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2015/06/29

氷の涯 夢野久作 (7)

  ……開いた口が塞がらないと云ふのは此時の僕の恰好であつたらう。ちよつとの間に讐敵(かたき)同志と思へる日本の憲兵と露西亞娘が、互ひ違ひに飛び出して來た……と思ふうちに、その二人を又も鮮やかに吸ひ込んでしまつた階段の口を、手品に引つかゝつた阿呆(あほう)みたやうに見下ろしながら、長いこと突立つてゐた樣に思ふ……が、そのうちにフト氣が付いてみると、僕は右の手にニーナが落して行つた短劍をシツカリと握つて居るのであつた。

 ……僕はハツとした。トタンに氣持がシヤンとなつた樣に思ふ。

 向家(むかひ)の時計臺から、霧に沁み込んで來る光線に透かしてみると、血はついていないようである。身體をゆすぶつて見ても別に怪我はしてゐない樣であるが、其代りにゾクゾクと寒氣がして來た。日が暮れると同時に急速度で寒くなるのが此邊(こゝいら)の大陸氣候だ。北の方から霧が來ると、尚更さうだ。

 その肌寒い暗黑の中に突立つてニーナの短劍をヒイヤリと凝視して居るうちに僕は、色んな事が次第次第にわかつて來る樣に思つた。今の今まで逃げ出さうと思つてゐた恐ろしい問題の渦の中へ、正反對にグングン吸ひ込まれかけてゐる僕自身を發見したやうに思つた。さうして思はずブルブルと身ぶるひをしたのであつた。

 ……ニーナは僕が、此の仙人掌(サボテン)の祕密を看破(みやぶ)つた……もしくほ看破りかけて居るものと思ひ込んで襲撃したものに違ひ無い。此の仙人掌の中に、或る恐ろしい祕密が匿されて居ることは最早(もはや)、疑ふ餘地が無いのだから……。

 ……しかも……もし左樣とすればニーナの家族は、此の司令部の上の四階に陣取つて日本軍最高幹部の嚴重な監視を受けながら、何處かと内通してゐるに違ひない事が考へられる。さうして其の内通の相手と云へば、目下の處、赤軍以外に在り得ない事が、あらゆる方面から推測されるではないか。

 ……さうして又、さうとすれば、星黑、十梨の兩人の非國民、非軍人的行爲と、オスロフの陰謀的性格と、その双方から色々な祕密を聞いてゐるらしい銀月の女將(おかみ)との間に、何らかの三角關係式の絲(いと)の引つぱり合ひが存在して居ないとはドウして云へよう……此三人の間を疑問の線で結び付けて見るのは此場合たしかに自然である。僕の知つてゐる限り此三人の間(あひだ)以外に疑問符(クエスチヨンマーク)を置く處は、哈爾賓市中に無いのだから……。

[やぶちゃん注:「此三人の間を疑問の線で結び付けて見るのは」底本は「此三人の間を疑問の線を結び付けて見るのは」。「全集」で訂した。]

 ……搜索本部はむろん、夢にもソンナ方向へ視線を向け得ないで居るのだ。世界中にタツタ一人俺だけが氣づいて居る事を彼等は……と言つてもまだ正體がハツキリしてゐないのだが……少なくともニーナだけはチヤンと看破して居るのだ。だから俺をタツタ一突(ひとつき)で沈默させようとしたのだ。

 ……俺は自分でも氣付かないうちに、今までの興味本位とは全然正反對の意味で、是非とも此事件を解決しなければならない立場に追ひ詰められてしまつて居る事がタツタ今判つたのだ……。

 ……ニーナの一擊によつて……。

 僕は斯うした事實に氣がついて來るに連れて全身を縮み上らせた。短劍を握つたまゝ其所(そこ)いらの暗黑(やみ)を見廻した。今にも何處からかピシリピシリとニツケル彈丸(だま)が飛んで來さうな氣がした。諸に聞いた名探偵の勇氣なぞは思ひも寄らない。ただゾクゾクと襲ひかゝつて來る強迫觀念を一生懸命に我慢しながら、出來る限り神經を押しつけ押しつけ本階段を降りて行つたが、その途中から又氣が付いたので、スリツパの足音を忍ばせて、用心しいしいソロソロと四階の廊下へ降りた。なほも息を殺しながら、ニーナの家族の部屋の前に來て見ると、鍵の掛つた扉(ドア)の中は眞暗で、話聲一つ聞えない。ニーナが逃込んだものかドウかすら判然としないのだ。

 ……をかしいな。こんなに早く寢る筈は無いが。それとも居ないのかな……。

 と氣が付くと、僕は又も一つの不思議に行當(ゆきあた)つた氣持になつてドキンとした。刹那的に……今まで考へてゐた推理や想像は、みんな間違つて居たのぢや無いか知らん……とも考へて少しばかり氣を弛めかけて居た樣にも思ふ……が、さう思ひ思ひフト向うを見ると、はるか向うの廊下の外れに在る大舞踏室に、カンカンと燈火(あかり)が付いてゐる樣子である。ピツタリと閉された緋色(ひいろ)のカーテンの隙間から、血のような光の曲線が一筋、微かに流れ出して居るのが見える。

[やぶちゃん注:「曲線」「全集」は『直線』。]

 ……僕は其時に驚いたか、怪しんだか記憶しない。その神祕めかしい赤い、微かな光線をドンナ性質の光線と判斷したかすら思ひ出せない。氣が付いた時には、其の光線の洩れてゐる緋色の窓掛の隙間にピツタリと眼を當てゝ、二重に卸(おろ)された分厚い硝子(ガラス)越しに見える室内の光景を一心に見守つて居た。

 窓掛(まどかけ)の隙間から辛うじて横筋違(よこすぢか)ひに見える、右手の壁のズツト上の方に、巨大な風車の在る風景畫がかかつて居る。筆者は誰(たれ)だかわからないが、多分、和蘭(オランダ)あたりの古典派であらう。その下の赤と、黄金色(わうごんいろ)の更紗(さらさ)模樣の壁に向つて三個の廻轉椅子が並んで居て、その上に白い布で眼隱しをされた人間が一人宛(づつ)、やはり壁に向つて腰をかけて居る。その人間の風采をよく見ると中央が茶革製(ちやがはせい)の狩獵服を着た鬚武者(ひげむしや)の巨男(おほをとこ)で、その右手が白髮頭のお婆さん。それから巨男の左手が瘠せこけた鷲鼻(わしばな)の貴婦人……オスロフ夫婦とその母親に間違ひないのだ。

 その中で毅然として居るのはオスロフだけであつた。あとは射たれたのか氣絶したのかわからないが、死んだやうにグツタリとなつたまゝ椅子に縛り付けられてゐた。露西亞では死刑になる事を壁に向つて立たせると云ふさうであるが、これは壁に向つて腰かけさせられて居るのであつた。相手は窓掛の蔭になつて居るから見えないが、見えなくとも解つてゐる。搜索本部の連中に相違ないのだ。

 僕は何もかもない、釘付けにされてしまつた。夢の樣だとよく云ふが、この時の氣持ばかりは、たしかに夢以上であつた。ツイ今しがたまで西比利亞(シベリア)政局の大立物だつた巨人が、その妻子と共に銃口を向けられてゐる。白い眼隱しをされたまま、石の樣に固くなつて居る。宮殿のやうな大舞踏室の中で……二重硝子(ガラス)の遮音裝置の中で……惡夢だ……惡夢以上の現實だ……。

 僕の頭の中から判斷力がケシ飛んでしまつた。夢にも想像し得なかつた事實が、あまりに突然に眼の前に實現されたので……。

 むろん僕は、さうした頭の片隅でニーナの事を考へないではなかつた。搜索本部の連中が、これだけの斷乎(だんこ)たる行動を執りながらニーナだけを見逃して居る。自由行動を執らしてゐる……といふ不可解な事實に氣付いて居るには居た。しかし、そんな事を突詰めて考へてみる餘裕がその時の僕の頭にどうして在り得よう。……ダラララツ……といふ拳銃の一齊射撃の音が、今にも二重硝子を震撼する……とばかり思つて息を殺して居たのだから……。

 ところが僕の豫期に反して、そんな物音はなかなか聞えて來なかつた。たゞ左側の窓掛の蔭から、微かな蟲の啼くやうな日本人の聲が、時々斷續して聞えて來る。それに對して背中を向けてゐるオスロフが蓬々(ぼうぼう)となつた頭をゆすぶりながらバタバタと顎鬚を上下するのが見える。……と思ふとその胴間聲(どうまごゑ)の反響が遠い風の音のやうに、あるか無いかに仄(ほの)めいて來るばかりであつたが、それは此晩に限つて近所界隈が妙にヒツソリとしてゐたお蔭で辛うじて聞き取れたものであつたらう。意味なんかはむろん判明(わか)りやうが無かつたが、それだけに室の中の形容に絶した物凄さが、惡夢以上の切實さでヒシヒシと總身(そうみ)に感じられた。さうしてその中のタツタ一言(ひとこと)でもいゝから聞き分けて遣らう……それによつてオスロフが赤軍のスパイだつた事實がどこから發覺したかを判斷して遣らう……自分の推理が如何に正しいかを證明して遣らうと焦躁(あせ)りに焦躁つてゐる僕の顏を、一層強く硝子板(ガラスいた)に引き付けたのであつた。

 ……ところが此時のかうした僕の推理や想像の殆んど全部が間違つてゐた。……同時に日本の官憲がこの時にオスロフに對して執つてゐた、かうした態度が甚しい見當違ひであつた……僕とおんなじやうな推理の間違ひから、オスロフが赤軍に通じてゐるものとばかり結論し切つてゐた官憲は、此の時に西比利亞中(ぢう)で行はれた過失の中(うち)でも最も大きな一つを演じかけてゐた事實が、ズツト後(あと)になつてニーナの實話を聞いた時に身ぶるひするほど首肯(うなづ)かれた……と云つたらこの事件の關係者は皆ビツクリするであらう。恐らく僕の虛構だと云つて、極力打ち消さうとするであらう。

 しかし僕は構はない。虛構でも何でもいゝ。話の筋を混亂させない爲に、僕が後から聞き出した事實の眞相なるものを此處にサラケ出して置く。

 僕が後で當番係(たうばんがかり)の上等兵や、ニーナから聞き集めた話の要點を綜合すると、二重硝子の中の事件の正體は、あらかた次のやうなものであつた。

[やぶちゃん注:「僕が後で當番係の上等兵や官憲の取り調べを直接に見聞したニーナから聞き集めた話の要點を綜合すると」「全集」では「僕が後で當番係の上等兵や、官憲の取り調べを直接に見聞したニーナから聞き集めた話の要點を綜合すると」と加筆されてある。

以下、一行空き。]

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