深夜の人 室生犀星
[やぶちゃん注:この何とも不可思議な手触りのする奇体にして不安な夢記述の如き小品は、室生犀星が昭和九(一九三四)年一月『文学界』に発表した、畏友芥川龍之介の死後六年半の後の小説である。
底本として昭和一八(一九四三)年三笠書房刊の「芥川龍之介の人と作品 上卷」を国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した。傍点は太字とした。
私は思う。……過去の古びた個別的なメトニミー(metonymy:換喩)が、今現在の痙攣的な我々の現実のメタファー(metaphor:隠喩)として我々を指弾するのだ……と……【2015年6月23日 藪野直史】]
深夜の人
雨があがると虹が立つた、素晴しい美しい虹だつた。群衆は一どきに前側に列をすゝめ巡査はなぜか危ないと云つて、群衆の亂れるのを制した。みんなは虹を見ようとしてゐるのだ、虹なんぞ見るのにこんなに人出があるなんて不思議な日である。空は薄暗がりのなかに眞中から陶器が二つに割れたやうな割目を見せてゐて、そこから一面に斜陽のやうな明るい光を見せてゐた。
「いつたい、これはどうしたのだ、虹なんぞ見たつて仕樣があるまい。」
死んだ小說家が僕とならんで、ちょつと虹の方を見て、愚かなることよといふやうな顏をした。
「虹ばかり見に出たのではない、これは天變地異のある證據ぢやないか、何だか世間ががやがやしてゐる。みんなの顏を見ても眞黑になつてゐるぢやないか。」
僕らは何やらまだお喋りをつづけて步いてゐるうちに、群衆は一どきに感極まつて聲をあげた。聲はそらの方に向いて上げられたのだ。僕らも慌ててそらを仰ぎ見たが、僕らはそこに一頭の龍がそらから五色の雲を搔き起しながら、下界に向つておりてくる姿を眺めた。
不思議なことにはその龍はずゐぶん大きかつたけれど、支那の竹細工で出來た龍みたいに五つの節からなり立つてゐた。頭と胴が三つ繼ぎになり、尾は伊勢鰕のやうに開いて透き徹つてゐた。伊勢鰕といえば龍の全體がそつくり途方もない大きい伊勢鰕のやうに見えた。墨と紅と白墨とでそめ上げ、ところどころに黃金の鱗が描かれてあつて、よく見るとそれは紙で作つたものらしかつた。動くたびにざわざわ音がした。にも拘らずその氣分は驚くべき立派な、古來から僕らが小說やお伽話や詩や俳句で教へられた龍にちがひなかつた。いまどきこんな龍が下界に降りるなんて奇蹟でもあるにちがひない。
「見たまへ龍の胴ツ腹から人間の足が一杯下つてゐるぢやないか。あれは君、越後獅子のやうに紙の龍を練り步きしてゐるのだぜ。愚人を詐らかせる惡者の仕業かも知れん。」
成程僕は、始めて龍の頭の下にも、胴ツ腹にも、尾の方にも中にはいつて龍をかついでゐる人の足がによきによき毛脛までそよがせてゐるのを見た。しかもどの足もみな雲のやうな薄墨いろに塗つてあつて、一見、けふの怪しい曇天のいろと異つて見えるところがなかつた。
それにしても僕は生れてはじめて龍を見た驚きを、假令、人間の足が下から覗いて見え るにしても、變へることができなかつた。
龍はしづしづと道路をあるいて行つた。群衆は誰一人として龍に人間の足がついてゐることを嘲笑するものもいなければ、殊更に氣をつかつてゐるらしい氣はひもなかつた。 只、いちじるしい讚仰の聲と心があつたばかりだつた。感嘆の聲が寺院のなかにゐるやう に群衆をゆき亘つて、それが町ぢうに音樂のやうにひろがつて行つた。僕は龍の眼の玉が子供の石蹴り遊びのガラスの玉ほどあつて、尾が夜會の扇のやうにひろがつてゐるのを美しいと眺めた。
「この龍はめすぢやないか。」
「どうして君にそれがわかるの。」
「だつて羞かしさうにお腹を時々ゆすぶつては顏を伏せて行くぢやないか。腹を見たまへ、卵が一杯詰つていゐる。駝鳥のやうな巖丈な卵をしこたま積め込んでゐやがる。」
「あれが卵か。」
龍の下腹は磧を逆さまにしたような卵の列で、一杯であつた。
「なるほどめすだ、仔を生みに下界に降りに來たのだらう。」
「この際さうみとめるのが一番早道の考へだね。」
僕は紙づくりの龍であること、人間が擔ぎ𢌞つてゐることをすつかり忘れてしまつてゐことに、僕は自分の氣持を疑ふやうにもなつてゐた。
龍は先刻もいつたやうにしづしづと通りすぎてしまつたかと思ふと拭いて取つてしまつたあとのようにきれいに龍は消えてなくなつてしまつた。しかし群衆は依然うごかなかつた。まだ何か見るものがあつてさうしてそのやうに動かずに待つてゐるやうであつた。もつと面白いことがあるかも知れない、これは見物だぞと僕は死んだ小說家をこづいた。
彼と僕とは電信柱にもたれ、退屈と物好きであるとしか見えない群衆と同じい心をもつやうになつてゐた。群衆はがやがや囁きをはじめた。先刻の龍の下りてくる前と同じい程度のがやがやであつた。そのうち空が陶器のやうに割れるのであらうと考へると、やはりその通りであつた。明るい背光のなかからこれは又聞いたことのない悲しい音樂が起つて來たが、それは映畫などの悲しい時の氣分をあらはすにふさはしいヴァイオリンのきうきういふ音色に似てゐた。それを聞いてゐて僕は人知れずどれだけ泣いたか知れなかつた。つまり僕は大方の觀客と同じく活動を見にゆくことは、いつも泣きにゆくやうなものであつた。カイゼルはあの年になつて老の涙を映畫見物中におふきになるさうであるから、僕なんぞ泣くのはそんなに羞かしい譯のものでなかつた。女給や女學生や世帶で苦勞した女がべたべたに泣くやうに僕もまたべたべたになつて泣くのであつた。一たい僕は音樂を欲するときは大抵女にほれてゐる時か、女のことを考へてゐる時か、女のことを思ひながら詩や小說をかいてゐる時かであつた。そのほかに音樂などの必要がなかつた。女にほれてゐるときに音樂をきくと、ほれてゐる事がらが一そう樂しくあまだるくなり、とろとろになつてくるので好きであつた。音樂があるために女がうつくしく見えることも實際であつた。だから今ヴァイオリンがきうきう鳴るのをきいてゐると、女にほれてゐないときだから、ちつとも面白くないのであつた。面白いどころか、からだが寒氣がしがちがちしてくるくらゐだつた。
よく聞いてゐるとその音樂は死の行進曲であつたのだ、悲しい筈である。死んだ小說家はそんなものに耳もくれないで、こんどは祿な行列ぢやないぜ、きうきう絃をこすりやがつていやに悲劇の前ぶれをするから面白い筈がないと云つた。それにも拘らず彼はのんきな顏をして、しげしげと天の一方をながめ込んでゐた。
行列はまさに行列であつたが、死人の行列であつた。女なんぞはみんな裸で男もさうだつた。女の裸なぞは少しも美しくないばかりか、みんな煮しめたやうな黑いからだをしてゐた。
しかし顏は瘦せた石佛のように美しく見えた。美しいといふよりも烈しい淸瘠さがあつたのだ。
群衆はしんみりして了つて誰も聲も立てなかつたし、咳一つしなかつた。全く畏つてゐる姿だつた。それがあんまり靜かだつたのでちよつと反感をもつくらゐであつた。行列は相不變しづしづと步いて行き、音樂はもう起つてゐなかつた。
死んだ小說家は小鳥が籠から放れると、ふいに高い木の頂に止つてやはり一應籠の方をふりかへつて見るやうに、熱心に行列を見てゐた。僕は彼がにはかに知己に會つたときの元氣を取りもどしたやうになつてゐるのを感じた。
君は死んでゐるのか生きてゐるのか、どつちなんだと云はうとして、それを云ふことが大變なことになると思うて僕はいふのを控えた。人間はいふべきことを氣のついたときには控へた方がよい、そんなことを僕は日ごろちよいちよい考へてゐた。
行列は絕えないばかりか、群衆のなかからその行列に加はらうとするものがあつてその人が道路に出るごとに、群衆は危ないから止めろとか、連れて行かれるぞとか、かへつて來られないよとか、女房や子供を可愛さうだと思はないのかとか、あとに殘るのは日干しになるぞとか、がやがやと口々に憚るやうな聲をして囁き合うた。しかし道路に出た人間は行列のぢきちかくなると、醉うたやうになつて踊るやうな足つきで行列のなかに紛れ込んで行つた。まるでダンスみたいに踊るのだ。そんな人間はすぐ見境ひのつかない行列のなかの同じい顏に刷り込まれて行つて、見定めようとしてもまるで分らなかつた。事實、さふいふ小さい事件があるときだけ、しづしづと行くべき筈の行列が深い淵の底がとても迅いやうに、ひと呑みに呑み込まれて了ふのである。その小事件は隨所におこなはれ始めた。一人出て行くとまた一人出て行つてはつとするまに、うしろの方から落し物をさがすやうな格好をして馳つて出て又呑み込まれて行つた。僕は恐ろしくなつた。僕は馬鹿だからひよつとして人眞似をして何時どんな氣まぐれから飛び出すか分らないからだつた。僕は手に汗をにぎり喉を乾かし、じれじれして、大きな聲をしてみんな用心しろ、これはとても恐ろしい人食の行列だぞ、そんなものを見物してゐることは危險だから早く家へかへつた方がよいぞ、これは人間をだましに步いてゐるあくまの行列だと怒鳴らうかと思ふくらゐであつた。しかし群衆は去らうとしなかつた。ぽつりぽつりと行列にまぎれ込むものが次第に殖えて來て、何百萬ゐるか知れないが次から次へと、うぢやうぢや蛆のやうに湧いては絕えることがなかつた。
僕は友だちの顏をながめたが、べつに變つたところがなかつた。僕は安心してにやにや笑つて云つた。
僕はまた彼がまるで知つてゐることのやうに、尋ねるやうな形で云つた。
「この行列はいつたい何時まで續くんだ。」
さツきの龍のはうがどれだけ面白かつたか知れやしない。
「この行列は多分けふ一杯つづくだけのものがあるよ、あとはまだ雲の中を步いてゐるから。」
彼はぐづぐづしてゐて步き出さうとしなかつた。それに行列のなかに知り合ひでも搜し當てるやうに、ちらりちらりと鰊のやうに固くなつた顏を見くらべては、飽きる樣子もなかつた。群集から依然飛び出して列に加はるものが殖えるばかりで、もう數へることすらできない、僕はしまひに膝がしらががくがく折れ出しさうになり、さうなると道路に飛び出すやうな氣になるのだ。
死んだ小說家がその時僕に何んでもないやうに、平氣で云つた。
「では君、失敬。」
かれはさういふと、なりの高い背丈を群衆から放して、列の中にまぎれ込んで行つた。あんまり突然な自然な出來事だつたやうな氣がして、僕は呆氣に取られて眺めてゐた。彼もまたお多分に漏れず行列に加はると同時に何が何やら、そしてまた誰が誰やらわからぬやうになつて了つた。
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