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« 氷の涯 夢野久作 (2) | トップページ | 美しき空   村山槐多 »

2015/06/27

氷の涯 夢野久作 (3)

 すこし脱線したやうだ。

 ニーナは十四の年に落魄(らくはく)した兩親に賣り飛ばされて、ネルチンスクから上海へ連れて行かれる處であつた。それを横奪(よこど)りして哈爾賓へ連れて來た無賴漢の手から、又逃げ出したニーナは、キタイスカヤの雜沓の中に走り込むと、向うから來かかつたオスロフの首ツ玉に飛付(とびつ)いて、

「お父さん……

 と出鱈目を絶叫したものだといふ。それから大笑ひの中(うち)にオスロフの養女になつて、語學だの、計算だの、自動車の運轉だのを教はる身分に出世(しゆつせい)したが、酒を飮ませると惡魔のやうな記憶力をあらはすので皆(みな)呆れてゐる。その中でも自動車の運轉はアンマリ上手過ぎて先生のオスロフが膽(きも)を潰すくらい無鐵砲だつたのでこの頃は禁じられてゐたといふ。むろん本人の話だから眞實(ほんとう)らしい。事實、酒を飮ませるとステキな才能と美しさを發揮する。雀斑(そばかす)までも消え薄れて氣がつかなくなるのだから……

[やぶちゃん注:「ネルチンスク」(Нерчинск)はロシア連邦ザバイカリエ地方のシベリア鉄道の都市で、チタの東三百五キロメートル、バイカル湖の東六百四十四キロメートルにあり、直線距離でハルピンの北西ジャスト千キロメートルの位置にある。]

 又、脱線しかけた。

 旅行勝ちなオスロフの留守中、司令部の上の四階には、そのお婆さんと妻君とニーナの三人が、居るか居ないか解らない位(くらゐ)ヒツソリと暮してゐた。もつともその中でニーナだけは特別であつた。彼女は所謂、少女病(せうぢよびやう)の傾向に陷り易い無邪氣な司令部の將校や下士連中(れんちう)に引張凧(ひつぱりだこ)にされてゐたので、いつもスラブ式の垂髮(おさげ)を肩の左右に垂らして、コツソリとお酒を飮んでは、三階の居室から、二階の事務室の間を、木戸御免式(きどごめんしき)の自由自在に飛び廻つてゐた。尤も誰かに戒(いまし)められてゐたらしく、二階から下へは滅多に降りて行(ゆ)かなかつたので、兵隊連中(れんちう)にはあまり評判がよくなかつた。……「あれあタヾの女ぢないぜ」……なぞと陰口を云ふ者もゐたが、併し、彼女がドンナ意味の只(たゞ)の女ぢやないかを知つて居る者は一人(ひとり)も居なかつた樣(やう)だ。

 それから次は問題の屋上であるが、これは一面に平べつたい展望臺になつてゐた。時々散歩に行つてみると中央の四本の煙突を包み圍んだ四角い裝飾煉瓦(さうしよくれんぐわ)を中心にした黑タイル張の平面に、色々な形の大小の植木鉢が、何百何十となく並んでゐた。しかもそれが皆、仙人掌(サボテン)の鉢はかりで一々番號札が付いてゐた。これは當時こゝいらで大流行をしてゐたもので、ニーナからせがまれるまにまにオスロフが買ひ集めて遣(や)つたものだと云ふ。ニーナは勉強や毛糸細工(ざいく)に飽きると、直ぐこの屋上に出て來て、小さなバケツに水を汲んで支那筆(しなふで)を濕(しめ)しながら、そんな仙人掌の一つ一つにたかつてゐる滿州特有のホコリを拂つて遣(や)る。それから大通りに面した木製の棚の上に毎日毎日並べ換えへてやるのであつた。

 しかし僕がよくその展望臺に行つたのはニーナを見る爲ではなかつた。ニーナは、此家(ここ)へ來た初めにタツタ一度、階段でスレ違ひさまに「ズアラスウヰツチ」と挨拶をしたら、ジロリと僕の顏を睨んだきり、返事もしないで逃げ降りて行つたから、ソレ以來、行き會つても知らん顏をすることにきめた位(くらゐ)だ。耳だけ發達してゐる僕の露西亞語が通じなかつたせいぢや無い。僕の興味を惹く可(べ)くニーナがあまりに小さかつたのだ。のみならず僕がアレ以來一種の女嫌ひになつてゐる事は君も知つてゐる通りだからね……

 僕がよく展望臺へ上(あが)つたのは景色がいゝからであつた。平凡な形容だが、そこから眺めると哈爾賓の全景が一つのパノラマになつて見えた。邪魔になるのは向家(むかひや)のカボトキン百貨店の時計臺だけであつた。

 哈爾賓はさすがに東洋の巴里(パリー)とか北滿(ほくまん)の東京とか云はれるだけあつた。
 
[やぶちゃん注:●「東洋のパリー」主にロシア人によって開かれたハルピンはその美しい街並みから当時は「東洋のモスクワ」「東洋のパリ」と呼ばれた。]
 
 何町(なんちやう)といふ廣い幅でグーツと一直線に引いてある薄茶色の道路からして、日本内地では絶對に見られない痛快な感じをあらはしてゐた。小さな葉を山のように着けた楡(にれ)の大木(たいぼく)が、その左右と中央を三筋も四筋も縱貫してゐる間から、露西亞式の濃艷(のうえん)な花壇がチラチラしてゐる處を見ると、それだけで異國情緒が胸一パイにコミ上げて來る。

 あつち、此方(こつち)に、コンモリとした公園が見える。その間を鐵道線路が何千哩(マイル)にわたる直線や曲線で這ひまはつて、眼の下の停車場(ていしやぢやう)を中心に結ぼれ合つたり解け合つたりしてゐる。その向うにお寺の尖塔がチラチラと光つてゐる。その又はるか向うには洋々たる珈琲〈コーヒー)色の松花江(スンガリー)が、何處(どこ)から來て何處へ行(ゆ)くのかわからない海みたように横たはつてゐる。三千百九十呎(フィート)とか云ふ大鐵橋も見える。その又向うには何千哩かわからない高梁(カウリヤン)と、豆と、玉蜀黍(たうもろこし)の平原が、グルリとした地球の曲線をありのままに露出してゐる。大空と大地とが、あんなにまで廣いものと誰が想像し得よう。司令部の地下室から出てあの景色を見廻すと僕はボーツとなつてしまふのであつた。

[やぶちゃん注:「寺」これはまず、可能性の一つは当時のハルピン(現在の中華人民共和国黒竜江省哈爾浜(ハルビン)市)にあった中央寺院(ニコライエフスキー大寺院であるが、これは文革時代に破壊されて現存しない。サイト「みに・ミーの部屋」の「満州写真館 ハルピン 2」(この写真や解説、同「ハルピン 1」の何とも言えぬ雰囲気を持った絵葉書写真は、本作を読み、それを映像化する上で絶対に必見である!)に詳しく、そこには『ハルピンの絵葉書で必ず登場する中央寺院で、尖った屋根を持つ独特の形状』を成すとあって、『駅前から伸びる主幹道路のロータリーの真ん中にあるためか有名だったようで、多くの写真がのこってい』るとあって、内部の荘厳も贅を極めたものだったらしい(前に引いた「北海道大学附属図書館」公式サイト内のギャラリーにある「ハルピンの景勝:北満洲の都市美」で「哈爾濱中央寺院」の二枚の画像が見られる)。但し、この主人公上村の言い方が、複数の「寺」の尖塔が「チラチラと光つて」見えるというのであれば、リンク先にも書かれているように、当時のハルピンにはこの中央寺院よりも『もっと大きなものは幾つもあ』つたとあるから、現存する旧聖ソフィア大聖堂(中国語「聖索菲亜大教堂」)のそれである可能性もあるか。ウィキの「聖ソフィア大聖堂 ハルビンによれば、旧ロシア正教会の聖堂で、ハルビンを象徴するロシア建築であるが、現在は教会・聖堂としては使用されず、ハルビン建築芸術館として『ハルビンの開拓期の写真をはじめ、絵画、教会堂などの模型が展示されており、観光名所となっている』(一般には「ソフィスカヤ寺院」とも表記されるが、正教会では「寺院」の呼称は用いられないとある)。日露戦争の終戦二年後の一九〇七年三月に『帝政ロシアの兵士の軍用教会として創建された』。現在のそれは高さ五十三・三五メートル(但し、一九三二年に改築された後の高さ)。『ビザンチン建築の影響を強く受けており、平面がラテン十字形であり』、約二千人が『収容できる規模である。最上階の鐘楼には音の異なる』七つの鐘を有する。『内部の壁は痛みが激しく、色褪せ所々剥落しており古色蒼然たる趣がある。窓ガラスにはステンドグラスは一切使われていない。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のレプリカなどが飾られ、豪華なシャンデリアは特に壮大である』とある。

「松花江」(しょうかこう/中国音「ソンホワチアン」)は中国東北部を流れる川で、ウィキの「松花江」によれば、『満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー、sunggari ula)」すなわち「天の川」と呼ばれており、この地に入ったロシア人もスンガリ(Сунгари)と呼んだ。第二次世界大戦前の日本、殊に満州国時代の日本人の間でもスンガリ川の名で知られている』。『アムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変え』、『しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する』。長さは千九百二十七キロメートル、流域面積は二十一万二千平方キロメートルに及ぶ。『冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する』とある。

「大鐵橋」これは現在の「濱洲(ひんしゅう)鉄路橋」と呼ばれるもの。「三千百九十呎」は九百七十二・三メートルである。調べて見ると、とある実際に訪れた方の記載に、現在のこの橋は一・五キロメートルほどあると記されてあるのであるが、先の「満州写真館 ハルピン 2」に出る。これは昭和五(一九三〇)年の地図で見ると、少なくとも当時のそれ(橋部分)は本文通り、一キロメートル弱相当に見える。]

 ……スバラシイ虛無の實感……

 其の景色を眺めて居るうちに見當をつけて置ゐた地域を休みの時に散歩するのが又、僕の樂しみの一つであつた。

 十萬の露西亞人は新市街に、三十萬の支那人は傅家甸(フーチヤテン)に、五千足らずの日本人は阜頭區(ふとうく)と云つた風に、それぞれ固まり合つて住んでゐる。其のそれぞれの生活を比較して見るのが、又なかなかの樂しみであつた。キタイスカヤ界隈の傲華(がうくわ)な淫蕩氣分(いんたうきぶん)、傅家甸(フーチヤテン)のアクドい殷賑(にぎやか)さ、ナハロフカの氣味惡い、ダラケた醜怪さ……そんなものが大きな虛無の中に蠢めく色々な蟲の群れか何ぞのように見えた。

[やぶちゃん注:「傅家甸(フーチヤテン)」ハルピンの街区名。これを調べるうち、またしても必見の素晴らしいページを発見した。プロレタリア作家で戦死した里村欣三氏を顕彰する個人サイト「里村欣三ホームページ」の里村の「放浪病者の手記」についての評論満州小考である(くどいが、やはり解説と写真がマジ必見! なお、以下の引用部では「傅家甸」を「傅家甸」とするが、正しいと私が判断する「傅家甸」で統一した)。そこに掲げられた「ハルビン、都市の景観」の二枚の地図を確認されたい。本作に出る地名と位置関係がこれで完全に確認出来る。それによれば、哈爾賓(ハルビン)は、一寒村から二十年後の大正十年代には人口三十万人という『北満随一の大都市に発展したのであるが、その街区は「埠頭区(プリスタン)」「新市街(南崗)」「八区(八站)」「傅家甸」「馬家溝」「ナハロフカ」「香坊(旧哈爾賓)」に分けられる。「傅家甸(フーザテン)」は中国人街で』ある、とある。以下、そこからの孫引きとなるが、塚瀬進著「満州の日本人」(二〇〇四年吉川弘文館刊)によれば(下線はやぶちゃん)、『ハルビンは鉄道駅を中心に新市街(南崗)、埠頭区(道裡)、傅家甸(道外)などの地区からなり、日本人の多くは埠頭区に住んでいた。埠頭区は外国人商人が集まる商業街であり、横浜正金銀行や朝鮮銀行といった金融機関の支店や、三井物産や三菱商事などの支店がある場所であった。またハルビン銀座として有名なキタイスカヤ(中央大街)があり、ロシア情緒を感じる場所でもあった。(中略)傅家甸は喧噪にあふれた中国人街であった。住民の七割は労働者や小売商人といった下層の中国人が占め、市街は不潔であり、ひとたび雨が降れば走路はぬかるみ、歩行は困難を極めた。傅家甸には少ないながらも中国人に混じり奮闘する日本人もいた』とあり、越沢明著「哈爾賓の都市計画」(一九八九年総和社刊)によれば、『プリスタン(埠頭区)のメインストリートはキタイスカヤ(中国大街)であり、モデルンホテル、秋林商会、松浦洋行(松浦商会)などの大型商業建築が軒を並べていた。キタイスカヤに併行する新城大街は1920年以降に発展した商店街で中国人経営の商店が多かった。日本人の商店はモストワヤ(石頭道街)、ウチヤストコワヤ(地段街)、トルゴワヤ(売買街)の一帯に集中していた。商店の看板は各国語で表示され、国際都市としての性格を表していた。裏町は夜は歓楽街となり、ロシア・キャバレーや邦人花街(ロシア官憲により一面街に営業指定区域の許可を得る)、朝鮮人遊郭(柳町)などが集積していた』とあり、同書によれば、『新市街(南崗)と馬家溝は緑豊かな美しい街で、「鉄道会社の施設・社宅、官庁、各国領事館、兵営」のある「山の手」で』、『中国人は南崗への居住は許されなかったが、プリスタンには商人の居住が認められた。中国人の多くはプリスタン東側の鉄道付属地外に拡がる河畔の沼沢地に居住するようになり、自然発生的に中国人外が形成された。これが後に傅家甸と呼ばれる地区で、鉄道付属地の外にあるため道外とも呼ばれるようになった』。『ナハロフカ(新安埠)はプリスタンの西側隣接地の低湿地であり、白系ロシア人の難民の貧民街であった。(中略)道路も未整備で、木造家屋が立ち並ぶという住環境の悪い地区で』、『香坊は田家焼鍋という中国人集落があった場所で、「哈爾賓誕生の地であり、(中略)旧哈爾賓(スタールイ・ハルピン)と呼ばれ」る』など、本作を味わうに、非常に貴重な当時のハルピン市街の細部を伝えて呉れて、まっこと嬉しい(久作は行ったこともないハルピンをかなり正確に描写していることが分かる)。なお、本文に各地区の人口が出るが、『ハルビンの人口は、戸籍簿もなくまた調査機関も不備なため、資料および時期によって数字が大きく異なる』として、大正一一(一九二二)年の三つのデータが紹介されている。それによると、「哈爾賓乃概念」なる書には、

 ロシア人(十五万五千人)+中国人(十八万三千人)+日本人(三千八百人)

  =計三十四万三千人

とし、『哈爾賓日本商業会議所時報』(第五号・大正十一年五月十五日発行)では、

 ロシア人(五万五千人)+中国人(十九万五千人)+日本人(三千五百四十五人)

  =計二十五万四千人

で、さらに『哈爾賓日本商業会議所時報』(第十一号・大正十一年十一月十五日発行)では、

 ロシア人(八万八千人)+中国人(三十一万五千人)+日本人(三千二百三十九人)

  =計四十四万四千人

とロシア人・中国人とも各十万人もの差がある数字ではあるが、大正十一年のハルビンはほぼ三十万人都市であって、『中国人の増加とロシア人の減少という激しい人口移動が行なわれた都市であった』と述べられ最後に、但し、この大正十年代の三千から三千五百人という『ハルビンの日本人数は「日本人居留民会」下にある人々であって、旅行者等の一時滞在者や不良無頼の徒、阿片やモルヒネを扱う密売商など、この数値を相当に超える日本人がハルビンに居たと思われる』とあるから、久作の、

 ロシア人(十万人)+中国人(三十万人)+日本人(五千人足らず)

  =四十万五千人

という数値もこれ、決していい加減なものではないことが分かる。最後に。ここまでで誤解されている方がいるとまずいので言っておくが、作者夢野久作(本名・杉山直樹)は四十七年の短い生涯の中で一度も日本国外に出たことは、なかった。]

 ところが、そんな處を丹念に見まはつてゐるうちに、その副産物といふ譯ではないが、市中に在る色色な銀行や兩替店(りやうがへてん)の名前、工場、商店、料理屋の大きなもの、劇場、娘子軍(ぢやうしぐん)の巣(す)なぞ云ふものを僕はスツカリ記憶(おぼ)え込んでしまつたので、司令部のお使ひと云ふとすぐに「上村(うへむら)」と指名される位(くらゐ)、重寶がられるやうになつた。そのたんびにイヨイヨ哈爾賓通(ハルピンつう)になつて行つて、貰ひ集めたり買ひ集めたりした古雜誌(ふるざつし)の類が、整頓棚(せいとんだな)と同じ高さになつてゐた。……退屈な、話相手もない、兵卒の中の變り種である文學靑年の僕に取つては、讀書以外の何の慰安もなかつたので……

[やぶちゃん注:「娘子軍」娼婦たち(集団)を表わす隠語。ここは所謂、日本人街の「からゆきさん」らのそこだけでなく、ロシアや中国人のそうした生業(なりわい)を成している人々の居住区をも指すものと思われる。]

 事實……屋上の展望と散歩を除いた哈爾賓の生活は、僕に取つて退屈以外の何ものでもなかつた。町のスケールが大きければ大きいだけ、印象がアクドければアクドいだけ、それだけ哈爾賓の全體が無意味な空つぽなものに見えた。その中に一直線の道路と、申し合わせたやうなモザイク式花壇を並べてゐる露西亞人のアタマの單調さ、退屈さ、それは吾々日本人に取つて到底想像出來ないくらゐ無意味な飽きつぽいものであつた。その中で毎日毎日判で捺した樣な當番の生活をする僕……眺望と、散歩と、讀書以外に樂しみの無い無力な兵卒姿の僕自身を發見する時、僕はいつも僕自身を包んでゐる無限の空間と、無窮の時間を發見しないわけには行(ゆ)かなかつた。宇宙は一つのスバラシク大きな欠伸(あくび)である。さうして僕は其中にチヨツピリした欠伸をしに生まれて來た人間である……といふ事實をシミジミと肯定しないわけに行(ゆ)かなかつた。

 處(ところ)が九月初旬の何日であつたか。丁度月曜日だつたから、僕達が司令部にはいつてから五週間目だつたと思ふ。その不可抗的に大きな退屈を少しばかり破るに足る 事件が持ち上つた。むろんそれは最初のうち僕自身にだけサウ感じられたので、事實はトテモ大きい……西比利亞から北滿へかけての政局と戰局に、重大關係を及ぼすほどの事件の導火線だつたことが後(あと)になつてから首肯(うなづ)かれた。

[やぶちゃん注:「九月初旬の何日であつたか。丁度月曜日だつたから、僕達が司令部にはいつてから五週間目だつたと思ふ」本作品内時間は大正九(一九二〇)年であるから、カレンダーを見る限り、九月六日の月曜と思われる(次の月曜は十三日で最早初旬ではない)。従って、彼がハルピンの日本陸軍司令部に着任したのは、八月の第一週目であったことが分かる。]

 それは經理室附きの星黑(ほしぐろ)といふ○○主計が公金十五萬圓を搔泄(かつさら)つて、同じ司令部附きの十梨(となし)といふ通譯と一緒に逃亡した事件であつた。

[やぶちゃん注:○○主計」「全集」では『二等主計』となっている。 「搔泄(かつさら)つて」「全集」では「かっぱらって」となっている。]

 さうした事實が發覺したのは月曜日の午前中であつたが、取調べの結果判明したところによると、星黑主計が朝鮮銀行の支店から金を引出したのは土曜日の午前中であつた。それから何喰はぬ顏で經理部へ來て、平常(いつも)の通り事務を執つてゐたのだから、行衞(ゆくゑ)を晦(くら)ましたのは土曜日の晩から日曜の朝へかけての事らしかつた。なほ帳簿を調べてみると星黑主計は、それまでに千五百圓ばかりの官金を費消して居たと云ふのだから、多分、近いうちに實施の豫定になつてゐる軍經理部の會計檢査を恐れて、毒皿方針(どくざらはうしん)を執る決心をしたものであつたらう。……又、一緒に逃げた十梨通譯は七月の下旬に内地から來た者で、來る匆々(さうさう)からホルワツト將軍の手記を飜譯(ほんやく)させられてゐたものだといふ。そのうちに星黑主計とも懇意になつたらしく、よく一緒に何處かへ飮みに行く姿を見かけたものであるが、それが日曜の朝からプツツリ姿を見せなくなつたのでテツキリ共犯と睨(にら)まれてしまつたものである。……二人とも戰鬪員では無いので軍人精神が薄弱である。おまけに舊式露人(ろじん)の豪華な生活や、在留邦人の放縱な交際紅接する機會が多かつた關係から、コンナ墮落した心理狀態に陷つたものであらう……と將校連中(れんぢう)は云つてゐた。

[やぶちゃん注:「毒皿方針」老婆心乍ら、毒を食らわば皿まで、一旦、悪に手を染めたからには最後まで悪に徹しよう、というやり方である。]

 しかし、かうした憤慨は將校連中(れんぢう)よりも兵卒の方が非道(ひど)かつた。この時の戰爭の特徴として、何處を當てどもなく戰爭して來てゐるやうなタヨリない、荒(すさ)んだ氣持ちに兵隊達は皆(みな)なつてゐる處であつた。その癖、相手は何時何處でドンナ無茶を始めるかわからないパルチザンや土匪(どひ)と來てゐるのだから、何の事はない、一種の人間狩(にんげんがり)みたやうなモノスゴイ氣持ちで毎日毎日ウズウズしてゐる兵隊連中(れんぢう)であつた。そこへ思ひがけないハツキリした賣國奴同然の奴(やつ)が、二人も揃つて、味方の中から飛び出したのだからたまらない。上官だらうが何だらうが構はない。見付け次第にノちまへと云つた調子でトテモ素晴らしいセンセイシヨンを捲起(まきおこ)したものであつた。

[やぶちゃん注:「土匪」匪賊。老婆心乍ら、土着民の中で武装して集団となって略奪や暴行を行っていた賊の意であるが、特に近代史上の日本語では近代中国に於ける中国人の非正規武装集団を広く指した。]

 むろん司令部は大狼狽であつた。事件の發覺した朝のこと、僕たちがまだ何の事か判らないまゝ、眼の色を變へて出入りする特務機關所屬の參謀や、憲兵や、銀行員らしいものの顏を茫然と見まはしてゐるうちに、當番係(たうばんがかり)の上等兵が降りて來て、三階の眞中の一室に積上(つみあ)げられてゐる夥(おびたゞ)しい椅子を十個だけ殘して、あとを全部四階の大舞踏室(だいぶたふしつ)へ持つて行けと命令を下した。さうしてそのアトに急設された搜索本部(假りにさう云つて置く)に六人の憲兵がドカドカと詰めかけて來た。上席が中尉で、左右に曹長と伍長、そのはかに上等兵が三名で合計六名であつたが、みんな腕ツコキの連中(れんぢう)といふ評判であつた。

[やぶちゃん注:以下、底本では一行空き。]

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