北條九代記 巻之七 時政務 付 奉行頭人行跡評議
○泰時政務 付 奉行頭人行跡評議
武藏泰時は、仁慈有道(じんじいうだう)の譽(ほまれ)、世に高く、廉讓節義(れんじやうせつぎ)の思(おもひ)を内に貯へて、安國撫民の志を晝夜朝暮(ちうやてうぼ)の勤(つとめ)とし給へり。記錄所(きろきしよ)の門に、鐘を釣りて、訴訟人に撞かしめ、上の十五日は、卯刻より、記録所に出でられ、午刻に退去あり。下十五日は、午刻より出でて、申刻に、歸られ、鐘の聲、聞ゆれば、人をいだして、訴訟人を召し入れて、直に訴(うつたへ)を聞きて、書記(かきしる)し、月毎(ごと)の十日と二十日、晦日と、決斷の日を定め、頭人、評定衆を集めて、理非を決せらる。その法は、貞永の式目の如し、欲深(よくふかき)を恥(はぢ)しめ、廉直なるに親み給ひ、「行(かう)、餘力(よりよく)あるときんば、以て文を學ぶ、と云ふ事あり。奉行、頭人、評定衆も、訴訟人なき暇(ひま)には少の學文(がくもん)をば勤め給へ」とて、年末だ若き人々には、殊更、道義を勸められ、常に又、仰せられけるやうは「假令(たとひ)萬卷の書を讀學すとも、時と相應の文(ぶん)を知らずは、口惜(くちをし)かるべし。其云ふ所、一旦は義理に叶ふに似たる事あるも、時に相應せざらんには、智者とは云ふべからず。只、古人の吐出(はきぢだ)せる陳言(ちんげん)を、囀(さへづ)るのみなり。國家の大用(たいよう)となるべからず。是(これ)、善く嗜むべし。人を毀(そし)り、人を譽(ほむ)る、是、皆、我が心の機嫌に依て、一定し難き事にて侍り。往昔(そのかみ)は、人、皆、これを嗜(たしなみ)とす。年の比、三十歳より内の人の、他を譽るも、好しとせず、年老いたる人の、他を毀るも聞善(きゝよか)らず。若年の輩、物知顏(ものしりがほ)にて我は賢(けん)なりと云はぬ計(ばかり)に利口(りこう)を申さるゝ、その内心には黑白(こくびやく)をも辨(わきまへ)なき程の分別なる、誠に側痛(かたはらいた)き事ぞかし。老人の威儀、正(たゞし)くて、才知分別もあらんと覺ゆるに、入を毀り、名を立てらるゝは、老氣(おとなげ)なき行跡(かうせき)の程、最(いと)可笑(をかし)かるべし。是等の事は、皆、重欲慢心(ぢうよくまんしん)の中より生する小智の態(わざ)なり、さればにや、小智は亡國の端(はし)、邪智は害毒の根(ね)と申す事の候なり。况(まし)て、頭人、奉行なんどは、假(かり)にも虛語(きよご)を云ふべからず。人の訴を怒ること勿れ。忿(いかる)則(ときん)ば、民、その訴ふべき事を恐れて、訴へざる時は、自然に國家の好惡(かうを)を聞かず。民の歎(なげき)となる事多かるべし。咎(とが)あるをも怒らずして、まづ、理を詰めて後に誡(いまし)め、親疎(しんそ)に付きて、理非を枉(まぐ)ること勿れ。折節に付きて、參會ありとも、無道の辯舌者(べんぜつしや)、不義の利口人(りこうにん)、愚癡(ぐち)の遁世者、申樂(さるがく)の諂(へつら)ふ策を近付け、戲言虛誕(けごんきよたん)に及ぶ時は、自然に侈(おごり)出でつゝ、非道、盛(さかん)になるものなり。その賢を賢として、道義を語れば、道を知(しる)者は愈(いよいよ)服して、知(しら)ざるは慕ひ赴き、日比、私曲(しきよく)のなるも、少(すこし)は直(すぐ)になる事にて候。愚にして佞奸(ねいかん)なる者は、參會の座にしても、云ふべき事を知ざる故に、只、人を苦め、推倒(おしたふ)す事のみを語りて、理非の道義を顧みず。奉行、頭人も是を聞きては、利に走り欲に陷りて、つひには民の愁(うれへ)となり候。是等の事は、隨分に嗜むべきにて候」と申されければ、當座の人々首を垂れて、各(おのおの)甘心(かんしん)し給ひけり。天福二年七月六日、家司(けし)等に仰せて、起請文をぞ召されける。奉行の事、親疎を云はず、貴賤を論ぜす、各(おのおの)正義を存じて沙汰を致すべきの趣、十七人の判形あり。
[やぶちゃん注:起請文の部分は「吾妻鏡」巻二十九の天福二年七月六日に基づくが、それは本文最後に出る「六日癸卯。仰家司等。召起請。是奉行事。不謂親踈。不論貴賤。各存正儀。可致沙汰之趣也。其衆十七人。」(家司(けいし)等に仰せて、起請を召す。是れ、奉行の事、親踈を謂はず、貴賤を論ぜず、各々正儀を存じて、沙汰致すべきの趣きなり。其の衆十七人。)の誓詞提出の部分だけで(「吾妻鏡」は以下、その誓詞を提出させたメンバー――但し、十四名しか挙がっていない。そもそも評定衆の原則定員は十三であるから、これは「十七人」自体が誤記であろう――を記してあっさりと終っている)、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この大半は「太平記評判秘伝理尽鈔」巻五「相模入道田楽を弄する并闘犬の事」をベースとしているらしい(未見乍ら、後の北条高時の乱行に関わって遡って語られた部分であるか)。「太平記評判秘伝理尽鈔」は近世初期に大運院陽翁などが関与して成立したものと推定されている「太平記」の注釈論評書。四十巻。「太平記」の主要章段に兵法や倫理面から論評を加え、異伝y裏話の類を補説する。近世初期に於いてこの書を武士層に講釈・伝授する「理尽鈔」講釈が金沢などで盛んに行われ、初期の「太平記」講釈にも大いに利用された(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「頭人」「たうにん(とうにん)」と読む。評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官。
「行跡」「かうせき(こうせき)」と読んでいる(「ぎょうせき」と読んでも構わない)。日頃の行い。行状(ぎょうじょう)。身持ち。
「仁慈有道」仁心と慈悲心に富んで、且つ道理にも叶っていること。
「廉讓」清廉潔白で常に自身よりも人に譲ることを心掛けること。
「節義」節操と信義に基づいていた正道を常に採ること。
「記錄所」問注所の誤りであろう。本義は「記録荘園券契所 (きろくしょうえんけんけいじょ) 」で平安時代、及び建武の中興の際に置かれた荘園整理のため朝廷の役所で、鎌倉時代も源頼朝の要請によって文治三(一一八七)年に荘園関連の主にその訴訟処理を目的として朝廷に設置されたが、これは明らかに鎌倉御府内のことだからである。
「上の十五日」月の前半の十五日間。
「卯刻」午前六時。
「午刻」正午。
「申刻」午後四時。
「行(かう)、餘力(よりよく)あるときんば、以て文を學ぶ」「論語」学而第一の六、
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子曰。弟子入則孝。出則弟。謹而信。汎愛衆而親仁。行有餘力。則以學文。
(子曰く、「弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち弟(てい)、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行ひて餘力有らば、則ち以つて文(ぶん)を學ぶ。」と。)
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に基づく。原義の「文」は「六経」(詩経・書経・礼経・楽経・易経・春秋)で孔子の謂いはそれらを指すが、後、「六芸」(礼節・音楽・弓術・馬術・文学・数学)をも指すようになり、意味合いとしては、後者の方が分かりがよい。但し、ここで孔子が言いたい本質は、字面のそれではなく、実践に基づいた礼智をまず身につけ、その後に余力が出来たら、学問をしなさい、という助言であろう(「孝」は情(「詩経」)に、「弟」は序(「礼記」)に、「信」は事(「書経」)に、「仁」は和(「楽経」)に相当する)。下村湖人はこれを「先師がいわれた。年少者の修養の道は、家庭にあっては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、まず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。そして、そうしたことの実践にいそしみつつ、なお余力があるならば、詩書・礼・楽といったような学問に志すべきであろう」と訳している。
・「奉行」教育社の増淵勝一氏の訳に割注で『別当・執事などの下二ある各部局の長』とある。どのような奉行があったかは個人サイト「日本歴史学講座」の「鎌倉幕府職制事典」が分かり易い。
「時と相應の文」現実の今日只今の時節・体験・状況に相応した意義のある、実践的で即戦力となるにぴったりした文章や考え方。以下を読むと、智の高度な照応性のみならず、現象との自己同一性をも求めていることが分かる。これはこの場を借りた、筆者の知性論でもあるわけである。
「口惜かるべし」無駄である。意味がない。
「一定し難き事」絶対の道理に基づく揺るぎない判断とは言えないことを謂う。
「嗜」よく自らのものとして理解していた、心得ていたことを指す。
「三十歳より内の人の、他を譽るも、好しとせず、年老いたる人の、他を毀るも聞善らず」対句構造から見ると、前の対象である「他」は自分より年上、三十以上の人で、後者の対象である「他」は若い人と読める。それぞれの心的な状況を更に分析したのが、この後に続く対句部分になるのである。
「名を立てらるゝ」老兵が容赦なく若者を指弾批難し、それをまた周囲の者が讃嘆して評判となる。
「小智は亡國の端、邪智は害毒の根」出典未詳。仏典か? 検索をかけると、「北条九代記」のここが濫觴とあるが、ちょとなぁ……。
「虛語を云ふべからず」「虛語」は嘘だが、このままでは文意の流れが悪い。増淵氏はここを、以上と以下の叙述から、『まして(上に立つ)長官・局長なぢは仮にも(いかにも怒っているかのような)うそをついてはならない』と訳されている。これはまことに達意の名訳である。
「自然に國家の好惡を聞かず」ここも増淵氏の訳、『そうなると自然に国政のよしあしを(人民から)聞く機会を失ってしまって』が素晴らしい。
「親疎」相手が自分と親しいか親しくないか、自分の側の人間か、相い反するセクトの人間かの違い。
「折節に付きて、參會ありとも、無道の辯舌者、不義の利口人、愚癡の遁世者、申樂の諂ふ策を近付け、戲言虛誕(けごんきよたん)に及ぶ時は、自然に侈出でつゝ、非道、盛になるものなり」「戲言虛誕」「戲言」は通常「ぎげん」で、たわごと・ざれごと・ふざけた話・冗談、「虛誕」は根拠のないことを大げさにいうこと・でたらめ・法螺。――折りに付けて我ら、かくも参会して国政に就きて評議致すとも、そこに……道理に外れたことを達者な口でべらべらと述べ立てる奴……不義にして小賢しい知恵を弄ぶ小利口者(こりこうもの)……役にも立たぬ愚痴ばっかりを垂れ流すだけの遁世者(しゃ)……猿楽みたような愚にもつかぬおべんちゃらで諂ってはすり寄ってくる下郎……そんな輩ばかりが言いたい放題に戯言(たわごと)や出鱈目に及ぶに至っては、知恵ある書士も自ずと思い上がった心が肥え太り、結果、世に非道の盛んとなって蔓延(はびこ)るようになるものである――……おい! これどっかの国のどっかの国会でどっかの与党がやってること、全く以っておんなじことじゃあ、ねえかッツ!……
「私曲」不正な手段を以って自身だけの利益を謀ること。利己心があって正しくないこと。
「佞奸」口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢く拗(ねじ)けていること。
「家司」「けし」の読みの方が古く正しい。政所・問注所・侍所の寄人(よりゅうど)、担当職職員を指すが、ここは評定衆・引付衆をも含んだ総称。]
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