神田玄泉「日東魚譜」 鰕姑(シャコ)
釈名青龍〔同上〕志夜姑
〔和名〕鰕姑之誤稱也南
産志云開元遺事載
其名狀如蜈蚣尾如
僧帽泉州人謂之青
龍〔閩書〕氣味甘温小毒
主治益氣壯陽道多
食令人瀉下此邦人
以爲下品也
[やぶちゃん字注:以下は図の上部にある異名羅列。]
シヤコ
シヤク
シヤツハ
○やぶちゃんの書き下し文(本文のみ)
鰕姑〔「漳州府志(しようしうふし)」。〕
釈名 青龍〔同上。〕。志夜姑(シヤコ)〔和名。〕。鰕姑の誤稱なり。「南産志」に云はく、『「開元遺事」に其の名を載す。狀(かたち)、蜈蚣(むかで)のごとく、尾は僧帽(さうばう)のごとし。泉州の人之れを青龍と謂ふ。』と〔「閩書(びんしよ)」。〕。
氣味 甘温、小毒。
主治 氣を益し、陽道を壯す。多く食はば、人をして瀉下(しやか)せしむ。此の邦の人、以つて下品と爲すなり。
[やぶちゃん注:節足動物門甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ属シャコ Oratosquilla oratoria(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクション「日東魚譜」の保護期間満了画像)。ウィキの「シャコ」より引く。『外見は同じ甲殻類であるエビ類に似ているが、エビ類はカニ類その他とともに真軟甲亜綱という別亜綱に属し、両者の類縁関係はかなり遠い』。体長は十二~十五センチメートル前後で、『体型は細長い筒状で腹部はやや扁平。頭部から胸部はやや小さく、腹部の方が大きく発達する。 頭部先端には二対の触角とよく発達した複眼が突き出す。 付属肢にエビ・カニのような鋏を持たず』、六~七個の『トゲがある特徴的な』一対の『鎌のような捕脚を持つ(英名のmantis shrimp=カマキリエビの由来でもある)』。 歩脚は三対、『腹部には遊泳脚があり、また背甲左右の辺縁に短いトゲを持つほか、尾節には鋭いトゲのある尾扇を持つ』。『北海道以南の内湾や内海の砂泥底に生息し、海底の砂や泥に坑道を掘って生活する。 肉食性で、他の甲殻類や魚類、イソメ、ゴカイなどの多毛類、貝類などを強大な捕脚を用い捕食する。この捕脚による攻撃は打撃を伴う強力なもので、カニの甲羅や貝殻を叩き割って捕食するほか、天敵からの防御や威嚇にも用いられる。 また、飼育下においても捕脚の打撃で水槽のガラスにヒビが入ることがある』。『環境の変化に強く、一時東京湾の汚染が進んだ時期には「東京湾最後の生物になるだろう」といわれていたこともあった』。食材としては、『エビよりもアッサリとした味と食感を持つ。旬は産卵期である春から初夏。秋は身持ちがよい(傷みにくい)。日本では、新鮮なうちにゆで、ハサミで殻を切り開いて剥き、寿司ダネとすることが最も多い。捕脚肢の肉は「シャコツメ」と呼ばれ、軍艦巻きなどにして食べられることが多く、一尾から数量しか取れない珍味。産地では、塩ゆでにして手で剥いて食べたり、から揚げにすることが多い。産卵期の卵巣はカツブシと呼ばれて珍重されるため、メスのほうが値段が高い。また、ごく新鮮なうちに刺身として生食する場合もある。香港では、日本のものよりも大振りなものが多いが、素揚げにしてから、ニンニク、唐辛子、塩で味付けして炒める「椒鹽瀬尿蝦 ジウイム・ライニウハー」(広東語)という料理が一般的である』。『シャコは死後時間が経つと、殻の下で酵素(本来は脱皮時に使われる)が分泌され、自らの身を溶かしてしまう。そのため、全体サイズの割に中身が痩せてしまっていることも多い。これを防ぐには、新鮮なうちに茹でるなどして調理してしまうことである。 活きた新鮮なシャコは珍重されるが、勢いよく暴れる上に棘が多いため、調理時に手に刺さる場合があるので取り扱いには注意が必要である』とある。私は十二の時に富山県高岡市に転居したが、春、近くの氷見の雨晴海岸にシャコが山のように積み上げられて干乾びて死んでいた。傍にいた漁師に聴くと、「網を破る役立たずの外道で、ここらじゃ、食わんわ」と言われ、寿司の蝦蛄好きである私は大いに驚いたことを記憶している。あちらでは確かに寿司屋に行っても蝦蛄は置いていない店も多かったようである。因みに、私らの子どもの頃、みんなシャコが好きだったのは、アナゴの様に甘いタレをつけること以上に、寿司ネタの中でも当時は多量に捕獲され、子どもの好きな海老よりも遙かに安かったことから、親も、シャコの方が美味しいよと勧めたからではなかろうか、と秘かに親の経済戦略を疑ってはいる。現在は漁獲高が減衰し、処理も面倒なことから、高級ネタになりつつあるようだ。
「漳州府志」清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。
「青龍」本邦の辞書類ではシャコに「青竜蝦」と漢字を当てているが、現代中国語では「口蝦蛄」が一般的なようだ。
「鰕姑の誤稱」と玄泉は一刀両断するが、例えば人見必大の「本朝食鑑」では「石楠花鰕(しゃくなげえび)」で項立てして、『色、石楠花のごとし。故に海西、俗に石楠花鰕(しやくなげえび)と名づく。是れも亦、石楠の略号であろうか』と述べている。私は二次的な派生も射程に入れて、人見の見解を指示する。
「南産志」「閩書南産志」。明の何喬遠撰になる福建省の地誌。後の「閩書」も同じ。
「開元遺事」「開元天宝遺事」。盛唐の栄華を伝える遺聞を集めた書で、王仁裕撰。後唐の荘宗の時、秦州節度判官となった彼が長安に於いて民間の故事を採集、百五十九条に纏めたものとする。
「僧帽」中国で僧やラマ僧の被った帽子。例えば中文サイト「典藏臺灣」の「僧帽(喇嘛帽)」の写真を見て戴くと、この比喩が如何に正しいかということがお分かり頂けるであろう。
「泉州」福建省の旧閩州のさらに古い称。
「甘温、小毒」「本草食鑑」は無毒とし、蛮人は油に漬け膏薬となし、外科医はこれを用いて腫れ物の膿に処置するが、そこから考えるとその『性は、温か』と帰納している。
「瀉下」下痢。
「シヤク」現在でも徳島県阿南市でかく呼称する。
「シヤツハ」現行でも広域で「シャッパ」と呼ぶ。]
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