薄き雨 村山槐多
薄き雨
銀の雨ふりそそぐ
或時は朱に輝きつ
また或時はほのかなる紫にしばし光りぬ
涙ぐむ空の光に
寶玉にたとふべき戰慄(をののき)に
とろとろとふりしきるその爲めか
櫻は花は
流れ消ゆ薄赤く
銀の雨大方は空にふる
また雨やむときは
いづこにか吹き鳴らす濕りたる笛もあり
ほのかなる紫にしばしきこゆる
たらたらと落つる寶玉
悦びとかなしみの間にて列をつくり
大空の涙まなこに
濃き薄き樂音がひびくなり
×
忙ぎゆくわが身に
薄暮か幽かな月夜か
美少年の汗か
何かしらぬ情念がまつはりつくす、
未だ道は盡きぬ燈が消えぬ
こばるとの鋭い明るい道路
春の眞晝の霞に
明りつけたる美しう鋭き道路
×
美しき酒をとうべてわが『時』は
豐かに醉へり暮迫(せま)る
雨に都は浮き漂よひ
燈は蕩殺の靑かざす
耐へがたきかなしみに
五月よりそひ
湯殿より見る如き
君ぞ見へたる
あなあはれあなあはれ
美しき時
かなしみを越へてめぐれり
空を君が方にと
×
血は増す血は増す
春赤く血に醉ひにけり
美しき遊戯の庭に
春赤く血を吸ひ出す
濃き赤に坐せる人人
晝もなほ燈をとぼしたり
その燈赤くおびへて
その人の血は増しにけり
×
孔雀の尾のしだり尾の
薄紫の草生に身を投ぐれば
山の色はあせ
石の原は眞靑に涙ぐむ
春鹽田かすたれて
ほのかに霞む心に
時しもかつと日は照る
眩しく麻醉の如く
孔雀の尾の紋の如
華奢をつくせし小花に
吹くは三月の強き風
またあせしわが息
石原をのぞめば
朱の古りし、子供が一人
草生のはての池には
冷たき水ものこるなり
×
眞紅の玻璃窓に身を凭たせ
深夜の街を見下せば
ああ遠方に雨ぞふる見ゆ
つぶやく如く泣く如く
薄紫と銀とに
ものうくも怖ろしくもふる雨見ゆる
惡女の赤よりあざやかに
われは眞赤にひとりこの深夜の玻璃窓に照さる
深夜の空の暗きをば
焦げゆく思ひ打鎭め
見入れば怪し羽根ぬれしかうもりは
薄明をともなひて街上を走り狂ふ
血に彩られし怪館の眞紅の玻璃窓に
われのみあざやかに目覺めたり
冷めたき外面
雨はふるふる
深夜の街にいま人々の
數千のその寢いきは
泣くが如
わが赤き玻璃戸を通して來る
×
身ぞ濕る廢園の春
音樂す廢地の水面(みのも)
幽かなる夕ぐれか人くるけはひ
狂嘆の古りし貴婦人
豪情に身をばうしなひ
恐る可き貧困ののち
なほ猛る古りし貴婦人
ふととまる
[やぶちゃん注:本篇で大正二(一九一三)年のパートが終わる。例によって、「全集」は記号(底本は「×」)で区切られている五つのパートの最終連最終行末総てに句点を打つ。
第五連一行目の「忙ぎゆく」はママ。「全集」は「急ぎゆく」とする。
同じく第五連四行目「何かしらぬ情念がまつはりつくす、」は読点の後に『」』のようなものが見えるが、植字のスレと判断して、無視した。因みに例によって「全集」は読点はない。
第七連一行目の「とうべて」はママ。「全集」では「たうべて」に訂する。「食(た)ぶ」は吞むの上代からある古語。
同じく第七連三行目の「漂よひ」はママ。
同じくだ七連四行目の「蕩殺」とは聴き馴れぬ語であるが、「たうさつ(とうさつ)」と読んでおき、すっかりとろかすしてめろめろにする、の意で私は採る。
第八連四行目の「見へたる」はママ。
第九連三行目の「越へて」はママ。
第十連一行目は「全集」では「薄き赤に坐せる人人」とある。かく対義語で訂した理由、不明。頗る不審。
同じく第十連三行目の「おびへて」はママ。
第十一連一行目「春鹽田かすたれて」意味不詳。「春鹽田か/すたれて」もリズムが悪く、無理がある。しかし「かすたる」という動詞もピンとこない。春の塩田の朧に霞む実景のようにも思われるが、識者の御教授を乞うものである。
第十六連四行目の「かうもり」はママ。
最終連第一行の「豪情」はママ。「全集」は「豪奢」に訂してしまっている。]