日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 石人形
竹中氏は医学校の生徒である。これはドイツの医者たちが教え、すべてドイツ語で教授するので、竹中氏は勿論ドイツ語に通暁しているが、また弟の富岡から英語も教わった。彼は私にいろいろ興味あることを話した。彼が通っている医学校には、今年(一八八二年)一四五七人の学生があり、その内三九七人は予科の生徒、一五九人はドイツ語で医学と外科療法とを習い、八一八人は日本語で医学と外科療法とを学び、八三人が薬学を勉強している。日本人がかくも素速く漢法医学の古いならわしを放棄し、彼等の常識が道理と科学とに立脚したものであると教えるところを採用しつつあるのは実に驚く可きである。人間は信仰に次で医術上の習慣を、それが如何に愚なものであろうとも、墨守するという事実から見て、これは誠に非凡なことといわねばならない。
[やぶちゃん注:「竹中氏」既注であるが再掲する。竹中成憲こと竹中八太郎(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)のこと。「宮岡」恒次郎の一つ上の実兄(弟は宮岡家の養子となった)。明治八(一八七五)年に慶応義塾入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となった。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めた(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)。
「漢法医学」はママ。]
ドクタア・ビゲロウと私とは、吉川氏の家へ招待された。同家は三十代も続いた家で、吉川氏は以前周防の大名であった。彼は眼鏡橋の近くに広大な土地と五軒の家とを持っている。我々が到着すると、大きな門がサッと開かれ、一人の供廻りが我々を礼儀正しく、一定の通路を通じて部屋部屋へ案内し、我々は吉川氏や同家の役員数名に紹介された。次に我々は二階の美麗な部屋へ導かれたが、この部屋は日本の家屋の内部の特徴である、例の細部の簡素と絶対的な清楚とを具えていた。中原氏が通訳の労をとった。部星の隅々には、最も素晴しい黄金漆器や稀古のカケモノがあった。同家の看守者――執事をこう呼んでもいいと思う――は、過去の愉快な精神それ自身であった。互に挨拶を換し、そこで我々が古い刀剣を見たいと希望すると、一つ一つ持ち出されたが、いずれも絹の袋につつまれ、吉川家の紋を金で置いた乗事な漆塗の箱に入っていた。一番最初に見た刀は七百年にもなるので、吉川氏の先祖の一人がある有名な敵の頭をはねたものである。鞘は柄を巻いた紐と同じく革で出来ていた。その一部は年代の為粉末になって了っているが、その粉末がまた紙に包んであった。鞘、柄、鍔その他の部分が、非常に形式的に且つ重々しく畳の上に置かれ、我々は刀身を見よといわれた。他の刀も見せてくれたが、これ程美事な刀身のいくつかは、それ迄見たことがない。
[やぶちゃん注:「吉川」は元周防岩国藩第二代(最後)藩主で華族であった吉川経健(きっかわつねたけ 安政二(一八五五)年~明治四二(一九〇九)年)。ウィキの「吉川経健」によれば、初代藩主吉川経幹(つねまさ)の長男。官位は贈従二位・子爵・正四位駿河守。慶応三(一八六七)年に父の死去により跡を継いだ(但し、主家長州藩主毛利敬親(たかちか/よしちか)の命令でその死去が隠されたため、正式な跡目相続は明治元(一八六八)年十二月)。明治二(一八六九)年一月に叙任し、同年六月には戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世五千石を与えられ、同年中に版籍奉還によって藩知事となった。明治三(一八七〇)年、本家長州藩で脱退兵騒動が起こると、その鎮圧に努めたが、明治四(一八七一)年の廃藩置県によって免官となり、東京へ移った。以後は旧藩士に対し、義済堂を創設し、その自立を助けた。明治一七(一八八四)年に男爵、明治二四(一八九一)年には子爵となった。
「中原氏」原文“Mr. Nakawara”。不詳。本書には以前には出て来ておらず、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも登場しない。識者の御教授を乞う。]
これ等を見て、ドクタアは夢中になった。然し我我両人は、この夢中さを極度に押しかくした。吉川氏が不動の姿勢で膝まずき、すべての侍者達が彼等の威厳を一刻も忘れず、この上も無い謙卑と畏懼とを示す、とぎれとぎれなそして躊躇的な態度で、低音に、節度のある調子で話し合っているのは、興味深く覚えた。
我々は、壁凹の一つにある美しい漆器を見たいと申し出た。それを持って来た侍者は、一回の運動で膝から立ち上り、恭々しくその品に近づき、その前にひざまずき、静に両手でそれを取上げ、同様にして立ち上り、整然たる足取りで我々に近づき、再び膝をついて、その箱を我々が見得る場所に置いた。これ等の侍者は皆位の高い武士であったので、周防には彼等自身の家来を持っている。そこには吉川家の邸宅があり、そこにある見事な古陶器や漆器や絵画は、煉瓦建の防火建築が出来上り次第、東京へ持って来られることになっている。我々は門を入る時、この建物を見た。
図―623
我々が訪問している間に、間を置いては召使いが、半ば延ばした両腕に、美味な食物をのせた低いボン、即ち盆を持って部屋へ入って来た。我々はこの上もなく楽しい数刻を送った。そして古代日本の多くの興味深い趣の一つの、純真な瞥見をしたことを感じた。退出する時我々は、小さな周防のお土産を貰ったが、それは内側に金紙を張った、長さ約四インチの薄い木の箱で、横に細い黒い布が張ってあり、その上にはカワゲラの巣が七つ、糊づけにしてあった(図623)! これ等の、我国の河川で普通に見られる動物は、岩国を流れる川で見出されるのである。外側には桁構(けたがまえ)の不思議な範式を持つ、驚く可き木造の拱橋の絵が書いてあった。
[やぶちゃん注:「四インチ」一〇・一六センチメートル。
「カワゲラの巣」原文は“caddis worm-cases”。“caddis” は「caddis fly」で昆虫綱カワゲラ目 Plecoptera の私の好きな昆虫食の「ざざ虫」として知られるカワゲラではなく、昆虫綱トビケラ目 Trichoptera のトビケラ類を指す。ここに出るのはその中でもニンギョウトビケラ科ニンギョウトビケラ属ニンギョウトビケラ Goera japonica で、ウィキの「ニンギョウトビケラ」によれば、日本全国に広く分布し、成虫の体長は十~十二ミリメートルほどで、触角は黄褐色で太く、体長とほぼ同長である。『幼虫は砂粒で作った巣を持ちその両翼には大きめの砂粒を』三対、『着ける。幼虫は主にきれいな流れに棲むが、湖岸に生息することもある。主に石の表面の付着藻類を食べる』。『蛹化は水中の岩の側面などに固着し行われ、その蛹巣を人形に見立てた民芸品に「石人形」(山口県岩国市)があり、これに因み和名がついた』(この玩具や御守りとしての石人形は、かなり有名で、仏像や七福神などにも見立てられて江戸の頃より岩国錦帯橋の土産として知られているもので、誤解してはいけないのは、モースが生物学者だから特別に選んだわけではない点である)。五月から十一月にかけて『羽化し、灯火に飛来する』とある。何だかんだ言うより何より、「岩国石人形資料館」公式サイトを見られるに若くはなし!
「桁構の不思議な範式を持つ、驚く可き木造の拱橋」既注であるが、「拱橋」は「こうきょう」でアーチ橋のこと。これは無論、錦帯橋の絵である。]
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