甲子夜話卷之一 39 松平乘邑日光供奉のとき威望の事
39 松平乘邑日光供奉のとき威望の事
松平左近將監は威望ある人なりしとぞ。德廟日光山御參に、老職にて從奉りしとき、何れの御休宿か、御供揃かねて御立なりがたかりしとき、いかゞして供は揃はざるやと、乘邑へ尋させ玉へば、某見廻りて申上べしとて、即馬に騎て御陣處を乘廻りて立戻り、はや御供揃ぬ、打立せ玉ふべしと申ければ、そのまゝ御發輿ありしに、御供一齊にそろひて有しとぞ。人の畏服することかくの如くなりしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「松平乘邑」老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩主・志摩鳥羽藩主・伊勢亀山藩主・山城淀藩主・下総佐倉藩初代藩主。ウィキの「松平乗邑」によれば、元禄三(一六九〇)年、『藩主であった父乗春の死により家督を相続』正徳元(一七一一)年には『近江守山において朝鮮通信使の接待を行って』おり、早くも満三十七歳の享保八(一七二三)年には『老中となり、下総佐倉に転封とな』った。これ以後、足掛け二十年余りに亙って『徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。『水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリード』、元文二(一七三七)年には勝手掛老中となっている。『当時は吉宗が御側御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。『大岡日記』によると』元文三(一七三八)年、『大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を』三年に『渡って実施する件に』就き、七月末日に『御用御側取次の加納久通より許可が出たため、大岡が』八月十日に『勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている』。『主要な譜代大名家の酒井忠恭が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外』され、また乗邑は『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の家重が後継となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年の家重の第九代将軍就任直後に老中は解任、加増一万石を没収された上、『隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられ』ている。享年六十一。ともかくも徳川綱吉・家宣・家継・吉宗・家重と五代に亙る将軍に仕えた長老であった。
「御發輿」「おんはつよ」と読んでおく。
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