飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 冬(Ⅱ) 上高地と白骨 上高地篇
上高地と白骨
上高地篇
日は渺と奧嶺秋園人をみず
鬱々とまた爽かに嶽の白晝(ひる)
山梨(こなし)熟れ穗高雪溪眉の上
[やぶちゃん注:「山梨(こなし)」「コナシ」という呼称を優先するならば、バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ズミ(酸実/桷)
Malus toringo で、「山梨」という表記を優先するなら、ナシ亜科ナシ属ヤマナシ Pyrus pyrifolia となるのであるが、これは上高地ということから、上高地のキャンプ場のある小梨平を連想した。そこで、同地域の植生を調べて見ると、実はこの小平の「コナシ」は以上の二種とも異なるバラ科ナシ亜科リンゴ属ヒメリンゴ/イヌリンゴ(姫林檎/犬林檎)Crabapple Malus ×
cerasifera シノニム
Malus prunifola・Malus hupehensis 他)であることがサイト「四季の花散歩」の「上高地の動植物」の「上高地小梨平のコナシの花写真」及びそこからリンクされてある同サイト内の「ヒメリンゴ花実散歩」によって判明した。個人的な経験からもこれはズミでもヤマナシでもなく、姫林檎である/あって欲しいというのが私の願望でもある。]
旅人にしぐれて藍(あを)き嶽鎧ふ
霧さぶく公園ホテル樅の中
霧の暾や穗高のもとを衷甸(ばしや)發てり
[やぶちゃん注:「暾」既注。「ひ」で朝日。]
燒嶽を詠む
秋風や聳えて燻(いぶ)る嶽の尖き
雲間燃え笹一色に秋の嶽
燒嶽(やけ)晴れて陽にむきがたし秋の空
噴煙に月出て旅も神無月
夜は夜の白雲靆(ひ)きて秋の嶽
大樹林逍遙
草みのり土耀(かがよ)うて旅愁かな
蘡薁に樅の高空風だちぬ
[やぶちゃん注:「蘡薁」「えびづる」と訓ずる。蝦蔓。蔓性の落葉低木である野生の葡萄であるバラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル
Vitis
ficifolia。山野に生え、葉と対生して巻きヒゲが出て、他に絡む。葉は三つから五つに裂けており、葉の裏面や葉柄及び茎に白或いは赤褐色の毛が密生する。雌雄異株で夏に淡黄緑色の小花が密集して咲き、熟すと黒くなって食べられる。「えび」「えびかずら」とも呼び、秋の季語である。]
人や來と見かへる樹林秋の晝
水をどり樺たち鎧ふ秋の晝
秋の風穗高嶺雲を往かしめず
熊笹の實にいちじるく赤とんぼ
あきつとぶ白樺たかき夕こずゑ
小禽むれ霜枯る山梨(こなし)落葉せり
しぐれては秋ゆく樹々の禽舍かな
みすゞかる信濃をとめに茸問はな
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「茸」は「たけ」と訓じていよう。]
高西風に吹かれて飄と岩魚釣
田代池
藻だたみとうつろふ樺の散り黄葉
[やぶちゃん注:「田代池」隣接する大正池とともに、大正四(一九一五)年の焼岳の噴火によって流れ出た溶岩が、梓川左岸の支流千丈沢を堰き止めたこと出来たもの。浅く、周囲は湿原になっている。私のすこぶる好きな池である。]
河童橋
白靴に朝虹映ゆる河童橋
[やぶちゃん注:「朝虹」「あさにじ」。朝に立つ虹であるが、雨の降る前兆で山屋には有り難くない。]
こゝにして我鬼を偲べば秋螢
註=我鬼は芥川龍之介の俳名
[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、飯田蛇笏の芥川龍之介の悼亡吟(「靈芝 昭和二年(三十三句)」より)、
芥川龍之介氏の長逝を深悼す
たましひのたとへば秋のほたるかな
に基づく。なお、龍之介とは書簡のやりとりは頻繁であったが、実際には面識はなかった。]
山梨熟れ釣り橋搖りて牛乳車
公園ホテル
[やぶちゃん注:不詳。上高地帝国ホテル(昭和八(一九三三)年開業)のことをかく呼んでいるか? 識者の御教授を乞う。]
秋日つよく藍靑の嶺々窓蔽ふ
大樹林赤屋根さむく霧罩めぬ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「罩めぬ」は「こめぬ」と読む。]
夕霧にホテル厨房燈をともす
大正池
秋の風棲みがたく長藻搖る
嶽は燃え枯木の鷹に水澄めり
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