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2015/06/01

毛利梅園「梅園魚譜」 人魚

[やぶちゃん注:本項は異例に長いキャプション(少し梅園が解説を加えているが、概ね、大槻玄沢「六物新志」の人魚のパートから抜粋)が附されてあるので、まず訓点を除いた原文を提示し(約物は正字化したが、一行字数を原典に一致させた)、その後に私の補足を加えた訓読文を示した。なお、原典では「○」は本文より上に一字分突出している(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の解説本文二頁分)。]

 

Ningyo1

 

Ningyo2

□原文

[やぶちゃん注:明らかな誤字や傍線の過不足等もそのまま再現した。]

人魚

六物新志曰舶來之者有本邦俗呼曰歇伊止武禮児者相傳言是乃

人魚骨也而貝原翁録之於大和本草松岡翁擧之於用藥須知而其

名称産地二書俱未詳説然執和蘭一二書之考未見記載者也後及閲

斯東私之書而以知其名則伊斯把你亞國之語也蓋人魚伊斯把你亞 

國呼曰百設武唵爾百設者魚也武唵爾者婦也乃婦魚之謂而即人魚之

義也〔中畧〕且加之更之徴安蒲児止私巴亞列花連的印等書及漢人之

海記我邦一二之古籍又旁聽父老之實譚而益信滔々江海之中自有

此者而乃所傳者不可以為妄也且此物竒品而已見採於藥餌則我

此擧以不可不以論及〔中畧云々〕○〔元壽曰所載于安蒲児止私巴亞列之書人魚之圖牝牡共有两足形狀似馬蹄手各五指牝其髮長而乳耳長而似角牡共相同

牡面老人如有皺面牝面二八似婦女○所載于勇斯東私 禽獸蟲魚譜人魚牝牡共似童子凡頭無長毛手

五指似亀脚臍下以下共魚也○所載于花連的印東海諸島産物志人魚圖牝已而其像似觀音像其髮

結纏手五指各水分臍下腰廻竹葉者重纏以下魚而丈長左右有鰭尾先丸環三連生〕

安蒲児止私巴亞列〔人名〕醫事集纂第八百十一號曰夫水陸之産奇怪之物其類固蕃而其親

覩而知之人往々有之其事實甚明徴既各詳記於前第四十三號今又有一種海

産呼曰迷伊児名能者〔此翻婦魚〕其者腰以上如人而恰似婦人又稀有似男子者呼曰

牡迷伊児名能其腰以下倶魚而鱗鬣鰭尾具焉若其状則詳載於不里泥烏私

〔人名〕所描出之圖象也而其形極怪異其理殆不可窮也然其二儀之始化出此異類

其種族歴世奕續而不絶者其理猶與夫玉石草木禽獣之類亦似人形者有之相同

乎是乃造化妙用必有當然之理有而存乎其中矣

阨不多埋奈邑之長一日黎明出到泥禄河之上見此物而現于水際覩之

則其頭面胸背肩膊手指全如人而類男子其鬚髪則黄殊至於其根漸爲淡

灰色耳腰以下則即魚也後三日黎明再到於同處又有物自水中出其形一

與前日所覩者相同但其面類婦人容姿温柔鬢髪長埀两乳亦具此物暫時

現出之間一邑及近村之人相聞而蟻集與臨觀衆莫不以爲竒矣

勇斯東私禽獣蟲魚譜曰安杜路卜木児畢思〔羅匐語也和蘭迷伊児名能膚路烏吸悉倶此飜婦魚〕

之圖説者先哲幾爾計侶私之所著而以伊斯把儞亞國人所獲於東海者直

寫其眞即記其事者也其説曰伊斯把儞亞國人海行至於東海吸沙伊索嶋

之屬嶋必屈登嶋獲一奇物其形頗似於人故曰百武唵爾此飜謂膚路

烏吸悉〔譯伊斯把你亞語於其方語也〕土人呼曰受伊翁此其方言也〔下畧〕

花連的印東海諸島産物志安具那島部曰和蘭開國一千七百十有二年捕

獲熱伊物以弗〔此飜海女〕於東海武魯嶋〔亞細亞洲小島名東方與爪哇安具那等島隣〕海輙構※1籞養之

[やぶちゃん字注:「※1」=「籞」-「示」。]

於潮汐所通之池沼然與之言莫對且絶不發其聲音與之食不甞又人未

知其嗜好欲百計狎※2之終不能得其情四晝夜三時半而竟斃云其物長

[やぶちゃん字注:「※2」=「月」+「匿」。]

五十九拇指横徑又禮印狼度〔國名〕之度度之凡五脚因聞其得之之所

由則安具那島主之臣沙米烏児花児烏爾者獲之於武魯嶋之海其生也

寫其眞其死也貯之於藥汁内其形日歴曰稍短縮焉已而獻之於其主般垤

児私的爾 般垤児私的爾一覧而還之盖此物往々有之而不敢珍竒故也

○史記秦本記曰以人魚膏爲燭

○異物志曰人魚似人形長尺餘

○洽聞記曰海人魚東海有之大者長五六尺状如人眉目口鼻手爪頭皆爲美

麗女子無不具足皮肉白如玉鱗無有細毛五色軟輕長一二寸髮如馬毛長五

六尺陰形與丈夫女子無異臨海鰥寡多取得養之於池沼交合之際與人無異

亦不傷人

○徂異記曰査道奉使高麗海沙中一婦人肘後有紅鬣問之曰人魚也〔本草綱目引用※3魚條下〕

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○正字通曰※4魚即海中人魚也

[やぶちゃん字注:「※4」=「魚」+「役」。]

○郭璞有人魚贊人魚如人作※5猶牛魚如牛作※6

[やぶちゃん字注:「※5」=「魚」+「人」。「※6」=「魚」+「牛」。]

《改頁》

續日本記三十四代

○推古天皇二十七年夏四月巳亥朔壬寅近江國言於蒲生河有物其

形如人秋七月攝津國有漁父有沉罟於堀有物入罟其形如児非魚不

知所名

○和名抄曰人魚

○兼名苑曰人魚一名鯪魚魚身人面者也

○我邦俗自古相傳言人魚肉有延年功也昔者若狹國漁父獲人魚深

祕之其女陰知之竊食之其壽八百歳世称八百比丘尼者是也此世

俗之鄙語雖不足擧然有關係於此物故附記焉

○近歳秋田藩之臣小田野子有者就其國人親覩人魚者而聽其形狀

輙作以贈之於江都之平賀鳩溪圖且添其所由曰其封内牡鹿郡有

河其中有物天將陰雨則必出没水中其形如婦人年記可二八両眉

相連接其腰以下則魚也漁人相戒以若捕之則有災祟故其物免罟

之害而今仍在焉

○森子信〔名春信号梅丘〕甞遊松前至津軽之下邑淺蟲而其舘主嘉右エ

門語其親覩人魚事曰寶暦中八月上旬嘉乘小舩釣魚於野内海

操舩者一人從焉時方日晡將進舩徒嘉回首而望適見牡人魚之

被髪現于水面其顔色瑩白與返照相映皚々有光暉肌膚亦白而

少有如甲錯之意髪赤而帶黯色兩乳両手倶與人不異但似腰帶

帶簑者而以下則不見不可得而知〔中畧〕盖其地素相傳。其海有此物

也〔云々〕

○凡人魚女形者多而男形者少故西洋之諸書に所謂百設武唵児 膚路烏吸

伊迷児名能 熱伊物伊弗之諸名皆此飜之則婦魚或海女義也而此物

已有婦女海女之名則其牡亦宜謂夫魚海男然其男形者徒謂之迷伊児

名能之牡而婦魚之名獨專擅其称者何也將因其所初覩者女形而然乎

抑以其素多女形而致此乎盖漢人之所記 本邦之所傳亦並多女形則

其男形少者可以徴也於是西洋諸書多呼曰婦魚者亦可以知已然呼曰

人魚之義亦非絶無之也而漢人及本邦則自古唯有人魚之名而不言男

女之異耳此以其始名之之意想或異或同故也

歇伊止武禮児之鑒法本邦之先哲有略有其説雖未得其詳焉是此物無一得覩

其意〔意眞也〕又何由辨其贋哉世所謂歇伊止武礼児者是海鷂魚一種本

邦呼曰鳥海鷂魚者軟骨以為此物充之者耳

[やぶちゃん注:原本では以下の記載は冒頭の○が突出して他は全体が概ね二字下げとなっている。以下に見るようにこの条には読点が打たれてある。]

○淸屈大均廣東新語曰大風雨時有海怪、被髪紅面、乘魚往々、乘者亦魚

也謂之人魚、人魚雄者為海和尚、雌者為海女能為舶祟火長有祝云、毋逢海

女、毋見人魚、人魚之種族、有盧亭者、新安大魚山與南亭竹没老萬山、多有

之其長如人、有牝牡毛髪焦黄而短、眼晴亦黄、靣※黒、尾長寸許、見人則驚

[やぶちゃん字注:「※7」=「犂」-「牛」+「黒」。]

怖入水、往々隨波飄至人以為怪、競逐之有得其牝者、與之婬能言語惟笑

而已、久能著人者、人魚長六七尺、體髪牝牡亦人、惟背有短鬣微紅、知其

為魚、間出沙汭、能媚人、舶行遇者必作法※8厭、海和尚、多人首鱉身足差長

[やぶちゃん字注:「※8」=「衤」+「襄」。]

無甲

《改頁》

[やぶちゃん注:ここに以下の、全身体を一つで見得る折り込み開放式の最初の人魚(向かって左に上方を向いた頭の人魚)図が配されてある(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の開かれた絵図部分をトリミングしたもの。観察の便を考えて横臥像ではなく、直立像で示した)。]

Ningyo4_2

 

[やぶちゃん注:以下はその頭部の次頁にある梅園のオリジナル・キャプション(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像。体裁が分かるように前頁の人魚の頭部の画像もそのままに示した)。これは漢文の引用部を除いて、概ね、表記は漢字カナ混じり文である。] 

 

Ningyo3_2


 
人魚顔ハ男靣ニシテ似兒如笑。目ハ圓シテ出目也徴シ猿ニ似タリ

眉毛長シテ赫色耳ハ猿ノ如シ牙齒ハスルドクシテ則魚牙也又猫ニ

似タリ爪ハ水晶ノ如ク白ク透通ル矢ノ根石ノ如シ口中舌ヒコ胭ノ

穴迠見ユル頭上ヨリ肩脊胸マテ長毛アリ檎櫚ノ毛ノ如シ鳩尾

迠ハ人體ニシテ下則魚ナリ脊ヨリ尾マデハ脊スジツヽキケリ腕ニ微シ

鱗アリ脊ヨリ脊スシ皆細鱗アリ恰モ鹽引ノ鱒ニ類ス手指

手ノヒラ老人ノ如ク鼻ハ上ヲ向ケリ重唇ニシテ其口如笑人脇骨

ノ出タル所瘦タル老人ニ属ス干乾ノヨウス數百年ヲ歴シトモ見ヱス

其重キコト赤子程アリ腹下ニ陰門陽門屎穴ナシ

   塩邉大工町辻川氏所藏スルヲ小石川白山下指舎町

   赤塚伊勢屋ヨリ熟醫神谷玄雄借來リシヲ予ニ

   眞寫セヨトアトウ于時天保八〔丁酉〕年九月廿日頓寫

   一覧ノ上相返ス

○本草綱目※3魚集解引徐鉉稽神録云謝仲玉者見婦人

出沒水中腰以下皆魚乃人魚也徂異記云査道奉使高麗

見海沙中一婦人肘後有紅鬣問之曰人魚也

○※3鯢モ又人魚ト云乃名同物異里俗ニ山椒魚ト云

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○日本記二十二巻推古帝二十七年摂津國有漁父沈罟堀江有物入罟

其形如兒非魚非人不知所名今案此人魚ノ屬ナルベシ本邦処〻稀ニ有之〔云〻〕

《改頁》

[やぶちゃん注:ここに正面をこちらに向けた前掲の人魚の正面下肢(魚体部分)が、次の頁で胸部から上の猿様(よう)の胸像が描かれてある。これは連続した一枚の前図と同一個体の正面全図であるが、これは国会図書館版では見開きならない構造であるらしく、連続した前のようには全体画像が示されていない。そこで当該国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像二枚をトリミングして合成した図を以下に示す(私はPC附属のフォト加工ソフト以外持っていないので接合の不首尾はお許しあれ)。観察の便を考えて横臥像ではなく、直立像で示した。] 

 

Ningyo6

[やぶちゃん注:以下は、その正面を向いた頭部の次頁にある梅園の描いた人魚の詳細実測ータ(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の同データ本文と前頁の人魚正面図)。] 

 

Ningyo5


※3魚〔比土宇於〕 人魚〔弘景〕 孩兒魚

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

   人魚體寸法

頭ノ丸サ九寸  額廣サ方壹寸ヨ

目ノ大サ三分  瞳大サ二分

眶髙 サ一寸  睫 不見エ

鼻ノ大サ六分  面方三寸

耳ノ大サ一寸  面ノ長サ四寸

口ノ大サ一寸  唇二重方一分

舌寸難指    齒上六齒下九齒

手ノ甲頭指迠長サ二寸二分 眉毛一寸二分

拇指ノ太サ六分長五分 頭指ノ長サ八分

中指長サ八分ヨ 無名指長サ八分

小指長サ五分ヨ 腕ヨリ手首迠四寸二分

肩ヨリ臂迄長サ三寸二分

乳首ヨリ乳袋方五分

乳ヨリ乳ノ間八分ヨ 脊筋首下ヨリ三寸

肋三寸     脇骨三寸

背三寸三分   鳩尾ヨリ下則魚體

尾筒鰭二共三寸 脊鰭横方四寸三分ヨ

惣身ノ丈尾筒迠二尺壹寸ヨ 

 

□やぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:送り仮名の一部を補填、読みも振れると私が判断したものに対して独自に歴史的仮名遣で加えた(一部、「二八(じふろく)」のように(掛け算で十六である)注を省するため、敢えて意味上の訓読を示した箇所がある)。但し、原文にある読みはカタカナで示した(但し、「羅甸(ラテン)」「和蘭(オランダ)」は私の附したもの)。「みづカキ」などは「みづ」が私の、「カキ」が原典のルビであることを示す。原典の「形」(かたち)に送られた「チ」や「所(ところ)」の「ロ」、「亦」の「タ」などは無視した。読み易くするために句読点・括弧・中黒等の記号も加え、適宜改行を施した。なお、傍線位置の過不足・欠損は原典と校合したりして、読み易く訂正しておいた。また、大半を占める大槻玄沢の「六物新志」の引用パート(厳密に『 』を附して示した。但し、その途中でも梅園は省略を加えている)で判読困難な部分や疑義のある箇所は原典を参考にしたが、大きな誤読のある箇所については注で原典を提示して対応し、一部は書き下し文自体で既に訂正した。但し、文意に大きな変改が認められない箇所は無視し、多くの省略箇所についてはその内容を提示しなかった。御不満の向きのために申し上げておくが、近い将来、私はこの「六物新志」の「人魚」パートを翻刻する予定でいるので、それまでお待ち戴ければ幸いである。「六物新志」原典は同書の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。最後の人魚採寸データの箇所には〈 〉でメートル法に換算したものを附した。]

人魚

「六物新志」に曰く、『舶來の者に、本邦俗呼を「歇伊止武禮児(ヘイシムレル)」と曰ふ者有り。相ひ傳ヘ言ふを、是れ乃ち、人魚の骨なりと。而して貝原翁は之を「大和本草」に録し、松岡翁は之を「用藥須知(ようやくしゆち)」に擧げて、而して其の名称産地は二書倶に未だ詳かに説かず。然れども和蘭の一、二の書を執りて之を考ふるに、未だ記載する者を見ざるなり。後、「勇斯東私(ヨンストンス)」の書を閲するに及んで、而して以つて其の名は則ち、伊斯把你亞(イスパニヤ)國の語なりと知る。盖(けだ)し人魚は、伊斯把你亞國、呼んで、「百設武唵爾(ペセブヱル)」と曰ふ。「百設(ペセ)」は「魚」なり。「武唵爾(ブヱル)」は「婦」なり。乃ち、「婦魚」の謂ひにして、而して即ち「人魚」の義なり。〔中畧〕且つ之れを加ふるに、更に、之を安蒲児止私巴亞列(アンブルシスバアレ)・花連的印(ハレンテイン)等の書及び漢人の海記、我が邦、一、二の古籍に徴し、又、旁ら父老の實譚を聽くに、益々(ますます)滔滔(たうたう)たる江海の中、自ら此の物有りて、乃ち、傳ふる所の者の、以つて妄(まう)と為すべからざることを信ず。且つ、此の竒品にして已に藥餌に採るを見れば、則ち、我が此の擧、以つて論じ及ばざらんにはあるべからず。』と〔中畧云々。〕。

〔元壽曰く、安蒲児止私巴亞列の書に載する所の人魚の圖、牝牡(メヲ)共に两足有り。形狀、馬蹄に似れり。手、各々五指。牝、其の髮長くして乳せり。耳、長くして角に似、牡も共に相ひ同じ。牡、面(おもて)、老人のごとく、皺面(しはづら)有り。牝、面、二八(じふろく)の婦女に似る。勇斯東私「禽獸蟲魚譜」に載る所の人魚は、牝牡(めを)、共に童子に似て、凡そ、頭、長毛無し。手五指、亀の脚に似たり。臍下(へそした)以下、共に魚なり。花連的印「東海諸島産物志」に載る所の人魚の圖、牝のみにして其の像(カタチ)、觀音像に似て、其の髮。結び纏(まと)へて、手の五指、各々水分(みづカキ)あり。臍下、腰の廻り、竹の葉のごとき者、重ね纏へり。以下、魚にて、丈(たけ)、長く、左右、鰭、有り。鰭尾の先、丸き環、三連、生ず。〕

○『安蒲児止私巴亞列〔人名。〕「醫事集纂」第八百十一號に曰く、夫(そ)の水陸の産、奇怪の物、其の類、固(まこと)に蕃(しげ)くして。其の親しく覩(み)て之れを知るの人、往々、之れ有り。其の事實、甚だ明徴、既に各々詳らかに前の第四十三號に記す。今、又、一種の海産、呼びて迷伊児名能(メイルミンネン)と曰ふ者有り〔此れに「婦魚」と飜(やく)す〕。其の物、腰以上、人のごとくにして、恰かも婦人に似たり。又、稀に男子に似たる者有り。呼びて牡(ヲ)迷伊児名能と曰ふ。其の腰以下、倶に魚にして鱗・鬣(たてがみ)・鰭・尾、焉(ここ)に具はる。其の状のごときは、則ち、詳らかに不里泥烏私(プリニウス)〔人名。〕、描出する所の圖象に載すなり。而して其の形、極めて怪異、其の理、殆んど窮むべからずとなり。然れども、其の二儀の始め、此の異類を化出(くわしゆつ)し、其の種族、歴世奕續(えきぞく)して而して絶えざる者、其の理、猶ほ夫(そ)の玉石・草木・禽獣の類にも亦、人形(ひとがた)に似たる者、之れ有ると、相ひ同じきか。是れ乃ち、造化の妙用、必ず當(まさ)に然るべきの理(ことわり)有りて而して其の中に存するならんか。

阨入多(ヱヂプテ)國埋奈(マナ)邑長(むらをさ)、一日、黎明に出でゝ泥禄(ニイル)河の上(ほと)りに到る。此の物を見る。而して水際に現ずるを、之れを覩れば、則ち、其の頭・面(つら)・胸・背・肩・膊(かいな)・手・指、全く人のごとくして、男子に類す。其の鬚・髪は則ち、黄、殊に其の根に至りて漸く淡灰色と爲るのみ。腰以下は則(そく)即ち、魚なり。後、三日、黎明、再び同處に到る。又、物、有り、水中より出づ。其の形、一(い)つに前日覩る所の者と相ひ同じ。但だ、其の面(おもて)、婦人に類す。容姿温柔、鬢髪、長く埀(た)る。两乳、亦た、具はる。此の物、暫時、現出の間、一邑(いちいう)及び近村の人、相ひ聞きて蟻集(ぎしふ)して與(とも)に臨觀し、衆、以つて奇と爲さざること莫し。』と。

〇『勇斯東私(ヨンストンス)「禽獣蟲魚譜」に曰く、安杜路卜木児畢思(アントロホモルピシス)〔羅甸(ラテン)語なり。和蘭(オランダ)、迷伊児名能或いは膚魯烏吸悉(フロウヒス)と飜す。倶に此れに「婦魚」と翻す。〕の圖説は、先哲幾爾計侶私(キルケリユス)の著す所にして伊斯把儞亞(イスパニア)國の人、海行し、東海は吸沙伊索嶋(ヒサイサじま)の屬嶋必屈登嶋(ピクテンじま)に至る。一奇の物を獲たり。其の形、頗る人に似たるを以つての故に、名づけて百設唵武爾(ペセムヱール)と曰ふ。此れに飜して膚魯烏吸(ヒ)悉と謂ふ〔伊斯把你亞語を其の方言に飜するにや。〕。土人、呼びて受伊翁(ジユイヲン)と曰ふ。此れ、其の方の言(いひ)なり〔下畧。〕』と。

○『花連的印「東海諸島産物志」安具那(アンボイナ)島の部に曰く、和蘭(オランダ)開国一千七百十有二年、熱伊物以弗(ゼイウエイフ)〔此れに「海女」に飜す。〕を東海武魯(ブーロ)島の海に捕へ獲たり〔亞細亞(アジア)州小島の名。東の方、爪哇(イヤフ)・安具那等の島と隣りす。〕。輙(すなは)ち※1(いけす)を構へて、之を潮汐通ずる所の池沼に養ふ[やぶちゃん字注:「※1」=「籞」-「示」。]。然れども、之と言ふに對(こた)ふること莫(な)く、且つ、絶へて其の聲音を發せず。之に食を與ふるに甞(な)めず。又、人、未だ其の嗜好を知らず。百計を以つて之を狎(な)れ※2まんと欲すれども、終に其の情を得ること能はず[やぶちゃん字注:「※2」=「月」+「匿」。]。四昼夜三時(どき)半にして竟に斃(たふ)ると云ふ。其の物、長(た)け五十九拇指横徑。又、禮印狼度(レインランド)〔國の名。〕の度(はかり)を以つて之を度(はか)るに、凡そ五脚。因りて其の之を得るの所を由る所を聞くに、則ち、安具那島主の臣(しん)沙米烏児花児烏爾(サミウルハルウル)なる者、之を武魯島の海に獲(え)たり。其の生けるや、其の眞を寫し、其れ、死するや、之れを薬汁の内に貯ふ。其の形、日を歴(へ)て、稍(やや)短縮す。已にして之を其の主般垤児私的爾(ハンデルステル)に獻ず。般垤児私的爾、一覧して之を還(かへ)す。盖し此の物、往々、之れ有りて、敢へて珍奇とせざるが故なり。』と。

○『「史記」秦の本記に曰く、人魚膏を以つて燭と爲(な)す。』と。

○『「異物志」に曰く、人魚、人の形に似たり。長け尺餘。』と。

○『「洽聞記(かうぶんき)」に曰く、海人魚、東海、之れ有り。大なる者、長け五、六尺、状(かたち)人のごとし。眉・目・口・鼻・手・爪・頭、皆、美麗女子たり。具足せざること、無し。皮肉、白にして玉のごとく、鱗無く、細毛有り、五色、軟軽。長さ一、二寸。髪、馬尾のごとく、長け五、六尺。陰形(いんぎやう)、丈夫女子と異なること無し。臨海の鰥寡(くわんくわ)、多く取り得て、之を池沼に養ふ。交合するの際、人と異なること無し。亦、人を傷つけず。』と。

○『「徂異記」に曰く、査道、使(つかひ)を高麗に奉じ、海沙中、一婦人、肘後、紅鬣(これれふ)有るを見る。之れを問へば、曰く、人魚なり、となり〔「本草綱目」「※3魚(ていぎよ)」の條下に引用す。〕』と。

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○『正字通に曰く、按ずるに「※4魚」、即ち、海中の人魚なり。』と。

[やぶちゃん字注:「※4」=「魚」+「役」。]

○『郭璞、人魚の贊、有り。人魚、人を加へ、「※5」に作る。猶ほ、牛魚、牛を加へ、「※6」に作るなり〔云々〕。』と。

[やぶちゃん字注:「※5」=「魚」+「人」。「※6」=「魚」+「牛」。]

『續日本紀曰く、三十四代』、

○『推古天皇二十七年夏四月己亥(つちのとゐ)朔(ついたち)壬寅(みづねえとら)、近江國より言ふ、蒲生(がまふ)河に於いて、物、有り。其の形、人のごとし。秋七月、攝津國に漁父有り。罟(あみ)を堀に沉(しづ)め、物、有り、罟に入る。其の形、児のごとし。魚に非ず、名づくる所を知らず。』と。

○『「和名抄」に曰く、「人魚」と。』と。

○『「兼名苑」に曰く、人魚、一名「鯪魚」。魚身人面なる者なり。』と。

○『我が邦の俗、古へより相ひ傳へて言ふ、人魚の肉、延年の功有るなり、と。昔、若狹國の漁父、人魚を獲り、深く之れを祕す。其の女(むすめ)、陰(ひそ)かに之れを知りて竊(ひそ)かに之れを食らふ。其の壽、八百歳、世に称する八百比丘尼なる者、是れなり。此れ、世俗の鄙語(ひご)、擧ぐるに足らずと雖ども、然れども此の物に關係すること有り。故に附記す。』と。

○『近歳(ちかごろ)、秋田藩の臣(しん)小田野(おだの)子(し)有(な)る者、其の國人、親しく人魚を覩る者に就きて、其の形狀を聽き、輙(すなは)ち以つて之を江都(かうと)の平賀鳩溪(ひらがきうけい)に圖を贈る。且つ、添ふるに、其の由る所を以つてして曰く、其の封内(ふうない)、牡鹿(をが)郡に河有り、其の中、物、有り。天、將に陰雨せんとする時は、則ち、必ず水中に出没す。其の形、婦人のごとし。年紀二八(じふろく)可(ばか)り、両眉相ひ連接す。其の腰以下は、則ち、魚なり。漁人、相ひ戒むるに、若し、之を捕ふる時は則ち災祟(さいすい)有るを以つてす。故に、其の物、罟(あみ)の害を免れて、今、仍(すなは)ち在り。』と。

○『森子信〔名は春信、號は梅丘。〕、甞つて松前に遊ぶ。津軽の下邑(かいう)淺蟲(あさむし)に至りて、其の舘主嘉右エ門、其の、親しく人魚を覩るを語るを聞く。曰く、寶暦中八月上旬、嘉、小舩(こぶね)に乘じて魚を野内(のない)の海に釣る。舩を操つる者一人從ふ。時、方(まさ)に日晡(じつほ)、將に舩を進めて徒(うつ)らんとす。嘉、首(かうべ)を回らして望むに適々(たまたま)牝人魚(めにんぎよ)の髪を被れるが、水面に現はるるを見る。其の顔色、瑩白(えいはく)、返照(へんしやう)と相ひ映(は)し、皚々(がいがい)として光暉(こうき)有り。肌膚(きふ)も亦、白くして少しく甲錯(かふさく)のごとき意有り。髪赤くして黯色(あんしよく)を帶ぶ。兩乳・両手、倶に人と異らず。但だ、腰に簑(みの)のごとき者を帶ぶるに似たり。而して以下は、則ち、見へず。得て知るべからず〔中畧〕。蓋し、其の地、素(もと)より相ひ傳ふ、其の海、此の物有りと。』と。

○『凡そ、人魚、女形なる者多く、男形なる者、少なし。故に西洋の諸書に謂ふ所の、百設武唵児(ペセムヱール)膚路烏吸悉(フロウヒス)・迷伊児名能(メイルミンネン)熱伊物以弗(ゼイウヱイフ)の諸名、皆、此れに之れを飜する時は、則ち、「婦魚」或いは「海女」の義なり。而して此の物、已に「婦魚」「海女」の名有る時は、則ち、其の牡も亦、宜しく「夫魚」「海男」と謂ふべし。然れども其の男形なる者、徒らに之を迷伊児名能の牡と謂ひて、而して「婦魚」の名獨り、専ら、其の称を擅(ほしいまま)にするは何んぞや。将(ま)た其の初めて覩る所の者の女形なるに因りて、而して然るか。抑々(そもそも)其の素より女形多くして、而(し)か致すを以つてするか。盖し、漢人の記す所、本邦の傳ふる所、亦、並びに女形多くして、則ち、其の男形は少なる者、以つて徴すべし。是(ここ)に於いて、西洋の諸書、多く、呼んで「婦魚」と曰ふは亦、以つて知るべきのみ。然れども、呼びて人魚と曰ふの義も亦、絶えて之れなきにあらず。而して漢人及び本邦は、則ち、古へより唯だ、「人魚」の名有りて、男女の異を言はざるのみ。此れ、其の始めて之を名づくるの意想或いは異に、或は同きを以つてするが故なり。

歇伊止武禮児の鑒法(かんはう)、本邦の先哲、略(ほぼ)其の説有ると雖ども、未だ其の詳らかなることを得ず。是れ、此の物、一(ひと)りも其の意(シン)を覩ることを得る者の無し〔「意」は「眞」なり。〕。又、何に由つてか其の贋(がん)を辨(べん)ぜんや。世の謂ふ所の、歇伊止武礼児なる者は、是れ、「海鷂魚」の一種、本邦、呼びて、「鳥海鷂魚」と曰ふ者の軟骨、以つて、此の物と爲して、之に充(あ)つる者のみ。』と。

○『淸の屈大均「廣東新語」に曰く、大風雨の時、海怪、有り。被髪紅面、魚に乘りて往來す。魚に乘る者は亦、魚なり。之を人魚と謂ふ。人魚、雄なる者を海和尚と為(し)、雌なる者を海女と為(す)。能く舶祟(はくすい)を為(な)す。火長、祝ひ有りて云ふに、「海女に逢ふ毋(な)かれ」「人魚を見ること毋かれ」と。人魚の種族、盧亭なる者、有り。新安大魚山と南亭竹没老萬山とに、多く之れ有り。其の長け、人のごとし。牝牡、有り。毛髪、焦黄(しやうわう)にして短く、眼晴(がんせい)、亦、黄。靣(めん)、※黒(きぐろ)、尾、長さ寸許(ばか)り[やぶちゃん字注:「※7」=「犂」-「牛」+「黒」。]。人を見れば則ち驚怖し、水に入る。往々波に隨ひて飄(ただよ)ひ至れり。人、以て怪と為し、競ひて之を逐ふ。其の牝を得たる者ありて、之と婬す。能く言語すとも、惟だ、笑ふのみとも。久(きう)は之れ、能く衣を著(き)る。人魚、長け六、七尺、體髪、牝牡、亦、人。惟だ、背に短鬣(たんれう)の微紅なる有りて、其の魚たるを知る。間々(まま)、沙汭(さぜい)を出でて、能く人に媚(こ)ぶ。舶行して遇ふ者、必ず法を作(な)し、※8厭(じやうえん)す。海和尚、多くは人首鱉身(べつしん)、足、差(やや)長く、甲、無し。』と。

[やぶちゃん字注:「※8」=「衤」+「襄」。] 

 

人魚 顔は男靣(をとこづら)にして兒に似、笑ふがごとし。目は圓(まど)かにして、出目なり。徴(しる)し、猿に似たり。眉毛、長くして赫色、耳は猿のごとし。牙齒は、するどくして、則ち魚牙なり。又、猫に似たり。爪は水晶のごとく白く、透き通る。矢の根石のごとし。口中、舌・ひこ胭(のど)の穴迠(まで)見ゆる。頭上より肩・脊・胸まで長毛あり。檎櫚の毛のごとし。鳩尾(みぞおち)迠は人體にして、下、則ち、魚なり。脊より尾までは、脊すじつゞきけり。腕に微(しる)し鱗(うろこ)あり。脊より脊すじ、皆、細鱗あり。恰かも鹽引の鱒に類す。手・指・手のひら、老人のごとく、鼻は上を向けり。重唇にして其の口、笑へる人のごとし。脇骨の出でたる所、瘦せたる老人に属す。干乾のようす、數百年を歴(へ)しとも見ゑず。其の重きこと、赤子程あり。腹下に陰門・陽門・屎穴(しけつ)なし。

   塩邉大工町、辻川氏所藏するを、小石川白山下指谷町
   赤塚伊勢屋より熟醫神谷玄雄、借り來りしを、予に
   眞寫せよとあとう。時に天保八〔丁酉(ひのえとり)。〕年九月廿日頓(とみ)に寫
   し、一覧の上、相ひ返す。

○「本草綱目」、「※3魚」の「集解」に徐鉉が「稽神録」引き、云く、謝仲玉者と云ふ者、婦人、水中に出沒を見る。腰より以下、皆、魚。乃ち人魚なり。「徂異記」に云ふ、査道、使を高麗に奉ず。海沙の中、一婦人、肘後(ちうご)、紅鬣(こうれい)有り。之を問へば、曰く、人魚なり、と。

○「※3鯢(ていげい)」も又、「人魚」と云ふ。乃ち、名同物異。里俗に「山椒魚」と云ふ。

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。]

○「日本紀」二十二巻推古帝二十七年、摂津國に漁父有り、堀江に沈罟(しづめアミ)して、物、有り、罟(あみ)に入る。其の形、兒のごとく、魚に非ず、人に非ず、知らず、名づくる所。今、案ずるに、此の人魚の屬なるべし。本邦、処々、稀に之れ有り〔云々。〕。

※3魚〔比土宇於(ひとうを)。〕 人魚〔弘景。〕 孩兒魚(がいじぎよ)

[やぶちゃん字注:「※3」=「魚」+「帝」。] 

 

   人魚體寸法

頭の丸さ        九寸    〈二十七センチメートル〉

額(ヒタヒ)廣さ    方壹寸よ  〈三センチメートル四方程〉

目の大いさ       三分    〈九ミリメートル〉

瞳(ヒトミ)大いさ   二分    〈六ミリメートル〉

眶(マブタ)髙さ    一寸    〈三センチメートル〉

睫(マツ毛)      見えず

鼻の大いさ       六分    〈一・八センチメートル〉

面(をもて)      方三寸   〈約三センチメートル四方〉

耳の大いさ       一寸    〈三センチメートル〉

面の長さ        四寸    〈十二センチメートル〉

口の大いさ       一寸    〈三センチメートル〉

唇二重         方一分   〈厚さともに三ミリメートル〉

舌           寸(すん)難指(さしがたし)

齒           上・六齒 下・九齒

手の甲・頭指(ヒトサシユビ)迠(まで)長さ

            二寸二分  〈六・六センチメートル〉

眉毛          一寸二分  〈三・六センチメートル〉

拇指(ヲヤユビ)の太さ 六分    〈一・八センチメートル〉

長さ          五分    〈一・五センチメートル〉

頭指の長さ       八分    〈二・四センチメートル〉

中指長さ        八分よ   〈二・四センチメートル程〉

無名指長さ       八分    〈二・四センチメートル〉

小指長さ        五分よ   〈一・五センチメートル程〉

腕より手首迠      四寸二分  〈十二・七センチメートル〉

肩より臂迄長さ     三寸二分  〈九・七センチメートル〉

乳首より乳袋      方五分   〈一・五センチメートル四方〉

乳より乳の間      八分よ   〈二・四センチメートル程〉

脊筋 首下より     三寸    〈九センチメートル〉

肋           三寸    〈九センチメートル〉

脇骨          三寸    〈九センチメートル〉

背           三寸三分  〈約十センチメートル〉

鳩尾より下 則ち魚體

尾筒鰭二共(ふたつとも)三寸    〈九センチメートル〉

脊鰭横         方四寸三分よ〈十三センチメートル程〉

惣身の丈 尾筒迠    二尺壹寸よ 〈六十三・六センチメートル程〉 

 

□やぶちゃん注

 以下、語注を試みるが、毛利梅園が引く大槻玄沢「六物新志」の人魚の項については、優れた博物学サイトのイチオシ、人魚について恐るべき探究心を以って考証したネット上の人魚学殿堂とも言うべき「東京人形倶楽部 あかさたな漫筆というサイトの中に、藤倉玄晴氏の手に成る「人魚たちつてと 増補と棚から一つかみ、その5-六物新志の人魚記述」で書き下しと現代語訳と語注(割注形式)と解説が附されてある。訓読は梅園による転写であることから、意識的にこちらのデータは見ないようにして専ら「六物新志」の原典と対比することを心掛けたが、この語注ではこちらの藤倉氏の記載を大いに参考にさせて戴いたので、ここに謝意を表したい。参考にした注には逐一その旨を明記した。なお、梅園の「六物新志」の引用は、冒頭にある玄沢の「茂質、按ずるに」が省略されており(「茂質」は「しげかた」と読み、玄沢の本名)以下、梅園の引用は「省略」と注を入れずに省略している箇所がかなりある。但し、これは人魚の彼自身の一種のメモランダである限り、特に批判すべき引き方ではないと私は思う。梅園の態度は少なくとも人魚を眉唾物とは捉えておらず、この奇体な木乃伊(ミイラ)についても、最後に詳細な実測データを載せるところからも、当時の博物学者としては頗る冷静で中立的で、私には非常に好ましく感じられるのである。

・「六物新志」(「六」は「りく」とも「ろく」とも)蘭学者大槻玄沢(宝暦七(一七五七)年~文政一〇(一八二七)年:本名は茂質(しげかた)。号は磐水。一関藩(現在の岩手県一関市)出身(父は後に藩医)。二十二の時に江戸に、二十九で長崎に遊学、一関藩本藩仙台藩藩医に抜擢されて江戸詰となった。かの杉田玄白・前野良沢の弟子で、通称である「玄沢」はその両師匠のそれぞれ一字を貰ったもの。本書を始めとして日本に於ける西洋博物学の紹介や発展に大いに貢献した。蘭学入門書「蘭学階梯」はオランダ語の教科書として高い評価を受け、師の「解体新書」の改訂(「重訂解体新書」)も行っている)が天明六(一七八六)に親しい知人に頒布し、寛政七 (一七九五) 年に板行した博物書。二巻二冊。①一角(ウニコール=イッカクの角、②泊夫藍(サフラン)、③肉豆売(にくづく=肉荳蒄=ナツメグ)、④木乃伊(ミイラ)、⑤噴清里歌(エブリコ=アガリクス)、⑥人魚の六つの舶来奇品を図入りで解説したものである。

・「歇伊止武禮児(ヘイシムレル)」ポルトガル語“peixe mulher”綴りは、九州大学名誉教授ヴォルフガング・ミヒェル氏のサイト「欧亜文化交流史」の「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(II)」に拠った。その「輸入医薬品についての記述」の部分では、なんと幸運なことに例としてこの「ヘイシムレイル」が挙げられて詳述されている。まず目が留まるのは、寛永二〇(一六四三)年にオランダ船ブレスケンス号が盛岡藩領に上陸、捕縛されたブレスケンス号事件に於ける寛大な処置に対する謝意を表するため、慶安二(一六四九)年末にオランダから特使フリジウスAndries Friese/Frisiusが江戸に派遣されたが、その際、出島に滞在していたドイツ人外科医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger 一六二三年~一七〇六年)が、その江戸参府使節団に同行した(十二月三十一日から翌年の十月十五日まで江戸に滞在)。その際、将軍家光への献上品として薬箱を持参していたが、現存する「阿蘭陀外科医方秘伝」(長崎奉行馬場三郎左衛門の命により編集した写本)その薬剤のリストがあり、そこに、

   *

 一 ヘイシムレイル アバラ骨一ツ 代四十三匁 (peixe mulher

   *

とあることである。さらに、「阿蘭陀外科医方秘伝」以降のこの「ヘイシムレル」の薬方が写本別に四種比較されてある。その内二種を以下に引用する(恣意的に正字化した)。まず、「阿蘭陀外科医方秘伝」には、

   *

 ヘイシムレル

痔有人不斷身ニ添持テヨシ。粉ニシテ少シ宛酒ニ入用五體ニ有砂ヲ下シテヨシ。血止ニ第一良。下血ニモ用ヤウ同前。

   *

次に紀州の華岡塾の写本「阿蘭陀加須波留伝膏藥方」内の「阿蘭陀藥種能毒カスバル傳渡薬」の項には、

   *

 ペイシムレイル

痔有人毎ニ身ニ添持テ吉。粉ニシテ少宛酒ニ入用五體有砂ヲ下シテ良。湯ニテモ用。第一血留ニ吉。下血ニハ湯ニテ用良。

   *

とある。小野蘭山「本草綱目啓蒙」の「※3魚」(「※3」=「魚」+「帝」。)の項(後の注で全文を引く)を見ると、

   *

人魚骨。蠻名「ヘイシムレル」。蠻人、將來するもの。贋物多し。藥舗に貨するものは黄貂魚(アカヱイ)の歯及び雞子魚(トビヱイ)の齒の形狀にして斜紋なるものあり。いまだ眞なるものも見ず。「坤輿外記」に、『海馬有り、其の牙、堅白にして瑩淨、文理、細かく、糸髮のごとく、念珠等の物に爲すべし。復た、海女有り、上體、女人のごとく、下体魚形を爲す。其の骨、念珠と爲し、之を服せば、下血を止む。二者、皆、魚骨中の上品、各國、之れを貴重とす』と云へり

   *

とあって(国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の当該部画像を視認し、私が訓読した)、流石は蘭山、人魚骨の正体を喝破している。なお、後の「百設武唵爾(ペセブヱル)」の注も参照されたい。

・『貝原翁は之を「大和本草」に録し』貝原益軒の「大和本草」には附録巻二に「海女」及び「海人」の二項がある。

   *

海女 海中にまれにあり。半身以上は女人にて、半身以下は魚身なり。其の骨、下血を止むる妙藥なり。世に人魚と云ふ者、是れか。蛮語に其の名、「ヘイシムレル」と云ふ。

海人 海中に在り、其の形、全く人なり。頭髮・鬚・眉、悉く具はれり。只だ、手足の指、水鳥のごとく、相ひ連なりて水かきあり。言語すること能はず、飮食を與へれども食はず。又、一種、遍身、肉皮ありて腰間に下がり、袴を垂れたるがごとし。其の餘は皆、人なり。陸地に上あがり、數日、死せず。

   *

とある(中村学園大学・中村学園大学短期大学部図書館貝原益軒アーカイブの原文画像を視認し、読み易く書き下した)。

・『松岡翁は之を「用藥須知」に擧げて』儒者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:京都生。名は玄達、恕庵は通称。享保の改革の際、招聘されて幕府の江戸医学館に入り、本草の薬事検査を掌る和薬改会所に加わって検査法を検討、飢饉のための対策や殖産産業に寄与し、本邦本草学を発展させた。弟子に小野蘭山がいる。以上はウィキの「松岡恕庵」に拠った)が唯一、生前に上梓した本草書。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を管見したが、本文記載の項目名には「人魚骨」やそれらしいものが見当たらない。識者の御教授を乞うものである。

・「然れども和蘭の一、二の書を執りて之を考ふるに」原典に「然れども余、竊かに是れ、西洋の語なることを疑ふ。因りて、和蘭、一、二の書を執りて」とあるのを省略している。

・「勇斯東私(ヨンストンス)」ヨーン・ヨンストン(一六〇三年~一六七五年)ポーランド生まれのスコットランド人(父の代にポーランドに移住)。ドイツでの教育を受けた後、スコットランドのセントアンドリューズ大学で学士号・修士号を得(専攻は神学・スコラ哲学・ヘブライ学)、一時、ポーランドへ戻ったが、ケンブリッジ大学で植物学と医学を学び、フランクフルト、ライデンでも研鑽を積んだ。一六三四年にライデン、ケンブリッジ大学から医学・哲学博士号を得た。ポーランドの大貴族レシチンスキ家に近侍し、同家の公子の海外遊学に同行、帰国後はレシュノ(ドイツ名リサ)でレシチンスキ家に仕えた(ヨンストンの死後、同家のスタニスラウはスエーデン支配下のポーランド王となっている。ここまで「東京人形倶楽部 あかさたな漫筆」の藤倉玄晴氏の記載に拠る)。後に出る「禽獸蟲魚の譜」、“Historia naturalis animalium,1650-53”(「鳥獣虫魚図譜」「動物図説」などとも訳される。同書は将軍吉宗も所蔵していた)を始めとする図入り博物書を刊行したが、このオランダ語訳が江戸期の日本にも輸入され、本邦本草学の発展に寄与した(ここは主に荒俣宏「世界大博物図鑑」の人名索引解説に拠った)。

・「伊斯把你亞(イスパニヤ)國」スペインの江戸以前の日本での古称。英語読みよりスペイン語の自国名“España”の発音に近い。語源は古代ローマ人のイベリア半島の古称「ヒスパニア」に基づく(ウィキの「スペイン」を参照した)。

・「百設武唵爾(ペセブヱル)」原典では「ペセムエル」と読んでいる。既に寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の私の注で引いたが、「東京人形倶楽部」の中の『「せ」は世界の人魚、或いは人魚の世界のセ 坂元大河君の報告――人魚初級講座5 東洋の人魚――』に、

   《引用開始》

 江戸の人魚文献で注目されるものに、大槻玄沢(磐水)の「六物新志」があります。舶来薬品の考証ですが、下巻の最後で人魚が取り上げられ、「甲子夜話」で「人魚のこと大槻玄沢が六物新志に詳なり」と言われているものです[やぶちゃん注:これは「甲子夜話卷之二十」に載る「玄海にて人魚を見る事」の冒頭の引用である。]。玄沢は「ヘイシムレル」という人魚の骨が海外からもたらされている所から説き始めます。この物は、貝原益軒「大和本草」では「ベイシムレル」、「和漢三才図会」では「バイシムレ」と言われていますが、玄沢はスペイン語のペセムエール、つまりpez(魚)とmujer(女)の合成語、婦魚=人魚のことだと、その意味をつきとめました。この語源は、小学館『国語大辞典』では、ポルトガル語peixe-mulher(雌の海牛)とし、南方熊楠はラテン語「ペッセ・ムリエル」(婦人魚)の義としています。

 この骨は象牙のようで、止血(六物新志・長崎聞見録・大和本草・重修本草綱目啓蒙)の効能があるとされています。その他、解毒剤と紹介する文献もあります。「和漢三才図会」、『国語大辞典』、南方熊楠「人魚の話」などです。南方は「三才図会」を引いていますので、寺島良安が解毒剤説を広めているようです。江戸時代で解毒の薬と言えば、ウニコール(一角獣の角)が有名で、偽物が横行し、「うにこーる」と言えば、うそ・いつわりの意味になったほどでした。骨の解毒作用は、漢方の犀角、蛇角で説かれていますので、人魚の骨も毒を制すると思われたのでしょう。中国では孔雀の血が、アフリカではヘビクイワシの肝臓が、毒蛇に噛まれたときに解毒剤として用いられました。ハゲワシの足は、サソリ、蛇の毒に効くと言われていました。人魚の骨も偽物が多く、「山海名産図会」は「甚だ偽もの多し」、「重修本草綱目啓蒙」は「蛮人もち来たる者贋物多し、薬舗に貨する者はアカエイの歯及びトビエイの歯の形状にして斜紋なるものなり、未だ真なる者を見ず」と言っています。

   《引用終了》

とある。因みに、この筆者は「人魚骨」を象牙に推定されておられる点に注意されたい。また、ここに示された南方熊楠「人魚の話」は私が電子化して注したものがあるので、是非参照されたい。

・「〔中畧〕」『由つて此れに之れを觀れば、「歇伊止(ヘイシ)」は則ち、「百設(ヘセ)」の訛轉(くわてん)、「武禮児(ムレール)」は則ち「武唵爾」の訛轉なる者の以て知るべきなり。』が省略されている。

・「之れを加ふるに」加之で「しかのみならず」と読みたいのであるが、原典そのものも、かく訓じている。

・「安蒲児止私巴亞列(アンブルシスバアレ)」フランスの王室公式外科医アンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré 一五一〇年~一五九〇年)。身分の低い床屋医者出身であったが、実践的外科医として頭角を現わし、血管を糸で縛って止血する血管結紮法を創始するなど外科治療を変革、「近代外科学の祖」と讃えられる。彼の整骨術に関する著書はオランダ語訳を経て華岡青洲の手に渡り、本邦の外科医療史に多大な影響を与えた。貴賤の区別なく、患者一人一人に対し、愛護的な態度で接したことから医学史家からは「優しい外科医」と評される(ウィキの「アンブロワーズ・パレ」に拠る)。ここで言うのは彼の“Des Monstres et Prodiges,1573(「怪物と驚異について」全三十八章)の第三十五章「海の怪物について」の最初に出るもので、同書は主たる部分はヒトや動物の奇形についての図入りの記述であるが後半部では人魚・ユンコーン・犀といった奇獣についても記載されている。

・「花連的印(ハレンテイン)」フランソワ・ファレンティン(Francois Valentyn 一六六六年~一七二七年)はオランダの宣教師。一六八五年に東インドに牧師としてアンボイナ(後注参照)に派遣され、そこで当時の管理官ルンプフ(George Eberhard Rumpf ラテン名ルンフィウス Rumphius 一六二七年~一七〇二年:ドイツ生まれ。オランダ東インド会社に雇われていた博物学者でアンボイナでは多くの新種を発見している)と親しくなった。十年後にオランダへ戻るが、一七〇五年には妻と子とともに再びアンボイナへ赴き、従軍牧師として東ジャワへの遠征にも加わったが健康を害し、オランダへの帰国を願ったものの、なかなか許されず、一七一四年にやっと帰国が叶い、後、五巻九冊に及ぶ“Oud en Nieuw Oost-Indien,1724-6”「新旧東インド誌」(本文中の「東海諸島産物志」)を完成させ、一七二四年から一七二六年にかけて刊行している(ここまでは「東京人形倶楽部」の菅家史朗氏の手に成る「魚たちつてと 増補と棚から一つかみ、その4-河毛二郎とレーシー・ヘルプス、ジェイン・ヨーレン、ファレンティンなど」に拠った)。本文にも引かれるアンボイナに於ける自然誌の記述は実はその多くがルンプフの功績であって、荒俣宏「世界大博物図鑑」の人名索引解説によれば、ファレンティンはルンプフが永年記述してきたアンボイナの自然史の記録を勝手に流用したと記しておられる。

・「〔中畧云々。〕」原典ではここに四頁に亙って以下の人魚図三図が示される。梅園もその図に言及している(その観察はなかなか的確で原典の図を見ずとも髣髴とさせるものである点に着目されたい)のでここに掲げた(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「六物新志」の保護期間満了画像)。視認して書き下したキャプションを添えた。

   * 

 

Pare_jonston_mermaid

 
人魚圖

 是れ、安蒲児止私巴亞列(アンブルシスパアレ)の書に載る所。

        牝

        牡

《改頁》

 是れ、勇斯東私(ヨンストンス)「禽獸蟲魚の譜」に載る所。

        牝

        牡

《改頁見開き》

Valentyn_mermaid

 
同前

 是れ、花連的印(ハレンテイン)「東海諸島物産志」に載る所。

   江漢馬峻寫落款 落款

   *

「江漢馬峻」とは言わずもがな乍ら司馬江漢。彼の本名は安藤峻である。

 次に、以下にこれら三図の原画を示しておく。以下の三図は著作権満了であり、ただ創作作品を平面的に写しただけのものには著作権は生じないというのが文化庁の公式見解である。引用元は総て明記した。

   *

Ⅰ Ambroise Paré “Des Monstres et Prodiges,1573”(引用元は仏文サイト“BIU Santé”内の“Paré, Ambroise.Vingt cinquième livre traitant des monstres et prodiges, Œuvres. - Paris, G. Buon, 1585 (cote BIUM 1.709)より) 

 

Pare


Ⅱ 
John Jonston“Naeukeurige Beschryving van de Natuur der Vier-Voetige Dieren, Vissen en Bloedlooze Water-Dieren,Vogelen, Kronkel-Dier en, Slangen en Draken,1657”(引用元英文サイト“American Philosophical Society”内の“Of Myths and Bones: Early Modern Conceptions of Animals Case Two“Anthra pomorphos Joannes Jonstonus (1603-1675). Historiae Naturalis; Anthra pomorphos (Tab. XL); 1657. (590 J73 vol. 1)”より。この長い書名は合冊のオランダ語版のもので、「東京人形倶楽部」の藤倉氏の記載に出る磯崎康彦氏の訳によれば『四足動物、魚類と無血水棲創物、鳥類、有節動物、蛇類と龍類の精密な自然誌』である) 

 

Jonston

 
Ⅲ 
Francois Valentyn“Oud en Nieuw Oost-Indien,1724-6”(引用元は英文サイト“Australian Museum”の私がフォローしている公式Pinterestの“Book Illustrations to 1919 Illustrations from the rare books held in the Research LibraryOud en Nieuw Oost-Indien, vervattende een naaukeurige en uitvoerige verhandelinge van Nederlands mogentheyd in die gewesten... / door François Valentyn. Vol. 3, no. 1 (1776) Plate 52 Mermin...[Mermaid}”というキャプションを持つ画像

Valentyn0

   *

・「元壽」毛利梅園の名。訓は「もとひさ」。

・『「醫事集纂」第八百十一號』これは書き方から初出記載雑誌からの引用訳である。原雑誌資料の原名は不詳。

・「迷伊児名能(メイルミンネン)」“meerminnen”。古いオランダ語で人魚の意と思われる。荒俣宏「世界大博物図鑑5 哺乳類」の「人魚」の項にオランダ語“meermin, meerman”とある。

・「牡(ヲ)迷伊児名能」さながらオランダ語では男の人魚を「ヲメイルミンネン」と呼称するとまことしやかに記しているかのように見えて微笑ましい。

・「不里泥烏私(プリニウス)」古代ローマの偉大な博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus 二二年か二三年~七九年八月二十四日:ヴェスヴィオ山の大噴火を観察中に死亡)。彼の博物誌の第九巻九~十一節に以下の記載があり、プリニウスが人魚の実在を疑っていなかったことが分かる。雄山閣昭和六一(一九八六)年刊の中野定雄他訳になるプリニウスの「博物誌」より引用する。

   *

 そのためにわざわざオリシポから派遣された使節団はティベリウス皇帝に、彼らはある洞窟でトリトン<半人半魚の海神>が法螺を吹いているのを見たし聞いたが、それはよく知られている形をしていたと報告した。ネレイス<海の精>の描写も不正確ではない。ただし彼らのからだの人間の形をしている部分にも毛がもじゃもじゃ生えてはいるが。というのは、ネレイスは同じ海岸で見られたことがあるし、そのうえずっと沖合でそれが死にかけているときの嘆きの歌が浜の住民たちによって聞かれたことがある。それにまたガリアの使者がおびただしい数のネレイスの屍体が浜で見られたということを故アウグストクスに書面で報告しているからだ。私は次のような陳述に対する証言者として、騎士身分の中の何人かを承認したことがある。すなわちガデス湾で、からだのすべての部分が人間に完全に似た「海人」を彼らは見たと。そしてそれが夜分船のうえに這い上ってくる。すると「海人」が坐った側が重みで沈下し、それがもっとそこに坐りつづけると、船が水の中へ沈んでしまうというのである。ティベリウス帝の治下<後一四-三七年>でのことだが、リグドゥヌム属州の沖合にある島に引潮が驚くほど多様で大きい怪物を同時に三〇〇も残していった。またサントニの海岸にも同数のものが残されたが、いろいろな物があった中に、ゾウもあれば、角に似た白い縞だけがあるウミヒツジ、それに多くのネレイスもあった。トゥラニウスの述べたところでは、ガデスの海岸に一つの怪物が打ち上げられたが、それは二枚のひれの間に長さ一六キュービットもある尾部があり、また一二〇本の歯があって、それのいちばん大きいのは長さ四分の三ペス、いちばん小さいのでも半ペスあったという。話にあるアンドロメダが曝された怪物の骸骨が、マルクス・スカウルスによってユダヤのヨッペの町から運んで来られ、彼が造営官であったとき<前五八年>、ローマでほかの驚異物と一緒に展観されたが、それは長さ四〇ペス、肋骨の高さはインドゾウを超え、脊柱は一・五ペスの厚味があった。

   *

この記載の舞台は地中海の西の入口ガデス海峡に面したペイン南西部アンダルシア州のカディス県の県都である。一キュービットは肘から握った拳までの長さで、当時のローマでは四六・三センチメートルである(引用底本度量衡表に拠る)から、「一六キュービット」は実に七メートル四十一センチメートルの丈け、一ペスは歩尺で二十九・五センチメートルであるから、歯の大きなものは「四分の三ペス」で二十二センチメートル、一番小さなものでも「半ペス」約十四・八センチメートル、アンドロメダの怪物の骸骨の全長は「四〇ペス」実に十一・八メートル、脊柱の太さは実に「一・五ペス」凡そ四四・三センチメートルもあったということになる。それにしても、こいつらは何ものか? 因みに、クジラと早合点なさっては困る。だって次の十二節には別にちゃんとクジラが語られているから、である。但し、ここでパレの言っているのは「博物誌」のこの記載ではないようだ。

・「其の二儀の始め、此の異類を化出し、其の種族、歴世奕續して而して絶えざる者、其の理、猶ほ夫の玉石・草木・禽獣の類にも亦、人形に似たる者、之れ有ると、相ひ同じきか」「然れども其の二儀の始め」の途中に「然れども、余、竊(ひそか)に之を意(おも)ふに、夫の二儀……」と省略がある。さても、冒頭の「二儀」の意味がよく分からない。――人族と魚族の異なった「二」つの種族が、太古に於いて何らかの交わりの「儀」が行なわれ、人魚という新たな種が化生し、しかもその奇体な種族が連綿と現世を生き続けて、「奕」は「盛んである」の意があるから、盛んに種を繁栄維持し続けて絶えないということは、その理(ことわり)は丁度、なおまた、好物や植物や動物の類いにもまた、人の形に似たものが実際にあるという事実と照らし合わせれば、相同の現象であって少しもおかしくないということであろうか?――という謂いで採る。一種の類感呪術的理解法であるが、何だかな、という感じである。

・「阨入多(ヱヂプテ)國」エジプト。

・「埋奈(マナ)邑長(むらをさ)」当初、私は「マナ」を村の名と勘違いしていたが、「東京人形倶楽部」の藤倉氏の訳から、これがメナ(Mena)というエジプト総督であることが分かった(事蹟は不詳)。

・「泥禄(ニイル)河」ナイル川(アラビア語“an-nīl”は、定冠詞に相当する「ナ」と、川を意味する「イル」から成る)。ナイルでの人魚目撃談については、ボローニャ出身のイタリアの博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi 一五二二年~一六〇五年:パドバやローマで哲学・医学を修め,ボローニャ大学教授として薬物学・植物学を講じ、大学付属の植物園を設立。薬草・昆虫類・鳥類に関する克明な観察を綴った多くの著作がある。特にニワトリの胚発生の経過を実際の観察に基づいて述べたそれは後の発生学研究の扉を開いたものとして注目される。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)が一五九九年の著作で、大昔、ナイル川で見られた人魚の夫婦の記載を残している、と個人ブログ「過去と未来の狭間で佇み深遠を~謎は解明されるのでしょうか?~」の人魚アンソロジー「波の間に間に」にある。それによれば、少なくとも二時間以上に亙って多くの人に目撃されたとあって、リンク先には絵もある。これはアザラシだろうか? ギリシア神話で「海の老人」と呼ばれる海神プローテウス(Prōteus)は伝承ではナイル川河口の三角州沖合に浮かぶパロス島でアザラシの世話をしているとある。

・「安杜路卜木児畢思(アントロホモルピシス)」梅園は「アントロホモルピンス」と誤読しているが原典で訂した。anthropos(人類)+homo(人・家族)+ piscis(魚)の合成語か? 少なくとも現行ではこの一単語は存在しない模様である。

・「羅甸」「梅園魚譜」原文は「羅匐」であるが誤字と断じて書き下しでは訂した。

・「膚魯烏吸悉(フロウヒス)」綴り不詳。「梅園魚譜」原文は「膚」が「層」の字の様にも見え、しかも「ソロウヒス」とルビしているようにしか見えないが、原典で訂した。

・「幾爾計侶私(キルケリユス)」イエズス会士でドイツの百科全書的博物学者アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher 一六〇一年~一六八〇年)のラテン名。イエズス会のギムナジウムを卒業後、各地の大学で神学・人文学・自然学・数学と、殆んど総ての学問を修めた。ウュルツブルク大学哲学・数学・ヘブライ語・シリア語教授を勤めた。当時のヨーロッパでもっとも優れた古代エジプト研究者及び中国学の第一人者としても知られる(以上はウィキの「アタナシウス・キルヒャー」に拠った)。

・「伊斯把儞亞(イスパニア)國の人、海行し、東海は吸沙伊索嶋(ヒサイサじま)の……」「伊斯把儞亞國の人、東海に獲る所の者を以つて、直ちに其の眞を寫し、即ち、其の事を記する者なり。其の説に曰く、伊斯把儞亞國の人、海行し、東海は吸沙伊索嶋の……」が脱文している。これは意図的なもの以外に、単なる誤写(「伊斯把儞亞國」の箇所で後に飛んでしまった)とも強く疑わられるものの、原典は如何にもくどく感じられ、私も書写するとしたら、省略したくなる気はする。

・「吸沙伊索嶋(ヒサイサじま)」「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳割注では、フィリピンのヴィサヤ諸島 Visayas かとされる。フィリピン中部の、ルソン島とミンダナオ島に挟まれた海域にある島々の集まりを言う。

・「必屈登嶋(ピクテンじま)「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳割注では、同前諸島中のビリラン島かとされる。現在、フィリピンのビリラン州(Province of Biliran)の東ビサヤ地方(Eastern Visayas, Region VIII)に属する。参照したウィキの「ビリラン州」で位置が確認出来る。

・「百設唵武爾(ペセムヱール)」「梅園魚譜」では「百武爾唵爾(ヘムヱール)」であるが、原典で訂した。後で正しいしい文字列で梅園も書いている。

・「受伊翁(ジユイヲン)」哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン Dugong dugon である。何だか、やっとほっとした。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑5 哺乳類」の「ジュゴン」の項によれば、属名のデュゴングはマレー語でこの獣を指す“dūyong”による、とある(ウィキのマレー語の「ジュゴン」の頁ではタガログ語語源とする)。因みに漢名「儒艮」もこの音訳である。

・「安具那(アンボイナ)島」インドネシア東部にあるモルッカ諸島の一部であるアンボイナ(アンボン)島(インドネシア語 Pulau Ambon )。参照したウィキの「アンボン島」によれば、バンダ海の北側に位置し、大きなセラム島の南西に位置する面積は七百七十五平方キロメートルの比較的小さな火山島で、最高所の標高は千二百二十五メートル、東西方向に長い陸地が二つ並び結ばれた形状をしており、島の長さが約五十キロメートルあるのに対し、中間部にある約二キロメートルの地峡で二つの陸地が結ばれた形を成し、熱帯雨林で覆われている。主要都市は島の南部にあるアンボンでアンボンはマルク(モルッカ)州の州都でもある。一五一三年、『最初のヨーロッパ人としてポルトガル人が初めてアンボン島に上陸し、テルナテ島でポルトガルが追い出されるまで、ポルトガルのマルク諸島における活動の中心となった。しかしポルトガル人は、ジャワ島の北海岸へ渡る主要な港として商業的、宗教的な交流のあるHituを中心とした、島の東北部の土着イスラム教徒によって定期的に襲撃を受ていた』。ポルトガル人は一五二一年に工場を設立したが、一五八〇年まで平和的に所有はできなかった。『実際ポルトガルは、現地の香辛料貿易を統制できずに、ナツメグ生産の中心バンダ諸島において権限を獲得する試みに失敗した』。一六〇五年にステフェン・ファン・デア・ハーゲンが『無血で砦を引き継いだ時には、すでにポルトガル人はオランダ人によって追い出されていた』。一六一〇年から一六一九年まで、『バタヴィア(現在のジャカルタ)が設立するまでの間、アンボンはオランダ東インド会社 (VOC) の本拠地』として機能した。一六一五年頃、『イギリスが島のカンベロ (Cambello) に居住地を形成』、これは一六二三年に『オランダに破壊されるまで存在した。オランダによる破壊では、不運な住人を苦しめた攻撃的な拷問も行われていた。実りの無い交渉の後』、一六五四年、『クロムウェルはオランダに対し、アンボン虐殺に苦しめられていた子孫への賠償として、マンハッタン島に加えて』計三十万ギルダーの供与を強いた。一七九六年になって『イギリスはアンボン島を手中に収めたが』、一八〇二年の『アミアン和約によってオランダに戻され』、一八一〇年に『再びイギリスが奪還するも』、一八一四年には再度オランダに取り戻されている。アンボン島は十九世紀まで『世界のクローブの生産の中心であった。オランダはアンボンの独占権を確保するため、クローブの木を育てることを禁止し、他の島々はその規則に従っていた』。『オランダ統治時代は、アンボンはオランダ居住民の中心地で、モルッカ諸島の軍司令部が置かれていた。街はヴィクトリア砦によって守られ』、『オランダ人以外にも、アラブ人、中国人そして少数のポルトガル人の居住者がいた』。第二次世界大戦時、アンボンにはオランダ軍の主要基地があり、アンボンの戦いで大日本帝国が接収している。戦後の一九四五年、『インドネシアは独立を宣言した』が、『スカルノ大統領がインドネシアを中央集権国家に変えようとしたことと、民族的、宗教的な緊張の結果、アンボンはインドネシア政府に対して反発』、一九五〇年の南マルク(モルッカ)共和国の反乱が起き、現在もイスラム急進派との間で騒乱が繰り返されるといった宗教対立に加え、かつての独立紛争の再燃により、アンボン島紛争は解決の目途が立っていない。

・「開國一千七百十有二年」「開國」の意、不詳。因みに西暦一七一二年は正徳二年で、第六代将軍徳川家宣がこの年の十月に逝去、徳川家継が継いでいる。新井白石の活躍した頃である。

・「熱伊物以弗(ゼイウエイフ)「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳には“zee wijf”とある。このオランダ語は英語の“sea wife”である。

・「武魯(ブーロ)島」底本にはルビがないので原典で補った。インドネシアのモルッカ諸島にあるブル島(インドネシア語 Kabupaten Buru)面積は九千五百五平方キロメートルでモルッカ諸島の島嶼で三番目に大きい。アンボン島の西直近。

・「爪哇(イヤフ)」この漢名はジャワ島(インドネシア語 Jawa)を指す。ただ、ブル島は東北に千四百キロメートル以上離れている。

・「※1」(「※1」=「籞」-「示」)は音は「ギヨ/ゴ」。生簀(いけす)。入り江に竹を編んで籬を作り、囲って魚を養うようにしたもの。

・「※2まん」(「※2」=「月」+「匿」)は不詳。当初、「かくまはん」と読もうとしたが、やめた。

・「四昼夜三時半」古時刻であるから、丸四日と七時間。

・「長け五十九拇指横徑」「拇指横徑」これは古代ギリシャの長さの単位でインチの起源、足の親指の幅に由来する身体尺である「ウンキア」(ラテン語 uncia)で、一ウンキアは二・五センチメートル換算であるから、この人魚の背丈は百四十七・五センチメートルとなる。次の次の注も参照のこと。

・「禮印狼度(レインランド)」イングランド?

・「度(はかり)」長さの単位の意。

・「五脚」この脚は足の大きさに由来する身体尺とされる「フィート」である。五フィートだと約百五十二センチメートルになるが、これは少し差があり過ぎるように感ずる。

・「因りて其の之を得るの所を由る所を聞くに」――よってその、人魚を捕獲したという事実について、それが確かなことであるということを聴き知ったところが――といった意味か? 何か、如何にもまどろっこしい言い回しである。

・「安具那島主」アンボイナ島商館長。「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳に拠った。

・「臣(しん)沙米烏児花児烏爾(サミウルハルウル)」商館長の部下であったサミュエル・ファロアーズ(Samuel Fallours)。「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳に拠った。ファロアーズの絵はルイ・ルナール(Louis Renard 一六七八年~一七四六年:外交官・出版家。フランス人でオランダに亡命後、イギリスのスパイとなる。)がアムステルダムで出した彩色魚類図譜“Poissons, Ecrevisses et Crabes, De Diverses Couleurs et Figures Extraordinaires, Que L'on Trouve Autour Des Isles Moluques, et Sur Les Côtes Des Terres Australes.
Amsterdam: Louis Renard,
[1718 or 1719].”(「モルッカ諸島と南方の海岸で発見された様々な色彩と驚くべき形態の魚類・エビ類・カニ類」。一般には「モルッカ諸島魚類彩色図譜」と略される)の頗る幻想的な目くるめく色彩を持った第二部パートの画家として知られる。但し、表紙に彼の名はない。また先に出たファレンティンの「新旧東インド誌」の図版も実は彼の手になる。HN未定氏のブログ「armchair aquarium [アームチェア・アクアリウム]」の「モルッカ諸島産彩色魚類図譜」に、元は十八世紀初めに『オランダ領東インド(現在のインドネシア)のアンボイナに駐在していたサミュエル・ファロアーズ(Samuel Fallours)が描いたもの。素人画家だったファロアーズは東インド会社に雇われて、現地の魚介類を集めて絵を描いたり、食用に適するか否かぱくぱく食べて試したりしてました。で、図に短評を添えてアンボイナ州の商館長に提出していたのですが、それがめぐりめぐってルナールの手に渡ったというわけ。本にはファロアーズの名前も出てきてはいるんだけど、表にでかでかとクレジットされているのがルナールだけなのはちょっと切ないです』。『ファロアーズの図がどれだけ正確かってことなんですが、こんなのがあるとこから推して知るべし・・・と言いたいところだけど、がんばれば半分ぐらいは種を同定できるようです。これを「半分も」と感じるか「半分しか」と感じるかは人それぞれでしょう。わたしはダメダメだと思う。ただそれだけ特定できるってことから、大部分が現実に根ざしているからこそ、この突拍子もない図譜は楽しいのだと改めて感じます。・・・ちなみにこの人魚は長さ59インチ(約150センチ、絵の印象よりちっちゃいね)で、桶に入れて四日間生きていたとあります。ネズミみたいにチュウチュウ鳴いてたんだって』とあり、Amsterdam - Ewell Sale Stewart Library の同書の全画像デジタル・コレクションもリンクされている。必見! 因みに、このブログ主は私の電子テクストを開設した非常に早い時期に評価しくれた女性で、海産生物にもお詳しく、博物学的リンク蒐集でも優れた方である。もう何年も更新をされていない。少し、淋しい。……

・「主般垤児私的爾(ハンデルステル)」商館長ファン・デル・ステル(Adriaen Van der Stel ?~一六四六年)。因みに、後のケープ植民地総督及びその後身であるオランダ東インド会社植民地総督を勤めたシモン・ファン・デル・ステル(Simon van der Stel)や後者を引き継いでいるヴィレム・アドリアーン・ファン・デル・ステル(Willem Adriaan van der Stel)は彼の子と孫と思われる。

・「敢へて珍奇とせざるが故なり」指示がないが、以下、一部の条が丸ごとなかったり、提示された後の箇所ががなり省略されていたりする。

・『「史記」秦の本記に曰く、人魚膏を以つて燭と爲(な)す』「史記」巻六「秦始皇本紀第六」の「始皇帝三十七年 九月」の始皇帝の葬送と、弩(いしゆみ)自動射出器と消えない灯明を完備した墳墓玄室の解説の下りに出る。

   *

九月。葬始皇酈山。始皇初即位、穿治酈山。及幷天下、天下徒送詣七十餘萬人、穿三泉、下銅而致槨。宮觀百官奇器珍怪徙臧滿之。令匠作機弩矢、有所穿近者輒射之。以水銀爲百川江河大海、機相灌輸。上具天文、下具地理、以人魚膏爲燭度不滅者久之。

(九月、始皇を俐酈山(りざん)に葬る。始皇、初めて即位して酈山(りざん)を穿治(せんち)す。天下を幷(あは)するに及び、天下の徒七十餘萬人を送詣し、三泉を穿(うが)ち、銅を下として槨(くわく)を致す。宮と觀・百官・奇器・珍怪、臧(ざう)を徙(うつ)して之れを滿たす。匠みに機弩矢(きどし)を作らしめ、穿ちて近づく者有れば、輒(すなは)ち之れを射る。水銀を以つて百川・江河・大海と爲し、機もて相ひ灌輸(くわんゆ)す。上は天文を具(そな)へ、下は地理を具ふ。人魚の膏を以ちて燭と爲し、久しく之を滅せざる者に度(はか)る。)

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文中の「槨」は墓室内部の棺を保護するものや、その玄室全体を指す。「機もて相ひ灌輸す」機械仕掛けで自動的にこれらの人工河川江海に定時に水銀を満たさせるようにセットさせた、ということである。

・『「異物志」に曰く、人魚、人の形に似たり。長け尺餘。』同書名では、後漢の楊孚(ようふ)撰とされる地誌が最古であるが亡佚、同系列と考えられる呉の丹楊太守萬震撰「南州異物志」(亡佚)といった似たような書名の作品が複数ある。中文繁体字版ウィキ(維基文庫)の「人魚」を見ると、劉宋の裴駰(はいいん)の「史記集解」が引用されている(前注に示した箇所のまさに注解である)。但し、この文字列には一部に疑義があるので、別に見出した、ひよこ氏のブログ「てぃーえすのワードパッド」の「人魚」から当該注を引用する。少し記号その他を変更して総てを示す。

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集解。徐廣曰「人魚似鮎、四。」正義・廣志云「鯢魚聲如小兒啼、有四足、形如鱧、可以治牛、出伊水。」異物志云「人魚似人形、長尺餘。不堪食。皮利於鮫魚、鋸材木入。項上有小穿、氣從中出。秦始皇冢中以人魚膏為燭、即此魚也。出東海中、今台州有之。」按、今帝王用漆燈冢中、則火不滅。

(集解。徐廣曰く、『人魚、鮎(ねん)に似て、四(しきやく)。』。「正義」・「廣志」に云く、『鯢魚(げいぎよ)、聲、小兒の啼くがごとく、四足有り。形、鱧(らい)のごとく、以つて牛を治すべし。出伊水に出づ。』と。「異物志」云、『人魚、人の形に似、長け、尺餘り。食ふに堪へず。皮鮫魚(ひかうぎよ)よりも利(と)く、材木を鋸(ひ)くに入れり。項上に小穿(しやうせん)有り、氣、中より出づ。秦始皇の冢(つか)の中、人魚膏を以つて燭と爲す。即ち此の魚なり。東海中に出づ。今、台州、之れ有り。』按ずるに、今、帝王、冢の中の漆燈(しつとう)に用ふ。則ち、火、滅せず。)

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以上の「皮鮫魚よりも利く、材木を鋸くに入れり」の訓読は自信がない。「鮎」は中国ではナマズ、「鯢魚」はオオサンショウウオ、「皮鮫魚」は直感であるが、一般的なチョウザメを指し、ここでそれと同じように堅く尖った皮膚を持っていて、しかも鋸の代わりになるとなると、私はここで言っている「人魚」は硬骨魚綱条鰭亜綱軟質区チョウザメ目ヘラチョウザメ科ハシナガチョウザメ属の異形種であるハシナガチョウザメ(古くはシナヘラチョウザメと呼称)Psephurus gladius を指しているように思えてならないのだ。……そんなチョウザメ知らない?……では、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「かぢをとし 鱘」の注の切手の写真をご覧あれ! ご納得頂ける自信が私には、ある、のである。……但し、続く「項上に小穿有り、氣、中より出づ」の部分は、これはまた全く別に哺乳綱クジラ目ハクジラ亜目ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ Lipotes vexillifer を想起させるではないか! まことにに大陸の本草の記載はぶっ飛んでいて、如何にも面白い! 「漆燈」は赤黒く輝く燈火の意。

・『「洽聞記」に曰く、海人魚、東海、之れ有り。大なる者、長け五、六尺、状(かたち)人のごとし。眉・目・口・鼻・手・爪・頭、皆。美麗女子たり。具足せざること、無し。皮肉、白にして玉のごとく、鱗無く、細毛有り、五色、軟軽。長さ一、二寸。髪、馬尾のごとく、長け五、六尺。陰形(いんぎやう)、丈夫女子と異なること無し。臨海の鰥寡(くわんくわ)、多く取り得て、之を池沼に養ふ。交合するの際、人と異なること無し。亦、人を傷つけず。』「洽聞記」は唐鄭常(ていじょう)が撰し、後に明の陶宗儀編輯した説話集。「太平広記」の巻第四百六十四「水族」の「海人魚」に以下のように記されている(引用は中文サイト「龍騰世紀」のこちらのテクストを一部加工した)。

   *

海人魚、東海有之、大者長五六尺、狀如人、眉目、口鼻、手爪、頭皆爲美麗女子、無不具足。皮肉白如玉、無鱗、有細毛、五色輕軟、長一二寸。發如馬尾、長五六尺。陰形與丈夫女子無異、臨海鰥寡多取得、養之于池沼。交合之際、與人無異,亦不傷人。

(海人魚。東海に之れ有り。大いなる者は長け五、六尺、狀、人のごとく、眉・目・口・鼻・手・爪・頭、皆、美麗なる女子たり。具足せざるもの無し。皮肉は白く玉のごとく、鱗無く、細毛り有り、五色にして輕軟、長さ一、二寸。髮、馬の尾のごとく、長け五、六尺。陰形、丈夫の女子と異なること無し。臨海の鰥寡、多く取り得て、之を池沼に養ふ。交合の際、人と異なる無し。亦、人を傷つけず。)

   *

「長け五、六尺」は約百五十~百八十センチメートル。「鰥寡」は、妻を失った老いた男鰥(やもめ)と夫を失った老いた未亡人の意。おぞましい人魚獣姦の記載であるが、どうもこの人魚、相手の「鰥寡」ともども妙に荒寥として侘しい。

・『「徂異記」に曰く、査道、使(つかひ)を高麗に奉じ、海沙中、一婦人、肘後、紅鬣(これれふ)有るを見る。之れを問へば、曰く、人魚なり、となり〔「本草綱目」「※3魚(ていぎよ)」の條下に引用す。〕』(「※3」=「魚」+「帝」。)この記載は「中國哲學書電子化計劃」の「天中記 巻五十六」に(一部に明らかな誤字があるが、ここではそのままコピー・ペーストしてみる。下線やぶちゃん)、

   *

海人魚東海之火者長五六尺狀如人眉目口鼻手氏頭皆為美麗女子無不俱足皮肉白如玉鱗有納毛五色輕軼長匡二寸髮如馬尾長五六尺陰形與丈夫女子無異臨海錄寡多取得養之於池沼交合之際典人無異亦不傷人上侍制盍道奉便尚翟睨泊工而五望見沙中有口婦人紅裳雙裡譬壤亂肘微有紅荒置命水工以蒿袒水中勿令傷婦人待水偃仰復貝望章拜手感舞而沒水工曰某在海上木省此何拘童曰此人魚也能典人姦處水類人性但異蠢

   *

とある。「本草綱目」には「※3魚」(「※3」=「魚」+「帝」)の項の「集解」の末尾に、

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徐鉉「稽神錄」云謝仲玉者、曾見婦人出沒水中、腰以下皆魚。乃人中一婦人、肘後有紅鬣。問之。曰人魚。

   *

とあって「徂異記」の記載は私が管見した二種の版本にはない。また、この下線部は私の微力では訓読が出来ない。以前に私は、和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚の「人魚」の「稽神錄」に注して以下のように記したことがあるので、ここはそれでお茶を濁すこととする。悪しからず。

   *

「稽神錄」は北宋の学者、徐鉉(じょげん)撰の志怪小説。徐鉉は文字学者として「説文解字」の校訂者として知られる。第二の例は「徂異記」(宋の聶田撰になるも残欠)に載るとするものと同じである。以下に「徂異記」から引用する(原文のテクストはかつて繁体字中文サイトダウンロードしたものを補正・加工した。失礼ながらダウンロード先は失念)。

   *

待制査道出使高麗、晩上船泊在一山邊。望見沙灘上有一婦人、頭髮薘鬆、穿著紅裙子、袒露兩臂、肘下有鬣。船夫不知道是什麼。査道曰、「是人魚也。」。

やぶちゃんの書き下し文:

待制査道、高麗に出使し、晩上、船、泊して、一山の邊に在り。望見するに、沙灘の上に一婦人有り、頭髮、薘鬆(ほうそう)し、紅裙子(こうくんし)を穿著(せんちよ)し、兩臂(りやうひん)を袒露(たんろ)し、肘下(ちうか)に鬣(ひれ)有り。船夫、知らずして、「是れ、什麼(そもさん)?」と道(い)ふ。査道曰く、「是れ、人魚なり。」と。

やぶちゃん訳:

待制であった査道は、高麗に使者として遣わされた。その途上、ある晩のこと、船が錨を降ろして、とある山の麓の海辺に在った。査道が、碇泊した船上から景色を眺めて見ると、水際の辺りに一人の婦人がおり、髪を振り乱し、紅い裳(も)だけを穿(は)いて、袒(はだぬ)ぎして両の手首(肘から先)を露わにし、そして肘(ひじ=肘から脇の下迄の二の腕)の脇の下には鰭(ヒレ)があった。同船していた船乗りは、全く見たこともない生き物だったので、「さても! あれは一体、何ですか?」と尋ねた。即座に査は答えて言った。「あれが、人魚だ。」と。

やぶちゃん語註:

・待制:唐代の官名で詔勅の筆記や種々の御下問に返答する学識職。

・沙灘:「砂洲」の意多く用いられるが、汀(みぎわ)の意味でよいであろう。

・薘鬆:髪の乱れているさま。

   *

・『正字通に曰く、按ずるに「※4魚」、即ち、海中の人魚なり。』(「※4」=「魚」+「役」。)「正字通」は中国の明の張自烈の著になる字書。十二支の符号を付した十二巻をそれぞれ上中下に分けて、部首と画数によって文字を配列して解説を加えたものであるが、後の清の廖文英(りょうぶんえい)が、その原稿を手に入れて自著として刊行してしまった。中文サイトで原文を検索したが、実際には「人魚」の記載はこんな単純なものではない。

・『郭璞、人魚の贊、有り。人魚、人を加へ、「※5」に作る。猶ほ、牛魚、牛を加へ、「※6」に作るなり』[(「※5」=「魚」+「人」。「※6」=「魚」+「牛」。)「人魚、人を加へ」及び「牛魚、牛を加へ」は原文は「人の如く」「牛の如く」となっているが、誤読であり、原典でかく訂した。「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)郭璞「人魚の贊」とは、彼の幻想地誌である「山海経」の「中山経図賛」に出る。この文はそこでは「人魚」に相当するするものは「人」(へん)に「魚」(つくり)で、因みにまた「牛魚」に相当するものは「魚」(へん)に「牛」(つくり)で作字していると言っているのである。「中山経」には中文サイトで検証すると全部で五箇所に人魚が出る。

・「續日本紀」原文は「續日本記」。原典で訂した。後の「日本紀」も梅園の原文は「日本記」。但し、これ、誰も問題にしていないようであるが、以下は「続日本紀」ではなく、「日本書紀」の記載である(玄沢の原典には御丁寧に「續---紀」と熟語記号を振っている)。なおまた、「三十四代」は現行では推古天皇は三十三代とする。

・「推古天皇二十七年夏四月己亥朔壬寅、近江國より言ふ、蒲生河に於いて、物、有り。其の形、人のごとし。秋七月、攝津國に漁父有り。罟を堀に沉め、物、有り、罟に入る。其の形、児のごとし。魚に非ず、名づくる所を知らず」「日本書紀」の原文は以下の通り。

   *

廿七年夏四月己亥朔壬寅、近江國言、於蒲生河有物、其形如人。秋七月、攝津國有漁父、沈罟於堀江、有物入罟、其形如兒、非魚非人不知所名。

   *

「推古天皇二十七年」は西暦六百十九年に当てる。

・『「和名抄」に曰く、「人魚」と』源順(したごう)の「和名類聚鈔」には、

   *

人魚 「兼名苑」云、人魚、一名、鯪魚〔上音、陵。〕。魚身人面者也。「山海經注」云、聲、如小兒啼。故名之。

   *

とあって、大槻玄沢は恰も「兼名苑」「唐の僧釈遠年の撰になる名物詞研究書)を披見したかのように記載しているのであろうことが分かってしまうのである。

・「八百比丘尼」以下、ネット上で披見して最も好感の持てたウィキの「人魚」の「八百比丘尼」の項から引いておく(記載は各所に見られるが、思い入れたっぷりであったり、レイ・ラインや薀蓄が如何にもなものが多く、どうもリンクする気になれない)。八百比丘尼(やおびくに、はっぴゃくびくに)は『日本のほとんど全国に分布している伝説。地方により細かな部分は異なるが大筋では以下の通り』。『ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる』(以上の梗概は「八百比丘尼伝承の死生観」小野地健からの引用記載がある)。『八百比丘尼の伝承は日本各地にあるが、中でも岐阜県下呂市馬瀬中切に伝承される八百比丘尼物語は「浦島太郎」と「八百比丘尼」が混ざった話として存在し、全国的に稀である『京都府綾部市と福井県大飯郡おおい町の県境には、この八百比丘尼がこの峠を越えて福井県小浜市に至ったという伝承のある尼来峠という峠がある』。「康富記」には十五世紀中頃に白比丘尼(しろびくに)という二百余歳の白髪の尼(十三世紀生まれの尼)が『が若狭国から上洛し、見世物として料金を取った記述があるが』、「臥雲日件録」では『白比丘尼は八百老尼と同じであると解されている。ただし、この老尼は八百比丘尼伝説を利用した芸能者だったと考えられている。当時から八百尼丘尼の伝説は尼によって布教活動に利用されており、こうした伝説を利用する女性も少なくなかった一例である』とある。

・「小田野(おだの)子」この人物、名が示されていないものの、私は「解体新書」の挿絵を描いたことで知られる小田野直武(おだのなおたけ 寛延二(一七五〇)年~安永九(一七八〇)年)と考えている。以下、ウィキの「小田野直武」から引く(下線やぶちゃん)。『江戸時代中期の画家秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した』。『直武は秋田藩角館に生まれる。角館は、佐竹家の分家である佐竹北家が治める城下町であった。直武の生まれた小田野家は、佐竹北家の家臣であり佐竹本家から見れば陪臣であったとする説もあるが、当時の日記類に従えば、佐竹本家の直臣で佐竹北家の「与下給人」(組下給人とも)であったと見られる』。『幼少より絵を好み、狩野派を学び、また浮世絵風の美人画も描く。やがて絵の才能が認められ、佐竹北家の当主・佐竹義躬、秋田藩主・佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受け』た。安永二(一七七三)年七月、『鉱山の技術指導のために、平賀源内が秋田を訪れ、直武と出会う。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだという。源内は直武に西洋画を教えた。この際、「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという逸話がよく知られているが、これは後代の創作との見方が強い』が、『源内自身は「素人としては上手」という程度の画力であるが、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えた』ことは事実らしい。同年十月、『源内は江戸へ帰』ったが、同年十二月になると直武が『「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓する』こととなった。『そのころ、前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていた。図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。玄白と源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなる』。実は既に安永二(一七七三)年中に、『『解体新書』の予告編である『解体約図』が発行されており、その図は熊谷儀克が描いていた。『約図』と『新書』の図を比べると、やはり直武による『新書』の方が、陰影表現の点で優れている』。『直武は『解体新書』の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いている』。『直武は源内のもとで、西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していく。また、佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行った。この』三名が『中心になった一派が「秋田蘭画」または秋田派と呼ばれることになる』。『のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのころ直武に絵を習ったようである』。しかし、安永八(一七七九)年十一月に源内が『刃傷事件をおこし投獄、直後に直武は突然の遠慮謹慎を申し渡され秋田へ帰る。おそらくは、藩がかかわりあいになるのを恐れての処置と推測されている。ただし、直武の帰藩は刃傷事件の前だとする説もある。失脚の原因については、他に直武が陪臣から直臣に取り立てられたにもかかわらず旧主佐竹義躬を慕う態度が藩主佐竹義敦の怒りに触れたとする新野直吉の説があるが異論もある』。翌年五月に急死、享年未だ三十一歳であった。『死因は不明。病死や暗殺、あるいは政治的陰謀による切腹など諸説ある。角館には死の間際に直武が着ていたとされる血の付いた着物が今も残っている』とある。私は角館に旅した折り、彼の事蹟につき、親しく知って、非常に惹かれた人物であることを告白しておく。

・「平賀鳩溪」平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)の画号の一つ。

・「且つ、添ふるに、其の由る所を以つてして曰く」原文では「添其所由曰」と「以」が脱落していて、うまく読めない。――絵に添えて、その絵を描くこととなった由来につき、記したものがあり、そこに以下の様に書かれてあった――の意。

・「封内」秋田(久保田)藩領内。

・「牡鹿郡」現在の男鹿市。広域でしかも旧八郎潟も含むため、川の特定は不能。

・「陰雨」しとしとと降り続く陰気な雨、または空が曇って雨が降ること。「せんとする時は。則ち、必ず水中に出没す」とあるから前者の意で採る。

・「森子信〔名は春信、號は梅丘。〕」これだけの情報が与えられていながら、ネット検索では掛からない。識者の御教授を乞う。

・「下邑」田舎の村の意であろう。

・「淺蟲」陸奥湾に突出する夏泊半島の基部にある旧陸奥国浅虫。現在の青森県青森市浅虫で温泉で知られる。江戸時代は弘前藩本陣が置かれ、藩主も入浴に来た。

・「寶暦中」一七五一年~一七六四年。

・「野内(のない)の海」青い森鉄道浅虫温泉駅の青森方面の一つ手前に野内駅がある(直線で六・三キロメートル)。その間の青森湾沿岸の呼称であろう。

・「日晡」日暮れ。

・「將に舩を進めて徙らんとす」原文は「徒」、原典は「徒」の(つくり)の上部が「土」でなく「上」である。私は孰れも「徙」の誤字と読んだ。「うつる」(移る)、この場合は、戻る(帰る)の意である。

・「牝人魚」原文は「牡人魚」。原典に従った。「め」の読みも原典のもの。

・「瑩白」つややかな白い色。ここは後で「肌膚も亦、白くして」とあるから、体を覆っている体毛のことを言っているようである。

・「返照」夕陽。

・「皚々」前を受けて「白皚々(はくがいがい)」の意。如何にも明るく白いさま。

・「甲錯」漢方で「肌膚甲錯(きふこうさく)」というと皮膚が潤いを失って、カサカサしている症状を指す。

・「黯色」黒ずんだ色であるが、灰色のことであろう。兩乳・両手、倶に人と異らず。

・「但だ、腰に簑の如き者を帶ぶるに似たり」原文は「帶」の字が二度続けて出るが、原典と校合すると衍字であることが明白である。訂した。

・「百設武唵児(ペセムヱール)」今度は漢字文字列は正しいものの、読みが「イヱフヱル」とあっておかしい。原典で訂した。

・「迷伊児名能」原文は「伊迷児名能」原典で訂した。

・「婦魚」原文は「婦女」。これではおかしい。原典で訂した。以下に出る「婦女」も同じ。

・「此れ、其の始めて之を名づくるの意想或いは異に、或は同きを以つてするが故なり」――この違いはこれ、その新たに発見し認めたところの対象に対して、名を附ける際の、その認識や把握及び理解の仕方が、或いは全く相違し、或いは基本に於いて全く相同でであったりすることに由るものであるに違いない――の意。

・「鑒法(かんはう)」識別・鑑別方法。

・「略其の説有ると雖ども」実はこの「有」は、最初脱字であったものが、「略」の右に訓点を施して小さく記載されてあるものである。

・「又、何に由つてか其の贋を辨ぜんや」――(未だ一人として真正の人魚を確かに見たという者が存在しない以上、)どうして「人魚」として書かれているもの、話されているものが作り話であり、贋物(にせもの)であると主張することが、どうして出来るのであろう、いや、出来ない――玄沢が人魚の実在に対してやや肯定的であることが、この一文からも明らかである。なお、この以下部分、原典は「獨り、我が友浪華(なには)の木世肅(ぼくせいしゆく)曰く、歇伊止武禮児なる者、我其の眞を知らず、然れども世の謂ふ所の……」となっているの短縮しており、じっくり読んだ際の、人魚実在主張の反語表現から、贋物の存在の事実を提示するという矛盾した文脈の違和感の理由が明らかとなるのである。この「木世肅」は知られた稀代のコレクターで博物学好事家であった木村蒹葭堂(けんかどう 元文元年一一(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや:家賃と酒株の貸付を生業とした。)を兼ねた商家の生まれ。)の中国風の字(あざな)である。

・「海鷂魚」軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目 Batoidea に属するエイ類(鰓裂が体の下面に開く種。サメは原則として鰓裂が体側に開く。但し、カスザメ目 Squatiniformes の鰓孔は腹側から側面に開いているので注意)を指す。

・「鳥海鷂魚」「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳では、これを板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ Dasyatis akajei に同定されておられるが、私は微妙に留保したい。暫くは検討を続行する。

・「○淸の屈大均「廣東新語」に曰ふ」以下は原典では「追考」(考証追記文)として附されてある。律儀にも梅園はそれを示すために、わざわざ一字下げを施しているようだ。

・『屈大均「廣東新語」』屈大均(一六三〇年~一六九五年)は明末清初の詩人。強い反清思想を持ち、五言律詩を得意とする典雅な詩風で明の遺民として詩名が高かった。晩年を広東で送ったが、そこで綴った地方風俗誌的記録が、この「広東新語」である(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「火長」船長。以前より何故か、そう呼ぶことを知っていたが(思い込みではない。「東京人形倶楽部」の藤倉氏の現代語訳も「船長」となっている)、今回、幾ら調べても何故、そう呼ぶのか分からなかった(「水(夫)長」では水を呼び込んで船乗りには不吉だからだと私はずっと思い込んでいたのであるが)。識者の御教授を乞う。

・「盧亭」中文サイトでは盛んに「山海經広注」付図の「鯪魚」の以下の図を「盧亭魚人」として掲げている。 

 

Rryougyo
・「新安大魚山」ある中文サイトで大嶼山(だいしょざん)とする記載を見かけた。香港域内にあるランタオ島、香港島の西方に浮かぶ香港最大の島を指す。

・「南亭竹没老萬山」不詳。

・「魚に乘りて往來す」原文は「魚に乘りて往々す」であるが、原典で訂した。

・「※黒(きぐろ)」(「※7」=「犂」-「牛」+「黒」。)音は「リクワウ(リコウ)/レイクワウ(レイコウ)」で、黒ずんだ黄色。通常はやつれた顔の形容語である。

・「能く言語すとも、惟だ、笑ふのみとも」文脈上、意味の通るようにかく訓じた。原典自体に問題があるように思われる。

・「久は之れ、能く衣を著る」ここも意味の通るように独自に訓じた。「久」は年老いた者の意か。ただ、実はこれは梅園が単純に一行分、書き写し落した誤り、と私は踏んでいる。「六物新志」原文を見るとここは、

   *

有得其牝者、與之婬能言語、惟笑而已、久之能著

衣、食五穀、携至大魚山、仍没入水、蓋人魚無害於

人者、人魚長六七尺、體髪牝牡亦人、惟背有短鬣

   *

でこの真ん中の行だけがごっそりないからである。しかも二行目の頭は訓点が附いて「ㇾ衣」、三行目の頭も同じく「ㇾ人」で良く似ていて、うっかり飛ばしそうなのである。

・「六、七尺」百九十~二百一センチメートル。

・「沙汭(さぜい)」入江の砂浜。

・「法を作し、※8厭(じやうえん)す」(「※8」=「衤」+「襄」。)厄除けのための呪(まじな)いを修し、魔を避けるようにする(「※8」の意は不詳であるが、前後から推測してかく訳した)。

・「人首鱉身」「鱉」はスッポン。僧侶然とした坊主頭が首のところからニョッキリと出でた巨大な鼈(スッポン)の図で、本草書ではしばしば見かける。

・「赫色」音なら「カクシヨク(カクショク)」。燃えて輝くような紅い色であるが、赤毛に近い表現であろう。

・「矢の根石」鏃(やじり)。

・「ひこ胭」喉彦(のどびこ/のどひこ)。口蓋垂(こうがいすい)の俗称。所謂、「のどちんこ」であるが、ここは気道の奥まで見えることを言っている。梅園は非常に細かく観察している。

・「檎櫚」これは恐らく「棕櫚」(シュロ)の誤りである。

・「微し」くっきりとした明白な。

・「重唇」唇が内側と外側で二重(ふたえ)のようになっていることを言っているか。図の上唇は確かにそのように見える。

・「脇骨」肋骨が浮き出しているところ。前の方の全身像を見よ。

・「塩邉大工町」江戸或いはごく近在の町名と思われるが不詳。識者の御教授を乞う。

・「辻川氏」不詳。

・「小石川白山下指谷町」旧白山下指ヶ谷町のこと。現在の文京区白山の一・二・四・五丁目。現在の京華通り。

・「赤塚伊勢屋」不詳。

・「熟醫神谷玄雄」尾張屋板江戸切絵図の「駒込邊繪圖」の白山権現の東参道の右側(現在の地下鉄白山駅北の直上に「神谷玄雄」の屋敷を見出せる。

・「天保八〔丁酉。〕年九月廿日」西暦一八三七年十月十九日。

・『○「本草綱目」……』以下は、また「六物新志」からの抜粋である。何か、写し残した感が梅園にはあったのだろうが、何となく不自然である。最後の「日本紀」のパートはダブっている。しかし、ここで彼は正しく「日本書紀」としている点に注意したい。また最後の「今、案ずるに、此の人魚の屬なるべし。本邦、処々、稀に之れ有り〔云々。〕」は少なくとも「六者新志」の当該の記事の末には存在しないのである。この部分、彼は実はこの原典の書名の誤りをそれとなく正し、しかも自身の人魚実在への肯定的意識をさり気なく示そうとしたのではなかったろうか?

・「弘景」六朝時代の医師で科学者でもあった陶弘景(四五六年~五三六年)。これは恐らく彼の「本草綱目集注」での呼称であろう。

・「孩兒魚」「孩兒」とは乳飲み子のこと。前にも出たようにその鳴き声による命名である。

・「舌」/「寸(すん)難指(さしがたし)」舌は視認出来るが、口の中のことなれば、その長さを測定ことは不能であると言うのであろう。

 最後に。大いにお世話になった「東京人形倶楽部」には釜野啓氏の『「ぞ」はZOOLOGISTのゾ4 リュウグウノツカイと人魚(3)本間義治の場合』があり、その『5.「新人魚考」』に、この梅園の描いた『人魚についても本間は「サルの胸郭(梅園の添書きでは鳩尾)に、脂鰭をもつサケの胴尾をついだ跡がはっきり分る」と述べている』とある。

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