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2015/06/15

690000アクセス突破記念 火野葦平 傳令

つい先程、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、690000アクセスを突破した、その記念として何時もの通り、火野葦平の「河童曼荼羅」から記念テクストとして「傳令」を公開する。【2015年6月15日 藪野直史】



   傳令

 

 大して降るとも思はなかつたが、山で雨にあふのは困るので、ともかく傘を持つて出た。以前はちよつと雨が降ると、すぐにぬかるみ、ずるずるととって困る赤土道だつたが、いまは三間幅の登山道がついてゐて、道は樂である。

 高塔山(たかたふやま)は海拔四百尺、丘陵のちよつと氣のきいた程度だが、(同じ丘陵でも私の行つたことのある印緬國境のチン丘陵(ヒル)は最高峰ケネデ・ピイクが八八七二呎)それでも登るにしたがつて、眼下にしだいに獨特な眺望がひらける。西日本の心臟といはれる工業地帶、洞海灣(どうかいわん)を圍繞(ゐねう)して隣接する三つの都市、八幡製鐡をはじめとする多くの工場、會社、林立する煙突、巨大な鋼鐵の昆蟲のやうにならぶ沿岸の炭積設備、棧橋、貯炭と雜貨の山、海上に浮かび、往來する大小の船舶、密林のやうな檣(ほばしら)をつらねる無數の帆船、モーターボート、サンパン、さまざまの音、煙、色、それは煮えたぎる釜にもたとへられる賑やかさであるが、その一帶は一年中晴れることもない煤煙(ばいえん)によつて掩はれてゐる。すこしばかり前までは、これらの風景について語ることはきぴしい法度(はつと)であつた。要塞地帶を守る軍機はこの地方の人人に籍口令(かんこうれい)を布(し)いてゐたのである。いまはなにを語るも自由になつたけれども、この風景を紬敍することがいまは目的ではないので、まづこれ位にするが、要するに屈折した登山道を頂上に近づくにしたがつて、この近代的な機械文明の壯大な展望がしだいに眼下にひらけて來たのだ。雨は降りみ降らずみで、私はなんども傘をさしたり、たたんだりした。

 私の用件といふのは、高塔山の開墾地につくつた馬鈴薯や南瓜(かぼちや)が大部分、昨夜なにものかに盜まれたといふ報せによつて、その檢分といふ、あまり愉快でない用向であつた。年老いた母が曲つた腰をおこすやうにして、さいきんの食糧事情突破のために植ゑつくつたものを、半(なかば)以上も盜んだ者があり、母は、ひどい雨にうたれながら、この年よりのつくつたものを、と涙をためてゐた。尤も、この野荒しは近ごろでは毎夜のことで、數件の盜難をきかぬ日とてなかつた。新聞は毎朝これらの事件を報道してゐた。山の隣組の自警團で、嫌疑者を二人ほど捕へてゐるとのことで、私は母に賴まれて出かけたのだ。

 頂上が近くなるころ、私はさつきからどうも氣になつてゐた妙な音、――足音のやうなものがいつそう氣になりはじめた。たれかが、ちやうど滯れた草履をぴたぴたと鳴らして歩くやうな音がうしろでしたり、前でしたりするのだが、山を登る者は私ひとりで、どこにも人の氣配はなかつた。知らせてくれたのがおそかつたので、私の登山はもうたそがれに近かつたが、まだ、暗くて見わけがたいといふ時刻でもない。耳か氣の迷ひかと思つてみるけれども、終始、私と同じ方向にその足音がきこえ、ときに、なにかばさばさと木の葉でも鳴るやうな音がまじつたり、呼吸か、咳(せき)か、そんな音さへきこえることがあつた。ふつと、魚のやうな生ぐきいにほひが鼻をつくこともあつた。姿は見えないけれども、たれか、――なにかわからないが、私のそばを歩いてゐることはもう疑ふ餘地がなくなつた。さすれば、まことに不氣味な話で、幽靈か、妖怪か、狐か、狸か、なにかさういふ類(たぐひ)のものと私は同行してゐるわけになる。しかしながら、そのとき、私はさらに恐怖心などはおこらず、ははあと日を操つてみて、徴笑をふくんでうなづいたのである。月の二十五日、その日に、河童の傳令が地藏の釘をしらべに行くことは、もとより私の熟知するところであつた。

 案の定、河童は向かふから話しかけて來た。私が河童のまたとなき理解者であり、友人であることは、すべての河童の知るところである。うしろの方にきこえてゐた足音が、私の左側に來て寄りそひながら、

「葦平さん、どちらにお越しですか」

 ペちペちと皿をはじくやうな聲が、足もとからおこつた。足もとでなく、もつと上だつたらうが、それは河童がきはめて小柄だといふことを明らかにした。

「母親にたのまれて野荒しをしらべに行くのだよ。……君は、釘を見に行くのだね」

「さうです。今年で、わたしになつてから、三十八囘目なのですが、……」

「どうなつてゐるかね? 僕もしばらく見ないのだが、……」

「先月は駄目だつたんですが、今月も、また、多分…‥」

  終りの方の聲が落ちたのをきいて、失望の面持を浮かべたことが想像されたが、河童の姿が見えないので、どんな顏をしたかはわからなかつた。それにしても、このとき、もし通る人があつたならば、空間にむかつてひとりごとをいふ私をどう思ふであらうか。おそらく氣がふれたもののやうに見るにちがひない。

「でも、行つてみなければわからないね」

 と、私は慰めるやうに、勇氣をつけた。實はその結果はいはずして知つてゐたのであるが。

「はあ、さうです。行つてみねば、……」

 河童は失意と不安のうらにも、いくらかの希望をまじへた聲をだした。

 話しながら、やがて、私たらは山頂に達した。ここはもと鬱蒼たる森林で、數十本の松が聳えたち、遠望すると、この一部分だけ帽子をかぶつたやうにみえて、よい目標になつてゐたのだが、いまは切りひらかれて公園になり、媒煙と玄海灘の風との兩方に荒された松林は、大半が枯れはてて、あたかも拔け落らた後にまばらに殘つた老人の齒のやうに、いまは數本のひよろ高い松が、それも枯れかかつて立つてゐるにすぎなかつた。ここへ來ると、この町の裏側になる玄海灘は一望の下にあつて、水天につらなる縹渺(へうべう)たる海洋、これに配されたいくつかの島々、うねりまがつて光る白砂の汀(みぎは)、表側の近代的相貌とはまつたく對蹠的な悠久の自然の風丯(ふうぼう)が眺められた。

 この墓地の北端に一基のささやかな堂宇がある。觀音びらきの表格子があいてゐて、たそがれのうすい光のなかにも、赤前垂をかけた石地藏が白く浮いて見えた。

 ひよつくり、私の前に、一匹の河童の姿があらはれた。足もとから聲がきこえたくらゐ小柄な河童で、手には一枚のひろい蓮の葉を持つてゐた。これまで、その蓮の葉を頭にかぶつてゐたので、姿が見えなかつたのである。たそがれの薄あかりに、濡れてゐる靑い河童の肌が光り、背の甲羅は松の幹に似てゐた。頭の皿はにぶく空の色をうつしてゐた。細いくりくりした眼で、堂の方を見てゐたが、ちよつとためらつたのち、ちよこらよこ堂の方へ歩いて行つた。私は河童の用件をよく知つてゐたので、とりたててなにもきかず、お堂のなかへ入つた河童の出て來るのを待つた。好奇心からいへばいつしよに石地藏の釘を見に行くのも興味があつたのであるが、その結果がよくわかつてゐたので、さしひかへたのである。うすぐらい堂のなかに消えた河童は、石地藏のうしろに廻つたので、その姿がわからなくなつた。

 私は前に「石と釘」といふ一章を書いたので、讀んでくれた人は、私が河童と同行してからの以上の部分を、ただちに理解されるであらう。昔、堂丸總學(だうまるそうがく)といふ山伏の法力のために、このあたりの多くの河童が地中に封じこめられた。總學はこの堂に來て、石地藏の前に端坐し、不眠不休不食の難行ののち、願望成就して、石地藏を豆腐のごとく柔かくし、背に一尺ほどの釘をうちこんだのである。このために、山伏も絶命したが、河童もことごとく地中に封じこめられた。二度と陽の目を仰ぐことのできるのは、地藏の背から釘が拔かれたときである。地中の河童たちはいまは暗黑の地底にとぢこめられて、その釘の拔け落ちる日を唯一の生き甲斐として待望してゐる。傳説の掟にしたがつて、月に一同、二十五日に、その釘を見に行く一匹の河童のみが、地上に出ることを許された。さうして、そのとき以來、毎月缺かさず、釘を見るために、河童が登山して來るのである。

 堂のなかから、河童が出て來た。私の思つたとほり、彼の顏は失望の色をたたへてゐて、まだ釘が拔けてゐないことはきいてみるまでもなかつた。かれはなにか呆けたやうな顏になつてあたりを見まはしてゐたが、私の足下にある小さな石にちよこんと腰をおろした。そのしよんぼりとした姿は奇妙にさびしさうで、哀れをもよほさせるものがあつた。

 私もかれと向かひあつて、たふれた杉の幹に腰かけた。すこし濡れてゐて、つめたさがズボンを透して尻にしみた。あたりはだいぶん暗くなつてゐた。

「もう、秋になりますね」

 小柄であるが、河童はべつだん子供であるわけでもなく、さういふしんみりした言葉つきはどこか年よりじみてもきこえた。といつて、ぢぢむさくもなく、河童の年恰好など私にはちよつとわかりかねた。

「秋だね」

 その聲が合圖のやうに、高い杉の梢で、つくつく法師が鳴きはじめた。

 河童は一口呟(つぶや)くやうにいつたきり、眼下の喧騷にうつろな瞳をおとしてゐた。この科學の粹をつくした、機械仕掛に滿たされた近代的な風景を見る傳説の動物の顏には、なにか當惑したやうな色があらはれてゐた。

「どうだね、釘は?」

 私はすこし意地惡な氣をおこしてきいてみた。

「駄目なんです。赤錆がくつついて、來るたびに、ふかく入りこんでゐるやうな氣がするんです」

 しかし、その表情は絶望的ではなくして、いつかはかならず釘の拔け落ちる日があるといふことを期待してゐるやうな強靭なものが感じられた。私はそれはまつたく不可能のやうに思つてゐるのだが、かれはなにか期するところがあるのであらうか。

「妙なもんだね」と私は微笑をふくんで、「僕はこれから、野荒しをしらべに行くんだが、昔の野荒しとよくもかう變つたもんだね。むろん、君だつて知つてゐる筈だが、昔はここは河童が多くてね、土地柄が川筋で氣が荒いもんだから、河童もやつばり殺伐で、よく喧嘩をやつたもんだ。島郷軍と二島(ふたじま)軍とに別れてね、繩張り爭ひなんだ。空をとびまはつて合戰をやつたらしい。ところが、その死んだのが、どろどろの靑苔になつて溶けるので、このあたりの農作物はめちやめちやになつたんだ。百姓が困つたんだ。野荒しにはちがひないが、いまの泥棒とはまつたく趣を異にしてるんだね。僕もまだ生まれぬさきの昔ばなしで、母親からきいたんだが、そのために飢饉になるやうな騷ぎをしたこともあるさうだよ」

 話してゐるうちに私は奇妙なことに氣づいた。私は昔話としてきいただけだが、河童の方は直接自分の先祖に關することで、それで私も「むろん君だつて知つてる筈だが」と斷り書をしたわけなのだ。それなのに、かれは私の話を、まるで未知の世界のことでもきくやうに、好奇にあふれた眼つきになつて、私の顏を見つめはじめたのだ。これは私には意外のことで、ふと氣づくことがあり、なにげない私の話しぶりに、反省をしなくてはならぬと警戒心がわいて來たのである。

「そんなことがあつたんですか」

 河童がさういふにいたつて、私の疑念はもはや明白となつた。かれが知つてゐることを白ばくれてゐるのでないことは、かれの眞劍な表情にまぎれもなかつた。

「堂丸總學といふ山伏のことを知つてゐるかね」

 と私はきいてみた。

「は? なんですつて?」

「堂丸總學、昔ゐた人間の山伏だよ」

「知りません。その人がどうかしたのですか」

 この答は私をおどろかせた。かれの先祖の仇敵の名も知らぬとすれば、かれはいつたいなんのために、月々、地藏の釘を見に來るのか。地中の河童たちは釘の拔ける日を待つて、ふたたびうようよと地上にあらはれようと手ぐすね引いてゐるのだ。その無念さと鬱屈した脾肉(ひにく)の思ひは、當事者ならぬ私にもよくわかる。河童の渇望をみたすとすれば、釘を拔いてやることだが、さすればふたたび昔日の葛藤をとり返して、農作物に被害を及ぼすにちがひない。現在の食糧危機を突破しようと必死になつて、人々が一尺の土をもきりひらいて作つた蔬菜類が、夜な夜な盜難にかかつてゐる今日このごろ、河童がさらに野荒しに荷擔するとすれば、どういふことになるか。私たちは、河童には氣の毒だか、いつまでも地中におとなしくしてゐて貰ひたいのである。しかし、それはわれわれ人間の考へで、河童の方は一日も早く地上に出たく、その任務を帶びて、河童の傳令が毎月釘をしらべに來てゐるわけなのだ。――「その任務を帶びて」と、私はなにげなく書いた。ところが、話をつづけてゆくうちに、この傳令の河童はいよいよ私をおどろかせた。

「その釘が拔けるときがあると思ふかね」

 私の言葉はややひやかしの調子を帶びてゐたであらう。だいたい、私にはこの釘が拔ける日のことなど信じられないし、それを見に來る河童の愚かしさがをかしくもあつたので、自然にさういふ調子が出てしまつたのだ。

「あると思つてゐます」

 と河童はちよつと考へるやうに首をひねつてからいつた。

「いつのことかはわからないね」

「はあ、いつのことかはわかりませんが、……それでも、ひよつとしたら、思ひがけぬことで、近いうちにでも、……」

「思ひがけぬことで?」

「戰爭中、わたしたちはいつもそんな希望を持つてゐました。戰爭がはげしくなつて、北九州が空襲されるやうになると、ひよつとしたら、爆彈のためこの堂がふつとんで、石地藏がこはれてしまひはせんだらうか、さうすれば釘が拔ける、とわたしたちはわくわくしたもんです。わたしはただ釘の拔けることをたしかめるのが一生の仕事ですから、戰爭中は實にはずんでゐました。月の二十五日しか出られないので、空襲のはげしい月など、二十五日が待ち遠しくて、一ヵ月が一年も二年も永く思はれたものです。ところが、一向、爆彈はここに落ちないで、戰爭が終つてしまひました。わたしは、地藏にも釘にも手を觸れることはできませんし、わたしの力で拔くことは思ひもよりません。といつて、人間に、……たとへば、あなたに賴んでも、拔いてはくれないでせう。實は、お土産(みやげ)など持つてすこし賴んでみたこともあるのですが、誰も相手になつてくれないばかりでなく、叱りつけられる始末でした。そこで、やつぱり、いつか、なにか思ひがけぬことで、……」

「まだ、思ひがけぬことがありさうかね」

「雷です。ここへ、雷でも落ちたらと、嵐になることを願つてゐるのです。秋になると、雷も減るし、望みもうすくなるわけで、わたしには涼しい秋もうれしくないのです」

 私はかれのはかない望みが哀れでならなくなつた。

「いつ拔けるかな。早く拔けさせて、君をよろこばしてやりたいもんだが、……もし、拔けたらどうするかね」

「わたしの任務が終るのです。……しかし、實は、拔けた方がよいか、拔けぬ方がよいか、……わたしはちぐはぐな氣持で、因るのですが、……」

 河童はいらいらしたやうに嘴を鳴らした。

「どうして?」

「わたしは、わたしの一家に代々命ぜられて來たといふこの任務に沒頭して、この仕事のために生き甲斐を感じてゐるんです。いつごろからか、わたしは知りませんが、わたしの父も、租父も、曾祖父も、曾々祖父も、とにかく、ずつと昔から、この釘を見ることが、わたしの一家の務めでした。わたしも父から、このことをいひわたされてから、ずつと、……今月で三十八囘、毎月、山に登つて來たのですが、わたしの生命も生活も今はこの釘一本につながつてゐるんです。それなのに、もし、釘が拔けてしまつたら、……わたしの仕事が終つたら、……わたしはどうなるでせうか。毎月、二十五日を待つて、この山に登る。拔けてゐるかゐないか、その想像と期待のなんともいへぬ快い魅力、さうして拔けてないことを知つても、失望のなかに、またいつか拔ける日が來る、また來月も來れる、さういふ希望の魅惑、これはわたしにとつて、生命と情熱の全部なのです。それが、もし、釘が授けてしまつたら、……さうなつたら、……」

 河童は沈痛な呟くやうな口調になつた。あたりは暗くなつて來て、洞海灣の方も、玄海灘の方も、蒼茫と暮色にとざされて來た。空は暗澹としてゐたが、地上の街々には明るい燈が星のやうにともりはじめた。つくつく法師ももう鳴かず、風のためにかすかに松が鳴つてゐた。この河童の心境は私に傳説の眞實への疑問をさらに深くせしめた。

「拔けなくても、拔けても、君は困るらしいが、……拔けたときには、どうするんだね」

「どうつて?」

「もし、今日、拔けてゐたら、……」

「衆月から來ないだけです」

「拔けてゐたら、どうなるんだ」

「どうつて?」

 私は質問をうちきつた。河童は傳説の歷史に對して、かくも深い忘却におちいるものかと、私は索寞(さくばく)とした思ひに驅られた。私の知つてゐることすら、かれは知らず、私がかれに河童のなすべきことを教へなくてはならぬとは、いかなる皮肉であらうか。この河童はただ釘を見るといふ一事に沒頭して、その傳説の緣由(えんゆ)も歸着もさらに念頭にないのである。もし、釘が拔けてゐたならば、それをただちに仲間に知らせる。仲間はそれによつてふたたび地上にあらはれることができるといふことになるわけだが、そのやうな最初の約束と目的などは、いつか、まつたく忘れられてしまつたらしい。よつて來るところも、よつてもたらされるところとも無關係で、その中間の行動のみに、一切の眞摯なる情熱がかけられてゐるのである。たとへば、釘が拔けてゐるのを發見したとしても、かれは自分の任務の終つたことを知り、それにともなふ滿足と寂寥(せきれう)との感じを持つであらうが、それを仲間へ知らせることはしないであらう。したがつて、仲間は地上に出ることができない。嘗ての壯大にして悲痛な祈禱の傳説は、いま、傳令の河童一の喜怒哀樂に集約されてゐるのであつた。

 私がなにも河童に教へてやることはないのである。無數の河童がふたたび地上にうようよと出て來ることを、私が應援する手もあるまい。

「まあ、あまり力を落さんで、來月もやつてきたまへ」

 さういつて、私は立ちあがつた。

「さうします」

 河童も腰をあげた。

「葦平さん」

「なんだね」

「これ、あげませうか」

 ひろい蓮の葉を、河童は私に示した。

「便利なものですよ」

 さういつて、河童がそれを頭にのせると、ふつとその姿が見えなくなつた。前にきいたばさばさといふ音はこの蓮の葉の鳴る音であつた。河童の消えたさきに、沖の燈臺の灯が光つた。河童はまた姿をあらはした。

「ありがたう、ほんとにくれるかね」

「あげませう。わたしはまだいくつも持つてゐますから」

「そのかはり、打を拔いてといふのぢやあるまいね」

「そんなことはいひませんよ」

 ペこんと頭を下げると、もう、夕闇のなかに、河童の姿は消えてゐた。生ぐさいにほひが消え、ペたぺたと足音だけが遠ざかつて行つた。私の手に手ざはりのやはらかな一枚の蓮の葉がのこつた。

(この變幻(へんげん)不可思議な蓮の葉を、どんな風に私が使つたか、惡用したか、善用したか、それはまた別の場所で述べたい。)

 

[やぶちゃん注:「三間幅」約五メートル五十センチ幅。

「高塔山」本話の中でも語られる「石と釘」で既注であるが、再掲する。現在の修多羅の北に位置する、洞海湾を見下ろす標高一二四メートルの山。中世、北遠賀郡を領有していた麻生氏家臣大庭隠岐守種景の居城跡で、山麓にある安養寺には作者火野葦平の墓がある。なお、この山は昭和六(一九三一)年七月に久留米工兵第十八大隊が山麓から頂上までの登山道路を三日で開鑿した。翌昭和七(一九三二)年二月の上海事変の際、上海郊外で一等兵三名が破壊筒を抱いて敵陣を破壊するために自爆し、所謂『肉弾三勇士』と呼ばれる『英霊』となったが、彼等が所属していた部隊こそ、この工兵第十八大隊であった(北家登巳氏のHP「北九州のあれこれ」「高塔山公園」の記事を参照した)。現在は公園となっており、この本話に示される仏像が「河童封じの地蔵」として現存し、夏祭りでは盛大なカッパ祭りがおこなわれているという。但し、正確には地蔵菩薩ではなく、虚空蔵菩薩である。参照させて頂いた『大雪の兄』氏の「若松うそうそ」「カッパ封じ地蔵」にある写真(釘も見られる)を「石と釘」の注に掲げてあるので、是非、本話の映像をリアルにするためにご覧戴きたい。

「海拔四百尺」一二一・一二メートル。

「印緬國境」インドとビルマ(ミャンマー)の国境。インパール作戦(日本軍作戦名「ウ号作戦」)とは、昭和一九(一九四四)年三月に日本陸軍によって開始され、七月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦の舞台となった。補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。葦平は三十七の時、このインパール作戦に従軍している。

「チン丘陵(ヒル)」インパール作戦の入口であると同時に、敗走する日本兵が通ったミャンマー西部チン州の高原地帯。

「最高峰ケネデ・ピイク」ミャンマー観光情報サイト内の「Column」にある毛塚保夫氏の「慰霊の手記」(抜粋であるが、手塚氏の兄一之進氏はインパール作戦で命を落とされている。必読)の中に、「ケネディー山」と出る。ケネディ・ピーク。チン州の中央やや北寄りで標高二七〇三メートル。

「八八七二呎」二七〇三・八メートル。非常に正確。

「サンパン」元来は中国南部や東南アジアで使用される平底のテント型の屋根を持った木造船の一種を指す。広東語の「舢舨」、英語で「Sampan」。ここは小型の通船を指していよう。

「對蹠的」「たいしよてき(たいしょてき)」対照的に同じい。全く正反対であるさま。

「風丯(ふうぼう)」「丯」(音「カイ」:草が生えて散乱するさま。)は誤用で、本来は「丰」(音「ホウ・フウ・(慣用)ボウ)が正しく、これならば姿・形・風采の意がある。

「その蓮の葉を頭にかぶつてゐたので、姿が見えなかつたのである」河童の隠れ蓑ならぬ隠れ蓮葉(はすっぱ)である。これは私は今日まで知らなかった。そもそもが通常、河童は肌が緑色で、自然の中で保護色の効果で紛れ込むことは知っていたが、蓮の葉というのは、河童葦平の「河童曼荼羅」でも今まで出てきていないアイテム、博物誌である。

「堂丸總學」「石と釘」に出る。モデルはありそうだが、実在は疑われる。ネットでもこの河童封じの記載しか見当たらない。

「島郷」現在の福岡県北九州市若松区鴨生田地区の旧地名と思われる。洞海湾最深部を北に入る河川の中程に相当する。

「二島」前の注の同河川の下流域(数百メートル)に「二島」の地名が見出せる。旧島郷とは隣接していたと思われ、河川の下流域と中流域の河童の極直近での争闘であったことが窺える。

「この變幻(へんげん)不可思議な蓮の葉を、どんな風に私が使つたか、惡用したか、善用したか、それはまた別の場所で述べたい」底本では次の作品がまさに「蓮の葉」である。]

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