譚海 卷之一 下總國相馬にて元日の事
下總國相馬にて元日の事
○下野相馬にては、元日より上下ともに潔齋精進にて、土民も容易に門を出(いづ)る事なし。儆戒(けいかい)甚しき事也。其國に平將軍將門の靈を祀る廟有(あり)。その神馬いづくともなく駈出(かけいだ)す事あり。それを期にして潔齋を止め吉禮に復し、正月の儀式を始むる事なり。神馬駈出せばそのまゝ江戸屋敷へも飛脚を以て注進する也。飛脚達する日より江戸相馬家にても始(はじめ)て正月の禮を行ふ事なりとぞ。
[やぶちゃん注:「下野」底本には「野」右に『(總)』と編者による訂正注がある。茨城県及び千葉県(下総国)にあった旧郡で、現在の茨城県の北相馬郡利根町と守谷市、及び取手市・常総市・つくばみらい市の一部、千葉県の我孫子市、及び柏市の一部に相当する。参照したウィキの「相馬郡(下総国)」によれば、『平安時代末期に相馬郡の荘園の大部分が伊勢神宮に寄進されたため相馬御厨として文献に登場する。相馬御厨の税収管理権は千葉氏にあったようであるが、これを巡って上総氏などと争っている。千葉常胤の代に千葉氏による下総国の支配権が確定した後は二男相馬師常に相馬御厨が相続され、以降師常の子孫が相馬氏を名乗った』。『なお、現在福島県に存在する相馬郡は、中世下総国相馬郡より起こった千葉氏の一族相馬氏に由来するもので』、相馬氏第二代の『相馬義胤が軍功によって陸奥国行方』(なめかた)『郡(現在の福島県南相馬市および飯舘村)に地頭職を得』、第十一代の『相馬重胤が行方郡に土着したとされる。従って現在の茨城県北相馬郡、千葉県東葛飾郡と福島県相馬郡の歴史的な関係は深く、現在に至るまで交流が続いている』とある。底本の竹内氏の注によると、『平将門の本拠は下野国の猿島(茨城県)で、相馬小二郎を名告り、今も北相馬の郡名を残している。しかし近世の相馬家はその末流ながら、奥州相馬(福島県)の藩主であった』とある。以下の「相馬氏」の注も見られたい。
「儆戒」警戒する、用心する。「儆」も「いましめる」の意の畳語。
「江戸相馬家」ウィキの「相馬氏」の「下総相馬氏」に、『下総相馬氏(流山相馬氏)は、鎌倉時代後期に内紛によって衰退したものの、室町時代には古河公方に従属して守谷城を本拠地として再興した。だが戦国時代には北条氏に付くかどうかで分裂し、反北条派である庶流の相馬治胤が家督を奪った。治胤は北条氏に降伏後、天正期には小田原征伐で北条氏に属したために改易されたが、子の秀胤は徳川家康に内応したことで治胤旧領の』五千石を与えられた。『秀胤は文禄の役に際して肥前国名護屋城で病死し、代わって弟の胤信に』三千石が『与えられたが、胤信の跡を継いだ盛胤の時に無嗣断絶となっている。盛胤の死後、相馬氏が名門であることから特別に末弟の政胤が徳川秀忠に召し出され、旗本として相馬郡内』千石で家名再興が許された。『一族には一橋徳川家に出仕した者もある』。『相馬永胤を出した彦根相馬氏も、この流山相馬氏の当主である相馬胤広(胤晴の祖父)の血を引き、相馬胤利(胤直(胤広の子、胤貞の弟)の孫)と治胤(妻が胤晴の娘)の娘との間に生まれた子の血統とされる』とある(下線やぶちゃん)。察するところ、先の竹内氏の注はこの「江戸相馬家」というのを、陸奥国の標葉郡から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部)を治めた相馬中村藩(そうまなかむらはん)当主である陸奥相馬家ととっているように思われる(或いはそう読めてしまう)。しかし、この場合、明らかに下総国相馬である以上、この「相馬氏」というのはまずは、旗本下総相馬氏(当然、その血を引くとする彦根相馬氏もこの風習に従った可能性がある)指していると読むのが正しいのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

