日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 蜷川との再会と東京生物学会
私は蜷川を訪問した。彼は私に会って、憂欝的(メランコリー)な愉快を感じたらしく見えた。彼は最後に会った時にくらべて、すこしも年取っていない。私は彼から陶器を百二十七個買ったが、その多くは非常に珍稀である。私は大学に於る生物学会に出席した。この会は、今や三十八人の会員を持っている。私は動物群の変化に就て一寸した話をした。石川氏は、甲殻類の保護色に関するある種の事実を報告した。私が設立した会が存在しているばかりでなく、正規的な月次会をやっているのを見ることは、興味深いものであった。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは明治一五(一八八二)年六月十四日のことである。同書によれば、『この後モースは、七月九日までに少なくとも七回蜷川と会い、彼を通して陶器を収集している』とある。
「蜷川」モースの陶器の師匠である蜷川式胤。既注。
「憂欝的(メランコリー)な愉快」“a melancholy pleasure”この場合の“melancholy”という形容は、京都の名家の出身(京都東寺の公人(くにん:社寺に仕える職員。)であった蜷川が持っている厳粛な品格に基づく謂いで、著しく抑制されていて、平然を装いながらも、平然を装いながらも、その実、モースには彼の内心の嬉しさが伝わってきたというのであろうと私は一応、解する。但し、実は蜷川は同年夏、モースの関西旅行中の八月二十一日のコレラのために逝去してしまう。もしかすると既にこの時、何らかの理由で体力・免疫力が低下しており、疲れたように見えた可能性もないではない。
「私は大学に於る生物学会に出席した」同じく磯野先生の前掲書から、これは六月十七日の東京生物学会例会であることが分かる。同書によれば、『明治十一年の秋に一二名で出発した東京大学生物学会は、この年の春に「東京生物学会」と改称され』て『モースはその名誉会員だった』とある。
「石川」モースの愛弟子で当時、東京大学理学部動物学科助教授であった石川千代松。既注。]