譚海 卷之一 江戸兩國ばし幷角田川木母寺の事
江戸兩國ばし幷角田川木母寺の事
○今の兩國橋、往古は少し川上にかゝりたるが、度々洪水に落(おち)て難儀せしに、川村隨軒今の所を見たて、言上(ごんじやう)してかけ替(かへ)しより、洪水の憂(うれひ)なしといへり。又隅田川木母寺(もくぼじ)に御成の御座所有(あり)しが、久しく破損して修造せられず。住持度々願けれども其事なく、竟(つひ)に取(とり)はらはれたり。同時に向ひの中島にあづまやの有たるも、取はらはれたり。明和七年春の事なり。
[やぶちゃん注:「角田川」「すみだがは」で隅田川のこと。承和二(八三五)年の太政官符に「住田河」と出、古くは「宮戸川」「墨田川」などとも呼称・表記されていた。江戸時代、公的には荒川の分水系として「荒川」であったが、実質的には「隅田川」が親しまれて、そう呼称されるようになった。一方、江戸っ子に親称された「大川」は吾妻橋周辺より下流の狭義の呼称である。隅田川の名の由来については、亜寳麿裕寳氏のサイト「浅草の賑わい」の「隅田川の由来」(台東区編纂「道路・橋梁考」という書を元にしたもの(引用?)とある)にアイヌ語説と武蔵風土記の説他が紹介されている(一部の文字を補正した)。『アイヌ語説は、洗い去る・溺れる・荒波などを意味するアイヌ語の”スミ”から起こったとするもので、武蔵風土記の説は同書が述べている次のような考え方である。「隅田川と称するは、思ふに葛飾郡に墨田村という地ありて、そこに渡場ある故に墨田川と称したるを通して此川の名とはなりしなるべし。」』。『アイヌ語説、風土記説のいずれをとるべきかはなんともいえない。武蔵風土記の説を引用したと思われる東京府志料は「隅田村ハ隅田川ノ名ニ由テ起ル所ナレハ最モ古キ村落ナリトイヘリ又一説ニ隅田川ノ名ハ此村ノ名ニヨツテ起ルトモ云リ」と述べて、武蔵風土記の説は一説で村名より墨田川のほうが古くからあった名であるとみなしている。どちらが古い名であったかを知ることは不可能であるとしても、東京府志料のいうような考察ができる以上、武蔵風土記の説をもって隅田川命名由来の定説とするわけにはゆかない。ここに挙げた二説以外にも、隅田川の名についての考証はあると思う。しかし江戸砂子の記事を管見した程度で、他の説をみいだすことはできなかった。そこで、次のような考察を試みたので紹介しよう』。寛政年間(一六二四~一六四三)、『墨田川の水を汲んで酒を造り、隅田川諸白と称した。これは浅草寺志にみえる話しで、(江戸塵拾によると隅田川諸白は本所中の郷にある井戸水を使って製したという。)その所伝からすれば、酒を造ったというのであるから隅田川の水は澄んでいたことを物語っている。江戸時代に澄んだ川であったのなら、それ以前はより澄んでいたに違いない、澄んだ綺麗な川であったことから推察して、すんだ川といっていたのが転訛してすみだ川になったのではないだろうか、と考えるのである』。『他に古来須田川の称があったといわれているので、すだ川がすみだ川になったという考察、或いは大和國と駿河國に角田川というのがあり、まつち山と称する丘がその河畔にあって地形が似ているところから、墨田川と待乳山の名を付けるようになったというみかたもある。前者が江戸砂子のいう説である』。以下、隅田川の書記法・異称・別名が仔細に語られており、資料として興味深い。
「木母寺」今は墨田区堤通にある天台宗梅柳山墨田院木母寺。貞元元(九七六)年、忠円阿闍梨創建と伝えられ、能「隅田川」の梅若山王権現の舞台であることから梅若寺と古称する古刹である。古くは梅若寺、隅田院とも称した。天正一八(一五九〇)年、家康から梅柳山の命名を得、慶長一二(一六〇七)年に前関白近衛信尹が参詣の折り、柳の枝を折って「梅」の字を分け、「木母寺」として以来、寺号としたと伝えられる。明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若神社とされていたが、明治二一(一八八九)年に光円僧正の尽力により仏寺として再興された。かつては堤通りに面して鐘渕中学校と隣り合って建っていたが、東京都防災拠点建設事業によって、昭和五一(一九七六)年、梅若塚・碑林ともに隅田川寄りに約百六十メートル移転し、現況に至る。旧跡地は榎本武揚像のみを残して区立梅若公園となっている(以上はたびたびお世話になっている松長哲聖氏の「猫のあしあと」の木母寺の頁に拠った。こちらは詳細年表・由緒その他の解説が詳しく、地図も完備した江戸探究の友として必見のサイトである。
「今の兩國橋、往古は少し川上にかゝりたるが」ウィキの「両国橋」によれば、創架年には万治二(一六五九)年説と寛文元(一六六一)年説があるとする。千住大橋に続いて隅田川に二番目に架橋された橋で、長さ九十四間(約二百メートル)、幅四間(八メートル)、名称は当初「大橋」と名付けられていたという。『しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と』、二国に『またがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ』、元禄六(一六九三)年に『新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』(下線やぶちゃん。ということは古えは現在の領国橋よりもダブルで下流であったことになる)。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった』が、明暦三(一六五七)年の明暦の大火の際、『橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ』て、十万人に『及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』とある。
「川村隨軒」(「隨」は「瑞」の誤字。「賢」は「軒」とも称した模様)河村瑞賢(元和三(一六一七)年或いは元和四(一六一八)年?~元禄一二(一六九九)年)は江戸初期の政商で海運・土木事業家。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。以下、ウィキの「河村瑞賢」によれば、伊勢度会郡東宮村(とうぐうむら:現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれるが、先祖は村上源氏で北畠氏の家来筋であると自称していたという。十三で江戸に出、幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やした後、材木屋を始め、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間に老中で相模小田原藩主稲葉正則と接触、以降、幕府の公共事業に深く関わっていくこととなった。『それまで幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。幕命により瑞賢は』、寛文一一(一六七一)年に、『阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回し伊豆半島の下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米し、新たな航路である外海江戸廻りの東廻り航路を開いた。さらに翌年には、奥羽山脈を隔てた最上川の水運を利用し、河口の酒田で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島の下田に至り、西南風を待って江戸に廻米し、西廻海運を確立した。また、途中の寄港地を定めて入港税免除や水先案内船の設置も行うことで海運の発展に尽力した』。『航路開拓と同じ頃、河口付近の港では上流から流入する土砂によりしばしば港が閉塞する問題がおきていたが、瑞賢は上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべきとの認識を得ていたといわれる。こうした考え』方が、天和三(一六八三)年、若年寄稲葉正休(まさやす)が淀川の視察に訪れた際、『瑞賢が案内役を務めたことから徐々に幕府上層部に伝わることになり』、翌貞享元(一六八四)年には『淀川河口の治水工事を任されることとなる。こうした中、安治川を開くほか、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛されていた』。晩年、『瑞賢は霊岸島に居を構え同郷の松尾芭蕉とも交流があった。またこの間に、霊岸島に新たな川を開削している。この際に使われた測量の方法などは瑞賢が得た知識と数学的才能によるものだと、長内國俊は指摘している』。彼の墓は鎌倉の建長寺の半僧坊に登る途中にある。
「向ひの中島」恐らく、現在の隅田川が大きく西へ蛇行する左岸、現在の南千住八丁目の汐入公園附近が大きな中州となっていたものと思われる。
「明和七年の春」一七七〇年。慶長八
(一六〇三) 年二月の江戸幕府開府から実に百六十七年目の春である(「譚海」の起筆は安永五(一七七七)年であるから、都合百七十四年となる)。しみじみと眼を細めて急速に変貌する景観を眺めている津村淙庵の感慨が私にはよく分かる。]
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