橋本多佳子句集「命終」 昭和三十三年 比叡山 / 春日奥山
比叡山
わが比叡比良と嶺わかつ秋の空
はるかに光る秋の川来るか行くか
根本中堂
不断燈鬱々夏を遣り過す
北谷に立てば北空法師蟬
仏燈や火蛾の翅粉をただよはす
*
山清水汚せしことのすぐに澄む
鞦韆の男女夜の谷にひらく
老いて醜き白川女(め)頭に秋草
[やぶちゃん注:「白川女」は老婆心乍ら、「しらかはめ(しらかわめ)」で、京で花などを頭に乗せて売り歩く女性。嘗て京の白川地方(京都市左京区を流れる比叡山に源を発し、祇園付近で鴨川に合流する白川の流域一帯の地名。古くは鴨川以東、東山との間の地区を指した)の女性が、特有の装束をして市中を売り歩いたことに由来する。]
春日奥山
白露行身袖ひつかく有刺線
石窟仏蜂の出入に有刺線
秋晴より蜂がかへり来石窟仏
石窟仏秋蚊に女(をんな)血たつぷり
なきがらの蜂に黄の縞黒の縞
秋晴に仏の石窟口ひらく
[やぶちゃん注:「春日奥山」「石窟仏」春日山石窟仏(かすがやませっくつぶつ)。私は全く知らないので、ウィキの「春日山石窟仏」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『奈良県奈良市の春日山山中石切峠近くにある磨崖仏。国の史跡に指定されている。通称・穴仏』。『柳生街道石切峠に近い南面傾斜地に露出する凝灰岩の岩壁を龕状に掘り、その壁面に仏像を刻んで彩色したもので相接する東西の二窟から構成される。西窟には久寿二年(一一五五年)および保元二年(一一五七年)の造立銘が刻まれていることから、平安時代末期(十二世紀中期)の作品とみられている。久寿二年の銘は現状では年号の部分が欠損しているが、近世末期の記録により、久寿二年と確認されている』。『東窟は間口約五メートル、奥行約二・四メートル、高さ二・四メートルで中央柱四面に顕教系の如来坐像四体、東壁に菩薩形立像三体、西壁に地蔵菩薩立像四体を表し、東西両壁に天部立像各一体(二天像)を表している』。『西窟は間口約三・六メートル、奥行約二メートル、高さ二・四メートルで経年・風化による損傷は大きいものの、如来坐像三体および多聞天立像一体が現存する。如来坐像は金剛界五仏を表したものと推定されるが、五体のうち二体は滅失している』とある。個人ブログ「ポジティブオーラ」の「春日奥山石窟佛から地獄谷石窟佛」が説明板の写真があり、分かりが良い。グーグル画像検索「春日山石窟仏」もリンクしておく。]
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