橋本多佳子句集「命終」 昭和三十三年 梅溪
昭和三十三年
梅溪
梅溪に赤土露出せる一断崖
ひきよせてはつしと放つ梅青枝
吾等去つて木魂しつまる梅の溪
鶯や火を欲りて立つ崖の枯れ
鶯や山拓く火に昂りて
毛糸編む老の刻々打ち込みて
[やぶちゃん注:「梅溪」は奈良盆地と伊賀盆地の境に広がる大和高原の北側、京都・三重・奈良府県境付近にある月ヶ瀬梅林のことであろう。鎌倉中期に当地にある真福寺境内に梅が植えられたのが始まりとされる古くから知られた梅林で、参照したウィキの「月ヶ瀬梅林」によれば、奈良県奈良市月ヶ瀬尾山とその周辺に位置する梅林で、名張川(五月川)の渓谷沿いに梅の木が広がることから月ヶ瀬梅渓とも呼ばれる。二〇〇七年現在で約一万三千本の白梅・紅梅が栽わる。奈良市中心部からは東に約三十キロメートル、三重県伊賀市中心部からは南西に約十二キロメートルの距離にある。『大和高原北側の府県境付近は木津川水系名張川の渓谷が続いており、特に月ヶ瀬梅林のある名張川下流域は五月川と呼ばれ、深いV字谷を形成して』おり、『月ヶ瀬梅林はこのV字谷の斜面に広がる梅林である。「月ヶ瀬梅渓」と呼ばれる所以となった雄大な渓流は高山ダムの完成』(昭和四四(一九六九)年)『によりダム湖の底に沈んだが、近年はその月ヶ瀬湖の湖水と梅林が調和し、新たな景観を形成している』。『明治時代に入る頃まで月ヶ瀬は烏梅(若い梅の実の燻製。紅花染めに必要な材料。)の一大生産地であり、月ヶ瀬梅林は烏梅の原料となる梅の実を収穫する用途で規模を拡大し』、最盛期の江戸時代には約十万本の烏梅の木が成育していたとされる。しかし二十世紀になって『合成染料の発達により、烏梅はほとんど生産されなくなったため、月ヶ瀬梅林は観光資源として利用や食用の青梅の栽培に軸足を移した』とある。多佳子の詠じた景色はダムに沈む以前の景観であることに注意されたい。]
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