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« 氷の涯 夢野久作 (12) | トップページ | 薄き雨   村山槐多 »

2015/06/30

氷の涯 夢野久作 (13)

 それは多分午後の二時か三時頃であつたらう。間もなく誰か奧へ知らせたものらしい。奧の方から昨日の通りの水々(みづみづ)しい丸髷(まるまげ)姿の女將(おかみ)が、如何にも驚いた恰好で走り出て來た。さうして大きな聲で、

「いらつしやいませ。よくまあ…」と云つた。

[やぶちゃん注:「…」ママ。単なる誤植であろうが、特異点。「全集」は通常の『……』。]

 それから僕は其夜の十一時頃まで一歩も外へ出なかつたのだ。銀月の大建築の中でも、これが哈爾賓の市中かと思はれる位もの靜かな、茶室好みの粹(すゐ)を盡した祕密室(ひみつしつ)の見事さと、調度の上品さと、それに相應しい水際だつた女將(おかみ)の魅力に、隙間(すきま)もなく封じ籠められて居たのだ。東洋の巴里(パリ―)を渦卷くエロ、グロのドン底の、芳烈を極めた純日本式情緒を滿喫して居たのだ。

 もちろん夫(そ)れは此方(こつち)から註文した譯ではなかつた。しかし昨日(きのふ)から一生懸命になつて突詰めた氣持が、生れて初めて口にした芳醇(はうじゆん)な酒のめぐりに解きほごされ始めると、自分でも不思議なくらゐ大きな氣持になつて來たやうに思つた。ちつとも醉つたやうな感じがしないまんまに、恐ろしいものが一つもなくなつた樣な……。何でも思ふ通(とほ)りにしていゝ樣な……。

 さうしてその氣持ちが更に女將の技巧によつて解放されると、いよいよスツキリとした、冴え返つた醉ひ心地(ごこち)に變化して行(い)つた。二度ばかり湯に入つて、冷めたいシヤワーを浴びて居るうちに、頭が切り立(た)ての氷(こほり)のやうになつて、何もかもを冷笑してみたいや樣な……平生(いつも)の僕とは全然正反對な性格に變化してしまつて居ることを、自分自身に透(す)きとほるほど意識して居ることまでも自分自身に冷笑して居るやうな……。

 しかも女將は其の間ぢう、一度も事件に觸れた話をしなかつた。だから、僕も銀の莨入(たばこい)れの話なんかオクビにも出さなかつた。これが銀の莨入れと思つてゐたから…。

 二人はお互ひの身上話(みのうへばなし)を、面白をかしく打明(うちあ)け合つた。平生(へいぜい)無口の僕が妙にオシヤベリになつて、今までの投げ遣りな生活の話を、投げ遣り式(しき)にブチマケたのに對して女將は、長崎を振出(ふりだ)しにして東京、上海(シヤンハイ)と渡り歩いて來た間(あひだ)に經驗した色々な男の話をして聞かせた。さうして年の若い割に女に冷淡な男は、年を老(と)つてから情(じよう)が深くなるものである。さうして、そんな男こそは一番賴もしい男だと聞いてゐたが、けふが今日(けふ)までソンナ人間に一人(ひとり)も出會はなかつたと云つて笑つた。だから僕も笑ひながら彼女に杯(さかづき)を差した。

「それぢや十梨(となし)が可哀(かはい)さうだよ」と口元まで出かかつたのを我慢しながら……。

 ところが其時だつた。僕が凭(よ)りかゝつて居た背後(うしろ)の床柱(とこばしら)の中で……ヂヂヂ……ヂイヂイヂイ……ヂヂヂ……と妙な音がしたのは……

 ……・・・―― ―― ――・・・……SOS!……

[やぶちゃん注:●「……・・・―― ―― ――・・・……SOS!……」は底本では中間部の最初の「――」が二分の一で切れて、後に短いダッシュが続くが、これはモールス信号を文字化したものである以上、これは植字の際のカスレと見做した。「全集」は上記と同じである。]

 僕はビツクリして振り返つた。萬一の時の用心に床柱の中へベルが仕掛(しかけ)て在る事を、タツタ今聞いたばかりだつたから……。

 しかし女將は驚かなかつた。

「待つて居なさいよ」

 と眼顏(めがほ)で押へつけながら立上つて手早く帶と襟元を直した。

「ここは妾(わたし)だけしか知らない地下室だからね。平氣で丹次郎(たんじらう)をきめて居なさいよ」

[やぶちゃん注:●「丹次郎」為永春水作の人情本「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」の主人公夏目丹次郎。色白の美男の高等遊民で徹頭徹尾の優男(やさおとこ)。複数の女性に愛されることから江戸末期の柔弱な色男の代名詞となったが、現在は廃れた。一見文弱な上村を比喩して妙。]

 と云ひ云ひ先刻(さつき)這入つて來た押入の中の廻轉壁(くわいてんかべ)から出て行つた。

 僕も直ぐに落付(おちつ)いてしまつた。……女將は俺を味方に付けて何かの役に立てる積りだな……俺を片付ける積りならコンナ馬鹿念(ばかねん)の入つたもてなしをする筈は無い……という事を最初の女將の素振(そぶ)りから百パーセント感付いて居たのだから……さうしてアトは十五萬圓の在所(ありか)と、ニーナの短劍の行方を探り出せば、一切合財(いつさいがつさい)が放了(ホーラ)になるんだ……と度胸をきめながら立上つて室の隅のガソリン煖爐(だんろ)の火を大きくした。すこし醉ひ醒めがして來た樣に思つたので……。それから元の座へ歸つて、膳の横に置いて在るカツトグラスの水瓶(みづびん)へ手をかけて居る處へ、思ひもかけない次の間(ま)の衣桁(いかう)の蔭から、幽靈の樣に女將の姿が現はれたので、ちよつと眼を瞠(みは)らせられた。

[やぶちゃん注:●「放了」車の免許を持たぬだけでなく、賭け事やゲームにも私は疎い迂闊な人間である。多分そうだとは思ったが、ウィキの「和了」から引いて注とする。『和了(ホーラ)とは、麻雀において、手牌を一定の形に揃えて公開すること。他のゲームにおける「あがり」に相当する。このため、一般的にはあがりと呼ばれ、これを動詞化して「和了る」「和がる」「和る」のように表記されることもある』。『最も典型的な得点方法であり、基本的には、各プレイヤーは自身の和了を目指すとともに、他のプレイヤーの和了を阻止するよう摸打する』(「摸打」は「モウダ」「モウター」と発音し、自摸(ツモ)と打牌(だはい)からなる一連の行為を指す。ここはウィキの「摸打」に拠った)『和了によりその局は終了し、次の局に移る』とある。]

「何だつたかね」

 と僕は水を飮み飮み問うた。

 しかし女將は答へなかつた。崩れた丸髷(まるまげ)をうつむけて下唇を嚙んだまゝ、僕の前まで來てペタリと坐り込むと、イキナリ僕の手に在つた水瓶(みづびん)を取上げてゴクゴクゴクと口から口へ飮んだ。それから氣を落付けるらしくフーウツと一つ溜息をすると、僕の顏を眞正面から見い見い大きな眼をパチパチさせた。

「どうしたんだ。一體……」

 女將はちよつと舌なめずりをした。

「お前さんは此處へ來る事を誰かに云つて來たの」

「ウン別段云つた譯では無いが……あの手紙を上等兵が見て居たからね」

「……まあ……あの手紙つて何の事……」

「君が會計係の名前で出したぢやないか。銀の莨入を渡すから來いと云つて……だから來たんぢや無いか」

 女將は又、眼をパチパチさせた。シンから呆れたやうな表情で僕を見て居たが、やがてヂツと眼を閉じてうなだれた。何か考へて居るらしく肩で息をしてゐたが、そのうちに其呼吸がだんだん荒くなつた。

 僕はその間(あひだ)に冷えた盃(さかづき)を干してゐた。また何か芝居を始めるのかな……と思ひながら……。

 その眼の前で女將は一切を否定する樣な恰好で、丸髷の頭を強く左右に振つたと思ふと、やがてパツチリと眼を見開ゐた。冴え切つた顏色(かほいろ)と据わつた眼付で、今一度ヂイツと僕の顏を見た。空虛な魘(おび)えた聲を出した。

「あんたは欺(だま)されて居るのね」

 僕は返事をしなかつた。モウ一パイ冷めたい酒を干しながら次の言葉を待つた。

「あんたは憲兵を馬鹿にしてゐたでしよう。何が出來るかと思つて……」

 僕は默つてうなづいた。

「……それが、いけなかつたんだよ」

「どうして……」

 と僕は冷笑した。女將は鬢(びん)のホツレ毛を搔き上げたが、噓かホントかその指がわなないて居た。やはり靜かな魘(おび)えた聲で云つた。

「……笑ひ事ぢや無いんですよ。憲兵は最初から、あの司令部の中に赤軍のスパイが居ると思つて疑ひをかけて居たんだよ。さうして其のスパイがイヨイヨあんたに違ひ無い事がわかつたから、わざと實地調査にかこつけて搜索本部を引上げたんだよ。さうして、あんたを僞(に)せ手紙で追ひ出して置いて、あんたの私物箱から何からスツカリ搜索したに違ひ無いんだよ」

「どうしてわかる」

「あんたはわからないの」

「わからないね」

「うちの會計の阪見(さかみ)はその筋のスパイに違ひ無いんだよ。お金を取り立てに行くふりをして、色んな人達と連絡を取つて居るに違ひ無いんだよ。妾(わたし)はズツと前から感付いてゐたんだけど……」

 女將の言葉は何處までも靜かに魘(おび)えて居た。

 僕はヂツと腕を組んで考へた。此處が生死の瀨戸際だと思つて……。その間に女將は話し續けた。一々念を押す樣に繰り返して……

 ……十梨と阪見は、どちらも特務機關の參謀に直屬する軍事探偵で、十五萬圓事件は單にオスロフを葬るための芝居に過ぎなかつたらしいこと……。

 ……星黑はキツト無事でゐて、何處かに隱れて居るに違ひ無いこと……

 ……オスロフ殺しの陰謀連中(れんぢう)は、無理にも全體の責任を僕(ぼく)……上村當番卒(うへむらたうばんそつ)の仕事にして發表して、白軍と哈爾賓市中に居るオスロフの乾兒(こぶん)たちの不平を押へ付けようとして居るに違ひ無いこと……。

[やぶちゃん注:●「乾兒」音「ケンジ」で、中国語で子分・手下の意(他に男の養子の意もある)。本邦では専ら、極道の用語として用いられた。]

 ……ツイ今しがた會計の阪見が家の中をグルグルまはつて誰かを探してゐるらしかつたが、間もなく司令部から電話が掛つて、女將へ直接に、僕の行方を問合(とひあ)はせて來たこと……。

 ……だから女將は取りあえず「モウお歸りになりました」と返事して置いたが、しかし司令部が、そんな事で納得したかどうかわからない。……だからモウ銀月の周圍には、水も洩らさない網が張つて在るに違ひ無いこと……。

 ……だからその網が解けるまで此の部屋に隱れて居なければならないこと……。

 そんな話を聞いて居るうちに僕はニヤニヤ笑ひ出した。……笑はずには居られなくなつたからだ。さうして無言のまゝ立上つて、部屋を出て行(ゆ)くべく押入れの襖(ふすま)を明(あ)けた。

 その時の僕の冷靜だつたこと……氣の強かつたこと……今思ひ出しても不思議な位(くらゐ)であつた。

 流石の女將も、さうした僕の態度を見るとハツとしたらしい。長襦袢(ながじゆばん)の裾(すそ)を亂しながら中腰になつた。

「何處へ行(ゆ)くの……あんたは……」

「ウン。司令部へ歸るんだ」

「そのまゝで……」

「あゝ。何なら軍服を出して呉れ給へ」

「……出して……上げてもいいけど何しに歸るの」

「わかり切つてゐるぢやないか。自首して出るのさ」

 女將は毒氣(どくき)を拔かれたらしくペタリと坐り込んだ。今度こそホンタウに驚いたらしい。ホツと太い息を吐いた。

「……まあ……殺されてもいゝの」

 僕は冷笑し續けた。ヤツト芝居氣(しばゐぎ)の拔けた女將の態度を見下ろしながら……。

「むろん。覺悟の前(まへ)さ。僕が銃殺される前に何もかもわかるだらう。ホントの事實が……」

「…………」

「僕は噓をつくのは嫌いだ」

「……まあッ……」

 と女將が僕に飛びついて來た。色も飾りも無い眞劍な泣き預匠なつた。

「……あんたは……妾を棄てて行くの……」

「ああ。その方が早わかりと思ふからさ。なるべく身體を大切にして、餘計な氣苦勞をし無いやうにしてね……か……ハハハ……」

 女將の顏色がサッと一變した。僕の兩腕をシッカリと掴まえたまま、限を剥き出して振り仰いだ。その顏を見ると僕は何かしら、あらん限りの殘忍な言葉を浴びせてみたくなつたから、不思議であつた。

「ハハハ。何も驚く事は無いさ。女の知惠つてものは底が知れてゐるからね」

「…………」

「阪見は要するにお前さんのオモチャさ。骨拔人形(ほねぬきにんぎやう)さ。モットはつきり云へば男妾(をとこめかけ)さ。まだ會つた事は無いが、大概寸法(すんぱふ)はきまつてゐるね。……さうだらう。僕に出したアノ手紙はこの家(うち)に在る器械で打たせたんだらう。お前さんが大急ぎで阪見に口うつしにしてね…‥さうだらう‥…女の文章はぢきにわかるんだよ……僕には……」

「…………」

「それで何もかも判然(わか)るぢやないか。十五萬圓事件の邪魔になるオスロフは十梨が打つた密告文で片付いた。星黑主計も、十梨とお前さんの知惠で始末してしまつた。日本の憲兵はどこまでも日本の憲兵で内地の警察とは違ふんだから、絶對に筋書が曝(ば)れる氣遣ひは無い。アトは十梨か僕かと云ふ寸法だらう。浮氣なお前さんの事だからね。ハハ…」

「…………」

「僕はね。僕のアタマの良さに愛憎(あいそ)が盡きたんだよ。何もかも解らなくなつちやつたんだよ……タツタ今」

 眞白になるまで嚙み締めてゐた女將の唇の兩端(りやうたん)がビクビタと震へ出した。兩方の白眼がギリギリと釣上(つりあが)つて血走つた。

「……だから……僕が銃殺されたら何もかもわかるだらうと思つてね……ハハハ……」

 僕の兩腕をシツカリと握つてゐる女將の手の戰(をのゝ)きが明瞭に感じられた。さうして血走つた白眼が、みるみる金屬じみた光をキラキラさせ始めたと思ふ間もなく、女將は、素早く僕の兩腕を離して、黑繻子(くろじゆす)の帶の間(あひだ)に指を突込んだ。

[やぶちゃん注:●「黑繻子」「繻子」は「緞子」に既注済み。このシーンではグーグル画像検索「繻子」をリンクしておくに若くはあるまい。ここに底本の挿絵を配す(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)。
 
Koorinohate3

 豫期してゐた僕は、その手を引つ摑んで思ひ切り引寄せた。キラリと光るピストルを引つたくりざま力任せに突飛ばした。

 女將の身體(からだ)にはニーナの半分程の力もなかつた。ヒヨロヒヨロと背後(うしろ)へよろめいて行(ゆ)く拍子にガソリン煖爐(ストーブ)を蹴返(けかへ)すと、細いパイプで繫がつてゐたタンクがケシ飛んで靑い焰(ほのほ)がパツと散つた。女將の白い膝小僧(ひざこぞう)のまはりから、水色(みづいろ)のゆもじの裾(すそ)にかけて飛び付いた……と思ふうちに慌てゝ起上(おきあが)りかけた女將の顏の前を、ボロボロとオリーブ色の焰(ほのほ)が流れ擴(ひろ)がつた。

「アレツ……助けてツ」

 と叫びながら女將は火の海の中を僕の方へ這ひ出して來た。燒けた片鬢(かたびん)の毛をブラ下げながら……。

「……お金を……お金を……みんな上げるから……アレツ……」

 その地獄じみた表情を見ると僕は一層殘忍な氣持になつた。……何だ腐つた金……と云ひ度(た)い氣持ちでその顏を眼(め)がけて力(ちから)一パイ短銃(ピストル)をタヽキ付けると、立上(たちあが)りかけた女將の胸に當つた。それを慌てゝ拾ひ取りながら彼女は、僕に狙(ねらひ)をつけようとしたがモウ駄目(だめ)だつた。

 その執念深い、靑鬼(あをおに)のやうな表情が、みるみる放神(はうしん)したやうに佛顏(ほとけがほ)になつて行つた……と思ふと、白い唇を力なくワナワナと震はしながら、黑焦(くろこ)げの斑紋(はんもん)を作つてゐる疊(たたみ)の上にグツタリと突伏(つゝぷ)してしまつた。

 僕は悠々と押入れの中紅這入つて、襖(ふすま)をピツタリと閉(た)て切つた。這入りがけに見て來た通りに正面の廻轉壁(くわいてんかべ)を拔けて、木の香(か)の籠もつた湯殿へ拔けて、何の苦もなく地下室の階段に出た。

 その階段の上の廊下へ出て、マツトの下の落し戸をキチンと閉めてしまつた處へ、知らない女中が一人通りかゝつたから何喰はぬ顏で、

「僕の軍服を出して呉れないか」

 と賴んでみると、

「ハイ。かしこまりました」

 と云ふなり大きな鏡の在る西洋間に案内した。芳ばしいお茶と一緒に番號札の附いた亂籠(みだれかご)を出して呉れた。

 ……ナアンダイ……と思はせられながらチヤンと着換へて玄關を出た。

 往來を一町ばかり歩いてみたが、誰も咎める者が無い。張番(はりばん)らしい人影すら見えない。星の光りが大空一パイに散らばつてゐるばかりである。

[やぶちゃん注:●「往來を一町ばかり歩いてみたが」は「全集」では(正字化した)『往來を司令部の方向へ一町ばかり歩いてみたが』と加筆している。 ●以下、一行空き。]

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