフの説明がだんだん細かになつて來て、赤軍のスパイの活躍の中心は、どうしても此の哈爾賓市中の、しかも司令部の中か、もしくは其の付近になくてはならぬ。十五萬圓事件といふのも、其奴等(そいつら)の手で巧(たく)まれたものでは無いかと疑われる節(ふし)がある。これは自分が、奉天に滯在してゐる留守中に發せられた司令部の命令が洩れてゐる事實や、今度の不在中に、十五萬圓事件が起つた事によつても、朧氣ながら立證され得ると思ふ……云々と云ふ處まで來ると、モウ堪(たま)らなくなつたニーナがイキナリ母親の膝に突伏(つゝぷ)してワツとばかり泣き出してしまつた。

「……サボテンが枯れるよう。水を遣りたいよう……」

 とオイオイ大聲をあげ始めたのであつた。

 さすがの參謀や憲兵たちも、これには見事に引つかかつたらしい。生憎と仙人掌(サボテン)の栽培法に通じた者が一人も居なかつたばかりでなく、最早(もう)、外が眞暗になりかけて居るのだから、ドンナに聞き分けのいゝ子供でもお腹が空いてゐるに違ひない。それだのに自分の事は忘れて仙人掌の事ばかり云つて居るのだから、可なりのイヂラシイ要求と考へられたであらう。睨み付けてゐたのは話の邪魔をされた父親だけで、お祖母さんも母親も、ハンカチを顏に當てたまゝギクギクとシヤクリ上げ始めたので、とうとう審問が中絶してしまつた。

 參謀らしい背廣服の二人はそこで、何かしらヒソヒソと打合せをしてゐたが、やがて若い方の一人が舞踏室の扉(ドア)をあけて、下へ降りて行つた。それは多分、上官と電話で打合せに行つたものと思はれたが、間もなく歸つて來ると、

「今夜の十時に○○少將閣下が此處へ來られて再審問をされるから、それまでに皆、食事を濟ましておく樣に……それから其子供の事は別に許可を得なかつたが、直に歸つて來るなら出してもよからう。そんなに泣かれちや第一審問が出來ない。いゝかね。ニーナさん。直ぐに歸つて來るんだよ。御飯が來るんだから……」

 と云つた樣な事で、ニーナが外へ飛出したのが八時半頃であつたといふ。そこでニーナは水を遣るふりをしいしい、此の大事件を赤軍に報道すべく、大急ぎで仙人掌を並べ換えてゐると、突然に裏梯子(うらばしご)から僕が上つて來る足音がしたので、素早く煙突の陰に身を潜めて樣子を覗つた。すると又、意外千萬にも、平凡な當番卒とばかり思つていた僕が、仙人掌の祕密を知つてゐるらしく、熱心な態度で鉢の數を勘定したり、向家(むかひ)の時計臺を凝視したりし始めたので、彼女は思はずカーツと逆上してしまつた。

 仙人掌(サボテン)通信はオスロフ一家の知つた事ではなかつた。彼女一人が、極(ごく)祕密の中(うち)に受持(うけも)つてゐた仕事だつたのだから堪(たま)らない。同時にオスロフを密告したのも此の當番卒に違ひない。ことによるとこの當番卒は、この司令部の中でも一番恐ろしい任務を帶びてゐる密偵かも知れないとまで思ひ込んだ彼女は、僕に氣づかれない樣に煙突の蔭を出て、張番(はりばん)の憲兵の眼を忍びながら四階の物置に潛り込んだ。その奧の古新聞の堆積の間(あひだ)に隱して置いた短劍と、ピストルと、お金と、寶石を取出してシツカリと身に着けたが、出がけに物置の扉(ドア)に取付けた星形の硝子窓から覗いてみると、今まで舞踏室の廊下に張番をしていた憲兵が、廊下の角を大急ぎで曲つて來る樣子だ。しかもそのキヨロキヨロしてゐる態度が、どうやら自分を探しに來てゐるらしい樣子である。

[やぶちゃん注:●「彼女一人が、極祕密の中に受持つてゐた仕事だつたのだから堪らない」は「全集」では(正仮名正字化した)『彼女一人が、赤軍に賴まれて極祕密の中に受け持つてゐた仕事だつたのだから堪らない』と加筆されている。]

 彼女は、そこで息を殺して樣子を窺つた。そのうちに同じ憲兵が、今度は階下の方を探す可く駈降りて行つたらしいので、遣り過して置いて階段に飛出して、前後に氣を配りながら僕を狙ひ始めた。さうしてイヨイヨ暗くなつたのを見濟まして、飛びかゝつて來るまでの間が前後を合わせて約一時間……それを失敗して、裏階段から行方を晦ましたのが向家(むかひ)の大時計によると九時半前後であつた。

 ところが其のチヨツト前の九時前後と思はれる時分に、モウ一つニーナに取つて致命的な事件が發覺してゐた。それは向側(むかひがは)のカボトキン百貨店を閉鎖さして、變裝の輕機關銃隊を詰め込んで、萬一を警戒させてゐるうちに、展望哨(てんぼうせう)に立ちに行つた二人の歩哨が、時計臺の下の鐵梯子(てつばしご)の蔭に頭を突込んだまゝガタガタ震へてゐる、若い露西亞人を發見した事件であつた。

[やぶちゃん注:●以下、一行空き。]

氷の涯 夢野久作 (8)

 僕が銀月から歸つて來た時に、搜索本部がガラ空きになつてゐたのは當前(あたりまへ)であつた。

 けふの午後一時半頃(僕が出て行つてから約一時間後)に、先刻の歩哨が話してゐた赤いタイプライターの露西亞文字で表書した差出人不明の手紙が一通、司令部に屆くと間もなく、司令部と搜索本部の連中が妙にソハソハと動き出して、○團の幹部や、特務機關の首腦部宛に+++(シキフ)符號の自轉車傳令を飛ばし初めた。そのうちに司令部の連中(れんぢう)が、何事もなささうに三人四人と談笑しながら、一人殘らず出て行つたと思ふと、最後に殘つてゐた古參中尉が、當番係(たうばんがかり)の上等兵を本部の事務室に呼び付けて次のやうな嚴重な注意を與へた。

[やぶちゃん注:●「○團」「全集」では『旅團』(正字化した)。 ●「+++(シキフ)符號」不詳。「式符」か? 陰陽道や神道の呪符に描く記号をこうも言うようである。単に数「式」のような暗号「符」のことかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

一、明朝までオスロフの雇人を一歩も外へ出ない樣に命じて監視せよ。萬一彼等の態度に些(すこ)しでも怪しい處があつたら直ちに、歩哨と協力して引つ捕へて、四階の廊下に立つてゐる憲兵上等兵に引渡せ。

一、萬一危急と思はれる事燈を發見する樣な事があつても絶對に、銃劍を使用したり大聲(たいせい)を發したりしてはいけない。沈着した態度で歩哨の前の街路に出て、帽子を脱いで上下に二三度動かせ。

一、御用商人、オスロフの知人、その他セントラン宛(あて)の訪問客があつた場合、及(および)、電話がかゝつて來た場合には、此の部屋の扉をノツクして自分の指揮を仰げ。歩哨と協力して何者も司令部内に立入らせない樣にせよ。

[やぶちゃん注:●「自分」「全集では『自分(古參中尉)』(正字化した)と加筆。]

一、其他、司令部内の状況に關しては、一切の祕密を嚴守して、出來る限り注意を拂ひつゝ、且(かつ)、出來る限り平常通りの勤務狀態を裝ひつゝ明朝まで徹夜せよ。

 と言つた樣な奇妙な命令を下すと、自身に窓の鎧戸(ブラインド)を卸(おろ)ろして部屋の中を眞暗にしてしまつた。それから上等兵を廊下に閉め出して、内側から鍵をかけてしまつたので、上等兵は面喰(めんくら)つたまま暫くの間、廊下に突立つて、命令の意味を考へてゐたといふ。

[やぶちゃん注:●「自身に」「全集」は『自身で』とある。]

 その上等兵が翌る朝、僕に話した處によると、この日、哈爾賓駐劄(ちうさつ)の日本軍が非常警戒を始めたのが、急傳令の復命によつて司令部が引上げたのと同時刻の、二時チヨツト前ぐらゐであつたらしい。上等兵が司令部附(づき)の少尉から注意命令を受けたのが矢張り同時刻で、地階の張出窓(はりだしまど)から見える辻々に警戒兵らしい姿が見え始めたのが三時前後で、それから十分と經たないうちに向家(むかひ)のカボトキン百貨店の大扉(おほど)が閉鎖されて店の中がシンカンとなつてしまつた。それに連れて、さしもに賑やかであつた表の人通りが、次第々々に疎らになり始めた……と云ふのだから、殆んどアツと云ふ間もないうちに哈爾賓全市を押へ付ける準備が整つたものらしい。白軍と赤軍が束(たば)になつて騷ぎ出してもビクともしないと同時に、オスロフの審問を極力祕密にしてミヂンも外部へ洩らさない手配りが、それこそ疾風迅雷式(しき)に遂行されたものらしい。……しかも斯樣(かう)した物凄い事實の全部が、先刻(さつき)の奇怪な手紙の内容を如何に雄辨に裏書きしてゐたか。その文面の事項が、吾軍の首腦部を首肯させ、且、驚かすべく、どの程度までの眞實性を帶びて居(を)つたかといふ事實を、如何に有力に實證してゐたかは説明する迄もないであらう。

 オスロフは、そんな事とは夢にも知らないまゝ、二週間ばかり滯在してゐた霞支國境のポクラニーチナヤから汽車に乘つて歸つて來た。程近い停車場(ていしやぢやう)から自動車に乘つて新聞を讀み讀みヤムスカヤの近くまで來ると、偶然に故障を起したので、氣輕に車から降りてセントランまで歩いて來た。妻子の出迎へを受けて三階(がい)に上つたのが三時ちよつと前であつたと云ふが、其の時既に、極度の緊張裡(り)に手筈をきめて待ち構へてゐた搜索本部の一團は、否應なしに其の足を押へてしまつた。同人の全家族……と言つても白髮頭の母親と、オスロフ夫妻とニーナを入れた四人切(き)りであつたが……を舞踏室に連れ込んだ。さうして廊下と裏口の見張りの爲に一人の憲兵上等兵を扉(ドア)の外の窓際に立たせたまゝ、例の手紙を突き付けて、嚴重な審問を開始したのであつた。

 その手紙の内容は大略次の通りであつたといふ。(細かい點はニーナも記憶してゐなかつたが……)

 一、オスロフは歐露(おうろ)における過激派軍の優勢に鑑み、今年の春以來、白軍を裏切つて赤軍に内通し、哈爾賓奪取の計畫を立てて居たところ、既にその氣勢が充分に熟し、優秀なる赤軍スパイを全市に配備して日本軍の動向と配備を詳細に亙つて探らせてゐる形跡がある。キタイスカヤに在る日本軍司令部の祕密命令が、時々赤軍に洩れるのは此の爲である。

 一、オスロフは日本軍が、亞米利加(アメリカ)上院の壓迫外交に押されて、遠からず西比利亞を引上げるに違ひ無いと云ひ觸(ふ)らしてゐる。日本軍が哈爾賓に永久的な軍事施設を施すべく準備して居るといふのほ、不意打ちに撤兵を斷行する爲の逆宣傳に過ぎないとも強辨して居る事實がある。これは日本軍の權威を無視して自分の勢力を張る一方に、人心を動搖させて一仕事しようと試みてゐる一種の策動と認め得べき理由がある。

 一、今度の十五萬圓事件も實にオスロフが黑幕となつて決行したものである。彼は此の十五萬圓を以て家族をどこかに避難させると同時に、一擧に日本軍の司令部を殲滅し、北平(ペーピン)と上海(シヤンハイ)に根據を置く共産軍の首腦部と呼應して事を擧げようと企んで居る者である。

 右御參考までに密告する。

日本贔屓(びゐき)の一白系露人より――  

[やぶちゃん注:●「北平(ペーピン)」北京(Bĕijīng:カタカナ音写では「ベイジン」「ベイチン」に近い)の旧称。ウィキの「北京」によれば(下線やぶちゃん)、現在の北京は『春秋戦国時代には燕の首都で薊(けい)と称された。周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。秦漢代には北平(ほくへい)と称されるが、満州開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった』。『唐末五代の騒乱期、内モンゴルから南下してきた遼朝は、後晋に対し軍事支援を行った代償として北京地方を含む燕雲十六州を割譲された。遼はこの都市を副都の一つ南京と定めた。その後金朝が遼を滅ぼし支配権を獲得すると、金は北京に都城を定め中都とした。更にモンゴル帝国(元朝)が金を滅ぼすと大都として元朝の都城とされた』。『朱元璋が元を北方に駆逐し明朝が成立すると、名称は北平に戻され、都城は南京に定められた。しかし、燕王に封じられ北京を拠点とした朱棣(後の永楽帝)は』、一四〇二年、『建文帝に対し軍事攻撃を行い政権を奪取。皇帝に即位した後北京遷都を実行し地名を北京に改めた。辛亥革命後も中華民国は北京を首都と定めたが、南京を首都と定めた蒋介石を中心とする国民政府は、「政府直轄地域」を意味する直隷省を』一九二八年六月に『河北省へ、北の首都を意味する北京を北平(ほくへい、ベイピンBěipíng)へと、それぞれ改称した』。一九三七年から一九四五年まで続いた『日本軍占領期は北京の名称が用いられ』(公式には一九四〇年に改名とする)、『日本の敗戦によって再び北平に改称された』。一九四九年十月一日の『の中華人民共和国成立により新中国の首都とされた北京(北平)は再び北京と改称され現在に至っている。しかし、中華人民共和国の存在を承認せず、南京を公式な首都として大陸地区への統治権を主張する中華民国(台湾)では、現在でも公式名称として「北平」の名称』を用いているとある。]

氷の涯 夢野久作 (7)

  ……開いた口が塞がらないと云ふのは此時の僕の恰好であつたらう。ちよつとの間に讐敵(かたき)同志と思へる日本の憲兵と露西亞娘が、互ひ違ひに飛び出して來た……と思ふうちに、その二人を又も鮮やかに吸ひ込んでしまつた階段の口を、手品に引つかゝつた阿呆(あほう)みたやうに見下ろしながら、長いこと突立つてゐた樣に思ふ……が、そのうちにフト氣が付いてみると、僕は右の手にニーナが落して行つた短劍をシツカリと握つて居るのであつた。

 ……僕はハツとした。トタンに氣持がシヤンとなつた樣に思ふ。

 向家(むかひ)の時計臺から、霧に沁み込んで來る光線に透かしてみると、血はついていないようである。身體をゆすぶつて見ても別に怪我はしてゐない樣であるが、其代りにゾクゾクと寒氣がして來た。日が暮れると同時に急速度で寒くなるのが此邊(こゝいら)の大陸氣候だ。北の方から霧が來ると、尚更さうだ。

 その肌寒い暗黑の中に突立つてニーナの短劍をヒイヤリと凝視して居るうちに僕は、色んな事が次第次第にわかつて來る樣に思つた。今の今まで逃げ出さうと思つてゐた恐ろしい問題の渦の中へ、正反對にグングン吸ひ込まれかけてゐる僕自身を發見したやうに思つた。さうして思はずブルブルと身ぶるひをしたのであつた。

 ……ニーナは僕が、此の仙人掌(サボテン)の祕密を看破(みやぶ)つた……もしくほ看破りかけて居るものと思ひ込んで襲撃したものに違ひ無い。此の仙人掌の中に、或る恐ろしい祕密が匿されて居ることは最早(もはや)、疑ふ餘地が無いのだから……。

 ……しかも……もし左樣とすればニーナの家族は、此の司令部の上の四階に陣取つて日本軍最高幹部の嚴重な監視を受けながら、何處かと内通してゐるに違ひない事が考へられる。さうして其の内通の相手と云へば、目下の處、赤軍以外に在り得ない事が、あらゆる方面から推測されるではないか。

 ……さうして又、さうとすれば、星黑、十梨の兩人の非國民、非軍人的行爲と、オスロフの陰謀的性格と、その双方から色々な祕密を聞いてゐるらしい銀月の女將(おかみ)との間に、何らかの三角關係式の絲(いと)の引つぱり合ひが存在して居ないとはドウして云へよう……此三人の間を疑問の線で結び付けて見るのは此場合たしかに自然である。僕の知つてゐる限り此三人の間(あひだ)以外に疑問符(クエスチヨンマーク)を置く處は、哈爾賓市中に無いのだから……。

[やぶちゃん注:「此三人の間を疑問の線で結び付けて見るのは」底本は「此三人の間を疑問の線を結び付けて見るのは」。「全集」で訂した。]

 ……搜索本部はむろん、夢にもソンナ方向へ視線を向け得ないで居るのだ。世界中にタツタ一人俺だけが氣づいて居る事を彼等は……と言つてもまだ正體がハツキリしてゐないのだが……少なくともニーナだけはチヤンと看破して居るのだ。だから俺をタツタ一突(ひとつき)で沈默させようとしたのだ。

 ……俺は自分でも氣付かないうちに、今までの興味本位とは全然正反對の意味で、是非とも此事件を解決しなければならない立場に追ひ詰められてしまつて居る事がタツタ今判つたのだ……。

 ……ニーナの一擊によつて……。

 僕は斯うした事實に氣がついて來るに連れて全身を縮み上らせた。短劍を握つたまゝ其所(そこ)いらの暗黑(やみ)を見廻した。今にも何處からかピシリピシリとニツケル彈丸(だま)が飛んで來さうな氣がした。諸に聞いた名探偵の勇氣なぞは思ひも寄らない。ただゾクゾクと襲ひかゝつて來る強迫觀念を一生懸命に我慢しながら、出來る限り神經を押しつけ押しつけ本階段を降りて行つたが、その途中から又氣が付いたので、スリツパの足音を忍ばせて、用心しいしいソロソロと四階の廊下へ降りた。なほも息を殺しながら、ニーナの家族の部屋の前に來て見ると、鍵の掛つた扉(ドア)の中は眞暗で、話聲一つ聞えない。ニーナが逃込んだものかドウかすら判然としないのだ。

 ……をかしいな。こんなに早く寢る筈は無いが。それとも居ないのかな……。

 と氣が付くと、僕は又も一つの不思議に行當(ゆきあた)つた氣持になつてドキンとした。刹那的に……今まで考へてゐた推理や想像は、みんな間違つて居たのぢや無いか知らん……とも考へて少しばかり氣を弛めかけて居た樣にも思ふ……が、さう思ひ思ひフト向うを見ると、はるか向うの廊下の外れに在る大舞踏室に、カンカンと燈火(あかり)が付いてゐる樣子である。ピツタリと閉された緋色(ひいろ)のカーテンの隙間から、血のような光の曲線が一筋、微かに流れ出して居るのが見える。

[やぶちゃん注:「曲線」「全集」は『直線』。]

 ……僕は其時に驚いたか、怪しんだか記憶しない。その神祕めかしい赤い、微かな光線をドンナ性質の光線と判斷したかすら思ひ出せない。氣が付いた時には、其の光線の洩れてゐる緋色の窓掛の隙間にピツタリと眼を當てゝ、二重に卸(おろ)された分厚い硝子(ガラス)越しに見える室内の光景を一心に見守つて居た。

 窓掛(まどかけ)の隙間から辛うじて横筋違(よこすぢか)ひに見える、右手の壁のズツト上の方に、巨大な風車の在る風景畫がかかつて居る。筆者は誰(たれ)だかわからないが、多分、和蘭(オランダ)あたりの古典派であらう。その下の赤と、黄金色(わうごんいろ)の更紗(さらさ)模樣の壁に向つて三個の廻轉椅子が並んで居て、その上に白い布で眼隱しをされた人間が一人宛(づつ)、やはり壁に向つて腰をかけて居る。その人間の風采をよく見ると中央が茶革製(ちやがはせい)の狩獵服を着た鬚武者(ひげむしや)の巨男(おほをとこ)で、その右手が白髮頭のお婆さん。それから巨男の左手が瘠せこけた鷲鼻(わしばな)の貴婦人……オスロフ夫婦とその母親に間違ひないのだ。

 その中で毅然として居るのはオスロフだけであつた。あとは射たれたのか氣絶したのかわからないが、死んだやうにグツタリとなつたまゝ椅子に縛り付けられてゐた。露西亞では死刑になる事を壁に向つて立たせると云ふさうであるが、これは壁に向つて腰かけさせられて居るのであつた。相手は窓掛の蔭になつて居るから見えないが、見えなくとも解つてゐる。搜索本部の連中に相違ないのだ。

 僕は何もかもない、釘付けにされてしまつた。夢の樣だとよく云ふが、この時の氣持ばかりは、たしかに夢以上であつた。ツイ今しがたまで西比利亞(シベリア)政局の大立物だつた巨人が、その妻子と共に銃口を向けられてゐる。白い眼隱しをされたまま、石の樣に固くなつて居る。宮殿のやうな大舞踏室の中で……二重硝子(ガラス)の遮音裝置の中で……惡夢だ……惡夢以上の現實だ……。

 僕の頭の中から判斷力がケシ飛んでしまつた。夢にも想像し得なかつた事實が、あまりに突然に眼の前に實現されたので……。

 むろん僕は、さうした頭の片隅でニーナの事を考へないではなかつた。搜索本部の連中が、これだけの斷乎(だんこ)たる行動を執りながらニーナだけを見逃して居る。自由行動を執らしてゐる……といふ不可解な事實に氣付いて居るには居た。しかし、そんな事を突詰めて考へてみる餘裕がその時の僕の頭にどうして在り得よう。……ダラララツ……といふ拳銃の一齊射撃の音が、今にも二重硝子を震撼する……とばかり思つて息を殺して居たのだから……。

 ところが僕の豫期に反して、そんな物音はなかなか聞えて來なかつた。たゞ左側の窓掛の蔭から、微かな蟲の啼くやうな日本人の聲が、時々斷續して聞えて來る。それに對して背中を向けてゐるオスロフが蓬々(ぼうぼう)となつた頭をゆすぶりながらバタバタと顎鬚を上下するのが見える。……と思ふとその胴間聲(どうまごゑ)の反響が遠い風の音のやうに、あるか無いかに仄(ほの)めいて來るばかりであつたが、それは此晩に限つて近所界隈が妙にヒツソリとしてゐたお蔭で辛うじて聞き取れたものであつたらう。意味なんかはむろん判明(わか)りやうが無かつたが、それだけに室の中の形容に絶した物凄さが、惡夢以上の切實さでヒシヒシと總身(そうみ)に感じられた。さうしてその中のタツタ一言(ひとこと)でもいゝから聞き分けて遣らう……それによつてオスロフが赤軍のスパイだつた事實がどこから發覺したかを判斷して遣らう……自分の推理が如何に正しいかを證明して遣らうと焦躁(あせ)りに焦躁つてゐる僕の顏を、一層強く硝子板(ガラスいた)に引き付けたのであつた。

 ……ところが此時のかうした僕の推理や想像の殆んど全部が間違つてゐた。……同時に日本の官憲がこの時にオスロフに對して執つてゐた、かうした態度が甚しい見當違ひであつた……僕とおんなじやうな推理の間違ひから、オスロフが赤軍に通じてゐるものとばかり結論し切つてゐた官憲は、此の時に西比利亞中(ぢう)で行はれた過失の中(うち)でも最も大きな一つを演じかけてゐた事實が、ズツト後(あと)になつてニーナの實話を聞いた時に身ぶるひするほど首肯(うなづ)かれた……と云つたらこの事件の關係者は皆ビツクリするであらう。恐らく僕の虛構だと云つて、極力打ち消さうとするであらう。

 しかし僕は構はない。虛構でも何でもいゝ。話の筋を混亂させない爲に、僕が後から聞き出した事實の眞相なるものを此處にサラケ出して置く。

 僕が後で當番係(たうばんがかり)の上等兵や、ニーナから聞き集めた話の要點を綜合すると、二重硝子の中の事件の正體は、あらかた次のやうなものであつた。

[やぶちゃん注:「僕が後で當番係の上等兵や官憲の取り調べを直接に見聞したニーナから聞き集めた話の要點を綜合すると」「全集」では「僕が後で當番係の上等兵や、官憲の取り調べを直接に見聞したニーナから聞き集めた話の要點を綜合すると」と加筆されてある。

以下、一行空き。]

氷の涯 夢野久作 (6)

 僕は何が何やら譯がわからなくなつた。

 居ないとばかり思ひ込んでゐた憲兵が、突然に何處からか湧き出して來て、さうして又何處へ消えて行つたのか……何の爲にニーナを探してゐるのか……第一彼らが用事のあり相(さう)にもない、閉め切つたままの舞踏室の前で、今まで何をしてゐたのか……といふことすらサツパリ見當が付かなかつた。……否。見當が付かなかつたと云ふよりも氣が付かなかつたと説明した方がホンタウであつたらう……。

 それは無論、僕の頭が「暗號問題」の一方にばかり集中し過ぎてゐたせいに違ひ無いと思ふ。さもなければ眼の前の仙人掌(サボテン)の不思議と、眼の色を變へてニーナを探してゐる憲兵を結び付けて考へる位(くらゐ)の頭の働きは誰でも持つてゐる筈だつたから。さうして同時に、さうした二つの事實の交錯が生み出す簡單明瞭なクロスワードに氣付いて、肝を潰すか、飛び上るかする位(くらゐ)の藝當は、誰(たれ)でも出來る筈だつたのだから……。

[やぶちゃん注:●「誰(たれ)でも」特異点今まではルビは一貫して「だれ」。]

 ところが此時に限つて僕の頭はそんな方向にチツトも轉換しなかつた。ちやうど下へ降りようとする出鼻を挫かれた形で、呆然(ばうぜん)と突立つたまま憲兵の背面姿(うしろすがた)を呑み込んだ暗い、四角い階段の口を凝視して居るばかりであつたが、やがて又、吾に歸ると、急に氣拔けした樣な深いタメ息を一つした。柄(がら)にもない大きな難問題に、夢中になりかけてゐた僕自身をヤツト發見したやうな氣がしたので……。

 ……馬鹿々々……俺は何と云ふ馬鹿だつたらう。俺はタカの知れた當番の一等卒ぢやないか。特務機關の參謀連中(れんぢう)が考へるやうな仕事を、手ブラの俺が思ひ付いたつて、誰(だれ)も相手にして呉れない事は解り切つて居るぢやないか。俺はコンナ仕事に頭を突込みに出て來たのぢや無かつたではないか……。

[やぶちゃん注:●「俺はコンナ仕事に頭を突込みに出て來たのぢやなかつたではないか」「全集」では(恣意的正字正仮名で示した)『俺はコンナ仕事に頭を突込みにこの展望臺へ出て來たのぢや無かつたではないか』と加筆している。]

 ……第一いくら俺が暗號を研究しようと思つたつて、萬一それが露西亞文字で出來てゐたらドウするんだ。英語しか讀めない俺には到底、解讀出來ないにきまつてゐるぢやないか。……さうかと云つて出鱈目同樣な數字の排列を、これが暗號で御座いと云つて搜索本部に擔(かつ)ぎ込んでも果して感心して貰へるかどうか。……タカの知れた二等卒の俺が、屋上の仙人掌(サボテン)と、十五萬圓事件との間に重大な關係が在るなぞと主張しようものなら物笑ひの種になる位(くらゐ)が落ちだらう。……又、果してソンナ重大な暗示が、この仙人掌の排列に含まれてゐるか居ないかも、よく考へてみると大きな疑問と云つていゝのだ……。

 ……あぶないあぶない。今日はよつぽどドウカしてゐるらしいぞ、先刻(さつき)から飛んでもない大それた事ばかり考へてゐるやうだ。コンナ時に屋上から飛び降りてみたくなるのぢやないか……ケンノンケンノン……ソロソロ下へ降りて行くかな……。

 氣の弱い僕はソンナ風に考へ直しながら、モウ一度ホーツと深呼吸をした。タツタ今憲兵が降りて行つた本階段の前に立止つて、中央の煙突の附根に、こればかりは動かされた事のない等身大の仙人掌の藥の間に暮れ殘る、黄色い花をジイツと凝視してゐるうちにトウトウ眞暗になつてしまつた……と思ふうちに向家(むかひや)のカボトキンの時計臺の中へポツカリと燈が入つた。それがいつもよりも三時間以上遲れた九時半前後であつたと記憶してゐる。

 その時であつた。

 不意に僕の背後で、又もや何かしら人の來る氣はいがした……と思ふ間もなく、僕は夢中になつて右手を振りまはした。

 僕は喧嘩なぞした事は一度も無い。銃劍術でも駈足(かけあし)でも、中隊一番の弱蟲であつたが、この時は殆んど反射的な動作であつたらう。手應へのあつた黑い影を引つ摑んで、思ひ切り甃(タイル)の上にタヽキつけて捻ぢ伏せると、間もなくモジヤモジヤした髮の毛が左右の指に搦み付いて居るのに氣が付いた。

 相手が女だとわかると、弱蟲の僕は急に氣が強くなつた。卑怯な性格だが事實だから仕方が無い。何だか劍劇の親玉みたやうな氣持になつて、肉付きのいゝ女の右手をグイグイと背後に捻ぢまはしながら、指の間にシツカリと握つてゐる露西亞式の短劍を無理矢理に捥(も)ぎ取つてしまつた。そいつを口に啣(くは)へて片膝で背中をグイグイと押へながら、左手でモジヤモジヤした髮毛を摑んで、首から上を仰向(あふむ)かせてみると眞白にお化粧をした顏だ。眉毛の長い……眼と鼻の間の狹い……オスロフの令孃ニーナに相違ないのだ。

 僕は仰天した。實際面喰(めんくら)つた。

 早くも二人を包みかゝつた霧の影をキヨロキヨロと見まはした……「一體、何だつてコンナ事を」……と云はうとしたが、生憎、一夜漬の軍用露西亞語がなかなか急に思ひ出せない。確かに冷靜を失つて居たらしい。仕方がないからニーナにも多少わかる筈の日本語で、

「……靜かになさい……」

 と云ふと、組敷(くみし)かれたまゝのニーナが案外にハツキリとうなづいた。そこで僕は少しばかり手を緩めて、霧の中に立たせて遣らうとした……が、その僅かな隙(すき)を狙つたニーナは突然にビツクリする程の力を出して跳ね起きた。兩手を顏に當てたまゝ、濃い霧の中に身を飜して消え込んだ。階段を飛降りて行く跣足(はだし)の足音だけが耳に殘つた。

[やぶちゃん注:以下、一行空き。ここに底本の挿絵を配す(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)

 
Koorinohate1  

赤きじゆばん   村山槐多

  赤きじゆばん

 

血の如く赤きじゆばんは

美しき人の家の樓上にさらされ

おそろしき黄金の光に

かつと照りわたれり

 

淫情はわが眼に汗をぬぐひ

雨の如き樂音はわが眼にそゝぐ

血の如く赤きじゆばんは

太陽に強く思はれたり

 

點々と赤き血はじゆばんより

紫に打曇る天にしたゝり

また深き井戸の如くに沈思せる

わが靈にしたゝれり

 

ああわれはまたん

その主を美しきじゆばんの主を

あへかなる若き女を

この家の樓上に見出さんまで、

 

 

[やぶちゃん注:「あへかなる」はママ(「全集」は「あえかなる」)。第三連二行目の「紫に打曇る天にしたゝり」は、「全集」では「紫にうち曇る天にしたゝり」と「打」を平仮名とする。最終行末尾は「全集」では句点。]

六月の遊歩   村山槐多

  六月の遊歩

 

千花は銀のきらきらともつれたる

草生はにほひ大空は薄靑く

濁りし雲の影もなく晴れわたりたる

靜かなる日をそゞろ歩く

 

そは眞晝なりき

群靑の河上は未だ夜ならず

すべては明確なりき

螢は未だとばず

 

わが心のすきまよりもれ出でたる

朱紫のなげきはけむと消ゆ

わかき野の荊蕀のふせりたる

豪奢なる姿はそのけむに見ゆ

 

そは眞晝なりき

そゞろ歩は末路に近づきたりき

すべては明確なりき

都に燈は未だとぼらざりき。

 

 

[やぶちゃん注:「荊蕀」底本では「荊」の(くさかんむり)は(へん)の上にのみかかる。「荊棘」に同じい。「けいきよく(けいきょく)」で、薔薇や枳殻(からたち)などの棘(とげ)のある低木の総称。茨(いばら)、うばらの類。ここはこの「いばら」或いは「うばら」と私は訓じたい。最終連二行目の「そゞろ歩」は「全集」では「そゞろ歩き」と「き」を送る。]

君に   村山槐多

  君に

 

げに君は夜とならざるたそがれの

美しきとどこほり

げに君は酒とならざる麥の穗の

靑き豪奢

 

すべて末路をもたぬ

また全盛に會はぬ

凉しき微笑の時に君はあり

とこしなへに君はあり

 

されば美しき少年に永くとどまり

その品よきぱつちりとせし

眼を薄く寶玉にうつし給へり

いと永き薄ら明りにとどまる

 

われは君を離れてゆく

いかにこの別れの切なきものなるよ

されど我ははるかにのぞまん

あな薄明に微笑し給へる君よ

君に   村山槐多 (附注 「全集」版表記への大いなる疑問)

  君に

 

美しき君

實(げ)にたそがれに打沈み

伽羅國の亡國びとの

ひとり子はなげきに沈む

 

綠靑のしみ出でし

銅瓶に口つけて水呑む君

美しき頽廢に

影薄き哀歌に思沈むる君

 

げに春は消へんとし

度を過ごしたる美しき放埓(はうらつ)も

すでに君がわざをぎめきし

靑白き面を破らんとせり

 

綠靑の空に立つ

伽羅國の亡國びとの

ひとりなるなげきの歌も

すべてたそがる

 

 

[やぶちゃん注:底本と「全集」本文には看過出来ない有意な異同が複数見出される。以下、その本文全体を底本に準じて正字化して以下に示す。

 

  君に

 

美しき君

實(げ)にたそがれに打沈み

伽羅國の亡國びとの

ひとり子はなげきに沈む

 

綠靑のしみ出でし

銅瓶に口つけて水呑む君

美しき頽廢に

影薄き哀歌に思沈むる君

 

げに春は消へんとし

度を過ごしたる美しき放埓(はうらつ)も

すでに君がわざをぎめきし

靑白き面を破らんとせり

 

綠靑の空に立つ

伽羅國の亡國びとの

ひとりなるなげきの歌も

すべてたそがる

 

次に、異同箇所を併置して箇条する(【初】が「槐多の歌へる」、【全】が彌生書房「増補版 村山槐多全集」)。

①第一連第二行

【初】實(げ)にたそがれに打沈み

【全】實(げ)にたそがれにうち沈み

②第三連第一行

【初】げに春は消えんとし

【全】げに春は消へんとし

③第四連第一行

【初】綠靑の空に立つ

【全】綠靑き空に立つ

④第四連第四行

【初】すべてたそがる

【全】すべてたそがる。

 私は、現在、どれほどの村山槐多の原詩稿が残っているか知らない。

 また、槐多の詩稿についてその異同を詳述した論文を不学にして知らない。あるのであればしかし、「全集」にそれが参考文献として掲げられていなくてはならないが、それらしいものはない。「槐多の歌へる」の続編とも言うべき翌年に出たアルスの「槐多の歌へる其後」には詩篇の異同は管見する限り、載らない。或いは「参考文献」に載る草野心平・山本太郎・岩瀬敏彦氏らの論の中にあるのかも知れないが、にしてもそれらの孰れかによって校閲された旨の記載自体が全集のどこにもない。

 彌生書房版の初版(昭和三八(一九六三)年)の編者山本太郎氏の編集後記には、『全集を編むにあたり、槐多の遺稿を八方手をつくしてもとめたがついに発見する事ができなかった』とあり、槐多の「槐多の歌へる」の詩中に見られる『伏字の部分は、当時の出版コードによるものと思われるが、原典散逸していまは埋める術もない。槐多の多く好んで用いた語句とともに、明瞭に類推しうる箇所は編者註として補塡したが、大部分は伏字のまま残す事にした。徒らな歪曲をさけたい為でもある』とある。

 この記載からは――全集は原詩稿に基づく校訂を経たものではないこと――即ち――「槐多の歌へる」が元である――と考える以外にはないこと――が分かる。

 一部の詩稿が残っていて現認校閲が出来たのであれば、山本氏はそう書くはずであるが、『槐多の遺稿を八方手をつくしてもとめたがついに発見する事ができなかった』という下りは、それさえも手に入らなかったことを意味すると読める。

 なお、全集の増補版(平成五(一九九三)年)は全集初版に作品図版を加えて再編集したとあるのみ(巻末の作品図版提供者である窪島誠一郎氏の「増補版に寄せて」に拠る)で、詩篇の詩句の有意な再校訂が行われた形跡はない。

 ということは――これまで見てきた「全集」との異同――例えば――ここでの異同点の④――《鮮やかに行われている全詩の最終行への句点打ちは編者山本氏が打ったもの》――と考える以外にはないこと、その他の、現行の詩人全集の場合、一般にはママ注記を附して保存するか、訂した場合でも後に異同表を設けるのが普通である《歴史的仮名遣の誤りの本文内訂正》(ここでの②)は編者によるものであること――が分かってくる(しかも初版凡例と思しい箇所には歴史的仮名遣を訂したといった注記が一切ない)。

 しかし――これの②④は百歩譲ってよしとしたとしても(しかし私は孰れも本心としては譲れない。ママで載せるべきであると考える人間である)……では、この詩篇の①の場合はどうであろう?

 「うち」を「打」としたのは何故であろう?……詩句としては、音調を調え、すっかりの意を添えるところの接頭語「うち」は、確かに漢字より平仮名の方が見目や印象がよい――というのは《妥当と言われ易い一般的な感じ》であろう。……しかしだからといって平仮名にするのは正しい全集校訂とは私は逆立ちしても言えない。

 しかし③はどうか? これは――明らかに詩篇の文脈上の意味がひっくり返ってしまうもの――である。第二連と第四連を並べて見よう。

 

綠靑のしみ出でし

銅瓶に口つけて水呑む君

美しき頽廢に

影薄き哀歌に思沈むる君

   *

綠靑の空に立つ

伽羅國の亡國びとの

ひとりなるなげきの歌も

すべてたそがる

 

確かに「綠靑の空」(ろくしやうのそら)とは特異なイメージではある――ではあるが、私は初版を読んだ際、少しも奇異に思わなかった――。日本語と詩に相応の自負を持つ《常識的日本人》であるならば、《この「槐多の歌へる」の第四連は第二連に引かれて「綠靑き空」とあったものを「綠靑の空」と原稿の判読を誤ったものである可能性がある》、と判断するのかも知れない(私はそうは思わなかったが、私は常識的日本人でないのかも知れない)。がしかし――原稿が確認出来ない以上――《詩人の感性の中に『綠靑の空』という変なイメージが絶対に生まれない》と断言することは出来ない。可能性は低いにせよ、「初版詩集」の本文を《誤判読・誤植》として、注記も断りもなしに、いきなり「全集」本文に《訂正》して掲載するなどということが、果たして普通の詩人の全集に於いて在り得てよいことであろうか? これを決定稿とした以上、それには相応の確信犯の資料が存在するのであろうが、それが示されていないのはすこぶるおかしいと言わざるを得ない。もしかすると、この問題は研究者の間では、解決済みなのだろうか? であれば、どうかこの愚鈍な野人にお教え戴ければ幸いである。――ともかくも私独り――この違い、いっかな、納得出来ないでいる。大方の御批判を俟つものである。――【2018年8月29日追記:本電子化テクストは当時、ミクシィでも同時掲載していたが、昨日、そこに「太郎」氏より、以下の御情報を頂戴したので、転載させて戴く。

   《引用開始》

『槐多の歌へる』は1920年に初版が刊行された後、1927年に再び出版されています。たまたま新版を閲覧する機会があったのですが、ここで挙げられている4つの異同を確認した所すべて全集と同じ表記が見られました。

つまり全集は新版を底本にしていると思われます。それにしても全集に底本の記載がない上、新版が初版より原稿に即していると決まったわけでもないので、全集の本文は注意深く扱う必要があるでしょう。

三年前の記事ですが、大変興味を惹かれたためコメント致しました。ご無礼お許しください。

   《引用終了》

「太郎」氏に心より御礼申し上げるものである。】

2015/06/28

ひゞき   村山槐多

  ひゞき

 

ひゞききこゆる

美しき物美しき物をつらねし

(鎖の如くゆるる)

春銀の春の想ひに

 

或る時は泣きしきり

また或る時は

毒の草入れたるくしげ見る如く

痛くわななく

 

血に重き貴女の寶玉

愁ひたる夕暮の空は

一杯にあはれわが聞く

或るひゞき

 

そのひゞき

或る時は都に天に、紫の山にきく

ただ君が美しさにも

わが重き想ひの中に、

 

 

[やぶちゃん注:「全集」では最終連最終行末尾は句点。]

救い難い最下劣な百田尚樹という大馬鹿者

百田尚樹は彼が操作したいメディアによって逆に自己肥大した己を増殖しているというトートロジーの中にのみ生きている致命的な大馬鹿者である。

充血   村山槐多

  充血

 

充血せる君 鬼薊

金と朱の日のうれしさよ

わめきうたへる街中に

金箔をぬるうれしさよ

 

派手に派手に血を充たせ

君が面に赤き血を

たとへ赤鬼の如く見ゆるとも

ひたすらに充血せよ

 

血と金の鬼薊

屋上に狂し

美しき街は暴虐たる王の

金箔にぬりつぶされたり

 

充血の君 鬼薊

血は滴たたれり

すゆき春の面に

壯麗なる街の上に。

 

 

[やぶちゃん注:「滴たたれり」「すゆき」はママ。「すゆき」は飲食物が腐って酸っぱくなるというヤ行下二段動詞「饐ゆ」(ワ行下二段「すう」の転じたもの)を形容詞化したものか?]

血の小姓   村山槐多

  血の小姓

 

虐殺せられし貴人の

美しい小姓よ

汝の主(しゆ)の赤に金に赤に金に

ぎらぎらとだらだらと滴たる血に

じつと見入る小姓よ

 

夜が來たぞ

人もないこの無慈悲な夕(ゆふべ)

誰かが泣き出した

狂した血の小姓よ汝も

泣け、血に愛せられて、

 

 

[やぶちゃん注:「滴たる」「じつと」はママ。「全集」では最終連最終行末尾は『泣け、血に愛せられて。』と句点。]

氷の涯 夢野久作 (5)

 搜索本部はトウトウ日暮まで歸つて來なかつた。だから僕も眼を醒ますと、すぐにキチンと掃除をして室内を片付けてしまつた。それから地下室に歸つて、襯衣(シヤツ)一枚のまゝタツタ一人で夕食を濟ましたが、サテ外出しようか……どう仕樣かと思ひ思ひ向うの隅を見ると、僕の外出許可證を預つてゐる上等兵が、晝間の彈藥盒(だんやくがふ)を解くのも忘れて寢臺の上に横向きになつてゐる。スウスウと寢息を立てゝ居る氣(け)はひである。ほかの當番連中もまだ歸つて來ないらしく銃架がガラ空きになつて居る。仕方が無いから襯衣(シヤツ)一枚の上に帽子を冠(かぶ)つて、スリツパ穿(ば)きのまゝ裏口の鐵梯子傳(てつばしごづた)ひに、新しい棕櫚のマツトを踏み踏み、五階の屋上庭園に上(あが)つて行つた。これは規則違反の服裝を三階の上官連中(れんぢう)に見つからない用心であつた。サツキの歩哨の話を一寢入りした間(ま)にスツカリ忘れてしまつてゐた僕は、習慣的に三階(がい)の連中(れんぢう)が五人や十人は居るものと思ひ込んで居たのだから……。

[やぶちゃん注:●「彈藥盒」は小銃の弾薬を携帯するための小型の箱(「盒(ごう)」は蓋附きの容器の意)のこと。通常、陸軍歩兵用は前盒二箇・後盒一箇を帯革に通して携帯した。ウィキの「弾薬盒」を参照されたい。 ●「裏口の鐵梯子傳ひに、新しい棕櫚のマツトを踏み踏み五階の屋上庭園に上つて行つた。これは規則違反の服裝を三階の上官連中に見つからない用心であつた」「全集」では(恣意的に正仮名正字化した)『裏口の鐵梯子傳ひに迂囘して、新しい棕櫚のマツトを踏み踏み、五階の屋上庭園に上つて行つた。この迂囘は規則違反の服裝を三階の上官連中に見つからない用心であつた』と加筆している。]

 屋上に來てみると、黑タイルを張詰(はりつ)めた平面の處々に新しく水を零(こぼ)した痕跡(あと)がある。その片端(かたはし)に、濡れたままの如露(じよろ)とバケツが置きつ放(ぱな)しにして在るところを見ると、ニーナが水を遣りかけたまゝ何處へか行つたものであらう。往來に面した木製の棚の上に手入れを濟ましたらしい二三十の鉢が、中途切(ちうとぎ)れしたまゝ三段に並んでゐる。この鉢の並び方が同(おんな)じになつてゐた事は今までに一度もないので、大きいのや小さいのが毎日のやうに、取換(とりか)へ引つかへ置き直されて居る事を僕はズツと前から氣づいてゐた。しかもそれが向家(むかひや)の百貨店の時計臺以外に相手のない、高い五階の屋上だから、考へてみると隨分御苦勞千萬な、無意味(ノンセンス)な趣味ではあつた。

 ……僕は實を云ふと、此時この屋上に仙人掌(サボテン)を見に來たのでは無かつた。例によつて、哈爾賓を取り圍む大平原の眺望を見廻しながら深呼吸でもして遣らう……序(ついで)に銀月の方向を眺めて、十五萬圓事件の解決法でも考へて遣らうか……と云つた樣な、至極ノンビリした氣持ちに驅られて上(あが)つて來たのであつたが、しかし此時の僕の頭は最前の麥酒の醉醒(ゑひざ)めと、思ひがけなく有付けた充分な午睡(ごすゐ)のお蔭で、いつもよりもズツと澄み切つてゐたのであらう。最初は何の氣なしに見て居た此仙人掌(サボテン)の大行列が、いつの間にか世にも不思議な行列に見えて來たのであつた。

 僕は念の爲に、仙人掌(サボテン)の棚の前を、往來に向つた甃(いしだゝみ)の端まで歩いて來た。その緣端(きつぱし)に在る古風な鐵柵(てつさく)に摑(つか)まつて出來る限り頭を低くしてみたが、此の仙人掌の棚を見る場所はどう見まはしても一階低い向家(むかひや)のカボトキンの時計臺しか無かつた。そんな位置に棚を置いた理由が、どうしても解らないのであつた。

 僕はだんだん眞劍になつて來た。今日が今日まで斯樣(こん)な不思議な事實にドウして氣がつかなかつたんだらうと思ひ始めた。

 僕は何でもカンでも此理由を研究してみたくなつた。これも僕の所謂「退屈魔」がさせた氣まぐれに相違なかつたが、どうせ夜は閑散(ひま)なんだからこの薄明りを利用して一つ研究して遣れ……といふ氣になつてタイルの中央に並んでゐる鉢を四百五十幾個(いくつ)かまで數へ上げた。それから其鉢の一つ一つに立てゝ在る白塗の番號札を一から二、二から三と順々紅に拾ひ探しながら數へ上げてみると又、奇妙な事實を發見した。百以下の番號が二、三十缺(か)けてゐる上に同じ番號の札がいくつも並んでゐる。二百四十二が四ツ、三百八十五が三ツといふ風に……。しかも夫れが同一種類の仙人掌に立てたもので無い事は一目瞭然なのだ。何でもない頭で見たら、コンナ事實は、此札を立てたニーナの氣まぐれとしか考へられなかつたであらう。又は學者か何かの頭で考へたら、斯樣(かう)した現象は、ニーナが先天的に數字に對する觀念を持たない、一種の痴呆患者か何かと思へたかも知れないが、しかし此時の僕の頭にはドウシテドウシテ……身體中がシインとなる程の大發見と思へたのであつた。

 ……すぐに下から紙と鉛筆を取つて來て、この番號の缺けたところと重複したところとを順序よく書き並べてみようか知らん……序(ついで)に棚の上の行列についてゐる番號札を其の順序に書き並べて、それが何かの暗號通信になつて居るか何樣(どう)かを突止(つきと)めて遣らうか……それとも向家(むかひや)の時計臺から此暗號を讀み取つて居るであらう何者かの正體を探り出すのが先決問題か……

 ……なぞと色々に考へ直しながら、暗くなつて行(ゆ)く屋上をソロソロと行つたり來たりしてゐた。遙かに西北、松花江(スンガリー)の對岸から、大鐵橋を覆うて襲來する濃厚雄大な霧の渦卷を振り返り振り返り立止(たちど)まつたりしてゐた。

 ところが其の中(うち)に間もなく、其霧の大軍がグングン迫つて來さうに見えたので僕はトウトウ決心した。とりあへず番號だけ寫しておく積りで、裏の鐵梯子(てつばしご)の方へ鋭角(えいかく)の廻(まは)れ右をすると、それと殆んど同時に、本階段の方向から不意に、慌しげな靴音が駈け上つて來て、思ひがけない軍裝の憲兵上等兵が眼の前にパツタリと立ちはだかつたのであつた。

 僕はギヨツとして一歩退(しりぞ)いた。襯衣(シヤツ)一枚のスリツパ穿(ば)きで屋上に出る事は、風紀上嚴禁してあつたので、扨(さて)は見つかつたかと思ひながら、慌てゝ不動の姿勢を執つて敬禮した。

 ところが妙なことに、その憲兵も何かしら面喰(めんくら)つてゐるらしかつた。僕の姿を夕闇の中に認めると、ハツとしたらしく、軍刀を摑んで立ち止まつた。眼を据えて僕の顏を見たが、それが顏なじみの當番卒だつた事がわかるとホツと安心したらしい。簡單に敬禮を返しながら其處いらを探るやうに見廻して居る中(うち)に、又も僕の顏に瞳を据ゑた。

「オイ當番。此處に誰か來はしなかつたか」

「ハッ。誰も來ません」

 と云ひ云ひ僕は敬禮を續けてゐた。

「……よし。手を下(おろ)せ。…‥ニーナが來はしなかつたか……此の家(うち)の娘だ」

 僕は何かしらドキンとしながら手を下した。

「イヤ。誰も來ません」

「フーン。お前は何時から此處に居たんか」

 といふ中(うち)に、憲兵上等兵はモウ一度、疑ひ深い瞳で屋上を睨(にら)みまはした。

「ハッ。上村は一時間ばかり前から此處を散歩して居りました」

「フーム。たしかに誰も來なかつたな」

「ハッ。左樣であります」

 憲兵は依然として狼狽してゐるらしく、又も大急ぎで本階段へ降りかけたが、途中でチヨツと立止まつて振り返ると嚴重な口調で云つた。

「誰か來たらすぐに知らせよ。俺は四階の舞踏室の前にいるから……ええか……」

「ハッ。四階の舞踏室……」

 と僕が復誦し終らないうちに軍刀を押へた憲兵のうしろ姿が、階段を跳ね上り跳ね上り下の方へ消えて行つた。
 
[やぶちゃん注:以下、一行空き。]

氷の涯 夢野久作 (4)

 あの憲兵の黑い襟章といふものはナカナカ考へたものだ……と其時に僕は思つた。それだけの連中が揃ひの黑襟章でズラリと椅子にかゝつてゐる處を見ると、今にも犯人が捕まりさうな空恐ろしい氣持がした。……むろん僕が犯人では無かつたのだが……。

 その連中(れんぢう)が詰めかけて來ると間もなく當番係の上等兵の命令で、戰友の一人が當番卒を拜命して行つたが、そのうちに午後になると、上等兵がいくらかフクレ氣味になつて僕を呼び出した。

「……オイ、上村(うへむら)、濟まんが君代りに搜索本部に行つて呉れ。モツト哈爾賓の事情に明るい者を寄越せつて曹長に怒鳴り付けられたんだ。君が居なくなると司令部が不自由するんだが……」

 僕は笑ひ笑ひ身仕度をした。不平どころか……一種の探偵劇でも見るやうな漸新な氣持で、勢よく階段を駈上つたものであつた。

 行つてみると搜索本部には、今云つた六人のはかに司令部附の鬚達磨(ひげだるま)と綽名(あだな)された歩兵少佐と、特務機關から派遣されたらしい色の生白(なまじろ)い近眼鏡(きんがんきやう)の中尉と、それから當(たう)の責任者らしい上席の一等主計が控へてゐた。ちやうどセントランニヤ内部の參考人調べが濟んだところであつた。

 僕はその部屋の入口に近い當番用の卓子(テーブル)と椅子に納まつて、並居るお歷々の諸氏がドンナ搜索をするかを一所懸命に注意してゐた。むろん夫れは大きな退屈の中から絞り出された、つまらない一種の探偵趣味に過ぎなかつたが併(しか)し、それでも此部屋(ここ)に集まつて來る報告は出來るだけ頭に入れて置こう。まかり間違つたら、俺一人で犯人を捕(とら)へるのも面白からう……ぐらいの野心は聊かながら持つてゐた事を白狀する。とにかく何時も引込み思案の僕が、永い間の退屈病(たいくつびやう)に惱まされてゐたせゐであつたらう。此時に限つて、今までにない生き生きした興味の中に蘇生し始めてゐたのであつた。

 搜索本部の手は最早(もう)、午前中に八方に伸ばされてゐた。哈爾賓市中は云ふに及ばず、東は露支(ろし)國境のポクラニーチナヤ、寧古塔(ニクタ)、北は海倫(ハイリン)、西は齊々瞭爾(チヽハル)、滿洲里(マンチユリー)、南は長春(ちやうしゆん)、奉天(ほうてん)と嚴重な警戒網が張られていて、今にも犯人が引つかかるか引つかかるかと鳴りを鎭めて待つてゐる狀態であつた。

[やぶちゃん注:●「ポクラニーチナヤ」現在のロシア沿海地方、中国国境まで十三キロメートルほどのポグラニチニ(Пограничный)。ハルピンから直線で東南東へ四百十キロメートルに位置する。 ●「寧古塔(ニクダ)」(ニングダ/ねいことう)は清代から一九三〇年代初頭にかけて満州東部の牡丹江中流域にあった地名で、清が満州を統治するに当たり重要な役割を果たした場所であった。現在の黒竜江省牡丹江市寧安に相当する。参照したウィキの「寧古塔」によれば、『清代末期になると北京条約などによりアムール川以北やウスリー川以東はロシアに割譲され、毛皮貿易など少数民族相手の交易は衰える。また東清鉄道建設に伴いハルビンなどの街が建設されるが、それでも寧古塔は満州東部の数少ない都市でありロシアなどに対する軍事拠点だった。特に牡丹江沿岸にあたるため水田耕作に適した土地で』、十九世紀終わりから『漢民族や朝鮮人が周辺に移住し稲作や畑作を始めた』。『吉林省設置以降は寧安府、次いで寧安県が寧古塔に置かれたが、寧安県設置以後も寧古塔という名は慣用的に使用されていた。辛亥革命以降の混乱期には、寧古塔は中国人の革命運動や朝鮮人の抗日パルチザンなどさまざまな勢力の拠点となった』。一九三〇年代に『日本が満州国をこの地に建国してからしばらくの間も寧古塔は農林業の集散地として栄えていたが、牡丹江市の建設により農林業上・軍事上の拠点としての地位を譲ることとなった』とある。地図で確認すると街としての牡丹江はポグラニチニのほぼ西百四十キロメートルにあり、現在の牡丹市内の寧安(ここも市)は牡丹江市を貫通する牡丹江の直線で四十キロメートルほど下流にある。 ●「海倫(ハイリン)」ハルピンのほぼ北百八十キロメートルにある街。現在の黒竜江省綏化(すいか)市海倫市。ロシア国境まで二百五十~三百キロメートルほど。 ●「齊々瞭爾(チヽハル)」現在の黒竜江省(省直轄市)斉斉哈爾(チチハル)市。ハルピンの北西約二百六十キロメートルに位置する、ハルピンに次ぐ黒竜江省の大都市。 ●「滿洲里(マンチユリー)」現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ホロンバイル市内の満州里市。ハルピンの北西約八百キロメートルのロシアとの国境直近。モンゴル国境も五十キロメートルほどしか離れていない。 ●「長春」現在の省政府が置かれている吉林省長春市。ハルピンの南南西二百三十キロメートルに位置する。 ●「奉天」旧中華民国と旧満洲国にかつて存在した現在の瀋陽市に相当する都市。長春をほぼ中間点としてハルピン南南西凡そ五百キロメートルに位置した。現在の朝鮮民主主義人民共和国国境までは南東に二百キロメートルほど。]

 一體この星黑(ほしぐろ)といふ主計は、名前の通りに色の淺黑いツンとした小柄な男で、イヤに神經質に勿體ぶつた八釜(やかま)し屋であつた。ふだん戰鬪員から輕蔑される傾向を持つてゐる計手(けいしゆ)とか軍樂手とかにあり勝ちなヒガミ根性が、この男にも執念深くコビリついてゐたものらしい。戰時には餘り八釜(やかま)しく云はれない缺禮(けつれい)を、この男は發見次第に怒鳴りつけたので人氣(にんき)が恐ろしく惡かつた。

 しかし之に反して一緒に逃げた十梨(となし)通譯は格別、憎まれてゐなかつた。ちよつと見た所、何の特徴も無いノツペリした色男だつたので兵卒連中(れんぢう)から幾分、輕蔑されてゐる傾(かたむき)はあつたが、それでも外國語學校出身の立派な履歷を持つてゐたさうである。人間が如才ない上に露西亞語が讀み書き共にステキに達者なので、着任早々から三階(がい)の連中(れんぢう)に重寶がられてゐた事實と、これも如才ない一つであつたらうか、軍隊内で禁物(きんもつ)の赤い思想の話が、どうかした拍子にチヨツトでも出ると、忽ち顏色を變へて露西亞の現狀を罵倒し初めるのが、特徴と云へは特徴であつたといふ。尤も「彼奴(きやつ)は露西亞語ばかりぢやないぜ。支那語もステキに出來るらしいぞ」と云ふ兵隊も居たが、しかし本人は絶對に打消してゐたといふ。

 其二人は今や全軍の憎しみを引受けつゝ行衞(ゆくゑ)を晦ましてゐる譯であつたが併し、捕まつたといふ情報はなかなか來なかつた。さうしてその日が暮れて、翌(あく)る日の火曜日になると、もう、そろそろと大陸特有の退屈が舞ひ戻つて來た。入口の扉(ドア)に新しく「○○○○軍政準備室」と貼紙をした以外には何一つ變つた事の無い搜索本部の片隅に腰をかけて、北滿特有の黄色い窓あかりを眺めてゐるうちに、ともすると腹の底から巨大な欠伸(あくび)がセリ上(あが)つて來るのをヂツと我慢しなくてはならなくなつた。

 もつとも、それは僕一人ぢやなかつたことを間もなく發見する事が出來た。

 僕は最初のうち意兵諸君の行儀のいゝのに感心してゐた。芝居の並(なら)び大名と云つた格(かく)で、一列一體に威儀を正したまゝ、いつまでもいつまでもかしこまつてゐる。執務中のつもりであらう煙草一服吸ふ氣色(けしき)もない。時々思ひ出したやうに「電話はかゝらないか」とか「電信は來ないか」とか云つて一軒隣りの司令部に僕を聞きに遣る。さうかと思ふと又、思ひ出したやうに地圖を引つぱり出したり、一度投げ出した汽車の時間表を拾ひ上げて繰り返し繰り返し檢査したりする。……此邊(このへん)は汽車の時間表は無い方が正確なのに……と思つたが恐らくこれは退屈凌(しの)ぎの積りであつたらう。

 此連中(れんぢう)が腕ツコキと云はれてゐる理由は、發見された犯人を勇敢に追跡して、引つ捕(とら)へて、タヽキ上げて、處刑するまでの馬力がトテモ猛烈で、疾風迅雷式(しつぷうじんらいしき)を極めてゐるからであつた。たゞそれだけであつた。だから其の犯行の徑路(すぢみち)を推理したり、犯人の遁路(にげみち)を判斷したりするところの所謂、警察式の機能、もしくは探偵能力といつたやうなものは絶無なので、何でも嫌疑者と見れば片ツ端から引捕(ひつとら)へて處刑して行(ゆ)く。其中のどれかゞ眞犯人(ほんもの)であれば夫れでよろしい……といふところに黑襟(くろえり)のモノスゴサが認められて居るのであつた。これは決して惡口(わるくち)ではない。戰地では内地の警察みたやうな叮嚀、親切な仕事ぶりでは間に合はない事を僕らは萬々(ばんばん)心得てゐたのだ。從つて軍政下における「靜寂」とか「戰慄」とか云ふものは實に、かうした黑襟の權威によつて裏書きされてゐると云つてもよかつたのだ。

 彼等黑襟の諸君は、だから斯樣(かう)して威儀を正しながら偶然の機會を待つて居るのであつた。犯人が高飛(たかとび)をするとなれば必ずや鐵道線路を傳(つた)ふに相違ない。それ以外の地域はまだ交通、生命の安全を保障されていないのだからその要所要所に網を張つて置けばキツと引つ掛かるに相違ないといふ確信を持つてゐるらしかつた。しかも其要所要所に見張つてゐる黑襟の諸君が矢張りコンナ風に、その要所要所で一團となつて、威儀を正してゐるであらう光景を想像すると何ともハヤたまらないアクビがコミ上げて來るのであつた。

 そいつを我慢しいしい向家(むかひ)のカボトキンの時計臺が報ずる十一時の音を聞いた時には最早(もう)、トテモ我慢出來ない大きなアクビが一つ絶望的な勢いでモリモリと爆發しかけて來た。ソイツを我慢しようとして俯向(うつむ)きながら兩手を顏に當てようとすると、其時遲く彼(か)の時早く、その欠伸(あくび)が眞正面の中尉殿の顏に公々然(こうこうぜん)と傳染してしまつた。そこで待つてゐましたとばかり上席から末席に亙つて一つ一つに欠伸玉(あくびだま)の受け渡しが初まつたが、併し感心なことに其のやゝこしいアクビのリレーが片付いても笑ふ者なぞ、一人も居なかつた。間もなく元の通りのモノスゴイ、靜肅な搜索本部に立ち歸つてしまつたのであつた。

 僕は後悔した。僕を搜索本部の當番の刑に處した上等兵を怨んだ。汽車の通らない停車場(ていしやば)の待合室よりもモツト無意味だと思つた。

 しまいには自分自身が嚴然たる憲兵に取り卷かれて、第三等式の無言の拷問を受けてゐる犯人みたやうなものに見えて來た。……これぢや、とても辛抱し切れない。いよいよ遣り切れなくなつたら「私が犯人です」と云つて立上つてやろうか知らん。さうしたら、いくらか退屈が凌げるかも知れない……なぞと途方もない事までボンヤリと空想し初めてゐた。そのうちにヤツト晝食の時間が來た。

[やぶちゃん注:●「第三等式」程度の低い、拙劣な、という意味であろう。]

 僕は本部の連中に、辨當のライスカレーとお茶を配つた。それから自前の食事を濟ましに地下室へ降りると、そこで又、悲觀させられた。當番連中が一齊に僕の周圍に集まつて來て、

「どうだ。捕まりそうか」

 と口々に聞くのであつた。其のまわりを料理人(コツク)の支那人、雇人頭(やとひにんがしら)のコサツク軍曹、耳の遠い掃除人夫の朝鮮人と云つた連中が取卷いて、靑や、茶色や、黑の眼に、あらん限りの興味をキラキラと輝やかして居るのであつた。

[やぶちゃん注:●「濟ましに」「全集」では『済まして』となっているが、これは明らかに「濟ましに」が正しい。第一書房版全集の方の誤植である。]

 僕は手を振つて逃げる樣に自分の食卓に就いた。

「……駄目だよ。捕まつたのはアクビだけだよ」

 と云ひたいのを我慢しいしい皮のままのジヤガイモを頰張つた。

 食事を濟ました僕は、地獄に歸る思ひで地下室を出た。イヤに長い午後の時間を考へながら、屠所(としよ)の羊よりもモツト情ない恰好で、三つの階段をエンヤラヤツト登つたが、早くも出かゝつた欠伸をかみ殺し、入口の扉(ドア)を押すと同時にビツクリした。出會ひ頭に待構へてゐたらしい、曹長のキンキン聲が機關銃みたいに飛び付いて來たので……。

「オイ。當番。これを第二公園裏の銀月といふ料理屋に持つて行け。知つとるだらう。經理部の取調(とりしらべ)が濟んだから返すのだ。銀月の會計係の阪見(さかみ)といふ男に返すんだ。阪見が居らなければ銀月の女將(おかみ)に渡せ、それ以外の人間に渡すことはならんぞ。えゝか」

[やぶちゃん注:●「第二公園」本作の後の描写と、現在のハルビン(哈爾濱)の地図を眺めての印象に過ぎないが、これは松花江の南岸の市街地にある兆麟公園がモデルではなかろうかとも思われる。]

 僕は曹長の手から四角い平べつたい、靑い風呂敷包みを受け取つた。

「ハッ、復誦します。上村當番はこの帳簿を銀月の……」

「馬鹿……誰が帳簿と云ふたか」

 曹長は千里眼に出會つた樣に眼を剥(む)いた。

「その包みの内容は極(ごく)祕密になつとるんだぞ」

 僕は情なくなつた。これが帳簿だとわからない位(くらゐ)なら一等卒を辭職してもいゝと思つた。

「ハツ。上村は此の四角い箱を銀月に持つて行(ゆ)きます。そこの會計主任か、女將に渡します。それ以外の人間に渡さなけれはならない場合は持つて歸ります」

「よし……女將の名前は知つとるぢやらう」

「ハイ。知りません」

「富永(とみなが)トミといふのだ。えゝか」

 曹長は重大そのものの樣な顏をした。

 僕は卷脚絆(まききやはん)と帶劍を捲附(まきつ)つけて外へ出た。

 何を隱そうトテモ嬉しかつた。死ぬより辛い退屈地獄から思ひがけなく救ひ出された愉快さで一パイになつてゐた。相濟まぬ話だが司令部から遠ざかれば遠ざかるほど救はれたやうな氣持ちになつて行つた。

 僕は惡い事と知りつゝわざと遠まはりをした。キタイスカヤの雜沓を避けて、第二公園の方向から外(そ)れた廣い通りへ廣い通りへと出て行つた。

 道の兩側に並んだ楡(にれ)や白楊(はくやう)の上にはモウ内地の晩秋じみた光りが横溢(わういつ)してゐた。歩道の一部分に生垣をめぐらした廣い公園だの、白楊の靑白い幹が幾十となく並んだ奧に、巨大なお菓子か何ぞのやうに毒々しい色の草花を盛り上げた私人(しじん)の庭園だの、仙人掌(サボテン)、棕櫚(しゆろ)、蝦夷菊(えぞぎく)、ダリヤなぞ云ふ植物をコンモリと大らかに組合はせた花壇だのが、軒並に續き繫がつてゐるのを、僕は今更のやうにもの珍しく覗いて行つた。その奧に見える病院みたやうな窓の中から、面白さうな手風琴(てふうきん)の音(ね)が洩れて來るハルピンの午後の長閑(のどか)さ。なつかしさ……。

 靑い風呂敷包みを抱へた僕は口笛を吹きながらユツクリユツクリ歩いて行つた。さうして茶鼠色の薄い土煙を揚げる歩道をみつめながら、いつの間にか眼の前の退屈事件の事を考へ續けてゐた。

 ……星黑と十梨は今頃どこに居るだらう。

 ……二人は果して共犯者だらうか。

 假に俺が犯人とすれば、ドンナ風に逃げるだらう。搜索本部の能力を最初から看破つてゐるとすれば左程に怖がる必要は無いかも知れないが、しかし逃げる身になつてみたら左樣(さう)タカを括(くゝ)る譯にも行(ゆ)かないだらう。否でも應でも、あらん限りの知惠を絞らずには居られないだらう。搜索本部は果してソンナ處まで犯人の心理作用を警戒して居るだらうか……。

 ……汽車で逃げるのは一番捕まり易い道を行くやうなもんだ。哈爾賓以西の安全區域だけを上下してゐる、松花江通ひの汽船に乘つても同じ事だ。目下の處(ところ)日本官憲の手が屆くのは、さうした交通機關の動いてゐる範圍内に限られて居るのだから、其樣(そん)なもの利用して逃げるのは官憲の手の中を這い廻るのと同じことになる。それを知らない二人ではあるまい。

 ……ところで夫れ以外の通路を傳つて哈爾賓の外まはりの茫々たる大平原の起伏(きふく)に紛れ込んだら何樣(どう)だらう。人間も蟲(むし)も區別が付かなくなるのだから、たゞ日本の官憲に捕まらないだけが目的なら此(この)方法が一番であらう。

 ……しかしそこには日本の官憲よりもモツト恐ろしい者が知らん顏をして待ち構へてゐる虞れがある。その第一は西比利亞から北滿へかけた平原旅行に付きものゝ飢餓行進曲(きがかうしんきよく)だ。難波船の漂流譚(へうりうものがたり)を自分の足で實驗しなければならないばかりでなく、日本人と見たら骨までタタキ潰す赤(あか)の村が何處に隱れてゐるか解からないのだ。そんな村に片足でも踏込(ふみこ)んだら、最後、○○支隊(したい)でも全滅するのだから敵(かな)はない。

 ……その次はお膝元の哈爾賓市中に潜り込んで居て、ホトボリの醒めた頃、變裝の高飛(たかとび)を試みる手段がある。ナハロフカだの傅家甸(フーチヤテン)だのにはソンナ潜入孔(もぐりあな)がイクラでも有るだらう。ナハロフカは横着部落(わうちやくぶらく)といふ意味だそうだ。だから其處いらにウロ付いてゐる縮緬(ちりめん)の上衣(うはぎ)を着た唇の眞赤な露西亞女でも、赤いスウヱータを着た賭博宿(ばくちやど)の婆さんでも、十圓札の二三枚ぐらゐ見せたら一週間や十日位(くらゐ)はオンの字で奧の室(へや)を貸して呉れるであらう……。イヤイヤ、そんな劍呑(けんのん)なところへ飛込(とびこ)まなくとも傅家甸(フーチヤテン)の平康里(へいかうり)(娼婦街)に紛れ込んで、釣鐘形(つりがねがた)に紅い紙の房(ふさ)を下げた看板の下(した)を、煉瓦造(れんぐわづくり)の中へ一歩踏込めばモウこつちの物と思つていゝ。支那人が珍重する十二三の子供みたやうな女を買ひ續けて居るうちに、絶對安全の遁道(にげみち)が、自然と判明(わか)つて來るものだ……といふ話も聞いてゐる。

[やぶちゃん注:●「支那人が珍重する十二三の子供みたやうな女を買ひ續けて居るうちに、絶對安全の遁道が、自然と判明つて來るものだ……といふ話も聞いてゐる」久作節炸裂の意味深長意味不明なすこぶる妖しく怪しい淫靡隠微なるもの謂いではある。]

 ……此の三つしか目下の處、拔け路が無い樣だ。一方に星黑が想像通り露語(ろご)通譯を連れて居るものとすれば、その逃亡計畫はかなり遠大なものと見なければならないが、サテどの方法を執つてゐるのであらう。

 ……搜索本部の連中は夢にもそんな事に氣づいて居ないやうであるが……。

 そんな事を考へ考へ司令部からシコタマ溜めて來た欠伸を放散(はうさん)しいしい歩いてゐるうちに僕は、小脇に抱えてゐる帳簿の風呂敷包みが落ちさうになつたので、チヨット立ち止まつて抱へ直した。……と……同時に僕は又、心機一轉して或る重大な想像を頭の中に旋囘させ初めたのであつた。

 後から考へると僕がこの時に心氣一轉した結果が……モツト端的に云ふと、僕が此時に靑の風呂敷包みを抱へ直した一刹那が、今日のやうな重大な政局の變化を東亞(とうあ)の政局にもたらした一刹那だつたとも云へる樣に思ふ。……と云つて何も別に氣取る譯ぢやない。僕がソンナに偉かつたと云ふ説明には毛頭ならないが、所謂、魔がさしたと云ふものであらうか。哈爾賓市中を彷徨してゐる巨大な退屈魔の一匹が突然に一種の尖鋭な探偵趣味に化けて僕のイガ栗頭(ぐりあたま)に取憑(とりつ)いた結果、今日(こんにち)のやうなモノスゴイ運命に吾と吾身を陷れる事になつたとも、考へれば考へられるであらう。

 僕は帳簿の包みを抱へ直したトタンに或る一つの大きなヒントを受けたのであつた。もしや星黑主計は銀月に隱れて居るのではないか知らん……と……。

 これは單なる僕の想像程度のものに過ぎなかつたが、しかし、それでも全然理由のない考へではなかつた。今持つて行く帳簿は、星黑主計が費消した官金の行方を調べ上げる參考にしただけの物である事は解り切つてゐるが、しかし今までチツトも話を聞かなかつた銀月が、犯人の祕密の遊び場所だつたとすると、そこを犯人の有力な隱れ場所の一つとして數へ上げない譯には行(ゆ)かないであらう。これが憲兵だから氣付かないで居るやうなものゝ、内地の警察か何かだつたら、ドンナに鈍感な刑事でも、直ぐに疑ひをかけてみる處であらう。

 銀月は哈爾賓切つての一流料理店だといふ。同時に北滿切つての見事な日本建築の室があつて「莫斯科(モスコー)の洞穴(ほらあな)」を眞似た祕密の娯樂室が幾室(いくら)でも在るといふ話だが……待てよ。

[やぶちゃん注:●「莫斯科(モスコー)の洞穴(ほらあな)」不詳。モスクワの古伝承か? それとも、荘厳壮大なクレムリン宮殿の譬えか? 識者の御教授を乞う。]

 コンナ風に賴まれもしない事件の眞相をタツタ一人で……恐らく世界中にタツタ一人で眞劍に考へめぐらしながら、覺えず知らず探偵趣味を緊張させてゐるうちに、どこを何樣(どう)曲つて來たものか銀月の三層樓閣がモウ向うに見えて來た。何と云ふ式(しき)か知らないが、スレート屋根の素敵に大きい、イヤに縱長い窓を矢鱈に並べたカーキ色の化粧煉瓦張(けしやうれんぐわば)りの洋館に、不思議によく似合つた日本風の軒燈(けんとう)。二階(かい)三階(がい)の窓硝子(まどガラス)に垂れ籠めた水色のカーテン……そんなものが氣のせいか妙に祕密臭くシインと靜まり返つて、正午下りの秋日をマトモに吸ひ込んでゐた。

[やぶちゃん注:●「妙に祕密臭くシインと靜まり返つて」底本は「妙に祕密臭いシインと靜まり返つて」であるが、「全集」と校合して訂した。]

 僕はチヨット躊躇しながら往來に面した銀色のダイヤグラスの扉(ドア)を押し開ゐた。わざと玄關へ廻るのを避けて勝手口へ來たのだ。……やはり僕の探偵趣味がさうさせたのかも知れないが……。三坪ばかりの白タイル張の土間の上り口から右に廻ると直ぐに玄關へ出るらしい。一段高くズーツと奧の方へ寄木細工(よせぎざいく)の廊下が拔け通つて右と左に扉(ドア)が並んでゐる。ちやうど正午過(ひるすぎ)の掃除が始まつた時分と見えて、その扉が一つ一つに開け放されてゐた。

[やぶちゃん注:●「ダイヤガラス」古い建具などで見かける、ガラス表面に有意な凹凸があって、角度が変わるとダイヤのように輝く、本邦製のアンティーク・ガラス。よく似た輸入ガラスに「クリアテクスチャ(ダイヤクリア)」というガラスがある。こんな小道具も美事に大正ロマンを漂わせていることに着目されたい。]

 今一度、躊躇しながら上り口の呼鈴(よびりん)を押すと、奧の方からバタバタと足音がして十六、七の小娘が出て來た。その小娘がまだ立ち止まらないうちに僕が敬禮しながら、

「阪見さんは居(を)られませんか。司令部から來ましたが……」

 と怒鳴ると、ちやうど待つてゐたかのやうに直ぐ横の應接間らしい扉(ドア)が開いて、奧樣風(おくさまふう)の丸髷(まるまげ)に結つた女が顏を出した。

 與謝野晶子と伊藤燁子(いとうあきこ)の印象をモツト魅惑的に取合(とりあ)はせた見目容(みめかたち)とでも形容しようか。年増盛(としまざか)りの大きく切れ上つた眼と、白く透つた鼻筋と、小さな薄い唇が水々した丸髷とうつり合つて、あらゆる自由自在な表情を約束してゐるらしかつた。その黑い黑いうるんだ瞳と、牛乳色(ぎうにういろ)のこまかい肌が、何とも云へない病的な、底知れぬ吸引力を持つてゐるやうにも感じられた。それが僕の顏をチラリと見ると、すぐにイソイソと出て來て廊下の端にしなやかな三指を突いた。

[やぶちゃん注:●「伊藤燁子」大正三美人の一人で「筑紫の女王」とスキャンダラスに称された歌人柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六二)年)のこと。柳原は旧姓で、本名は宮崎燁子。伊藤は再婚相手で九州の炭鉱王伊藤伝右衛門の姓。宮崎滔天の長男で『解放』元主筆であった社会運動家宮崎龍介との駈け落ち(白蓮事件)は大正一〇(一九二一)年十月二十日のことであるから、作品内時間(大正九年)で「伊藤」姓とするのは芸が細かいとは言える。]

「……あの……阪見はちよつと出かけておりますが……妾(わたし)はアノ……富永でございますが……」

「あ、左樣ですか。富永トミさんですね」

「ハイ……」といふうちに女將は如何にも心安さうに僕の前の板張りへペタリと坐つた。一種のスキ透つた、なまめかしい匂ひをムーツと放散させながら大きな瞳をゆるやかにパチパチさせた。

 僕は固くなつた。

「司令部から來ました。……昨日(きのふ)お借りした……帳簿をお返し……しに來ました」

 と一句一句石ころみたいな口調を並べた。

「まあ。御苦勞樣。いつでもよござんしたのに……濟みません。たしかに……お受取を差上げましせうか」

「どうぞ。しかし帳簿と書かないで下さい」

「……かしこまりました」

 と云ふうちに女將は何かしらニツコリしながら風呂敷を解いた。中からは封印した新聞紙包(しんぶんしづつ)みが出て來た。

 女將の笑顏が一層、深くなつた。

「……では……あの新聞紙包み一つと書いて置きませうね」

「ハイ、結構です」

 僕はヤット冷靜になつた。コンナ處でドギマギしてゐた自分の馬鹿さ加減を自覺すると同時に、最初から僕を呑(の)んでかゝつてゐるらしい女將の感度に輕い反感をさへ感じた。

「かしこまりました……ホホ……」

 と女將は笑ひ笑ひ立ち上つたが、その序(ついで)に僕の腕章をチラリと見ると又、立ち止まつた。

「……あの……ちよつとお上りになりませんか。只今お受取をこしらへさせますから……」

 さう云ふ女將の言葉が終るか終らないうちに、小娘が飛降(とびお)りて來て、僕の靴にカバーを押し付けた。

「……や……これは……」

 とばかり僕は又も躊躇してドギマギした。むろん平常(いつも)の僕だつたら此處で九十九パーセントまで御免蒙る處であつたらう。上り口(ぐち)に腰をかけて待つて居ても用は足りるばかりでなく、たゞの當番卒でしかない僕が、公用のお使ひに來て上り込んだりするのは、非常に不自然な行動に違ひ無かつたのだから……。

 ところが此時ばつかりはソンナ遠慮氣分や、不自然な感じがチツトもしなかつたから妙であつた。多分それは何か物言ひたげな女將の素振りが、最前から動きかけてゐた僕の、銀月そのものに對する探偵趣味を示唆つたせゐであつたらう。そのうちに一種の勇氣を奮ひ起した僕は、案内されるまにまに默つて左右を見まはしながら、タツタ今女將が出て來た應接間に這入つた。

[やぶちゃん注:●「示唆つた」底本にはルビがない。「全集」には『示唆(そそ)った』とルビする。 ●「案内されるまにまに」「全集」では「案内されるままに」であるが、実は言葉としては「ままに」が一見正しいように見えるものの、ここでは上村が「左右を見まはしながら」移動するのであってみれば、私はこの「まにまに」の方が実は正しいと感じる者である。]

 それは實に立派な部屋であつた。何もかもがまだ一度も見た事のない風變りな、凝つた物であつたばかりでなく、ヒイヤリとするほど薄暗かつたので、最初のうちは何が何やら見當がつかなかつたが、よく見るとそれは印度風(インドふう)と支那風(しなふう)を折衷した、夏冬兼用の應接間であつたやうに思ふ。低い緞子(どんす)の椅子に坐ると彈力に乘せられて思はず背後の方へ引つくり返りさうになつた。トタンに頭の上のバンカアが香水を含んだ風をソヨソヨと煽(あふ)り出したので僕は思はず赤面させられた。

[やぶちゃん注:●「緞子」繻子織り(しゅすおり:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現われるように織ったもの。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢が生すると同時に肌触りもよい高級織布。)の一つ。経繻子(たてしゅす)の地にその裏織り組んだ緯繻子(よこしゅす)によって文様を浮き表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。「どん」「す」は孰れも唐音である。 ●「バンカア」底本も「全集」も濁音であるが、これは実は「パンカア」が正しいのではあるまいか? 英和辞典によれば、これはインド英語“punka”であって発音は【pˈʌŋkə】「パンカア」、マハラジャのイメージにありがちなあの、布製で天井から吊して綱で引いて扇ぐ例の大団扇、無論ここは電動のシーリング・ファン、天井から吊された麻布などで覆われた骨組みからなる大きな扇風機のことである。現在は航空機やバスなどで見かける、局所空調・換気用の、あの球面体の一部に吹出し口を設けて球面を回転させることによって吹出し方向を変えることの可能なスポット形吹出し口の一種を“punkah louver”(パンカールーバー)と呼んでいる。]

 すると又、入口の扉(ドア)が音もなく開ゐたから、モウ受取が出來たのかと思つて腰を浮かしかけると豈(あに)計らんや大きな銀盆の上に色々な抓(つま)み肴(ざかな)と、果物(くだもの)と、麥酒(ビール)を載せたものを、白い帽子に白い覆面(ふくめん)の支那人が二の腕も露はに抱へ込んで來たのであつた。

 これにはイヨイヨ驚いた。いくら哈爾賓一流の銀月でもアンマリ手廻しが良過ぎる。況んや普通の兵卒がお使ひに來たのに對して此のもてなしは少々大袈裟過ぎる……と内心疑はぬでも無かつたが、そんな考へをめぐらす隙もなく這入つて來た女將は、螺鈿(らでん)の丸卓子(まるテーブル)の向うにイソイソと腰をかけた。水蒸氣に曇つた麥酒のコツプをすゝめながら極めて自然に話しかけた。

「……どうもお待ち遠(どほ)さま。只今阪見を呼んで居りますから……お一ついかゞ……」

「濟みません」

「どう致しまして、お國の爲に遠いところからお出でになつてねえ。失禮ですけど、お國はやはり○○の方(かた)で」

「あつ。どうして解ります」

「ホヽ。お言葉の調子でわかりますわ。何時頃から司令部においでになりまして……」

「八月からです」

「御苦勞さまですわねえ。これから又ズツト哈爾賓にいらつしやるんですつてね」

「ハア……どうして御存じですか」

「ホヽヽヽヽヽ……」

 女將は生娘(きむすめ)のやうに顏を染めて笑つた。

 僕はその笑ひ聲の前で身體が縮まるやうな氣がした。こんな風に自由自在に顏を染め得る女が、如何に恐ろしい存在であるかを、僕は知り過ぎるくらゐ知つてゐた。のみならず此の女將の云葉がサツキから非常なスピードで、うち解けた合(あひ)の子語(こご)に變化してゆくに連れて、何かしら僕に重大な事を尋ね度(た)がつてゐるらしい氣(け)はひを感じてゐたが、果して……果してと氣が付くと、油斷なく腹構へをしながら冷たいビールをグツと飮んだ。

[やぶちゃん注:●「合(あひ)の子語(こご)」女将が、妙に仄かに艶めいて親しげな感じで、何か独特の、意味深長の響きを以って語りかけてくることを、かく言ったものであろう。]

「ホヽヽヽヽ。そりやあ存じて居りますわ。商賣の方と關係が御座いますからね。今、日本軍の方(かた)が引上げて行(ゆ)かれたら、此(この)店はモウとても……ねえ……さうでせう……」

 僕は深くうなづいた。成る程と氣が付いたので又も赤面した。

「……でもねえ。霹西亞人仲間に云はせると、日本軍は來年の春になつたら立退(たちの)くにきまつてゐるつて……さう云ふのですよ」

「露西亞人つてオスロフがですか」

 今度は女將の方が驚いたらしい。又も、ちよつと顏を赤らめながら衣紋(えもん)をつくろつた。

「ええ。さうなんです。公然の祕密だつて……さう云つておりますけれどね……」

「そんな馬鹿な事は無いでせう。今更(いまさら)日本軍が引上げるなんて……」

「……ねえ……さうでせう。兵營の設計もチヤント出來てゐるし、飛行機の着陸場(ちやくりくば)も松花江の近くのどこかに買つて在るつて云ふお話でせう」

「それは誰が話したのですか」

「ホヽヽヽヽ。でもほんたうでせう」

「えゝ。僕もその圖面つて云ふのを曹長に見せて貰つたんですが……若(も)しや星黑さんが話したんぢや無いでせうか……こゝで……」

 此の質問は僕としては餘りに不謹愼であつた。僕の探偵的興味が如何に高潮してゐたとは云へ、まだ女將が知つてゐないかも知れない……と同時に知つてゐるとすれば尚更(なほさら)危險な十五萬圓事件の急所を、曝露したも同樣な質問をこゝで發したのは、あまりに無鐵砲であつた。……と直ぐに氣が付いたがモウ遲かつた。

 ……女將は僕の言葉が終らぬうちにサツと顏色を變へた。眼をマン丸にして僕の顏を凝視したが、間もなく大きな瞬きを二つ三つしたと思ふと、見る見るうつむき勝ちになつて、左右の耳朶(みゝたぼ)をポツと染めた。

「えゝ。さうなんです。ですけど此の事ばかりは後生ですから内密(ないしよ)にしといて下さいましね。ドンナお禮でも致しますから……星黑さんばかりぢやありません……妾(わたし)を……可哀想そうと思(おぼ)し召して……」

 女將(ぢよしやう)は顏も得上(えあ)げないまま螺鈿(らでん)の卓子(テーブル)の上に石竹色(せきちくいろ)の指を並べた。前髮が卓子(テーブル)の平面にクツつく程お辭儀をしたが、その神妙らしい婀娜々々(あだあだ)しい技巧には又も舌を捲いて感心させられた。

[やぶちゃん注:●「女將(ぢよしやう)」ここまで「おかみ」であったものの特異点のルビである。この後は「おかみ」にまた戻る。但し、この時代のルビは校正係の担当範囲であったから、単なる誤植の可能性も高いとは言える。しかし、話柄の流れからは確かにここは一種の特異点ではあるのである。 ●「石竹色」ナデシコ科の植物セキチク(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis )花のような淡い赤色。ウィキの「石竹色」によれば、『セキチクは中国原産種でおもに観賞用に栽培され、その花は赤や白やそれらの色を組み合わせた模様など多くの種類が存在するが、色名としては桃色に近い花の色のことをさす。撫子色、ピンクととほぼ同じ色合いであり、同様の語源を持つ。英語ではチャイニーズピンク(Chinese pink)という』とある。この色である。]

 しかし幾分、麥酒が廻つてゐたせゐでもあつたらう。愚(おろか)にも僕は女將(おかみ)のかうしたデリケートな技巧を、さほど重大に考へなかつた。

(後から思ひ合はせると此の時に女將は、何處かに隱して在つた呼鈴(よびりん)の釦(ボタン)を押したに違ひないであつたが、それさへも此時には氣づかなかつた)たゞ相手に事件の内容を感付かせないまま圖星(づぼし)? を指し得たもの……とばかり考へてゐたので、多少の誇りに滿たされながら輕く頭を下げた樣に思ふ。

「……ハハハ……心配しなくともいゝですよ。僕等の眼にはゐる位(くらゐ)のことなら祕密でも何でも無いにきまつて居ますからね。……しかし星黑さんはシヨツチウ此方(こちら)へ來ましたか」

「えゝ。ほんの時々ですけど……」

「十梨君と一緒にですか」

「…………」

 女將は返事をしなかつた。ちやうどその時に最前の小娘が扉(ドア)から覗いたので、女將は何かしらうなづきながら立上つた。

  「……あの……ちよつと失禮を……」

 といふうちにパタパタと逃げるやうな足音が、重たい扉(ドア)で遮られてしまつた。

 僕はホンノリとした頰を兩手で押へた。今更のやうにフハフハする椅子の中に反(そ)りかへつてノウノウと伸びを一つした。久し振りに飮んだせいか麥酒が恐ろしく利(き)いてしまつて、何も考へる事が出來なくなつた。モウこの上に女將から事件の眞相を探り出す方法は無いものかと焦躁(あせ)りながらも、首のつけ根を通る動脈の音がゾツキゾツキと鳴るのを聞いてゐるばかりであつた。あんまり醉つたので若しや麻醉をかけられたんぢや無いか……なぞと馬鹿々々しい事を考へてゐるうちに何時の間にかホントウに眠り込んでしまつたらしい。

 扉(ドア)の開(あ)いた音で眼を醒ますと、女將がお盆の上に紙布(かみきれ)を載せながらニコニコしてはいつて來た。

「どうもお待たせしまして……阪見が先(さき)から先(さき)に廻つて居たものですから……どうぞ司令部の方(かた)によろしく……」

 僕も慌てゝ眼をコスリながら跳ね起きた。

「ヤ……どうも……」

 と頭を下げながら腕時計を見ると三時半近くになつてゐる。先刻(さつき)から二時間餘りも睡(ねむ)つてゐた譯だ。

「ホヽヽヽヽ御迷惑でしたわねえ。司令部へお電話して置きませうか。阪見が居ないので、お引止(ひきと)めしましたわけを……」

「ハア。どうか……イヤ。司令部から電話が掛つたら、さう云つといて下さい。それでいゝです……」

 と云つて女將が差出す紙包みを極力押し除(の)けながら靴カバーを除(と)るなり逃げる樣に表へ飛出した。

 ……イヤ大失敗々々。搜索本部へ歸つたら曹長に大眼玉を喰(く)ふかも知れないぞ。酒と女に心許(こゝろゆる)すな……か。イヤ大失敗々々……。」

[やぶちゃん注:●二箇所の「大失敗々々」の「々」はママ。「全集」では孰れも『大失敗、大失敗』となっている。]

云ふ中にも僕は狼狽して帶皮を締め直した。

「……失禮ですけど……これはお小遣ひに……」

 と微苦笑(びくせう)しいしい麥酒の醉ひを醒ますべく帽子を脱いでは汗を拭き拭きした。

 處がこの時に演じてゐた僕の失敗はソンナ淺墓(あさはか)なものではなかつた。銀月の應接間でウツカリ洩らした僕の一言(ごん)が、それからタワイもなく居眠りしてゐる間に驚くべき事件を誘發して、東亞の政局の中心にグングンと展開してゐた……それを夢にも思ひ知らないまゝ西日にさゆらぐ楡並木の下をセツセと司令部の方向に急いでゐるのであつた。

 僕はセントランの階段を大急ぎで二階(かい)へ駈け上つた。今一度帽子を冠(かぶ)り直しながら、搜索本部の扉(ドア)をノツクしてみたが誰も返事をしない。

 僕はチヨツト變に思つた。

 思ひ切つて扉(ドア)を開いてみると誰も居ない。……オヤ……と思つて司令部に引返してみるとここにはチヤント鍵がかかつて居る。鍵穴へ耳を當ててみたがシイーンとしてゐて咳拂ひ一つ聞えない。又……オヤと思はせられた。平生(いつも)より一時間以上早く引けて居る。

 三階(がい)へ駈け上つてみると將校以下、下士官の部屋まで一つ殘らずガラ空きになつてゐた。

 僕はその時に何かしら胸騷ぎがした。星黑主計が捕まつたにしては少し樣子が變だが……もしかすると夫れ以上の大事件では無いかと氣が付いたので、そのまゝ一階へ駈け降りて、玄關の入口に立つてゐる○○連隊の歩哨(ほせう)に樣子を問ひ訊(たゞ)してみると、歩哨も何かしら不安を感じてゐるらしく、妙な顏をしながら眼をパチパチさせた。

「……イヤ。俺は何も知らない。しかし司令部の樣子は、すこし可怪(をか)しい樣だ。……何でも俺の前の前の一時の歩哨が立つて居るうちに此の箱(歩哨の背後二、三歩(ぽ)の街路に面した壁に取りつけて在るセントラン專用の郵便受箱)の中から當番係(たうばんがかり)の上等兵が取出した手紙の中に、一通妙なものが混つてゐた。赤い露西亞活字で裏書した、白い大きな西洋封筒で、郵便切手が一枚も貼つて無いのに郵税不足(いうぜいふそく)にもなつてゐないので上等兵は歩哨に見せて「何だらう」……と話し合つた。多分ゾロゾロ通つてゐる毛唐(けたう)の中の一人が、歩哨の氣づかないうちに投げ込んで行つたものだらう。

 ……ところで上等兵に洋文字は苦手だつたらしい。階段の上を通りかかつた雇人頭(やとひにんがしら)のコサツク軍曹を、歩哨の處へ呼び下(おろ)して讀んで貰ふと「日本軍司令部御中」とだけ書いて發信人の名前が書いて無いことがわかつた。すると又ちやうど其處へ、何處からか歸つて來た憲兵中尉が二人の背後から「何だ」と云つて覗き込んだので、二人は慌てて敬禮した序(ついで)に、その封筒を見せたものださうな。

 ……何氣なく受取つた憲兵中尉はスラスラと上書(うはがき)を讀みながら、「フン。又何かの廣告だらう」と云ひ云ひ無茶作に封を切つたさうだ。ところが、その中に這入つてゐる靑い露西亞文字の奧の方をチラリと見ると中尉の顏色が少々變(へん)テコになつて來た。慌ててその手紙を握り潰したまゝ、默つて二階に駈け上つてしまつたさうだが、それから急傳令(きふでんれい)が二三人どこかへ飛んだと思ふと、上等兵を殘した當番卒の全部が召集された。さうしてその當番卒と一緒に、何かしら書類の包みらしいのを手に手に持つた司令部の連中が、愉快さうに笑つてゐる旅團參謀を先に立てながら出て行つた……といふ話だが、詳しい事情は知らない。みんな「何だらう。何だらう」と不思議がつてはゐるが、未だにその手紙の正體は判然(わか)らずに居る。しかし、そのうちに當番連中が歸つて來たらアラカタ樣子がわかるだらう。

[やぶちゃん注:●「旅團參謀」「全集」では『旅団副官』となっている。変えた意味は不明。識者の御教授を乞う。]

 ……そのほかに變つた事は一つも聞かない。……ウン……それからチヨツとした事だけれども、その後で立つた二時の歩哨が俺と交代するヂキ前の事だつたと云ふ。停車場(ていしやじやう)の方からこつちへ曲り込んで來た一臺の立派なタクシーが、向うの辻(キタイスカヤとヤムスカヤの交會點)の眞中で故障を起してしまつた。猛烈なプロペラみたいな爆音と一緒に、眞白な煙を吹き出してへタバツたので、通りがゝりの人が皆(みな)立ち止まつて見物した。するとその中から旅行服、(狩獵服の見誤り?)に黑のハンチングを冠(かぶ)つた背の高い紳士が一人、片手に新聞を持つて出て來たが、それと一緒に見物人の中で帽子を脱ぐ者がチラホラ居たので、變に思つてよく見ると、それは久しく姿を見せなかつたオスロフだつた。……オスロフはニコニコ顏で答禮しながら運轉手に金をやると、自分で鞄を提げて、何か話しかけようとする連中(れんちう)を、手を振つて追ひ退(の)け追ひ退けサツサとセントラルへ這入つて來た。……すると又、そいつを四階(かい)の窓から見て居たらしい、眞白にお化粧をした嬶(かゝあ)と娘が出迎へて、歩哨の前で飛び付いたり嚙(かじ)り付いたり、長い長いキツスをしたりしながら引込んで行つたので、かなりアテられたといふ話だ。しかし往來に立つてゐた連中は、それを笑ひもせずにヂイツと心配さうな顏をして見送つてゐたので歩哨は妙な氣がしたといふが、オスロフはソレキリ出て來ない樣だ……搜索本部の連中も最前から一人も降りて來ないのだから、みんな居ると思つて居たが、何處へ行つたんだらう。

[やぶちゃん注:●「ヤムスカヤ」は最初に司令部の位置の解説にも出てくるのであるがよく分からない。前に紹介した個人サイト「里村欣三ホームページ」の里村の「放浪病者の手記」についての評論「満州小考」にある地図を見ると、キタイスカヤ街は南の端で西北から斜めに走るより大きな街路にぶつかっているのが分かる。最初に上村は「司令部に宛てられた家はキタイスカヤ大通の東南端に近い、ヤムスカヤ街の角に立つてゐる」と記しているから、これはこの交差点よりキタイスカヤ街を入った一本目の横丁の角ということになろうか(ーグル・マップで推定位置を示す)。なお、この司令部は前に示したサイト「みに・ミーの部屋」の「満州写真館 ハルピン 2」に出る、同じキタイスカヤ大通(但し、位置はもっと松花江寄り)にあった見晴らしのよかった松浦洋行の建物がどうもモデルであるような感じがする。下から八枚目のそれを見ると「セントラン」っぽい「中央ホテル」の看板も見える。 ●「セントラル」一貫して「セントラン」であるから、これは誤字か誤植であろう。「全集」では「セントラン」となっている。]

 ……當番係の上等兵が、もちつと前に司令部附(づき)の少尉殿から呼ばれてゐたさうだが、何か知つてゐるかも知れない。聞いてみたまへ。君も宿なしになつちや困るだらう。ハハハ……しかし歩哨の守則(しゆそく)(警戒上の注意事項)は平常(いつも)の通りだから大した事件ぢやないかも知れないよ」

 ……と答へながらモウ一度眼をパチパチさせるばかりであつた。だから僕も仕方なしに要領を得ないまゝ眼をパチパチさせた。さうして今さつき入りがけに歩哨に見せるのを忘れてゐた「公用外出證」を出して見せた……。

 ……僕は此處でもウツカリしてゐたのだ。

 僕がもし此時に、今少し注意深く其處いらを見まはしたら、僕の背後の階段の陰に、此家(ここ)の雇人たちの不安相(ふあんさう)な眼が黑や、靑や、茶色を取りまぜて、憂鬱に光つてゐるのを發見したであらう。……表の往來にひしめくキタイスカヤ特有の夕暮の人出が妙に減少して向家(むかひや)のカボトキン百貨店の黄金色(わうごんしよく)の大扉(おほど)が、今日に限つてピツタリと閉まつてゐるのに氣が付いたであらう……更にモツト以前に歸つて、僕が銀月を出た瞬間から、もう少し注意深く往來を見まはして來たら、此のキタイスカヤを中心とする大通りの辻々に、平服を着た、又は勞働者や支那人に變裝した日本の軍人が三々伍々(ごゝ)と配置されてゐて、その連中の一人が片手を擧げると同時に、辻々が機關銃で封鎖されるといふ、オキマリの非常警戒の準備が出來て居ることを看破(かんぱ)したであらう。……同時に、司令部が立退(たちの)いたのは萬一の場合を警戒したものである事を察し得たであらう。……さうして司令部付(づき)の當番卒の中でタツタ一人その事情を知つて居殘つてゐる上等兵が、わざと寢臺(しんだい)の上に引つくり返つて眠つたふりをしてゐるのに氣付いたであらう。

 しかし遲刻の方にばかり氣を取られてゐた僕は、そんな重大な形勢をミジンも感づかなかつた。それよりも搜索本部が留守になつたお蔭で、豫期してゐた曹長の大眼玉とキンキン聲にぶつからなかつたのを勿怪(もつけ)の幸(さいはひ)にして、帶劍を地下室に解き棄てると、何喰はぬ顏で、空つぽの搜索本部に歸つて來たのは吾ながらおぞましい限りであつた。

 僕はそれから搜索本部の机の上をグルグルと見てまはつた。拳銃(ピストル)と帶劍と帽子がなくなつてゐる巨大な帽子掛を見上げながら、取調(とりしらべ)に關係した書類が、どこかに在りはしないかと探しまわつたが、そんな物は何處に片づけられたものか影も形もなかつた。たゞ市内で賣つてゐる、いゝ加減な案内圖だの、洋食屋の受取だの、二三枚の新聞紙が散らばつてゐる切(き)りであつた。

 僕はガツカリして入口の横の机に歸つた。その中(うち)に連中(れんちう)が歸つて來たら事情が判明するだらうと諦めを付けると、机の上に頰杖を突ゐたまゝ天下泰平の大欠伸を一つした。麥酒の醉ひが醒めかけたせゐであつたらう。女將の媚(なま)めかしい眼付だの、薄い唇だの、日本風の襟化粧(えりげしやう)だの、その上に乘つかつてゐる丸髷の恰好だのを考へてゐるうちに又もグウグウと机の上に寢込んでしまつた。

2015/06/27

苦き時  村山槐多

 

  苦(にが)き時

 

苦き時櫻實(サクランボ)に

赤き血滴たれり

美しき空のうちに

泣聲あり

 

われはひとり歩みたり

新羅の孔雀の如き

美少年も遊べり

薄紫にわがそばをゆき

 

若き櫻實に

汚れたる愁ひあり

美しき空のうちに

泣聲あり

 

われは

ひとり立ちたり

毒多くの寶玉を

この眞晝に光らしたり

泣き濃厚に過ぎたる五月を

 

濃き天   村山槐多

 
 
  濃き天

 

濃き天に

われ聯想するはきらきらと

電光に

照らされし黄金の塔の尖端

 

わが心は大和國ならねども

濃き天には豪奢をちりばめ

數月の都をめぐり

大なる叫び酒杯の如く置く

 

濃き天に

われ身を震はするは

暴君の怒りにふれし

希世の美女が生命の如く

 

ああ五月に

わが心は天平の佛教の如く

きらきらと眩しく

濃き天に震動せり

踊りのあと   村山槐多

 
 
  踊りのあと

 

靄のうち血の如く美しき

提灯の如あかき

あへかなる踊りの君は

踊りつかれて我による

 

踊りつかれて慕はしき

君が肌へわれにふる

晩春の光の刺は

君が肌へをかき破る

 

血の如く美しくして

うれしき踊りは

媚かしき疲れに導かれて

君が肌へをわれに投げかく

 

晩春にともしたる

赤き提灯の明るき

鬼薊の如き紫の

刺の身を刺す痛さ

 

君が汗はわれにのたくり

靄のうちに感動をつたふ

われは君が横顏を見つめたり

かなしみの來るまで恐ろしき戀しさに

 

あへかなる踊りの君は

この眞晝一踊りつかれて

いたましわれによる

なよなよと疲れに醉ひしれて

 

 

[やぶちゃん注:二箇所の「あへかなる」はママ。第五連の最終行は底本では「かなしみの來るまで恐らしき戀しさに」であるが、この「ら」は明らかに「ろ」の原稿の誤字或いは底本の誤植であると断じ(「全集」は無論、「恐ろしき」となっている)、訂した。]

情調   村山槐多

 
 
  情調

 (未來の日本未曾有のわが大戲曲『五色殺載』の參考)

 

櫻より生れし人は賑やかに

五つの町をかたづくり

美しき提灯は晝もなほ

薄くれなひにともしたり

 

樂しげに濕りたる空に鳴けり

小鳥群れなく

寶玉の如めざましき空の豪奢も

たけなはに靑く鳥なく

 

かくて我耳の底には

ぼかしたる音樂を沈めて積みぬ

櫻の町の一人はわれに近より

おもちやにすわが性をひたおもてより

 

街道に人はみなふりかへりつゝ

遠方に銀紙の如く見ゆ

湖は晝なるに燈をともしつゝ

燈ともして船浮びたり

 

すべて我霞に醉ひて

美しき提灯の燈にうき立ちぬ

君が眼は靑く鋭く凄くして

春の日の凝視つづくる。

 

[やぶちゃん注:「薄くれなひ」はママ。]

鬼薊   村山槐多

 

  鬼薊

 

紫の鬼薊

ぼつたりと赤血を落す時

美しき空仰ぎとめどなく

泣きたる狂女あり

 

いつまでかくは泣くぞ

豐かなる五月の外の光は

汝の執拗とその永き涙とを

濡らされて曇るに至らん

 

汝の奇怪なる姿は

赤血に濡れたり

また五月の狂女が泣涕は

耐へがたき殘酷の嬉しさをよぶ

 

ただ鬼薊

紫に人を睨み

とめどなき狂女が涙に

物凄く濡れたり

 

恐ろしき鬼薊

その銀に霞みたる莖(くき)に觸るる時

何故に痛みを出すか

女の毛の如き痛みを

 

かの狂女は哀れに叫ぶ

「鬼薊ゆるせよ」と

物凄き鬼薊そが紫に

ああ血ぞ滴たれる

 

    ○

 

大火ありかく人わめく

櫻咲く春の日中に

いづこぞと人の眼血ばむ

黑けぶりほのかに見ゆる

 

この時にわれは見つめぬ

美しきかよわき君の

靜にも、もの思ふ姿を

狂亂の花の眞中

 

 

[やぶちゃん注:「○」は底本では左右の円周部が少し切れているが、植字のかすれかも知れない(「全集」では、全く異なる「+」の記号が用いられている)。記号の直前の第六連は「全集」では「ああ血ぞ滴たれる。」と句点が打たれており、無論、最終連最終行も「狂亂の花の眞中。」となっている。]

美しき空   村山槐多

  

  美しき空

 

美しき空われに近づきたり

その空はとこしなへに

日にそがひ薄明を保つ

 

微笑なりまた未だ覺めぬ

東海の沖合なり

銀粒をちりばめたり

 

美しき空われに近づきたり

泣かんとすすべての精英は

この空より我を逃る

 

されどすべての犧牲を惜まじ

われはこの空に笛吹き

覺めざるこの空に悦ばん

 

 

氷の涯 夢野久作 (3)

 すこし脱線したやうだ。

 ニーナは十四の年に落魄(らくはく)した兩親に賣り飛ばされて、ネルチンスクから上海へ連れて行かれる處であつた。それを横奪(よこど)りして哈爾賓へ連れて來た無賴漢の手から、又逃げ出したニーナは、キタイスカヤの雜沓の中に走り込むと、向うから來かかつたオスロフの首ツ玉に飛付(とびつ)いて、

「お父さん……

 と出鱈目を絶叫したものだといふ。それから大笑ひの中(うち)にオスロフの養女になつて、語學だの、計算だの、自動車の運轉だのを教はる身分に出世(しゆつせい)したが、酒を飮ませると惡魔のやうな記憶力をあらはすので皆(みな)呆れてゐる。その中でも自動車の運轉はアンマリ上手過ぎて先生のオスロフが膽(きも)を潰すくらい無鐵砲だつたのでこの頃は禁じられてゐたといふ。むろん本人の話だから眞實(ほんとう)らしい。事實、酒を飮ませるとステキな才能と美しさを發揮する。雀斑(そばかす)までも消え薄れて氣がつかなくなるのだから……

[やぶちゃん注:「ネルチンスク」(Нерчинск)はロシア連邦ザバイカリエ地方のシベリア鉄道の都市で、チタの東三百五キロメートル、バイカル湖の東六百四十四キロメートルにあり、直線距離でハルピンの北西ジャスト千キロメートルの位置にある。]

 又、脱線しかけた。

 旅行勝ちなオスロフの留守中、司令部の上の四階には、そのお婆さんと妻君とニーナの三人が、居るか居ないか解らない位(くらゐ)ヒツソリと暮してゐた。もつともその中でニーナだけは特別であつた。彼女は所謂、少女病(せうぢよびやう)の傾向に陷り易い無邪氣な司令部の將校や下士連中(れんちう)に引張凧(ひつぱりだこ)にされてゐたので、いつもスラブ式の垂髮(おさげ)を肩の左右に垂らして、コツソリとお酒を飮んでは、三階の居室から、二階の事務室の間を、木戸御免式(きどごめんしき)の自由自在に飛び廻つてゐた。尤も誰かに戒(いまし)められてゐたらしく、二階から下へは滅多に降りて行(ゆ)かなかつたので、兵隊連中(れんちう)にはあまり評判がよくなかつた。……「あれあタヾの女ぢないぜ」……なぞと陰口を云ふ者もゐたが、併し、彼女がドンナ意味の只(たゞ)の女ぢやないかを知つて居る者は一人(ひとり)も居なかつた樣(やう)だ。

 それから次は問題の屋上であるが、これは一面に平べつたい展望臺になつてゐた。時々散歩に行つてみると中央の四本の煙突を包み圍んだ四角い裝飾煉瓦(さうしよくれんぐわ)を中心にした黑タイル張の平面に、色々な形の大小の植木鉢が、何百何十となく並んでゐた。しかもそれが皆、仙人掌(サボテン)の鉢はかりで一々番號札が付いてゐた。これは當時こゝいらで大流行をしてゐたもので、ニーナからせがまれるまにまにオスロフが買ひ集めて遣(や)つたものだと云ふ。ニーナは勉強や毛糸細工(ざいく)に飽きると、直ぐこの屋上に出て來て、小さなバケツに水を汲んで支那筆(しなふで)を濕(しめ)しながら、そんな仙人掌の一つ一つにたかつてゐる滿州特有のホコリを拂つて遣(や)る。それから大通りに面した木製の棚の上に毎日毎日並べ換えへてやるのであつた。

 しかし僕がよくその展望臺に行つたのはニーナを見る爲ではなかつた。ニーナは、此家(ここ)へ來た初めにタツタ一度、階段でスレ違ひさまに「ズアラスウヰツチ」と挨拶をしたら、ジロリと僕の顏を睨んだきり、返事もしないで逃げ降りて行つたから、ソレ以來、行き會つても知らん顏をすることにきめた位(くらゐ)だ。耳だけ發達してゐる僕の露西亞語が通じなかつたせいぢや無い。僕の興味を惹く可(べ)くニーナがあまりに小さかつたのだ。のみならず僕がアレ以來一種の女嫌ひになつてゐる事は君も知つてゐる通りだからね……

 僕がよく展望臺へ上(あが)つたのは景色がいゝからであつた。平凡な形容だが、そこから眺めると哈爾賓の全景が一つのパノラマになつて見えた。邪魔になるのは向家(むかひや)のカボトキン百貨店の時計臺だけであつた。

 哈爾賓はさすがに東洋の巴里(パリー)とか北滿(ほくまん)の東京とか云はれるだけあつた。
 
[やぶちゃん注:●「東洋のパリー」主にロシア人によって開かれたハルピンはその美しい街並みから当時は「東洋のモスクワ」「東洋のパリ」と呼ばれた。]
 
 何町(なんちやう)といふ廣い幅でグーツと一直線に引いてある薄茶色の道路からして、日本内地では絶對に見られない痛快な感じをあらはしてゐた。小さな葉を山のように着けた楡(にれ)の大木(たいぼく)が、その左右と中央を三筋も四筋も縱貫してゐる間から、露西亞式の濃艷(のうえん)な花壇がチラチラしてゐる處を見ると、それだけで異國情緒が胸一パイにコミ上げて來る。

 あつち、此方(こつち)に、コンモリとした公園が見える。その間を鐵道線路が何千哩(マイル)にわたる直線や曲線で這ひまはつて、眼の下の停車場(ていしやぢやう)を中心に結ぼれ合つたり解け合つたりしてゐる。その向うにお寺の尖塔がチラチラと光つてゐる。その又はるか向うには洋々たる珈琲〈コーヒー)色の松花江(スンガリー)が、何處(どこ)から來て何處へ行(ゆ)くのかわからない海みたように横たはつてゐる。三千百九十呎(フィート)とか云ふ大鐵橋も見える。その又向うには何千哩かわからない高梁(カウリヤン)と、豆と、玉蜀黍(たうもろこし)の平原が、グルリとした地球の曲線をありのままに露出してゐる。大空と大地とが、あんなにまで廣いものと誰が想像し得よう。司令部の地下室から出てあの景色を見廻すと僕はボーツとなつてしまふのであつた。

[やぶちゃん注:「寺」これはまず、可能性の一つは当時のハルピン(現在の中華人民共和国黒竜江省哈爾浜(ハルビン)市)にあった中央寺院(ニコライエフスキー大寺院であるが、これは文革時代に破壊されて現存しない。サイト「みに・ミーの部屋」の「満州写真館 ハルピン 2」(この写真や解説、同「ハルピン 1」の何とも言えぬ雰囲気を持った絵葉書写真は、本作を読み、それを映像化する上で絶対に必見である!)に詳しく、そこには『ハルピンの絵葉書で必ず登場する中央寺院で、尖った屋根を持つ独特の形状』を成すとあって、『駅前から伸びる主幹道路のロータリーの真ん中にあるためか有名だったようで、多くの写真がのこってい』るとあって、内部の荘厳も贅を極めたものだったらしい(前に引いた「北海道大学附属図書館」公式サイト内のギャラリーにある「ハルピンの景勝:北満洲の都市美」で「哈爾濱中央寺院」の二枚の画像が見られる)。但し、この主人公上村の言い方が、複数の「寺」の尖塔が「チラチラと光つて」見えるというのであれば、リンク先にも書かれているように、当時のハルピンにはこの中央寺院よりも『もっと大きなものは幾つもあ』つたとあるから、現存する旧聖ソフィア大聖堂(中国語「聖索菲亜大教堂」)のそれである可能性もあるか。ウィキの「聖ソフィア大聖堂 ハルビンによれば、旧ロシア正教会の聖堂で、ハルビンを象徴するロシア建築であるが、現在は教会・聖堂としては使用されず、ハルビン建築芸術館として『ハルビンの開拓期の写真をはじめ、絵画、教会堂などの模型が展示されており、観光名所となっている』(一般には「ソフィスカヤ寺院」とも表記されるが、正教会では「寺院」の呼称は用いられないとある)。日露戦争の終戦二年後の一九〇七年三月に『帝政ロシアの兵士の軍用教会として創建された』。現在のそれは高さ五十三・三五メートル(但し、一九三二年に改築された後の高さ)。『ビザンチン建築の影響を強く受けており、平面がラテン十字形であり』、約二千人が『収容できる規模である。最上階の鐘楼には音の異なる』七つの鐘を有する。『内部の壁は痛みが激しく、色褪せ所々剥落しており古色蒼然たる趣がある。窓ガラスにはステンドグラスは一切使われていない。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のレプリカなどが飾られ、豪華なシャンデリアは特に壮大である』とある。

「松花江」(しょうかこう/中国音「ソンホワチアン」)は中国東北部を流れる川で、ウィキの「松花江」によれば、『満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー、sunggari ula)」すなわち「天の川」と呼ばれており、この地に入ったロシア人もスンガリ(Сунгари)と呼んだ。第二次世界大戦前の日本、殊に満州国時代の日本人の間でもスンガリ川の名で知られている』。『アムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変え』、『しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する』。長さは千九百二十七キロメートル、流域面積は二十一万二千平方キロメートルに及ぶ。『冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する』とある。

「大鐵橋」これは現在の「濱洲(ひんしゅう)鉄路橋」と呼ばれるもの。「三千百九十呎」は九百七十二・三メートルである。調べて見ると、とある実際に訪れた方の記載に、現在のこの橋は一・五キロメートルほどあると記されてあるのであるが、先の「満州写真館 ハルピン 2」に出る。これは昭和五(一九三〇)年の地図で見ると、少なくとも当時のそれ(橋部分)は本文通り、一キロメートル弱相当に見える。]

 ……スバラシイ虛無の實感……

 其の景色を眺めて居るうちに見當をつけて置ゐた地域を休みの時に散歩するのが又、僕の樂しみの一つであつた。

 十萬の露西亞人は新市街に、三十萬の支那人は傅家甸(フーチヤテン)に、五千足らずの日本人は阜頭區(ふとうく)と云つた風に、それぞれ固まり合つて住んでゐる。其のそれぞれの生活を比較して見るのが、又なかなかの樂しみであつた。キタイスカヤ界隈の傲華(がうくわ)な淫蕩氣分(いんたうきぶん)、傅家甸(フーチヤテン)のアクドい殷賑(にぎやか)さ、ナハロフカの氣味惡い、ダラケた醜怪さ……そんなものが大きな虛無の中に蠢めく色々な蟲の群れか何ぞのように見えた。

[やぶちゃん注:「傅家甸(フーチヤテン)」ハルピンの街区名。これを調べるうち、またしても必見の素晴らしいページを発見した。プロレタリア作家で戦死した里村欣三氏を顕彰する個人サイト「里村欣三ホームページ」の里村の「放浪病者の手記」についての評論満州小考である(くどいが、やはり解説と写真がマジ必見! なお、以下の引用部では「傅家甸」を「傅家甸」とするが、正しいと私が判断する「傅家甸」で統一した)。そこに掲げられた「ハルビン、都市の景観」の二枚の地図を確認されたい。本作に出る地名と位置関係がこれで完全に確認出来る。それによれば、哈爾賓(ハルビン)は、一寒村から二十年後の大正十年代には人口三十万人という『北満随一の大都市に発展したのであるが、その街区は「埠頭区(プリスタン)」「新市街(南崗)」「八区(八站)」「傅家甸」「馬家溝」「ナハロフカ」「香坊(旧哈爾賓)」に分けられる。「傅家甸(フーザテン)」は中国人街で』ある、とある。以下、そこからの孫引きとなるが、塚瀬進著「満州の日本人」(二〇〇四年吉川弘文館刊)によれば(下線はやぶちゃん)、『ハルビンは鉄道駅を中心に新市街(南崗)、埠頭区(道裡)、傅家甸(道外)などの地区からなり、日本人の多くは埠頭区に住んでいた。埠頭区は外国人商人が集まる商業街であり、横浜正金銀行や朝鮮銀行といった金融機関の支店や、三井物産や三菱商事などの支店がある場所であった。またハルビン銀座として有名なキタイスカヤ(中央大街)があり、ロシア情緒を感じる場所でもあった。(中略)傅家甸は喧噪にあふれた中国人街であった。住民の七割は労働者や小売商人といった下層の中国人が占め、市街は不潔であり、ひとたび雨が降れば走路はぬかるみ、歩行は困難を極めた。傅家甸には少ないながらも中国人に混じり奮闘する日本人もいた』とあり、越沢明著「哈爾賓の都市計画」(一九八九年総和社刊)によれば、『プリスタン(埠頭区)のメインストリートはキタイスカヤ(中国大街)であり、モデルンホテル、秋林商会、松浦洋行(松浦商会)などの大型商業建築が軒を並べていた。キタイスカヤに併行する新城大街は1920年以降に発展した商店街で中国人経営の商店が多かった。日本人の商店はモストワヤ(石頭道街)、ウチヤストコワヤ(地段街)、トルゴワヤ(売買街)の一帯に集中していた。商店の看板は各国語で表示され、国際都市としての性格を表していた。裏町は夜は歓楽街となり、ロシア・キャバレーや邦人花街(ロシア官憲により一面街に営業指定区域の許可を得る)、朝鮮人遊郭(柳町)などが集積していた』とあり、同書によれば、『新市街(南崗)と馬家溝は緑豊かな美しい街で、「鉄道会社の施設・社宅、官庁、各国領事館、兵営」のある「山の手」で』、『中国人は南崗への居住は許されなかったが、プリスタンには商人の居住が認められた。中国人の多くはプリスタン東側の鉄道付属地外に拡がる河畔の沼沢地に居住するようになり、自然発生的に中国人外が形成された。これが後に傅家甸と呼ばれる地区で、鉄道付属地の外にあるため道外とも呼ばれるようになった』。『ナハロフカ(新安埠)はプリスタンの西側隣接地の低湿地であり、白系ロシア人の難民の貧民街であった。(中略)道路も未整備で、木造家屋が立ち並ぶという住環境の悪い地区で』、『香坊は田家焼鍋という中国人集落があった場所で、「哈爾賓誕生の地であり、(中略)旧哈爾賓(スタールイ・ハルピン)と呼ばれ」る』など、本作を味わうに、非常に貴重な当時のハルピン市街の細部を伝えて呉れて、まっこと嬉しい(久作は行ったこともないハルピンをかなり正確に描写していることが分かる)。なお、本文に各地区の人口が出るが、『ハルビンの人口は、戸籍簿もなくまた調査機関も不備なため、資料および時期によって数字が大きく異なる』として、大正一一(一九二二)年の三つのデータが紹介されている。それによると、「哈爾賓乃概念」なる書には、

 ロシア人(十五万五千人)+中国人(十八万三千人)+日本人(三千八百人)

  =計三十四万三千人

とし、『哈爾賓日本商業会議所時報』(第五号・大正十一年五月十五日発行)では、

 ロシア人(五万五千人)+中国人(十九万五千人)+日本人(三千五百四十五人)

  =計二十五万四千人

で、さらに『哈爾賓日本商業会議所時報』(第十一号・大正十一年十一月十五日発行)では、

 ロシア人(八万八千人)+中国人(三十一万五千人)+日本人(三千二百三十九人)

  =計四十四万四千人

とロシア人・中国人とも各十万人もの差がある数字ではあるが、大正十一年のハルビンはほぼ三十万人都市であって、『中国人の増加とロシア人の減少という激しい人口移動が行なわれた都市であった』と述べられ最後に、但し、この大正十年代の三千から三千五百人という『ハルビンの日本人数は「日本人居留民会」下にある人々であって、旅行者等の一時滞在者や不良無頼の徒、阿片やモルヒネを扱う密売商など、この数値を相当に超える日本人がハルビンに居たと思われる』とあるから、久作の、

 ロシア人(十万人)+中国人(三十万人)+日本人(五千人足らず)

  =四十万五千人

という数値もこれ、決していい加減なものではないことが分かる。最後に。ここまでで誤解されている方がいるとまずいので言っておくが、作者夢野久作(本名・杉山直樹)は四十七年の短い生涯の中で一度も日本国外に出たことは、なかった。]

 ところが、そんな處を丹念に見まはつてゐるうちに、その副産物といふ譯ではないが、市中に在る色色な銀行や兩替店(りやうがへてん)の名前、工場、商店、料理屋の大きなもの、劇場、娘子軍(ぢやうしぐん)の巣(す)なぞ云ふものを僕はスツカリ記憶(おぼ)え込んでしまつたので、司令部のお使ひと云ふとすぐに「上村(うへむら)」と指名される位(くらゐ)、重寶がられるやうになつた。そのたんびにイヨイヨ哈爾賓通(ハルピンつう)になつて行つて、貰ひ集めたり買ひ集めたりした古雜誌(ふるざつし)の類が、整頓棚(せいとんだな)と同じ高さになつてゐた。……退屈な、話相手もない、兵卒の中の變り種である文學靑年の僕に取つては、讀書以外の何の慰安もなかつたので……

[やぶちゃん注:「娘子軍」娼婦たち(集団)を表わす隠語。ここは所謂、日本人街の「からゆきさん」らのそこだけでなく、ロシアや中国人のそうした生業(なりわい)を成している人々の居住区をも指すものと思われる。]

 事實……屋上の展望と散歩を除いた哈爾賓の生活は、僕に取つて退屈以外の何ものでもなかつた。町のスケールが大きければ大きいだけ、印象がアクドければアクドいだけ、それだけ哈爾賓の全體が無意味な空つぽなものに見えた。その中に一直線の道路と、申し合わせたやうなモザイク式花壇を並べてゐる露西亞人のアタマの單調さ、退屈さ、それは吾々日本人に取つて到底想像出來ないくらゐ無意味な飽きつぽいものであつた。その中で毎日毎日判で捺した樣な當番の生活をする僕……眺望と、散歩と、讀書以外に樂しみの無い無力な兵卒姿の僕自身を發見する時、僕はいつも僕自身を包んでゐる無限の空間と、無窮の時間を發見しないわけには行(ゆ)かなかつた。宇宙は一つのスバラシク大きな欠伸(あくび)である。さうして僕は其中にチヨツピリした欠伸をしに生まれて來た人間である……といふ事實をシミジミと肯定しないわけに行(ゆ)かなかつた。

 處(ところ)が九月初旬の何日であつたか。丁度月曜日だつたから、僕達が司令部にはいつてから五週間目だつたと思ふ。その不可抗的に大きな退屈を少しばかり破るに足る 事件が持ち上つた。むろんそれは最初のうち僕自身にだけサウ感じられたので、事實はトテモ大きい……西比利亞から北滿へかけての政局と戰局に、重大關係を及ぼすほどの事件の導火線だつたことが後(あと)になつてから首肯(うなづ)かれた。

[やぶちゃん注:「九月初旬の何日であつたか。丁度月曜日だつたから、僕達が司令部にはいつてから五週間目だつたと思ふ」本作品内時間は大正九(一九二〇)年であるから、カレンダーを見る限り、九月六日の月曜と思われる(次の月曜は十三日で最早初旬ではない)。従って、彼がハルピンの日本陸軍司令部に着任したのは、八月の第一週目であったことが分かる。]

 それは經理室附きの星黑(ほしぐろ)といふ○○主計が公金十五萬圓を搔泄(かつさら)つて、同じ司令部附きの十梨(となし)といふ通譯と一緒に逃亡した事件であつた。

[やぶちゃん注:○○主計」「全集」では『二等主計』となっている。 「搔泄(かつさら)つて」「全集」では「かっぱらって」となっている。]

 さうした事實が發覺したのは月曜日の午前中であつたが、取調べの結果判明したところによると、星黑主計が朝鮮銀行の支店から金を引出したのは土曜日の午前中であつた。それから何喰はぬ顏で經理部へ來て、平常(いつも)の通り事務を執つてゐたのだから、行衞(ゆくゑ)を晦(くら)ましたのは土曜日の晩から日曜の朝へかけての事らしかつた。なほ帳簿を調べてみると星黑主計は、それまでに千五百圓ばかりの官金を費消して居たと云ふのだから、多分、近いうちに實施の豫定になつてゐる軍經理部の會計檢査を恐れて、毒皿方針(どくざらはうしん)を執る決心をしたものであつたらう。……又、一緒に逃げた十梨通譯は七月の下旬に内地から來た者で、來る匆々(さうさう)からホルワツト將軍の手記を飜譯(ほんやく)させられてゐたものだといふ。そのうちに星黑主計とも懇意になつたらしく、よく一緒に何處かへ飮みに行く姿を見かけたものであるが、それが日曜の朝からプツツリ姿を見せなくなつたのでテツキリ共犯と睨(にら)まれてしまつたものである。……二人とも戰鬪員では無いので軍人精神が薄弱である。おまけに舊式露人(ろじん)の豪華な生活や、在留邦人の放縱な交際紅接する機會が多かつた關係から、コンナ墮落した心理狀態に陷つたものであらう……と將校連中(れんぢう)は云つてゐた。

[やぶちゃん注:「毒皿方針」老婆心乍ら、毒を食らわば皿まで、一旦、悪に手を染めたからには最後まで悪に徹しよう、というやり方である。]

 しかし、かうした憤慨は將校連中(れんぢう)よりも兵卒の方が非道(ひど)かつた。この時の戰爭の特徴として、何處を當てどもなく戰爭して來てゐるやうなタヨリない、荒(すさ)んだ氣持ちに兵隊達は皆(みな)なつてゐる處であつた。その癖、相手は何時何處でドンナ無茶を始めるかわからないパルチザンや土匪(どひ)と來てゐるのだから、何の事はない、一種の人間狩(にんげんがり)みたやうなモノスゴイ氣持ちで毎日毎日ウズウズしてゐる兵隊連中(れんぢう)であつた。そこへ思ひがけないハツキリした賣國奴同然の奴(やつ)が、二人も揃つて、味方の中から飛び出したのだからたまらない。上官だらうが何だらうが構はない。見付け次第にノちまへと云つた調子でトテモ素晴らしいセンセイシヨンを捲起(まきおこ)したものであつた。

[やぶちゃん注:「土匪」匪賊。老婆心乍ら、土着民の中で武装して集団となって略奪や暴行を行っていた賊の意であるが、特に近代史上の日本語では近代中国に於ける中国人の非正規武装集団を広く指した。]

 むろん司令部は大狼狽であつた。事件の發覺した朝のこと、僕たちがまだ何の事か判らないまゝ、眼の色を變へて出入りする特務機關所屬の參謀や、憲兵や、銀行員らしいものの顏を茫然と見まはしてゐるうちに、當番係(たうばんがかり)の上等兵が降りて來て、三階の眞中の一室に積上(つみあ)げられてゐる夥(おびたゞ)しい椅子を十個だけ殘して、あとを全部四階の大舞踏室(だいぶたふしつ)へ持つて行けと命令を下した。さうしてそのアトに急設された搜索本部(假りにさう云つて置く)に六人の憲兵がドカドカと詰めかけて來た。上席が中尉で、左右に曹長と伍長、そのはかに上等兵が三名で合計六名であつたが、みんな腕ツコキの連中(れんぢう)といふ評判であつた。

[やぶちゃん注:以下、底本では一行空き。]

氷の涯 夢野久作 (2)

 日本は現在(大正九年)歐州大戰の影響を受けて西比利亞(シベリア)に出兵してゐる。同時に北滿(ほくまん)守備といふ名目で○個○團の軍隊が哈爾賓に駐劄(ちゆうさつ)してゐる。その中で歩兵第○○○聯隊第二中隊に屬する上等兵一名を入れた七名の兵卒が、キタイスカヤに在る〇〇司令部に當番卒として、去年(大正八年)の八月に派遣された。その中に僕は居たのだ。

[やぶちゃん注:●「シベリア出兵」以下、非常に長くなるが、ウィキの「シベリア出兵」から引く。当時の派兵兵士の現状を知ることが、本作のロケーションを極めて鮮やかに描き出して呉れるからである。ともかくも騙されたと思ってお読みあれ(アラビア数字を漢数字にし、記号の一部を省略変更、段落は省略した)。一九一八(大正七)年から一九二二(大正十一)年までの間に、『連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ』。『日本は兵力七万三千人(総数)、四億三千八百五十九万円から約九億円(当時)という巨額の戦費を投入。三千三百三十三人から五千人の死者を出し』て撤退した(兵力投入はアメリカ約八千人、イギリス千五百人、イタリア千四百人と比すれば差は歴然)。『ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明』であるが、尼港事件(ニコラエフスクで発生した赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。パルチザン部隊四千三百名が占領、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分の六千名を超えるともいわれ、日本人居留民・日本領事一家・駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。ここはウィキの「尼港事件」に拠った)前後には『五千名以上が殺害されたとされ』、『また別資料では、死傷者八万人、六億ルーブル以上の被害とされる』とある。その後、一九二一(大正十)年『のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち内閣総理大臣となった加藤は一九二二年六月二十三日の閣議で、この年の十月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた』とある。さて、問題はその現地での実情である。『日本軍は出兵当初から「露国領土の保全」と「内政不干渉」を謳った「一九一八年八月二日布告」の普及に努めたが、ロシア人住民の対日感情が芳しくないことを熟知すると、日本国内の宗教団体を利用する方式を採用し、日本正教会と西本願寺に白羽の矢が立った。前者からは、三井道朗、森田亮、瀬沼烙三郎、石川喜三郎、計四名の神父、後者からはウラジヴォストークの西本願寺布教場の大田覚眠師が工作員に指名された。彼らの活動内容を伝える資料としては、外務次官・幣原喜重郎から陸軍次官・山田隆一に宛てた通牒(一九一八年八月二十二日付)などがある。そこには「表面全然政府ト関係ナキ体裁」をとることなど、工作を実施する上での規定が詳細に記されている。日本軍特務機関および総領事と緊密な関係を保ちつつ、森田と瀬沼はウラジヴォストーク方面を中心に活動し、三井と石川は北満州・ザバイカル州方面、さらにはチタからイルクールクまで足を伸ばした。後者は遊説の傍らハルビンで購入した食料品や日用品の廉売に従事したとされる。西本願寺の大田もウラジヴォストークで宣撫活動に従事。しかし一九一九年頃まで続いた活動の成果は芳しくなかったとされる』。以下、「現地における日本軍将兵の実態」の項より。『一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られた』(以下、引用。引用文は恣意的に正字化し、一部を歴史的仮名遣に訂した)。『一般ニ士氣發揚シアラサルカ如シ 即チ戰爭ノ目的ヲ了解シアラサルノミナラス官費滿州旅行位ノ心得ニテ出征シアルモノ大部ヲ占ムルノ有樣ナリ』(朝鮮軍司令官兵站業務実施報告)『また、チェコ軍救済と称してウスリー鉄道沿いにシマノフカまで前進した日本軍先陣部隊が、その先には「ロシア人しかいないと言はれて引き返し」、その後再び前線に送り出されるという「滑稽な一幕」もあったという。士官・幹部も同様で、ウラジヴォストークの某参謀将校が毎日「裸踊り」の観覧にうつつを抜かしていたことについての報告が残っている。戦線が泥沼化した一九二〇』(大正九年。なお、以下の引用文も恣意的に正字化した)『年の段階でも同地の派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁將棋に日を消し」ており、少壮将校は「酒樓に遊蕩」していたとされる。このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡國カ 隊改良ニ關スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極祕トシテ當路扱ヒ少數識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。同「絶叫書」の内容は全八節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。「軍紀頽廢ノ實例」の節は、さらに「(イ)敬禮ヲ避ケル」「(ロ)社會主義ノ氣分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無價値」の各小節に分かれている。(ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかったとされる。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡狀 州里驛より中東鐡道に達せる報告に日本兵は薪及鷄類を窃み又驛員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」)。また、同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戰國ノ住民ニ對スル」ような態度を糾弾している。「(ロ)社會主義ノ氣分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な靑年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社會主義」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。治安当局は「過激派」による「危險思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「祕 歸還兵ノ言動」では、「危險思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戰地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ツテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第七十二連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ對シテ壓制ナリ」として「下士以下全員著劍シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また、第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治一ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジヴォストーク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戰場ナラ彼等ハ命幾何アツテモ足ラン 彈丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」。戦線が泥沼化した一九二〇年頃には、前線の兵士は一日も早い帰国を望むようになったとされる(「他國の黨派添爭ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」)』。一方、以下は「白色テロへの日本軍の幇助」の項。『ロシア語学者の八杉貞利(当時、東京外国語学校教授)は、一九二〇年七月二十八日、アムール・ウスリー旅行を企てた。同旅行中の日記はシベリア戦争下の現地状況について記されており、その中には日本軍の白色テロに対する幇助の模様も含まれている』(以下の引用は恣意的に正字化した。一部を歴史的仮名遣に訂した)。『日本下級軍人が、所謂殊勲の恩賞に預からんがために、而して他の實際討伐に從軍せる者を羨みて、敵無き所に事を起こし、無害の良民を慘殺する等の擧に出ること。而して「我部下は事無き故可哀相なり、何かやらせん」と豪語する中隊長あり』。『また、別の駅では以下の話を耳にする』。『目下過激派の俘虜百名あり、漸次に解放したる殘りにて、最も首謀と認めたるものは殺しつつあり、之を「ニコラエフスク行き」と唱えつつありといふ』。更に、『各駅は日本兵によりて守備せらる。(中略)視察に來られる某少佐に對してシマコーフカ驛の一少尉が種々説明しつつありしところを傍聽すれば、目下も列車には常に過激派の密偵あり、列車着すれば第一に降り來たり注意する動作にて直ちに判明する故、常に捕らへて斬首その他の方法にて殺しつつあり、而して死骸は常に機關車内にて火葬す。半殺しにして無理に押し込みたることもあり。或時は両驛間を夜間機關車を幾囘となく往復せしめて燒きたることあり。隨分首切りたりなど、大得意に聲高に物語るを聞く。而して報告は、單に抵抗せし故銃殺せりとする也といふ。浦鹽にて聞きたることの僞ならぬをも確かめ得て、また言の出るところを知らず』とあって、もの凄いの一言に尽きる夢野久作も吃驚の猟奇頽廃何でもアリの地獄であったことが分かるのである。 ●「○個○團」「全集」では『○個旅團』。 ●「〇〇司令部」「全集」では『派遣軍司令部』で、前のも含めて、恐らく夢野自身が当局の検閲を意識して、もともと施してあった伏字であったものの、遠慮する必要のないことが分かって戻したものであろう。●「キタイスカヤ」ハルピン(現行の繁体字表記では「哈爾濱」)の中央大通街の旧名。「北海道大学附属図書館」公式サイト内のギャラリーにある「哈爾中央大街舊名キタイスカヤ街」で画像が見られる。]

 司令部に宛てられた家はキタイスカヤ大通の東南端に近い、ヤムスカヤ街の角に立つてゐる堂々たる赤煉瓦(れんぐわ)四階建の舊式建築で、以前はセントランニヤといふ一流の旅館だつたといふ。在留邦人は略してセントラン、セントランと呼んでゐるさうな。地下室が當番卒や雇人(やとひにん)の部屋と倉庫。一階が調理室、食堂、玄關の廣土間(ひろどま)等(とう)。その上の二階が本部、經理部なぞ云ふ色々な事務室、三階(がい)が將校や下士の居室、その上の四階(かい)の全部が此家(このいへ)の所有主のオスロフといふ露西亞人(ロシアじん)と其家族の部屋になつてゐた。

 ところで最初から暴露して置くが、此オスロフといふ家主(やぬし)と、其家族は、此事件の隱れた犧牲者だつたのだ。僕の罪名を彌(いや)が上にも重くすべく一家揃つて犬死にしたといふ世にも哀れな人間達だつたのだ。だから此處で些(すこ)しばかり、その家族について印象さして貰ゐ度いのだ。矢張り此事件に大關係のある屋上庭園の光景と一緒に……。

 オスロフは黑い鬚を顏一面に生やした六尺五六寸もある巨漢であつた。碧(あを)い無表情な眼をキヨイトンと見開いてゐる風付(ふうつ)きが、いかにも純粹のスラブらしかつた。いつも茶色がゝつた狩獵服や、靑いコール天(てん)の旅行服を着込んで、堂々と司令部に出たり這入(はひ)つたりしてゐた。さうかと思ふとバツタリ姿を見せなかつたりしたので、最初のうちは何處かの御用商人かと思つてゐたが、どうしてどうして極東露西亞に於ける屈指の陰謀政治家といふ事がその内にだんだんと首肯(しゆこう)されて來た。

[やぶちゃん注:●「六尺五六寸」百九十七センチメートルから二メートル。 ●「コール天」コールテン。縦方向に毛羽のある畝(うね)を持った織物であるコーデュロイ(corduroy)のこと。摩擦に強いので洋服地・足袋地等にする。「コーデュロイ」の語源は「王の綱」の意のフランス語である。実際、これは「コール天」とも表記するが、これは「corded(うね織りの)」と「天鵞絨(ビロード)」を合成した語とも、“corded velveteen” (“velveteen”綿製のビロード。べっちん)の略ともいう。]

 第一に驚かされたのは彼の居室になつてゐる四階の立派さであつた。多分、以前に一等の客室か貴賓室に宛てゝゐたものであつたらう。大理石とマホガニーずくめの莊重典麗を極めたもので、閉め切つてある大舞踏主なぞを隙見(すきみ)してみると、露西亞一流の、眞紅と黄金ずくめの眼も眩むやうな裝飾であつた。

 哈爾賓市中の商人といふ商人は皆、彼にお辭儀をしてゐた。中には、わざわざ店を飛び出して通りがゝりの彼と握手しに來る者もゐた。この邊一流の無賴漢や、馬賊の頭目と呼ばれてゐる連中(れんぢう)なぞも裏階段からコソコソ出入りしてゐた一方に、彼が銀月といふ料理屋で開く招宴(せうえん)には、日本軍の○○團長○○中將閣下も出席しなければならなかつたらしい。

[やぶちゃん注:●「日本軍の○○團長○○中將閣下」「全集」では『日本軍の司令官新納(にいろ)中將閣下』となっている。]

 彼は別に大した財産を持つてゐなかつたが、金を作ることには妙を得てゐたといふ。のみならず持つて生まれた度胸と雄辨で、日米露支の大立物を、片端(かたつぱし)から煙(けむ)に卷いて隱然たる勢力を張りつゝ、白軍のセミヨノフ、ホルワツトの兩將軍を左右の腕のやうに使つて、西比利亞王國の建設を計畫してゐたものださうな。自分の所有家屋を、軍隊經理と同價格の賄付(まかなひつ)きで、日本軍司令部に提供したのも、さうした仕事について日本軍と白軍の連絡を取るのに便利だからと云つて、進んで日本軍當局に要請したものであつたと云ふ。

[やぶちゃん注:●「白軍のセミヨノフ、ホルワツトの兩將軍」無論、ここまでの日本軍人の名は架空のものであるが、この二人は実在した人物である。ウィキの「西比利亜自治團」(「シベリアじちだん」と読む)及びそのリンク先によれば、「セミヨノフ」はグリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ(Семёнов, Григорий Михайлович 一八九〇年~一九四六年)でロシア革命当時、ザバイカル・コサック軍(Забайкальское казачье войско)のアタマン(атаман:統領。)であり、極東三州の独占的利権を確立しようとする日本軍参謀本部によって反革命勢力の軍事指揮官に擁立された人物である。ハルビンに於いてシベリア独立を目指し、日本の後援によって沿海州占領を計画した「西比利亜自治團」(団長は哈爾賓東洋大学教授ムスチスラフ・ペトロウィチ・ゴルワチョフ)を「極東政府(臨時全ロシア政府)没落後の代表者」と呼び、ロシア帝国の公金をここに譲渡させようとしたが、失敗しているとあり、「ホルワツト」はその同ウィキの末尾の「関連項目」の項に、似たような如何にも怪しげに『東邦露人大同協会(ホルワット将軍)』とある。]

 ところが此頃になつて又すこし風向きが變つて來たといふ噂も傳はつてゐるやうであつた。

 白軍の軍資金が缺乏した爲に活躍が著しく遲鈍になつた。ホルワツト將軍は、病氣と稱して畠(はたけ)の向うの舊(きう)哈爾賓の邸宅に寢てゐるらしく、彼が行つても容易に面會しない。同時にセミヨノフ將軍も以前(もと)の樣に彼の手許へ通信をよこさなくなつた。それは日本當局が貪慾な兩將軍を支持しなくなつたのに原因してゐるといふ事であつたが、その爲に立場がなくなつた彼は目下躍起となつて日本軍の司令部に喰つてかかつて居るといふ。

[やぶちゃん注:●「以前(もと)」一例と挙げておくが、「全集」は著しくルビが少なく、例えば絶対に読めないこの「もと」などのルビも、ない。久作は非常に当て読みの多い作家である。第一書房版全集はその点でも著しく不備と言わざるを得ない。

「閣下よ。窓から首を出して哈爾賓の街(まち)を見られよ。露國人(ろこくじん)の性格は彼(あ)の通り曲線(きよくせん)を好まないのだ」……と云つて……。

 むろん是は吾々司令部の當番仲間だけが、勤務中に聞き集めた時の綜合だつたから其樣(そん)な噂がドンナ將來を豫告してゐるかは勿論のこと、果して事實かどうかすら保證出來ないのであつたが併し、何にしても哈爾賓を中心にしたオスロフの勢力が大(たい)したものであることは周知の事實であつた。其せゐか司令部の中をチヨコチヨコと歩きまはる日本の將校や兵卒が、彼を見るたんびに仰向けになつて敬禮する恰好が此上もなく貧弱で、滑稽に見えた。

 彼は以上陳(の)べたやうな偉大な勢力を象徴する立派な建物の中に、タツタ三人の家族を養つてゐた。眞白髮(まつしらが)の母親と、瘠せこけた鷲鼻(わしばな)の細君と、それから現在、僕がこの手紙を書いてゐるすぐ横で湯沸器(サモワル)の番をしいしい編物をしてゐるニーナと……。

 ことわつて置くがニーナは決して別嬪(べつぴん)では無い。コルシカ人とジプシーの混血兒(あひのこ)だと自分で云つてゐるが、其せいか身體(からだ)が普通よりズツト小さい。濃いお化粧をすると十四五位(くらゐ)にしか見えない。それでゐて靑い瞳と高い鼻の間が思い切つて狹い細面(ほそおもて)で、おまけに顏一面のヒドイ雀斑(そばかす)だから素顏の時はどうかすると二十二三に見える妖怪(ばけもの)だ。ほんとの年齡(とし)は十九ださうで、ダンスと、手藝と、酒が好きだといふから彼女の云ふ血統は本物だらう。

 性格はわからない。異人種の僕には全くわからないのだ。馬鹿々々しい話だが彼女が平生(いつも)、何を考へて居るのか、彼女の人生觀がドンナものなのか、全く見當が付かないのだ。たゞ是非とも僕と一緒に死に度いと云ふから承知してゐるだけの事だ。さうして此手紙を書いて終(しま)ふまで死ぬのを待つて呉れと云ふと簡單にうなづゐただけで、すぐに落着いて編物を始めて居る女だ。だから僕には解らないのだ。

 死ぬ間際まで平氣で編物をしてゐる女……。

カテゴリ「夢野久作」創始 / 「氷の涯」全文電子化附注 (1)

ブログ・カテゴリ「夢野久作」を突如、創始することにした。

私の偏愛する本邦稀有の猟奇的幻想作家である。

 

「青空文庫」で多くが電子化されているものの、いつまで待っても、私が殊の外偏愛する「氷の涯」が公開されない(2006年からずっと「入力中」のママだ。……ワレ! 人を舐めんなや! ただの電子化に何で9年もかかるんじゃい!)。

 

痺れがビレビレ切れた。

――切れたら自分でやろう。

――それも多分、誰も手掛けないだろう版で

――正字正仮名で

――オリジナルに注を附して、だ。……

 

頭の中で何かのスイッチが入った……

『…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………といふ蜜蜂の唸るやな音』がして來た!……

ヤル気がムズムズわらわら湧き出してキタッツ!!……

 

本作は昭和八(一九三三)年二月刊の『新青年』に発表された。

底本は昭和八(一九三三)年五月十九日春陽堂刊日本小説文庫の単行本「氷の涯」(正字正仮名)を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で視認した。但し、底本は総ルビで五月蠅いから、私が難読或いは読みが振れそう或いは必要と判断したもののみのパラルビとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。傍点は太字とした。私が立ち止まった一部の語についてのみ、当該段落の後に簡単な注を附した。逆に言えば、私にとって達意の語については注さないということである。悪しからず。歴史的仮名遣の誤りも見られるが、そのままとして注記等は施していない。

因みに、私の所持する一九六九年第一書房刊「夢野久作全集」(第三巻所収)の同作と比すると、一部の表記・表現に改稿らしい部分が見られるが、特に大きな箇所を除いては注していない。但し、気になるのは同全集の中島河太郎氏の解題に『単行本所収に際して訂正加筆している』とある点で、この私が底本としている単行本とその全集の表記が異なることから、どうも私の底本としているのは雑誌初出形であると考えてよいようである(そもそも底本は純然たる久作の単行本ではなく、『日本小説文庫』というシリーズ本である)。私は葦書房の西原和海氏の編になる「夢野久作著作集」が全六巻で終わってしまった時、全小説作品をやってくれていたらなぁ、と秘かに残念に思った人間なのである。

 

 

 氷の涯

 

 この遺書(かきおき)を發表するなら、なるべく大正二十年後にして呉れ給へ。今から滿十個(か)年以上後(のち)の事だ。それでも迷惑のかゝる人が居さうだつたら、お願ひだから發表を見合はせて呉れ給へ。

 僕は怖いのだ。現在、背負はされて居る罪名の數々が、たまらなく恐ろしいのだ。萬一君が、僕の寃罪(むじつ)を雪(すゝ)ぐべく、この遺書(ゐしよ)を發表して呉れた場合に、こんなひどい罪に僕を陷れた責任を問はれる人が、一人でも出來てはならないと、そればかりを氣にかけてゐるのだ。そんな人々を僕が怨んでゐるかのやうに思はれるのが、自分の罪科以上にたまらなく辛いのだ。出來る事なら斯樣(こん)な未練がましい手紙なんか書かない方がいい。默つて一切合財の罪を引受けたまゝ死んで行つた方が、却つて氣樂ぢないかとさへ思ってゐる位(くらゐ)だ。

 だから僕はこの事件に關係してゐる人々の氏名や、官職名、建物(たてもの)、道路等(とう)の名稱、地物(ちぶつ)の狀況、方角なぞを、事件の本質に影響しない限り、出來るだけ自分の頭で變裝(カモフラージ)させてゐる。事實の相違や、推移の不自然を笑はれても仕方がない。たゞこの事件を記憶してゐる人々の、さうした記憶を喚び起すだけに止(とゞ)めて居る。さうして僕の此(この)事件に對する責任の程度を明らかにするだけで滿足して居る。……それ程に不愉快な、恐ろしい、驚く可き事件なのだ。

 この事件は最早、内地に傳はつて居るかも知れない。又は依然として嚴祕(げんぴ)に附せられて居るかも知れない。

 僕は現在、自分自身に對してすら辨解の出來ないくらゐ、複雜、深刻を極めた嫌疑を、日本の官憲から受けて居るのだ。捕つたら最後八ツ裂にされるかも知れない恐ろしい嫌疑を……。

 僕……陸軍歩兵一等卒、上村作次郎(うへむらさくじらう)が、哈爾賓(ハルピン)駐劄(ちゆうさつ)の日本軍司令部に當番卒として勤務中に、司令部附(づき)の星黑(ほしくろ)主計と、十梨(となし)通譯と、同市一流の大料理店、兼、待合業(まちあひげふ)「銀月(ぎんげつ)」の女將(おかみ)、富永(とみなが)トミの三人を慘殺して、公金十五萬圓を盜み出した……同時に日本軍の有力な味方であった白軍(はくぐん)の總元締(そうもとじめ)オスロフ・オリドイスキー氏とその一家を中傷、抹殺し、同氏の令孃ニーナを誘拐した上に、銀月を燒き拂つて赤軍に逃げ込んだものに相違ない……だから、それに絡まる賣國、背任、横領、誣告(ぶこく)、拐帶(かいたい)、放火、殺人、婦女誘拐、等(とう)々々……と言ったやうな想像も及ばない超記録的な罪名の下(もと)に、現在、絶體絶命の一點まで追ひ詰められて來て居るのだ。

[やぶちゃん注:●「駐劄」駐箚も同じい。外交官などが任務のために暫くの間、外国に滞在・駐在すること。 ●「拐帶」「誘拐」の意もあるが、ここは後に「婦女誘拐」が出るから、今一つの意、預けられた金品を持って行方を眩(くら)ます「持ち逃げ」の意。 ●「オスロフ・オリドイスキー」実は第一書房版全集第三巻(以下、鍵括弧附きで「全集」と呼称する)の「氷の涯」には本文三ページ目に『主な登場人物』の一覧が表になって載っている(但し、これは夢野本人の手になるものではなく、全集編者によるものである可能性があるので総てを引くことはしない)が、そこには『キタイスカヤの「セントラン」(もと旅館、今は司令部のある建物)の所収主、白露の陰謀政治家』とある。 ●「ニーナ」同前の登場人物一覧に『オスロフの養女、十九歳』とある(戦前であるから数え)。]

 勿論、そんな戰慄的な大事件が次々に哈爾賓で渦卷(うづま)き起つたのは事實だ。同時に僕が、そんな事件の中心になつて居る哈爾賓駐劄の日本軍司令部に、當番卒として勤務してゐた事も、たしかな事實に相違ない。

 しかし夫(そ)れにしても、そんな大事件を捲き起すべく餘りにも無力な僕……むしろ小さな、間接的な存在に過ぎなかつたであらう一兵卒(ぺいそつ)の僕が、どうして其樣(そん)な怪事件の大立物(おほだてもの)と見込まれるに到つたか……白狀する迄もなく、中隊でも一番弱蟲の小心者と言はれてゐた僕が、どうして日本軍、白軍、赤軍の三方(ぱう)から睨み付けられ、警戒され、恐れられて、生命(せいめい)までも脅やかされる立場に陷つて來たのか。さうして其の眞相を發表する機會をトウトウ發見し得ないまゝ、思ひもかけない氷(こほり)の涯(はて)に生涯を葬らなければならなくなつたのか……といふ疑問は、現在でも、多少に拘はらず抱いてゐる人が居るに違ひないと思ふ。たとへば僕の平生(へいぜい)を知つて居る戰友や、直屬の上官なぞ……その疑問を今から解き度(た)いと思つて居るのだ。その變幻不可解な慘劇(ざんげき)の大渦卷(おほうづまき)を作り出した眞相の數重奏(すうぢうそう)を、此の手紙の中に記錄してみたいと考へて居るのだ。

[やぶちゃん注:●「思ひもかけない氷(こほり)の涯(はて)に生涯を葬らなければならなくなつた」殆んどの読者がこれを当初、極東極寒の地の涯に果てて行った主人公の比喩的な表現としか読まないように抑制しているところに、夢野の巧さを味わいたい。驚くべきことに、実に本作本文中では「氷」はたった八回、「涯」に至っては「生涯」が二度あるのを除くと「涯(はて)」はここ一箇所でしか使われていないのである。 ●「直屬の上官なぞ……その疑問を今から」第一書房版ではここが(恣意的に正字化した)、『直屬の上官なぞ……そんな人々のそうした疑問を今から』となっている。明らかに分かり易く書き加えていることが分かる。]

 決して口惜(くや)しいから書くのぢやない。かうして正義を主張するのでもない。僕は、さうした事件の全部に對して、云ふに云はれぬ良心的の責任を負うて居るのだから……。此の事件の素晴らしい旋囘力(せんくわいりよく)に抵抗し得なかつた僕自身の無力を、中心(ちうしん)から恥ぢ悲しんで居るのだから……。

 さもなくとも戰時狀態の大渦紋(だいくわもん)の中では種々(いろいろ)な間違ひが起り易いものだ。しかも、それは、いつでも例外なしに深刻を極めた、恐怖的な悲劇であると同時に、世にも馬鹿々々しい喜劇に外ならないのだ。さうして次から次に忘れられて、闇から闇へと葬られて行(ゆ)き易いのだから……。

 のみならず僕は、君も知つて居る通りの文學靑年だ。今でもチツトモ變つてゐない。……あやまつて美術學校(チヤカホイ)に這入(はひ)つてつて、過(あやま)つて戀をして、過(あやま)つて退校されるとソレツキリの人間になつてしまつた。スツカリ世の中がイヤになつた揚句、活動のピアノ彈きからペンキ職工にまで轉落してゐるうちに兵隊に取られた。それから上等兵候補になつて、肋膜で落第すると間もなく出征して、現在、哈爾賓駐劄の○○○團(だん)司令部に所屬してゐる意久地(いくぢ)の無い一等卒だ。たゞそれだけの人間だ。惜しがる程の一生ぢやない。恥かしがる程の名前でもない。親も兄弟も無いんだからね。

[やぶちゃん注:●「美術學校(チヤカホイ)」このルビはロシア語なんどと勘違いしそうだが、調べて見ると「チャカホイ」というのは囃し文句で、『何だ此の野郎柳の毛虫、払ひ落せば又あがる チャカホイ』(一番歌)で始まる東京芸術大学美術学部の前身である東京美術学校の校歌「チャカホイ節」のことと判明した。デカンショ節と同じく学生歌かと思われるが、「全國大學專門學校高等學校校歌集」(昭和三(一九二八)年郁文堂書店刊か?)の九十一番目に載るということ(上記歌詞ともに個人ブログ「愛唱会きらくジャーナル」の「東京美術学校校歌~チャカホイ節~東京音楽学校?」記事に拠る)、歌詞が卑猥ということから戦争中に禁止されてしまったということ(pincopallino2氏のブログ「パスクィーノ~ローマの落首板」の「東京外語の歌」の記事の末尾に美術学校の歌として拠る)が載るので「校歌」なのであろう。]

 但(たゞし)……タツタ一人(ひとり)君だけは僕を惜しがつて呉れやしないかと思つて居る。僕を何(なに)かの藝術家にすべく彼(あ)れだけの鞭撻を惜しまなかつた君だからね。

 しかし僕は君の鞭撻に價しない人間だつた。僕は一種の虛無主義者(なまけもの)だつた。默々としてコンナ運命に盲從しつゝ落込んで行つた……。

 だからたゞ君に對してだけは何となく心掛りがしてゐる。此儘默つて死んで行つては濟まない樣な氣がするから此手紙を書くのだ。

 此手紙を僕は、この浦鹽(うらじほ)に居る密輸入常習の支那(しな)人崔(さい)に託する。崔は來年氷が溶けてからこの手紙を一番信用のある戎克(ジヤンク)に託して上海(シヤンハイ)で投函させる約束をして呉れた。だから此手紙が君の手に屆くのは多分夏頃になるだらう。

[やぶちゃん注:●「支那人」第一書房版全集は「中国人」となっている。言わずもがな乍ら、これは私は夢野の改訂ではないと思う。全集の解題その他には編者による差別語変更注記は、ない。こういう所も第一書房版の胡散臭いところなのである。]

 迷惑だらうが讀んでくれ給へ。あとは紙屑籠に投げ込んでもいゝ。それでも僕は報いられ過ぎるだらう。

[やぶちゃん注:以下、一行空き。]

2015/06/26

薄明   村山槐多

  薄明

 
われに來てやまざる

燈火の如く美しき薄明あり

そは惡神の如く

「汝ただれよ」と心を襲擊す

 

「こは何ぞ」

われ驚愕の餘り追憶に逃げ入れば

豪奢なる心の底に

いとかなしき答あり

 

「まことに汝見つめなば

美しきこの薄明は

時々に汝が會ひ汝が戀ひたる

君が眼の多數き凝視なりと知らん」

 

耐へがたし

またなつかしきこの後覺

わが眼は春の燈火の如き

薄明より免れ得ざるなり

 

 

[やぶちゃん注:「君が眼の多數き凝視なりと知らん」の「多數」はママ。「全集」では「君が眼の數多き凝視なりと知らん」となっている。]

消えゆく性   村山槐多

  消えゆく性

 

害はれし美しき性は

廢園にすすり泣けり

憫然たる涙もて

五月を染めたり

 

ああ美しき性は

汚れたる空に消えたり

薄紫に燒かれて

未練もなく消されたり

 

かくて害はれし性は

廢園にすすり泣けり

その涙のあはれさよ

豐かなる五月も空しく消されたり

 

(いかに哀れならずや

 かく叫ぶその聲さへ)。

 

 

[やぶちゃん注:「全集」では最終連最終行に「かく叫ぶその聲さへ)。」と句点を打つ。冒頭で述べた通り、「全集」は概ね総ての韻文詩篇がこうなっているので、特異なケースを除き、この最終連最終行末の句点注は以下、原則、省略する。]

空   村山槐多  (前掲詩篇とは同題異篇)

  空

 

美しき空に濡れて

二人歩を共にすれば

この時銀鎖は薄明の空氣を曳きて

きらきらと二人に鳴る

 

美しき樂音連續す

されば空は恍惚たり

二人は歩む

きらきらと春の光ひかる

 

美しき空の下

の形に燈きらきらと戰動す

ああ都大路に

恍惚として二人は歩みたり

 

 

[やぶちゃん注:「全集」では最終連最終行に「恍惚として二人は歩みたり。」と句点を打つ。]

空   村山槐多

  空

 

わが空はなつかしき

なつかしき

鎖の如き

うつくしきながめに連續せり

 

舞樂する伊太利亞の空

シヤヴアンヌが上より下へぼかされし

群靑の空ならねどもたゞ

なつかしきなつかしき

うつくしきながめの空なり

 

そこに君の如く

美しき物の色あり

君の如くなつかしき

空の色鎖の如く連續せり

 

 

[やぶちゃん注:「全集」では最終連最終行に「空の色 鎖の如く連續せり。」と、字空けを施して更に句点を打つ。]

血に染みて   村山槐多

  血に染みて

 

血に染みて君を思ふ

五月の晝過ぎ

赤き心そ震ふ

あはれなるわが身に

 

はてしらぬ廢園に

豪奢なる五月に

君が姿立てる時

われはなくひたすらに

 

わが血は盡きたり

われは死なむと思ふ

華麗なる殘忍なる君をすてゝ

血に染みて死なん

 

 

[やぶちゃん注:「赤き心そ震ふ」の「そ」はママ。「全集」では「赤き心ぞ震ふ」となって、さらに最終連最終行に「血に染みて死なん。」と句点を打つ。]

五月短章   村山槐多

  五月短章

 

    一

 

美しき節會(せちゑ)の庭に

箜篌(たてごと)は何とひびかむ

我知らず我は唯ひたすらに

ひたすらに君を奏(かな)でん。

 

    二

 

たそがれに物なむる風の美(うま)さよ

熱(あつ)き朧銀の日のたそがれに

或秒は君をなめまた或秒は

片戀の我をなむ

慄然と我等をばなむる風
 
 
 
 

[やぶちゃん注:「全集」では「慄然と我等をばなむる風。」と句点を打つ。]

サイト「鬼火」開設十周年記念 尾形龜之助詩抄Ⅰ(中国語訳) (訳注/心朽窩主人・矢口七十七 写真/矢口七十七(PDF横書版・11MB)

サイト「鬼火」開設十周年記念
 
「尾形龜之助詩抄Ⅰ(中国語訳)」(訳注/心朽窩主人・矢口七十七 写真/矢口七十七(PDF横書版・11MB)
 
「心朽窩 新館」に公開した。11MBという、私のサイト内では単独ファイルとしては驚愕の重さであるからして、ダウンロードには少し時間がかかるものと思うが、どうか御寛恕願いたい。
 
これはここの、私のブログ・カテゴリ「尾形龜之助」で、昨年2014年10月より本2015年5月にかけて、私の盟友にして中国語に堪能な矢口七十七氏とともに行った、フォト・イメージ(撮影も矢口氏)附きの尾形龜之助の中国語訳凡そ100篇を、写真とともに一括集成したものである。
 
一括化に際しては、矢口氏が中文訳を今一度精査してかなり手を加えた。
また、出典を全篇に附し、必要と思われる注も追加、必要と考えられる注の中文訳なども増補してある。
さらに添えた写真についても、幾つかをより相応しいと判断した別なものへ差し替えたりしており、PDF版でのそれは、恐らくはブログ版とはまた異なった印象を持たれるであろうと考えている。

まずはこれが我々の尾形龜之助中文訳抄の第一弾の決定版と思って戴いて結よろしい。

特に、実質的な中文訳を担当して呉れた矢口氏より、是非とも中国人或いは中国語を母語とされる方に読んで戴きたいというメッセージを受け取っている。しかしそれは――本訳が中国語として正しいかどうか――まずは詩としての表現の基礎段階として、中国語として正しく訳されているか、中国語でちゃんと腑に落ちるかどうか――ということをネイティヴの方に忌憚なく確かめて評して戴きたい、という彼のすこぶる謙虚な思いからである。実際、本訳作業に於いては私は勿論、矢口氏も一切、訳文を中国語を解する方に読んで貰っては、いない。特に矢口氏はそれが容易な環境にいるにも拘らず、自らの今の力でのみ、本訳出を完成させるという節を、厳しく守ったのである。

矢口氏のそうした思いに加え、本詩抄で私は、現行の尾形龜之助の詩集で知られている詩形とは異なるものを敢えて掲げており、その詩形で矢口氏に訳して貰ってもいる。これは私の現行の尾形龜之助の幾つかの詩篇の扱いに対する、私の強い違和感を表明するものでもあるのである。

即ち、これはあらゆる多層的な意味に於いて――全く独自の中国語訳尾形龜之助詩抄――であるということである。

どうか、お知り合いの中国語を母語とされる方へ、本訳詩集を御紹介戴けるならば、恩幸、これに過ぎたるは、ない。――

四月短章   村山槐多

  四月短章

 

     一

 

玻璃の空眞(まこと)に強き群靑と

草色に冷たく張らる

かくて見よ人々を

木偶(でく)の如そこここに酒に耽れる

 

しかして

美しき玉の月日に悦びて

ただひとりはなれし君は

いと深き泉に思ふ

 

    二

 

銀と紫點打てる

川邊にめざめ立ちし子よ

いま日はすでに西にあり

青き夜汝(なれ)をまちてあり

行け朧銀の郊外を

あとに都に汝は行け

 

    三

 

善き笛の冷めたき穴に

こもりたる空氣をもれ

美しく歩み出でたる

君ひとり物のたまはぬ

 

    四

 

血染めのラツパ吹き鳴らせ

耽美の風は濃く薄く

われらが胸にせまるなり

五月末日日は赤く

焦げてめぐれりなつかしく

 

ああされば

血染めのラッパ吹き鳴らせ

われらは武裝終へたれば

 

    五

 

春の眞晝の霞に

鋭どき明り點(つ)けたる小徑あり

かたはらにたんぽぽのかたはらに

孔雀の尾の如き草生あり

 

そが小徑にのがれて

さびしくいこふ京人あり

美しく幽けき面

小徑がつけし明りの中に更に鋭どき明りをつけたり。

 

 

[やぶちゃん注:二箇所の「鋭どき」はママ。「全集」では二箇所とも「鋭き」となっている。また、本篇では表記の通り、「五」のパート以外ではパート内最終連最終行末尾に句点はないが、「全集」では「一」から「四」までの総てのパート内の最終連最終行末尾に句点が打たれている。]

醒めし時   村山槐多

  醒めし時

 

醒めたるは赤血色の花の中

五月の濃き空氣中なり

眞赤な入日を見る

わが夜は來れるなり

 

見る限り豐なる野なり

われ泣く

われ醒めて獨り泣く

紫靑の夜來らんとすればなり 

 

[やぶちゃん注:「全集」は最終連最終行末尾に「紫靑の夜來らんとすればなり。」と句点を打つ。]

靑色廢園   村山槐多

  靑色廢園

 

 是等の詩はわが友なるあへかなる少年のその異名を pRINCE と呼ぶに捧ぐるなり

われ切に豪奢を思ふ

靑梅のにほひの如く

感せまる園の日頃に

酒精(アルコール)なむる豪奢を

 

 

[やぶちゃん注:本前書中の「pRINCE」はママ。「全集」では「PRINCE」とする。「全集」では「酒精(アルコール)なむる豪奢を。」と句点を打つ。この前書は「是等」と複数形である以上、どこまでを指すかは不明ながら、この詩以降の複数篇を指すと考えねばなるまい。]

童兒群浴   村山槐多

  童兒群浴

 

黑き玻璃の山脈、赤き血の滴

げせぬ鋭どき天のときの聲

これらみな紫の異常になげく

夏の午後の一とき

薄紫、赤、黄は透明を傳染し

天地にみなぎりたり

硫黄泉は地底をつたふ

美しき湯氣の香はする

 

この時太陽は血潮の「能」を舞ひ

この時童子等は大川に喜戯す

紫の渦卷きに

うつれる空に喜戯せり

 

黄金の童子等は赤く笑へり

一瞬にして食人びとにとらはるゝばかりの恐れ

おしかくし勇ましく大笑す

天と地とうつしし水に

 

げに金屬の童子等は

怪しく燒けしその頰に

無窮の笑を帶ばしめつ水にとび入り

爬蟲の如く戯むれつ

 

かくも眺めてわが胸は

薄靑き珠玉の汗を宿し

この現象の惰さに全神經は

焦げはてゝじつとをのゝく

 

童子の腹赤く輝やく

五、六、七、美しき河水のそばに

おう赤き童子の群よ

太陽の祖先の如き赤さもて

 

眞赤に童子は喜戯せり

黑き玻璃の山脈にほの赤き幻燈うつる

血の滴(しづく)、低き天つたひてゆけば

天のときの聲もゝのうく消えぬ

 

寶玉の如、ものみなは輝やけり

さんらんたる思ひかや我をとり

わが眼をして大川の淺き底をも

深き天遠くに舞へる太陽をも慕はしむるは、

 

 

[やぶちゃん注:最終連最終行末尾の読点はママ。「全集」では句点。

2015/06/25

カテゴリ「村山槐多」始動 / 「槐多の歌へる」  村山槐多 詩 「二月」 

カテゴリ「村山槐多」を始動する。

私は既に心朽窩新館」に於いてやぶちゃん版村山槐多散文詩集を、また「心朽窩旧館」にて「遺書二通」の他、「癈色の少女」「鐵の童子」「居合拔き」「美少年サライノの首」「殺人行者」「惡魔の舌」「魔猿傳」「孔雀の涙」「魔童子傳」「繪馬堂を仰ぎて」『村山槐多全集「感想」所収作品』を、また「心朽窩新館」では「やぶちゃん版村山槐多散文詩集」といった作品をオリジナルを電子化しているが、ふと気づいて見れば、ネット上には肝心の彼の詩集の纏まったものが、意想外にも、どこにも存在しないことに遅ればせ乍ら、気づいたのである。

かの芥川龍之介は、鋭く槐多の才能を見抜いていた(私の村山槐多遺稿詩文集「槐多の歌へる」の芥川龍之介による推賞文を参照されたい)。

これはもう……僕が始めるしか――ない。
 
オリジナルの
「村山槐多全詩集」を目指す――

底本は、まずは国立国会図書館近代デジタルライブラリーの大正九(一九二〇)年アルス刊の「槐多の歌へる(正字正仮名)の画像を視認したが、その際、平成五(一九九三)年彌生書房刊の「村山槐多全集 増補版」(但し、新字旧仮名)で校合し、注を附した。なお、同「全集」版では総ての詩篇の最終連最終行に句点が打たれて〈殺菌〉整序されているが、これは最初の数篇までの注で示すに止め、以下は原則、省略した。他に所持する昭和二六(一九五一)年改造文庫刊草野心平編「村山槐多詩集」及び昭和五五(一九八〇)年彌生書房刊山本太郎編『世界の詩70 村山槐多詩集』も参考にした。

手始めに「詩」から始める。底本は各標記年度中の短歌・日記を詩篇の後に配してあるが、これは現行「全集」同様にまず詩篇だけを纏めて電子化することとする。但し、現行全集が独立章として分割している散文詩篇は底本通り、標記年度中に含めることとする。なお、やぶちゃん版村山槐多散文詩集で電子化した、底本及び「全集」ともに大正一八(一九〇七)年パートに入れてある散文詩的「童話」(五篇)は、詩篇とは独立させて再電子化する予定である。底本の標記年度の下にある丸括弧内の数字は槐多の年齢(数え)である。なお、底本の一部では、頁の組が変更され、二字分、有意に上っている箇所が散見されるが、これは思うに、実際の槐多自身の原稿の再現というよりも(同一頁内で行われている箇所はそのようにも見える詩篇もあるが)、一行の字数が長くなる箇所では、表記字数を増やすために、二字上げを行っている可能性が強いと判読した。従って、それは再現していない(一部では注で指摘した)。くれぐれも上記リンク先の底本で確認されんことを乞う。

明日は私のサイト「鬼火」の十周年である。その前夜祭とでも言祝いでおこう。【2015年6月25日 藪野直史】

 

 

 

   千九百十三年(18

 

 

 

   二 月

 

君は行く暗く明るき大空のだんだらの

薄明りこもれる二月

 

曲玉の一つらのかざられし

美しき空に雪

ふりしきる頃なれど

晝故に消えてわかたず

 

かし原の泣澤女さへ

その銀の涙を惜み

百姓は酒どのの

幽なる明かりを慕ふ

 

たそがれか日のただ中か

君は行く大空の物凄きだんだらの

薄明り

そを見つつ共に行くわれのたのしさ。

 

    ×

 

ああ君を知る人は一月さきに

春を知る

君が眼は春の空

また御頰は櫻花血の如赤く

寶石は君が手を足を蔽(おほ)ひて

日光を華麗なる形に象めり

 

また君を知る人は二月さきに

夏を知る

君見れば胸は燒かれて

火の國の入日の如赤くたゞれ

唯狂ほしき暑氣にむせ

とこしへに血眼の物狂ひなり

 

あゝ君を知る人は三月さきにも

秋を知る

床しくも甘くさびしき御面かな

そが唇は朱に明き野山のけはひ

また御ひとみに秋の日のきらゝかなるを

そのまゝにつたへ給へり

 

また君を知る人は四月のまへに

冬を知る

君が無きときわれらが目すべて地に伏し

そこにある萬物は光色なく

味もなくにほひも音も打たへてたゞわれら

ひたすらに君をまつ春の戻るを。



 

[やぶちゃん注:「打たへて」はママ。平成五(一九九三)年彌生書房刊「村山槐多全集 増補版」(以下の注では「全集」と略す)では「打たえて」とする。「×」の記号は「全集」では、全く異なる「+」の記号が用いられている。]

毛利梅園「梅園魚譜」 柔魚(ケンサキイカ?)

 Ika
 
Ika2  
 
 
柔魚(いか)〔ナガスルメ。コモソウイカ。〕

 壽曰く、

 柔魚、風乾(すぼし)するを「閩書(びんしよ)」に「明府(めいふ)」と云ひ、

 又、「螟」に作る。「本朝式」文に、「鯣(するめ)の孚(ふ)」

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「府」。]

 を用ひ、「延喜」の「神祇」に、「民部主計」等

 の式に若狹・丹後・隱岐・豊後より

 烏賊(イカ)を貢(こう)すと云ふは、則ち、「スルメ」なり。

 今、肥前五嶌(ごたう)より出だすを最上とす。

 伊豆の國及び丹後・但馬・伊豫より

 出だすを次ぎとす。長門より出だすもの、其の

 大いさ、尺に至る。肉厚く、美佳(みか)也。古へより

  賀祝の席に用ゆ。

  河豚(フグ)にあたりたる者、スルメを炙(や)く

  とも、煎じるとも、早く是れを食はしむ。

  河豚の毒、制伏(せいぶく)なすはこれに過ぎたるはなし。

  故に河豚の振る舞ひには必ず向附(むかうづけ)にス

  ルメの鱠(なます)・茄子の塩漬けを用ゐること、

  良方なり。

 

   同腹ノ圖

 

    乙未(きのとひつじ)十二月十日、

    眞寫す。

 

[やぶちゃん注:少々迷ったが、「全国いか加工業協同組合公式」サイト内のウェブ版の奥谷先生新編 世界イカ図鑑」を主に参考にするに、ずんぐりとした全体とヒレの形状及び分布域(江戸の梅園にもたらされた、捕獲からそう長い時間が経っていない個体といった様子)から判断すると、軟体動物門 Mollusca 頭足綱 Cephalopoda 鞘形亜綱 Coleoidea 十腕形上目 Decapodiformes 閉眼(ヤリイカ)目 Myopsida ヤリイカ科 Loliginidae ケンサキイカ属 Uroteuthis ケンサキイカ(メヒカリイカ型)Uroteuthis Photololigo edulis Hoyle, 1885)ではなろうか。迷った最大の理由は体色で、ネット画像を見ると全体に強い赤褐色を示すものが多いが、これらは基本、興奮時のそれで、生体時の体色は多分に透明度が高い。キャプションの「ナガスルメ」や前半の叙述からは、開眼(ツツイカ)目 Teuthida スルメイカ亜目 Cephalopoda アカイカ科 Ommastrephidae スルメイカ亜科 Todarodinae スルメイカ属 Todarodes スルメイカ Todarodes pacificus としたくなるのであるが、スルメイカにしてはヒレが大き過ぎ、こんなに寸詰っていない。しかもそもそもがこのキャプション、広くイカ類全般に亙る概説と読め、この前後には他のイカの絵がないことからも、かく同定しておいた。使用した二枚の画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正」の中の保護期間満了画像である。

「コモソウイカ」不詳。形状から「虚無僧烏賊」か?
 
「閩書」「閩書南産志」。明の何喬遠撰になる福建省の地誌。

「明府」中文サイトを見ると、現在でも寧波(福建省の北の浙江省の沿岸都市)の特産として「明府鯗」(「鯗」は音「ショウ」で「干物」の意)が挙がっており、そこにはこれは烏賊を指す旨の記載がある。

「本朝式」後の「延喜」と同じく「延喜式」のこと。

「鯣の孚」乾したスルメイカの皮・殻の意であろう。人見の「本朝鑑」の「烏賊魚」の「鯣」の条に(リンク先は私の原文訳注附テクスト)、

   *

 古へは混じて「烏賊」と稱す。「延喜式」の神祇・民部・主計等の部に、『若狹・丹後・隠岐・豊後烏賊を貢する者の有り』と。是れ皆、今の鯣なり。近世、肥の五嶋より來たるを以つて上品と爲(な)し、丹後・但馬・伊豫、之に次ぐ。古來、賀祝の饗膳に用ゆ。今、亦、然り。源順、崔氏が「食經」を曳きて曰く、「小蛸魚」を「須留女」と訓ず。此れも亦、同じ種か。

   *

とあり、どうも梅園は、この必大の記述を参照したようにも見える。

「河豚にあたりたる者、スルメを炙くとも、煎じるとも、早く是れを食はしむ。河豚の毒、制伏なすはこれに過ぎたるはなし」下関の「いちのせ水産」の公式サイト内のふぐ中毒・迷信あれこれに、フグ毒由来の嘔吐に対しては、『スルメを焼いて煙をかがせる』と『烏賊魚の墨をのませる』と効果があるとする。因みに本文では以下に別な解毒効果を期待出来る食材として「茄子の塩漬け」が一緒に添えるとあるが、これも同頁の解毒効果として『茄子のヘタを食べる』とある。梅園先生、「良方なり」なんどと宣うておられるが、無論、効果は――ない。

「乙未十二月十日」天保六年十二月十日で、グレゴリオ暦では一八三六年一月二十七日である。季節的にも、水揚げ後、変色腐敗するまでは比較的持ちそうな時期である。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一八)

 

        一八

 

 さて、これから私共は龍の窟を訪ねようとする。晃の說明によれば、この名は辨天の龍神が、その中に住んでゐたからではなく、洞窟の形が龍に似るからである。道は島の向う側の方へ下つて、急に靑白い堅岩へ開鑿せる石段となる。非常に嶮岨で磨滅してゐて、滑り易く危險で、海は脚下に迫つてゐる。低い靑白い岩礁、礁間に碎くる激浪、その中央に立つ石燈籠――すべでが恐ろしい絕壁の崖端から、一幅の鳥瞰圖となつて見える。私は一つの岩には、深い圓い穴をも見た。以前には、この下に茶店があつて、それを支へる柱は、それらの穴へ插してあつたのだ。

 私は用心をしながら降つて行く。草鞋穿きの日本人は滅多に滑らないが、私は案內者の手を藉つて漸つと進む。殆ど一步每に私は足を滑らした。屹度、是等の石段がかやうに磨滅してゐるのは、たゞ石と蛇を見るために來た參詣者の草鞋のためばかりではあるまい。

 たうとう私共は絕壁に沿ふて岩や深潭の上に渡せる板の棧道へ達した。して、岩の突角を𢌞ってから神聖なる窟へ入った。進むに隨つて薄暗くなり、浪が暗中を後から追かけて、耳を聾せんばかりに轟き、非常な反響のため、猶音が大きくなる。振返つてみると、洞口は暗黑裡に大きな銳角の裂目の如く、蒼空の一片を洩らしてゐる。

 私共は祀れる神のない一つの祠に達して、御賽錢を上げた。それからランプに火を點け各自それを取つて、一系の孔道を探險する。非常に暗くて三個の燈火でも初めは何も見えない。しかしやがて、私が寺の墓地で見たやうな、平石の上に彫った浮彫の石像が分った。是等の像は一定の間隔を置いて、岩壁に沿ふて安置されてゐる。案內者は一つ一つの像面に燈光を近づけ、大黑樣、不動樣、觀音樣とその名を呼んだ。像はなく、その代はりに空虛な祠ばかりの事もあって、賽錢箱が、その前に備へてある。祭神が御留守になつた是等の祠には、太神宮、八幡、稻荷樣など神道の神々の名がついてゐる。石像はすべて黑い。または黃色な燈光のため黑く見えるのだ。して、霜がふりかゝつたやうにきらきらしてゐる。私は昔の神々を葬つた地下の墓穴に居る樣な氣がした。行けども行けども盡きないやうに思はれた覆道も、矢張り際限があつて、一つの祠で了はつてゐた。天井の岩が低く垂れて、祠に達するには、手と膝で跪かねばならなかつた。しかしその祠には何も入つてゐなかつた。これが龍の尾である。

 私共はすぐには明るい處へ戾らないで、龍の翼なる暗い橫穴へ入つた。橫領されて了つた黑い佛像、空虛の祠、滿面硝石を結んだ石の顏、俯して漸つと近寄れる賽錢箱、こ〻にもまたそんなものがあつた。して、木彫りのも石彫りのも、辨天の像は無かつた。

 私は明るい處へ戾つてきて嬉しかつた。こ〻で案內者は衣を脫ぎすて裸になつて、不意に礁と礁との間の、黑い深い渦卷く潮流の中へ眞逆さまに跳込んだ。五分間の後、姿を現し攀ぢ上ぼつてきて、生きた蠢いてゐる鰒と大きな海老を私の足許へ列べた。それから彼はまた着物をつけ、私共はまた山へ上つた。

[やぶちゃん注:「堅岩」鉱物学や土木工学・地震学等で「ケンガン」と音読みするようである。

「崖端」は「がけばた」。崖(がけ)の端(はし)。
 
「草鞋」老婆心乍ら、「わらぢ(わらじ)」である。
 
「藉つて」は「かつて」と訓じているか。「借(か)る」の「かりて」の促音便である。
 
「突角」は「とつかく(とっかく)」で、岩の突き出た角の部分をいう。

「覆道」原文は“corridor”で標準的な和訳である「回廊」と訳した方が、私は、江の島の岩屋の雰囲気にあっているように思う。

「橫領されて了つた黑い佛像」意味不明。落合氏は「盗まれてなくなってしまった」という意味で訳しておられるようだが、とするとしかし、盗まれたのが「黑い佛像」とは、そもそも分からぬはずなれば日本語としておかしい。これは実際に目の前に「黑い佛像」があるのだ。とすれば……原文を見ると、“More sable effigies of dispossessed gods”で、“dispossess”には、「人から財産(使用権)を奪う」「人を立ち退かせる」「人から財産や使用権を取り上げる」という義とは別に、「追い払う」の意がある。されば、これは――邪気を追い払うための措置が施された黒光りする彫像――で、御幣、或いは、注連(しめ)飾りを配した石造神仏のことを指しているのではなかろうか? 平井呈一氏の訳は、まさにそうした意味と思われる『お祓(はら)い除けをされた、まっ黒けな神の像』とあるのである。

「硝石」天然の硝酸カリウム(KNO)。チリの砂漠地帯やアメリカ西部などの乾燥地帯に産出し黒色火薬や釉薬(ゆうやく)・食肉保存料などに用いられるが、本邦のようなしかもここのような高度の湿潤環境下では天然では産出しないから、石像に附着した海塩結晶或いは風化した岩質を硝石結晶と誤認して表現したに過ぎない。

「鰒」老婆心乍ら、「あはび(あわび)」と読む。このシーン、やっぱり芥川龍之介のあれを引用せずにはいられない。新編鎌倉の江の島の「魚板石」から私の注ごと引いておく。

   *

魚板石(まないたいし)  龍穴(りうけつ)の前にあり。面(をもて)平(たひら)かにして魚板の如し。遊人或は魚を割サき、鰒を取らしめて見る。此の石上にて四方を眺望すれば、萬里の𢌞船數百艘、海上にうかめり。豆・駿・上・下總・房州等の諸峯眼前に有。限り無き風景なり。

[やぶちゃん注:芥川龍之介と江の島との関連で余り取り上げられることがないが、芥川龍之介の未完作品「大導寺信輔の半生」の最終章「六 友だち」には、その掉尾に、この魚板石付近を舞台にした印象的なエピソードが語られている。私のサイト版テクスト「大導寺信輔の半生 附草稿」から当該部を引用しておく。

      ×

 信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隸だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人海女あまだけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。

 「今度はあいつも飛びこませてやる。」

 彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に銳い犬齒をも具へてゐた。…………

      ×

本文中に「或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人」とあるが、龍之介の一高卒業は大正二(一九一三)年七月であるから、これは明治四十四(一九一一)年か翌年の四月、若しくは、卒業年の大正二(一九一三)年四月の間の出来事となる。私は龍之介の謂いから、このシチュエーションは正に明治の最後の江の島を活写していると読む。「遊人或は魚を割き、鰒を取らしめて見る」という二百年以上も前の記述が、ここに現前しているだけではない。それを龍之介は、美事な時代精神への批判のメスで剔抉しているのである。

   *]

 

Sec. 18

   Now we are going to visit the Dragon cavern, not so called, Akira says, because the Dragon of Benten ever dwelt therein, but because the shape of the cavern is the shape of a dragon. The path descends toward the opposite side of the island, and suddenly breaks into a flight of steps cut out of the pale hard rock—exceedingly steep, and worn, and slippery, and perilous—overlooking the sea. A vision of low pale rocks, and surf bursting among them, and a toro or votive stone lamp in the centre of them—all seen as in a bird's-eye view, over the verge of an awful precipice. I see also deep, round holes in one of the rocks. There used to be a tea-house below; and the wooden pillars supporting it were fitted into those holes. I descend with caution; the Japanese seldom slip in their straw sandals, but I can only proceed with the aid of the guide. At almost every step I slip. Surely these steps could never have been thus worn away by the straw sandals of pilgrims who came to see only stones and serpents!

   At last we reach a plank gallery carried along the face of the cliff above the rocks and pools, and following it round a projection of the cliff enter the sacred cave. The light dims as we advance; and the sea-waves, running after us into the gloom, make a stupefying roar, multiplied by the extraordinary echo. Looking back, I see the mouth of the cavern like a prodigious sharply angled rent in blackness, showing a fragment of azure sky.

   We reach a shrine with no deity in it, pay a fee; and lamps being lighted and given to each of us, we proceed to explore a series of underground passages. So black they are that even with the light of three lamps, I can at first see nothing. In a while, however, I can distinguish stone figures in relief—chiselled on slabs like those I saw in the Buddhist graveyard. These are placed at regular intervals along the rock walls. The guide approaches his light to the face of each one, and utters a name, 'Daikoku-Sama,' 'Fudo-Sama,' 'Kwannon-Sama.' Sometimes in lieu of a statue there is an empty shrine only, with a money-box before it; and these void shrines have names of Shinto gods, 'Daijingu,' 'Hachiman,' 'Inari-Sama.' All the statues are black, or seem black in the yellow lamplight, and sparkle as if frosted. I feel as if I were in some mortuary pit, some subterranean burial-place of dead gods. Interminable the corridor appears; yet there is at last an end—an end with a shrine in it—where the rocky ceiling descends so low that to reach the shrine one must go down on hands and knees. And there is nothing in the shrine. This is the Tail of the Dragon.

   We do not return to the light at once, but enter into other lateral black corridors—the Wings of the Dragon. More sable effigies of dispossessed gods; more empty shrines; more stone faces covered with saltpetre; and more money-boxes, possible only to reach by stooping, where more offerings should be made. And there is no Benten, either of wood or stone.

   I am glad to return to the light. Here our guide strips naked, and suddenly leaps head foremost into a black deep swirling current between rocks. Five minutes
later he reappears, and clambering out lays at my feet a living, squirming sea-snail and an enormous shrimp. Then he resumes his robe, and we re-ascend the mountain.

和製亞瑟拉克姆描く「愛麗絲夢遊仙境」か?!

 
 
先般、SNSでアップした「ラッカムのアリスは……マジ……好きやねん――」
 
 
 
Alice_in_wonderland_by_arthur_rackh 
 
 
に、ツイッターの相互フォローの方が、
――芳年のこんな絵と、何かしら似通ったところがあるように見えるのは錯覚でしょうか。
 
 
 
Cisfpb5usaakayp 
 
 
と応じられた。されば、
――是れ也(や)、和製亞瑟拉克姆ゑがく、「愛麗絲夢遊仙境」也(なり)! 感服し申した!!
と返した。

これは、凄!!!

2015/06/24

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 雅楽の笛の音

 我々は日本の宮廷楽師の吹奏する、最も驚く可き笛の音楽を聞いた。笛は竹で出来ていて、我国の横笛より余程大きく、穴の数も位置も我々のそれとは違っている。我々にとっては音色と音色との間の絶妙な対照が、うれしいものであった。音調は長く、そしてこの上もなく純であった。これは我々には啓示であった。我々の音楽では、人は調和によっての効果を得るが、日本の音楽には調和音は無く、諧調がある丈である。「聖パウロの聖劇楽」に於て我等の指揮者カール・ツェラーンは、「高きにいます神へ」の合唱の際、或る分節にある気持のいい最終音調を予期して、必ず特別に活発になる。

[やぶちゃん注:ここも原文を引いておく。

   *

We heard the most wonderful music of the flute by a Japanese court musician. The flute, much larger than ours, was made of bamboo, and the number and position of the openings were different from those in our flute. The enjoyment for us consisted in the delicious contrasts between note after note. The notes were long and of exquisite purity. It was a revelation to us. With harmony one gets these effects in our music, but in Japanese music there is no harmony, only melody. In the "Oratorio of St. Paul," our leader, Carl Zerrahn, always became specially alert in anticipation of a delicious terminal note in one phrase in the choral "To God on High."

   *

最早、我々にとっては“but in Japanese music there is no harmony, only melody.”という英文の方が遙かに理解し易くなっている。

「聖パウロの聖劇楽」メンデルスゾーンのオラトリオ「聖パウロ」。

「カール・ツェラーン」(一八二六年~一九〇九年)はドイツ生まれのアメリカ人フルート奏者にして指揮者で、特に合唱音楽、オラトリオでの業績が目覚ましい(英文ウィキ“Carl Zerrahn”に拠った)。

『「高きにいます神へ」の合唱』ElginChoralUnion 氏の動画“To God on High”で当該合唱曲を聴くことは出来るが、「或る分節にある気持のいい最終音調を予期して、必ず特別に活発になる」というのがどこを指しているのかは、私にはよく分からない。識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一七)

 
 
        一七

 

 石段をのぼると、高臺に達し、町の屋根が見おろされる。苔が蒸して、缺けた唐獅子や石燈籠が鳥居の兩側にあつて、臺の背後は神聖な山が森に蔽はれてゐる。左の方に古色蒼然たる石の欄干が、滿面藻屑の浮いた淺い池を圍んでゐる。池の對岸の叢林から、漢字で蔽はれた、奇異な形の平石が、一端で立つて、突出でてゐる。これは神聖な石で、大きな蝦蟇の形だと信ぜられてゐる。だから蝦蟇石といふ。臺の緣に沿つて、彼處此處に他の石碑がある。その一つは辨天宮へ百度參詣した連中の寄進に係るのだ。右の方にまた石段があつて、更に上の高臺に達する。臺の麓に坐つて鳥籠を編んでゐた老人が、進んで案内者となることを申出でた。

 私共は案內者に隨いて次の高臺へ上ぼつた。そこには江ノ島小學校がある。また今一つ大きな不恰好の貴い石がある。福石といふ、昔は巡禮者が、この石を手で擦ると、富を得るものと信じでゐたので、石は無數の掌によつて磨滅されてゐる。

 更にまた石段があり、綠苔の生じた唐獅子や、石燈籠があつて、それから、また高臺となつて、中央には小祠がある。これは辨天の第一の祠である。數株の短矮な棕櫚がその前に生えてゐる。祠內には何も興味あるものはない。たゞ神道の象徴だけだ。が、傍にまた一つの井があり、奉納の手拭がある。それから、六百年前、支那から齎らされ石堂がある。恐らくは此巡禮の札所が神道の祠官に渡されない前、その中には有名な像があつたことであらう。今は何も入つてゐない。その背部を成せる一本石は、上の崖から落ちた岩のため破碎してゐる。碑文も一種の浮渣で殆ど消されて、晃が讀んだのは、『大日本國江島之靈石……』餘は解することが出來ない。晃の話によると、この附近の祠に一つの像がある。が、唯だ一年に一囘、七月十五日に覽せられるとのことであつた。

 私共は、この境內を去つて、左方へ上つて行つて、海を見おろす斷崖の端を進んだ。崖端に綺麗な茶店が數軒ある。いづれも海風に面して開け放してあるから、家の中を見通しに、疊を敷いた室や漆塗りの緣側を越えて、海が繪の額緣に收まつたやうに見える。して、雪の如き帆の散點せる靑白く晴れた水平線と、幻の島の如く、溫かに蒸汽の影法師の如き大島の、微かな靑い峻峰の形が見える。それから、また鳥居と石段がある。石段は高臺に通じ、臺は巨大な常盤木の蔭で殆ど黑く、海の方は苔滑かな石の欄干を繞らしてある。右の方に石段、鳥居、高臺があり、更に苔蒸せる唐獅子と石燈籠があり、また江ノ島が佛敎から神道に移つた變遷を誌した石碑もある。向うの方、更に他の丘の中央に第二の辨天宮がある。

 が、そこに辨天はゐない! 辨天は神道家の手によつて隱されてしまつた。この第二の祠は第一の祠と同樣に空虛だ。しかし、祠の左手の建物に奇異なる遺品が陳列されてゐた。封建時代の武具、即ち板金鎧と鏈甲の一揃、惡魔の如き鐡の假面である瞼甲の附いた兜、金龍の飾冠の附いた兜、大入道が振り𢌞はしさうな兩手で使へる刀劍、直径約一寸、長さ五尺以上もある巨大の箭など、ある箭には、長さ約九寸の三日月形に彎曲せる矢尻が附いてゐて、彎曲の内側は小刀の如く銳い、かやうな矢は人の頭をはね飛ばすだらう。で、私はそんな重げな矢が、たゞ手で以て弓から射放たれたといふ晃の斷言を殆ど信じ難い。佛教の偉僧日蓮の書――紺地に金文字――があり、また更に偉大なる佛僧、書家、魔力家なる弘法大師の作と稱せらる〻金龍が、漆塗りの厨子に入ってゐる。

 掩ひかかる樹の蔭を通つて、第三の祠へ達する。鳥居をくゞつてから、一面に浮彫の猿を刻んだ石碑の處へ來る。この碑の意味は、流石の案內者も說明が出來ない。それからまた鳥居がある。これは木製だ。が、金屬製のを夜間盜賊に盜まれたので、その代りだと私は告げられた。驚くべき盜賊! その鳥居は少くとも一噸の重さがあつたに相違ない。また石燈籠がある。それから山の絕頂に廣い境內があつて、その中央に第三番目で、且つ主要なる辨天の祠がある。祠前の雰地には墻を繞らして、祠へは全然近寄れないやうにしてある。虚榮と業腹!

 が、墻の前に、祠の石段に面して、小さな拜殿がある。そこには賽錢箱と鈴が備へてあるだけで何も無い。參詣者はこ〻で賽錢を捧げて祈る。小さな壇の上に、支那式屋根を四本の素木の柱で支へて載せ、後方は胸ほどの高さに格子で仕切つてある。この拜殿から辨天宮を覗いて見ると、辨天は存在しないことがわかつた。

 が、私は天井は鏡板で張りつめてあることを認めた。して、中央の鏡板には珍らしい繪を發見した――繪畫の龜が私を瞰視してゐる。私がそれを眺めてゐると、晃と案內者の笑ふのが聞えた。して、案內者は『辨天さま!』と叫んだ。

 一匹の美しい綾織模樣の小蛇が、格子細工を傳つて、蜿蜒と昇つて行く。折々格子の目から頭を突き出して私共を眺める。蛇は毫も人を怖れる風に見えない。また怖れる必要もない。この種類の蛇は辨天の使者で、且つ祕密を明かされてゐる者と思はれてゐるから。女神自身が蛇の形相をすることもある。恐らくは彼女は私共を見ようとして出て來たのであらう。

 附近に、臺石の上に据ゑた奇異の石がある。龜の形で、龜の甲のやうな條紋を有つてゐる。これは神聖のものと考へられ、龜石と呼ばれる。しかし、私はこ〻で石と蛇の外には、何をも發見し得ないだらうと、大いに懸念した。

[やぶちゃん注:俗に「江の島の屏風石」と呼称される「大日本國江島之靈石」など、薀蓄を述べたいところはゴマンとあるのであるが、私はもう、ハーンと一緒に江の島に入って、ともに歩いているだけで十分で、このルートや遺物及び旧跡をほぼ完全にハーンとともに追体験出来る人間なのである。ここでは、とてもインキ気臭い注を附す気が完全に失せた! 悪しからず!――なお、お暇な方は、例えば私の新編鎌倉志卷之六をご覧あれ。そこで私は「江の島の屏風石」の文字の写真を撮って添えている。また、同じく私のブログのカテゴリ「鎌倉紀行・地誌の、『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(完結。現在、作業中の『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」の方ではない。ずっと下の方に夥しくある奴である)の膨大な「江島」パートの、私の各詳細記事を参照戴ければ、恩幸これに過ぎたるはない。そこで私はほぼ、言いたいこと、言うべきことを総て言っているつもりだからである。

「この附近の祠に一つの像がある。が、唯だ一年に一囘、七月十五日に覽せられる」これだけご存じない方が多いと思われるので注しておく。これは江ノ島神社の辺津宮(へつのみや)の左側にある八坂神社(江戸時代までは天王社と呼称した)に祀られている素戔嗚尊(すさのおのみこと)木像を指す(私自身、拝観したことがない)。現在も八坂神社礼祭(天王祭)毎年七月中旬の日曜日に大祭がある(かつては神輿が対岸の腰越にある小動神社まで海上を渡御したが、現在は海に入るものの、橋を渡っているらしい。祭り嫌いの私は未見である)。

「浮渣」「フサ」と音読みしているようだが、原文の“sucum”(スカム)の、所謂、科学技術用語的な訳で如何にも硬い。現行の「スカム」は主に液体の表面に浮かぶ「泡」や「浮き滓(かす)」を意味し、現在では主に浄水場や排水処理槽などの装置にある沈殿池(槽)などで浮かぶところの、泡とも泥ともつかない物質、概ね、液体の表面に浮き溜まっている厚い油膜や油脂成分を指す語である。広義には汚物や糟(かす)の謂いもあるから、ここは「覆った汚れ」ぐらいでよいと思われる。平井呈一氏はすこぶる達意に『何だか石垢のようなものが積もって』と訳しておられ、至当である。

「板金鎧」「ばんきんよろひ」と読む。一般にこれはヨーロッパ中世の騎士が装着するような“plate armor”(プレート・アーマー:人体の胸部或いは全身を覆う金属板で構成された鎧。)の訳語として知られるが、原文の“suits of plate”は、所謂、“plate armor”“armor”が甲冑一式(鎧と兜)を指す言葉であることから、ハーンは後に兜を言う関係上、鎧だけを示すために“suits”と言ったように見受けられる。

「鏈甲」「くさりかぶと」と訓じているか。原文は“chain-mail”で、“mail”自体が鎖帷子(くさりかたびら)、鎖で出来た鎧の意がある。ここは「鎖帷子」と訳してよかったのではないか。或いは落合氏はこれで「くさりかたびら」と訓じさせるつもりであったのかも知れない。

「瞼甲」原文“visors”(ヴァイザー。「サン・バイザー」などのそれ)。これは恐らく「めんぼう(めんぼお)」(面頰)と当て読みしているように思われる。兜の面庇(まびさし)である。

「五尺」約一・五メートル。ウィキ矢」によれば、『矢の長さは、自分の矢束(やづか。首の中心から横にまっすぐ伸ばした腕の指先まで)より手の指数本分長いものが安全上好ましいとされて』おり、「平家物語」には『十二束(つか)三伏(ぶせ)』(拳の幅十二個分に加えて指三本分の幅の長さ)という表記もある、とある。調べて見ると、一メートルを越える箭(や)もあるらしいが、この長さは異様で、しかも通常の実戦用の征矢(そや)で太いものでも一センチメートルであるから、「一寸」、三センチメートルというのはとんでもない代物で、源為朝ぐらいしか放てそうにない。寧ろ、張子の虎の威嚇的な神聖奉納品であろう。

「素木」「ソボク」という音読みでもよいが、ここは「しらき」(白木)と読みたい。

「瞰視してゐる」「カンシ」という音読みでもよいが、原義の見下ろすこと・俯瞰の意から、「みおろしている」と訓じたい。

「一面に浮彫の猿を刻んだ石碑」私の大好きな群猿奉賽像庚申塔(ぐんえんほうさいぞうこうしんとう)である。基座には弁天の使いとされる蛇が浮き彫りとなっており、四面には計三十六匹もの神猿が思い思いの仕草で山王神の神徳を奉賽するユーモラスな姿で浮き彫りされている庚申塔で三猿信仰と習合した庚申塔の中でもこれだけ膨大な数の猿を彫ったものは他に例を見ない。江戸後期に無病息災を祈念して建立されたものと考えられている。藤沢市重要有形民俗文化財である。

「繪畫の龜が私を瞰視してゐる」やはり私の大好きな江ノ島神社奥津宮の拝殿上部の酒井抱一画「八方睨みの亀」である。ハーン描写は頗る正しい。なお、現在見られるそれは一九九四年に片岡華陽の復元画である(原画は藤沢市有形文化財指定で江島神社宝蔵に保管されている)。

 

Sec. 17

   Ascending the steps, we reach a terrace, overlooking all the city roofs. There are Buddhist lions of stone and stone lanterns, mossed and chipped, on either side 
the torii; and the background of the terrace is the sacred hill, covered with foliage. To the left is a balustrade of stone, old and green, surrounding a shallow pool covered with scum of water-weed. And on the farther bank above it, out of the bushes, protrudes a strangely shaped stone slab, poised on edge, and covered with Chinese characters. It is a sacred stone, and is believed to have the form of a great frog, gama; wherefore it is called Gama-ishi, the Frog-stone. Here and there along the edge of the terrace are other graven monuments, one of which is the offering of certain pilgrims who visited the shrine of the sea-goddess one hundred times. On the right other flights of steps lead to loftier terraces; and an old man, who sits at the foot of them, making bird-cages of bamboo, offers himself as guide.

   We follow him to the next terrace, where there is a school for the children of Enoshima, and another sacred stone, huge and shapeless: Fuku-ishi, the Stone of
Good Fortune. In old times pilgrims who rubbed their hands upon it believed they would thereby gain riches; and the stone is polished and worn by the touch of innumerable palms.

   More steps and more green-mossed lions and lanterns, and another terrace with a little temple in its midst, the first shrine of Benten. Before it a few stunted palm-trees are growing. There is nothing in the shrine of interest, only Shinto emblems. But there is another well beside it with other votive towels, and there is another mysterious monument, a stone shrine brought from China six hundred years ago. Perhaps it contained some far-famed statue before this place of pilgrimage was given over to the priests of Shinto. There is nothing in it now; the monolith slab forming the back of it has been fractured by the falling
of rocks from the cliff above; and the inscription cut therein has been almost effaced by some kind of scum. Akira reads 'Dai-Nippongoku-Enoshima-no-reiseki-
ken . . .'; the rest is undecipherable. He says there is a statue in the neighbouring temple, but it is exhibited only once a year, on the fifteenth day of the seventh month.

   Leaving the court by a rising path to the left, we proceed along the verge of a cliff overlooking the sea. Perched upon this verge are pretty tea-houses, all widely open to the sea wind, so that, looking through them, over their matted floors and lacquered balconies one sees the ocean as in a picture-frame, and the pale
clear horizon specked with snowy sails, and a faint blue-peaked shape also, like a phantom island, the far vapoury silhouette of Oshima. Then we find another torii, and other steps leading to a terrace almost black with shade of enormous evergreen trees, and surrounded on the sea side by another stone balustrade, velveted with moss. On the right more steps, another torii, another terrace; and more mossed green lions and stone lamps; and a monument inscribed with the record of the change whereby Enoshima passed away from Buddhism to become Shino. Beyond, in the centre of another plateau, the second shrine of Benten.

   But there is no Benten! Benten has been hidden away by Shinto hands. The second shrine is void as the first. Nevertheless, in a building to the left of the temple, strange relics are exhibited. Feudal armour; suits of plate and chain-mail; helmets with visors which are demoniac masks of iron; helmets crested with dragons of gold; two-handed swords worthy of giants; and enormous arrows, more than five feet long, with shafts nearly an inch in diameter. One has a crescent head about nine inches from horn to horn, the interior edge of the crescent being sharp as a knife. Such a missile would take off a man's head; and I can scarcely believe Akira's assurance that such ponderous arrows were shot from a bow by hand only. There is a specimen of the writing of Nichiren, the great Buddhist priest—gold characters on a blue ground; and there is, in a lacquered shrine, a gilded dragon said to have been made by that still greater priest and writer and master-wizard, Kobodaishi.

   A path shaded by overarching trees leads from this plateau to the third shrine. We pass a torii and beyond it come to a stone monument covered with figures of 
monkeys chiselled in relief. What the signification of this monument is, even our guide cannot explain. Then another torii. It is of wood; but I am told it replaces one of metal, stolen in the night by thieves. Wonderful thieves! that torii must have weighed at least a ton! More stone lanterns; then an immense count, on the very summit of the mountain, and there, in its midst, the third and chief temple of Benten. And before the temple is a Lange vacant space surrounded by a fence in such manner as to render the shrine totally inaccessible. Vanity and vexation of spirit!

   There is, however, a little haiden, or place of prayer, with nothing in it but a money-box and a bell, before the fence, and facing the temple steps. Here the pilgrims make their offerings and pray. Only a small raised platform covered with a Chinese roof supported upon four plain posts, the back of the structure being closed by a lattice about breast high. From this praying-station we can look into the temple of Beaten, and see that Benten is not there.

   But I perceive that the ceiling is arranged in caissons; and in a central caisson I discover a very curious painting-a foreshortened Tortoise, gazing down at me.
And while I am looking at it I hear Akira and the guide laughing; and the latter exclaims, 'Benten-Sama!'

   A beautiful little damask snake is undulating up the lattice-work, poking its head through betimes to look at us. It does not seem in the least afraid, nor has it much reason to be, seeing that its kind are deemed the servants and confidants of Benten. Sometimes the great goddess herself assumes the serpent form; perhaps she has come to see us.

   Near by is a singular stone, set on a pedestal in the court. It has the form of the body of a tortoise, and markings like those of the creature's shell; and it is held a sacred thing, and is called the Tortoise-stone. But I fear exceedingly that in all this place we shall find nothing save stones and serpents!

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一六)

 

        一六

 

 この珍らしい町の終端に、また鳥居がある。木の鳥居で、そこへは一層の急阪がある。阪の下に奉納の石燈籠、小さな井と石の手水鉢がある。參詣者は、手水鉢で手を洗ひ、口を漱ぐ。大きな白い漢字を書いた靑手拭が、傍に吊つてある。私は晃に文字の意味を尋ねた――

 『奉獻(ほうけん)と漢字では、音讀しますが、日本語ではそれを獻じ奉ると讀むのです。この手拭を恭しく辨天に捧げ奉るといふ意味なので、皆これは寄進と申して、色々の種類があります。手拭を寄進する者もあれば、繪畫を寄進するのもある。瓶や、提燈や、唐金の燈籠や、石燈籠もある。普通、神樣に祈願をかける時には、そんな寄進の誓ひを立てます。よく鳥居の寄進を誓約しますが、その大いさは獻げる人の富の度合によります。非常な富豪は、あの、こ〻の下にある、江ノ島の門のやうな、唐金の鳥居を献上するのもあります』

 『いつも日本人は、神樣への誓約を守りますか?』

 晃は可愛い微笑を洩して、私に答へた――

 『もし祈願が叶つたら、立派な金屬製の鳥居を建てることを誓つた人がありました。して、その人は思ひ通りに願が叶つたのです。すると、三本の極く小さな針で鳥居を建てたさうです』

[やぶちゃん注:「唐金」老婆心乍ら、「からかね」と読み、青銅のこと。中国から製法が伝わったことによる。]

 

Sec. 16

   This curious street ends at another torii, a wooden torii, with a steeper flight of stone steps ascending to it. At the foot of the steps are votive stone lamps and a little well, and a stone tank at which all pilgrims wash their hands and rinse their mouths before approaching the temples of the gods. And hanging beside the tank are bright blue towels, with large white Chinese characters upon them. I ask Akira what these characters signify: 'Ho-Kengis the sound of the characters in the Chinese; but in Japanese the same characters are pronounced Kenjitatetmatsuru, and signify that those towels are mostly humbly offered to Benten. They are what you call votive offerings. And there are many kinds of votive offerings made to famous shrines. Some people give towels, some give pictures, some give vases; some offer lanterns of paper, or bronze, or stone. It is common to promise such offerings when making petitions to the gods; and it is usual to promise a torii. The torii may be small or great according to the wealth of him who gives it; the very rich pilgrim may offer to the gods a torii of metal, such as that below, which is the Gate of Enoshima.'

   'Akira, do the Japanese always keep their vows to the gods?'

   Akirasmiles a sweet smile, and answers:

   'There was a man who promised to build atorii of good metal if his prayers were granted. And he obtained all that he desired. And then he built a torii with three exceedingly small needles.'

アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (五) 芋蟲の忠告



     五 芋蟲の忠告

 

 芋蟲とアリスは、暫くの間默り込んで見合つてゐました。しかしとうとう芋蟲が口から水煙管をとつて、だるいねむさうな聲で、アリスに話しかけました。

「お前さんは誰ですか」と芋蟲はまづ訊きました。

 けれどもこれは二人の會話を、すらすら進めていくやうな、問(とひ)ではありませんでした。アリスは少し恥づかしさうに答へました。「わたし――わたし今ではよく分らないのです。――といつても、今朝(けさ)起きたときは、わたしが誰(たれ)だつたかは、知つて居たのですが、それから何度もいろいろ變つたに違ひないと思ふんです。」

「それはどういふことなのだ。」と芋蟲はきびしく言ひました。「睨明してみなさい。」

「わたし、説明なんて出來ないんです。」とアリスが言ひました。「だつてわたしはわたしでないのですから。ねえ。」

「さつぱり分らん。」と芋蟲が言ひました。

「殘念ながら、わたしにはそれをもつとはつきり、言ひ表はす事が出來ませんの。」とアリスは大層丁寧に答へました。「なぜなら、第一わたしには自分ながら、それが分つて居りませんの、そして一日の中に、いろいろと大きさが變るなんて、隨分頭をまごつかせる事ですもの。」

「そんなことはない。」と芋蟲は言ひました。

「ええ、そりやあなたは今までそんな事を、さういふものだとお感じになつた事は、ないかも知れませんけれど。」とアリスは言ひました。「でも、あなたが蛹(さなぎ)になつたり――いつかはさうなるんでせう――それから蝶蝶(てふてふ)にならなければならなくなつたら、少しは變にお思ひでせう、思はなくつて。」

「いいや、ちつとも。」と芋蟲が言ひました。

「それぢや、あなたの感じがちがふのよ。」とアリスが言ひました「わたしの知つて居る限りでは、それがとても變に感じられますの、私(わたし)にとつて。」

「お前に?」と芋蟲は馬鹿にしたやうに言ひました。「ぢやあお前は誰(たれ)なのだ。」

 そこで會話が又一番初めに戻つてしまひました。アリスは芋蟲が、こんな風に大層短い言葉しか言はないので、ぢれつたくなりました。それで背のびをして、大層真面目になつて言ひました。「わたしはね、先づあなたが自分は誰(たれ)であるか、名乘(なの)るべきだと思ひますわ。」

「何故(なぜ)?」と芋蟲は言ひました。

 これでまた面倒な問題になりました。アリスはいい理由(わけ)を考へつきませんし、一方芋蟲はひどく不愉快らしい樣子でした。そこでアリスは向ふの方(はう)に歩いて行きました。

「戻つてこい。」と芋蟲はアリスの後(うしろ)から呼びかけました。「わたしは少し大事な話があるのだ。」

 この言葉が幾分賴もしく聞えましたので、アリスは振り返つて、又戻つて來ました。

「おこるもんぢやないよ。」と芋蟲が言ひました。

「それだけなの。」とアリスは、できるだけ怒りをのみこんでいひました。

「いいや。」と芋蟲が言ひました。

 アリスは他に用がないものですから、待つてやつてもいいと思ひました。多分、何かいいことを聞かしてくれるのだらう、と思つたものですから。しばらくの間、芋蟲は何にも言はないで、水煙管(みづぎせる)をプカプカふかしてゐました。けれどもとうとう芋蟲は腕組(うでぐみ)をほどき、水煙管を、口から又とつて言ひました。「それでは、お前變つてると思ふのかい。」

「どうもさうらしいのですわ。」とアリスが言ひました。「わたし以前(まへ)のやうに、物を覺えられませんし――そして十分間(ぷんかん)と同じ大きさで居ないのです。」

「覺えらられないつて、一體何を?」と芋蟲が言ひました。

「ええ、わたし『ちひちやい蜜蜂どうして居る』を歌つて見ようと思つても、まるでちがつてしまふの。」とアリスは大層かなしさうな聲で言ひました。

「『ウリアム父さん、年をとつた』」をやつてごらん。」と芋蟲が言ひました。

 アリスは腕を組んで始めました。

 

 「若い息子が云ふことにや

 『ウリアム父(とつ)さん、年とつたな、

  お前の髮は眞白だ。

  だのに始終逆立ちなぞして、――

  大丈夫なのかい、そんな年して。』

 

  ウリアム父(とつ)さん答へるにや、

 『若い時にはその事を

  腦(なう)にわるいと案じたさ。

  だが今ぢや腦味噌もなし、

  それでわたしは何度もやるのよ。』

 

  若い息子が云ふことにや、

 『何しろ父(とつ)さん年とつた。

  それによくもぶくぶく肥つたもんだ。

  だのに戸口ででんぐり返つたり、

  ありや一體何のつもりさ。」

 

  白髮頭(しらがあたま)を振りながら、

  ウリアム父(とつ)さん云ふことにや、

 『若い時にやあ氣をつけて

  せいぜいからだをしなやかにしてたよ。

  こんな膏藥まで使つてね――

  ――一箱五十錢のこの膏藥だ――。

  お前に一組賣つてやらうか。』

 

  若い息子が云ふことにや、

 『お前は兎(と)に角(かく)年よりだ。

  お前の顎(あご)はもう弱い。

  脂身(あぶらみ)より硬いものは向かぬ筈(はず)。

  だのに鵞鳥を骨(ほね)ぐるみ、

  嘴(くちばし)までも食べちまつた。

  あれは何うして出來たのだい。』

 

  父(とつ)さん息子に云ふことにや、

 『わしが若いときや法律好(ず)きで

  何かと云へば女房と議論さ。

  お蔭で顎(あご)は千萬人力(せんまんにんりき)。

  こんな年までこの通り。』

 

  若い息子の云ふことにや、

 『お前は年とつた。

  昔通(どほり)りに目が確かだとは

  誰(たれ)か本當と信じよう。

  だのにお前、

  鼻つ先で鰻(うなぎ)を秤(はか)つたか

  何うしてあんなうまい事かやれたんだ。』

 

  父(とつ)さん息子に云ふことにや、

 『わしは三度も返事した。

  もう澤山だ。

  こんな譫語(たはごと)に相槌(あひづち)うつて、

  大事な一日つぶしてなろか。

  さあさ出て行け、

  行かぬと階(はしご)から蹴落すぞ。』

 

「間違つてるね。」と芋蟲が言ひました。

「そりやみんなは合つてゐないやうねえ。」とアリスはビクビクして言ひました。「文句が少し變つたのだわ。」

「初めから終(しま)ひまで違つて居るよ。」と芋蟲はきつぱり言ひました。それからしばらく二人は默り込んでしまひました。

 すると、芋蟲が話しだしました。

「お前はどの位(くらゐ)の大きさになりたいのだ。」

「まあ、わたしどの位(くらゐ)の大きさつて、きまつてゐないわ。」とアリスはあわてて答へました。「ただ誰(たれ)だつて、そんなに度度(たびたび)大きさが變るのは、嫌でせう。ねえ。」

「わしには分からんよ。」と芋蟲は言ひました。アリスは何も言ひませんでした。今までこんなに、反對せられたことはありませんので、アリスは癪(しやく)で堪(たま)りませんでした。

「今は滿足して居るのかい?」と芋蟲は言ひました。

「さうねえ、あ々たさへ御迷惑でなかつたら、わたしもうs少し大きくなりたいの。」とアリスが言ひました。「三寸(すん)なんてほんとに情ない背(せい)ですわ。」

「いや、それか大層いい背格好(せいかつかう)だよ。」と芋蟲は背(せ)のびをしながら、怒(おこ)つて言ひました。(芋蟲も丁度(ちやうど)三寸(すん)の背(せい)でしたから。)

「でも、わたし、この背(せい)には馴れてゐないんでうの。」と可哀想(かはいさう)なアリスは、哀れつぼい聲で言ひました。そして心の中で、「この人がこんなに怒りつぽくなければいいんだが。」と思ひました。

「今にお前馴れてくるよ。」と芋蟲は言つて、口に水煙管(みづぎせる)をくはへて、またふかし始めました。

 今度はアリスは芋蟲が、又話しかけるまでヂツと待つて居ました。一二分たつたとき、芋蟲は口から水煙管をとつて、一二度缺伸(あくび)をして、身體(からだ)を振ひました。それから蕈(きのこ)から下(お)りて、草の中へ匍(は)つていきました。行(い)きながら、ただ芋蟲は「一つの側(かわ)は、お前の背(せい)を高くし、他(ほか)の側(かは)は、お前の背(せい)を短くする。」と言ひました。

「何(なん)の一(ひと)つの側(かは)なんだらう。何の他(ほか)の側(かは)なんだらう。」とアリスは考へました。「蕈(きのこ)のだよ。」と芋蟲は丁度、アリスが大聲で尋ねでもしたかのやうに言ひました。そして直ぐ芋蟲の姿は、見えなくなりました。

 アリスはしばらくの間、考へ込んで、ヂツと蕈(きのこ)を見て居ました。そして蕈の兩側(りやうがは)とは、どこなのか、知らうとしました。けれども蕈はまん丸なものですから、これは大層むづかしい問題だと、いふことがわかりました。けれども、とうとうアリスは兩腕をグルリと廻せるだけまはして、蕈の端(はし)を兩手で、チヨツトかきとりました。

「さあどちらがどちらなのだらう。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。そしてその結果をためして見るつもりで、右側を一寸(ちよつと)かじつて見ました。と、いきなり顎(あご)の下をひどく打たれたやうな氣がしました。それは顎が足にぶつ

かつたからでした。

 アリスは此の急な變り方に、すつかり驚いてしまひましたが、身體(からだ)がドンドン縮まつていくものですから、少しもぐづぐづして居られませんでした。それでアリスは、早速(さつそく)別の端(はし)をかじることにとりかかりました。顎が足にしつかりとくつついて居るものですから、口をあく餘裕なんか、ほとんどありません。しかし、とうとう何(ど)うにかあけて、やつとのことで、蕈(きのこ)の右の端を一口のみ込みました。
 
[やぶちゃん注:「ウリアム父さん、年をとつた」原文原題は“You are old, Father William”。これはイギリスのロマン派詩人ロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の詩 “The Old Man's Comforts and How He Gained Them”のパロディである(リンク先は英文サイト“Poets' Graves”の当該詩篇)。なお、芥川龍之介は擬古文で書かれた「骨董羹壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文の「別稿」(初出時にはあったが、単行本では削除)の「天路歷程」で、このサウジーの一八三〇年の作「天路歴程」(The Pilgrim's Progress with a Life of John Bunyan:ジョン・バニヤンの生涯と巡礼者の発展)の漢訳本に就いて触れている。よろしければ、以上の初出に復元し、且つ、私が現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと」という無謀不遜な試み』もお読み戴ければ幸いである。]

      *  *  *  *  *  *

「ああ頭がやつと樂になつた。」とアリスは嬉しさうに言ひましたが、忽ちその聲は、驚きの悲嗚に變つてしまひました。それもその筈です。アリスは自分の肩が、どこにあるのだか見えなくなつたのでした。アリスが下を向いて見ると、見えるものは、ばかに長い頸(くび)だけで、それはアリスのずつとずつと下に擴(ひろが)つてゐる、靑い葉の間から、生えて居る莖(くき)のやうに見えてゐるのでした。

「一體あの靑いものは何かしら。」とアリスは言ひました。「そしてわたし、肩は何處(どこ)にいつたんでせう。まあ、わたしの可哀想(かはいさう)な兩手さん、わたし、

どうしてお前を見られなくなつたんでせう。」とアリスは言ひながら、手を動かして見ましたが、ただ、遙か下の綠色(みどりいろ)の葉の一部が、微(かす)かに搖れたきりでした。

 何しろ、手の方を頭に屆かせるなどといふ事は、とても出來さうもありませんでしたので、アリスは頭の方を手に屆かせてみようとやつてみました。すると嬉しいことに、アリスの首は蛇(へび)のやうに、どつちにでもうまく曲(まが)る事が分りました。アリスはこれで格好よくまげくねらせ、そして靑い葉の間に、その首を突込(つつこ)みかけました。――氣づいて見ると、それは今まで歩いて居た森の樹(き)の梢(こずゑ)でした。――が丁度そのとき鋭いヒユーといふ音(おと)が、アリスの顏をかすめたので、あわてて後退(あとすざ)りしました。大きな鳩がアリスの顏にぶつかつて、翼でアリスをひどく打(う)ちました。

「やあ蛇!。」と鳩は金切聲(かなきりごゑ)で叫びました。

「わたし、蛇々んかぢやないわ。」とアリスは怒(おこ)つて言ひました。「早くお退(ど)き!。」

「蛇だつたら蛇だよ。」と鳩は繰返(くりかへ)して言ひました。けれども、その聲は前よりやさしい調子でした。それから、泣聲で附け加へるのに、「いろいろとやつて見たが、どれもあいつには合はないやうだ。」

「お前さん一體何を言つて居るのだか、わたしにやちつとも分らない。」とアリスは言ひました。

「わたしは木の根にもやつて見たし、土手(どて)にも、垣根にもやつて見た。」と鳩はアリスに構はず言ひました。「けれどもあの蛇(へび)奴(め)、あいつばかりはどうしても氣を和げることができない。」

 アリスはますます分らなくなつて來ました。けれどもアリスは、鳩が言ひ終るまで、何を言つても無駄だと考へました。

「蛇の奴(やつ)め、卵(たまご)を孵(かへ)すなんて、何でもないと思つてやがるらしい。」と鳩が言ひました。「少しは夜晝(よるひる)蛇の見張(みはり)をしてゐなきやならん。まあ、わしは此の三週間と云ふものは、一睡(すゐ)もしないんだよ。」

「御困りのやうで氣の毒ですわ。」とアリスは鳩の云ふことが、分りかけましたので言ひました。

「それでやつと今、森の一番高い木に、巣をかけたところだのに。」と鳩は言ひ續けて居る内に、泣き聲になつてきました。「こんどこそは蛇にねらはれることがないと思つて居たのに、今度は空から、ニヨロニヨロ下(おり)るぢやないか。いまいましい、この蛇め。」

「だつてわたし、蛇でないと云ふのに。」とアリスは言ひました。「わたしは――わたしは、あの――。」

「ぢやあ、お前は何なのだ。」と鳩が言ひました。

「わしはお前が、何かたくらんでゐることを知つて居るよ。」

「わたしは――わたしは小さい娘ですわ。」とアリスは一日の中(うち)に、いろいろな形に變つたことを、思ひ出して一寸(ちよつと)疑はしさうに言ひました。

「旨(うま)く言つてやがる。」と鳩はひどく馬鹿にして言ひました。「わしは今までに澤山の娘は見て居るが、こんな首をして居る女の子なんか、見たことがないよ。ちがふよ。ちがふよ。お前は蛇なんだ。さうぢやないと、言つて見たつて無駄だよ。今度は多分卵(たまご)なんかの味は知りませんと云ふんだらう。」

「わたし卵(たまご)の味は、知つて居るわ。」とアリスは大層正直な子供でしたから、言ひました。「だつて小さい娘だつて、蛇と同じ位(くらゐ)に卵を食べてよ、さうでせう。」

「わたしには信じられないことだ。」と鳩が言ひました。「けれども、若(も)しさうだとすると、それぢやまあ娘も蛇の類(るゐ)だなあ。わしはさう云ふより外(ほか)はない。」

 鳩の言つたこの事は、アリスにとつては、全く新しい考へでしたから、アリスは一二分間(ふんかん)默り込んでしまひました。それをいい機會に鳩は話しつづけました。「おまへは卵を探して居るんだね。それにちがひあるまい。かうなりやお前が、小さい娘であらうが、蛇であらうが、わしにはどうでもよいのだ。」

わたしにはそれがちつとも、何うでもよくない事なの。」とアリスはあわてていひました。「けれどわたし、卵なんか探してゐるんぢやないの。もし探したつて、お前の卵なんか欲しくはないわ。わたし生(なま)の鳩の卵なんか好きぢやないの。」

「ふん、それぢや、去(い)つてくれ。」と鳩は巣の中に入りながら、氣むづかしい聲で言ひました。アリスは出來るだけ、こごんで樹の下を、歩いていきました。何故ならアリスの首か枝にからみつくからでした。それでその度毎(ごと)に時時止(と)まつて、ほどいていかねばなりませんでした。しばらく經つて、アリスは兩手に一本の蕈(きのこ)を、持つて居ることに氣がつきましたから、大變氣をつけて、初めに一つの側(かは)をかじり、それから別の側(かは)をかじつて、大きくなつたり、小さくなつたりして居るうちに、とうとうアリスはやつとあたり前の背(せい)になることができました。

 隨分と永い間ほんとの大きさにならなかつたのですから、始めは全く奇妙でした。が、少し經つうちに、慣れて來て、いつもの樣に獨語(ひとりごと)をいひ始めました。「さあ、これでわたしのもくろみか、半分達(たつ)しられたのだわ。あんなにいろいろ大きさが變つちや、やりきれないわ。一分間(ぷんかん)のうちに、どうなつていくのだかわからないのだもの。けれどもわたしはこれであたりまへの大きさになつたのだ。次にすることは、あの綺麗なお庭に入ることだわ。一體それには、どうすれぱいいのか知ら。」かう言ひましたとき、アリスは突然、廣廣(ひろびろ)とした場所に出ました。そこには四尺ばかりの小さい家(うち)が建つて居りました。「あすこに誰(だれ)が住んで居るにしても。」とアリスは考ヘはじめました。「わたしがこの大きさのままで會ひに行つちやあ、惡いかもしれないわ。内(うち)の人達をすつかり驚かせてしまふわ。」さう言つてアリスは又(また)蕈(きのこ)の右側を、少しかじり始めました。それで九寸ばかりの背(せい)になつたとき、はじめてその家(うち)に近寄つて行きました。

2015/06/23

深夜の人 室生犀星

 

[やぶちゃん注:この何とも不可思議な手触りのする奇体にして不安な夢記述の如き小品は、室生犀星が昭和九(一九三四)年一月『文学界』に発表した、畏友芥川龍之介の死後六年半の後の小説である。

 底本として昭和一八(一九四三)年三笠書房刊の「芥川龍之介の人と作品 上卷」を国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した。傍点は太字とした。

 私は思う。……過去の古びた個別的なメトニミー(metonymy:換喩)が、今現在の痙攣的な我々の現実のメタファー(metaphor:隠喩)として我々を指弾するのだ…………【2015年6月23日 藪野直史】] 

 

   深夜の人 

 

 雨があがると虹が立つた、素晴しい美しい虹だつた。群衆は一どきに前側に列をすゝめ巡査はなぜか危ないと云つて、群衆の亂れるのを制した。みんなは虹を見ようとしてゐるのだ、虹なんぞ見るのにこんなに人出があるなんて不思議な日である。空は薄暗がりのなかに眞中から陶器が二つに割れたやうな割目を見せてゐて、そこから一面に斜陽のやうな明るい光を見せてゐた。

 「いつたい、これはどうしたのだ、虹なんぞ見たつて仕樣があるまい。」

 死んだ小說家が僕とならんで、ちょつと虹の方を見て、愚かなることよといふやうな顏をした。

 「虹ばかり見に出たのではない、これは天變地異のある證據ぢやないか、何だか世間ががやがやしてゐる。みんなの顏を見ても眞黑になつてゐるぢやないか。」

 僕らは何やらまだお喋りをつづけて步いてゐるうちに、群衆は一どきに感極まつて聲をあげた。聲はそらの方に向いて上げられたのだ。僕らも慌ててそらを仰ぎ見たが、僕らはそこに一頭の龍がそらから五色の雲を搔き起しながら、下界に向つておりてくる姿を眺めた。

 不思議なことにはその龍はずゐぶん大きかつたけれど、支那の竹細工で出來た龍みたいに五つの節からなり立つてゐた。頭と胴が三つ繼ぎになり、尾は伊勢鰕のやうに開いて透き徹つてゐた。伊勢鰕といえば龍の全體がそつくり途方もない大きい伊勢鰕のやうに見えた。墨と紅と白墨とでそめ上げ、ところどころに黃金の鱗が描かれてあつて、よく見るとそれは紙で作つたものらしかつた。動くたびにざわざわ音がした。にも拘らずその氣分は驚くべき立派な、古來から僕らが小說やお伽話や詩や俳句で教へられた龍にちがひなかつた。いまどきこんな龍が下界に降りるなんて奇蹟でもあるにちがひない。

 「見たまへ龍の胴ツ腹から人間の足が一杯下つてゐるぢやないか。あれは君、越後獅子のやうに紙の龍を練り步きしてゐるのだぜ。愚人を詐らかせる惡者の仕業かも知れん。」

 成程僕は、始めて龍の頭の下にも、胴ツ腹にも、尾の方にも中にはいつて龍をかついでゐる人の足がによきによき毛脛までそよがせてゐるのを見た。しかもどの足もみな雲のやうな薄墨いろに塗つてあつて、一見、けふの怪しい曇天のいろと異つて見えるところがなかつた。

 それにしても僕は生れてはじめて龍を見た驚きを、假令、人間の足が下から覗いて見え るにしても、變へることができなかつた。

 龍はしづしづと道路をあるいて行つた。群衆は誰一人として龍に人間の足がついてゐることを嘲笑するものもいなければ、殊更に氣をつかつてゐるらしい氣はひもなかつた。 只、いちじるしい讚仰の聲と心があつたばかりだつた。感嘆の聲が寺院のなかにゐるやう に群衆をゆき亘つて、それが町ぢうに音樂のやうにひろがつて行つた。僕は龍の眼の玉が子供の石蹴り遊びのガラスの玉ほどあつて、尾が夜會の扇のやうにひろがつてゐるのを美しいと眺めた。

 「この龍はめすぢやないか。」

 「どうして君にそれがわかるの。」

 「だつて羞かしさうにお腹を時々ゆすぶつては顏を伏せて行くぢやないか。腹を見たまへ、卵が一杯詰つていゐる。駝鳥のやうな巖丈な卵をしこたま積め込んでゐやがる。」

 「あれが卵か。」

 龍の下腹は磧を逆さまにしたような卵の列で、一杯であつた。

 「なるほどめすだ、仔を生みに下界に降りに來たのだらう。」

 「この際さうみとめるのが一番早道の考へだね。」

 僕は紙づくりの龍であること、人間が擔ぎ𢌞つてゐることをすつかり忘れてしまつてゐことに、僕は自分の氣持を疑ふやうにもなつてゐた。

 龍は先刻もいつたやうにしづしづと通りすぎてしまつたかと思ふと拭いて取つてしまつたあとのようにきれいに龍は消えてなくなつてしまつた。しかし群衆は依然うごかなかつた。まだ何か見るものがあつてさうしてそのやうに動かずに待つてゐるやうであつた。もつと面白いことがあるかも知れない、これは見物だぞと僕は死んだ小說家をこづいた。

 彼と僕とは電信柱にもたれ、退屈と物好きであるとしか見えない群衆と同じい心をもつやうになつてゐた。群衆はがやがや囁きをはじめた。先刻の龍の下りてくる前と同じい程度のがやがやであつた。そのうち空が陶器のやうに割れるのであらうと考へると、やはりその通りであつた。明るい背光のなかからこれは又聞いたことのない悲しい音樂が起つて來たが、それは映畫などの悲しい時の氣分をあらはすにふさはしいヴァイオリンのきうきういふ音色に似てゐた。それを聞いてゐて僕は人知れずどれだけ泣いたか知れなかつた。つまり僕は大方の觀客と同じく活動を見にゆくことは、いつも泣きにゆくやうなものであつた。カイゼルはあの年になつて老の涙を映畫見物中におふきになるさうであるから、僕なんぞ泣くのはそんなに羞かしい譯のものでなかつた。女給や女學生や世帶で苦勞した女がべたべたに泣くやうに僕もまたべたべたになつて泣くのであつた。一たい僕は音樂を欲するときは大抵女にほれてゐる時か、女のことを考へてゐる時か、女のことを思ひながら詩や小說をかいてゐる時かであつた。そのほかに音樂などの必要がなかつた。女にほれてゐるときに音樂をきくと、ほれてゐる事がらが一そう樂しくあまだるくなり、とろとろになつてくるので好きであつた。音樂があるために女がうつくしく見えることも實際であつた。だから今ヴァイオリンがきうきう鳴るのをきいてゐると、女にほれてゐないときだから、ちつとも面白くないのであつた。面白いどころか、からだが寒氣がしがちがちしてくるくらゐだつた。

 よく聞いてゐるとその音樂は死の行進曲であつたのだ、悲しい筈である。死んだ小說家はそんなものに耳もくれないで、こんどは祿な行列ぢやないぜ、きうきう絃をこすりやがつていやに悲劇の前ぶれをするから面白い筈がないと云つた。それにも拘らず彼はのんきな顏をして、しげしげと天の一方をながめ込んでゐた。

 行列はまさに行列であつたが、死人の行列であつた。女なんぞはみんな裸で男もさうだつた。女の裸なぞは少しも美しくないばかりか、みんな煮しめたやうな黑いからだをしてゐた。

 しかし顏は瘦せた石佛のように美しく見えた。美しいといふよりも烈しい淸瘠さがあつたのだ。

 群衆はしんみりして了つて誰も聲も立てなかつたし、咳一つしなかつた。全く畏つてゐる姿だつた。それがあんまり靜かだつたのでちよつと反感をもつくらゐであつた。行列は相不變しづしづと步いて行き、音樂はもう起つてゐなかつた。

 死んだ小說家は小鳥が籠から放れると、ふいに高い木の頂に止つてやはり一應籠の方をふりかへつて見るやうに、熱心に行列を見てゐた。僕は彼がにはかに知己に會つたときの元氣を取りもどしたやうになつてゐるのを感じた。

 君は死んでゐるのか生きてゐるのか、どつちなんだと云はうとして、それを云ふことが大變なことになると思うて僕はいふのを控えた。人間はいふべきことを氣のついたときには控へた方がよい、そんなことを僕は日ごろちよいちよい考へてゐた。

 行列は絕えないばかりか、群衆のなかからその行列に加はらうとするものがあつてその人が道路に出るごとに、群衆は危ないから止めろとか、連れて行かれるぞとか、かへつて來られないよとか、女房や子供を可愛さうだと思はないのかとか、あとに殘るのは日干しになるぞとか、がやがやと口々に憚るやうな聲をして囁き合うた。しかし道路に出た人間は行列のぢきちかくなると、醉うたやうになつて踊るやうな足つきで行列のなかに紛れ込んで行つた。まるでダンスみたいに踊るのだ。そんな人間はすぐ見境ひのつかない行列のなかの同じい顏に刷り込まれて行つて、見定めようとしてもまるで分らなかつた。事實、さふいふ小さい事件があるときだけ、しづしづと行くべき筈の行列が深い淵の底がとても迅いやうに、ひと呑みに呑み込まれて了ふのである。その小事件は隨所におこなはれ始めた。一人出て行くとまた一人出て行つてはつとするまに、うしろの方から落し物をさがすやうな格好をして馳つて出て又呑み込まれて行つた。僕は恐ろしくなつた。僕は馬鹿だからひよつとして人眞似をして何時どんな氣まぐれから飛び出すか分らないからだつた。僕は手に汗をにぎり喉を乾かし、じれじれして、大きな聲をしてみんな用心しろ、これはとても恐ろしい人食の行列だぞ、そんなものを見物してゐることは危險だから早く家へかへつた方がよいぞ、これは人間をだましに步いてゐるあくまの行列だと怒鳴らうかと思ふくらゐであつた。しかし群衆は去らうとしなかつた。ぽつりぽつりと行列にまぎれ込むものが次第に殖えて來て、何百萬ゐるか知れないが次から次へと、うぢやうぢや蛆のやうに湧いては絕えることがなかつた。

 僕は友だちの顏をながめたが、べつに變つたところがなかつた。僕は安心してにやにや笑つて云つた。

 僕はまた彼がまるで知つてゐることのやうに、尋ねるやうな形で云つた。

 「この行列はいつたい何時まで續くんだ。」

 さツきの龍のはうがどれだけ面白かつたか知れやしない。

 「この行列は多分けふ一杯つづくだけのものがあるよ、あとはまだ雲の中を步いてゐるから。」

 彼はぐづぐづしてゐて步き出さうとしなかつた。それに行列のなかに知り合ひでも搜し當てるやうに、ちらりちらりと鰊のやうに固くなつた顏を見くらべては、飽きる樣子もなかつた。群集から依然飛び出して列に加はるものが殖えるばかりで、もう數へることすらできない、僕はしまひに膝がしらががくがく折れ出しさうになり、さうなると道路に飛び出すやうな氣になるのだ。

 死んだ小說家がその時僕に何んでもないやうに、平氣で云つた。

 「では君、失敬。」

 かれはさういふと、なりの高い背丈を群衆から放して、列の中にまぎれ込んで行つた。あんまり突然な自然な出來事だつたやうな氣がして、僕は呆氣に取られて眺めてゐた。彼もまたお多分に漏れず行列に加はると同時に何が何やら、そしてまた誰が誰やらわからぬやうになつて了つた。

 

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)~(一五)



        一二

 

 それから、私共は音に聞えた鎌倉の觀音の前へ達した。これは、人間の靈魂を救はんがため自から永遠の平安を讓渡たし、猶億劫年間人類と惱みを共にせんがため、涅槃の幸福を放棄した、憫みと慈悲の女神なのだ。

 私は寺に通ずる石段の阪を、三つ上つて行つた。入口に坐せる若い娘が立ち上つて迎ヘて、奧へ人つて番僧を呼んできた。それは白衣を着けた老人であつた。彼は私に入るやう合圖をした。

 この寺はこれまで見た寺に劣らず大きくあるし、また他の寺々の如く星霜六百年の損傷を受けて、古色蒼然としてゐる。祈願の献納品や、字を書いたものや、種々の面白い色に染めた澤山の提燈などが、屋根から吊り下つてゐる。

 入口に殆ど對した處に、極めて人間らしい容貌で、等身大の珍しい坐像が非常に皺のよつた顏の中に埋もれた、小さな奇妙な眼で、私共を眺めてゐる。もと顏は肉色に、像の衣は淡靑色に賦彩してあつたが、今では年月と塵のため、全體一樣に灰色になつて、その色褪せた趣は、像の老朽とよく調和し、いかにも生ける托鉢僧を見るやうだ。これはお鬢づるで、無數の參詣者の指先に撫でられて形の磨滅してゐる。有名な淺草のものと同じい。入口の左右に筋肉逞しく、怖ろしげな仁王がある。深紅の胴體には參詣者の投げつけた白い紙玉が、班點をなしてゐる。壇上には、小さいけれども、頗る好ましげな觀音が、炎の明滅を模せる、長方形の金の光背を全身に負ひながら立つてゐる。

 が、この像のため、この寺が有名なのではない。今一つ別の像があるのだ。それは或る條件で拜することが出來る。老僧は立派な英語で、盛んに述べ立てられたる懇願文を私に提示した。寺と住職を支へて行くため、參詣者から幾分の寄附を仰ぐといふ趣意で、他の宗旨の人々にも『苟も人を親切にし、善良ならしむる信仰は、すべて尊敬に値する』ことを記憶するやう訴へてあつた。私は幾らかの喜捨を捧げて、大觀音の拜觀を求めた。

 すると、老僧は提燈に點火し案內して、佛壇の左の低い入口から、寺の內部の高い暗い處へ入つた。私は用心し乍ら隨いて行く。提燈の火がちらちらする外、何も見えない。やがて、何だか光つたものの前に停つた。暫くすると、私の眼が暗黑に慣れて、物の形狀が分明になつてきた。その光つたものは、次第々々に金の大きな足であることが分つて、足背の上に金の裙の紺が波を打つてゐるのが目についた。すると、片方の足も見えたから、これは立像に相違ないと思つた。私共の居る處は狹いが、餘程高い室であつて、上の方の神祕な暗黑から、金の足を照らしてゐる燈光の圈內へ繩がぶらさがつてゐるのが分つた。僧は更に二つの燈を點じて、一碼位離れて垂下した一對の繩に附着せる鈎に吊るし、それから徐々とたぐつて上げる。燈が搖れ乍ら上ぼるにつれて、金の衣はもつと澤山現れてくる。次には二つの大きな股の外形、その次には彫刻の衣裝を纏つた、圓柱のやうな股の曲線が現れる。して、燈光が猶ますますゆれつ〻上つて、金の幻影が暗中にますます高く聳えると共に、期待の心が緊張してくる。頭の上方で目に見えぬ滑車が蝙蝠の叫ぶ如く軋る外には、一つの音もしない。やがて金の帶の上の方に、胸に髣髴したものが現れた。次に祝福を示すために擧げられたる金の手が輝いて見えた。次には蓮華を持つた片方の金の手、それから最後が金の顏、久遠の若々しさと、無量の慈愛を帶びて微笑せる觀音の顏。

 神聖な暗黑の裡から、かやうにして露はされた、この神々しい女性の理想――古代が產み、古代藝術が產んだ作品――は、たゞ强い印象を與へるといふだけに止まらない。私はこれが惹起した感情を驚嘆と稱しては物足りない。それは寧ろ敬畏の念である。

 しかし、觀音の麗顏の邊で一寸停つた燈火が、また滑車の軋る音をたてて、更に上つて行くと、これはこれは、象徴の異常を極めた三重冠が現れた。幾つもの頭や、顏を疊んだ尖塔である――それらの顏は、觀音の顏の小型で、少女の愛らしい顏である。

 といふのは、この觀音は十一面觀音だから。

[やぶちゃん注:長谷寺の十一面観音の拝観記。本尊のそれは高さ九・一八メートルで右手に錫杖を持つ長谷寺式立像。現存する古い木造仏像では最大とされる。私は本作のこのシークエンスがたまらなく好きである。一度でよい、私はこの演出によって、かの長谷観音(これは通称で海光山慈照院が正式な寺名)を見て見たかった。私は正直、何度も金ピカの長谷観音を拝観したが、この部分を読んだ若き日ほどに感銘したことは、残念なことに、一度も、ないのである。あらゆる荘厳な宗教建築も聖像も、そして、能も文楽も歌舞伎も――今や、赤裸々に細部まで照らし出されてしまうことによって聖性を消失し、おぞましいグロテクスなものへと変容してしまっている――というのが私の思いなのである。……

「お鬢づる」「お賓頭盧(びんづる)さま」である。釈迦の弟子中、獅子吼(ししく)第一と称された十六羅漢の第一に挙げられるビンドラ・バラダージャの尊像。本邦では病者が患部に相当する本像の部位を撫で摩ると除病の功徳があるとされる(現在は新造のものが本堂内にあったように記憶する)。ハーンは「有名な淺草のものと同じい」と述べているが、これは一年後の執筆時の、後に浅草寺のそれを見たあとの感懐である。私の電子テクスト「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 12 浅草寺にて」に絵入りで出るのが、まさにそれである(これはハーン来日の十三年前、明治一〇(一八七七)年にモースが見たもので、現在は浅草寺本堂外の宝蔵門西南側にある浅草不動尊――但し、浅草寺とは異なる天台宗宝光山大行院――に金属製の「なで仏」としてリニューアルして鎮座している)。

「裙」「もすそ」と訓じていよう。裳裾。

「一碼」既注。「碼」は「ヤード」。一ヤード(yard)は九十一・四四センチメートル。] 

 

Sec. 12

   And we arrive before the far-famed Kamakura temple of Kwannon—Kwannon, who yielded up her right to the Eternal Peace that she might save the souls of men, and renounced Nirvana to suffer with humanity for other myriad million ages—Kwannon, the Goddess of Pity and of Mercy.

   I climb three flights of steps leading to the temple, and a young girl, seated at the threshold, rises to greet us. Then she disappears within the temple to summon
the guardian priest, a venerable man, white-robed, who makes me a sign to enter.

   The temple is large as any that I have yet seen, and, like the others, grey with the wearing of six hundred years. From the roof there hang down votive offerings, inscriptions, and lanterns in multitude, painted with various pleasing colours. Almost opposite to the entrance is a singular statue, a seated figure, of human dimensions and most human aspect, looking upon us with small weird eyes set in a wondrously wrinkled face. This face was originally painted flesh-tint, and the robes of the image pale blue; but now the whole is uniformly grey with age and dust, and its colourlessness harmonises so well with the senility of the figure that one is almost ready to believe one's self gazing at a living mendicant pilgrim. It is Benzuru, the same personage whose famous image at Asakusa has been made featureless by the wearing touch of countless pilgrim-fingers. To left and right of the entrance are the Ni-O, enormously muscled, furious of aspect; their crimson bodies are speckled with a white scum of paper pellets spat at them by worshippers. Above the altar is a small but very pleasing image of Kwannon, with her entire figure relieved against an oblong halo of gold, imitating the flickering of flame.

   But this is not the image for which the temple is famed; there is another to be seen upon certain conditions. The old priest presents me with a petition, written in excellent and eloquent English, praying visitors to contribute something to the maintenance of the temple and its pontiff, and appealing to those of another faith to remember that 'any belief which can make men kindly and good is worthy of respect.' I contribute my mite, and I ask to see the great Kwannon.

   Then the old priest lights a lantern, and leads the way, through a low doorway on the left of the altar, into the interior of the temple, into some very lofty darkness. I follow him cautiously awhile, discerning nothing whatever but the flicker of the lantern; then we halt before something which gleams. A moment, and my eyes, becoming more accustomed to the darkness, begin to distinguish outlines; the gleaming object defines itself gradually as a Foot, an immense golden Foot, and I perceive the hem of a golden robe undulating over the instep. Now the other foot appears; the figure is certainly standing. I can perceive that we are in a narrow but also very lofty chamber, and that out of some mysterious blackness overhead ropes are dangling down into the circle of
lantern-light illuminating the golden feet. The priest lights two more lanterns, and suspends them upon hooks attached to a pair of pendent ropes about a yard apart; then he pulls up both together slowly. More of the golden robe is revealed as the lanterns ascend, swinging on their way; then the outlines of two mighty knees; then the curving of columnar thighs under chiselled drapery, and, as with the still waving ascent of the lanterns the golden Vision towers ever higher through the gloom, expectation intensifies. There is no sound but the sound of the invisible pulleys overhead, which squeak like bats. Now above the golden girdle, the suggestion of a bosom. Then the glowing of a golden hand uplifted in benediction. Then another golden hand holding a lotus. And at last a Face, golden, smiling with eternal youth and infinite tenderness, the face of Kwannon.

   So revealed out of the consecrated darkness, this ideal of divine feminity—creation of a forgotten art and time—is more than impressive. I can scarcely call the emotion which it produces admiration; it is rather reverence. But the lanterns, which paused awhile at the level of the beautiful face, now ascend still higher, with a fresh squeaking of pulleys. And lo! the tiara of the divinity appears with strangest symbolism. It is a pyramid of heads, of faces-charming faces of maidens, miniature faces of Kwannon herself.

   For this is the Kwannon of the Eleven Faces—Jiu-ichimen-Kwannon. 

 

 

       一三

 

 この像に對して、世間の尊信は頗る篤い。その傳說はかうである。

 元正天皇の御宇に、大和の國に得度上人といふ僧がゐた。前生では法輝菩薩であつたが、俗人の靈魂を救ふため、また娑婆へ生れたのであつた。その頃、得度上人が大和の國のある谷を夜間步いて行くとき、不思議に光り輝くものを見た。近寄つてみると、その光は大きな楠樹の倒れた幹から發してゐた。樹から芳香を放ち、光りは月の光のやうであつた。こんな奇瑞からして、上人はこの木は神聖なものと悟つて、その材木で觀音の像を彫刻させたらばと思ひ付いた。して、彼は讀經念佛して祈願を凝めた。すると忽ち彼の面前へ老人と老女が現れて、『貴僧の願は、この材木で觀音の像を彫つてもらひたいのだといふことを知りました。だから、もつと祈りをけなさい。私達が彫つて上げますから』と彼にいつた。

[やぶちゃん字注:「耀く」は底本では「耀ぐ」。誤植と断じて訂した。]

 して、得度上人はその通り祈りを續けてゐると、男女の老人達は、大きな幹を易々と二つに等分し、その一個づゝに彫刻を始めた。彼等は三日間勞作して、三日目には二體の立派な觀音が出來上つた。上人は眼前にこの驚くべき像を見て、『どうか、御兩人の御名を知らせて下さい』と云つた。老人が春日明神だと答へ、女は天照皇大神だと答へた。して、彼等の答へてゐる内に、姿が變はり、聖天して、得度上人の目から消え失せた。

 天皇がこれを聞召され、大和へ使者を遣はし、寄進の品を捧げ、また寺を建立させられた。名僧の行基菩薩も來て、觀音と寺の供養を催し、一體の像を、そこへ勤請し、『すべての生靈を救ふため、永遠こ〻に留まり玉へ』と告げたが、他の一體を海中へ投じ、『すべての生靈を救ふため、何れなりとも最善の地へ行き玉へ』といつた。

 その像が鎌倉へ漂流した。夜、そこへ着いて、恰も海上に日が照つたやうに光輝を放つた。鎌倉の漁夫どもは、大きな光に目を醒まされ、舟に乘つて沖へ出て、浮べる像を發見して、濱邊へ齎らした。そこで、天皇が詔して、像のために海光山、新長谷寺といふ寺を建てさせ玉ふたのであつた。

[やぶちゃん注:英文にある注6(後掲)は、仏教の本地垂迹説から廃仏稀釈と国家神道化、しかし、別して、出雲や西日本では、ずっと神道の神々が支配的であったとし、神仏習合と逆本地垂迹思想辺りまで述べようとしているように見える。

「元正天皇の御宇」女帝元正(げんしょう)天皇の在位は霊亀元(七一五)年~養老八(七二四)年。「かまくら子ども風土記 上」(昭和四八(一九七三)年鎌倉市教育研究所刊・改訂八版)では、養老五(七二一)年とする。

「得度上人」「德道」の誤り。徳道(生没年不詳。但し、講談社「日本人名辞典」では斉明天皇二(六五六)年とする。前注の養老五年が正しいとすると満六十五の時の観音造立祈願であったことになる)は八世紀前後に生存した伝説的な僧侶で奈良長谷寺の開祖とされる。出身は播磨国揖保(いぼ)郡で、俗姓を辛矢田部(からやたべ)米麻呂と称し、有力豪族であったともいうが、出家受戒して沙弥となった(師は弘福寺(川原寺)の道明とも東大寺良弁とも伝える)。「長谷寺縁起文」には、徳道が聖武天皇の勅を受けて道明の指導のもとに精舎建立を発願、長谷寺を建立するに至る経緯が述べられている。近江国高嶋郡白蓮華谷にあった霊木をもって稽主勲(けいしゅんくん)・稽文会(けいもんえ)の二人の巧匠に命じて二丈六尺(約七・九メートル)の十一面観音を造らせ,天平五(七三三)年に行基を導師として開眼供養を行ったとされる。但し、行基の関与は疑わしいところもあり、長谷寺建立の時期は七百二十年代(養老四年から神亀六・天平元年)と考えられている。なお、長谷寺縁起関係ではすべて『德道』と記されるが、「東大寺要録」の「第六末寺章長谷寺」の項では『道德』と表記されている(主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「法輝菩薩」菩薩としての記載はあまりなく、不詳。この名は寧ろ、役行者の異名として知られる。

「大和の國のある谷」前掲「かまくら子ども風土記」(ここで言っておくと、「子ども」と馬鹿にしてはいけない。初版は私の生まれた昭和三二(一九五七)年に刊行され、宅地開発による変容の過程をも今に伝える名著である。今ではこの本ぐらいでしか容易に知り得ぬ情報も満載で、若き日の私にとっては永らく最良の鎌倉案内書であった。改訂版執筆者には私の玉繩小学校時代の何人もの恩師が名を連ねておられる)では初瀬とし、楠からの芳香に引かれて分け入ったとあり、『そこで、その前に庵(いおり)をつくって二十一日の間』祈誓をなしていたところ、『終わりが近づいたある日、たまたま右大臣の藤原房前(ふささき)』(天武天皇一〇(六八一)年~天平九(七三七)年):藤原不比等二男。後に太政大臣)『が狩りに来てこの話を聞き感激して、このことを元正天皇に』上奏したところ、天皇よりその費用が下賜されたという。そして先に出た当時の名工であった稽文会と稽主勲に観音像を彫らせたが、その際、二人は『この楠を二つに切り二体の十一面観音を作り、木の本(もと)で作った観音をその地にとどめ初瀬町の長谷寺にまつり、木の末でつくった観音は、縁ある地へ行って、民衆を救ってくれるようにと祈って大阪から海に流し』たが、実に『それから十六年、この像は三浦郡の長井』に漂着、『そこでさきの徳道上人を迎えて寺を開き、この観音を本尊としておまつりしたのが長谷寺であるといわれてい』る、とある(なお、これも信ずるとするなら、この時、徳道は既に八十を越えていたことになる)。

「海光山、新長谷寺といふ寺を建てさせ玉ふた」海光山慈照院長谷寺の創建は寺伝によれば天平八(七三六)年とするが、これは大和長谷寺の縁起と前注の伝承に合わせたものと思われる。実際の草創年代はよく分からないが、当寺の梵鐘に文永元(一二六四)年七月十五日の銘があるから、鎌倉後期には成立していたと考えられる。] 

 

Sec. 13

   Most sacred this statue is held; and this is its legend.

   In the reign of Emperor Gensei, there lived in the province of Yamato a Buddhist priest, Tokudo Shonin, who had been in a previous birth Hold Bosatsu, but had been reborn among common men to save their souls. Now at that time, in a valley in Yamato, Tokudo Shonin, walking by night, saw a wonderful radiance; and going toward it found that it came from the trunk of a great fallen tree, a kusunoki, or camphor-tree. A delicious perfume came from the tree, and the shining of it was like the shining of the moon. And by these signs Tokudo Shonin knew that the wood was holy; and he bethought him that he should have the statue of
Kwannon carved from it. And he recited a sutra, and repeated the Nenbutsu, praying for inspiration; and even while he prayed there came and stood before him an aged man and an aged woman; and these said to him, 'We know that your desire is to have the image of Kwannon-Sama carved from this tree with the help
of Heaven; continue therefore, to pray, and we shall carve the statue.'

   And Tokudo Shonin did as they bade him; and he saw them easily split the vast trunk into two equal parts, and begin to carve each of the parts into an image. And he saw them so labour for three days; and on the third day the work was done—and he saw the two marvellous statues of Kwannon made perfect before him. And he said to the strangers: 'Tell me, I pray you, by what names you are known.' Then the old man answered: 'I am Kasuga Myojin.' And the woman answered: 'I am called Ten-sho-ko-dai- jin; I am the Goddess of the Sun.' And as they spoke both became transfigured and ascended to heaven and vanished from the sight of Tokudo Shonin. [6]

   And the Emperor, hearing of these happenings, sent his representative to Yamato to make offerings, and to have a temple built. Also the great priest, Gyogi-Bosatsu, came and consecrated the images, and dedicated the temple which by order of the Emperor was built. And one of the statues he placed in the temple, enshrining it, and commanding it: 'Stay thou here always to save all living creatures!' But the other statue he cast into the sea, saying to it: 'Go thou whithersoever
it is best, to save all the living.'

   Now the statue floated to Kamakura. And there arriving by night it shed a great radiance all about it as if there were sunshine upon the sea; and the fishermen
of Kamakura were awakened by the great light; and they went out in boats, and found the statue floating and brought it to shore. And the Emperor ordered that
a temple should be built for it, the temple called Shin-haseidera, on the mountain called Kaiko-San, at Kamakura.

 

6 This old legend has peculiar interest as an example of the efforts made by Buddhism to absorb the Shinto divinities, as it had already absorbed those of India and of China. These efforts were, to a great extent, successful prior to the disestablishment of Buddhism and the revival of Shinto as the State religion. But in Izumo, and other parts of western Japan, Shinto has always remained dominant, and has even appropriated and amalgamated much belonging to Buddhism. 

 

 

       一四

 

 觀音の寺を後にしてからは、最早路傍に人家はない。左右の翠丘は急峻になつて、頭上の樹陰は濃くなつた。が、それでも折々、蒼苔の蒸せる石段、彫刻を加へた山門、或は鳥居などが、私共の訪ねる遑なき社寺の存在を知らせてゐる。この邊の幾多崩壞せる祠堂は、癈都の昔の壯麗と宏大を無言に證明してゐる。して、到る處花香に混じて心地よい、樹脂の味を帶びた日本の薰香が漂つてゐる。時々私共は四角柱の斷片の如き彫刻された石――荒れ果てた墓地の古塚――が澤山散らばつた處や、夢みる阿彌陀又は微笑せる觀音の像などが淋しげに立てる邊を過ぎた。すべて古びて、色褪せ、磨損して、櫛風沐雨に見分け難くなつたのもある。私は霎時立停つて、哀れげな六個の群像に眺め入つた。死んだ小兒の靈魂を護る、美はしい六地藏も、碎けて鱗蘚を結び、苔を帶びたさま! 五個の像は、多年の祈り示す小石の埋積裡に肩まで埋もれ、亡兒の可愛さに泰納せる、さまざまの色の涎掛が、その頸に卷いてある。が、一個の塊は減茶々々に破碎されて、自から跳ね飛ばした小石の間に顚覆してゐる。通りがかりの荷車に毀されたのであらう。

[やぶちゃん注:順路から考えると、これは坂ノ下の虚空蔵堂の先、極楽寺坂切通の上り口にある日限六地蔵尊かと思われる。

「櫛風沐雨」「しつぷうもくう」と読む。風雨に曝されながら、苦労して働くこと。世の中の様々な辛苦に曝されることの譬え。「櫛風」は強い風に髪が櫛くしけずられるようになることを、「沐雨」は激しい雨に身を洗われることを指す。「晋書」文帝紀に基づく。

「霎時」「せふじ(しょうじ)」と読む。「暫時」に同じい。暫くの間。ちょっとの間。「霎」はさっと降っては直ぐ止む小雨、通り雨を原義とし、そこから瞬く間、しばしの意となった。

「鱗蘚」「うろこごけ」或いは当て読みで「ぜにごけ」とも読めそうだが、並列で「苔」と来るから、ここは「リンセン」と音で読むべきであろう。ゼニゴケ植物門ウロコゴケ綱ウロコゴケ亜綱ウロコゴケ目 Jungermanniales 、所謂鱗状に生え広がるゼニゴケ類を指す。ここの一文の原文は“Oh, how chipped and scurfed and mossed they are!”で、当該語の“scurfy”は「フケだらけの、カサカサした」の意である。] 

 

Sec. 14

   As we leave the temple of Kwannon behind us, there are no more dwellings visible along the road; the green slopes to left and right become steeper, and the shadows of the great trees deepen over us. But still, at intervals, some flight of venerable mossy steps, a carven Buddhist gateway, or a lofty torii, signals
the presence of sanctuaries we have no time to visit: countless crumbling shrines are all around us, dumb witnesses to the antique splendour and vastness of the dead capital; and everywhere, mingled with perfume of blossoms, hovers the sweet, resinous smell of Japanese incense. Be-times we pass a scattered multitude of sculptured stones, like segments of four-sided pillars—old haka, the forgotten tombs of a long-abandoned cemetery; or the solitary image of some Buddhist deity—a dreaming Amida or faintly smiling Kwannon. All are ancient, time-discoloured, mutilated; a few have been weather-worn into unrecognisability. I halt a moment to contemplate something pathetic, a group of six images of the charming divinity who cares for the ghosts of little children—the Roku-Jizo. Oh, how chipped and scurfed and mossed they are! Five stand buried almost up to their shoulders in a heaping of little stones, testifying to the prayers of generations; and votive yodarekake, infant bibs of divers colours, have been put about the necks of these for the love of children lost. But one of the gentle god's images lies shattered and overthrown in its own scattered pebble-pile-broken perhaps by some passing wagon.
 

 

 

       一五

 

 行くに隨つて道は前下りになつて、大溪谷の壁のやうな絕崖の間を降つて、曲がると不意に峽間を脫し海に出でる。海は晴空の如く靑い――柔かな夢みるやうな靑色。

 道は銳く右に轉じ、廣い鼠色の沙濱を見おろした、磯山傳ひに迂折して行く。して、海風は心地よい潮の香を吹き送つて、肺を極度まで充滿させる。遙か向うに森に蔽はれた島の、綺麗な高い綠色の塊が、陸地から四分の一哩ほどの所に水上に聳えたのが見える。それは海の女神、美の女神を祀つた神聖なる江ノ島である。私は既にその嶮しい傾斜面に、灰色に散らばつてゐる小さな町を見ることが出來た。確かに今日は徒步で、そこへ渡つて行ける。潮が落ちてゐて、私共が近づきつ〻ある向うの村から、堤道の如く伸びた、長い廣い沙洲が露出してゐるから。

 島の對岸の小村、片瀨で私共は、人力車を棄てて步行せねばならぬ。村から濱へ出る砂丘は、砂が深くて車を曳くことが出來ない。澤山他の人力車もこの村の狹い通りで、先きに行つた客を待つてゐた。が、今日辨天の祠に參詣した西洋人は、私だけだとのことであつた。

 私共の二人の車夫が先きに立つて砂丘を越えて、やがて私共は濡れた固い砂地に下つた。私共が島に近くにつれて、小さな町の建築の細部が、海の微靄を透して面白く分かつてきた――怪奇な彎曲した靑い屋根、輕快な露臺、高く尖つた破風が、不思議な文字を一杯書いた、異樣な旗の翩翻たる上に見える。私共は平沙を越えた。すると、海の都、女神龍神の都の、いつも開かれた門である。美くしい鳥居が、私共の面前にあつた。それは全部靑銅で、上には靑銅の七五三繩が附いてゐて、また『江島辨天宮』と書いた眞鍮の額が掛つてゐる。太い柱脚には、渦卷く浪にもがく、龜の浮彫がある。これは陸路からは、辨天宮に面して實際、町の門である。が、片瀨の村につゞくものから云へば、第三番目の鳥居に當る、私共は海岸の方から來たので、村にある他の鳥居を見なかつたのだ。

 さて、江ノ島へ來た。眼前に一筋の町が上ぼつてゐる。廣い石段の多い暗い町で、紺布に白い奇異な文字の交つたのが、海風にひらひらしてゐる。料理屋や小店が並んでゐて、一軒每に私は立ち停らずには居られなかつた。日本の店頭へ立つて何かを視ると、必ず買ひたくなる、それで私は買つて、また買つた。

 何故となれば、江ノ島は實際靑貝の都だからである。何れの店にも文字を染め拔いた暖簾の後ろに、法外に安い驚くべき貝細工を賣つてゐる。蓆を敷いた臺の上に平らかに載せた玻璃張りの箱や、壁に立て据ゑた棚の附いた陳列箱は、いづれの箱も眞珠母のやうな、非常に珍らしく、信じ難いほどに巧妙を凝らした品で、燦爛としてゐる。眞珠母製の魚や、鳥を絲に繫いだものは、虹の色に輝いてゐる。眞珠母で作つた子猫もある。小狐もある。子犬もある。それから娘の櫛、卷煙草の吸口、使用するには惜しいほど、綺麗な煙管がある。志(シリング)銀貨の大いさほどもない、貝製の龜は、輕く一寸觸はれば、頭と足と足を一齊に動かし、足を交互に引込めたり出したりする。眞正の龜かと思つて、びつくりさせられる。鶴、鳥、甲蟲、蝴蝶、蟹、蝦、悉く貝細工で巧みに作られ、手を觸れて見ねば、生物でないとは信じ難い。貝の蜂が貝の花の上に留まつてゐる――針金に停まつたのを花に插してあるのが、もし一枚の羽先きで動かせば、ぶんと唸りさうにも見える、日本の娘が愛好するもので、名狀し難い貝細工の寶玉類、さまざまの形狀に彫つた簪類、襟止、頸珠などがある。江ノ島の寫眞もある。

[やぶちゃん注:私の電子テクスト『大橋左狂「現在の鎌倉」 20 江の島』の注で述べたが、江の島に初めて本格的な桟橋が架けられたのは、エドワード・モース(私のブログ・カテゴリ「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】」を参照されたい)が訪れた翌年、明治二四(一八九一)年のことであった(但し、砂州の途中からであった)、以下の原文の最初の一文中の“cañon”(キャニョン:峡谷/スペイン語であろう)の“ñ”は、文字化けしていたので、英文サイト“Internet Archive”“Glimpses of Unfamiliar Japan : Lafcadio Hearn”の原本画像を視認して挿入した。しばしばお世話になっているサイト「江の島マニアック」の「江の島の古写真」をリンクしておく。

「四分の一哩」一マイルは一六〇〇メートルであるから、四〇〇メートル。

「微靄」老婆心乍ら、「びあい」で、微かな靄(もや)である。

「七五三繩」老婆心乍ら、「しめなは(しめなわ)」である。

「靑貝」(あをがひ)原文の“Mother-of-Pearl”は、ここでは広義の真珠層を持った貝類を総称する語で、所謂、以下に出る本格的な「靑貝」細工、即ち、螺鈿(らでん)細工、及び、屑青貝(この場合は狭義のアワビ・サザエ・シンジュガイ・ヤコウガイ・オウムガイといった螺鈿細工の材料に用いる真珠光沢を持った貝類を指す)を用いた安価でちゃちな貝細工総体を指している。次の「眞珠母のやうな」という訳はやや上手くないように思われる。「眞珠母」は真珠層の別名で、ここの原文“opalescent with nacreous things”は、“nacreous things”が具体的な「真珠層を砕いて得たピース」を指しており、それが“opalescent”、「パールのような光を発していて」という謂いであろう。ここで「眞珠母のやうな」と訳してしまった結果、「いづれの箱も眞珠母のやうな、非常に珍らしく、信じ難いほどに巧妙を凝らした品で、燦爛としてゐる。眞珠母製の魚や、鳥を絲に繫いだものは、虹の色に輝いてゐる。眞珠母で作つた子猫もある」と、直後の「眞珠母製の魚」「眞珠母で作つた子猫」との流れが、それこそ曇って淀んでしまっているように思われるのである。なお、平井呈一氏はここを『ことごとく螺鈿(らでん)のようなもので、乳白色に光り輝いている』と訳しておられる。落合氏よりも達意の訳であると思うが、これも気になる。何故なら、ここでの対象は「螺鈿のようなもの」なのではなく、如何に安っぽいものであっても、これら皆、「螺鈿」、「靑貝細工」であると私は思うからである。

「志(シリング)銀貨の大いさ」本邦の骨董販売サイトのリストの中に、一八九一年鋳造貨のシリング銀貨で、直径二・三五センチメートル、重さ六グラム、厚さ一・五ミリメートルとあった。

「蝴蝶」胡蝶と同字。]

 

Sec. 15

   The road slopes before us as we go, sinks down between cliffs steep as the walls of a cañon, and curves. Suddenly we emerge from the cliffs, and reach the sea. It is blue like the unclouded sky—a soft dreamy blue.

   And our path turns sharply to the right, and winds along cliff-summits overlooking a broad beach of dun-coloured sand; and the sea wind blows deliciously with a sweet saline scent, urging the lungs to fill themselves to the very utmost; and far away before me, I perceive a beautiful high green mass, an island foliage-covered, rising out of the water about a quarter of a mile from the mainland—Enoshima, the holy island, sacred to the goddess of the sea, the goddess of beauty. I can already distinguish a tiny town, grey-sprinkling its steep slope. Evidently it can be reached to-day on foot, for the tide is out, and has left bare a long broad reach of sand, extending to it, from the opposite village which we are approaching, like a causeway.

   At Katase, the little settlement facing the island, we must leave our jinricksha and walk; the dunes between the village and the beach are too deep to pull the vehicle over. Scores of other jinricksha are waiting here in the little narrow street for pilgrims who have preceded me. But to-day, I am told, I am the only
European who visits the shrine of Benten.

   Our two men lead the way over the dunes, and we soon descend upon damp firm sand.

   As we near the island the architectural details of the little town define delightfully through the faint sea-haze—curved bluish sweeps of fantastic roofs, angles of airy balconies, high-peaked curious gables, all above a fluttering of queerly shaped banners covered with mysterious lettering. We pass the sand-flats; and the ever-open Portal of the Sea- city, the City of the Dragon-goddess, is before us, a beautiful torii. All of bronze it is, with shimenawa of bronze above it, and a brazen tablet inscribed with characters declaring: 'This is the Palace of the Goddess of Enoshima.' About the bases of the ponderous pillars are strange designs in relievo, eddyings of waves with tortoises struggling in the flow. This is really the gate of the city, facing the shrine of Benten by the land approach; but it is only the third torii of the imposing series through Katase: we did not see the others, having come by way of the coast.

   And lo! we are in Enoshima. High before us slopes the single street, a street of broad steps, a street shadowy, full of multi-coloured flags and dank blue drapery
dashed with white fantasticalities, which are words, fluttered by the sea wind. It is lined with taverns and miniature shops. At every one I must pause to look; and to dare to look at anything in Japan is to want to buy it. So I buy, and buy, and buy!

   For verily 'tis the City of Mother-of-Pearl, this Enoshima. In every shop, behind the' lettered draperies there are miracles of shell-work for sale at absurdly small prices. The glazed cases laid flat upon the matted platforms, the shelved cabinets set against the walls, are all opalescent with nacreous things—extraordinary surprises, incredible ingenuities; strings of mother-of-pearl fish, strings of mother-of-pearl birds, all shimmering with rainbow colours. There are little kittens of mother-of-pearl, and little foxes of mother-of-pearl, and little puppies of mother-of-pearl, and girls' hair-combs, and cigarette-holders, and pipes too beautiful to use. There are little tortoises, not larger than a shilling, made of shells, that, when you touch them, however lightly, begin to move head, legs, and tail, all at the same time, alternately withdrawing or protruding their limbs so much like real tortoises as to give one a shock of surprise. There are storks and birds, and beetles and butterflies, and crabs and lobsters, made so cunningly of shells, that only touch convinces you they are not alive. There are bees of shell, poised on flowers of the same material—poised on wire in such a way that they seem to buzz if moved only with the tip of a feather. There is shell-work jewellery indescribable, things that Japanese girls love, enchantments in mother-of-pearl, hair-pins carven in a hundred forms, brooches, necklaces. And there are photographs of Enoshima.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一一)

(★本日はサーバーのメンテナンスにより、これ以降は更新が出来ない。フェイスブック及びミクシィの方では暫定更新を予定している。) 


       一一
 

 

 大佛の境內へ入つてから、すぐ大佛は見えない。こ〻の寺は疾くに無くなつてゐる。芝生の中に通じた敷石道を進むと、大きな樹木が像を隱してゐる。が、少し曲がると、不意に全部が見えてびつくりする。幾ら澤山その巨像の寫眞を見たことのある人でも、實物を初めて見ては驚く。それから、像は少くとも百碼の遠くにあるけれども、あまり近過ぎはせねかといふ氣になる。私ももつとよく見るやうにと、すぐ三四碼後へ退いた。すると、像が生きてゐると思つて、私が怖がつたのだと車夫は考へて、笑ひ乍ら手眞似をして私を追ひかけた。

 しかし、假令その像が活きてゐても怖れる者はあるまい。あの容貌の柔和、夢みる如き平靜、全體の無限なる沈着は、美と魅力に滿ちてゐる。して、あらゆる期待に反して巨大なる佛陀に近寄れば近寄るほど、魅力が偉大になる。その莊嚴美麗の顏を仰いで、半ば閉ぢた眼を覗きこむと、靑銅の眼瞼から恰も幼兒の如くやさしく、その眼が注がれてゐるやうで、この像こそ東洋の精神に潛める一切の優しく、且つ落着いたものを具像化してゐると感ぜられる。然かも日本人の考でこそ始めて、これが創作され得たのだと思はれる。その美、その品位、その完全な沈着は、これを想像に描いた民族の一段優れた文明を反映してゐる。そして毛髮の扱ひ方や、種々の象徴的記號が示す通り、印度の模型から思ひ付いたのであらうが、技巧は日本的なのである。

 像が壯麗を極めてゐるために、高さ優に一丈五尺もある立派な靑銅の蓮華の莖も、暫くは看者の眼に入らない。これは像の前面、線香が燃えてゐる大三脚臺の兩側に立ててある。

 佛陀が安坐し玉ふ大蓮華の右側に孔口があつて、そこから胎內巡りが出來る。內部には觀音の小厨子、祐天上人の像、及び南無阿彌陀佛と漢字を刻した石碑がある。

 梯子で上ると、巨像の內部の肩まで行ける。そこに二個の小窓があつて、廣く境内を見渡される。此際案內の僧が、この像は六百三十年を經てゐると述べ、して、像を容れて雨露を防ぐべき寺院の新築費として、僅かの喜捨金を求める。

 それは昔は、この佛陀のために、寺が建ててあつたからである。地震に續いて海嘯が起つて、寺の壁も屋根も一掃して了つたが、巨像はそのま〻殘つて、依然蓮華を眺めて瞑想をしてゐる。

[やぶちゃん注:「百碼」「碼」は「ヤード」と読む。一ヤード(yard)は九十一・四四センチメートルであるから九十一メートル強、なお、次の「三四碼」は原文を見て頂ければ分かる通り、「三、四十碼」の誤りで、二十八~三十七メートルである。なお、大仏の座長は十一・三一二メートル、台座を含むと十三・三五メートルで、仏重量は百二十一トンに及ぶが、本像は上体が下部に比べて大きく造立されており(大仏の面長は二・三五メートルで全長の五分の一強を占める。以上のデータは高徳院公式サイトに拠る)、本体から五メートル程度離れた位置から眺めると遠近の錯視効果によって釣り合いが取れて見えるようになっている。

「一丈五尺」約四・五メートル。原文は“fifteen feet”で一フィートは三十・四八センチメートルであるから、ここでの落合氏の換算表記は極めて正確。

「祐天上人」浄土宗大本山増上寺第三十六世法主でゴーストバスターとしても知られた祐天(ゆうてん 寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)。ウィキ高徳院」から引いておく。本寺は、現在は正式には大異山高徳院清浄泉寺と号し、『鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間』(一七一一年~一七一六年)に、『江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである』。「吾妻鏡」には暦仁元(一二三八)年、『深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ』、五年後の寛元元(一二四三)年に『開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は』、仁治三(一二四二)年に『完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が』三分の二ほど『完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方で「吾妻鏡」には建長四(一二五二)年から『「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し』、この年から造立が開始された大仏が『現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である』。なお、前述の一二四三年に開眼供養された木造の大仏と、「吾妻鏡」で一二五二年に起工したとする銅造の大仏との関係については、『木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている』。「吾妻鏡」によれば、『大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である』。『鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である』。『大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは』、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて『実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている』。「太平記」には、建武二(一三三五)年に『大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり』、「鎌倉大日記」によれば大仏殿は』応安二(一三六九)年にも倒壊している。『大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について』は、「鎌倉大日記」が明応四(一四九五)年とするものの、「塔寺八幡宮長帳」などの他の史料から明応七(一四九八)年九月二十日(明応地震)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧万里集九の「梅花無尽蔵」には文明一八(一四八六)年に『彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている』。先に記した境内発掘調査の結果、応安二(一三六九)年の倒壊以後には『大仏殿が再建された形跡は見出され』ていないとある(とすれば、ハーンが見上げた百二十五年前の明治二三(一八九〇)年時点で露座となって五百二十一年、現時点で六百四十六年ということになる)。白井永二編「鎌倉事典」(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)では『もと光明寺奥院』と断定し、その後さらに、その清浄泉寺の『支院であった高徳院のみが残ったもの。祐天再興の時、山号を獅子吼山と改めたというが、今は大異山に復している』とある。

「六百三十年を經てゐる」明治二三(一八九〇)年から逆算すると、一二六〇年で正元二・文応元年となり、前注で示した大仏造立推定から見ても妥当な年数である。

「海嘯」老婆心乍ら、音で「かいせう(かいしょう)」、訓じて「つなみ」と読む。「大辞林」によれば、特に昭和初期までは地震によって発生した「地震津波」を指したとある。] 

 

Sec. 11

   You do not see the Dai-Butsu as you enter the grounds of his long- vanished temple, and proceed along a paved path across stretches of lawn; great trees hide him. But very suddenly, at a turn, he comes into full view and you start! No matter how many photographs of the colossus you may have already seen, this first vision of the reality is an astonishment. Then you imagine that you are already too near, though the image is at least a hundred yards away. As for me, I retire at once thirty or forty yards back, to get a better view. And the jinricksha man runs after me, laughing and gesticulating, thinking that I imagine the image alive and am afraid of it.

   But, even were that shape alive, none could be afraid of it. The gentleness, the dreamy passionlessness of those features,—the immense repose of the whole 
figure—are full of beauty and charm. And, contrary to all expectation, the nearer you approach the giant Buddha, the greater this charm becomes You look up into the solemnly beautiful face -into the half-closed eyes that seem to watch you through their eyelids of bronze as gently as those of a child; and you feel that the image typifies all that is tender and calm in the Soul of the East. Yet you feel also that only Japanese thought could have created it. Its beauty, its dignity, its perfect repose, reflect the higher life of the race that imagined it; and, though doubtless inspired by some Indian model, as the treatment of the hair and various symbolic marks reveal, the art is Japanese.

   So mighty and beautiful the work is, that you will not for some time notice the magnificent lotus-plants of bronze, fully fifteen feet high, planted before the figure, on either side of the great tripod in which incense-rods are burning. 

   Through an orifice in the right side of the enormous lotus-blossom on which the Buddha is seated, you can enter into the statue. The interior contains a little shrine of Kwannon, and a statue of the priest Yuten, and a stone tablet bearing in Chinese characters the sacred formula, Namu Amida Butsu.

   A ladder enables the pilgrim to ascend into the interior of the colossus as high as the shoulders, in which are two little windows commanding a wide prospect of  the grounds; while a priest, who acts as guide, states the age of the statue to be six hundred and thirty years, and asks for some small contribution to aid in the erection of a new temple to shelter it from the weather.

   For this Buddha once had a temple. A tidal wave following an earthquake swept walls and roof away, but left the mighty Amida unmoved, still meditating upon his lotus.

2015/06/22

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一〇)

 
 
       一〇

 

 この怪奇な古寺には、その傳說がある。

 七百年前といふ事だ。大佛師の雲慶蘇生が死んだ。雲慶蘇生といふのは、冥途から蘇生した雲慶の意である。その譯は、雲慶が閻魔の前へ行つた時、靈魂の裁判官閻魔は、『生前、汝はおれの像を作らなかつた。今おれを見たからには、地上へ歸つて、おれの像を作つて見よ』と云つた。そこで雲慶は忽然人間界に戾された。前に彼を知つてゐた人々は、彼を見て驚いて、雲慶蘇生といふ名を附けたのである。運慶蘇生はいつも閻魔の顏を念頭に浮べつつ、この像を作つたから、今猶ほ看者に恐怖を與へる。彼はまたこの寺にある、獰猛な十王の像をも作つた。

 私は閻魔の畫を一枚購ひたかつたので、番人にその希望を通じた。畫を買ふことは出來るが、それよりも先づ鬼を見せるとのことであつた。私は番人に隨いて寺を出で、苔の生えた石段を下り、村の本道を越えて、一つの小舍に入つて床に腰をかけた。番人は障子の奥へ入つて、やがて鬼を引摺つてきた。裸で、血の如く赤く、醜惡を極め、高さ三尺許りのものである。棒を振り翳して、威嚇の態で立ち、圖々しい眼を持つて、頭は鬪犬の頭の如く、足は獅子のそれに似てゐる。番人が極めて眞面目にこの怪物をぐるぐる𢌞はして、私にそのあらゆる恰好を見せた。開いた戶の外には、無邪氣な群集が寄つて、異人と鬼を眺めてゐた。

 それから番人は、粗末な閻魔の木版繪に、經文の印刷してあるものを探して吳れた。私がその代を拂ふや否や、彼はそれに寺の印を捺すことに取りかかつた。印は驚くべき漆塗りの箱に納めて、柔皮で幾囘も卷いてあつた。それが解かれてから、私は印を調べてみた。長方形で、朱色の磨いた石に、凹彫で意匠が刻んである。彼は印の面を赤い墨で濡して、それを凄い畫の描いてある紙の一角に捺した。して、私の奇異な買物の證據は、永遠確實となつた。

[やぶちゃん注:私はこの章段がすこぶる附きで好きである。――奇っ怪な鬼の像を眺める奇っ怪な鬼のような異人の姿に見入る鎌倉の村人たち――私は大学一年の時、図書館でこの箇所を落合氏のこの訳で読んだ際、《その光景》が白昼夢の如く、渋谷の夕暮れの大学の図書館の閲覧室の中に《現前した》のを覚えているのだ。――私は《思い出した》のだ! 確かに《私はその場にいた》のだ! 私は何を隠そう、《その鬼と異人をおっかなびっくり見ている村人の中の一人》であったことを鮮やかに蘇らせていたのである!……

「七百年前といふ事だ。大佛師の雲慶蘇生が死んだ。……」本閻魔像(重要文化財指定)は像高百九十・五センチメートル。ここで新編鎌倉志卷之七の、「新居閻魔堂」の条と私の注を引いておく。この頃は未だ、由比ヶ浜にあった。

   *

〇新居閻魔 新居閲魔(あらゐのえんま)は、由比の濵大鳥居の東南にあり。新居山と號す。堂に圓應寺(えんわうじ)と額あり。開山は知覺禪師、建長寺の末寺なり。寺領は、建長寺領の內にて、三貫文を附す。別當は山伏(やまぶし)にて、寶藏院と云。堂に閲魔の木像あり。昔し運慶頓死して地獄に至り、直に閻魔王を見、蘇生して作たる像なりと云傳ふ。俱生神(ぐしやうじん)・奪衣婆(だつえば)〔俗に三途河(さんづがは)の姥(うば)と云ふ。〕の木像もあり。しかれども寬文十三年に此閻魔の像を修する時、腹(はら)の中より書付(かきつけ)出たり。建長二年出來、永正十七年再興、佛師下野法眼如圓、建長の役人德順判、興瑚判とあり。【建長寺維那(いの)帳】に、德順は明應七年、興瑚は永正五年の所に見へたり。【鎌倉年中行事】に、七月十六日、濵(はま)の新居の閻魔堂(えんまだう)、閻王寺と號す。應永大亂の時の亡魂御弔(とむらひ)の爲に、施餓鬼之事を、扇が谷海藏寺へ仰(をほ)せて修せらるとあり。源の成氏(しげうぢ)の時なり。

[やぶちゃん注:この新居閻魔堂は、往古は由比の郷にある見越ヶ嶽(大仏東側の山)に建てられたと推定されるが(本文で開山を建長寺開山蘭渓道隆の弟子智覚大師とするが、これは建長寺落慶以前であり、智覚大師の事蹟とも合わず、信じ難い)、後に滑川の当時の川岸近く(現在の鎌倉市材木座五丁目十一番地付近)に移された。なお、その後、本書が刊行された貞亨二(一六八五)年から十八年後の、元禄十六(一七〇三)年十二月三十一日に発生した元禄大地震の津波によって当時の建物が大破し、翌年に建長寺門前の以前に建長寺塔頭大統庵があった場所(現在の鎌倉市山之内の円応寺)に移転している。

「寬文十三年」は西暦一六七三年。

「建長二年」は西暦一二五〇年であるが、先に示したようにこの造立時期は容易には信じ難い。

「永正十七年」は西暦一五一二年。この年の「再興」とは、明応七(一四九八)年八月二十五日に発生したマグニチュード8を越えるとも言われる東海道沖大地震による津波被害を受けてのことかと思われる。二〇一一年九月の最新の研究によれば、この時、鎌倉を推定十メートルを超える津波が段葛まで襲い、高徳院の大仏殿は倒壊、以後、堂宇は再建されずに露坐となったとも言われている。この時、伊勢志摩での水死者が一万人、駿河湾岸での水死者は二万六千人に上ったと推定されている。

「應永大亂」は、室町時代、応永六(一三九九)年、旧鎌倉幕府御家人であった守護大名大内義弘が室町幕府第三代将軍足利義満に対して反乱を起こし、堺に籠城の末に滅ぼされた一件を言う。この時、第三代鎌倉公方足利満兼は同心して討幕軍を進めたが、当時の関東管領上杉憲定に諌められて中止、戦後に義満に謝罪している。

「源の成氏」足利成氏。第五代鎌倉公方。永享の乱で自害した第四代鎌倉公方持氏の遺児で満兼の孫に当たる。

 なお、私は円応寺というと、十王の一人初江王の裳裾の躍動感もさることながら、同じく国宝館に展示されている「人頭杖」(じんとうじょう)が頗る附きで大好きだ。これは閻魔庁の二人の書記倶生神(くしょうじん/くじょうじん)の持物とされ、杖の柄の部分鍔のような大きな円盤の上に、恐ろしい三眼の忿怒相の鬼神の首と妙齢の美女の首の二つが寄り合って載っている(一説に、前者は泰山府君、後者は財利をもたらす弁財天の姉で、妹と反対に喪失神である暗闇天女とも言われるが、少なくとも前者はどう見てもチャう感じがするね)。私の記憶では、実は、この忿怒相の首が亡者の生前の善行を、可愛い(しかし如何にも冷たい眼をした)女の首が悪行を語るはずである。バーチャル・リアリティみたような浄玻璃何かより、こっちの方が断然、いいね!

 最後に。円応寺の閻魔の首と言えば、私は、この元禄十六(一七〇三)年の津波から程ないことかと思われる、鎌倉の昔話として伝わる、あるエピソードが忘れられぬ。

――津波に襲われ、辛うじて閻魔像の首だけが残った閻魔堂跡の掘っ立て小屋。

――供僧がせめてもと、閻魔像の首を横に渡した板の上に置き、香華などを供えて祀って御座った。

――ふと覗いた旅の男、

「こりゃ面白れえ! へッ! まるで閻魔の首級の晒首じゃ!」

と、呵々大笑して去っていく。……

――蔭で聞いていた供僧、おずおずと閻魔の前に進み出でると、

……かくなる理不尽なる物言い……閻魔大王様……さぞかし、御無念、御腹立ちのことと……存じまするッ……

と泣きながら呻くように申し上げた――――

――閻魔の首が答えて言った。

「腹もなければ腹も立たぬ」――

……お後がよろしいようで……

   *

以上で概ね語り尽くしているが、駄目押しで附すと、ウィキ寺」の閻魔像の記載に、『現存する像は頭部のみが鎌倉時代の作で、体部は江戸時代のものに変わっている。運慶作との伝えもあるが』、当寺の創建とされる建長二(一二五〇)年には既に『運慶は没しており、伝承にすぎない。関東大震災後にも像の補修が行われている』とある。但し、「鎌倉市史 社寺編」(吉川弘文館昭和三四(一九五九)年刊)には、十王像の内、非常に優れた造形を示す初江(しょこう)王は建長三年の運慶の系統を引いたことが確認されている鎌倉仏師幸有(こうゆう)の作であることが判明しており、運慶ではないにしても、その流れを引く者の手になることは間違いない(円応寺に現存するものではこの閻魔王・俱生神(ぐしょうしん)・鬼卒(後注)・人頭杖(前の引用に出る)が鎌倉時代の作で、他は新しいとされる)。ウィキには更に、『像の表情が笑っているようにも見えるため「笑い閻魔」とも呼ばれる。また参拝客の子供を食べたという伝承から、別名「人食い閻魔」とも呼ばれる。「笑い閻魔」・「人食い閻魔」と呼ばれる由縁についてはそれぞれ伝承が残っている』とし、「笑い閻魔」については、『運慶が死んで地獄に落ちたが、閻魔大王に「生き返らせてやるから自分の像を作れ」といわれ蘇生した。生き返った運慶が笑いながら彫ったため、閻魔像も笑っているような表情になった。このため、この閻魔像は笑い閻魔と呼ばれるようになった』とあり、また「人食い閻魔」の方は、『円応寺がまだ滑川沿いにあった時、閻魔像は瘧を直すご利益があるとされ信仰を集めていた。ある日瘧』(おこり:熱性マラリア)『にかかった子供を連れ、親が「この子の願いを聞いてください」と願ったところ、「この子を召し上がってください」と聞き違えて子供を食べてしまった』と記す。なお、落合氏が「雲慶」と表記していることについて、とやかく言う必要はない。この表記違いはしばしば見られるもので、ウィキの「運慶」には、治承四(一一八〇)年の『兵火で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わって』おり、建久五(一一九四)年から『翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる』とある。

「先づ鬼を見せる……」堂守の自宅の奥から引き出されたこの鬼の立像は、やや総高が高いものの――「三尺」(九十センチメートル)とあるが、原文は“three feet”で、九十一センチメートル――恐らくは円応寺蔵で現在は鎌倉国宝館寄託となっている重要文化財指定の木造鬼卒立像であろう。因みに、この鬼卒像の高さは七十九・一センチメートルである。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之七」の「新居(あらゐの)閻魔堂」の条の附図の脱衣婆の右に立つのが、それである。グーグル画像検索「鬼卒立像でも一発で分かる(因みに、そこに出る絵は、まさに私の上記リンク先の絵なのである)。] 

 

Sec. 10

   Now this weird old temple has its legend.

   Seven hundred years ago, 'tis said, there died the great image-maker, the great busshi; Unke-Sosei. And Unke-Sosei signifies 'Unke who returned from the dead.' For when he came before Emma, the Judge of Souls, Emma said to him: 'Living, thou madest no image of me. Go back unto earth and make one, now that thou hast looked upon me.' And Unke found himself suddenly restored to the world of men; and they that had known him before, astonished to see him alive again, called him Unke- Sosei. And Unke-Sosei, bearing with him always the memory of the countenance of Emma, wrought this image of him, which still inspires fear in all who behold it; and he made also the images of the grim Jiu- O, the Ten Kings obeying Emma, which sit throned about the temple.

   I want to buy a picture of Emma, and make my wish known to the temple guardian. Oh, yes, I may buy a picture of Emma, but I must first see the Oni. I follow the guardian Out of the temple, down the mossy steps, and across the village highway into a little Japanese cottage, where I take my seat upon the floor. The guardian disappears behind a screen, and presently returns dragging with him the Oni—the image of a demon, naked, blood-red, indescribably ugly. The Oni
is about three feet high. He stands in an attitude of menace, brandishing a club. He has a head shaped something like the head of a bulldog, with brazen eyes; and his feet are like the feet of a lion. Very gravely the guardian turns the grotesquery round and round, that I may admire its every aspect; while a na´ve crowd collects before the open door to look at the stranger and the demon.

   Then the guardian finds me a rude woodcut of Emma, with a sacred inscription printed upon it; and as soon as I have paid for it, he proceeds to stamp the paper, with the seal of the temple. The seal he keeps in a wonderful lacquered box, covered with many wrappings of soft leather. These having been removed, I 
inspect the seal—an oblong, vermilion-red polished stone, with the design cut in intaglio upon it. He moistens the surface with red ink, presses it upon the corner of the paper bearing the grim picture, and the authenticity of my strange purchase is established for ever.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(九)

 
 
       

 

 私共が進んで行くにつれて、道は高い崖の間を曲つて、狹くなり陰氣になつた。『おい待て!』と私の佛敎信者なる案內人は、優しく車夫を呼んだ。して、私共の二臺の車は、巨樹の葉陰から洩れて、古い苔の蒸した阪に照る一筋の日光の中へ停まつた。『こ〻に冥途の王の寺があります。閻魔堂と云ひます。寺は禪宗に屬し、禪王寺といひ、七百餘年を經てゐて、有名な像もあります』と友は云つた。

 私共は堂の立つてゐる小さな境內へと登つた。石段の頂に、右手に當つて、古碑があつた。閻魔堂といふ意味の漢字が、花崗石に一寸深く刻んであつた。

 この寺は外景內觀とも、私共が是まで訪ねた寺々に似てゐた。鎌倉の釋迦や地藏の寺と同じく敷石の床だから、入るのに靴を脫ぐに及ばない。一切のものが磨損し、くすんで、模糊たる灰色を呈し、黴びた臭が鼻を衝く。柱の彩色は夙に剝げて、生地が露はれてゐる。左右の高い壁を後ろにして、九個――一方に五個、他方に四個――の獰猛な像が並んで聳えてゐる。喇叭のやうな飾の着いた、奇怪な冠を披つて、灰色に古び、私が久保山で見た閻魔像に非常によく肖てゐるので、『これは皆閻魔か?』と私は尋ねた。『いえ、十王といいつて、閻魔の從者です』と案内者が答へた。『でも、たゞ九個ではないか?』と私が問ふた。『九個と閻魔と倂せて十王となるのです。まだ閻魔を御覽になつてゐませんよ』

 閻魔は何處に? 室の奧の方に、階梯のついた高座の上に壇が見えた。が、像は無くて、普通佛壇にある、金塗りの眞鍮又は漆塗りの器物だけあつた。壇の後ろには、たゞ方六尺許りの幕が見えた。甞ては暗紅色であつたのが、今は殆ど判然たる色もなく、床の間を蔽ふてゐるらしく思はれた。番人がきて、私共を導いて高座へ上らせた。その疊を敷いた處へ上るに先つて、私は靴を脫ぎ、幕の前、壇の背後へと番人について行つた。彼は身振りで私に知らせて、長い竿で幕をもたげ覗かせた。その陰氣な幕で蔽はれてゐた、不思議さうな、深い眞暗の裡から、忽然一つの姿が私を睥睨した。一見私は覺えず飛び退いた――一切の期待に超えた怪物の顏。

    註 一つの痛快な日本の諺がある。そ
    の諧譃の充分なる意義に、諺の文句に
    指した像の藝術的表現を見た人でなく
    ては、味到し難い『借るときの地藏顏、
    濟すときの閻魔顏』

 素敵に威嚇的な恐ろしい顏で、赤熱の鐡が灰色に冷めかかつたやうな鈍赤色を呈してゐた。最初の激感は疑もなく、幕を上げて急に暗黑から現れた、幾らか芝居じみた方法に多少は基いてゐるが、驚愕の消え去るにつれて、私はこの像の凄い彫刻家の意想の偉大なる力、その神祕なる根原を認め出した。この作品の不思議は、虎のやうなしかめ顏、怒つた口の猛烈さ、または頭全部の兇暴と怖しい色に存するのでなく、眼――惡夢の眼に宿つてゐるのだ。

[やぶちゃん注:「禪王寺」原文“Zen-Oji”。本寺は建長寺の向い、小袋坂坂上にある円応寺(えんのうじ:新居(あらい)閻魔堂・十王堂とも呼称する。臨済宗建長寺派で古くは現在の材木座、由比ヶ浜直近にあった。)の誤りであるが、「えんのうじ」の発音は「えんおうじ」ともなり易く、文字自体が普通はそう読みがちであるから、この場合、晃がかく発音し、それをローマ字に移し取った際、“En-O-ji”となり、直前で“Zen sect—”と記したのに引っ張られたものと考えると腑に落ちる。

「一寸深く」これは「ちよつとふかく」ではなく、「いつすんぶかく」であるので注意。「一寸」は三・〇三センチメートルである。但し、原文は“an inch deep”であり、一インチは二・五四センチメートルであるから、厳密には「八分(はちぶ)」或いは「九分(くぶ)」と訳すべきところではある。

「七百餘年」円応寺の前身である旧新居閻魔堂の創建は建長二(一二五〇)年と伝えるから、この明治二三(一八九〇)年から遡ること六百四十年であるが、この手の数字は、えてして事大主義の寺側からドンブリ勘定で伝えられたものであることが多いから、問題とするには及ばぬ。

「久保山で見た閻魔像」不詳。久保山墓地(既注)のどこでどのような閻魔像を見たものか? ネットで調べる限りでは縁が分からぬ。八雲が久保山で見た閻魔像――識者の御教授を、是非とも乞う。

「方六尺」約一・八二メートル四方。以下、当時の拝観時の演出が偲ばれて、すこぶる興味深いシーンである。

「借るときの地藏顏、濟すときの閻魔顏」老婆心乍ら、「借る」は「かる」で、「濟す」は「なす」と訓ずる。物を借りる折りには下手に出てにこにしているが、いざ、返済する段になると渋い顔になることの譬え。「借る時の恵比須顔」ともいう。

「鈍赤色」「にびあかいろ」と訓じていよう。灰色がかった赤の意であるが、原文の“dull red”は暗褐色のこと。] 

 

Sec. 9

   As we travel on, the road curves and narrows between higher elevations, and becomes more sombre. 'Oi! mat!' my Buddhist guide calls softly to the runners; and our two vehicles halt in a band of sunshine, descending, through an opening in the foliage of immense trees, over a flight of ancient mossy steps. 'Here,' says my friend, 'is the temple of the King of Death; it is called Emma-Do; and it is a temple of the Zen sect—Zen-Oji. And it is more than seven hundred years old, 
and there is a famous statue in it.'

   We ascend to a small, narrow court in which the edifice stands. At the head of the steps, to the right, is a stone tablet, very old, with characters cut at least an inch deep into the granite of it, Chinese characters signifying, 'This is the Temple of Emma, King.' 

   The temple resembles outwardly and inwardly the others we have visited, and, like those of Shaka and of the colossal Jizo of Kamakura, has a paved floor, so that we are not obliged to remove our shoes on entering. Everything is worn, dim, vaguely grey; there is a pungent scent of mouldiness; the paint has long ago peeled away from the naked wood of the pillars. Throned to right and left against the high walls tower nine grim figures—five on one side, four on the other—wearing strange crowns with trumpet-shapen ornaments; figures hoary with centuries, and so like to the icon of Emma, which I saw at Kuboyama, that I ask, 'Are all these Emma?' 'Oh, no!' my guide answers; 'these are his attendants only—the Jiu-O, the Ten Kings.' 'But there are only nine?' I query. 'Nine, and Emma completes the number. You have not yet seen Emma.'

   Where is he? I see at the farther end of the chamber an altar elevated upon a platform approached by wooden steps; but there is no image, only the usual altar furniture of gilded bronze and lacquer-ware. Behind the altar I see only a curtain about six feet square—a curtain once dark red, now almost without any definite hue—probably veiling some alcove. A temple guardian approaches, and invites us to ascend the platform. I remove my shoes before mounting upon the matted surface, and follow the guardian behind the altar, in front of the curtain. He makes me a sign to look, and lifts the veil with a long rod. And suddenly, out of the blackness of some mysterious profundity masked by that sombre curtain, there glowers upon me an apparition at the sight of which I involuntarily start back—a monstrosity exceeding all anticipation—a Face. [5]

   A Face tremendous, menacing, frightful, dull red, as with the redness of heated iron cooling into grey. The first shock of the vision is no doubt partly due to the
somewhat theatrical manner in which the work is suddenly revealed out of darkness by the lifting of the curtain. But as the surprise passes I begin to recognise the immense energy of the conception—to look for the secret of the grim artist. The wonder of the I creation is not in the tiger frown, nor in the violence of the terrific mouth, nor in the fury and ghastly colour of the head as a whole: it is in the eyes—eyes of nightmare.

 

5
   There is a delicious Japanese proverb, the full humour of which is only to be appreciated by one familiar with the artistic representations of the divinities
referred to:

   Karutoki no Jizo-gao,
   Nasutoki no Emma- gao.

   'Borrowing-time, the face of Jizo;
    Repaying-time, the face of Emma.'

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(八)

 
 
       

 

 晃はまた私に次の話をした――

 鎌倉誌第七卷に書いてある話。昔鎌倉の延命寺に、裸地藏といふ有名な地藏像があつた。像は實際裸の彫刻であるが、それに着物をきせて、兩足を碁盤の上にのせて、直立してゐた。參詣者が一定の料金を献げるとき、寺僧が像の衣を除ける。すると、像の面は地藏の顏であるが、胴體は女身であることが見えるのであつた。

 この有名な裸地藏の緣起はかうであつた。或る時、平時賴公が大勢の客の面前で、妻と碁を打つてゐた。數局の後、二人の約束で、この次に負けたものは碁盤の上へ裸になつて立つといふことに決まつた。して、次の勝負に敗けた妻は、裸になる恥を救はせ玉へと地藏に祈願した。地藏はそれを聽入れ、そこへ現れ碁盤の上に立つて、自らの衣を脫ぎ、急にその體を女身に變へたのであつた。

[やぶちゃん注:「鎌倉誌第七卷に書いてある話」正しくは「新編鎌倉志」。以下、私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之七」の「延命寺」から私の注も含めて引く。

   *

〇延命寺 延命寺は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。堂に立像の地藏を安ず。俗に裸(はだか)地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈せ、厨子(づし)に入、衣(きぬ)を著(き)せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付たり。昔し平の時賴(ときより)、其の婦人との雙六(すごろく)を爭(あらそ)ひ、互ひに裸にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絕へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲の佛を、何ぞ猥褻の體(てい)に作るべけんや。

   *

 編者は珍しく、聖なる地蔵を女体に刻んで、あろうことか、会陰まで施すなんどということは破廉恥極まりないと不快感を示し、吠えている。面白い。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この本尊は江戸への出開帳も行ったとあり、恐らくこの秘所を参拝者に見せることが行われていたのではなかろうか。現在okado氏のブログ 「北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~」で、かなり古い法衣着帯の写真を見ることが出来る。「總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絕へてなき事也とぞ」とあるが、これは感情的な謂いで、正しくない。鎌倉期には仏像のリアルな写実性が追及され、また生き仏のニュアンスを与えるために裸形の仏像に実際の衣を着せることが一部で流行した。奈良小川町にある伝香寺の裸地蔵、同じく奈良高御門町の西光院の裸大師、西紀寺にしきでら町の璉城寺れんじょうじの光明皇后をモデルとしたとされる裸形阿弥陀如来像、奈良国立博物館所蔵裸形阿弥陀如来立像等がそれで、実際に私は以前にある仏像展の図録で、そうした一体の裸形地蔵写真を見たことがあるが、その股間には同心円状の何重もの渦が彫り込まれていた。聖なる仏にあっては生殖器は正に異次元へと陥入して無限遠に開放されているといった感じを受けた。但し、実はそれは私には、デュシャンの眩暈の「回転硝子盤(正確さの視覚)」を見るようで、デュシャン的な意味に於いて、逆にエロティクに見えたことを付け加えておく。]

   *

ハーンの記すのと異なるのは、「碁」が「雙六」であることだが、恐らく語った真鍋晃が、双六では、来日したばかりのハーンには理解出来ないと考えての、言い換えではあるまいかと思われる。因みに、「新編鎌倉志」の総監修者である黄門さま水戸光圀は実はファンダメンタルな神道家で(因みに、かの国民的ドラマは徹頭徹尾真っ赤なウソであることは人口に膾炙しているものの、彼が生涯で旅をしたのは実は六浦・鎌倉の一回だけであって、この事実は、あまり知られているとは思われないので敢えてここに注しておく)、訪問先の神社にあった地蔵像などを棄却するなど、無体非道な行いを成している。

「献げる」「ささげる」と訓ずる。] 

 

Sec. 8

   Akira also tells me this:―

   It is related in the seventh volume of the book Kamakurashi that there was formerly at Kamakura a temple called Emmei-ji, in which there was enshrined a famous statue of Jizo, called Hadaka-Jizo, or Naked Jizo. The statue was indeed naked, but clothes were put upon it; and it stood upright with its feet upon a 
chessboard. Now, when pilgrims came to the temple and paid a certain fee, the priest of the temple would remove the clothes of the statue; and then all could 
see that, though the face was the face of Jizo, the body was the body of a woman.

   Now this was the origin of the famous image of Hadaka-Jizo standing upon the chessboard. On one occasion the great prince Taira-no-Tokyori was playing chess with his wife in the presence of many guests. And he made her agree, after they had played several games, that whosoever should lose the next game would have to stand naked on the chessboard. And in the next game they played his wife lost. And she prayed to Jizo to save her from the shame of appearing naked. And Jizo came in answer to her prayer and stood upon the chessboard, and disrobed himself, and changed his body suddenly into the body of a woman.

 

2015/06/21

アリス物語   ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (四)兎が蜥蜴のビルを送出す

    四 兎が蜥蜴(とかげ)のビルを送出(おくりだ)す

 

 それは白兎でした。ノロノロと歩いてか來ながら、まるで何か落し物でもしたやうに、周圍を、ヂロヂロと見て居ました。そしてアリスは、兎が獨(ひとり)で次のやうにぶつぶつ言つて居るのを耳にしました。「公爵夫人、公爵夫人、まあ、わたしの足、まあ、わたしの毛皮と鬚(ひげ)、夫人はわたしをきつと死刑になさることだらう。わたしどこで落したんだらうかなあ。」アリスは直ぐに兎が、扇子と白いキツドの手袋を探して居るのだと考へました。そこで親切氣(しんせつぎ)を出して、探してやりましたが、どこにも見當りません。――アリスが池の中で泳いでからはすつかり何もかも變つてしまつたやうに見えました。ガラスのテーブルや、小さな扉のある例の大きな廣間はすつかり消えてなくなつてゐるのでした。

 アリスが探し廻つて居ます中(うち)、兎はすぐにアリスを見つけて怒つた聲でどなりました。「おい、メーリー・アン、お前はここで何をして居るのだ。直ぐ家(うち)へ走つて歸つて、手袋と扇子を持つてこい。さあ早く。」

 アリスはこの言葉に驚いて、人違ひだと言譯(いひわけ)をするひまもなく、兎の指ざざした方(はう)へと、直ぐに走つて行きました。

 「あの人、わたしを女中と思つたんだわ。」と、アリスは走りながら、獨語(ひとりごと)を言ひました。「わたしが、誰(たれ)だか分つたら、どんなに驚くことでせう。でも、手袋と扇子をとつて來てやつた方がいいわ――もし手袋と扇子か見つかるものならねえ。」かう言つて居るとき、アリスは小さいキチンとした家(うち)の前に出ました。その家の玄關の戸には、ピカピカする眞鍮の名札に「W. Rabbit(ダブリユ ラビツト)(兎(うさぎ))」と、彫りつけてありました。アリスは案内も乞はずに、あわてて二階へ上(あが)りました。それは手袋や扇子を見つけない中(うち)に、ほんたうのメリー・アンに會つて、追ひ出されるといけないと思つたからでした。

[やぶちゃん注:「W. Rabbit(ダブリユ ラビツト)(兎)」の「ダブリユ ラビツト」は「W. Rabbit」の部分のルビで、「(兎)」の部分は本文である。しかもそれに「うさぎ」のルビがついているのである。ここは童話なら表札の絵にした方が効果的なところである。]

「ずゐぶん妙ねえ」とアリスは、獨語(ひとりごと)をいひました。「兎のお使ひをするなんて。此の次にやデイナーがわたしを、お使ひに出于すかも知れないわ。」かう言つてアリスは、これから先き起つて來ない事でもない、さういふ事を考へて居りました。

「アリス孃(じやう)さん、すぐいらつしやい。御散歩(ごさんぽ)のお仕度(したく)をなさいませ。」「ばあや、直きに行つてよ、でもね、わたしデイナーが歸るまで、此の鼠の穴を見張りしてやる事にしたの。鼠が出ないやうにね。」――などとアリスハしやべり續けました。「だけれど、もしデイナーがうちの人達にこんなに用をいひ付けるやうになつたら、うちの人達はデイナーを内には、おかないでせうねえ。」

 この時アリスは、小綺麗な室に人つていきました。窓際にテーブルが、一つ置いてありました。その上には「アリスが望んだやうに」一本の扇子と小さい白のキツドの手袋が、二三對(つゐ)置いてありました。アリスは扇手と袋を、とり上げて、室を出て行かうとしまむたとき、鏡のそばにあつた小さな壜(びん)に、ふと目を留めました。今度は「お飮み下さい」と云ふ札は、貼つてありませんでしたが、それでも構はず栓を拔いて、唇にもつていきました。そして獨語(ひとりごと)に「何かしら、面白いことがきつと起るのね、何か食べたり、飮んだりするといつも。だから今に此の壜(びん)のおかげでどなる か試してやらう。わたし元通りに大きくなりたいわ。こんなちつぽけなものになつて居ることなんか、あきあきしてしまつたんだもの。」そして實際その飮物は、力をあらはしました。しかもそれはアリスが思つたよりズツと早く、半分も飮んでしまはないうちに、アリスの頭は天井につかへてしまつて、首を曲げないと、折れてしまふほどになりました。アリスは、急いで壜(びん)を下に置き、獨語(ひとりごと)をいひました。「もう澤山、――わたしこれ以上もう大きくなりたくないわ。これでは戸口を通つて出られやしない。――わたしこんなに飮まなければよかつた!。」

 ああしかし、もう間に合ひませんでした。アリスはズンズン大きくなつて、間もなく、床(ゆか)に膝をつかなければなりませんでした。しかしもう、それでも窮屈になつてしまひましたから、片肘(かたひぢ)を戸口に支へて、片腕を頭にまきつけて、寢そべつてみました。ところがそれでもズンズン延びていきましたので、什方なくアリスは、窓から片腕を出して、片足を煙突の中に入れて、獨語(ひとりごと)をいひました。

「これぢやあとどうなつても、もう何(なん)にも仕樣(しやう)がないわ。一體わたしどうなることだらう。」

[やぶちゃん注:「わたし」は底本では傍点「ヽ」が「わた」の二字に附されている。これは一見すると「わたし」に打たれるべきところが一つ落ちたようにも見えるのだが、しかしここで原文を見てみると、 "Now I can do no more, whatever happens. What will become of me?"であるから、これは洒落じゃないが、私にゃ、どうも、傍点の脱字ではなくて、傍点位置のズレのように見えてくるんだ。これはどう見ても「どう」に打つべき傍点だったんじゃあ、あるまいか?(或いは「なる」か。或いは「どうなる」総てに振るのが私は正しいと思うが) ともかくも不自然なので、勝手に「どう」と太字にした。]

 ところが運よく、魔法の壜(びん)の效力(ききめ)は丁度此の時で、すつかり盡きたのでした。で、アリスはもうその上、大きくはなりませんでした。でも相變らず不便(ふべん)でした。そしてもう室(へや)から出て、いけさうにもないと思ひましたので、アリスはしみじみ、不幸(ふしあはせ)なことだと思ひました。

「おうちに居た時の方が、ずつと氣が樂だつたわ。」と可哀想(かはいさう)なアリスは思ひました。「大きくなつたり、小さくなつたり、なんかしないし、又、鼠や兎に用をいひつけられることなんかないから。わたし兎の穴に入らなければよかつたんだわ。でも――でも――こんな目に逢ふのも、一寸(ちよつと)めづらしい事だわねえ。どうしてこんなことになつたのか知ら。わたし、いつそお伽噺(とぎばなし)を讀んでも、そんな事があるなんて思つた事なんてないのに。それが今では、わたしがその中に入つて居るんだもの。きつとわたしのことを書いた本が、できると思ふわ。きつと。わたしが大きくなつたら、書いて見ようかしら。――でも、わたし今では大きくなつて居るのねえ。」と、悲しさうな聲でアリスは云ひました。「兎に角ここではもう、これ以上大きくならうつたつて、なりやうがないわ。]

「でもさうなれば。」とアリスが考へました。「わたしは今より決して年をとらないで居られるるんぢやないかしら。さうなら有難いわ。とにかく、決しておばあさんに、ならないなんて――でもさうすると――いつも御本(ごほん)を教はらなればならないのねえ。ああ、わたし、それは御免だわ。」

「まあ、馬鹿なアリス。」とアリスは自分で返事をしました。「どうしてお前をこんなところで、勉強ができて? お前の居るだけがやつとなのに、教科書を置くところなんか何處(どこ)にあるの!」

 かう云ふ風にアリスは、一人で、こつちの話手(はなして)、あつちの話手になつてお話をして居ましたが、少し經つて外で聲がしましたので、自分のお話を止めて、耳をすませました。

「メーリー・アン、メーリー・アン。」とその聲は言ひました。「すぐにわたしの手袋を持つて來てくれ。」それからパタパタといふ小さい足音が、階段に聞えました。アリスは兎が自分を、さがしにやつてきたのだといふことを知りました。それでアリスは自分の身體(からだ)が、今では兎の大きさの千倍程もあり、兎なんか怖がる理由はないなんていふことを、すつかり忘れてしまつて、家がゆらぐ程身ぶるひをしました。

 やがて兎が入口のところまで上つて來て、戸を開けようとしましたが、その戸は室の中の方へ押すやうになつて居て、アリスの肘(ひぢ)が、それを強くつつぱつて居ましたので、開けようたつて駄目でした。このとき、アリスは「廻(まは)つて、窓から入らう。」と兎が言つて居るのを聞きました。

「それも駄目だわ。」と、アリスは考へました。しばらく待つて居ると、窓下に丁度兎が來たやうな足音が聞えましたので、アリスは、だしぬけに、手を出して一摑(ひとつか)みしました。けれどもアリスは何もつかまへられないで、小さいキヤツと云ふ聲と、ドタンと落ちた音と、ガラスの破壞(こは)れた音を聞きました。その音でアリスは、胡瓜(きうり)の温室(おんしつ)か何かの上に、兎が落ちたのだと考へました。

 すると怒つた聲が聞えてきました。――それは兎の聲でした。――「パット、パット。お前は何處(どこ)に居るのだ。」するとこれまでに聞いたことのない聲が「ここに居ますよ、御主人樣、林檎(りんご)の植付(うゑつ)けをやつて居るんですよ。」と言ひました。

「何だ、林檎の植付けだつて。」と兎は怒つて言ひました。「さあ、ここへ來てわたしを、ここからだして呉れ。」(ガラスのこはれる音が又(また)しました。)

「おい、パット、窓のところにあるのは、あれはなんだい?」

「御主人樣、あれは確(たしか)に腕(うで)ですよ。」(その人は「う、うで」と腕のことを言ひました。)

「腕だつて?、馬鹿!、あんな大きな腕があるかい。窓中(まどぢゆう)一杯になつて居るぢやないか。」

「御主人樣、全くさやうでございまず。でも、なんと言っても腕でございます。」

「ウン、だが兎に角、此處(ここ)には用がない。行つて出してしまへ。」

 それから長い間、シンと靜まり返ってゐました。アリスは時時次のやうな囁(ささや)き聲をきくだけでした。「ほんとに、御主人樣、實際嫌(いや)ですよ。全くのこと」――「わしの云ふ通りにしろ、この臆病者め!」そこでアリスはとうとう又(また)手を延ばしだして、もう一度空(くう)をつかみました。今度は二つの小さいキヤツと云ふ聲がして、ガラスの破壞(こは)れる音がまたしました。「まあ隨分澤山(たくさん)胡瓜の温室があるらしいわねえ。」とアリスは考へました。「あの人達、今度は何(どう)するか知ら。わたしを窓から引張りだすつて、さうして呉れれば仕合(しあは)せだわ、わたしはもうこれ以上、ここに居たくなんかないんだもの。」

 アリスは暫らくの間、待つて居ましたが、何(なん)にももう聞えませんでした。やがて小さな手押車(ておしぐるま)の輪(わ)の音が、聞えて來ました。そしてて多勢(おほぜい)の聲が、がやがや話合(はなしあ)つて居るのが聞えました。アリスは、その言葉を聞き分けてみました。

「別の梯子(はしご)は、どこにある。――一つしかありませんでした。ビルが一つもつて行つたんです。――ビル、ここへそれを持つて來い。――それをこの隅へ立てかけろ。――さうじやない、先づしつかり一緒に縛りつけるんだ。――まだ半分にもとどかない。――まあ、これでも十分ですよ。そんなに口やかましく云はないで下さい。――おい、ピル、この繩をしつかりつかまへるんだ。――屋根は大丈夫かい。――そのブラブラの瓦に氣をつけろ。――やあ落ちかかつて來た。眞逆樣(まつさかさま)に(大きな音がしました)――これ、誰(だれ)がしたんだ。――ビルらしいなあ。誰が煙突を下りるのだい。――いやだ、おれはいやだ。――お前やれ。――そんなことはいやだよ。――ビルが下りなきやいけない。――おいビル、御主人がお前に下りろと云ふ、御言(おい)ひ付けだよ。」

「まあ、それではビルか、煙突を下りることになつたのねえ。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。「まあ何(なに)もかも、ビルに押しつけるのねえ。わたし々ら何をもらつたつて、ビルになりたくないわ。この爐(ろ)はほんとに狹くるしいのねえ。でも、少し位(ぐらゐ)ら、蹴られさうに思へるけれど。」

 アリスは煙突の下まで足をのばして、待つて居ると、やがて小さな動物が(それはどんな種類のものだか、分かりませんでしたが) アリスのすぐ頭の上で、煙突の内側を引つかいたり、這ひまはつたりする音が聞えはじめました。その時アリスは「それがビルだな」と獨語(ひとりごと)をいつて、きつく蹴つてみました。そして次にどんな事が起るかと、待ち構へて居りました。

 最初にアリスの聞いた事は[や! ビルが出て來た」と云ふ大勢の聲でした。それからは例の兎の聲だけになつて「あいつをうけてやれ、そら垣根の傍(かたはら)にゐるお前が。」といひました。それから一寸靜になり、その中(うち)又(また)ガヤガヤと聲がしたしました。――あいつの頭を上にしてやれ。――さあ、ブランデーだ。――喉(のど)につかへさせないやうにしろ。――どうだい、おい。どうしたんだ。のこらず話して聞かせてくれ。」

 すると、小さな元氣のないしはがれた聲がしました。(「あれがビルだな。」とアリスは思ひました)「うん、どうもわからないんだ。――いや、もういいんだよ、ありがたう。もうよくなつたよ。――けれどわしはすつかり面喰(めんくら)つちまつたんで、お話ができないよ。――わしの覺えて居ることは、何かびつくり箱のやうなものが、わしにぶつかつて來て、わしは煙火(はなび)みたいに、うち上げられたつて事だけだ。」

「うん、そんな具合にとび出して來たつけ。」と、外の者たちが言ひました。

「この家(うち)を燒き拂つてしまはなければならん。」と兎の聲が言ひました。それでアリスは出來るだけ大きな聲で「そんな事したら、デイナーをけしかけてやるわよ。」と言ひました。

 すると、忽ちあたりがしんと靜まりかへりてしまひました。アリスは獨(ひとり)考へました。「皆達(みんなたち)、今度は何んな事をするだらう。みんなが少し智慧があるなら、屋根でもめくるだらうが。」二三分の後(のち)みんなは再び動き廻りはじ

めました。そしてアリスは兎が「初めは車一杯でいいや。」と云ふのを聞きました。

「何を車一杯なんだらう。」とアリスは思ひました。けれども永くそれをいぶかつてゐる暇(ひま)もなく、すぐと小砂利(こじやり)の雨が、窓からバラバラと入つて來ました。中にはアリスの顏に當るのもありました。「わたし止めさせて見せるから。」と、アリスは獨語(ひとりごと)をいつて、大きな聲でどなりました「お前たち、そんなことをしない方が身のためだよ。」寸ると、すぐに又シンと靜(しづか)になつてしまひました。ふとアリスは砂利が床(とこ)の上に落ちたまま、小さなお菓子に變つてゐるのに氣付いて、びつくりしてしまいました、が、そのときアリスの頭に、愉快な考へが浮びました。「わたしこのお菓子を一つでも食べると、身體(からだ)の大きさが、變るに違ひないわ。そしてこれ以上もう犬きくはできまいから、きつと小さくなる方(はう)なんだわ。」

[やぶちゃん注:末尾、底本は「方んなだわ。」。誤植と断じて訂した。]

 そこでアリスはお菓子を一つのみこみました。すると直ぐさま小さくなり出したので、アリスは大喜びでした。入口を通れる位(くらゐ)、小さくなると直ぐ樣、アリスは家(うち)から驅け出しました。すると小さい獸や鳥が、ウヨウヨとして外(そと)でアリスを待つて居るのでした。可哀想(かはいさう)な小さな蜥蜴(とかげ)のビルがその眞中(まんなか)にゐて、二匹の豚鼠(ギニアピツグ)に身體を支へられ、それに壜(びん)の中の何かをのませてもらつて居ました。アリスか出てくると、みんなは一齊(せい)にアリスめがけて詰(つ)めよせて來ました。しかしアリスは一生懸命馳けだして、直ぐにコンモリ繁つた森の中へ、避難してしまひました。

[やぶちゃん注:「豚鼠(ギニアピツグ)」原文“guinea-pigs”。齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科テンジクネズミ科テンジクネズミ属モルモット Cavia porcellus のこと。家畜化されたテンジクネズミ(cavy)。]

「まづわたしが、しなければならないことは。」とアリスは、森の中をブラブラ歩きながら、獨語(ひとりごと)をいひました。「もと通りのほんとの大きさになることだわ。その次には、あの綺麗なお庭に行く道を見つけること。わたしこれが一番いいやりかただと思ふわ。」

 これは疑ひもなく、大層すぐれた、そしてやさしい計畫のやうでした。ただむづかしいことは、アリスには、それをどう手をつけてよいか、少しも考へのないことでした。アリスが樹と樹の間を、キヨロキヨロして覗き見してゐますと、頭の上で小さい鋭い吠聲(ほえごゑ)がしますので、アリスはあわてて上を向いて見ました。すると大きな犬ころがアリスに觸(さ)はらうとでもするやうに前足をそつと出し、大きな丸い目で、アリスを見下(みおろ)して居ました。

「まあかはいい犬だこと。」とアリスはやさしい聲で言つて、一生懸命口笛を吹かうとしました。が、アリスはこの犬は御腹(おなか)をへらして居るかも知れない、もしさうだといくら御機嫌(ごきげん)をとつても、自分が食べられると思つて、内心びくびぐして居ました。

 アリスは殆んど夢中で、小さな一本の棒を拾ひ、犬ころの方に突きだしました。すると犬ころはキヤンキヤン嬉しかつて、ただちに四足(よつあし)をそろヘて宙(ちう)にとび上つて、棒にとびかかり、嚙み付きさうな風をしました。そのときアリスは、頭の上をとびこされないやうにと、大き薊(あざみ)の後(うしろ)にかくれました。そしてアリスが向ふ側に出たとき、犬ころは棒にとびつきました。そしてそれを、つかまへようとして、でんぐり返(がへ)りました。このときアリスは、この犬ころとふざけるのは、荷馬車ひきの馬と、遊んで居るやうなものだと思ふと、今にもその足の下に踏みつけられざy々のてまた薊(あざみ)のぐるりをかけだしました。それから犬ころは棒切(ばうぎれ)めがけて、何度も小攻擊(せうこうげき)をやりだし、その度に一寸進み出ては、ぐつと後退(あとすざ)りして、その間(あひだ)たえずキヤンキヤン吠え立ててゐましたが、とうとう息をハアハアきらせ、口から舌をたらりとだし、大きな目を半分とぢて、ずつと向ふで坐りこんでしまひました。

 こりや逃げるのに、有難い仕合せとアリスは直ちに、駈けだしました。

 餘り駈け過ぎたので、すつかりくたびれて、息が切れてしまひました。が、もうその時は犬ころの吠聲(ほえごゑ)は、遠くの方で、微(かす)かに聞えるだけになつてゐました。

「でもまあ、なんて可愛(かはい)らしい犬ころだつたらう!」とアリスは一本の金鳳花(きんぽうげ)に、よりかかつて休みながら、一枚の葉を扇子がはりにして、煽(あふ)ぐのでした。「わたし、あたり前の背でさへあれば、いろんな藝をしこんでやるんだけれど。さうさう、わたし元通り、大きくならなければならないといふことを、すつかり忘れてゐたわ。――さうねえ――どうしたら大きくなれるんだらう。わたし何か飮むか食べるか、しなければならないと思ふわ。けれども。『何を』といふことが大問題なんだわ。」

 たしかに、大問題は『何を』と云ふことでした。アリスは身のまはりの、花や草の葉を見まはして見ましたか、この場合、飮んだり食べたりしてよささうなものが、見つかりませんでした。

 アリスの近くに、大きな蕈(きのこ)が生えて居りました。それは丁度アリスの大きさ程ありました。アリスはその蕈(きのこ)の裏(うら)を見たり、兩側から見たり、うしろへまはつて見たりしましたが、今度はその上に何があるか、見たくなつて來ました。

 アリスはつまさきで立つて、蕈(きのこ)の端(はし)から見ました。すると直ぐにアリスの目は、大きな靑い芋蟲(いもむし)の目にはたと、ぶつかりました。芋蟲は頂邊(てつぺん)に腕組(うでぐ)みで坐つて靜かに長い水煙管(みづぎせる)を吸つて、アリスにも又(また)は外(ほか)の何(なに)にも、少しも氣をとめて居ない樣子でした。

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(六)・(七)

 

       

 

 『天下禪林』の門と『巨福山』の門を經て、次の寺の建長寺の境內へ入ると、妙な間違で、また圓覺寺の境內へ入つたやうな氣がする。それは、私共の面前にある第三の門と、その向うの堂々たる寺院は、先きに見たものと同一の方式で、同一の建築家の造營だからである。この巨大莊嚴なる第三門を通つてから、私共は寺院の玄關前にある靑銅の泉水ヘ來た。金屬製の大きな美しい蓮華が、廣く淺い池を成して、中央の噴水によつて、漫々たる水を湛へてゐる。

 この寺にも黑と白の四角な石板が敷きつめてあつて、靴のま〻入られる。外側は圓覺寺と同樣に素朴莊嚴であるが、內部は色の褪めた華麗の壯觀を留めてゐる。光炎を背景として坐せる黑い釋迦の代りに、こ〻には巨大の地藏樣がある。火の後光を負つて、車輪大の一本の金輪が、三點で熖の舌を吐き出してゐる。その座は、色の曇つた大なる金蓮華で、高い緣の上には、地藏の衣が裾を垂れてゐる。その後ろの高く連つた金色の段階には、地藏の小像が、きらきら群つてゐる。千地藏である。その上の天井からは、一種の天蓋形の薄黑く輝いたもの――緣飾(ふさ)の如く垂れたものの輪――が、長年月の塵網の間から微かに光つてゐる。して、天井もその昔は驚異であつたに相違ない。全部鏡板に磨かれて、一枚一枚金地に飛鳥の彩色繪が描いてある。屋根を支へる八本の大きな柱も、昔は金塗りであつたが、今はその蟲に蝕まれた面と柱頭の處々に、痕を留めるだけである。それから戶の上の欄間には、灰色に褪めた古い浮彫刻で、笛と琵琶を奏する天人の翩翻たる狀が現れてゐる。

 右方に、重い板戶で通廊と界せる一つの室があつた。管理の僧が、その板戶を開けて私共をその室へ入らせた。こ〻に眞鍮の臺の上に、私がこれまで見た中で最も大きな、周圍一丈八尺もある太鼓がある。その傍に表面全部に經文を刻した大鐘がある。それを鳴らすことを禁じてあつたのは、遺憾であつた。その外には何も見るべきものはなく、たゞ卍――日本で萬字と呼ぶ佛敎の神聖なる象徴――を書いた暗い提燈のみであつた。

[やぶちゃん注:「先きに見たものと同一の方式で、同一の建築家の造營だからである」北条氏の私的な菩提寺ともいうべき建長寺の創建は建長五(一二五三)年で(第五代執権北条時頼を開基、蘭渓道隆を開山)、得宗祈願寺乍らも元寇の戦没者追悼を目的とした幕府の准公的寺院としての性格を持つ円覚寺の方は弘安五(一二八二)年(時頼嫡男で第八代執権時宗を開基、無学祖元を開山)で二十九年後のことであった。ハーンは断言しているが、実際には同一の設計者・施行者であった事実を示す資料はない(と私は思う)。但し、確かに両者の主要な建築物やその配置はよく似たコンセプトであることは間違いなく、同一の設計師と匠の手によって施行された可能性は確かに高い。

「一丈八尺」五・四五メートル。現在の方丈である龍王殿には龍王太鼓と呼ばれる大太鼓が確かにあるが、八雲が見たものがこれであるかどうかは確認していない。

「大鐘」総高二・〇八九メートル、口径一・二四三メートル、厚さ一〇・五センチメートルで、当時の関東鋳物師棟梁であった物部重光の鋳造になる、当時の日本の鋳造文化の頂点を示す名鐘(国宝)である。特にその撞座は『恐らく鎌倉現存鐘中の最優秀』(「鎌倉市史 考古編」)とされる立体感のよく出た荘厳ながらも美しいものである。] 

 

Sec. 6

   Entering the grounds of the next temple, the Temple of Ken-cho-ji, through the 'Gate of the Forest of Contemplative Words,' and the 'Gate of the Great Mountain of Wealth,' one might almost fancy one's self reentering, by some queer mistake, the grounds of En-gaku-ji. For the third gate before us, and the imposing temple beyond it, constructed upon the same models as those of the structures previously visited, were also the work of the same architect. Passing this third gate—colossal, severe, superb—we come to a fountain of bronze before the temple doors, an immense and beautiful lotus-leaf of metal, forming a broad shallow basin kept full to the brim by a jet in its midst.

   This temple also is paved with black and white square slabs, and we can enter it with our shoes. Outside it is plain and solemn as that of En- gaku-ji; but the interior offers a more extraordinary spectacle of faded splendour. In lieu of the black Shaka throned against a background of flamelets, is a colossal Jizo-Sama, with a nimbus of fire—a single gilded circle large as a wagon-wheel, breaking into fire-tongues at three points. He is seated upon an enormous lotus of tarnished gold— over the lofty edge of which the skirt of his robe trails down. Behind him, standing on ascending tiers of golden steps, are glimmering hosts of miniature figures of him, reflections, multiplications of him, ranged there by ranks of hundreds—the Thousand Jizo. From the ceiling above him droop the dingy splendours of a sort of dais-work, a streaming circle of pendants like a fringe, shimmering faintly through the webbed dust of centuries. And the ceiling itself must once have been a marvel; all beamed in caissons, each caisson containing, upon a gold ground, the painted figure of a flying bird. Formerly the eight great pillars supporting the roof were also covered with gilding; but only a few traces of it linger still upon their worm-pierced surfaces, and about the bases of their capitals. And there are wonderful friezes above the doors, from which all colour has long since faded away, marvellous grey old carvings in relief; floating figures of tennin, or heavenly spirits playing upon flutes and biwa.

   There is a chamber separated by a heavy wooden screen from the aisle on the right; and the priest in charge of the building slides the screen aside, and bids us
enter. In this chamber is a drum elevated upon a brazen stand,—the hugest I ever saw, fully eighteen feet in circumference. Beside it hangs a big bell, covered with Buddhist texts. I am sorry to learn that it is prohibited to sound the great drum. There is nothing else to see except some dingy paper lanterns figured with the svastika—the sacred Buddhist symbol called by the Japanese manji.
 

 

 

       

 

 晃は私に、建長寺の大地藏に關して、『地藏經古趣意』といふ本に書いてある、次の傳說を語つた。

 昔、鎌倉に曾我貞義といふ浪人の妻がゐて、蠶を飼ひ絹絲を集めて糊口の業とした。

    註 浪人といふ語の充分なる意義を知る
      ためには、讀者はミツトフオード氏
      の名著、「舊日本物語」を參照され
      い。

 彼女は每々建長寺へ參詣したが、或る寒い日に參詣した時、地藏の像が寒さに苦しむやうに見えたので、地藏の頭を溫かくするため、田舍の人が寒い日に被ぶるやうな、頭巾を作つて上げようと決心した。して、家に歸つてから、頭巾を作つて、『私が富裕であつたら、御尊體全部を蔽ふものを献上致したいのですが、貧乏の身は詮方ありませぬ。こんなお粗末なものを恐れ入りますが』と云つて、それを地藏の頭に着せた。

 さて、この女は治承五年〔譯者註〕十二月、齡五十歳のとき、急死したが、死體は三日間も溫かいので、親類が葬らずに置いた。すると、三日目の晩、彼女は蘇生した。

 それから彼女は語つた。死んだ日に彼女が閻魔王廰に行くと、閻魔は彼女を見て怒つて、『佛の敎へを輕じた惡女奴。蠶を湯に入れ、その生命を滅ぼして、一生涯を暮してきたのだ。钁湯地獄へ行つて、罪の贖はれるまで焚かれるがよい』と云つた。直ちに彼女は鬼どもに捉へられ、引ずられて、溶けた金屬の滿てる大鍋に投込まれた。彼女が激しく叫喚すると、忽然、地藏樣が溶けた金屬の中の彼女の傍へ降りてきて、金屬は油が流れる如くになり焚えることが止み、地藏は兩手を延べ、彼女を抱いて扛上げた。して、彼女を伴れて閻魔の前へ行き、生前の善行によつて地藏と結緣であるからと云つて、彼女の赦免を求めた。それで彼女は赦されて娑婆へ歸つたのだ。

 『では、佛敎に從へば、絹を着るのは不正となる譯だ。さうか?』と私は晃に質問を發した。

 『實際不正です。で、佛陀の掟に於ては、明白に僧は、絹を着てはならぬとしてあります』と晃は答へ、『しかし』と言葉を加へて、例の穩かな微笑を洩したので、私は諷刺の暗示を悟つた。『大槪の僧侶は絹を着てゐます』

    譯者註 治承の年號は四年にて終はる。
        暫く疑を存しておく。 

[やぶちゃん注:「治承五年〔譯者註〕」この「譯者註」は底本では「治承五年」の右にポイント落ちで附されてある。

「地藏經古趣意」不詳。そもそもこの伝承自体が現在の鎌倉ではよく知られているとは言えないもので、年号など(後注する)不審な箇所が多い(そもそもが地獄を具体に語る「地蔵経」自体が一種の偽経である)。私は不審な「治承」という古い年号からは、当地が地獄谷と呼んだ刑場であったことに基づく別な地蔵伝説である「済田地蔵」の伝承が背後に潜んでいるような気がしてならない。詳しくは私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の「佛殿」の記載をお読みになられたい。

「曾我貞義」不詳。

「ミツトフオード氏」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した。ウィキの「アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(初代リーズデイル男爵)」によれば、慶応三(一八六六)年十月に来日(当時二十九歳)し(着任時に英国大使館三等書記官に任命)、明治三(一八七〇)年一月一日に離日している。『当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため』、『横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ』『と隣り合って住むこととなった』。約一ヶ月後、『火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと』二人で『公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後』に、「昔の日本の物語」(次注)を執筆し、『赤穂浪士の物語を西洋に始めて紹介するきっかけとなっている』とある。また、彼は慶応四(一八六八)年二月四日に起った『備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇し』ており、『事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している』とある。

「舊日本物語」離日した翌年の一八七一年に刊行されたミットフォードの“Tales of Old Japan”。前注の「昔の日本の物語」と同じ。

「治承五年十二月」西暦一一八一年に相当する(源頼朝の鎌倉入城は前年の十月七日、平家の壇ノ浦での滅亡は四年後の文治元(一一八五)年三月二十四日)。この年は七月十四日に治承五年から養和元年に改元してはいる。但し、これは平家政権の行った改元であって、頼朝の関東政権に於いてはこの先の養和や寿永の元号を使わずに治承を引き続き使用しているので、鎌倉を舞台とした伝承としては、訳者の指摘するような疑義は寧ろ、ないと言ってよい。……いや、それよりも落合先生……まんず、建長寺が出来る七十二年前の話に建長寺が出てきちゃいかんで、しョウ!

「钁湯地獄」「くわくたうじごく(かうとうじごく)」と読む。地獄の責め苦の象徴としてしばしば出る「刀山剣樹钁湯」の一つで、ぐらぐら煮え滾(たぎ)る熱湯に投げ入れられる一地獄である。

「扛上げた」「扛」は音「カウ(コウ)」であるが、原義が上げる・さし上げる・両手で持ち上げるの意であるから、ここは「さしあげた」と訓じていると読む。] 

 

Sec. 7

   Akira tells me that in the book called Jizo-kyo-Kosui, this legend is related of the great statue of Jizo in this same ancient temple of Ken- cho-ji.

   Formerly there lived at Kamakura the wife of a Rōnin [4] named Soga Sadayoshi. She lived by feeding silkworms and gathering the silk. She used often to visit the temple of Kencho-ji; and one very cold day that she went there, she thought that the image of Jizo looked like one suffering from cold; and she resolved to make a cap to keep the god's head warm—such a cap as the people of the country wear in cold weather. And she went home and made the cap and covered the  god's head with it, saying, 'Would I were rich enough to give thee a warm covering for all thine august body; but, alas! I am poor, and even this which I offer thee is unworthy of thy divine acceptance.'

   Now this woman very suddenly died in the fiftieth year of her age, in the twelfth month of the fifth year of the period called Chisho. But her body remained warm for three days, so that her relatives would not suffer her to be taken to the burning-ground. And on the evening of the third day she came to life again.

   Then she related that on the day of her death she had gone before the judgment-seat of Emma, king and judge of the dead. And Emma, seeing her, became wroth, and said to her: 'You have been a wicked woman, and have scorned the teaching of the Buddha. All your life you have passed in destroying the lives of silkworms by putting them into heated water. Now you shall go to the Kwakkto-Jigoku, and there burn until your sins shall be expiated.' Forthwith she was seized and dragged by demons to a great pot filled with molten metal, and thrown into the pot, and she cried out horribly. And suddenly Jizo-Sama descended into the molten metal beside her, and the metal became like a flowing of oil and ceased to burn; and Jizo put his arms about her and lifted her out. And he went with her before King Emma, and asked that she should be pardoned for his sake, forasmuch as she had become related to him by one act of goodness. So she found pardon, and returned to the Shaba-world. 

   'Akira,'  I ask, 'it cannot then be lawful, according to Buddhism, for any one to wear silk?'

   'Assuredly not,' replies Akira; 'and by the law of Buddha priests are expressly forbidden to wear silk. Nevertheless.' he adds with that quiet smile of his, in which I am beginning to discern suggestions of sarcasm, 'nearly all the priests wear silk.'

 

 4
   Let the reader consult Mitford's admirable Tales of Old Japan for the full meaning of the term 'Ronin.

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 東京府癲狂院を視察する

 私は家の近くの狂人病院を案内された。痴呆(デメンテイア)、憂欝病(メランコリア)、急性躁狂(アキュトマニア)その他の精神病にかかっている不幸な人人の顔面の表情が、我国の狂人病院で見受けるのと同じなのは、面白かった。

[やぶちゃん注:原文を総て示しておく。“I was shown through the insane asylum near the house. It was interesting to see the same expressions on the faces of these unfortunate creatures that one may see in going through our asylums at home, — dementia, melancholia, acute mania, and other types of mental disease.”「面白かった」という訳はやはり気になる。「興味深かった」でよい。

「狂人病院」“the insane asylum”“insane”“sane”の対義語で、「正気でない」「狂気の」、「精神異常(疾患)者のための」の意、“asylum”は原義が「避難」「亡命」「保護」でそこから「亡命者などの仮収容所」や「主に精神薄弱者・孤児などの保護施設」の意で昔使われた語で、「精神的機能不全或いは精神的バランスを失った人のための病院」の意であるが、「気違い病院」や「狂人病院」同様に多分に差別的で、現行では“psychiatricmental hospitalinstitutionという。ここで彼が見学したのは、モースとビゲローに無償貸与された天象台の北の、道を隔てた直近にあった東京府癲狂院(東京都立松沢病院の前身)である。

「痴呆(デメンテイア)」現行では“dementia”は「認知症」である。

「憂欝病(メランコリア)」“melancholia”は、「鬱病」であるが、今は“Depression”或いは“Clinical Depression”及び“Depressive Disorder”が一般的で、一九九四年のDSM-IVDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders「精神障害の診断と統計マニュアル」第四版)以降は、重度の狭義のそれを“Major Depressive Disorder”(大鬱病性障害)という診断名を下す。但し、この当時の精神医学では謂うところの「躁鬱病」、“Bipolar Disorder”(双極性障害)とこれを区別していなかったと考えてよく、私は寧ろ、この患者は双極性障害の鬱状態にある患者と考える。

「急性躁狂(アキュトマニア)」“acute mania”は訳すなら「急性躁病」であるが、現在、二〇〇〇年のDSM-IV-TRTR text revision:テキスト改訂版)以降、鬱状態の出現しない単極性躁状態が継続する病態であっても“Bipolar Disorder”(双極性障害/躁鬱病)と診断するため、前の「鬱病」とは異なり、「躁病」を精神疾患上の診断名として使うことはなくなっているはずである。]

2015/06/20

竹靑(蒲松齡「聊斎志異」柴田天馬譯)

ダウンロード - tikusei.docx

PDF横書版

[やぶちゃん注:昨年の五月に始めながら、既に一年近く更新をしていない、このブログ・カテゴリ「聊斎志異」の底本を変更(かえ)、公開の方式(しかた)もPDF横書版とワード文書縦書版とすることにした。
 一義(ひとつ)は、ルビ・タグでブログ公開することが、異様に労多くして実少ないと感じた故(から)である。しかも私のブログではルビ・タグを含むHTMLテクストを一寸でも修正(なお)そうとしようもんなら、表示(みため)がぐちゃぐちゃになってしまうのである。当初、PDF縦書のみで考えたが、一部の漢字が横転するのが如何にも気持ちが悪い。そもそもが天馬訳を横書で読むこと自体が私に言わせれば、邪道(あっちゃなんねえはなし)だからでもある。
 次に、底本の問題である。
 実は電子化を始めた直後に、toumeioj3氏のブログ「武蔵野日和下駄」の「柴田天馬訳の聊斎志異について(2)」を図らずも発見(みいだし)、そこで天馬氏の訳文が、角川文庫版ではこれ、実におぞましいほどに、いじられ、改変されている事実を知ったからである(これは最早、改竄と断じてよい)。それで実は、一気に底本としていた角川文庫版への信頼(シンパシイ)が失せ、同時に、「聊斎志異」電子化の意欲(やるき)も完膚無きまでに折れてしまったというのであった。……週に一度、妻のリハビリの迎えに下界に下りるだけの謫仙人(しまながし)たる私は、この数年、新たに書籍(ほん)を求めること自体をしなくなっており、新たに先行する天馬訳の諸本を入手して仕切り直すというような律義(かたぎ)な意思(おもい)も動かなかったのであった。……
 
 そのうち、先般(さきごろ)、ふと、すっかり御厄介になっている国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの中に、抄本(ばっすいやく)乍ら、戦前の豪華絢爛(きんきらきん)の天馬訳があることを知り、漸くやる気が復活(もどっ)たという訳である。
 かくして底本は、同ライブラリーの大正一五(一九二六)年第一書房刊に変えた。しかも当然(あたりきしゃりき)、正字正仮名版であって、その点でもこれ、打込(タイピング)しても頗る心地好(むねがす)くんである。
 
 踊り字「〱」「〲」は正字化した。但し、底本は総ルビであり、これはまた、まともにやるとなると、とんでもなく時間がかかるので、天馬訳の真骨頂の箇所、及び、難読或いは読みが振れると私が判断したもののみのパラルビとしたことはお許し願いたい。但し、原文と照応させてみて明らかに意味が通らず、誤植と断ずることが出来たものは注せずに訂した(例えば、原文が「兩月」であるのに「雨月(ふたつき)」とあるようなケース)。最後の注は本文とは一行空けて配した。原典ではポイント落ちで各注一行が二字下げ、二行目以降は一字下げであるが、本文と同じにした。出来上った形は頗る角川文庫版に酷似(そっくり)だが、遙かに正統(まっとう)な天馬訳の電子化であると私は秘かに自負しているんである。原文は従来通り、中文繁体字の「維基文庫」から引いている(柴田氏が底本としたものとは微妙に異なる箇所がある)。……しかしルビ附けが面倒なことには変わりがない。これも次の回の公開が何時になるかは知れぬ。……
 
 手始めに、如何にも御洒落な色塗りで翻案(インスパイア)し、不遜にも中国人に読んでもらうことを末尾で望んでる太宰治の訳や、怪奇談玄人(ホラー・ストーリー・テラー)田中貢太郎訳など、電子テクストがごろごろしている「竹青」を、ここで敢えて持ってくることにした。この如何にも大陸的な乾性(ドライ)な、而して湿性(ウェット)なところはしっかり濡れてる天馬氏の自在奔放(てんまそらをかけるがごとき)それと、是非とも比較して戴きたいためである。なお、本「竹靑」では例外的に第一段落目の「呉王廟」の後に( )本文中にポイント落ちの二行割注が入るが、同ポイント( )で示した。【二〇一五年六月二十日 藪野直史】]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(五)

 

       

 

 私共はまた大きな支那風の山門へ戾つた。

 「まだ見るものがあります」と私の案内者は叫んだ。して、前には樹木に隱れて見えなかつた小丘の方へ、別の路を通つて境內を越えて行つた。此丘は高百尺ほどの軟かな石の塊で、その側面は穿たれて洞室となつて、像が滿ちてゐる。洞室は塚穴の如く、像は墓碑のやうに見える。室內は二階になつて、上段に三室、下段に二室ある。上と下は自然の岩石の中を貫いた狹い楷梯で通じてゐる。して、是等の室內には、雫の滴る洞壁に沿つて、佛寺の墓の形をなせる灰色の石板が並んで、その面に佛像の高い浮彫が刻んである。皆悉く後光の圓盤を負つて、中には西洋の中世紀の塑像の如く無邪氣で飾らないのもある。見慣れたのも幾つかある。私は久保山の墓地で、無數の影のやうな手を持つた、此跪坐せる女の像を見た。また冠冕を被り、片膝を揚げて、左手に頰をもたせて、眠れる――久遠平安の可憐な、この姿をも見た。聖母の如き他の諸像は、蓮華を持ち、 蛇のどぐろを卷いた上に立つてゐる。悉くは見えない。一つの岩洞の天井は下へ墜込んで、廢墟に洩れる日光は、岩層の中に半ば埋れて、近寄難い彫像の群團を示すばかりだ。

 が、この洞室は墓地ではない。是等の諸像は私の想像したやうな墓碑ではなく、慈悲の女神の像なのだ。洞室は禮拜堂で、像は圓覺寺の百觀音である。上段の室の壁龕には、一枚の花崗石に『南無大慈大悲觀世音、瞰視諸願音』といふ梵文が、漢字で書いてあつた。

[やぶちゃん字注:以下の注は底本では全体が四字下げ。「アヴローキテーシユワラ」は「阿縛盧枳帝疾伐羅」のルビ、「(觀自在)」は本文。]

註 梵語にて、阿縛盧枳帝疾伐羅(アヴローキテーシユワラ)(觀自在)。日本の觀世音は支那の處女神、觀音と起原が同一である。佛敎ではこれを印度のアヴローキテーシユワラの化身として採つたのである。【アイテル氏著「支那佛敎提要」参照】しかし、日木の觀音は、すべて支那的特性を失つて、藝術的に日本婦人に於ける一切の最も美はしいものの理想的表現となつた。

[やぶちゃん注:ここでハーンが見た景観は最早、我々は見ることが出来ない。現在、円覚寺方丈の庭園の、入って左側に「百観音」として、残存遺物が並べられてある。その案内板によれば、『江戸時代、拙叟尊者が境域に岩窟をうがって百体の観音像を祀ったことに由緒を発する。その後荒廃したが、明治二十一年洪川(こうせん)禅師が発願して西国三十三体の観音像を新たに刻み、補陀落迦観自在窟(ふだらかかんじざいくつ)と名つけて境内の一部に安置した。昭和五十八年この地に移し多くの人々に参詣して頂くことになった』とある。「鎌倉攬勝考」に載らず、「新編相模國風土記稿」も管見したところ、見当たらぬことから、江戸末期には相当に荒廃して少なくとも観音霊場としては機能せず、大方忘れ去られていたものと思われ、しかも位置が明らかでない。というより、このハーンの叙述だけが、この「補陀落迦観自在窟」の所在を知る手掛かりと言えるのではなかろうか? まず、彼らは「また大きな支那風の山門へ戾つ」ている。そこから「前には樹木に隱れて見えなかつた小丘の方へ、別の路を通つて境內を越えて行つた」とある。この叙述は、「別の路」にポイントがある気がする。円覚寺は山門を挟んで左右に通路はあるが、左手の通路はそのまま直進すれば、現在は方丈の所で右手の通路が合流する。この合流路は当時もあったと考えてよいと思う(「二」の最後を参照)。とすれば、ここに繋がることが容易に視認出来る道をハーンが「別の路」と言うはずがない。しかも彼は「境内を越えて行つた」と表現している。この「別の路を通つて越えて行つた」というのは、山門前を横切って北西に横切って、十王堂の右から急坂を登って行く諸塔頭へのルートを指していると読む(藪野家の菩提寺は円覚寺の白雲庵であることから私は円覚寺の地形には詳しいのである。但し、私はこの墓には入らない。母と同じく慶応大学医学部に献体しており、母の眠る多磨霊園にある同医学部合葬墓に入る)。さすれば、この「補陀落迦観自在窟」というのは、この道を登った先の、塔頭松嶺院の裏手崖上か或いは富陽庵・伝宗庵・白雲庵・雲頂庵の塔頭境内域に存在したと考えられるのである。

「百尺」三十メートル。上記の塔頭の内、富陽庵・白雲庵・雲頂庵の背後はこの高さに一致し、少なくとも白雲庵の奥はまさしく鎌倉固有の墳墓・供養墓形式である「やぐら」で知られる通り、柔らかな鎌倉石と呼称される特徴的な凝灰質砂岩「軟かな石の塊」で出来ている。

「久保山の墓地」神奈川県横浜市西区元久保町にある久保山墓地。ウィキの「久保山墓地」によれば、明治七(一八七四)年に当地にある大聖院・林光寺・常清寺の三寺の土地が主になって造られた。現在は主要部分は横浜市営であるが、隣接して入り混じっている寺院管理の墓地も総称して、こう呼ばれているとある。横浜外国人旧居留地(明治一〇(一八七七)年に事実上撤廃)から三・五キロメートル(野毛山の先)と近い。

「冠冕を被り、片膝を揚げて、左手に頰をもたせて、眠れる――久遠平安の可憐な、この姿」「冠冕」は「くわんべん(かんべん)」と読み、冕板(べんばん:長方形の板状の飾り。)をつけた冠のことで、本来は天皇や皇太子が大儀の際に着用した冠。上部に冕板載せ、その前後に五色の珠玉を連ねた糸状の飾りを垂らした。但し、ここは広義の荘厳のための冠の意である。このハーンの見た半跏思惟する観音像――pok**hino*324氏の個人ブログ「地球のしずく」の勤行 2014年3月9日 北鎌倉巡礼 百観音の八枚目右にある、像をご覧あれ。これは三つ上の写真の右端のものと思われるが、如何にもハーンの述べたものとよく似ている。但し実は、三つ上の写真の右から四体目にも酷似した形らしい一体を現認出来る。孰れにせよ、この孰れかと考えてよいのではあるまいか? 今度、墓参(「藪野家」の菩提寺は円覚寺内の「白雲庵」である。但し、私はその墓には入らない。連れ合いともどもに、慶應大學医学部に献体しており、既に献体して母が入っている多磨霊園の合葬墓の骨壺で一緒になるからである)した際には「聖母の如き他の諸像は、蓮華を持ち、 蛇のどぐろを卷いた上に立つてゐる」ものもあるかどうか探して、写真を撮って来て、お見せしようと思う。

「壁龕」「へきがん」と読む。祭祀場所に設けられた壁の凹み。原文にある“niche”(ニッチ)は、ゴシック建築などに於いて聖像などを安置する幕屋構造の一部の呼称で、「壁龕」自体が、この訳語であるようだ。

「瞰視諸願音」「かんししようぐわんおん(かんししょがんおん)」と読む。「瞰視」は俯瞰、見おろすこと。あらゆる衆生の祈願の声を高みから遍く慈悲の眼を以って見おろしてそれを叶えて下さる妙音たるところのお方、といった謂いであろう(観音は視覚ではなく聴覚上の妙音自体が真正のシンボルである)。思わず、笑ってしまったが、ハーンの英文“ who looketh down above the sound of prayer ”の方が、現代日本人には遙かに分かり易いように読めるではないか?!

「阿縛盧枳帝疾伐羅(アヴローキテーシユワラ)(觀自在)」観音菩薩は正式には梵語で“Avalokiteśvara Bodhisattva”(アヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァ)といい、観世音菩薩・観自在菩薩・救世(ぐせ)菩薩など多くの別名を持つ。参照したウィキ観音菩薩によれば、『梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)という語の合成語との説が現在では優勢である。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになる』とある。

「支那の處女神、觀音と起原が同一である」やはり、ウィキ観音菩薩によれば、漢訳語「観音菩薩」という名称は前注の通り、『サンスクリット(梵語)のアヴァローキテーシュヴァラの意訳から生じたとする説が有力である。しかし、エローラ石窟群、サールナートなどインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されていることから、その起源は中国への仏教伝来よりも古いものとも考えられ、ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連が指摘されている』とあるのであるが、ここで言う(ハーンではなく、アイテルの「支那佛教提要」での見解らしいが)「支那の處女神」というのは、ハーンはこれをネパールで信仰される生き神の少女「クマリ」(KumariKumari Devi)のことを暗にイメージしているのではあるまいか? ウィキクマリによれば、『密教女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、ネパール王国の守護神である女神タレジュやアルナプルナの生まれ変わりとされており、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が初潮を迎えるまでクマリとして役割を果たす』とある。

『アイテル氏著「支那佛敎提要」』エルンスト·ヨハン·アイテル(Ernst Johann Eitel 一八三八年~一九〇八年)プロテスタントのドイツ人宣教師。中国生まれ。「支那佛教提要」(厳密には“Hand-book of Chinese Buddhism, being a Sanskrit-Chinese dictionary, with vocabularies of Buddhist terms in Pali, Singhalese, Siamese, Burmesi, Tibetan, Mongolian and Japanese; by Ernest J. Eitel.”)は香港で一八八八年刊行されている(“Hathi Trust Digital Library”」のページに拠る)。]

 

Sec. 5

   'Oh! there is something still to see,' my guide exclaims as we reach the great Chinese gate again; and he leads the way across the grounds by another path to a little hill, previously hidden from view by trees. The face of the hill, a mass of soft stone perhaps one hundred feet high, is hollowed out into chambers, full of images. These look like burial- caves; and the images seem funereal monuments. There are two stories of chambers—three above, two below; and the former are connected with the latter by a narrow interior stairway cut through the living rock. And all around the dripping walls of these chambers on pedestals are grey slabs, shaped exactly like the haka in Buddhist cemeteries, and chiselled with figures of divinities in high relief. All have glory- disks: some are na´ve and sincere like the work of our own mediaeval image-makers. Several are not unfamiliar. I have seen before, in the cemetery of Kuboyama, this kneeling woman with countless shadowy hands; and this figure tiara-coiffed, slumbering with one knee raised, and cheek pillowed upon the left hand—the placid and pathetic symbol of the perpetual rest. Others, like Madonnas, hold lotus-flowers, and their feet rest upon the coils of a serpent. I cannot see them all, for the rock roof of one chamber has fallen in; and a sunbeam entering the ruin reveals a host of inaccessible sculptures half buried in rubbish.

   But no!—this grotto-work is not for the dead; and these are not haka, as I imagined, but only images of the Goddess of Mercy. These chambers are chapels; 
and these sculptures are the En-gaku-ji-no-hyaku-Kwannon, 'the Hundred Kwannons of En-gaku-ji.' And I see in the upper chamber above the stairs a granite
tablet in a rock-niche, chiselled with an inscription in Sanscrit transliterated into Chinese characters, 'Adoration to the great merciful Kwan-ze-on, who looketh down above the sound of prayer.' [3]

 

3
   'In Sanscrit, Avalokitesvara. The Japanese Kwannon, or Kwanze-on, is identical in origin with the Chinese virgin-goddess Kwanyin adopted by Buddhism as an incarnation of the Indian Avalokitesvara. (See Eitel's Handbook of Chinese Buddhism.) But the Japanese Kwan-non has lost all Chinese characteristics,—has
become artistically an idealisation of all that is sweet and beautiful in the woman of Japan.

2015/06/19

アリス物語   ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (三) コーカスレースと長い話

 
 
     三 コーカスレースと長い話

 

 池の土手に集つたものは、ほんとに奇妙な格好をした者たちでした。――尾を引きずつた鳥だの、ベツタリと毛皮が身體(からだ)にまきついて居る獸たちで、みん々ずぶ濡れで、不機嫌な、不愉快らしい樣子をして居りました。

 勿論、第一の問題になつたのは、どうして元通りに、身體を乾かすかといふことでした。みんなはこの事に就いて、相談を始めました。しばらくする中(うち)、アリスは、自分がこの者達と、馴れ馴れしく話をしてゐるといふ事が、全く當り前のことのやうに思はれました。まるで、皆(みんあ)と小さい時分から、知り合だつたかのやうに。で、實際アリスは、ローリーと隨分長いこと議論をしました。とうとうローリーは不機嫌になつてしまつて、「わしはお前より年をとつてゐる。だからお前より、よく物を知つて居るに違ひないんだ。」と言ひました。しかしアリスは、ローリーの年がいくつだか知らないうちは、承知ができませんでした。ところがローリーは、自分の年を云ふことを、はつきりと斷りましたので、議論はそれつきりになつてしまひました。

 最後に、仲間の中(うち)で、幾分幅(はゞ)の利(き)くらしい鼠が言ひ出しました。「みなさん、坐つてわたしの云ふことを、聞いて下さい。わたしは直ぐに皆さんをよく乾かして上げます。みんなは、一人殘らず坐つて、大きな環をつくりました。そしてその眞中には鼠が坐りました。アリスは心配さうに、鼠をヂツと見て居ました。何故なら、早く乾かしてもらはないと、ひどい風邪でも引きさうで、しやうがありませんでしたから。

「エヘン。」と鼠は、勿體(もつたい)ぶつた樣子をしました。「皆さん始めてよろしいですか。これはわたしの知つて居るかぎりでは、一番干からびた面白くない話です。どうか皆さんかお靜かに――さて法王より許しを得たウリアム大王は、やがてイギリス人の歸順をうけたのであります。その時イギリス人は指導者を必要として居ました。そして專制と征服には、その當時馴らされて居りました。ヱドウヰンとモルカー、即ちマーシヤ及びノーザムブリアの兩伯爵は――。」

「うふ」とローリーは、身慄(みぶる)ひをして言ひました。

「一寸(ちよつと)伺ひますが。」と鼠は顏をしかめながら、しかし叮嚀に「君は何か言ひましたか。」

「いいえ。」とローリーはあわてて答へました。

「わたしはまた、何か言はれたと思つたのでした。」と鼠は言ひました。「では、先をお話しませう。ヱドウンとモルカー、即ちマーシヤ及びノーザムブリアの兩伯爵は、王のために宣言をしました。愛國者であるカンタべリーの大僧正、スタイガンド(Stigand)でずらも、それを適當なことと知りました――。」

「何を見つけたつて?」と鴨(かも)が言ひました。(英語で今の「知りました。」といふ言葉は、普通「見つけた。」といふ意味に、使はれるものだからです。)それを知つたのだ。」と鼠は一寸おこつて答へました。「勿論のこと、君は『それ』が、何のことだか知つて居るだらう。」

「わたしは自分で何か見つけるとき、『それ』が何であるか、よく分るんだよ。」と鴨が言ひました。

「大抵のところ、それは蛙か、みみずなんだよ。それで問題はだね、大僧正が何を見つけたかといふことだ。」

 しかし鼠は、此の間にかまはないで急いで話を續けました。「――エドガア・アスリングと一緒にウリアムに會つて、王冠を捧げることを、よいことだと知つたのでした。ウリアムの行ひは初めの中は穩(おだや)かでした。けれども、ノルマン人の無禮な――ねえ、どうです。お工合(ぐあひ)は。」と鼠はアリスの方を向いて言ひました。

「まだやつぱり、びしよびしよよ。」

とアリスは悲しさうな聲で言ひました。

「そんな話なんか、ちつともわたしを乾かしてくれないわ。」

「左樣な、場合には。」とドードーは、偉さうな風をして、立ち上りながら言ひました。「わたしは此の會議を延ぱすことを申し出ます。その理由は、一層有効なる救濟法を、直ちに採用せんかためであります。」

「英語で言つてくれ。」と子鷲(こわし)が言ひました。「わたしにや、今の長い言葉の意味が半分も分らないや。第一お前さんだつて分つて居さうもないね。」

 かう言つて子鷲は頭を下げ、うすら笑ひをかくしました。外の鳥たちは聞えるほど大きな聲で笑ひました。

「わたしが言はうとしたことは。」とドードーは、怒つた聲で言ひだしました。「われわれを乾かすためには、コーカスレースをやるのが一番いいといふことだつたのです。」

「コーカスレースつて、何のことですか。」とアリスが言ひました。そのことをアリスはひどく知りたいと思つた譯ではないのです。ただドードーが、あとは誰(たれ)か他(ほか)の者が、口を利くべきだとでも思つたやうに、一寸口をやすめたのに、誰も話しだす樣子が、見えなかつたからなのです。

 「ウン。」とドードーは言ひ出しました。「それを一番よく分るやうにする方法は、それをやつて見ることだ。」(みなさんの中、冬になつて、これをやつて見たいと思ふ人が、あるかも知れませんから、ドードーがやつて見せた通りを、お話する事にします。)

 まづドードーは、翰の形に競走場(きやうそうじやう)を仕切りました(「さうキチンとした輪の形でなくてもよい。」とドードーは言ひました。)それから伸間達を、仕切に沿うて、あちら、こちらに並べました。そして競走は「一・二・三よし。」の合圖なんかなしで、みんな思ひ思ひの時に走り始め、好きなときに止(や)めるのでした。それですから競走がいつ濟んだかなどといふ事は、一寸分わませんでした。けれども皆(みんな)が三十分かそこら走つて、もうすつかり身體(からだ)が乾いてしまひました。そのとき、ドードーか急に「競爭終り。」とどなりました。で、みんなはドードーの周りに集まつて、呼吸(こきふ)を切らせながら「だけど誰(だれ)が勝つたんだ。」と訊きました。

 この問にはドードーは、よほど考へなければ返事をすることができませんでした。それで長い間一本の指を額(ひたひ)にあてて、「これはシエークスピヤの畫像で、みなさんがよく見る姿勢です。)坐りこんで居ました。其の間(あひだ)他(ほか)のものは默つて待つて居ました。やがてドードーは、やつとかう言ひました。

みんなが勝つたんだ、だからみんなが賞品をもらふのだ。」

「では誰(たれ)か賞品をくれるのですか。」とみん々は一齊(いつせい)に訊きました。

「うん、あの子だよ無笥のこと。」とドードーは一本の指で、アリスを指(ゆび)ざしながら言ひました。そしてみんなは、直ぐにアリスの周圍に集まつて、あちらからも、こちらからも「賞品を、賞品を。」とワアワア言ひました。

 アリスはどうしてよいか、考へがつきませんでした。で、困りきつた揚句(あげく)、ポケツトに片手を突込んで、ボンボンの人つた箱をひつぱりだしました。(幸ひにもそれには鹽水(しほみづ)が人つて居りませんでした。)そしてこれを賞品として、みんなに渡しました。丁度一人に一つづつありました。

「だかあの子だつて、賞品を貰はなければならないよ。ねえ。」と、鼠が言ひました。

「勿論さ。」どドードーは、大層眞面目くさつて答へました。外には何がポケツトに入つて居ますか。」とアリスの方を向きながら、鼠に言ひました。

「指貫(ゆびぬき)だけ。」とアリスは悲しさうに言ひました。

「それをここへ釦渡し。」とドードーが言ひました。

「それからみんなは、最(も)う一度アリスのぐるりに、集まつてきました。それからドードーは、おごそかに指貫(ゆびぬき)をアリスに贈つて言ひました。「わたし達は、あなたがこの立派な指貫を、お受取り下さることをお願ひします。」この短い演説が終(す)むと、一同は拍手をしました。

 アリスはこの樣子を、隨分馬鹿らしいと思ひましたが、みんなが眞面目くさつた顏をして居るものですから、笑ふことも出來ませんでしたし、それに何も云ふことを考へつきませんでしたから、ただ一寸お辭儀をしたきりで、出來るだけしかつめらしい顏をして、指貫を受取(うけと)りました。

 さて、次にすることは、みんながボンボンを食ふことでした。このことはかなりの騷ぎを起して、ガヤガヤしました。何しろ大きな鳥はこれぢや味も分ら々いと言つて、ブツブツ不平を言ひますし、小さい鳥は喉(のど)につかへて、背中をたたいて貰ふ有樣でした。けれどもやつとその騷ぎも終(す)んで、みんなは車座(くるまざ)に坐つて、鼠にもつとお話しをして呉れと賴みました。

「お前さんは、身の上話をするつて約束したでせう。」とアリスが言ひました。「そして――あの、ネの字とイの字が、何故嫌ひだかつていふことをね。」とアリスはまたかおられやしないかと思つて、小さい聲で言ひました。

「わたしのお話は長い、そして悲しいものなんです。」と鼠はアリスの方を向いて、

溜息をつきながら言ひました。

「全く長い尾(しつぽ)だわ。」とアリスは、不審さうに、鼠の尻尾(しつぽ)を見て言ひました。

「けれどもそれが何故(なぜ)悲しいといふんですか。」〔英語で「おはなし」という言葉は「尻尾」といふ言葉と音が同じに聞えるのです。〕そして鼠がお話をする間も、アリスはその謎を一心(しん)に考へ解かうとしてゐました。ですからアリスの頭の中では、鼠のお話が一寸次のやうな風になりました。

 

  やま犬が、お家(うち)で

  會つた 鼠に

   いひました。

   「裁判遊びを二人

   でしようぢやないか。

     そしておれはおまへを

    訴へてやる――。」

    「うん、わたしは

     いやとは言はぬ。

     今朝はわしは

      仕事がないか

      ら裁判遊びを

      してもよい。」

      と鼠が言ひ

       ました。

       「ねえ、君

  陪審官もない

   判事もない

     そんな裁判は

    息が切れてしま

    ふ「だらうて。」

    「なにわたしは

     判事にもなつ

      たり、陪審官

       にもなつた

       りする。」

      と年をとつた

       ずるい犬

        は言ひまし

         た。「わしが

          ひとりで裁判

           をやつて

            お前に

             死刑の

              宣告をしてやる。

 

「お前は聞いて居ないな。」と鼠はきびしい聲で、アリスに言ひました。「お前は、何を考へて居るのだい。」

「ごめん遊ばせ。」とアリスは大層へり下つて申しました。「お前さんは、五番目の曲處(まがりめ)に來たんだつたねえ。」

「さうでない。」と鼠は強く大層怒つてどなりました。

「難問ね。」とアリスはいつも、自分を役に立てさせようと思つて、心配らしく周圍(まはり)を見ながら言ひました。「まあ、わたしにその難問を、解く手傳ひをさせて下さいな。」

「わたしはそんなことは知らんよ。」と鼠は立ち上つて、歩きながら言ひました。「お前はこんなつまらないことを言つて、わしを馬鹿にしてゐる。」

「わたしそんなつもりではなかつたのよ。」とアリスは可哀想にも、言ひ譯をしました。「けれど、あなたはあんまり怒りつぽいわ。」

 鼠は答へる代りに唸つた許(ばか)りでした。

「どうか戻つて來て、お話をすつかり濟ませて下さい。」とアリスは後(うしろ)から、呼びかけました。そして外のものも、一緒に聲を合せて言ひました。

「さうです、どうかさうして下さい。」けれども鼠は、がまんして居られないやうに、ただ首を振つただけで、前より足を早めて歩いて行きました。

「鼠君がここに留(とま)つてゐてくれないとは、全く殘念なことだ。」とローリーは、鼠が見えなくなると、直ぐさま溜息をして言ひました。この時、年をとつた蟹が自分の娘の蟹に言ひました。「ねえ、お前、これを手本にして、決して怒るものぢやないよ。」

「言はなくつてもいいわよ。母さん。」と若い蟹は少し怒つて言ひました。

「牡蠣(かき)の我慢強いのを眞似れば十分だわ。」

「家(うち)のデイナーがここに居ればよいんだけれど。」とアリスは大きな聲で、別に誰(たれ)に話しかけるともなしに言ひました。「デイナーなら、鼠をぢきに連れてかへるわ。」

「デイナーつて誰ですか、お聞かせいただけませんでせうか。」とローリーが言ひました。

 アリスは夢中になつて答へました。何しろこの祕藏の猫の事ときたら、いつでも話したくて、むづむづしてゐるのですから。「デイナーつて云ふのは、家(うち)の猫ですわ。そして鼠をつかまへるのが、お前さん考へにもつかない程に、隨分上手なのよ。それにまあ鳥を追つかけるとこなんか、本當に見せたいわ。鳥なぞ狙つたと思つてると、もう食べてしまつてゐる位(くらゐ)よ。」

 このお話は、伸間に大變な騷ぎを起させました。鳥の中には、あわてて逃げだしたものもありました。年をとつたみそさざいは、注意深く、羽(は)づくろひをしていひました。「わしはほんとに家(うち)に歸らなければならない。夜の空氣は喉(のど)をいためていけない。」すると金絲鳥(きんしてう)は、聲をふるはしながらで子供たちに言ひました。

「さあお歸り、寢る時刻ですよ。」いろいろと口實を作つて、みんな去つてしまひました。それでアリスが獨(ひとり)ぼつち遺(のこ)されてしまひました。

「わたしデイナーの事なんか、言はなければよかつたわ。」と悲しい調子で獨語(ひとりごと)を言ひました。「此處(ここ)では誰(たれ)もデイナーが嫌ひらしいわ。デイナーは確かに世界中で一番好い猫だと思ふんだけれど。まあ、わたしの可愛いデイナー、わたしまた、お前に會へるかしら。」さう言つてアリスは、又泣き始めました。アリスは大層淋しくて心細くなつたからでした。けれどもしばらくすると、遠くの方から、又もばたばたといふ小さい足音が聞えてきました。アリスは事によつたら、鼠が機嫌をなほして、お話をスツカリ濟ませに歸つて來たのではないかと思つて、熱心に上を見て居ました。

[やぶちゃん注:「ウヰリアム」「ヱドウヰン」の「ヰ」は総て拗音(小さな「ヰ」)である。

『「ごめん遊ばせ。」とアリスは大層へり下つて申しました。「お前さんは、五番目の曲處(まがりめ)に來たんだつたねえ。」

「さうでない。」と鼠は強く大層怒つてどなりました。

「難問ね。」とアリスはいつも、自分を役に立てさせようと思つて、心配らしく周圍(まはり)を見ながら言ひました。「まあ、わたしにその難問を、解く手傳ひをさせて下さいな。」』この部分、訳者はかなり苦労して訳している。やはりキャロル独特の同音異義による半可通の箇所で、原文は、

   *

"I beg your pardon," said Alice very humbly: "you had got to the fifth bend, I think?"

"I had not!" cried the Mouse, sharply and very angrily.

"A knot!" said Alice, always ready to make herself useful, and looking anxiously about her. "Oh, do let me help to undo it!"

"I shall do nothing of the sort," said the Mouse, getting up and walking away. "You insult me by talking such nonsense!"

   *

で、私が「アリス」を最初に読んだ福島正実氏の訳(昭和五〇(一九七五)年角川文庫刊)では、

   《引用開始》

 「ごめんなさい」アリスは恐れ入っていいました。「もう五番目の結びまできたんでしたね?」

 「結び(ノット)じゃない!」と、鼠は語気荒く、怒気ものすごくいいました。

 「結び(ノット)ですって!」と、いつでも人の役にたちたいと思っているアリスは、叫びながら、まわりを一心に見まわしました。「わたしが手伝って、ほどいてあげるわ!」

 「だれがそんなことをするもんか」と鼠が立ち上がって歩きだしながらいいました。「そんなくだらんことをいって、あんたは私をばかにしているんだ!」

   《引用終了》

 

と訳しておられる。失礼ながら、この訳でも今一つ、よく私には分からないのであるが、恐らくは、この“fifth bend”(五番目の曲折)、前の鼠のシュールな詩篇の山の折り返し数(角)を指している思われ(一九六六年版原文では左右に折り返しの山が多く見られる。但し、私の数える限りでは六つ目に入っている)、ところが鼠はアリスの言った意味がよく分からず、アリスがちっとも自分の詩を聴いてなかったことを批難し、“I had not!”、「いいや! 全然、違うぞ!」と言ったのだが、今度は天然のアリスが、この“not”を自分が言った“bend”の連想で“knot”(結び目/文芸作品の筋のもつれ/難問)と聴き違えてしまい、「何かが縺れちゃって困ってるのね! だったら、解きほぐすお手伝いをしてあげるわ!」とやらかしてしまい、それを聴いた鼠は、またも訳の分からぬ下らない駄洒落でからかわれたのだと憤慨、遂にはこの場を立ち去ってしまう、というシークエンスなのだろうと読む。]

2015/06/18

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(12) 四 歌と踊り(Ⅴ) まとめ

 獸類の中にも、雄が踊つて雌に見せるものがある。「かもしか」類はその例であつて、雄は雌の集まつて居る前で高く踊り上つたり蹴ね廻つたりする。鬣のある種類では、その際毛が舞ひ立つて見事になる。また雄が雌の前で戲に喧嘩の眞似をして見せる種類が幾らもあるが、雌はこれを見て居る間に本能が呼び起され、踊の濟む頃には自ら進んでいづれかの雄に從つて行く。一體獸類には交尾期になると、牝を奪ひ合ふために、牡が眞劍に勝負をし、終に一方が死ぬ程の場合が多くあるが、かやうな際には、牝は側から熱心にこれを見物して居る。そしてその間に段々情が起つて來て、ときとすると偶然その場處へ來合せた他の牡の處へ寄り添うて行くことさへある。これらのことから考へて見ると、鳥や獸などの如き神經系の發達した高等の動物では、爭鬪と色情との間には密接な關係があつて、戰爭に擬した踊りをやつて見せても情を起こさせることの出來る場合があり、更に轉じては相手なしに獨りで戰いの身振を演じて見せても、同じ目的を達し得るに至つたのではなからうか。鳥や獸が踊は如何にして起つたものか、その原因は決して一通ではないかも知れぬが、少なくもその一部分は戰の眞似に始まつたことは餘程眞らしい。人間でも野蠻人の踊には戰の眞似が多く、しかもこれを女の前でして見せるのは、頗る獸類などの踊によく似て居る。また精神病者の中には、相手を殘酷な目に遇はすか、自分が殘酷な目に逢ふかして初めて情の滿足を得るものがあるが、これなども多少獸類の或るものに似た所がある。

[やぶちゃん注:「カモシカ」カモシカ(「氈鹿」「羚羊」)は広義には、ウシ目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科 Caprinae に属するサイガ族 Saigini・シャモア族 Rupicaprini・ジャコウウシ族 Ovibovini の三族の総称で、八属十種が現生する。参照したウィキカモシカ」によれば、『シカの名が入っているが、シカの属するシカ科ではなく、ウシやヤギと同じウシ科に属する。したがって、シカとは違い、ウシ科のほかの種同様、角は枝分かれせず、生えかわりもない』。また、『羚羊をカモシカではなくレイヨウと読めば、アンテロープ、つまり、ウシ科の大部分を含む(しかしカモシカは含まない)不明確なグループのことになる。なお「カモシカのような足」という表現に現れるカモシカとは、本来はレイヨウのことである』。対して、狭義には『シャモア族カモシカ属(シーロー属)の動物、すなわち、シーロー亜属のスマトラカモシカ(シーロー)、カモシカ亜属のニホンカモシカ、タイワンカモシカの三種を指』し、『これらはアジアの山岳部を生息域とする』。『また、日本ではしばしば、カモシカと言えば、国内に棲息する唯一のカモシカ類であるニホンカモシカを指す。山形県・栃木県・山梨県・長野県・富山県・三重県の県の獣にも指定されている』とある。本書のここでは、シャモア族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus で採っておく。

「餘程眞らしい」老婆心乍ら、「眞」は「まこと」と訓じている。]

Kumonoodori

[「くも」の踊]

[やぶちゃん注:これは底本のそれは粗く汚いので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を少し明るく補正して用いた。]

 

 小さな蟲の中では、「くも」類の雄が雌の前で種種の奇妙な踊りをやつて見せる。尻を上

げたり體を振つたり左右へ躍つたりして、長い間雌の注意を促すが、その擧動は前頁に掲げた圖でも分る通り、實に何ともいへぬ滑稽なものである。元來「くも」類は肉食するもので、常には雌雄と雖も相離れて生活し、雌は滋養分を含んだ卵を多く産まねばならぬから、隨分貪食の癖があり、動くものには何にでも飛び掛るので、雄もこれに近づくことは頗る危險である。雄が奇妙な踊をするのは、これによつて、常に食慾のために隱されて居る色慾を喚び起し、雄の近づくのを許すまでに心を柔げるためであらう。

[やぶちゃん注:幾つかの動画があるが、大型でないクモ類なら平気な方と、その色彩の派手さに相俟った、奇抜で素敵な求愛ダンスのダントツの面白さで、「コモンポスト」の熱烈な求愛ダンスを披露するクモピーコックスパイダー」の情熱的なダンスが面白い!!を挙げておく。但し、自己責任で。なべて昆虫が苦手で複眼系が駄目な方は、やはりクリックしない方が無難。また丘先生の引く図の蜘蛛とは異なる(私はクモ類には昏いので同定出来ない。識者の御教授を乞う。そのためにも図の明度を上げてある)。因みに、「ピーコックスパイダー」は新蛛亜目ハエトリグモ上科ハエトリグモ科 Maratus volans でオーストラリアに棲息する。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 石人形

 

 竹中氏は医学校の生徒である。これはドイツの医者たちが教え、すべてドイツ語で教授するので、竹中氏は勿論ドイツ語に通暁しているが、また弟の富岡から英語も教わった。彼は私にいろいろ興味あることを話した。彼が通っている医学校には、今年(一八八二年)一四五七人の学生があり、その内三九七人は予科の生徒、一五九人はドイツ語で医学と外科療法とを習い、八一八人は日本語で医学と外科療法とを学び、八三人が薬学を勉強している。日本人がかくも素速く漢法医学の古いならわしを放棄し、彼等の常識が道理と科学とに立脚したものであると教えるところを採用しつつあるのは実に驚く可きである。人間は信仰に次で医術上の習慣を、それが如何に愚なものであろうとも、墨守するという事実から見て、これは誠に非凡なことといわねばならない。

[やぶちゃん注:「竹中氏」既注であるが再掲する。竹中成憲こと竹中八太郎(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)のこと。「宮岡」恒次郎の一つ上の実兄(弟は宮岡家の養子となった)。明治八(一八七五)年に慶応義塾入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となった。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めた(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)。

「漢法医学」はママ。]

 

 ドクタア・ビゲロウと私とは、吉川氏の家へ招待された。同家は三十代も続いた家で、吉川氏は以前周防の大名であった。彼は眼鏡橋の近くに広大な土地と五軒の家とを持っている。我々が到着すると、大きな門がサッと開かれ、一人の供廻りが我々を礼儀正しく、一定の通路を通じて部屋部屋へ案内し、我々は吉川氏や同家の役員数名に紹介された。次に我々は二階の美麗な部屋へ導かれたが、この部屋は日本の家屋の内部の特徴である、例の細部の簡素と絶対的な清楚とを具えていた。中原氏が通訳の労をとった。部星の隅々には、最も素晴しい黄金漆器や稀古のカケモノがあった。同家の看守者――執事をこう呼んでもいいと思う――は、過去の愉快な精神それ自身であった。互に挨拶を換し、そこで我々が古い刀剣を見たいと希望すると、一つ一つ持ち出されたが、いずれも絹の袋につつまれ、吉川家の紋を金で置いた乗事な漆塗の箱に入っていた。一番最初に見た刀は七百年にもなるので、吉川氏の先祖の一人がある有名な敵の頭をはねたものである。鞘は柄を巻いた紐と同じく革で出来ていた。その一部は年代の為粉末になって了っているが、その粉末がまた紙に包んであった。鞘、柄、鍔その他の部分が、非常に形式的に且つ重々しく畳の上に置かれ、我々は刀身を見よといわれた。他の刀も見せてくれたが、これ程美事な刀身のいくつかは、それ迄見たことがない。

[やぶちゃん注:「吉川」は元周防岩国藩第二代(最後)藩主で華族であった吉川経健(きっかわつねたけ 安政二(一八五五)年~明治四二(一九〇九)年)。ウィキ吉川経健によれば、初代藩主吉川経幹(つねまさ)の長男。官位は贈従二位・子爵・正四位駿河守。慶応三(一八六七)年に父の死去により跡を継いだ(但し、主家長州藩主毛利敬親(たかちか/よしちか)の命令でその死去が隠されたため、正式な跡目相続は明治元(一八六八)年十二月)。明治二(一八六九)年一月に叙任し、同年六月には戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世五千石を与えられ、同年中に版籍奉還によって藩知事となった。明治三(一八七〇)年、本家長州藩で脱退兵騒動が起こると、その鎮圧に努めたが、明治四(一八七一)年の廃藩置県によって免官となり、東京へ移った。以後は旧藩士に対し、義済堂を創設し、その自立を助けた。明治一七(一八八四)年に男爵、明治二四(一八九一)年には子爵となった。

「中原氏」原文“Mr. Nakawara”。不詳。本書には以前には出て来ておらず、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも登場しない。識者の御教授を乞う。]

 

 これ等を見て、ドクタアは夢中になった。然し我我両人は、この夢中さを極度に押しかくした。吉川氏が不動の姿勢で膝まずき、すべての侍者達が彼等の威厳を一刻も忘れず、この上も無い謙卑と畏懼とを示す、とぎれとぎれなそして躊躇的な態度で、低音に、節度のある調子で話し合っているのは、興味深く覚えた。

 

 我々は、壁凹の一つにある美しい漆器を見たいと申し出た。それを持って来た侍者は、一回の運動で膝から立ち上り、恭々しくその品に近づき、その前にひざまずき、静に両手でそれを取上げ、同様にして立ち上り、整然たる足取りで我々に近づき、再び膝をついて、その箱を我々が見得る場所に置いた。これ等の侍者は皆位の高い武士であったので、周防には彼等自身の家来を持っている。そこには吉川家の邸宅があり、そこにある見事な古陶器や漆器や絵画は、煉瓦建の防火建築が出来上り次第、東京へ持って来られることになっている。我々は門を入る時、この建物を見た。
 
 

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 我々が訪問している間に、間を置いては召使いが、半ば延ばした両腕に、美味な食物をのせた低いボン、即ち盆を持って部屋へ入って来た。我々はこの上もなく楽しい数刻を送った。そして古代日本の多くの興味深い趣の一つの、純真な瞥見をしたことを感じた。退出する時我々は、小さな周防のお土産を貰ったが、それは内側に金紙を張った、長さ約四インチの薄い木の箱で、横に細い黒い布が張ってあり、その上にはカワゲラの巣が七つ、糊づけにしてあった(図623)! これ等の、我国の河川で普通に見られる動物は、岩国を流れる川で見出されるのである。外側には桁構(けたがまえ)の不思議な範式を持つ、驚く可き木造の拱橋の絵が書いてあった。

[やぶちゃん注:「四インチ」一〇・一六センチメートル。

「カワゲラの巣」原文は“caddis worm-cases”“caddis” は「caddis fly」で昆虫綱カワゲラ目 Plecoptera の私の好きな昆虫食の「ざざ虫」として知られるカワゲラではなく、昆虫綱トビケラ目 Trichoptera のトビケラ類を指す。ここに出るのはその中でもニンギョウトビケラ科ニンギョウトビケラ属ニンギョウトビケラ Goera japonica で、ウィキニンギョウトビケラによれば、日本全国に広く分布し、成虫の体長は十~十二ミリメートルほどで、触角は黄褐色で太く、体長とほぼ同長である。『幼虫は砂粒で作った巣を持ちその両翼には大きめの砂粒を』三対、『着ける。幼虫は主にきれいな流れに棲むが、湖岸に生息することもある。主に石の表面の付着藻類を食べる』。『蛹化は水中の岩の側面などに固着し行われ、その蛹巣を人形に見立てた民芸品に「石人形」(山口県岩国市)があり、これに因み和名がついた』(この玩具や御守りとしての石人形は、かなり有名で、仏像や七福神などにも見立てられて江戸の頃より岩国錦帯橋の土産として知られているもので、誤解してはいけないのは、モースが生物学者だから特別に選んだわけではない点である)。五月から十一月にかけて『羽化し、灯火に飛来する』とある。何だかんだ言うより何より、岩国石人形資料館公式サイトを見られるに若くはなし!

「桁構の不思議な範式を持つ、驚く可き木造の拱橋」既注であるが、「拱橋」は「こうきょう」でアーチ橋のこと。これは無論、錦帯橋の絵である。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 比叡山 / 春日奥山

 比叡山

 

わが比叡比良と嶺わかつ秋の空

 

はるかに光る秋の川来るか行くか

 

  根本中堂

 

不断燈鬱々夏を遣り過す

 

北谷に立てば北空法師蟬

 

仏燈や火蛾の翅粉をただよはす

 

    *

 

山清水汚せしことのすぐに澄む

 

鞦韆の男女夜の谷にひらく

 

老いて醜き白川女(め)頭に秋草

 
[やぶちゃん注:「白川女」は老婆心乍ら、「しらかはめ(しらかわめ)」で、京で花などを頭に乗せて売り歩く女性。嘗て京の白川地方(京都市左京区を流れる比叡山に源を発し、祇園付近で鴨川に合流する白川の流域一帯の地名。古くは鴨川以東、東山との間の地区を指した)の女性が、特有の装束をして市中を売り歩いたことに由来する。]

 
 

 春日奥山

 

白露行身袖ひつかく有刺線

 

石窟仏蜂の出入に有刺線

 

秋晴より蜂がかへり来石窟仏

 

石窟仏秋蚊に女(をんな)血たつぷり

 

なきがらの蜂に黄の縞黒の縞

 

秋晴に仏の石窟口ひらく

 

[やぶちゃん注:「春日奥山」「石窟仏」春日山石窟仏(かすがやませっくつぶつ)。私は全く知らないので、ウィキの「春日山石窟仏から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『奈良県奈良市の春日山山中石切峠近くにある磨崖仏。国の史跡に指定されている。通称・穴仏』。『柳生街道石切峠に近い南面傾斜地に露出する凝灰岩の岩壁を龕状に掘り、その壁面に仏像を刻んで彩色したもので相接する東西の二窟から構成される。西窟には久寿二年(一一五五年)および保元二年(一一五七年)の造立銘が刻まれていることから、平安時代末期(十二世紀中期)の作品とみられている。久寿二年の銘は現状では年号の部分が欠損しているが、近世末期の記録により、久寿二年と確認されている』。『東窟は間口約五メートル、奥行約二・四メートル、高さ二・四メートルで中央柱四面に顕教系の如来坐像四体、東壁に菩薩形立像三体、西壁に地蔵菩薩立像四体を表し、東西両壁に天部立像各一体(二天像)を表している』。『西窟は間口約三・六メートル、奥行約二メートル、高さ二・四メートルで経年・風化による損傷は大きいものの、如来坐像三体および多聞天立像一体が現存する。如来坐像は金剛界五仏を表したものと推定されるが、五体のうち二体は滅失している』とある。個人ブログ「ポジティブオーラ」の春日奥山石窟佛から地獄谷石窟佛が説明板の写真があり、分かりが良い。グーグル画像検索「春日山石窟仏もリンクしておく。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(三)・(四)

 

          

 

 『今度は大きな鐘を見物に行きませう』と、晃が云つた。

 私共は、山を切り開いた兩側が、七八尺崖壁を成して、靑苔蒸々たる間を登つて、左に折れ、非常に頽廢せる石段に達した。隙間每に草が萌え出で、數知れぬ人の足に蹈まれた石は磨滅破壞して、登つて行くに困難どころか、危險にさへ見えたが、無事絕頂に着いて、一つの小堂の前に來ると、待つてゐた老僧が微笑を浮かべて歡迎の禮をした。私共はこれに挨拶の禮を返へした。が、堂に入るに先だつて、轉じて、右方にある有名な鐘を見ることにした。

 彎曲(そり)を打つた支那風の尾根を有する、高い開放しの小舍の下に、その大鐘は懸垂してゐる。私の判斷によると、高さは優に九尺、經約五尺、口の厚約八寸とせねばならぬ。形は口の方ほど廣がつて行く西洋の鐘と違つて、これは全長を通じて同徑を有し、滑かな表面には佛經の文句が刻んである。鳴らすのには屋根から鎖で吊つて、攻城槌の如く動かさる〻、重く搖れる撞木を用ひる。撞木を引くために棕櫚の弶(わな)がついてゐて、十分搖れるやう、その弶を引けば、撞木は鐘の側面に刻せる蓮華の如き型を打つ。それを幾百囘も打つたことであらう。撞木の四角な扁平の端は、頗る密なる木理を示してゐるが、摺り減されて、緣はぼろぼろで、圓盤になつてゐる。恰も活版工が多年使用した木槌の面のやうだ。

 僧が鐘を打つやう私に合圖をした。私は先づ手で軽く鐘唇を觸つて見た。すると、音樂的の囁きが響いた。それから私は强く撞木を搖がした。して、雷のやうに深く、大風琴の 低音の如く豐富な、素ばらしく太い、しかも美くしい音が、山々に響き渡つた。それから急にもつと細く、もつと美くしい音が傳はつて行つた。更にまた他の音が起る、それからは、反響の浪が渦卷いて行つた。たゞ一たび打たれたこの驚くべき鐘は、少くとも十分間、呻吟嗚咽を續けた。

 して、この鐘は六百五十年を經てゐる。

[やぶちゃん字注:以下の「註」は底本では全体が四字下げでポイント落ちである。] 

 

註 私がこの章を書いた頃、今から約三年前には、私はまだ京都や奈良にある巨大なる鐘を見てゐなかつた。

 日本最大の鐘は、淨土の宗の巨刹、京都知恩院の境内に懸つてゐる。參詣者がそれを鳴らすことを許してない。紀元千六百二十三年の鑄造で、重さ七十四噸、本式にそれを鳴らすのには、二十五人を要するのだといふ。その次に位するのは、京都大佛殿の鐘で、參詣者は少許の賽錢を納めて鳴らすことが出來る。紀元千六百十五年の鑄造で重さ六十三噸。奈良東大寺の鐘は、第三者に位するけれども恐くは最も興味多いものであらう。高さ一丈三尺六寸、徑九尺。だから、京都の鐘に劣るのは、外形の大きさよりも、寧ろ重さと厚さの點である。重量三十七噸、紀元七百三十三年の鑄造で、卽ち千百六十年を經てゐゐ譯だ。參詣者は金一錢を納めて一囘それを鳴らす。

 

 近くの小堂で、僧が鐘の鑄造六百年祭を描いた一聯の畫を私共に見せて吳れた。(これは神聖の鐘で、神靈が宿つてゐると信ぜられてゐるから)それ以外にはこの堂は、たゞ殺風景なものであつた。家康とその臣下を畫いた掛物と、內外陣を隔つる戶の兩側に、古風な服装せる武士の、實物大の像があつた。內陣の檀には、賦彩木造の小風景の上に、辨財天女の十五童子の小像が並んで、御幣と鏡――神道の象徴――があつた。この祠堂は佛寺の大移換の際に、神道の方へ移つたのである。

 大抵有名な寺では、その緣起と不思議な傳說をしるした小册類を賣つてゐる。私はこ〻でも寺の玄關で、この種のものが賣られてゐるのを見た。その一つは、鐘の畫で飾られたもので、私は晃の補助によつて、次のやうな傳說をそれで知つた。

[やぶちゃん注:「鐘」建長寺・常楽寺の鐘とともに鎌倉三明鐘の一つである国宝円覚寺鐘である。円覚寺開基北条時宗の子、貞時が正安三(一三〇一)年に国家安泰を祈願して寄進したものである。「鎌倉市史 考古編」(昭和五四(一九七九)年吉川弘文館刊)には本寺の略縁起によれば、『貞時は住僧西淵』(正式くは西澗子曇(せいかんすどん))『と相談し西淵の教に従って江島弁財天に祈請したところ不思議の示現をうけ、宿竜池』(本寺塔頭正続院内の池で開山無学祖元が来朝したその折り、彼が乗った船を龍が護り送ったとされ、その龍がこの池に止まったとする伝承がある)『の水底かをさぐったら一塊の金銅を得たので感激にたえず、遂にこの銅を使って鋳鐘に成功したという。大工は建長寺鐘を鋳た巨匠物部重光の三代目国光である。彼の作品中最大のものであり、又最後のものである』とある。

「七八尺」二・二~二・四メートル。

「小堂」鐘楼のすぐ脇にある弁天堂。円覚寺公式サイトの「境内案内」の解説に『屋根の勾配や軒の反りの美しさが特徴で、特に屋根の軒下から出ている上の段の垂木たるきは、扇子の骨のように広がっており、「扇垂木」とよばれています。これが屋根を一層大きく、建物全体を小さいながらも壮大に見せています』とある。

「高さは優に九尺、經約五尺、口の厚約八寸」「經」はママ。「九尺」は二・七二メートル、「五尺」は一・五二メートル、「八寸」二四・二センチメートルであるが、実寸は前掲の「鎌倉市史 考古編」によれば、総高二・五九五メートル、口径一・四二メートル、厚さは一四・五センチメートルである。

「攻城槌」「こうじやうつち/つい(こうじょうつち/つい)」と読んでいるか。破城槌(はじょうつい)のこと。城門を突き破るための攻城兵器の一つ。最も古い形は木を切り倒して枝を掃った丸太状のものを数人から数十人で両側から抱え持って城門に突進し、何度もぶつけるタイプのものである。

「弶(わな)」原義は鳥や獣を獲るために弓や網を張るの意であるが、ここは撞木を引くための輪になった(それが原義の仕掛けに似ているからか)棕櫚繩をそれに譬える形で述べたものであろう。

「木理」「もくり」或いは「もくめ」(木目)と訓じているかも知れない。

「鐘唇」「しやうしん(しょうしん)」か。原文は“the great lips”で、これは鐘の最下方の外縁部分を指しているものと思われる。

「圓盤」原文は“a convex disk”。凸レンズ状の円盤。私の敬愛する平井呈一氏(一九七五年恒文社刊「日本瞥見記」)の訳では『中高な坊主』と訳しておられる。言い得て妙の名訳である。

「大風琴」巨大なオルガンであるが、パイプ・オルガンをイメージした方がしっくりくる。

「この鐘は六百五十年を經てゐる」と述べているが、この明治二三(一八九〇)年からならでは一九五一年になってしまっておかしい。実際の鋳鐘からなら五百八十九年前である。「六百五十年」前は一二四〇年(延応二・仁治元年)になって、円覚寺の創建である弘安五(一二八二)年の更に七十八年も前になる。何かの誤解というよりも、通訳した晃が元号の西暦換算を誤ったものかも知れないと思ったが、実はここに附された原注には『僧が鐘の鑄造六百年祭を描いた一聯の畫を私共に見せて呉れた』とあるのが、また不審で、もしかすると当時は年号計算がいい加減であったのかも知れない。

「日本最大の鐘は、淨土の宗の巨刹、京都知恩院の境內に懸つてゐる」現在の京都市東山区にある知恩院の釣鐘は同じく東山区にある方広寺及び奈良の東大寺と並んで「日本三大梵鐘」とされ、総高三・三メートル・直径二・八メートル・重量約七十トンと、現存する日本の梵鐘の中では最大級ではあるが、最大ではない(大鐘楼として一九九七年に国重要文化財指定)。

「紀元千六百二十三年の鑄造」不審。鐘の鋳造は寛永一三(一六三六)年である(大鐘楼の方は延宝六(一六七八)年の建立)。

「京都大佛殿の鐘」「大佛殿」は方広寺の通称。慶長一九(一六一四)年、豊臣秀頼の命によって京都三条釜座の名古屋三昌により再鋳されたもの。総高四・二メートル・直径二・八メートル・重量八十二・七トン(重要文化財)。梵鐘の銘文中の「君臣豐樂」「國家安康」が家康を分断して徳川家を冒涜するものと讒言曲解され、大坂冬の陣への契機となったことで知られるいわくつきの鐘である。

「紀元千六百十五年の鑄造で重さ六十三噸」孰れも不審。特に重量は誤差がひどい

「奈良東大寺の鐘」大仏開眼供養の前年である天平勝宝三(七五一)年の鋳造と伝えられる。総高三・八五メートル・直径二・七メートル・重量約二十六トン。

「高さ一丈三尺六寸、徑九尺」「重量三十七噸」総高四・一二メートル・直径二・七メートルで総高と重量がおかしい

「紀元七百三十三年の鑄造」これは恐らく、同寺の記録「東大寺要錄」にある、東大寺が若草山麓に天平五(七三三)年に創建された金鐘寺(又は金鍾寺(こんしゅじ)とも)を前身とするとあるのを鐘の鑄造時期と誤認したものであろう(ウィキの「東大寺」に拠った)。

「この祠堂は佛寺の大移換の際に、神道の方へ移つたのである」「佛寺の大移換」は慶応四(一八六八)年の太政官布告、通称「神仏分離令」などの施行によって引き起こされた、おぞましい廃仏毀釈のことを指すが、現在、弁天堂は円覚寺の所属に戻っている。] 

 

Sec. 3

   'Now we shall go to look at the big bell,' says Akira.

   We turn to the left as we descend along a path cut between hills faced for the height of seven or eight feet with protection-walls made green by moss; and reach a flight of extraordinarily dilapidated steps, with grass springing between their every joint and break—steps so worn down and displaced by countless feet that
they have become ruins, painful and even dangerous to mount. We reach the summit, however, without mishap, and find ourselves before a little temple, on 
the steps of which an old priest awaits us, with smiling bow of welcome. We return his salutation; but ere entering the temple turn to look at the tsurigane on the right— the famous bell.

   Under a lofty open shed, with a tilted Chinese roof, the great bell is hung. I should judge it to be fully nine feet high, and about five feet in diameter, with lips about eight inches thick. The shape of it is not like that of our bells, which broaden toward the lips; this has the same diameter through all its height, and it is covered with Buddhist texts cut into the smooth metal of it. It is rung by means of a heavy swinging beam, suspended from the roof by chains, and moved like a battering-ram. There are loops of palm-fibre rope attached to this beam to pull it by; and when you pull hard enough, so as to give it a good swing, it strikes a moulding like a lotus-flower on the side of the bell. This it must have done many hundred times; for the square, flat end of it, though showing the grain of a very dense wood, has been battered into a convex disk with ragged protruding edges, like the surface of a long-used printer's mallet.

   A priest makes a sign to me to ring the bell. I first touch the great lips with my hand very lightly; and a musical murmur comes from them. Then I set the beam 
swinging strongly; and a sound deep as thunder, rich as the bass of a mighty organ—a sound enormous, extraordinary, yet beautiful—rolls over the hills and away. Then swiftly follows another and lesser and sweeter billowing of tone; then another; then an eddying of waves of echoes. Only once was it struck, the astounding bell; yet it continues to sob and moan for at least ten minutes!

   And the age of this bell is six hundred and fifty years. [2]

   In the little temple near by, the priest shows us a series of curious paintings, representing the six hundredth anniversary of the casting of the bell. (For
this is a sacred bell, and the spirit of a god is believed to dwell within it.) Otherwise the temple has little of interest. There are some kakemono representing Iyeyasu and his retainers; and on either side of the door, separating the inner from the outward sanctuary, there are life-size images of Japanese warriors in antique costume. On the altars of the inner shrine are small images, grouped upon a miniature landscape-work of painted wood—the Jiugo- Doji, or Fifteen Youths—the Sons of the Goddess Benten. There are gohei before the shrine, and a mirror upon it; emblems of Shinto. The sanctuary has changed hands in the great transfer of Buddhist temples to the State religion.

   In nearly every celebrated temple little Japanese prints are sold, containing the history of the shrine, and its miraculous legends. I find several such things on sale at the door of the temple, and in one of them, ornamented with a curious engraving of the bell, I discover, with Akira's aid, the following traditions:-

 

   2 At the time this paper was written, nearly three years ago, I had not seen the mighty bells at Kyoto and at Nara.

 

   The largest bell in Japan is suspended in the grounds of the grand Jodo temple of Chion-in, at Kyoto. Visitors are not allowed to sound it. It was east in 1633. It weighs seventy-four tons, and requires, they say, twenty-five men to ring it properly. Next in size ranks the hell of the Daibutsu temple in Kyoto, which visitors are allowed to ring on payment of a small sum. It was cast in 1615, and weighs sixty-three tons. The wonderful bell of Todaiji at Nara, although ranking only third, is perhaps the most interesting of all. It is thirteen feet six inches high, and nine feet in diameter; and its inferiority to the Kyoto bells is not in visible dimensions so much as in weight and thickness. It weighs thirty-seven tons. It was cast in 733, and is therefore one thousand one hundred and sixty years old. Visitors pay one cent to sound it once.

 

 

       

 

 文明十二年、この鐘が自(おのづか)ら鳴つた。この奇蹟を聞いて笑つたものは、災難にかかつたが、信じた人は、後、榮えてすべての願が叶つた。

 その頃、玉繩村に小野、君といふ人が病死して、幽冥界に下り、閻魔大王の前へ行つた。亡靈の判官、閻魔大王は、『まだこ〻へ來るのが早過ぎる。娑婆界で與へられた命數が、まだ盡てゐない。すぐ歸れ』と云つた。が、小野君は『どうして歸れませう。暗い中を通つて、行く道がわかりません』と申開きをした。閻魔は答へて『南の方へ行つて、南閻浮提界で聞える圓覺寺の鐘の聲にたよれば、行く道がわかるだらう』と云つた。して、小野君は南へ行つた。すると、鐘が聞えて、暗い中を通つて道を發見し、娑婆界に蘇生した。

 また當時、誰も見た覺えもなく、また名を聞いたこともない巨大な佛僧、諸國に現れ、遍歷して到る處で、圓覺寺の鐘の前で祈願することを說いた。この巨大な巡禮僧は、鐘が不思議の力により、僧の姿に變つたものであることが最後にわかつて、多くの人々が鐘の前で祈つて、その願を成就した。

[やぶちゃん注:「文明十二年」西暦一四八一年。比較的新しく生じた伝承であることが分かるが、私は実は今、思い出せる限りでは、鎌倉関係の諸本中で、この伝承を読んだ記憶がない。

「小野、君」読点は不審。原文は“Ono-no-Kimi”であるから「小野の君」である。これは「小野ノ君」の「ノ」を小さく書いた原稿、即ち、「小野君」を読点と誤って植字し、校正で落したものではあるまいか? 

 

Sec. 4

   In the twelfth year of Bummei, this bell rang itself. And one who laughed on being told of the miracle, met with misfortune; and another, who believed, thereafter prospered, and obtained all his desires.

   Now, in that time there died in the village of Tamanawa a sick man whose name was Ono-no-Kimi; and Ono-no-Kimi descended to the region of the dead, and went before the Judgment-Seat of Emma-O. And Emma, Judge of Souls, said to him, 'You come too soon! The measure of life allotted you in the Shaba-world has not yet been exhausted. Go back at once.' But Ono-no-Kimi pleaded, saying, 'How may I go back, not knowing my way through the darkness?' And Emma answered him, 'You can find your way back by listening to the sound of the bell of En-gaku-ji, which is heard in the Nan-en-budi world, going south.' And Ono-no-Kimi went south, and heard the bell, and found his way through the darknesses, and revived in the Shaba-world.

   Also in those days there appeared in many provinces a Buddhist priest of giant stature, whom none remembered to have seen before, and whose name no man knew, travelling through the land, and everywhere exhorting the people to pray before the bell of En-gaku-ji. And it was at last discovered that the giant pilgrim 
was the holy bell itself, transformed by supernatural power into the form of a priest. And after these things had happened, many prayed before the bell, and obtained their wishes.

2015/06/17

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(二)

 

       

 

 最初に圓覺寺の大寺院が、私共を招いて、その外門――彫刻は無く、立派な支那風の輪廓を有つた、屋根のある門――に面せる一つの小橋を渡らせる。それを渡つて、欝然たる森の間に通ずる、幅の廣い、長く續いた堂々たる坂を登つて、高臺に達すると、第二の門がある。この門は驚異である――素ばらしい二階建で、勢よく彎曲した屋根と巨大な切妻があつて、古風な支那式の壯麗なもの、乙れは四百年も經てゐるが、殆ど星霜の影響を受けないやうに見える。上部の重々しく、且つまた込入つた構造全體は、白木の圓柱と橫梁を組合せただけで支へてある。檐際には鳥の巢が滿ちてゐて、屋根から響く囀り聲は奔流のやうだ。此門は偉大な建築で、そのどつしりとした力强い趣は堂々たるものである。が、一種の嚴正を有してゐる。彫刻も、鬼瓦も、龍もない。それでも檐の下に幾多の凸出した梁木が錯綜してゐるのは、期待を促がし且つ欺くであらう。それはいかにも怪奇幻異の彫刻を暗示する。獅子、象、龍などの頭があるかと思つて探しても、だゞ四角な梁木の端だけで、失望よりも寧ろ驚異を感じさせられる。この建築の偉大莊嚴は、そんな彫物で增すのではない。門を入つてから、また廣い石段が長く續き、老樹が欝蒼としてゐる。して、始めて寺の臺地に達すると、入口に二個の美はしい燈籠が立つてゐる。寺の建築は小規模ではあるが、山門のそれに似てゐる。玄關の上に漢字で『大光明寶殿』と書いた額がある。しかし、重げな格子作りの木柵で、内陣が閉ぢられ、內へ通してくれる人もゐない。格子の間を覗いてみると、薄明りの裡に、先づ四角な蠟石の鋪床、次に暗い高い屋根を支へて、太い木柱の連れる通廊、して、最も奥には柱と柱の間に、黑顏金衣の巨大なる釋迦が、周圍優に四十尺もある大蓮華の上に坐してゐる。その右手に、香箱を捧げて、白い不可思議の像が立ち、左にもまた合掌祈念の白い姿が見える。二つとも人間の像であるが、佛弟子か、神か、上人か、堂內が暗くて識別が出來ない。

 この寺の先きには、大きな森の老杉古松の間に、直立せる巨竹が密生して、樹葉竹葉相交はつて、熱帶風な壯大の趣を呈してゐる。この蓊鬱裡に通ずる緩かな石段を上ると、もつと古い堂に達した。こ〻の門は、先きに私共が通つた堂々たる支那風の山門より小さいけれども、澤山の龍が刻まれて、驚くべく怪奇なものである。この種の龍――は、龍卷の風波の中から昇つて、またその中へ降つて行く、翼の生えた龍――は、最早今では彫刻家も刻まないし、また刻む方法をも忘れ果てたのである。左方の門扉の龍は、目を閉ぢ、口を閉ぢ、右方のそれは威嚇的な顎を開けてゐる。彼等は佛陀の二頭の獅子と同樣、雌雄の龍である。龍卷の渦(うづ)と波頭(なみがしら)は、星霜のため石の如く硬化した灰色の板から、際立つた浮彫となつて顯然露出してゐる。

 先きの方にある小堂には、別にこれといふ像は祀つてない。天竺からの佛舍利を藏してある。私は今しも不在の番人を探し當てるまで待てないので、それを見なかつた。

[やぶちゃん注:「小橋」現在、横須賀線線路を挟んだ位置にある左右対称の「白鷺池(びゃくろち)」、方形の池に架かる石橋「降魔橋(ごうまばし)」(但し、「新編相模國風土記稿」には「偃松橋(えんしょうばし)」とあり、こちらが本来の呼称らしい)。彼が訪れた明治二三(一八九〇)年の前年、明治二十二年六月に大船横須賀間が軍港への物資人員の輸送を主目的として開通、その際、強引に境内地へ線路が敷設されてしまった。ハーンはそれを描いていないのであるが、何となく腑に落ちる気がする。但し、恐らくは今の様に如何にも分断された感じの佇まいではなく、運行本数もごく少なかったと思われるから、ハーンの感覚を壊わしたり、気に障るようなものではなかったのかも知れない。

「大光明寶殿」円覚寺の仏殿の扁額。後光厳上皇宸筆。ハーンの入ったそれは関東大震災で倒壊、現在のものは、再建されたコンクリート製である。

「黑顏金衣の巨大なる釋迦」宝冠釈迦如来。華厳盧遮那仏(るしゃなぶつ)とも呼ぶ。脇侍は向かって右に梵天、左に帝釈天である。

「蓊鬱」「をううつ(おううつ)」と読み、草木が盛んに繁茂するさま。

「もつと古い堂」以下の門扉の描写から方丈であることが分かる。現行でも方丈の唐門には翼を持った飛龍が彫られてある。

「先きの方にある小堂」舎利殿。] 

 

Sec. 2

   The first great temple—En-gaku-ji—invites us to cross the canal by a little bridge facing its outward gate—a roofed gate with fine Chinese lines, but without carving. Passing it, we ascend a long, imposing succession of broad steps, leading up through a magnificent grove to a terrace, where we reach the second gate. This gate is a surprise; a stupendous structure of two stories—with huge sweeping curves of roof and enormous gables—antique, Chinese, magnificent. It is more than four hundred years old, but seems scarcely affected by the wearing of the centuries. The whole of the ponderous and complicated upper structure is sustained upon an open-work of round, plain pillars and cross-beams; the vast eaves are full of bird-nests; and the storm of twittering from the roofs is like a rushing of water. Immense the work is, and imposing in its aspect of settled power; but, in its way, it has great severity: there are no carvings,
no gargoyles, no dragons; and yet the maze of projecting timbers below the eaves will both excite and delude expectation, so strangely does it suggest the grotesqueries and fantasticalities of another art. You look everywhere for the heads of lions, elephants, dragons, and see only the four-angled ends of beams, and feel rather astonished than disappointed. The majesty of the edifice could not have been strengthened by any such carving.

   After the gate another long series of wide steps, and more trees, millennial, thick-shadowing, and then the terrace of the temple itself, with two beautiful stone lanterns (tōrō) at its entrance. The architecture of the temple resembles that of the gate, although on a lesser scale. Over the doors is a tablet with Chinese characters, signifying, 'Great, Pure, Clear, Shining Treasure.' But a heavy framework of wooden bars closes the sanctuary, and there is no one to let us in. Peering between the bars I see, in a sort of twilight, first a pavement of squares of marble, then an aisle of massive wooden pillars upholding the dim lofty roof, and at the farther end, between the pillars, Shaka, colossal, black-visaged, gold-robed, enthroned upon a giant lotus fully forty feet in circumference. At his right hand some white mysterious figure stands, holding an incense-box; at his left, another white figure is praying with clasped hands. Both are of superhuman stature. But it is too dark within the edifice to discern who they may be—whether disciples of the Buddha, or divinities, or figures of saints.

   Beyond this temple extends an immense grove of trees—ancient cedars and pines—with splendid bamboos thickly planted between them, rising perpendicularly as masts to mix their plumes with the foliage of the giants: the effect is tropical, magnificent. Through this shadowing, a flight of broad stone steps slant up gently to some yet older shrine. And ascending them we reach another portal, smaller than the imposing Chinese structure through which we already passed, but wonderful, weird, full of dragons, dragons of a form which sculptors no longer carve, which they have even forgotten how to make, winged dragons rising from a storm-whirl of waters or thereinto descending. The dragon upon the panel of the left gate has her mouth closed; the jaws of the dragon on the panel of the right gate are open and menacing. Female and male they are, like the lions of Buddha. And the whirls of the eddying water, and the crests of the billowing, stand out from the panel in astonishing boldness of relief, in loops and curlings of grey wood time-seasoned to the hardness of stone.

   The little temple beyond contains no celebrated image, but a shari only, or relic of Buddha, brought from India. And I cannot see it, having no time to wait
until the absent keeper of the shari can be found.

毛利梅園「梅園魚譜」 鬼頭魚(オニオコゼ)

 
 Oniokoze


 
鬼頭魚〔一種。〕鬼カサゴ。山神〔ヲコゼと云ふ。〕。

此の者、漁人、風雨(しけ)のつゞく時、兼ねて家にて

乾かして藏へ置き、其の時、取り出だし山神を祈り

て大猟の有ることを願ふ。山神を祭る

ことは風雨を晴らしめんが爲(ため)なり。魚商、

尤も、外に説をなす。非なり。

 

乙未十二月廿七日、倉橋氏より

之を送る。眞寫す。 

 

[やぶちゃん注:「梅園魚品図正」巻二より(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正の中の当該保護期間満了画像。下図のハコフグ既に電子化済み)。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(或いはオニオコゼ科 Synanceiidae )オニオコゼ亜科オニオコゼ Inimicus japonicus 。漢字では「鬼鰧」「鬼虎魚」、地方名では「アカオコゼ」(東京)、「オクジ」(秋田県男鹿)、「シラオコゼ」(小田原)、「ツチコオゼ」(和歌山県田辺)の他、「オコシ」「オコジョ」「オコオジン」「アカオコゼ」があり、一般的には単に「オコゼ」と呼ぶことが多い。関東以南の太平洋と新潟県以南の日本海及び東シナ海に分布する暖海性種。浅海性で生息範囲は沿岸の岩礁域から水深二百メートルの砂泥地まで広く棲息する。食性は肉食性で、底生性で通常はあまり泳ぎ回らず、海底に潜んで体色によって砂や石に擬態、知らずに近づいて来る小魚などを素早く捕食する。体色は黄色から赤紫褐色まで、不規則模様から模様のない単色のももまで多様な色彩変異を示す。頭部は縦扁し口は上向きにつき、体部は側扁する。体表は他のカサゴ類と同様に、疣状・房状の突起が発達し、特に頭部の凹凸が著しく、場合によっては皮膚が剥がれているかのようにも見える。体長は二十~二十五センチメートル程度であるが、最大長では二十九センチメートルに達する個体もある。背鰭は毒腺を備えた十六~十八本の棘条と五~八本の軟条で構成されるが、この毒腺は刺されると激しく痛む。旬は冬から春。私の好物で唐揚げにして余すところなく食え、非常に美味であるが、近年漁獲高が減少しており、高級魚扱いになりつつある。以上は、主に望月賢二氏の「魚の手帖」及びウィキオニオコゼに拠ったが、後者には『ヤマノカミという俗称は、本種の干物を山の神への供物にする風習があったことによる。山の神は不器量なうえ嫉妬深い女神で、醜いオコゼの顔を見ると、安心して静まるのだという』。南方熊楠は随筆「山神オコゼ魚を好むということ」でこのことに触れていて、『それによると和歌山県南部にはオコゼを山の神に奉って儲けた伝承が幾つか知られ、たとえば山奥で木を伐採したが川の水量が少なくて運べなかったとき、オコゼを奉ると大雨が降って運べるようになったという。日向地方では漁師が懐にオコゼを隠し持ち、『これを差し上げるのでイノシシを出してほしい』と願うと取れる。その後、同じ魚を持って同じように願うと、山の神はオコゼほしさに何度でもイノシシを出してくれるとも』いうとある。詳細は私の古い電子テクスト、南方熊楠山神オコゼ魚を好むということをお読み頂ければ幸いである。ここで梅園が「魚商、尤も、外に説をなす。非なり」というのは、熊楠が「舟師山神に風を禱るにこれを捧ぐ」以外に縷々述べているところの、多様な伝承(特に熊楠が詳しく述べている山の神を女神とするあまたの性的なニュアンスの部分であろうと推測される。この「非なり」という強い拒否に私はその雰囲気を強く感じるのである)を流言飛語の類いとして退けているものであろう。和名の「オコ」とは、容貌が痴(おこ)である――思わず笑い出してしまうほどに醜く滑稽なこと、形が奇っ怪極まりないことを意味し、「シ・ジ」や「セ・ゼ」は魚名語尾で、オニオコゼは「鬼の如く醜い容貌の魚」の意である。なお、「魚の手帖」で望月氏は本図について、『毒を持つ背棘(はいきょく)と棘間(きょくかん)の鰭膜(きまく)の切れ込み、凹凸のはげしい頭部の形状など本種の特徴がよく描かれている。しかし、背鰭(せびれ)と尾鰭(おびれ)の後部にあたる軟条はやや不正確のようである』とある。特に背鰭後部は独立した鰭の様に特異的に孤立して大きく、図は明らかに小さ過ぎる。

「乙未十二月廿七日」天保六年十二月二十七日で、グレゴリオ暦では一八三六年二月十三日である。

「倉橋」不詳乍ら、「鸚鵡螺」及びハコフグに出る倉橋(尚勝)なる人物と同一人物と思われる。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)

僕の得体の知れない不吉な塊を暫し忘れるため――カテゴリ「小泉八雲」を創始する。

孤独な私の愛する八雲――

その失われゆく日本の面影を日本人以上に愛おしんだ八雲――

最早、皆、忘れ去った「靈の國日本」を、誰よりも愛した八雲のために――

   *

 底本は国立国会図書館デジタルライブラリーの画像を視認した。まずは、同コレクション内の「小泉八雲全集第三巻」のパブリック・ドメインである落合貞三郎訳「知られぬ日本の面影」の「第四章 江ノ島巡禮」から始めることとする。これは、私が、二十歳の時に読み、激しく感動した章であったからであり、幼少期から馴染んだ「江の島」は、私の青春の忘れられぬ思い出の地であるからである。

 訳文の後に、“Project Gutenberg” “Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”の‘ Glimpses of unfamiliar japan ’のHTML版から、当該箇所の原文(必要と思われる原注は添えた。総ての注を示さなかったのは、有意な注は、日本の民俗を知らない読者へのものであるからであり、中には、ハーンが半可通で附した頭を傾げるようなものもあるからである。それは、後の小泉八雲に失礼となる、と思ったからでもある)を附した。但し、この電子化物は、原出版本(“Internet archive”のここで視認出来る)とは、体裁が異なる。本来なら、後者によって補正すべきであろうが、そうすると、恐ろしく時間が掛かるので、諦めた。それでも、気になった箇所は後者を参考に、修正してある。

 踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いで、横書には馴染まぬから、正字化し傍点「﹅」は太字とした。明らかな誤字は、概ね、注して、訂してある。禁欲的に注を附した。 

   *

 

    第四章 江ノ島巡禮

 

     

  鎌倉。

 樹木の生えた低丘の間に散在せる一つの長い村落。その中を一本の堀が通じてゐる。古い陰氣な、どつちつかずの色をした日本の田舍屋敷その板壁と障子の上には、勾配の急な草葺の屋根がある。屋根の斜面に行渡つて綠色の斑點がある。これは一種の草だ。屋根の頂上の背には屋根菖蒲が繁つて、綺麗な紫色の花が咲いてゐる。生温るい空氣の中に、酒の香、海草の汁の臭ひ、强い國產の大根の臭ひなど、さまざまの日本特有の臭氣が混じてゐる。して、一切のものに勝つて、芳ばしい濃厚な重い抹香のにほひがする。

 晃は私共の巡禮のために、二臺の人力車を雇つた。一片の雲なき蒼空が弓形に張つて、地は欣ばしい日光を浴びて輝いてゐる。しかし、私共が屋根に草の生えた、見すぼらしい家並の間を流れてゐる小川の岸を、車を走せて行くとき、一種の悲哀荒凉の感が私を壓しつけた。といふのは、この一つの廢村が、賴朝の古都、將軍の覇府――忽必烈の使節が貢獻を迫まりに來て、その無禮のために首を斬られた處――の殘つたすべてを代表してゐるから。して、甞て壯麗であつた都會の數へきれぬほどの寺院の中で、高い場所に建てられてゐたのか、或は大きな境內又は森のため、錯綜せる巷衢から離れてゐたので、十五世紀と十六世紀の大火を脫れて殘存するのが、僅かあるのみである。當年の囂々海潮音の如き繁華な部分のどよめきが、蛙の聲に代つた、淋しい田圃に圍まれて、參詣者もなく、收入もない廢頽せる社寺の閑寂裡に、まだ昔の神佛が住んでゐる。

[やぶちゃん注:「屋根菖蒲」私は、偶然だが、まさに二十歳の時、鎌倉の寺院の中で、最も愛する十二所(じゅうにそ)の光觸寺(こうそくじ)を二度目に訪れた時、寺へ向かう旧参道の左手にあった藁葺き屋根の上に見て、激しく感激した。私は、まだ、あの頃、おぼこな迂闊な青年だったが……。【2015年7月7日追記】本テキストをブログで公開した後、とても素敵なサイトを発見した。kanageohis1964氏の「地誌のはざまに」で、その『ラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を巡って(その1)』では驚きべき緻密さと引用傍証で、私が何となくスルーしてしまっていたハーンの円覚寺までの経路を美事に推定されているのである。彼の円覚寺以降の行程を見る限り、鎌倉駅から円覚寺を目指し、またしてもそこをバックして江の島に向ったとは流石に私も考えてはいなかったのであるが、彼が人力車を雇ったのが私の住まうところの大船停車場であったということに私は何故、思い至らなかったのであろう、と自身の不覚を改めて感じたのである。サイト主のおっしゃるように、この冒頭の「樹木の生えた低丘の間に散在せる一つの長い村落」、「その中を一本の堀が通じてゐる」情景、「勾配の急な草葺の屋根」を持った「古い陰氣な、どつちつかずの色をした日本の田舍屋敷」、「屋根の頂上の背」の「屋根菖蒲」の「綺麗な紫色の花」、そんな「見すぼらしい家並の間を流れてゐる小川の岸を、車を走せて行く」、するとそこに展開する「一つの廢村」の景が彼に「一種の悲哀荒凉の感」を抱かせる。今や「蛙の聲に」包まればかりの「淋しい田圃に圍まれて、參詣者もなく、收入もない廢頽せる社寺の閑寂裡」の鎌倉……これを装置として最も発揮させるのは、まさに離山(はなれやま)からの田圃(私の小学生時代は未だ田圃が随所に残っていたし、三十年前までは使われなくなった水田の用水池かと思しいところが如何にも場末の釣り堀としてまだあった)を抜けて行く小袋谷川沿いの鎌倉街道こそ相応しい。さらに穿って考えるならば、ここでハーンが「無禮のために首を斬られた處」と、妙に個別的で残酷な元使斬首の章句をわざわざ挿入したのは、同行した晃(次注参照)が、その辺りでまさに首を斬られた悲劇の青年木曽義高の話を語ったからではなかったろうか? などとさえ夢想してしまうのである(因みに、リンク先に埋め込まれてある今昔マップ」は、これも不覚にして、こちらで初めて知ったのであるが、これを見て思わず、私は快哉を叫んでしまった。何故なら、この地図を東にずらしてゆくと私の家のすぐ裏手、藤沢市渡内が見られるのであるが、そこには私が少年期に遊んだ幻の渡内の貯水池が確かに示されていたからなのである)。

「晃」眞鍋晃。「第一章 私の極東に於ける第一日」に登場する、横浜で初めて訪れた寺で出逢った若い修学僧で学生。これ以降、彼はハーンの奇特な通訳兼案内役として鎌倉・江ノ島を巡ることとなった。ウィキの「日本の面影」によれば、山田太一脚本の「日本の面影」のドラマでは、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会』したという設定になっている(但し、これが事実かどうかは私は検証していない)。第三章の「地藏」の「二」の冒頭でハーンは彼のことを、『愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髪は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える』とその美少年振りが描かれている(「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ)。そうした配役で、あなたの映像の中に登場して戴くように、敢えてここでは少し詳細に注した。

「忽必烈」原文を見て戴けば分かる通り、「クビライ」と読む。文永の役(文永一一(一二七四)年)の翌建治元年に元から降伏勧告の使者として来日した杜世忠ら五人の元使が執権北条時宗の命によって江の島龍ノ口の刑場で斬首されたことを指す。彼らの遺骸を埋め、それを弔ったのが「誰姿森(たがすのもり)」で、現在は藤沢市片瀬の常立寺(じょうりゅうじ)に「元使塚」としてある。

「巷衢」「かうく(こうく)」と読む。八街(やちまた)。ちまた。巷間。

「囂々」「がうがう(ごうごう)」と読む。喧しいさま。騒がしいさま。] 

 

Chapter  Four   A Pilgrimage to Enoshima

 

Sec. 1

   KAMAKURA.

   A long, straggling country village, between low wooded hills, with a canal passing through it. Old Japanese cottages, dingy, neutral-tinted, with roofs of thatch, 
very steeply sloping, above their wooden walls and paper shoji. Green patches on all the roof-slopes, some sort of grass; and on the very summits, on the ridges, luxurious growths of yaneshobu, [1] the roof-plant, bearing pretty purple flowers. In the lukewarm air a mingling of Japanese odours, smells of 
sake, smells of seaweed soup, smells of daikon, the strong native radish; and dominating all, a sweet, thick, heavy scent of incense,—incense from the shrines of gods.

   Akira has hired two jinricksha for our pilgrimage; a speckless azure sky arches the world; and the land lies glorified in a joy of sunshine. And yet a sense of 
melancholy, of desolation unspeakable, weighs upon me as we roll along the bank of the tiny stream, between the mouldering lines of wretched little homes with grass growing on their roofs. For this mouldering hamlet represents all that remains of the million-peopled streets of Yoritomo's capital, the mighty city 
of the Shogunate, the ancient seat of feudal power, whither came the envoys of Kublai Khan demanding tribute, to lose their heads for their temerity. And only 
some of the unnumbered temples of the once magnificent city now remain, saved from the conflagrations of the fifteenth and sixteenth centuries, doubtless 
because built in high places, or because isolated from the maze of burning streets by vast courts and groves. Here still dwell the ancient gods in the great silence of their decaying temples, without worshippers, without revenues, surrounded by desolations of rice-fields, where the chanting of frogs replaces the sea-like murmur of the city that was and is not.
 

 

1 Yane, 'roof'; shobu, 'sweet-flag' (Acorus calamus).

2015/06/16

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 乗鞍嶽行

 乗鞍嶽行

 

砂利採りが砂利にまぎれて木曽青し

 

鮎の底流木曽となる荒性見せ

 

[やぶちゃん注:この句、詠の対象は分かる気がするものの、どう切ってよいのか、私にはよく分からぬ。]

 

昼寝部落よ屋根にみな石重く

 

杏子熟れ落つ飛驒つ子の重瞼(おもまぶた)

 

青田豊年定紋頑(がん)と飛驒の倉

 

山のバス駿雨に合歓の紅の惨

 

緑山中下りがあつて車輪疾し

 

真つ昼の照燈霧の盲目バス

 

一燭のわが寝(い)に霧の窓をおき

 

いなびかり雪溪二重ガラスの外

 

靴に踏み固しもろしこれが雪溪

 

-瞬の日にも柔らぎ雪溪照る

 

雪溪に手袋ぬぎて何を得し

 

大雪溪太陽恋ひの顔あぐる

 

雪溪にひろふ昆虫の片翅を

 

蝶蜂の如雪溪に死なばと思ふ

 

残りて汚れて雪溪日曝し霧曝し

 

摂理の罅走る雪溪滅びのとき

 

霧の嶽上わが背に鳴るはわが翼

 

身伏せれば地ややぬくし霧押しくる

 

霧去つて魔王嶽南雪溪垂り
 

[やぶちゃん注:「魔王嶽」は乗鞍二十三峰の一つ魔王岳。標高二千七百六十メートル。]

 

死を遁れミルクは甘し炉はぬくし

 

炉にかはき額にかたまる霧の髪

 

   颱風に襲はれ山小屋に數日寵る。

 

青林檎の青さ孤絶の山小屋に

 

豪雨中雪溪真白(しんぱく)以て怺ふ

 

[やぶちゃん注:「怺ふ」は「こらふ」と読み、「堪(こら)ふ」に同じい。]

 

雪溪がごつそり瘦せて豪雨晴れ

 

登山荘煙吐き吐く我らこもり

 

   一行中七〇歳の老婆あり。

 

避難下山負はれて老いの顔高く

 

いまは花野決壊の傷天に懸け

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三三(一九五八)年七月の条に(十八日以降)、『「流域」の松山利彦に誘われて乗鞍嶽に登る。誓子、利彦ら同行。高山で一泊し、翌朝三千米級の乗鞍三兆近くまで到着。借用の登山服、登山靴で、生まれて初めて雪渓を踏み感激する。乗鞍での二日目に台風に遭う。道路決壊し、下山路は途絶。下山不能。山上の山小屋で缶づめとなる。心臓発作おこる。新聞に「病人一人出る。」と出たが、多佳子のことであった。三日後、平湯山嶽部員やリーダーの松井利彦の力により、ザイルを伝い、六里』(凡そ二十四キロメートル弱)『の道を歩いて平湯に下りる。美濃白鳥、郡上八幡を経て岐阜に出』た、とある。当時、多佳子五十九歳。かなりハードな経験である。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 祇園祭

  祇園祭

 

白炎天鉾の切尖深く許し

 

太鼓の音とびだす祇園囃子より

 

鉾の稚児袖あげ舞ひて衣裳勝ち

 

炎天の眼に漲りて鉾の紅

 

眼前の鉾の絢爛過ぎゆくもの

 

鉾の後姿コブラン皇妃灼け放題

 

地車止り祇園囃子のとどこほる

 

鉾曲る前輪ぎぎと挺子を嚙み

 

鉾過ぎし炎天架線工夫吊り

 

帰り山車(やま)走せて徒足(かちあし)脛揃ひ

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三三(一九五八)年七月の条に、『十三日、京都祇園の八坂神社の祭礼である祇園会に行き、宵山を見る。翌十七日に山鉾の巡行を見る』とある。私は祇園祭を見たことがないが、とあるテレビ番組で如何にも古いゴブラン織りのタペストリーが山鉾の装飾にあるのを見たことがあった。今回、調べて見ると、く~にゃん氏のブログ「く~にゃん雑記帳」の<祇園祭㊤> 豪華な懸装品 400年前のベルギー製タペストリーも!の記事によって、ベルギーのフランドル地方で凡そ四百年も前に製作されたものらしいことが分かった。しかもそれは伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団の支倉常長が、一六一五(慶長二〇)年一月に謁見したローマ教皇パウロ五世から下賜された五枚の内の三枚が裁断されて使用されているのではないかといわれているとあった。リンク先では写真も見られる。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 岩山

 岩山

 

岩山を蝶越ゆ吾も幸福追ふ

 

薄明界味は眼よりも翅信じ

 

草あらし香を奪はれて百合おとろふ

 

濃夕焼泥田をいでず泥夫婦

 

囲の蝶のもがきに蜘妹のともゆれる

 

蚋入りしわが涙眼のたしかに醜

 

菖蒲園かがむうしろも花暮れて

 

万緑の中層々と贋アカシア

 

梅雨泥の靴裏汝(なれ)の寝つづかしめ

 

西日の仮睡汝の荷汝をかばひ

 

森いでて女(め)たる隠さず新毛鹿(あらげじか)

 

穂草八方いづこかに仔鹿が隠れ

 

袋角脈々と血の管通ふ

 

農婦帰る青田をいでて青田中

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 蝶の翅

 蝶の翅

 

蝶の翅ひたひた粗朶の永乾き

 

桃桜野良ごゑ出せば胴ひびき

 

負ひ帰る海髪(うご)の滴り濡れついで

 

[やぶちゃん注:「海髪」紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ Gracilaria vermiculophylla 。当初、実際の海女の髪を言っていると面白いとちらと思ったが、それでは季語が隠れるし、負って帰るのはやはり、絡みついた海髪(おごのり)であろう。]

 

四方風樹仔雀を地に置放し

 

風騒ぐ緑蔭の幹背を凭せ

 

潮出づる海女がぴつたり肉つつみ

 

   御木本養殖真珠工場

 

うつうつと母貝の醜(しこ)蓋核入れ後

 

[やぶちゃん注:下五は音数律なら「かくいれご」だろうが、私はどうも「かくいれ/のち」と読みたい気がする。]

北條九代記 卷第七 御臺卒去 付 明石の神子

      ○御臺卒去 付 明石の神子

將軍家の御臺所、日比、御心地惱み給ひしが、七月二十六日、御産所を點じて、相摸守時房の第に移り給ふ。その夜の子刻より、御産の氣(け)、付かせ給ふ。廷尉(ていゐ)定員(さだかず)、鳴弦(めいげん)を催す。役人十員(ゐん)、参向(さんかう)す。隱婆(おんば)参りて、「御産は平安なるべし、時刻は明日にて候はん」と申す。醫師、陰陽師(おんやうじ)集ひて、「御脈、快らず。御兆(おんうらかた)、思(おもは)しからす」と、申すに依(よつ)て、手を握り、足を空(そら)になし、如何(いかゞ)あらんと、騷ぎ合へり。鎌倉町(まち)の末(すゑ)に、明石(あかし)の神子(みこ)とて、祈(いのり)に感應(かんおう)あり。是を召せとて、召れたり。年の程六十餘(あまり)なる古神子(ふるみこ)にて、御産の事を、問(とは)しめらるゝに、如何(いか)にも平安なる由を申す。さらば、神下(かみおろし)して祈り奉らんとて、幤(へい)、切竝(きりなら)べ、燈明挑(かゝ)げ、梓(あづさ)の弦打(つるうち)鳴(なら)し、目を塞(ふさ)ぎて、唱出(となへい)でたる事を聞くに、「敬(うたまつ)て申す。東の方には東方朔(とうばうさく)、南のかたには南方朔(なんばうさく)、西に西方朔(さいはうさく)、北に北方朔(ほくはうさく)、中方朔(ちうはうさく)、下方朔(げばうさく)、上方朔(じやうはうさく)を驚かし奉る」といひたりけるに、「あら拙(つた)なの事や、東方朔は一人の名にて、太白星(たいはくせい)の化身とこそ云ふなれ、方々に多き方朔(はうさく)かな」とて、相模守、笑壺(ゑつぼ)に入り給ひしかば、座にありける人々、苦々しき中にも可笑しくて、笑はれしに、この神子、恥(はづかし)くや思ひけん。打捨てて歸りにけり。その夜の寅刻、御産はありけれども。死胎(したい)なりき。御臺所は身心惱亂し、後には夢中の如くにして、辰刻計(ばかり)に遂に卒(ことをは)らせ給ひけり。、御年三十二歳とぞ聞えし。力及ばず、送葬(そうさう)營みて、法華堂の山際に埋(うづ)み奉り、中陰の御佛事、其終の日は、五十口(く)の僧を請じて由比浦(ゆひのうら)にして、水陸(すゐろく)の供養をぞ遂げられたる。殿中、何となく打潛(うちひそま)りて、もの淋くぞ覺えける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福二(一二三四)年七月二十六日・二十七日の条に基づくが(今回は最初の竹御所の注に出した)、記事は淡々として簡潔で、明石の神子の話は「吾妻鏡」には全く載らず、この情報元もよく知らない。識者の御教授を乞うものであるが、なんとなくこれ、近世創作になる落とし噺臭い気がするのだが。

「將軍家の御臺所」竹御所(建仁二年(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は源頼家の娘、鞠子(または媄子(よしこ)とも)。母は比企能員の娘若狭局(「尊卑分脈」では木曽義仲の娘とする)。二歳で比企能員の変が起こり、父頼家は後、修善寺で暗殺されるが、建保四(一二一六)年に祖母政子の命によって、十四歳で叔父源実朝の正室信子の猶子となった。参照したウィキの「竹御所」によれば、『他の頼家の子が、幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子死去後、その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として、御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした』とある。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。『夫婦仲は円満であったと伝えられる』。その四年後の天福二(一二三四)年三月に懐妊し、『頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせるが、難産の末、男子を死産、』竹御所自身も、重い妊娠中毒症と思われる少症状で同時に亡くなってしまう(享年三十三。以下に記す「吾妻鏡」では何故か「三十二」とする)。この『竹御所の死により源頼朝の血筋は完全に断絶』することになった。彼女の墳墓は比企一族滅亡の地にしてその菩提を弔う妙本寺にあるが、これについて植田孟縉の「鎌倉攬勝考卷之七」の「妙本寺」の「祖師堂」の条には、本堂の北にある祖師堂(法華堂。本「北條九代記」本文の「法華堂」もここであるので、頼朝の法華堂と誤認されぬように)の由来を記して、

   *

賴經將軍の御臺所は、能員の外孫ゆへ、大學三郎、老後御免を蒙り鎌倉へ下り、竹の御所の御爲に、比企谷に法華堂を建立し、僧を集めて持經し、法名を日學といひ妙本と號す。後に寺の名とす。

   *

とある。また、「鎌倉攬勝考卷之の「竹乃御所の舊跡」には、

   *

先年御産所を點じて、營作し給ひし。賴家卿の姫君にして、賴經將軍の御臺所のすみ給ふ殿舍也。此姫君も比企能員が外孫なるゆへ、此所はもと能員が舊跡なるに依て、此所に設給ひしにや。安貞二年正月廿三日、將軍家〔賴經。〕入御、夜に入て還御といふ。此舊跡、今は妙本寺堺内北寄にて、寺の墳墓の地となれり。

   *

と記す。但し、間違ってはいけないのは、この「竹乃御所の舊跡」の「吾妻鏡」の安貞二(一二二八)年一月の引用記事は、前二項とは異なり、出産時のことではなく、また、「竹御所」も人ではなく、後の法華堂の位置にあったと推定される彼女個人の住居への渡御を記していることである。以下、「吾妻鏡」から引用しておく。

   *

廿三日丁酉。霽。午尅。將軍家入御竹御所。御狩衣。御乘輿也。越後守。駿河守已下數輩供奉。武州豫被候于儲御所。入夜還御云々。

廿三日丁酉。霽。午の尅、將軍家、竹御所に入御。御狩衣、御乘輿なり。越後守、駿河守已下の數輩、供奉す。武州、豫め儲けの御所に候ぜらる。夜に入りて還御と云々。

   *

ここで誤読し易いのは植田が冒頭で、この比企ヶ谷にある「竹の御所」を、あたかも懐妊する以前にあらかじめ占って、早々と建てられた産所のように記しているからであるが、これは誤りである。何故なら、竹御所の出産は別な場所、北条時房(以下の「吾妻鏡」の『相州』)の屋敷で天福二(一二三四)年に行われているからである。以下、該当箇所を引く(供奉の名簿は省略した)。

   *

七月小廿六日癸亥。御臺所令移御産所〔相州第。〕供奉人々數輩。渡御相州亭之後。及子剋有御産氣。廷尉定員催鳴弦役人。十人參進。〔各白直垂。立烏帽子。〕

天福二年七月小廿六日癸亥。御臺所御産所〔相州の第。〕へ移らしむ。供奉の人々數輩。相州が亭へ渡御の後、子の剋に及び御産氣有り。廷尉定員(さだかず)、鳴弦の役人を催す。十人參進す〔 各々、白の直垂、立烏帽子。〕。

   *

北条時房邸は現在、神奈川県鎌倉市雪ノ下一丁目二七三番に同定されている。若宮大路の西側で鶴ヶ岡八幡宮に近い位置で、妙本寺からは有意に離れている。参考までに以下、「吾妻鏡」の翌日の竹御所の出産・逝去の当該箇所を引いておく。

   *

七日甲子。寅剋御産。〔兒死而生給。〕御加持辨僧正定豪云々。御産以後御惱乱。辰剋遷化。〔御歳卅二。〕是正治將軍姫君也。

廿七日甲子。寅剋御産。〔兒ちご、死して生れ給ふ。〕御加持、辨僧正定豪と云々。御産以後、御惱乱。辰の剋、遷化す。〔御歳卅二。〕是れ、正治將軍が姫君なり。

   *

最後にある「正治將軍」とは頼家のこと。幸薄い、しかし忘れ難い、もう一つの鎌倉時代史の中の女人である。

「子刻」午前零時。

「隱婆」産婆。この呼称の元は老女の鬼神・守護神であるオンバサマ信仰(乳母・姥)に基づく多様な「とりあげばば」が濫觴であろう。

「廷尉定員」藤原定員(生没年未詳)。将軍頼経に京都から随従した近臣で、将軍御所を奉行した。後の寛元四(一二四六)年の宮騒動で執権北条時頼の許へ弁明の使者となって参ったが失敗、安達義景へお預けとなって出家させられた。「廷尉」は検非違使の佐 (すけ) 及び尉 (じょう) の唐名。辞書記載では兵庫頭とあるから、これは当時の官位であろう。

「快らず」「よからず」と読む。

「東方朔」前漢の文人東方朔(とうぼう さく 紀元前一五四年頃~紀元前九三年頃)。字(あざな)は曼倩(まんせん)。武帝の側近として仕えた。奇言奇行で知られ、後世に於いては仙人的存在とされ、西王母の植えた桃の実を盗んで食べた結果、八千年の寿命を得たなどといった伝承が残る。著作に「答客難」「非有先生論」など。

「太白星」太白金星。金星の異称。及び、その運行を司るとされる仙人。

「寅刻」午前四時頃。

「辰刻」午前八時頃。

「中陰」中有(ちゅうう)に同じい。一つの生が経る四つの段階を指す四有(しう)の一つで、人の死後に次の生を受けるまでの間の状態。また、その期間。本邦では四十九日間とする。因みに四有とは、生命の出現する瞬間である生有(しょうう)・生存している状態である本有(ほんぬ)・死ぬ瞬間である死有(しう)と中有である。なお、「吾妻鏡」はこの四十九日のあった九月の部分が欠損している。竹の御所……やはり何か、淋しい……

「水陸の供養」施餓鬼のこと。狭義には、死後、特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指すが、広義には施す対象を三界万霊十方至聖ともする。

「殿中、何となく打潛りて、もの淋くぞ覺えける」……やっぱり……幸薄い……竹の御所……]

神田玄泉「日東魚譜」 鰕姑(シャコ)

 
 Ng_syako
 
鰕姑〔漳州府志〕

釈名青龍〔同上〕志夜姑

〔和名〕鰕姑之誤稱也南

産志云開元遺事載

其名狀如蜈蚣尾如

僧帽泉州人謂之青

龍〔閩書〕氣味甘温小毒

主治益氣壯陽道多

食令人瀉下此邦人

以爲下品也

[やぶちゃん字注:以下は図の上部にある異名羅列。]

 シヤコ

 シヤク

 シヤツハ

やぶちゃんの書き下し文(本文のみ)

鰕姑〔「漳州府志(しようしうふし)」。〕

釈名 青龍〔同上。〕。志夜姑(シヤコ)〔和名。〕。鰕姑の誤稱なり。「南産志」に云はく、『「開元遺事」に其の名を載す。狀(かたち)、蜈蚣(むかで)のごとく、尾は僧帽(さうばう)のごとし。泉州の人之れを青龍と謂ふ。』と〔「閩書(びんしよ)」。〕。

氣味 甘温、小毒。

主治 氣を益し、陽道を壯す。多く食はば、人をして瀉下(しやか)せしむ。此の邦の人、以つて下品と爲すなり。

[やぶちゃん注:節足動物門甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ属シャコ Oratosquilla oratoria(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクション「日東魚譜」の保護期間満了画像)。ウィキの「シャコ」より引く。『外見は同じ甲殻類であるエビ類に似ているが、エビ類はカニ類その他とともに真軟甲亜綱という別亜綱に属し、両者の類縁関係はかなり遠い』。体長は十二~十五センチメートル前後で、『体型は細長い筒状で腹部はやや扁平。頭部から胸部はやや小さく、腹部の方が大きく発達する。 頭部先端には二対の触角とよく発達した複眼が突き出す。 付属肢にエビ・カニのような鋏を持たず』、六~七個の『トゲがある特徴的な』一対の『鎌のような捕脚を持つ(英名のmantis shrimp=カマキリエビの由来でもある)』。 歩脚は三対、『腹部には遊泳脚があり、また背甲左右の辺縁に短いトゲを持つほか、尾節には鋭いトゲのある尾扇を持つ』。『北海道以南の内湾や内海の砂泥底に生息し、海底の砂や泥に坑道を掘って生活する。 肉食性で、他の甲殻類や魚類、イソメ、ゴカイなどの多毛類、貝類などを強大な捕脚を用い捕食する。この捕脚による攻撃は打撃を伴う強力なもので、カニの甲羅や貝殻を叩き割って捕食するほか、天敵からの防御や威嚇にも用いられる。 また、飼育下においても捕脚の打撃で水槽のガラスにヒビが入ることがある』。『環境の変化に強く、一時東京湾の汚染が進んだ時期には「東京湾最後の生物になるだろう」といわれていたこともあった』。食材としては、『エビよりもアッサリとした味と食感を持つ。旬は産卵期である春から初夏。秋は身持ちがよい(傷みにくい)。日本では、新鮮なうちにゆで、ハサミで殻を切り開いて剥き、寿司ダネとすることが最も多い。捕脚肢の肉は「シャコツメ」と呼ばれ、軍艦巻きなどにして食べられることが多く、一尾から数量しか取れない珍味。産地では、塩ゆでにして手で剥いて食べたり、から揚げにすることが多い。産卵期の卵巣はカツブシと呼ばれて珍重されるため、メスのほうが値段が高い。また、ごく新鮮なうちに刺身として生食する場合もある。香港では、日本のものよりも大振りなものが多いが、素揚げにしてから、ニンニク、唐辛子、塩で味付けして炒める「椒鹽瀬尿蝦 ジウイム・ライニウハー」(広東語)という料理が一般的である』。『シャコは死後時間が経つと、殻の下で酵素(本来は脱皮時に使われる)が分泌され、自らの身を溶かしてしまう。そのため、全体サイズの割に中身が痩せてしまっていることも多い。これを防ぐには、新鮮なうちに茹でるなどして調理してしまうことである。 活きた新鮮なシャコは珍重されるが、勢いよく暴れる上に棘が多いため、調理時に手に刺さる場合があるので取り扱いには注意が必要である』とある。私は十二の時に富山県高岡市に転居したが、春、近くの氷見の雨晴海岸にシャコが山のように積み上げられて干乾びて死んでいた。傍にいた漁師に聴くと、「網を破る役立たずの外道で、ここらじゃ、食わんわ」と言われ、寿司の蝦蛄好きである私は大いに驚いたことを記憶している。あちらでは確かに寿司屋に行っても蝦蛄は置いていない店も多かったようである。因みに、私らの子どもの頃、みんなシャコが好きだったのは、アナゴの様に甘いタレをつけること以上に、寿司ネタの中でも当時は多量に捕獲され、子どもの好きな海老よりも遙かに安かったことから、親も、シャコの方が美味しいよと勧めたからではなかろうか、と秘かに親の経済戦略を疑ってはいる。現在は漁獲高が減衰し、処理も面倒なことから、高級ネタになりつつあるようだ。

「漳州府志」清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

「青龍」本邦の辞書類ではシャコに「青竜蝦」と漢字を当てているが、現代中国語では「口蝦蛄」が一般的なようだ。

「鰕姑の誤稱」と玄泉は一刀両断するが、例えば人見必大の「本朝食鑑」では「石楠花鰕(しゃくなげえび)」で項立てして、『色、石楠花のごとし。故に海西、俗に石楠花鰕(しやくなげえび)と名づく。是れも亦、石楠の略号であろうか』と述べている。私は二次的な派生も射程に入れて、人見の見解を指示する。

「南産志」「閩書南産志」。明の何喬遠撰になる福建省の地誌。後の「閩書」も同じ。

「開元遺事」「開元天宝遺事」。盛唐の栄華を伝える遺聞を集めた書で、王仁裕撰。後唐の荘宗の時、秦州節度判官となった彼が長安に於いて民間の故事を採集、百五十九条に纏めたものとする。

「僧帽」中国で僧やラマ僧の被った帽子。例えば中文サイト「典藏臺灣」の「僧帽(喇嘛帽)」の写真を見て戴くと、この比喩が如何に正しいかということがお分かり頂けるであろう。

「泉州」福建省の旧閩州のさらに古い称。

「甘温、小毒」「本草食鑑」は無毒とし、蛮人は油に漬け膏薬となし、外科医はこれを用いて腫れ物の膿に処置するが、そこから考えるとその『性は、温か』と帰納している。

「瀉下」下痢。

「シヤク」現在でも徳島県阿南市でかく呼称する。

「シヤツハ」現行でも広域で「シャッパ」と呼ぶ。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 東京大学観象台

 先夜数名の朝鮮人が、彼等の監督ダン氏と一緒に天文観測所へ来た。私は団体としての彼等に紹介されたが、彼等は即座にお辞儀をして名刺を出し、我我は交換を行った。朝鮮人達は彼等が見たものに大きに興味を持ったらしく、また中々立派な人達であった。彼等の衣服は絹で出来ていて、日本服よりも支那服に近い。耳の後でリボンで結び、それを前に長く垂らした彼等の帽子は、蚊帳の布でつくった様に見えるが、実は馬の毛で出来ているので、その内に結び玉にした頭髪が見えた。彼等の言葉は、日本語と支部語の合の子みたいであった。私は、彼等と日本人の通訳を通じて話をしたが、この通訳が英語を知らぬので、先ずダン氏に英語で話し、ダン氏がそれを日本語に訳し、そこで通訳がそれを朝鮮語に直した。私はまた私の限られた日本語の知識を以て、直接彼等と話をした。彼等もここに住んでいる間に、私と同じ位の日本語を聞き囓っていたからである。出て行く時、彼等は懇(ねんごろ)に握手をした。

[やぶちゃん注:「彼等の監督ダン氏」原文は“Mr. Dan, who had them in charge”。彼は朝鮮人と思われるが、不詳。因みに、当時は李氏朝鮮で、この翌月の一八八二年七月二十三日には、興宣大院君らの煽動を受けて朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や日本人軍事顧問及び日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた壬午(じんご)事変が起きている。]

 
 

M621

621

M622

622

 

 図621は観測所の小便と彼のお神さんとが住む家の、粗末な写生図である。私の部屋(図622)は約十二フィート四方で、その中に私は二人用の寝台一台と、大鞄二個と、机一台と、衣裳戸棚二台と、椅子二脚と、手水台一台とを持っている。衣裳戸棚は陶器や本や紙類やで完全に覆われている。これを以て、如何に私がゴタゴタした内にいるか想像出来ようが、而も私はいろいろな物を、文字通り手の届く範囲内に置くことが好きなのである。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の二七二頁に『理科会粋』(第三帙第一冊・明治一三(一八八〇)年)に載る「東京大学観象台」の画像を以下に示す(昭和三一(一九六七)年の著作権法改正以前は「発表又は制作後十年間」とされているため、一九六七年以前の写真は著作権は満了しており、描かれた絵図を単に平面的に撮影したものに著作権は生じないというのが文化庁の見解であるから、本画像(元が絵であっても五十年の満了を過ぎている)の使用は著作権に抵触しない)。

 

Toudaikansyoudai1880

 

モースの描いた家屋が右手にあるのが分かる。磯野先生の解説によれば、その更に右手奥にスロープ状の屋根が半分見えているのが職員官舎で、モースはここに滞在した。

「十二フィート四方」約三・七メートル四方。]

2015/06/15

690000アクセス突破記念 火野葦平 傳令

つい先程、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、690000アクセスを突破した、その記念として何時もの通り、火野葦平の「河童曼荼羅」から記念テクストとして「傳令」を公開する。【2015年6月15日 藪野直史】



   傳令

 

 大して降るとも思はなかつたが、山で雨にあふのは困るので、ともかく傘を持つて出た。以前はちよつと雨が降ると、すぐにぬかるみ、ずるずるととって困る赤土道だつたが、いまは三間幅の登山道がついてゐて、道は樂である。

 高塔山(たかたふやま)は海拔四百尺、丘陵のちよつと氣のきいた程度だが、(同じ丘陵でも私の行つたことのある印緬國境のチン丘陵(ヒル)は最高峰ケネデ・ピイクが八八七二呎)それでも登るにしたがつて、眼下にしだいに獨特な眺望がひらける。西日本の心臟といはれる工業地帶、洞海灣(どうかいわん)を圍繞(ゐねう)して隣接する三つの都市、八幡製鐡をはじめとする多くの工場、會社、林立する煙突、巨大な鋼鐵の昆蟲のやうにならぶ沿岸の炭積設備、棧橋、貯炭と雜貨の山、海上に浮かび、往來する大小の船舶、密林のやうな檣(ほばしら)をつらねる無數の帆船、モーターボート、サンパン、さまざまの音、煙、色、それは煮えたぎる釜にもたとへられる賑やかさであるが、その一帶は一年中晴れることもない煤煙(ばいえん)によつて掩はれてゐる。すこしばかり前までは、これらの風景について語ることはきぴしい法度(はつと)であつた。要塞地帶を守る軍機はこの地方の人人に籍口令(かんこうれい)を布(し)いてゐたのである。いまはなにを語るも自由になつたけれども、この風景を紬敍することがいまは目的ではないので、まづこれ位にするが、要するに屈折した登山道を頂上に近づくにしたがつて、この近代的な機械文明の壯大な展望がしだいに眼下にひらけて來たのだ。雨は降りみ降らずみで、私はなんども傘をさしたり、たたんだりした。

 私の用件といふのは、高塔山の開墾地につくつた馬鈴薯や南瓜(かぼちや)が大部分、昨夜なにものかに盜まれたといふ報せによつて、その檢分といふ、あまり愉快でない用向であつた。年老いた母が曲つた腰をおこすやうにして、さいきんの食糧事情突破のために植ゑつくつたものを、半(なかば)以上も盜んだ者があり、母は、ひどい雨にうたれながら、この年よりのつくつたものを、と涙をためてゐた。尤も、この野荒しは近ごろでは毎夜のことで、數件の盜難をきかぬ日とてなかつた。新聞は毎朝これらの事件を報道してゐた。山の隣組の自警團で、嫌疑者を二人ほど捕へてゐるとのことで、私は母に賴まれて出かけたのだ。

 頂上が近くなるころ、私はさつきからどうも氣になつてゐた妙な音、――足音のやうなものがいつそう氣になりはじめた。たれかが、ちやうど滯れた草履をぴたぴたと鳴らして歩くやうな音がうしろでしたり、前でしたりするのだが、山を登る者は私ひとりで、どこにも人の氣配はなかつた。知らせてくれたのがおそかつたので、私の登山はもうたそがれに近かつたが、まだ、暗くて見わけがたいといふ時刻でもない。耳か氣の迷ひかと思つてみるけれども、終始、私と同じ方向にその足音がきこえ、ときに、なにかばさばさと木の葉でも鳴るやうな音がまじつたり、呼吸か、咳(せき)か、そんな音さへきこえることがあつた。ふつと、魚のやうな生ぐきいにほひが鼻をつくこともあつた。姿は見えないけれども、たれか、――なにかわからないが、私のそばを歩いてゐることはもう疑ふ餘地がなくなつた。さすれば、まことに不氣味な話で、幽靈か、妖怪か、狐か、狸か、なにかさういふ類(たぐひ)のものと私は同行してゐるわけになる。しかしながら、そのとき、私はさらに恐怖心などはおこらず、ははあと日を操つてみて、徴笑をふくんでうなづいたのである。月の二十五日、その日に、河童の傳令が地藏の釘をしらべに行くことは、もとより私の熟知するところであつた。

 案の定、河童は向かふから話しかけて來た。私が河童のまたとなき理解者であり、友人であることは、すべての河童の知るところである。うしろの方にきこえてゐた足音が、私の左側に來て寄りそひながら、

「葦平さん、どちらにお越しですか」

 ペちペちと皿をはじくやうな聲が、足もとからおこつた。足もとでなく、もつと上だつたらうが、それは河童がきはめて小柄だといふことを明らかにした。

「母親にたのまれて野荒しをしらべに行くのだよ。……君は、釘を見に行くのだね」

「さうです。今年で、わたしになつてから、三十八囘目なのですが、……」

「どうなつてゐるかね? 僕もしばらく見ないのだが、……」

「先月は駄目だつたんですが、今月も、また、多分…‥」

  終りの方の聲が落ちたのをきいて、失望の面持を浮かべたことが想像されたが、河童の姿が見えないので、どんな顏をしたかはわからなかつた。それにしても、このとき、もし通る人があつたならば、空間にむかつてひとりごとをいふ私をどう思ふであらうか。おそらく氣がふれたもののやうに見るにちがひない。

「でも、行つてみなければわからないね」

 と、私は慰めるやうに、勇氣をつけた。實はその結果はいはずして知つてゐたのであるが。

「はあ、さうです。行つてみねば、……」

 河童は失意と不安のうらにも、いくらかの希望をまじへた聲をだした。

 話しながら、やがて、私たらは山頂に達した。ここはもと鬱蒼たる森林で、數十本の松が聳えたち、遠望すると、この一部分だけ帽子をかぶつたやうにみえて、よい目標になつてゐたのだが、いまは切りひらかれて公園になり、媒煙と玄海灘の風との兩方に荒された松林は、大半が枯れはてて、あたかも拔け落らた後にまばらに殘つた老人の齒のやうに、いまは數本のひよろ高い松が、それも枯れかかつて立つてゐるにすぎなかつた。ここへ來ると、この町の裏側になる玄海灘は一望の下にあつて、水天につらなる縹渺(へうべう)たる海洋、これに配されたいくつかの島々、うねりまがつて光る白砂の汀(みぎは)、表側の近代的相貌とはまつたく對蹠的な悠久の自然の風丯(ふうぼう)が眺められた。

 この墓地の北端に一基のささやかな堂宇がある。觀音びらきの表格子があいてゐて、たそがれのうすい光のなかにも、赤前垂をかけた石地藏が白く浮いて見えた。

 ひよつくり、私の前に、一匹の河童の姿があらはれた。足もとから聲がきこえたくらゐ小柄な河童で、手には一枚のひろい蓮の葉を持つてゐた。これまで、その蓮の葉を頭にかぶつてゐたので、姿が見えなかつたのである。たそがれの薄あかりに、濡れてゐる靑い河童の肌が光り、背の甲羅は松の幹に似てゐた。頭の皿はにぶく空の色をうつしてゐた。細いくりくりした眼で、堂の方を見てゐたが、ちよつとためらつたのち、ちよこらよこ堂の方へ歩いて行つた。私は河童の用件をよく知つてゐたので、とりたててなにもきかず、お堂のなかへ入つた河童の出て來るのを待つた。好奇心からいへばいつしよに石地藏の釘を見に行くのも興味があつたのであるが、その結果がよくわかつてゐたので、さしひかへたのである。うすぐらい堂のなかに消えた河童は、石地藏のうしろに廻つたので、その姿がわからなくなつた。

 私は前に「石と釘」といふ一章を書いたので、讀んでくれた人は、私が河童と同行してからの以上の部分を、ただちに理解されるであらう。昔、堂丸總學(だうまるそうがく)といふ山伏の法力のために、このあたりの多くの河童が地中に封じこめられた。總學はこの堂に來て、石地藏の前に端坐し、不眠不休不食の難行ののち、願望成就して、石地藏を豆腐のごとく柔かくし、背に一尺ほどの釘をうちこんだのである。このために、山伏も絶命したが、河童もことごとく地中に封じこめられた。二度と陽の目を仰ぐことのできるのは、地藏の背から釘が拔かれたときである。地中の河童たちはいまは暗黑の地底にとぢこめられて、その釘の拔け落ちる日を唯一の生き甲斐として待望してゐる。傳説の掟にしたがつて、月に一同、二十五日に、その釘を見に行く一匹の河童のみが、地上に出ることを許された。さうして、そのとき以來、毎月缺かさず、釘を見るために、河童が登山して來るのである。

 堂のなかから、河童が出て來た。私の思つたとほり、彼の顏は失望の色をたたへてゐて、まだ釘が拔けてゐないことはきいてみるまでもなかつた。かれはなにか呆けたやうな顏になつてあたりを見まはしてゐたが、私の足下にある小さな石にちよこんと腰をおろした。そのしよんぼりとした姿は奇妙にさびしさうで、哀れをもよほさせるものがあつた。

 私もかれと向かひあつて、たふれた杉の幹に腰かけた。すこし濡れてゐて、つめたさがズボンを透して尻にしみた。あたりはだいぶん暗くなつてゐた。

「もう、秋になりますね」

 小柄であるが、河童はべつだん子供であるわけでもなく、さういふしんみりした言葉つきはどこか年よりじみてもきこえた。といつて、ぢぢむさくもなく、河童の年恰好など私にはちよつとわかりかねた。

「秋だね」

 その聲が合圖のやうに、高い杉の梢で、つくつく法師が鳴きはじめた。

 河童は一口呟(つぶや)くやうにいつたきり、眼下の喧騷にうつろな瞳をおとしてゐた。この科學の粹をつくした、機械仕掛に滿たされた近代的な風景を見る傳説の動物の顏には、なにか當惑したやうな色があらはれてゐた。

「どうだね、釘は?」

 私はすこし意地惡な氣をおこしてきいてみた。

「駄目なんです。赤錆がくつついて、來るたびに、ふかく入りこんでゐるやうな氣がするんです」

 しかし、その表情は絶望的ではなくして、いつかはかならず釘の拔け落ちる日があるといふことを期待してゐるやうな強靭なものが感じられた。私はそれはまつたく不可能のやうに思つてゐるのだが、かれはなにか期するところがあるのであらうか。

「妙なもんだね」と私は微笑をふくんで、「僕はこれから、野荒しをしらべに行くんだが、昔の野荒しとよくもかう變つたもんだね。むろん、君だつて知つてゐる筈だが、昔はここは河童が多くてね、土地柄が川筋で氣が荒いもんだから、河童もやつばり殺伐で、よく喧嘩をやつたもんだ。島郷軍と二島(ふたじま)軍とに別れてね、繩張り爭ひなんだ。空をとびまはつて合戰をやつたらしい。ところが、その死んだのが、どろどろの靑苔になつて溶けるので、このあたりの農作物はめちやめちやになつたんだ。百姓が困つたんだ。野荒しにはちがひないが、いまの泥棒とはまつたく趣を異にしてるんだね。僕もまだ生まれぬさきの昔ばなしで、母親からきいたんだが、そのために飢饉になるやうな騷ぎをしたこともあるさうだよ」

 話してゐるうちに私は奇妙なことに氣づいた。私は昔話としてきいただけだが、河童の方は直接自分の先祖に關することで、それで私も「むろん君だつて知つてる筈だが」と斷り書をしたわけなのだ。それなのに、かれは私の話を、まるで未知の世界のことでもきくやうに、好奇にあふれた眼つきになつて、私の顏を見つめはじめたのだ。これは私には意外のことで、ふと氣づくことがあり、なにげない私の話しぶりに、反省をしなくてはならぬと警戒心がわいて來たのである。

「そんなことがあつたんですか」

 河童がさういふにいたつて、私の疑念はもはや明白となつた。かれが知つてゐることを白ばくれてゐるのでないことは、かれの眞劍な表情にまぎれもなかつた。

「堂丸總學といふ山伏のことを知つてゐるかね」

 と私はきいてみた。

「は? なんですつて?」

「堂丸總學、昔ゐた人間の山伏だよ」

「知りません。その人がどうかしたのですか」

 この答は私をおどろかせた。かれの先祖の仇敵の名も知らぬとすれば、かれはいつたいなんのために、月々、地藏の釘を見に來るのか。地中の河童たちは釘の拔ける日を待つて、ふたたびうようよと地上にあらはれようと手ぐすね引いてゐるのだ。その無念さと鬱屈した脾肉(ひにく)の思ひは、當事者ならぬ私にもよくわかる。河童の渇望をみたすとすれば、釘を拔いてやることだが、さすればふたたび昔日の葛藤をとり返して、農作物に被害を及ぼすにちがひない。現在の食糧危機を突破しようと必死になつて、人々が一尺の土をもきりひらいて作つた蔬菜類が、夜な夜な盜難にかかつてゐる今日このごろ、河童がさらに野荒しに荷擔するとすれば、どういふことになるか。私たちは、河童には氣の毒だか、いつまでも地中におとなしくしてゐて貰ひたいのである。しかし、それはわれわれ人間の考へで、河童の方は一日も早く地上に出たく、その任務を帶びて、河童の傳令が毎月釘をしらべに來てゐるわけなのだ。――「その任務を帶びて」と、私はなにげなく書いた。ところが、話をつづけてゆくうちに、この傳令の河童はいよいよ私をおどろかせた。

「その釘が拔けるときがあると思ふかね」

 私の言葉はややひやかしの調子を帶びてゐたであらう。だいたい、私にはこの釘が拔ける日のことなど信じられないし、それを見に來る河童の愚かしさがをかしくもあつたので、自然にさういふ調子が出てしまつたのだ。

「あると思つてゐます」

 と河童はちよつと考へるやうに首をひねつてからいつた。

「いつのことかはわからないね」

「はあ、いつのことかはわかりませんが、……それでも、ひよつとしたら、思ひがけぬことで、近いうちにでも、……」

「思ひがけぬことで?」

「戰爭中、わたしたちはいつもそんな希望を持つてゐました。戰爭がはげしくなつて、北九州が空襲されるやうになると、ひよつとしたら、爆彈のためこの堂がふつとんで、石地藏がこはれてしまひはせんだらうか、さうすれば釘が拔ける、とわたしたちはわくわくしたもんです。わたしはただ釘の拔けることをたしかめるのが一生の仕事ですから、戰爭中は實にはずんでゐました。月の二十五日しか出られないので、空襲のはげしい月など、二十五日が待ち遠しくて、一ヵ月が一年も二年も永く思はれたものです。ところが、一向、爆彈はここに落ちないで、戰爭が終つてしまひました。わたしは、地藏にも釘にも手を觸れることはできませんし、わたしの力で拔くことは思ひもよりません。といつて、人間に、……たとへば、あなたに賴んでも、拔いてはくれないでせう。實は、お土産(みやげ)など持つてすこし賴んでみたこともあるのですが、誰も相手になつてくれないばかりでなく、叱りつけられる始末でした。そこで、やつぱり、いつか、なにか思ひがけぬことで、……」

「まだ、思ひがけぬことがありさうかね」

「雷です。ここへ、雷でも落ちたらと、嵐になることを願つてゐるのです。秋になると、雷も減るし、望みもうすくなるわけで、わたしには涼しい秋もうれしくないのです」

 私はかれのはかない望みが哀れでならなくなつた。

「いつ拔けるかな。早く拔けさせて、君をよろこばしてやりたいもんだが、……もし、拔けたらどうするかね」

「わたしの任務が終るのです。……しかし、實は、拔けた方がよいか、拔けぬ方がよいか、……わたしはちぐはぐな氣持で、因るのですが、……」

 河童はいらいらしたやうに嘴を鳴らした。

「どうして?」

「わたしは、わたしの一家に代々命ぜられて來たといふこの任務に沒頭して、この仕事のために生き甲斐を感じてゐるんです。いつごろからか、わたしは知りませんが、わたしの父も、租父も、曾祖父も、曾々祖父も、とにかく、ずつと昔から、この釘を見ることが、わたしの一家の務めでした。わたしも父から、このことをいひわたされてから、ずつと、……今月で三十八囘、毎月、山に登つて來たのですが、わたしの生命も生活も今はこの釘一本につながつてゐるんです。それなのに、もし、釘が拔けてしまつたら、……わたしの仕事が終つたら、……わたしはどうなるでせうか。毎月、二十五日を待つて、この山に登る。拔けてゐるかゐないか、その想像と期待のなんともいへぬ快い魅力、さうして拔けてないことを知つても、失望のなかに、またいつか拔ける日が來る、また來月も來れる、さういふ希望の魅惑、これはわたしにとつて、生命と情熱の全部なのです。それが、もし、釘が授けてしまつたら、……さうなつたら、……」

 河童は沈痛な呟くやうな口調になつた。あたりは暗くなつて來て、洞海灣の方も、玄海灘の方も、蒼茫と暮色にとざされて來た。空は暗澹としてゐたが、地上の街々には明るい燈が星のやうにともりはじめた。つくつく法師ももう鳴かず、風のためにかすかに松が鳴つてゐた。この河童の心境は私に傳説の眞實への疑問をさらに深くせしめた。

「拔けなくても、拔けても、君は困るらしいが、……拔けたときには、どうするんだね」

「どうつて?」

「もし、今日、拔けてゐたら、……」

「衆月から來ないだけです」

「拔けてゐたら、どうなるんだ」

「どうつて?」

 私は質問をうちきつた。河童は傳説の歷史に對して、かくも深い忘却におちいるものかと、私は索寞(さくばく)とした思ひに驅られた。私の知つてゐることすら、かれは知らず、私がかれに河童のなすべきことを教へなくてはならぬとは、いかなる皮肉であらうか。この河童はただ釘を見るといふ一事に沒頭して、その傳説の緣由(えんゆ)も歸着もさらに念頭にないのである。もし、釘が拔けてゐたならば、それをただちに仲間に知らせる。仲間はそれによつてふたたび地上にあらはれることができるといふことになるわけだが、そのやうな最初の約束と目的などは、いつか、まつたく忘れられてしまつたらしい。よつて來るところも、よつてもたらされるところとも無關係で、その中間の行動のみに、一切の眞摯なる情熱がかけられてゐるのである。たとへば、釘が拔けてゐるのを發見したとしても、かれは自分の任務の終つたことを知り、それにともなふ滿足と寂寥(せきれう)との感じを持つであらうが、それを仲間へ知らせることはしないであらう。したがつて、仲間は地上に出ることができない。嘗ての壯大にして悲痛な祈禱の傳説は、いま、傳令の河童一の喜怒哀樂に集約されてゐるのであつた。

 私がなにも河童に教へてやることはないのである。無數の河童がふたたび地上にうようよと出て來ることを、私が應援する手もあるまい。

「まあ、あまり力を落さんで、來月もやつてきたまへ」

 さういつて、私は立ちあがつた。

「さうします」

 河童も腰をあげた。

「葦平さん」

「なんだね」

「これ、あげませうか」

 ひろい蓮の葉を、河童は私に示した。

「便利なものですよ」

 さういつて、河童がそれを頭にのせると、ふつとその姿が見えなくなつた。前にきいたばさばさといふ音はこの蓮の葉の鳴る音であつた。河童の消えたさきに、沖の燈臺の灯が光つた。河童はまた姿をあらはした。

「ありがたう、ほんとにくれるかね」

「あげませう。わたしはまだいくつも持つてゐますから」

「そのかはり、打を拔いてといふのぢやあるまいね」

「そんなことはいひませんよ」

 ペこんと頭を下げると、もう、夕闇のなかに、河童の姿は消えてゐた。生ぐさいにほひが消え、ペたぺたと足音だけが遠ざかつて行つた。私の手に手ざはりのやはらかな一枚の蓮の葉がのこつた。

(この變幻(へんげん)不可思議な蓮の葉を、どんな風に私が使つたか、惡用したか、善用したか、それはまた別の場所で述べたい。)

 

[やぶちゃん注:「三間幅」約五メートル五十センチ幅。

「高塔山」本話の中でも語られる「石と釘」で既注であるが、再掲する。現在の修多羅の北に位置する、洞海湾を見下ろす標高一二四メートルの山。中世、北遠賀郡を領有していた麻生氏家臣大庭隠岐守種景の居城跡で、山麓にある安養寺には作者火野葦平の墓がある。なお、この山は昭和六(一九三一)年七月に久留米工兵第十八大隊が山麓から頂上までの登山道路を三日で開鑿した。翌昭和七(一九三二)年二月の上海事変の際、上海郊外で一等兵三名が破壊筒を抱いて敵陣を破壊するために自爆し、所謂『肉弾三勇士』と呼ばれる『英霊』となったが、彼等が所属していた部隊こそ、この工兵第十八大隊であった(北家登巳氏のHP「北九州のあれこれ」「高塔山公園」の記事を参照した)。現在は公園となっており、この本話に示される仏像が「河童封じの地蔵」として現存し、夏祭りでは盛大なカッパ祭りがおこなわれているという。但し、正確には地蔵菩薩ではなく、虚空蔵菩薩である。参照させて頂いた『大雪の兄』氏の「若松うそうそ」「カッパ封じ地蔵」にある写真(釘も見られる)を「石と釘」の注に掲げてあるので、是非、本話の映像をリアルにするためにご覧戴きたい。

「海拔四百尺」一二一・一二メートル。

「印緬國境」インドとビルマ(ミャンマー)の国境。インパール作戦(日本軍作戦名「ウ号作戦」)とは、昭和一九(一九四四)年三月に日本陸軍によって開始され、七月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦の舞台となった。補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。葦平は三十七の時、このインパール作戦に従軍している。

「チン丘陵(ヒル)」インパール作戦の入口であると同時に、敗走する日本兵が通ったミャンマー西部チン州の高原地帯。

「最高峰ケネデ・ピイク」ミャンマー観光情報サイト内の「Column」にある毛塚保夫氏の「慰霊の手記」(抜粋であるが、手塚氏の兄一之進氏はインパール作戦で命を落とされている。必読)の中に、「ケネディー山」と出る。ケネディ・ピーク。チン州の中央やや北寄りで標高二七〇三メートル。

「八八七二呎」二七〇三・八メートル。非常に正確。

「サンパン」元来は中国南部や東南アジアで使用される平底のテント型の屋根を持った木造船の一種を指す。広東語の「舢舨」、英語で「Sampan」。ここは小型の通船を指していよう。

「對蹠的」「たいしよてき(たいしょてき)」対照的に同じい。全く正反対であるさま。

「風丯(ふうぼう)」「丯」(音「カイ」:草が生えて散乱するさま。)は誤用で、本来は「丰」(音「ホウ・フウ・(慣用)ボウ)が正しく、これならば姿・形・風采の意がある。

「その蓮の葉を頭にかぶつてゐたので、姿が見えなかつたのである」河童の隠れ蓑ならぬ隠れ蓮葉(はすっぱ)である。これは私は今日まで知らなかった。そもそもが通常、河童は肌が緑色で、自然の中で保護色の効果で紛れ込むことは知っていたが、蓮の葉というのは、河童葦平の「河童曼荼羅」でも今まで出てきていないアイテム、博物誌である。

「堂丸總學」「石と釘」に出る。モデルはありそうだが、実在は疑われる。ネットでもこの河童封じの記載しか見当たらない。

「島郷」現在の福岡県北九州市若松区鴨生田地区の旧地名と思われる。洞海湾最深部を北に入る河川の中程に相当する。

「二島」前の注の同河川の下流域(数百メートル)に「二島」の地名が見出せる。旧島郷とは隣接していたと思われ、河川の下流域と中流域の河童の極直近での争闘であったことが窺える。

「この變幻(へんげん)不可思議な蓮の葉を、どんな風に私が使つたか、惡用したか、善用したか、それはまた別の場所で述べたい」底本では次の作品がまさに「蓮の葉」である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 茶の淹れ方 / 東京生物学会主催「化醇論」講演

M619

619

 

 お茶を入れる時には、若しお茶が上等な物だと、先ず急須に薬罐(やかん)から熱湯を注ぎ込む。そこで湯を棄て、即座に茶を入れると共に、茶碗に湯を入れる。茶は急須に残る湯気によって僅かに湿り、そこで茶碗の湯を急須に注ぐと、なまぬるくはあるが、いい香が出る。茶入罐から直接急須へ茶を入れぬように注意する。湯気が茶入罐の中の茶に影響するからである。茶は茶杓で取り出さねばならぬ。茶杓までもが、優雅の芸術品である。図619はその二、三の形を示したものである。宮岡はこの順序を示しながら、前夜酒を飲み過ぎた時には、このようにして作った茶の茶滓に醬油をすこしつけて食うと、この上もない解毒剤になると話した。

[やぶちゃん注:「宮岡」前掲の宮岡恒次郎と思われる。当時は数え十八で酒云々とあるが、満二十歳未満の者の飲酒を禁じた未成年者飲酒禁止法は大正一一(一九二二)年三月三十日の制定である。]

M620

図――620

 

 六月三十日に私は、生物学会主催の公開講演会で講演をした。会場は新しく建られた大きな西洋館で、千五百名分の座席がある。私が行った時には、ぎっしり人がつまっていた。有賀氏が私の通訳をつとめ、演題は人間の旧古で、人間の下等な起原を立証する図画を使用した。聴衆中には数名の仏教の僧侶と一人の朝鮮人とがいた。また見覚えのある顔も多く、彼等が私を親切な目で見詰めているのを見ると、旧友達の間へ立ち帰ったような気持がした。日本の婦人方も多数来聴され、タナダ子爵〔田中不二麿子〕及び夫人、蜷川その他の古物学者や学者達も来た。図620は入場券である。

[やぶちゃん注:東京入場券は、

  木挽町明治會堂ニ於テ

 モールス先生講談

  六月三十日午後三時半ヨリ

とある。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、主催は東京生物学会主催で演題は「化醇論(かじゅんろん)」(進化論)であった。辞書を調べると、「醇化」という語があり、手厚い教化。不純で雑多な小部分を取り去って純粋にする。雑多な知識を整理して組織的にする。という意があるから、確かにそれをひっくりかえした目新しい雰囲気の熟語は「進化」論という新たな考え方の教化にも、組織だった論理化という、二重の意味に図らずも相応しいと言えよう。会場である「木挽町明治會堂」は、ウィキ明治会堂によれば、福澤諭吉と慶應義塾の政治結社グループにより、この前年の明治一四(一八八一)年一月に完成した政談演説公会堂で、当時、東京府下で一番の演説会専用の会場として開館直後から連日客席は満員となったという。この二年後の明治一七(一八八四)年には農商務省に売却されて「厚生館」と名称が変わり、「木挽町厚生館」として知られたが、関東大震災で焼失した。

「有賀」昔の教養課程でのモースの教え子であった、後の法学者・社会学者の有賀長雄(あるがながお 万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年)。当時(この明治一五(一八八二)年に東京大学文学部卒業)はフェノロサの弟子であった。明治一七(一八八四)年に元老院書記官となり、二年後の明治十九年からヨーロッパに留学、ローレンツ・フォン・シュタインに国法学を学んで、翌年に帰国、枢密院・内閣・農商務省に勤め、その後陸軍大学校・海軍大学校・東京帝国大学・慶應義塾大学・早稲田大学などで憲法・国際法を講じた。日清戦争及び日露戦争の際には法律顧問として従軍、ハーグ平和会議では日本代表として出席している。著書「社会学」は本邦初の体系的社会学的著作として知られる(以上はウィキの「有賀長雄」に拠った)。

「タナダ子爵」原文“Viscount Tanada”“Viscount”は中世以降のヨーロッパに於ける貴族の称号の一種で、イギリス貴族に於いてはバロン(baron:男爵)より上位で、アール(Earl:伯爵。英国外ではカウント Count )よりも下位(但し、ドイツ圏には存在しない)。日本語訳では「子爵」の語が充てられる。底本では直下に石川氏による『〔田中不二麿子〕』という割注が入る。この「子」は敬称。日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 51 モース先生一時帰国のための第二回送別会 又は モース先生、指相撲に完敗す 又は モース先生、大いに羽目を外すで既注の元文部大輔田中不二麿。ウィキ田中不二麿によれば、『未就学児の増加ならびにいわゆる学力低下を招いたとして政府内で批判が強まり』、この二年前の明治一三(一八八〇)年に司法卿に配置換えとなっていた。このモースの叙述が不審なのは、『以後は教育行政から遠ざかり、参事院議官、駐イタリア公使、駐フランス公使、枢密顧問官をへて』明治二四(一八九一)年、『「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」との伊藤博文・山縣有朋らの要請を受け』(彼は元尾張藩士であった)、第一次松方内閣の司法大臣を拝命、『後、位階正二位に任ぜられ子爵を授与される』とあることで、この明治十五年の段階では彼は子爵ではない点である。その後もモースとの文通があったか、誰かの知らせを受けたかして、執筆時のモースは田中が子爵になっていたことを知っていたのであろう。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 万燈籠

 

 万 燈 籠

 

万燈の低きに混めりわが来し方

 

歩み高まり万燈の高まりゆく

 

万燈の夜を遠吠えの小稲妻

 

万燈の明り流水石底見せ

 

万燈籠地に焚ける火焰裂き

 

万燈籠とぎれてそこは溪の暗

 

万燈の廻廊のその赤光寂び

 

万燈やおのれ徹して一流水

 

裾の寒さよ万燈下の暗さよ

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三三(一九五八)年二月の条に、『三日、誓子と、奈良春日神社の万燈籠を見る』とある。春日大社では二月の節分と八月の中元の夜に全ての燈籠に火が灯され、それを万燈籠と呼ぶ。最後の句は多佳子にしては珍しい、かなり思い切った破調である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(11) 四 歌と踊り(Ⅳ) コヤドリ(アズマヤドリ)

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[小屋鳥の踊り場]

[やぶちゃん注:この写真のみ、底本のそれは粗く汚いので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を少し明るく補正して用いた(後の二枚は底本のもの)。]

Koyadorinoissyu

[小屋鳥の一種]

 

[この類はオーストラリヤ地方に産する 木の枝を組み合わせて稍廣い遊び小屋を造り美しい貝殼、花、玉蟲、硝子の破片等でこれを飾り立てその内で雌雄とも踊り樂む 巣は別にある]

 

 以上の如き特殊の擧動をするものは鳥類には甚だ多いが、その外になほ面白い舞踊をする種類がある。その最も著名なのは、オーストラリヤに産する「小屋鳥」と名づける類で、この鳥は普通の巣の外に踊をするための遊び場處を定め、または遊び小屋を拵へる。踊り場處を定めて踊る種類では、まづ樹木の蔭になる平坦な地面を選び、よく掃除して淸潔にし、裏面の銀色に光る大きな木の葉などを集めて來て、裏面を上に向けて適宜にこれを竝べ飾り、場所の周圍には白くなつた「かたつむり」の殼や骨などを散して置く。また小屋の造り方は種類によつて少しづつ違ふが、まづ樹の枝を多く集め、これを密に組み合わせて床を造り、その兩側には稍々細長い枝を竝べ立て、枝の上部を互に組み寄せて屋根とする。面白いことには、この鳥はさまざまのものを用ゐて小屋を出來るだけ飾り立てる。例へば、「いんこ」の尾羽の赤いのや靑いのを枝の間に挾み、美しい介殼や硝子の破片、光つた石などを入口の前に竝べたりするが、往々原住土人の住家から攫つて來ることもある。土人は鳥のこの習性を知つて居るから、何か美しい色の物が紛失すると、また小屋鳥が盜んで行つたのではないかと、小屋のところへ探しに行くが、大概はそこで見附かるといふ。また美しい色の花を用いて小屋を飾るが、これは毎日萎れると新しいのと取り換へ、古い花は小屋の後へ捨てる。鳥の大きさは多くは「からす」より小さく、小屋は大きなのも小さなのもあるが、まづ一米内外のが多い。さてこの小屋は何の役に立つかといふに、全く娯樂のためで、雌雄は小屋に入つたり出たりして舞ひ踊り、互に追ひ廻したりして遊ぶ間に結局、雌は喜んで雄の意に隨ふやうになるのである。

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[鳥の踊]

 

[やぶちゃん注:現在の標準和名はスズメ目スズメ亜目ニワシドリ上科ニワシドリ科 Ptilonorhynchidae に属するニワシドリ(庭師鳥)類で、他にコヤツクリ(小屋造)・アズマヤドリ(東屋鳥)などとも呼称し、英名“Bowerbird”“bower”は「四阿(あずまや)」の意である。ウィキニワシドリ科」によれば、八属二十種がいる。

 ネコドリ属 Ailuroedus

 ハバシニワシドリ属 Scenopoeetes

 パプアニワシドリ属 Archboldia

 カンムリニワシドリ属 Amblyornis

 オウゴンニワシドリ属 Prionodura

 フウチョウモドキ属 Sericulus

 アオアズマヤドリ属 Ptilonorhynchus

 マダラニワシドリ属 Chlamydera

『オセアニア区のオーストラリアとニューギニアに』棲息し、全長は二〇~四〇センチメートルで、『概して地味な羽色だが、一部の種の雄は派手な色の羽や飾り羽を持つ』。『森林ないし疎林に住み、果実・種子など植食を主食とするが、昆虫なども食べ』、『ネコドリ属以外は、雌だけで造巣・抱卵・育雛をする』。『雄は繁殖期が近づくと』、直径一~三メートルほどの『区域から落ち葉や枯れ枝などを除いて、ニワシドリの名の由来となった「コート(court、庭)」にし、さらにその中に大きな小屋型の構造物「バワー(bower、あずまや)」を作る。なおこれは巣ではなく、巣はこれとは別に雌が単独で作る』。『バワーにはさまざまな種類があるが、大きく「メイポール(maypole)」(「スピア(spire)」を含む)と「アベニュー(avenue)」とに分かれる』『ニワシドリ科は伝統的に、メイポールビルダー、アベニュービルダー、バワーを作らないものの』三つのグループに分けられてきた(リンク先に各グループの違いを示す表有り)。チャイロニワシドリ Amblyornis inornatus『などは、若木の周りに、水平にした小枝を積み上げた「メイポール」を作る。メイポールの高さは最大』二・五メートルにも達する巨大なものである。『メイポ-ルの周囲はコケが円型に敷かれ、その周囲には小枝などさまざまな装飾品が積まれる』。マダラニワシドリChlamydera maculata、アオアズマヤドリ Ptilonorhynchus violaceus『などは、乾燥した草の茎を多数立てて壁状にし、一対の壁で挟まれた「アベニュー」(道)を作る。アベニューの入り口には、小石、骨、貝殻、ガラス片など(どのようなものが好まれるかは種によって異なる)が散らばって置かれる』。『バワーを訪れた雌は、草に囲まれたアベニューの中に入る。雄はアベニューの外で、激しいディスプレイをする。草の壁はまばらなので、雌は壁を透かして雄のディスプレイを見ることができる』ようになっている。何よりグーグル画像検索「Ptilonorhynchidaeが必見。派手ではないが、バワー造りの様子が良く分かるWorld's Weirdest - Bowerbird Woos Female with Ringなど、動画でも生態を多く見ることが出来る。]

2015/06/14

武蔵石寿「目八譜」 ツメタガイ類

 

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七十四津女多介〔「渚ノ錦」。〕光螺〔「薬名備考」。〕酥螺〔「質問品目志」。〕油螺〔仝。〕砑螺〔「怡顔斉介品」。〕

スリ貝〔仝〕玉介〔「貝盡浦錦」。〕ウツボ介〔「前哥仙」云。〕紫背螺〔「福州府志」。〕

薩摩貝〔「渚錦」。〕紙摺貝〔「六百介品」。〕

「貝盡浦の錦」百介品中、玉介の條下に云、『俗称、「つへた」。「前哥」に入、「うつほ介」也。艶、よくあり。はだ、滑なり。多き介なり。うすかひと云也。』。

「怡顔斉介品」云、「紫背螺・ツメタ貝・スリ貝、「福州府志」に『田紫背螺。紫色有班點俗謂之砑螺。』。玄達、按に、俗に「ツメタ貝」と云。越後新泻にて「スリ貝」と云。此貝、形、圓にして、底、光らず。殻、厚くして、肌、細也。口の内へ曲りて、底、尖らず。帷子・袴・紙等を摺磨に佳也。又、「室町殿日記」に、『細川幽齊、豊臣太閤の前に持れしに、ある大名より、牡蛎・生鼠腸・ツメタ三種を献す。太閤此三の肴に付て一首せよと有しに、幽齋、即「かきくれてふる白雪のつめたさをこのわためしてあたゝめそする」と詠せられしかは、太閤及ひ滿坐、大に感しられし。』とそ。今はツメタを下品の物として食せず、右は高貴の人も賞翫せられたりと見ゆ。」。

「丹敷の浦裏」云、『「玉黍介」と同種。色、淡褐色。光艶有て、滑澤也。津邉太と云。「前歌仙」に「宇津保介」と有る、熊野海辺より出る者、殻、厚し。「甲香」「邉奈太利」と云。』。

「渚の錦」に云、『「つめたかひ」また「薩摩かひ」。形、正圓、層平にして、旋に稜なく、表は樣色あり、銅色あり。裏はしろく、児、貝のなべて白を「白玉」と云。』〔石壽云、此末附會の説、多に因て畧して不記。〕。

石壽云、形、白玉。椿に似て、圓く脹れ、殻、至て厚く、巻目頭に寄、三、四巻有り。背、廣く、生活の時は鈍色にして、巻留、紫黒色。腹、平にして正中に横長の一孔有り。口の如し。其辺に唇の如く或は舌の如き厚き者、出張あり。其色、黒紫色。唇、不厚。口の内、鈍紫色を帶、表裏ともに光あり。又、巻留、少し尖りて長くして、鼠介に等しき者あり。即、雌雄の差別なるへし。雄津免多介と云。厴、蟬の羽の形にして薄く、あめ色或は鼈甲の如、透哲す。縱理文脉あり。是「六百介品」にて、「蟬の羽介」と云。又、殻干枯の者、水白色・朱褐色濃淡、班文、巻留、靑黒色巻文あり。腹、白色・淡朱・黒班文あり。紋彩班文、巻留、靑黒色巻文あり。腹白色、淡朱黒文あり。紋彩班文、一ならず。

又、雪白色・紅褐色、班文、腹口の内迠、潔白色の者あり。波に洗たる者也。光なし。惣て頭より腹迠、筋違の粗條理、繁くあり。大さ、五、六分より三寸斗の者あり。即、机上に置て紙を摺に勝れて好し。故に紙摺り介とも云。惜らくは、多く有者也。房州其外諸国より産す。又、古は專ら、食用とす。近来は食ふもの少し。下人・漁夫なと是を食ふ。 

 

七十五花津免多介〔通称「牡津女多」。仝。〕

石壽云、則津免多介同種にして、巻留、張出し、長し。肌、紅褐色・白色班文の者、或は淡靑色・靑黒色斑紋の者あり。大さ五、六分より二寸前後の者あり。光艶美麗。稀品也。紋彩一ならず。 

 

七十六玉介〔「六百介品」。〕

石壽云、即、津辺多介同種にして、形、圓くれ、長く、腹、平にして、口、大く、腹、正中に横長の一孔辺、舌の如者あり[やぶちゃん字注:「」=「月」+「亭」。恐らくは「脹(ふく)れ」であろう。]。其余、津辺多に同し。背、廣く、巻目、口の辺より起り、二、三、巻、頂、黒褐色或は靑黒色。其辺、紅褐色或は黄褐色巻文あり。又、巻留、

紅色・朱色の者あり。稀也。肌、茶褐色。光艶、美也。宝珠とも云へき者也。腹、雪白色。口の内、紅褐色にして光艶あり。頂より筋違の微條、繁し。紋彩濃淡、一ならす。大さ、一、二分より寸余にして、形状、條理なく、光滑、上品の者也。條理有るものは下品也。大小差別なく、「津免太介」とも、又、「紙スリ介」とも云。厴、津辺多介の條下に委し。

又、肌、朱褐色・黒褐色紋彩、巻留、黒色の者、光耀美麗。腹、雪白色・朱褐色班文、口の内、朱褐色、光瑩、美也。

又、肌、表裏ともに淡紅褐色、口の内、又、同、巻尻、濃紅褐、光艶、美なり。則、「瑪瑙介」と云。

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[やぶちゃん注:「目八譜」第七巻「圓螺蛽属 百三品」の「七十四 津免多介」「七十五」「七十六」の記載である(他の箇所にも別にツメタガイと思しい種が載るが、ここが最も纏まった詳述箇所である)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認にしてテクスト化した。その際、カタカナをひらがなに直し、読み易くするために適宜、句読点を配したが、とんでもない句読点配置(誤読箇所)があるやも知れぬ。その時は御指摘頂けると嬉しい。「七十四」などの囲み数字は、底本では「」の中に同数字が入ったものである。なお、頭に掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「目八譜」の中の当該保護期間満了画像であるが(私の翻刻と比較対象出来るように総てのページを載せた)、後に附した二枚の画像の方は、東京国立博物館所蔵の「情報アーカイブ」の「博物図譜」の「目八譜」の別な人物による写本の当該彩色図である(同画像は学術目的のページでの自由使用(トリミング以外の処理は不可)が許されているものである)。後者の方がより彩色が美しく、立体感もある(向後は、かくの如く二種を掲げることとしたいと思っている)。

 腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属 Glossaulax ツメタガイ Glossaulax didyma 及びその近縁種が図とともに色や斑紋(文中の「班」はママ)を煩を厭わず、詳述しており、頭が下がる。

「渚ノ錦」「渚の丹敷」。Terumichi Kimura氏の貝類サイト「@TKS」の「貝の和名と貝書」によれば(以下、引用ではアラビア数字を漢数字に代えさせてもらった)、曾永年著で享和三(一八〇三)年刊、上下二巻。『上巻は二枚貝、下巻は巻貝で、合計百二十三項、五百四十品。付録五十四品を載せている』。『緒言によれは美麗な彩色図があるはずだが詳細不明。曾永年は通称を占春といい、薩摩候 島津重豪の記室。占春は貝類を記載するに当たり、ある一個の代表種を題目に掲げ、 類似のものはその下に取り纏めて記するような方式をとっ』ているとある。

「薬名備考」「本草薬名備考和訓鈔」。丹波頼理(よりまさ)が文化四(一八〇七)年刊行した本草書。全七巻。

「酥螺」音は「ソラ」。「酥」はバターの意の他に、食べ物などがぼろぼろに砕けやすい、さくさくとして柔らかい、口に入れるとすぐとけるという意があるが、ここは殻の色からバターの意味か。

「質問品目志」類書(字書)と思われるが、不詳。

「仝」「同」に同じい。

「砑螺」音は「ガラ」。「砑」は艶出しをするの意がある。

「怡顔斉介品」松岡玄達著貝類及び蝦蟹その他百五十七種に及ぶ介類図譜(図は最後に纏められてある)。前出の「貝の和名と貝書」によれば、出版は宝暦三(一七五八)年であるが、著者序文は元文五(一七四〇)年で次に示す「貝盡浦の錦」よりも執筆は早い。『蛤類二十九種、螺類十四種、和品七十二種、蟹類十八種、蝦類十一種、その他十三種が掲載されて』おり、『介とは貝の他に蝦や蟹も含まれ、その中で漢名の不明なものを和品と称していた。主として実地の見聞に基づいて編まれており、書中四十余種の新出項目を有し』、「貝盡浦の錦」とともに『我が国貝類学上に多大の衝動を与えたものである』とある。

「貝盡浦錦」同じく「貝の和名と貝書」によれば、大枝流芳著で寛延二(一七四九)年刊。『日本における印刷された最初の貝類書。貝に関連する趣味的な事が記されている。 著者自ら後に序して、「大和本草その他もろこしの諸書介名多しといえども是れ食用物産の ために記す。この書はただ戯弄のために記せしものなれば玩とならざる類は是を載せず」 と言っている』。『記述されている貝は約』二百二十種で、上巻には「和歌浦真図」「歌仙貝遺漏百余品」「住吉浦潮干図」「前歌仙貝三十六品評」「但馬竹浦真図」「後歌仙貝三十六品評」「源氏貝配富目録」「新撰歌仙貝」が、下巻には「前歌仙貝並図」「後歌仙貝並図」「貝蓋図式並貝合わせやう指南」「相貝経」などが掲載されている』とある。

「ウツボ介〔前哥仙云〕」「前哥仙」は前の注に出る貝尽しの和歌集「前歌仙貝三十六品評」及び「前歌仙貝並図」を指すものと思われるが、原典に当たってみたが、そこでツメタガイに相当するものは「空背介(うつせがひ)」で「ウツボ介」ではないのが不審。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「六百介品」同じく「貝の和名と貝書」によれば五冊(又は六冊)で、約六百個に及ぶ貝を『彩色図とし、漢名や和名を付けたもの。この書は丹敷能浦裏』(にしきのうらづつみ)『とともに 日本の貝類書として重要な位置を占めるが、共に著者年代の記録が無い』とある。磯野直秀氏の論文「タコノマクラ考:ウニやヒトデの古名」によれば、寛政十二(一八〇〇)年頃までに紀伊藩で成立したものとする。因みに、現在、これを本書の作者である武蔵石寿の「甲介群分品彙」の別称として扱っているサイトがあるが、実際には著者不詳の「六百介品」を、石寿が天保七(一八三六)年(序文)に改訂したものが「甲介群分品彙」であるので注意されたい。

「前哥」前に注した「前歌仙貝三十六品評」及び「前歌仙貝並図」であろう。

「艶、よくあり」「貝盡浦の錦」の原本に当たったが、この部分は原典では「艶つよくあり」で脱字である。

「うすかひと云也」この部分、判読に自信がない。別写本や原典を見たが、どうもどれも字が不審である。識者の御教授を是非、乞うものである。

「室町殿日記」安土桃山から江戸前期にかけて成立した楢村長教(ならむらながのり)によって書かれた虚実入り混じった軍記物で実録日記ではない。「室町殿物語」とも。以下のエピソードは、『博物学古記録翻刻訳注 11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』に出、そこで詳細な注を施してあるので、それを参照されたい。

「玉黍介」「タマキビガヒ」と読んでいると思われるが、現行ではニナ目タマキビガイ科Littorinidae の巻貝の或いはその標準種であるタマキビガイ Littorina brevicula を指し、万一、石寿がそれを指して「同種」と言っているとしたら、形状も棲息域も異なり、非常に残念で不審な誤認と言わざるを得ない。

「樣色」「さまいろ」で、さまざまな色、色彩変異が多いことをいうか。

「唇、不厚」殻口の両側の外唇と内唇のことであろう。事実、薄い。

「鼠介」現行では盤足目タマガイ科ネズミガイ Mammilla simiae の和名であるが、グーグルの画像検索「Mammilla simiaeで分かるように、斑紋は派手であるが、ツメタガイに似ていると言われれば、似ていなくもない。

「少し尖りて長くして、に等しき者あり。即、雌雄の差別なるへし。雄津免多介と云」これは恐らく、本州の男鹿半島及び房総半島以南から南西諸島に棲息し、殻高四センチメートル程度でツメタガイと比較してやや小型であるが、螺塔がやや高いハナツメタ(ガイ) Glossaulax reiniana であろうと思われる。石寿は後で別項で「花津免多介」「牡津女多」とする。

「厴」「へた」と読む。ツメタガイ類の薄い角質の蓋である。

「透哲」透徹。

「縱理文脉」「たてのきめもんみやく」と一応、読んでおく。以下、表現し難いツメタガイの模様や色を結構、よく良く表現していると思う。

「殻干枯の者」「からほしからしのもの」と読んでおく。

「筋違の粗條理」「すぢちがへのあらきじやうり」と読んでおく。

「五、六分より三寸斗」一・五~一・八センチメートルから九・一センチメートルほど。長径であろう。

「惜らくは、多く有者也」江戸時代はとんでもないありとあらゆる者を蒐集する好事家やコレクターが一杯いた。彼らにとっては希少であることが、何より求められたことから、ツメタガイの貝殻の人気は今一つであったのであろう。後に出る条理紋のないものが「上品」で、あるのは「下品」というのも、そうしたツメタガイ・フリークの間でのことである。

「房州其外諸国より産す。又、古は專ら、食用とす。近来は食ふもの少し。下人・漁夫なと是を食ふ」新鮮ならば刺身も美味い。現在でも房総地方ではツメタガイを「いちご」と呼び、これを甘辛く煮たものを「いちご煮」と称する(通常、「いちご煮」というとウニを煮たものを指すので注意)。

「二寸」凡そ六センチメートル。

「玉介」「形、圓くれ、長く、腹、平にして、口、大く、腹、正中に横長の一孔辺、舌の如者あり」(「」=「月」+「亭」。恐らくは「脹(ふく)れ」であろう)これは本州の駿河湾以南から南西諸島・東南アジアに広く棲息し、殻高三センチメートル程度で、殻口内が濃褐色と淡褐色の二色に分かれて、殻底が丸みを帯び、臍穴溝は二重の螺状溝を成すのを特徴とするソメワケツメタ(ガイ)Glossaulax bicolor に同定したい欲求に駆られる。なお、他に本邦には、他に本邦には、本州の能登半島及び房総半島以南から九州に棲息し、殻高四センチメートル程度でツメタガイよりやや小型で、殻は薄く灰褐色、胎殻は赤褐色を呈するヒメツメタ(ガイ)Glossaulax vesicalis がいる。

一、二分より寸余」三、六ミリメートルから三センチメートル強。

「瑪瑙介」「メノウガヒ」。]

2015/06/13

大和本草卷之十四 水蟲 介類 光螺(ツメタガイ)

【外品】

光螺 閩書ニ出タリ海邊ニアリ其肉カタシ味不美其形

蝸牛ニ似タリフタハソリテウスシ食シテ不益人

やぶちゃんの書き下し文

【外品】

光螺(ツベタ) 閩書(びんしよ)に出でたり。海邊にあり。其の肉、かたし。味、美ならず。其の形、蝸牛に似たり。ふたは、そりて、うすし。食して人に益せず。

[やぶちゃん注:腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属 Glossaulax ツメタガイ Glossaulax didyma 及びその近縁種。以下、吉良図鑑(保育社昭和三四(一九五九)年刊)とウィキの「ツメタガイ」によれば、ツメタガイ Glossaulax didyma は『インド以東、西太平洋の浅海に分布する。日本では北海道以南から沖縄にかけて広く分布』し、潮間帯から水深十~五十センチメートル程度の砂地のごく浅海に多く、殻幅五センチメートルほどの中型の巻き貝(とあるが、吉良図鑑は大きな個体では殻長(殻高)八×殼幅九センチメートル以上に達するとあり、私もかつてしばしばその大きさの生貝や死貝を拾った)。『殻の色は紫褐色から黄褐色を呈する。底部は白色で滑らか。蓋は半円形となる。夜行性で、砂の中を活発に動き回る。また軟体部は殻から大きく露出し、殻を完全に覆いつくす。 肉食性であり、アサリなどの二枚貝を捕食する。アサリなどの二枚貝を捕まえると、やすりのような歯舌を用いて獲物の殻の最も尖ったところである殻頂部を平らに削っていき』、二ミリメートルほどの『穴をあけて軟体部を食べる』。なお、ウィキの記載者は挙げていないが、この捕食行動の際には、削る前に、足の一部から酸性の液を分泌し、相手の殻に塗りつけて炭酸カルシウムを分解させ、柔らかくしてから、穿孔するという説がある。繁殖期は春で、五月頃、『茶碗をかぶせたような形に卵塊を作る。その形から通称「砂茶碗」と呼ばれる。 生息環境により形が変化し、内海のものは臍索中央の溝が殻軸と直角方面に伸び、臍穴がふさがらないが、外洋に分布するものは臍索の中央の溝が曲がっていて、臍穴が密閉する形となり、ホソヤツメタ(Glossaulax didyma hosoyai KIRA)と呼ばれる』とあり、他に本邦には、

ヒメツメタ(ガイ) Glossaulax vesicalis

(本州の能登半島及び房総半島以南から九州に棲息。殻高四センチメートル程度でツメタガイよりやや小型。殻は薄く灰褐色で、胎殻は赤褐色。)

ソメワケツメタ(ガイ) Glossaulax bicolor

(本州の駿河湾以南から南西諸島・東南アジアに広く棲息。殻高三センチメートル程度。殻口内が濃褐色と淡褐色の二色に分かれる。殻底が丸みを帯び、臍穴溝は二重の螺状溝を成すのを特徴とする。)

ハナツメタ(ガイ) Glossaulax reiniana

(本州の男鹿半島及び房総半島以南から南西諸島に棲息。殻高四センチメートル程度。ツメタガイと比較してやや小型で、螺塔もやや高い。)

がいる。ウィキには『本種は無毒であるが食用にされることは少ない。これは加熱した際に身が固く締まり、歯ざわりが悪いためである』が、『愛知県知多半島では本種を「うんね」と呼び、塩揉みして生食するほか、煮付けやおでんの具として食している』。『また、三重県南部では「ばんちょう」と呼ばれ甘辛く煮付けて食している』。私は小学校二年の時、由比ヶ浜に前日までの台風で打ち上げられた多量の生貝をバケツ二杯ほども採取したが、その中の大半はこのツメタガイであった。煮付けにして食ったが、あまりの美味さに食い過ぎ、翌日、腹をこわした。その時、小二乍ら、堅いから消化が悪いんだ、それから穴を空ける分泌物が含まれているからよくないんだ、と考えたのを不思議によく覚えているのである。されば「其の肉、かたし」は諾、「味、美ならず」は否、「食して人に益せず」は……う~ん、悩ましい。……なお、「ツベタガイ」「ツメタガイ」「津免多貝」の語源は不詳であるが、牛や馬の爪に似ていることから「爪貝(ツメガイ)」の転じたものかとするのを見かけた。しかし私は、この光沢のある貝殻が「光螺」「砑螺」(「砑」は音「ガ」で、艶出しをするの意がある)と呼ばれていることからも、見た目「冷(つべ)た」い涼しい感じを与えるからであると考えている。これは実に、かの小二の七歳の頃からずっと続く思い込みなのであって、そうそう引き下げる訳には、これ、行かないのである。……
 
「閩書」既出。明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 冬(Ⅱ) 上高地と白骨 上高地篇

  上高地と白骨

 

   上高地篇

 

日は渺と奧嶺秋園人をみず

 

鬱々とまた爽かに嶽の白晝(ひる)

 

山梨(こなし)熟れ穗高雪溪眉の上

 

[やぶちゃん注:「山梨(こなし)」「コナシ」という呼称を優先するならば、バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ズミ(酸実/桷) Malus toringo で、「山梨」という表記を優先するなら、ナシ亜科ナシ属ヤマナシ Pyrus pyrifolia となるのであるが、これは上高地ということから、上高地のキャンプ場のある小梨平を連想した。そこで、同地域の植生を調べて見ると、実はこの小平の「コナシ」は以上の二種とも異なるバラ科ナシ亜科リンゴ属ヒメリンゴ/イヌリンゴ(姫林檎/犬林檎)Crabapple Malus × cerasifera シノニム Malus prunifolaMalus hupehensis )であることがサイト「四季の花散歩」の上高地の動植物の「上高地小梨平のコナシの花写真」及びそこからリンクされてある同サイト内の「ヒメリンゴ花実散歩」によって判明した。個人的な経験からもこれはズミでもヤマナシでもなく、姫林檎である/あって欲しいというのが私の願望でもある。

 

旅人にしぐれて藍(あを)き嶽鎧ふ

 

霧さぶく公園ホテル樅の中

 

霧の暾や穗高のもとを衷甸(ばしや)發てり

 

[やぶちゃん注:「暾」既注。「ひ」で朝日。]

 

   燒嶽を詠む

 

秋風や聳えて燻(いぶ)る嶽の尖き

 

雲間燃え笹一色に秋の嶽

 

燒嶽(やけ)晴れて陽にむきがたし秋の空

 

噴煙に月出て旅も神無月

 

夜は夜の白雲靆(ひ)きて秋の嶽

 

   大樹林逍遙

 

草みのり土耀(かがよ)うて旅愁かな

 

蘡薁に樅の高空風だちぬ

 

[やぶちゃん注:「蘡薁」「えびづる」と訓ずる。蝦蔓。蔓性の落葉低木である野生の葡萄であるバラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia。山野に生え、葉と対生して巻きヒゲが出て、他に絡む。葉は三つから五つに裂けており、葉の裏面や葉柄及び茎に白或いは赤褐色の毛が密生する。雌雄異株で夏に淡黄緑色の小花が密集して咲き、熟すと黒くなって食べられる。「えび」「えびかずら」とも呼び、秋の季語である。]

 

人や來と見かへる樹林秋の晝

 

水をどり樺たち鎧ふ秋の晝

 

秋の風穗高嶺雲を往かしめず

 

熊笹の實にいちじるく赤とんぼ

 

あきつとぶ白樺たかき夕こずゑ

 

小禽むれ霜枯る山梨(こなし)落葉せり

 

しぐれては秋ゆく樹々の禽舍かな

 

みすゞかる信濃をとめに茸問はな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「茸」は「たけ」と訓じていよう。]

 

高西風に吹かれて飄と岩魚釣

 

   田代池

 

藻だたみとうつろふ樺の散り黄葉

 

[やぶちゃん注:「田代池」隣接する大正池とともに、大正四(一九一五)年の焼岳の噴火によって流れ出た溶岩が、梓川左岸の支流千丈沢を堰き止めたこと出来たもの。浅く、周囲は湿原になっている。私のすこぶる好きな池である。]

 

  河童橋

 

白靴に朝虹映ゆる河童橋

 

[やぶちゃん注:「朝虹」「あさにじ」。朝に立つ虹であるが、雨の降る前兆で山屋には有り難くない。]

 

こゝにして我鬼を偲べば秋螢

 

    註=我鬼は芥川龍之介の俳名

 

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、飯田蛇笏の芥川龍之介の悼亡吟(芝 昭和二年(三十三句)」より)、

 

  芥川龍之介氏の長逝を深悼す

 

たましひのたとへば秋のほたるかな

 

に基づく。なお、龍之介とは書簡のやりとりは頻繁であったが、実際には面識はなかった。]

 

山梨熟れ釣り橋搖りて牛乳車

 

  公園ホテル

 

[やぶちゃん注:不詳。上高地帝国ホテル(昭和八(一九三三)年開業)のことをかく呼んでいるか? 識者の御教授を乞う。]

 

秋日つよく藍靑の嶺々窓蔽ふ

 

大樹林赤屋根さむく霧罩めぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「罩めぬ」は「こめぬ」と読む。]

 

夕霧にホテル厨房燈をともす

 

  大正池

 

秋の風棲みがたく長藻搖る

 

嶽は燃え枯木の鷹に水澄めり

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 白鳥行

   白 鳥 行

 

汽罐車のよこがほ寒暮裏日本

 

雪の駅ピアノ木箱を地膚の上

 

野の雪雲集(よ)りて仕へて白大山(はくたいせん)

 

駅炉の煖盗む白鳥行に暮れ

 

白鳥を恋へる眼に鳶鷗翔つ

 

風颯々白鳥の鋭目(とめ)切れ長に

 

尻重き翔ちぎまの鴨白鳥湖

 

白鳥渡来日本の白嶽瘦せ

 

雪嶽越ゆ白鳥の白勝ちて

 

日の寵は白鳥にのみ鴨翔ける

 

漁る白鳥主婦は下身に雪の泥

 

「レダ」の白鳥出雲白鳥像かさね

 

低雲の一日駅夫と白鳥と

 

月ある闇白鳥光は寄りあひて

 

楫(かぢ)の音夜目の白鳥追はれゐる

 

一夜吾に近寝(ちかね)の白鳥ゐてこゑす

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三三(一九五八)年の条に、『一月ごろ宍道湖の白鳥を見に、清子同伴で松江に行く。松江の岩田屋旅館に泊まる。しかし』白鳥(年譜には『白馬』とあるがまさに「烏焉馬(うえんま)の誤り」であろう)『は松江にはいず、松江の近くの入り江秋鹿(あしか)で十数羽を見る。夜も見たく、夜の鳴き声も聞きたく、湖岸にある秋鹿荘という公務員の寮に行くが、公務員で無いので断られる。どうしても一泊したく、公務員で俳人の西村青渦(裁判官)に気がつき、電話連絡、その尽力により許可される。ここでは湖際に親しく白鳥を見ることが出来た』とある。]

甲子夜話卷之一 42 秋元氏鎗の事

42 秋元氏鎗の事

是も秋元氏の宅にて、彼玄關の上に、世に鞍箱と謂ふ、鎗の鞘に金字にて大きく無の字を蒔出したる鎗の掛て有るを見る。予問ふ、かの鎗は何の由ありや。永朝答ふ、吾祖泰朝〔但馬守〕、大阪御和睦のとき總堀を埋る奉行たりしが、堀は埋まじきと、神祖の上意ありしを、泰朝聞ずして、人夫を促し、矢庭に埋終りしと云。此時十八歳なりしとぞ。無雙の若者なり迚、此御鎗を賜りけりと語る。又今彼家士の説には、駿府に於て賜はりし所と云。

■やぶちゃんの呟き

「秋元氏」第41話に出た秋元永朝(つねとも)。そちらの注を参照されたい。

「泰朝」館林藩秋元家第二代秋元泰朝(天正八(一五八〇)年~寛永一九(一六四二)年)。秋元長朝の子で徳川家康の近習出頭人(きんじゅうしゅっとうにん:江戸幕府初期の職名。将軍・大御所の側近で、幕政の中枢に参与した者。)。ここに出るように、慶長一九(一六一四)年の大坂冬の陣の直後、瞬く間(約一ヶ月)に行われた、大坂城の堀埋立に功績があった。ウィキ秋元泰朝によれば、『豊臣氏滅亡後の残党狩りも行っている』。寛永五(一六二八)年、『父・長朝の死により家督を相続』、寛永十年、『甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩の城代として』一万八千石に封ぜられ、寛永十三年には、『日光東照宮の造営で総奉行を務め』ている。永朝から五代前に当たる。因みに本話中の「此時十八歳なりしとぞ」「無雙の若者」というのはおかしい。埋め立ての奉行となった当時、彼は満三十四歳である。

「大阪御和睦のとき總堀を埋る奉行たりし」これは家康と秀頼の第一次攻防戦であった冬の陣の際に行った巧妙な機略で、徳川方は、条件として出して豊富方が吞んだ大阪城の「外堀」を埋めるという要件を、「総堀」に読み替えて次期攻略の礎としたのであった。この辺りから夏の陣への経緯は、近世史に疎い私でもすこぶる面白く読める「歴史年代ゴロ合わせ暗記」の大阪夏の陣がよい。

「堀は埋まじき」「うむまじき」と読み、ここは不可能の推量である。和議の条件を逸脱して、内堀を含む総堀を埋めることは、途中で豊臣方からの抗議も入るであろうから、多大な労力と短時間の作業が要求され、とても「総堀を埋めることは出来まい」、次期攻略のために可能な限りの堀を埋めればよかろうといったニュアンスで家康は言ったのであろう。

譚海 卷之一 出雲國造の事

 出雲國造の事

○出雲の國造(くにつくり)は其(その)國人尊敬する事神靈のごとし。氷の川上と云所に別社ありて、神事に國造の館より出向ふとき、其際の道筋へ悉く藁を地に敷(しき)みちて、土民左右の地にふし、手に此わらを握りて俯(ふ)しをる。國造藁をふんで行過(ゆきすぐ)る足を引(ひか)ざる内に、みなみなわらを曳取(ひきとり)家に持歸(もちかへ)り、神符(しんぷ)の如く收め置(おく)なり。國に疫病諸病等有(ある)時、此わらをもちて祓ひまじなふに、平癒せずと云事なし。

[やぶちゃん注:「出雲國造」底本の竹内氏の注に、『出雲大社の神官の長たる国造家、天穂日命』(あめのほいのみこと)『の後で、近世は千家と北島家にわかれ、大社に奉仕した。古代のクニノミヤツコ(国造)の名が踏襲されてきたのである』とあり、ウィキの「出雲国造に詳しく、現在は千家系が大社を主管している模様で、現在の当主は八十四代国造(こくそう:現行ではこう呼称しているらしい)千家尊祐(たかまさ)氏で、最近、この人物の長男である出雲大社権宮司千家国麿が、高円宮憲仁親王の次女、典子女王と結婚したことで、私も千家の名は知っていた。]

毛利梅園「梅園魚譜」 海鷂魚(ツバクロエイ)

〔海産。無鱗。〕

海鷂魚(ヱイ)〔一種。〕

 〔ヨマサヱイ。〕

 

  脊圖

Tubakuroei1

 

同 腹圖

Tubakuroei2

 
 乙未南呂(なんりよ)廿二日、行德の

 魚商、善、持り來たる。之を得て、

 眞寫す。

[やぶちゃん注:「梅園魚品図正」巻二より(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正」の中の当該保護期間満了画像)。軟骨魚綱トビエイ目ツバクロエイ科ツバクロエイ Gymnura japonica 。成体では体盤全長(前後の尾先までの長さ)約一メートルに達し、盤状の体は横に長い菱形を呈する。体盤幅は全長の凡そ一・五から二倍になる。背・腹面ともに円滑で、毒棘を持った尾部は非常に短く(体盤全長の半分しかないことを特徴とする)、鞭状を成しており、尾部腹部側には五~六本の黒色帯がある。暖海性のエイで、南日本から東シナ海にかけて分布する(本邦には他に近縁種のオナガツバクロGymnura poecilura (尾部が長く、体盤の長さとほぼ同長であることで判別は容易である)の計二種が分布する。以前、別種とされていたメガネツバクロはツバクロエイと同物異名であることが判明している)。両種とも胎生で春に八尾程度の子を産む。底引網で漁獲され、本邦では練り製品の原料にする。和名は体盤が広く、燕が飛ぶように見えることに由来する(英名は“butterfly ray”。以上は複数の辞書類を参考にした)。

「無鱗」サメ・エイなどの軟骨魚類は鱗がないわけでは実はない。彼らのそれは楯鱗(じゅんりん)と呼ばれる退化した鱗で、真皮から突出した象牙質をエナメル質が覆っおり、構造的には歯とよく似ている。サメではこれが密集するために所謂、ざらざらした鮫肌を形成しているが、エイでは散在している。

「海鷂魚」「鷂」は音「エウ(ヨウ)」で、鳥綱タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisusを指す。形状と遊泳の様からの合字であろう。鳥の鷂(はいたか)は「疾き鷹」が転じて「ハイタカ」となった。かつては「はしたか」とも呼ばれ、元来は「ハイタカ」はハイタカのを指し、体色が異なるを別に「コノリ」と呼んだ。「大言海」によれば「コノリ」の語源は「小鳥ニ乘リ懸クル意」であるという(ハイタカについてはウィキハイタカ」に拠った)。なお、エイは漢字では他に「鱏」「鱝」「鰩」などとも書く。

「ヨマサヱイ」望月賢二監修「魚の手帖」では地方名として「アミガサエイ」(和歌山)・「チョウエイ」(富山。英名と同じである)・ヨコサエイ(和歌山)などが載るが、本記載の「マ」は良く見ると、なぞった(訂正した?)感じに墨色がこの字だけ濃く、「コ」のようにも見えなくはない。孰れにせよ、これは「ヨコサヱイ」が正しい(少なくとも「ヨマサエイ」ではネット検索が掛からない)。

「乙未南呂廿二日」「南呂」は陰暦八月の異名。従ってこれは天保六年八月二十二日で、グレゴリオ暦では一八三五年十月十三日である。

「行德の魚商、善」既出。梅園御用達の魚屋。魚善(うおぜん)の若旦那の方であろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 武術の演技を見る

図―614

M614

 
 
 
 近所で一軒家が建ちつつあるので、私はその仕事のあらゆる細部を見ることが出来る。インドへ行く途中の、ボストンの建築家グリノウ氏は私に、日本の横材を枘刺接(ほぞつぎ)する方法は、奇妙ではあるが、別に米国の大工のやる方法より優れていはしないといった。確かに日本の枘刺接法の設計は、非常にこみ入っている。グリノウ氏は、日本人が手斧を使用する方法に感心し、このような仕事がもっと米国で行われるといいのだといっていた。日本の道具は我国のものより鋭利であるらしく、鉋(かんな)をかけた板の面は手でさわると、気持のいい程ツルツルしている。ドクタア・ビゲロウは日本の鋸の歯が、柄の方では小さく、先端に近づくにつれて大きいという事実に、私の注意心を引いた【*】。屋根瓦は暗色のねばねばする泥土の中に埋め込むが、この泥はこねて球にまるめて、屋根に達する迄、一人から一人へと手渡す(図614)。

 

 

  * 家屋建築の詳細は『日本の家庭』に書いた。

 

 

[やぶちゃん注:「グリノウ氏」“Mr. Greenough”。不詳。発音は現行では「グリーノー」「グリノー」「グリーノウ」と音写する。近代、ボストン出身の著名な彫刻家・美術家にHoratio Greenough(一八〇五年 ~一八五二年)という人物がいるが、彼の後代の縁者か?]
 
 
 
図―615
 
M615  
 
図―616

M616

図―617

M617

図―618

M618

 数日前、ドクタア・ビゲロウに沢山の刀と鍔(つば)とを買って貰った日本人の刀剣商人が、彼の友人達を屋敷に連れて来て、日本式の剣術を見せた。彼は有名な剣術家や相撲取数名と一緒に来た。彼等が家の前の芝生の上に集った光景は、興味があった。黒色の刀剣や漢字で装飾した、長い白地の幕を日除けとしてかけ、斜陽をふせいだ(図615)。漢字と刀の絵(図616。漢字は幕の裏から見たので道になっている)とは、繰返して幕上に現れる。彼等は竹刀、槍、刀剣、及び「鎖鎌」といわれる武器で試合をした。この武器は封建時代に使用されたもので、その扱い方は非常に興味があった。「ジュージツ」と称する相撲の一種変った種類も行われたが、これは争闘に際し、武器無くして対手を殺すことを教えろものである。相撲のこの方法にあっては、弱い方の人が、強い人の力を如何に利用す可きかが教えられる。剣術者の動作が如何にも素速いので、その写生をすることは出来なかったが、彼等の武器の輪郭は若干写した(図617)。剣術者は面を地面に置いて相対してうずくまる。名前を呼び上げられると彼等拝面をしばりつけ(図618)、この上もなく地獄的な叫び声をあげながら、お互に勢よく撲りつけ合う。これ等の男達は、外国人に剣術の各種の型を見せる可く、特に員数へ来たので、無代(ただ)で働いたのである。

[やぶちゃん注:図616の左側の反転字は「劍」という字である。また、図617の左の武具は鎖鎌(先に短い槍を装着したタイプのようにも見える)であるが、右の武具は鎖鎌と同じ鎖と分銅を附けた、沖繩古武道の武具の一つであるトンファー(トイファー又は旋棍とも呼ぶ)様のものである。なお、本図は底本では鎖鎌を上して横画像で入っているが、原典通り、縦に配した。

「ジュージツ」原文“jujitsu”。柔術。ウィキの「柔道」によれば、古くは十二世紀以降の『武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。柔術は幕末までに百を越える流派が生まれていたとされる』。『明治維新以降、柔術の練習者が減少していた中、官立東京開成学校(のちの東京大学)を出て学習院講師になったばかりだった嘉納治五郎が、当身技(真之当身)を中心として関節技や絞め技といった捕手術の体系を編む一方で乱捕技としての投げ技も持つ天神真楊流柔術や、投げ技を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた起倒流柔術の技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け』、明治一五(一八八二)年、『東京府下谷にある永昌寺という寺の』書院十二畳を『道場代わりとして「講道館」を創設した』。『もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例』『などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない』。『嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが、当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた』とある。他の実に多彩な武具も同時に演技しているから、この柔術家は、まさにこの明治十五年に生まれた講道館系の者ではあるまい。]

2015/06/12

柳田國男 蝸牛考 初版(9) その種々なる複合形

       その種々なる複合形

 

 方言は乃ち右のごとき場合に於て、單なる消滅以外にも、尚色々の感化を受けなければならなかつたのであらう。前掲の諸表を見渡しても知れるように、曾て全國に亙つて案外に廣い領土を持って居たらうと想像せられるのは、たゞ單純なるマイマイの形としてゞあつて、それが童兒の唱へごとに適した、七言または五言の長い名となる頃には、必ず地方によって思ひ思ひの變化を見て居る。二三の例外のまだ解説し難いものはあるが、大體においてマイマイツブロは、關東も主として東京灣の四周にのみ行はれて居る。其中でもことに上總下總の間に、此種の複合の多く行はれて居るのを見ると、或は此の方面の今一つ以前の語が、ツブロであつた爲かとも推測せられるのである。陸前の遠田郡などでメンメンダバゴロ、九州では筑後三瀦郡においてマメツングリ、肥前の佐賀でメエメエツングラメといふことは、何よりも有力なる一箇の旁證である。なぜかといへば蝸牛の方言が、仙臺領においてはタマクラまたはタンバクラであり、九州は又弘くツグラメである故に、それとマイマイとが結托すれば、當然に此の語を作るべきだからである。私は最初德川氏が東國移封に際して、多くの文物をその郷里から持ち込んだことより類推して、このマイマイツぶロもまた一種の三河屋では無いかと思つて居た。併し立戻つてその本國の實状を檢めてみると、彼地には寧ろ是と近いものが無かつたのである。三河では海上尾張と交通の多い日間賀島に、越中とよく似たメイメイツノといふ語がある。又天龍川を登りに信州の下伊那郡に入って行くと、ここではダイロと結合してマンマイダイロ、若しくはママダイロという方言も發生して居るのである。

[やぶちゃん注:「三瀦郡」「みず眞」と読む。既注。

「メエメエツングラメ」は改訂版では『メェメェツングラメ』。

「檢めて」「あらためて」と訓ずる。]

 

 それから今一つ、是は何れの側面からの刺戟でも無く、殆ど獨立して出來たかと思ふメエメエコンジョ、もしくはメエメエクンジョウといふ一語がある。それが東三河の寶飯八名等の諸都に行われ、北して設樂に入ると、早くもメメクジとつまつて、甚だしく蛞蝓の名と近くなって居るのは、また一つの新らしい暗示である。我々は他日或はこの事例の精細なる考察によつて、個々の單語の力の補充、即ち當初其語を作り出した動機が不明になって後、更に別方面から新たなる支持者を見付け出さうとする、社會的傾向を立證し得るかも知れない。果してさういふ傾向があるものとすれば、是は國語史學の可なり大切なる問題であつて、效果は獨り所謂民間語原説の、由來を明らかにするのみでは無いのである。蝸牛を右に近い語で呼ぶ例は、東京の近くにも亦偶然に一處あつた。武藏の山村から甲州にかけては、蝸牛の方言はマイマイツブロでは無かつた。入間郡の一部にはメエメエズ、北多摩郡大和村でもメエメエズ、西多摩郡氷川ではマイモズ、それが甲府の周圍に行くとメンメンジョウとなり、その中間には前に擧げた北都留郡のモモウズを生じ、やや飛び離れた下野の上都賀郡にも、マメジツコといふ語を殘して居るのであるが、丁度さういふ例ばかりで取圍まれた中に、孤立して又一つのメエメエコウジがある。村岡良弼氏の下總方言一斑の中に、相模では蝸牛をメメクジと謂ふとあるのは、多分亦之れを指したのであろうと思うが、馬入川左岸の津久井の山村に於ては、今でも實際「めえめえこうじ、やあこうじ、角を出せ槍を出せ云々」といふ童詞が行はれて居るのである(相州内郷村話)。さうして是と同じ種類の章句は、又三河の寶飯郡にもあり、西は名古屋の市中に於ても、近年の流行かは知らぬが、やはり採集せられて居るのである(俚謠集拾遺)。

[やぶちゃん注:以上の段落中の蝸牛の方言名で「メエメエ」を含むものは、総てが改訂版では『メェメェ』となっている。

「宝飯八名」愛知県東部にあった、旧宝飯(ほい)郡(現在の豊川(とよがわ)市の内)と旧八名(やな)郡(現在の豊橋市・新城市・豊川市の各一部が相当)。

「設樂」愛知県の旧設楽(したら)郡。現在の北設楽郡と新城市の豊川以北に当たる。

「上都賀郡」栃木県西の中部にあった。現在の栃木市・鹿沼市・日光市の各一部が相当。

「村岡良弼」(りょうすけ 弘化二(一八四五)年~大正六(一九一七)年)は法制学者で地理学者。下総香取郡出身。旧姓は渋谷。昌平黌の明法(みょうぼう)科に学び、司法省・宮内省などで初期の法制整備を勤めた。退官後は地誌や国史を研究、「日本地理志料」七十二巻・「続(しょく)日本後紀纂詁」二十巻などを著わした(以上は講談社「日本人名辞典」に拠る)。

「俚謠集拾遺」先立って明治三八(一九〇五)年に、文部省が各都道府県から蒐集、大正三(一九一四)年に刊行された「俚謠集」に収録されなかったものを集めたもので、大正四(一九一五)年刊。]

 

   めえめえこんしよ角う出せ

   粉糠三升やらあに

 

[やぶちゃん注:「めえめえこんしよ角う出せ」改訂版では

 

   めえめえこんじょ角う出せ

 

となっている。]

 

 この歌の文言を見れば、コウジもクンジョもともに小牛のつもりであつたとは、もう疑ひが無いのである。蝸牛は常陸の多賀郡でべコ、石城も津輕もともにツノベコといふ名を用ゐているのみならず、支那の蝸牛といふ語が亦既に渦紋ある牛の義であった。二つの角を振りまわす貝蟲を、牛に譬へるといふことは小兒の自然で、少しも異とするに足らぬやうなものだが、私は尚一つ以前の誘因がなかったならば、特にこれを「小牛」と呼ぶやうな、地方的の變化は起らなかつたのでは無いかと思つて居る。然らばこの相州と三河と、二地に偶發した變化の共通の誘因は何であつたか。是は蝸牛をもナメクジと呼んだ、又一つの方言がかつてあったといふことから、説明してかゝるより他は無いのである。

[やぶちゃん注:「石城」「いはき」と読み、福島県の太平洋岸東南端にあった旧石城郡。現在のいわき市の内。

「支那の蝸牛といふ語が亦既に渦紋ある牛の義であった」不審。辞書類を見ても、そのような意味は出てこないし、聴いたこともない。「廣漢和辭典」には中国での「蝸牛」の意味としては「カタツムリ」の意以外には、「指紋」の意を示すのみである。「咼」は、「肉を抉り取った占い用の骨」の形が元で「えぐる」「あな」であるが、「亘」に通じてここでは「めぐる」「渦を巻く」の意、「渦を巻くような」の殻を持った、「牛」の角のような触角を有する「虫」が解字であって、ここで柳田の言うような実用上の意(義)は記されていない。識者の御教授を乞う。]

甲子夜話卷之一 41 御譜代御役人方、傘袋の事

41 御譜代御役人方、傘袋の事

寛政中か、秋元但馬守〔永朝〕の宅を訪たりしとき、話しに、御譜代の大名、御役人の傘を袋に付ざることは、神祖の上意有りしことなり。然を今時重役方にもこの御趣意を知らざるにや、帝鑑衆其外も、各家風の行裝を其まゝにせらるゝは、本を忘ざるとも云べき歟なれど、御趣意を守るとは云がたしと、申されし。是を以て思へば、吾天祥君〔肥前守、諱鎭信〕、雄香君〔壹岐守、諱棟〕の行裝に、傘は袋なかりしと聞く。これそのとき御譜代の列に加へられ、御譜代の勤る御役をも蒙られし故なるべし。祖父君〔諱誠信〕の頃迄も、この如くなりしが、其後は今の如く袋には入られし也。これは家の先規に復すると云事なるべし。

■やぶちゃんの呟き

「傘袋」大名が小休止するときに、日陰用に使った傘である巨大な立傘を使用しない折りに入れる袋のことか。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「秋元但馬守〔永朝〕」(つねとも 元文三(一七三八)年~文化七(一八一〇)年)出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代当主。ウィキ秋元永朝によれば、元文三(一七三八)年に五千石を領した大身旗本上田義当(よしまさ)の四男として生まれた。『義当は初代藩主秋元凉朝』(すけとも)『の実兄であった。凉朝が初め養子としていた逵朝が早世したため』、宝暦一〇(一七六〇)年二月に凉朝の養子となり、同年七月に従五位下、摂津守に叙位任官、明和五(一七六八)年に凉朝が隠居したため、家督を継いでいる。安永三(一七七四)年十二月に奏者番、安永九(一七八〇)年に但馬守に遷任、天明八(一七八八)年七月に奏者番を辞任しているから、本話当時は奏者番であった。因みに、ウィキの「山形藩」によれば、『もとは在地の戦国大名として山形を支配した最上家が、幕藩体制下では外様大名として』五十七万石の大藩として治めたものの、『改易され、徳川家譜代の鳥居家や保科家(御家門会津松平家の前身)の時代になると、東北地方における徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は』二十万石前後の中藩になっていた。ところが、『保科家が会津藩に移封されて幕藩体制が確立すると、山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が』十二家にわたって『頻繁に入れ替わった。しかもこの時期の所領は』六万石、多くても十万石程度の小藩となっており、『藩主も譜代大名のため在国より江戸滞在が長期化し、所領も関東に飛び地が存在していたことから藩政は不安定だった』という複雑な経緯を辿っていることが分かる。なお、耳嚢 巻之十 男谷檢校器量の事では一種のトリック・スターとして同人が出、時計の蒐集家であったことが語られてある(ウィキによれば、なかなかの好事家で『永朝は将棋を愛好し、八世名人九代大橋宗桂の弟子に名を連ねた』とある)。

「神祖」家康。

「帝鑑衆」「ていかんしゆう」。江戸城本丸表屋敷内の白書院下段の間の、東に連なってあった「帝鑑(ていかん)の間」のこと(中庭を挟んで「松の廊下」と相い対する位置)。ウィキ帝鑑の間によれば、『天井は格天井であり、襖には歴代将軍の亀鑑となるべき唐代の帝王をえがく(これが室名のおこるゆえんである)』。『将軍が白書院に出て諸侯を引見するさい、この間に詰める諸侯を「帝鑑間詰」という。越前庶流』、十万石以上の『諸大名および交代寄合その他がこれに属する』。慶応二(一八六六)年の武鑑によれば、家門四家・譜代六十家・合わせて六十四家が挙げられており、石高は一万石ないし十万石余、そのうち五万石及びそれ以上のものが二十八家、その他は五万石以下である。無城のものが十家ある、とある。

「各家風の行裝を其まゝにせらるゝは、本を忘ざるとも云べき歟なれど、御趣意を守るとは云がたし」――各々方、それぞれの家格相応に行列の装いに就いて、古くからとり決められた儀式上通り、ちゃんとなさっておられるところを見受けまするに、これ、決して本来の礼式をお忘れになっておらるるというわけではなかろうとは存ずれど、(傘袋の件に就いては)神君家康公の御趣意を守っておらるるとは、これ、何とも言い難きことで御座る。――

「吾」静山。彼は肥前平戸藩第九代藩主。

「天祥君〔肥前守、諱鎭信〕」平戸藩第四代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ 元和八(一六二二)年~元禄一六(一七〇三)年)幼名は重信、通称は源三郎、号は天祥庵・徳祐・円恵など。隠居してからは曽祖父で初代藩主と同じ「鎮信」と改めているので注意されたい。島原の乱や平戸貿易の停止など襲封当初から難問に直面したが、藩政機構の整備・藩財政の強化に努めた。また、茶人としても知られ、片桐石州に学び、後に鎮信流といわれる流派の基を開いた(主に思文閣「美術人名辞典」に拠った)。後に出る静山の祖父誠信(さねのぶ)の祖父。

「雄香君〔壹岐守、諱棟〕」平戸藩第五代藩主松浦棟(たかし 正保三(一六四六)年~正徳三(一七一三)年)。静山の曽祖父であった第六代藩主篤信の兄。

「これそのとき御譜代の列に加へられ、御譜代の勤る御役をも蒙られし故なるべし」――(譜代大名の参勤交代に於ける行装に於いて傘は袋に入れず、まるのまま出しておくという式法によって、この大名が譜代であることを意味する厳然たる印となり)、これこそが、神君家康公より当時の我ら先祖が畏れ多くも御譜代の大名の列に加えられ、そうした御譜代の者が務むるところの厳粛なる勤めをも委ねられ、かくも相応の御待遇をお受け致いて参ったことを示す、大事な証しと知らねばならぬのあろう。――

「祖父君〔諱誠信〕」平戸藩の第八代藩主松浦誠信(正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)。

「其後は今の如く袋には入られし也。これは家の先規に復すると云事なるべし」現在、静山は傘を袋に入れているというのである。平戸藩は外様であるから、まさに自分は本来のあるべき正しき式法に復したということになろうというものじゃ、と謂うのであろう。ここで静山、最後にシニカルにニヤっと笑っている気が私はする。

譚海 卷之一 下總國相馬にて元日の事

 下總國相馬にて元日の事

○下野相馬にては、元日より上下ともに潔齋精進にて、土民も容易に門を出(いづ)る事なし。儆戒(けいかい)甚しき事也。其國に平將軍將門の靈を祀る廟有(あり)。その神馬いづくともなく駈出(かけいだ)す事あり。それを期にして潔齋を止め吉禮に復し、正月の儀式を始むる事なり。神馬駈出せばそのまゝ江戸屋敷へも飛脚を以て注進する也。飛脚達する日より江戸相馬家にても始(はじめ)て正月の禮を行ふ事なりとぞ。

[やぶちゃん注:「下野」底本には「野」右に『(總)』と編者による訂正注がある。茨城県及び千葉県(下総国)にあった旧郡で、現在の茨城県の北相馬郡利根町と守谷市、及び取手市・常総市・つくばみらい市の一部、千葉県の我孫子市、及び柏市の一部に相当する。参照したウィキ相馬国)によれば、『平安時代末期に相馬郡の荘園の大部分が伊勢神宮に寄進されたため相馬御厨として文献に登場する。相馬御厨の税収管理権は千葉氏にあったようであるが、これを巡って上総氏などと争っている。千葉常胤の代に千葉氏による下総国の支配権が確定した後は二男相馬師常に相馬御厨が相続され、以降師常の子孫が相馬氏を名乗った』。『なお、現在福島県に存在する相馬郡は、中世下総国相馬郡より起こった千葉氏の一族相馬氏に由来するもので』、相馬氏第二代の『相馬義胤が軍功によって陸奥国行方』(なめかた)『郡(現在の福島県南相馬市および飯舘村)に地頭職を得』、第十一代の『相馬重胤が行方郡に土着したとされる。従って現在の茨城県北相馬郡、千葉県東葛飾郡と福島県相馬郡の歴史的な関係は深く、現在に至るまで交流が続いている』とある。底本の竹内氏の注によると、『平将門の本拠は下野国の猿島(茨城県)で、相馬小二郎を名告り、今も北相馬の郡名を残している。しかし近世の相馬家はその末流ながら、奥州相馬(福島県)の藩主であった』とある。以下の「相馬氏」の注も見られたい。

「儆戒」警戒する、用心する。「儆」も「いましめる」の意の畳語。

「江戸相馬家」ウィキ相馬氏」の「下総相馬氏」に、『下総相馬氏(流山相馬氏)は、鎌倉時代後期に内紛によって衰退したものの、室町時代には古河公方に従属して守谷城を本拠地として再興した。だが戦国時代には北条氏に付くかどうかで分裂し、反北条派である庶流の相馬治胤が家督を奪った。治胤は北条氏に降伏後、天正期には小田原征伐で北条氏に属したために改易されたが、子の秀胤は徳川家康に内応したことで治胤旧領の』五千石を与えられた。『秀胤は文禄の役に際して肥前国名護屋城で病死し、代わって弟の胤信に』三千石が『与えられたが、胤信の跡を継いだ盛胤の時に無嗣断絶となっている。盛胤の死後、相馬氏が名門であることから特別に末弟の政胤が徳川秀忠に召し出され、旗本として相馬郡内』千石で家名再興が許された。『一族には一橋徳川家に出仕した者もある』。『相馬永胤を出した彦根相馬氏も、この流山相馬氏の当主である相馬胤広(胤晴の祖父)の血を引き、相馬胤利(胤直(胤広の子、胤貞の弟)の孫)と治胤(妻が胤晴の娘)の娘との間に生まれた子の血統とされる』とある(下線やぶちゃん)。察するところ、先の竹内氏の注はこの「江戸相馬家」というのを、陸奥国の標葉郡から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部)を治めた相馬中村藩(そうまなかむらはん)当主である陸奥相馬家ととっているように思われる(或いはそう読めてしまう)。しかし、この場合、明らかに下総国相馬である以上、この「相馬氏」というのはまずは、旗本下総相馬氏(当然、その血を引くとする彦根相馬氏もこの風習に従った可能性がある)指していると読むのが正しいのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

毛利梅園「梅園魚譜」 ネコザメ

 
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「塩縣圖經(えんけんづけい)」に出づ。

    虎頭鯊(コトウサ)〔海産。〕

       〔猫ザメ。〕

       〔猫ヅラ。〕

       〔サヽヱワリ。〕

 

       乙未(きのとひつじ)閏七月廿六日、日本𣘺の

       魚餅店(うをもちだな)に於いて箭筆(せんぴつ)して寫す。

         改めて色を看(み)、眞圖す。

[やぶちゃん注:日本近海に生息するネコザメ科の代表種である軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ Heterodontus japonicus と同定してよいであろう(本邦には他に、本種に比べると比較的珍しいシマネコザメ(縞猫鮫)Heterodontus zebra も棲息するが、体表面に白色地の二十二~三十六本の暗色横帯が入る)。ウィキネコザメによれば、『太平洋北西部。日本では北海道以南の沿岸で見られる他、朝鮮半島、東シナ海の沿岸海域に分布する』。水深六~三十七メートルの『浅海の海底付近に生息し、岩場や海中林などを好む』。最大全長は一・二メートルに達する。背鰭は二基で、『いずれにも前端に鋭い棘を備える。これはとくに幼魚が大型魚の捕食から逃れるのに役立っている。臀鰭をもつ。体型は円筒形。薄褐色の体色に、縁が不明瞭な』十一~十四本の『濃褐色横帯が入る。吻は尖らず、眼の上に皮膚の隆起がある。この眼上隆起を和名ではネコの耳に、英名』(Japanese bullhead shark)『ではウシの角に見立てている。歯は他のネコザメと同様、前歯が棘状で、後歯が臼歯状である。循鱗は大きく、頑丈である』。『底生性で岩場や海藻類の群生地帯に住み、硬い殻を持つサザエなどの貝類やウニ、甲殻類などを好んで食べる。臼歯状の後歯で殻を噛み砕いて食べるため、サザエワリ(栄螺割)とも呼ばれる。日中は海藻や岩の陰に隠れ、夜間に餌を求めて動き回る夜行性である。遊泳力は弱いが、胸鰭を使って海底を歩くように移動することもある』。卵生で、本邦では三月から九月にかけて産卵が行われ(三~四月が最盛期)、雌は卵を一度に二個ずつ、合計六~十二個を産む。『卵は螺旋状のひだが取り巻き、岩の隙間や海藻の間に産み落とされた卵を固定する役割がある。仔魚は卵の中で』約一年かけて成長し、約十八センチメートルで孵化する。雄は六十九センチメートルで成熟する』。『刺し網などで混獲されるが、水産上重要でない。日本の和歌山など地方によっては湯引きなどで賞味される。酢味噌をあえる場合もある』。『日本では水族館などでよく飼育、展示される。下田海中水族館(静岡県下田市)はネコザメの繁殖賞を受賞している』(私もそこで初めて直にネコザメに触れた。すこぶるおとなしい)。『人には危害を加えない』とある。掲げた画像は国立国会図書館デジタルコレクションの梅園魚品図正 巻二」の保護期間満了(自由使用許可)のものである。

「塩縣圖經」は恐らく「海塩県図経」のことであろう。同書は明末の文人胡震亨(こしんこう 一五六九年~一六四五年)が著わした、彼の生地である海塩県(現在の浙江省嘉興市海塩県)の地誌。海塩県は銭塘河口の杭州湾北岸。胡震亨は一五九七年に挙人となり、定州知州などを経て兵部職方司員外郎に抜擢された。父祖以来の蔵書家で、著書に代表作である本「海塩県図経」の他「赤城山人稿」など数多く、特にライフ・ワークである唐詩の総集で、現在知られる「全唐詩」の本(もと)となった「唐音統籤(とうせん)」の最後にある「唐音癸籤(きせん)」三十三巻(唐詩に関わる見解や資料を多く収める)が知られる(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「乙未(きのとひつじ)七月廿六日」天保六年閏七月二十六日はグレゴリオ暦一八三五年九月十八日

「日本𣘺」言わずもがなであるが、後の関東大震災を契機として日本橋魚河岸は築地に移った。

「魚餅店」或いは「ぎよへい」、店「みせ/てん」と読んでいるのかも知れない。「魚餅」とは蒲鉾のことである。

「箭筆寫」矢竹製の持ち運びの容易な細い筆でデッサンしたことを指すものと思われる。矢竹とは単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ Pseudosasa japonica で、「竹」とつくが、成長しても皮が桿(かん:イネ科の植物では茎に相当する中空の幹をかく呼称する)を包んでいることから「笹」に分類される。現在は庭園竹・盆栽として植栽されるが、古くから矢軸の材料とする他、筆軸・釣竿・キセルの羅宇・装飾用の窓枠に利用されている(以上はウィキヤダケ」に拠る)。

「改めて色を看、眞圖す」この記載から見ると、後日、同じ蒲鉾屋に出向いて、別個体を見ながら彩色を施したように読める。]

2015/06/11

アリス物語   ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (二)涙の池

 
 
    二 涙 の 池

 

「變ちきりん、變ちきりん。」とアリスは叫びました。(餘り驚いたものですから、アリスはその時、もつと正しい言葉を使ふことを忘れてしまつたのでした。)「今度は世界一の大きな望遠鏡のやうに、むやみと伸びるわ。足さん、左樣(さやう)なら。(何故つて、アリスが下を見ると、足は最(も)う見えなくなるほど、ズツと遠くへ行つて居りました。)「まあ、可哀想な足さん。誰がおまヘに、これからは靴や靴下をはかせてくれるのか知ら。わたしにはできないと思ふわ。わたしお前と餘り遠く離れ過ぎてしまつたら、面倒なんか見てあげられないわ。お前はお前で、出來るだけ旨くやつていかなければ駄目よ、――でもわたし間違ひなく親切にして上げなけりや。」とアリスは思ひました。それでないと、わたしの歩きたい方へ歩いてくれなくなるから。さうねえ、わたしクリスマスの度毎(たびごと)に、新しい靴を買つて上げよう。」

 そこで、アリスはどういふ風に贈物(おくりもの)をしようかと、獨りでその方法を考へてみました。「配達屋さんに、持つて行つてもらはななやならないわ。」とアリスは考へました。自分の足に贈物をとどけるなんて、まあ何んなに滑稽だらう。その名宛(なあて)ときたら、ずゐぶんヘンテコなものだわ。

    爐格子(ろがうし)附近敷物町(ちやう)

        アリスの右足樣

                   アリスより

「まあ、なんてつまらないことを言つて居るのだらう。」

 丁疫この時、アリスの頭が廣間の天井にぶつかりました實際アリスはこの時、九尺以上も背がのびてゐたのでした。アリスは早速小さな金の鍵をとり上げて、庭の戸口へと急いでいきました。

 可哀想に、アリスは、今では横に寢ころんで、片目で庭をのぞくのが關の山でした。ぬけだすことなど、ますますむづかしいことでした。それでアリスは坐り込んで又泣き始めました。

「お前恥づかしく思はないかい。」とアリスは言ひました。「お前のやうな大きな女の子が、こんなに泣くなんて。すぐと泣くのをお止め。」そのくせアリスは相變らず、何升(なんじやう)となく涙を流しながら、泣きつづけました。それでとうとうアリスの身の廻りに、一つの大きな池ができて、四寸位の深さになりました。そして廣間の半分位(ぐらゐ)までとどいて行(い)きました。

 しばらくすると、遠くでパタパタと小さな足音がするのを、アリスは聞きました。それで、アリスはあわてて目を拭いて、何が來たかと見つめました。それは例の白兎なのでした。片手に白のキツド皮の手袋をもち、片手には大きな扇子を持つて、立派た服を着て戻つて來たのでした。兎はぶつぶつ獨語(ひとりごと)を云ひながら、大急ぎでピヨンピヨン跳んで來ました。「オオ、公爵夫人、公爵夫人、オオ、あの方を待たしたら、お怒りが大變だらうな。」

 アリスはもうその時ずつかり困り切つて、誰でもよい、助けを賴まうと思つて居たところでした。それで兎がアリスの側(そば)へ近くやつて來ましたとき、低いビクビクした聲で「もしお願ひですが――」と言ひ始めました。兎はびつくりして、ひどく跳び上つて、そのはずみにキツドの手袋と扇子を落して、一生懸命暗闇の中へ、駈け出して行(い)きました。

 アリスは扇子と手袋を、拾ひ上げました。廣間の中が大層暑いものですから、アリスは、始終扇子で煽ぎながら、話つづけました。「まあ、まあ、今日は、何て珍らしいことばかりあるんだらう。昨日なんかは、何もかも、いつもと變りなかつたわ、わたし一晩の中に、別の者に變つてしまつたのか知ら。ええと、わたし今朝起きたとき、いつもと同じだつたか知ら、何だか少し違つた氣持がして居たやうにも思へるけど。でもわたし、同じ人間でないとしたら、それぢやわたしは、一體誰(たれ)だといふことが問題になつてくるわ。アア、それは大變な考へ物だ。」それでアリスは、自分と同じ年頃の子供の中(うち)、誰(だれ)と變つたのかと思つて、知つて居る子供達を、あれかこれかと考へてみました。

「わたしアダでないことは確かよ。」とアリスは言ひました。「何故つて、あの方の髮は、長い捲毛(まきげ)だけれど、わたしのはちつとも捲毛でないんだもの、それかといつてわたしメーベルでもないわよ。だつてわたし、こんなに物識りなのに、ほら、あの子はほんのぽつちりしか物を識つてゐないぢやないの。それに、あの人はあの人で、わたしはわたしだわ――マア何だかすつかり分らなくなつて來た。ええと私、今まで知つてゐた事をちやんと知つてゐるか、試してみよう。四五の十二、四六の十三、それから四七の――おやおや、こんな割合ぢや二十にとどかないぢやないの。でも、九九なんか面白くないわ。地理をやりませう。ロンドンはパリーの都で、パリーはローマの都で、ローマは――だめだわ、みん々間違つて居るわ。わたしメーべルと變つてしまつたに違ひないわ。わたし『小さな鰐が――』を唄つて見よう。」さう言つて、アリスは兩手を前垂(まへだれ)の上で組合せて、丁度學校で本でも讀むやうに、歌をくり返し始めました。けれどもアリスの聲はしやがれた妙な聲で、文句がいつものやうにでてきませんでした。
 
 

   小さい鰐がピカピカと、

     光る尻尾をうごかして、

   ナイルの水をかけまする。

     金の鱗の一枚づつに。

   さも嬉しげに齒をむいて、

     きちんと擴(ひろ)げる肢(あし)の爪、

   小さい魚(さかな)を喜び迎へる

     につこりやさしい顎(あご)開けて。

 

「これでは確かに文句が違つてるわ。」と可哀想(かはいさう)にアリスは言ひました。そして、眼の中には涙を一杯ためて、又言ひつづけました。「わたしとうとうメーベルになつたに違ひないわ。わたしこれからは、あの汚い小さい家に行つて暮さなければならないのかしら、そしておもちやなんて、ろくにありやしないのだ。そしてまあいつでも澤山御本(ごほん)を讀まされるんだわ。いいえ、わたし決心しちまつた。若(も)しわたしがメーベルになつたのなら、ここに坐つたままで居るわ。みん々が頭を下げて、『さあ、こちらへお出で。』と言つても、言ふことを聞いてやらないわ。わたしは上を向いたきりで言つてやらう。「でもわたしは誰(たれ)なのですか。それを先に言つて…下さい。そしてわたしが好きな人になつて居たのだつたら、わたし行くわ。さうでないなら、わたし誰(たれ)か他(ほか)の人になるまで、ここに坐つたままで居るわ。」つて。――でも、ああ何て事だ。」アリスは急に涙をドツと出して泣き出しました。「みんなお辭儀をして來てくれるといいんだが。わたし此處に獨りぽつちで居ることは、あきあきしてしまつたわ。」

 かう言つてアリスは、ふと自分の手を見ました。すると驚いた事には、喋つて居る内に、自分が兎の小さいキツドの白手袋をはめてしまつて居るのを知りました。「わたしどうしてこん々ことかできたのだらう。」とアリスは考へました。「わたし又小さくなつたに違ひないわ。」アリスは起ち上つて丈(たけ)をはかりに、テーブルの處へと行(ゆ)きました。するとなるほど、思つた通りに二尺ばかりの背(せい)に、なつて居(を)りました。そしてまだずんずん縮みかけて居りました。アリスは直ちに、これは扇子を持つて居るからだといふことに氣がつきましたので、あわてて扇子を投げだして、身體(からだ)がすつかり縮みこんでしまふのを、やつと免かれました。

「まあ、ほんとにあぶないところだつた。」と、アリスはこの急な變り方に、大層驚きながらも、自分の身體(からだ)がまだなくなつてしまはなかつたのを、喜んで言ひました。「さあ、それぢやか庭に行かう。」アリスは大急ぎで、小さな扉口(とぐち)の處へ引返して來ました。ところが、おや!その戸は又、元通りに閉まつて、小さな金(きん)の鍵は前のやうに、ガラスのテーブルの上に載つてゐるではありませんか。「これでは前より惡くなつたことになるわ。」と可哀想な、この子は考へました。「わたしこんなに小さくなつたことなんか、決してありやしないわ。ほんとに。これぢやあんまりひどいわ。」

 かう言つたとき、思はずアリスはするつと、足を滑らしたものです。そして、そのままポチヤンと、顎(あご)まで鹽水(しほみづ)の中に入つてしまひました。初めアリスの頭に浮んだのは、自分がどこか海にでも落ちたのだらう、といふ考へでした。「さうだつたら、わたし汽車ででも歸れるわ。」と獨語(ひとりごと)を言ひました。(アリスは生れてから一度海岸に行つたことかありました。それでアリスは、英國の海岸なら、何處(どこ)に行つてもそこにはいろいろの游泳(およぎ)の道具があつて、子供たちが木の鍬(くは)で砂を掘つたり、それから宿屋が一列に並んで居たり、その後(うしろ)の方には、停車場(ていしやじやう)があるものだと、大體思ひこんで居りました。)けれども、間もなくアリスは、自分が先(さ)き程背(せい)の高さ九尺程もあつたときに流した涙の池に、落ちて居るのだと云ふことに氣がつきました。「わたし、こんなに泣かなければよかつたわ。」とアリスは何(ど)うかして、上(あが)らうと思つて、泳ぎまはりながら言ひました。「あんまり泣いたので、自分の涙で溺れるやうな罰(ばち)をうけるんだわ。でも隨分妙な事があるもんだ。兎に角、今日は何から何まで變てこなことだらけだわ。」

 丁度其の時、アリスは此の池で、自分から一寸(ちよつと)離れたところで、何かが水をばやちばちややつてゐる音を聞きました。アリスは「何だらう。」と思つて、傍(そば)ヘズツと泳いでいきました。最初アリスはそれは海象(かいぞう)か河馬(かば)に違ひないと思つたものです。けれどもそれから自分が今では、どんなに小さくなつて居るかといふことを思ひだしました。それでアリスは直ぐに、それが自分と同じやうに、池の中に落ち込んだただの鼠なのだといふことが分りました。

「さうだ、この鼠に話しかけたら、何かの役に立つかも知れない。」と考ヘました。「何もかもここでは變つて居るんだから、鼠だつてお話ができるかも知れないわ。とにかくためしてみたつて、何の損にもならないんだから。」そこでアリスは言ひ始めました。「もし鼠よ、この池の出口を知つて居るの、わたし最(も)う泳ぎ廻るのに、すつかり疲れちやつたの。もし鼠よ。」(アリスはもし鼠よと、かう言つて鼠に話しかけるのが正しいに違ひないと思ひました。何故つて今までに、こんなことをしたことがありませんでしたけれども、兄(にい)さんのラテン文法の文(ぶん)に「鼠が――鼠の――鼠に――鼠を――もし鼠よ。」と書いてあるのを思ひ出したのでした。)鼠はアリスの顏を穴のあく程見つめました。そして片方の可愛(かはい)らしい目で、アリスに目くぱせしたやうでしたが、何にもものは言ひませんでした。「多分英語が分らないんだわ。」とアリスは思ひまLた。「ウヰリアム大王と一緒に、渡つて來たフランスの鼠かも知れないわ。」(アリスがこんなをかしな考へ方をしたのも、一體歷史に就いてアリスは、何(なん)とか彼(かん)とか聞き嚙(かじ)つてはゐましたけれども、何(なに)が何(なん)年前に起つたのだと云ふやうな、明瞭(はつきり)した考へは持つてゐなかつたからです。)そこでアリスは、又言ひ始めました。「Ou est ma chatle(ウー エ マ シヤツト) ?」(わたしの猫は、何處に居ますか。)これはアリスのフランス語の讀本(どくほん)の最初に、あつた文章でした。すると突然鼠は池から跳び上り、その上まだおどろきで身體中(からだぢゆう)を、震はせてゐるやうにみえました。「まあ、ごめんなさい。」と、アリスは可哀想な動物の氣持を惡くしたと思つて、急いで言ひました。「わたしお前さんが猫をお好きでないといふことを、すつかり忘れて居ましたわ。」

「猫は好きではない」。と鼠は憤(こ)つた金切聲(かなきりごゑ)で言ひました。「若し、お前さんがわたしだつたら、猫が好きになれるかい。」

「うん、さうなりや多分好きにならないわ。」とアリスは宥(なだ)めるやうな聲で言ひました。「おこらないでね、けれどわたし家(うち)のデイナーだけは、お前さんにだつて見せたい位よ。お前さん、デイナーを一目見た日にや、きつと猫が好きになるにきまつてるわ。それは可愛らしい、おとなしい猫なのよ。」と、アリスはぐづぐづ池の中を泳ぎ廻りながら、獨語(ひとりごと)のやうに、話して居りまた。「その猫は、煖爐(ストーブ)の側(そば)でやさしい聲でゴロゴロ云つたり、前足をなめたり、顏を洗つたりするのよ――それから子供のお守をさせるのに、優しくつてとてもいいの。――そして鼠をとることなんか、素敵に旨(うま)いのよ――あら、かんにんしてね。」とアリスはまた叫びました。何故なら、今度こそは鼠が身體中(からだぢゆう)の毛を逆立てたので、もうすつかり怒(おこ)らしてしまつたと感じたからです。「お前さんがいやなら、わたし達猫の話なんか止めませう。」

「わたし達だつて?ふん。」と鼠は尻尾(しつぽ)の先まで、ぶるぶるふるはせていひました。「まるでわたしまでか、そんな話を一緒にやつてるやうに聞えるぢやないか。わたしの一家(いつか)の者は、むかしから猫が大嫌ひだつたのだ。あんな汚らしい下等な賤しいものなんか、もう二度とあいつの名なんか聞かせて貰ひたくないもんだ。」

「ほんとにお聞かせしないわよ。」とアリスは大層あわてて、話の題(だい)を變ヘようとしました。「お前さんは――あのお前さんは――好きかい――あの、犬は。」鼠は返事をしませんでした。それでアリスは、熱心に話つづけました。「家(うち)の近所に大層可愛らしい小さい犬が居るのよ。お前さんに見せて上げたいわ。」

「目の光つて居る小さいテリアなの。そしてまあ、こんなに長い茶色の捲毛(まきげ)をして居るのよ。そして何か投げてやると、すぐにとつてくるし、そして御馳走をせがむ時には、チンチンもするの。何でも、いろんなことをす

るのよ。――わたし半分位(ぐらゐ)しか覺えて居ないわ。――その犬は百姓のよ――あんまり役に立つんで、その百姓は千圓の價値(ねうち)があると言つて居るわ。そして鼠なんかすつかりかみ殺してしまふんだつて、――あら、また!」悲しい聲でアリスは叫びました。「又怒(おこ)らしてしまつたか知ら。」なぜなら、鼠は一生懸命アリスの側(そば)から、泳ぎ去らうとして、池中を騷騷しく搔きまはしたからです。

 そこでアリスはやさしく後(うしろ)から、呼びかけました。「もし、鼠さん、戻つていらつしやいよ。お前さんが嫌(いや)なら、猫の話も、犬の話もしませんから。」鼠はこれを聞いて振り返つて、靜かにアリスの所に泳いで來ました。鼠の顏は全く靑くなつてゐました。(怒(おこ)つてゐるのだとアリスは考へました。)鼠は低いオロオロ聲でいひました。「向ふの岸(きし)に行(い)きませう、あすこでわたしは身の上ばなしをしませう。さうすれば、何故(なぜ)わたしが猫や犬が嫌ひだかお分りになります。」

 丁度出かけるのによい時でした。何故といつて、池の中は、落ち込んだ鳥や獸(けもの)でガヤガヤしはじめて居りましたから。鴨(かも)や、ドードー(昔(むかし)印度洋の Mauritius に住んで居た大きな鳥)や、ローリー(一種の鸚鵡(あうむ))だの、子鷲(こわし)だの、いろいろ々奇妙な動物が、集つて居りました。アリスが先になつて泳ぐと、みんな後(あと)から岸に泳いでいきました。

[やぶちゃん注:「白のキツド皮の手袋」原文“the white kid-gloves”。「キッド皮」は Kid skin のことで、生後六ヶ月程度までの仔山羊の革を鞣(なめ)した革で、質感は牛に比べると肉が薄くて軽く、肌理(きめ)が美しく、素材に透明感があって、牛革と異なり、鱗状の独特の毛穴を持つことを特徴とする。高級婦人靴や手袋などによく用いられる。

「ばやちばちや」はママ。「ばちやばちや」の誤植であろう。

「海象(かいぞう)」原文“a walrus”大型海棲哺乳類のセイウチ。]

「今昔物語集」卷第三十一 越後國被打寄小船語第十八

[やぶちゃん注:前話に続く異物漂着譚で、筆者が意識的に併記したことは明白である。本話は池上氏の岩波文庫版には所収しないので、小学館昭和五四(一九七九)年刊の馬淵和夫・国東文麿・今野達校注「日本古典文学全集 今昔物語集四」の原文を底本とし、片仮名を平仮名に直し、恣意的に漢字を正字化して示した。ルビは私が当初の凡例に準じて取捨選択した(底本のルビは歴史的仮名遣)。]

 

越後國に打ち寄せらるる小船の語 第十八

 

 今昔、源の行任(ゆきたふ)の朝臣と云ふ人の、越後の守(かみ)にて其の國に有(あり)ける時に、□□□の郡(こほり)に有ける濱に、小船打寄せられたりけり。廣さ二尺五寸、深さ二寸、長さ一丈許(ばかり)なり。

 人、此れを見て、「此(こ)は何也(いかなり)ける物ぞ。戲れに人などの造(つくり)て海に投入(なげいれ)たりけるか」と思(おもひ)て、吉(よ)く見れば、其の船の鉉(はた)、一尺許を迫(はさま)にて、梶(かぢ)の跡有り。其の跡、馴杭(なれつぶれ)たる事限無し。然れば、見る人、「現(あらは)に人の乘(のり)たりける船也けり」と見て、「何也(いかなり)ける少人(ちさきひと)の乘たりける船にか有らむ」と思て、奇異(あさまし)がる事限無し。「漕(こぐ)らむ時には蜈蚣(むかで)の手の樣(やう)にこそは有らめ。世に珍(めづらし)き物也(なり)」と云(いひ)て、館(たち)に持行(もちゆき)たりければ、守も此(これ)を見て、極(いみじ)く奇異(あさまし)がりけり。

 長(おとな)なる者の云けるは、「前々(さきざき)、此(かか)る小船寄る時有(あり)」となむ云ければ、然(しか)れば、其の船に乘る許(ばかり)の人の有るにこそは。此(ここ)より北に有る世界なるべし。此(か)く越後の國に度々(どど)寄(より)けるは、外(ほか)の國には、此(かか)る小船寄(より)たりとも不聞(きこ)えず。

 此事(このこと)は、守、京に上(のぼり)て、眷屬(くゑんぞく)共に語りけるを聞繼(ききつぎ)て、此(かく)なむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

 「卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七」(常陸國□□郡(こほり)に寄る大ひなる死人(しにん)の語(こと) 第十七)に続く、奇異の漂着物譚で、搭乗者はいないものの、まさに滝沢馬琴の「兎園小説」に出る「うつろ舟の蛮女」(「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」参照)の「うつろ舟」と遠く通底し、ここは丸木舟であること、搭乗者のいないことの二点に於いても、文字通り、真正の「うつろ舟」で、最後に古老が登場して、昔語りで周囲が納得感心する(と読める)辺りもよく似ている。しかも、漕ぎ手を想起して前話の巨人大女とは対照的な、舟の小ささや浅さ、船端の痕跡から恐ろしく小さな小人(こびと)の水手(かこ)を想起する辺り、話柄の創りも上手い。底本の解説には、『日本海沿岸にも海流に乗って遠くの住民が漂着したらしく、現在、新潟市の北方文化博物館には漂着した古代の船の破片が蔵されている』とある。横これとは別なものと思われるが、山直材・松本哲共著の論文「日本に現存する刳舟」(『海事資料館年報』7:13-19/一九七九年)には、同博物館分館(新潟市新発田市)に一艘(破片ではなく完品と思われる)、加治川(かじかわ:新潟県新発田市及び北蒲原郡聖籠町を流れる)で使用していたものが出土品としてリストに上っている。Master of Chikuzen氏のサイト「邪馬台国大研究」のこちらのページにある新潟県北蒲原郡加治川村大字金塚字青田の青田遺跡出土とする丸木舟の写真と解説が出るが、これであろう。その丸木舟は全長が五・四七メートル、幅七十五センチメートルとあり、本話のそれと比すと、長さは短いものの、幅は美事に一致する。本邦で出土する(漂着ではない)ものには縄文・弥生時代の遺物も含まれ、当時の縄文人の成人男性で平均身長は百六十センチメートル、弥生人で百六十二~百六十三センチメートルと推定されているから、これらの出土品を本話の舟と対照してみても、必ずしも驚くべき小人が乗船していた訳ではないことが分かる。なお本話の漂着地は越後であるから、必ずしも本話で推測されているように北方に限定することは出来ず、南から対馬海流を北上してきた可能性も視野には入れねばなるまい。なお、大きさと舷側の櫂による摩耗痕から見ても、実際に人が載って漕いだ実用の丸木舟であって、所謂、祭祀用に放たれたミニチュアとは思われない。また北方の小人国となると、アイヌ民族のコロボックル伝承との関連も考えられるか。

「源の行任」「朝日日本歴史人物事典」等によれば、源行任(生没年未詳)は平安後期の下級貴族で、醍醐源氏の出で道長の家司を勤めた源高雅の子。能登守・越後守などを歴任した。越後守の着任期は調べ得なかったが、在任中の寛仁三(一〇一九)年十月二十九日に、五節の舞姫を献じなかったため、釐務(りむ:律令制において官職を帯びた者が官司にてその職務を行うこと)を停止(ちょうじ)されており、この年が本話の下限となる。その後、治安三(一〇二三)年には備中守に任じられ、その秋、受領として五節の舞(豊明節会に行われる少女の舞い)には舞姫を拠出している。近江守時代の長元四(一〇三一)年七月七日には富小路西の上東門大路より北にあった自邸を焼亡したが、これは故入道大相国(藤原道長か)の持家を行任が手に入れたもので、世に「御倉町」と称されており、典型的な富裕受領であった、とある。

「廣さ二尺五寸」舟の幅七十五・八センチメートル。

「深さ二寸」深さ六センチメートル。これは船体内側の刳り込んだ部分の深さを言っていよう。全長や幅に比して異様に浅い。

「長さ一丈」舟の全長三メートル。

「船の鉉(はた)」左右の舷側(げんそく)。

「一尺許を迫(はさま)にて」約三十センチメートルの間隔で。

「梶の跡有り」櫂・艪などのオール状のもで漕いだために生じた傷か、或いはそれを固定するための艪臍(ろべそ)様のものの痕跡があった。

「馴杭(なれつぶれ)たる」久しく使用したために、その箇所が有意にすり減っていることをいう。

「眷屬」親族或いは家来。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

   越後国に打ち寄せられた小船の話 第十八

 

 今となっては……昔のことじゃ……源の行任(ゆきとう)の朝臣とおっしゃるお方が、越後の守(かみ)として、かの国に在任されておられた折りのこと、×××の郡(こおり)にあった浜に、小さな船が、これ、うち寄せて参ったと申す。

 船端の幅はたった二尺五寸、内の深さはなんと、二寸しかのぅて、長さは一丈ばかりの、異様に小さな舟じゃった。

 集まったる者は、これを見、

「……これはまた……一体、なんじゃろか?……誰かが、ご苦労なことに、悪戯(いたずら)に拵え、海に投げ入れでも、したものかのぅ?……」

と疑って、よぅく見てみたところが、その舟の両の舷(はた)には、これ、きっちり一尺ほどの間(ま)をおいて、梶(かじ)を漕いだ跡があったと。その跡は、これまた、久しゅう使(つこ)うたによって、それを当てておったところが、これ、ひどぅ、擦り減って御座って、半端ない。されば、それを見つけた者はそこを指して、

「……いんや! これを見い! これは、現(げん)に人の乗っておった船に相違ないぞ!」

ときっぱりと言うた。されど、

「……それにしても……いったいこれ、どんなに小さき人の、乗っておった舟やったんやろうのぅ!?……」

と思うと、いやもう、これ、ただただ、驚き呆れるばかりで御座ったじゃ。

「……さぞ、漕いでおった時は、これ、あたかも、かの小虫の蜈蚣(むかで)が、仰山な手足を蠢かすに似たもんであったに違いない!……いやはや! 世にも珍らしき奇物じゃて!」

と言いあったによって、国司さまの館(やかた)へと皆して担いで持ち込んだところが、守なる行任(ゆきとう)さまも、これをご覧にならるるや、すっかり驚き呆れたるご様子であったと申す。

 その折り、つき添っておった土地の古老の者の申すには、

「……ずぅーっと先(せん)のことじゃった……このような摩訶不思議な小舟の、浜に寄せ来たったことの、あったじゃ……」

と呟いたによって――されば――信じ難いことじゃが――その玩具(がんぐ)のような小さなる舟に、何人もの水子(かこ)が乗れるほどの、これ、小人(こびと)なる人々がおるに違いないとよ。

 ここ越後より、ずぅーと、これ、北に御座る国なんじゃろうのぅ……かくも、この越後の国に、たびたびうち寄せて参ると申す上は。

 他(ほか)の国にては、このようなる奇体な小舟が流れ着いたと申すはこれ、見たことも聞いたことも、なければのぅ。……

 この話は、かの守(かみ)行任さまが任果てられ、京にお戻りになった折り、そのつき従っておった家来や僕(しもべ)どもの、語っておったを、これまた、小耳に挟んだ京雀どもが、かく、語り伝えているとかいうことである。

2015/06/10

譚海 卷之一 堀部安兵衞娘妙海尼の事

  堀部安兵衞娘妙海尼の事

 龜井戸安場(あんば)大杉明神の近所に、妙海尼と云(いふ)庵を結(むすび)て住(すめ)る有(あり)。淺野家臣堀部安兵衞娘なるよし。大石内藏介等泉岳寺へ葬禮濟(すみ)し後、和尚の弟子に成(なり)たきよし願(ねがひ)しに、若き婦人いかゞとて承引せず。強(しい)て願(ねがひ)ければ、さらば淺野家の墓所に一夜行(ゆき)て居(ゐ)よと命ぜられ、やがて墓所に往(ゆき)て平明まで有(あり)て恐るゝ躰(てい)もなかりしかば、此上はとて剃髮をゆるされけり。勇猛なる尼にて、淺野家再興を願ひ、老中の駕(かご)に就(つき)て、願書を捧(たてまつり)し事ども度々なりしとぞ。前後三十餘度公儀を犯しねがひけるとぞ。諸國をも行脚して至ざる所なし。後養子して堀部安兵衞と云(いふ)名を繼(つが)せ、田沼主殿頭(とのものかみ)殿留守居にて現存せり。毎月泉岳寺へ墓參怠らざりしが、衰老の後(のち)泉岳寺の門前へ引移(ひきうつ)り香花(かうげ)怠らず。八十九歳にして終りぬ。安永年中までありつる人なり。小兒の泣(なき)いふに、制せずしてなかするがよし。其兒生長してものいひのびらか成(なる)もの也と、同尼の物語也。出家のとしは二十六歳なりしとぞ。

[やぶちゃん注:「淺野家臣堀部安兵衞娘妙海尼」野口義晃・木村和成・hatの共作になるサイト「大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典」の堀部安兵衛の妻で堀部弥兵衛娘「ほり」の項(中程)を見るに、「娘」の記載はない。赤穂浪士の吉良邸討入は元禄一五(一七〇三)年であるが、「ほり」の生年は同項によれば延宝五(一六七七)年で、討入の時、安兵衛の妻ほりは満二十六歳であり、「出家のとしは二十六歳」とほぼ一致する。しかし、「譚海」の起筆は安永五(一七七七)年で「ほり」の生誕から丁度、百年目、討入から実に七十四年後、しかもこの話柄、筆者の津村淙庵自身が実際にこの「堀部安兵衞娘」である「尼」と実際に言葉を交わした形で記載されているから、これはもう「堀部安兵衞娘」でなくては化け物である。そこでリンク先の「大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典」の安兵衛の妻「ほり」の記載に戻って読んでみると、元禄一六(一七〇三)年二月の『弥兵衛と安兵衛の切腹後は母の実家に身を寄せ、後に一族の忠見扶右衛門の子に堀部家を継がせる。これが後に熊本藩に召し抱えられると、ともに熊本に移り』、享保五(一七二〇)年、『熊本に没した』とあり、『実名はあまり知られておらず、後世の文芸作品や演劇作品では複数の名前がつけられているが、「ほり」あるいは「幸」が実名と考えられている』と記す。享年四四である。ところが、『なお、後に安兵衛の妻を名乗る妙海尼が江戸泉岳寺に現れたが、ほりはこのころには既に没していたため、別人である』という記載がそこに付随するのである。さらにこの安兵衛の妻を名乗った妙海尼なる人物の項が別に設けられており下方)それによれば、妙海尼の生年は貞享二(一六八五)年で没年は安永八(一七七八)年とあり(この尼の生まれた時、実際の安兵衛の妻「ほり」は八歳(!)で、没年は淙庵は「譚海」を起筆した翌年でこの生年が正しければ「八十九歳」どころか享年九十四歳(!)である)、以下、「略伝」には、『はじめ江戸亀戸安場大明神に庵をもうけ、堀部弥兵衛の娘で堀部安兵衛の妻としてその主家浅野家の再興を幕府老中に直訴するなどしていた。しかし、直訴状には本名「じゅん」と記載されており、史実の弥兵衛の娘で安兵衛の妻ほりと名が異なっている』。安永三(一七七四)年、『江戸泉岳寺に清浄庵を結んで赤穂浪士の菩提を弔うとともに、浪士の昔語りを始める。水戸藩主徳川治保、上州館林藩主松平武元、長門清末藩主毛利政苗などの屋敷にも招待され、江戸城大奥にも召されて、将軍徳川家治の側室おちほの方、田沼意次・意知父子の前でもこれを披露したが、その最晩年には安兵衛の未亡人でないことを訪れる人々にもらしていたともいわれている』。安永八(一七七八)年、『泉岳寺に没。浪士たちの墓の傍らに安兵衛未亡人として墓碑が残る。なお、その言動は「妙海語」として残され、多くの芝居ではその語られた生涯が引用されたが、後にその内容に誤りが多いことが指摘されている』とあって(下線は総てやぶちゃん)、正直、開いた口がふさがらない驚くべき事実ではないか。

「龜井戸安場大杉明神」この名称の神社は現存しないのでよく分からないのであるが、これは現在の江東区亀戸三丁目にある亀戸香取神社のことではあるまいか? 何故なら、Murakami Tetsuki氏のサイト「古今宗教研究所」の、茨城県稲敷市阿波にある、通称「大杉大明神あんばさま」と呼ばれる大杉神社」記載の「由緒」の中に、この大杉神社は『疱瘡除けの神としても信仰を集め、「あんば信仰」は関東一円のみならず千葉県から岩手県に及ぶ太平洋岸に広がった』とあって、特に享保一二(一七二七)年に『江戸の亀戸香取神社に大杉大明神が飛来したとして大騒ぎになり、悪魔払え囃子(あんば囃子)が大流行したと伝えられる』とあるからである(下線やぶちゃん)。識者の御教授を乞うものである。

「大石内藏介」底本では「介」に右に編者による『(助)』という訂正注がある。

「田沼主殿頭」田沼意次。]

2015/06/09

「今昔物語集」卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七

「今昔物語集」卷第三十一 常陸國□□郡(こほり)に寄る大ひなる死人(しにん)の語(こと) 第十七

 

 今昔、藤原の信通(のぶみち)の朝臣と云ける人、常陸の守(かみ)にて其の國に有けるに、任畢(にんはて)の年、四月許(ばかり)の比(ころ)、風糸(いと)おどろおどろしく吹て、極(いみじく)く荒ける夜、□□の郡の東西の濱と云ふ所に、死人(しにん)被打寄(うちよせ)られたりけり。

 其の死人の長(た)け、五丈餘也けり。臥長(ふしたけ)、砂(いさご)に半ば埋められたりけるに、人、高き馬に乘て打寄(うちより)たりけるに、弓を持たる末(すゑ)許(ばかり)ぞ此方(こなた)に見えける。然(さ)ては其の程を可押量(おしはか)るべし。其の死人、頸(くび)より切(きれ)て、頭(かしら)、無かりけり。亦、右の手、左の足も無かりけり。此れは、鰐(わに)などの咋切(くひきり)たるにこそは。本(もと)の如くにして有ましかば、極(いみ)じからまし。亦、低(うつふ)しにて砂(いさご)に隱たりければ、男女(なんによ)何れと云ふ事を知らず。但し、身成り・秦(はだ)つきは女にてなむ見えける。國の者共、此れを見て、奇異(あさまし)がりつ、合(あひ)て見喤(みののしり)ける事限無し。

 亦、陸奧(みちのく)の國に海道(かいだう)と云ふ所にて、國司(くにのつかさ)□の□□と云ける人も、此(かか)る大人(おほきなるひと)寄たりと聞て、人を遣(や)て見せけり。砂(いさご)に被埋(うづまれ)たりければ、男女(なんによ)をば難知(しりがた)し。女にこそ有(あん)めれとぞ見けるを、智(さと)り有る僧なむどの云けるは、「此(こ)の一世界(いつせかい)に此(かか)る大人(おほきなるひと)、有る所有(あり)と、佛、説(とき)給はず。此(これ)を思ふに、阿修羅女(あしゆらによ)などにや有らむ。身成(みなり)などの糸(いと)淸氣(きよげ)なるは、若(も)し然(さ)にや」ぞ疑ひける。

 然(さ)て、國の司(つかさ)、「此(かか)る希有(けう)の事なれば、何(いか)でか國解(こくげ)不申(まうさ)では有(あ)らむ」とて、申上むと既にしけるを、國の者共、「申し上げられなば、必ず官使(くわんし)下(くだり)て見むとす。其の官使の下らむに、繚(あつかひ)大事(だいじ)也(なり)なむ。只(ただ)隱して、此の事は有るべき也(なり)」と云ければ、守(かみ)、不申上(まうしあげ)で隱して止(やみ)にけり。

 而る間、其の國に□□の□□と云ふ兵(つはもの)有けり。此の大人(おほきなるひと)を見て、「若(も)し、此(かか)る大人(おほきなるひと)寄來(よりき)たらば、何(いか)がせむと爲(す)る。若(も)し箭(や)は立(たち)なむや、試(こころみ)む」と云て射たりければ、箭、糸(い)と深く立(たち)にけり。然(しか)れば、此れを聞く人、「微妙(めでた)く試たり」とぞ、讚(ほ)め感じける。

 然(さ)て、其の死人、日來(ひごろ)を經(へ)ける程に亂(みだれ)にければ、十(じふ)、二十(にじふちやう)町が程には、人否(え)不住(すま)で、逃(にげ)なむどしける。臭さに難堪(たへがた)ければなむ。

 此の事、隱したりけれども、守(かみ)、京に上にければ、自然(おのづか)ら聞えて、此(か)く語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

 出典は未詳であるが、二件の記事のカップリングから見ても、創作ではなく、事実として風聞されたものであると考えてよい。小学館「日本古典全集」版の解説では、『三面記事的説話であるが、また巨人伝説的な匂いもある。海流の関係で、常陸・陸奥の海岸には、遠い国々から漂着がまれにあったようだ』とし、『本話は史実に合致する国司の名も見えることから』(後注参照)『誇張はあるが一応事実を伝えたものであろう』と評している。私の授業やサイトに親しんでおられる方は、即座に滝沢馬琴の「兎園小説」に出る「うつろ舟の蛮女」(「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」参照)を想起されるであろう。特に、後半の話に於いて、お上に報告すると、検分の調査団が派遣されて来て、その接待や何やかやで、当方の一方ならぬ難儀となるということで、秘かに握り潰す(「兎園小説」では円盤状の乗り物に乗って漂着した金髪の白人成人女性をまた同船に載せて突き流している)辺り、遠く本話に通底している。

 さらに私は、本話の二例ともに、遺体が非常に大きいこと、首や四肢が大きく欠損しており(腐敗脱落や本文にあるように鮫などに喰われたと考えてよい)、人形(ひとがた)とはいうものの、通常の人体そのままにそれが何倍(前者では「五丈」であるから十倍近い)にもなった生命体であるとは述べていないことに着目する。私はこれはしばしば人魚の正体とされる大型海生哺乳類の遺体ではなかろうか? 知られたジュゴン(哺乳綱 Mammalia 海牛(ジュゴン)目 Sirenia ジュゴン科 Dugongidae ジュゴン属 Dugong ジュゴン Dugong dugon)は三メートルを超える個体もいる。但し、ジュゴンの生息分布が現在は沖繩が北限であることを云々する向きには、後半の陸奥の遺体はアシカ・アザラシ類のそれであると見ておけば問題あるまい。では驚くべき大きさの前者はどうなる、と問われるであろうが、まず現実的な人々は――これはクジラ類の腐敗進行した遺体であろう――と推理されることは想像に難くない。しかし、私は寧ろ、前者も後者も別な生物を考えているのである。「五丈」をありがちな誇張表現と見て、半分の五~六メートルから七~八メートルほどとするならば(そもそもそう考えないと胴高比からそのままではだらんした長々しいものになって人に見えぬ)、ぴったりの生物がいるからである。ジュゴンの仲間で、北方種(寒冷適応型カイギュウ類)である私の愛するステラ、

海牛目ジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae ステラーカイギュウ属 Hydrodamalis ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

である。本種は通常の成体個体でも体長五~六メートル、大きいものでは七メートルを超え、記録によれば最大八・五メートルにも達し、体重は五~十二トンにもなったと言われる超巨大海獣である。知らない? 当然だ。一七六八年或いはそれ以降に、既にヒトが乱獲したために絶滅してしまったからである(今また沖繩辺野古でジュゴンの棲家が破壊されつつある。こうして人類は着実に己れの身勝手から他の生物を殺戮し根絶やしにする野蛮人である)。詳細はウィキの「ステラーカイギュウ」を参照されたい。最後に。私の電子テクストである南方熊楠「人魚の話」の私の注もご覧戴けるならば、恩幸これに過ぎたるはない。外国サイトのステラの頭骨を見られよ。私はこれを見る都度、涙を禁じ得ないのである。……

・「藤原の信通」(生没年未詳)は底本注によれば、公卿藤原永頼(承平二(九三二)年~寛弘七(一〇一〇)年)の子で、『常陸介には万寿元年(一〇二四)から在任』しており、『同四年、子の永職』(「ながもと」と読むと思われる)について、公卿藤原実資の日記「小右記」に『父、明春、得替(とくたい)』(「得替」とは国司などの任期が終わって交替することをいう)とあることから、『任期は同五年(一〇二八)年まで』とあり、まさに「任畢(にんはて)の年、四月許(ばかり)の比(ころ)」がリアルに時制限定出来るのである(下線やぶちゃん)。

・「常陸の守」常陸国は親王が遙任国「守」として任ぜられた国であるが、実務国司であった常陸「介」(ひたちのかみ)を、通称(恐らく特に現地に於いて)では「常陸の守(かみ)」と呼称していた。

・「東西の濱」諸本、所在地未詳とする。

・「長け五丈餘」体長十五・二メートル超。

・「臥長(ふしたけ)」横転しているその胴の高さ。

・「人、高き馬に乘て打寄たりけるに、弓を持たる末許ぞ此方に見えける。然ては其の程を可押量るべし」当時の馬の丈はポニーほどであったから(百三十五~百四十七センチメートル)、高い百五十として、それにに成人男性が跨って漂着個体の向こう側に近づいた際、その左手(ゆんで)に掲げた弓筈(ゆはず)だけが、こちら側で立っている人間に見えた、というのは、両者の立ち位置にもよるが、胴高は二メートル弱はあったことを意味すると思われる。

・「鰐」鮫類の古称。特に大型のものをいう。

・「身成り・秦(はだ)つきは女にてなむ見えける」「身成り」は見た感じの体つきの意、「秦」は「肌」「膚」の当て字。ウィキの「ステラーカイギュウ」の復元図は黒みの強い灰色であるが、『冬になって流氷が海岸を埋めつくすと、絶食状態になり、脂肪が失われてやせ細った。このときのステラーカイギュウは、皮膚の下の骨が透けて見えるほどだったという』とある。

・「陸奧の國」当時、こう言った場合は福島以北の東北地方全般を指す。

・「海道」底本注で池上氏は『いわゆる浜通り(福島県の太平洋岸)をいうか』とされ、「日本古典全集」版注では不詳としながらも、「大日本地名辞書」を引き、『常陸(茨城県)多珂郡より入り、逢隈の渡し(宮城県曰理郡)に至る間を曰へり」とある』とする。「多珂郡」は多賀郡と同じで、茨城県北端の現在の高萩市・北茨城市・日立市(一部を除く)に相当する。「曰理郡」は現在の亘理(わたり)郡のことであろう。多賀郡に北で接する。因みに私は前話の「東西の濱」というのも、この「浜通り」に接する南部分を言っているのではなかろうかと考えている。とすると「常陸國□□郡」とは「多珂郡」となる。

・「阿修羅女」六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主である阿修羅の女鬼神版。「観音経義疏」には『阿脩羅千頭二千手。萬頭二萬手。或三頭六手。此云無酒。一持不飮酒戒。男醜女端。在衆相山中住。或言居海底。』とある(「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」に拠る)のを、「智り有る僧」なればこそ知っていたのであろう。

・「身成などの糸淸氣なる」僧侶が視認した対象をかく評しているのは興味深い。この個体は死んで間もなかったのであろう。私はアシカやアザラシであったなら、人によっては不快感を懐かずにこう表現すると思う。各地で出現しては話題になるそれらを考えてみれば、納得出来る。

・「ぞ疑ひける」「ぞ」の前の引用の格助詞「と」が脱落したものであろう。

・「繚(あつかひ)」諸注は接待・世話とする。訳の結果はそれでもよいが、本字はもともと、もつれる・まつわる・まきつかせるの意であるから、ここには寧ろ、面倒・厄介のニュアンスが強く感じられると私は思う。

・「十、二十町が程」遺体から半径一キロメートルから二・二キロメートル。倍の差があるのは、風向きによるものであろう。

・「臭さに難堪ければなむ」北方適応型の海産哺乳類の大きな特徴である厚い脂肪が腐って、もの凄い臭気を発しているのである。

 

□やぶちゃん現代語訳

 

 常陸国の××郡に大きな死人(しん)が漂着した事 第十七

 

 今となっては……昔のことじゃ……藤原の信通(のぶみち)の朝臣(あそん)とおっしゃられたお方が、常陸の守(かみ)として、かの国にあられた――が、それは、そのお方の国司の任の終わられた、その――四月ばかりの頃のことじゃった、と。……

 その日は昼間っから、風がたいそう、おどろおどろしゅう吹いて、そりゃあもう、夜中じゅうひどぅ荒れに荒れたんじゃ。

 その翌朝のことじゃった。××の郡(こおり)の「東西ノ浜」という所ところに、一体の死人(しびと)がこれ、うち寄せられて御座ったじゃ。

 その死人の身の丈けは、何とこれ! 五丈あまりもあった!……

 胴はこれ……そうさな……砂に半ばは埋まって御座ったが、の――傍らに人の立って、その向こうに、丈けの高い馬に乗ったお侍がうち寄せてこられたところが、その騎馬のお侍の、左手(ゆんで)に持って掲げておられた弓筈(ゆはず)ばかりが、ちょっこし、こっち側(がし)から見えた――というこっちゃから、さても、その胴体の高さのほども推し量れようほどに。……

 さて、その死人はの、頸(くび)のところより上は切れて、頭(かしら)はこれ、御座らなんだんじゃ。

 また、右の手(てぇ)も左の足も、ちぎれて、のぅなっておった。

 これは按ずるに、鰐鮫(わにざめ)なんどが、食わんがために噛み切ったものに違いない。……が……もし……もし、頭も右手も左足も皆、元の通り、ちゃんとちゃんとついとったとしたらば……これ……と、とんでもない大きさの人間じゃったに違いなかろうほどに。……

 また、うつ伏しになって砂に半ば埋もれておって、隠しどころは全く見えなんだによって、男女(なんにょ)孰れの巨人なるかは……残念なことに、分からず終いじゃった。が……しかし……そのふくよかなる体つきや……肌の白さや、その柔らかさから推すに……これ――女の巨人――には見えたのぅ。……

 常陸の国の衆(しゅ)は、これを見て、皆、驚き呆れあっては見、見ては大騒ぎすること、果てしがなかった、と。……

   *

 さてもまた、別な似たような一件じゃて。

 これも、常陸からは、ほど遠からぬ陸奧(みちのく)の国の、「海道」と申す海っ端(ぱた)でのことじゃ。

 国司(くにのつかさ)×の××と申さるるお方の許へ、これ、前(さき)の話のようなる、大きなる人間が浜に漂着致いたとの知らせのあったによって、家来を遣して検分させてみた。

 こちらもやはり……下半身の砂に埋もれておったによって……男女(なんにょ)の区別は分からなんだ。が……しかし……やはり、そこはかとなく、これは女に違いなかろうと人々の見て感じておった、と。

 そこへ、土地の学識のある僧なんどのしゃしゃり出て参って言うことには、

「……現世の遍き人間(じんかん)の世界のうちに――かかる巨人の存しておるなんどということ――御仏(みほとけ)はこれ一切――お説きになっておられぬ。――さすればこそ――これ思うに――かの六道の今一つの、修羅道界に住まうところの――阿修羅女(あしゅらにょ)――などと呼ばわるところの女(にょ)の鬼神などにても御座ろうか?……体つきの滑らかなる感じ……なんとも光沢(つや)のあって……えも言われず綺麗なところなんどをみると……もしや、まさに……ひょっとして、ひょっとするかも、知れんのぅ……」

なんどと、分かったような妙なことを申しておった。……

 さて、その国司さまは、これ、かの遣わせる者の報告を受けると、

「……これはもう……まっこと、稀有(けう)の珍事出来(しゅったい)なればこそ……何はさて置き、ともかくも国解(こくげ)を、これ、上申せねばなるまいのぅ。……」

と、まさに国解のための文書をも記し、さても使者を以って都に上(のぼ)せんとしたところが、下役の国の地の者どもがこれ皆、口を揃えて、

「……もし上申なさってしまわるると、これ、必ずや、お上の御使者の方々、こちらへお下りになられ、子細に御検分ということとなりましょう。……そうした官使の方々が、これお下りになられますると……これ、そのぅ……準備やら接待やらなんやかやと……これ、費用も手間も心労も、大きにかかりまして……大変に厄介なことと、なりましょうぞ。……さればこれ……ここは一つ、ただただ、この大女がことは……お隠しになられ……黙っておられまするが、これ、よろしいかと存じ奉るので……御座いまする。……」

と、有体(ありてい)に申し上げた。されば結局、守(かみ)もその謂いをもっともなりと、上申書は出さず終いとなり、奇体な巨女が遺骸の漂着の一件はこれ、全く以って隠し通してしまったとのことで御座った。

 そうこうしておる間のことじゃ。……その国に××の××と申す侍の御座ったが、この者、この漂着した巨人を見物に参り、一目見るや、

「……さても! もし、かかる巨人の我が国へ攻め来ったとならば、これ、一体、どう闘(たたこ)うたらよいものか?……まさか……矢(や)はこれ、この巨体に……果たして……立つものであろうか?……何よりますはそこじゃて! 一つ、試してみようぞッツ!!」

と思い立つや、その場にて即座に、

――よっぴいて、ひょう!

と放った。

 すると矢は、巨人の遺骸へ、尾羽根も隠れんばかりに、

――ぶっす!

と、美事、突き立って御座ったという。

 されば、これを見聴き致いた人々はこれ、

「あっぱれ! 試射し果(おお)せたり!! やんや、やんや!!!」

と、褒めそやして感激せぬ者は、これ、おらなんだ、ということじゃった。

 さて、その大女(おおおんな)の死体、これ、日の経つにつれて、ジュクじゅくジュクじゅくと腐れ朽ちて参ったによって、遺体の周囲、これ実に十~二十町が内は、人が住めずなって逃げ去り、また、立ち入らんとする者も、一人としておらなんだ。

 嗅いだ鼻が腐って落ちんばかりの――あまりの臭さに、堪えきれなんだからであった。

 この後者の一件、先に申した通り、当時、世間にては一切、隠し通してあったのであるが、その×の××と申さるる国司のお方が、その後、任の果てて京にお戻りになられて後、誰からともなく、自然と噂の如く湧き出して、瞬く間に広ごり、かく、語り伝えらるるようになった、とかいうことである。

2015/06/08

アリス物語   ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (一)兎の穴に落ちて

 

[やぶちゃん注:私は数年前、国立国会図書館デジタルライブラリーで本書を発見した際、これは眉唾だなと内心思ったことを自白する。何より、全集や代表的な芥川龍之介研究書の書誌情報には一切、本書の存在が記されていないこと、諸研究の年譜や評論に本作の原稿や草稿の執筆・脱稿等の記載が見出せないこと、さらに本書の奥付を見るに文藝春秋社昭和二年十一月十八日発行(「小学生全集」第二十八巻として)となっており、仮に芥川龍之介が訳に手を染めていたとして、それは彼の自死に極めて近かったとしか考えられず、そうした事実があれば、書簡や諸研究者の調査によって「アリス物語」の訳稿やその過程に纏わる龍之介自身の手記その他が必ずや発見されているはずであると考えたことに拠る。ところがその後、木下信一氏の手に成る「菊池寛・芥川龍之介共訳『アリス物語』の謎」という論文をネット上で入手し、読むに及んで、この「アリス物語」は確かにその一部が芥川龍之介によって訳されたものである――木下氏は使用語彙の精査を始めとした極めて論理的な考証によって本作の第一章から第七章までを芥川が訳したものと推理しておられる――という驚天動地の主張に触れ、最近、これは何としてもテクスト化したいという強い欲求に駆られていたのである(木下氏の論文は非常に優れたものである。一読を強くお薦めする)。さればこそ、その欲望に随い、ブログで本作の電子化を開始することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルライブラリーの当該書の画像とし、それを視認して起こした。なお、同書誌情報の公開範囲には『インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』の注記があるが、芥川龍之介も菊池寛も既にパブリック・ドメインとなっており、これは本書の挿絵を担当した平沢文吉氏(口絵のみを描いている海野精光氏も含まれるか)の著作権に関わる公開注記と読める。彼らの描いた挿絵の画像はもともと一切挿入するつもりはないので、テクスト部分の電子化のみについては問題を生じない。

 なお、底本は総ルビであるが、五月蠅いので読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。傍点「ヽ」はブログでは太字とした。二行割注は〔 〕の同ポイントで示した。明らかな誤植は注記せずに訂した。原文は“Wikisource”Alice's Adventures in Wonderland(一八六六年版及び一九〇七年版の二種)を参照した。

 子どもに読むように、ゆっくりと電子化する。

 ――私の三女アリスと亡き次女アリスに捧げる――二〇一五年六月八日] 

 

アリス物語   菊池寛・芥川龍之介共譯

 

[やぶちゃん注:以下、菊池寛の序文相当文。] 

 

 アリス物語は、英國のルウヰス・カロルと云ふ數學者の書いた有名な童話です。英國のヴヰクトリヤ女王がお讀みになつて大變感心遊ばされ、此の作者の他の著作をもお求めになつて見たところ、それらはみんな數學書であつたと云ふ逸話さへ傅はつてゐます。「ピーターパン」などと並稱され、英國の兒童に最も人気のゐる童話です。日木の童話などとはまた違つた夢幻的な奇拔な奔放な味のある面白い物語です。

 かうした童話も、一冊だけは本全集に入れねばならぬと思ひます。

 アリス物語には、「不思議國(こく)めぐり」と「鏡の國(くに)めぐり」と二つありますが、後者は紙數の都合で入れることが出來ませんでした。だが、前者の方がはるかに面白いのです。

 この「アリス物語」と「ピーターパン」とは、芥川龍之介氏の擔任のもので、生前多少手をつけてゐてくれたものを、僕が後を引き受けて、完成したものです。故人の記念のため、これと「ピーターパン」とは共譯と云ふことにして置きました。

                           菊   池   寛 

 

天 皇 陛 下

       天 覽 台 覽 の 光 榮 を 賜 は る

皇 后 陛 下

 

秩 父 宮 家   梨 本 宮 家

高 松 宮 家   朝 香 宮 家

澄 宮 殿 下   東 久 邇 宮 家

          北 白 河 宮 家

伏 見 宮 家   竹 田 宮 家

山 階 宮 家   閑 院 宮 家

賀 陽 宮 家   東 伏 見 宮 家

久 邇 宮 家   李  王  家

     
       台 覽 の 光 榮 を 賜 は る
 

 

 

    は し が き

 アリス物語は、一つの夢であります。讀んでゐるうちに、兒童の心を知らず知らず、夢の國へつれて行つてしまふ、物語であります。

 かうしたものも、本全集に、是非一册だけは收錄することが、必要であると思ひます。

 昭和二年十一月

                               菊 池  寛 

 

[やぶちゃん注:以下に目次があるが、省略する。] 

 

   表紙・見返し・扉

            平 澤  文 吉

   口  繪・挿  繪

 

 

  アリス物語

   一 兎 の 穴 に 落 ち て 

 アリスは姉樣(ねえさま)と一緒に、土手に登つてゐましたが、何にもすることがないので、すつかり厭き厭きして來ました。一二度姉樣の讀んで居た本を覗いては見ましたけれど、それには繪も、お話もありませんでした。「こんな御本、何になるのだらう。繪もお話もないなんて。」と、アリスは考へました。

 それでアリスは、暑さにからだがだらけて、睡(ねむ)くなつて來るのをおさヘるために、出來るだけ一生懸命心の内で、一つ起き上つて花環を作る雛菊を摘むみにでも行(い)かうか、どうしようかと考へて居ました。するとその時、突然に桃色の目をした白ウサギが、アリスのすぐ傍(そば)を駈けていきました。

 しかし、これだけのことなら、別に大して吃驚(びつくり)するほどの事はありませんでした。又アリスはその時兎が獨語(ひとりごと)に「おやおや大變、遲れてしまふ。」と言つたのを聞いても、「おや變だな。」とも思ひませんでした。(後でよく考へて見ると、このことは不思議なことに違ひなかつたのですあ、その時は全く當りまへのやうに思つたのでした。)けれども兎がほんとに、チヨツキのポケツトから、懷中時計をとりだして、それを見てから、急いで走つていきましたとき、思はずアリスは飛(とび)起きました。何故といつてアリスは、兎がチヨツキを着てゐたり、それから時計をとりだすなんて、生れて初めて見たのだと云ふことに氣がつきましたから。で、珍らしいこともあればあるものだと思つて、兎の後を追つて、野原を走つていきました、そして兎が丁度、生垣の下の大きな兎の穴の中に、入(はい)りこんだのをうまく見とどけました。

 すぐにアリスは兎の後をつけて、入つていきました。しかしその時は、後でどうして出るなんてことは、少しも考へて居ませんでした。

 兎の穴は、少し許(ばか)りトンネルのやうに、眞直に通つて居ましたが、それから急に、ずぶりと陷(すべ)り込みました。あまりだしぬけなものですから、アリスは自分の身を止めようと思ふ間もなく、ずるずると、その大層深い井戸のやうなところへと、落ち込んでいきました。

 井戸が大變深かつたためか、それともアリスの落ちて行くのが、ゆつくりだつたせゐか、兎に角、下りて行(い)く間、アリスはあたりを見廻したり、これから先、どんな事が起(おこ)るのかしらと、不審がつたりする暇(ひま)か澤山ありました。先づ第一に、アリスは下を見て、どんなところへ來たのか、知らうとしましたけれど、餘り暗いものですから、何にも見ることが、できませんでした。そこで、井戸の周圍を見ると、そこは、戸棚だの本棚だので、一杯でして、あちらこちらには、地圖や繪が、釘にかけてありました。アリスが通りすがりに、一つの棚から壺を下(おろ)すと、それには、「橙(だいだい)の砂糖漬」と云ふ札(ふだ)が貼つてありましたが、アリスが殘念に思ひましたことには、空つぽなのでした。アリスはその壺を、下にはふり込まうと思ひましたけれど、下に生物(いきもの)でも居たら殺す心配がありましたので、止(や)めて落ちて行(い)きなから、途中にある戸棚に、やつとそれを載(の)つけました。

「まあ」とアリスは獨りで考へました。「こんな落ちかたをすれ、これからは二階から落ちつこちることなんか、平氣の平左だわ。さうするとうちの人なんか、わたしをずゐぶん強いと思ふことでせうねえ。まあ、わたし屋根の頂邊(てつぺん)から落ちたつて何も言やしないわ。(これは實際ほんとでせう。と云ふのは屋根から落ちたら何にも言ふどころではありませんから。)

 下へ、下へ、下へ。一體どこまで落ちて行(い)つても、限(きり)がないのぢやないか知ら。「もう何哩(なんまいる)位(くらゐ)落ちて來たのかしら。」とアリスは大きな聲で言ひました。

「きつと、地球の眞中(まんなか)近くに來かかつて居るに違ひないわ。ええと、たしか、四千哩下(した)が、眞中だつけ――。」(ちやうどアリスは學校の課業(くはげふ)でこんな風なことを習つたばかりでした。けれども誰(たれ)も聞いてくれる人なんか居ませんでしたから、アリスの學問のあることを見せるに、大層良い機會ではありませんでしたけれども、矢張りそれを繰返(くりかへ)すといふことは、よいお復習(さらひ)でした。)「さうだ、もう丁度それ位(くらゐ)の距離になるわ――けれど一體、わたしはどの邊の緯度と經度に居るのか知ら。(アリスは緯度や經度が、どんなものであるか少しも分つては居ないのでしたけれども、さう云ふ言葉は大層素晴らしいものだと思つたからでした。)

 そして直ぐ又、アリスは獨語(ひとりごと)を續け始めました。「わたし地球を眞直にぬけて落ちるのか知ら。逆立(さかだち)して歩いて居る人たもの間へ、ひよつこり出たら隨分面白いだらうな。あれは反對人(アンテイパシイーズ)だわ〔アンテイボデーズ対蹠人とまちがへた〕――(何だかその言葉が間違つて居る樣でしたから、今度は誰(たれ)も聞き手がないのをアリスは幸だと思ひました。)「けれど、わたしその人達に、その國の名は何といふのですかと、尋ねなければならないわ。もし奧樣、この國はニユウジーランドですか、それとも、オーストラリヤですかつて。」(かう言ひながら、アリスは腰をかがめてお辭儀をしました。あなた方が宙を落ちて居るときに、お辭儀をすると、假(かり)に思つてごらんなさい。そんなことができると思ひますか。)

「でも、そんな事訊(き)いたら、向ふぢやわたしを何(なん)にも物を知らない娘だと思ふわ。いゝえ、訊いたりなんかしちやいけない。多分どこかに書いてあるのが、見つかるに違ひないわ。」

 下ヘ、下へ、下へ。外にすることがありませんでしたから、また直(ぢき)にアリスは、お話を始めました。「デイナーは、今夜わたしが居ないので、ずゐぶん淋しかつてるでせうね。(デイナーは猫の名でした。)お茶の時に家(うち)の者が、牛乳をやることを忘れないでくれればいいけれど、デイナー、お前も今此處(ここ)でわたしと一緒にゐてくれるんだと、いいんだけれどねえ。宙(ちう)には鼠は居ないかも知れないが、蝙蝠(かうもり)なら捕へられるわ。蝙蝠は鼠によく似て居るのよ。けれど猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。」するとかう言つて居る時アリスは、少し睡くなりだしたので、夢心地(ゆめごこち)でしやべり續けて居ました。「猫は(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。」そして時時「蝙蝠(バツト)は猫(キヤツト)を食べるか知ら。」と言ひました。アリスにはどちらの質問にも、答へかできないのでしたから、どう言つても、大して變りはありませんでした。アリスはそのとき、うとうとと眠りに入(い)つた氣がしましたが、その中(うち)デイナーと手をつないで歩いて居る夢を見て、大層まじめくさつて、こんな事を云つてゐました、「さあ、デイナー、ほんとのことをお言ひ、お前蝙蝠(かうもり)を食べたことがあつて。」このときアリスは、突然、枝だの、枯葉だの積んである上へと、どしんと落ちました。これで落ちるのもかしまひになりました。

 アリスは、少しの怪我もしませんでした。そしてすぐに起ち上つて、上の方を見ましたが、眞暗でした。アリスの眼の前に長い道が、一つ通つて居りました。そしてやはり例の白兎が、急いで其處を下りて行くのが見えました。一分たつてぐづぐづして居(ゐ)られません。風のやうに、アリスは飛んで行きました。すると丁度兎が角を曲るとき、かう呟いたのが聞えました。

「おゝ耳よ、鬚(ひげ)よ。何と遲れたことだらう。」アリスは、兎が角を曲るまでは、直(す)ぐその後(うしろ)に居たのでしたが、曲つてみると、もうその影も形もありませんでした。そしてアリスは、自分が今(いま)長つ細(ぽそ)くて、天非の鯉低い廣間に居るのを知りました。そしてその廣間は、屋根から下(さが)つて居る一列のラムプで照らされて居りました。

 廣間の四方には、扉がありましたが、すつかり錠(じやう)かかつて居ました。そしてアリスは、あちこちの扉の處に行つて、開けようとして見ましたけれど、開(あ)きませんので、どうしたらまた外に出られるか知ら、と思ひながら、しをしをと眞中の座(ざ)に歸りました。と、不意にアリスは、小さい三本脚(ぼんあし)のテーブルにぶつかりました。それは全部硝子(がらす)で出來てゐて、小さい金(きん)の鍵の外には、何にも載つて居りませんでした。アリスが先づ考へついたことは、この鍵は廣間の扉のどれかに、合ふだらうといふことでしたが、まあ殘念にも、どの穴も餘り大き過ぎ、そして鍵が小さ過ぎて、とにかくどの扉も開けられませんでした。けれども二度目に廣間を廻(まは)つたとき、以前(まへ)には氣がつかなかつた低いカーテンに、目か留りました。カーテンの後(うしろ)には、約一尺五寸位(くらゐ)の、小さい扉がありました。そこで小さい金の鍵を、穴に入れて見ますと、しつくり合ひまLたので、もうアリスは大喜びでした。

 アリスは扉をあけました。すると、そこは鼠の穴位(くらゐ)の、小さい出入口につづいて居りました。アリス跪(ひざまづ)いて見ると、その出人口の向ふには、今までに見たことのない程の、立派な庭園がありました。アリスはどんなにこの暗い廣間から出て、綺麗な花床(はなどこ)の間(ま)をぶらついたり、冷たい泉の中を歩いたりしたかつたでせう。けれども、扉口(とぐち)から頭をだすことさへも、できないのでした。「わたしの頭がでたつて、肩が出なければ、何の役にも立たないわ。まあ望遠鏡のやうにのびたり、ちぢんだりできるといいんだけれども、初めのやり方さへ、どうすればいいのだかわかれぱ、あとはわたし出來ると思ふわ。」と可愛想(かはいさう)なアリスは考へました。何故と云つて、いろいると珍らしいことが、たつた今しがたまでぞくぞく起つたのですから。アリスはほんとに、できないものなんて、この世の中にはめつたにないものと、考へ始めたのです。

 この小さい扉の處にいつまでゐても、何の役にも立たないやうに思ひましたので、アリスは、テーブルの處に戻つていきました。ひよつとして、テーブルの上にもう一つ鍵が載つてゐたら有難いのだが、でなければ望遠鏡のやうに、人間をちぢめる規則が書いてある本があれば、などと思ひながら、近づいてみました。すると、今度アリスがテーブルの上に見つけたものは、小さ々瓶(かめ)でした。これは確かに前にやなかつたわ。」と、アリスは言ひました。)そしてその瓶(かめ)の首には、大文字(おほもじ)で綺麗に印刷された紙の札(ふだ)が貼つてあつて、それには「お飮なさい」と書いてありました。

「お飮みなさい」と書いてあるのは、大層有難いことでしたが、悧巧(りかう)なアリスは、あわてて、そんなことをしようとはしませんでした。「いいえ、わたし先づ初めにしらべて見なくちや、「毒藥」 と書いてあるかどうか。」と、アリスは言ひました。何故なら、アリスはこれまでに、火傷(やけど)をしたり、怖ろしい獸(けもの)に食はれたりした子供の、いろいろなお話や、又は其の他のいやなことの書いてあるかお話を、讀んで居ました。そしてこんな出來事は、みんなその子供がお友達から教へられた分り易い法則を、覺えて居なかつたからなのでした。その法則と云ふのは、たとへて言へば、赤い燒火箸(やけひばし)を長く持つて居ると、火傷(やけど)をするとか、ナイフで指を大層深く切れば、いつも血が出るのだと云ふことなのです。ところでアリスは、「毒藥」と書いてある瓶(びん)の水を、澤山飮めば、遲かれ早からきつと身體(からだ)をこにはすと云ふことを、決して忘れずに居りました。

 けれども、此の瓶(かめ)には「毒藥」と書いてありませんでしたから、アリスは思ひ切つて、嘗(な)めて見ました。すると、大層うまいものですから(それは桜桃(さくらんぼ)の饅頭(まんぢゆう)だの、カスタードやパインアツプルや七面鳥の燒肉や、トフヰー、それからバタ附(うき)パンなどを、混ぜ合せたやうな味でした。)アリスはすぐにすつかり飮んでしまひました。

      *   *   *   *   *   *

「あら、何だか變な氣がしてきた! わたし望遠鏡のやうにちぢまるに違ひないわ。」とアリスは呟きました。

 それは、實際その通りなのでした。アリスは今ではほんの一尺程しか丈(たけ)がありませんでした。そして、アリスはこの大きさなら、小さな扉を通て綺麗なお庭に行(い)けると思つたものですから、アリスの顏は、ニコニコして居りました。けれども最初の中(うち)アリスは、自分はこれより小さくちぢむのぢやないか知らと思つて、一寸(ちよつと)の間(あひだ)樣子を見て居りました。アリスにとつて、それは一寸氣懸りな事でした。「なぜつて、ことによると、おしまひには、私は蠟燭みたいに消えてしまふんぢやないかしら、さうしたら一體何ういふ事になるのだらう。」と、獨語(ひとりごと)を言つて居りました。そして、アリスは、蠟燭が燃えてしまつてからは、蠟燭の炎は、どんな風に見えるか知ら、といろいろ頭の中で骨を折つて考へてみました。それもその筈です。何しろアリスはそんな物を、今までに見た覺えかありませんでしたから、しばらくしてから、もう何(なん)にも超らないのを知つて、アリスは直ぐに庭園へ出ることにしました。ところが、まあ可哀想(かはいさう)にアリスは、戸口に行きましたとき、小さな金の鍵を忘れて居るのに、氣がつきました。で、それを取りにテーブルの處へ引返しました。が、その時アリスは、鉤に手がとどかないのに氣がつきました。しかもテーブルが硝子(ガラス)で出來て居るものですから、鍵はそのガラスを透かして、アリスに全くよく見えるのです。アリスはテーブルの脚(あし)の一本に攀(よ)ぢ上(のぼ)らうと、一生懸命にやつて見ましたけれど、つるつるしてゐて上(のぼ)れません。それで疲れ切つて、可哀想にもアリスは、坐り込んで泣き出しました。

「まあ、そんなに泣いたつて仕樣(しやう)がないぢやないの。」とアリスは一寸鋭い聲で自分に云ひました。「たつた今お止め!」アリスは大抵、自分にかう云ふよい忠告をするのでした。(けれども滅多に從つたことはありませんでした。)時によると、自分の眼(め)に涙が出る程、手きびしく自分を叱ることがありました。アリスが或時自分相手に、球投(たまな)げ遊びをやつて居ましたとき、自分が自分を騙(だま)したと云つて、耳打(みみうち)をくらはせたことがありました。何何故つて、この變りものの子供は、自分を二人の人間のやうに取り扱ふのが、好きなのでした。「でも、今は二人の人間のやうに、振舞ふのは駄目だわ。」と、可哀想なアリスは考へました。「何故つて、一人の立派な人間だけの、振舞もできないんだもの。」

 不圖(ふと)、アリスはテーブルの下に、小さ々硝子(ガラス)の箱があるのに目をつけました。それを明けると、中には、大層小さな菓子が入つて居て、それには乾葡萄(ほしぶだう)で綺麗に「お食べなさい」と書いてありました。「え、食べるわ。」と、アリスは言ひました。「これを食べて、わたしがモツト大きくなるのなら、鏡に手が屆くし、もつと小さくなれば、扉の下の隙間にもぐり込めるわ。どちらにしても、お庭に出られることになる。どつちになつたつて構やしないわ。」

 アリスは一寸食ベました。そして心配になつて獨語(ひとりごと)をいひました。「どつちかしら、どつちかしら。」さう言ひながら、どつちになるのだか知るために、頭の上に手を載せて居りましたが、驚いた事に、ちつとも變りが起らないのでした。眞實(ほんと)のところ、人がお菓子を食べた時、そんな風に何も起らないのが當前(あたりまへ)なのですが、アリスは今何かすれば、變つたことが起るもののやうに、待ちうける癖がついてしまつたものですから、何でもあたり前通りになつて行(い)くと、全く退屈で馬鹿らしく思ふのでした。

 そこでアリスは又、せつせと食べだして、間もなくすつかり食べてしまひました。 

 

[やぶちゃん注:「あれは反對人(アンテイパシイーズ)だわ〔アンテイボデーズ対蹠人とまちがへた〕」キャロルが作中で執拗に繰り返す言葉遊びの一つであるが、この邦訳箇所は、子どもどころか、私を含めて大方の大人でも、理解することは困難である。「蹠」は足の裏で、それが「對」になっているのだから、この「對蹠人」とは、地球の反対側の人、という意であろう。原文のアリスの台詞の「反對人」は“The Antipathies”で、訳者割注にあるのは“The Antibodies”ということになろう(因みに英語で“antibodies”というと生化学上の「抗体」の意である)。しかし、“The
Antipathies
”を「反對人」と訳したのでは、正直、ピンとこない。これは「根強い反感」であるとか、「毛嫌い」を意味する“antipathy”の複数形であって、「大っ嫌いな人たち」といったニュアンスが含まれているように私は思うのである。これについては故山岡洋一氏の文書を集めた「翻訳通信 ネット版」の翻訳講義(第回) 翻訳は面白で当該箇所の諸訳の比較が出来るので是非、お読みあれ(アリスを読む以上に面白いこと請け合い!)。特にその中でも、高橋康也・迪訳(河出文庫版)の

   *

 アリスはひとりごとのつづきをしました。「もしかしたら、地球をつきぬけて落ちていくんじゃないかしら! 頭を下にして歩いている人たちの中にひょっこり出たりしたら、さぞおかしいでしょうね! 反対人〔はんたいじん〕っていったと思うけど――」(こんどはだれも聞いていなくてアリスはほっとしました。少しちがっているような気がしたからです。ほんとうは反対人ではなくて対蹠人〔たいせきじん*〕というのです)。

* 日本とアルゼンチンのように地球の反対側に住む人間。antipodesは「蹠(あしうら)が向かいあわせ」の意。「反対人」(antipathies
感情的反発)という言いまちがいは、これから多くの「なじめない」人物に出会うはずのアリスの不安な予感のせいか。

   *

とあるのが、眼から鱗であった。]

能の上演禁止について   萩原朔太郎

能の上演禁止について   萩原朔太郎

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年八月号『新日本』に発表され(初出では『(文化時評)』と副題する。当時、朔太郎五十二歳)、翌十五年十月河出書房刊の随筆集「阿帯」に所収された。因みに、作品集の序の最後にこの作品集の題名について触れ、『「阿帶(あたい)」といふのは「白痴者」といふことである。こんな文學をする以外に能もなく、無爲に人生の定年を過した私は、まさしく白癡者にちがひない』と結んでいる。調べて見たが、阿帯を白痴とする理由を見出し得なかった。識者の御教授を乞うものである。【二〇一五年六月八日 藪野直史】]

 

能の上演禁止について

 

 能の「大原御幸」が上演禁止になつた。あの蕭條たる山里の尼院の中で、浮世を捨てた主從三人の女が、靜物のやうにじつと坐つたまま、十數分もの長い間、物悲しくも美しい抒情の述懷を合唱する場面は、すべての能の中でも最も幽玄で印象に殘る場面であるが、今後再びそれが見られないと思ふと、永久に寶石を失つたやうな寂しさが感じられる。先には「蟬丸」が禁止になり「船辨慶」の一部が抹殺されたが、今後は皇室に關する一切の能を禁じ、長く廢演にするといふことである。するとさしづめ式子内親王をシテ役にした「定家」や、醍醐天皇とおぼしき帝の出給ふ「草子洗小町」やを初め、幾多の美しい傑作能が、今後舞臺から消滅することになるのであらう。

 警視廳の方の理由は、臣下たるものが皇族に扮し、娯樂興行物に演藝するといふのは、畏れ多く不敬のことだといふのである。成程一應はもつともの理由であるが、いささか杓子定規の役人思想が、世話の行きすぎをしたかとも考へられる。すべての物事は、法律的の言語概念で考へないで、深くその物の本質する精神から考へるのが大切である。娯樂演藝物とは言ひながら、能は歌舞伎や活動寫眞とはちがつてゐる。能は武家の式樂として、最も嚴重な格式の下に、長裃の儀禮を以て觀覽されたものである。これを見る者は將軍であり、大名であり、當時の貴族たる武士階級者であつた。平民階級の町人等には、かたく法律を以てその觀覽が禁じられた。それほど鄭重に儀禮を正して、莊重に演ぜられた式樂なのだ。今日もし市井の大衆劇や娯樂的の映畫劇で、皇室を主題とする如き物が現はれたら、あへて警察の令を待つ迄もなく、僕等が率先してその不敬を責めるであらう。だが觀客が皆禮服を着、儀式を正し、最敬禮を以て列座し、そして演藝そのものと演出者とが、最も嚴肅莊重なる精神を以てする舞臺に於て、たとひ皇室に關する場面があらうとも、一概に不敬呼ばはりをすることはできないだらう。勿論今日の能の觀客は、昔のやうに禮儀正しくはない。しかし能そのものの藝術精神は、依然として傳統のままに莊重な式樂であり、何等卑俗の娯樂性を持たないのである。況んや能は、五百年もの長い傳統を經た古典劇である。ニイチエも言ふ通り、人は幾度も繰返される劇に於ては、もはや筋やストーリイを見ようとしないで、もつぱら演技の形式だけを見るのである。「大原御幸」や「蟬丸」などの觀客は、シテが皇族であることなど意識しないで、單にそれが觀世左近であり、梅若萬三郎であることだけを見てゐるのである。警視廳の取締りが、映畫や現代劇にやかましく、時代劇や歌舞伎劇に比較的寛大だといふことも、おそらくこの同じ理由にもとづくにちがひない。新しく出來たナマのものは、臭氣の刺激性が甚だしい。しかし五世紀も經た骨董品に、今さら何の臭氣があらう。枯骨を叩いてその肉臭を探索し、今さらに事新しく公告するのは、却つて人心を惑はすことの愚になりはしないか。

 能を見て感心するのは、それが武家時代の創作であるにかかはらず、皇室に對して最善の敬愛を表してることである。人も知る通り、能は室町時代に完成した藝術であり、これのパトロンは足利義滿や義政の將軍だつた。日本の小學歷史では、足利氏一族を大逆賊のやうに教へるけれども、事實が必ずしもさうでないことは、能の舞臺を見てもわかるのである。能に出る皇族は、最高の敬意と尊嚴を以て扱はれ、常に將軍等の武士階級よりも上位に、崇高にして神聖なものとして敬はれてる。いやしくも不敬な態度や輕薄な精神を以て、皇室を取材した如きものはないのである。實に二千五百餘年來、中途に武家の專制時代を經てさへも、皇室に對する至誠の純情は、日本人の本能から拔きがたいものであつたことを、しばしば自分は能を見て思ふのである。

 日本人の忠君愛國思想が、支那や西洋のそれと根本的にちがふところは、皇室が我々の先祖であり、天皇が我等の眞の大御親におはしますといふことの、君臣一家族の親密な觀念にある。外國の君主國、特に古代支那やペルシアの東洋諸國では、強制的に君主が人民を威壓するため、天子は紫袍を着て金殿玉樓の高樓に坐し、臣下に對して奴隸的服從の忠節を強ひた。それらの國々では、君主は單に「恐ろしきもの」の表象であつた。そして何の慕はしきもの、親愛すべきものでもなかつた。然るに日本はちがつてゐた。古事記や萬葉集の昔から、我等は天皇を神として崇め奉つてゐたが、同時に血肉の親として、あらゆる日本人の慈父として、心情から慕ひまゐらせて居たのである。天皇と人民とが、いかに肉親的にしたしかつたかは、時にしばしば至上が諧謔を弄されたり、臣下と心おきなく遊宴されたりしたことの、古事記や萬葉集の文獻によつて明らかである。そしてかかる和氣藹々たる君主關係は、決して外國にはなかつたのである。

 ところで問題になつた能の多くは、皇室に對する人民の愛慕の情を、一層深めることはあつても、これに反する箇所はないのである。僕等は日本の古典史をよみ、不遇に崩ぜられた天皇の怨恨や憤怒を聞いて、逆賊に對する憎みと怒りを新たにするが、その人間的告白の故に、天皇への忠義心が變るやうなことは絶對にない。能を禁演する政府の眞意は、おそらくそれが娯樂物だといふだけではなく、ことに皇室に關することは、出來るだけ民衆の心に觸れさせたくないといふ意義に基くのだらう。果してもし然りとすれば、古事記、萬葉集、増鏡の類を初めとし、源氏物語等の古典文學に至るまで、遂に公演を禁じなければならないだらう。かくの如き施政は、古代のぺルシアや支那の如く、威嚇的君主制を強ひる國には好いかも知れないが、日本の如く君臣一體となつてる國では、却つて人民と皇室との關係を迂遠にし、いたづらに内容なき形式上の威壓感のみを、純情の民にあたへることになるであらう。特に「船辨慶」の如きは、平知盛の亡靈の臺詞中に、主上を始め奉り平家の一族西海の浪に漂ひ云々といふのが、娯樂物の故に不敬だと言ふのであるが、取締りも此處に至つては、少しく病的に神經質すぎると言はねばならぬ。

 さらに此處で提出される根本の疑問は、能が果して警察の定義の如く「娯樂物」といふ概念に適應されるか否かといふことである。能の如く、少數の教養人を觀衆とする高尚の古典藝術が、もし所謂「娯樂物」であるとすれば、ワグネルの音樂も、雪舟、大雅堂の美術も、はたまた僕等の書く詩や小説の純文學も、本質に於て皆廣義の娯樂物といふことになるかも知れない。いはゆる娯樂演藝と純藝術との相違は、僕等の常識が知る限りに於ては、結局つまり大衆演劇と能樂との區別にすぎない。故にこの問題を延長すれば、單に能樂ばかりでなく、藝術一般、文化一般に關する問題になる。政府はこの大きな文化問題に對し、どんな解釋を以て施政方針を取らうとするのか。さらに機を見てこれを質問したいと思ふのである。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 甲貝(テングニシ)

 

【和品】

甲貝 ニシニ似テナガシ大ナリ食シテ味美シ但性不益人

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

甲貝(カフカイ) 「ニシ」に似て、ながし。大なり。食して、味、美し。但し、性、人に益せず。

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba 。古え、数種の香料を練り合わせて作る練り香の素材の一つとして、一部の巻貝の蓋が好んで用いられ、それを一般名詞で「甲香(へなたり)」と呼んだが、このテングニシの蓋もその代表格とされている。例えば、私の電子テクスト鎌倉攬勝考卷之十一附錄の「六浦」の「産物」の項にある「甲香(カヒカフ)」を見られたい。そこに附図されているものはまさにテングニシである。

「性、人に益せず」根拠はない。そもそもが益軒が「和品」としているように、中国本草書で本種に近いものの肉の効能を見出し得ず(甲香相当のものはある)、従って薬効を記さなかった/記せなかったのではないかという感じがする。]

北條九代記 巻之七 時政務 付 奉行頭人行跡評議

      ○泰時政務 付 奉行頭人行跡評議

武藏泰時は、仁慈有道(じんじいうだう)の譽(ほまれ)、世に高く、廉讓節義(れんじやうせつぎ)の思(おもひ)を内に貯へて、安國撫民の志を晝夜朝暮(ちうやてうぼ)の勤(つとめ)とし給へり。記錄所(きろきしよ)の門に、鐘を釣りて、訴訟人に撞かしめ、上の十五日は、卯刻より、記録所に出でられ、午刻に退去あり。下十五日は、午刻より出でて、申刻に、歸られ、鐘の聲、聞ゆれば、人をいだして、訴訟人を召し入れて、直に訴(うつたへ)を聞きて、書記(かきしる)し、月毎(ごと)の十日と二十日、晦日と、決斷の日を定め、頭人、評定衆を集めて、理非を決せらる。その法は、貞永の式目の如し、欲深(よくふかき)を恥(はぢ)しめ、廉直なるに親み給ひ、「行(かう)、餘力(よりよく)あるときんば、以て文を學ぶ、と云ふ事あり。奉行、頭人、評定衆も、訴訟人なき暇(ひま)には少の學文(がくもん)をば勤め給へ」とて、年末だ若き人々には、殊更、道義を勸められ、常に又、仰せられけるやうは「假令(たとひ)萬卷の書を讀學すとも、時と相應の文(ぶん)を知らずは、口惜(くちをし)かるべし。其云ふ所、一旦は義理に叶ふに似たる事あるも、時に相應せざらんには、智者とは云ふべからず。只、古人の吐出(はきぢだ)せる陳言(ちんげん)を、囀(さへづ)るのみなり。國家の大用(たいよう)となるべからず。是(これ)、善く嗜むべし。人を毀(そし)り、人を譽(ほむ)る、是、皆、我が心の機嫌に依て、一定し難き事にて侍り。往昔(そのかみ)は、人、皆、これを嗜(たしなみ)とす。年の比、三十歳より内の人の、他を譽るも、好しとせず、年老いたる人の、他を毀るも聞善(きゝよか)らず。若年の輩、物知顏(ものしりがほ)にて我は賢(けん)なりと云はぬ計(ばかり)に利口(りこう)を申さるゝ、その内心には黑白(こくびやく)をも辨(わきまへ)なき程の分別なる、誠に側痛(かたはらいた)き事ぞかし。老人の威儀、正(たゞし)くて、才知分別もあらんと覺ゆるに、入を毀り、名を立てらるゝは、老氣(おとなげ)なき行跡(かうせき)の程、最(いと)可笑(をかし)かるべし。是等の事は、皆、重欲慢心(ぢうよくまんしん)の中より生する小智の態(わざ)なり、さればにや、小智は亡國の端(はし)、邪智は害毒の根(ね)と申す事の候なり。况(まし)て、頭人、奉行なんどは、假(かり)にも虛語(きよご)を云ふべからず。人の訴を怒ること勿れ。忿(いかる)則(ときん)ば、民、その訴ふべき事を恐れて、訴へざる時は、自然に國家の好惡(かうを)を聞かず。民の歎(なげき)となる事多かるべし。咎(とが)あるをも怒らずして、まづ、理を詰めて後に誡(いまし)め、親疎(しんそ)に付きて、理非を枉(まぐ)ること勿れ。折節に付きて、參會ありとも、無道の辯舌者(べんぜつしや)、不義の利口人(りこうにん)、愚癡(ぐち)の遁世者、申樂(さるがく)の諂(へつら)ふ策を近付け、戲言虛誕(けごんきよたん)に及ぶ時は、自然に侈(おごり)出でつゝ、非道、盛(さかん)になるものなり。その賢を賢として、道義を語れば、道を知(しる)者は愈(いよいよ)服して、知(しら)ざるは慕ひ赴き、日比、私曲(しきよく)のなるも、少(すこし)は直(すぐ)になる事にて候。愚にして佞奸(ねいかん)なる者は、參會の座にしても、云ふべき事を知ざる故に、只、人を苦め、推倒(おしたふ)す事のみを語りて、理非の道義を顧みず。奉行、頭人も是を聞きては、利に走り欲に陷りて、つひには民の愁(うれへ)となり候。是等の事は、隨分に嗜むべきにて候」と申されければ、當座の人々首を垂れて、各(おのおの)甘心(かんしん)し給ひけり。天福二年七月六日、家司(けし)等に仰せて、起請文をぞ召されける。奉行の事、親疎を云はず、貴賤を論ぜす、各(おのおの)正義を存じて沙汰を致すべきの趣、十七人の判形あり。

[やぶちゃん注:起請文の部分は「吾妻鏡」巻二十九の天福二年七月六日に基づくが、それは本文最後に出る「六日癸卯。仰家司等。召起請。是奉行事。不謂親踈。不論貴賤。各存正儀。可致沙汰之趣也。其衆十七人。」(家司(けいし)等に仰せて、起請を召す。是れ、奉行の事、親踈を謂はず、貴賤を論ぜず、各々正儀を存じて、沙汰致すべきの趣きなり。其の衆十七人。)の誓詞提出の部分だけで(「吾妻鏡」は以下、その誓詞を提出させたメンバー――但し、十四名しか挙がっていない。そもそも評定衆の原則定員は十三であるから、これは「十七人」自体が誤記であろう――を記してあっさりと終っている)、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この大半は「太平記評判秘伝理尽鈔」巻五「相模入道田楽を弄する并闘犬の事」をベースとしているらしい(未見乍ら、後の北条高時の乱行に関わって遡って語られた部分であるか)。「太平記評判秘伝理尽鈔」は近世初期に大運院陽翁などが関与して成立したものと推定されている「太平記」の注釈論評書。四十巻。「太平記」の主要章段に兵法や倫理面から論評を加え、異伝y裏話の類を補説する。近世初期に於いてこの書を武士層に講釈・伝授する「理尽鈔」講釈が金沢などで盛んに行われ、初期の「太平記」講釈にも大いに利用された(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「頭人」「たうにん(とうにん)」と読む。評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官。
 
「行跡」「かうせき(こうせき)」と読んでいる(「ぎょうせき」と読んでも構わない)。日頃の行い。行状(ぎょうじょう)。身持ち。
 
「仁慈有道」仁心と慈悲心に富んで、且つ道理にも叶っていること。

「廉讓」清廉潔白で常に自身よりも人に譲ることを心掛けること。

「節義」節操と信義に基づいていた正道を常に採ること。

「記錄所」問注所の誤りであろう。本義は「記録荘園券契所 (きろくしょうえんけんけいじょ) 」で平安時代、及び建武の中興の際に置かれた荘園整理のため朝廷の役所で、鎌倉時代も源頼朝の要請によって文治三(一一八七)年に荘園関連の主にその訴訟処理を目的として朝廷に設置されたが、これは明らかに鎌倉御府内のことだからである。

「上の十五日」月の前半の十五日間。

「卯刻」午前六時。

「午刻」正午。

「申刻」午後四時。

「行(かう)、餘力(よりよく)あるときんば、以て文を學ぶ」「論語」学而第一の六、

   *

子曰。弟子入則孝。出則弟。謹而信。汎愛衆而親仁。行有餘力。則以學文。

(子曰く、「弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち弟(てい)、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行ひて餘力有らば、則ち以つて文(ぶん)を學ぶ。」と。)

   *

に基づく。原義の「文」は「六経」(詩経・書経・礼経・楽経・易経・春秋)で孔子の謂いはそれらを指すが、後、「六芸」(礼節・音楽・弓術・馬術・文学・数学)をも指すようになり、意味合いとしては、後者の方が分かりがよい。但し、ここで孔子が言いたい本質は、字面のそれではなく、実践に基づいた礼智をまず身につけ、その後に余力が出来たら、学問をしなさい、という助言であろう(「孝」は情(「詩経」)に、「弟」は序(「礼記」)に、「信」は事(「書経」)に、「仁」は和(「楽経」)に相当する)。下村湖人はこれを「先師がいわれた。年少者の修養の道は、家庭にあっては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、まず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。そして、そうしたことの実践にいそしみつつ、なお余力があるならば、詩書・礼・楽といったような学問に志すべきであろう」と訳している。

・「奉行」教育社の増淵勝一氏の訳に割注で『別当・執事などの下二ある各部局の長』とある。どのような奉行があったかは個人サイト「日本歴史学講座」の「鎌倉幕府職制事典」が分かり易い。

「時と相應の文」現実の今日只今の時節・体験・状況に相応した意義のある、実践的で即戦力となるにぴったりした文章や考え方。以下を読むと、智の高度な照応性のみならず、現象との自己同一性をも求めていることが分かる。これはこの場を借りた、筆者の知性論でもあるわけである。

「口惜かるべし」無駄である。意味がない。

「一定し難き事」絶対の道理に基づく揺るぎない判断とは言えないことを謂う。

「嗜」よく自らのものとして理解していた、心得ていたことを指す。

「三十歳より内の人の、他を譽るも、好しとせず、年老いたる人の、他を毀るも聞善らず」対句構造から見ると、前の対象である「他」は自分より年上、三十以上の人で、後者の対象である「他」は若い人と読める。それぞれの心的な状況を更に分析したのが、この後に続く対句部分になるのである。

「名を立てらるゝ」老兵が容赦なく若者を指弾批難し、それをまた周囲の者が讃嘆して評判となる。

「小智は亡國の端、邪智は害毒の根」出典未詳。仏典か? 検索をかけると、「北条九代記」のここが濫觴とあるが、ちょとなぁ……。

「虛語を云ふべからず」「虛語」は嘘だが、このままでは文意の流れが悪い。増淵氏はここを、以上と以下の叙述から、『まして(上に立つ)長官・局長なぢは仮にも(いかにも怒っているかのような)うそをついてはならない』と訳されている。これはまことに達意の名訳である。

「自然に國家の好惡を聞かず」ここも増淵氏の訳、『そうなると自然に国政のよしあしを(人民から)聞く機会を失ってしまって』が素晴らしい。

「親疎」相手が自分と親しいか親しくないか、自分の側の人間か、相い反するセクトの人間かの違い。

「折節に付きて、參會ありとも、無道の辯舌者、不義の利口人、愚癡の遁世者、申樂の諂ふ策を近付け、戲言虛誕(けごんきよたん)に及ぶ時は、自然に侈出でつゝ、非道、盛になるものなり」「戲言虛誕」「戲言」は通常「ぎげん」で、たわごと・ざれごと・ふざけた話・冗談、「虛誕」は根拠のないことを大げさにいうこと・でたらめ・法螺。――折りに付けて我ら、かくも参会して国政に就きて評議致すとも、そこに……道理に外れたことを達者な口でべらべらと述べ立てる奴……不義にして小賢しい知恵を弄ぶ小利口者(こりこうもの)……役にも立たぬ愚痴ばっかりを垂れ流すだけの遁世者(しゃ)……猿楽みたような愚にもつかぬおべんちゃらで諂ってはすり寄ってくる下郎……そんな輩ばかりが言いたい放題に戯言(たわごと)や出鱈目に及ぶに至っては、知恵ある書士も自ずと思い上がった心が肥え太り、結果、世に非道の盛んとなって蔓延(はびこ)るようになるものである――……おい! これどっかの国のどっかの国会でどっかの与党がやってること、全く以っておんなじことじゃあ、ねえかッツ!……

「私曲」不正な手段を以って自身だけの利益を謀ること。利己心があって正しくないこと。

「佞奸」口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢く拗(ねじ)けていること。

「家司」「けし」の読みの方が古く正しい。政所・問注所・侍所の寄人(よりゅうど)、担当職職員を指すが、ここは評定衆・引付衆をも含んだ総称。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 築地精養軒での歓迎会 他

 大学当局は私に、天文観測所のすぐ裏にある小さな家をあてがってくれた。この家には部屋が二つと(その一つをドクタア・ビゲロウが占領する)大きな押入と、日本人の下僕と彼の神さんの居場所とがある。家の後が狂人病院で、我々は時々急性な狂人が発する鋭い叫声によって生気づけられる。狂人の歌を子守歌として、眠りにつくのである。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大の人々はモースとビゲローを歓迎し、在日中の宿舎として、本郷加賀屋敷にあった天象台(天文台)付属官舎の二室を無償で提供した。かつてモースが住んだ教師館五番館よりやや北にあった建物で、もともとは「観象台」と呼ばれていたが』、モースが離日していた明治一五(一八八二)年の『二月に気象台が分離し、この建物は「天象台」と改名されたのである』とある。

「狂人病院」当時、天象台の北、道を隔てた直近に東京府癲狂院(東京都立松沢病院の前身)があった。]

 

 約束がしてあったので、私の以前の車夫が、私を彼の家へ連れて行く可くやって来た。彼はこざっばりした身なりをしていて、私が彼を道案内として私自身の人力車で行くことを提言したのに、彼は断じて耳を傾けず、意気揚々私をのせて三マイルの路を走った。彼は尾張に住む父親に貰ったいい家を所有している。彼の神さんと娘は一番上等な着物を着ていて、菓子やお茶が出され、私は彼等の歓迎をうれしく思うことを示そうと努力した。お互の言葉を話さぬ者の間にあっては、会話は困難であるから、我我はお辞儀や微笑によって会話しなくてはならなかった。私は晩飯を食って行かぬかとすすめられたが、他の約束があるので、これは断った。

[やぶちゃん注:「三マイル」約四・八キロメートル。]

 

 今宵は精養軒で、日本の教授達が挙行して呉れた西洋式の晩餐会に列席した。ドクタア・ビゲロウもまた招かれた。彼等が私の旧友数名を招待したことを知った時の、私の驚きと悦しさは想像にまかせる。全部日本人で、出席者は三十二人、部屋を廻って一人ずつに挨拶した時、私は一人残らずの名前を覚えていたことを悦しく思った。ある日本人は、彼の英人教授と一年以上も交際しているのに、この英国人がいまだに彼の名前を正しく呼び得ないと語った! 私の以前の特別学生が、今や全部大学或は他の専門学校の教授になり、また私の助手だった人が一時的ならぬ博物館の役員となっているのは、うれしいことであった。外山教授が英語で歓迎の辞を述べ、報知新聞の藤田氏が日本語で演説した。また金子氏は彼の演説中、ドクタア・ビゲロウに言及する所があったので、ドクタアは答辞として、生れて初めての食後演説をやった。彼は、日本人が図画法と彩色法で、日本古来の方法によるべきことの、重大さと必要さとを力説した。この会は確かに私の経験中、最もたのしいものであった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは明治一五(一八八二)年六月二十二日に行われたモース再訪の歓迎会で、築地精養軒(明治六(一八七三)年に築地采女町(現在の中央区銀座五丁目)に開業した「築地精養軒ホテル」)で催された。ホストは東京大学の外山正一・矢田部良吉・菊池大麓三教授で、随行者であったビゲローも公式に招待されている。臨席したメンバーは文部大輔(現在の文部次官)田中不二麿(ふじま)・東京大学法理文三学部綜理(初代)加藤弘之・東京大学綜理補浜尾新(あらた)・同服部一三(いちぞう)といった文部省及び東京大学関係者以外に、西周・福沢諭吉・箕作麟祥(官僚で法学者・教育者・啓蒙思想家。既注)・津田仙(つだせん:本邦に於ける西洋農学の先駆者で、キリスト者としても当時、「キリスト教界の三傑」と讃えられた。足尾鉱毒事件では田中正造を助け、農民救済運動に奔走、死に際して内村鑑三や新渡戸稲造らは追悼文を発表して仙の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ。以上はウィキ津田仙に拠る)・神田孝平(たかひら:洋学者・政治家。兵庫県令・元老院議官・貴族院議員を歴任。民選論の理論家としても知られ、明六社に所属、東京学士会院会員。当時は元老院議官。以上はウィキ神田孝平に拠る)・立花種恭(たねゆき:学習院院長(初代))・など、旧交のあった錚々たる面々とモースの弟子たちで、磯野先生曰く、『いずれも明治時代に活躍した人々で、モースの交流の広さを改めて感じさせる顔ぶれである』とある。

「報知新聞の藤田氏」藤田茂吉(もきち 嘉永五(一八五二)年~明治二五(一八九二)年)。慶應義塾に学んだのち,明治八(一八七五)年に『郵便報知新聞』に主筆として入社、『東京日日新聞』の福地源一郎と対峙して民権論・国会開設論を展開、『郵便報知』の紙価を高めた。大隈重信の立憲改進党組織を援助し、同党の中堅幹部として活躍、後の明治二三(一八九〇)年七月の第一回衆議院議員総選挙に東京府第四区から出馬して当選、第二回総選挙でも当選して衆議院議員を通算二期務めた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」をベースに、ウィキ藤田茂吉の記載を追加した)。

「金子氏」金子堅太郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一七(一九四二)年)は官僚・政治化。父は福岡藩士で藩校修猷館で学んだ。明治四(一八七一)年藩主黒田長知に随行して渡米、ハーバード大学で法律学を修めた。明治一三(一八八〇)年には元老院に出仕、権大書記官・首相秘書官等を勤め、明治憲法草案起草に参画、諸法典の整備にも尽力した。明治二十三年に貴族院書記官長・貴族院勅選議員。以後、第三次伊藤内閣農商務相、第四次伊藤内閣司法相を歴任、日露開戦時には米国に派遣され、外交工作に当たった。明治三九(一九〇六)年、枢密顧問官。晩年は臨時帝室編修局総裁・維新史料編纂会総裁として史料編纂に当たった(以上は国立国会図書館公式サイト内の近代日本人肖像」同人記載に拠った)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  大御堂谷

    ●大御堂谷

大御堂谷は文覺屋敷の東隣歌橋の南向なり。阿彌陀山(あみだやま)とも云ふ賴朝卿最初の建立。勝長寺院の舊蹟なり。勝長壽院を南御堂とも大御堂とも稱するなり。

[やぶちゃん注:大倉幕府跡の前方の滑川(坐禅川)を渡った奥の谷戸で、全域が勝長壽院の寺域であったと考えられる。東の尾根の向こうが宝戒寺裏の葛西ヶ谷で東勝寺の寺域に接している。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十三年 梅溪

 昭和三十三年

 

 

 梅溪

 

梅溪に赤土露出せる一断崖

 

ひきよせてはつしと放つ梅青枝

 

吾等去つて木魂しつまる梅の溪

 

鶯や火を欲りて立つ崖の枯れ

 

鶯や山拓く火に昂りて

 

毛糸編む老の刻々打ち込みて

 

[やぶちゃん注:「梅溪」は奈良盆地と伊賀盆地の境に広がる大和高原の北側、京都・三重・奈良府県境付近にある月ヶ瀬梅林のことであろう。鎌倉中期に当地にある真福寺境内に梅が植えられたのが始まりとされる古くから知られた梅林で、参照したウィキの「月ヶ瀬梅林」によれば、奈良県奈良市月ヶ瀬尾山とその周辺に位置する梅林で、名張川(五月川)の渓谷沿いに梅の木が広がることから月ヶ瀬梅渓とも呼ばれる。二〇〇七年現在で約一万三千本の白梅・紅梅が栽わる。奈良市中心部からは東に約三十キロメートル、三重県伊賀市中心部からは南西に約十二キロメートルの距離にある。『大和高原北側の府県境付近は木津川水系名張川の渓谷が続いており、特に月ヶ瀬梅林のある名張川下流域は五月川と呼ばれ、深いV字谷を形成して』おり、『月ヶ瀬梅林はこのV字谷の斜面に広がる梅林である。「月ヶ瀬梅渓」と呼ばれる所以となった雄大な渓流は高山ダムの完成』(昭和四四(一九六九)年)『によりダム湖の底に沈んだが、近年はその月ヶ瀬湖の湖水と梅林が調和し、新たな景観を形成している』。『明治時代に入る頃まで月ヶ瀬は烏梅(若い梅の実の燻製。紅花染めに必要な材料。)の一大生産地であり、月ヶ瀬梅林は烏梅の原料となる梅の実を収穫する用途で規模を拡大し』、最盛期の江戸時代には約十万本の烏梅の木が成育していたとされる。しかし二十世紀になって『合成染料の発達により、烏梅はほとんど生産されなくなったため、月ヶ瀬梅林は観光資源として利用や食用の青梅の栽培に軸足を移した』とある。多佳子の詠じた景色はダムに沈む以前の景観であることに注意されたい。]

甲子夜話卷之一 40 有德廟の御膳に蟲有し始末の事

40 有德廟の御膳に蟲有し始末の事

德廟の御時、いかゞの過にや、御膳の御食器の中に、はさみ蟲と云ふ蟲の入て有けるに、人々大に驚入て、御膳に預る者は、皆罪を何申せし時、政府にも死刑に當るべきやなど評したり。然れども先づ上旨伺はんとて申出たるに、上意には、其蟲いまだ有やと、御尋に因て、勿論貯置候と申上たれば、夫を膳に預し者に食(クハ)せよと有たれば、其者ども皆死を分としたれば、此等のこと厭までもなく、快く食しける。夫よりして上意には、彼者はいかゞ別條なきやと、再々上意あり。別條無く候と申上れば、見よ、彼蟲は毒は無きものよ。我も亦無事なり迚、其餘の上意は無りし故、其沙汰止て、いづれも故(モト)の如く勤役せしとぞ。百載の後に聞も涙出て、悉く思奉る也。そのとき其輩の心持いかばかりなりけんと押はからる。

■やぶちゃんの呟き

「德廟の御時」これ、吉宗でなかったらと考えた時の方が、キョワイ。

「過」「あやまち」。

「はさみ蟲」節足動物門昆虫綱ハサミムシ目 Dermaptera ウィキハサミムシ」をリンクさせておく。

譚海 卷之一 江戸兩國ばし幷角田川木母寺の事

 江戸兩國ばし幷角田川木母寺の事

○今の兩國橋、往古は少し川上にかゝりたるが、度々洪水に落(おち)て難儀せしに、川村隨軒今の所を見たて、言上(ごんじやう)してかけ替(かへ)しより、洪水の憂(うれひ)なしといへり。又隅田川木母寺(もくぼじ)に御成の御座所有(あり)しが、久しく破損して修造せられず。住持度々願けれども其事なく、竟(つひ)に取(とり)はらはれたり。同時に向ひの中島にあづまやの有たるも、取はらはれたり。明和七年春の事なり。

[やぶちゃん注:「角田川」「すみだがは」で隅田川のこと。承和二(八三五)年の太政官符に「住田河」と出、古くは「宮戸川」「墨田川」などとも呼称・表記されていた。江戸時代、公的には荒川の分水系として「荒川」であったが、実質的には「隅田川」が親しまれて、そう呼称されるようになった。一方、江戸っ子に親称された「大川」は吾妻橋周辺より下流の狭義の呼称である。隅田川の名の由来については、亜寳麿裕寳氏のサイト「浅草の賑わい」の隅田川の由来(台東区編纂「道路・橋梁考」という書を元にしたもの(引用?)とある)にアイヌ語説と武蔵風土記の説他が紹介されている(一部の文字を補正した)。『アイヌ語説は、洗い去る・溺れる・荒波などを意味するアイヌ語の”スミ”から起こったとするもので、武蔵風土記の説は同書が述べている次のような考え方である。「隅田川と称するは、思ふに葛飾郡に墨田村という地ありて、そこに渡場ある故に墨田川と称したるを通して此川の名とはなりしなるべし。」』。『アイヌ語説、風土記説のいずれをとるべきかはなんともいえない。武蔵風土記の説を引用したと思われる東京府志料は「隅田村ハ隅田川ノ名ニ由テ起ル所ナレハ最モ古キ村落ナリトイヘリ又一説ニ隅田川ノ名ハ此村ノ名ニヨツテ起ルトモ云リ」と述べて、武蔵風土記の説は一説で村名より墨田川のほうが古くからあった名であるとみなしている。どちらが古い名であったかを知ることは不可能であるとしても、東京府志料のいうような考察ができる以上、武蔵風土記の説をもって隅田川命名由来の定説とするわけにはゆかない。ここに挙げた二説以外にも、隅田川の名についての考証はあると思う。しかし江戸砂子の記事を管見した程度で、他の説をみいだすことはできなかった。そこで、次のような考察を試みたので紹介しよう』。寛政年間(一六二四~一六四三)、『墨田川の水を汲んで酒を造り、隅田川諸白と称した。これは浅草寺志にみえる話しで、(江戸塵拾によると隅田川諸白は本所中の郷にある井戸水を使って製したという。)その所伝からすれば、酒を造ったというのであるから隅田川の水は澄んでいたことを物語っている。江戸時代に澄んだ川であったのなら、それ以前はより澄んでいたに違いない、澄んだ綺麗な川であったことから推察して、すんだ川といっていたのが転訛してすみだ川になったのではないだろうか、と考えるのである』。『他に古来須田川の称があったといわれているので、すだ川がすみだ川になったという考察、或いは大和國と駿河國に角田川というのがあり、まつち山と称する丘がその河畔にあって地形が似ているところから、墨田川と待乳山の名を付けるようになったというみかたもある。前者が江戸砂子のいう説である』。以下、隅田川の書記法・異称・別名が仔細に語られており、資料として興味深い。

「木母寺」今は墨田区堤通にある天台宗梅柳山墨田院木母寺。貞元元(九七六)年、忠円阿闍梨創建と伝えられ、能「隅田川」の梅若山王権現の舞台であることから梅若寺と古称する古刹である。古くは梅若寺、隅田院とも称した。天正一八(一五九〇)年、家康から梅柳山の命名を得、慶長一二(一六〇七)年に前関白近衛信尹が参詣の折り、柳の枝を折って「梅」の字を分け、「木母寺」として以来、寺号としたと伝えられる。明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若神社とされていたが、明治二一(一八八九)年に光円僧正の尽力により仏寺として再興された。かつては堤通りに面して鐘渕中学校と隣り合って建っていたが、東京都防災拠点建設事業によって、昭和五一(一九七六)年、梅若塚・碑林ともに隅田川寄りに約百六十メートル移転し、現況に至る。旧跡地は榎本武揚像のみを残して区立梅若公園となっている(以上はたびたびお世話になっている松長哲聖氏のと」木母寺に拠った。こちらは詳細年表・由緒その他の解説が詳しく、地図も完備した江戸探究の友として必見のサイトである。

「今の兩國橋、往古は少し川上にかゝりたるが」ウィキの「両国橋によれば、創架年には万治二(一六五九)年説と寛文元(一六六一)年説があるとする。千住大橋に続いて隅田川に二番目に架橋された橋で、長さ九十四間(約二百メートル)、幅四間(八メートル)、名称は当初「大橋」と名付けられていたという。『しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と』、二国に『またがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ』、元禄六(一六九三)年に『新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』(下線やぶちゃん。ということは古えは現在の領国橋よりもダブルで下流であったことになる)。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった』が、明暦三(一六五七)年の明暦の大火の際、『橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ』て、十万人に『及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』とある。

「川村隨軒」(「隨」は「瑞」の誤字。「賢」は「軒」とも称した模様)河村瑞賢(元和三(一六一七)年或いは元和四(一六一八)年?~元禄一二(一六九九)年)は江戸初期の政商で海運・土木事業家。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。以下、ウィキ河村瑞賢によれば、伊勢度会郡東宮村(とうぐうむら:現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれるが、先祖は村上源氏で北畠氏の家来筋であると自称していたという。十三で江戸に出、幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やした後、材木屋を始め、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間に老中で相模小田原藩主稲葉正則と接触、以降、幕府の公共事業に深く関わっていくこととなった。『それまで幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。幕命により瑞賢は』、寛文一一(一六七一)年に、『阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回し伊豆半島の下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米し、新たな航路である外海江戸廻りの東廻り航路を開いた。さらに翌年には、奥羽山脈を隔てた最上川の水運を利用し、河口の酒田で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島の下田に至り、西南風を待って江戸に廻米し、西廻海運を確立した。また、途中の寄港地を定めて入港税免除や水先案内船の設置も行うことで海運の発展に尽力した』。『航路開拓と同じ頃、河口付近の港では上流から流入する土砂によりしばしば港が閉塞する問題がおきていたが、瑞賢は上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべきとの認識を得ていたといわれる。こうした考え』方が、天和三(一六八三)年、若年寄稲葉正休(まさやす)が淀川の視察に訪れた際、『瑞賢が案内役を務めたことから徐々に幕府上層部に伝わることになり』、翌貞享元(一六八四)年には『淀川河口の治水工事を任されることとなる。こうした中、安治川を開くほか、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛されていた』。晩年、『瑞賢は霊岸島に居を構え同郷の松尾芭蕉とも交流があった。またこの間に、霊岸島に新たな川を開削している。この際に使われた測量の方法などは瑞賢が得た知識と数学的才能によるものだと、長内國俊は指摘している』。彼の墓は鎌倉の建長寺の半僧坊に登る途中にある。

「向ひの中島」恐らく、現在の隅田川が大きく西へ蛇行する左岸、現在の南千住八丁目の汐入公園附近が大きな中州となっていたものと思われる。

「明和七年の春」一七七〇年。慶長八 (一六〇三) 年二月の江戸幕府開府から実に百六十七年目の春である(「譚海」の起筆は安永五(一七七七)年であるから、都合百七十四年となる)。しみじみと眼を細めて急速に変貌する景観を眺めている津村淙庵の感慨が私にはよく分かる。]

2015/06/07

博物学古記録翻刻訳注 ■16 滝澤馬琴「燕石雑志」及び「烹雑の記」に現われたる佐渡の異魚三十種に就いての記載

[やぶちゃん注:先般、カテゴリ『毛利梅園「梅園魚譜」』の「ハリセンボン」を翻刻訳注した際、そこに「佐渡には三十種の異魚あり」とあるのに出逢った。諸本を調べてみると、これは滝澤馬琴の考証随筆「燕石雑志」及び「烹雑(にまぜ)の記」がその濫觴らしいことが判明した。そこでこの二つの該当箇所を電子化訳注することとした。

 「燕石雑志」は五巻六冊。文化八(一八一一)年刊。多岐にわたる古今の事物を和漢の書物から引用しつつ、考証したもの。「烹雑の記」も同年刊で、管見するに完全に「燕石雑志」の続編である。

 前者については早稲田大学図書館の画像データベースでダウンロードした原典画像を視認して吉川弘文館「日本随筆大成」第二期第十一巻のそれと校合して、後者は「立命館大学アート・リサーチセンター」の同書の画像及び国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像の二つのデータを同じく「日本随筆大成」の第一期第二十一巻のそれと校合して翻刻した。掲載した図は「烹雑の記」に出る図譜で、「日本随筆大成」第一期第二十一巻のものを使用したが、実は「立命館大学アート・リサーチセンター」の原典の当該画像(以下の-1-2-2下相当画像。同センターの画像はウェヴ公開を商用利用と位置づけて使用許可申請を要求しているので、ここでは以上の通り、リンクを示すのみとした)を見ると、単色乍ら、「日本随筆大成」所収のものとは遙かに異なる画像であることが分かった。特に陰影による魚体のグラデーションやマトウダイの円紋をはっきりと見て取ることが出来る。必見。

 Ⅰでは、ルビは原典画像にあるカタカナをそのまま使用し、一部難読と思われる箇所に歴史的仮名遣で私が読みを附した。読み易さを考えて随筆大成版を参考にしつつ、読点や中黒を追加した。また。原典の角の丸い囲い文字は【 】に代えた。]

 

 

 『滝澤馬琴「燕石雜志」卷之一(十)物の名』より

[やぶちゃん注:《 》は「日本随筆大成」の方にのみ所収が確認出来る頭書で、恣意的に正字化して示した。こちらの引用と訳は、項目ごと、丸々を対象とした。]

□原文

江の源五郎鮒(フナ)は、室町家のとき、錦織(ニシゴリ)源五郎といふもの、湖水(コスイ)の漁猟(ギヨリヤウ)を司(ツカサド)りて、毎朝、大(おほい)なる鮒を京都に進(マヰ)らせしかば、この名ありといふ。佐渡(サド)に鯛の婿(ムコ)源八といふ魚(ウヲ)あり。しか名づけたる故は、しらず。この餘(ヨ)、【トクヒレ】・【瘤鯛】・【針千本】・【箱ふぐ】・【鮫の守り】・【かねたゝき】・【コウフク】・【龍宮の鷄】などいふ魚三十種(シユ)ありとぞ。予(ヨ)、いまだその魚を見ざれば、繪も圖(ヅ)せず。しれる人にたづぬべし。

《こゝに錄せし針千本、箱ふぐの類は、予、いぬる秋、左(さ)の乾(かれ)たるものを得たり。こゝに圖を出さゞるを遺憾とするのみ。》

 

□やぶちゃん注

 原典では「○」が一字分上に突出している。「日本随筆大成」版では上文に続いて、

   *

靜慮云。古歌当作連歌。蒐玖波集十四雑の連歌、

   草の名も所によりてかはるなり

   難波の蘆はいせの濱荻

   *

と出るが(恣意的に正字化した)、これはどう見ても、次の条(地方によって固有名詞の呼称に大きな違いがあるという記載)の枕であるので除去した。

・「錦織(ニシゴリ)源五郎」原則、注を附さないと言い乍ら、早速に禁則破りであるが、大好きな鮒鮨絡みなれば少しだけ。これ、「フナズシ・ドットコム」の「琵琶湖の話 ニゴロブナの由来」に詳しい。それによると、源五郎は元は琵琶湖の漁師であったとあり、身分違いの大納言の姫君に恋をし、彼が父大納言に立派な焼き鮒を献上して姫が食したところ、その腹中より源五郎の恋文が出て参って二人は結ばれたとある。更に同じ馬琴の別の紀行「壬戌羇旅漫録(じんじゅつきりょまんろく)」にも『近江の源五郎鮒は。一説に佐々木家一國の主たりし時錦織源五郎といふ人。漁獵のことを司る。湖水に漁りたる大鮒を。年々京都将軍に獻ず。その漁獵の頭人たるによりて魚の名によび來たれり。』と引用、「錦織源五郎」が「源五郎鮒」に、それが「似五郎鮒」と転訛したという説を示しておられる。何となく、この「錦織」という姓、まさか、な……と思って調べて見たら……フェイスブックのとある御仁の書き込みに、正真正銘、「この」錦織源五郎、「かの」錦織圭のルーツに繋がる宇多源氏佐々木氏の家来だった、とあった。テニスにゃ、全くも以って興味はないが、一応――うっひゃあ!――と言っておこう。

・「トクヒレ」以下に掲げられる異魚については、後掲する「烹雑の記」で詳細に同定注するので注から原則、外した。「烹雑の記」の本文と図のキャプションでは「禿骨畢列(とこひれ)」。

・「コウフク」「烹雑の記」に出る「カウゴリ」と同一であろう。濁音表記しない「カウコリ」の手書き字は「コウフク」と誤写し易いように思われる。現代語訳ではそのままとした。

・「左(さ)の」「左右」で「さう(そう)」と読む「さ」(そ)を「その」の指示語に当て字したものであろう。

・「こゝに圖を出さゞるを遺憾とするのみ」手に入れた秋には本書が校了しており、版木を彫ってしまった後であったのであろう。だから図を附すことが出来なかったのだと推定される。事実、後に示すように、「烹雑の記」の当該箇所の冒頭には、この時のことを回想して記したと思しい、『しかるに、彼(かの)編刻成(なる)のころ、相川の夏海子(なつみし)、件の異魚の乾(かれ)たるを贈れり。〔凡四品。〕」こゝにおいて、その図を載ざるを遺憾とす。故に今、これを圖す』とあるから、間違いない。

 

□やぶちゃん現代語訳

○近江の源五郎鮒は、室町幕府のあった頃、錦織(にしごり)源五郎といふ者が、琵琶湖水に於ける漁猟を幕命によって掌っており、毎朝、大いなる鮒をこれ、京都に進上していたことから、この名があると伝える。佐渡には、「鯛の婿源八(むこげんぱち)」という魚がいる。かく、名づけたその由縁は知らぬ。この他にも佐渡にては、「トクヒレ」・「瘤鯛」・「針千本」・「箱ふぐ」・「鮫の守り」・「かねたたき」・「コウフク」・「龍宮の鶏(にわとり)」などという、奇体な魚が三十種もいるとのことである。私は未だその異魚類を見たことがないので、絵も描くことが出来ない。そのうち、知れる人に尋ねてみようと思っている――ここに載せた「針千本」及び「箱ふぐ」の類いについては、私は昨年の秋、その乾したものを手に入れた。入れる余裕がないので図を出せないことを遺憾とするばかりである――

 

 

 『「烹雜の記前集 上二卷」「二 多湊(さはと)ぶり」』より

[やぶちゃん注:同標題内の一条。「多湊(さはと)」とは冒頭で「佐渡はさはとの中略なり」とあるように、この「多湊ぶり」の章は膨大な佐渡の物類呼称及び地誌・物産誌に相当する。ここでは標題の佐渡異魚三十種と、それに続くところの海洋生物関連らしきものを含む記載までとした。但し、図Ⅰはその後に続く佐渡産の奇石類等の絵を多く含んでおり、それがまた、すこぶる興味深く、原文を示して注したい願望に駆られるのであるが、そうするとまたまた本テクストの公開が遅れるので、またの機会としたい(左画面下に画師の署名と落款があるが、これは「辰斎」で、葛飾北斎門人であった柳々居辰斎である)。一つだけ指摘しておくと、奇石の図の中に、さり気なく配されてある中央下の「カニツカ」(右図の左端。蟹塚。蟹の墓場の謂いであろう)、キャプションは『蟹のぬけたるそのはさみ、浪にゆりよせられいくつともなく、つきて、蓮花の如し。これは佐渡ならでもあり。今、童蒙の爲にこゝに圖す』とあって、これは極めて高い確率で足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下(フジツボ)綱下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella のことを指している。佐渡ではカメノテを食べることを私は確認している。〔 〕は割注。《 》は頭書(漢文脈箇所は訓読し、「々」の字を正字化した)。こちらの原典はほぼ総ルビであるが、五月蠅いので取捨選択してパラ・ルビとした。読み易さを考えて一部に改行を施した。]


図Ⅱ-1

Nimaze01
図Ⅱ-2

Nimaze02

□本文原文

佐渡に三十種の異魚ありといふ。予、曩(さき)に燕石雜志を編(あめ)るとき、その三、四種を載(のせ)たりしが、いまだ形を見ざりき。しかるに、彼(かの)編刻成(なる)のころ、相川の夏海子(なつみし)、件の異魚の乾(かれ)たるを贈れり。〔凡四品。〕」こゝにおいて、その図を載ざるを遺憾とす。故に今、これを圖す。所云(いはゆる)三十種の異魚は、

○「とこひれ」〔文鰩魚(とびうを)に似たり。六ノ稜(かど)、及、小き刺(はり)あり。〕

○針千本〔かたち、しほさえふぐといふものに似て、全身に刺(はり)あり。〕

《追考。「和名鈔」に『鯸1(コウイ)、和名布久閉(フクベ)、之を犯ときは則、怒る。怒れは則、腹、脹(ハ)りて水上に浮み出る者なり。』。これ、江戸の俗の、「しほさえふぐ」と唱るものなり。石伏は1なり。「和名鈔」に、『「1」は、音、夷。和名、「伊師布久」、性、伏沈して石間に在る者なり。』。》

[やぶちゃん字注:「1」=「魚」+(「頤]-「頁」を(つくり)とする)。]

○箱河豚〔海すゞめといふものに似たり。〕

○鯛の聟(むこ)源八〔鯛に似て、極(きはめ)てちひさし。〕

○鮫の守(まも)り〔魚にあらず、海ほうづきといふもの如し。又、そのかたち、藤(ふぢ)まめに似たり。〕

○鉦たゝき〔鏡鯛に似たり。〕

かうごり〔末ㇾ詳、石伏(いしふし)の事にや。石伏の一名を「ゴリ」といふ。このもの、二種あり。海・河ともにあり。眞物(まもの)は、腹の下に、ひれありて、杜父魚(とほぎよ)に似て、小なり。声ありて夜(よる)鳴く。ひれに、はりあり。海なるは、やわらかにして、河なるは、するどきよし、「山海名産圖会」にいへり。「カウゴリ」は、河石伏(かふごり)なるべし。〕

○瘤鯛(こぶだひ)〔佐渡にてかんたひといふ、これにや。未ㇾ詳。〕

○海馬(かいば)〔佐渡ならでもあり。大きなるは稀なり。〕

○竜宮雞(りうぐうのとり)〔鬼頭魚の奇品なり。〕

この類、三十種ありとぞ。余はいまだ詳(つばら)ならず。これらを本草に考なば、漢名(かんみやう)のしらるゝも、又、能(のう)・毒もあるべけれど、今、倉卒(さうそつ)の間(あはひ)に錄(ろく)するをもて漏(らう)せり。他日(たじつ)、考(かふがへ)たゞすべし。〔トコヒレ鉦たゝき竜宮の雞は、ある人所蔵の画幅を臨写す。〕

又海中に生ずる異草四種あり。

○雪海苔〔土呼(とちのとなへ)は詳ならず。〕

○蔓藻〔海藻(もくず)なり。〕

○海松(かいせう)

○海柳(かいりう)

[やぶちゃん注:ここには原典で改行がある。]

又、海濱(うみべた)に稀に流れよるもの四種。

○藻玉(もたま)

○蛸船(たこふね)

○巨葭(おほよし)

○椰子(やし)〔今按ずるに、藻玉(もたま)、一名(いちみやう)「藤榼子(とうかふし)」、一名「猪腰子(ちよようし)」。この物、蛮國に生ず。「本草綱目啓蒙」卷ノ十四の上、「榼藤子(たふとうし)」の条下を考ふべし。蛸舟(たこふね)は、相摸の江ノ島にていふ鰹の烏帽子(えぼし)の類(たぐひ)なるべし。又、按ずるに、「本草綱目啓蒙」卷ノ一の十、背椰子の條下に、椰子、通名(つうめう)「ヤシホ」、又、津軽にては、「タウヨシノミ」といふよし、見えたり。〕

[やぶちゃん注:ここには原典で改行がある。]

又、花卉(かさう)・鳥獣は、

○黒萩(くろはぎ)〔小倉村にあり。他所(たしよ)にあるは葉、短し。〕

○白蒿(しろよもぎ)〔小泊村、及、西三河にあり。〕

○雪割草〔方言、未だ詳ならず。銀山にあり。又、他所にもあり。〕

○福壽草〔小川村・達者村の辺、特に多かり。〕

○人參草(にんじんさう)〔長江・栗(くり)ノ口・大野等の村にあり。〕

○鷲の巣〔二見(ふたみ)・北2・岩屋口(いわやくち)・関願(せきぐわん)・深浦(ふかうら)・沢崎(さわさき)・大杉(おほすぎ)等(とう)の村々にあり。〕[やぶちゃん字注:「2」「犭」+「夷」。]

○寄鯨(よりくじら)〔稀にあり。〕

瑁(たいまい)〔このもの、元文三年のころ、獲たりし事ありとぞ。海亀(うみかめ)は常にあれども、玳瑁は、そのゝち、聞えず。〕

○海獺(うみをそ)

○海豹(かいひやう)〔稀にあり。〕

○葦鹿(あしか)〔北海の俗、「トヾ」といふ。〕

○山獸は狸と兎のみなり。貉(うじな)ありといへども、狸に混雑して慥(たしか)ならずとなん。

○雪なだれ〔形、海月(くらげ)に類す。その色、潔白にして、雪の解(とく)るがごとし。この物、稀にあり。土俗(とちのひと)、これを「雪なだれ」といふ。これ、「大和本草」に所云(いはゆる)、北海に雪魚(ゆきうを)あり。方一丈餘(よ)、その形、鰈(かれい)のごとし。その肉、白くして雪のごとく、脂(あぶら)なし。好(このみ)て海上に睡(ねむ)ると、いへり。これなるべきよし、ある物にしるされたり。〕

 

-1図右上の「針千本」(ハリセンボン)のキャプション

 針千本

かたちは、「しほさへふぐ」の如くして、惣身の刺(ハリ)は、栗のいがの如し。

 

-1図左上中央の「箱フグ」(ハコフグ)のキャプション

 箱フグ

「海すゝめ」に似て、かたち、もつとも四角なり。

 

-1図左上の「鯛ノ聟源八」(マツカサウオ)のキャプション

 鯛の聟 源八

鯛に似て、極めてちひさく、鱗は甚だ、するどし。

 

-2上図の「禿骨畢列」(トクビレ)のキャプション

 禿骨畢列〔とくひれ魚〕

解(とく)、按ずるに、方言「とこひれ」とは、「長鬣魚(とこひれうを)」の義にや。又、「鋭鰭(ときひれ)」の義にや、「こ」と「き」と通ず。この物、鮫の種類ならん歟(か)。目は黄なり。頭より脊(せなか)に至(いたり)て、すべて薄靑(うすあを)色也。鰭の端は褐色(かちいろ)にて、その餘(よ)は水色に薄黒を帯(おび)て、斑(まだら)に点あり。鰓(あぎと)の端、少(すこし)許、紅(あかし)。

[やぶちゃん字注:以下、下段。]

或記云(あるひとのきにいはく)、此(このうを)、全躰(ぜんたい)、文鰩魚(とびうを)に似たり。六の稜(かど)に小(ちひさ)なる刺(はり)あり。針毎(こと)に細脉(こまかなるすぢ)、亀甲の紋の如し。その質(しつ)、堅硬(かたし)。乾枯(ほしからし)たるものは、年を径(ふ)れども壞(やぶ)れず、径(ふ)ること久しければ、褐色(かちいろ)に變じて、漁人(ぎよじん)、肉を食(くら)ふこと、をしまず。只、乾腊(ほしなし)として玩物(もてあそび)に供(けうす)るの者、長大なるものは、長さ尺餘(よ)なり。上下の長鬣(ちやうれう/ナガキヒゲ[やぶちゃん字注:後者は右に附す。])これをひらけば、雨傘(からかさ)の如し。他魚(たのうを)とおなじからず、といふ。

 

-2下図の「龍宮の鷄」(アカナマダ?)のキャプション

 龍宮の鷄

或(あるひと)のいへらく、「龍宮鷄(りうぐうのとり)」とは、佐渡の方言也。これ、「鬼頭魚(おこじ)」の奇品なるものなり。後(うしろ)に冠(かん)ありて、鷄(にわとり)に似たり。横肚(よこはら)に小(ちいさ)なる方点(はうのてん)、高起(たかくいで)て、刻鏤(きざみゑれ)る如し、乾枯(ほしから)したるものは堅硬(かたく)して、海馬(かひば)に似たり。今、按するに、全體、その色、薄紅(うすくれなゐ)にして、火魚(かなかしら)の如し。實に「おこし」の種類なるべし。

 

-2下図の「鉦敲魚」(マトウダイ)のキャプション

 鉦敲魚

この魚は佐渡のみにあらず、相(さがみ)・豆(いづ)の海中に多くあり。或(あるひと)いへらく、魚の形、大小、一ならず、大なるものは尺(しやく)許(よ)に至るもあり。鱗、なし。その色、薄黑(うすすみ)に靑と黄を帯(おび)て、光澤(つや)あり。横肚(よこはら)は水色の中に薄紅(うすくれなゐ)を帯(おび)たり。鰺(あぢ)の如し。両面に黒圓(くろまろき)紋(もん)あり。この魚、脂(あぶら)ありて、味(あぢわひ)、美なり。相(さがみ)・豆(いづ)の海中、冬・春の交(あいだ)、多くこれを獲る。漁戸(れうし)、これを「的魚(まとうを)」といふ。又、「賀陀比(かだひ)」と呼ぶとぞ。

[やぶちゃん注:以下、同個体の尾鰭の下方にある。]

今、按するに、これ、江戸にていふ「加々美夛比(かかみたひ)」の奇品なるべし。

 

   琴嶺興継写 (落款)(落款)

 

□やぶちゃん注

・「相川の夏海子」佐渡相川生まれの絵師石井夏海(天明三(一七八三)年~嘉永元(一八四八)年)。通称は静蔵、別号に安瀾堂。絵画を谷文晁と紀南嶺に、測量や油絵を司馬江漢に学んだ。佐渡奉行所地方付(じかたつき)絵図師として天保八(一八三七)年、子の文海とともに伊能忠敬作成の「佐渡図」を改訂した。滝沢馬琴・式亭三馬らと親交があり、狂歌も詠んだ。戯作「小万畠双生種蒔(こまんはたけふたごのたねまき)」などの創作もものした(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。「日本随筆大成」の丸山季夫氏の解題によれば、この「烹雑の記」に記された膨大な佐渡の情報や資料の多くは、この夏海から齎されたものと言われているとある。個人ブログ「佐渡広場」の「佐渡の画廊37:石井夏海・文海の絵画・絵図」で豊富な画像とともに、この石井夏海の業績を知ることが出来る。必見!

・「とこひれ」解説よりなにより、附図を見れば一目瞭然、これは条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カジカ亜目トクビレ科トクビレ亜科トクビレ属 Podothecus sachi である。ウィキの「トクビレ」によれば、『ハッカク(八角)のほか、サチなど多くの地方名』があり、『和名のトクビレ(特鰭)は、雄にみられる大きな背鰭と臀鰭から付けられた。北海道と関東ではハッカクといい、これは角張った体の断面を八角とみた。青森ではサチといい、学名の Sachi はこれによる。他にヒグラン、フナカヘシ、ワカマツなどがある。北海道では雄をワカマツ、雌をマツヨ、あるいは雄をカクヨ、雌をソビヨと呼び分ける地域もある』とある。『トクビレは北日本・ピョートル大帝湾・朝鮮半島の東岸など、太平洋北西部を中心に分布する海水魚である。沿岸の浅い海で暮らす底生魚で、岩礁や砂泥に体を横たえ、甲殻類や多毛類を主に捕食する』。『体は細長く角張っていて、頭が鼻先に向けて尖る。ホウボウの仲間と類似し』、体長は四十~五十センチメートル程度まで成長する。背鰭は八~十本の棘条と、十二~十四本の軟条で構成されるが、鰭の形態に性的二形があり、雄の第二背鰭と臀鰭の軟条が異様に長く発達するのを特異的差異として観察出来る。また、『吻(口先)が長く突き出ており、腹側に』十本以上の『短い口ヒゲを有することが、近縁種との明瞭な鑑別点となる』(附図はそれも描いている)。『本種は味の良い白身魚で、日本では底引き網・定置網・刺網などで漁獲される。刺身・ 塩焼き・干物・軍艦焼き(腹に味噌を詰めて焼く郷土料理)など、さまざまな調理法が知られている』とある。所謂、異形に属する魚体ながら、私も大変に――見るのも食うのも――好きな魚である。

・「文鰩魚(とびうを)」「随筆大成」版は『文鰡魚』とし、ルビを振らないが、原典二種の画像を見る限り、私には「鰩」としか見えず、しかも孰れもはっきりと「とびうを」とルビする。因みに「鰡」はボラである。このトクビレ、ボラとトビウオ、どっちに似ているかといったら、私は断然、トビウオと思う。

・「針千本」条鰭綱刺鰭上目スズキ系フグ目ハリセンボン科ハリセンボン Diodon holocanthus 。附図は怒張し状態に模して乾燥させた加工品の図と思われる。同種の詳細については、私の『毛利梅園「梅園魚譜」ハリセンボン』の注を参照されたい。

・「しほさえふぐ」呼び名からは現在のフグ目フグ亜目フグ科トラフグ属ショウサイフグTakifugu snyderi が想起されるが、ネット情報を見ると、現在でも同じトラフグ属のコモンフグ Takifugu snyderi を「ショウサイフグ」と呼称する地域や市場もあるとあるので、必ずしも特定同定はしない方が無難である。なお、「ショウサイフグ」は漢字では「潮際河豚」「潮前河豚」などと表記するようであるが、参照した「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ショウサイフグ」によれば、『もとは東京、江ノ島、大阪などでの呼び名。意味由来は不明だが、このように細かな斑文のあるコモンフグも「しょうさいふぐ」という地域があり、波の崩れる様を思わせるためか?』とあり、さらに江戸で好んで食われた「フグ」はこのショウサイフグであったことを示唆する内容が書かれてある。さすれば、馬琴がこう言ったことを考えれば(馬琴は頭書で『これ、江戸の俗の、「しほさえふぐ」と唱るものなり』と言っている点にも着目されたい)、ショウサイフグ Takifugu snyderi に同定してよい可能性はかなり高いとも言えるように思われる。

・『「和名鈔」に『鯸1(コウイ)……』(「1」=「魚」+(「頤]-「頁」を(つくり)とする)。)源順の「和名類聚鈔」には、

   *

1魚 崔禹錫「食經」云、鯸1〔侯怡、二音。和名、布久。一云、布久閉。〕犯之則怒。怒則腹脹、浮出水上者也。

   *

とある。「1」は音「イ」で、「廣漢和辭典」によれば、中国ではフグを指す。

・「石伏」は現在は通常、「いしぶし」と訓じ、小石の多い水底にいる魚の意で、ハゼ科のウキゴリ、カワアナゴ科のドンコ、ハゼ科のヨシノボリといった淡水産のハゼ型をした魚類の別名として通用しているが、どうもその他にも雑多な河川性の淡水魚を広範に指す語と思われる(但し、くどいが中国では「1」はフグを指す)。「和名類聚鈔」には、

   *

1 崔禹錫「食經」云、1〔音、夷。和名、伊師布之〕、性、伏沈在石間者也。

   *

とあり、馬琴の「伊師布久」は誤字或いは誤刻である。

・「箱河豚」フグ目ハコフグ上科ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus 。詳しくは、『毛利梅園「梅園魚譜」ハコフグ』の私の注を参照されたい。

・「海すゞめ」ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana 。ネット上の記事を読むと、最近、市場ではハコフグと一緒くたにされて売買されているようであるが、ウミスズメには眼の上部や尻鰭の基部の前方に短い棘状突起があることで容易に識別出来る。

・「鯛の聟源八」棘鰭上目キンメダイ目マツカサウオ科マツカサウオ Monocentris japonica 。詳細については、やはり私の先の『毛利梅園「梅園魚譜」ハリセンボン』の注を参照されたい。

・「鮫の守り」図を見て戴ければこれも一目瞭然、軟骨魚綱メジロザメ目トラザメ科トラザメ Scyliorhinus torazame の卵嚢と同定してよかろう。ウィキの「トラザメ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を¥も変更した)トラザメの『雌は輸卵管一本につき一個、合計二個の卵を産む。卵は滑らかで半透明、花瓶型をした黄色い卵鞘に包まれている。卵鞘は幅一・九センチメートル、長さ五・五センチメートルになる。卵鞘の四隅には長い巻きひげがある。卵は特定の成育場に産み付けられ、例えば函館の水深百メートルの地点にそのような場所がある。胚は、三・六センチメートル時点では外鰓を持ち、鰭は未発達で色素はない。五・八センチメートルになると外鰓が消失し、皮膚が小さな皮歯で覆われ始める。七・九センチメートルになると、よく発達した鰭と色素を持つようになり、成体と似た姿になる』。孵化までには水温によって差があり、一五ヶ月から七~九ヶ月がかかり、孵化時の大きさは概ね八センチメートル以上になる、とある。「鮫の御守り」という名は実に言い得て妙の美しい名である。卵嚢の中に小さな鮫がいることから「鮫の」と正しい親が知られ、その形から御守りとした、この美しい日本の古き良き市井の人々を、私は限りなく愛する。英語の“Mermaid Purse”(人魚の財布)の品のなさはどうか! 私の『生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (3) 鮫の掛け守とうみほおずき 又は ……あなたは「うみほおずき」を鳴らしたことがありますか……僕には……あります……に絵が出る。

・「海ほうづき」腹足類(巻貝)の卵嚢の呼称。植物のホオズキの実と同様に、口に含んでキュッキュッと音を鳴らして遊んだ。若い人は実物さえ見たことがもうないであろう。少し、哀しい気がする。前に引き続き、是非、『生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (3) 鮫の掛け守とうみほおずき 又は ……あなたは「うみほおずき」を鳴らしたことがありますか……僕には……あります……の図と私の注をお読み戴きたい。……キュッ……キュッ……という音とともに……遠い日の……私の思い出が……甦る……

・「藤まめ」マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ Wisteria floribunda の実。グーグル画像検索フジの豆をリンクしておく。

・「鉦たゝき」キャプションをお読みあれ。これはもう、新鰭亜綱棘鰭上目マトウダイ目マトウダイ科マトウダイ属マトウダイ Zeus faber である。冒頭で述べたように、「立命館大学アート・リサーチセンター」の原典の当該画像でキマリだ! ウィキの「マトウダイ」から引く(注記記号は省略した。下線部やぶちゃん)。『口が前に伸びて馬面になる』『が、体側面に弓道の的のような特徴的な黒色斑をもち、マトダイ(的鯛)などとも呼ばれる『地方名に、カガミダイ(福島県、千葉県)、ハツバ(千葉県小湊)、カネタタキ(新潟県、愛媛県宇和島市)、クルマダイ(新潟県、富山県、石川県、福井県)、モンダイ(石川県能登町宇出津)、バト(福井県)、バトウ(京都府与謝郡、島根県)、ツキノワ(鳥取県)、オオバ(山口県萩市)、ホンマト(愛知県豊橋市)、マトウオ(和歌山県太地)、マトハギ(和歌山県串本)、マトウ(兵庫県)、ワシノイオ(福岡県)などがある』。『漢名は「海魴」、別名に遠東海魴、日本的鯛、月亮魚などがあり、英語のdoryに基づく多利魚という言い方もある』。『本種は英語で「John dory」と呼ばれるがその起源ははっきりわかっておらず、フランス語の「jaune d'orée(黄色い辺縁をもつもの)」など、由来については諸説ある。一方、ドイツ語(Petersfisch)・フランス語(Saint-Pierre)・スペイン語(pez de San Pedro)など他の複数の言語では、キリスト教における十二使徒の一人、聖ペトロにちなんだ名前で呼ばれる。聖ペトロは貢物のお金をマトウダイの口から取り出したとする伝承があり、本種の黒色斑はこのときにつけられた聖ペトロの指紋に見立てられている。また、英語でも的に見立てた「target perch」という別名もある』。『マトウダイは西部太平洋・地中海・インド洋・東部大西洋に分布する海水魚である。日本の近海にも多く、本州中部から東シナ海にかけての沿岸域に生息する。温暖な海の海底付近で暮らす底生魚で、群れは作らず単独で遊泳していることが多い』。『通常の食性は魚食性で、ときおり甲殻類や頭足類を捕食する。産卵は冬から春にかけて行われ、具体的な時期は地域によって異なる。卵は分離性浮性卵で、仔魚および稚魚は浅い海で成長した後、次第に』水深五十~百五十メートルの『深みに移行する。成長は比較的遅く、性成熟には』四年を『要することもある』。『左右に平たく、著しく側扁した楕円形の体型をもつ』。全長四十センチメートルほどの個体が多いが、最大では九十センチメートルにまで達する。『口は大きく斜め上向きで、前方に素早く突き出すことができ、そうやって餌をとらえる。稚魚の体はほぼ円形で、黒色~褐色の不規則な縦縞をもつ』。『体の両側面には明瞭な縁取りをもつ円形の黒色斑が存在し、本種の大きな特徴となっている。眼に似ていることから眼状斑とも呼ばれ、幼魚のときは鮮明だが成魚になるとやや不鮮明になる。同じマトウダイ科に所属する近縁のカガミダイ(Zenopsis nebulosa)は本種とよく似た姿をしているが、黒色斑が不明瞭であること、頭部背側がやや陥凹することなどで区別される』。背鰭の棘条は九~十一本で、『前方部の鰭膜は糸状に細長く伸び』背鰭軟条は二十二~二十四本、尻鰭は四本の棘条と二十~二十三本の軟条で構成されている。『鱗は微小で、皮膚に埋もれる』。『白身魚で、味が良いため日本を含む世界各地で食用として利用され』、『旬は産卵期の前で、刺身・煮付け・唐揚げ・フライ・鍋料理などさまざまな方法で調理される。 肝も大きいため食用とされる』とある。

・「鏡鯛」マトウダイ目マトウダイ科カガミダイ属カガミダイ Zenopsis nebulosa 。前注引用にあるように、的が妙に薄くはっきりせず、何よりも、頭部の眼の上のオデコの部分が有意に凹んでいるのでマトウダイとは容易に識別出来る。馬琴先生、キャプションの『これ、江戸にていふ「加々美夛比(かかみたひ)」の奇品なるべし』は蛇足でごわした。

・「かうごり」最後の『「カウゴリ」は、河石伏(かふごり)なるべし』は腑に落ちる。以下、ウィキの「ゴリ」が多様な種を含む「ゴリ」の総説としてよいので、まず引用させてもらう。『ゴリ(鰍、杜父魚、鮖または鮴)は、一般的には典型的なハゼ類の形をした淡水魚を指す一般名、地方名である。ただし、一部にメダカ類やシマドジョウ類を指す地方も存在する』。「ゴリ」は特定魚類の『標準和名ではなく、ゴリの名で呼ばれる魚は地方によって異なる。スズキ目・ハゼ科に属するヨシノボリ類、チチブ類、ウキゴリ類など小型のハゼ類や、カサゴ目・カジカ科に属するカジカ類、あるいはその両方を合わせて呼ぶ場合などがある。「ゴリ」という語が標準和名に組みこまれているのは、ハゼ科・ウキゴリ属のウキゴリ類だけである』。『これらはいずれも川底に生息する淡水魚で、ハゼ類に典型的な大きな頭部、飛び出した目、大きな口などが特徴である。体色は褐色から暗褐色』で、概ねかく呼称される魚類は全長数センチメートル程しかない『小型魚である。一般に種類ごとの特徴がわかりにくく、よく似ている。ハゼ科の「ゴリ」では』、二枚の腹鰭が合わさって一つの吸盤のような役割を担っていて、『これで水底の岩などに吸い付くことで流れの比較的速い川にも生息できる。また、宮城県、島根県、高知県、大分県などの沿岸地域ではハゼ類の幼魚をゴリとよぶ場合がある』(カジカ類の腹鰭ではこうした吸盤化は見られない。本記述で馬琴が「眞物は、腹の下に、ひれありて」という叙述はその特徴を指そうとしているように読める点、正確である)。『青森県の南部地方、石川県の一部などでメダカを指す例があり、岐阜県郡上市ではシマドジョウを指す例がある』。『全国的には、淡水に生息するハゼ類がゴリと呼ばれる場合が比較的多い。しかし、琵琶湖近郊やその重要市場である京都市や徳島県などでは、ハゼ科のヨシノボリのことをゴリと呼ぶ』。『高知県、特に四万十川、それに和歌山県の東部ではハゼ科のチチブの幼魚をゴリと呼ぶ』。『地方によっては、ゴリカジカ、ゴリンベト、ゴリンチョ、ゴリンジョ、ゴリンドーなどの呼び名を使う例もある』。『日本語で「鰍」は「ゴリ」を意味するが、中国語で「鰍」はドジョウを意味する。中国語で「ゴリ」は、「杜父魚」と書かれる』。なお、慣用句の「ごり押し」について、『ハゼ科の「ゴリ」は、吸盤状の腹ビレで川底にへばりつくように生息するため、漁の際には網が川底を削るように、力を込めて引く必要がある。この漁法が、抵抗があるところを強引に推し進めるという意味の「ごり押し」の語源となっているという説がある』とある。

「このもの、二種あり。海・河ともにあり」一般にはゴリ類は河川性の純淡水産と思われがちであるが、実際には前の引用に出る「ゴリ類」の代表種であるチチブ・ヨシノボリ・ウキゴリなどは海と川を回遊し、河口付近の汽水域にも姿を見せるから、おかしな言いではない。また私は当時の「ゴリ」という呼称はハゼ型の形態を示すあらゆる魚類の汎称であったと考えており、そうすると純海産のマハゼやトビハゼなどをも含んでいたに違いなく、この謂いはしっくりくるのである。

・「杜父魚」最も真正にして代表的な「ゴリ」であるところのカサゴ目カジカ科カジカ(河鹿)Cottus pollux 及びその近縁種の漢名。本邦では「鰍」が一般的(但し、この字は中国ではドジョウを意味する)。以下、ウィキの「カジカ」より引く。『地方によっては、他のハゼ科の魚とともにゴリ、ドンコと呼ばれることもある。 体色は淡褐色から暗褐色まで、地域変異に富んでいる。日本固有種で、北海道南部以南の日本各地に分布する。ただし、北海道に生息するのは小卵型のみである』。『分類については定説がまだなく、 大卵型(河川陸封型)中卵型(両側回遊型)小卵型(両側回遊型)をそれぞれ別種に、湖沼陸封型は小卵型と亜種に分ける説なども出ている』。『生活型によって、一生を淡水で過ごす河川型を大卵型、孵化後に川を下り稚魚の時期を海で過ごして成魚になると再び遡上する小卵型、琵琶湖固有のものをウツセミカジカ Cottus reinii と分けることが多かったが、近年の研究により小卵型にウツセミカジカを含め、大卵型と小卵型に分けるようになった。また、これらは別種レベルの違いがあると考えられている。大卵型は、山地の渓流などの上流域を中心に、小卵型は中流域から下流域にかけて生息する。石礫中心の川底を好み、水生昆虫や小魚、底生生物などを食べる』。以下、三タイプの解説。河川型(湖沼陸封型)は『淡水を生活圏とし、水棲昆虫を餌とする。きれいな水を好みイワナやヤマメ、アマゴ等の魚と生息域が重なる。カジカ及びカンキョウカジカの性的成熟は』一年魚以上で、は体長七センチメートル、は体長六センチメートルを越えると産卵を行う。『卵には付着性があり卵塊となって石に付き、オスが孵化まで保護をする。産卵床の形成場所は、比較的流れの緩い"平瀬""とろ場"が多く、浮き石や沈み石は用いない。また、泥砂質の河床も利用しない』。開口部が一箇所しかない『洞窟状になった動きにくい石の河床との隙間が多く利用される。水通しの悪い卵塊では、ミズカビに犯され孵化しない』。『山地渓流の個体はダムや砂防堰堤などの構造物の設置によって移動が妨げられ、個体群の分断化がより進行している。また、平地域の個体は、埋め立て、コンクリート護岸化、道路建設などによって生息適地が縮小し、湧水量の減少にともない生息数が減少している』。両側回遊型は『比較的流れの緩やかな砂礫質の川底を好む。広い分布域を持つが、ダムや堰の建設により降海と遡上が阻害され全国的に減少している』。降河回遊型は『河川(淡水)で繁殖を行い、稚魚期を海水中で過ごし河川に遡上する。稚魚期は河口付近の表層を遊泳し、有る程度成長すると着底生活を送』り、孵化後八十日前後の三十ミリメートル程度に成長すると『遡上を開始すると考えられ』ている、とある。なお、「杜父魚」を近縁種であるカジカ科カマキリ Cottus kazika(一般には「アユカケ」の異名の方が知られ、太平洋側は神奈川県相模川以南に、日本海側は青森県岩崎村津梅川以南に分布)に同定する辞書もある。

・「声ありて夜鳴く」これは「河鹿鳴く」の和歌に詠まれ、前の「ゴリ」の代表種であるカサゴ目カジカ科カジカ Cottus pollux に混同誤認された両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル Buergeria buergeri の鳴き声と思われる。現在でもこう誤認されている方は結構多い。因みに、カジカを獲らえた際にキューとかギーとか鳴くというのは、事実ではあるが、凡そ、この反証にはならない。

・「山海名産圖会」五巻から成る物産図会。木村蒹葭堂(けんかどう)序・蔀(しとみ)関月画で、撰者は蒹葭堂ともいうが不詳。「日本山海名物図会」再板(寛政九(一七九七)年板行。五巻。平瀬徹斎編著・長谷川光信画。江戸中期以降の物産会所や物産学の隆盛を背景に初版は宝暦四(一七五四)年板行。鉱山業・農林水産・民芸・軽工業・市など庶民生活に関する産業技術を図解している優れた物産図会である)のあとをうけて寛政十一(一七九九)年大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行されたもの。私は所持していないが、先行する「日本山海名物図会」はあるので一応見てみたところ、こちらにもゴリの記載はあるものの、ここで馬琴が述べている淡水産と海産の相違は語られていないように思われる。

・「瘤鯛」これは現行でもスズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科コブダイ Semicossyphus reticulatus で、また馬琴が佐渡方言とする「かんたひ」は「カンダイ」であり、これは現行でも方言ではなく、コブダイの、頭部の上下が異様に大きく瘤状に膨れあがっているところの、の呼称である(本種は後で示すように成長過程でからへ性転換する雌性先熟である)。以下、ウィキの「コブダイ」から引く。『日本南部の太平洋、東シナ海、南シナ海に分布している』。は体長八十センチメートルから大型個体では一メートル超に達する。『体色は茶色や黒、白色などが入った赤色』、『雌性先熟で、子供の頃はメスで、卵を産む』が五十センチメートルを超える頃から『コブが張り出してきて、オスに性転換する』。『名前の由来である頭部の上下は大きな瘤状に膨れあがっている。雌はカンダイと呼ばれ、雄に比べて遙かに小さいために、かつては別な種類の魚だとさえ思われており、雄のように頭部が異様な形にはならず、体長も大きくても雄の半分ほどにしかならない。口には巻き貝を砕くために大きな歯と強力な顎を持つ』。『幼魚は体色がオレンジ色で上下の鰭が黒く、白い線が体の横に入り、成魚とは大きく異なる』。『本種はハーレムを創る魚として有名であり、雄は自分のテリトリーを主張し、そこに入ってきた他の雄を容赦なく攻撃して、縄張りを確保しながら、複数の雌を呼び寄せる性質を持つ。また、幼魚には手を出さず、幼魚はそうして成魚に守られながら成長し、学習していくともいわれる』。『非常に強力な顎と硬い歯でサザエやカキ、カニなどをかみ砕き、喉の奥の咽頭歯で更に砕いて中の肉を殻ごと食べてしまう。繁殖は雄と雌が海上付近で体をくねらせながら産卵、受精する』。『本種は暖海性だが、死滅回遊魚でもあり、黒潮に乗って、北海道付近にまで北上することもある』。寿命は二十年前後とされている、とある。カンダイは旬である時期から、「寒鯛」かと推定される。

・「海馬」トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の大型種の大型成体個体と思われる。本邦産のタツノオトシゴ類は「本朝食鑑 鱗介部之三 海馬」の私の注を参照されたい。

・「竜宮雞(りゆうぐうのとり)」という訓から容易に連想されるのは「龍宮の使い」という和名であろう。確かにウィキの「リュウグウノツカイ」を見ると、『中国・台湾では「鶏冠刀魚」』と呼ぶとあり、ミクシィの投稿記事には京都府での同種の呼称として「リュウグウノツカイ」が出る。いやいや……極め付けがある……東北芸術工科大学東北文化研究センターのアーカイブズの絵葉書にちゃんとリュウグウノツカイが描かれておってそこには「リュウグウノニワトリ」と書いてありまんがな……しかしでんなぁ、この附図のそれは、どうみても、

新鰭亜綱アカマンボウ目リュウグウノツカイ科リュウグウノツカイ Regalecus glesneグーグル画像検索「Regalecus glesne

にしては体長も如何にも寸詰りやし、「使い」らしゅう、おまへんがな。……かと言うて、少し短そうな、

フリソデウオ科サケガシラ Trachipterus ishikawae(グーグル画像検索Trachipterus ishikawae

も「鷄」にゃあ、見えへんし……そっか、「龍宮の使い」や「鮭の頭(かしら)」(クリチャーのギミックめいた頭部構造から「裂け頭」とついたという説もあるが、私は採らない)みたようなお偉いさんやのぅて……「龍宮の庭先で飼ってるニワトリ」だんがな!……じゃけ、これは紅い鶏冠(とさか)みたようなものがおますんやろ……と、当てずっぽうで調べて見れば、それらしいんは、

アカマンボウ目フリソデウオ科フリソデウオ Desmodema polystictumグーグル画像検索Desmodema polystictum

か? いやいや!

アカマンボウ目アカナマダ科アカナマダ Lophotus capelleiグーグル画像検索「Lophotus capellei

が私にはピン! と来た! 背鰭の紅が鶏冠や! わては勝手にこれに決めました! まずはウィキの「アカナマダ」から解説を引く。体長は七十センチメートルから一メートルを越える程度だが、大型個体では二メートルを越えるものもいる。『太平洋と大西洋の暖海域に分布し、日本でもまれに漁獲され、主に北海道函館沖、神奈川県相模湾から鹿児島県沖、高知県沖、山口県沖などで漁獲、もしくは台風などの後に海岸に打ち上げられる事がある』。『強く側扁した細長い体や灰色の体色、基底が長く、頭部分の張り出しが目立つ赤色の背鰭といった特徴からフリソデウオ科の魚に似るが、臀鰭があることや前頭部が隆起していることで区別できる。口には幾つか歯が生えている』。『うきぶくろの下方に墨汁嚢を持ち、肛門から墨汁のような液を噴出する奇妙な習性がある』。『深海魚なので、詳しい事は不明。他のアカマンボウ目の魚類のように、表層部分を頭部を上にして漂っていると言われるが、定かではない』。『墨汁を吐くのは敵から身を守るためと云われるが、太陽の光が届かない暗黒の深海で墨汁を吐く意味と必要性については確かめられておらず、謎に包まれている』とある。――さても、そもそもがこの附図の個体、頭が如何にもニワトリニワトリしているのが、却って怪しいじゃないか?! 鰓部から上の鶏じみた頭部はこれ、明らかに時間が経って大方の部分が剥落したといった感じで見た方が自然に理解出来ると私は思う。前頭部からひょろりと出ているのが、生体では旗指物のように見える刎部直上に生える赤色の背鰭痕跡であるらしいこと、尻鰭があることなどから私はアカナマダに譲らないのである。なお、アカナマダは「赤波馬駄」と書くらしいが、「ナマダ」というのは関東でウツボを指す語である。これは「赤いウツボみたような変な魚」という意ではなかろうか。

・「鬼頭魚」後で注するように「おこじ」と訓じる箇所が出るし、この「龍宮の鷄」の異形の魚体を見る者は百人が百人、これは新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目 Scorpaeniformes に有象無象巣くうけったいな魚相魚体のオコゼ連中のことだ、と思うに違いない。しかし私は、ここは勝手に、現行でも生きている「シイラ」のことではないか? と直感するのである。それはこの「龍宮の鷄」をアカナマダに同定したことに由来する。アカナマダとシイラとオコゼの仲間を並べて見て貰いたい。これはもう、偏平で頭のでかいシイラとアカナマダにこそ、兄弟の契りはあろうというもんだ! 因みに、シイラという外国語みたような名の由来は「秕(しいな)」であって、これは殻ばかりで実のない籾(もみ)のことを言う。シイラは皮が硬い上に身が扁平で薄いことから可食部分が少ない、という不名誉な呼称なのである。

・「この類、三十種ありとぞ。余はいまだ詳(つばら)ならず」残り、二十種の名前だけでも記して欲しかったです! 馬琴先生!! 「他日、考たゞすべし」て言ってるのに! もう!! 何となく、たとえばミノカサゴとか、ね……佐渡の漁師の方、一つ、三十種数え挙げてみて呉れませんか?

・「倉卒の間(あはひ)」「倉卒」は「さうそつ(そうそつ)」と読み、突然であること。だしぬけ。慌ただしいこと。忙しくて落ち着かないこと。軽はずみであること。いい加減であることで、ここはの意。通常は「倉卒の間(かん)」と読む。「倉」も「卒」も孰れも、にわか・慌てる・慌ただしいの意があり、畳語である。

・「雪海苔」岩海苔。ウィキの「岩海苔」の解説文中に、『雪海苔として知られる新潟県の岩海苔』と出、「産地」の最後にも『雪海苔-北陸地方の日本海沿岸』とある。以下、ここでも今まで通りの詳細な注を附したい願望に駆られるが(特に私は海藻には眼がなく、二度行った佐渡では神馬草(ホンダワラ)を始めとして十種近くの海藻を土産に買ってしまった海藻フリークでもある)、以降は佐渡異魚三十種から外れるので、今は、あさあさと済ませることとする。

・「蔓藻〔海藻(もくず)なり。〕」「日本随筆大成」版は『藻海』とあってルビがない。誤植か。これは不等毛植物門褐藻綱ナガマツモ目モズク科イシモズク属イシモズク Sphaerotrichia divaricata と思われる。本邦では産生が少ないモズク属モズク Nemacystus decipiens に比すと、より食感が堅く、佐渡では養殖もされていて、私も最も好む食感のモズクである。因みに種名 Sphaerotrichia は「球+糸」、種小名 decipiens は「二股に分かれた」の意である(以上は、学名の由来も丁寧な私のすこぶる偏愛する海藻図鑑田中次郎氏の解説になる「基本284 日本の海藻」(二〇〇四年平凡社刊)に拠る)。

・「海松(かいせう)」緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル Codium fragile に同定しておく。因みに、「みる」は万葉以来の古称であるが、語源は不明である。不明ゆえにこそ、私は何とも美しい響きと感じるものである。

・「海柳(かいりう)」恐らくは十種ほどしか植生しない日本産海産種子植物の代表種である単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ Zostera marina 、いやさ、最も長い植物名(異名)として知られるリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し)であろう。

・「藻玉(もたま)」「藤榼子(とうかふし)」「猪腰子(ちよようし)」『この物、蛮國に生ず。「本草綱目啓蒙」卷ノ十四の上、「榼藤子(たふとうし)」の条下を考ふべし』 マメ目ネムノキ科モダマ(榼藤子)属モダマ Entada phaseoloides というマメ科の常緑蔓性植物があるが、これはアジア・アフリカの熱帯・亜熱帯に分布し、本邦では屋久島乃至は沖繩の海岸近くの樹林に生ずる莢が長さ一メートルほどにもなる巨大なことで知られる陸生植物であるが、そもそもがこれ以降は「海濱(うみべた)に稀に流れよるもの四種」なのであって、海産生物である必然性はないのである。「この物、蛮國に生ず」とし、後に「巨葭」「椰子」が出ることから考えると、このマメ科のモダマの莢が、はるばる対馬海流に乗って佐渡まで漂着したのだと考えても、これ強ち、おかしなことではない。しかも「本草綱目啓蒙」の当該項を読んでみると、蘭山の記述もこれ、明らかにモダマの実と感じさせる叙述なのである。諸州に漂着し、『皆、海藻に混ず。故に拾ひ得るものあれば、誤認して藻實とす。因て「モダマ」の名あり』とし、その実の形は『圓扁、大さ一寸、あつさ三分ばかり。あるひは二寸、あつさ四分許。大小、常ならず。栗殻色あるひは赤を帶、或は黑をおぶ』とあるのである。これはもうモダマ Entada phaseoloides でキマリ、である。

・「蛸船(たこふね)」「蛸舟は、相摸の江ノ島にていふ鰹の烏帽子の類なるべし」頭足綱八腕形上目タコ目アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians が生成する貝殻である。タコブネについては「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」の私の注を参照されたい。「鰹の烏帽子の類なるべし」は誤認。「鰹の烏帽子」は言うまでもなく、刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科に属する群体クラゲであるカツオノエボシPhysalia physalis であってタコブネとは何の関係もない(カツオノエボシについては私の『海産生物古記録集1「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載』の注を参照されたい)。タコブネが海上を帆走遊泳するというトンデモ流言による程度の低い安易な敷衍解釈で、稀代の戯作者馬琴先生にしては少々イタい誤りである。私も高校時代、富山の氷見海岸で採取した大型の三個体の殻を宝としている。

・「巨葭(おほよし)」文字通りの、単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ Phragmites australis の大きく成長して植生地の河口附近から脱落して漂着したものであろう。ネット検索をかけると、富山県で今年(二〇一五年)の四月の新聞記事で、富山市神通川河口の海岸沿いに大量のアシが漂着し、住民を困らせている、というニュースを見出せる。

・「椰子(やし)」『「本草綱目啓蒙」卷ノ一の十、背椰子の條下に、椰子、通名(つうめう)「ヤシホ」、又、津軽にては、「タウヨシノミ」といふよし、見えたり』。単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae のヤシ類の実の漂着である。『「本草綱目啓蒙」卷ノ一の十』この数字は誤りである。少なくとも現行の「重訂本草綱目啓蒙」では「卷之二十七果部」の「果之三」の十五番目に「椰子」はある。巻数ばかりではなく、この「背」も不審である。これは全くの推理に過ぎないのだが、これは原稿には正しく「卷ノ二十七椰子」と書いてあったのではなかったか? 翻刻の誤りの可能性である(訳では勝手に訂した)。七の大字(「壱」「伍」のように改竄や誤認を避けるために単純な字形の漢数字の代わりに用いる漢字)の一つは「柒」で、恐らく草書では「背」に似ているのではなかろうか? なお、「本草綱目啓蒙」の当該箇所では『椰子 通名 ヤシホ トウヨシノミ〔津輕〕』と確かにある。

・「黒萩(くろはぎ)」不詳。ヤマハギの変種で、マメ科ハギ属クロバナキハギ(黒花木萩)Lespedeza bicolor var. higoensis というのがWeblio辞書 植物図鑑」にあるが、分布域が愛知県と熊本県とあって一致しない。

・「小倉村」現在の(以下省略)佐渡市小倉。小佐渡のほぼ中央。棚田で知られる。

・「白蒿(しろよもぎ)」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属シロヨモギ Artemisia stelleriana ウィキの「シロヨモギ」によれば、本邦では『北海道、本州の新潟県・茨城県以北に分布し、日当たりのよい海岸の砂地に生育』し、『全体が白い綿毛でおおわれ、雪白色になるため、シロヨモギ(白蓬)という』とある。

・「小泊村」佐渡市羽茂小泊。小佐渡の西、素浜(そばま)海岸に面する。

・「西三河」佐渡市西三川。小泊の内陸側。砂金山で知られる。施設や地理対象によって「西三河」とも表記されている。

・「雪割草」これはキンポウゲ目キンポウゲ科ミスミソウ Hepatica nobilis var. japonica及び同変種のオオミスミソウHepatica nobilis var. japonica f. magna 及びHepatica nobilis var. japonica f. variegata を指す(現在和名として別に高山植物のツツジ目サクラソウ科サクラソウ属セイヨウユキワリソウ亜種ユキワリソウPrimula farinosa subsp. modesta があるが、これではない)。私の定宿「ホテル大佐渡」のブログの写真をリンクしておく。

・「銀山」佐渡市下相川及び相川北沢町を中心とした大量の金銀を産出した所謂、佐渡金山、相川鉱山のことであろう。

・「福壽草」キンポウゲ目キンポウゲ科フクジュソウ Adonis ramosa 。特に珍しいものではないと思われるが、おそらく夏海から得た情報にリストされてあったのであろう。絵師であった彼にして荒海の佐渡で春を告げる福寿草は、殊の外、忘れ難い美花であったであろうことは想像に難くない。

・「小川村」佐渡市小川。北部の大佐渡の尖閣湾の一部である海府海岸(そとかいふかいがん)の西端に位置する。

・「達者村」佐渡市達者。尖閣湾の一角で小川の東北部。山椒太夫伝承で生き別れとなっていた母とその子厨子王がこの地で再会して互いの達者を喜んだことに由来する。

・「人參草(にんじんさう)」ニンジンソウはざっと調べて見ても、以下の三種が候補に挙がる。

バラ亜綱セリ目セリ科ヤブジラミ           Torilis japonica

       セリ科セントウソウ          Chamaele decumbens

キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属カワラニンジン Artemisia apiacea

同定不能。但し、これも孰れも全国に分布する種である。

・「長江」佐渡市長江。加茂湖の北西。

・「栗(くり)ノ口」不詳。佐渡市栗野江という地名が。小佐渡の内陸寄りにある。

・「大野」長江の北方にある佐渡市梅津大野か。

・「二見」佐渡市二見。大佐渡の最西南端で真野湾の西の端に位置する。

・「北2」(「2」「犭」+「夷」。)不詳。ただ、現在、両津湾の西側の大佐渡に佐渡市北五十里(きたいかり)という地名を見出せる。現代語訳ではこう訓じた。

・「岩屋口」佐渡市岩谷口。大佐渡の北、外海府海岸に位置し、修行僧の籠った岩屋洞窟がある。

・「関願(せきぐわん)」岩谷口の南にある佐渡市関か。

・「深浦」佐渡市深浦。小佐渡の西端の港町。

・「沢崎(さわさき)」佐渡市沢崎(さわさき)。深浦の北側。

・「大杉」佐渡市大杉。小佐渡の本土側の海岸線に位置する。

・「寄鯨(よりくじら)」これは能動的に寄ってくる鯨ではない。死んだり弱ったりして海岸に漂着したクジラを指す語である。

・「玳瑁(たいまい)」鼈甲細工の原料とされて別名「鼈甲亀」とも呼ばれた、一属一種の爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイ Eretmochelys imbricata 。彼らはインド洋・大西洋・太平洋の熱帯・亜熱帯の海水域を繁殖域とし、本邦は最北の繁殖地として石垣島や黒島などで少数の産卵が見られるばかりであるから、この佐渡でのタイマイの捕獲(ここは「海亀は常にあれども」「獲たり」とあり、死後の亀甲の漂着ではない感じがする)は、迷走して渡って来たとすると驚異的である(タイマイは珊瑚礁が発達した海洋を棲息域としてカイメン類を常食とするウミガメで、外洋を回遊すること自体が稀だからである。ここはウィキの「タイマイを参照した)。

・「元文三年」西暦一七三八年。

・「海獺(うみをそ)」哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類を指す。中でもこれは、本邦に回遊してくるそれではなく、常在的に棲息していたニホンアシカ Zalophus japonicus を指している可能性が濃厚である。そして本種は既に……乱獲され、保護政策が全くとられないうちに絶滅してしまった日本固有種のアシカだったのである(ウィキの「ニホンアシカ」を是非、参照されたい)。……

・「海豹(かいひやう)」イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。ウィキの「アザラシ」によれば、本邦近海では北海道を中心にゴマフアザラシ・ワモンアザラシ・ゼニガタアザラシ・クラカケアザラシ・アゴヒゲアザラシの五種が棲息する。

・「葦鹿(あしか)〔北海の俗、「トヾ」といふ。〕」アシカは前出なので、ここはアシカ類の中でも割注に出るトドで採りたくはなる。一属一種の巨獣アシカ科トド Eumetopias jubatu である。但し、ウィキの「トド」によれば、『"トド"という和名は、アイヌ語の"トント"に由来し、これは「なめし革」を意味する。日本各地にトド岩という地名も散見されるが、過去においては日本ではトドとアシカ(ニホンアシカ)は必ずしも区別されておらず、アシカをトドと呼ぶ事も度々みられ、本州以南のトド岩の主はアシカであったようである』とあるから、ここも巨大なトドを除く、中型のアシカ類の中で「海獺」と「葦鹿」が区別されていたと考える方が無難のようには思われる。先の「佐渡の画廊37:石井夏海・文海の絵画・絵図」で夏海が描くオットセイ(膃肭臍)の図などを手掛かりに考証したくなるところだが、取り敢えず、名残惜しいけれど、ここまでとしておく。

・「山獸は狸と兎のみなり」佐渡には狐はいない。狸もいなかったが、慶長六(一六〇一)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりなのである。こんなことを何で知っているかというと、「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」に出、続く「耳嚢 巻之三 天作其理を極し事」にも出て、さんざん調べたからなんである。

・「貉(うじな)」ネコ目イタチ科アナグマ亜科アナグマ Meles meles のことであるが、「うじな」という読みは初見。

・「雪なだれ」『「大和本草」に所云、北海に雪魚あり。方一丈餘、その形、鰈のごとし。その肉、白くして雪のごとく、脂なし。好て海上に睡ると、いへり』不詳。――形はクラゲに似ている――色はすこぶる白いもので雪が解けかけたもののような印象である――佐渡の人々がその見た感じがそっくりなことから「雪雪崩(ゆきなだれ)」と呼んでいる――貝原益軒の「大和本草」に『北海産の「雪魚」という海洋生物/約三メートル四方の鰈(かれい)に似た、大きさに比べて平たい四角っぽい形を成した生物/肉は全くの白身で脂がない/好んで海面にその巨体を浮かべては眠りこけている生物』であるとある書物に書かれていた生物……さても……私が最初に頭に浮かべたのは

――刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ユウレイクラゲ科 Cyanea capillata の大型個体

だ。……しかしなぁ……「白身」や「脂」どころか、刺されたら、これ、てえへんなクラゲだしなぁ……次に……「白味」で「脂」がなくて「鰈」に似ている巨大な「魚」で考えてみたのは吊り上げでしばしば皆、CG合成と見紛う

――新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属タイヘイヨウオヒョウ Hippoglossus stenolepis 

だった。巨大なものは体重二百キログラム超、確かに三メートルを超える……しかし、オヒョウは海面に浮かんで昼寝はせんぜよ!……となると白身で平たくてでっかくて四角くて海面で横たわって寝るとなると……こりゃ、もらもらちゃんや、ないかい?

――条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ Mola mola

しかしだ……何より困ったことには、幾ら捜して見ても、益軒の「大和本草」には、ここに馬琴が引くような記載が見当たらないんである。……おまけに「大和本草」にはマンボウが項目として挙がっているものの、ここに書いてあるのとは、違う、如何にも自然なマンボウ君の話なのである。……最早、識者の御教授を乞うばかりである。よろしくお願い申し上げる。……

 

-2上図の「禿骨畢列」のキャプション・パート

・「解(とく)」滝澤馬琴の本名(元の興邦から改名したもの)。

・「乾腊(ほしな)して」丸干しにして。

・「他魚(たのうを)とおなじからず」この「おなじからず」の部分、判読に自信がなく、意味も良く分からぬ(訳は誤魔化した)。識者の御教授を乞う。

 

-2下図の「龍宮の鷄」のキャプション・パート

・「火魚(かなかしら)」カサゴ目ホウボウ科カナガシラ Lepidotrigla microptera であろう。まあ、全体の頭でっかちの体型と、背面の橙色から赤褐色を呈した派手な雰囲気は、似ていないことはない(が「如し」とまでは私なら言わない。グーグル画像検索「Lepidotrigla micropteraをリンクしておくので、前にリンクしたアカナマダのそれと比較されたい)。

 

-2下図の「鉦敲魚」(マトウダイ)のキャプション・パート

・「許(よ)」「餘」に同じい。

・「薄黑(うすすみ)」「黑」はママ。

・「賀陀比(かだひ)」ウィキの「マトウダイ」には別名として、地方名に、カガミダイ・ハツバ・カネタタキ・クルマダイ・モンダイ・バト・バトウ・ツキノワ・オオバ・ホンマト・マトウオ・マトハギ・マトウ・ワシノイオを掲げるが、それらしいものはない。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「マトウダイ」を見ると、マツダイ・マテ・マトダイ・マトエ・ツキノワ(月の輪)・ツキ・ヤイトウオ(灸魚)・ワシウオ・ワシダイ・モンダイ(紋鯛)・モンツキ(紋付)・ウマダイ(馬鯛)・ウマウオ(馬魚)・カガミとあり、その中に遂に「ガダイ」というのを見つけた。これはどうも円紋を絵に画いたように見えるという「画鯛」ではあるまいか?

・「加々美夛比」「夛」は「多」の異体字。

・「琴嶺興継写」馬琴の一人息子滝澤興継(おきつぐ)。琴嶺は号。他に宗柏。松前候の医員であった。馬琴はこの子を非常に可愛がり、医師としての評判を上げてやるために自作の作品の中で宣伝をしたり、彼の名で自身が代筆までしているが、正体不明の病いを患い、天保六年(一八三五)に三十八歳で若死にしている。上図の「禿骨畢列」の絵も同じ。署名は「十四屋(?)琴嶺」か。彼は「琴嶺舎」とも号したから「屋」は何となく分かるが「十四」は不詳。識者の御教授を乞う。

 

□やぶちゃん現代語訳

[やぶちゃん注:一部の文脈を、より分かり易い位置に変更してある。]

 

 佐渡に三十種の異魚がいるという。私は先に「燕石雑志」編した際、その三、四種をそこに載せたが、実は未だにそれらの実物を親しく見たことがなかったのであった。しかるに、かの編が翻刻なったそも折りも折り、佐渡相川在の石川夏海(なつみ)氏が、件(くだん)の異魚の標本を私に贈って呉れたのであった――その数はおよそ四品――。その時、私はそれらの図を載せなかったことをすこぶる遺憾に思うておった。ゆえに今、これを図すこととした。さても所謂、その三十種の異魚とは、

 

○「とこひれ」――文鰩魚(とびうお)に似ている。体側に六つの稜(りょう)及び小さな棘(とげ)を有している。

 

○針千本――その形は、当地江戸に於いて「しおさえふぐ」と呼び慣わす魚に似て、全身に棘(とげ)がある。

 

○箱河豚――「海すずめ」と呼ぶものに似ている。

 

○鯛の聟(むこ)源八(げんぱち)――鯛に似て、極めて小さい。

 

○鮫の守り――本品は魚ではない。所謂、「海鬼灯(うみほおずき)」と呼ぶものに似ている。また、その形は藤の豆にも似ている。

 

○鉦たたき――鏡鯛(かがみだい)に似ている。

 

○こうごり――いまだ詳らかでない。これは「石伏(いしぶし)」のことであろうか? 「石伏」の一名を「ゴリ」とも言う。この「ゴリ」には二種ある。海と河ともに、全く別な魚として棲息しているものを言うのである。一般に知られる真正の「ゴリ」とは、その腹の下に鰭があって、本草書で言うところの「杜父魚(とほぎょ)」に似ており、しかもがたいの小さいものである。これは魚でありながら声を発し、夜(よる)、しきりに鳴く。その鰭には有意な棘(とげ)がある。一方、海産の方の「ごり」なる魚はというと、その鰭が如何にも柔らかであるのに対し、淡水産の「ゴリ」なるものは、すこぶる鋭いと、以上、「山海名産図会」に記されてあった。以上からこの「コウゴリ」というのは「河石伏(こうごり)」の意、と考えてよいであろう。

 

《追考を示す。「和名類聚鈔」には、『鯸1(コウイ)、和名、「布久閉(フクベ)」。これを刺激する際には直ちに、怒る。怒ると、即座にその腹が怒張し、海上に浮かび出るものである。』と。さてもこれは、江戸に於いて俗に「しおさえふぐ」と呼び慣わす魚に他ならない。さればこそ「石伏」は「1(イ)」なのである。「和名類聚鈔」には、『「1(イ)」は、音、(い)。和名は「伊師布久(いしぶし)」、性(しょう)、伏沈(ふくちん)して石の間に棲息する魚である。』と記す。[やぶちゃん字注:「1」=「魚」+(「頤]-「頁」を(つくり)とする)。]》

 

○瘤鯛(こぶだい)――佐渡にては「かんだい」と言うのが、これであろうか。未だ詳らかではない。

 

○海馬(かいば)――佐渡でなくても棲息している。しかし、佐渡のように大きなものは稀れである。

 

○竜宮の鶏(とり)――鬼頭魚(きとうぎょ)の奇品である。

 

 以上、これら佐渡の異魚の類い、計三十種ある、とのことである。私はいまだ、その三十種すべてを詳しく知っている訳ではない。これらの種に就いて、種々の本草書に照らし合わせ、考証したならならば、その正式な漢名を知ることが出来るであろうし、また、その効能や毒性もこれ、知り得るであろうけれども、今これ、何かと慌ただしい中にあって、それらのことを落ち着いて精査し記録することが、やりたくとも出来ず、本書からは遂に漏れ損ずることと相い成ってしまった。他日(たじつ)を期して、じっくりと考証してみるつもりである。――なお、「トコヒレ」・「鉦たたき」・「竜宮の鶏」の三種については、とある御仁の所蔵せる画幅を以って臨写しておいた。

 

 また、これとは別に、海中に生ずるところの異草四種がある。

 

海苔(ゆきのり)――佐渡土俗にては何と呼称しているかは、よく分からない。

 

――所謂、「海藻(もずく)」である。

 

○海松(かいしょう)

 

○海柳(かいりゅう)

 

 また、海辺に稀れに流れ寄せてくるところの稀品四種。

 

○藻玉(もだま)

 

○蛸船(たこぶね)

 

○巨葭(おおよし)

 

○椰子(やし)

 

――今、按ずるに、藻玉(もだま)というのは、一名「藤榼子(とうこうし)」、また一名「猪腰子(ちょようし)」と称する。この物は外国に植生するものである。「本草綱目啓蒙」巻の十四の上の「榼藤子(とうとうし)」の条下を参考にされたい。

――蛸舟(たこぶね)は、相模の江の島にて謂うところの「鰹の烏帽子(えぼし)」の類いであろう。

――また、按ずるに、「本草綱目啓蒙」卷の二十七の「椰子」の条下に『椰子、通名(つうみょう)「ヤシホ」、また、津軽にては「トウヨシノミ」と言う』といった記載が見える。

 

 また、佐渡の花卉(かき)・鳥獣については、

 

萩(くろはぎ)――小倉村に植生する。他所(よそ)にある黒萩というのは、ここのものよりも遙かに葉が短かい。

 

蒿(しろよもぎ)――小泊村及び西三河に植生する。

 

割草(ゆきわりそう)――当地での方言は未だ詳かでない。当地の銀山に植生する。また、これは佐渡に限らず他所(よそ)にても植生するものではある。

 

○福寿草――小川村・達者村の辺りに特に多く植生する。

 

○人参草(にんじんそう)――長江(ながえ)・栗ノ口(くりのくち)・大野などの村に植生する。

 

○鷲の巣――二見・北2(きたいかり)・岩屋口(いわやくち)・関願(せきがん)・深浦・沢崎(さわさき)・大杉などの村々で現認出来る[やぶちゃん字注:「2」「犭」+「夷」。]。

 

○寄鯨(よりくじら)――稀れに見ることがある。

 

瑁(たいまい)――このものは元文三年の頃、捕獲したことがあったということである。海亀(うみがめ)は佐渡の臨海に常に棲息しているけれども、玳瑁はこの時の捕獲を以って、その後は漁獲したということを聴かない。

 

○海獺(うみおそ)

 

○海豹(かいひょう)――稀れに見かける。

 

○葦鹿(あしか)――佐渡の北の海の方(かた)にては、俗にこれを「トド」と呼ぶ。

 

○山の獣は狸と兎のみである。貉(むじな)もいるとは言うが、狸と雑種化してしまっていて、果たして純粋に貉として独自に生態系を作っているかどうかはこれ、よく分からないという。

 

雪なだれ――その形は海月(くらげ)の仲間と類似している。その色はあくまで混じり気のない純白であって、言うなら、雪が解け始めた折りの状態にそっくりである。このものは稀れに姿を現わす。土地の人はこれを「雪なだれ」と呼んでいる。これはかの「大和本草」に謂うところの『北海に雪魚(ゆきうお)がいる。大きさは一丈四方余り、その形は魚の鰈(かれい)に似ている。その肉は極めて白くて雪のようであり、脂身はない。この生物は好んで海面に寝そべって眠る。』と記してあった。さても、まさにこれこそが、この佐渡の「雪なだれ」に違いないといったことが、これ、とある書文書に記されてあったのである。

 

□Ⅲ-1図右上の「針千本」(ハリセンボン)のキャプション

 針千本

形は「しおさえふぐ」に似ていて、惣身の棘(とげ)は栗の毬(いが)にそっくりである。

 

-1図左上中央の「箱フグ」(ハコフグ)のキャプション

 箱フグ

「海すずめ」に似て、形は遙かに四角い様相を呈する。

 

-1図左上の「鯛ノ聟源八」(マツカサウオ)のキャプション

 鯛の聟 源八

鯛に似て、極めて小さく、鱗は、はなはだ鋭い。

 

-2上図の「禿骨畢列」(トクビレ)のキャプション

 禿骨畢列――とくびれ魚

私こと解(とく)が按ずるに、方言である「とこひれ」というのは、「長鬣魚(とこひれうお)」の義ではなかろうか? また、「鋭鰭(ときひれ)」の義でもあろうか? 「こ」と「き」とは音では容易に通ずるものである。この魚はこれ、鮫の一種類であろうか? 目は黄色である。頭より背中(せなか)に至るまで、総て薄青色を呈する。鰭の端は褐色(かちいろ)であって、その他の部分は水色に薄黒を帯びており、斑らに点がある。鰓(えら)の端が少しだけ、紅(あか)い。ある人の記したものによれば、『この魚は、その魚体全体は文鰩魚(とびうお)に似ている。体側に沿って六つの稜(りょう)があり、小さな棘(とげ)を有する。その針ごとにまた、細かな筋があって、それが亀甲(きっこう)の紋様を呈するのである。身の肉質は極めて硬い。乾燥させて干物にしたものは時間が経過しても原形はこれ、一向に崩れず、さらに時を経ると、全体が褐色(かちいろ)に変じて、漁師はまた、そうなった肉を食らうことを、却ってすこぶる好む。ただ丸干しにして子どもの玩具に供する者に至っては、長大なるものは長さ一尺余りになるものもある。この上下の長い鬣(ひれ)を広げた際には、人一人分が入れる唐傘(からかさ)のようでさえある。ともかくもこれ、尋常の他の魚とは、何から何まで、異なっている。』とのことである。

 

-2下図の「龍宮の鷄」(アカナマダ?)のキャプション

 龍宮の鷄

ある人が言うことに、『「龍宮の鶏(とり)」というのは佐渡の方言である。これは「鬼頭魚(おこじ)」の奇品中の奇品とも言うべきものである。後方に冠(かんむり)があって、鶏(にわとり)によく似る。横腹には、小さな四角い点が有意に魚体から盛り上がって浮き出ており、あたかも刻み鏤(え)ったようである。完全に乾燥させたものは、すこぶる硬くして、かの海馬(かいば)の干物に似ている。』と。今、按ずるに、この魚の全身、その色は薄紅(うすくれない)であって、所謂、火魚(かながしら)のようである。実にこの魚は「おこじ」の近縁であるに違いない。

 

-2下図の「鉦敲魚」(マトウダイ)のキャプション

 鉦敲魚

この魚は佐渡のみに限らず、相模・伊豆の海中にも多く棲息している。ある人が言うことには、『この魚の形は、大小も一方ならず、大きなものは一尺を超える個体もある。鱗はない。その色は薄墨に青と黄を帯びて、光沢(つや)がある。横腹は水色の中に薄紅を帯びている。鯵に似ている。体側の両面に黒い丸いくっきりとした紋がある。この魚の身は脂(あぶら)がよくのっており、その味わいたるや、まことに美味いものである。相模・伊豆の海中に、冬から春にかけて多くこれを獲る。漁師はこの魚を「的魚(まとうお)」と呼んでいる。また、「賀陀比(かだい)」とも呼ぶ。』とのことである。今、按ずるに、この魚はこれ、江戸で言うところの「加々美夛比(かかみだい)」の奇品と見た。

 

   琴嶺興継(きんれいおきつぐ)写す。(落款)(落款)


病人魚膏に入る夢

今朝方、僕は僕が僕の書斎にいつも通り座って、いつも通りパソコンに向って、いつも通りテクスト評釈をしている夢を見た。

そこで僕は――郭璞(かくはく)の「山海経(せんがいきょう)」の「氐人」の注を附けるのに入れ込んでいる――のだった……

因みに「氐人」とは――どうぞ、こちらの中文繁体字「山海経」サイトのこちらをご覧あれ……

一日中やってることを夢にまで見るというのは……病膏肓どころか人魚膏に入った感がアロワナ……

人魚膏てなにかって?……君は僕のテクストを読んでないのがバレバレだぜぇ……『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』に出て来た始皇帝陵の消えない燈火の燃料――刀に塗れば鉄をもバターの様に切り裂き――体に塗れば水冷をシャットアウト――遂には御多分に漏れず不老長寿の秘薬となるという代物だ……

2015/06/06

――博物学古記録翻刻訳注 ■16 滝澤馬琴「燕石雑志」及び「烹雑の記」に現われたる佐渡の異魚三十種に就いての記載――を作製中

――博物学古記録翻刻訳注 ■16 滝澤馬琴「燕石雑志」及び「烹雑の記」に現われたる佐渡の異魚三十種に就いての記載――を作製中……

明日には何とか完成出来るかなぁ?……

2015/06/05

明恵上人夢記 50

50

 建暦二年九月十九日の夜、夢に云はく、上師を以て大阿闍梨と爲し、灌頂(くわんぢやう)の道場に入りて五智の法水を浴む。其の作法、一々に皆具足せり。二つの大印を受け奉る。一つは五鈷(ごこ)の印、一つは獨鈷(とこ)の印也。其の印は皆内傳の印也。五鈷は常の印〔内傳五鈷の印〕の如し。獨鈷の印は内傳にして、中の指を立合せたるなりと云々。又、問ひ奉りて曰はく、「法花の法には釋迦・多寶の二尊を合せ行じて、正念誦(しやうねんず)にも兩尊の眞言を用ゐるか。」上師答へて曰はく、「正念誦に多寶中一尊の眞言を用ゐるべき也。惣て此の法は多寶を本と爲る也。」

[やぶちゃん注:底本では、この前に「49夢」までとは異なる別資料であることを示すマークが入っており、この「50夢」から「夢に母堂に謁す。尼の形也。常圓房、其の前に在りと云々」までが同一資料となる(注には原典資料の書誌情報が載らない)。

「建暦二年九月十九日」西暦一二一二年。この年の一月二十五日、京都東山大谷で法然が亡くなっており(満七十八歳)、しかもこの夢の二ヶ月後の十一月には「摧邪輪」が完成している。

「上師」前の「49夢」(冒頭に述べた通り、「49夢」と、この「50夢」は異なる別資料であるが、私は特にその事実によってこの考え方を変えるつもりはない)で示した通り、ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈とする。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとあるから、この頃は未だ生きていたと考えられる。

「灌頂」今まで注していなかったので(但し、「夢記」では「灌頂」の語はここで初めて出る点で特異点である)、ここでウィキの「灌頂」を参照して注しておく。灌頂は『主に密教で行う、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことを』言い、元来は『インドで王の即位や立太子での風習である。釈迦の誕生日を祝う祭りである灌仏会もこれの一例であったが、インド密教において複雑化した。いくつかの種類や目的の別があり、場合によって使い分けられる』。本邦では八百五年に『日本天台宗の開祖である最澄が、高雄山の神護寺で初めて灌頂を行ったといわれる。また、最澄は渡唐の際に龍興寺の順暁から「秘密灌頂」を受け、後年、真言宗の開祖である空海が伝来した金剛界・胎蔵界の両部の』「結縁(けちえん)灌頂」も受けたとあり、対象者と目的によって結縁灌頂・授明灌頂等、種々の灌頂形態があるが、ここで言うのは、伝法(でんぼう)灌頂で、『金胎両部伝法灌頂ともいう。阿闍梨という指導者の位を授ける灌頂。日本では、鎌倉時代に覚鑁の十八道次第を先駆とし成立した四度加行』(しどけぎょう:真言密教に於ける初歩的階梯の四種の修行を指す。伝法灌頂を受けるための準備的修行で、十八道・金剛界・胎蔵界・護摩の四法を伝授されることを言う。)『という密教の修行を終えた人のみが受けられる。ここで密教の奥義が伝授され、弟子を持つことを許される。また仏典だけに捉われず、口伝や仏意などを以って弟子を指導することができ、またさらには正式に一宗一派を開くことができるとも』言い、『別名を「阿闍梨灌頂」、または「受職灌頂」ともいう。現在の中国密教やチベット密教の「伝法灌頂」は日本のものとは大きく異なり、チベット密教では主にタントラ経典の灌頂の際に「阿闍梨灌頂」を伴い、別尊立ての大灌頂の際にも「阿闍梨灌頂」を行なうことができる』。『ただし、日本には「阿闍梨灌頂」はあっても、密教の阿闍梨が守り継承するべき徳目を挙げた戒律である「阿闍梨戒」が無い。それに対して、中国密教やチベット密教には今も「阿闍梨戒」』『が伝わっているところから、一説によると、「阿闍梨戒」は伝わっていないのではなく、現時点では』『鎌倉時代に失伝したのではないかと見られている』とある。

「五智」密教で大日如来の智を五種に分けて説いたもので、①究極的実在それ自身である智(法界体性智)、②鏡のようにあらゆる姿を照し出す智(大円鏡智)、③自他の平等を体現する智(平等性智)、④あらゆる在り方を沈思熟慮する智(妙観察智)、⑤成すべきことを成し遂げる智(成所作智(じょうそさち)) の五つを指す(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「法水」「はふすい(ほうすい)」或いは「ほつすい(ほっすい)」と読み、仏法が衆生の煩悩を洗い清めることを水に喩えて言う語。法雨。灌頂では実際に頭頂に水を灌ぐことでそれをシンボライズする。

「其の作法、一々に皆具足せり」私はまず、ここに着目する。これは彼が実際に受けた伝法灌頂のフラッシュ・バック――ではない。であれば、こういう言い回しはしないと私は思うからである。即ち、これは全く新たな明恵の受けた伝法灌頂であったのだ。だからこそ夢の中の出来事なのに、恐ろしくリアルで定式に則った全き伝法灌頂であったと、明恵は心底、驚いているのである。

「五鈷」インド神話に於ける武器であったものを仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心を表す様に譬えて法具とした密教の法具ヴァジュラ( Vajra )、金剛杵(しょ)の一種である五鈷杵。柄の両端に、中央の刃の周囲に更に四本の刃が付随した計五鋒を持つ厳めしいもので、魔を払い、身を守る密教を代表する金剛杵の中では両先端が一鋒の独鈷(とっこ)やフォーク状の三鈷などに比すと最もインパクトが強い形状を成すものの一つである。忿怒や威嚇の形相を示す愛染明王・金剛夜叉明王などの明王像や金剛力士像も、この五鈷杵を持った姿で造形されることが多い。ここで明恵が「五鈷」と「獨鈷」の「印」を授けられるという以下の部分には、私は仏教上の基本義とは別に、明恵の中の極めて個人的な隠された神聖数的象徴が潜んでいるように思われてならない。「五」と「一」である。何故なら、この夢で彼はこの二つが自身の宗教的な唯一絶対の任務をシンボライズするものとして語られているように思えてならないからである(単なる法具としてのこの二つは極めてポピュラーなものであるにも拘わらず、明恵はここで敢えて「其の印は皆内傳の印也」としながら――「五鈷は常の印〔内傳五鈷の印〕の如」きもので、公的な知られた伝法の証、意味を指しているけれども、それに対し、今一つ授けられた「獨鈷の印」の方は私だけに命ぜられた「内傳にして」、それは私の両の「中の指を立合せた」ものを象徴しているのであると述べているように思えてならないからである。今、私にはこの「五」(先の五智と強い連関は感じる)と「一」の暗号の意味は分からない、分からないが、しかしこれは、尋常な謂いではないことが私には何か、直観されるものがあるのである。

「多寶」多宝如来。ウィキの「多宝如来によれば(下線部やぶちゃん)、『サンスクリットではプラブータ・ラトナ Prabhūta-ratna と言い、「多宝」は意訳である。法華経に登場する、東方の宝浄国の教主。釈尊の説法を賛嘆した仏である。多宝塔に安置したり、多宝塔の両隣に釈迦牟尼仏と合わせて本尊(一塔両尊)にしたりする』。この如来は過去仏(釈尊以前に悟りを開いた無数の仏)の一人とされ、『東方無量千万億阿僧祇(あそうぎ)の宝浄国に住するという(「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」というほどの意味)。中国、朝鮮半島、日本を通じて多宝如来単独の造像例はほとんどなく、法華経信仰に基づいて釈迦如来とともに』二体一組で『表される場合がほとんどである。釈迦如来と多宝如来を一対で表すのは、法華経』第十一章『見宝塔品(けんほうとうほん)の次の説話に基づく』。『釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった』とある。実は、先の五智に関わって、五智如来信仰というのがあり、真言密教などでは五智に大日如来(中央)・阿閦(あしゅく)如来(東方)・宝生如来(南方)・阿弥陀如来(西方)・釈迦如来(北方)を当てるが、例えば、秋田県能代市の浄土宗大窪山光久寺の公式サイト内の「本尊 五智如来」の頁を見ると、阿弥陀如来を尊崇する浄土宗にあっては『中央に阿弥陀如来、向かって右に釈迦如来、薬師如来、左に大日如来、多宝如来を安置』とあり、多宝仏は『本来は亡くなられたあとに「法華経」というお経が正しいことを証明してくれる仏さまといわれ』ると解説されてある。さて、この順列から見ると、釈迦如来は五智の内でも、鏡のようにあらゆる姿を照し出す智大円鏡智を、多宝如来は成すべきことを成し遂げる成所作智を、それぞれシンボルすることになる(また金剛界曼荼羅にも多宝如来は五智の一つとして描かれることがあるようである)。私はこれは明恵に課せられたものが、五鈷に示された公的な意味に於いて生きとし生けるものに対する全返照という釈迦の大義であり智であったとするならば、独鈷によって独り私的に命ぜられた使命こそが、当然に成すことを当然に成し遂げる、「あるべきようは」であったのではないか、という解釈を秘かにしたくなるのである。そうして後者こそが明恵にとってまさしく成し遂ぐるべき絶対の使命であることを黙示したのが、この最後のシーンではなかったか? 明恵が「法花の法には釋迦・多寶の二尊を合せ行じて、正念誦(しやうねんず)にも兩尊の眞言を用ゐるか。」――やはり普通通り、釈迦(公的天啓たる使命)と多宝(私的天啓たる使命)の両方の真言を誦しますか?――と問うたのに対し、上師は「正念誦に多寶中一尊の眞言を用ゐるべき也。惣て此の法は多寶を本と爲る也。」――そなただけの唯一の正念誦に於いてはこれ、多宝(私的天啓たる使命)その一尊の真言のみを専一に用いねばならぬのである。すべてこの霊験あらたかなる、そなただけの真正の誦法とはこれ、多宝をこそ本(もと)とするものであるからである――と述べているのではかろうか? 勝手な思い込みではある。大方の御叱正を俟つ。

「二尊を合せ行じて」先の多宝如来の注の下線部と合致する。

「正念誦」底本の編者注に、『五種念誦のうちの三摩地念誦』(さんまじねんじゅ)とある。「念誦」は真言宗で真言を繰り返し唱える修法で、その方法には①蓮華念誦(誦ずる声が自分自身の耳に聞こえる程度の声を出す最初期階梯の誦法)・②金剛念誦(唇と歯は閉じ合わせ、僅かに舌先のみを動かして真言を唱える誦法)・③三摩地念誦(舌を動かさずに心に於いて唱える誦法)・④声生(しょうせい)念誦(心中に蓮華を想い、その上に白い法螺貝があると観想してその貝から妙なる音声(おんじょう)が遍く世界に音楽的に響き渡る誦法)・⑤光明(こうみょう)念誦(口から光明を発しつつ唱える即身成仏の誦法。六波羅蜜寺の六体の阿弥陀如来が口中より出現している空也上人像はこの光明念誦を形象化したものである)があるとする。この五種の解説は大森義成「実修真言宗の密教と修行」(二〇一〇年学研刊)や正式な真言宗寺院のサイト及び真言僧のブログを複数参考にしたが、大森氏によれば、三摩地念誦は『舌すら動かさず、心の中で真言を唱える。そのときに心の中に「蓮華」と「月輪」』(月のことであるが「がつりん/がちりん」と読む)と梵字(原本では古代サンスクリット文字が入る)のア(密教では阿字本不生(あじほんぷしょう)と称し、宇宙のあらゆるものは「阿」という字音のなかに含められるとし、総てのものが本来、存在するものであって原理そのものが現れているのだとする、大日如来自身の内的悟達と同一であるとする思想。阿字観瞑想法の基本)『を迷走して、一体になりきる』と解説されておられる。]

 

□やぶちゃん現代語訳

50

 建暦二年九月十九日の夜、こんな夢を見た。

「上師上覚房さまを以って大阿闍梨となし、伝法灌頂(かんじょう)を受けるために道場に入堂し、五智の法水を浴びる。

 その作法たるや、これ、夢の中の出来事であるにも拘わらず、細かな部分まで定式通りであって、夢にありがちないい加減ところや、おかしなところなど、これ、一つとしてないのであった。

 私は伝法の証しとして、二つの大きな印(いん)を受け奉った。

 その一つは五鈷(ごこ)の印、今一つは獨鈷(とっこ)の印であった。

 その印はこれ、二つを合わせて、内密に伝授された証しとしての印なのであった。

 五鈷はこれ、こうした伝法灌頂にあって知られた印――真言宗一般の内伝の五鈷の印であった――と全く変わらぬものであった。

 しかしそれに加えられた今一つの独鈷の方の印の方は、これこそまことに秘かに内々に伝授されたものであって、それは仏さまの中指を、これ、ぴたりと縦に合わせた、実に凛々しい形をしているのである。……

 また、その折り、私はふと疑問に思って上覚房さまに問い奉ったことがあった。それは、

「――法華経読誦の修法には、これ、やはり釈迦・多宝の二尊を合わせて行じて、また、正念誦(しょうねんず)に於いても釈迦・多宝両尊の真言を用いるのですか?」

という疑義であった。

 すると上覚房さまは鮮やかにきっぱりと、こう、お答えになられたのである。

「正念誦にはこれ、まさに多宝一尊の真言をこそ用いねばならぬ! すべて、この法は多宝を本(もと)とするものだからじゃ。」

と……」

2015/06/04

毛利梅園「梅園魚譜」 ハリセンボン

 
 Harisenbon
 
〔「食物本草」。〕

 綳魚(はうぎよ)〔一種、ハリセンボン。〕〔海産。〕

〔佐渡の國界(くにざかひ)の實記。〕

 針千本

 

 本江氏所藏。之を乞ひて、保十

 〔己亥。〕年四月十日、眞寫す。

 

針千本。漢名、「魚虎」、又、「鬼頭魚」なりと

充つる者あり。非なり。「魚虎」は「簑(みの)カケフグ」なり。

針千本に似て、其の刺(トゲ)、伏して、簑を著(キ)たる

がごとし。其の刺、直立(スヽタチ)する者、則ち、針千本なり。

魚(はうぎよ)の類、猶ほ多し。盡くは知るべからず。佐

渡には三十種の異魚あり。大厩(おほむね)を記す。

針千本   箱フグ  鯛の聟源八

禿骨畢列(トコイ) 龍宮の鷄

鉦敲魚(カネタヽキ) 海馬

瘤鯛(カンダイ) 此の類三十首ありと跡は未詳。

[やぶちゃん字注:「」=「魚」+「朋」。]

 

[やぶちゃん注:条鰭綱フグ目ハリセンボン科ハリセンボン Diodon holocanthus の怒張し状態に模して乾燥させた加工品の図(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像)。ウィキの「ハリセンボン」によれば、本邦では本州以南に分布し、『腹びれがないこと、顎の歯が癒合していること、皮膚が厚いこと、敵に襲われると水や空気を吸い込んで体を大きく膨らませること、肉食性であることなど、フグ科と共通した特徴を多く持っている』。但し、フグ科の歯は上下二つずつ、合計四つになっているのに対し、ハリセンボン科の歯は上下一つずつ、合計二つである(荒俣上掲書によれば上下それぞれの二枚が癒合しているとある)。科名の“Diodontidae”というのも「二つの歯」もこれに由来する。『フまた、グによく似るが毒はな』く、沖繩では私の好きなあばさー汁にしてよく食す。『この科の最もわかりやすい特徴は皮膚にたくさんの棘があることで、「針千本」という和名も "Porcupinefish"Porcupine=ヤマアラシ)という英名もここに由来する。なお実際の棘の数は』三百五十本前後で、『和名のように千本あるわけではない。棘は鱗が変化したもので、かなり鋭く発達する。この棘は普段は寝ているが、体を膨らませた際には直立し、敵から身を守ると同時に自分の体を大きく見せるのに役立つ。ただしイシガキフグなどは棘が短く、膨らんでも棘が立たない』。『浅い海の岩礁、サンゴ礁、砂底に生息する。他のフグ目の魚と同様に胸びれ、尻びれ、背びれをパタパタと羽ばたかせながらゆっくりと泳ぐ。食性は肉食性で、貝類、甲殻類、ウニなど様々なベントスを捕食する。丈夫な歯で貝殻や甲羅、ウニの殻なども噛み砕いて食べてしまう』とある。

「食物本草」明の盧和原撰(一五〇〇年前後)・汪穎補編(一五五〇年頃)になる通常の食物となるものに限った本草書。

「綳魚」既注であるが、再掲する。寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」に「すゝめうを 海牛 うみすゝめ 綳魚」がある。良安の記載から、明の盧和(ろわ)原撰(一五〇〇年前後)・汪穎(おうえい)補編(一五五〇年頃)になる通常の食物となるものに限った本草書「食物本草」から引いた漢名であることが分かる。「綳魚」の「綳」は「繃」で、「たばねる」の意。これはまさにハリセンボンが通常時、怒張していない時の棘を畳んだ状態を指し示していると私は解く。リンク先(私の電子テクスト)も是非、参照されたい。

「佐渡の國界の實記」原典は「佐渡國界實記」という文字列であるが、これ、どう考えても書名とは思われない。以上のように訓読した。大方の御批判を俟つ。

「本江氏」不詳。

「保十〔己亥。〕年四月十日」西暦一八三九年五月二十二日。

『針千本。漢名、「魚虎」、又、「鬼頭魚」なりと充つる者あり」』ここで梅園は「海虎」と「針千本」は異種であるという主張をしていることに注目したい。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「ハリセンボン」によれば、李時珍の「本草綱目」に出る「魚虎」を本邦のハリセンボンに同定した最初は小野蘭山の「本草綱目啓蒙」で、「新註校定国訳本草綱目」で魚類を担当した魚類学者木村重(しげる)もこの説をとったとある。では「本草綱目」の「魚虎」を実際に見てみよう。

   *

魚虎〔「拾遺」〕

(釋名)土奴魚〔「臨海記」〕。

(集解)〔(藏器曰)生南海。頭如虎背皮如猬有刺、著人如蛇咬。亦有變爲虎者。(時珍曰)按「倦游錄」云、海中泡魚大如斗、身有刺如、能化爲豪豬。此即魚虎也。「述異記」云、老則變爲鮫魚。〕

(氣味)有毒。

   *

シャチの項でも述べたが、これを寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「しやちほこ 魚虎 イユイフウ」の項で、

   *

「本綱」に『魚虎、南海中に生ず。其の頭、虎のごとく、背の皮に猬[やぶちゃん注:ハリネズミ。〕のごとくなる刺有りて、人に着けば、蛇の咬むがごとし。亦、變じて虎と爲る者有り。又云ふ、大いさ斗[やぶちゃん注:柄杓。]のごとく、身に刺有りて猬のごとし。能く化して豪豬(やまあらし)と爲(な)る。此れも亦、魚虎なり。』と。

   *

とあって、大きさはマッチするとしても、化生説から何から、とても木村氏のように平然とハリセンボンに同定する気には私はならない。そもそもが例えばこの寺島にしてからが、先に掲げた「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の冒頭の「鯨」の項ににはわざわざ「魚虎」を設けていて、これはその叙述と位置からしても、少なくともここでは高い確率で正しくクジラ目ハクジラ亜目マイルカ科シャチ Orcinus orca に同定しているものと私は考えるのである。

「鬼頭魚」これは現在、スズキ目スズキ亜目シイラ科シイラ Coryphaena hippurus の異名として本邦で通用する。さらに「シイラ」の中文ウィキを見ると、異名の中に「鬼頭刀」という名が附されてもある(現行の中国語のシイラの標準名は「鰍」)。さらに言えば、この「梅園魚譜」では実にスズキ系カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科フサカサゴ亜科オニカサゴ属オニカサゴ Scorpaenopsis cirrhosa に当てているという事実をこそ押さえねばならぬ。ここで梅園が言う真正の「鬼頭魚」はオニカサゴであり、私もその同定(少なくとも鬼の頭の魚という名にし負うのは、という意味で、である)には諸手を挙げて賛同するものだからである。

『「魚虎」は「簑カケフグ」なり。針千本に似て、其の刺、伏して、簑を著たるがごとし。其の刺、直立(スヽタチ)する者、則ち、針千本なり』「直立(スヽタチ)」不詳だが、真っ直ぐに立つという意味であることは伝わる。この解説、読みながら思わず、何だ! これって、先に電子化した毛「トウジン/シマサキ/綳魚」に出てきた「綳魚の一種」「ハコフグ」「針フグ」と呼称している、条鰭綱フグ目ハリセンボン科イシガキフグ属イシガキフグ Chilomycterus reticulatus マンマじゃん! と叫びたくなった。梅園はそれをそっちの解説で全く触れていないのは極めて不審だけれど、私はこれはもう、イシガキフグに同定せずんばならず! という気になってる!

「佐渡には三十種の異魚あり」これは何に出るのかと調べて見たところが、馬琴だ! 彼の「燕石雑志」に初出し、後にやはり彼の「烹雑(にまぜ)の記」に載っていることが判明、幸い、後者は蔵書にあったので見たところが、これまた、そそる図とともにこれらが語られてあった(前者は早稲田大学図書館の画像データベースで今、ダウンロードしたが、ちょっと見る限りでは当該箇所を捜し出すのに時間がかかるので、ここでは精査を断念する【2015年6月6日追記:書庫の奥より「燕石雑志」も発掘、該当箇所を現認した。現在、二書の当該箇所の電子化作業に着手した。】)。その全貌は近い将来、電子化したいと思う。ここではともかくもここに挙がるものを取り敢えず、簡潔に検証してみよう。……しかし、これどうも……胡散臭い部分があるように私には思われもするのであるが(次注参照)……

「箱フグ」フグ目ハコフグ上科ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus 

「鯛の聟源八」「烹雑の記」本文には「鯛(たひ)の聟(むこ)源八、〔鯛に似て極てちひさし。〕」とあるのみだが、譜図を見るとこれは!……かの発光魚として知られる棘鰭上目キンメダイ目マツカサウオ科マツカサウオ(松毬(笠)魚) Monocentris japonica じゃねえか! そうして……何と!――「広辞苑」「日本国語大辞典」といった辞書類の見出しにも「鯛の婿源八」という長々しい見出しがちゃんとあって、マツカサウオの別名とある!……いや! この年になるまで、知らなんだわい! 以下、ウィキの「マツカサウオ」より引く。『北海道以南の日本の太平洋と日本海沿岸から東シナ海、琉球列島を挟んだ海域、世界ではインド洋、西オーストラリア沿岸のやや深い岩礁地域に生息する』。『本種は発光魚として知られているが、それが判明したのは意外に遅く』、大正三(一九一四)年に『富山県魚津市の魚津水族館で停電となった時、偶然見つけられたものである』(この事実も今回初めて知った。面白い!)。『本種の発光器は下顎に付いていて、この中に発光バクテリアを共生させているが、どのように確保するのかは不明である。薄い緑色に発光し、日本産はそれほど発光力は強くないが、オーストラリア産の種の発光力は強いとされる。しかし、発光する理由まではまだよく判っておらず、チョウチンアンコウなどのように餌を惹きつけるのではないかという可能性がある』。『夜行性で、体色は薄い黄色だが、生まれたての幼魚は黒く、成長するにつれて次第に黄色味を帯びた体色へと変わっていくが、成魚になると、黄色味も薄れ、薄黄色となる。昼間は岩礁の岩の割れ目などに潜み、夜になると餌を求めて動き出す』。『背鰭と腹鰭は強力な棘となっており、外敵に襲われた時などに背鰭は前から互い違いに張り出して、腹びれは体から直角に固定することができる。生きたまま漁獲後、クーラーボックスで暫く冷やすとこの状態となり、魚を板の上にたてることができる。またこの状態の時には鳴き声を聞くこともできる』。『和名の由来通り、マツの実のようにややささくれだったような大きく、固い鱗が特徴で、その体は硬く、鎧を纏ったような姿故に英語ではKnight FishArmor Fishと呼び、パイナップルにも似た外観からPinapple fishと呼ぶときもある』。『日本でもその固い鱗に被われた体からヨロイウオ、鰭を動かすときにパタパタと音を立てることからパタパタウオとも呼ぶ地方もある』。『体は比較的小さく、成魚でもせいぜい』十五センチメートル程で、『体に比べ、目と鱗が大きく、その体の構造はハコフグ類にも似ている。そして、その体の固さから動きは遅く、遊泳力は緩慢で、体の柔軟性も失われている』。『餌は主に夜行性のエビなどの甲殻類だといわれる』。『本種はあまり漁獲されないことから、経済効果にはそれほど貢献しないものの、食用にされている』。『加熱すると鱗が取れ、中の肉を食べやすくなる。白身でやや柔らかく、美味な食感である』。『緩慢な動きがユーモラスなので、水族館で飼育されたり、内臓を取って干した個体を置物として売る場合もある』とある。気になるのは、何故「鯛の聟源八」かだ! 何故か知らん、軍事用語サイト」に「鯛の婿の源八」とあって、『佐渡に鯛の婿源八という魚あり。しか名づけたる故は知らず」(燕石雑志)』とある。しかし、本当にこれは佐渡の方言なのだろうか?……どうも胡散臭い。さらに調べて見ると、馬琴の「南総里見八犬伝」研究をなさっておられる冨地晃裕氏のサイト「冨地晃裕絵画館」の八犬伝関連雑文3に『鯛聟源八」』とあって、同作の登場人物『石亀屋次団太の旧名』とあり、以下、『石亀の地団駄《「雁が飛べば石亀も地団駄」の略。身の程を考えないで、他をまねようと力んでも限界があることのたとえ》浜路が旧名の正月に重点的な意味があったように、次団太の旧名である鯛聟源八に注目しなくてはならない』。『鯛の聟源八 マツカサウオの別名、と出てくる。こんな名前の魚が本当にいるんだ、と喜んではダメ。源八に注目である。源八=げんぱち=現八であり、現・八郎である。石亀屋次団太と出会う小文吾には義実の役回りがふられていることが多い。つまり八郎と義実の出会いによって物語は動いていく契機を与えられるので、ここでも同様である。八郎と義実・玉梓に対して次団太と小文吾・船虫の対になっている。こう書くからと言って玉梓と船虫が関係あるというのではない。話の構造上対になっているというだけのことだ』。『あるじは鯛聟源八と呼ばれたる(231)とサラっと流してしまうのが馬琴のいつもの手である』という如何にも意味深長な解説があるのである。私は「八犬伝」を読んだことがないから(妻は愛読者で二度通読しているようだが)、この冨地氏の語りの意味が半可通なのだが……しかし……これ、どうも……稀代のコピー・ライターであった馬琴が、佐渡方言と称して、実は自作の「八犬伝」の登場人物石亀屋次団太の旧名に引っ掛けてでっち上げた異名なのではあるまいか?……切に識者の御教授を乞うところである。……

「禿骨畢列(トコイ)」原文は「畢」に「イ」ともう一字振っているが、読めない(「列」にはルビがない)。しかし、「烹雑の記」には『禿骨畢列〔とこひれ魚〕』と詳細キャプション附きで異形の図が示されてあって、本文にも『とこひれ〔文鰡魚に似たり。六ノ稜及小刺あり。〕』とあることから、これはもう! 関東で「ハッカク」(八角)の名で知られる、現在の棘鰭上目カサゴ目カジカ亜目トクビレ科トクビレ亜科トクビレ Podothecus sachi のことと目から鱗!

「龍宮の鷄」「烹雑の記」には本文に『龍宮の鷄〔鬼頭魚の奇品。〕』として、図とキャプションがある。この名と図を凝っと見ていると……「龍宮の使い」みたいに長くはない……「鶏」であるからは、赤い鶏冠(とさか)があるんだろう……図では刎部の上にひょろりと特異的な突起がある(この図には頭の張り出し部分が死後に欠損したものを描いたように私には見える)……臀鰭がある、といった点から私は取り敢えず、これは深海魚の――アカマンボウ目アカナマダ科アカナマダ Lophotus capellei 或いはそれに近い種なのではないか?――という直感が働いていることを述べておこう。

「鉦敲魚(カネタヽキ)」これも「烹雑の記」本文には『鉦たゝき〔鏡鯛に似たり。〕』とあっさりしているものの、はっきりした附図とキャプションがあり、その絵と、キャプション中の『両面に黒圓(くろまろき)紋(もん)あり』という叙述、及び漁師がこの魚を『的魚(まとうを)といふ』という記載から、もう、新鰭亜綱棘鰭上目マトウダイ目マトウダイ科マトウダイ Zeus faber と見た。

「海馬」トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の大型種の大型成体個体と思われる。本邦産のタツノオトシゴ類は本朝食鑑 鱗介部之三 海馬の私の注を参照されたい。

「瘤鯛(カンダイ)」これは現行でもスズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科コブダイ Semicossyphus reticulatus ♂――頭部の上下が異様に大きく瘤状に膨れあがっている♂――の呼称である(本種は成長過程で♀から♂へ性転換する雌性先熟である)……ああっ!……またまたまたまたまた……芋蔓式観念連合の電子化予約がこれ、殖えてしもうたなぁ……

毛利梅園「梅園魚譜」 ハコフグ

 
Hakohugu
 
皮籠海豚(カハゴフグ)

   〔海魚。〕

 〔ハコフグ。〕

 

 此の者、其の惣身、硬くして石のごとし。

 其の尾、鬣(ひれ)有る所、皆、穴ありて柔らかに

動く。海牛(スヾメフグ)の類なり。長嵜(ながさき)の海に

多し。東武、稀なる者。干したるは、多

く遠くより寄す。生なる者、始めて親

見(しんけん)す。

 

  乙未(きのとひつじ)十一月六日倉橋氏より、之れを送られ、

  眞寫す。

 

[やぶちゃん注:「梅園魚品図正」巻二より(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正」の中の当該保護期間満了画像)。因みにこれはトリミングしたもので、上方にはピンクの発色の美しい「鬼頭魚」(オニカサゴ)の図が併載されてある。フグ目ハコフグ上科ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus 。近年、紀伊半島以南には近縁種であるミナミハコフグ Ostracion cubicus の棲息が確認されているが、成魚のミナミハコフグには、ハコフグには見られない、幾つかの骨板上に小さなくっきりとした白い点が存在し、さらにその白点周縁に接してやはり小さな黒色の点或いは線が見られるので、識別は比較的容易である。幼魚では体側の黒色斑が眼径大であることでやはりハコフグと区別出来る。可能「WEB魚図鑑」のミナミハコフグ」の画像を参照)。サイト「プライベート・アクアリウム」の「イシガキフグ」によれば、ハコフグは本邦では本州以南に広く分布し、特に岩手から四国にかけての太平洋側に多く見られるが、琉球には生息していないとも言われている。『体は側扁しているが、切り口(横断面)は四角形に近い特徴的な体つきをして』おり、『全身は鱗が変形した硬い甲板で覆われていて、吻は突出している』。大きな特徴として、『歯はフグやハリセンボンの仲間のように癒合して嘴状になるのではなく、カワハギのように突出した吻にノミ状の歯が集まったようになっている』点である。『また、腹びれはなく、背びれやしりびれは小さいが、尾びれは大きく、後縁は丸みを帯びている』。『泳ぎは体が硬いこともあってうまくはない』。『体色は黄色や黄褐色などで、青や青緑色の円形の斑が見られ、幼魚では黄色地に黒色や濃青緑色の小さな斑が散在して』いる。『背と腹には一対の隆起線があり、各ひれは黄色』を帯びる。沿岸性で、通常は水深五十メートルよりも浅い岩礁域などに棲息、『ハコフグの中ではもっとも普通に見られ、普段は単独で生活し、小型の甲殻類やゴカイ類、海綿、貝類などを食べる』雑食性である。『ハコフグは皮膚から』パフトキシンという粘液性の毒を『出すが、フグ科と違って肉や内蔵には毒がなく、甲板を取り除いて食用に利用される』(刺身も美味く、五島列島の郷土料理として知られる味噌詰焼きがは絶品と聴くのだが、残念なことに私は未だ食したことがない)。但し、『中にはアオブダイやソウシハギなどのようにパリトキシンに似た毒性物質をもっていて、重い中毒を起こすこともあるので、食用には充分に注意する必要がある』ともある。……最強の海産毒マイトトキシン( maitotoxin :有毒渦鞭毛藻 Gambierdiscus toxicus 由来のシガテラ毒。テトロドトキシンン (tetrodotoxin, TTX)の二百倍とされる)に次ぐパリトキシン( palytoxin :ハワイのスナギンチャクから単離され、アオブダイ食中毒の原因に同定されており、類縁体の第一生産者は有毒渦鞭毛藻 Ostreopsis siamensis と考えられている毒素。これも無論、TTXより強い)似かいな……ウーム、悩ましいのぅ。……なお、望月賢二氏の「魚の手帖」によれば、カクフグ(高知県安芸)・コウゴウフグ(広島県賀茂郡。「金剛」の訛りであろう)・ハコマクラ(和歌山県和歌山市雑賀(さいが)崎)といった地方名が挙げられてある。また望月氏は特にこのハコフグの図について『形態、色彩とも本種の特徴をよくとらえている』と特に名指しで褒めておられる。

「海牛(スヾメフグ)」ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana 。ネット上の記事を読むと、最近、市場ではハコフグと一緒くたにされて売買されているようであるが、ウミスズメには眼の上部や尻鰭の基部の前方に短い棘状突起があることで容易に識別出来る。

「乙未十一月六日」天保六年。西暦では一八三五十二月二十五日。

「倉橋」不詳乍ら、鸚鵡螺に出る倉橋尚勝なる人物と同一人物と思われる。]

毛利梅園「梅園魚譜」 トウジン/シマサキ/綳魚

 
 Huehukihoka3
 
元壽文政十二丑年六月九日芝髙輪の

瀕(ホトリ)待合と云へる茶屋に休息(ヤスラ)い、芝の朝河岸

より赤羽魚市え鬻(ヒサ)ぐ魚商夥(おびただし)くし、其の

中に魚荷桶(うをにをけ)ゑ此の三魚を鰈(カレイ)・牛尾魚(コチ)なぞの

中に交ゑて通り、又、予、眼に觸れたれば、僕(ボク)に是れを

調ひさし、則ち、茶店の座椽(ざえん)に於いて、小菊紙(こぎくがみ)に寫し

茶店の主(あるじ)、「何の用にならん。」と言へり。予、則ち、多

年、画筆を好みて、天下にあらゆる種品(しゆひん)眞寫せる

ことを荅(こた)ふ。主、曰〻(いふいふ)、「魚戸(サカナヤ)の運送(ハコビ)する者の中、各々(おのおの)も

知らざる魚、徃々、之れ有り。皆、毒あり、とて買はず。」と云へり。

予、時々、三田町(だいまち)寺院、又、泉岳寺に詣ず故、

芝河岸には異魚を鬻ぐ魚商の有ることを知る。

此の三魚、往還先なれば、食はざる「シマサキ」は、魚戸(さかなや)の、「食

ひし。」と云へるを聞(き)ゝ、舌味の説、其儘記す。三魚とも

何(いづ)れの産なるか、聞かず。魚は皆、茶店の小兒のもて

遊びに置く。今、玆(ここ)に其の小紙を操(と)り出し、着色清書

する。時に保十〔己亥(つちのとゐ)〕十月九日。

 

トウジン〔海魚。〕

カハセミ魚

 

シマサキ〔海魚。〕

  漢名不詳。肉、堅

  硬くして、味、美(よ)からず。皮、

  亦、至つて硬し。鱗の

  端(ハシ)、起(た)ちて鋭利(するど)く、

  肌、滑らかならず。

  冬月、稀

  に有り。

 

〔海魚。〕

 綳魚(はうぎよ)〔一種。〕

  〔ハコフグ。〕

  〔針フグ。〕

 

綳魚の類。甚だ※し。「箱フグ」と

云へる者、一種、別に有り、同名にして異(い)なり。

「魚譜」巻の二の条に出だす。「針フグ」も

前条に出、佐渡にて針千本と云ふ。河

豚(ふぐ)と同名、異(い)なり。此の圖する者、其の身

皮及硬く、針、鋭利(スルド)くして、手に觸るること

あたはず。食ふべき者に非ず。

[やぶちゃん字注:「※」=「繋」の「車」が「侖」。「身皮及」訓読不能。「身及び皮」の錯字か。]

 

[やぶちゃん注:以上の図(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像)は右の鮮やかな紅色を呈した個体から、

〇「トウジン」「カハセミ魚」と呼称する個体

 条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目サギフエ科サギフエ Macroramphosus scolopax

左上方から下方の個体、

「シマサキ」と称する個体

 条鰭綱スズキ目スズキ亜目ハタ科ヌノサラシ亜科ルリハタ Aulacocephalus temmincki

「綳魚の一種」「ハコフグ」「針フグ」と呼称している個体

 条鰭綱フグ目ハリセンボン科イシガキフグ属イシガキフグ Chilomycterus reticulatus

と思われる(小学館一九九一年刊望月賢二監修「魚の手帖」も三種とも同じ同定である)。

 サギフエ Macroramphosus scolopax は、強く側偏した体と長い吻を特徴とする(成魚では絵のように背部の紅が大きな特徴のように見えるが、幼魚では銀色であり、また成魚の色の変異もかなりあり、グーグル画像検索「Macroramphosus scolopaxを見ても、薄いピンクから黄褐・銀と、必ずしも鮮やかな紅色を呈するわけではないことが分かる)英名の“snipefish”は特にその刎部が鳥のチドリ目シギ科タシギ Gallinago gallinago の(英名:snipe )長い嘴に似ることに由来する。以下、ウィキの「サギフエ」によれば、全長は平均十五~二十センチメートル、その内の約六センチメートルも吻が占めている。『体の表面は、胸鰭から背鰭にかけてと腹側の縁が骨板(甲板)に覆われ』、しかも二つの背鰭を持ち、一つ目の背鰭には四~七本の棘を有し、その中でも前から二番目の棘は長く伸びて鋭く、しかも鋸状を呈している。この棘は平均四センチメートルまで伸長し、二つ目の背鰭には十~十四本、尻鰭には十八~二十本の鰭条がある(但し、梅園の絵では第一背鰭が長棘のみしか描かれていない)。『サギフエはさまざまな海域の沿岸付近で見かけられる。大西洋東部のヨーロッパ・アフリカ沿岸や北海・地中海、大西洋西部のメイン湾からアルゼンチンにかけて、さらには太平洋西部やインド洋のアジア・オーストラリアおよび島嶼部の沿岸などにサギフエが生息して』おり、北緯二十から四十度の温帯域に於いて『特に広く分布している』。砂や岩の海岸沿いの水深二十五~六百メートルの大陸棚を好んで昼間の棲息域としており、『夜になると水面近くまで上がってくる。幼魚は外洋の表層水(de:Oberflächenwasser)の中で暮らす』(「de」は「Deutsch」でドイツ語のこと。「オゥバフレヒィンヴァサ」)。『彼らは小さな渦状の群れをなして育つ。幼魚はカイアシ類を餌とし、成魚は底生生物を探して餌とする』。『サギフエは同じトゲウオ目のヘコアユと同様、頭部を下に向けて泳ぐ習性をもつ』。魚体が小さいうえに、可食部分も少なく、『食用としての価値はない』(但し、ネット上の記載を見る限りでは、干物にし、また、焼き物にして美味くないわけではないようだ)。望月氏の前掲書によれば、ウグイス(高知県浦戸)・チュウチュウ(高知県御畳瀬(みませ))・ツノハゲ(高知県須崎)といった地方名が挙げられてあり、これら、何とも微笑ましいではないか。

 ルリハタ Aulacocephalus temmincki は「瑠璃羽太」で、生体では文字通り「青褐色(あおかちいろ)」(この色名は本来は正倉院文書に既に見られる古名である)、非常に美しい瑠璃色或いは紫がかった青で、吻端から上顎を経て、尾鰭までの体の背縁に沿って、目立った鮮黄色の帯を有する(グーグル画像検索「Aulacocephalus temmincki参照)。本邦では主に南日本に分布し、体長は約二十五センチメートルで口が大きく、背鰭は九棘十二本、尻鰭は三棘九本の軟条から成る。水深十~七十メートルの岩礁域に棲息し、危険を感じたり、ストレスを受けると、防禦毒と思われるグラミスチンを含んだ海水を泡立てるような粘液を皮膚から出すことで知られるが、ヒトに中毒性はない(以上は、主にウィキの「ルリハタ」を参考にした)。ネット情報では体色からであろうか、あまり食べたという記載がないが、以外に美味いともあった。梅園の絵の体色は死後、時間が経ったそれをよく写しているように思われる。望月氏の前掲書によれば、アブラウオ(和歌山県田辺・周参見(すさみ))・イシズミ(鳥羽)・アオハタ(伊豆)といった地方名が挙げられてある。

 イシガキフグ Chilomycterus reticulatus は、ハリセンボン科 Diodontidae であるが、有意に棘が短く、梅園の言うようには鋭くない(以下の引用を参照。こうして考えると本図のそれは別種のようにも見えるが、恐らくはこの叙述、これを商っている魚商人の語りであり、その人物はハリセンボンと一緒くたにしておどろおどろしく語ったものとすれば腑に落ち、その如何にもハリセンボンのようになって自慢げに語る魚屋の大将の姿もこれ、髣髴としてくるようで、すこぶる私は楽しくなってくるのである)。ハリセンボン属ハリセンボン Diodon holocanthus 同様、世界の温帯から熱帯水域に分布しており、本邦では茨城県以南に見られる。サイト「プライベート・アクアリウム」の「イシガキフグ」によれば、『体は縦扁し、頭部は大きくて、体表には太くて短い棘を持って』おり、『体色は背面が濃灰色で、腹部は明るく、体には暗色の』四~六本の『横帯がある』。『他のフグの仲間と同様、腹びれはないが、各ひれには暗色の斑点が多数見られ』、『口は吻先にあって、案外幅広い感じがする』『また、イシガキフグは水や空気を吸い込んで体を膨らませる事は出来るが、体表の棘はハリセンボンのように鋭くはなく、立てたりすることもできない』。『水深の浅い海岸近くの珊瑚礁や岩礁域に多く生息しているが』、水深百メートル程度までの水域『にも見られ、熱帯域では更に深いところにも生息しているのでないかと言われている』。『普段は単独で生活していて、主に甲殻類や軟体動物を食べる』。通常は全長五十センチメートル程度であるが、大きいものでは八十センチメートル、体重で十キログラム近い巨大個体もいるとある。『岩穴などに潜んでいることが多いが、他のフグの仲間と同様、動きは鈍く、胸びれを使って泳いでいる姿などはユーモラスでもある』。『海面近くをのんびりと泳いでいることもあり、磯釣りなどでも、餌をついばんでいる様子が見えたりもするほど警戒心が薄い』。『イシガキフグは無毒とされているので時に食用にされるが、一般にはほとんど流通していない』。『しかし、鍋物や味噌汁にするとかなり美味しいものと言われていて、大きいものもフライや唐揚げなどにすると美味しいとされている』とあり、他サイトでは刺身では不味く、味噌汁や鍋を推奨している。無論、ハリセンボン類同様に無毒であり(但し、ハリセンボンの卵巣は毒化したものがある場合があるという報告もあるので、食さない方が無難である)、少なくとも「食ふべき者に非ず」ではないですぞ、梅園先生。望月氏の前掲書によれば、イガフグ(下関・和歌山県田辺)・イバラフグ(和歌山県周参見)・コンベ(新潟)・バラフクト(高知県沖ノ島)・トーアバター(沖繩)といった地方名が挙げられてある。

「元壽文政十二丑年六月九日」原典では「政」の字派「正」の下に「攵」を合成した字である。西暦一八二九年七月九日。

「瀕(ホトリ)待合」固有名詞と採る。

「座椽」店先の縁台のことであろう。そこでなければ、往来の魚屋の行き来を細かに観察することは出来ない。

「小菊紙」茶菓などに添えた手漉きの美濃紙。懐紙のこと。以下の主人との応答、眼の前に現前するように感じられ、とても、いい。

「三田臺町」現在の港区の三田、旧三田台町。寺院と武家屋敷が林立していた。

「保十〔己亥〕十月九日」西暦一八三九年十一月十四日。最初に書写してから、実に十年後の着色と清書である。彼の作業の実体が知られて興味深いが、恐らくは色のなどの指定が原図にはあったに違いない。

「トウジン」現在、サギフエの別名としては確認出来ないが、この「トウジン」は別に現在、深海魚の条鰭綱タラ目ソコダラ科ソコダラ亜科トウジン属ゲホウ Caelorinchus japonicus の別名として知られる。本種は深海魚(但し、深度五百メートル以内の浅い深海性)らしく異形で、頭部が突出し眼が大きい。サギフエも「鼻」が高く、「目玉」が身体に比して有意に大きい。これらから考えると、刎部の突出を「鼻」と捉え、どんぐり眼(まなこ)の異形から「唐人」と名付けたものと推定出来るように思われる。サギフエの鮮やかな紅も如何にもそれらしいではないか。

「カハセミ魚」現在、確認出来ない別名であるが、鳥綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ Alcedo atthis は胸と腹と眼の前後が強い橙色を呈し、足も赤いから、この別名もおかしくはない。

「シマサキ」この別名は現在、確認出来ない。

「堅硬くして」「堅硬く」で「かたく」と読んでいるらしい。

「綳魚」寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」に「すゝめうを 海牛 うみすゝめ 綳魚」がある。良安の記載から、明の盧和(ろわ)原撰(一五〇〇年前後)・汪穎(おうえい)補編(一五五〇年頃)になる通常の食物となるものに限った本草書「食物本草」から引いた漢名であることが分かる。「綳魚」の「綳」は「繃」で、「たばねる」の意。これはまさにハリセンボン Diodon holocanthus の通常時、怒張していない時の棘を畳んだ状態を指し示していると私は解く。リンク先(私の電子テクスト)を是非、参照されたい。

「ハコフグ」現行では全くの別種であるフグ目ハコフグ上科ハコフグ科 Ostraciidae に属する、皮膚に骨板が発達し、多数が結合して全身を装甲する硬い箱状に見える甲羅を成すハコフグ類を指すので当時の和名とのずれに注意されたいが、梅園はその辺りをしっかり認識していて、本種の個体形状よりも、当時、広範に「ハコフグ」と呼ばれたそれらが、異種であることをちゃんと述べている点に着目されたい。

『「魚譜」巻の二の条に出だす』これは現在、「梅園魚品図正」と呼ばれているものの巻二を指す。本カテゴリでは向後、これも梅園の呼称に準じて、同図も「梅園魚譜」として引くこととし、当該の「箱フグ」を近日公開する。
 
『「針フグ」も前条に出』これは本篇の本「梅園魚譜」の前の方に出る。これも近日公開する。
 
「河豚と同名、異なり」「河豚と同名なるも、異なり」の意。

「其の身皮及」「其の身及び皮」の錯字か。]

 

2015/06/03

甲子夜話卷之一 39 松平乘邑日光供奉のとき威望の事

39 松平乘邑日光供奉のとき威望の事

松平左近將監は威望ある人なりしとぞ。德廟日光山御參に、老職にて從奉りしとき、何れの御休宿か、御供揃かねて御立なりがたかりしとき、いかゞして供は揃はざるやと、乘邑へ尋させ玉へば、某見廻りて申上べしとて、即馬に騎て御陣處を乘廻りて立戻り、はや御供揃ぬ、打立せ玉ふべしと申ければ、そのまゝ御發輿ありしに、御供一齊にそろひて有しとぞ。人の畏服することかくの如くなりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「松平乘邑」老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩主・志摩鳥羽藩主・伊勢亀山藩主・山城淀藩主・下総佐倉藩初代藩主。ウィキの「松平乗邑」によれば、元禄三(一六九〇)年、『藩主であった父乗春の死により家督を相続』正徳元(一七一一)年には『近江守山において朝鮮通信使の接待を行って』おり、早くも満三十七歳の享保八(一七二三)年には『老中となり、下総佐倉に転封とな』った。これ以後、足掛け二十年余りに亙って『徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。『水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリード』、元文二(一七三七)年には勝手掛老中となっている。『当時は吉宗が御側御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。『大岡日記』によると』元文三(一七三八)年、『大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を』三年に『渡って実施する件に』就き、七月末日に『御用御側取次の加納久通より許可が出たため、大岡が』八月十日に『勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている』。『主要な譜代大名家の酒井忠恭が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外』され、また乗邑は『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の家重が後継となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年の家重の第九代将軍就任直後に老中は解任、加増一万石を没収された上、『隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられ』ている。享年六十一。ともかくも徳川綱吉・家宣・家継・吉宗・家重と五代に亙る将軍に仕えた長老であった。
 
「御
發輿」「おんはつよ」と読んでおく。

譚海 卷之一 下總國松戶にて鯉人の夢に見える事

 

 下總國松戶にて鯉人の夢に見える事

○安永元年の冬、下總國松戶にて川をせき水をほし、鯉鮒のたぐひを捕得(とりえ)て市にひさぐに、六尺餘りの鯉をえたり。是を貯(たくはふ)る物なければ、酒屋の酒を造る桶に入(いれ)たるに、所の寺の住持おほくの錢に代(かへ)てもらひ受(うけ)、もとの淵にはなちたり。已來(いらい)此鯉取得(とりう)るものありとも、構(かまへ)て殺すまじきよしを戒め約しけりとぞ。同五年にも刀禰川(とねがは)にて捕(とり)たる鯉七尺餘有(あり)けるを、ある人の夢にみえけるまゝ、千住にて金三百疋に買取、しのばずの池にはなちたりとぞいひ侍る。

[やぶちゃん注:「安永元年」一七七二年。

「松戶」現在の千葉県北西部に位置する松戸市。ウィキの「松戸市」によれば、『市内の河川は西に向かい東京湾へつづく江戸川水系と、東に向かい太平洋へ注ぎ込む東の手賀沼・利根川水系に分かれている。なお、市内を流れる坂川は、北千葉導水路の一部として江戸川に流れている』とある。

「川をせき水をほし」瀬干(せぼし)漁と呼ばれる川漁。川の中で瀬が二つ或いはそれ以上に分かれている箇所の一方を堰止めにして水を抜いて瀬を干し上げ、中に残った魚を採捕する漁法である。

「六尺」一・八メートル。

「七尺」二・一メートル。

「三百疋」銭百疋が一貫文で、一貫文は一両だから、三両。安く見積もって現行の十五万円ほど。]

わが好きは妹が丸髷くぢら汁不動の呪文しら梅の花   與謝野鐡幹

 
 
わが好きは妹が丸髷くぢら汁不動の呪文しら梅の花   與謝野鐡幹
 
 
(明治三四(一九〇一)年四月刊「むらさき」より)
 
 
 鉄幹はこの年の八月十五日に鳳晶子の「みだれ髪」を編集して刊行(東京新詩社及び伊藤文友館共版)、二人は十月一日に結婚しているが、ここに出る「妹」は、刊行年とネット上の諸情報を総合すると、晶子ではなく、前妻の林滝野(はやしたきの)である。
 滝野は徳山女学校(のちの山口県立徳山高等学校)在籍中に、当時、同校の教師であった与謝野鉄幹と恋愛関係に陥って同棲、一子、萃(あつむ)をもうけ、後に二人して東京に出奔、鉄幹の二度目の妻となった女性である。
 鉄幹は明治二五(一八九二)年から実兄赤松照幢経営になる同校に国語教師として四年間勤務したが、その間、やはり同校の女子生徒であった浅田信子との間に問題を起こして退職している。この時、この信子との間には女の子が生まれているが、間もなく亡っている。
 則ち、信子は正式な鉄幹の最初の夫人で、この滝野が後妻、知られた晶子は三度目の妻である。 滝野は明治三三(一九〇〇)年に鉄幹とともに雑誌『明星』を創刊、初期の編集発行人の一人となったが、鉄幹が瞬く間に晶子との不倫に走ったことから、早くも翌明治三十四年に離婚、後に歌人・詩人であった正富汪洋(まさとみおうよう)の妻となった。
 因みに、晶子とは、この明治三十三年八月四日に大阪で初対面、翌々日の六日に浜寺公園内の料亭寿命館で行なわれた「関西青年文学会堺支部」による鉄幹歓迎の歌会に二人揃って出席(この場には今一人、鉄幹に想いを寄せていたかの山川登美子も参加していた)、その後の八月十五日の帰京途中で晶子を呼び出し、やはり浜寺で密会している(以上の事蹟はネット上の諸情報を勘案して時系列がなるべく明確になるように作成したものである)。
 
 この手の詩歌では唯一僕の好きな、本歌に真に遠く響き合う、鈴木しづ子の名句を掲げて、終りとしよう。……
 
 
好きなものは玻璃薔薇雨驛指春雷   鈴木しづ子
 
 

2015/06/02

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  釋迦堂谷

    ●釋迦堂谷

大御堂(おほみだう)の東隣なり。元仁元年十一月十八日。泰時亡父追福(つゐふく)の爲に此地に釋迦堂を建立ありしより此稱あり。

[やぶちゃん注:大御堂ヶ谷(次項)の東、現在の釈迦堂トンネルの西の谷。地の人は「しゃかんど」と呼称していたらしい。「吾妻鏡」によればここに記されている通り、元仁元(一二二四)年の表記の日にここに釈迦堂(宗旨未詳)の建立を計画したが、実際には翌嘉禄元年六月に新造供養が行われている。この本尊(清凉寺式釈迦像)は「新編相模国風土記稿」には現在は杉本観音堂にあるとするが、現在は東京の目黒行人坂の大円寺(天台宗。江戸三代大火の一つである明和の大火(放火)の火元として知られる)にある(重文指定)。谷の奥に「宝戒寺普川国師入定窟」と称された大きなやぐらを中心とする五十穴ほどのやぐら群があったが、保存もいい加減な上に、宅地開発によって主要部分が破壊されてしまった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 蜷川との再会と東京生物学会

 私は蜷川を訪問した。彼は私に会って、憂欝的(メランコリー)な愉快を感じたらしく見えた。彼は最後に会った時にくらべて、すこしも年取っていない。私は彼から陶器を百二十七個買ったが、その多くは非常に珍稀である。私は大学に於る生物学会に出席した。この会は、今や三十八人の会員を持っている。私は動物群の変化に就て一寸した話をした。石川氏は、甲殻類の保護色に関するある種の事実を報告した。私が設立した会が存在しているばかりでなく、正規的な月次会をやっているのを見ることは、興味深いものであった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは明治一五(一八八二)年六月十四日のことである。同書によれば、『この後モースは、七月九日までに少なくとも七回蜷川と会い、彼を通して陶器を収集している』とある。

「蜷川」モースの陶器の師匠である蜷川式胤。既注

「憂欝的(メランコリー)な愉快」“a melancholy pleasure”この場合の“melancholy”という形容は、京都の名家の出身(京都東寺の公人(くにん:社寺に仕える職員。)であった蜷川が持っている厳粛な品格に基づく謂いで、著しく抑制されていて、平然を装いながらも、平然を装いながらも、その実、モースには彼の内心の嬉しさが伝わってきたというのであろうと私は一応、解する。但し、実は蜷川は同年夏、モースの関西旅行中の八月二十一日のコレラのために逝去してしまう。もしかすると既にこの時、何らかの理由で体力・免疫力が低下しており、疲れたように見えた可能性もないではない。

「私は大学に於る生物学会に出席した」同じく磯野先生の前掲書から、これは六月十七日の東京生物学会例会であることが分かる。同書によれば、『明治十一年の秋に一二名で出発した東京大学生物学会は、この年の春に「東京生物学会」と改称され』て『モースはその名誉会員だった』とある。

「石川」モースの愛弟子で当時、東京大学理学部動物学科助教授であった石川千代松。既注。]

2015/06/01

毛利梅園「梅園魚譜」 人魚

[やぶちゃん注:本項は異例に長いキャプション(少し梅園が解説を加えているが、概ね、大槻玄沢「六物新志」の人魚のパートから抜粋)が附されてあるので、まず訓点を除いた原文を提示し(約物は正字化したが、一行字数を原典に一致させた)、その後に私の補足を加えた訓読文を示した。なお、原典では「○」は本文より上に一字分突出している(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の解説本文二頁分)。]

 

Ningyo1

 

Ningyo2

□原文

[やぶちゃん注:明らかな誤字や傍線の過不足等もそのまま再現した。]

人魚

六物新志曰舶來之者有本邦俗呼曰歇伊止武禮児者相傳言是乃

人魚骨也而貝原翁録之於大和本草松岡翁擧之於用藥須知而其

名称産地二書俱未詳説然執和蘭一二書之考未見記載者也後及閲

斯東私之書而以知其名則伊斯把你亞國之語也蓋人魚伊斯把你亞 

國呼曰百設武唵爾百設者魚也武唵爾者婦也乃婦魚之謂而即人魚之

義也〔中畧〕且加之更之徴安蒲児止私巴亞列花連的印等書及漢人之

海記我邦一二之古籍又旁聽父老之實譚而益信滔々江海之中自有

此者而乃所傳者不可以為妄也且此物竒品而已見採於藥餌則我

此擧以不可不以論及〔中畧云々〕○〔元壽曰所載于安蒲児止私巴亞列之書人魚之圖牝牡共有两足形狀似馬蹄手各五指牝其髮長而乳耳長而似角牡共相同

牡面老人如有皺面牝面二八似婦女○所載于勇斯東私 禽獸蟲魚譜人魚牝牡共似童子凡頭無長毛手

五指似亀脚臍下以下共魚也○所載于花連的印東海諸島産物志人魚圖牝已而其像似觀音像其髮

結纏手五指各水分臍下腰廻竹葉者重纏以下魚而丈長左右有鰭尾先丸環三連生〕

安蒲児止私巴亞列〔人名〕醫事集纂第八百十一號曰夫水陸之産奇怪之物其類固蕃而其親

覩而知之人往々有之其事實甚明徴既各詳記於前第四十三號今又有一種海

産呼曰迷伊児名能者〔此翻婦魚〕其者腰以上如人而恰似婦人又稀有似男子者呼曰

牡迷伊児名能其腰以下倶魚而鱗鬣鰭尾具焉若其状則詳載於不里泥烏私

〔人名〕所描出之圖象也而其形極怪異其理殆不可窮也然其二儀之始化出此異類

其種族歴世奕續而不絶者其理猶與夫玉石草木禽獣之類亦似人形者有之相同

乎是乃造化妙用必有當然之理有而存乎其中矣

阨不多埋奈邑之長一日黎明出到泥禄河之上見此物而現于水際覩之

則其頭面胸背肩膊手指全如人而類男子其鬚髪則黄殊至於其根漸爲淡

灰色耳腰以下則即魚也後三日黎明再到於同處又有物自水中出其形一

與前日所覩者相同但其面類婦人容姿温柔鬢髪長埀两乳亦具此物暫時

現出之間一邑及近村之人相聞而蟻集與臨觀衆莫不以爲竒矣

勇斯東私禽獣蟲魚譜曰安杜路卜木児畢思〔羅匐語也和蘭迷伊児名能膚路烏吸悉倶此飜婦魚〕

之圖説者先哲幾爾計侶私之所著而以伊斯把儞亞國人所獲於東海者直

寫其眞即記其事者也其説曰伊斯把儞亞國人海行至於東海吸沙伊索嶋

之屬嶋必屈登嶋獲一奇物其形頗似於人故曰百武唵爾此飜謂膚路

烏吸悉〔譯伊斯把你亞語於其方語也〕土人呼曰受伊翁此其方言也〔下畧〕

花連的印東海諸島産物志安具那島部曰和蘭開國一千七百十有二年捕

獲熱伊物以弗〔此飜海女〕於東海武魯嶋〔亞細亞洲小島名東方與爪哇安具那等島隣〕海輙構※1籞養之

[やぶちゃん字注:「※1」=「籞」-「示」。]

於潮汐所通之池沼然與之言莫對且絶不發其聲音與之食不甞又人未

知其嗜好欲百計狎※2之終不能得其情四晝夜三時半而竟斃云其物長

[やぶちゃん字注:「※2」=「月」+「匿」。]

五十九拇指横徑又禮印狼度〔國名〕之度度之凡五脚因聞其得之之所

由則安具那島主之臣沙米烏児花児烏爾者獲之於武魯嶋之海其生也

寫其眞其死也貯之於藥汁内其形日歴曰稍短縮焉已而獻之於其主般垤

児私的爾 般垤児私的爾一覧而還之盖此物往々有之而不敢珍竒故也

○史記秦本記曰以人魚膏爲燭

○異物志曰人魚似人形長尺餘

○洽聞記曰海人魚東海有之大者長五六尺状如人眉目口鼻手爪頭皆爲美

麗女子無不具足皮肉白如玉鱗無有細毛五色軟輕長一二寸髮如馬毛長五

六尺陰形與丈夫女子無異臨海鰥寡多取得養之於池沼交合之際與人無異

亦不傷人

○徂異記曰査道奉使高麗海沙中一婦人肘後有紅鬣問之曰人魚也〔本草綱目引用※3魚條下〕

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○正字通曰※4魚即海中人魚也

[やぶちゃん字注:「※4」=「魚」+「役」。]

○郭璞有人魚贊人魚如人作※5猶牛魚如牛作※6

[やぶちゃん字注:「※5」=「魚」+「人」。「※6」=「魚」+「牛」。]

《改頁》

續日本記三十四代

○推古天皇二十七年夏四月巳亥朔壬寅近江國言於蒲生河有物其

形如人秋七月攝津國有漁父有沉罟於堀有物入罟其形如児非魚不

知所名

○和名抄曰人魚

○兼名苑曰人魚一名鯪魚魚身人面者也

○我邦俗自古相傳言人魚肉有延年功也昔者若狹國漁父獲人魚深

祕之其女陰知之竊食之其壽八百歳世称八百比丘尼者是也此世

俗之鄙語雖不足擧然有關係於此物故附記焉

○近歳秋田藩之臣小田野子有者就其國人親覩人魚者而聽其形狀

輙作以贈之於江都之平賀鳩溪圖且添其所由曰其封内牡鹿郡有

河其中有物天將陰雨則必出没水中其形如婦人年記可二八両眉

相連接其腰以下則魚也漁人相戒以若捕之則有災祟故其物免罟

之害而今仍在焉

○森子信〔名春信号梅丘〕甞遊松前至津軽之下邑淺蟲而其舘主嘉右エ

門語其親覩人魚事曰寶暦中八月上旬嘉乘小舩釣魚於野内海

操舩者一人從焉時方日晡將進舩徒嘉回首而望適見牡人魚之

被髪現于水面其顔色瑩白與返照相映皚々有光暉肌膚亦白而

少有如甲錯之意髪赤而帶黯色兩乳両手倶與人不異但似腰帶

帶簑者而以下則不見不可得而知〔中畧〕盖其地素相傳。其海有此物

也〔云々〕

○凡人魚女形者多而男形者少故西洋之諸書に所謂百設武唵児 膚路烏吸

伊迷児名能 熱伊物伊弗之諸名皆此飜之則婦魚或海女義也而此物

已有婦女海女之名則其牡亦宜謂夫魚海男然其男形者徒謂之迷伊児

名能之牡而婦魚之名獨專擅其称者何也將因其所初覩者女形而然乎

抑以其素多女形而致此乎盖漢人之所記 本邦之所傳亦並多女形則

其男形少者可以徴也於是西洋諸書多呼曰婦魚者亦可以知已然呼曰

人魚之義亦非絶無之也而漢人及本邦則自古唯有人魚之名而不言男

女之異耳此以其始名之之意想或異或同故也

歇伊止武禮児之鑒法本邦之先哲有略有其説雖未得其詳焉是此物無一得覩

其意〔意眞也〕又何由辨其贋哉世所謂歇伊止武礼児者是海鷂魚一種本

邦呼曰鳥海鷂魚者軟骨以為此物充之者耳

[やぶちゃん注:原本では以下の記載は冒頭の○が突出して他は全体が概ね二字下げとなっている。以下に見るようにこの条には読点が打たれてある。]

○淸屈大均廣東新語曰大風雨時有海怪、被髪紅面、乘魚往々、乘者亦魚

也謂之人魚、人魚雄者為海和尚、雌者為海女能為舶祟火長有祝云、毋逢海

女、毋見人魚、人魚之種族、有盧亭者、新安大魚山與南亭竹没老萬山、多有

之其長如人、有牝牡毛髪焦黄而短、眼晴亦黄、靣※黒、尾長寸許、見人則驚

[やぶちゃん字注:「※7」=「犂」-「牛」+「黒」。]

怖入水、往々隨波飄至人以為怪、競逐之有得其牝者、與之婬能言語惟笑

而已、久能著人者、人魚長六七尺、體髪牝牡亦人、惟背有短鬣微紅、知其

為魚、間出沙汭、能媚人、舶行遇者必作法※8厭、海和尚、多人首鱉身足差長

[やぶちゃん字注:「※8」=「衤」+「襄」。]

無甲

《改頁》

[やぶちゃん注:ここに以下の、全身体を一つで見得る折り込み開放式の最初の人魚(向かって左に上方を向いた頭の人魚)図が配されてある(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の開かれた絵図部分をトリミングしたもの。観察の便を考えて横臥像ではなく、直立像で示した)。]

Ningyo4_2

 

[やぶちゃん注:以下はその頭部の次頁にある梅園のオリジナル・キャプション(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像。体裁が分かるように前頁の人魚の頭部の画像もそのままに示した)。これは漢文の引用部を除いて、概ね、表記は漢字カナ混じり文である。] 

 

Ningyo3_2


 
人魚顔ハ男靣ニシテ似兒如笑。目ハ圓シテ出目也徴シ猿ニ似タリ

眉毛長シテ赫色耳ハ猿ノ如シ牙齒ハスルドクシテ則魚牙也又猫ニ

似タリ爪ハ水晶ノ如ク白ク透通ル矢ノ根石ノ如シ口中舌ヒコ胭ノ

穴迠見ユル頭上ヨリ肩脊胸マテ長毛アリ檎櫚ノ毛ノ如シ鳩尾

迠ハ人體ニシテ下則魚ナリ脊ヨリ尾マデハ脊スジツヽキケリ腕ニ微シ

鱗アリ脊ヨリ脊スシ皆細鱗アリ恰モ鹽引ノ鱒ニ類ス手指

手ノヒラ老人ノ如ク鼻ハ上ヲ向ケリ重唇ニシテ其口如笑人脇骨

ノ出タル所瘦タル老人ニ属ス干乾ノヨウス數百年ヲ歴シトモ見ヱス

其重キコト赤子程アリ腹下ニ陰門陽門屎穴ナシ

   塩邉大工町辻川氏所藏スルヲ小石川白山下指舎町

   赤塚伊勢屋ヨリ熟醫神谷玄雄借來リシヲ予ニ

   眞寫セヨトアトウ于時天保八〔丁酉〕年九月廿日頓寫

   一覧ノ上相返ス

○本草綱目※3魚集解引徐鉉稽神録云謝仲玉者見婦人

出沒水中腰以下皆魚乃人魚也徂異記云査道奉使高麗

見海沙中一婦人肘後有紅鬣問之曰人魚也

○※3鯢モ又人魚ト云乃名同物異里俗ニ山椒魚ト云

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○日本記二十二巻推古帝二十七年摂津國有漁父沈罟堀江有物入罟

其形如兒非魚非人不知所名今案此人魚ノ屬ナルベシ本邦処〻稀ニ有之〔云〻〕

《改頁》

[やぶちゃん注:ここに正面をこちらに向けた前掲の人魚の正面下肢(魚体部分)が、次の頁で胸部から上の猿様(よう)の胸像が描かれてある。これは連続した一枚の前図と同一個体の正面全図であるが、これは国会図書館版では見開きならない構造であるらしく、連続した前のようには全体画像が示されていない。そこで当該国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像二枚をトリミングして合成した図を以下に示す(私はPC附属のフォト加工ソフト以外持っていないので接合の不首尾はお許しあれ)。観察の便を考えて横臥像ではなく、直立像で示した。] 

 

Ningyo6

[やぶちゃん注:以下は、その正面を向いた頭部の次頁にある梅園の描いた人魚の詳細実測ータ(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の同データ本文と前頁の人魚正面図)。] 

 

Ningyo5


※3魚〔比土宇於〕 人魚〔弘景〕 孩兒魚

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

   人魚體寸法

頭ノ丸サ九寸  額廣サ方壹寸ヨ

目ノ大サ三分  瞳大サ二分

眶髙 サ一寸  睫 不見エ

鼻ノ大サ六分  面方三寸

耳ノ大サ一寸  面ノ長サ四寸

口ノ大サ一寸  唇二重方一分

舌寸難指    齒上六齒下九齒

手ノ甲頭指迠長サ二寸二分 眉毛一寸二分

拇指ノ太サ六分長五分 頭指ノ長サ八分

中指長サ八分ヨ 無名指長サ八分

小指長サ五分ヨ 腕ヨリ手首迠四寸二分

肩ヨリ臂迄長サ三寸二分

乳首ヨリ乳袋方五分

乳ヨリ乳ノ間八分ヨ 脊筋首下ヨリ三寸

肋三寸     脇骨三寸

背三寸三分   鳩尾ヨリ下則魚體

尾筒鰭二共三寸 脊鰭横方四寸三分ヨ

惣身ノ丈尾筒迠二尺壹寸ヨ 

 

□やぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:送り仮名の一部を補填、読みも振れると私が判断したものに対して独自に歴史的仮名遣で加えた(一部、「二八(じふろく)」のように(掛け算で十六である)注を省するため、敢えて意味上の訓読を示した箇所がある)。但し、原文にある読みはカタカナで示した(但し、「羅甸(ラテン)」「和蘭(オランダ)」は私の附したもの)。「みづカキ」などは「みづ」が私の、「カキ」が原典のルビであることを示す。原典の「形」(かたち)に送られた「チ」や「所(ところ)」の「ロ」、「亦」の「タ」などは無視した。読み易くするために句読点・括弧・中黒等の記号も加え、適宜改行を施した。なお、傍線位置の過不足・欠損は原典と校合したりして、読み易く訂正しておいた。また、大半を占める大槻玄沢の「六物新志」の引用パート(厳密に『 』を附して示した。但し、その途中でも梅園は省略を加えている)で判読困難な部分や疑義のある箇所は原典を参考にしたが、大きな誤読のある箇所については注で原典を提示して対応し、一部は書き下し文自体で既に訂正した。但し、文意に大きな変改が認められない箇所は無視し、多くの省略箇所についてはその内容を提示しなかった。御不満の向きのために申し上げておくが、近い将来、私はこの「六物新志」の「人魚」パートを翻刻する予定でいるので、それまでお待ち戴ければ幸いである。「六物新志」原典は同書の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。最後の人魚採寸データの箇所には〈 〉でメートル法に換算したものを附した。]

人魚

「六物新志」に曰く、『舶來の者に、本邦俗呼を「歇伊止武禮児(ヘイシムレル)」と曰ふ者有り。相ひ傳ヘ言ふを、是れ乃ち、人魚の骨なりと。而して貝原翁は之を「大和本草」に録し、松岡翁は之を「用藥須知(ようやくしゆち)」に擧げて、而して其の名称産地は二書倶に未だ詳かに説かず。然れども和蘭の一、二の書を執りて之を考ふるに、未だ記載する者を見ざるなり。後、「勇斯東私(ヨンストンス)」の書を閲するに及んで、而して以つて其の名は則ち、伊斯把你亞(イスパニヤ)國の語なりと知る。盖(けだ)し人魚は、伊斯把你亞國、呼んで、「百設武唵爾(ペセブヱル)」と曰ふ。「百設(ペセ)」は「魚」なり。「武唵爾(ブヱル)」は「婦」なり。乃ち、「婦魚」の謂ひにして、而して即ち「人魚」の義なり。〔中畧〕且つ之れを加ふるに、更に、之を安蒲児止私巴亞列(アンブルシスバアレ)・花連的印(ハレンテイン)等の書及び漢人の海記、我が邦、一、二の古籍に徴し、又、旁ら父老の實譚を聽くに、益々(ますます)滔滔(たうたう)たる江海の中、自ら此の物有りて、乃ち、傳ふる所の者の、以つて妄(まう)と為すべからざることを信ず。且つ、此の竒品にして已に藥餌に採るを見れば、則ち、我が此の擧、以つて論じ及ばざらんにはあるべからず。』と〔中畧云々。〕。

〔元壽曰く、安蒲児止私巴亞列の書に載する所の人魚の圖、牝牡(メヲ)共に两足有り。形狀、馬蹄に似れり。手、各々五指。牝、其の髮長くして乳せり。耳、長くして角に似、牡も共に相ひ同じ。牡、面(おもて)、老人のごとく、皺面(しはづら)有り。牝、面、二八(じふろく)の婦女に似る。勇斯東私「禽獸蟲魚譜」に載る所の人魚は、牝牡(めを)、共に童子に似て、凡そ、頭、長毛無し。手五指、亀の脚に似たり。臍下(へそした)以下、共に魚なり。花連的印「東海諸島産物志」に載る所の人魚の圖、牝のみにして其の像(カタチ)、觀音像に似て、其の髮。結び纏(まと)へて、手の五指、各々水分(みづカキ)あり。臍下、腰の廻り、竹の葉のごとき者、重ね纏へり。以下、魚にて、丈(たけ)、長く、左右、鰭、有り。鰭尾の先、丸き環、三連、生ず。〕

○『安蒲児止私巴亞列〔人名。〕「醫事集纂」第八百十一號に曰く、夫(そ)の水陸の産、奇怪の物、其の類、固(まこと)に蕃(しげ)くして。其の親しく覩(み)て之れを知るの人、往々、之れ有り。其の事實、甚だ明徴、既に各々詳らかに前の第四十三號に記す。今、又、一種の海産、呼びて迷伊児名能(メイルミンネン)と曰ふ者有り〔此れに「婦魚」と飜(やく)す〕。其の物、腰以上、人のごとくにして、恰かも婦人に似たり。又、稀に男子に似たる者有り。呼びて牡(ヲ)迷伊児名能と曰ふ。其の腰以下、倶に魚にして鱗・鬣(たてがみ)・鰭・尾、焉(ここ)に具はる。其の状のごときは、則ち、詳らかに不里泥烏私(プリニウス)〔人名。〕、描出する所の圖象に載すなり。而して其の形、極めて怪異、其の理、殆んど窮むべからずとなり。然れども、其の二儀の始め、此の異類を化出(くわしゆつ)し、其の種族、歴世奕續(えきぞく)して而して絶えざる者、其の理、猶ほ夫(そ)の玉石・草木・禽獣の類にも亦、人形(ひとがた)に似たる者、之れ有ると、相ひ同じきか。是れ乃ち、造化の妙用、必ず當(まさ)に然るべきの理(ことわり)有りて而して其の中に存するならんか。

阨入多(ヱヂプテ)國埋奈(マナ)邑長(むらをさ)、一日、黎明に出でゝ泥禄(ニイル)河の上(ほと)りに到る。此の物を見る。而して水際に現ずるを、之れを覩れば、則ち、其の頭・面(つら)・胸・背・肩・膊(かいな)・手・指、全く人のごとくして、男子に類す。其の鬚・髪は則ち、黄、殊に其の根に至りて漸く淡灰色と爲るのみ。腰以下は則(そく)即ち、魚なり。後、三日、黎明、再び同處に到る。又、物、有り、水中より出づ。其の形、一(い)つに前日覩る所の者と相ひ同じ。但だ、其の面(おもて)、婦人に類す。容姿温柔、鬢髪、長く埀(た)る。两乳、亦た、具はる。此の物、暫時、現出の間、一邑(いちいう)及び近村の人、相ひ聞きて蟻集(ぎしふ)して與(とも)に臨觀し、衆、以つて奇と爲さざること莫し。』と。

〇『勇斯東私(ヨンストンス)「禽獣蟲魚譜」に曰く、安杜路卜木児畢思(アントロホモルピシス)〔羅甸(ラテン)語なり。和蘭(オランダ)、迷伊児名能或いは膚魯烏吸悉(フロウヒス)と飜す。倶に此れに「婦魚」と翻す。〕の圖説は、先哲幾爾計侶私(キルケリユス)の著す所にして伊斯把儞亞(イスパニア)國の人、海行し、東海は吸沙伊索嶋(ヒサイサじま)の屬嶋必屈登嶋(ピクテンじま)に至る。一奇の物を獲たり。其の形、頗る人に似たるを以つての故に、名づけて百設唵武爾(ペセムヱール)と曰ふ。此れに飜して膚魯烏吸(ヒ)悉と謂ふ〔伊斯把你亞語を其の方言に飜するにや。〕。土人、呼びて受伊翁(ジユイヲン)と曰ふ。此れ、其の方の言(いひ)なり〔下畧。〕』と。

○『花連的印「東海諸島産物志」安具那(アンボイナ)島の部に曰く、和蘭(オランダ)開国一千七百十有二年、熱伊物以弗(ゼイウエイフ)〔此れに「海女」に飜す。〕を東海武魯(ブーロ)島の海に捕へ獲たり〔亞細亞(アジア)州小島の名。東の方、爪哇(イヤフ)・安具那等の島と隣りす。〕。輙(すなは)ち※1(いけす)を構へて、之を潮汐通ずる所の池沼に養ふ[やぶちゃん字注:「※1」=「籞」-「示」。]。然れども、之と言ふに對(こた)ふること莫(な)く、且つ、絶へて其の聲音を發せず。之に食を與ふるに甞(な)めず。又、人、未だ其の嗜好を知らず。百計を以つて之を狎(な)れ※2まんと欲すれども、終に其の情を得ること能はず[やぶちゃん字注:「※2」=「月」+「匿」。]。四昼夜三時(どき)半にして竟に斃(たふ)ると云ふ。其の物、長(た)け五十九拇指横徑。又、禮印狼度(レインランド)〔國の名。〕の度(はかり)を以つて之を度(はか)るに、凡そ五脚。因りて其の之を得るの所を由る所を聞くに、則ち、安具那島主の臣(しん)沙米烏児花児烏爾(サミウルハルウル)なる者、之を武魯島の海に獲(え)たり。其の生けるや、其の眞を寫し、其れ、死するや、之れを薬汁の内に貯ふ。其の形、日を歴(へ)て、稍(やや)短縮す。已にして之を其の主般垤児私的爾(ハンデルステル)に獻ず。般垤児私的爾、一覧して之を還(かへ)す。盖し此の物、往々、之れ有りて、敢へて珍奇とせざるが故なり。』と。

○『「史記」秦の本記に曰く、人魚膏を以つて燭と爲(な)す。』と。

○『「異物志」に曰く、人魚、人の形に似たり。長け尺餘。』と。

○『「洽聞記(かうぶんき)」に曰く、海人魚、東海、之れ有り。大なる者、長け五、六尺、状(かたち)人のごとし。眉・目・口・鼻・手・爪・頭、皆、美麗女子たり。具足せざること、無し。皮肉、白にして玉のごとく、鱗無く、細毛有り、五色、軟軽。長さ一、二寸。髪、馬尾のごとく、長け五、六尺。陰形(いんぎやう)、丈夫女子と異なること無し。臨海の鰥寡(くわんくわ)、多く取り得て、之を池沼に養ふ。交合するの際、人と異なること無し。亦、人を傷つけず。』と。

○『「徂異記」に曰く、査道、使(つかひ)を高麗に奉じ、海沙中、一婦人、肘後、紅鬣(これれふ)有るを見る。之れを問へば、曰く、人魚なり、となり〔「本草綱目」「※3魚(ていぎよ)」の條下に引用す。〕』と。

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○『正字通に曰く、按ずるに「※4魚」、即ち、海中の人魚なり。』と。

[やぶちゃん字注:「※4」=「魚」+「役」。]

○『郭璞、人魚の贊、有り。人魚、人を加へ、「※5」に作る。猶ほ、牛魚、牛を加へ、「※6」に作るなり〔云々〕。』と。

[やぶちゃん字注:「※5」=「魚」+「人」。「※6」=「魚」+「牛」。]

『續日本紀曰く、三十四代』、

○『推古天皇二十七年夏四月己亥(つちのとゐ)朔(ついたち)壬寅(みづねえとら)、近江國より言ふ、蒲生(がまふ)河に於いて、物、有り。其の形、人のごとし。秋七月、攝津國に漁父有り。罟(あみ)を堀に沉(しづ)め、物、有り、罟に入る。其の形、児のごとし。魚に非ず、名づくる所を知らず。』と。

○『「和名抄」に曰く、「人魚」と。』と。

○『「兼名苑」に曰く、人魚、一名「鯪魚」。魚身人面なる者なり。』と。

○『我が邦の俗、古へより相ひ傳へて言ふ、人魚の肉、延年の功有るなり、と。昔、若狹國の漁父、人魚を獲り、深く之れを祕す。其の女(むすめ)、陰(ひそ)かに之れを知りて竊(ひそ)かに之れを食らふ。其の壽、八百歳、世に称する八百比丘尼なる者、是れなり。此れ、世俗の鄙語(ひご)、擧ぐるに足らずと雖ども、然れども此の物に關係すること有り。故に附記す。』と。

○『近歳(ちかごろ)、秋田藩の臣(しん)小田野(おだの)子(し)有(な)る者、其の國人、親しく人魚を覩る者に就きて、其の形狀を聽き、輙(すなは)ち以つて之を江都(かうと)の平賀鳩溪(ひらがきうけい)に圖を贈る。且つ、添ふるに、其の由る所を以つてして曰く、其の封内(ふうない)、牡鹿(をが)郡に河有り、其の中、物、有り。天、將に陰雨せんとする時は、則ち、必ず水中に出没す。其の形、婦人のごとし。年紀二八(じふろく)可(ばか)り、両眉相ひ連接す。其の腰以下は、則ち、魚なり。漁人、相ひ戒むるに、若し、之を捕ふる時は則ち災祟(さいすい)有るを以つてす。故に、其の物、罟(あみ)の害を免れて、今、仍(すなは)ち在り。』と。

○『森子信〔名は春信、號は梅丘。〕、甞つて松前に遊ぶ。津軽の下邑(かいう)淺蟲(あさむし)に至りて、其の舘主嘉右エ門、其の、親しく人魚を覩るを語るを聞く。曰く、寶暦中八月上旬、嘉、小舩(こぶね)に乘じて魚を野内(のない)の海に釣る。舩を操つる者一人從ふ。時、方(まさ)に日晡(じつほ)、將に舩を進めて徒(うつ)らんとす。嘉、首(かうべ)を回らして望むに適々(たまたま)牝人魚(めにんぎよ)の髪を被れるが、水面に現はるるを見る。其の顔色、瑩白(えいはく)、返照(へんしやう)と相ひ映(は)し、皚々(がいがい)として光暉(こうき)有り。肌膚(きふ)も亦、白くして少しく甲錯(かふさく)のごとき意有り。髪赤くして黯色(あんしよく)を帶ぶ。兩乳・両手、倶に人と異らず。但だ、腰に簑(みの)のごとき者を帶ぶるに似たり。而して以下は、則ち、見へず。得て知るべからず〔中畧〕。蓋し、其の地、素(もと)より相ひ傳ふ、其の海、此の物有りと。』と。

○『凡そ、人魚、女形なる者多く、男形なる者、少なし。故に西洋の諸書に謂ふ所の、百設武唵児(ペセムヱール)膚路烏吸悉(フロウヒス)・迷伊児名能(メイルミンネン)熱伊物以弗(ゼイウヱイフ)の諸名、皆、此れに之れを飜する時は、則ち、「婦魚」或いは「海女」の義なり。而して此の物、已に「婦魚」「海女」の名有る時は、則ち、其の牡も亦、宜しく「夫魚」「海男」と謂ふべし。然れども其の男形なる者、徒らに之を迷伊児名能の牡と謂ひて、而して「婦魚」の名獨り、専ら、其の称を擅(ほしいまま)にするは何んぞや。将(ま)た其の初めて覩る所の者の女形なるに因りて、而して然るか。抑々(そもそも)其の素より女形多くして、而(し)か致すを以つてするか。盖し、漢人の記す所、本邦の傳ふる所、亦、並びに女形多くして、則ち、其の男形は少なる者、以つて徴すべし。是(ここ)に於いて、西洋の諸書、多く、呼んで「婦魚」と曰ふは亦、以つて知るべきのみ。然れども、呼びて人魚と曰ふの義も亦、絶えて之れなきにあらず。而して漢人及び本邦は、則ち、古へより唯だ、「人魚」の名有りて、男女の異を言はざるのみ。此れ、其の始めて之を名づくるの意想或いは異に、或は同きを以つてするが故なり。

歇伊止武禮児の鑒法(かんはう)、本邦の先哲、略(ほぼ)其の説有ると雖ども、未だ其の詳らかなることを得ず。是れ、此の物、一(ひと)りも其の意(シン)を覩ることを得る者の無し〔「意」は「眞」なり。〕。又、何に由つてか其の贋(がん)を辨(べん)ぜんや。世の謂ふ所の、歇伊止武礼児なる者は、是れ、「海鷂魚」の一種、本邦、呼びて、「鳥海鷂魚」と曰ふ者の軟骨、以つて、此の物と爲して、之に充(あ)つる者のみ。』と。

○『淸の屈大均「廣東新語」に曰く、大風雨の時、海怪、有り。被髪紅面、魚に乘りて往來す。魚に乘る者は亦、魚なり。之を人魚と謂ふ。人魚、雄なる者を海和尚と為(し)、雌なる者を海女と為(す)。能く舶祟(はくすい)を為(な)す。火長、祝ひ有りて云ふに、「海女に逢ふ毋(な)かれ」「人魚を見ること毋かれ」と。人魚の種族、盧亭なる者、有り。新安大魚山と南亭竹没老萬山とに、多く之れ有り。其の長け、人のごとし。牝牡、有り。毛髪、焦黄(しやうわう)にして短く、眼晴(がんせい)、亦、黄。靣(めん)、※黒(きぐろ)、尾、長さ寸許(ばか)り[やぶちゃん字注:「※7」=「犂」-「牛」+「黒」。]。人を見れば則ち驚怖し、水に入る。往々波に隨ひて飄(ただよ)ひ至れり。人、以て怪と為し、競ひて之を逐ふ。其の牝を得たる者ありて、之と婬す。能く言語すとも、惟だ、笑ふのみとも。久(きう)は之れ、能く衣を著(き)る。人魚、長け六、七尺、體髪、牝牡、亦、人。惟だ、背に短鬣(たんれう)の微紅なる有りて、其の魚たるを知る。間々(まま)、沙汭(さぜい)を出でて、能く人に媚(こ)ぶ。舶行して遇ふ者、必ず法を作(な)し、※8厭(じやうえん)す。海和尚、多くは人首鱉身(べつしん)、足、差(やや)長く、甲、無し。』と。

[やぶちゃん字注:「※8」=「衤」+「襄」。] 

 

人魚 顔は男靣(をとこづら)にして兒に似、笑ふがごとし。目は圓(まど)かにして、出目なり。徴(しる)し、猿に似たり。眉毛、長くして赫色、耳は猿のごとし。牙齒は、するどくして、則ち魚牙なり。又、猫に似たり。爪は水晶のごとく白く、透き通る。矢の根石のごとし。口中、舌・ひこ胭(のど)の穴迠(まで)見ゆる。頭上より肩・脊・胸まで長毛あり。檎櫚の毛のごとし。鳩尾(みぞおち)迠は人體にして、下、則ち、魚なり。脊より尾までは、脊すじつゞきけり。腕に微(しる)し鱗(うろこ)あり。脊より脊すじ、皆、細鱗あり。恰かも鹽引の鱒に類す。手・指・手のひら、老人のごとく、鼻は上を向けり。重唇にして其の口、笑へる人のごとし。脇骨の出でたる所、瘦せたる老人に属す。干乾のようす、數百年を歴(へ)しとも見ゑず。其の重きこと、赤子程あり。腹下に陰門・陽門・屎穴(しけつ)なし。

   塩邉大工町、辻川氏所藏するを、小石川白山下指谷町
   赤塚伊勢屋より熟醫神谷玄雄、借り來りしを、予に
   眞寫せよとあとう。時に天保八〔丁酉(ひのえとり)。〕年九月廿日頓(とみ)に寫
   し、一覧の上、相ひ返す。

○「本草綱目」、「※3魚」の「集解」に徐鉉が「稽神録」引き、云く、謝仲玉者と云ふ者、婦人、水中に出沒を見る。腰より以下、皆、魚。乃ち人魚なり。「徂異記」に云ふ、査道、使を高麗に奉ず。海沙の中、一婦人、肘後(ちうご)、紅鬣(こうれい)有り。之を問へば、曰く、人魚なり、と。

○「※3鯢(ていげい)」も又、「人魚」と云ふ。乃ち、名同物異。里俗に「山椒魚」と云ふ。

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○「日本紀」二十二巻推古帝二十七年、摂津國に漁父有り、堀江に沈罟(しづめアミ)して、物、有り、罟(あみ)に入る。其の形、兒のごとく、魚に非ず、人に非ず、知らず、名づくる所。今、案ずるに、此の人魚の屬なるべし。本邦、処々、稀に之れ有り〔云々。〕。

※3魚〔比土宇於(ひとうを)。〕 人魚〔弘景。〕 孩兒魚(がいじぎよ)

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。] 

 

   人魚體寸法

頭の丸さ        九寸    〈二十七センチメートル〉

額(ヒタヒ)廣さ    方壹寸よ  〈三センチメートル四方程〉

目の大いさ       三分    〈九ミリメートル〉

瞳(ヒトミ)大いさ   二分    〈六ミリメートル〉

眶(マブタ)髙さ    一寸    〈三センチメートル〉

睫(マツ毛)      見えず

鼻の大いさ       六分    〈一・八センチメートル〉

面(をもて)      方三寸   〈約三センチメートル四方〉

耳の大いさ       一寸    〈三センチメートル〉

面の長さ        四寸    〈十二センチメートル〉

口の大いさ       一寸    〈三センチメートル〉

唇二重         方一分   〈厚さともに三ミリメートル〉

舌           寸(すん)難指(さしがたし)

齒           上・六齒 下・九齒

手の甲・頭指(ヒトサシユビ)迠(まで)長さ

            二寸二分  〈六・六センチメートル〉

眉毛          一寸二分  〈三・六センチメートル〉

拇指(ヲヤユビ)の太さ 六分    〈一・八センチメートル〉

長さ          五分    〈一・五センチメートル〉

頭指の長さ       八分    〈二・四センチメートル〉

中指長さ        八分よ   〈二・四センチメートル程〉

無名指長さ       八分    〈二・四センチメートル〉

小指長さ        五分よ   〈一・五センチメートル程〉

腕より手首迠      四寸二分  〈十二・七センチメートル〉

肩より臂迄長さ     三寸二分  〈九・七センチメートル〉

乳首より乳袋      方五分   〈一・五センチメートル四方〉

乳より乳の間      八分よ   〈二・四センチメートル程〉

脊筋 首下より     三寸    〈九センチメートル〉

肋           三寸    〈九センチメートル〉

脇骨          三寸    〈九センチメートル〉

背           三寸三分  〈約十センチメートル〉

鳩尾より下 則ち魚體

尾筒鰭二共(ふたつとも)三寸    〈九センチメートル〉

脊鰭横         方四寸三分よ〈十三センチメートル程〉

惣身の丈 尾筒迠    二尺壹寸よ 〈六十三・六センチメートル程〉 

 

□やぶちゃん注

 以下、語注を試みるが、毛利梅園が引く大槻玄沢「六物新志」の人魚の項については、優れた博物学サイトのイチオシ、人魚について恐るべき探究心を以って考証したネット上の人魚学殿堂とも言うべき「東京人形倶楽部 あかさたな漫筆というサイトの中に、藤倉玄晴氏の手に成る「人魚たちつてと 増補と棚から一つかみ、その5-六物新志の人魚記述」で書き下しと現代語訳と語注(割注形式)と解説が附されてある。訓読は梅園による転写であることから、意識的にこちらのデータは見ないようにして専ら「六物新志」の原典と対比することを心掛けたが、この語注ではこちらの藤倉氏の記載を大いに参考にさせて戴いたので、ここに謝意を表したい。参考にした注には逐一その旨を明記した。なお、梅園の「六物新志」の引用は、冒頭にある玄沢の「茂質、按ずるに」が省略されており(「茂質」は「しげかた」と読み、玄沢の本名)以下、梅園の引用は「省略」と注を入れずに省略している箇所がかなりある。但し、これは人魚の彼自身の一種のメモランダである限り、特に批判すべき引き方ではないと私は思う。梅園の態度は少なくとも人魚を眉唾物とは捉えておらず、この奇体な木乃伊(ミイラ)についても、最後に詳細な実測データを載せるところからも、当時の博物学者としては頗る冷静で中立的で、私には非常に好ましく感じられるのである。

・「六物新志」(「六」は「りく」とも「ろく」とも)蘭学者大槻玄沢(宝暦七(一七五七)年~文政一〇(一八二七)年:本名は茂質(しげかた)。号は磐水。一関藩(現在の岩手県一関市)出身(父は後に藩医)。二十二の時に江戸に、二十九で長崎に遊学、一関藩本藩仙台藩藩医に抜擢されて江戸詰となった。かの杉田玄白・前野良沢の弟子で、通称である「玄沢」はその両師匠のそれぞれ一字を貰ったもの。本書を始めとして日本に於ける西洋博物学の紹介や発展に大いに貢献した。蘭学入門書「蘭学階梯」はオランダ語の教科書として高い評価を受け、師の「解体新書」の改訂(「重訂解体新書」)も行っている)が天明六(一七八六)に親しい知人に頒布し、寛政七 (一七九五) 年に板行した博物書。二巻二冊。①一角(ウニコール=イッカクの角、②泊夫藍(サフラン)、③肉豆売(にくづく=肉荳蒄=ナツメグ)、④木乃伊(ミイラ)、⑤噴清里歌(エブリコ=アガリクス)、⑥人魚の六つの舶来奇品を図入りで解説したものである。

・「歇伊止武禮児(ヘイシムレル)」ポルトガル語“peixe mulher”綴りは、九州大学名誉教授ヴォルフガング・ミヒェル氏のサイト「欧亜文化交流史」の「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(II)」に拠った。その「輸入医薬品についての記述」の部分では、なんと幸運なことに例としてこの「ヘイシムレイル」が挙げられて詳述されている。まず目が留まるのは、寛永二〇(一六四三)年にオランダ船ブレスケンス号が盛岡藩領に上陸、捕縛されたブレスケンス号事件に於ける寛大な処置に対する謝意を表するため、慶安二(一六四九)年末にオランダから特使フリジウスAndries Friese/Frisiusが江戸に派遣されたが、その際、出島に滞在していたドイツ人外科医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger 一六二三年~一七〇六年)が、その江戸参府使節団に同行した(十二月三十一日から翌年の十月十五日まで江戸に滞在)。その際、将軍家光への献上品として薬箱を持参していたが、現存する「阿蘭陀外科医方秘伝」(長崎奉行馬場三郎左衛門の命により編集した写本)その薬剤のリストがあり、そこに、

   *

 一 ヘイシムレイル アバラ骨一ツ 代四十三匁 (peixe mulher

   *

とあることである。さらに、「阿蘭陀外科医方秘伝」以降のこの「ヘイシムレル」の薬方が写本別に四種比較されてある。その内二種を以下に引用する(恣意的に正字化した)。まず、「阿蘭陀外科医方秘伝」には、

   *

 ヘイシムレル

痔有人不斷身ニ添持テヨシ。粉ニシテ少シ宛酒ニ入用五體ニ有砂ヲ下シテヨシ。血止ニ第一良。下血ニモ用ヤウ同前。

   *

次に紀州の華岡塾の写本「阿蘭陀加須波留伝膏藥方」内の「阿蘭陀藥種能毒カスバル傳渡薬」の項には、

   *

 ペイシムレイル

痔有人毎ニ身ニ添持テ吉。粉ニシテ少宛酒ニ入用五體有砂ヲ下シテ良。湯ニテモ用。第一血留ニ吉。下血ニハ湯ニテ用良。

   *

とある。小野蘭山「本草綱目啓蒙」の「※3魚」(「※3」=「魚」+「帝」。)の項(後の注で全文を引く)を見ると、

   *

人魚骨。蠻名「ヘイシムレル」。蠻人、將來するもの。贋物多し。藥舗に貨するものは黄貂魚(アカヱイ)の歯及び雞子魚(トビヱイ)の齒の形狀にして斜紋なるものあり。いまだ眞なるものも見ず。「坤輿外記」に、『海馬有り、其の牙、堅白にして瑩淨、文理、細かく、糸髮のごとく、念珠等の物に爲すべし。復た、海女有り、上體、女人のごとく、下体魚形を爲す。其の骨、念珠と爲し、之を服せば、下血を止む。二者、皆、魚骨中の上品、各國、之れを貴重とす』と云へり

   *

とあって(国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の当該部画像を視認し、私が訓読した)、流石は蘭山、人魚骨の正体を喝破している。なお、後の「百設武唵爾(ペセブヱル)」の注も参照されたい。

・『貝原翁は之を「大和本草」に録し』貝原益軒の「大和本草」には附録巻二に「海女」及び「海人」の二項がある。

   *

海女 海中にまれにあり。半身以上は女人にて、半身以下は魚身なり。其の骨、下血を止むる妙藥なり。世に人魚と云ふ者、是れか。蛮語に其の名、「ヘイシムレル」と云ふ。

海人 海中に在り、其の形、全く人なり。頭髮・鬚・眉、悉く具はれり。只だ、手足の指、水鳥のごとく、相ひ連なりて水かきあり。言語すること能はず、飮食を與へれども食はず。又、一種、遍身、肉皮ありて腰間に下がり、袴を垂れたるがごとし。其の餘は皆、人なり。陸地に上あがり、數日、死せず。

   *

とある(中村学園大学・中村学園大学短期大学部図書館貝原益軒アーカイブの原文画像を視認し、読み易く書き下した)。

・『松岡翁は之を「用藥須知」に擧げて』儒者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:京都生。名は玄達、恕庵は通称。享保の改革の際、招聘されて幕府の江戸医学館に入り、本草の薬事検査を掌る和薬改会所に加わって検査法を検討、飢饉のための対策や殖産産業に寄与し、本邦本草学を発展させた。弟子に小野蘭山がいる。以上はウィキの「松岡恕庵」に拠った)が唯一、生前に上梓した本草書。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を管見したが、本文記載の項目名には「人魚骨」やそれらしいものが見当たらない。識者の御教授を乞うものである。

・「然れども和蘭の一、二の書を執りて之を考ふるに」原典に「然れども余、竊かに是れ、西洋の語なることを疑ふ。因りて、和蘭、一、二の書を執りて」とあるのを省略している。

・「勇斯東私(ヨンストンス)」ヨーン・ヨンストン(一六〇三年~一六七五年)ポーランド生まれのスコットランド人(父の代にポーランドに移住)。ドイツでの教育を受けた後、スコットランドのセントアンドリューズ大学で学士号・修士号を得(専攻は神学・スコラ哲学・ヘブライ学)、一時、ポーランドへ戻ったが、ケンブリッジ大学で植物学と医学を学び、フランクフルト、ライデンでも研鑽を積んだ。一六三四年にライデン、ケンブリッジ大学から医学・哲学博士号を得た。ポーランドの大貴族レシチンスキ家に近侍し、同家の公子の海外遊学に同行、帰国後はレシュノ(ドイツ名リサ)でレシチンスキ家に仕えた(ヨンストンの死後、同家のスタニスラウはスエーデン支配下のポーランド王となっている。ここまで「東京人形倶楽部 あかさたな漫筆」の藤倉玄晴氏の記載に拠る)。後に出る「禽獸蟲魚の譜」、“Historia naturalis animalium,1650-53”(「鳥獣虫魚図譜」「動物図説」などとも訳される。同書は将軍吉宗も所蔵していた)を始めとする図入り博物書を刊行したが、このオランダ語訳が江戸期の日本にも輸入され、本邦本草学の発展に寄与した(ここは主に荒俣宏「世界大博物図鑑」の人名索引解説に拠った)。

・「伊斯把你亞(イスパニヤ)國」スペインの江戸以前の日本での古称。英語読みよりスペイン語の自国名“España”の発音に近い。語源は古代ローマ人のイベリア半島の古称「ヒスパニア」に基づく(ウィキの「スペイン」を参照した)。

・「百設武唵爾(ペセブヱル)」原典では「ペセムエル」と読んでいる。既に寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の私の注で引いたが、「東京人形倶楽部」の中の『「せ」は世界の人魚、或いは人魚の世界のセ 坂元大河君の報告――人魚初級講座5 東洋の人魚――』に、

   《引用開始》

 江戸の人魚文献で注目されるものに、大槻玄沢(磐水)の「六物新志」があります。舶来薬品の考証ですが、下巻の最後で人魚が取り上げられ、「甲子夜話」で「人魚のこと大槻玄沢が六物新志に詳なり」と言われているものです[やぶちゃん注:これは「甲子夜話卷之二十」に載る「玄海にて人魚を見る事」の冒頭の引用である。]。玄沢は「ヘイシムレル」という人魚の骨が海外からもたらされている所から説き始めます。この物は、貝原益軒「大和本草」では「ベイシムレル」、「和漢三才図会」では「バイシムレ」と言われていますが、玄沢はスペイン語のペセムエール、つまりpez(魚)とmujer(女)の合成語、婦魚=人魚のことだと、その意味をつきとめました。この語源は、小学館『国語大辞典』では、ポルトガル語peixe-mulher(雌の海牛)とし、南方熊楠はラテン語「ペッセ・ムリエル」(婦人魚)の義としています。

 この骨は象牙のようで、止血(六物新志・長崎聞見録・大和本草・重修本草綱目啓蒙)の効能があるとされています。その他、解毒剤と紹介する文献もあります。「和漢三才図会」、『国語大辞典』、南方熊楠「人魚の話」などです。南方は「三才図会」を引いていますので、寺島良安が解毒剤説を広めているようです。江戸時代で解毒の薬と言えば、ウニコール(一角獣の角)が有名で、偽物が横行し、「うにこーる」と言えば、うそ・いつわりの意味になったほどでした。骨の解毒作用は、漢方の犀角、蛇角で説かれていますので、人魚の骨も毒を制すると思われたのでしょう。中国では孔雀の血が、アフリカではヘビクイワシの肝臓が、毒蛇に噛まれたときに解毒剤として用いられました。ハゲワシの足は、サソリ、蛇の毒に効くと言われていました。人魚の骨も偽物が多く、「山海名産図会」は「甚だ偽もの多し」、「重修本草綱目啓蒙」は「蛮人もち来たる者贋物多し、薬舗に貨する者はアカエイの歯及びトビエイの歯の形状にして斜紋なるものなり、未だ真なる者を見ず」と言っています。

   《引用終了》

とある。因みに、この筆者は「人魚骨」を象牙に推定されておられる点に注意されたい。また、ここに示された南方熊楠「人魚の話」は私が電子化して注したものがあるので、是非参照されたい。

・「〔中畧〕」『由つて此れに之れを觀れば、「歇伊止(ヘイシ)」は則ち、「百設(ヘセ)」の訛轉(くわてん)、「武禮児(ムレール)」は則ち「武唵爾」の訛轉なる者の以て知るべきなり。』が省略されている。

・「之れを加ふるに」加之で「しかのみならず」と読みたいのであるが、原典そのものも、かく訓じている。

・「安蒲児止私巴亞列(アンブルシスバアレ)」フランスの王室公式外科医アンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré 一五一〇年~一五九〇年)。身分の低い床屋医者出身であったが、実践的外科医として頭角を現わし、血管を糸で縛って止血する血管結紮法を創始するなど外科治療を変革、「近代外科学の祖」と讃えられる。彼の整骨術に関する著書はオランダ語訳を経て華岡青洲の手に渡り、本邦の外科医療史に多大な影響を与えた。貴賤の区別なく、患者一人一人に対し、愛護的な態度で接したことから医学史家からは「優しい外科医」と評される(ウィキの「アンブロワーズ・パレ」に拠る)。ここで言うのは彼の“Des Monstres et Prodiges,1573(「怪物と驚異について」全三十八章)の第三十五章「海の怪物について」の最初に出るもので、同書は主たる部分はヒトや動物の奇形についての図入りの記述であるが後半部では人魚・ユンコーン・犀といった奇獣についても記載されている。

・「花連的印(ハレンテイン)」フランソワ・ファレンティン(Francois Valentyn 一六六六年~一七二七年)はオランダの宣教師。一六八五年に東インドに牧師としてアンボイナ(後注参照)に派遣され、そこで当時の管理官ルンプフ(George Eberhard Rumpf ラテン名ルンフィウス Rumphius 一六二七年~一七〇二年:ドイツ生まれ。オランダ東インド会社に雇われていた博物学者でアンボイナでは多くの新種を発見している)と親しくなった。十年後にオランダへ戻るが、一七〇五年には妻と子とともに再びアンボイナへ赴き、従軍牧師として東ジャワへの遠征にも加わったが健康を害し、オランダへの帰国を願ったものの、なかなか許されず、一七一四年にやっと帰国が叶い、後、五巻九冊に及ぶ“Oud en Nieuw Oost-Indien,1724-6”「新旧東インド誌」(本文中の「東海諸島産物志」)を完成させ、一七二四年から一七二六年にかけて刊行している(ここまでは「東京人形倶楽部」の菅家史朗氏の手に成る「魚たちつてと 増補と棚から一つかみ、その4-河毛二郎とレーシー・ヘルプス、ジェイン・ヨーレン、ファレンティンなど」に拠った)。本文にも引かれるアンボイナに於ける自然誌の記述は実はその多くがルンプフの功績であって、荒俣宏「世界大博物図鑑」の人名索引解説によれば、ファレンティンはルンプフが永年記述してきたアンボイナの自然史の記録を勝手に流用したと記しておられる。

・「〔中畧云々。〕」原典ではここに四頁に亙って以下の人魚図三図が示される。梅園もその図に言及している(その観察はなかなか的確で原典の図を見ずとも髣髴とさせるものである点に着目されたい)のでここに掲げた(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「六物新志」の保護期間満了画像)。視認して書き下したキャプションを添えた。

   * 

 

Pare_jonston_mermaid

 
人魚圖

 是れ、安蒲児止私巴亞列(アンブルシスパアレ)の書に載る所。

        牝

        牡

《改頁》

 是れ、勇斯東私(ヨンストンス)「禽獸蟲魚の譜」に載る所。

        牝

        牡

《改頁見開き》

Valentyn_mermaid

 
同前

 是れ、花連的印(ハレンテイン)「東海諸島物産志」に載る所。

   江漢馬峻寫落款 落款

   *

「江漢馬峻」とは言わずもがな乍ら司馬江漢。彼の本名は安藤峻である。

 次に、以下にこれら三図の原画を示しておく。以下の三図は著作権満了であり、ただ創作作品を平面的に写しただけのものには著作権は生じないというのが文化庁の公式見解である。引用元は総て明記した。

   *

Ⅰ Ambroise Paré “Des Monstres et Prodiges,1573”(引用元は仏文サイト“BIU Santé”内の“Paré, Ambroise.Vingt cinquième livre traitant des monstres et prodiges, Œuvres. - Paris, G. Buon, 1585 (cote BIUM 1.709)より) 

 

Pare


Ⅱ 
John Jonston“Naeukeurige Beschryving van de Natuur der Vier-Voetige Dieren, Vissen en Bloedlooze Water-Dieren,Vogelen, Kronkel-Dier en, Slangen en Draken,1657”(引用元英文サイト“American Philosophical Society”内の“Of Myths and Bones: Early Modern Conceptions of Animals Case Two“Anthra pomorphos Joannes Jonstonus (1603-1675). Historiae Naturalis; Anthra pomorphos (Tab. XL); 1657. (590 J73 vol. 1)”より。この長い書名は合冊のオランダ語版のもので、「東京人形倶楽部」の藤倉氏の記載に出る磯崎康彦氏の訳によれば『四足動物、魚類と無血水棲創物、鳥類、有節動物、蛇類と龍類の精密な自然誌』である) 

 

Jonston

 
Ⅲ 
Francois Valentyn“Oud en Nieuw Oost-Indien,1724-6”(引用元は英文サイト“Australian Museum”の私がフォローしている公式Pinterestの“Book Illustrations to 1919 Illustrations from the rare books held in the Research LibraryOud en Nieuw Oost-Indien, vervattende een naaukeurige en uitvoerige verhandelinge van Nederlands mogentheyd in die gewesten... / door François Valentyn. Vol. 3, no. 1 (1776) Plate 52 Mermin...[Mermaid}”というキャプションを持つ画像

Valentyn0

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・「元壽」毛利梅園の名。訓は「もとひさ」。

・『「醫事集纂」第八百十一號』これは書き方から初出記載雑誌からの引用訳である。原雑誌資料の原名は不詳。

・「迷伊児名能(メイルミンネン)」“meerminnen”。古いオランダ語で人魚の意と思われる。荒俣宏「世界大博物図鑑5 哺乳類」の「人魚」の項にオランダ語“meermin, meerman”とある。

・「牡(ヲ)迷伊児名能」さながらオランダ語では男の人魚を「ヲメイルミンネン」と呼称するとまことしやかに記しているかのように見えて微笑ましい。

・「不里泥烏私(プリニウス)」古代ローマの偉大な博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二二年か二三年~七九年八月二十四日:ヴェスヴィオ山の大噴火を観察中に死亡)。彼の博物誌の第九巻九~十一節に以下の記載があり、プリニウスが人魚の実在を疑っていなかったことが分かる。雄山閣昭和六一(一九八六)年刊の中野定雄他訳になるプリニウスの「博物誌」より引用する。

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 そのためにわざわざオリシポから派遣された使節団はティベリウス皇帝に、彼らはある洞窟でトリトン<半人半魚の海神>が法螺を吹いているのを見たし聞いたが、それはよく知られている形をしていたと報告した。ネレイス<海の精>の描写も不正確ではない。ただし彼らのからだの人間の形をしている部分にも毛がもじゃもじゃ生えてはいるが。というのは、ネレイスは同じ海岸で見られたことがあるし、そのうえずっと沖合でそれが死にかけているときの嘆きの歌が浜の住民たちによって聞かれたことがある。それにまたガリアの使者がおびただしい数のネレイスの屍体が浜で見られたということを故アウグストクスに書面で報告しているからだ。私は次のような陳述に対する証言者として、騎士身分の中の何人かを承認したことがある。すなわちガデス湾で、からだのすべての部分が人間に完全に似た「海人」を彼らは見たと。そしてそれが夜分船のうえに這い上ってくる。すると「海人」が坐った側が重みで沈下し、それがもっとそこに坐りつづけると、船が水の中へ沈んでしまうというのである。ティベリウス帝の治下<後一四-三七年>でのことだが、リグドゥヌム属州の沖合にある島に引潮が驚くほど多様で大きい怪物を同時に三〇〇も残していった。またサントニの海岸にも同数のものが残されたが、いろいろな物があった中に、ゾウもあれば、角に似た白い縞だけがあるウミヒツジ、それに多くのネレイスもあった。トゥラニウスの述べたところでは、ガデスの海岸に一つの怪物が打ち上げられたが、それは二枚のひれの間に長さ一六キュービットもある尾部があり、また一二〇本の歯があって、それのいちばん大きいのは長さ四分の三ペス、いちばん小さいのでも半ペスあったという。話にあるアンドロメダが曝された怪物の骸骨が、マルクス・スカウルスによってユダヤのヨッペの町から運んで来られ、彼が造営官であったとき<前五八年>、ローマでほかの驚異物と一緒に展観されたが、それは長さ四〇ペス、肋骨の高さはインドゾウを超え、脊柱は一・五ペスの厚味があった。

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この記載の舞台は地中海の西の入口ガデス海峡に面したペイン南西部アンダルシア州のカディス県の県都である。一キュービットは肘から握った拳までの長さで、当時のローマでは四六・三センチメートルである(引用底本度量衡表に拠る)から、「一六キュービット」は実に七メートル四十一センチメートルの丈け、一ペスは歩尺で二十九・五センチメートルであるから、歯の大きなものは「四分の三ペス」で二十二センチメートル、一番小さなものでも「半ペス」約十四・八センチメートル、アンドロメダの怪物の骸骨の全長は「四〇ペス」実に十一・八メートル、脊柱の太さは実に「一・五ペス」凡そ四四・三センチメートルもあったということになる。それにしても、こいつらは何ものか? 因みに、クジラと早合点なさっては困る。だって次の十二節には別にちゃんとクジラが語られているから、である。但し、ここでパレの言っているのは「博物誌」のこの記載ではないようだ。

・「其の二儀の始め、此の異類を化出し、其の種族、歴世奕續して而して絶えざる者、其の理、猶ほ夫の玉石・草木・禽獣の類にも亦、人形に似たる者、之れ有ると、相ひ同じきか」「然れども其の二儀の始め」の途中に「然れども、余、竊(ひそか)に之を意(おも)ふに、夫の二儀……」と省略がある。さても、冒頭の「二儀」の意味がよく分からない。――人族と魚族の異なった「二」つの種族が、太古に於いて何らかの交わりの「儀」が行なわれ、人魚という新たな種が化生し、しかもその奇体な種族が連綿と現世を生き続けて、「奕」は「盛んである」の意があるから、盛んに種を繁栄維持し続けて絶えないということは、その理(ことわり)は丁度、なおまた、好物や植物や動物の類いにもまた、人の形に似たものが実際にあるという事実と照らし合わせれば、相同の現象であって少しもおかしくないということであろうか?――という謂いで採る。一種の類感呪術的理解法であるが、何だかな、という感じである。

・「阨入多(ヱヂプテ)國」エジプト。

・「埋奈(マナ)邑長(むらをさ)」当初、私は「マナ」を村の名と勘違いしていたが、「東京人形倶楽部」の藤倉氏の訳から、これがメナ(Mena)というエジプト総督であることが分かった(事蹟は不詳)。

・「泥禄(ニイル)河」ナイル川(アラビア語“an-nīl”は、定冠詞に相当する「ナ」と、川を意味する「イル」から成る)。ナイルでの人魚目撃談については、ボローニャ出身のイタリアの博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi 一五二二年~一六〇五年:パドバやローマで哲学・医学を修め,ボローニャ大学教授として薬物学・植物学を講じ、大学付属の植物園を設立。薬草・昆虫類・鳥類に関する克明な観察を綴った多くの著作がある。特にニワトリの胚発生の経過を実際の観察に基づいて述べたそれは後の発生学研究の扉を開いたものとして注目される。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)が一五九九年の著作で、大昔、ナイル川で見られた人魚の夫婦の記載を残している、と個人ブログ「過去と未来の狭間で佇み深遠を~謎は解明されるのでしょうか?~」の人魚アンソロジー「波の間に間に」にある。それによれば、少なくとも二時間以上に亙って多くの人に目撃されたとあって、リンク先には絵もある。これはアザラシだろうか? ギリシア神話で「海の老人」と呼ばれる海神プローテウス(Prōteus)は伝承ではナイル川河口の三角州沖合に浮かぶパロス島でアザラシの世話をしているとある。

・「安杜路卜木児畢思(アントロホモルピシス)」梅園は「アントロホモルピンス」と誤読しているが原典で訂した。anthropos(人類)+homo(人・家族)+ piscis(魚)の合成語か? 少なくとも現行ではこの一単語は存在しない模様である。

・「羅甸」「梅園魚譜」原文は「羅匐」であるが誤字と断じて書き下しでは訂した。

・「膚魯烏吸悉(フロウヒス)」綴り不詳。「梅園魚譜」原文は「膚」が「層」の字の様にも見え、しかも「ソロウヒス」とルビしているようにしか見えないが、原典で訂した。

・「幾爾計侶私(キルケリユス)」イエズス会士でドイツの百科全書的博物学者アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher 一六〇一年~一六八〇年)のラテン名。イエズス会のギムナジウムを卒業後、各地の大学で神学・人文学・自然学・数学と、殆んど総ての学問を修めた。ウュルツブルク大学哲学・数学・ヘブライ語・シリア語教授を勤めた。当時のヨーロッパでもっとも優れた古代エジプト研究者及び中国学の第一人者としても知られる(以上はウィキの「アタナシウス・キルヒャー」に拠った)。

・「伊斯把儞亞(イスパニア)國の人、海行し、東海は吸沙伊索嶋(ヒサイサじま)の……」「伊斯把儞亞國の人、東海に獲る所の者を以つて、直ちに其の眞を寫し、即ち、其の事を記する者なり。其の説に曰く、伊斯把儞亞國の人、海行し、東海は吸沙伊索嶋の……」が脱文している。これは意図的なもの以外に、単なる誤写(「伊斯把儞亞國」の箇所で後に飛んでしまった)とも強く疑わられるものの、原典は如何にもくどく感じられ、私も書写するとしたら、省略したくなる気はする。

・「吸沙伊索嶋(ヒサイサじま)」「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳割注では、フィリピンのヴィサヤ諸島 Visayas かとされる。フィリピン中部の、ルソン島とミンダナオ島に挟まれた海域にある島々の集まりを言う。

・「必屈登嶋(ピクテンじま)「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳割注では、同前諸島中のビリラン島かとされる。現在、フィリピンのビリラン州(Province of Biliran)の東ビサヤ地方(Eastern Visayas, Region VIII)に属する。参照したウィキの「ビリラン州」で位置が確認出来る。

・「百設唵武爾(ペセムヱール)」「梅園魚譜」では「百武爾唵爾(ヘムヱール)」であるが、原典で訂した。後で正しいしい文字列で梅園も書いている。

・「受伊翁(ジユイヲン)」哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン Dugong dugon である。何だか、やっとほっとした。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑5 哺乳類」の「ジュゴン」の項によれば、属名のデュゴングはマレー語でこの獣を指す“dūyong”による、とある(ウィキのマレー語の「ジュゴン」の頁ではタガログ語語源とする)。因みに漢名「儒艮」もこの音訳である。

・「安具那(アンボイナ)島」インドネシア東部にあるモルッカ諸島の一部であるアンボイナ(アンボン)島(インドネシア語 Pulau Ambon )。参照したウィキの「アンボン島」によれば、バンダ海の北側に位置し、大きなセラム島の南西に位置する面積は七百七十五平方キロメートルの比較的小さな火山島で、最高所の標高は千二百二十五メートル、東西方向に長い陸地が二つ並び結ばれた形状をしており、島の長さが約五十キロメートルあるのに対し、中間部にある約二キロメートルの地峡で二つの陸地が結ばれた形を成し、熱帯雨林で覆われている。主要都市は島の南部にあるアンボンでアンボンはマルク(モルッカ)州の州都でもある。一五一三年、『最初のヨーロッパ人としてポルトガル人が初めてアンボン島に上陸し、テルナテ島でポルトガルが追い出されるまで、ポルトガルのマルク諸島における活動の中心となった。しかしポルトガル人は、ジャワ島の北海岸へ渡る主要な港として商業的、宗教的な交流のあるHituを中心とした、島の東北部の土着イスラム教徒によって定期的に襲撃を受ていた』。ポルトガル人は一五二一年に工場を設立したが、一五八〇年まで平和的に所有はできなかった。『実際ポルトガルは、現地の香辛料貿易を統制できずに、ナツメグ生産の中心バンダ諸島において権限を獲得する試みに失敗した』。一六〇五年にステフェン・ファン・デア・ハーゲンが『無血で砦を引き継いだ時には、すでにポルトガル人はオランダ人によって追い出されていた』。一六一〇年から一六一九年まで、『バタヴィア(現在のジャカルタ)が設立するまでの間、アンボンはオランダ東インド会社 (VOC) の本拠地』として機能した。一六一五年頃、『イギリスが島のカンベロ (Cambello) に居住地を形成』、これは一六二三年に『オランダに破壊されるまで存在した。オランダによる破壊では、不運な住人を苦しめた攻撃的な拷問も行われていた。実りの無い交渉の後』、一六五四年、『クロムウェルはオランダに対し、アンボン虐殺に苦しめられていた子孫への賠償として、マンハッタン島に加えて』計三十万ギルダーの供与を強いた。一七九六年になって『イギリスはアンボン島を手中に収めたが』、一八〇二年の『アミアン和約によってオランダに戻され』、一八一〇年に『再びイギリスが奪還するも』、一八一四年には再度オランダに取り戻されている。アンボン島は十九世紀まで『世界のクローブの生産の中心であった。オランダはアンボンの独占権を確保するため、クローブの木を育てることを禁止し、他の島々はその規則に従っていた』。『オランダ統治時代は、アンボンはオランダ居住民の中心地で、モルッカ諸島の軍司令部が置かれていた。街はヴィクトリア砦によって守られ』、『オランダ人以外にも、アラブ人、中国人そして少数のポルトガル人の居住者がいた』。第二次世界大戦時、アンボンにはオランダ軍の主要基地があり、アンボンの戦いで大日本帝国が接収している。戦後の一九四五年、『インドネシアは独立を宣言した』が、『スカルノ大統領がインドネシアを中央集権国家に変えようとしたことと、民族的、宗教的な緊張の結果、アンボンはインドネシア政府に対して反発』、一九五〇年の南マルク(モルッカ)共和国の反乱が起き、現在もイスラム急進派との間で騒乱が繰り返されるといった宗教対立に加え、かつての独立紛争の再燃により、アンボン島紛争は解決の目途が立っていない。

・「開國一千七百十有二年」「開國」の意、不詳。因みに西暦一七一二年は正徳二年で、第六代将軍徳川家宣がこの年の十月に逝去、徳川家継が継いでいる。新井白石の活躍した頃である。

・「熱伊物以弗(ゼイウエイフ)「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳には“zee wijf”とある。このオランダ語は英語の“sea wife”である。

・「武魯(ブーロ)島」底本にはルビがないので原典で補った。インドネシアのモルッカ諸島にあるブル島(インドネシア語 Kabupaten Buru)面積は九千五百五平方キロメートルでモルッカ諸島の島嶼で三番目に大きい。アンボン島の西直近。

・「爪哇(イヤフ)」この漢名はジャワ島(インドネシア語 Jawa)を指す。ただ、ブル島は東北に千四百キロメートル以上離れている。

・「※1」(「※1」=「籞」-「示」)は音は「ギヨ/ゴ」。生簀(いけす)。入り江に竹を編んで籬を作り、囲って魚を養うようにしたもの。

・「※2まん」(「※2」=「月」+「匿」)は不詳。当初、「かくまはん」と読もうとしたが、やめた。

・「四昼夜三時半」古時刻であるから、丸四日と七時間。

・「長け五十九拇指横徑」「拇指横徑」これは古代ギリシャの長さの単位でインチの起源、足の親指の幅に由来する身体尺である「ウンキア」(ラテン語 uncia)で、一ウンキアは二・五センチメートル換算であるから、この人魚の背丈は百四十七・五センチメートルとなる。次の次の注も参照のこと。

・「禮印狼度(レインランド)」イングランド?

・「度(はかり)」長さの単位の意。

・「五脚」この脚は足の大きさに由来する身体尺とされる「フィート」である。五フィートだと約百五十二センチメートルになるが、これは少し差があり過ぎるように感ずる。

・「因りて其の之を得るの所を由る所を聞くに」――よってその、人魚を捕獲したという事実について、それが確かなことであるということを聴き知ったところが――といった意味か? 何か、如何にもまどろっこしい言い回しである。

・「安具那島主」アンボイナ島商館長。「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳に拠った。

・「臣(しん)沙米烏児花児烏爾(サミウルハルウル)」商館長の部下であったサミュエル・ファロアーズ(Samuel Fallours)。「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳に拠った。ファロアーズの絵はルイ・ルナール(Louis Renard 一六七八年~一七四六年:外交官・出版家。フランス人でオランダに亡命後、イギリスのスパイとなる。)がアムステルダムで出した彩色魚類図譜“Poissons, Ecrevisses et Crabes, De Diverses Couleurs et Figures Extraordinaires, Que L'on Trouve Autour Des Isles Moluques, et Sur Les Côtes Des Terres Australes.
Amsterdam: Louis Renard,
[1718 or 1719].”(「モルッカ諸島と南方の海岸で発見された様々な色彩と驚くべき形態の魚類・エビ類・カニ類」。一般には「モルッカ諸島魚類彩色図譜」と略される)の頗る幻想的な目くるめく色彩を持った第二部パートの画家として知られる。但し、表紙に彼の名はない。また先に出たファレンティンの「新旧東インド誌」の図版も実は彼の手になる。HN未定氏のブログ「armchair aquarium [アームチェア・アクアリウム]」の「モルッカ諸島産彩色魚類図譜」に、元は十八世紀初めに『オランダ領東インド(現在のインドネシア)のアンボイナに駐在していたサミュエル・ファロアーズ(Samuel Fallours)が描いたもの。素人画家だったファロアーズは東インド会社に雇われて、現地の魚介類を集めて絵を描いたり、食用に適するか否かぱくぱく食べて試したりしてました。で、図に短評を添えてアンボイナ州の商館長に提出していたのですが、それがめぐりめぐってルナールの手に渡ったというわけ。本にはファロアーズの名前も出てきてはいるんだけど、表にでかでかとクレジットされているのがルナールだけなのはちょっと切ないです』。『ファロアーズの図がどれだけ正確かってことなんですが、こんなのがあるとこから推して知るべし・・・と言いたいところだけど、がんばれば半分ぐらいは種を同定できるようです。これを「半分も」と感じるか「半分しか」と感じるかは人それぞれでしょう。わたしはダメダメだと思う。ただそれだけ特定できるってことから、大部分が現実に根ざしているからこそ、この突拍子もない図譜は楽しいのだと改めて感じます。・・・ちなみにこの人魚は長さ59インチ(約150センチ、絵の印象よりちっちゃいね)で、桶に入れて四日間生きていたとあります。ネズミみたいにチュウチュウ鳴いてたんだって』とあり、Amsterdam - Ewell Sale Stewart Library の同書の全画像デジタル・コレクションもリンクされている。必見! 因みに、このブログ主は私の電子テクストを開設した非常に早い時期に評価しくれた女性で、海産生物にもお詳しく、博物学的リンク蒐集でも優れた方である。もう何年も更新をされていない。少し、淋しい。……

・「主般垤児私的爾(ハンデルステル)」商館長ファン・デル・ステル(Adriaen Van der Stel ?~一六四六年)。因みに、後のケープ植民地総督及びその後身であるオランダ東インド会社植民地総督を勤めたシモン・ファン・デル・ステル(Simon van der Stel)や後者を引き継いでいるヴィレム・アドリアーン・ファン・デル・ステル(Willem Adriaan van der Stel)は彼の子と孫と思われる。

・「敢へて珍奇とせざるが故なり」指示がないが、以下、一部の条が丸ごとなかったり、提示された後の箇所ががなり省略されていたりする。

・『「史記」秦の本記に曰く、人魚膏を以つて燭と爲(な)す』「史記」巻六「秦始皇本紀第六」の「始皇帝三十七年 九月」の始皇帝の葬送と、弩(いしゆみ)自動射出器と消えない灯明を完備した墳墓玄室の解説の下りに出る。

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九月。葬始皇酈山。始皇初即位、穿治酈山。及幷天下、天下徒送詣七十餘萬人、穿三泉、下銅而致槨。宮觀百官奇器珍怪徙臧滿之。令匠作機弩矢、有所穿近者輒射之。以水銀爲百川江河大海、機相灌輸。上具天文、下具地理、以人魚膏爲燭度不滅者久之。

(九月、始皇を俐酈山(りざん)に葬る。始皇、初めて即位して酈山(りざん)を穿治(せんち)す。天下を幷(あは)するに及び、天下の徒七十餘萬人を送詣し、三泉を穿(うが)ち、銅を下として槨(くわく)を致す。宮と觀・百官・奇器・珍怪、臧(ざう)を徙(うつ)して之れを滿たす。匠みに機弩矢(きどし)を作らしめ、穿ちて近づく者有れば、輒(すなは)ち之れを射る。水銀を以つて百川・江河・大海と爲し、機もて相ひ灌輸(くわんゆ)す。上は天文を具(そな)へ、下は地理を具ふ。人魚の膏を以ちて燭と爲し、久しく之を滅せざる者に度(はか)る。)

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文中の「槨」は墓室内部の棺を保護するものや、その玄室全体を指す。「機もて相ひ灌輸す」機械仕掛けで自動的にこれらの人工河川江海に定時に水銀を満たさせるようにセットさせた、ということである。

・『「異物志」に曰く、人魚、人の形に似たり。長け尺餘。』同書名では、後漢の楊孚(ようふ)撰とされる地誌が最古であるが亡佚、同系列と考えられる呉の丹楊太守萬震撰「南州異物志」(亡佚)といった似たような書名の作品が複数ある。中文繁体字版ウィキ(維基文庫)の「人魚」を見ると、劉宋の裴駰(はいいん)の「史記集解」が引用されている(前注に示した箇所のまさに注解である)。但し、この文字列には一部に疑義があるので、別に見出した、ひよこ氏のブログ「てぃーえすのワードパッド」の「人魚」から当該注を引用する。少し記号その他を変更して総てを示す。

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集解。徐廣曰「人魚似鮎、四。」正義・廣志云「鯢魚聲如小兒啼、有四足、形如鱧、可以治牛、出伊水。」異物志云「人魚似人形、長尺餘。不堪食。皮利於鮫魚、鋸材木入。項上有小穿、氣從中出。秦始皇冢中以人魚膏為燭、即此魚也。出東海中、今台州有之。」按、今帝王用漆燈冢中、則火不滅。

(集解。徐廣曰く、『人魚、鮎(ねん)に似て、四(しきやく)。』。「正義」・「廣志」に云く、『鯢魚(げいぎよ)、聲、小兒の啼くがごとく、四足有り。形、鱧(らい)のごとく、以つて牛を治すべし。出伊水に出づ。』と。「異物志」云、『人魚、人の形に似、長け、尺餘り。食ふに堪へず。皮鮫魚(ひかうぎよ)よりも利(と)く、材木を鋸(ひ)くに入れり。項上に小穿(しやうせん)有り、氣、中より出づ。秦始皇の冢(つか)の中、人魚膏を以つて燭と爲す。即ち此の魚なり。東海中に出づ。今、台州、之れ有り。』按ずるに、今、帝王、冢の中の漆燈(しつとう)に用ふ。則ち、火、滅せず。)

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以上の「皮鮫魚よりも利く、材木を鋸くに入れり」の訓読は自信がない。「鮎」は中国ではナマズ、「鯢魚」はオオサンショウウオ、「皮鮫魚」は直感であるが、一般的なチョウザメを指し、ここでそれと同じように堅く尖った皮膚を持っていて、しかも鋸の代わりになるとなると、私はここで言っている「人魚」は硬骨魚綱条鰭亜綱軟質区チョウザメ目ヘラチョウザメ科ハシナガチョウザメ属の異形種であるハシナガチョウザメ(古くはシナヘラチョウザメと呼称)Psephurus gladius を指しているように思えてならないのだ。……そんなチョウザメ知らない?……では、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「かぢをとし 鱘」の注の切手の写真をご覧あれ! ご納得頂ける自信が私には、ある、のである。……但し、続く「項上に小穿有り、氣、中より出づ」の部分は、これはまた全く別に哺乳綱クジラ目ハクジラ亜目ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ Lipotes vexillifer を想起させるではないか! まことにに大陸の本草の記載はぶっ飛んでいて、如何にも面白い! 「漆燈」は赤黒く輝く燈火の意。

・『「洽聞記」に曰く、海人魚、東海、之れ有り。大なる者、長け五、六尺、状(かたち)人のごとし。眉・目・口・鼻・手・爪・頭、皆。美麗女子たり。具足せざること、無し。皮肉、白にして玉のごとく、鱗無く、細毛有り、五色、軟軽。長さ一、二寸。髪、馬尾のごとく、長け五、六尺。陰形(いんぎやう)、丈夫女子と異なること無し。臨海の鰥寡(くわんくわ)、多く取り得て、之を池沼に養ふ。交合するの際、人と異なること無し。亦、人を傷つけず。』「洽聞記」は唐鄭常(ていじょう)が撰し、後に明の陶宗儀編輯した説話集。「太平広記」の巻第四百六十四「水族」の「海人魚」に以下のように記されている(引用は中文サイト「龍騰世紀」のこちらのテクストを一部加工した)。

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海人魚、東海有之、大者長五六尺、狀如人、眉目、口鼻、手爪、頭皆爲美麗女子、無不具足。皮肉白如玉、無鱗、有細毛、五色輕軟、長一二寸。發如馬尾、長五六尺。陰形與丈夫女子無異、臨海鰥寡多取得、養之于池沼。交合之際、與人無異,亦不傷人。

(海人魚。東海に之れ有り。大いなる者は長け五、六尺、狀、人のごとく、眉・目・口・鼻・手・爪・頭、皆、美麗なる女子たり。具足せざるもの無し。皮肉は白く玉のごとく、鱗無く、細毛り有り、五色にして輕軟、長さ一、二寸。髮、馬の尾のごとく、長け五、六尺。陰形、丈夫の女子と異なること無し。臨海の鰥寡、多く取り得て、之を池沼に養ふ。交合の際、人と異なる無し。亦、人を傷つけず。)

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「長け五、六尺」は約百五十~百八十センチメートル。「鰥寡」は、妻を失った老いた男鰥(やもめ)と夫を失った老いた未亡人の意。おぞましい人魚獣姦の記載であるが、どうもこの人魚、相手の「鰥寡」ともども妙に荒寥として侘しい。

・『「徂異記」に曰く、査道、使(つかひ)を高麗に奉じ、海沙中、一婦人、肘後、紅鬣(これれふ)有るを見る。之れを問へば、曰く、人魚なり、となり〔「本草綱目」「※3魚(ていぎよ)」の條下に引用す。〕』(「※3」=「魚」+「帝」。)この記載は「中國哲學書電子化計劃」の「天中記 巻五十六」に(一部に明らかな誤字があるが、ここではそのままコピー・ペーストしてみる。下線やぶちゃん)、

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海人魚東海之火者長五六尺狀如人眉目口鼻手氏頭皆為美麗女子無不俱足皮肉白如玉鱗有納毛五色輕軼長匡二寸髮如馬尾長五六尺陰形與丈夫女子無異臨海錄寡多取得養之於池沼交合之際典人無異亦不傷人上侍制盍道奉便尚翟睨泊工而五望見沙中有口婦人紅裳雙裡譬壤亂肘微有紅荒置命水工以蒿袒水中勿令傷婦人待水偃仰復貝望章拜手感舞而沒水工曰某在海上木省此何拘童曰此人魚也能典人姦處水類人性但異蠢

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とある。「本草綱目」には「※3魚」(「※3」=「魚」+「帝」)の項の「集解」の末尾に、

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徐鉉「稽神錄」云謝仲玉者、曾見婦人出沒水中、腰以下皆魚。乃人中一婦人、肘後有紅鬣。問之。曰人魚。

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とあって「徂異記」の記載は私が管見した二種の版本にはない。また、この下線部は私の微力では訓読が出来ない。以前に私は、和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚の「人魚」の「稽神錄」に注して以下のように記したことがあるので、ここはそれでお茶を濁すこととする。悪しからず。

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「稽神錄」は北宋の学者、徐鉉(じょげん)撰の志怪小説。徐鉉は文字学者として「説文解字」の校訂者として知られる。第二の例は「徂異記」(宋の聶田撰になるも残欠)に載るとするものと同じである。以下に「徂異記」から引用する(原文のテクストはかつて繁体字中文サイトダウンロードしたものを補正・加工した。失礼ながらダウンロード先は失念)。

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待制査道出使高麗、晩上船泊在一山邊。望見沙灘上有一婦人、頭髮薘鬆、穿著紅裙子、袒露兩臂、肘下有鬣。船夫不知道是什麼。査道曰、「是人魚也。」。

やぶちゃんの書き下し文:

待制査道、高麗に出使し、晩上、船、泊して、一山の邊に在り。望見するに、沙灘の上に一婦人有り、頭髮、薘鬆(ほうそう)し、紅裙子(こうくんし)を穿著(せんちよ)し、兩臂(りやうひん)を袒露(たんろ)し、肘下(ちうか)に鬣(ひれ)有り。船夫、知らずして、「是れ、什麼(そもさん)?」と道(い)ふ。査道曰く、「是れ、人魚なり。」と。

やぶちゃん訳:

待制であった査道は、高麗に使者として遣わされた。その途上、ある晩のこと、船が錨を降ろして、とある山の麓の海辺に在った。査道が、碇泊した船上から景色を眺めて見ると、水際の辺りに一人の婦人がおり、髪を振り乱し、紅い裳(も)だけを穿(は)いて、袒(はだぬ)ぎして両の手首(肘から先)を露わにし、そして肘(ひじ=肘から脇の下迄の二の腕)の脇の下には鰭(ヒレ)があった。同船していた船乗りは、全く見たこともない生き物だったので、「さても! あれは一体、何ですか?」と尋ねた。即座に査は答えて言った。「あれが、人魚だ。」と。

やぶちゃん語註:

・待制:唐代の官名で詔勅の筆記や種々の御下問に返答する学識職。

・沙灘:「砂洲」の意多く用いられるが、汀(みぎわ)の意味でよいであろう。

・薘鬆:髪の乱れているさま。

   *

・『正字通に曰く、按ずるに「※4魚」、即ち、海中の人魚なり。』(「※4」=「魚」+「役」。)「正字通」は中国の明の張自烈の著になる字書。十二支の符号を付した十二巻をそれぞれ上中下に分けて、部首と画数によって文字を配列して解説を加えたものであるが、後の清の廖文英(りょうぶんえい)が、その原稿を手に入れて自著として刊行してしまった。中文サイトで原文を検索したが、実際には「人魚」の記載はこんな単純なものではない。

・『郭璞、人魚の贊、有り。人魚、人を加へ、「※5」に作る。猶ほ、牛魚、牛を加へ、「※6」に作るなり』[(「※5」=「魚」+「人」。「※6」=「魚」+「牛」。)「人魚、人を加へ」及び「牛魚、牛を加へ」は原文は「人の如く」「牛の如く」となっているが、誤読であり、原典でかく訂した。「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)郭璞「人魚の贊」とは、彼の幻想地誌である「山海経」の「中山経図賛」に出る。この文はそこでは「人魚」に相当するするものは「人」(へん)に「魚」(つくり)で、因みにまた「牛魚」に相当するものは「魚」(へん)に「牛」(つくり)で作字していると言っているのである。「中山経」には中文サイトで検証すると全部で五箇所に人魚が出る。

・「續日本紀」原文は「續日本記」。原典で訂した。後の「日本紀」も梅園の原文は「日本記」。但し、これ、誰も問題にしていないようであるが、以下は「続日本紀」ではなく、「日本書紀」の記載である(玄沢の原典には御丁寧に「續---紀」と熟語記号を振っている)。なおまた、「三十四代」は現行では推古天皇は三十三代とする。

・「推古天皇二十七年夏四月己亥朔壬寅、近江國より言ふ、蒲生河に於いて、物、有り。其の形、人のごとし。秋七月、攝津國に漁父有り。罟を堀に沉め、物、有り、罟に入る。其の形、児のごとし。魚に非ず、名づくる所を知らず」「日本書紀」の原文は以下の通り。

   *

廿七年夏四月己亥朔壬寅、近江國言、於蒲生河有物、其形如人。秋七月、攝津國有漁父、沈罟於堀江、有物入罟、其形如兒、非魚非人不知所名。

   *

「推古天皇二十七年」は西暦六百十九年に当てる。

・『「和名抄」に曰く、「人魚」と』源順(したごう)の「和名類聚鈔」には、

   *

人魚 「兼名苑」云、人魚、一名、鯪魚〔上音、陵。〕。魚身人面者也。「山海經注」云、聲、如小兒啼。故名之。

   *

とあって、大槻玄沢は恰も「兼名苑」「唐の僧釈遠年の撰になる名物詞研究書)を披見したかのように記載しているのであろうことが分かってしまうのである。

・「八百比丘尼」以下、ネット上で披見して最も好感の持てたウィキの「人魚」の「八百比丘尼」の項から引いておく(記載は各所に見られるが、思い入れたっぷりであったり、レイ・ラインや薀蓄が如何にもなものが多く、どうもリンクする気になれない)。八百比丘尼(やおびくに、はっぴゃくびくに)は『日本のほとんど全国に分布している伝説。地方により細かな部分は異なるが大筋では以下の通り』。『ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる』(以上の梗概は「八百比丘尼伝承の死生観」小野地健からの引用記載がある)。『八百比丘尼の伝承は日本各地にあるが、中でも岐阜県下呂市馬瀬中切に伝承される八百比丘尼物語は「浦島太郎」と「八百比丘尼」が混ざった話として存在し、全国的に稀である『京都府綾部市と福井県大飯郡おおい町の県境には、この八百比丘尼がこの峠を越えて福井県小浜市に至ったという伝承のある尼来峠という峠がある』。「康富記」には十五世紀中頃に白比丘尼(しろびくに)という二百余歳の白髪の尼(十三世紀生まれの尼)が『が若狭国から上洛し、見世物として料金を取った記述があるが』、「臥雲日件録」では『白比丘尼は八百老尼と同じであると解されている。ただし、この老尼は八百比丘尼伝説を利用した芸能者だったと考えられている。当時から八百尼丘尼の伝説は尼によって布教活動に利用されており、こうした伝説を利用する女性も少なくなかった一例である』とある。

・「小田野(おだの)子」この人物、名が示されていないものの、私は「解体新書」の挿絵を描いたことで知られる小田野直武(おだのなおたけ 寛延二(一七五〇)年~安永九(一七八〇)年)と考えている。以下、ウィキの「小田野直武」から引く(下線やぶちゃん)。『江戸時代中期の画家秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した』。『直武は秋田藩角館に生まれる。角館は、佐竹家の分家である佐竹北家が治める城下町であった。直武の生まれた小田野家は、佐竹北家の家臣であり佐竹本家から見れば陪臣であったとする説もあるが、当時の日記類に従えば、佐竹本家の直臣で佐竹北家の「与下給人」(組下給人とも)であったと見られる』。『幼少より絵を好み、狩野派を学び、また浮世絵風の美人画も描く。やがて絵の才能が認められ、佐竹北家の当主・佐竹義躬、秋田藩主・佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受け』た。安永二(一七七三)年七月、『鉱山の技術指導のために、平賀源内が秋田を訪れ、直武と出会う。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだという。源内は直武に西洋画を教えた。この際、「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという逸話がよく知られているが、これは後代の創作との見方が強い』が、『源内自身は「素人としては上手」という程度の画力であるが、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えた』ことは事実らしい。同年十月、『源内は江戸へ帰』ったが、同年十二月になると直武が『「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓する』こととなった。『そのころ、前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていた。図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。玄白と源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなる』。実は既に安永二(一七七三)年中に、『『解体新書』の予告編である『解体約図』が発行されており、その図は熊谷儀克が描いていた。『約図』と『新書』の図を比べると、やはり直武による『新書』の方が、陰影表現の点で優れている』。『直武は『解体新書』の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いている』。『直武は源内のもとで、西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していく。また、佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行った。この』三名が『中心になった一派が「秋田蘭画」または秋田派と呼ばれることになる』。『のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのころ直武に絵を習ったようである』。しかし、安永八(一七七九)年十一月に源内が『刃傷事件をおこし投獄、直後に直武は突然の遠慮謹慎を申し渡され秋田へ帰る。おそらくは、藩がかかわりあいになるのを恐れての処置と推測されている。ただし、直武の帰藩は刃傷事件の前だとする説もある。失脚の原因については、他に直武が陪臣から直臣に取り立てられたにもかかわらず旧主佐竹義躬を慕う態度が藩主佐竹義敦の怒りに触れたとする新野直吉の説があるが異論もある』。翌年五月に急死、享年未だ三十一歳であった。『死因は不明。病死や暗殺、あるいは政治的陰謀による切腹など諸説ある。角館には死の間際に直武が着ていたとされる血の付いた着物が今も残っている』とある。私は角館に旅した折り、彼の事蹟につき、親しく知って、非常に惹かれた人物であることを告白しておく。

・「平賀鳩溪」平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の画号の一つ。

・「且つ、添ふるに、其の由る所を以つてして曰く」原文では「添其所由曰」と「以」が脱落していて、うまく読めない。――絵に添えて、その絵を描くこととなった由来につき、記したものがあり、そこに以下の様に書かれてあった――の意。

・「封内」秋田(久保田)藩領内。

・「牡鹿郡」現在の男鹿市。広域でしかも旧八郎潟も含むため、川の特定は不能。

・「陰雨」しとしとと降り続く陰気な雨、または空が曇って雨が降ること。「せんとする時は。則ち、必ず水中に出没す」とあるから前者の意で採る。

・「森子信〔名は春信、號は梅丘。〕」これだけの情報が与えられていながら、ネット検索では掛からない。識者の御教授を乞う。

・「下邑」田舎の村の意であろう。

・「淺蟲」陸奥湾に突出する夏泊半島の基部にある旧陸奥国浅虫。現在の青森県青森市浅虫で温泉で知られる。江戸時代は弘前藩本陣が置かれ、藩主も入浴に来た。

・「寶暦中」一七五一年~一七六四年。

・「野内(のない)の海」青い森鉄道浅虫温泉駅の青森方面の一つ手前に野内駅がある(直線で六・三キロメートル)。その間の青森湾沿岸の呼称であろう。

・「日晡」日暮れ。

・「將に舩を進めて徙らんとす」原文は「徒」、原典は「徒」の(つくり)の上部が「土」でなく「上」である。私は孰れも「徙」の誤字と読んだ。「うつる」(移る)、この場合は、戻る(帰る)の意である。

・「牝人魚」原文は「牡人魚」。原典に従った。「め」の読みも原典のもの。

・「瑩白」つややかな白い色。ここは後で「肌膚も亦、白くして」とあるから、体を覆っている体毛のことを言っているようである。

・「返照」夕陽。

・「皚々」前を受けて「白皚々(はくがいがい)」の意。如何にも明るく白いさま。

・「甲錯」漢方で「肌膚甲錯(きふこうさく)」というと皮膚が潤いを失って、カサカサしている症状を指す。

・「黯色」黒ずんだ色であるが、灰色のことであろう。兩乳・両手、倶に人と異らず。

・「但だ、腰に簑の如き者を帶ぶるに似たり」原文は「帶」の字が二度続けて出るが、原典と校合すると衍字であることが明白である。訂した。

・「百設武唵児(ペセムヱール)」今度は漢字文字列は正しいものの、読みが「イヱフヱル」とあっておかしい。原典で訂した。

・「迷伊児名能」原文は「伊迷児名能」原典で訂した。

・「婦魚」原文は「婦女」。これではおかしい。原典で訂した。以下に出る「婦女」も同じ。

・「此れ、其の始めて之を名づくるの意想或いは異に、或は同きを以つてするが故なり」――この違いはこれ、その新たに発見し認めたところの対象に対して、名を附ける際の、その認識や把握及び理解の仕方が、或いは全く相違し、或いは基本に於いて全く相同でであったりすることに由るものであるに違いない――の意。

・「鑒法(かんはう)」識別・鑑別方法。

・「略其の説有ると雖ども」実はこの「有」は、最初脱字であったものが、「略」の右に訓点を施して小さく記載されてあるものである。

・「又、何に由つてか其の贋を辨ぜんや」――(未だ一人として真正の人魚を確かに見たという者が存在しない以上、)どうして「人魚」として書かれているもの、話されているものが作り話であり、贋物(にせもの)であると主張することが、どうして出来るのであろう、いや、出来ない――玄沢が人魚の実在に対してやや肯定的であることが、この一文からも明らかである。なお、この以下部分、原典は「獨り、我が友浪華(なには)の木世肅(ぼくせいしゆく)曰く、歇伊止武禮児なる者、我其の眞を知らず、然れども世の謂ふ所の……」となっているの短縮しており、じっくり読んだ際の、人魚実在主張の反語表現から、贋物の存在の事実を提示するという矛盾した文脈の違和感の理由が明らかとなるのである。この「木世肅」は知られた稀代のコレクターで博物学好事家であった木村蒹葭堂(けんかどう 元文元年一一(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや:家賃と酒株の貸付を生業とした。)を兼ねた商家の生まれ。)の中国風の字(あざな)である。

・「海鷂魚」軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目 Batoidea に属するエイ類(鰓裂が体の下面に開く種。サメは原則として鰓裂が体側に開く。但し、カスザメ目 Squatiniformes の鰓孔は腹側から側面に開いているので注意)を指す。

・「鳥海鷂魚」「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳では、これを板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ Dasyatis akajei に同定されておられるが、私は微妙に留保したい。暫くは検討を続行する。

・「○淸の屈大均「廣東新語」に曰ふ」以下は原典では「追考」(考証追記文)として附されてある。律儀にも梅園はそれを示すために、わざわざ一字下げを施しているようだ。

・『屈大均「廣東新語」』屈大均(一六三〇年~一六九五年)は明末清初の詩人。強い反清思想を持ち、五言律詩を得意とする典雅な詩風で明の遺民として詩名が高かった。晩年を広東で送ったが、そこで綴った地方風俗誌的記録が、この「広東新語」である(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「火長」船長。以前より何故か、そう呼ぶことを知っていたが(思い込みではない。「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳も「船長」となっている)、今回、幾ら調べても何故、そう呼ぶのか分からなかった(「水(夫)長」では水を呼び込んで船乗りには不吉だからだと私はずっと思い込んでいたのであるが)。識者の御教授を乞う。

・「盧亭」中文サイトでは盛んに「山海經広注」付図の「鯪魚」の以下の図を「盧亭魚人」として掲げている。 

 

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・「新安大魚山」ある中文サイトで大嶼山(だいしょざん)とする記載を見かけた。香港域内にあるランタオ島、香港島の西方に浮かぶ香港最大の島を指す。

・「南亭竹没老萬山」不詳。

・「魚に乘りて往來す」原文は「魚に乘りて往々す」であるが、原典で訂した。

・「※黒(きぐろ)」(「※7」=「犂」-「牛」+「黒」。)音は「リクワウ(リコウ)/レイクワウ(レイコウ)」で、黒ずんだ黄色。通常はやつれた顔の形容語である。

・「能く言語すとも、惟だ、笑ふのみとも」文脈上、意味の通るようにかく訓じた。原典自体に問題があるように思われる。

・「久は之れ、能く衣を著る」ここも意味の通るように独自に訓じた。「久」は年老いた者の意か。ただ、実はこれは梅園が単純に一行分、書き写し落した誤り、と私は踏んでいる。「六物新志」原文を見るとここは、

   *

有得其牝者、與之婬能言語、惟笑而已、久之能著

衣、食五穀、携至大魚山、仍没入水、蓋人魚無害於

人者、人魚長六七尺、體髪牝牡亦人、惟背有短鬣

   *

でこの真ん中の行だけがごっそりないからである。しかも二行目の頭は訓点が附いて「ㇾ衣」、三行目の頭も同じく「ㇾ人」で良く似ていて、うっかり飛ばしそうなのである。

・「六、七尺」百九十~二百一センチメートル。

・「沙汭(さぜい)」入江の砂浜。

・「法を作し、※8厭(じやうえん)す」(「※8」=「衤」+「襄」。)厄除けのための呪(まじな)いを修し、魔を避けるようにする(「※8」の意は不詳であるが、前後から推測してかく訳した)。

・「人首鱉身」「鱉」はスッポン。僧侶然とした坊主頭が首のところからニョッキリと出でた巨大な鼈(スッポン)の図で、本草書ではしばしば見かける。

・「赫色」音なら「カクシヨク(カクショク)」。燃えて輝くような紅い色であるが、赤毛に近い表現であろう。

・「矢の根石」鏃(やじり)。

・「ひこ胭」喉彦(のどびこ/のどひこ)。口蓋垂(こうがいすい)の俗称。所謂、「のどちんこ」であるが、ここは気道の奥まで見えることを言っている。梅園は非常に細かく観察している。

・「檎櫚」これは恐らく「棕櫚」(シュロ)の誤りである。

・「微し」くっきりとした明白な。

・「重唇」唇が内側と外側で二重(ふたえ)のようになっていることを言っているか。図の上唇は確かにそのように見える。

・「脇骨」肋骨が浮き出しているところ。前の方の全身像を見よ。

・「塩邉大工町」江戸或いはごく近在の町名と思われるが不詳。識者の御教授を乞う。

・「辻川氏」不詳。

・「小石川白山下指谷町」旧白山下指ヶ谷町のこと。現在の文京区白山の一・二・四・五丁目。現在の京華通り。

・「赤塚伊勢屋」不詳。

・「熟醫神谷玄雄」尾張屋板江戸切絵図の「駒込邊繪圖」の白山権現の東参道の右側(現在の地下鉄白山駅北の直上に「神谷玄雄」の屋敷を見出せる。

・「天保八〔丁酉。〕年九月廿日」西暦一八三七年十月十九日。

・『○「本草綱目」……』以下は、また「六物新志」からの抜粋である。何か、写し残した感が梅園にはあったのだろうが、何となく不自然である。最後の「日本紀」のパートはダブっている。しかし、ここで彼は正しく「日本書紀」としている点に注意したい。また最後の「今、案ずるに、此の人魚の屬なるべし。本邦、処々、稀に之れ有り〔云々。〕」は少なくとも「六者新志」の当該の記事の末には存在しないのである。この部分、彼は実はこの原典の書名の誤りをそれとなく正し、しかも自身の人魚実在への肯定的意識をさり気なく示そうとしたのではなかったろうか?

・「弘景」六朝時代の医師で科学者でもあった陶弘景(四五六年~五三六年)。これは恐らく彼の「本草綱目集注」での呼称であろう。

・「孩兒魚」「孩兒」とは乳飲み子のこと。前にも出たようにその鳴き声による命名である。

・「舌」/「寸(すん)難指(さしがたし)」舌は視認出来るが、口の中のことなれば、その長さを測定ことは不能であると言うのであろう。

 最後に。大いにお世話になった「東京人形倶楽部」には釜野啓氏の『「ぞ」はZOOLOGISTのゾ4 リュウグウノツカイと人魚(3)本間義治の場合』があり、その『5.「新人魚考」』に、この梅園の描いた『人魚についても本間は「サルの胸郭(梅園の添書きでは鳩尾)に、脂鰭をもつサケの胴尾をついだ跡がはっきり分る」と述べている』とある。

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