日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 東京大学観象台
先夜数名の朝鮮人が、彼等の監督ダン氏と一緒に天文観測所へ来た。私は団体としての彼等に紹介されたが、彼等は即座にお辞儀をして名刺を出し、我我は交換を行った。朝鮮人達は彼等が見たものに大きに興味を持ったらしく、また中々立派な人達であった。彼等の衣服は絹で出来ていて、日本服よりも支那服に近い。耳の後でリボンで結び、それを前に長く垂らした彼等の帽子は、蚊帳の布でつくった様に見えるが、実は馬の毛で出来ているので、その内に結び玉にした頭髪が見えた。彼等の言葉は、日本語と支部語の合の子みたいであった。私は、彼等と日本人の通訳を通じて話をしたが、この通訳が英語を知らぬので、先ずダン氏に英語で話し、ダン氏がそれを日本語に訳し、そこで通訳がそれを朝鮮語に直した。私はまた私の限られた日本語の知識を以て、直接彼等と話をした。彼等もここに住んでいる間に、私と同じ位の日本語を聞き囓っていたからである。出て行く時、彼等は懇(ねんごろ)に握手をした。
[やぶちゃん注:「彼等の監督ダン氏」原文は“Mr. Dan, who had them in
charge”。彼は朝鮮人と思われるが、不詳。因みに、当時は李氏朝鮮で、この翌月の一八八二年七月二十三日には、興宣大院君らの煽動を受けて朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や日本人軍事顧問及び日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた壬午(じんご)事変が起きている。]
図―621
図―622
図621は観測所の小便と彼のお神さんとが住む家の、粗末な写生図である。私の部屋(図622)は約十二フィート四方で、その中に私は二人用の寝台一台と、大鞄二個と、机一台と、衣裳戸棚二台と、椅子二脚と、手水台一台とを持っている。衣裳戸棚は陶器や本や紙類やで完全に覆われている。これを以て、如何に私がゴタゴタした内にいるか想像出来ようが、而も私はいろいろな物を、文字通り手の届く範囲内に置くことが好きなのである。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の二七二頁に『理科会粋』(第三帙第一冊・明治一三(一八八〇)年)に載る「東京大学観象台」の画像を以下に示す(昭和三一(一九六七)年の著作権法改正以前は「発表又は制作後十年間」とされているため、一九六七年以前の写真は著作権は満了しており、描かれた絵図を単に平面的に撮影したものに著作権は生じないというのが文化庁の見解であるから、本画像(元が絵であっても五十年の満了を過ぎている)の使用は著作権に抵触しない)。
モースの描いた家屋が右手にあるのが分かる。磯野先生の解説によれば、その更に右手奥にスロープ状の屋根が半分見えているのが職員官舎で、モースはここに滞在した。
「十二フィート四方」約三・七メートル四方。]