竹靑(蒲松齡「聊斎志異」柴田天馬譯)
[やぶちゃん注:昨年の五月に始めながら、既に一年近く更新をしていない、このブログ・カテゴリ「聊斎志異」の底本を変更(かえ)、公開の方式(しかた)もPDF横書版とワード文書縦書版とすることにした。
一義(ひとつ)は、ルビ・タグでブログ公開することが、異様に労多くして実少ないと感じた故(から)である。しかも私のブログではルビ・タグを含むHTMLテクストを一寸でも修正(なお)そうとしようもんなら、表示(みため)がぐちゃぐちゃになってしまうのである。当初、PDF縦書のみで考えたが、一部の漢字が横転するのが如何にも気持ちが悪い。そもそもが天馬訳を横書で読むこと自体が私に言わせれば、邪道(あっちゃなんねえはなし)だからでもある。
次に、底本の問題である。
実は電子化を始めた直後に、toumeioj3氏のブログ「武蔵野日和下駄」の「柴田天馬訳の聊斎志異について(2)」を図らずも発見(みいだし)、そこで天馬氏の訳文が、角川文庫版ではこれ、実におぞましいほどに、いじられ、改変されている事実を知ったからである(これは最早、改竄と断じてよい)。それで実は、一気に底本としていた角川文庫版への信頼(シンパシイ)が失せ、同時に、「聊斎志異」電子化の意欲(やるき)も完膚無きまでに折れてしまったというのであった。……週に一度、妻のリハビリの迎えに下界に下りるだけの謫仙人(しまながし)たる私は、この数年、新たに書籍(ほん)を求めること自体をしなくなっており、新たに先行する天馬訳の諸本を入手して仕切り直すというような律義(かたぎ)な意思(おもい)も動かなかったのであった。……
そのうち、先般(さきごろ)、ふと、すっかり御厄介になっている国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの中に、抄本(ばっすいやく)乍ら、戦前の豪華絢爛(きんきらきん)の天馬訳があることを知り、漸くやる気が復活(もどっ)たという訳である。
かくして底本は、同ライブラリーの大正一五(一九二六)年第一書房刊に変えた。しかも当然(あたりきしゃりき)、正字正仮名版であって、その点でもこれ、打込(タイピング)しても頗る心地好(むねがす)くんである。
踊り字「〱」「〲」は正字化した。但し、底本は総ルビであり、これはまた、まともにやるとなると、とんでもなく時間がかかるので、天馬訳の真骨頂の箇所、及び、難読或いは読みが振れると私が判断したもののみのパラルビとしたことはお許し願いたい。但し、原文と照応させてみて明らかに意味が通らず、誤植と断ずることが出来たものは注せずに訂した(例えば、原文が「兩月」であるのに「雨月(ふたつき)」とあるようなケース)。最後の注は本文とは一行空けて配した。原典ではポイント落ちで各注一行が二字下げ、二行目以降は一字下げであるが、本文と同じにした。出来上った形は頗る角川文庫版に酷似(そっくり)だが、遙かに正統(まっとう)な天馬訳の電子化であると私は秘かに自負しているんである。原文は従来通り、中文繁体字の「維基文庫」から引いている(柴田氏が底本としたものとは微妙に異なる箇所がある)。……しかしルビ附けが面倒なことには変わりがない。これも次の回の公開が何時になるかは知れぬ。……
手始めに、如何にも御洒落な色塗りで翻案(インスパイア)し、不遜にも中国人に読んでもらうことを末尾で望んでる太宰治の訳や、怪奇談玄人(ホラー・ストーリー・テラー)田中貢太郎訳など、電子テクストがごろごろしている「竹青」を、ここで敢えて持ってくることにした。この如何にも大陸的な乾性(ドライ)な、而して湿性(ウェット)なところはしっかり濡れてる天馬氏の自在奔放(てんまそらをかけるがごとき)それと、是非とも比較して戴きたいためである。なお、本「竹靑」では例外的に第一段落目の「呉王廟」の後に( )本文中にポイント落ちの二行割注が入るが、同ポイント( )で示した。【二〇一五年六月二十日 藪野直史】]
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