アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (五) 芋蟲の忠告
五 芋蟲の忠告
芋蟲とアリスは、暫くの間默り込んで見合つてゐました。しかしとうとう芋蟲が口から水煙管をとつて、だるいねむさうな聲で、アリスに話しかけました。
「お前さんは誰ですか」と芋蟲はまづ訊きました。
けれどもこれは二人の會話を、すらすら進めていくやうな、問(とひ)ではありませんでした。アリスは少し恥づかしさうに答へました。「わたし――わたし今ではよく分らないのです。――といつても、今朝(けさ)起きたときは、わたしが誰(たれ)だつたかは、知つて居たのですが、それから何度もいろいろ變つたに違ひないと思ふんです。」
「それはどういふことなのだ。」と芋蟲はきびしく言ひました。「睨明してみなさい。」
「わたし、説明なんて出來ないんです。」とアリスが言ひました。「だつてわたしはわたしでないのですから。ねえ。」
「さつぱり分らん。」と芋蟲が言ひました。
「殘念ながら、わたしにはそれをもつとはつきり、言ひ表はす事が出來ませんの。」とアリスは大層丁寧に答へました。「なぜなら、第一わたしには自分ながら、それが分つて居りませんの、そして一日の中に、いろいろと大きさが變るなんて、隨分頭をまごつかせる事ですもの。」
「そんなことはない。」と芋蟲は言ひました。
「ええ、そりやあなたは今までそんな事を、さういふものだとお感じになつた事は、ないかも知れませんけれど。」とアリスは言ひました。「でも、あなたが蛹(さなぎ)になつたり――いつかはさうなるんでせう――それから蝶蝶(てふてふ)にならなければならなくなつたら、少しは變にお思ひでせう、思はなくつて。」
「いいや、ちつとも。」と芋蟲が言ひました。
「それぢや、あなたの感じがちがふのよ。」とアリスが言ひました「わたしの知つて居る限りでは、それがとても變に感じられますの、私(わたし)にとつて。」
「お前に?」と芋蟲は馬鹿にしたやうに言ひました。「ぢやあお前は誰(たれ)なのだ。」
そこで會話が又一番初めに戻つてしまひました。アリスは芋蟲が、こんな風に大層短い言葉しか言はないので、ぢれつたくなりました。それで背のびをして、大層真面目になつて言ひました。「わたしはね、先づあなたが自分は誰(たれ)であるか、名乘(なの)るべきだと思ひますわ。」
「何故(なぜ)?」と芋蟲は言ひました。
これでまた面倒な問題になりました。アリスはいい理由(わけ)を考へつきませんし、一方芋蟲はひどく不愉快らしい樣子でした。そこでアリスは向ふの方(はう)に歩いて行きました。
「戻つてこい。」と芋蟲はアリスの後(うしろ)から呼びかけました。「わたしは少し大事な話があるのだ。」
この言葉が幾分賴もしく聞えましたので、アリスは振り返つて、又戻つて來ました。
「おこるもんぢやないよ。」と芋蟲が言ひました。
「それだけなの。」とアリスは、できるだけ怒りをのみこんでいひました。
「いいや。」と芋蟲が言ひました。
アリスは他に用がないものですから、待つてやつてもいいと思ひました。多分、何かいいことを聞かしてくれるのだらう、と思つたものですから。しばらくの間、芋蟲は何にも言はないで、水煙管(みづぎせる)をプカプカふかしてゐました。けれどもとうとう芋蟲は腕組(うでぐみ)をほどき、水煙管を、口から又とつて言ひました。「それでは、お前變つてると思ふのかい。」
「どうもさうらしいのですわ。」とアリスが言ひました。「わたし以前(まへ)のやうに、物を覺えられませんし――そして十分間(ぷんかん)と同じ大きさで居ないのです。」
「覺えらられないつて、一體何を?」と芋蟲が言ひました。
「ええ、わたし『ちひちやい蜜蜂どうして居る』を歌つて見ようと思つても、まるでちがつてしまふの。」とアリスは大層かなしさうな聲で言ひました。
「『ウヰリアム父さん、年をとつた』」をやつてごらん。」と芋蟲が言ひました。
アリスは腕を組んで始めました。
「若い息子が云ふことにや
『ウヰリアム父(とつ)さん、年とつたな、
お前の髮は眞白だ。
だのに始終逆立ちなぞして、――
大丈夫なのかい、そんな年して。』
ウヰリアム父(とつ)さん答へるにや、
『若い時にはその事を
腦(なう)にわるいと案じたさ。
だが今ぢや腦味噌もなし、
それでわたしは何度もやるのよ。』
若い息子が云ふことにや、
『何しろ父(とつ)さん年とつた。
それによくもぶくぶく肥つたもんだ。
だのに戸口ででんぐり返つたり、
ありや一體何のつもりさ。」
白髮頭(しらがあたま)を振りながら、
ウヰリアム父(とつ)さん云ふことにや、
『若い時にやあ氣をつけて
せいぜいからだをしなやかにしてたよ。
こんな膏藥まで使つてね――
――一箱五十錢のこの膏藥だ――。
お前に一組賣つてやらうか。』
若い息子が云ふことにや、
『お前は兎(と)に角(かく)年よりだ。
お前の顎(あご)はもう弱い。
脂身(あぶらみ)より硬いものは向かぬ筈(はず)。
だのに鵞鳥を骨(ほね)ぐるみ、
嘴(くちばし)までも食べちまつた。
あれは何うして出來たのだい。』
父(とつ)さん息子に云ふことにや、
『わしが若いときや法律好(ず)きで
何かと云へば女房と議論さ。
お蔭で顎(あご)は千萬人力(せんまんにんりき)。
こんな年までこの通り。』
若い息子の云ふことにや、
『お前は年とつた。
昔通(どほり)りに目が確かだとは
誰(たれ)か本當と信じよう。
だのにお前、
鼻つ先で鰻(うなぎ)を秤(はか)つたか
何うしてあんなうまい事かやれたんだ。』
父(とつ)さん息子に云ふことにや、
『わしは三度も返事した。
もう澤山だ。
こんな譫語(たはごと)に相槌(あひづち)うつて、
大事な一日つぶしてなろか。
さあさ出て行け、
行かぬと階(はしご)から蹴落すぞ。』
「間違つてるね。」と芋蟲が言ひました。
「そりやみんなは合つてゐないやうねえ。」とアリスはビクビクして言ひました。「文句が少し變つたのだわ。」
「初めから終(しま)ひまで違つて居るよ。」と芋蟲はきつぱり言ひました。それからしばらく二人は默り込んでしまひました。
すると、芋蟲が話しだしました。
「お前はどの位(くらゐ)の大きさになりたいのだ。」
「まあ、わたしどの位(くらゐ)の大きさつて、きまつてゐないわ。」とアリスはあわてて答へました。「ただ誰(たれ)だつて、そんなに度度(たびたび)大きさが變るのは、嫌でせう。ねえ。」
「わしには分からんよ。」と芋蟲は言ひました。アリスは何も言ひませんでした。今までこんなに、反對せられたことはありませんので、アリスは癪(しやく)で堪(たま)りませんでした。
「今は滿足して居るのかい?」と芋蟲は言ひました。
「さうねえ、あ々たさへ御迷惑でなかつたら、わたしもうs少し大きくなりたいの。」とアリスが言ひました。「三寸(すん)なんてほんとに情ない背(せい)ですわ。」
「いや、それか大層いい背格好(せいかつかう)だよ。」と芋蟲は背(せ)のびをしながら、怒(おこ)つて言ひました。(芋蟲も丁度(ちやうど)三寸(すん)の背(せい)でしたから。)
「でも、わたし、この背(せい)には馴れてゐないんでうの。」と可哀想(かはいさう)なアリスは、哀れつぼい聲で言ひました。そして心の中で、「この人がこんなに怒りつぽくなければいいんだが。」と思ひました。
「今にお前馴れてくるよ。」と芋蟲は言つて、口に水煙管(みづぎせる)をくはへて、またふかし始めました。
今度はアリスは芋蟲が、又話しかけるまでヂツと待つて居ました。一二分たつたとき、芋蟲は口から水煙管をとつて、一二度缺伸(あくび)をして、身體(からだ)を振ひました。それから蕈(きのこ)から下(お)りて、草の中へ匍(は)つていきました。行(い)きながら、ただ芋蟲は「一つの側(かわ)は、お前の背(せい)を高くし、他(ほか)の側(かは)は、お前の背(せい)を短くする。」と言ひました。
「何(なん)の一(ひと)つの側(かは)なんだらう。何の他(ほか)の側(かは)なんだらう。」とアリスは考へました。「蕈(きのこ)のだよ。」と芋蟲は丁度、アリスが大聲で尋ねでもしたかのやうに言ひました。そして直ぐ芋蟲の姿は、見えなくなりました。
アリスはしばらくの間、考へ込んで、ヂツと蕈(きのこ)を見て居ました。そして蕈の兩側(りやうがは)とは、どこなのか、知らうとしました。けれども蕈はまん丸なものですから、これは大層むづかしい問題だと、いふことがわかりました。けれども、とうとうアリスは兩腕をグルリと廻せるだけまはして、蕈の端(はし)を兩手で、チヨツトかきとりました。
「さあどちらがどちらなのだらう。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。そしてその結果をためして見るつもりで、右側を一寸(ちよつと)かじつて見ました。と、いきなり顎(あご)の下をひどく打たれたやうな氣がしました。それは顎が足にぶつ
かつたからでした。
アリスは此の急な變り方に、すつかり驚いてしまひましたが、身體(からだ)がドンドン縮まつていくものですから、少しもぐづぐづして居られませんでした。それでアリスは、早速(さつそく)別の端(はし)をかじることにとりかかりました。顎が足にしつかりとくつついて居るものですから、口をあく餘裕なんか、ほとんどありません。しかし、とうとう何(ど)うにかあけて、やつとのことで、蕈(きのこ)の右の端を一口のみ込みました。
[やぶちゃん注:「ウヰリアム父さん、年をとつた」原文原題は“You are old, Father William”。これはイギリスのロマン派詩人ロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の詩
“The Old Man's Comforts and How He Gained Them”のパロディである(リンク先は英文サイト“Poets' Graves”の当該詩篇)。なお、芥川龍之介は擬古文で書かれた「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」の「別稿」(初出時にはあったが、単行本では削除)の「天路歷程」で、このサウジーの一八三〇年の作「天路歴程」(The Pilgrim's Progress with a
Life of John Bunyan:ジョン・バニヤンの生涯と巡礼者の発展)の漢訳本に就いて触れている。よろしければ、以上の初出に復元し、且つ、私が現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み』もお読み戴ければ幸いである。]
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「ああ頭がやつと樂になつた。」とアリスは嬉しさうに言ひましたが、忽ちその聲は、驚きの悲嗚に變つてしまひました。それもその筈です。アリスは自分の肩が、どこにあるのだか見えなくなつたのでした。アリスが下を向いて見ると、見えるものは、ばかに長い頸(くび)だけで、それはアリスのずつとずつと下に擴(ひろが)つてゐる、靑い葉の間から、生えて居る莖(くき)のやうに見えてゐるのでした。
「一體あの靑いものは何かしら。」とアリスは言ひました。「そしてわたし、肩は何處(どこ)にいつたんでせう。まあ、わたしの可哀想(かはいさう)な兩手さん、わたし、
どうしてお前を見られなくなつたんでせう。」とアリスは言ひながら、手を動かして見ましたが、ただ、遙か下の綠色(みどりいろ)の葉の一部が、微(かす)かに搖れたきりでした。
何しろ、手の方を頭に屆かせるなどといふ事は、とても出來さうもありませんでしたので、アリスは頭の方を手に屆かせてみようとやつてみました。すると嬉しいことに、アリスの首は蛇(へび)のやうに、どつちにでもうまく曲(まが)る事が分りました。アリスはこれで格好よくまげくねらせ、そして靑い葉の間に、その首を突込(つつこ)みかけました。――氣づいて見ると、それは今まで歩いて居た森の樹(き)の梢(こずゑ)でした。――が丁度そのとき鋭いヒユーといふ音(おと)が、アリスの顏をかすめたので、あわてて後退(あとすざ)りしました。大きな鳩がアリスの顏にぶつかつて、翼でアリスをひどく打(う)ちました。
「やあ蛇!。」と鳩は金切聲(かなきりごゑ)で叫びました。
「わたし、蛇々んかぢやないわ。」とアリスは怒(おこ)つて言ひました。「早くお退(ど)き!。」
「蛇だつたら蛇だよ。」と鳩は繰返(くりかへ)して言ひました。けれども、その聲は前よりやさしい調子でした。それから、泣聲で附け加へるのに、「いろいろとやつて見たが、どれもあいつには合はないやうだ。」
「お前さん一體何を言つて居るのだか、わたしにやちつとも分らない。」とアリスは言ひました。
「わたしは木の根にもやつて見たし、土手(どて)にも、垣根にもやつて見た。」と鳩はアリスに構はず言ひました。「けれどもあの蛇(へび)奴(め)、あいつばかりはどうしても氣を和げることができない。」
アリスはますます分らなくなつて來ました。けれどもアリスは、鳩が言ひ終るまで、何を言つても無駄だと考へました。
「蛇の奴(やつ)め、卵(たまご)を孵(かへ)すなんて、何でもないと思つてやがるらしい。」と鳩が言ひました。「少しは夜晝(よるひる)蛇の見張(みはり)をしてゐなきやならん。まあ、わしは此の三週間と云ふものは、一睡(すゐ)もしないんだよ。」
「御困りのやうで氣の毒ですわ。」とアリスは鳩の云ふことが、分りかけましたので言ひました。
「それでやつと今、森の一番高い木に、巣をかけたところだのに。」と鳩は言ひ續けて居る内に、泣き聲になつてきました。「こんどこそは蛇にねらはれることがないと思つて居たのに、今度は空から、ニヨロニヨロ下(おり)るぢやないか。いまいましい、この蛇め。」
「だつてわたし、蛇でないと云ふのに。」とアリスは言ひました。「わたしは――わたしは、あの――。」
「ぢやあ、お前は何なのだ。」と鳩が言ひました。
「わしはお前が、何かたくらんでゐることを知つて居るよ。」
「わたしは――わたしは小さい娘ですわ。」とアリスは一日の中(うち)に、いろいろな形に變つたことを、思ひ出して一寸(ちよつと)疑はしさうに言ひました。
「旨(うま)く言つてやがる。」と鳩はひどく馬鹿にして言ひました。「わしは今までに澤山の娘は見て居るが、こんな首をして居る女の子なんか、見たことがないよ。ちがふよ。ちがふよ。お前は蛇なんだ。さうぢやないと、言つて見たつて無駄だよ。今度は多分卵(たまご)なんかの味は知りませんと云ふんだらう。」
「わたし卵(たまご)の味は、知つて居るわ。」とアリスは大層正直な子供でしたから、言ひました。「だつて小さい娘だつて、蛇と同じ位(くらゐ)に卵を食べてよ、さうでせう。」
「わたしには信じられないことだ。」と鳩が言ひました。「けれども、若(も)しさうだとすると、それぢやまあ娘も蛇の類(るゐ)だなあ。わしはさう云ふより外(ほか)はない。」
鳩の言つたこの事は、アリスにとつては、全く新しい考へでしたから、アリスは一二分間(ふんかん)默り込んでしまひました。それをいい機會に鳩は話しつづけました。「おまへは卵を探して居るんだね。それにちがひあるまい。かうなりやお前が、小さい娘であらうが、蛇であらうが、わしにはどうでもよいのだ。」
「わたしにはそれがちつとも、何うでもよくない事なの。」とアリスはあわてていひました。「けれどわたし、卵なんか探してゐるんぢやないの。もし探したつて、お前の卵なんか欲しくはないわ。わたし生(なま)の鳩の卵なんか好きぢやないの。」
「ふん、それぢや、去(い)つてくれ。」と鳩は巣の中に入りながら、氣むづかしい聲で言ひました。アリスは出來るだけ、こごんで樹の下を、歩いていきました。何故ならアリスの首か枝にからみつくからでした。それでその度毎(ごと)に時時止(と)まつて、ほどいていかねばなりませんでした。しばらく經つて、アリスは兩手に一本の蕈(きのこ)を、持つて居ることに氣がつきましたから、大變氣をつけて、初めに一つの側(かは)をかじり、それから別の側(かは)をかじつて、大きくなつたり、小さくなつたりして居るうちに、とうとうアリスはやつとあたり前の背(せい)になることができました。
隨分と永い間ほんとの大きさにならなかつたのですから、始めは全く奇妙でした。が、少し經つうちに、慣れて來て、いつもの樣に獨語(ひとりごと)をいひ始めました。「さあ、これでわたしのもくろみか、半分達(たつ)しられたのだわ。あんなにいろいろ大きさが變つちや、やりきれないわ。一分間(ぷんかん)のうちに、どうなつていくのだかわからないのだもの。けれどもわたしはこれであたりまへの大きさになつたのだ。次にすることは、あの綺麗なお庭に入ることだわ。一體それには、どうすれぱいいのか知ら。」かう言ひましたとき、アリスは突然、廣廣(ひろびろ)とした場所に出ました。そこには四尺ばかりの小さい家(うち)が建つて居りました。「あすこに誰(だれ)が住んで居るにしても。」とアリスは考ヘはじめました。「わたしがこの大きさのままで會ひに行つちやあ、惡いかもしれないわ。内(うち)の人達をすつかり驚かせてしまふわ。」さう言つてアリスは又(また)蕈(きのこ)の右側を、少しかじり始めました。それで九寸ばかりの背(せい)になつたとき、はじめてその家(うち)に近寄つて行きました。
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