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2015/06/30

氷の涯 夢野久作 (12)

 僕は今でもさう思つてゐる。

 この十梨(となし)の言葉を疑ひ得る者は、餘程の名探偵でない限り絶無であらう……と……。

 十梨は眞實、正體も無いくらゐ疲れて居たのだから。……さうして恐ろしい憲兵の前に、絶望と無力とを一緒にした身體(からだ)を曝露(さら)しに歸つて來たのだから……。

 その中でも僕は此話を最も深く信じた一人だつたらしい。……と云ふよりも十梨の立場に衷心から同情を寄せてゐた一人と説明した方が適當だつたかも知れない。實に意外極まる口供(こうきやう)の爲に、昨夜(ゆふべ)、毛布の中で、あれだけ苦心して築き上げて居た推理と、想像の空中樓閣をドン底から引つくり返されながらも、十梨から煙草を拒絶されると直ぐに一階へ飛んで降りて、熱い澁茶を一杯、酌(く)んで來て遣つた位(くらゐ)であつた。

 憲兵連中も無論の事であつた。彼等の顏は十梨の口供の途中から見る見る輝き出してゐた。搜索本部が開設されてから三日目に、早くも勝利の端緒(たんしよ)を摑んだ喜びを、互ひに目顏で知らせ合ひながら點頭(うなづ)き合つて居た。

 十梨が熱い茶を飮み終るのを待ち兼ねた憲兵中尉は、僕をさし招いて自動車を呼ばせた。一刻も猶豫(いうよ)ならんといふ風に……さうして早くもスウスウ眠り始めて居る十梨を搖り起して、

「オイオイ。十梨通譯。起きろ起きろ。處罰されるのではないぞ。いゝか、貴樣は殊勳者に違ひ無いが、一應現場(げんぢやう)を調べる迄は許す譯に行(ゆ)かんからな。氣の毒だが、えゝか」

 十梨は搖(ゆす)ぶられながら小兒(こども)のやうにグニヤグニヤとうなづいた。

 自動車が來ると皆立上つた。何でも全員一齊にやるのが憲兵の習慣らしい。さうしてめいめいは自分の机の曳出(ひきだ)しを開けて、いくらも無い書類や文房具を抱へ込んだのは、搜索本部の仕事がモウ是切(これぎ)りになつた事を豫感して居たのであらう。

 「オイ。當番。モウ此處へは來んかも知れんが、しかし今二三日の間(あひだ)、當番を解除することはならんぞ。搜索本部を解散する時には此方(こつち)から通知すると上等兵に云ふて置け」

 と憲兵中尉が宣告した。

「ハ……モウ二三日間當番を解除する事はならんと上等兵殿に云ふて置きます」

 と復誦をすると今度は珍しく曹長が笑顏を作つた。

「フフフ。うまい事をするなあ貴樣は……フフン。慰勞休暇のやうなもんぢや。……ウン。それから新聞紙(しんぶんし)を一枚持つて來い。イヤ。封筒がよからう。一枚でえゝぞ……」

「ハツ封筒を一枚取つて來ます」

 といふうちに僕は部屋を飛び出して司令部から白い横封筒を一枚貰つて來た。皆はその間(ま)に玄關に出てゐたので、僕は追つかけて、自動車の外に立つてゐる曹長に、封筒を手渡した。

 曹長は封筒を受取ると自動車に乘つた。グツタリと顏を伏せてゐる十梨の横に坐りながら、ポケツトから札束を出して數へ始めたが、三百二十圓在る事を確かめると、「ヨシ」と云ひながら扉(ドア)を閉めた。同時に二人の憲兵上等兵が左右のステツプに飛乘ると、舊式のビツクがガツクリと後退しながらスタートした。その拍子に、札束を横にして封筒に入れようとした曹長の手許が狂つて、外側の一枚の裏面(りめん)がチラリと見えた。

[やぶちゃん注:●「ビツク」私は免許を持たない化石のような男で、車には冥いが、これは恐らく、アメリカのゼネラルモーターズ(GM)が製造販売する乗用車のブランドの一つ、ビュイック(Buick)であろう。]

「……アッ…‥」

 と僕はその時に叫んだやうに思ふ。敬禮するのも忘れて自動車の跡を追つかけ樣としたが、追付けなかつたので、又立ち止まつて額(ひたひ)を押へた。不思議さうに僕の顏を見て居る歩哨の視線から逃げる樣に、地下室へ駈降りて、自分の寢臺に引つくり返つた。猛烈な勢いで活躍し始める僕の腦細胞を、押し鎭めよう押し鎭めようと努力しながら兩手をシツカリと顏に當てた。

 僕は自分の耳を疑はなかつた。今、曹長が數へてゐる三百二十圓は、たしかに十梨が、机の上に投げ出したソレであつた。星黑(ほしぐろ)が、公金の包みの中から引出して呉れたたものだと十梨が説明してゐた二十圓札の十六枚に相違なかつた。……しかも同時に僕は自分の眼を疑はなかつた。タツタ今、其一番上の一枚の裏面(りめん)がチラリと見えた瞬間に、その裏面の片隅に二つ並んだ赤インキの斑點の恰好をハツキリと僕は認めたのだ。

 僕はその赤インキの斑點に見覺えがあつた。忘れもしない前月の初めに、星黑主計が供の前で、自分の俸給を勘定して居るうちに、誤つて赤インキの附いたペン先を跳ね返した時に、くつ付いた斑點だつたのだ。

 僕は、其時に大急ぎで吸取紙を持つて行つて遣つたので、其インキの恰好をハツキリと印象して居る。大きい方が吸取紙に押へられて象(ざう)のやうな歪んだ恰好になつてゐた。そのお尻の上に小さい方の一滴が太陽の形に光線を放射してゐた。ちやうどお伽話の插繪(さしゑ)か、印度(いんど)の壁畫(へきぐわ)みたやうな赤い影繪(かげゑ)の形になつた事を、不思議にハツキリと印象して居たのだ。其時に吸取紙を投げ返した星黑が珍しく「有難う」と云つたせゐかも知れないけれども……。

 若し世の中に、同じ形の赤インキの斑點をつけた二枚の二十圓札が、絶對に存在し得ないものとすれば、かの一枚の札は確かに前月の初めに、星黑主計が自分の俸給として受け取つて、舊式な博多織(はかたおり)の札入に挾んで、内ポケツトに納めた札の中の一枚でなければならぬ。それが丸一個月(かげつ)經つた二三日前の土曜日に銀行から引出したまゝの公金の札束に挾まつて居る理由は絶對にあり得ない。金扱ひの嚴格な星黑主計が自分の紙入の中の金を、公金の札束の中へ突込むといふのは、どう考へても不自然である。

 星黑は殺されたのだ。十梨が掘つた陷穽(おとしあな)に陷つて死んだのだ。

 オベツカ上手で色男の十梨は、星黑を誘ひ出して公金を費消(ひせう)さした……その窮況(きうきやう)に乘じて星黑に官金を盜み出さした。さうして其金を奪ひ取つたのだ。そのポケツト・マネーと一緒に……。

 十梨は其樣(そのやう)な事實の一切を晦ます爲に、二日(か)二夜(や)がゝりで恐ろしく骨の折れる芝居を打つて居るのだ。星黑が生き返つて來ない限り絶對にわかる氣づかひの無い芝居を……。

 十梨の知惠には頭が下がる。實地檢分に行つた憲兵は河岸(かはぎし)で星黑の軍服の燒殘(やけのこ)りを發見するであらう。それから河岸の一軒屋を檢分するであらう。さうして十梨の言葉の眞實性を認めたが最後、猛然として三姓(せい)の方向に突進するであらう。さうしてその結果は十五萬圓と、星黑の行方を、永久に諦めて歸つて來る事になるであらう。十梨の放免もそれと同時であらう。

 かくして十梨は官憲の保障の下(もと)に十五萬圓の持主となり得るであらう。

 ……僕はイキナリ起上つて駈出したい衝動に駈られた。すぐにも憲兵隊に駈込んで十梨の奸策を發(あば)いて遣らうか……と思つたが、又、思ひ直して寢臺の上に引つくり返つた。……イヤイヤイヤ。まだ早い。まだ早い……と氣付きながら……。この事件が放射してゐる、すべての謎の焦點を解決してしまはなければ……さうして動きの取れない實物の證據を押へた上でなけれは……と考へながら……。

 彼(か)の二十圓札は星黑を殺した時に、十梨が奪つた者に相違無いのだ。さうして他の持合はせの札と合はせた三百二十圓を、正直さうに憲兵の前に提出した一種の餌に外ならない事がわかり切つて居るのであるが、しかし是は僕だけがタツタ一人認めて居るに過ぎない極めて偶然の事實である。死んだ星黑が生き返つて來て、それに相違ない事を白狀しない限り、絶對に確實な證據とは云へないのだ。かうした證據の性質を考へないでウツカリした事を云ひ出しでもしようものなら、相手が無鐵砲な憲兵の事だから、あべこべにドンナ嫌疑をかけられるか知れたものでない。

[やぶちゃん注:「奪つた者」はママ。「全集」は『物』と訂する。]

 さう氣がつくと同時に僕は思はずブルブルと身ぶるひをした。この事件を仕組んだ人間の頭のヨサに今一度舌を捲いて感心しない譯に行(ゆ)かなかつた。

 見たまへ……。

 つい今しがたまで十梨の陳述によつて木葉微塵に打碎(うちくだ)かれてゐた僕の想像の空中樓閣が又も、巍々堂々(きゝだうだう)たる以前の形にモリモリと復活して來るではないか。

[やぶちゃん注:●「巍々堂々(きゝだうだう)」はママ。「ぎぎだうだう(ぎぎどうどう)」が正しい(「全集」は『ぎぎ』と訂されてある)。「巍巍」は「魏魏」とも書き、高く大きいさま、厳(おごそ)かで威厳のあるさまを言うから、そうした厳かな様態を少しも隠すところがなく、公然としているさまをいう。]

 しかも生き生きとした現實となつて眼の前に浮き出して來るではないか。

 此事件の背後から糸を操つて居る者は、やはり銀月の女將(おかみ)に相違ないのだ。銀月の女將は表面上オスロフや星黑に好意を表しながら、内實は、十梨と肝膽相照(かんたんあひてら)し合つて居るに違ひ無いのだ。あの年増盛(としまざか)りの女將の男妾(だんせふ)、兼(けん)、番頭として十梨は何と云ふ適任者であらう。彼の露西亞通(ロシアつう)と露西亜辨(ロシアべん)と、持つて生まれた愛嬌とは、銀月の女將に取つてドレ位(くらゐ)重寶なものであらう。

[やぶちゃん注:●「露西亞通と露西亜辨」悪知恵に長けた十梨の持つ、客観的なロシア政局の情報通としての冷徹な分析力と、通訳としての堪能なロシア語の語学力の駆使を、実に上手く、皮肉に表現している部分である。]

 彼は最初から彼女の手先となつて仕事をして居たもので、しかも目下(もつか)が其の大活躍のクライマクスに違ひ無いのだ。彼は、彼が司令部の内情に精通してゐる知識を利用した、事實無根の露西亞文(ロシアぶん)を彼女の註文通りにタタキ出して、一氣にオスロフを葬り去る手段を彼女に與へると同時に、一命を賭(と)して十五萬圓の金儲(かねまうけ)を巧らんでゐるのだ。搜索本部の視線を他(た)の方面に轉向させる可く、巧妙を極めた芝居を打つて居るのだ。十梨の樣な男に取つては、あの女將の魅力が、ソレ程の苦勞に價(あたひ)するに違ひ無いのだ。犯罪の裏面(りめん)に女……何といふ古めかしい解決であらう。さうして又……。

「オイ、上村(うへむら)。手紙だぞ」

 かう呼ばれた僕は、ビツクリして寢臺の上に起上つた。見ると眼の前に上等兵が立つて居る。

「晝間から寢る奴があるか。どこか惡いんか。」

[やぶちゃん注:末尾句点はママ。]

「ハ。すこし風邪を引ゐた樣です」

 と答へながら僕は手紙の上書(うはがき)を見た。「哈爾賓、第二公園裏(うら)、銀月事、富永トミ方、阪見芳太郎(さかみよしたらう)――電二七――」とゴム印が捺してある。

「前文御めん下さいませ。先日は失禮致しました。早速ですが其節お忘れになりました銀側(ぎんがは)の卷煙草入(まきたばこい)れを只今發見致しました。御屆け致しませうか。それとも御都合よろしき時お出で願はれませうか。まことに恐れ入りますが、御(お)ついでの時お電話をお願ひ致します。取りあへず右(みぎ)まで御意(ぎよい)を得ます。

敬具   

  上村作次郎(うへむらさくじらう)樣   阪見芳太郎」

 といふ邦文タイプライターの文句が其中味であつた。

「何だ。貴樣は銀月なんぞへ行つて遊んだことがあるのか」

 と上等兵は眼を剝いて尋ねた。僕は震える手附(てつき)を見せまいと苦心しいしい辛うじて答へた。

「イーヤ、此のあひだ公用でタツタ一度行つたことがある切(き)りです」

「その時に忘れて來たんか」

「そんな記憶(おぼえ)は無いのですが……銀の卷煙草入れなぞ持つて居た事は無いのですが……」

「ハハハ……いゝぢや無いか貰つて來たら……」

「外出してもいゝでしせうか」

「搜索本部は引上げたんぢや無いだらう」

「ハイ。モウ二三日當番を解除しない樣にと中尉殿が云つて行(ゆ)かれました」

「フーン。そんなら外出はお前の勝手次第ぢやろ。俺の權限ちう譯ぢやあるまい」

「ハイ。それぢや是から出かけて來ます。少し買物がありますから」

「また書物買(ほんか)ひか。まあチツト面白い奴を買うて來いよ。讀んで遣るから。ハハハ……」

 と冗談を云ひながら上等兵は出て行つた。

 僕はすぐに外出の支度を始めた。しかし夫(それ)は上等兵の手前だけで、實は息苦しい程の氣迷(きまよ)ひの中に鎖されて居たのであつた。

 ……正直のところ……僕は靑天の霹靂(へきれき)に打たれたのであつた。噂をすれば影といふが、タツタ今、考へてゐたばかりの當の本人から、コンナ風に巧妙を極めた呼出しをかけられた僕は、ちやうど自分の想像通りの幽靈にぶつかつた樣な脅迫觀念に襲はれたのであつた。

 見たまへ……僕の想像が想像でなくなりかけて居るではないか。

 ……かうした人知れぬ手段で僕を引つぱり出して片づけようとしてゐる……もしくはこの事件に一と役(やく)買はせようとしてゐる……らしい彼女の計畫が、此手紙の書き振りを通じてアリアリと窺はれるではないか。

 ……彼女は僕が、兵卒らしくないアタマの持主である事を、タツタ一眼(め)で看破(かんぱ)してゐるのだ。同時に彼女は僕が、此事件に關する幾多の重大な祕密を握りながら、野心滿々の虎視眈々(こしたんたん)たる態度で、司令部の當番に頑張つてゐる人間であるかのやうに、想像してゐるに違ひ無いのだ。ことに依ると彼女は、僕の身體がタツタ今閑散(かんさん)になつた事實と一緒に、その理由までも、憲兵隊の大袈裟な行動によつて察知してゐるかも知れない……だからコンナ詭計(トリツク)を平氣で使つて僕に呼出しをかけて居るのぢやないか……僕が十梨や何(なに)かと同樣に二つ返事で飛んで來るであらう事を確信して……。

 さう氣が付いた僕は、猶豫(いうよ)なく此の手紙を持つて特務機關の參謀の處へ行(ゆ)かうか知らん。さうして一身(しん)の處置を仰がうか知らん……と思ひ、震える手で脚絆(きやはん)を卷いてゐた。

 ……これは俺みたいな人間の手に合ふ事件ぢや無い。いくら文學靑年でも、兵卒は兵卒の仕事しか出來ないものなんだ。そればかりぢや無い。此間(このあひだ)、銀月の應接間でウツカリ軍機の祕密を饒舌(しやべ)つて居る以上、俺はモウ國家の罪

人ぢや無いか。自訴(じそ)して出る資格は充分に在るのだ……。

 と云つた樣な事實に後から氣付きながら、帶劍の尾錠(びぢやう)をギユーギユーと締め上げて居た。

[やぶちゃん注:●「尾錠」尾錠金(びじょうがね)。帯剣ベルトのバックルのこと。]

 恐らく其時の僕の顏は血の氣(け)を無くして居たであらう。屠所(としよ)の羊(ひつじ)とでも云ひ度い氣持ちで、うなだれうなだれ地下室の階段を登つて行つた事を記憶して居る。さうしてソンナ氣(け)ぶりを察しられないやうに帽子を冠(かぶ)り直して歩哨に外出證を見せると、其儘こそこそキタイスカヤの人ごみに紛れ込んだ事を記憶してゐる。實はキタイスカヤの人通(ひとどほり)と云ふと、十人が十人外國人ばかりと云つてよかつたので、却つて人眼(ひとめ)を惹く爲に紛れ込んだやうなものだつたが、それでも、そんな人混雜の中に揉まれて行つたら、その中(うち)に何とか決心が付くかも知れない……と云つたやうな心細い空賴(そらだの)みの氣持から、さうしたのであつたかも知れない。……さうしてまだ決心が付かないまゝ、何處を當(あ)てともなく歩いて行(ゆ)くうちにトルコワヤ街か何處かであつたらう。偶然に眼に付いた立派な理髮店に這入り込んで、フラフラと椅子に腰をかけたまゝ、正面の鏡に映つて居る病人じみた自分の顏を、いつまでもいつまでも凝視してゐたことを記憶してゐる。

[やぶちゃん注:「トルコワヤ街」先に引かせて戴いた「里村欣三ホームページ」の里村の「放浪病者の手記」についての評論「満州小考」によれば、『「トルゴワヤ街」はハルビン随一の繁華街キタイスカヤ街に並行する「売買街」』(商店街の意)とあり、「埠頭区拡大図」を見ると位置が分かる。しかも現在の哈爾濱でも簡体字でズバリ、「売買街」という街路名であることが地図で分かった。]

 それから先の事が僕としては實に書きにくいのだ。何とも申譯無(まうしわけな)い、面目無(めんぼくな)い事ばかりが連續して起つて來るのだから、成(な)らう事なら割愛したいのが山々だが、しかし、それを書くのが此遺書の眼目なんだから、しかたがない。

 眼の玉の飛び出る樣な料金を取られながら、格別驚きもせずにトルコワヤ? の理髮店を出た僕は、ショーウヰンドを覗いたり、のろい貨物車に遮られてゐる踏切を眺めたり、公園の劇場の看板を見上げたりして長い事考へたあげく、ついフラフラと銀月の玄關に立つてしまつたのであつた。

[やぶちゃん注:●「トルコワヤ? の理髮店」このクエスチョンは二段前で「トルコワヤ街か何處かであつたらう」と行った先の街路が不確かであったことに基づくもの。 ●「踏切」「満州小考」の地図を見ると、トルゴワヤ街の東北直近、一区画隣に平行して鉄道が走っているのが分かる。]

 その時の僕の氣持ちは僕自身にも記憶して居ない。しかし何(いづ)れにしても持つて生まれた臆病者の僕が、自分でもハツキリした自信のない證據物件をもつて、○○機關の首腦部の足下(あしもと)へ飛込んで行く勇氣を出し得なかつたのは當然であつたらう。さう云つて自分の卑怯さを云ひ逃れる譯では無いが、そんなにしてドンドコドンドコのドン詰(づめ)まで考へまはして……イツタイ俺はホンタウに此事件に關係があるのか……無いのか……ある樣に思ふのは俺の氣の迷ひぢや無いか……とまで迷ひ詰めて、氣が遠くなる程、思ひ惱んだ僕が、結局、最後に殘る事件全體の「不可思議の焦點」に引掛つて動きが取れなくなつてしまつたのは止むを得ない歸結であつたらう。「ニーナの短劍」に關する疑問を唯一の心賴(こゝろだの)みにして……銀月の女將が僕の味方か敵かを確かめて見る氣になつて來たのは、自然の結果として見逃して貰へるであらう。

[やぶちゃん注:●「○○機關」「全集」では伏字を外して(正字化した)『特務機關』となっている。]

 勿論それは實にタヨリナイ雲を摑むやうな想像……と云ふよりも寧ろ空想に近いヤマカンであつた。非常識と云ふよりも寧ろ馬鹿々々しいくらゐ情ない「空賴(そらだの)み」式(しき)の心理狀態であつた。けれども其時の僕としては、さうしたヤマカン式の「空賴み」よりほかに辿(たど)つて行(ゆ)く道が無いのであつた。此の疑問を解決してから自首して出ても遲くは無い……此の疑問を解決する爲には何もかも犧牲に供(きよう)しても構はない……と云つたやうな絶體絶命の氣持になつたまま、色硝子(いろガラス)と、茶色の化粧煉瓦(けしやうれんぐわ)と、蛇紋石(じやもんせき)で張詰(はりつ)めた、お寺のやうな感じのする銀月の玄關に茫然と突立つて居たのであつた。

[やぶちゃん注:●「蛇紋石」serpentine(サーペンティン)。マグネシウムの含水ケイ酸塩からなる鉱物で橄欖(かんらん)石や輝石が水と反応して変質したもの。岩石の表面に蛇のような紋様が見られ、高級装飾石材。]

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