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2015/06/27

氷の涯 夢野久作 (2)

 日本は現在(大正九年)歐州大戰の影響を受けて西比利亞(シベリア)に出兵してゐる。同時に北滿(ほくまん)守備といふ名目で○個○團の軍隊が哈爾賓に駐劄(ちゆうさつ)してゐる。その中で歩兵第○○○聯隊第二中隊に屬する上等兵一名を入れた七名の兵卒が、キタイスカヤに在る〇〇司令部に當番卒として、去年(大正八年)の八月に派遣された。その中に僕は居たのだ。

[やぶちゃん注:●「シベリア出兵」以下、非常に長くなるが、ウィキの「シベリア出兵」から引く。当時の派兵兵士の現状を知ることが、本作のロケーションを極めて鮮やかに描き出して呉れるからである。ともかくも騙されたと思ってお読みあれ(アラビア数字を漢数字にし、記号の一部を省略変更、段落は省略した)。一九一八(大正七)年から一九二二(大正十一)年までの間に、『連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ』。『日本は兵力七万三千人(総数)、四億三千八百五十九万円から約九億円(当時)という巨額の戦費を投入。三千三百三十三人から五千人の死者を出し』て撤退した(兵力投入はアメリカ約八千人、イギリス千五百人、イタリア千四百人と比すれば差は歴然)。『ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明』であるが、尼港事件(ニコラエフスクで発生した赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。パルチザン部隊四千三百名が占領、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分の六千名を超えるともいわれ、日本人居留民・日本領事一家・駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。ここはウィキの「尼港事件」に拠った)前後には『五千名以上が殺害されたとされ』、『また別資料では、死傷者八万人、六億ルーブル以上の被害とされる』とある。その後、一九二一(大正十)年『のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち内閣総理大臣となった加藤は一九二二年六月二十三日の閣議で、この年の十月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた』とある。さて、問題はその現地での実情である。『日本軍は出兵当初から「露国領土の保全」と「内政不干渉」を謳った「一九一八年八月二日布告」の普及に努めたが、ロシア人住民の対日感情が芳しくないことを熟知すると、日本国内の宗教団体を利用する方式を採用し、日本正教会と西本願寺に白羽の矢が立った。前者からは、三井道朗、森田亮、瀬沼烙三郎、石川喜三郎、計四名の神父、後者からはウラジヴォストークの西本願寺布教場の大田覚眠師が工作員に指名された。彼らの活動内容を伝える資料としては、外務次官・幣原喜重郎から陸軍次官・山田隆一に宛てた通牒(一九一八年八月二十二日付)などがある。そこには「表面全然政府ト関係ナキ体裁」をとることなど、工作を実施する上での規定が詳細に記されている。日本軍特務機関および総領事と緊密な関係を保ちつつ、森田と瀬沼はウラジヴォストーク方面を中心に活動し、三井と石川は北満州・ザバイカル州方面、さらにはチタからイルクールクまで足を伸ばした。後者は遊説の傍らハルビンで購入した食料品や日用品の廉売に従事したとされる。西本願寺の大田もウラジヴォストークで宣撫活動に従事。しかし一九一九年頃まで続いた活動の成果は芳しくなかったとされる』。以下、「現地における日本軍将兵の実態」の項より。『一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られた』(以下、引用。引用文は恣意的に正字化し、一部を歴史的仮名遣に訂した)。『一般ニ士氣發揚シアラサルカ如シ 即チ戰爭ノ目的ヲ了解シアラサルノミナラス官費滿州旅行位ノ心得ニテ出征シアルモノ大部ヲ占ムルノ有樣ナリ』(朝鮮軍司令官兵站業務実施報告)『また、チェコ軍救済と称してウスリー鉄道沿いにシマノフカまで前進した日本軍先陣部隊が、その先には「ロシア人しかいないと言はれて引き返し」、その後再び前線に送り出されるという「滑稽な一幕」もあったという。士官・幹部も同様で、ウラジヴォストークの某参謀将校が毎日「裸踊り」の観覧にうつつを抜かしていたことについての報告が残っている。戦線が泥沼化した一九二〇』(大正九年。なお、以下の引用文も恣意的に正字化した)『年の段階でも同地の派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁將棋に日を消し」ており、少壮将校は「酒樓に遊蕩」していたとされる。このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡國カ 隊改良ニ關スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極祕トシテ當路扱ヒ少數識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。同「絶叫書」の内容は全八節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。「軍紀頽廢ノ實例」の節は、さらに「(イ)敬禮ヲ避ケル」「(ロ)社會主義ノ氣分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無價値」の各小節に分かれている。(ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかったとされる。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡狀 州里驛より中東鐡道に達せる報告に日本兵は薪及鷄類を窃み又驛員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」)。また、同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戰國ノ住民ニ對スル」ような態度を糾弾している。「(ロ)社會主義ノ氣分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な靑年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社會主義」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。治安当局は「過激派」による「危險思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「祕 歸還兵ノ言動」では、「危險思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戰地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ツテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第七十二連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ對シテ壓制ナリ」として「下士以下全員著劍シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また、第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治一ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジヴォストーク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戰場ナラ彼等ハ命幾何アツテモ足ラン 彈丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」。戦線が泥沼化した一九二〇年頃には、前線の兵士は一日も早い帰国を望むようになったとされる(「他國の黨派添爭ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」)』。一方、以下は「白色テロへの日本軍の幇助」の項。『ロシア語学者の八杉貞利(当時、東京外国語学校教授)は、一九二〇年七月二十八日、アムール・ウスリー旅行を企てた。同旅行中の日記はシベリア戦争下の現地状況について記されており、その中には日本軍の白色テロに対する幇助の模様も含まれている』(以下の引用は恣意的に正字化した。一部を歴史的仮名遣に訂した)。『日本下級軍人が、所謂殊勲の恩賞に預からんがために、而して他の實際討伐に從軍せる者を羨みて、敵無き所に事を起こし、無害の良民を慘殺する等の擧に出ること。而して「我部下は事無き故可哀相なり、何かやらせん」と豪語する中隊長あり』。『また、別の駅では以下の話を耳にする』。『目下過激派の俘虜百名あり、漸次に解放したる殘りにて、最も首謀と認めたるものは殺しつつあり、之を「ニコラエフスク行き」と唱えつつありといふ』。更に、『各駅は日本兵によりて守備せらる。(中略)視察に來られる某少佐に對してシマコーフカ驛の一少尉が種々説明しつつありしところを傍聽すれば、目下も列車には常に過激派の密偵あり、列車着すれば第一に降り來たり注意する動作にて直ちに判明する故、常に捕らへて斬首その他の方法にて殺しつつあり、而して死骸は常に機關車内にて火葬す。半殺しにして無理に押し込みたることもあり。或時は両驛間を夜間機關車を幾囘となく往復せしめて燒きたることあり。隨分首切りたりなど、大得意に聲高に物語るを聞く。而して報告は、單に抵抗せし故銃殺せりとする也といふ。浦鹽にて聞きたることの僞ならぬをも確かめ得て、また言の出るところを知らず』とあって、もの凄いの一言に尽きる夢野久作も吃驚の猟奇頽廃何でもアリの地獄であったことが分かるのである。 ●「○個○團」「全集」では『○個旅團』。 ●「〇〇司令部」「全集」では『派遣軍司令部』で、前のも含めて、恐らく夢野自身が当局の検閲を意識して、もともと施してあった伏字であったものの、遠慮する必要のないことが分かって戻したものであろう。●「キタイスカヤ」ハルピン(現行の繁体字表記では「哈爾濱」)の中央大通街の旧名。「北海道大学附属図書館」公式サイト内のギャラリーにある「哈爾中央大街舊名キタイスカヤ街」で画像が見られる。]

 司令部に宛てられた家はキタイスカヤ大通の東南端に近い、ヤムスカヤ街の角に立つてゐる堂々たる赤煉瓦(れんぐわ)四階建の舊式建築で、以前はセントランニヤといふ一流の旅館だつたといふ。在留邦人は略してセントラン、セントランと呼んでゐるさうな。地下室が當番卒や雇人(やとひにん)の部屋と倉庫。一階が調理室、食堂、玄關の廣土間(ひろどま)等(とう)。その上の二階が本部、經理部なぞ云ふ色々な事務室、三階(がい)が將校や下士の居室、その上の四階(かい)の全部が此家(このいへ)の所有主のオスロフといふ露西亞人(ロシアじん)と其家族の部屋になつてゐた。

 ところで最初から暴露して置くが、此オスロフといふ家主(やぬし)と、其家族は、此事件の隱れた犧牲者だつたのだ。僕の罪名を彌(いや)が上にも重くすべく一家揃つて犬死にしたといふ世にも哀れな人間達だつたのだ。だから此處で些(すこ)しばかり、その家族について印象さして貰ゐ度いのだ。矢張り此事件に大關係のある屋上庭園の光景と一緒に……。

 オスロフは黑い鬚を顏一面に生やした六尺五六寸もある巨漢であつた。碧(あを)い無表情な眼をキヨイトンと見開いてゐる風付(ふうつ)きが、いかにも純粹のスラブらしかつた。いつも茶色がゝつた狩獵服や、靑いコール天(てん)の旅行服を着込んで、堂々と司令部に出たり這入(はひ)つたりしてゐた。さうかと思ふとバツタリ姿を見せなかつたりしたので、最初のうちは何處かの御用商人かと思つてゐたが、どうしてどうして極東露西亞に於ける屈指の陰謀政治家といふ事がその内にだんだんと首肯(しゆこう)されて來た。

[やぶちゃん注:●「六尺五六寸」百九十七センチメートルから二メートル。 ●「コール天」コールテン。縦方向に毛羽のある畝(うね)を持った織物であるコーデュロイ(corduroy)のこと。摩擦に強いので洋服地・足袋地等にする。「コーデュロイ」の語源は「王の綱」の意のフランス語である。実際、これは「コール天」とも表記するが、これは「corded(うね織りの)」と「天鵞絨(ビロード)」を合成した語とも、“corded velveteen” (“velveteen”綿製のビロード。べっちん)の略ともいう。]

 第一に驚かされたのは彼の居室になつてゐる四階の立派さであつた。多分、以前に一等の客室か貴賓室に宛てゝゐたものであつたらう。大理石とマホガニーずくめの莊重典麗を極めたもので、閉め切つてある大舞踏主なぞを隙見(すきみ)してみると、露西亞一流の、眞紅と黄金ずくめの眼も眩むやうな裝飾であつた。

 哈爾賓市中の商人といふ商人は皆、彼にお辭儀をしてゐた。中には、わざわざ店を飛び出して通りがゝりの彼と握手しに來る者もゐた。この邊一流の無賴漢や、馬賊の頭目と呼ばれてゐる連中(れんぢう)なぞも裏階段からコソコソ出入りしてゐた一方に、彼が銀月といふ料理屋で開く招宴(せうえん)には、日本軍の○○團長○○中將閣下も出席しなければならなかつたらしい。

[やぶちゃん注:●「日本軍の○○團長○○中將閣下」「全集」では『日本軍の司令官新納(にいろ)中將閣下』となっている。]

 彼は別に大した財産を持つてゐなかつたが、金を作ることには妙を得てゐたといふ。のみならず持つて生まれた度胸と雄辨で、日米露支の大立物を、片端(かたつぱし)から煙(けむ)に卷いて隱然たる勢力を張りつゝ、白軍のセミヨノフ、ホルワツトの兩將軍を左右の腕のやうに使つて、西比利亞王國の建設を計畫してゐたものださうな。自分の所有家屋を、軍隊經理と同價格の賄付(まかなひつ)きで、日本軍司令部に提供したのも、さうした仕事について日本軍と白軍の連絡を取るのに便利だからと云つて、進んで日本軍當局に要請したものであつたと云ふ。

[やぶちゃん注:●「白軍のセミヨノフ、ホルワツトの兩將軍」無論、ここまでの日本軍人の名は架空のものであるが、この二人は実在した人物である。ウィキの「西比利亜自治團」(「シベリアじちだん」と読む)及びそのリンク先によれば、「セミヨノフ」はグリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ(Семёнов, Григорий Михайлович 一八九〇年~一九四六年)でロシア革命当時、ザバイカル・コサック軍(Забайкальское казачье войско)のアタマン(атаман:統領。)であり、極東三州の独占的利権を確立しようとする日本軍参謀本部によって反革命勢力の軍事指揮官に擁立された人物である。ハルビンに於いてシベリア独立を目指し、日本の後援によって沿海州占領を計画した「西比利亜自治團」(団長は哈爾賓東洋大学教授ムスチスラフ・ペトロウィチ・ゴルワチョフ)を「極東政府(臨時全ロシア政府)没落後の代表者」と呼び、ロシア帝国の公金をここに譲渡させようとしたが、失敗しているとあり、「ホルワツト」はその同ウィキの末尾の「関連項目」の項に、似たような如何にも怪しげに『東邦露人大同協会(ホルワット将軍)』とある。]

 ところが此頃になつて又すこし風向きが變つて來たといふ噂も傳はつてゐるやうであつた。

 白軍の軍資金が缺乏した爲に活躍が著しく遲鈍になつた。ホルワツト將軍は、病氣と稱して畠(はたけ)の向うの舊(きう)哈爾賓の邸宅に寢てゐるらしく、彼が行つても容易に面會しない。同時にセミヨノフ將軍も以前(もと)の樣に彼の手許へ通信をよこさなくなつた。それは日本當局が貪慾な兩將軍を支持しなくなつたのに原因してゐるといふ事であつたが、その爲に立場がなくなつた彼は目下躍起となつて日本軍の司令部に喰つてかかつて居るといふ。

[やぶちゃん注:●「以前(もと)」一例と挙げておくが、「全集」は著しくルビが少なく、例えば絶対に読めないこの「もと」などのルビも、ない。久作は非常に当て読みの多い作家である。第一書房版全集はその点でも著しく不備と言わざるを得ない。

「閣下よ。窓から首を出して哈爾賓の街(まち)を見られよ。露國人(ろこくじん)の性格は彼(あ)の通り曲線(きよくせん)を好まないのだ」……と云つて……。

 むろん是は吾々司令部の當番仲間だけが、勤務中に聞き集めた時の綜合だつたから其樣(そん)な噂がドンナ將來を豫告してゐるかは勿論のこと、果して事實かどうかすら保證出來ないのであつたが併し、何にしても哈爾賓を中心にしたオスロフの勢力が大(たい)したものであることは周知の事實であつた。其せゐか司令部の中をチヨコチヨコと歩きまはる日本の將校や兵卒が、彼を見るたんびに仰向けになつて敬禮する恰好が此上もなく貧弱で、滑稽に見えた。

 彼は以上陳(の)べたやうな偉大な勢力を象徴する立派な建物の中に、タツタ三人の家族を養つてゐた。眞白髮(まつしらが)の母親と、瘠せこけた鷲鼻(わしばな)の細君と、それから現在、僕がこの手紙を書いてゐるすぐ横で湯沸器(サモワル)の番をしいしい編物をしてゐるニーナと……。

 ことわつて置くがニーナは決して別嬪(べつぴん)では無い。コルシカ人とジプシーの混血兒(あひのこ)だと自分で云つてゐるが、其せいか身體(からだ)が普通よりズツト小さい。濃いお化粧をすると十四五位(くらゐ)にしか見えない。それでゐて靑い瞳と高い鼻の間が思い切つて狹い細面(ほそおもて)で、おまけに顏一面のヒドイ雀斑(そばかす)だから素顏の時はどうかすると二十二三に見える妖怪(ばけもの)だ。ほんとの年齡(とし)は十九ださうで、ダンスと、手藝と、酒が好きだといふから彼女の云ふ血統は本物だらう。

 性格はわからない。異人種の僕には全くわからないのだ。馬鹿々々しい話だが彼女が平生(いつも)、何を考へて居るのか、彼女の人生觀がドンナものなのか、全く見當が付かないのだ。たゞ是非とも僕と一緒に死に度いと云ふから承知してゐるだけの事だ。さうして此手紙を書いて終(しま)ふまで死ぬのを待つて呉れと云ふと簡單にうなづゐただけで、すぐに落着いて編物を始めて居る女だ。だから僕には解らないのだ。

 死ぬ間際まで平氣で編物をしてゐる女……。

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