氷の涯 夢野久作 (5)
搜索本部はトウトウ日暮まで歸つて來なかつた。だから僕も眼を醒ますと、すぐにキチンと掃除をして室内を片付けてしまつた。それから地下室に歸つて、襯衣(シヤツ)一枚のまゝタツタ一人で夕食を濟ましたが、サテ外出しようか……どう仕樣かと思ひ思ひ向うの隅を見ると、僕の外出許可證を預つてゐる上等兵が、晝間の彈藥盒(だんやくがふ)を解くのも忘れて寢臺の上に横向きになつてゐる。スウスウと寢息を立てゝ居る氣(け)はひである。ほかの當番連中もまだ歸つて來ないらしく銃架がガラ空きになつて居る。仕方が無いから襯衣(シヤツ)一枚の上に帽子を冠(かぶ)つて、スリツパ穿(ば)きのまゝ裏口の鐵梯子傳(てつばしごづた)ひに、新しい棕櫚のマツトを踏み踏み、五階の屋上庭園に上(あが)つて行つた。これは規則違反の服裝を三階の上官連中(れんぢう)に見つからない用心であつた。サツキの歩哨の話を一寢入りした間(ま)にスツカリ忘れてしまつてゐた僕は、習慣的に三階(がい)の連中(れんぢう)が五人や十人は居るものと思ひ込んで居たのだから……。
[やぶちゃん注:●「彈藥盒」は小銃の弾薬を携帯するための小型の箱(「盒(ごう)」は蓋附きの容器の意)のこと。通常、陸軍歩兵用は前盒二箇・後盒一箇を帯革に通して携帯した。ウィキの「弾薬盒」を参照されたい。 ●「裏口の鐵梯子傳ひに、新しい棕櫚のマツトを踏み踏み五階の屋上庭園に上つて行つた。これは規則違反の服裝を三階の上官連中に見つからない用心であつた」「全集」では(恣意的に正仮名正字化した)『裏口の鐵梯子傳ひに迂囘して、新しい棕櫚のマツトを踏み踏み、五階の屋上庭園に上つて行つた。この迂囘は規則違反の服裝を三階の上官連中に見つからない用心であつた』と加筆している。]
屋上に來てみると、黑タイルを張詰(はりつ)めた平面の處々に新しく水を零(こぼ)した痕跡(あと)がある。その片端(かたはし)に、濡れたままの如露(じよろ)とバケツが置きつ放(ぱな)しにして在るところを見ると、ニーナが水を遣りかけたまゝ何處へか行つたものであらう。往來に面した木製の棚の上に手入れを濟ましたらしい二三十の鉢が、中途切(ちうとぎ)れしたまゝ三段に並んでゐる。この鉢の並び方が同(おんな)じになつてゐた事は今までに一度もないので、大きいのや小さいのが毎日のやうに、取換(とりか)へ引つかへ置き直されて居る事を僕はズツと前から氣づいてゐた。しかもそれが向家(むかひや)の百貨店の時計臺以外に相手のない、高い五階の屋上だから、考へてみると隨分御苦勞千萬な、無意味(ノンセンス)な趣味ではあつた。
……僕は實を云ふと、此時この屋上に仙人掌(サボテン)を見に來たのでは無かつた。例によつて、哈爾賓を取り圍む大平原の眺望を見廻しながら深呼吸でもして遣らう……序(ついで)に銀月の方向を眺めて、十五萬圓事件の解決法でも考へて遣らうか……と云つた樣な、至極ノンビリした氣持ちに驅られて上(あが)つて來たのであつたが、しかし此時の僕の頭は最前の麥酒の醉醒(ゑひざ)めと、思ひがけなく有付けた充分な午睡(ごすゐ)のお蔭で、いつもよりもズツと澄み切つてゐたのであらう。最初は何の氣なしに見て居た此仙人掌(サボテン)の大行列が、いつの間にか世にも不思議な行列に見えて來たのであつた。
僕は念の爲に、仙人掌(サボテン)の棚の前を、往來に向つた甃(いしだゝみ)の端まで歩いて來た。その緣端(きつぱし)に在る古風な鐵柵(てつさく)に摑(つか)まつて出來る限り頭を低くしてみたが、此の仙人掌の棚を見る場所はどう見まはしても一階低い向家(むかひや)のカボトキンの時計臺しか無かつた。そんな位置に棚を置いた理由が、どうしても解らないのであつた。
僕はだんだん眞劍になつて來た。今日が今日まで斯樣(こん)な不思議な事實にドウして氣がつかなかつたんだらうと思ひ始めた。
僕は何でもカンでも此理由を研究してみたくなつた。これも僕の所謂「退屈魔」がさせた氣まぐれに相違なかつたが、どうせ夜は閑散(ひま)なんだからこの薄明りを利用して一つ研究して遣れ……といふ氣になつてタイルの中央に並んでゐる鉢を四百五十幾個(いくつ)かまで數へ上げた。それから其鉢の一つ一つに立てゝ在る白塗の番號札を一から二、二から三と順々紅に拾ひ探しながら數へ上げてみると又、奇妙な事實を發見した。百以下の番號が二、三十缺(か)けてゐる上に同じ番號の札がいくつも並んでゐる。二百四十二が四ツ、三百八十五が三ツといふ風に……。しかも夫れが同一種類の仙人掌に立てたもので無い事は一目瞭然なのだ。何でもない頭で見たら、コンナ事實は、此札を立てたニーナの氣まぐれとしか考へられなかつたであらう。又は學者か何かの頭で考へたら、斯樣(かう)した現象は、ニーナが先天的に數字に對する觀念を持たない、一種の痴呆患者か何かと思へたかも知れないが、しかし此時の僕の頭にはドウシテドウシテ……身體中がシインとなる程の大發見と思へたのであつた。
……すぐに下から紙と鉛筆を取つて來て、この番號の缺けたところと重複したところとを順序よく書き並べてみようか知らん……序(ついで)に棚の上の行列についてゐる番號札を其の順序に書き並べて、それが何かの暗號通信になつて居るか何樣(どう)かを突止(つきと)めて遣らうか……それとも向家(むかひや)の時計臺から此暗號を讀み取つて居るであらう何者かの正體を探り出すのが先決問題か……
……なぞと色々に考へ直しながら、暗くなつて行(ゆ)く屋上をソロソロと行つたり來たりしてゐた。遙かに西北、松花江(スンガリー)の對岸から、大鐵橋を覆うて襲來する濃厚雄大な霧の渦卷を振り返り振り返り立止(たちど)まつたりしてゐた。
ところが其の中(うち)に間もなく、其霧の大軍がグングン迫つて來さうに見えたので僕はトウトウ決心した。とりあへず番號だけ寫しておく積りで、裏の鐵梯子(てつばしご)の方へ鋭角(えいかく)の廻(まは)れ右をすると、それと殆んど同時に、本階段の方向から不意に、慌しげな靴音が駈け上つて來て、思ひがけない軍裝の憲兵上等兵が眼の前にパツタリと立ちはだかつたのであつた。
僕はギヨツとして一歩退(しりぞ)いた。襯衣(シヤツ)一枚のスリツパ穿(ば)きで屋上に出る事は、風紀上嚴禁してあつたので、扨(さて)は見つかつたかと思ひながら、慌てゝ不動の姿勢を執つて敬禮した。
ところが妙なことに、その憲兵も何かしら面喰(めんくら)つてゐるらしかつた。僕の姿を夕闇の中に認めると、ハツとしたらしく、軍刀を摑んで立ち止まつた。眼を据えて僕の顏を見たが、それが顏なじみの當番卒だつた事がわかるとホツと安心したらしい。簡單に敬禮を返しながら其處いらを探るやうに見廻して居る中(うち)に、又も僕の顏に瞳を据ゑた。
「オイ當番。此處に誰か來はしなかつたか」
「ハッ。誰も來ません」
と云ひ云ひ僕は敬禮を續けてゐた。
「……よし。手を下(おろ)せ。…‥ニーナが來はしなかつたか……此の家(うち)の娘だ」
僕は何かしらドキンとしながら手を下した。
「イヤ。誰も來ません」
「フーン。お前は何時から此處に居たんか」
といふ中(うち)に、憲兵上等兵はモウ一度、疑ひ深い瞳で屋上を睨(にら)みまはした。
「ハッ。上村は一時間ばかり前から此處を散歩して居りました」
「フーム。たしかに誰も來なかつたな」
「ハッ。左樣であります」
憲兵は依然として狼狽してゐるらしく、又も大急ぎで本階段へ降りかけたが、途中でチヨツと立止まつて振り返ると嚴重な口調で云つた。
「誰か來たらすぐに知らせよ。俺は四階の舞踏室の前にいるから……ええか……」
「ハッ。四階の舞踏室……」
と僕が復誦し終らないうちに軍刀を押へた憲兵のうしろ姿が、階段を跳ね上り跳ね上り下の方へ消えて行つた。
[やぶちゃん注:以下、一行空き。]