醉へる時に 村山槐多
醉へる時に
薄紫の酒の色朱の盃に注ぐ時は
猩々の息は情に火を放ち
血の太陽の亂醉は更にその度を
西、天空に極むるかな
薄紅の火はつたふわが足もとを
よろめきてふみしめひよろひよろと立ち
泣き泣きてまた笑ひ世の中の
美しき薄明にさぐりあてまたも泣く
情の色黄金に紫に暑くうるほひ
わが顏は火のおどり場となりにけり
赤道を行く八月の船の如、
われはゆくひたすらに醉ひの潮を
薄紫の酒の桶あぶらに染みし手にふれて
更にまた火を口中にうつすかな
この時あはれ世の中はほのかに笑ふ
いと惡しき獸の如くわれをながめて笑ふかな、
×
金泥を落したる
美しき空はほのかにほのかに
眞晝に暮れたり
浮びし雲もほのかに
わが園の秉燭者(ひともしびと)
燭をもて來
わが胸は暗しこの暮春と
夏との雨の境界(さかひ)に
華美なる酒盞は
痛さに泣けり
そこにうつる空はほのかにほのかに
暮れゆけり
この酒盞に赤き光を落し
わが胸をなまめかしくせん
秉燭者燭をとぼし
とくわが園にかゝげよ
空はほのかにほのかに
靑き色も霞みたり
すべてに執拗なる霞は
せまり來れり
わが國のうら若き秉燭者
とく燭をもて來
かくてのちわが心とわが酒盞は
赤と金に輝かん
たとへ燭はあまりに明く
空は暗すぎることなきとも
われは耐へがたく
いま燃えたる物を思ふ
×
廢園に見たる櫻か
幽かなる夕ぐれの忙がしき化粧のひとか
何となくおちぶれし面かげを
連れそへし美しき君
吹き荒む西の喇叭は
氣悦どき空の豪奢に
泥醉の赤き都は
今覺めぬ眞晝まん中
何となく汗ぐみし君
けふわれの心に君が形は
殺したる蜜蜂の腹の蜂見たるが如く
ただ甘くただあはれなり
×
とこしなへの薄暮君が御胸に
舞ひあそぶなり
美しき幽明に打しめり
薄靑くその世を飾れり
とこしなへに君を愛せん
そは精靈の末路に至るまで
君をわれは愛せん
しめりたるたそがれのうすらあかりに
かゝる時をわれは君が御胸に
永劫なる愛の時を
君が御胸に見る
美しく打しめるとこしなへのたそがれを
×
金ぽうげ金の飾りに
あせにけり五月の晝に
酒染みし指に觸られて
哀れにもあせはてにけり
毒もてる薄明の莖
黄のにほひ見すぼらし過ぐ
豐なる五月の光
音曲を奏で耽れば
金ぽうげ金の飾りに
指ふれて醉ひにかなしき
放蕩の子の思ひには
たえまなく酒をふらしぬ
金ぽうげ一輪ひらく
美しき五月の草生
蒸暑き脊に汗して
目はひとりあせし晝行く。
×
こは美しき歌壇のあけぼのに
まだ消えやまぬ樂の音よ
男のかれしのどぶへに
顫(ふる)ひてやまぬ深なさけ
血染の酒のみほせば去る
疲れのあとに
また來る美しき頽廢の
消ゆる時なき樂の音よ
空こそ六月のあけぼのに靑ざめにける
雨滴を滴たらす
美しき靑さよ
すでにここに眞晝の情熱を見る
とこしへに避け得ざる
深く美しき樂音よ
輕らかに顫へつつ耐へがたき苦みをさそふ
晝夜なき頽廢の樂音よ
[やぶちゃん注:●第三連二行目の「おどり場」、第二十四連(最後から二連目)二行目の「滴たらす」、第十二連二行目の「忙がしき」「豐なる」、第二十連四行目の「たへまなく」、第二十二連二行目の「のどぶへ」はママ。「全集」は「をどり場」と訂し、「忙しき」と「が」を除去、「豐かなる」と「な」を送って、「たへまなく」「のどぶへ」は「たえまなく」「のどぶえ」と正常になっている。今まで同様、総てに注記も何もなしにである。
●第三連三行目の「赤道を行く八月の船の如、」の読点は視認する限り、汚れではない。「全集」は無視していて、読点はない。そのくせ、今までの各篇と全く同様に、ここでは記号(「×」は「全集」では前後を一行空けて「+」であるが底本では一部を除いて前を一行空けるものの、後はすぐ続く詩文行に入っている。以下ではこの注を略すが、これは視認した際に「全集」と最も違った印象を感じさせる大きな違いである)によって分けられた五つのパートの中の総ての最終連(第四・十一・十四・十七二十一・二十五連)の最終行には総て亙って句点が打たれてある。非常に不思議且つ奇異である。
●第十連冒頭の「わが國のうら若き秉燭者」の「國」はママ。「全集」でも「国」である。これは「園」の誤判読或いは誤植である可能性も高いと思われるが、以下の注で述べるように、この「秉燭者(ひともしびと)」の濫觴を考えた時、私には絶対に「園」だと断ずることに、聊か躊躇を感ずるのである。
●「秉燭者(ひともしびと)」のルビは「秉燭者」全体に附されている。「秉燭」は一般には「燭(しょく)を秉(と)る」で、燈火を手に持つが原義であるが、「へいしょく」或いは「ひんそく」と読んで、手に灯火を持つこと以外に、「火の灯し頃」「夕方」の意をも持ち、また「ひょうそく」と読むと、昔の油皿の中央に置いた灯心に火をつける灯火器具を指す。漢字表記・訓読ともに実に美しい詩語で、本長詩を強靭に鮮やかに牽引するが、槐多は恐らく「日本書紀」に出る、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)での宴で日本武尊の歌に美事に唱和を成した老人の秉燭者(ひともしのもの)にルーツを求めているものと思われる。
●「酒盞」「しゆさん(しゅさん)」で、小さな盃、玉杯の意。
●第十三連と第十二連は実は底本では、
*
吹き荒む西の喇叭は
氣悦どき空の豪奢に
泥醉の赤き都は
今覺めぬ眞晝まん中
何となく汗ぐみし君
けふわれの心に君が形は
殺したる蜜蜂の腹の蜂見たるが如く
ただ甘くただあはれなり
*
と一続きになってしまっている。詩篇全体の構成から見て、ここが八行連続である必要性や可能性は私には殆んど全くないと考えられ、しかも底本では「今覺めぬ眞晝まん中」の前の部分で改頁になっていることから、単純にこのページ内での版組のミスと思われる。例外的に「全集」に拠って一行空きを施した。
●この第十三連二行目「氣悦どき空の豪奢に」はママ。これには「全集」はママ注記がないが、この「氣悦どき」というのは私には全く意味不明であった。当初は「喜悦」の意かとも思ったが、それでは「どき」と繋がらないし、そもそも前の行とも全く繋がらない。前の行の「喇叭」が「氣」の「悦ど」い「空の豪奢」に「吹き荒む」のだ読むならば、この「悦どき」とは「鋭どき」の誤字ではないかと思われてくるのであるが、さて如何であろう? 大方の御批判を俟つものである。
●第十五連三行目「美しき幽明に打しめり」の「打」は「全集」では「うち」と平仮名書きになっている。
●同じく第十七連四行目「美しく打しめるとこしなへのたそがれを」の「打」も「全集」では「うち」と平仮名書きになっている。
●「草生」「くさふ」と読み、草の生えている所、草原のこと。]