アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (一)兎の穴に落ちて
[やぶちゃん注:私は数年前、国立国会図書館デジタルライブラリーで本書を発見した際、これは眉唾だなと内心思ったことを自白する。何より、全集や代表的な芥川龍之介研究書の書誌情報には一切、本書の存在が記されていないこと、諸研究の年譜や評論に本作の原稿や草稿の執筆・脱稿等の記載が見出せないこと、さらに本書の奥付を見るに文藝春秋社昭和二年十一月十八日発行(「小学生全集」第二十八巻として)となっており、仮に芥川龍之介が訳に手を染めていたとして、それは彼の自死に極めて近かったとしか考えられず、そうした事実があれば、書簡や諸研究者の調査によって「アリス物語」の訳稿やその過程に纏わる龍之介自身の手記その他が必ずや発見されているはずであると考えたことに拠る。ところがその後、木下信一氏の手に成る「菊池寛・芥川龍之介共訳『アリス物語』の謎」という論文をネット上で入手し、読むに及んで、この「アリス物語」は確かにその一部が芥川龍之介によって訳されたものである――木下氏は使用語彙の精査を始めとした極めて論理的な考証によって本作の第一章から第七章までを芥川が訳したものと推理しておられる――という驚天動地の主張に触れ、最近、これは何としてもテクスト化したいという強い欲求に駆られていたのである(木下氏の論文は非常に優れたものである。一読を強くお薦めする)。さればこそ、その欲望に随い、ブログで本作の電子化を開始することとした。
底本は国立国会図書館デジタルライブラリーの当該書の画像とし、それを視認して起こした。なお、同書誌情報の公開範囲には『インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』の注記があるが、芥川龍之介も菊池寛も既にパブリック・ドメインとなっており、これは本書の挿絵を担当した平沢文吉氏(口絵のみを描いている海野精光氏も含まれるか)の著作権に関わる公開注記と読める。彼らの描いた挿絵の画像はもともと一切挿入するつもりはないので、テクスト部分の電子化のみについては問題を生じない。
なお、底本は総ルビであるが、五月蠅いので読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。傍点「ヽ」はブログでは太字とした。二行割注は〔 〕の同ポイントで示した。明らかな誤植は注記せずに訂した。原文は“Wikisource”の“Alice's Adventures in Wonderland”(一八六六年版及び一九〇七年版の二種)を参照した。
子どもに読むように、ゆっくりと電子化する。
――私の三女アリスと亡き次女アリスに捧げる――二〇一五年六月八日]
アリス物語 菊池寛・芥川龍之介共譯
[やぶちゃん注:以下、菊池寛の序文相当文。]
アリス物語は、英國のルウヰス・カロルと云ふ數學者の書いた有名な童話です。英國のヴヰクトリヤ女王がお讀みになつて大變感心遊ばされ、此の作者の他の著作をもお求めになつて見たところ、それらはみんな數學書であつたと云ふ逸話さへ傅はつてゐます。「ピーターパン」などと並稱され、英國の兒童に最も人気のゐる童話です。日木の童話などとはまた違つた夢幻的な奇拔な奔放な味のある面白い物語です。
かうした童話も、一冊だけは本全集に入れねばならぬと思ひます。
アリス物語には、「不思議國(こく)めぐり」と「鏡の國(くに)めぐり」と二つありますが、後者は紙數の都合で入れることが出來ませんでした。だが、前者の方がはるかに面白いのです。
この「アリス物語」と「ピーターパン」とは、芥川龍之介氏の擔任のもので、生前多少手をつけてゐてくれたものを、僕が後を引き受けて、完成したものです。故人の記念のため、これと「ピーターパン」とは共譯と云ふことにして置きました。
菊 池 寛
天 皇 陛 下
天 覽 台 覽 の 光 榮 を 賜 は る
皇 后 陛 下
秩 父 宮 家 梨 本 宮 家
高 松 宮 家 朝 香 宮 家
澄 宮 殿 下 東 久 邇 宮 家
北 白 河 宮 家
伏 見 宮 家 竹 田 宮 家
山 階 宮 家 閑 院 宮 家
賀 陽 宮 家 東 伏 見 宮 家
久 邇 宮 家 李 王 家
台 覽 の 光 榮 を 賜 は る
は し が き
アリス物語は、一つの夢であります。讀んでゐるうちに、兒童の心を知らず知らず、夢の國へつれて行つてしまふ、物語であります。
かうしたものも、本全集に、是非一册だけは收錄することが、必要であると思ひます。
昭和二年十一月
菊 池 寛
[やぶちゃん注:以下に目次があるが、省略する。]
表紙・見返し・扉
平 澤 文 吉
口 繪・挿 繪
アリス物語
一 兎 の 穴 に 落 ち て
アリスは姉樣(ねえさま)と一緒に、土手に登つてゐましたが、何にもすることがないので、すつかり厭き厭きして來ました。一二度姉樣の讀んで居た本を覗いては見ましたけれど、それには繪も、お話もありませんでした。「こんな御本、何になるのだらう。繪もお話もないなんて。」と、アリスは考へました。
それでアリスは、暑さにからだがだらけて、睡(ねむ)くなつて來るのをおさヘるために、出來るだけ一生懸命心の内で、一つ起き上つて花環を作る雛菊を摘むみにでも行(い)かうか、どうしようかと考へて居ました。するとその時、突然に桃色の目をした白ウサギが、アリスのすぐ傍(そば)を駈けていきました。
しかし、これだけのことなら、別に大して吃驚(びつくり)するほどの事はありませんでした。又アリスはその時兎が獨語(ひとりごと)に「おやおや大變、遲れてしまふ。」と言つたのを聞いても、「おや變だな。」とも思ひませんでした。(後でよく考へて見ると、このことは不思議なことに違ひなかつたのですあ、その時は全く當りまへのやうに思つたのでした。)けれども兎がほんとに、チヨツキのポケツトから、懷中時計をとりだして、それを見てから、急いで走つていきましたとき、思はずアリスは飛(とび)起きました。何故といつてアリスは、兎がチヨツキを着てゐたり、それから時計をとりだすなんて、生れて初めて見たのだと云ふことに氣がつきましたから。で、珍らしいこともあればあるものだと思つて、兎の後を追つて、野原を走つていきました、そして兎が丁度、生垣の下の大きな兎の穴の中に、入(はい)りこんだのをうまく見とどけました。
すぐにアリスは兎の後をつけて、入つていきました。しかしその時は、後でどうして出るなんてことは、少しも考へて居ませんでした。
兎の穴は、少し許(ばか)りトンネルのやうに、眞直に通つて居ましたが、それから急に、ずぶりと陷(すべ)り込みました。あまりだしぬけなものですから、アリスは自分の身を止めようと思ふ間もなく、ずるずると、その大層深い井戸のやうなところへと、落ち込んでいきました。
井戸が大變深かつたためか、それともアリスの落ちて行くのが、ゆつくりだつたせゐか、兎に角、下りて行(い)く間、アリスはあたりを見廻したり、これから先、どんな事が起(おこ)るのかしらと、不審がつたりする暇(ひま)か澤山ありました。先づ第一に、アリスは下を見て、どんなところへ來たのか、知らうとしましたけれど、餘り暗いものですから、何にも見ることが、できませんでした。そこで、井戸の周圍を見ると、そこは、戸棚だの本棚だので、一杯でして、あちらこちらには、地圖や繪が、釘にかけてありました。アリスが通りすがりに、一つの棚から壺を下(おろ)すと、それには、「橙(だいだい)の砂糖漬」と云ふ札(ふだ)が貼つてありましたが、アリスが殘念に思ひましたことには、空つぽなのでした。アリスはその壺を、下にはふり込まうと思ひましたけれど、下に生物(いきもの)でも居たら殺す心配がありましたので、止(や)めて落ちて行(い)きなから、途中にある戸棚に、やつとそれを載(の)つけました。
「まあ」とアリスは獨りで考へました。「こんな落ちかたをすれ、これからは二階から落ちつこちることなんか、平氣の平左だわ。さうするとうちの人なんか、わたしをずゐぶん強いと思ふことでせうねえ。まあ、わたし屋根の頂邊(てつぺん)から落ちたつて何も言やしないわ。(これは實際ほんとでせう。と云ふのは屋根から落ちたら何にも言ふどころではありませんから。)
下へ、下へ、下へ。一體どこまで落ちて行(い)つても、限(きり)がないのぢやないか知ら。「もう何哩(なんまいる)位(くらゐ)落ちて來たのかしら。」とアリスは大きな聲で言ひました。
「きつと、地球の眞中(まんなか)近くに來かかつて居るに違ひないわ。ええと、たしか、四千哩下(した)が、眞中だつけ――。」(ちやうどアリスは學校の課業(くはげふ)でこんな風なことを習つたばかりでした。けれども誰(たれ)も聞いてくれる人なんか居ませんでしたから、アリスの學問のあることを見せるに、大層良い機會ではありませんでしたけれども、矢張りそれを繰返(くりかへ)すといふことは、よいお復習(さらひ)でした。)「さうだ、もう丁度それ位(くらゐ)の距離になるわ――けれど一體、わたしはどの邊の緯度と經度に居るのか知ら。(アリスは緯度や經度が、どんなものであるか少しも分つては居ないのでしたけれども、さう云ふ言葉は大層素晴らしいものだと思つたからでした。)
そして直ぐ又、アリスは獨語(ひとりごと)を續け始めました。「わたし地球を眞直にぬけて落ちるのか知ら。逆立(さかだち)して歩いて居る人たもの間へ、ひよつこり出たら隨分面白いだらうな。あれは反對人(アンテイパシイーズ)だわ〔アンテイボデーズ対蹠人とまちがへた〕――(何だかその言葉が間違つて居る樣でしたから、今度は誰(たれ)も聞き手がないのをアリスは幸だと思ひました。)「けれど、わたしその人達に、その國の名は何といふのですかと、尋ねなければならないわ。もし奧樣、この國はニユウジーランドですか、それとも、オーストラリヤですかつて。」(かう言ひながら、アリスは腰をかがめてお辭儀をしました。あなた方が宙を落ちて居るときに、お辭儀をすると、假(かり)に思つてごらんなさい。そんなことができると思ひますか。)
「でも、そんな事訊(き)いたら、向ふぢやわたしを何(なん)にも物を知らない娘だと思ふわ。いゝえ、訊いたりなんかしちやいけない。多分どこかに書いてあるのが、見つかるに違ひないわ。」
下ヘ、下へ、下へ。外にすることがありませんでしたから、また直(ぢき)にアリスは、お話を始めました。「デイナーは、今夜わたしが居ないので、ずゐぶん淋しかつてるでせうね。(デイナーは猫の名でした。)お茶の時に家(うち)の者が、牛乳をやることを忘れないでくれればいいけれど、デイナー、お前も今此處(ここ)でわたしと一緒にゐてくれるんだと、いいんだけれどねえ。宙(ちう)には鼠は居ないかも知れないが、蝙蝠(かうもり)なら捕へられるわ。蝙蝠は鼠によく似て居るのよ。けれど猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。」するとかう言つて居る時アリスは、少し睡くなりだしたので、夢心地(ゆめごこち)でしやべり續けて居ました。「猫は(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。」そして時時「蝙蝠(バツト)は猫(キヤツト)を食べるか知ら。」と言ひました。アリスにはどちらの質問にも、答へかできないのでしたから、どう言つても、大して變りはありませんでした。アリスはそのとき、うとうとと眠りに入(い)つた氣がしましたが、その中(うち)デイナーと手をつないで歩いて居る夢を見て、大層まじめくさつて、こんな事を云つてゐました、「さあ、デイナー、ほんとのことをお言ひ、お前蝙蝠(かうもり)を食べたことがあつて。」このときアリスは、突然、枝だの、枯葉だの積んである上へと、どしんと落ちました。これで落ちるのもかしまひになりました。
アリスは、少しの怪我もしませんでした。そしてすぐに起ち上つて、上の方を見ましたが、眞暗でした。アリスの眼の前に長い道が、一つ通つて居りました。そしてやはり例の白兎が、急いで其處を下りて行くのが見えました。一分たつてぐづぐづして居(ゐ)られません。風のやうに、アリスは飛んで行きました。すると丁度兎が角を曲るとき、かう呟いたのが聞えました。
「おゝ耳よ、鬚(ひげ)よ。何と遲れたことだらう。」アリスは、兎が角を曲るまでは、直(す)ぐその後(うしろ)に居たのでしたが、曲つてみると、もうその影も形もありませんでした。そしてアリスは、自分が今(いま)長つ細(ぽそ)くて、天非の鯉低い廣間に居るのを知りました。そしてその廣間は、屋根から下(さが)つて居る一列のラムプで照らされて居りました。
廣間の四方には、扉がありましたが、すつかり錠(じやう)かかつて居ました。そしてアリスは、あちこちの扉の處に行つて、開けようとして見ましたけれど、開(あ)きませんので、どうしたらまた外に出られるか知ら、と思ひながら、しをしをと眞中の座(ざ)に歸りました。と、不意にアリスは、小さい三本脚(ぼんあし)のテーブルにぶつかりました。それは全部硝子(がらす)で出來てゐて、小さい金(きん)の鍵の外には、何にも載つて居りませんでした。アリスが先づ考へついたことは、この鍵は廣間の扉のどれかに、合ふだらうといふことでしたが、まあ殘念にも、どの穴も餘り大き過ぎ、そして鍵が小さ過ぎて、とにかくどの扉も開けられませんでした。けれども二度目に廣間を廻(まは)つたとき、以前(まへ)には氣がつかなかつた低いカーテンに、目か留りました。カーテンの後(うしろ)には、約一尺五寸位(くらゐ)の、小さい扉がありました。そこで小さい金の鍵を、穴に入れて見ますと、しつくり合ひまLたので、もうアリスは大喜びでした。
アリスは扉をあけました。すると、そこは鼠の穴位(くらゐ)の、小さい出入口につづいて居りました。アリス跪(ひざまづ)いて見ると、その出人口の向ふには、今までに見たことのない程の、立派な庭園がありました。アリスはどんなにこの暗い廣間から出て、綺麗な花床(はなどこ)の間(ま)をぶらついたり、冷たい泉の中を歩いたりしたかつたでせう。けれども、扉口(とぐち)から頭をだすことさへも、できないのでした。「わたしの頭がでたつて、肩が出なければ、何の役にも立たないわ。まあ望遠鏡のやうにのびたり、ちぢんだりできるといいんだけれども、初めのやり方さへ、どうすればいいのだかわかれぱ、あとはわたし出來ると思ふわ。」と可愛想(かはいさう)なアリスは考へました。何故と云つて、いろいると珍らしいことが、たつた今しがたまでぞくぞく起つたのですから。アリスはほんとに、できないものなんて、この世の中にはめつたにないものと、考へ始めたのです。
この小さい扉の處にいつまでゐても、何の役にも立たないやうに思ひましたので、アリスは、テーブルの處に戻つていきました。ひよつとして、テーブルの上にもう一つ鍵が載つてゐたら有難いのだが、でなければ望遠鏡のやうに、人間をちぢめる規則が書いてある本があれば、などと思ひながら、近づいてみました。すると、今度アリスがテーブルの上に見つけたものは、小さ々瓶(かめ)でした。これは確かに前にやなかつたわ。」と、アリスは言ひました。)そしてその瓶(かめ)の首には、大文字(おほもじ)で綺麗に印刷された紙の札(ふだ)が貼つてあつて、それには「お飮なさい」と書いてありました。
「お飮みなさい」と書いてあるのは、大層有難いことでしたが、悧巧(りかう)なアリスは、あわてて、そんなことをしようとはしませんでした。「いいえ、わたし先づ初めにしらべて見なくちや、「毒藥」 と書いてあるかどうか。」と、アリスは言ひました。何故なら、アリスはこれまでに、火傷(やけど)をしたり、怖ろしい獸(けもの)に食はれたりした子供の、いろいろなお話や、又は其の他のいやなことの書いてあるかお話を、讀んで居ました。そしてこんな出來事は、みんなその子供がお友達から教へられた分り易い法則を、覺えて居なかつたからなのでした。その法則と云ふのは、たとへて言へば、赤い燒火箸(やけひばし)を長く持つて居ると、火傷(やけど)をするとか、ナイフで指を大層深く切れば、いつも血が出るのだと云ふことなのです。ところでアリスは、「毒藥」と書いてある瓶(びん)の水を、澤山飮めば、遲かれ早からきつと身體(からだ)をこにはすと云ふことを、決して忘れずに居りました。
けれども、此の瓶(かめ)には「毒藥」と書いてありませんでしたから、アリスは思ひ切つて、嘗(な)めて見ました。すると、大層うまいものですから(それは桜桃(さくらんぼ)の饅頭(まんぢゆう)だの、カスタードやパインアツプルや七面鳥の燒肉や、トフヰー、それからバタ附(うき)パンなどを、混ぜ合せたやうな味でした。)アリスはすぐにすつかり飮んでしまひました。
* * * * * *
「あら、何だか變な氣がしてきた! わたし望遠鏡のやうにちぢまるに違ひないわ。」とアリスは呟きました。
それは、實際その通りなのでした。アリスは今ではほんの一尺程しか丈(たけ)がありませんでした。そして、アリスはこの大きさなら、小さな扉を通て綺麗なお庭に行(い)けると思つたものですから、アリスの顏は、ニコニコして居りました。けれども最初の中(うち)アリスは、自分はこれより小さくちぢむのぢやないか知らと思つて、一寸(ちよつと)の間(あひだ)樣子を見て居りました。アリスにとつて、それは一寸氣懸りな事でした。「なぜつて、ことによると、おしまひには、私は蠟燭みたいに消えてしまふんぢやないかしら、さうしたら一體何ういふ事になるのだらう。」と、獨語(ひとりごと)を言つて居りました。そして、アリスは、蠟燭が燃えてしまつてからは、蠟燭の炎は、どんな風に見えるか知ら、といろいろ頭の中で骨を折つて考へてみました。それもその筈です。何しろアリスはそんな物を、今までに見た覺えかありませんでしたから、しばらくしてから、もう何(なん)にも超らないのを知つて、アリスは直ぐに庭園へ出ることにしました。ところが、まあ可哀想(かはいさう)にアリスは、戸口に行きましたとき、小さな金の鍵を忘れて居るのに、氣がつきました。で、それを取りにテーブルの處へ引返しました。が、その時アリスは、鉤に手がとどかないのに氣がつきました。しかもテーブルが硝子(ガラス)で出來て居るものですから、鍵はそのガラスを透かして、アリスに全くよく見えるのです。アリスはテーブルの脚(あし)の一本に攀(よ)ぢ上(のぼ)らうと、一生懸命にやつて見ましたけれど、つるつるしてゐて上(のぼ)れません。それで疲れ切つて、可哀想にもアリスは、坐り込んで泣き出しました。
「まあ、そんなに泣いたつて仕樣(しやう)がないぢやないの。」とアリスは一寸鋭い聲で自分に云ひました。「たつた今お止め!」アリスは大抵、自分にかう云ふよい忠告をするのでした。(けれども滅多に從つたことはありませんでした。)時によると、自分の眼(め)に涙が出る程、手きびしく自分を叱ることがありました。アリスが或時自分相手に、球投(たまな)げ遊びをやつて居ましたとき、自分が自分を騙(だま)したと云つて、耳打(みみうち)をくらはせたことがありました。何何故つて、この變りものの子供は、自分を二人の人間のやうに取り扱ふのが、好きなのでした。「でも、今は二人の人間のやうに、振舞ふのは駄目だわ。」と、可哀想なアリスは考へました。「何故つて、一人の立派な人間だけの、振舞もできないんだもの。」
不圖(ふと)、アリスはテーブルの下に、小さ々硝子(ガラス)の箱があるのに目をつけました。それを明けると、中には、大層小さな菓子が入つて居て、それには乾葡萄(ほしぶだう)で綺麗に「お食べなさい」と書いてありました。「え、食べるわ。」と、アリスは言ひました。「これを食べて、わたしがモツト大きくなるのなら、鏡に手が屆くし、もつと小さくなれば、扉の下の隙間にもぐり込めるわ。どちらにしても、お庭に出られることになる。どつちになつたつて構やしないわ。」
アリスは一寸食ベました。そして心配になつて獨語(ひとりごと)をいひました。「どつちかしら、どつちかしら。」さう言ひながら、どつちになるのだか知るために、頭の上に手を載せて居りましたが、驚いた事に、ちつとも變りが起らないのでした。眞實(ほんと)のところ、人がお菓子を食べた時、そんな風に何も起らないのが當前(あたりまへ)なのですが、アリスは今何かすれば、變つたことが起るもののやうに、待ちうける癖がついてしまつたものですから、何でもあたり前通りになつて行(い)くと、全く退屈で馬鹿らしく思ふのでした。
そこでアリスは又、せつせと食べだして、間もなくすつかり食べてしまひました。
[やぶちゃん注:「あれは反對人(アンテイパシイーズ)だわ〔アンテイボデーズ対蹠人とまちがへた〕」キャロルが作中で執拗に繰り返す言葉遊びの一つであるが、この邦訳箇所は、子どもどころか、私を含めて大方の大人でも、理解することは困難である。「蹠」は足の裏で、それが「對」になっているのだから、この「對蹠人」とは、地球の反対側の人、という意であろう。原文のアリスの台詞の「反對人」は“The Antipathies”で、訳者割注にあるのは“The Antibodies”ということになろう(因みに英語で“antibodies”というと生化学上の「抗体」の意である)。しかし、“The
Antipathies”を「反對人」と訳したのでは、正直、ピンとこない。これは「根強い反感」であるとか、「毛嫌い」を意味する“antipathy”の複数形であって、「大っ嫌いな人たち」といったニュアンスが含まれているように私は思うのである。これについては故山岡洋一氏の文書を集めた「翻訳通信 ネット版」の「翻訳講義(第1回) 翻訳は面白い」で当該箇所の諸訳の比較が出来るので是非、お読みあれ(アリスを読む以上に面白いこと請け合い!)。特にその中でも、高橋康也・迪訳(河出文庫版)の
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アリスはひとりごとのつづきをしました。「もしかしたら、地球をつきぬけて落ちていくんじゃないかしら! 頭を下にして歩いている人たちの中にひょっこり出たりしたら、さぞおかしいでしょうね! 反対人〔はんたいじん〕っていったと思うけど――」(こんどはだれも聞いていなくてアリスはほっとしました。少しちがっているような気がしたからです。ほんとうは反対人ではなくて対蹠人〔たいせきじん*〕というのです)。
* 日本とアルゼンチンのように地球の反対側に住む人間。antipodesは「蹠(あしうら)が向かいあわせ」の意。「反対人」(antipathies
感情的反発)という言いまちがいは、これから多くの「なじめない」人物に出会うはずのアリスの不安な予感のせいか。
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とあるのが、眼から鱗であった。]
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