甲子夜話卷之一 41 御譜代御役人方、傘袋の事
41 御譜代御役人方、傘袋の事
寛政中か、秋元但馬守〔永朝〕の宅を訪たりしとき、話しに、御譜代の大名、御役人の傘を袋に付ざることは、神祖の上意有りしことなり。然を今時重役方にもこの御趣意を知らざるにや、帝鑑衆其外も、各家風の行裝を其まゝにせらるゝは、本を忘ざるとも云べき歟なれど、御趣意を守るとは云がたしと、申されし。是を以て思へば、吾天祥君〔肥前守、諱鎭信〕、雄香君〔壹岐守、諱棟〕の行裝に、傘は袋なかりしと聞く。これそのとき御譜代の列に加へられ、御譜代の勤る御役をも蒙られし故なるべし。祖父君〔諱誠信〕の頃迄も、この如くなりしが、其後は今の如く袋には入られし也。これは家の先規に復すると云事なるべし。
■やぶちゃんの呟き
「傘袋」大名が小休止するときに、日陰用に使った傘である巨大な立傘を使用しない折りに入れる袋のことか。
「寛政」一七八九年から一八〇一年。
「秋元但馬守〔永朝〕」(つねとも 元文三(一七三八)年~文化七(一八一〇)年)出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代当主。ウィキの「秋元永朝」によれば、元文三(一七三八)年に五千石を領した大身旗本上田義当(よしまさ)の四男として生まれた。『義当は初代藩主秋元凉朝』(すけとも)『の実兄であった。凉朝が初め養子としていた逵朝が早世したため』、宝暦一〇(一七六〇)年二月に凉朝の養子となり、同年七月に従五位下、摂津守に叙位任官、明和五(一七六八)年に凉朝が隠居したため、家督を継いでいる。安永三(一七七四)年十二月に奏者番、安永九(一七八〇)年に但馬守に遷任、天明八(一七八八)年七月に奏者番を辞任しているから、本話当時は奏者番であった。因みに、ウィキの「山形藩」によれば、『もとは在地の戦国大名として山形を支配した最上家が、幕藩体制下では外様大名として』五十七万石の大藩として治めたものの、『改易され、徳川家譜代の鳥居家や保科家(御家門会津松平家の前身)の時代になると、東北地方における徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は』二十万石前後の中藩になっていた。ところが、『保科家が会津藩に移封されて幕藩体制が確立すると、山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が』十二家にわたって『頻繁に入れ替わった。しかもこの時期の所領は』六万石、多くても十万石程度の小藩となっており、『藩主も譜代大名のため在国より江戸滞在が長期化し、所領も関東に飛び地が存在していたことから藩政は不安定だった』という複雑な経緯を辿っていることが分かる。なお、「耳嚢 巻之十 男谷檢校器量の事」では一種のトリック・スターとして同人が出、時計の蒐集家であったことが語られてある(ウィキによれば、なかなかの好事家で『永朝は将棋を愛好し、八世名人九代大橋宗桂の弟子に名を連ねた』とある)。
「神祖」家康。
「帝鑑衆」「ていかんしゆう」。江戸城本丸表屋敷内の白書院下段の間の、東に連なってあった「帝鑑(ていかん)の間」のこと(中庭を挟んで「松の廊下」と相い対する位置)。ウィキの「帝鑑の間」によれば、『天井は格天井であり、襖には歴代将軍の亀鑑となるべき唐代の帝王をえがく(これが室名のおこるゆえんである)』。『将軍が白書院に出て諸侯を引見するさい、この間に詰める諸侯を「帝鑑間詰」という。越前庶流』、十万石以上の『諸大名および交代寄合その他がこれに属する』。慶応二(一八六六)年の武鑑によれば、家門四家・譜代六十家・合わせて六十四家が挙げられており、石高は一万石ないし十万石余、そのうち五万石及びそれ以上のものが二十八家、その他は五万石以下である。無城のものが十家ある、とある。
「各家風の行裝を其まゝにせらるゝは、本を忘ざるとも云べき歟なれど、御趣意を守るとは云がたし」――各々方、それぞれの家格相応に行列の装いに就いて、古くからとり決められた儀式上通り、ちゃんとなさっておられるところを見受けまするに、これ、決して本来の礼式をお忘れになっておらるるというわけではなかろうとは存ずれど、(傘袋の件に就いては)神君家康公の御趣意を守っておらるるとは、これ、何とも言い難きことで御座る。――
「吾」静山。彼は肥前平戸藩第九代藩主。
「天祥君〔肥前守、諱鎭信〕」平戸藩第四代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ 元和八(一六二二)年~元禄一六(一七〇三)年)幼名は重信、通称は源三郎、号は天祥庵・徳祐・円恵など。隠居してからは曽祖父で初代藩主と同じ「鎮信」と改めているので注意されたい。島原の乱や平戸貿易の停止など襲封当初から難問に直面したが、藩政機構の整備・藩財政の強化に努めた。また、茶人としても知られ、片桐石州に学び、後に鎮信流といわれる流派の基を開いた(主に思文閣「美術人名辞典」に拠った)。後に出る静山の祖父誠信(さねのぶ)の祖父。
「雄香君〔壹岐守、諱棟〕」平戸藩第五代藩主松浦棟(たかし 正保三(一六四六)年~正徳三(一七一三)年)。静山の曽祖父であった第六代藩主篤信の兄。
「これそのとき御譜代の列に加へられ、御譜代の勤る御役をも蒙られし故なるべし」――(譜代大名の参勤交代に於ける行装に於いて傘は袋に入れず、まるのまま出しておくという式法によって、この大名が譜代であることを意味する厳然たる印となり)、これこそが、神君家康公より当時の我ら先祖が畏れ多くも御譜代の大名の列に加えられ、そうした御譜代の者が務むるところの厳粛なる勤めをも委ねられ、かくも相応の御待遇をお受け致いて参ったことを示す、大事な証しと知らねばならぬのあろう。――
「祖父君〔諱誠信〕」平戸藩の第八代藩主松浦誠信(正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)。
「其後は今の如く袋には入られし也。これは家の先規に復すると云事なるべし」現在、静山は傘を袋に入れているというのである。平戸藩は外様であるから、まさに自分は本来のあるべき正しき式法に復したということになろうというものじゃ、と謂うのであろう。ここで静山、最後にシニカルにニヤっと笑っている気が私はする。