「今昔物語集」卷第三十一 越後國被打寄小船語第十八
[やぶちゃん注:前話に続く異物漂着譚で、筆者が意識的に併記したことは明白である。本話は池上氏の岩波文庫版には所収しないので、小学館昭和五四(一九七九)年刊の馬淵和夫・国東文麿・今野達校注「日本古典文学全集 今昔物語集四」の原文を底本とし、片仮名を平仮名に直し、恣意的に漢字を正字化して示した。ルビは私が当初の凡例に準じて取捨選択した(底本のルビは歴史的仮名遣)。]
越後國に打ち寄せらるる小船の語
第十八
今昔、源の行任(ゆきたふ)の朝臣と云ふ人の、越後の守(かみ)にて其の國に有(あり)ける時に、□□□の郡(こほり)に有ける濱に、小船打寄せられたりけり。廣さ二尺五寸、深さ二寸、長さ一丈許(ばかり)なり。
人、此れを見て、「此(こ)は何也(いかなり)ける物ぞ。戲れに人などの造(つくり)て海に投入(なげいれ)たりけるか」と思(おもひ)て、吉(よ)く見れば、其の船の鉉(はた)、一尺許を迫(はさま)にて、梶(かぢ)の跡有り。其の跡、馴杭(なれつぶれ)たる事限無し。然れば、見る人、「現(あらは)に人の乘(のり)たりける船也けり」と見て、「何也(いかなり)ける少人(ちさきひと)の乘たりける船にか有らむ」と思て、奇異(あさまし)がる事限無し。「漕(こぐ)らむ時には蜈蚣(むかで)の手の樣(やう)にこそは有らめ。世に珍(めづらし)き物也(なり)」と云(いひ)て、館(たち)に持行(もちゆき)たりければ、守も此(これ)を見て、極(いみじ)く奇異(あさまし)がりけり。
長(おとな)なる者の云けるは、「前々(さきざき)、此(かか)る小船寄る時有(あり)」となむ云ければ、然(しか)れば、其の船に乘る許(ばかり)の人の有るにこそは。此(ここ)より北に有る世界なるべし。此(か)く越後の國に度々(どど)寄(より)けるは、外(ほか)の國には、此(かか)る小船寄(より)たりとも不聞(きこ)えず。
此事(このこと)は、守、京に上(のぼり)て、眷屬(くゑんぞく)共に語りけるを聞繼(ききつぎ)て、此(かく)なむ語り傳へたるとや。
□やぶちゃん注
「卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語
第十七」(常陸國□□郡(こほり)に寄る大ひなる死人(しにん)の語(こと) 第十七)に続く、奇異の漂着物譚で、搭乗者はいないものの、まさに滝沢馬琴の「兎園小説」に出る「うつろ舟の蛮女」(「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」参照)の「うつろ舟」と遠く通底し、ここは丸木舟であること、搭乗者のいないことの二点に於いても、文字通り、真正の「うつろ舟」で、最後に古老が登場して、昔語りで周囲が納得感心する(と読める)辺りもよく似ている。しかも、漕ぎ手を想起して前話の巨人大女とは対照的な、舟の小ささや浅さ、船端の痕跡から恐ろしく小さな小人(こびと)の水手(かこ)を想起する辺り、話柄の創りも上手い。底本の解説には、『日本海沿岸にも海流に乗って遠くの住民が漂着したらしく、現在、新潟市の北方文化博物館には漂着した古代の船の破片が蔵されている』とある。横これとは別なものと思われるが、山直材・松本哲共著の論文「日本に現存する刳舟」(『海事資料館年報』7:13-19/一九七九年)には、同博物館分館(新潟市新発田市)に一艘(破片ではなく完品と思われる)、加治川(かじかわ:新潟県新発田市及び北蒲原郡聖籠町を流れる)で使用していたものが出土品としてリストに上っている。Master of Chikuzen氏のサイト「邪馬台国大研究」のこちらのページにある新潟県北蒲原郡加治川村大字金塚字青田の青田遺跡出土とする丸木舟の写真と解説が出るが、これであろう。その丸木舟は全長が五・四七メートル、幅七十五センチメートルとあり、本話のそれと比すと、長さは短いものの、幅は美事に一致する。本邦で出土する(漂着ではない)ものには縄文・弥生時代の遺物も含まれ、当時の縄文人の成人男性で平均身長は百六十センチメートル、弥生人で百六十二~百六十三センチメートルと推定されているから、これらの出土品を本話の舟と対照してみても、必ずしも驚くべき小人が乗船していた訳ではないことが分かる。なお本話の漂着地は越後であるから、必ずしも本話で推測されているように北方に限定することは出来ず、南から対馬海流を北上してきた可能性も視野には入れねばなるまい。なお、大きさと舷側の櫂による摩耗痕から見ても、実際に人が載って漕いだ実用の丸木舟であって、所謂、祭祀用に放たれたミニチュアとは思われない。また北方の小人国となると、アイヌ民族のコロボックル伝承との関連も考えられるか。
「源の行任」「朝日日本歴史人物事典」等によれば、源行任(生没年未詳)は平安後期の下級貴族で、醍醐源氏の出で道長の家司を勤めた源高雅の子。能登守・越後守などを歴任した。越後守の着任期は調べ得なかったが、在任中の寛仁三(一〇一九)年十月二十九日に、五節の舞姫を献じなかったため、釐務(りむ:律令制において官職を帯びた者が官司にてその職務を行うこと)を停止(ちょうじ)されており、この年が本話の下限となる。その後、治安三(一〇二三)年には備中守に任じられ、その秋、受領として五節の舞(豊明節会に行われる少女の舞い)には舞姫を拠出している。近江守時代の長元四(一〇三一)年七月七日には富小路西の上東門大路より北にあった自邸を焼亡したが、これは故入道大相国(藤原道長か)の持家を行任が手に入れたもので、世に「御倉町」と称されており、典型的な富裕受領であった、とある。
「廣さ二尺五寸」舟の幅七十五・八センチメートル。
「深さ二寸」深さ六センチメートル。これは船体内側の刳り込んだ部分の深さを言っていよう。全長や幅に比して異様に浅い。
「長さ一丈」舟の全長三メートル。
「船の鉉(はた)」左右の舷側(げんそく)。
「一尺許を迫(はさま)にて」約三十センチメートルの間隔で。
「梶の跡有り」櫂・艪などのオール状のもで漕いだために生じた傷か、或いはそれを固定するための艪臍(ろべそ)様のものの痕跡があった。
「馴杭(なれつぶれ)たる」久しく使用したために、その箇所が有意にすり減っていることをいう。
「眷屬」親族或いは家来。
□やぶちゃん現代語訳
越後国に打ち寄せられた小船の話
第十八
今となっては……昔のことじゃ……源の行任(ゆきとう)の朝臣とおっしゃるお方が、越後の守(かみ)として、かの国に在任されておられた折りのこと、×××の郡(こおり)にあった浜に、小さな船が、これ、うち寄せて参ったと申す。
船端の幅はたった二尺五寸、内の深さはなんと、二寸しかのぅて、長さは一丈ばかりの、異様に小さな舟じゃった。
集まったる者は、これを見、
「……これはまた……一体、なんじゃろか?……誰かが、ご苦労なことに、悪戯(いたずら)に拵え、海に投げ入れでも、したものかのぅ?……」
と疑って、よぅく見てみたところが、その舟の両の舷(はた)には、これ、きっちり一尺ほどの間(ま)をおいて、梶(かじ)を漕いだ跡があったと。その跡は、これまた、久しゅう使(つこ)うたによって、それを当てておったところが、これ、ひどぅ、擦り減って御座って、半端ない。されば、それを見つけた者はそこを指して、
「……いんや! これを見い! これは、現(げん)に人の乗っておった船に相違ないぞ!」
ときっぱりと言うた。されど、
「……それにしても……いったいこれ、どんなに小さき人の、乗っておった舟やったんやろうのぅ!?……」
と思うと、いやもう、これ、ただただ、驚き呆れるばかりで御座ったじゃ。
「……さぞ、漕いでおった時は、これ、あたかも、かの小虫の蜈蚣(むかで)が、仰山な手足を蠢かすに似たもんであったに違いない!……いやはや! 世にも珍らしき奇物じゃて!」
と言いあったによって、国司さまの館(やかた)へと皆して担いで持ち込んだところが、守なる行任(ゆきとう)さまも、これをご覧にならるるや、すっかり驚き呆れたるご様子であったと申す。
その折り、つき添っておった土地の古老の者の申すには、
「……ずぅーっと先(せん)のことじゃった……このような摩訶不思議な小舟の、浜に寄せ来たったことの、あったじゃ……」
と呟いたによって――されば――信じ難いことじゃが――その玩具(がんぐ)のような小さなる舟に、何人もの水子(かこ)が乗れるほどの、これ、小人(こびと)なる人々がおるに違いないとよ。
ここ越後より、ずぅーと、これ、北に御座る国なんじゃろうのぅ……かくも、この越後の国に、たびたびうち寄せて参ると申す上は。
他(ほか)の国にては、このようなる奇体な小舟が流れ着いたと申すはこれ、見たことも聞いたことも、なければのぅ。……
この話は、かの守(かみ)行任さまが任果てられ、京にお戻りになった折り、そのつき従っておった家来や僕(しもべ)どもの、語っておったを、これまた、小耳に挟んだ京雀どもが、かく、語り伝えているとかいうことである。
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