譚海 卷之一 堀部安兵衞娘妙海尼の事
堀部安兵衞娘妙海尼の事
龜井戸安場(あんば)大杉明神の近所に、妙海尼と云(いふ)庵を結(むすび)て住(すめ)る有(あり)。淺野家臣堀部安兵衞娘なるよし。大石内藏介等泉岳寺へ葬禮濟(すみ)し後、和尚の弟子に成(なり)たきよし願(ねがひ)しに、若き婦人いかゞとて承引せず。強(しい)て願(ねがひ)ければ、さらば淺野家の墓所に一夜行(ゆき)て居(ゐ)よと命ぜられ、やがて墓所に往(ゆき)て平明まで有(あり)て恐るゝ躰(てい)もなかりしかば、此上はとて剃髮をゆるされけり。勇猛なる尼にて、淺野家再興を願ひ、老中の駕(かご)に就(つき)て、願書を捧(たてまつり)し事ども度々なりしとぞ。前後三十餘度公儀を犯しねがひけるとぞ。諸國をも行脚して至ざる所なし。後養子して堀部安兵衞と云(いふ)名を繼(つが)せ、田沼主殿頭(とのものかみ)殿留守居にて現存せり。毎月泉岳寺へ墓參怠らざりしが、衰老の後(のち)泉岳寺の門前へ引移(ひきうつ)り香花(かうげ)怠らず。八十九歳にして終りぬ。安永年中までありつる人なり。小兒の泣(なき)いふに、制せずしてなかするがよし。其兒生長してものいひのびらか成(なる)もの也と、同尼の物語也。出家のとしは二十六歳なりしとぞ。
[やぶちゃん注:「淺野家臣堀部安兵衞娘妙海尼」野口義晃・木村和成・hatの共作になるサイト「大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典」の堀部安兵衛の妻で堀部弥兵衛娘「ほり」の項(こちらの頁の中程)を見るに、「娘」の記載はない。赤穂浪士の吉良邸討入は元禄一五(一七〇三)年であるが、「ほり」の生年は同項によれば延宝五(一六七七)年で、討入の時、安兵衛の妻ほりは満二十六歳であり、「出家のとしは二十六歳」とほぼ一致する。しかし、「譚海」の起筆は安永五(一七七七)年で「ほり」の生誕から丁度、百年目、討入から実に七十四年後、しかもこの話柄、筆者の津村淙庵自身が実際にこの「堀部安兵衞娘」である「尼」と実際に言葉を交わした形で記載されているから、これはもう「堀部安兵衞娘」でなくては化け物である。そこでリンク先の「大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典」の安兵衛の妻「ほり」の記載に戻って読んでみると、元禄一六(一七〇三)年二月の『弥兵衛と安兵衛の切腹後は母の実家に身を寄せ、後に一族の忠見扶右衛門の子に堀部家を継がせる。これが後に熊本藩に召し抱えられると、ともに熊本に移り』、享保五(一七二〇)年、『熊本に没した』とあり、『実名はあまり知られておらず、後世の文芸作品や演劇作品では複数の名前がつけられているが、「ほり」あるいは「幸」が実名と考えられている』と記す。享年四四である。ところが、『なお、後に安兵衛の妻を名乗る妙海尼が江戸泉岳寺に現れたが、ほりはこのころには既に没していたため、別人である』という記載がそこに付随するのである。さらにこの安兵衛の妻を名乗った妙海尼なる人物の項が別に設けられており(こちらの頁の下方)それによれば、妙海尼の生年は貞享二(一六八五)年で没年は安永八(一七七八)年とあり(この尼の生まれた時、実際の安兵衛の妻「ほり」は八歳(!)で、没年は淙庵は「譚海」を起筆した翌年でこの生年が正しければ「八十九歳」どころか享年九十四歳(!)である)、以下、「略伝」には、『はじめ江戸亀戸安場大明神に庵をもうけ、堀部弥兵衛の娘で堀部安兵衛の妻としてその主家浅野家の再興を幕府老中に直訴するなどしていた。しかし、直訴状には本名「じゅん」と記載されており、史実の弥兵衛の娘で安兵衛の妻ほりと名が異なっている』。安永三(一七七四)年、『江戸泉岳寺に清浄庵を結んで赤穂浪士の菩提を弔うとともに、浪士の昔語りを始める。水戸藩主徳川治保、上州館林藩主松平武元、長門清末藩主毛利政苗などの屋敷にも招待され、江戸城大奥にも召されて、将軍徳川家治の側室おちほの方、田沼意次・意知父子の前でもこれを披露したが、その最晩年には安兵衛の未亡人でないことを訪れる人々にもらしていたともいわれている』。安永八(一七七八)年、『泉岳寺に没。浪士たちの墓の傍らに安兵衛未亡人として墓碑が残る。なお、その言動は「妙海語」として残され、多くの芝居ではその語られた生涯が引用されたが、後にその内容に誤りが多いことが指摘されている』とあって(下線は総てやぶちゃん)、正直、開いた口がふさがらない驚くべき事実ではないか。
「龜井戸安場大杉明神」この名称の神社は現存しないのでよく分からないのであるが、これは現在の江東区亀戸三丁目にある亀戸香取神社のことではあるまいか? 何故なら、Murakami Tetsuki氏のサイト「古今宗教研究所」の、茨城県稲敷市阿波にある、通称「大杉大明神あんばさま」と呼ばれる「大杉神社」の記載の「由緒」の中に、この大杉神社は『疱瘡除けの神としても信仰を集め、「あんば信仰」は関東一円のみならず千葉県から岩手県に及ぶ太平洋岸に広がった』とあって、特に享保一二(一七二七)年に『江戸の亀戸香取神社に大杉大明神が飛来したとして大騒ぎになり、悪魔払え囃子(あんば囃子)が大流行したと伝えられる』とあるからである(下線やぶちゃん)。識者の御教授を乞うものである。
「大石内藏介」底本では「介」に右に編者による『(助)』という訂正注がある。
「田沼主殿頭」田沼意次。]
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