わが好きは妹が丸髷くぢら汁不動の呪文しら梅の花 與謝野鐡幹
わが好きは妹が丸髷くぢら汁不動の呪文しら梅の花 與謝野鐡幹
(明治三四(一九〇一)年四月刊「むらさき」より)
短歌本文は「J-TEXTS」(日本文学電子図書館)の「むらさき」に拠る。
鉄幹はこの年の八月十五日に鳳晶子の「みだれ髪」を編集して刊行(東京新詩社及び伊藤文友館共版)、二人は十月一日に結婚しているが、ここに出る「妹」は、刊行年とネット上の諸情報を総合すると、晶子ではなく、前妻の林滝野(はやしたきの)である。
滝野は徳山女学校(のちの山口県立徳山高等学校)在籍中に、当時、同校の教師であった与謝野鉄幹と恋愛関係に陥って同棲、一子、萃(あつむ)をもうけ、後に二人して東京に出奔、鉄幹の二度目の妻となった女性である。
鉄幹は明治二五(一八九二)年から実兄赤松照幢経営になる同校に国語教師として四年間勤務したが、その間、やはり同校の女子生徒であった浅田信子との間に問題を起こして退職している。この時、この信子との間には女の子が生まれているが、間もなく亡っている。
則ち、信子は正式な鉄幹の最初の夫人で、この滝野が後妻、知られた晶子は三度目の妻である。 滝野は明治三三(一九〇〇)年に鉄幹とともに雑誌『明星』を創刊、初期の編集発行人の一人となったが、鉄幹が瞬く間に晶子との不倫に走ったことから、早くも翌明治三十四年に離婚、後に歌人・詩人であった正富汪洋(まさとみおうよう)の妻となった。
因みに、晶子とは、この明治三十三年八月四日に大阪で初対面、翌々日の六日に浜寺公園内の料亭寿命館で行なわれた「関西青年文学会堺支部」による鉄幹歓迎の歌会に二人揃って出席(この場には今一人、鉄幹に想いを寄せていたかの山川登美子も参加していた)、その後の八月十五日の帰京途中で晶子を呼び出し、やはり浜寺で密会している(以上の事蹟はネット上の諸情報を勘案して時系列がなるべく明確になるように作成したものである)。
この手の詩歌では唯一僕の好きな、本歌に真に遠く響き合う、鈴木しづ子の名句を掲げて、終りとしよう。……
好きなものは玻璃薔薇雨驛指春雷 鈴木しづ子
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