日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 武術の演技を見る
図―614
近所で一軒家が建ちつつあるので、私はその仕事のあらゆる細部を見ることが出来る。インドへ行く途中の、ボストンの建築家グリノウ氏は私に、日本の横材を枘刺接(ほぞつぎ)する方法は、奇妙ではあるが、別に米国の大工のやる方法より優れていはしないといった。確かに日本の枘刺接法の設計は、非常にこみ入っている。グリノウ氏は、日本人が手斧を使用する方法に感心し、このような仕事がもっと米国で行われるといいのだといっていた。日本の道具は我国のものより鋭利であるらしく、鉋(かんな)をかけた板の面は手でさわると、気持のいい程ツルツルしている。ドクタア・ビゲロウは日本の鋸の歯が、柄の方では小さく、先端に近づくにつれて大きいという事実に、私の注意心を引いた【*】。屋根瓦は暗色のねばねばする泥土の中に埋め込むが、この泥はこねて球にまるめて、屋根に達する迄、一人から一人へと手渡す(図614)。
* 家屋建築の詳細は『日本の家庭』に書いた。
[やぶちゃん注:「グリノウ氏」“Mr. Greenough”。不詳。発音は現行では「グリーノー」「グリノー」「グリーノウ」と音写する。近代、ボストン出身の著名な彫刻家・美術家にHoratio Greenough(一八〇五年 ~一八五二年)という人物がいるが、彼の後代の縁者か?]
図―615
図―616
図―617
図―618
数日前、ドクタア・ビゲロウに沢山の刀と鍔(つば)とを買って貰った日本人の刀剣商人が、彼の友人達を屋敷に連れて来て、日本式の剣術を見せた。彼は有名な剣術家や相撲取数名と一緒に来た。彼等が家の前の芝生の上に集った光景は、興味があった。黒色の刀剣や漢字で装飾した、長い白地の幕を日除けとしてかけ、斜陽をふせいだ(図615)。漢字と刀の絵(図616。漢字は幕の裏から見たので道になっている)とは、繰返して幕上に現れる。彼等は竹刀、槍、刀剣、及び「鎖鎌」といわれる武器で試合をした。この武器は封建時代に使用されたもので、その扱い方は非常に興味があった。「ジュージツ」と称する相撲の一種変った種類も行われたが、これは争闘に際し、武器無くして対手を殺すことを教えろものである。相撲のこの方法にあっては、弱い方の人が、強い人の力を如何に利用す可きかが教えられる。剣術者の動作が如何にも素速いので、その写生をすることは出来なかったが、彼等の武器の輪郭は若干写した(図617)。剣術者は面を地面に置いて相対してうずくまる。名前を呼び上げられると彼等拝面をしばりつけ(図618)、この上もなく地獄的な叫び声をあげながら、お互に勢よく撲りつけ合う。これ等の男達は、外国人に剣術の各種の型を見せる可く、特に員数へ来たので、無代(ただ)で働いたのである。
[やぶちゃん注:図616の左側の反転字は「劍」という字である。また、図617の左の武具は鎖鎌(先に短い槍を装着したタイプのようにも見える)であるが、右の武具は鎖鎌と同じ鎖と分銅を附けた、沖繩古武道の武具の一つであるトンファー(トイファー又は旋棍とも呼ぶ)様のものである。なお、本図は底本では鎖鎌を上して横画像で入っているが、原典通り、縦に配した。
「ジュージツ」原文“jujitsu”。柔術。ウィキの「柔道」によれば、古くは十二世紀以降の『武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。柔術は幕末までに百を越える流派が生まれていたとされる』。『明治維新以降、柔術の練習者が減少していた中、官立東京開成学校(のちの東京大学)を出て学習院講師になったばかりだった嘉納治五郎が、当身技(真之当身)を中心として関節技や絞め技といった捕手術の体系を編む一方で乱捕技としての投げ技も持つ天神真楊流柔術や、投げ技を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた起倒流柔術の技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け』、明治一五(一八八二)年、『東京府下谷にある永昌寺という寺の』書院十二畳を『道場代わりとして「講道館」を創設した』。『もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例』『などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない』。『嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが、当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた』とある。他の実に多彩な武具も同時に演技しているから、この柔術家は、まさにこの明治十五年に生まれた講道館系の者ではあるまい。]
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