氷の涯 夢野久作 (6)
僕は何が何やら譯がわからなくなつた。
居ないとばかり思ひ込んでゐた憲兵が、突然に何處からか湧き出して來て、さうして又何處へ消えて行つたのか……何の爲にニーナを探してゐるのか……第一彼らが用事のあり相(さう)にもない、閉め切つたままの舞踏室の前で、今まで何をしてゐたのか……といふことすらサツパリ見當が付かなかつた。……否。見當が付かなかつたと云ふよりも氣が付かなかつたと説明した方がホンタウであつたらう……。
それは無論、僕の頭が「暗號問題」の一方にばかり集中し過ぎてゐたせいに違ひ無いと思ふ。さもなければ眼の前の仙人掌(サボテン)の不思議と、眼の色を變へてニーナを探してゐる憲兵を結び付けて考へる位(くらゐ)の頭の働きは誰でも持つてゐる筈だつたから。さうして同時に、さうした二つの事實の交錯が生み出す簡單明瞭なクロスワードに氣付いて、肝を潰すか、飛び上るかする位(くらゐ)の藝當は、誰(たれ)でも出來る筈だつたのだから……。
[やぶちゃん注:●「誰(たれ)でも」特異点今まではルビは一貫して「だれ」。]
ところが此時に限つて僕の頭はそんな方向にチツトも轉換しなかつた。ちやうど下へ降りようとする出鼻を挫かれた形で、呆然(ばうぜん)と突立つたまま憲兵の背面姿(うしろすがた)を呑み込んだ暗い、四角い階段の口を凝視して居るばかりであつたが、やがて又、吾に歸ると、急に氣拔けした樣な深いタメ息を一つした。柄(がら)にもない大きな難問題に、夢中になりかけてゐた僕自身をヤツト發見したやうな氣がしたので……。
……馬鹿々々……俺は何と云ふ馬鹿だつたらう。俺はタカの知れた當番の一等卒ぢやないか。特務機關の參謀連中(れんぢう)が考へるやうな仕事を、手ブラの俺が思ひ付いたつて、誰(だれ)も相手にして呉れない事は解り切つて居るぢやないか。俺はコンナ仕事に頭を突込みに出て來たのぢや無かつたではないか……。
[やぶちゃん注:●「俺はコンナ仕事に頭を突込みに出て來たのぢやなかつたではないか」「全集」では(恣意的正字正仮名で示した)『俺はコンナ仕事に頭を突込みにこの展望臺へ出て來たのぢや無かつたではないか』と加筆している。]
……第一いくら俺が暗號を研究しようと思つたつて、萬一それが露西亞文字で出來てゐたらドウするんだ。英語しか讀めない俺には到底、解讀出來ないにきまつてゐるぢやないか。……さうかと云つて出鱈目同樣な數字の排列を、これが暗號で御座いと云つて搜索本部に擔(かつ)ぎ込んでも果して感心して貰へるかどうか。……タカの知れた二等卒の俺が、屋上の仙人掌(サボテン)と、十五萬圓事件との間に重大な關係が在るなぞと主張しようものなら物笑ひの種になる位(くらゐ)が落ちだらう。……又、果してソンナ重大な暗示が、この仙人掌の排列に含まれてゐるか居ないかも、よく考へてみると大きな疑問と云つていゝのだ……。
……あぶないあぶない。今日はよつぽどドウカしてゐるらしいぞ、先刻(さつき)から飛んでもない大それた事ばかり考へてゐるやうだ。コンナ時に屋上から飛び降りてみたくなるのぢやないか……ケンノンケンノン……ソロソロ下へ降りて行くかな……。
氣の弱い僕はソンナ風に考へ直しながら、モウ一度ホーツと深呼吸をした。タツタ今憲兵が降りて行つた本階段の前に立止つて、中央の煙突の附根に、こればかりは動かされた事のない等身大の仙人掌の藥の間に暮れ殘る、黄色い花をジイツと凝視してゐるうちにトウトウ眞暗になつてしまつた……と思ふうちに向家(むかひや)のカボトキンの時計臺の中へポツカリと燈が入つた。それがいつもよりも三時間以上遲れた九時半前後であつたと記憶してゐる。
その時であつた。
不意に僕の背後で、又もや何かしら人の來る氣はいがした……と思ふ間もなく、僕は夢中になつて右手を振りまはした。
僕は喧嘩なぞした事は一度も無い。銃劍術でも駈足(かけあし)でも、中隊一番の弱蟲であつたが、この時は殆んど反射的な動作であつたらう。手應へのあつた黑い影を引つ摑んで、思ひ切り甃(タイル)の上にタヽキつけて捻ぢ伏せると、間もなくモジヤモジヤした髮の毛が左右の指に搦み付いて居るのに氣が付いた。
相手が女だとわかると、弱蟲の僕は急に氣が強くなつた。卑怯な性格だが事實だから仕方が無い。何だか劍劇の親玉みたやうな氣持になつて、肉付きのいゝ女の右手をグイグイと背後に捻ぢまはしながら、指の間にシツカリと握つてゐる露西亞式の短劍を無理矢理に捥(も)ぎ取つてしまつた。そいつを口に啣(くは)へて片膝で背中をグイグイと押へながら、左手でモジヤモジヤした髮毛を摑んで、首から上を仰向(あふむ)かせてみると眞白にお化粧をした顏だ。眉毛の長い……眼と鼻の間の狹い……オスロフの令孃ニーナに相違ないのだ。
僕は仰天した。實際面喰(めんくら)つた。
早くも二人を包みかゝつた霧の影をキヨロキヨロと見まはした……「一體、何だつてコンナ事を」……と云はうとしたが、生憎、一夜漬の軍用露西亞語がなかなか急に思ひ出せない。確かに冷靜を失つて居たらしい。仕方がないからニーナにも多少わかる筈の日本語で、
「……靜かになさい……」
と云ふと、組敷(くみし)かれたまゝのニーナが案外にハツキリとうなづいた。そこで僕は少しばかり手を緩めて、霧の中に立たせて遣らうとした……が、その僅かな隙(すき)を狙つたニーナは突然にビツクリする程の力を出して跳ね起きた。兩手を顏に當てたまゝ、濃い霧の中に身を飜して消え込んだ。階段を飛降りて行く跣足(はだし)の足音だけが耳に殘つた。
[やぶちゃん注:以下、一行空き。ここに底本の挿絵を配す(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)]