北條九代記 卷第七 御臺卒去 付 明石の神子
○御臺卒去 付 明石の神子
將軍家の御臺所、日比、御心地惱み給ひしが、七月二十六日、御産所を點じて、相摸守時房の第に移り給ふ。その夜の子刻より、御産の氣(け)、付かせ給ふ。廷尉(ていゐ)定員(さだかず)、鳴弦(めいげん)を催す。役人十員(ゐん)、参向(さんかう)す。隱婆(おんば)参りて、「御産は平安なるべし、時刻は明日にて候はん」と申す。醫師、陰陽師(おんやうじ)集ひて、「御脈、快らず。御兆(おんうらかた)、思(おもは)しからす」と、申すに依(よつ)て、手を握り、足を空(そら)になし、如何(いかゞ)あらんと、騷ぎ合へり。鎌倉町(まち)の末(すゑ)に、明石(あかし)の神子(みこ)とて、祈(いのり)に感應(かんおう)あり。是を召せとて、召れたり。年の程六十餘(あまり)なる古神子(ふるみこ)にて、御産の事を、問(とは)しめらるゝに、如何(いか)にも平安なる由を申す。さらば、神下(かみおろし)して祈り奉らんとて、幤(へい)、切竝(きりなら)べ、燈明挑(かゝ)げ、梓(あづさ)の弦打(つるうち)鳴(なら)し、目を塞(ふさ)ぎて、唱出(となへい)でたる事を聞くに、「敬(うたまつ)て申す。東の方には東方朔(とうばうさく)、南のかたには南方朔(なんばうさく)、西に西方朔(さいはうさく)、北に北方朔(ほくはうさく)、中方朔(ちうはうさく)、下方朔(げばうさく)、上方朔(じやうはうさく)を驚かし奉る」といひたりけるに、「あら拙(つた)なの事や、東方朔は一人の名にて、太白星(たいはくせい)の化身とこそ云ふなれ、方々に多き方朔(はうさく)かな」とて、相模守、笑壺(ゑつぼ)に入り給ひしかば、座にありける人々、苦々しき中にも可笑しくて、笑はれしに、この神子、恥(はづかし)くや思ひけん。打捨てて歸りにけり。その夜の寅刻、御産はありけれども。死胎(したい)なりき。御臺所は身心惱亂し、後には夢中の如くにして、辰刻計(ばかり)に遂に卒(ことをは)らせ給ひけり。、御年三十二歳とぞ聞えし。力及ばず、送葬(そうさう)營みて、法華堂の山際に埋(うづ)み奉り、中陰の御佛事、其終の日は、五十口(く)の僧を請じて由比浦(ゆひのうら)にして、水陸(すゐろく)の供養をぞ遂げられたる。殿中、何となく打潛(うちひそま)りて、もの淋くぞ覺えける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福二(一二三四)年七月二十六日・二十七日の条に基づくが(今回は最初の竹御所の注に出した)、記事は淡々として簡潔で、明石の神子の話は「吾妻鏡」には全く載らず、この情報元もよく知らない。識者の御教授を乞うものであるが、なんとなくこれ、近世創作になる落とし噺臭い気がするのだが。
「將軍家の御臺所」竹御所(建仁二年(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は源頼家の娘、鞠子(または媄子(よしこ)とも)。母は比企能員の娘若狭局(「尊卑分脈」では木曽義仲の娘とする)。二歳で比企能員の変が起こり、父頼家は後、修善寺で暗殺されるが、建保四(一二一六)年に祖母政子の命によって、十四歳で叔父源実朝の正室信子の猶子となった。参照したウィキの「竹御所」によれば、『他の頼家の子が、幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子死去後、その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として、御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした』とある。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。『夫婦仲は円満であったと伝えられる』。その四年後の天福二(一二三四)年三月に懐妊し、『頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせるが、難産の末、男子を死産、』竹御所自身も、重い妊娠中毒症と思われる少症状で同時に亡くなってしまう(享年三十三。以下に記す「吾妻鏡」では何故か「三十二」とする)。この『竹御所の死により源頼朝の血筋は完全に断絶』することになった。彼女の墳墓は比企一族滅亡の地にしてその菩提を弔う妙本寺にあるが、これについて植田孟縉の「鎌倉攬勝考卷之七」の「妙本寺」の「祖師堂」の条には、本堂の北にある祖師堂(法華堂。本「北條九代記」本文の「法華堂」もここであるので、頼朝の法華堂と誤認されぬように)の由来を記して、
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賴經將軍の御臺所は、能員の外孫ゆへ、大學三郎、老後御免を蒙り鎌倉へ下り、竹の御所の御爲に、比企谷に法華堂を建立し、僧を集めて持經し、法名を日學といひ妙本と號す。後に寺の名とす。
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とある。また、「鎌倉攬勝考卷之八」の「竹乃御所の舊跡」には、
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先年御産所を點じて、營作し給ひし。賴家卿の姫君にして、賴經將軍の御臺所のすみ給ふ殿舍也。此姫君も比企能員が外孫なるゆへ、此所はもと能員が舊跡なるに依て、此所に設給ひしにや。安貞二年正月廿三日、將軍家〔賴經。〕入御、夜に入て還御といふ。此舊跡、今は妙本寺堺内北寄にて、寺の墳墓の地となれり。
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と記す。但し、間違ってはいけないのは、この「竹乃御所の舊跡」の「吾妻鏡」の安貞二(一二二八)年一月の引用記事は、前二項とは異なり、出産時のことではなく、また、「竹御所」も人ではなく、後の法華堂の位置にあったと推定される彼女個人の住居への渡御を記していることである。以下、「吾妻鏡」から引用しておく。
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廿三日丁酉。霽。午尅。將軍家入御竹御所。御狩衣。御乘輿也。越後守。駿河守已下數輩供奉。武州豫被候于儲御所。入夜還御云々。
廿三日丁酉。霽。午の尅、將軍家、竹御所に入御。御狩衣、御乘輿なり。越後守、駿河守已下の數輩、供奉す。武州、豫め儲けの御所に候ぜらる。夜に入りて還御と云々。
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ここで誤読し易いのは植田が冒頭で、この比企ヶ谷にある「竹の御所」を、あたかも懐妊する以前にあらかじめ占って、早々と建てられた産所のように記しているからであるが、これは誤りである。何故なら、竹御所の出産は別な場所、北条時房(以下の「吾妻鏡」の『相州』)の屋敷で天福二(一二三四)年に行われているからである。以下、該当箇所を引く(供奉の名簿は省略した)。
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七月小廿六日癸亥。御臺所令移御産所〔相州第。〕供奉人々數輩。渡御相州亭之後。及子剋有御産氣。廷尉定員催鳴弦役人。十人參進。〔各白直垂。立烏帽子。〕
天福二年七月小廿六日癸亥。御臺所御産所〔相州の第。〕へ移らしむ。供奉の人々數輩。相州が亭へ渡御の後、子の剋に及び御産氣有り。廷尉定員(さだかず)、鳴弦の役人を催す。十人參進す〔
各々、白の直垂、立烏帽子。〕。
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北条時房邸は現在、神奈川県鎌倉市雪ノ下一丁目二七三番に同定されている。若宮大路の西側で鶴ヶ岡八幡宮に近い位置で、妙本寺からは有意に離れている。参考までに以下、「吾妻鏡」の翌日の竹御所の出産・逝去の当該箇所を引いておく。
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七日甲子。寅剋御産。〔兒死而生給。〕御加持辨僧正定豪云々。御産以後御惱乱。辰剋遷化。〔御歳卅二。〕是正治將軍姫君也。
廿七日甲子。寅剋御産。〔兒ちご、死して生れ給ふ。〕御加持、辨僧正定豪と云々。御産以後、御惱乱。辰の剋、遷化す。〔御歳卅二。〕是れ、正治將軍が姫君なり。
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最後にある「正治將軍」とは頼家のこと。幸薄い、しかし忘れ難い、もう一つの鎌倉時代史の中の女人である。
「子刻」午前零時。
「隱婆」産婆。この呼称の元は老女の鬼神・守護神であるオンバサマ信仰(乳母・姥)に基づく多様な「とりあげばば」が濫觴であろう。
「廷尉定員」藤原定員(生没年未詳)。将軍頼経に京都から随従した近臣で、将軍御所を奉行した。後の寛元四(一二四六)年の宮騒動で執権北条時頼の許へ弁明の使者となって参ったが失敗、安達義景へお預けとなって出家させられた。「廷尉」は検非違使の佐 (すけ) 及び尉 (じょう) の唐名。辞書記載では兵庫頭とあるから、これは当時の官位であろう。
「快らず」「よからず」と読む。
「東方朔」前漢の文人東方朔(とうぼう
さく 紀元前一五四年頃~紀元前九三年頃)。字(あざな)は曼倩(まんせん)。武帝の側近として仕えた。奇言奇行で知られ、後世に於いては仙人的存在とされ、西王母の植えた桃の実を盗んで食べた結果、八千年の寿命を得たなどといった伝承が残る。著作に「答客難」「非有先生論」など。
「太白星」太白金星。金星の異称。及び、その運行を司るとされる仙人。
「寅刻」午前四時頃。
「辰刻」午前八時頃。
「中陰」中有(ちゅうう)に同じい。一つの生が経る四つの段階を指す四有(しう)の一つで、人の死後に次の生を受けるまでの間の状態。また、その期間。本邦では四十九日間とする。因みに四有とは、生命の出現する瞬間である生有(しょうう)・生存している状態である本有(ほんぬ)・死ぬ瞬間である死有(しう)と中有である。なお、「吾妻鏡」はこの四十九日のあった九月の部分が欠損している。竹の御所……やはり何か、淋しい……
「水陸の供養」施餓鬼のこと。狭義には、死後、特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指すが、広義には施す対象を三界万霊十方至聖ともする。
「殿中、何となく打潛りて、もの淋くぞ覺えける」……やっぱり……幸薄い……竹の御所……]