甲子夜話卷之一 42 秋元氏鎗の事
42 秋元氏鎗の事
是も秋元氏の宅にて、彼玄關の上に、世に鞍箱と謂ふ、鎗の鞘に金字にて大きく無の字を蒔出したる鎗の掛て有るを見る。予問ふ、かの鎗は何の由ありや。永朝答ふ、吾祖泰朝〔但馬守〕、大阪御和睦のとき總堀を埋る奉行たりしが、堀は埋まじきと、神祖の上意ありしを、泰朝聞ずして、人夫を促し、矢庭に埋終りしと云。此時十八歳なりしとぞ。無雙の若者なり迚、此御鎗を賜りけりと語る。又今彼家士の説には、駿府に於て賜はりし所と云。
■やぶちゃんの呟き
「秋元氏」第41話に出た秋元永朝(つねとも)。そちらの注を参照されたい。
「泰朝」館林藩秋元家第二代秋元泰朝(天正八(一五八〇)年~寛永一九(一六四二)年)。秋元長朝の子で徳川家康の近習出頭人(きんじゅうしゅっとうにん:江戸幕府初期の職名。将軍・大御所の側近で、幕政の中枢に参与した者。)。ここに出るように、慶長一九(一六一四)年の大坂冬の陣の直後、瞬く間(約一ヶ月)に行われた、大坂城の堀埋立に功績があった。ウィキの「秋元泰朝」によれば、『豊臣氏滅亡後の残党狩りも行っている』。寛永五(一六二八)年、『父・長朝の死により家督を相続』、寛永十年、『甲斐国東部の郡内地方を治める谷村藩の城代として』一万八千石に封ぜられ、寛永十三年には、『日光東照宮の造営で総奉行を務め』ている。永朝から五代前に当たる。因みに本話中の「此時十八歳なりしとぞ」「無雙の若者」というのはおかしい。埋め立ての奉行となった当時、彼は満三十四歳である。
「大阪御和睦のとき總堀を埋る奉行たりし」これは家康と秀頼の第一次攻防戦であった冬の陣の際に行った巧妙な機略で、徳川方は、条件として出して豊富方が吞んだ大阪城の「外堀」を埋めるという要件を、「総堀」に読み替えて次期攻略の礎としたのであった。この辺りから夏の陣への経緯は、近世史に疎い私でもすこぶる面白く読める「歴史年代ゴロ合わせ暗記」の「大阪夏の陣」がよい。
「堀は埋まじき」「うむまじき」と読み、ここは不可能の推量である。和議の条件を逸脱して、内堀を含む総堀を埋めることは、途中で豊臣方からの抗議も入るであろうから、多大な労力と短時間の作業が要求され、とても「総堀を埋めることは出来まい」、次期攻略のために可能な限りの堀を埋めればよかろうといったニュアンスで家康は言ったのであろう。

