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2015/06/29

氷の涯 夢野久作 (8)

 僕が銀月から歸つて來た時に、搜索本部がガラ空きになつてゐたのは當前(あたりまへ)であつた。

 けふの午後一時半頃(僕が出て行つてから約一時間後)に、先刻の歩哨が話してゐた赤いタイプライターの露西亞文字で表書した差出人不明の手紙が一通、司令部に屆くと間もなく、司令部と搜索本部の連中が妙にソハソハと動き出して、○團の幹部や、特務機關の首腦部宛に+++(シキフ)符號の自轉車傳令を飛ばし初めた。そのうちに司令部の連中(れんぢう)が、何事もなささうに三人四人と談笑しながら、一人殘らず出て行つたと思ふと、最後に殘つてゐた古參中尉が、當番係(たうばんがかり)の上等兵を本部の事務室に呼び付けて次のやうな嚴重な注意を與へた。

[やぶちゃん注:●「○團」「全集」では『旅團』(正字化した)。 ●「+++(シキフ)符號」不詳。「式符」か? 陰陽道や神道の呪符に描く記号をこうも言うようである。単に数「式」のような暗号「符」のことかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

一、明朝までオスロフの雇人を一歩も外へ出ない樣に命じて監視せよ。萬一彼等の態度に些(すこ)しでも怪しい處があつたら直ちに、歩哨と協力して引つ捕へて、四階の廊下に立つてゐる憲兵上等兵に引渡せ。

一、萬一危急と思はれる事燈を發見する樣な事があつても絶對に、銃劍を使用したり大聲(たいせい)を發したりしてはいけない。沈着した態度で歩哨の前の街路に出て、帽子を脱いで上下に二三度動かせ。

一、御用商人、オスロフの知人、その他セントラン宛(あて)の訪問客があつた場合、及(および)、電話がかゝつて來た場合には、此の部屋の扉をノツクして自分の指揮を仰げ。歩哨と協力して何者も司令部内に立入らせない樣にせよ。

[やぶちゃん注:●「自分」「全集では『自分(古參中尉)』(正字化した)と加筆。]

一、其他、司令部内の状況に關しては、一切の祕密を嚴守して、出來る限り注意を拂ひつゝ、且(かつ)、出來る限り平常通りの勤務狀態を裝ひつゝ明朝まで徹夜せよ。

 と言つた樣な奇妙な命令を下すと、自身に窓の鎧戸(ブラインド)を卸(おろ)ろして部屋の中を眞暗にしてしまつた。それから上等兵を廊下に閉め出して、内側から鍵をかけてしまつたので、上等兵は面喰(めんくら)つたまま暫くの間、廊下に突立つて、命令の意味を考へてゐたといふ。

[やぶちゃん注:●「自身に」「全集」は『自身で』とある。]

 その上等兵が翌る朝、僕に話した處によると、この日、哈爾賓駐劄(ちうさつ)の日本軍が非常警戒を始めたのが、急傳令の復命によつて司令部が引上げたのと同時刻の、二時チヨツト前ぐらゐであつたらしい。上等兵が司令部附(づき)の少尉から注意命令を受けたのが矢張り同時刻で、地階の張出窓(はりだしまど)から見える辻々に警戒兵らしい姿が見え始めたのが三時前後で、それから十分と經たないうちに向家(むかひ)のカボトキン百貨店の大扉(おほど)が閉鎖されて店の中がシンカンとなつてしまつた。それに連れて、さしもに賑やかであつた表の人通りが、次第々々に疎らになり始めた……と云ふのだから、殆んどアツと云ふ間もないうちに哈爾賓全市を押へ付ける準備が整つたものらしい。白軍と赤軍が束(たば)になつて騷ぎ出してもビクともしないと同時に、オスロフの審問を極力祕密にしてミヂンも外部へ洩らさない手配りが、それこそ疾風迅雷式(しき)に遂行されたものらしい。……しかも斯樣(かう)した物凄い事實の全部が、先刻(さつき)の奇怪な手紙の内容を如何に雄辨に裏書きしてゐたか。その文面の事項が、吾軍の首腦部を首肯させ、且、驚かすべく、どの程度までの眞實性を帶びて居(を)つたかといふ事實を、如何に有力に實證してゐたかは説明する迄もないであらう。

 オスロフは、そんな事とは夢にも知らないまゝ、二週間ばかり滯在してゐた霞支國境のポクラニーチナヤから汽車に乘つて歸つて來た。程近い停車場(ていしやぢやう)から自動車に乘つて新聞を讀み讀みヤムスカヤの近くまで來ると、偶然に故障を起したので、氣輕に車から降りてセントランまで歩いて來た。妻子の出迎へを受けて三階(がい)に上つたのが三時ちよつと前であつたと云ふが、其の時既に、極度の緊張裡(り)に手筈をきめて待ち構へてゐた搜索本部の一團は、否應なしに其の足を押へてしまつた。同人の全家族……と言つても白髮頭の母親と、オスロフ夫妻とニーナを入れた四人切(き)りであつたが……を舞踏室に連れ込んだ。さうして廊下と裏口の見張りの爲に一人の憲兵上等兵を扉(ドア)の外の窓際に立たせたまゝ、例の手紙を突き付けて、嚴重な審問を開始したのであつた。

 その手紙の内容は大略次の通りであつたといふ。(細かい點はニーナも記憶してゐなかつたが……)

 一、オスロフは歐露(おうろ)における過激派軍の優勢に鑑み、今年の春以來、白軍を裏切つて赤軍に内通し、哈爾賓奪取の計畫を立てて居たところ、既にその氣勢が充分に熟し、優秀なる赤軍スパイを全市に配備して日本軍の動向と配備を詳細に亙つて探らせてゐる形跡がある。キタイスカヤに在る日本軍司令部の祕密命令が、時々赤軍に洩れるのは此の爲である。

 一、オスロフは日本軍が、亞米利加(アメリカ)上院の壓迫外交に押されて、遠からず西比利亞を引上げるに違ひ無いと云ひ觸(ふ)らしてゐる。日本軍が哈爾賓に永久的な軍事施設を施すべく準備して居るといふのほ、不意打ちに撤兵を斷行する爲の逆宣傳に過ぎないとも強辨して居る事實がある。これは日本軍の權威を無視して自分の勢力を張る一方に、人心を動搖させて一仕事しようと試みてゐる一種の策動と認め得べき理由がある。

 一、今度の十五萬圓事件も實にオスロフが黑幕となつて決行したものである。彼は此の十五萬圓を以て家族をどこかに避難させると同時に、一擧に日本軍の司令部を殲滅し、北平(ペーピン)と上海(シヤンハイ)に根據を置く共産軍の首腦部と呼應して事を擧げようと企んで居る者である。

 右御參考までに密告する。

日本贔屓(びゐき)の一白系露人より――  

[やぶちゃん注:●「北平(ペーピン)」北京(Bĕijīng:カタカナ音写では「ベイジン」「ベイチン」に近い)の旧称。ウィキの「北京」によれば(下線やぶちゃん)、現在の北京は『春秋戦国時代には燕の首都で薊(けい)と称された。周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。秦漢代には北平(ほくへい)と称されるが、満州開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった』。『唐末五代の騒乱期、内モンゴルから南下してきた遼朝は、後晋に対し軍事支援を行った代償として北京地方を含む燕雲十六州を割譲された。遼はこの都市を副都の一つ南京と定めた。その後金朝が遼を滅ぼし支配権を獲得すると、金は北京に都城を定め中都とした。更にモンゴル帝国(元朝)が金を滅ぼすと大都として元朝の都城とされた』。『朱元璋が元を北方に駆逐し明朝が成立すると、名称は北平に戻され、都城は南京に定められた。しかし、燕王に封じられ北京を拠点とした朱棣(後の永楽帝)は』、一四〇二年、『建文帝に対し軍事攻撃を行い政権を奪取。皇帝に即位した後北京遷都を実行し地名を北京に改めた。辛亥革命後も中華民国は北京を首都と定めたが、南京を首都と定めた蒋介石を中心とする国民政府は、「政府直轄地域」を意味する直隷省を』一九二八年六月に『河北省へ、北の首都を意味する北京を北平(ほくへい、ベイピンBěipíng)へと、それぞれ改称した』。一九三七年から一九四五年まで続いた『日本軍占領期は北京の名称が用いられ』(公式には一九四〇年に改名とする)、『日本の敗戦によって再び北平に改称された』。一九四九年十月一日の『の中華人民共和国成立により新中国の首都とされた北京(北平)は再び北京と改称され現在に至っている。しかし、中華人民共和国の存在を承認せず、南京を公式な首都として大陸地区への統治権を主張する中華民国(台湾)では、現在でも公式名称として「北平」の名称』を用いているとある。]

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