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« 氷の涯 夢野久作 (8) | トップページ | 醉へる時に   村山槐多 »

2015/06/29

氷の涯 夢野久作 (9)

 ところで其の審問には、武裝した搜索本部の全員のほかに、オスロフも顏を知らないらしい、相當の年輩をした背廣服の二人が立會つてゐたさうである。二人とも額が白くて露語(ろご)が達者だつたと云ふから、多分それは日本軍の參謀か何かであつたらう。實に鋭い突込み方で、流石のオスロフも最初のうちは少々、受太刀(うけだち)であつたといふ。

 しかし其中(そのうち)にだんだんと樣子がわかつて來ると、其處は千軍萬馬(ぐんばんば)の陰謀政治家だけあつて、グングンと二人に逆襲し始めた。

[やぶちゃん注:●「千軍萬馬」原義は無論、非常に大きな軍隊であるがそこから転じて、その勢いが異様に強いことの形容となり、別に、数多くの修羅場を経験していること、さらに転じて、豊富な社会経験があること、多くの苦労を重ねているしたたかな老練の人の形容としても用いる(三省堂「新明解四字熟語辞典」に拠る)。]

 一、劈頭(へきとう)の赤軍スパイの件に關しては、近來市中に噂が高まつてゐる事だし、自分からも度々、日本軍の上官諸君に御注意申上げた事だからここには別に辨解しない。願わくば一日も早く、一擧に殲滅せられん事を希望するに止(とゞ)めて置く。

[やぶちゃん注:●「劈頭」最初。冒頭。オスロフを告発する密告書の最初の項を指すが、そこに書かれている彼自身の裏切りや内通の部分は馬鹿馬鹿しくて話にならないから取り立てて何も言わない、という謂いである。]

 一、自分の家族は御覽の通り、軍事や政治には全然無理解な老人と病人と、女の兒(こ)である。假(たとひ)拷問にかけられても知らない事は知らないと云ふより外は無いばかりでなく、そんな正體の知れない一片の投書によつて、諸君が狼狽して居られると、窮極する處、日本軍の權威に影響して來(き)はしないか。

 一、自分が日本軍と緊密な握手をしてゐる周圍に、どれだけの嫉妬深い、盲目の幽靈が渦卷いてゐるかを諸君は今日まで氣付かずに居られたのか。

 一、如何にも日本軍の機密に關する事項が、赤軍に洩れてゐるのは事實と認むべき理由がある。三週間ばかり前にも畠(はたけ)の向うのホルワツトと病床で面會した時に、同人からコンナ話を聞いた。「オスロフ君、君の手を通じて白軍に渡るべき日本軍の祕密通牒が、どこかで洩れてゐるのぢやないかと疑はれる事がよくあるぞ。ことに後方勤務で、日本軍と協定して糧食買込みの豫定地が、先廻りをした赤軍のスパイに荒されてゐる事がたびたびなので、實は此の間から不思議に思つてゐる次第だ。日本軍でも時々ソンナ眼に遭ふらしいが、一つ氣を付けてみたらどうか」云々と不平を並べてゐた。噓だと思はれるならばホルワツトに問うて御覽なさい。まだ畑(はたけ)の向うの舊(きう)哈爾賓の自宅に寢てゐる筈だ。自動車で行(ゆ)かれても十分とかゝらないであらう。

 一、何を隱さう今度の旅行は、其事實を實地調査に行つたものに外ならない。日軍(にちぐん)と白軍に對する自分の信用を、根底から覆(くつがへ)す大問題と思つたから、此の一週間半に亙つて、眞劍な調査と研究を遂げて歸つて來たものである。論より證據、滿州と西比利亞の地圖を持つて來て御覽なさい。此のノートに控へて來た場所と、時日と、司令部から命令の出た日附とを對照して、赤軍スパイの活動狀況を探り出すと同時に、祕密の漏洩してゐる場所を的確に推理してお眼にかけるから……。

 一、もし御面目(ごめんもく)に關しないならば、モウ一つ別に哈爾濱市街の明細圖を持つて來て頂き度い。私が今日(こんにち)まで眼をつけてゐるスパイの隱れ家らしい建築物の位置を一々指摘して印(しるし)をつけて差上げるから。但し、その中には貴官方(あなたがた)が非常に意外とされる建築物が在るかも知れないから豫(あらかじ)め御立腹の無い樣に、お斷りして置きます。

 一、尚それから序(ついで)に、十五萬圓事件の眞相は、此の密告書の出所(でどころ)と一緒に、凡(おほよそ)の見當が付くやうに思ふ。第一、この文章の語法が、露西亞人らしく無い上に、日本贔屓(びゐき)の白系露人などと、云ふまでもない無用の斷り書がして在る處から察すると、これは一種の敵本主義から出た奸策で、私といふ人間の存在を恐れてゐる、白軍赤軍以外の、或る一個人の所業(しわざ)ではないかと思ふ。甚だ抽象的な議論のやうであるが聲より姿だ(論より證據の意)。お差支へなければ詳細に事情を承つた上で、犯人の行動と、十五萬圓の所在を突き止めて遣り度いと思ふ。つまり犯人の恐れてゐる事態を實現さして、私の無罪を證明さして頂き度いと思ふがどうですか。私の部下は哈爾賓の裏面(りめん)といふ裏面のあらゆる方面に潜り込んでゐるのだから……たゞ日本軍の内部に立入つていないだけだから……。萬一此金が赤軍の手にでも這入つたら由々しい一大事だと思ひますが……ドンナものでせうか……

[やぶちゃん注:●「敵本主義」目的が他にあるように見せかけて、途中から急に本来の目的に向かうやり方。言うまでもなく、明智光秀の名台詞「敵は本能寺にあり」に基づく語。]

 と言つた樣な調子で、スツカリ煙(けむ)に捲いてしまつたものだといふ。

 尤もコンナ風に纏めて説明すると譯はないが、此の間(かん)の押問答がタツプリ三時間ぐらゐかゝつたさうである。それからオスロフは帳面を出して地圖の上に一々印(しるし)を附けながら、赤軍スパイの連絡網と活躍狀態を説明し初めたが、それが又二時間位かゝつたらしく可なり詳細を極めたものであつたといふ。

 ところでその説明を聞いてゐたニーナは、その間ぢう巨大な父親の傍(そば)へヘバリついて、それとなく圖面を覗いてゐた。さうして時々、話の切れ目切れ目に、

「サボテンが枯れる」

 と云つては父親から睨まれたり、鉛筆で頭をタタカレたりしてゐたさうであるが、しまひには泣き面(つら)になつて、

「……ねえ……お父さんてばよう……水をやりに行つていゝでしよ。ぢきに歸つて來ますから……ねえ。いゝでせう……お父さん……」

 と甘たれかゝるので、母親が無理に引取つて自分の膝に腰かけさした。ニーナは前にも云つた通り子供らしいお化粧をしてゐたばかりでなく、その態度が如何にもネンネエらしかつたので、ホントの年を知らない憲兵連中の眼には十四、五位(くらゐ)にしか見えなかつたであらう。

 その中にオスロフの説明がだんだん細かになつて來て、赤軍のスパイの活躍の中心は、どうしても此の哈爾賓市中の、しかも司令部の中か、もしくは其の付近になくてはならぬ。十五萬圓事件といふのも、其奴等(そいつら)の手で巧(たく)まれたものでは無いかと疑われる節(ふし)がある。これは自分が、奉天に滯在してゐる留守中に發せられた司令部の命令が洩れてゐる事實や、今度の不在中に、十五萬圓事件が起つた事によつても、朧氣ながら立證され得ると思ふ……云々と云ふ處まで來ると、モウ堪(たま)らなくなつたニーナがイキナリ母親の膝に突伏(つゝぷ)してワツとばかり泣き出してしまつた。

「……サボテンが枯れるよう。水を遣りたいよう……」

 とオイオイ大聲をあげ始めたのであつた。

 さすがの參謀や憲兵たちも、これには見事に引つかかつたらしい。生憎と仙人掌(サボテン)の栽培法に通じた者が一人も居なかつたばかりでなく、最早(もう)、外が眞暗になりかけて居るのだから、ドンナに聞き分けのいゝ子供でもお腹が空いてゐるに違ひない。それだのに自分の事は忘れて仙人掌の事ばかり云つて居るのだから、可なりのイヂラシイ要求と考へられたであらう。睨み付けてゐたのは話の邪魔をされた父親だけで、お祖母さんも母親も、ハンカチを顏に當てたまゝギクギクとシヤクリ上げ始めたので、とうとう審問が中絶してしまつた。

 參謀らしい背廣服の二人はそこで、何かしらヒソヒソと打合せをしてゐたが、やがて若い方の一人が舞踏室の扉(ドア)をあけて、下へ降りて行つた。それは多分、上官と電話で打合せに行つたものと思はれたが、間もなく歸つて來ると、

「今夜の十時に○○少將閣下が此處へ來られて再審問をされるから、それまでに皆、食事を濟ましておく樣に……それから其子供の事は別に許可を得なかつたが、直に歸つて來るなら出してもよからう。そんなに泣かれちや第一審問が出來ない。いゝかね。ニーナさん。直ぐに歸つて來るんだよ。御飯が來るんだから……」

 と云つた樣な事で、ニーナが外へ飛出したのが八時半頃であつたといふ。そこでニーナは水を遣るふりをしいしい、此の大事件を赤軍に報道すべく、大急ぎで仙人掌を並べ換えてゐると、突然に裏梯子(うらばしご)から僕が上つて來る足音がしたので、素早く煙突の陰に身を潜めて樣子を覗つた。すると又、意外千萬にも、平凡な當番卒とばかり思つていた僕が、仙人掌の祕密を知つてゐるらしく、熱心な態度で鉢の數を勘定したり、向家(むかひ)の時計臺を凝視したりし始めたので、彼女は思はずカーツと逆上してしまつた。

 仙人掌(サボテン)通信はオスロフ一家の知つた事ではなかつた。彼女一人が、極(ごく)祕密の中(うち)に受持(うけも)つてゐた仕事だつたのだから堪(たま)らない。同時にオスロフを密告したのも此の當番卒に違ひない。ことによるとこの當番卒は、この司令部の中でも一番恐ろしい任務を帶びてゐる密偵かも知れないとまで思ひ込んだ彼女は、僕に氣づかれない樣に煙突の蔭を出て、張番(はりばん)の憲兵の眼を忍びながら四階の物置に潛り込んだ。その奧の古新聞の堆積の間(あひだ)に隱して置いた短劍と、ピストルと、お金と、寶石を取出してシツカリと身に着けたが、出がけに物置の扉(ドア)に取付けた星形の硝子窓から覗いてみると、今まで舞踏室の廊下に張番をしていた憲兵が、廊下の角を大急ぎで曲つて來る樣子だ。しかもそのキヨロキヨロしてゐる態度が、どうやら自分を探しに來てゐるらしい樣子である。

[やぶちゃん注:●「彼女一人が、極祕密の中に受持つてゐた仕事だつたのだから堪らない」は「全集」では(正仮名正字化した)『彼女一人が、赤軍に賴まれて極祕密の中に受け持つてゐた仕事だつたのだから堪らない』と加筆されている。]

 彼女は、そこで息を殺して樣子を窺つた。そのうちに同じ憲兵が、今度は階下の方を探す可く駈降りて行つたらしいので、遣り過して置いて階段に飛出して、前後に氣を配りながら僕を狙ひ始めた。さうしてイヨイヨ暗くなつたのを見濟まして、飛びかゝつて來るまでの間が前後を合わせて約一時間……それを失敗して、裏階段から行方を晦ましたのが向家(むかひ)の大時計によると九時半前後であつた。

 ところが其のチヨツト前の九時前後と思はれる時分に、モウ一つニーナに取つて致命的な事件が發覺してゐた。それは向側(むかひがは)のカボトキン百貨店を閉鎖さして、變裝の輕機關銃隊を詰め込んで、萬一を警戒させてゐるうちに、展望哨(てんぼうせう)に立ちに行つた二人の歩哨が、時計臺の下の鐵梯子(てつばしご)の蔭に頭を突込んだまゝガタガタ震へてゐる、若い露西亞人を發見した事件であつた。

[やぶちゃん注:●以下、一行空き。]

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