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« 醉へる時に   村山槐多 | トップページ | 氷の涯 夢野久作 (11) »

2015/06/29

氷の涯 夢野久作 (10)

 その靑年は案外、意氣地(いくぢ)の無い男であつた。ズラリと並んだ銃劍を見まはすと一も二もなく手を合はせて泣出しながら、白狀しなくともいゝ事まで饒舌(しやべ)つてしまつた。

[やぶちゃん注:●「ズラリと並んだ銃劍を見まはすと」「全集」では(正字化した)『自分の頭の周圍にズラリと並んだ銃劍を見まはすと』と加筆。]

 彼はアブリコゾフといふ貴族出の美靑年で、相當の學問があつた上に一種の畸型的(きけいてき)な頭の冴えを持つてゐたらしい。時計の玉や、指環の寶石スリカエの熟練家(エキスパート)であつたばかりでなく、暗號解讀の天才だつたので、赤軍の細胞に捲込まれて非常に重寶がられてゐた。それが此の二三年、カボトキン百貨店の三階に在る貴金屬部に雇はれて、懷中時計の修繕と、大時計の係を引受けて居たものであつたが、そのうちに窓越しのニーナと顏を見合はせて笑ひ合つたり、顏を赤らめ合つたりする樣になつたものであつた。

 けれども二人は話をする事は愚か、手紙の遣り取りすら思ふ樣に出來なかつた。アブリコゾフの背後には赤軍の監視の眼が光つてゐるし、ニーナの蔭には年老(としと)つた女が二人も附いて居るので何樣(どう)にも仕樣が無かつたが、そのうちにアブリコゾフの方が思ひ付いて、當時大流行の仙人掌(サボテン)を應用した暗號通信法を、僅かの機會を利用してニーナに教へると、これが見事に成功した。ニーナの神速(しんそく)な記憶力と、持つて生まれた冐險癖が、見る見る驚くべき作用を現はし始めたので、其のお蔭で二人はヤツト自由自在に媾曳(あひびき)の出來る嬉しい仲になつたのであつた。

 ところが最近に到(いた)つて日本軍の司令部が、ニーナの足の下(した)に引越して來る段取りになると、此の仙人掌(サボテン)通信の甘つたるい内容が俄然として一變し始めたのであつた。冐險好きのニーナの眼と耳が、司令部の中を飛び廻はつて拾ひ集めて來る、物凄い「殺人用語」ばかりが、仙人掌の行列の中に勇躍し、呼號するやうになつた。一方にアブリコゾフも毎日正午になると時計臺の上に昇つて、時計の時差を計る。そのほかイツ何時でもニーナの合圖を受け次第に、便所に行くふりをしてはコツソリと時計臺に登つて、文字板の横の隙間から、精巧な望遠鏡を使用しながら、向家(むかひ)の屋上に並んでゐる仙人掌の番號を、右から左の順に書き取つて來る、そいつを往來から合圖する通行人や、お客の風をして來るスパイの手に渡さなければならないので、トテモ忙しくなつてゐた……現にタツタ今もニーナから受けた、

「オスロフが殺されさう……全赤軍のスパイ網が暴露した。十五萬圓……」

 といふ意味の中途半端な暗號通信を傳票の裏面(りめん)に書き取つて、下を覗くと同時に帽子をウシロ向きにした通行人に投付けて、その續きを待つて居た處であつた……云々といふのがアブリコゾフ靑年の告白の大要であつたらしい。

 此の告白を聞いた軍人たちが「テツキリこれはオスロフの仕事」と思ひ込んだのは無理も無い話であらう。そこで此報告が一直線に特務機關に飛込む……

「……猶豫なくオスロフ一家を捕縛せよ。事態切迫の虞あり」

 と云つた樣な命令が出る……といふ順序になつたものであらう。ちやうど僕を殺し損ねたニーナが裏階段を駈降りて行く姿を、いつの間にか歸つて來てゐた憲兵が認めたので、又も獨斷で追駈けて行つた留守中に、食事を終つたはかりのオスロフ一家が、有無を云はさず椅子に縛付けられて拷問されることになつた。さうして、その拷問が始まつたばかりの光景を、僕が外から覗いてゐたのであつた。

 だからその瞬間は、後から考へると實に恐ろしい瞬間であつたのだ。單に眼の前の光景が恐ろしかつたばかりでない。哈爾賓市に横溢(わういつ)してゐる最も重大な危險な諸要素が、眼にも見えず、耳にも聞えない戰慄的な波動を作つて、二重三重の渦卷を起しかけてゐる。その中心の息苦しい無風帶に、僕は何も知らずに突立つてゐるのであつた。

 事實、僕は何も知らなかつた。否、そんな事を察するだけの餘裕が無かつた。二重硝子の中に生きた活人畫(くわつじんぐわ)とも形容すべきモノスゴイ光景を、タツタ一眼見ただけで、僕はモウ、驚きと恐怖を通り越した心理狀態に追ひ上げられてゐた。二重硝子の外側に顏の半面を押しつけながら今にも左側の窓掛の陰から……ダダーン……といふ大音響の火花が、迸り出るか迸り出るかと石の樣に固くなつて居るばかりであつた。

 しかし僕がさうして居た時間は、物の五分間と經過しなかつたであらう。間もなく更に更に驚くべき事件に僕は襲はれた。その固くなつて居る僕の右手から突然に、ニーナの短劍を奪ひ取つて行つた者が在つた……と思つて振り返る間もなく、誰だか解らない疾風(はやて)のやうな人影が、ヒラリと眞暗な屋上の方へ消え失せて行つたのであつた。

 その時に僕は何かしら奇妙な聲を揚げた樣に思ふ。しかし其聲は幸か不幸か、舞踏室の内部に反響しなかつたらしい。

 僕は氣が遠くなりかけた樣であつた。舞踏室内の光景も何も全然忘れてしまつて居たやうであつた。さうして間もなく、何者かゞ飛蒐(とびかゝ)つて來るやうな次の瞬間を、暗黑の廊下で想像すると、思はず身を飜して長い廊下を一走りに、四ツの階段を駈け降りて、地下室に轉がり込んだ。そこでやつと少しばかり氣を落付けて、冷(さ)め切つた白湯(さゆ)を二三杯飮むと、そのまゝ自分の寢臺に潜り込んで、頭から毛布を冠つてしまつた。臆病者と笑はれても仕方が無い。
 
[やぶちゃん注:●「飛蒐(とびかゝ)つて來る」見かけない熟語で辞書的にもよく分からないが、泉鏡花の「古狢(ふるむじな)」に『黑雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐(とびかか)る勢(いきほひ)で』と用例があった。]

 だから僕はオスロフ一家の運命が、それから先ドウなつたか知らない。たゞ……其翌(あく)る日からセントランの雇人が、金聾(かなつんぼ)同樣の朝鮮人とその妻を殘して、一人も居なくなつた事を知つてゐる。さうしてその代りに日本兵の伍長以下四名の兵卒が入り込んで來て兵營式の炊事を始めたこと……オスロフ一家が、それから後一度もセントランに姿を見せなかつたこと……さうして、それから間もなくセミヨノフとホルワツト兩將軍の反目が露骨になつて、白軍の勢力がバタバタと地に墜ち始めた事をズット後(あと)になつて聞き及んでゐるだけである。

 ……とは云へオスロフの一家がコンナ悲慘な運命の坑(あな)に急轉直下して行つた原因だけは、その夜の中(うち)にスツカリ見當を付けてゐた……東亞政局の中心に穿(うが)たれた底無しの坑(あな)に、彼等一家を突落した、白い、冷たい手の動きにチヤント氣が付いてゐた。

 ……と云つたら僕がトテモ素晴らしい名探偵に見えるだらう。又は性懲りもなく、この事件の外殼を包む探偵趣味の第二層へ、突入して行つた勇者とも思へるだらう。……ところが實は、それどころの沙汰ではなかつたのだ。けふの出來事に魘(おび)え切つてゐた僕は、一刻も早く事件の眞相を發見しなければ、安心して眠れない位(くらゐ)、神經が冴え返つてゐたのであつた。……とてもヂツとしては居られない位(くらゐ)たまらない脅迫觀念に襲はれてゐたのであつた。

 これは氣の弱い、神經質な僕が、永年囚(とら)はれて來た惡癖だつた。何でも變つた出來事にぶつかるたんびに、すぐに其の原因を考へて、結論を付けてしまはなければ安心出來ない性分だつたのだ。想像でもいゝ。假定でも構はない。又は文學靑年にあり勝ちな空想的ローマンス病と笑はれても仕方がない……。

 但(たゞし)……僕は其時まで仙人掌(サボテン)暗號通信を、オスロフの指導を受けたニーナの仕事とばかり思ひ込んでゐたものであつた。……アブリコゾフの捕縛事件を全然知らなかつたのだから……。又、哈爾賓市の大警戒の狀況も、翌日の朝になつてから上等兵に聞かされて初めて驚いた位(くらゐ)の事であつた。だから僕は、其時までに見聞した十五萬圓事件とか、銀月の女將の印象とか、仙人掌の不思議とか、ニーナの怪行動とか、舞踏室の戰慄的光景とか云つた樣な表面的な印象ばかりを毛布の中でガタガタ震へながら、頭の中でグルグルグルグルと走馬燈のやうに空轉させた結果に過ぎないのであつたが、それでも其中(そのなか)から辛うじて臆測し得た事件の眞相なるものは實に身の毛も悚立(よだ)つ性質のものであつた。

 それはその「臆測の中の臆測」とも云ふべき最後の結論を先にして説明すればすぐにわかる。

 此事件の中心になつて居る者は誰でも無い。やはり彼(か)の銀月の女將に相違ないと思へるのであつた。此の事件の表面に交錯して居る直線や、曲線の出發點を求心的に探つてゆくと、縱から見ても横から見てもかの女將の魅惑的な、自由自在な表情の上に落ちてゆくのであつた。凡(すべ)てを操る眼に見えぬ糸が、彼女の白い指の先に歸納(きなふ)されてゆくのであつた。

 彼女に對する僕の第一印象は誤つていなかつた。彼女は哈爾賓と名づくる北滿の美果(びくわ)の核心に潜み隱れてゐる一匹の美しい蟲であつた。その果實の表面に、一見別々に見える巨大な病斑(びやうはん)を描きあらはして居る……。

[やぶちゃん注:●「一匹の美しい蟲」「全集」では「一匹の美しい毒蟲」である。これはもう、後者でなくてはいかん。]

 彼女は流石に、哈爾賓一流の豪華建築の女主人公として、人氣の荒つぽい北滿の各都市に雄視(ゆうし)するだけの、アタマと度胸を持つてゐる女性であつた。彼女はその冷靜、透徹した頭腦でもつて、變幻極まり無い當時の北滿の政情の動きを豫測して、銀月の經營方針と一致させることを怠らなかつた。銀月と名づくる豪華壯麗な浮草の花を、何方(どつち)の岸に咲かせようかと、明け暮れ魘(おび)え占(うらな)つて居たに違ひなかつた。何故かといふと、その當時までは哈爾賓の將來が、日本軍と、赤白(せきはく)兩軍の何(いづ)れの支配下に置かれるか……殊に日本軍の駐屯期間がいつまで續くかといふことは、哈爾賓全市…‥否、北滿全局の生命(いのち)がけの疑問として、各方面の注視の焦點となつてゐたものだから……さうしてこの問題に關する日本政府の態度に就(つい)ては、肝心カナメの日本軍の司令部自體すら、云ひ知れぬ不安を抱いてゐるらしく見えたのだから……。

[やぶちゃん注:●「雄視」威勢を張って他に対すること。]

 しかし其間(かん)にタツタ一人、彼女だけは窮しなかつた。彼女は、彼女一流の知惠を絞つて、どつちに轉んでも間違ひの無い方針を執ることにきめた。日本軍と一緒に引上(ひきあげ)るにしても、亦は踏み止まつて第二期の發展を計畫するにしても、決定的に必要な、軍機の祕密と、資金を摑む手段を考へ始めた。さうして其の解決を女性のみが實行し得る非常手段に訴へた。

 彼女はオスロフと星黑の双方に彼女自身を任せたに違ひないのだ。さうしてその結果オスロフからは軍機の重大祕密を……又、星黑からはその正反對な機密事項と同時に、多額の資金を獲得したものに相違無いのだ。しかも其機密と巨萬の金とが、之を道に利用する時は、同時に二人を別々にノツクアウトするに足る程の恐ろしい性質のものであつた事は云ふ迄もない。

 しかし極度に用心深いと同時に、あく迄も機敏な彼女は、此處でモウ一つ感覺を緊張さした。問題の根本になつてゐる日本軍の進退についてオスロフの豫測と、星黑の口占(くちうら)とのドチラが眞相に觸れてゐるかを、全然違つた方面から當つて見る可く苦心してゐた。それによつてオスロフと星黑の兩人を如何に活殺(かつさつ)したらいゝかを決定すべく、全神經を尖がらしてゐる處であつた。

 ところが、そこへ司令部の内情と、搜索本部の形勢と、哈爾賓市内の實情に通じてゐるらしい僕が、公用でやつて來る事を早くも聞き知つたので彼女は、迅速に準備を整へて待ち構へた。さうして何喰はぬ顏で應接間に引入れて、さり氣ない問答をしながら樣子を探つてゐるうちに、僕が不用意にも洩らした兵營と、飛行場に關する一言(ごん)から、彼女は早くもオスロフが、最早トツクの昔に日本軍から見離されて居るらしい……日本軍が白軍を度外視して、滿州と西比利亞に雄飛しようとして居るらしい事實を推測する事が出來た。

 彼女は大膽にも此推測を確信する事にきめた。さうしてすぐに手を廻してオスロフを排斥にかかつた。しかもその排斥の手段たるや、古來の女流政治家とか毒婦とか云ふ連中が、必ず一度は使つてみる事にきめて居る世にも冷血、邪惡な逆手段であつた。彼女はオスロフから軍機の祕密を聞き出した事實を逆に利用した誣告文(ぶこくぶん)を誰かに打たして(もしくは打たして置いたものを)僕が、銀月の應接間で眠つてゐる間(ま)に、司令部の郵便受箱に投げ込ましたものと考へられる。ところがその誣告文の内容が又、そこに暗示されてゐる通りの軍機漏洩の形跡に惱まされ續けて來た(ニーナのいたずらとは氣づき得なかつた)日本軍最高幹部の注意の焦點を、忽ちピタリと合はせる事に役立つた。「成る程、ほかに疑ふべき人物は居ない」といふ事になつた……ものと見れば、前後の事實が殆んど完全に、一貫した筋道で説明出來るではないか。……タツタ一つニーナの短劍に關する不思議を除いては……すべてが合理的に首肯(うなづ)かれて行(ゆ)くではないか。

 僕はかうして推理とも想像ともつかない……もしくはその兩方をゴツチヤにした怖ろしい結論を、ホコリ臭い毛布の中で長いこと凝視してゐた。さうしてオスロフ一家の運命が、全然オスロフの自業自得であると同時に、全然僕の責任でもあるといふ不思議な結論の交錯を、何度も何度も考へ直してみた。

 それからモウ一歩を進めた萬一の場合に、銀月の女將、富永トミの致命的な祕密を摑んでゐる僕……あの邪惡な露語の誕告文が、僕の想像通りに彼女の手から出たものに相違ない事實が、何等かの理由で彼女の立場を危(あやふ)くしさうになつた場合に、最も重要な生き證據となるかも知れない僕……彼女がオスロフと星黑から軍機の祕密を聞き出してゐる事を知りすぎる位(くらゐ)知つてゐる僕を、彼女がドンナ風に處理するか……といふ問題に考へ及んだ時、僕は思はずドキンとして寢返りを打たせられた。頭を抱へて縮み上らせられた。僕の想像が的中して居るとすれば、彼女がキツトさうするに違ひ無いであらう手段と、それに對抗する手段を、あゝか斯樣(かう)かと取越苦勞(とりこしぐらう)しない譯に行(ゆ)かなかつた。さうして彼方(あつち)へ寢返り、此方(こつち)へ寢返りして居るうちにその取越苦勞が、いつの間にかタツタ一つ、最後に殘る重大な疑問に向つて集中して來たのであつた。……この事件に對する僕の臆測の全體が、確實であるか無いかを決定するものらしく見えるタツタ一つの疑問の鍵……。

 それはニーナの短劍が描きあらはした不可思議現象に對する疑問であつた。

 ニーナの短劍に關する不可思議現象……此の事件の中心の中心とも見るべき時間と、場所を選んで突發した奇怪事(きくわいじ)……事件の根本に觸れてゐるらしいデリケートな怪事件……あの嚴重な警戒の中で、あの戰慄的な場面を眼の前にして、僕の手から、あの短劍を奪ひ取つて行つた不敵な人間は何者か。赤の手か……白の手か……それとも夫れ以外の人間の手か……あんな大膽不敵な行動を敢へてした原因が何處に在るか……さうして、あれだけの冐險を敢へてしながら僕を殺さうとしなかつた理由は如何(いかん)……といふ疑問は、この事件に對する僕の結論では、どうしても説明し切れない疑問であつた。言葉を換えて云ふと、この疑問のタツタ一つが、僕の結論の眞實性の全部を裏切つてしまつて居るとさへ思へるのであつた。此のタツタ一つが説明出來ない以上、僕の結論は一片の空中樓閣になる……。

 ……ニーナの短劍を奪つた者は、僕の味方か……敵か……。

 といふ簡單な疑問が、この事件の全體を解決する最後の鍵としか思へなくなつたのであつた。同時に、その手によつて助けられるか、殺されるかが僕の運命の分れ目だとしか考へられなくなつたのであつた。

 かうした煩悶と迷ひが、要するに、事件全體の恐ろしさに脅(おび)え切つて、疲れ切つてしまつて居た僕の神經細胞から生み出されたところの、一種の笑ふべき幻覺であつた事は改めて説明するまでも無いであらう。…‥とは云へ、かうした思ひもかけない大事件にぶつかつて、徹底的に面喰らはせられた意氣地(いくぢ)の無い人間が、コンナ樣な幻覺的な結論をドンナに一所懸命になつて固執(こしつ)し行くものか……さうして見す見す大事を誤つて、悲慘な運命に陷入つて行(ゆ)くものかといふ事實は實地の體驗を持つた人でなければ首肯(しゆこう)出來ないであらう。

 毛布の中で縮こまつた僕は、此の幻覺的な結論を解決すべく、あらん限りの想像を逞しくしてみた。しかし、これはかりはイクラ考へてもわからなかつた。ドンナ想像を附け加へても説明が出來なくなつて行(ゆ)くうちに、とうとう頭が古い鏡餅みたやうに痺(しび)れ上つて、固結して、ピチピチとヒビが這入りさうな感じがして來た。

 そのうちにニーナの顏や、銀月の女將の笑顏が、オスロフの無表情な瞳や、その母親の白髮頭の横顏などと一緒に、眼の底の灰色の空間をグルリグルリと廻轉し始めた。さうしていつの間にかグツスリと眠つてしまつたものらしい。

[やぶちゃん注:以下、一行空き。]

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