小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一一)
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一一
大佛の境内へ入つてから、すぐ大佛は見えない。こゝの寺は疾くに無くなつてゐる。芝生の中に通じた敷石道を進むと、大きな樹木が像を隱してゐる。が、少し曲がると、不意に全部が見えてびつくりする。幾ら澤山その巨像の寫眞を見たことのある人でも、實物を初めて見ては驚く。それから、像は少くとも百碼の遠くにあるけれども、あまり近過ぎはせねかといふ氣になる。私ももつとよく見るやうにと、すぐ三四碼後へ退いた。すると、像が生きてゐると思つて、私が怖がつたのだと車夫は考へて、笑ひ乍ら手眞似をして私を追ひかけた。
しかし、假令その像が活きてゐても怖れる者はあるまい。あの容貌の柔和、夢みる如き平靜、全體の無限なる沈着は、美と魅力に滿ちてゐる。して、あらゆる期待に反して巨大なる佛陀に近寄れば近寄るほど、魅力が偉大になる。その莊嚴美麗の顏を仰いで、半ば閉ぢた眼を覗きこむと、靑銅の眼瞼から恰も幼兒の如くやさしく、その眼が注がれでゐるやうで、この像こそ東洋の精神に潛める一切の優しく、且つ落着いたものを具像化してゐると感ぜられる。然かも日本人の考でこそ始めて、これが創作され得たのだと思はれる。その美、その品位、その完全な沈着は、これを想像に描いた民族の一段優れた文明を反映してゐる。そして毛髮の扱ひ方や、種々の象徴的記號が示す通り、印度の模型から思ひ付いたのであらうが、技巧は日本的なのである。
像が壯麗を極めてゐるために、高さ優に一丈五尺もある立派な靑銅の蓮華の莖も、暫くは看者の眼に入らない。これは像の前面、線香が燃えてゐる大三脚臺の兩側に立ててある。
佛陀が安坐し玉ふ大蓮華の右側に孔口があつて、そこから胎内巡りが出來る。内部には觀音の小厨子、祐天上人の像、及び南無阿彌陀佛と漢字を刻した石碑がある。
梯子で上ると、巨像の内部の肩まで行ける。そこに二個の小窓があつて、廣く境内を見渡される。此際案内の僧が、この像は六百三十年を經てゐると述べ、して、像を容れて雨露を防ぐべき寺院の新築費として、僅かの喜捨金を求める。
それは昔は、この佛陀のために、寺が建ててあつたからである。地震に續いて海嘯が起つて、寺の壁も屋根も一掃して了つたが、巨像はそのまゝ殘つて、依然蓮華を眺めて瞑想をしてゐる。
[やぶちゃん注:「百碼」「碼」は「ヤード」と読む。一ヤード(yard)は九十一・四四センチメートルであるから九十一メートル強、なお、次の「三四碼」は原文を見て頂ければ分かる通り、「三、四十碼」の誤りで、二十八~三十七メートルである。なお、大仏の座長は十一・三一二メートル、台座を含むと十三・三五メートルで、仏重量は百二十一トンに及ぶが、本像は上体が下部に比べて大きく造立されており(大仏の面長は二・三五メートルで全長の五分の一強を占める。以上のデータは高徳院公式サイトに拠る)、本体から五メートル程度離れた位置から眺めると遠近の錯視効果によって釣り合いが取れて見えるようになっている。
「一丈五尺」約四・五メートル。原文は“fifteen feet”で一フィートは三十・四八センチメートルであるから、ここでの落合氏の換算表記は極めて正確。
「祐天上人」浄土宗大本山増上寺第三十六世法主でゴーストバスターとしても知られた祐天(ゆうてん 寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)。ウィキの「高徳院」から引いておく。本寺は、現在は正式には大異山高徳院清浄泉寺と号し、『鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間』(一七一一年~一七一六年)に、『江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである』。「吾妻鏡」には暦仁元(一二三八)年、『深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ』、五年後の寛元元(一二四三)年に『開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は』、仁治三(一二四二)年に『完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が』三分の二ほど『完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方で「吾妻鏡」には建長四(一二五二)年から『「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し』、この年から造立が開始された大仏が『現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である』。なお、前述の一二四三年に開眼供養された木造の大仏と、「吾妻鏡」で一二五二年に起工したとする銅造の大仏との関係については、『木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている』。「吾妻鏡」によれば、『大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である』。『鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である』。『大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは』、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて『実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている』。「太平記」には、建武二(一三三五)年に『大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり』、「鎌倉大日記」によれば大仏殿は』応安二(一三六九)年にも倒壊している。『大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について』は、「鎌倉大日記」が明応四(一四九五)年とするものの、「塔寺八幡宮長帳」などの他の史料から明応七(一四九八)年九月二十日(明応地震)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧万里集九の「梅花無尽蔵」には文明一八(一四八六)年に『彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている』。先に記した境内発掘調査の結果、応安二(一三六九)年の倒壊以後には『大仏殿が再建された形跡は見出され』ていないとある(とすれば、ハーンが見上げた百二十五年前の明治二三(一八九〇)年時点で露座となって五百二十一年、現時点で六百四十六年ということになる)。白井永二編「鎌倉事典」(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)では『もと光明寺奥院』と断定し、その後さらに、その清浄泉寺の『支院であった高徳院のみが残ったもの。祐天再興の時、山号を獅子吼山と改めたというが、今は大異山に復している』とある。
「六百三十年を經てゐる」明治二三(一八九〇)年から逆算すると、一二六〇年で正元二・文応元年となり、前注で示した大仏造立推定から見ても妥当な年数である。
「海嘯」老婆心乍ら、音で「かいせう(かいしょう)」、訓じて「つなみ」と読む。「大辞林」によれば、特に昭和初期までは地震によって発生した「地震津波」を指したとある。]
Sec. 11
You do not see the Dai-Butsu as you enter the grounds of his
long- vanished temple, and proceed along a paved path across stretches of lawn;
great trees hide him. But very suddenly, at a turn, he comes into full view and
you start! No matter how many photographs of the colossus you may have already
seen, this first vision of the reality is an astonishment. Then you imagine
that you are already too near, though the image is at least a hundred yards
away. As for me, I retire at once thirty or forty yards back, to get a better
view. And the jinricksha man runs after me, laughing and gesticulating,
thinking that I imagine the image alive and am afraid of it.
But,
even were that shape alive, none could be afraid of it. The gentleness, the
dreamy passionlessness of those features,—the immense repose of the whole
figure—are full of beauty and charm. And, contrary to all expectation, the
nearer you approach the giant Buddha, the greater this charm becomes You look
up into the solemnly beautiful face -into the half-closed eyes that seem to
watch you through their eyelids of bronze as gently as those of a child; and
you feel that the image typifies all that is tender and calm in the Soul of the
East. Yet you feel also that only Japanese thought could have created it. Its
beauty, its dignity, its perfect repose, reflect the higher life of the race
that imagined it; and, though doubtless inspired by some Indian model, as the
treatment of the hair and various symbolic marks reveal, the art is Japanese.
So
mighty and beautiful the work is, that you will not for some time notice the
magnificent lotus-plants of bronze, fully fifteen feet high, planted before the
figure, on either side of the great tripod in which incense-rods are burning.
Through
an orifice in the right side of the enormous lotus-blossom on which the Buddha
is seated, you can enter into the statue. The interior contains a little shrine
of Kwannon, and a statue of the priest Yuten, and a stone tablet bearing in
Chinese characters the sacred formula, Namu Amida Butsu.
A
ladder enables the pilgrim to ascend into the interior of the colossus as high
as the shoulders, in which are two little windows commanding a wide prospect of
the grounds; while a priest, who acts as guide, states the age of the statue to
be six hundred and thirty years, and asks for some small contribution to aid in
the erection of a new temple to shelter it from the weather.
For
this Buddha once had a temple. A tidal wave following an earthquake swept walls
and roof away, but left the mighty Amida unmoved, still meditating upon his
lotus.
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