アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (四)兎が蜥蜴のビルを送出す
四 兎が蜥蜴(とかげ)のビルを送出(おくりだ)す
それは白兎でした。ノロノロと歩いてか來ながら、まるで何か落し物でもしたやうに、周圍を、ヂロヂロと見て居ました。そしてアリスは、兎が獨(ひとり)で次のやうにぶつぶつ言つて居るのを耳にしました。「公爵夫人、公爵夫人、まあ、わたしの足、まあ、わたしの毛皮と鬚(ひげ)、夫人はわたしをきつと死刑になさることだらう。わたしどこで落したんだらうかなあ。」アリスは直ぐに兎が、扇子と白いキツドの手袋を探して居るのだと考へました。そこで親切氣(しんせつぎ)を出して、探してやりましたが、どこにも見當りません。――アリスが池の中で泳いでからはすつかり何もかも變つてしまつたやうに見えました。ガラスのテーブルや、小さな扉のある例の大きな廣間はすつかり消えてなくなつてゐるのでした。
アリスが探し廻つて居ます中(うち)、兎はすぐにアリスを見つけて怒つた聲でどなりました。「おい、メーリー・アン、お前はここで何をして居るのだ。直ぐ家(うち)へ走つて歸つて、手袋と扇子を持つてこい。さあ早く。」
アリスはこの言葉に驚いて、人違ひだと言譯(いひわけ)をするひまもなく、兎の指ざざした方(はう)へと、直ぐに走つて行きました。
「あの人、わたしを女中と思つたんだわ。」と、アリスは走りながら、獨語(ひとりごと)を言ひました。「わたしが、誰(たれ)だか分つたら、どんなに驚くことでせう。でも、手袋と扇子をとつて來てやつた方がいいわ――もし手袋と扇子か見つかるものならねえ。」かう言つて居るとき、アリスは小さいキチンとした家(うち)の前に出ました。その家の玄關の戸には、ピカピカする眞鍮の名札に「W. Rabbit(ダブリユ ラビツト)(兎(うさぎ))」と、彫りつけてありました。アリスは案内も乞はずに、あわてて二階へ上(あが)りました。それは手袋や扇子を見つけない中(うち)に、ほんたうのメリー・アンに會つて、追ひ出されるといけないと思つたからでした。
[やぶちゃん注:「W. Rabbit(ダブリユ ラビツト)(兎)」の「ダブリユ ラビツト」は「W. Rabbit」の部分のルビで、「(兎)」の部分は本文である。しかもそれに「うさぎ」のルビがついているのである。ここは童話なら表札の絵にした方が効果的なところである。]
「ずゐぶん妙ねえ」とアリスは、獨語(ひとりごと)をいひました。「兎のお使ひをするなんて。此の次にやデイナーがわたしを、お使ひに出于すかも知れないわ。」かう言つてアリスは、これから先き起つて來ない事でもない、さういふ事を考へて居りました。
「アリス孃(じやう)さん、すぐいらつしやい。御散歩(ごさんぽ)のお仕度(したく)をなさいませ。」「ばあや、直きに行つてよ、でもね、わたしデイナーが歸るまで、此の鼠の穴を見張りしてやる事にしたの。鼠が出ないやうにね。」――などとアリスハしやべり續けました。「だけれど、もしデイナーがうちの人達にこんなに用をいひ付けるやうになつたら、うちの人達はデイナーを内には、おかないでせうねえ。」
この時アリスは、小綺麗な室に人つていきました。窓際にテーブルが、一つ置いてありました。その上には「アリスが望んだやうに」一本の扇子と小さい白のキツドの手袋が、二三對(つゐ)置いてありました。アリスは扇手と袋を、とり上げて、室を出て行かうとしまむたとき、鏡のそばにあつた小さな壜(びん)に、ふと目を留めました。今度は「お飮み下さい」と云ふ札は、貼つてありませんでしたが、それでも構はず栓を拔いて、唇にもつていきました。そして獨語(ひとりごと)に「何かしら、面白いことがきつと起るのね、何か食べたり、飮んだりするといつも。だから今に此の壜(びん)のおかげでどなる か試してやらう。わたし元通りに大きくなりたいわ。こんなちつぽけなものになつて居ることなんか、あきあきしてしまつたんだもの。」そして實際その飮物は、力をあらはしました。しかもそれはアリスが思つたよりズツと早く、半分も飮んでしまはないうちに、アリスの頭は天井につかへてしまつて、首を曲げないと、折れてしまふほどになりました。アリスは、急いで壜(びん)を下に置き、獨語(ひとりごと)をいひました。「もう澤山、――わたしこれ以上もう大きくなりたくないわ。これでは戸口を通つて出られやしない。――わたしこんなに飮まなければよかつた!。」
ああしかし、もう間に合ひませんでした。アリスはズンズン大きくなつて、間もなく、床(ゆか)に膝をつかなければなりませんでした。しかしもう、それでも窮屈になつてしまひましたから、片肘(かたひぢ)を戸口に支へて、片腕を頭にまきつけて、寢そべつてみました。ところがそれでもズンズン延びていきましたので、什方なくアリスは、窓から片腕を出して、片足を煙突の中に入れて、獨語(ひとりごと)をいひました。
「これぢやあとどうなつても、もう何(なん)にも仕樣(しやう)がないわ。一體わたしどうなることだらう。」
[やぶちゃん注:「わたし」は底本では傍点「ヽ」が「わた」の二字に附されている。これは一見すると「わたし」に打たれるべきところが一つ落ちたようにも見えるのだが、しかしここで原文を見てみると、 "Now I can do no more,
whatever happens. What will become of
me?"であるから、これは洒落じゃないが、私にゃ、どうも、傍点の脱字ではなくて、傍点位置のズレのように見えてくるんだ。これはどう見ても「どう」に打つべき傍点だったんじゃあ、あるまいか?(或いは「なる」か。或いは「どうなる」総てに振るのが私は正しいと思うが) ともかくも不自然なので、勝手に「どう」と太字にした。]
ところが運よく、魔法の壜(びん)の效力(ききめ)は丁度此の時で、すつかり盡きたのでした。で、アリスはもうその上、大きくはなりませんでした。でも相變らず不便(ふべん)でした。そしてもう室(へや)から出て、いけさうにもないと思ひましたので、アリスはしみじみ、不幸(ふしあはせ)なことだと思ひました。
「おうちに居た時の方が、ずつと氣が樂だつたわ。」と可哀想(かはいさう)なアリスは思ひました。「大きくなつたり、小さくなつたり、なんかしないし、又、鼠や兎に用をいひつけられることなんかないから。わたし兎の穴に入らなければよかつたんだわ。でも――でも――こんな目に逢ふのも、一寸(ちよつと)めづらしい事だわねえ。どうしてこんなことになつたのか知ら。わたし、いつそお伽噺(とぎばなし)を讀んでも、そんな事があるなんて思つた事なんてないのに。それが今では、わたしがその中に入つて居るんだもの。きつとわたしのことを書いた本が、できると思ふわ。きつと。わたしが大きくなつたら、書いて見ようかしら。――でも、わたし今では大きくなつて居るのねえ。」と、悲しさうな聲でアリスは云ひました。「兎に角ここではもう、これ以上大きくならうつたつて、なりやうがないわ。]
「でもさうなれば。」とアリスが考へました。「わたしは今より決して年をとらないで居られるるんぢやないかしら。さうなら有難いわ。とにかく、決しておばあさんに、ならないなんて――でもさうすると――いつも御本(ごほん)を教はらなればならないのねえ。ああ、わたし、それは御免だわ。」
「まあ、馬鹿なアリス。」とアリスは自分で返事をしました。「どうしてお前をこんなところで、勉強ができて? お前の居るだけがやつとなのに、教科書を置くところなんか何處(どこ)にあるの!」
かう云ふ風にアリスは、一人で、こつちの話手(はなして)、あつちの話手になつてお話をして居ましたが、少し經つて外で聲がしましたので、自分のお話を止めて、耳をすませました。
「メーリー・アン、メーリー・アン。」とその聲は言ひました。「すぐにわたしの手袋を持つて來てくれ。」それからパタパタといふ小さい足音が、階段に聞えました。アリスは兎が自分を、さがしにやつてきたのだといふことを知りました。それでアリスは自分の身體(からだ)が、今では兎の大きさの千倍程もあり、兎なんか怖がる理由はないなんていふことを、すつかり忘れてしまつて、家がゆらぐ程身ぶるひをしました。
やがて兎が入口のところまで上つて來て、戸を開けようとしましたが、その戸は室の中の方へ押すやうになつて居て、アリスの肘(ひぢ)が、それを強くつつぱつて居ましたので、開けようたつて駄目でした。このとき、アリスは「廻(まは)つて、窓から入らう。」と兎が言つて居るのを聞きました。
「それも駄目だわ。」と、アリスは考へました。しばらく待つて居ると、窓下に丁度兎が來たやうな足音が聞えましたので、アリスは、だしぬけに、手を出して一摑(ひとつか)みしました。けれどもアリスは何もつかまへられないで、小さいキヤツと云ふ聲と、ドタンと落ちた音と、ガラスの破壞(こは)れた音を聞きました。その音でアリスは、胡瓜(きうり)の温室(おんしつ)か何かの上に、兎が落ちたのだと考へました。
すると怒つた聲が聞えてきました。――それは兎の聲でした。――「パット、パット。お前は何處(どこ)に居るのだ。」するとこれまでに聞いたことのない聲が「ここに居ますよ、御主人樣、林檎(りんご)の植付(うゑつ)けをやつて居るんですよ。」と言ひました。
「何だ、林檎の植付けだつて。」と兎は怒つて言ひました。「さあ、ここへ來てわたしを、ここからだして呉れ。」(ガラスのこはれる音が又(また)しました。)
「おい、パット、窓のところにあるのは、あれはなんだい?」
「御主人樣、あれは確(たしか)に腕(うで)ですよ。」(その人は「う、うで」と腕のことを言ひました。)
「腕だつて?、馬鹿!、あんな大きな腕があるかい。窓中(まどぢゆう)一杯になつて居るぢやないか。」
「御主人樣、全くさやうでございまず。でも、なんと言っても腕でございます。」
「ウン、だが兎に角、此處(ここ)には用がない。行つて出してしまへ。」
それから長い間、シンと靜まり返ってゐました。アリスは時時次のやうな囁(ささや)き聲をきくだけでした。「ほんとに、御主人樣、實際嫌(いや)ですよ。全くのこと」――「わしの云ふ通りにしろ、この臆病者め!」そこでアリスはとうとう又(また)手を延ばしだして、もう一度空(くう)をつかみました。今度は二つの小さいキヤツと云ふ聲がして、ガラスの破壞(こは)れる音がまたしました。「まあ隨分澤山(たくさん)胡瓜の温室があるらしいわねえ。」とアリスは考へました。「あの人達、今度は何(どう)するか知ら。わたしを窓から引張りだすつて、さうして呉れれば仕合(しあは)せだわ、わたしはもうこれ以上、ここに居たくなんかないんだもの。」
アリスは暫らくの間、待つて居ましたが、何(なん)にももう聞えませんでした。やがて小さな手押車(ておしぐるま)の輪(わ)の音が、聞えて來ました。そしてて多勢(おほぜい)の聲が、がやがや話合(はなしあ)つて居るのが聞えました。アリスは、その言葉を聞き分けてみました。
「別の梯子(はしご)は、どこにある。――一つしかありませんでした。ビルが一つもつて行つたんです。――ビル、ここへそれを持つて來い。――それをこの隅へ立てかけろ。――さうじやない、先づしつかり一緒に縛りつけるんだ。――まだ半分にもとどかない。――まあ、これでも十分ですよ。そんなに口やかましく云はないで下さい。――おい、ピル、この繩をしつかりつかまへるんだ。――屋根は大丈夫かい。――そのブラブラの瓦に氣をつけろ。――やあ落ちかかつて來た。眞逆樣(まつさかさま)に(大きな音がしました)――これ、誰(だれ)がしたんだ。――ビルらしいなあ。誰が煙突を下りるのだい。――いやだ、おれはいやだ。――お前やれ。――そんなことはいやだよ。――ビルが下りなきやいけない。――おいビル、御主人がお前に下りろと云ふ、御言(おい)ひ付けだよ。」
「まあ、それではビルか、煙突を下りることになつたのねえ。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。「まあ何(なに)もかも、ビルに押しつけるのねえ。わたし々ら何をもらつたつて、ビルになりたくないわ。この爐(ろ)はほんとに狹くるしいのねえ。でも、少し位(ぐらゐ)ら、蹴られさうに思へるけれど。」
アリスは煙突の下まで足をのばして、待つて居ると、やがて小さな動物が(それはどんな種類のものだか、分かりませんでしたが) アリスのすぐ頭の上で、煙突の内側を引つかいたり、這ひまはつたりする音が聞えはじめました。その時アリスは「それがビルだな」と獨語(ひとりごと)をいつて、きつく蹴つてみました。そして次にどんな事が起るかと、待ち構へて居りました。
最初にアリスの聞いた事は[や! ビルが出て來た」と云ふ大勢の聲でした。それからは例の兎の聲だけになつて「あいつをうけてやれ、そら垣根の傍(かたはら)にゐるお前が。」といひました。それから一寸靜になり、その中(うち)又(また)ガヤガヤと聲がしたしました。――あいつの頭を上にしてやれ。――さあ、ブランデーだ。――喉(のど)につかへさせないやうにしろ。――どうだい、おい。どうしたんだ。のこらず話して聞かせてくれ。」
すると、小さな元氣のないしはがれた聲がしました。(「あれがビルだな。」とアリスは思ひました)「うん、どうもわからないんだ。――いや、もういいんだよ、ありがたう。もうよくなつたよ。――けれどわしはすつかり面喰(めんくら)つちまつたんで、お話ができないよ。――わしの覺えて居ることは、何かびつくり箱のやうなものが、わしにぶつかつて來て、わしは煙火(はなび)みたいに、うち上げられたつて事だけだ。」
「うん、そんな具合にとび出して來たつけ。」と、外の者たちが言ひました。
「この家(うち)を燒き拂つてしまはなければならん。」と兎の聲が言ひました。それでアリスは出來るだけ大きな聲で「そんな事したら、デイナーをけしかけてやるわよ。」と言ひました。
すると、忽ちあたりがしんと靜まりかへりてしまひました。アリスは獨(ひとり)考へました。「皆達(みんなたち)、今度は何んな事をするだらう。みんなが少し智慧があるなら、屋根でもめくるだらうが。」二三分の後(のち)みんなは再び動き廻りはじ
めました。そしてアリスは兎が「初めは車一杯でいいや。」と云ふのを聞きました。
「何を車一杯なんだらう。」とアリスは思ひました。けれども永くそれをいぶかつてゐる暇(ひま)もなく、すぐと小砂利(こじやり)の雨が、窓からバラバラと入つて來ました。中にはアリスの顏に當るのもありました。「わたし止めさせて見せるから。」と、アリスは獨語(ひとりごと)をいつて、大きな聲でどなりました「お前たち、そんなことをしない方が身のためだよ。」寸ると、すぐに又シンと靜(しづか)になつてしまひました。ふとアリスは砂利が床(とこ)の上に落ちたまま、小さなお菓子に變つてゐるのに氣付いて、びつくりしてしまいました、が、そのときアリスの頭に、愉快な考へが浮びました。「わたしこのお菓子を一つでも食べると、身體(からだ)の大きさが、變るに違ひないわ。そしてこれ以上もう犬きくはできまいから、きつと小さくなる方(はう)なんだわ。」
[やぶちゃん注:末尾、底本は「方んなだわ。」。誤植と断じて訂した。]
そこでアリスはお菓子を一つのみこみました。すると直ぐさま小さくなり出したので、アリスは大喜びでした。入口を通れる位(くらゐ)、小さくなると直ぐ樣、アリスは家(うち)から驅け出しました。すると小さい獸や鳥が、ウヨウヨとして外(そと)でアリスを待つて居るのでした。可哀想(かはいさう)な小さな蜥蜴(とかげ)のビルがその眞中(まんなか)にゐて、二匹の豚鼠(ギニアピツグ)に身體を支へられ、それに壜(びん)の中の何かをのませてもらつて居ました。アリスか出てくると、みんなは一齊(せい)にアリスめがけて詰(つ)めよせて來ました。しかしアリスは一生懸命馳けだして、直ぐにコンモリ繁つた森の中へ、避難してしまひました。
[やぶちゃん注:「豚鼠(ギニアピツグ)」原文“guinea-pigs”。齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科テンジクネズミ科テンジクネズミ属モルモット Cavia porcellus のこと。家畜化されたテンジクネズミ(cavy)。]
「まづわたしが、しなければならないことは。」とアリスは、森の中をブラブラ歩きながら、獨語(ひとりごと)をいひました。「もと通りのほんとの大きさになることだわ。その次には、あの綺麗なお庭に行く道を見つけること。わたしこれが一番いいやりかただと思ふわ。」
これは疑ひもなく、大層すぐれた、そしてやさしい計畫のやうでした。ただむづかしいことは、アリスには、それをどう手をつけてよいか、少しも考へのないことでした。アリスが樹と樹の間を、キヨロキヨロして覗き見してゐますと、頭の上で小さい鋭い吠聲(ほえごゑ)がしますので、アリスはあわてて上を向いて見ました。すると大きな犬ころがアリスに觸(さ)はらうとでもするやうに前足をそつと出し、大きな丸い目で、アリスを見下(みおろ)して居ました。
「まあかはいい犬だこと。」とアリスはやさしい聲で言つて、一生懸命口笛を吹かうとしました。が、アリスはこの犬は御腹(おなか)をへらして居るかも知れない、もしさうだといくら御機嫌(ごきげん)をとつても、自分が食べられると思つて、内心びくびぐして居ました。
アリスは殆んど夢中で、小さな一本の棒を拾ひ、犬ころの方に突きだしました。すると犬ころはキヤンキヤン嬉しかつて、ただちに四足(よつあし)をそろヘて宙(ちう)にとび上つて、棒にとびかかり、嚙み付きさうな風をしました。そのときアリスは、頭の上をとびこされないやうにと、大き薊(あざみ)の後(うしろ)にかくれました。そしてアリスが向ふ側に出たとき、犬ころは棒にとびつきました。そしてそれを、つかまへようとして、でんぐり返(がへ)りました。このときアリスは、この犬ころとふざけるのは、荷馬車ひきの馬と、遊んで居るやうなものだと思ふと、今にもその足の下に踏みつけられざy々のてまた薊(あざみ)のぐるりをかけだしました。それから犬ころは棒切(ばうぎれ)めがけて、何度も小攻擊(せうこうげき)をやりだし、その度に一寸進み出ては、ぐつと後退(あとすざ)りして、その間(あひだ)たえずキヤンキヤン吠え立ててゐましたが、とうとう息をハアハアきらせ、口から舌をたらりとだし、大きな目を半分とぢて、ずつと向ふで坐りこんでしまひました。
こりや逃げるのに、有難い仕合せとアリスは直ちに、駈けだしました。
餘り駈け過ぎたので、すつかりくたびれて、息が切れてしまひました。が、もうその時は犬ころの吠聲(ほえごゑ)は、遠くの方で、微(かす)かに聞えるだけになつてゐました。
「でもまあ、なんて可愛(かはい)らしい犬ころだつたらう!」とアリスは一本の金鳳花(きんぽうげ)に、よりかかつて休みながら、一枚の葉を扇子がはりにして、煽(あふ)ぐのでした。「わたし、あたり前の背でさへあれば、いろんな藝をしこんでやるんだけれど。さうさう、わたし元通り、大きくならなければならないといふことを、すつかり忘れてゐたわ。――さうねえ――どうしたら大きくなれるんだらう。わたし何か飮むか食べるか、しなければならないと思ふわ。けれども。『何を』といふことが大問題なんだわ。」
たしかに、大問題は『何を』と云ふことでした。アリスは身のまはりの、花や草の葉を見まはして見ましたか、この場合、飮んだり食べたりしてよささうなものが、見つかりませんでした。
アリスの近くに、大きな蕈(きのこ)が生えて居りました。それは丁度アリスの大きさ程ありました。アリスはその蕈(きのこ)の裏(うら)を見たり、兩側から見たり、うしろへまはつて見たりしましたが、今度はその上に何があるか、見たくなつて來ました。
アリスはつまさきで立つて、蕈(きのこ)の端(はし)から見ました。すると直ぐにアリスの目は、大きな靑い芋蟲(いもむし)の目にはたと、ぶつかりました。芋蟲は頂邊(てつぺん)に腕組(うでぐ)みで坐つて靜かに長い水煙管(みづぎせる)を吸つて、アリスにも又(また)は外(ほか)の何(なに)にも、少しも氣をとめて居ない樣子でした。
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