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2015/07/31

譚海 卷之一 越中國もず巣をかくるをもて雪を占事

 越中國もず巣をかくるをもて雪を占事

越中の人語りしは、其(その)國雪深き所故、もずと云(いふ)鳥毎年晩秋に冬月くふべき餌に、蛙諸蟲のたぐひをとり來りて、樹に巣を營みかけ置く也。多くは杉の木に巣かくる事也。その巣の高低にて、今年の雪の淺深をしるといへり。和歌にもずの草くきとよめる物なるべし。

[やぶちゃん注:本条はスズメ目スズメ亜目モズ科モズ Lanius bucephalus の営巣行動と謂う所の「百舌の早贄(はやにえ)」を混同していておかしい。これは巣を除去して、早贄の位置としてならば、伝承として知られたものあるからである。

 まず営巣の方を片付けてしまうと、モズは巣によって越冬などはしない。ウィキの「モズ」によれば、営巣は無論、繁殖のためであって、冬も終る二月頃から始まり八月頃までには、『樹上や茂みの中などに木の枝などを組み合わせた皿状の巣を雌雄で作り』、四~六個の卵を産む(年に二回繁殖することもある)。『メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十四~十六日で、『雛は孵化してから』約十四日で巣立つ。

 次に主題である「百舌の早贄」であるが、これについては私は既に生物學講話 丘淺次郎 三 餌を作るもの~(1)で古歌に詠まれたそれも含めて注を附している。ここではそれを少しいじって再掲することとする。丘先生のリンク先の記事も面白い。是非、お読みあれ。

 「百舌(鵙)の早贄」はスズメ目スズメ亜目モズ科モズ Lanius bucephalus の特異習性として知られるが、ここで津村が述べ、長く一般にも言われてきたような冬季の食糧を確保するためという見解は、実は現在では必ずしも主流ではない。というよりもこの早贄行動は根本的には全くその理由が解明されていないというのが現状である。以下、ウィキの「モズ」の当該箇所を引用しておく(下線や太字は総てやぶちゃん)。『モズは捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む行為を行い、「モズのはやにえ(早贄)」として知られる。稀に串刺しにされたばかりで生きて動いているものも見つかる。はやにえは本種のみならず、モズ類がおこなう行動である』(本邦で見られるモズ科はモズ Lanius bucephalus 以外に、アカモズ Lanius cristatus superciliosus・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus の五種)。『秋に最も頻繁に行われるが、何のために行われるかは、全く分かっていないはやにえにしたものを後でやってきて食べることがあるため、冬の食料確保が目的とも考えられるが、そのまま放置することが多く、はやにえが後になって食べられることは割合少ない。近年の説では、モズの体が小さいために、一度獲物を固定した上で引きちぎって食べているのだが、その最中に敵が近づいてきた等で獲物をそのままにしてしまったのがはやにえである、というものもあるが、餌付けされたモズがわざわざ餌をはやにえにしに行くことが確認されているため、本能に基づいた行動であるという見解が一般的である』。『はやにえの位置は冬季の積雪量を占うことが出来るという風説もある冬の食糧確保という点から、本能的に積雪量を感知しはやにえを雪に隠れない位置に造る、よって位置が低ければその冬は積雪量が少ない、とされる』(私もまさに中学高校時代を過ごした富山県高岡で山里の古老から聞いた記憶があり、自宅のあった高岡市伏木矢田新町の二上山を下った尾根などでは、散歩中にしばしば蛙や蜥蜴の「百舌の早贄」を見かけたものである)。しかし食糧確保であるという大前提が崩れている状況では、後者は論理的に納得し得る内容を伴わない。因みに「はやにえ」は歴史的仮名遣では「はやにへ」と表記する。

「和歌にもずの草くきとよめる物」生物學講話 丘淺次郎 三 餌を作るもの~(1)では以下のように注した。

   *

万年青氏の「野鳥歳時記」の「モズ」に、以下の二首が挙げられている。鑑賞文も引用させて戴く(失礼乍ら、一部の誤表記を直させて貰った)。

 垣根にはもずの早贄(はやにへ)たててけりしでのたをさにしのびかねつつ   源俊頼

「夫木和歌抄」より。『この歌の意味するところは、モズは前世でホトトギスから沓(くつ)を買ったが、その代金(沓手)を払うことが出来なかった。現世になってモズはその支払いの催促を受け、はやにえを一生懸命つくってホトトギス』(しでのたおさ:ホトトギスの異称。)『に供えているのだというのである。モズの不思議な習性は、昔から人の関心を寄せていたようだ』。

 榛の木の花咲く頃を野らの木に鵙の早贄はやかかり見ゆ   長塚節

 『榛の木の花は、葉に先立って二月頃に咲き、松かさ状の小果実をつける。これが鳥たちにとって結構な餌となるので、この木があると野鳥が集まる所だと推測できる。謂わば、探鳥の目当てのシンボルともなる木で』ある、と記される。
   *

ただ、私のミスでこの時、引用先をリンクし忘れ、今回、探してみたが、残念なことに万年青氏の引用先は既に消失している模様であった。しかしどうも「余生歳時記」というブログをお書きになっておられる方が、それをお書きになっていたのではないかと思われるので、そう私が推測した同氏の記事余命は楽しく過ごそうよをリンクさせて戴き、御礼に代えさせて頂こうと思う。

 さて、ここでは歌語の「もずの草くき」であるが、「日本国語大辞典」を引くと、これは「もずの草茎」或いは「もずの草潜」と表記し、読みは別に「もずのかやぐき」とも読むもので、元来は、『モズが春になると山に移り、人里近く姿を見せなくなることを、草の中にもぐり隠れたといったもの』とあって、この原義は早贄の生態行動とは全く違う(季節が反対で行動も全く異なる)ことが判る。ともかくもこの原義で用いられた例として同辞典は以下の二首を挙げている。

 

春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば 作者不詳(「万葉集」巻・十・一八九七番歌)

 

たのめこし野辺の道芝(みちしば)夏ふかしいづくなるらむ鵙の草ぐき 藤原俊成(「千載和歌集」恋三・七九五番歌)

 

一方、同辞典ではとして『「もず(百舌)の早贄」に同じ』ともする。これはどうも誤用と思われ、しかも幾つかの古歌を見たが、探し方が悪いのか、原義で用いられているものばかりが目につき、早贄の謂いで「もずのくさぐき」を用いるのは近世以降の俳諧(秋の季語)ばかりである。幾つか拾う。

 

やき芋や鵙の草莖月なき里  言水(「金剛砂」)

 

草莖を失ふ百舌鳥の高音かな 蕪村(「新五子稿」)

 

草莖を預けばなしで又どこへ 一茶(「七番日記」)

 

草茎をたんと加へよ此後は  一茶(「七番日記」)

 

草茎のまだうごくぞよ鵙の顏 一茶(句稿断片)

 

なお、今回、神戸市教育委員会公式サイト内の加藤昌宏氏の「神戸の野鳥観察記」の3.モズのはやにえ(速贄)をとても面白く、また興味深く読まさせて戴いた。お薦めである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 華光院/上杉定正邸跡

    ●華光院

華光院は壽福寺の東向(ひがしむかひ)なり。龍興山と號す。眞言宗、開基を賴舜と云ふ〔天福元年八月廿二日寂す〕本尊不動を安す。

[やぶちゃん注:廃寺。窟堂の背後の尾根の向こう側、現在の新しい寺である日蓮正宗の護国寺(一九六九年建立。横須賀線で北鎌倉から鎌倉へトンネルを抜けると左手に見えてくるドーム状の銀色の建物。因みにここが次の項に出る関東管領上杉定正邸旧跡である)の南にあった。新編鎌倉志四」から引く。

   *

◯華光院 華光院(けくはういん)は、壽福寺の東向(ひがしむかふ)なり。本尊は不動。 佐介谷(さすけがやつ)稻荷別當の所居也。昔は壽福寺の塔頭(たつちう)にて、壽福新命入院の時は先づ此院に入て、それより壽福へ入院すと云ふ。營西は、顯密禪なる故に、始より眞言宗なり。今は別院となりぬ。

   *

「鎌倉廃寺事典」の「華光院(けこういん)」には、『佐助稲荷は室町時代から鶴岡供僧の支配である』。しかるにここで「新編鎌倉志」は寿福寺の別院と言っており、『鶴岡と寿福寺の両方に属している』ことになり、何だかおかしいといったニュアンスの記載がなされてあり、『延宝八年(一六八〇)「除地覚」には「鶴岡支配花光院」と見える』と記すから、江戸中期以降は鶴岡支配であったものであろう(廃寺年代は不詳であるが、どうも雰囲気からすると明治の廃仏毀釈辺りらしい)。しかしとすると、本尊は、かのダイレクトな憂き目を見たと考えられ、憐れなは不動なりということになろうか(山越えして窟不動に逃げればよかったにのぅ)。因みに、「除地」というのは年貢諸役を免除された土地で有力な寺社の境内や無年貢証文のある田畑・屋敷などを言う。

「天福元年」一二三三年。北条泰時の治世である。]

 

    ●上杉定正邸跡

慈光院の門前にあり。修理大夫定正は修理大夫(しゆりたゆふ)持朝か子なり。享德の頃より。此地に住し。成氏の子政氏を輔翼(ほよく)して政務を沙汰せし事鎌倉九代記に見えたり。其頃世に扇谷の上杉殿と稱せしなり。定正明應二年十月五日に卒(しゆつ)せり。今は纔(わずか)に其遺蹤ありて田圃たり。

[やぶちゃん注:前項で述べた通り、現在の新興の寺である日蓮正宗護国寺境内地がここに相当する。

「上杉定正」(嘉吉三(一四四三)年或いは文安三(一四四六)年~明応三(一四九四)年)は相模国守護で扇谷上杉家の当主。上杉持朝三男。名臣太田道灌を暗殺した暗愚な主君として、また滝澤馬琴の伝奇「南総里見八犬伝」の極悪党の関東管領「扇谷(おうぎがやつ)定正」(実際には彼は関東管領ではないので注意)の名でも知られる(ここは立地も無論、扇ヶ谷)。以下、今まで鎌倉地誌記載でちゃんと注したことがない(私は鎌倉の室町史・戦国史になると鎌倉時代史の熱が急激に就下してしまい今一つ触手が動かなうなることをここに自白しておく)ことに気づいたので、参照したウィキ上杉定正より例外的にほぼ全文を引かさせて戴き、事蹟を示す(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『扇谷上杉家は関東管領上杉氏の一族で、相模守護を務め関東管領を継承する山内上杉家の分家的存在であった。扇谷家は鎌倉公方・足利持氏と山内家が対立して持氏が滅ぼされた永享の乱で山内家に味方し、享徳三年(一四五三年)以来の持氏の子の古河公方・足利成氏との長期の戦いである享徳の乱でも山内家を支え』た。『扇谷家家宰の太田道真・道灌父子は、河越城(埼玉県川越市)、江戸城(東京都千代田区)を築城するなどして、扇谷家の勢力は大いに拡大した。山内家と扇谷家は両上杉家と呼ばれるようになっていた』。『文明五年(一四七三年)、扇谷家当主だった甥の上杉政真が五十子の戦いで古河公方に敗れて戦死した。若い政真には子がなかったため太田道灌ら扇谷家老臣達の評定の結果、政真の叔父にあたる上杉定正が家督を継ぐ』。『定正は関東管領・山内上杉顕定と共に五十子陣に在陣して古河公方成氏と対峙した。しかし、文明八年(一四七六年)に山内家の有力家臣・長尾景春が反乱を起こし、翌文明九年(一四七七年)に五十子を急襲、定正と山内顕定は大敗を喫して上野国へ敗走する(長尾景春の乱)』。『上杉方は危機に陥るが、扇谷家家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏をはじめとする各地の長尾景春方を打ち破り、定正も転戦して扇谷家本拠の河越城を守った』。『文明十四年(一四八二年)に長尾景春は没落し、古河公方・成氏とも和睦が成立した。だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と山内顕定は不仲になる。また、乱の平定に活躍した家宰・太田道灌の声望は絶大なものとなっており、定正の猜疑を生んだ』。『文明十八年(一四八六年)七月二十六日、定正は太田道灌を相模糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招いて暗殺。死に際に、道灌は「当方滅亡」(自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという意味)とうめいたという』。『謀殺の理由について、定正は「上杉定正消息」で家政を独占する太田道灌に対して家臣達が不満を抱き、道灌が(扇谷家の主君にあたる)山内顕定に逆心を抱いたためと語っている。これは定正の言い分であり、道灌の方も「太田道灌状」にて定正の冷遇に対する不信を述べている。実際には、家中での道灌の力が強くなりすぎ定正が恐れたとも、扇谷家の力を弱めようとする山内顕定の策略に定正が乗ってしまったとも言われる』。『太田道灌謀殺により道灌の子・太田資康をはじめ多くの家臣が扇谷家を離反して山内顕定の元に走り、定正は苦境に立つ。道灌の軍配者(軍師)の斎藤加賀守のみは定正の元に残り、定正はこれを喜び重用した。山内家と扇谷家の緊張が高まり、長享二年(一四八八年)の山内顕定の攻撃によって戦端が開かれた(長享の乱)。更に異母兄の三浦高救も扇谷家当主の座を狙って動き始めた』。『これに対して定正は長尾景春を味方につけ、仇敵であった古河公方・足利成氏とも同盟を結んで対抗。戦上手の定正は実蒔原の戦い、須賀谷原の戦い、高見原の戦いに寡兵をもって勝利して大いに戦意を高め、「五年のうちに上野・武蔵・相模の諸士は、自分の幕下に参じるであろう」と豪語したものの、関東管領である山内家とその一族に過ぎない扇谷家の実力は隔絶しており、連戦に疲弊し次第に劣勢になった。この頃(長享三年(一四八九年))、山内顕定の不当性と自らの苦境を綴った、重臣曽我祐重に宛てた定正の書状が遺されている』。『定正は古河公方を軽んじた振舞いに出るようになり遂に盟約は崩壊し、これを定正の驕りと見た家臣の中には山内顕定や古河公方に寝返る者も現れた。重臣の大森氏頼は諫言して山内顕定や古河公方との和解を勧めるが、定正はこれに従わず山内家との抗争を続けていく。』『明応二年(一四九三年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国に乱入して堀越公方・足利茶々丸を駆逐した。この伊勢宗瑞の伊豆討入りには定正の手引きがあったとの見方が古来強い。定正は伊勢宗瑞と結ぶことになる』。『明応三年(一四九四年)、扇谷家重臣・大森氏頼と三浦時高が相次いで死去する。同年十月、定正は伊勢宗瑞とともに武蔵国高見原に出陣して山内顕定と対陣するが、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去。享年四十九。太田道灌の亡霊が定正を落馬させたのだとする伝説がある。長岡市にある定正院が菩提所と伝えられている』。『定正・大森氏頼・三浦時高の三将の死は扇谷家にとって大きな痛手となった。甥で養子の上杉朝良が跡を継ぐが、伊勢宗瑞とその子氏綱の侵攻に押され、扇谷家は徐々に所領を蚕食されていく』とある。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 窟堂

    ●窟堂

窟堂は松源寺の西山の根にあり。巖窟の濶(ひろさ)三間許。高七尺。其中巖面に不動の像〔弘法の畫く所と云〕を彫るのみ。今は堂宇なし。

[やぶちゃん注:妙にあっさりしている。「新編鎌倉志卷之四」を私の注ごと掲げる。……実はここは……私の個人的な記憶の中にある、ある苦い思い出の場所で、そこで自分が発した愚かな言葉なんどもよく覚えているのである……さればこそ……恐らくは二度と行かない……場所である。……

   *

〇巖窟不動 巖窟(いはや)不動は、松源寺の西、山の根にあり。巖窟の中に、石像の不動あり。弘法の作と云ふ。【東鑑】に、文治四年正月一日、佐野太郎基綱が窟堂(いはやだう)の下の宅燒亡。鶴が岡の近所たるに因て、二品〔賴朝。〕宮中燈に參り給ふとあり。此の處の事ならん。此前の道を巖窟小路(いはやこうぢ)と云ふ。【東鑑】に、大學の助義淸、甘繩(あまなは)より、龜谷(かめがやつ)に入。窟堂の前路を經るとあり。此路筋(みちすぢ)ならん。【東鑑】には、窟堂とあり。俗、或は岩井堂(いはゐだう)と云ふ。巖窟堂(いはやだう)、今は教圓坊と云ふ僧の持分なり。昔しは等覺院の持分なりけるにや。岩井堂日金事、可被立卵塔之由承候、先以目出候、然者、自御万歳夕、至于三會之曉、留慧燈於彼地、可覆慧雲於他界給之條、殊以令庶幾候之間、以彼所、限永代奉避渡候了、兼又同以被申方候之由承候、其段可令存知候也、恐々謹言、應永卅三年七月十七日、等覺院法印御房へ、尊運判とある〔尊運は、今河朝廣(いまかはともひろ)の子なり。〕状あり。又岩井日金事、如來院僧正、任證文、成敗不可有相違候、恐々謹言、五月九日、等學院へ、空然判とある状あり〔空然は、古河(こが)の源の政氏(まさうぢ)の子。〕

●「巖窟不動」は現在の窟不動を祀る窟堂(いわやどう)。現在の小町通りを八幡宮方向へ突っ切り、鉄(くろがね)の井の手前を扇ヶ谷へ向かう左の小道に折れて窟小路を行くと、横須賀線の踏切の手前にある。

●「教圓坊」は「鎌倉攬勝考卷之七」の「巖窟不動尊」では「散圓坊」とし、尚且つ、僧名ではなく小庵名とする。

●「等覺院」とは鶴ヶ岡八幡宮寺の十二箇院の内にある等覚院のこと。「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」を参照。

●「尊運」は当時の鶴岡八幡宮寺別当(応永二十四(一四一七)年~永享三(一四三一)年在職)。八条上杉朝広の子(本文の「古河」姓については調べ得なかったが、この朝広の実母が今川上総介泰範室であることと関係するか)、扇谷上杉家当主上杉氏定の養子となった。尊運書状は「鎌倉市史 資料編第一」所収の文書第七七号で校訂した。以下に、影印の訓点に従って書き下したものを示す(送り仮名を補訂した)。

 

岩井堂日金の事。卵塔を立てらるべきの由承り候ふ。先づ以て目出(めでた)く候ふ。然れば、御万歳夕べより、三會の曉に至りて、慧燈を彼の地に留して、慧雲を他界に給ふべきの條、殊に以て庶幾せしめ候ふの間、彼の所を以て、永代を限り避り渡し奉り候ひ了んぬ。兼て又、同じく以て申さるゝ方候ふの由承り候ふ。其の段、存知せしむべき候ふなり。恐々謹言。

   應永卅三年七月十七日

    等覺院法印御房へ

             尊運判

 

以下、空然書状を影印の訓点に従って書き下したものを示す(送り仮名を補訂した)。

 

岩井日金の事。如來院の僧正、證文に任じて、成敗相違有るべからず候。恐々謹言。

   五月九日

    學院へ

             空然判

 

●「源政氏」は足利成氏の子で、第二代古河公方。その子である「空然」(「こうねん」と読む)は足利義明(?~天文七(一五三八)年)のこと。若くして法体となり、鶴岡八幡宮若宮別当(文亀三(一五〇三)年~永正七(一五一〇)年在職)にあった。永正の乱で父政氏と兄高基(後の第三代古河公方)の抗争が勃発すると還俗、父兄双方と対立して自ら「小弓公方」を称した。北条氏綱との国府台合戦で戦死。]

   *

「三間」五・四五メートル。

「七尺」二・一二メートル。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 毛利藏人大夫季光墓

    ●毛利藏人大夫季光墓

五輪塔なり。面(おもて)に藏人從五位下大江季光朝臣之墓、寳治元年歳次丁未、六月五日と記す。文政六年。毛利家より建(たつ)る所なり。昔此地に季光か室家尼となりて。爰に草菴を結ひ居住せしと云傳ふ。此(この)國緣(こくゑん)を以て建しなるべし。

[やぶちゃん注:大江広元四男毛利季光の墓である。これは珍しく極めて正しい位置(当時は窟堂の背後の山の頂にあった)に記されている、この時制にマッチしたもので、トンデモ記事の多いガイドブックである本書としては稀有のケース。たまには『風俗画報』もやって呉れるのである。但し、現在はこの墓はここには――ない――のである.だから,よくやった! と言いたいのである。だから貴重な記載なのである。この墓はこの後の大正一〇(一九二一)年に伝頼朝の墓の東の父広元の墓の側に移築されたからである(移築年は岡戸事務所の「鎌倉手帳(寺社散策)」の大江広元・毛利季光・島津忠久の墓に拠った)。既に述べたが、毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年は宝治合戦で北条方に就こうとしたが、三浦義村の娘であった妻(まさにここに出る尼である)の批難により三浦方に組し、自刃した悲劇の人物である。この墓は鎌倉九」に以下のようにある(私の注も引いておく。ここでは墓(供養塔)を設けたのは別人でずっと後の永享年間(一四二九年~一四四一年)ことであることとあって、この方が信頼出来る)。

   *

大江季光入道西阿墓石 鶯谷尼菴の庭に在りしといふ。是は雪の下淨國院住僧元運といふもの、永享中に造立せし由。此僧侶は、大江氏の出にて、大江時廣の末孫なるが、同族の因たるをもて、其追福の爲に造立せし由。今は其塔も、剝落頽破して其形も全からず。大半土中へ埋しといふ。

[やぶちゃん語注:「雪の下淨國院」は「新編鎌倉志 卷之一」の鶴岡八幡宮の塔頭十二院の筆頭に掲げられている、以下に引用しておく。

淨國院 以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴が岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、東顏(ひがしがは)より西顏まで、寺町(てらまち)をなす。建久二年に、賴朝卿二十五の菩薩に形(かた)どり、院宣を奏し請て、供僧二十五坊を建立せらる。其の後應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號を改め院號とす。源の成氏の代まで、廿五院有しと見へたり。【成氏の年中行事】に載せたり。永正の比(ころ)より、漸漸(ぜんぜん)に衰へて、七院のみありしを、東照大神君、文祿二年に、十二院を再興し給ふと也。淨國院の開基は、【社務職次第】に云、初佛乘坊・忠尊、號大夫律師、山城人也、法性寺禪定殿下忠通猶子也。(初めは佛乘坊・忠尊、大夫律師と號す。山城の人なり。法性寺禪定殿下忠通の猶子なり。)

「大江時廣」は広元の子。三代将軍実朝近習。京都守護であった兄親広が後鳥羽方に就いて失脚したため、嫡男として大江家を嗣いだ。因みに彼以降は長井(若しくは永井)氏を名乗っており、この僧も俗名は長井(永井)姓であったと考えられる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 松源寺

    ●松源寺

松源寺は日金山と號す。鐡觀音の西巖窟中の中壇にあり。本尊は地藏運慶か作。相傳(あひつた)ふ賴朝卿伊豆に配流の時。伊豆日金に祈て我世に出でば必ず地藏を勸請せんと約せし故にこゝに移すと云ふ。

[やぶちゃん注:廃寺であることが示されていないのは新編鎌倉志のほぼ完全な引き写しのため。

   *

〇松源寺 松源寺(せうげんじ)は、日金山(にちきんさん)と號す。銕觀音の西、巖窟堂(いはやだう)の山の中壇にあり。本尊は地藏、運慶が作。相傳ふ、賴朝卿、伊豆に配流の時、伊豆の日金に祈つて我(われ)世に出でば必ず地藏を勸請せんと約せし故に、こゝに移すと云ふ。

   *

鎌倉の「日金地藏堂」を引く。

   *

日金地藏堂 岩屋堂の東にて、山の半腹にあり。本尊地藏、運慶作。右大將家、豆州謫居の頃より、御誓願有て、爰に移し給ふといふ。別當日金山彌勒院松源寺といふ。眞言新義。御室御所の末なり。弘長三年四月七日、群盜十餘人、地藏堂にかくれ居るの間、夜行の輩行向ひ、其庭にて生虜とあり。玆の地藏堂の事なり。

   *

地蔵の方の呼称では「日金」は「ひがね」と読むようである。以前、現在の雪ノ下にあった松源寺の本尊であったが、廃仏毀釈令で長谷寺に移管され、後に現在の横須賀市武(たけ)の東漸寺に移されている。日金地蔵は鎌倉時代の仏師宗円の作と伝えられる木造半跏像で、頼朝が蜂起する際に伊豆日金山の地蔵菩薩に戦勝と源氏再興を祈願し、成就の後にその像を模して造ったと伝えられる。但し、オリジナルの地蔵は松源寺の火災で焼失、現在の東漸寺蔵の日金地蔵は地蔵胎内墨書銘によって寛正三(一四六二)年、仏師宗円による造立であることが分かっている。東漸寺は toshi-watanabe 氏のブログ「折々の記」の横須賀武の東漸寺を訪ねるが詳しい。

「伊豆日金」は現在の静岡県熱海市伊豆山にある走湯権現日光山東光寺のこと。応神天皇四(二七三)年、松葉仙人の開山と伝えられる古刹で、現在の本尊延命地蔵菩薩像も頼朝の建立とされる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  志一稻荷社

    ●志一稻荷社

志一稻荷は僧志一の觀請なり、此僧は筑紫の人にて訴訟の事ありて鎌倉に來り。既に訟も達しけるに。文狀(もんじやう)本國に忘置り。時に平生(へいぜい)此僧に仕へし狐。一夜の中に本國に往來して。彼狀を取來て志一に授け其儘死せり。依て稻荷に祀りしと鎌倉志に見えたり。志一鎌倉に來り。左道を以て人を蠱惑(こわく)し。且康安安元年上洛せし事太平記に記せり

[やぶちゃん注:で「新編鎌倉志」のプロトタイプ「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」から、この現在の鶴岡八幡宮から道を隔てた西北の斜面を登ったところにある志一稲荷と同じい「志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕」の本文と私の注を引く(以上はサイト一括版。同日記の私のブログ版電子テクストの「志一上人の石塔」はこちら)。

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   志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕

 右ノ石塔若宮ヨリ西脇ノ町屋ノ後ロノ山上ニアリ。土俗ノ云ルハ、志一ハ筑紫ノ人也。訴訟有テ下ラレ、スデニ訴訟モ達シケルニ、文状ヲ古里ニ忘置テ如何セント思ハレシ時、常々ミヤヅカヒセシ狐アリシガ、一夜ノ内ニ故郷ニ往キ、彼文状ヲクハヘテ曉ニ歸り、志一ニタテマツリ、其マヽ息絶テ死ケリ。志一訴訟叶ヒシカバ、則彼狐ヲ稻荷ニ祭リ、社ヲ立ツ。坂ノ上ノ脇ニ小キ社有。是其小社也。志一ハ左馬頭基氏ノ代ニ、上杉崇敬ニヨリ鎌倉へ下ラレケルト無極抄ニ見へタリ。太平記ニ仁和寺志一坊トアリ。又志一細川相摸守淸氏ニタノマレ、將軍ヲ咒咀シケルトアリ。此僧ノ事歟、未審(未だ審らかならず)。又此所ヲ鶯谷トモ云トナン。

●「無極抄」は近世初期の成立になる「太平記評判私要理尽無極抄」という「太平記」の注釈書である。

●「細川相摸守淸氏」細川清氏(?~正平一七/康安二(一三六二)年)は室町幕府第二代代将軍足利義詮の執事。官位は左近将監、伊予守、相模守。参照したウィキの「細川清氏」によれば、『正平九年・文和三年(一三五四年)九月には若狭守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。翌正平一〇年/文和四年(一三五五年)の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。正平一三年/延文三年(一三五八年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、二代将軍足利義詮の最初の執事に任ぜられた』。『清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事頼章の弟仁木義長や斯波高経らの政敵も多かった。正平一五年/延文五年(一三六〇年)五月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に畠山国清ら諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍義詮の意に逆らうことも多かったという』。『同年(康安元年、三月に改元)九月、将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。これについて、「太平記」は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の「難太平記」では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、十月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津天王寺に至り南朝に降った。十二月には楠木正儀・石塔頼房らと共に京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された』。『正平十七年/康安二年(一三六二年)、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町、坂出市)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。「太平記」によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。但し、新編鎌倉志卷之四」には、

 

〇志一上人石塔 志一上人の石塔は、鶴が岡の西、町屋の後ろ、鶯谷(うぐひすがやつ)と云ふ所の山の上にあり。里人云く、志一は、筑紫の人也。訟へありて鎌倉に來れり。已に訟へも達しけるに、文狀を本國に忘れ置きて、如何せんと思はれし時、平生、志一につかへし狐ありしが、一夜の中に本國に往き、明くる曉、彼の文狀をくわへて歸り、志一に奉り、其まゝ息絶へて死しけり。志一、訟へかなひしかば、則ち彼の狐を稻荷の神と祭り祠(し)を立つ。坂の上の小祠、是れ也。志一は、管領(くわんれい)源の基氏の他に、上杉家、崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。【太平記】に、志一上人鎌倉より上りて、佐々木佐渡の判官入道道譽(だうよ)の許へおはしたり。細川相模守淸氏(きようぢ)にたのまれ、將軍を咒詛(しゆそ)しけるとあり。

 

と記す。「太平記」巻三十六「淸氏叛逆の事」によれば、志一は佐々木道誉のもとにあって、細川清氏に頼まれて荼枳尼天の外法(ウィキの「荼枳尼天」に『狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている』とあり、志一と稲荷のラインが美事に繋がる)を以って将軍を呪詛したことが記されている。

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序でに、同じく私の電子テクスト鎌倉九」の同じく志一稲荷のことを指している「志一上人墓碑」も原文と私の注(ダブっておらず補填的)を引き、対照参照に供しておく。

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志一上人墓碑 馬場小路の町屋の後なる西の方にあり。爰を鷺が谷といふ。此の志一は仁和寺の僧にて、外法成就の志一上人と、【太平記】にも載たり。もと筑紫の人なるが、詔ありて鎌倉へ來れりといふ。貞治の頃にやありけん、其の秋、京都へ上りし時、佐々木道譽が家へ參り、さまざま物語りのうへ、細川相模守殿より、所願候間、速かに願成就ある樣に祈りてたべとて、願書一通を封じ、供具の料とて一萬匹副へて贈られしと、何心なく語りければ、淸氏何事の所願に候哉(や)、其の願書披見せんことを、懇切に再三上人をすかしければ、無是非(ぜひなく)願書を取り寄せ、道譽に見せければ、道譽、大いに悦び、伊勢の入道が宅へ行き、細川淸氏、陰謀の証據發覺せしことを讒訴せしより、淸氏は將軍の爲に終ひに討たれ、家を失ひけり。其の發(おこ)りは、志一が愚直なるより、天下の大亂をおこし、死傷するもの多し。依つて上人も京に住し得ず、又鎌倉へ歸り、寂せし年月しれず。又一説に鎌倉へ下向の時、文書を故郷に忘れ、如何せんとせしに、志一が使ひし狐一夜の内に在所へ歸り、其の文書を持ち來たり、志一に渡し、即時に斃れしゆへ、彼の狐を埋めて祠を建て、稻荷と祝ひしは、巨福呂坂上の小祠、是なりといふ。陀枳尼天(だきにてん)の法者なれば、狐を使ひしことは勿論なり。鎌倉へ下りし、初め畠山國淸(くにきよ)、野心有りて、志一に外法(げはう)を修せしめ、又、細川淸氏と國清、同意なるに依つて、上人をして淸氏にも、咒詛を祈らせん爲に計りし事なりといふ。

●「馬場小路」は正しくは「ばんばこうじ」と読み、鶴岡八幡宮西側を走る道で、鉄の井から旧鶴岡八幡宮寺二十五坊跡辺り(小袋坂の下、道路が左へ大きくカーブル辺り)までを指した。

●「畠山國淸」(?~貞治元・正平十七(一三六二)年?)は南北朝期の武将。尊氏・直義に従って九州・畿内を転戦、京都を制圧して和泉守護となり、次いで紀伊守護となった。一度は直義についたが、結局、尊氏に寝返り、鎌倉公方足利基氏の補佐を命ぜられて関東執事となって鎌倉入りし、権勢を振るった(但し、彼は着任早々、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移して入間川御陣としている)。後に失脚、基氏と争うが敗北、その後の消息はよく知られていない。

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 現在は訪れる観光客も少ないが、旧巨福呂坂切通の直近であったから、古えの様相はもっと賑やかであったに違いない。]

2015/07/30

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(8) 四 羊膜

 

      四 羊膜

Kerann

[雞卵内の發育

(い)雛の體 (ろ)羊膜]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 蛙の卵または「さけ」の卵を生かして置き、その發生を調べて見ると、初め球形の卵の一粒が漸々形が變つて全部がたゞ一疋の子の身體のみとなるが、雞の卵を雌雞に温めさせてその日の發生を調べると、卵からはたゞ雛の身體のみが出來るのでなく、早くから雛の身體を包む薄い膜の囊も出來る。この囊を「羊膜」と名づける。雞の卵も元來は一個の細胞であるが、生まれた卵は受精後十數時間を經たもの故、その間に細胞の數は殖えて一平面に竝び已に明な層をなして居る。黃身の上面に必ず一つの小さな圓い白い處があるのは、即ちこの細胞の層である。俗にこれを「眼」と稱へて、これから雛の眼玉が出來るやうに言ふが、それは無論誤で、實はこれから雛の全身が出來るのである。親雞に温められると、この白い眼の如き處が漸々大きな圓盤狀となり、その周圍は延びて終に黃身を包み終り、その中央部即ち始め眼のあつた邊では、細胞層が曲がつたり折れたり癒著したり切れたり、極めて複雜な變化を經て終に雛となるが、後に雛になる部分の周圍からは、細胞層が恰も子供の着物の縫ひ上げの如き特別の褶を生じ、この褶が四方から雛の身體を圍んで、卵から孵つて出るときまで恰も囊に入れた如くに全く包んで入る。前に羊膜と名づけたものは即ちこの細胞層の薄膜である。このやうに雞などでは、初め細胞の層ができて、その一部は雛の體となり、殘りの部は雛を包む囊となるのであるから、これを譬へていへば、恰も布を縫うて人形を造るに當り、大きな布を切らずに用ゐ、人形に續いたまゝの殘りの部でその人形を包んだ如くである。同一の材料の一部で人形を造り、その續きでこれを包む囊を造つたと想像すれば、丁度雛の卵の内で、同じ細胞層から雛の身體と雛を包む羊膜とが出來るのと同じわけに當る。

[やぶちゃん注:「羊膜」昆虫類及び脊椎動物羊膜類の発生過程で形成される胚膜の一つである。英名“amnion”。受精卵が卵割を経て数百から千個ほどの細胞の集まりになると、その一部に将来胚を形成する部域が分化してくるが、それにつれてその周辺の外胚葉及び中胚葉の細胞が襞(ひだ)となって持ち上がって来、胚体の上に前後左右から覆い被さるように伸びて胚体の上部で出会い、出会った部分の隔壁が消えると、胚は結局、二重の膜、羊膜と漿膜(しようまく)となる。その孰れもが中胚葉に裏打ちされた外胚葉の薄膜で、これらを総称して羊膜と呼称する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「黃身の上面に必ず一つの小さな圓い白い處がある」胚である。]

4week

[第四週の胎兒と羊膜]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 發生中に判斷の出來ることは、脊骨を有する動物の中でも鳥類・獸類・龜・蛇・「とかげ」の類に限ることで、魚類や蛙・「ゐもり」の類には決してない。「ゐもり」と「やもり」とは外形がよく似て居るので隨分混同して居る人も少くないが、その發生を調べると、「ゐもり」の方は羊膜が出來ぬから魚類と同じ仲間に屬し、「やもり」には立派な羊膜が出來から寧ろ鳥類の方に近い。されば發生に基づいて分類すると、脊椎動物を無羊膜類と有羊膜類との二組に分ち、前者には魚類と兩棲類とを入れ、後者には哺乳類、鳥類、爬蟲類を組み込むことが出來る。人間も他の獸類と同じく、發生中には羊膜が出來て常に胎兒は羊膜内の羊水の中に漂うて居る。二箇月三箇月の頃に流産すると小さな胎兒が薄い羊膜の囊に包まれたままで生まれ出るが、月滿ちて生まれる場合には、羊躁はまづ破れて羊水が流れ出で、それと同時に兒が子宮から出て來る。但し稀には「袋兒」と稱へて、羊膜が破れず、これを被つたまゝで兒が生まれることもある。

5manth

[五箇月の胎兒

胎兒を包む薄い膜の囊は所謂羊膜である この圖では羊膜の一部を縱に切り開いて内部の胎兒を直接に示した 胎兒の肩の上に載つてゐるやや太い紐は臍の緒]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。個人的に非常に感銘する作画で、これこそ現今の写真に勝る博物画の美観と言えると私は信じて疑わない。]

 

 動物を通常胎生と卵生とに分けるが、以上述べた通り、羊膜を生ずるのは胎生するものと、卵生するものの一部とに限られてある。蛙も雞も同じく卵生であるが、その發生を調べて見ると、羊膜の有無に就いては卵生の雞は卵生の蛙に似ずして、却つて胎生の獸類の方に遙に近い。大きな卵を産む鳥と微細な卵細胞を生ずる獸類とに、なぜ羊膜が出來て、その中間の大きさの卵を産む蛙になぜ羊膜が出來ぬかとの疑問は返答が難かしいやうに思はれるが、段々調べて見ると、獸類は決して極昔の先祖以來常に微細な卵ばかりを生じたのではなく、最初はやはり今日の龜や「とかげ」の類もしくは「かものはし」などの如き大きな黃身を含んだ卵を産んだのが、その後次第に胎生の方向に進み、卵は少しづつ小さくなつて、終に今日見る如き極めて微細な卵細胞を生ずるに至つたものらしい。かく考へねばならぬ論據は發生學上の詳細な點にあるゆえ、こゝには略するが、たゞ羊膜の生ずる有樣だけから見ても、獸類と鳥類とは共に初め比較的大きな卵を産む爬蟲類から起り、鳥類の方は飛翔の必要上益々完全な卵生の方に進み、獸類の方は卵を安全ならしめるために長く體内に留め置き、母體と子の體との相接觸する所から、その間に新な關係が生じ、母體から絶えず滋養分を供給し、卵はそのため豫め多量の黃身を含み居る必要がなくなり、終に模範的の胎生となつたのであらうと思はれる。かやうに考へると、獸類の微細な卵から子が發生するに當つて、鳥類に於けると同じやうに羊膜の生ずるのは、共に先祖の爬蟲類から遺伝によつて傳はつたものとして、初めて了解することが出來る。

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 十王堂橋/鐡井/鐡觀音堂

    ●十王堂橋

十王堂僑は。傍(かたはら)に十王堂ありし故に名く。大船(おほふな)に通する鐵道線路の傍藥師堂の前に架せり鎌倉十橋の一なり。

[やぶちゃん注:北鎌倉駅を出て鎌倉街道を大船方向に百三十メートルほど行った小袋谷川(或いは山ノ内川。大方が暗渠になっているもののこの橋は残っている)架かる橋。この直近に十王堂があったことに由来する(白井永二編「鎌倉事典」に拠れば、ここにあった十王像は現在の円覚寺境内の総門を入ってすぐの左側にある十王堂桂昌庵に、また十王図六幅は同続燈庵に移されてあるとある。大昔に風入で見たかなぁ? 記憶ないわ……)。]

 

    ●鐡井

雪下西南方の路傍に在り。鎌倉十井の一にて。昔井中(ゐちう)より鐡の觀音像を得たり故に名く。

[やぶちゃん注:小町通りをどん詰りまで行った鎌倉街道に出る右手にある。白井永二編「鎌倉事典」に拠れば、『明治六年(一八七三)以前は、井戸の西方にある小堂にこの像(首のみ。胴は崩れた)を安置していたが、そののち、東京人形町観音寺へ移転し、そこの本尊となった』とある。「人形町ゆるりお散歩ガイド」の大観音寺で尊像を現認出来る。また、この像は別に扇ヶ谷にあった古刹新清水寺(せいすいじ)の本尊であったと伝承されていて、東京の寺院についてはいつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の「大観音寺」の頁で「中央区史」の縁起を引く中に、『大観音寺(日本橋人形町二の三)聖観音宗に属し、人形町大観音の別称は、御前立大観音像に、所在地の人形町を冠して世人が通称したのによる。本尊は丈五尺あまりの首像で青銅の蓮台上に鎮り、作者は高麗名工というが、もと源頼朝の守護仏でその室政子の創立にかゝる寿福寺とともに鎌倉屈指の霊場であった扇ヶ谷清水寺の本尊であった。明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年石田可村、山本卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし、明治九年にいたり人形町通り蠣殻町二丁目に仮堂をいとなみ、さらに同十三年二月許可を受けて、間口五間五尺五寸奥行六間四層楼の大悲閣を建立して正遷座を執行した。これより堂宇経営の基礎漸く調い、信徒の詣る者も日々に加わったが、大正大震災による劫火によって、たちまち堂宇は灰燼に帰した。以来本尊は日鮮会館の屋上に仮安置され、昭和十五年十月十七日堂容を新にし、同時に大震火災に頽れた御前立像の再鋳を行った』とある(下線やぶちゃん)。またしてもおぞましき廃仏毀釈の犠牲になりかけるも、一命をとりとめた観音ということになるのである。なお、貫・川副共著の「鎌倉廃寺事典」も同じ部分を抜粋で引き、『頼朝のことはあやふやであるけれども、鎌倉に伝わる話と合致するところもなくはないし、明治以後のことは、一応信頼出来ると思う』としている。]

 

    ●鐡觀音堂

銕の觀音の首〔長六尺〕のみを置く。是は昔堂前の井中堀得(ほりえ)しものにて新淸水〔廢寺〕寺の本尊なりしと云ふ。

[やぶちゃん注:「堀」はママ。前の「鐡井」の注を参照。「新編相模国風土記稿」を無批判に調子に乗って引き写す本『風俗画報』の最悪の箇所の一つで、前の「中央区史」にある通り、『明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年石田可村、山本卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし』た時点で、もう「鐡觀音堂」はなかった。これ、昨今の鎌倉で訳の分からない店屋やレストランがあっという間に出来てはふっと潰れるといったのとはわけが違う。十四年後の明治三〇(一八九七)年、この鎌倉ガイドブックを片手に、このありもしない堂を探した人々に対する『風俗画報』の罪は決して、軽くはない。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鍜冶藤源次助實の舊地

    ●鍜冶藤源次助實の舊地

鍛冶(かぢ)藤源次助實(とうげんじすけざね)の舊地は東慶寺の山を隔てゝ北鄰に在り。

[やぶちゃん注:「藤源次助實」鎌倉時代の名刀工とされる人物。講談社「日本人名大辞典」によれば、備前(岡山県)福岡一文字派。助成(すけしげ)の子とされ、後にここ相模鎌倉山の内にうつり「鎌倉一文字」の呼称もある。銘は「助真」。現存作のうち二口(ふたふり)が国宝で、内、一口は日光東照宮蔵の徳川家康佩刀で「日光助真」とよばれて有名、とある。「国立国会図書館協同レファレンスサービス」の鎌倉市中央図書館の「管理番号鎌中-2014032)」鎌倉市山ノ内の「藤源治(とうげんじ)」という地名の由来を知りたいのデータに「皇国地誌 山ノ内村残稿」に助真屋敷跡が山ノ内村にあったことが確認さたと出る。本誌の「鎌倉實測圖」に書き込まれた(「鍜治藤源次助直旧地」と誤っている)位置を現在の地図で調べると、鎌倉市山ノ内一三二〇‎附近で、何と生地店で「一文字」という店舗が存在することが判った。北鎌倉駅から実測で二百メートルも離れていないごく直近であるが、ここは踏破したことがない(というより、知られた案内書にもこの名は載っていないことが上記レファレンス・データからも分かる。そもそもがこの電子化で実は私は初めて知ったような気がする)。今度ここは是非、訪ねてみようと思っている。

 最後に平凡社「世界大百科事典」の「相州物(そうしゅうもの)」の項を引いて、神奈川の刀鍛冶を概観しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。下線やぶちゃん)。『相州鎌倉は一一九二年(建久三)源頼朝によって幕府が開かれてから栄えたが、刀工に関しては最古の刀剣書』「観智院本銘尽(かんちいんほんめいづくし)」に、既に保元年間(一一五六年~一一五九年)に、『沼間(逗子市)に三浦氏の鍛冶で〈三くち丸〉を作ったという源藤次(げんのとうじ)同じく〈あおみどり〉〈咲栗(えみぐり)〉を作ったという藤源次(とうげんじ)らがいたことが記されている』(この名を継承或いは通称したものらしい)ものの、『これらの刀工の作は現存せず、事実上は鎌倉中期に山城国粟田口派の国綱、備前国直宗派の国宗、一文字派の助真らが鎌倉に移住したことによって相州物の歴史は始まるといえる。だが、これらの刀工もそれぞれの派の伝統的な作風を継承するにとどまり、いわゆる相州伝といわれる特色ある作風を展開していくのは、国綱の子と伝える国光が出現してからである。国光は通称を新藤五といい、自らの作刀に〈鎌倉住人新藤五国光作〉と銘したものがのこる。鎌倉の地において鍛刀したことを明示した最も古い刀工であり』、『永仁元(一二九三)年から元亨四(一三二四)年までの年紀作が残っている。『その作風は、粟田口派の直刃を得意として、いちだんと地と刃の沸(にえ)が強くつき、刃中の金筋や砂流しなどの働きが豊富であって、ことに短刀の製作に秀で、太刀はきわめて少ない。その門人に行光と正宗がおり、正宗に至って相州伝の作風が完成された。この相州伝とは、硬軟の鉄を組み合わせて鍛えた板目に地景が入った美しい地肌と沸が厚くつき、金筋・稲妻・砂流しなどの働きが多い湾(のた)れの刃文に特色がある。正宗の作品は太刀・短刀ともに多いが、在銘作は少なく、京極家伝来の〈京極正宗〉、最上家伝来の〈大黒正宗〉、本庄家伝来の〈本庄正宗〉と号のある短刀、また尾張家伝来の名物〈不動正宗〉の短刀など数点にすぎない。正宗の子に貞宗がおり、父の作風を継いで上手であるが、比較的おだやかなものが多い。南北朝時代を代表するものに広光と秋広がおり、この両工はさらに沸を強調した皆焼(ひたつら)とよばれる刃文を創始した。室町時代の相州物は末相州物とよばれ、中でも綱広家は同名が江戸末期まで継承された。また後北条氏の城下町小田原で鍛刀した康国・康春らは小田原相州とよばれている』とある。]

アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (七) 氣違ひの茶話會

 
 
    七 氣違ひの茶話會(さわくわい)

 

 家の前の樹の下に、一つのテーブルが置いてありました。そして三月兎(ぐわつうさぎ)とお帽子屋とかそれに向つて、お茶をのんで居りました。山鼠(やまねずみ)が二人の間に坐つたまま、グウグウ混て居りました。すると前の二人は山鼠をクツシヨンにして肘(ひぢ)をその上にのせ、その頭の上で話をして居ました。「山鼠は隨分氣持ちがわるいでせうねえ。」とアリスは考へました。「でもまあ、よくねて居るから何ともないだらうけれど。」

[やぶちゃん注:「三月兎とお帽子屋」孰れも前の「(六) 豚と胡椒」で注を附したので参照されたい。

「山鼠」原文“Dormouse”。ネズミ目ヤマネ科 Gliridae のヨーロッパヤマネ属ヨーロッパヤマネ Muscardinus avellanarius 。英名は“Hazel Dormouse”であるが、本種は『ブリテン諸島に自生する唯一のヤマネ科の動物であり、単にDormouseとも呼ばれる』と参照したウィキの「ヨーロッパヤマネにある。グーグル画像検索「Muscardinus avellanariusをリンクしておく。因みに、本邦産のヤマネ(山鼠・冬眠鼠)は固有種(種小名は正に正真正銘)であるヤマネ科ヤマネ属 Glirulus ヤマネ Glirulus japonicus で別種である。参照したウィキの「ヤマネ」によれば、『現生種では本種のみでヤマネ属を構成する。別名ニホンヤマネ』とも言い、同属の化石種ならば『ヨーロッパの鮮新世の地層から発見されている』。『日本が大陸と地続きで温暖な時代に侵入した遺存種と考えられて』おり、山口県の五十万年前『(中期更新世中期)の地層から化石が発見されている』。このヤマネ(ニホンヤマネ)は『大陸産ヤマネからは、数千万年前に分岐したと推定され、日本列島に高い固有性を誇る。遺伝学的研究によれば、分布地域によって、別種と言ってよいほどの差異が見られる』とある。グーグル画像検索「Glirulus japonicusもリンクさせておくので比較してご覧になられることをお薦めする。]

 テーブルは大きなのでしたが、三人はその隅つこの方にかたまつて坐つて居ました。アリスがやつて來たのを見ると、二人が、「席がない、席がない。」とどなりました。

「あいたところは澤山あるぢやないの。」とアリスは怒つてさう言つて、直ぐに、テーブルの隅にあつた、大きな安樂椅子に腰を下しました。

「葡萄酒をお上り。」と三月兎はすすめるやうにいひました。

 アリスはテーブルを見まはしましたが、か茶の外には葡萄酒なんかありませんでした。「葡萄酒なんか見あたらないわ。」とアリスは言ひました。

「少しもないよ」と三月兎が言ひました。

「それでは、ないものをすすめるなんて失禮ぢやありませんか。」とアリスは怒つて言ひました。

「招待をうけないで坐るのは失禮ぢやないか。」と三月兎は言ひました。

「わたし、お前さんのテーブルとは知らなかつたのです。」とアリスは言ひました。「三人よりもつと多勢の爲に置いてあるんぢやないの。」とアリスは言ひました。

「お前の髮は切らなければいけない。」とお帽子屋は言ひました。お帽子屋はしばらくの間、不思議さうな顏をして、アリスをヂツと見て居たのでした。それでこれがお帽子屋の最初の言葉でした。

「人の事、あんまり立ちいつていふもんぢやないわよ。」とアリスは少しきびしく言ひました。

「ずゐぶん失禮だわ。」

 お帽子屋はこれを聞いて目を大きくあけました。けれども、それからお帽子屋の言つたことは「烏(からす)は何故(なぜ)寫字机(しやじつくゑ)に似て居(ゐ)るのだらうか。」といふことだけでした。

[やぶちゃん注:この謎かけの原文は“"Why is a raven like a writing-desk?"。研究社の「新英和中辞典」やウィキの「ワタリガラス」等によれば、“raven” は広義の大型のカラス或いはスズメ目カラス科カラス属ワタリガラス Corvus corax(カラスの通常の総称である“crow”よりも大きく、死や悪病を予知する不吉な鳥とされ、光沢の強い黒い羽毛は髪などの黒いものの比喩に用いられる(これは日本語の「烏の濡れ羽色」という形容と酷似している。因みに知られたエドガー・アラン・ポーの幻想詩篇「大鴉」の原題はこの“The Raven”である。また、本種は日本では北海道の冬の渡り鳥として観察出来る)。“writing-desk”は、引き出し付きの書き物机(通常は上部が高く傾斜している)或いは筆記道具が入っていて同時にそれが筆記台にもなる携帯用の箱のことを言う。]

「さあ、これから面白くなつてくるわ。」とアリスは考ヘました。「みんなが謎をかけはじめたならうれしいわ――あたしきつと當(あ)てられるわ。」と大きな聲でつけ加へました。

「お前がそれに答えを見つけられるつていふつもりなのかい。」と三月兎が言ひました。

「さうだとも。」とアリスは言ひました。

「それではおまへの思つて居ることを言はなければいけない。」と三月兎はつづけて言ひました。

「わたし言ひますわ。」とアリスはあわてて答へました、「すくなくとも――すくなくとも、わたしの言つてることを、わたしは思つて居るのですわ、――それは同じですわ、ねえ。」

「少しも同じぢやない。」とお帽子屋は言ひました。「それでは『わたしはわたしの食べて居るものを見ている』といふのと、『わたしの見てゐるものを、わたしはたべてゐる』といふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

 すると三月兎がそれに附け加へて言ひました。「それでは 『わたしが手に入れたものを、わたしは好きだ』と言ふのと、『わたしはわたしの好きなものを手に入れた』と云ふのと同じだとお前は言はうといふのだねえ。」

[やぶちゃん注:底本は「『わたしはわたしの好きなものを手に入れた』」の最初の二重鍵括弧が落ちている。誤植と断じて補った。]

 すると山鼠がそれにいひ加へました。それは眠つたままものを言つて居るやうに見えました。

「それでは、『わたしは、わたしがねてゐるとき呼吸をする』と云ふのと、『わたしは呼吸をするとき、寢る』と云ふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

「お前さんにはそれは同じことだよ。」(山鼠はいつも寢て居るといふことからでて來たのです。)とお帽子屋は言ひました。これで會話はおしまひになつて、みんなはしばらく默つてしまひました。けれどもアリスは自分の知つて居る限りの鳥(とり)と、寫字机(しやじづくゑ)のことをのこらず(といつてもさう澤山ではありませんでしたが)思ひ出して見ました。

[やぶちゃん注:「けれどもアリスは自分の知つて居る限りの鳥(とり)と、寫字机のことをのこらず(といつてもさう澤山ではありませんでしたが)思ひ出して見ました」の「鳥(とり)」はママ。実はここの原文は“"It is the same thing with you," said the Hatter, and here the conversation dropped, and the party sat silent for a minute, while Alice thought over all she could remember about ravens and writing-desks, which wasn't much.で(下線やぶちゃん)、明らかに原文は“ravens”で「烏(からす)」なのであるが、私は敢えてそのまま電子化することにした。無論、誤植のの可能性が非常に高く、ルビも植字工が誤植した者に校正係が勝手に「とり」とルビを振ったものである可能性がいや高いとは言えるのであるがしかし、私は(後に見るように)「烏(からす)は何故(なぜ)寫字机(しやじつくゑ)に似て居(ゐ)るのだらうか。」という、この最初の謎かけ自体が一種のアナグラムに違いないと思われること、更に穿って言うならば、ただでさえ、生物の多くの種名を挙げることなどおよそ出来ない欧米人(例えば一般の欧米人は一般の日本人のようには昆虫や魚貝類の名を個別的に挙げることが圧倒的に不得手である)の中の、そのまた中の少女アリスを想起するに、到底、カラスの種名を挙げ得ることは出来ず(尤も、私も一般的な「烏」である森林性ながら平地へも進出して勢力を拡大したスズメ目カラス科カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos 、それに次いでハシボソガラス Corvus corone しか挙げられないのだけれど。なお、我々が最もカラスらしいカラスとして認識しているハシブトガラスはヨーロッパには棲息しない)、まさに“which wasn't much”――ろくなことは思い出せませんでしたが――に決まってるからである。因みに研究社の「新英和中辞典」ではカラスを意味する単語としてカラスの総称としての“crow”を挙げ、更に大型のカラスを“raven”、中型のを“crow”,小型のそれを“jackdaw”或いは“rook”と一般に呼んでいるとある。]

 まづ口を切つたのはお帽子屋でした。「今日は何日だい。」とアリスの方を向いて言ひました。お帽子屋はそれまでポケツトから、懷中時計をとりだして、不安さうに眺めたり、時時振つたり、それから耳許に持つていつたりしてゐました。

 アリスは一寸考へて、「四日です。」と言ひました。

[やぶちゃん注:少なくともここまで物語内の時制が何月かは示されていない。冒頭の川辺の土手からエピローグのそこでのうたた寝からの目覚めという設定は春か夏であるが、イギリスは四月中旬くらいからでないと暖かくならないし、夏でも普通は日本のようには酷暑にはならない(私は十年前にアイルランドを旅した際には恐るべき暑さに閉口したが、冷房自体が殆んどの建物についていなかったのを思い出した)。さらに当時三十歳の独身(彼は生涯妻を娶らなかった)のルイス・キャロルが家族ぐるみで親しく付き合っていたリデル家(オックスフォード大学の数学講師であったキャロルの住んでいた学寮クライスト・チャーチの学寮長一家)の三姉妹、ロリーナ(Lorina Charlotte Liddell 十三歳)、アリス(Alice Pleasance Liddell 十歳:無論、彼女がアリスのモデルである)、イーディス(Edith Mary Liddell 八歳)らとともに習慣となっていたテムズ河畔をボートで遡るピクニックに出かけた一八六二年七月四日、この日に口頭で彼らに語り出したのが、まさに「不思議の国のアリス」(刊行は三年後の一八六五年十一月二十六日)のプロトタイプであったことを考えれば(以上は主にウィキの「不思議の国のアリス」に拠った)、この作品内時間は七月と考えてよい。]

「二日違つて居るよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「それでわしはバタは仕事に何の役にもたたないといつたのだ。」と怒(おこ)つた顏で、三月兎を見ながら言ひました。

[やぶちゃん注:「それでわしはバタは仕事に何の役にもたたないといつたのだ。」原文は“ "I told you butter wouldn't suit the works!"”で、原文は確かに“the works”であるが、これでは分からない話がますます分からなくなってしまう。これは「仕事」ではなく、時計という「器械」「機器」「機器構造」の謂いであろう(福島正実氏の訳も『機械』である)。時計に点す機械油の代わりに三月兎の差し出したと思われる高級バターを使ったが、結局そのお蔭で時計がおかしくなって日付が合わなくなったんだ、と批難しているのである。]

「ありやあ一番上等のバタだつたよ。」と三月兎はおとなしく答へました。

「うん、だがパン屑もいくらか入つて居たよ」とお帽子屋はぶつぶつ言ひました。「パン切ナイフなんか、入れてはいけなかつたんだよ。」

 三月兎は時計をだして、沈んだ顏をして見てゐました。それから時計を茶呑茶碗に入れてまた見ました。けれども最初の言葉通り、又、「ありや一番上等のバタだつたよ。ねえ。」と云ふよりほかにいい考へがでてきませんでした。

 アリスは物珍らしく、兎を肩越しに見て居ました。

「何んて面白い時計でせう」とアリスは言ひました。「何日(いくか)かを示して、何時(なんじ)かを示さないのね。」

「ふん、そんを用があるもんか。」とかとお帽子屋はつぶやきました。「お前の時計は年(ねん)が分るかい。」

「無論分りつこないわ。」とアリスはきつぱり答へました。「でも、それは隨分永い間同じ年で、とまつてゐるからよ。」

「それは丁度わたしのと同じだ。」とかお帽子屋がいひました。

 アリスはひどく、分らなくなつてしまひました。お帽子屋の言葉は何の意味もないやうにアリスには思へました。けれども、それはたしかに英語でした。「わたしあなたのいふことが、少しも分りませんわ。」と、できる丈(だけ)叮嚀にアリスは言ひました。

[やぶちゃん注:原文は“"Which is just the case with mine," said the Hatter.”“case”をどうとるかで意味が変わるように思われる。正しく長く年を指し続けることこそが私にとっての人生上の(人間が生きる上での――私はこれが後の方の帽子屋の台詞と関係するように思う)まさに大問題なのだ、と帽子屋は言っていると私は読むが、それが意味の上でも勿論のこと、認識の上でも理解出来ない、とアリスは言うのであろう。]

「山鼠は又寢てしまつた。」とお帽子屋は言つて、その鼻の中に熱いお茶を注(つ)ぎ込みました。

 山鼠はいらいらした様に、頭をふりました。そして目を開けないで、かう言ひました。「無論さ、無論のことさ。そりやわたしが言はうとした通りだよ。」

「お前(まへ)謎がとけたかい。」とお帽子屋はアリスの方を向きながら言ひました。

「いいえ、わたしやめたわ。」とアリスは言ひました。「答(こたへ)は何なの。」

「わたしにも、チツとも考へつかないよ。」とお帽子屋は言ひました。

「わたしにも。」と三月兎は言ひました。

 アリスは、いやになつたものですから、溜息をつきました。

「お前さんたち、そんな答のない謎をかけて、時をむだにするより、もつとそれを、上手につかふ工夫がありさうなものだわ。」とアリスは言ひました。

[やぶちゃん注:ここに至って我々は先の帽子屋の出した「烏は何故寫字机に似て居るのだらうか」という謎かけは答えがないのだとはぐらかされてしまうのである。私のような偏執的な人間はここで星一徹卓袱台とまでは行かないまでも、気持ちの悪い鬱々悶々たる思いにふさぎ込んでしまうところなのであるが、幸いなことに今回は、ウィキの「帽子屋で以下のように解説されているのに出逢って、取り敢えずは作者自身の種明かしがあってまさに眼から鱗であった(アラビア数字を漢数字に代え、注記号は省略した)。

   《引用開始》

「狂ったお茶会」のはじめのほうで、帽子屋はアリスに「カラスと書き物机が似ているのはなぜ?」("Why is a raven like a writing desk?")というなぞなぞを投げかける。アリスはしばらく考えても答えがわからずに降参するが、帽子屋や三月ウサギは自分たちにもわからないと答え、結局答えのない問いかけであったということがわかる。この本来答えのないなぞなぞは、ヴィクトリア朝の家庭の中でその答えをめぐってしばしば話題になり、一八九六年の『不思議の国のアリス』の版のキャロルによる序文には、後から思いついた答えとして以下の回答が付け加えられた。

"Because it can produce a few notes, though they are very flat; and it is nevar put with the wrong end in front!"

(訳)なぜならどちらも非常に単調/平板(flat)ながらに鳴き声/書き付け(notes)を生み出す。それに決して(nevar)前後を取り違えたりしない!

「決して」は正しい綴りは"never"であるが"nevar"とするとちょうど"raven"(カラス)と逆の綴りになる。しかしこのキャロルのウィットは当時編集者に理解されず、"never"の綴りに直されて印刷されてしまった(キャロルはこれを訂正する機会のないまま間もなく亡くなっている。このキャロルの本来の綴りは、一九七六年になってデニス・クラッチによって発見された)。

キャロルが答えを付けて以降も、さまざまな人物がこのなぞなぞに対する答えを考案している。例えばアメリカのパズル専門家サム・ロイドは、「なぜなら、どちらもそれに就いて/着いてポーが書いたから」("Because Poe wrote on both" エドガー・アラン・ポーが「大鴉」を書いていることにちなむ)、「なぜなら、どちらにもスティール(steel/steal)が入っているから」(机の脚にスチール(steel)が入っていることと、カラス(raven)という単語に奪う・盗む(steal)の意味が含まれることとをかけている)など複数の答えを提示している。

オルダス・ハクスリーは、このなぞなぞに対し、"Because there is a B in both and an N in neither. "という答えを提示している。この文は「どちらもBを含み(実際には含んでいない)、どちらにもNが含まれない(実際には含まれている)」という意味にも「both(どちらも)という単語にはbが入っており、neither(どちらにもない)という単語にはnが入っている」という意味にも読める。ハックスリーはまた、『人間の形而上学的な問いというものはいずれもこの帽子屋のなぞなぞのようにナンセンスなもので、実際にはどれも現実についてではなく、言語についての問いにすぎないと記している』。

   《引用終了》

ハックスリーの解も面白く、これは数学者であったキャロルも別解として認定してくれそうな気が私はする。]

「若しお前さんが、わたしと同じに、時と知り合(あひ)なら、それをむだにするなんぞとはいはないだらう。それぢやなくて、あの人と云ふんだよ」

[やぶちゃん注:原文は“"If you knew Time as well as I do," said the Hatter, "you wouldn't talk about wasting it. It's him."”アリス同様に「いやにな」るほど訳の分からない箇所であるが、これについて、山下稚加氏の論文「『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』における言葉遊び、マザーグースの翻訳の可能性」の「言葉遊び・キャロルが作り出した語、またはナンセンス語」のに、英語の慣用表現を巧く用いたものとして、以下の解析されてある。

   《引用開始》

ここでは、名詞を固有名詞にするという技がはいっている。' I might do something better with the timethan waste it in asking riddles that have no answers.'(もう少し時間をうまく使ったら?そんな答もないなぞなぞばかり聞いて時間を無駄にしていないで。)というアリスに、'If you know Time as well as I do, you wouldn't talk about wasting it. It's him.'(もし私と同じくらい時間と良く知り合っていたなら、それを無駄にするなんて呼び方はしないね、彼だよ。)このカッコ内の訳は自分で訳したものである。ここでは、いきなり、timeTimeと、また大文字にすることで、固有名詞にして時間さんという扱いにするところから始まる。そのあと、アリスは何のことだか分からずでも話しをすすめていく。そこで、いくつも、timeをつかった慣用表現を出して、話はどんどん違う方向にむかっていく。たとえば、beat time(拍子を打つ), killmurdertime(暇をつぶす)などをそのままの単語の意味でとって、時間をたたく、時間を殺す、など話はどんどん恐ろしくなるのだ。日本語でも、実は時間を利用した慣用表現がいくつか存在する。「時を刻む(きざむ)」「時間をつぶす」などだ。これを上手く当てはめてその続きの文を翻訳すると、

「たぶんないわね、でも、音楽を教わるときには、こうやって時間をきざむわよ」

「おぅ、それだそれ、そのせいだよ。かれだってきざまれたらかなわないよ。・・

これなら、そういう意味じゃないことは分かりつつ、うまく言葉のあやを使い面白く、理解することが可能になる。この例では、原作から日本語への翻訳は日本語にも慣用表現が存在することで、成功していると思う。

   《引用終了》

なお、福島正実氏の訳では、この帽子屋の台詞は以下のように私にとっては面白く訳されてある。

   《引用開始》

「あんたが私くらい『時間(タイム)』のことを知ってるなら」と帽子屋が言いました。「『時間(タイム)』をつぶすなんていいかたはしないものだよ。『時間(タイム)』は人間(ヒム)だよ」

   《引用終了》]

 アリスは、いやになつたものですから、溜息をつきました。

「わたし、お前さんの云ふことが分らないわ。」とアリスは言ひました。

「無論わからないだらう。」とお帽子屋は、馬鹿にしたやうに、頭をつきだして言ひました。「多分お前は時に話しかけたことはないだらう。」

「恐らくないことよ。」とアリスは用心深く答へました。けれどわたし音樂を稽古するとき、時をうつ(拍子をとる)ことを知つて居りますわ。」

「ああ、それで分つたよ。」とお帽子屋は言ひました。

「あいつは打たれるのをいやがるだらう。そこでか前があれと仲良くして居さへすれば、お前の好きなやうに時計を動かしてくれるよ。たとへて言へば、朝の九時が本を讀みはじめる時間だとすると、お前は時にちよいと小さい聲で合圖するんだ。すると目(め)ばたきするうちに、針がまはるのだ、それで晝飯の一時半といふことになるんだ。」

(三月兎は、すると小聲で獨(ひとり)ごとをいひました。「わしはそればかりのぞむのだ。」)

「それは素敵らしいわねえ。」とアリスは考へこんで言ひました。「でも、さうなると――それでお腹(なか)までへるといふことはないでせう。」

「多分初めはないだらう。」とお帽子屋は言ひました。「だがお前さへその氣になりや、一時半に合(あは)す事が出來るやうになるさ。」

[やぶちゃん注:「だがお前さへその氣になりや、一時半に合(あは)す事が出來るやうになるさ。」の初めの鍵括弧は底本にはない。誤植と断じて加えた。]

「それがお前さんのやり方なの。」とアリスは尋ねました。

 お帽子屋は悲しさうに頭をふりました。「わたしにはやれないよ」と答ヘました。「わたし達はこの三月に、喧嘩をしたのだ。丁度あれが氣違ひになるまへにさ――。」(とお茶の匙で三月兎を指ざしながら)――「ハートの女王主催の大音樂會があつた時だつたよ。それにわしも歌はなければならなかつたのだ。

 

  「ひらり、ひらり、小さな蝙蝠(かうもり)よ、

   お前は何を狙つて居るの。」

「お前この歌を知つて居るだらうねえ。」

「わたし聞いたやうよ。」とアリスがいひました。

[やぶちゃん注:福島正実氏の訳ではここにこの歌詞が『有名な「きらきら星よ」の替え歌』である旨の割注が入っている。「きらきら星よ」はこの主題によるモーツァルトの変奏曲で知られるあれである。ウィキの「きらきら星によれば、この原曲は十八世紀末の『フランスで流行したシャンソン"Ah! Vous dirais-je, Maman"(あのね、お母さん)の日本語名(邦題)。イギリスの詩人、ジェーン・テイラーの』一八〇六年の『英語詩 “The Star” による替え歌"Twinkle, twinkle, little star"(きらめく小さなお星様)が童謡として世界的に広ま』ったものとある。]

「次はかうなんだ、ねえ。」とお帽子屋は歌ひつづけました。

 

 「世界の上を飛び廻り、

    まるでみ空(そら)の茶盆(ちやぼん)のやうだ。

      ひらり、ひらり――」

 

 そのとき山鼠が身體(からだ)をふつて、睡りながらうたひました、「ひらり、ひらり、ひらり、ひらり――。」いつまでたつてもやめませんでしたから、みんなは抓(つね)つてやめさせました。

「さて、わしはまだ第一節を歌ひきらない中(うち)にだね。」とお帽子屋は話しだしました。「女王はどなりだしたんだ。『あの男は時(とき)を殺(ころ)して居る。首を切つてしまへ』つて。」

「まあ、なんてひどい野蠻(やばん)なのでせう。」とアリスは叫びました。

「それ以来ズツと、」とお帽子屋は悲しさうな聲で言ひつづけました。

「あいつは、わたしの賴むことをしてくれないのだ。それでいつでも六時なのだよ。」

[やぶちゃん注:紅茶の国イギリスではハイ・ティーHigh teaと言って午後六時頃に勤めから帰った主人が家族とともに紅茶を飲んだ。これは通常はそのまま夕食となった。名称は居間のロー・テーブルではなく、食堂のテーブル(ハイ・テーブル)で飲むことに因ると日本コカコーラ公式サイト内「紅茶花伝」の「紅茶辞典」の「紅茶の一日」にある。]

 それでアリスは、ハツキリと一つの考へが浮んできました。「それでここにこんなにお茶道具がならんで居るのですか。」と尋ねました。

「うん、さうなんだよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「いつでもお茶の時刻なんだ。それで、お茶道具を洗ふ時間なんてないんだよ。」

「それぢやお前さんは、いつもぐるぐる動きまはつて居るのねえ。」とアリスは言ひました。

「その通りだ。さうきまつてしまつたのだから。」とお帽子屋は言ひました。

「けれどもいつお前さんは初めにかへつていくの。」とアリスは元氣をだして尋ねました。

「話の題を變へるといいなあ。」と三月兎はあくびをしながら、口を入れました。「わしにこの話にはあきてきたよ。若い御婦人に一つ話しだしてもらひたいよ。」

「わたし話なんか知らないことよ。」とアリスはこの申し出に一寸驚いて言ひました。

「それでは山鼠が話さなければいけない。」と二人が言ひました。「目をさませよ、山鼠」かう言つて二人はその横腹を兩方からつねりました。

 山鼠はそろそろと目を開けました。「わしは寢入つてなぞゐやしないよ。」としやがれた細い聲で言ひました。「わしはおまへ達が話してた言葉は一一聞いてゐたのだよ。」

「何か話を聞かせないか。」と三月兎は言ひました。

「さあ、どうぞ、か願ひします。」とアリスか賴みました。

「さあ早くやれよ。」とお帽子屋はつけ加へました。

「さうでないと、話がすまないうちにまた寢てしまふからなあ。」

「むかし、むかし三人の小さい姉妹(きやうだい)がありました。」と、大急ぎで山鼠が話しだしました。「そしてその子たちの名前は、エルジーに、レーシーに、チリーといひました。三人は井戸の底にすんでゐました――。」

「その人達は何を食べて生きてゐたの。」とアリスはいひました。アリスはいつも食べたり飮んだりすることに大層興味を持つてゐました。

「その人たちは砂糖水(さたうみづ)をのんで生きてゐたよ。」と山鼠は少しの間(あひだ)考へて言ひました。

「それでは暮していけなかつたでせうねえ。」とアリスはやさしく言ひました。「病氣になつたでせうねえ。」

「さうなんだよ。」と山鼠が言ひました。「大層わるかつたよ。」

 アリスは、こん風變りなくらし方をしたら、どんなだらうかと一寸考へてみましたが、あまり妙に思へたものですから、つづけて尋ねました。

「では、なぜその人達は井戸の底で暮してゐたの。」

「もつとお茶をお上り。」と三月兎はアリスに熱心にすすめました。

「わたしまだ何にも飮んでゐませんわ。」とアリスは怒つて言ひました。「それだから、もつとなんて飮みやうがないわ。」

「お前はもつと少しは飮めないと云ふんだらう。何にも飮まないより、もつと多く飮む方か大層樂だよ。」とお帽子屋がいひました。

[やぶちゃん注:原文は“"You mean you can't take less," said the Hatter: "it's very easy to take more than nothing."” これは直前の"so I can't take more."というアリスの言い方の揚げ足を取っているようだ。福島正実氏の訳は、『「あんたのいうのはもっと少なくは飲めないという意味だろう」と、お帽子屋がいいました。「ゼロよりもっと多く飲むのは、わけないじゃないか。」』となっている。]

「誰もお前さんの意見なんかききはしないよ。」とアリスが言ひました。

「さあ、人の事をたちいつて喋(しやべ)るのは誰だ。」とお帽子屋は得意になつてたづねました。

 アリスはこれに何と言つてよいか全く分りませんでした。それでアリスは自分でお茶とバタ附パンをとり、それから山鼠の方をむいて又、質(たづ)ねました。「なぜ井戸の底に住んで居たの。」

 山鼠は又一、二分考へてから言ひました。「それは砂糖水の井戸だつたのだ。」

「そんなものはないわ。」とアリスは大層怒つて言ひだしました。お帽子屋と三月兎とは「シツ、シツ。」と言ひました。すると山鼠がふくれていひました。

「もしか前さんが、禮をわきまへなければ、自分でそのお話のけりをつけた方がいいよ。」

「いいえ、どうか先を話して下さい。」とアリスは大層おとなしくいひました。

[やぶちゃん注:最後の句点は底本にはないが補った。]

「わたしもう口出しなんかしませんわ。一つ位(くらゐ)そんな井戸があるかも知れないわね。」

「一つだつて、」と山鼠は怒つていひました。けれどもつづけていふことを承知しました。「さてこの三人の姉妹(きやうだい)は――この三人の姉妹(きやうだい)は、汲みだすことを覺えました。」

[やぶちゃん注:原文は“"One, indeed!" said the Dormouse indignantly. However, he consented to go on."And so these three little sisters—they were learning to draw, you know——"”福島正実氏の訳では後者の部分は『「それで、この三人の姉妹は――、みんな絵を描く(ドロー)のをならっていましたので――」』(「ドロー」は「絵を描く」全体のルビ)とある。以下、次のアリスの台詞が『「その人たちは、何の絵を描(ドロー)いてたの?」』(「ドロー」は「絵を描」の部分のルビ)となり、次の帽子屋の台詞で初めて『「糖蜜を汲んで(ドロー)いたのさ」』(「ドロー」は「汲んで」全体のルビ)と初めて汲むが出る。本訳では“draw”の意味の言葉遊びによる半可通状態が全く訳し出されていない。]

「何を汲みだしたの。」とアリスはさつきの約束を、スツカリ忘れて言ひました。

「砂糖水をだよ。」と山鼠は今度は、チツトも考へないで言ひました。

「わたしはきれいな、コツプが欲しい。」とお帽子屋が口を入れました。「みんな場所を變へようぢやないか。」

 お帽子屋はかう言ひながら動きだしました。山鼠があとにつづいていきました。アリスは少しいやいやながら、三月兎のゐた場所へ坐りました。席をかへた事で得をしたのは、お帽子屋だけでした。アリスは前ゐたところよりズツト惡い場所でした。といふのは三月兎が、今しがたミルク壺を皿の上でひつくり返したからでした。

 アリスは山鼠を、おこらしてはいけないと思ひましたので、大層氣をつけて話しだしました。

「けれども、わたし分らないわ。その人達はどこから、砂糖水を汲みだしたのでしやうねえ。」

「お前さん淡水(まみづ)は、淡水(まみづ)の井戸から汲みだすだらう。」とお帽子屋はいひました。「それぢや砂糖水は、砂糖水の井戸から汲めるわけぢやないか、――え! 馬鹿!」

「でもその人達は井戸の中にゐたんでせう。」とアリスは今お帽子屋のいつた終(しま)ひの言葉には、氣づかないやうな風をして、山鼠にむかつて言ひました。

「無論井戸の中にゐたのさ。」と山鼠はいひました。

[やぶちゃん注:この山鼠の最後の台詞は原文は“well in.”と短い。これは前のアリスの“But they were in the well,”という疑義の言葉尻を食って捻ったものらしい。福島正実氏は前のアリスの台詞を『だけど、姉妹は井戸の中(イン・ザ・ウェル)にいたのよ。』(「井戸の中」全体にルビ)とし、それを受けて『ずっと深くね(ウェル・イン)。』(カタカナは全体のルビ)となっている。また「ポポロ工作室の小さな教養図書館@西の『不思議の国のアリス』 東の『かぐや姫』 ファンタジー世界へ誘う傑作集」(Atelier Popolo 編集)の訳では、『彼女たちは井戸《well》の中で快適《well》に過ごしているんだよぉ。』」となっており(グーグル・ブックスで視認)、青空文庫の大久保ゆう氏の訳「アリスはふしぎの国で」では、『「もちろんせまい。」とヤマネ。「だからそこそこに。」』と粋に洒落ている(因みに、大久保氏は諸氏の多くが「描く」と訳す“draw”を、「かきわける」という語で統一して処理している)。]

 この返事は可哀想(かはいさう)なアリスを、ますます分らなくさせたものですから、アリスはもう口を入れないで、しばらくの間(あひだ)山鼠に勝手にしやべらせてゐました。

「姉妹(きやうだい)たちは、汲みだすことを覺えました。」と山鼠は大層睡たかつたものですから、欠伸(あくび)をして目を擦(こす)りながら言ひました。

「いろんなものを汲みだしました。――M(エム)の字のつくものは何んでも。」

「どうしてMの字のつくものを。」とアリスが言ひました。

「何故それではいけないといふのだ。」と三月兎が言ひました。

 アリスは默つてしまひました。

 山鼠はこの時兩眼(りやうがん)をとぢて、コクリコクリと睡り始めました。けれどもお帽子屋につねられたのでキヤツと言つて目をさましました。そして言ひつづけました。「――先づMの字で始まつて居るものは、鼠わなMouse traps(マウス・トラツプ)、お月さま(Moon(ムーン))、もの覺え(Memory(メモリー))、それから、どつさり(Muchness(マツチネス))、――それにお前も知つてゐる、似たり寄つたり(Much of Muchness(マツチ・オブ・マッチネス))といふものをさ。お前今までに「似たり寄つたり」を汲みだすのを見たことがあるかい。」

[やぶちゃん注:「鼠わな(Mouse traps(マウス・トラツプ)、」の読点は底本にはないが補った。「Much of Muchness」は辞書で見ると、「Much of a Muchness」が英語表現として正しく、実は原文もちゃんとそうなっているのであるが、訂するとルビがおかしくなるのでママとした。福島正実氏の訳では何故か、『似たり寄ったり(Much of the Muchness)』となっており、先に出した「ポポロ工作室の小さな教養図書館@西の『不思議の国のアリス』 東の『かぐや姫』 ファンタジー世界へ誘う傑作集」の訳では、本書と同じ綴りでしかも『「Much of Muchness《=もうたくさん》」』としている(同訳では前の「Muchness」も「Muchness《=とてもたくさん》』としている)。序で乍ら、次のアリスの台詞の中間部の「アリスは全く」の箇所は底本では「アリスはは全く」となっているが衍字と断じて除去した。しかしここにきてこれ、Mのつくものを――汲みだす――ではそれこそ文意を汲むことが出来ぬ。これはやはり――描く――でなくては無理がある。]

「おや、おまへさん今、わたしにものを訊(き)いたのねえ。」とアリスは全くこんがらがつていひました。「わたし知らないわ――。」

「それぢや、お前は話をしていけない。」とお帽子屋が言ひました。

 この失禮な言葉でアリスはもう我慢ができなくなつてしまひました。で、すつかり怒つて、立ち上つて歩きだしました。山鼠は直(すぐ)に寢入つてしまひました。他(ほか)のものはアリスの出ていくのには、氣をとられてゐないやうでした。けれどもアリスは呼び返されるだらうと思つて、一、二度振り返つて見ました。一番しまひにふり返りましたとき、二人は山鼠を急須(きふす)の中に入れようとしてゐました。

「とにかく、わたしはもう決して、あすこへいかないわ。」とアリスは森の中をテクテク歩きながら言ひました。「あんな馬鹿げた茶話會には、わたし生れて初めていつたわ。」

 丁度アリスが、かういひましたとき、気がついて見ると一本の樹に戸がついてゐて、その中に入れるやうでした。「ずゐぶん珍らしいのね。」とアリスは考へました。「でも今日は何から何まで、珍らしづくめだもの。だからやつぱり又、直(すぐ)入つてみてもいいと思ふわ。」さういつてアリスは内へ入つていきました。

 又もやアリスは、長い廣間の内にでました。そしてすぐ側(そば)にガラスのテーブルがありました。「さあ、今度はうまくやれさうだわ。」と獨(ひとり)ごとを言ひながら、金(きん)の鍵を手にとつて、庭につづいて居る戸をあけました。それからアリスは、背(せい)が一尺位(ぐらゐ)になるまで、蕈(きのこ)をかぢり始めました。(アリスは蕈をポケツトに入れてゐたのでした)。それから小さい廊下を通つていつて、そして目の覺(さ)めるやうな花床(はなどこ)や、凉しい泉水のある綺麗な庭にでていきました。

2015/07/29

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅳ) 大正元(一九一二)年 (4)

 十一月二十一日 木曜 

 

朝先生を訪ふ。槳基さし易經を讀み午飯に豚を喰ひて歸る。

 

柳散るや隣の狂女物凄き(國)聲許りして此日暮れつゝ

 

あそこから月が出るらし雜木森

 

又土耳古負けた相など月見哉

 

鳴かず飛ばず故郷で四度月見哉

 

云ひけらく寺に柚味噌禪の味

 

歸りて即興帳を作りて駄句る

 

いひけらく寺に柚味噌禪の味(國)

 

かさかさと壁にすれ合ふ糸瓜哉

 

[やぶちゃん注:「かさかさ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

秋雨を軍歌で歸る兵士哉

 

大佛の顏大きなる枯木立(國)

 

古枯や乾坤捲いて何處へか(國)

 

木枯の吹き殘しけり柿一ツ

 

かしこけれどみあとなつかし菊畑

 

 

[やぶちゃん注:同日文日記全文。「槳基」はママ。他の箇所でも久作は将棋をこう書いている。四箇所に出る「(國)」は何を意味しているのか不詳。謂わずもがな乍ら、「歸りて即興帳を作りて駄句る」は日記本文である。]

 

 

 

 十一月二十二日 金曜 

 

 今日は祖母君の二七日なり。人の一生は日記帳の如し元來白紙のみ。自がじし書き込むなり。生死も亦記事に過ぎず。然れ共維は佛家の説なり。吾之をとらず。

 

 夜長く表紙つめたし日記帳

 

[やぶちゃん注:以下、『午后九時父上歸り給ふ。』(改行)『千葉の地面買決定、奈良原外出の報告』が日記全文。]

 

 

 

 十一月二十三日 土曜 

 

○木枯や四十八灘一息に

 

○木枯の吹き出づる方や沖の島

 

○凩の行衞や何處雲萬里

 

○寢ころべば野菊を雲の行きかひて

 

○靜けさを何に驚く夜長哉

 

○秋の空高天ケ原は其上に

 

○躓いて親指痛し秋の暮

 

 

 

 

 十一月二十四日 日曜 

 

○菊畑此處よりにげし狂女哉

 

○凩や昨夜の夢ももろ共に

 

○木枯しや勘當されし子の行ヱ

 

○茅わけて山へと去りぬ天狗風

 

○鬼ごつこ男にげ込む菊畑

 

○桐の葉で下駄の汚れをぬぐひけり

 

○柳散りて行きつ歸りつ小守哉

 

 

 

 十一月二十五日 月曜 

 

○寢るに惜しき炭火に語り明しけり

 

○百舌の聲須彌壇上の一句哉

 

○小供落ちて無花果熟れて盲井戸

 

[やぶちゃん注:「盲井戸」は「めくらいど」であるが、所謂、筒井筒を持たない、ただすっぽりと開いている井戸を指すようである。古い地誌書を調べると板やコンクリートなどで蓋をしたものとは別に「めくら井戸」という語が並列して出るが、これは井戸の上に吸水システムを作って井戸そのものは地面の下に封鎖してしまうか建物の床下に隠してしまう井戸を指しているように読める。]

 

○通夜の夜や佛のみ覺めて菊の花

 

○木枯や枕に寄する備前物

○袖を眼に鬼燈膝に落しけり

 

○馬の糞喰ひたるあたり女郎花

 

○笛吹いて汽車走り行く枯野哉

 

○木枯や雨戸おそろし夜もすがら

 

〇阿蘇の烟南へ十里秋の風

 

 

 

 十一月二十六日 火曜 

 

〇山里夕日靜に柿の數

 

 

 

 十二月三日 火曜 

 

有り難や木佛金佛阿彌陀佛叩く木魚の音はぽんぽん

 

[やぶちゃん注:「ぽんぽん」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 十二月四日 水曜 

 

火事止みて犬の聲絶えて風過ぎて

 ひややかに殘る冬の夜の月

 

 

 

 十二月八日 日曜 

 

木枯の雲も木の葉も捲き去りて晴れたる朝日心地よき哉

 

寂しさを打てや長谷寺の鐘のこゑ鎌倉五山冬の夜の月

 

吹き散らせ天地も共に木枯よ憂に重き吾命をも

 

 

 

 十二月九日 月曜 

 

茶菓子あり火あり炭あり夜長哉

 

[やぶちゃん注:これを以降の年末の日記には詩歌類は載らない。]

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅲ) 大正元(一九一二)年 (3)

 

 十月八日 火曜 

 

祖母君を看につどうみうち人

 見れば昔を思ひ出でけり

 

秋の夜半湧き立つ蟲の聲ひろき

 中に浮べる有明の月

 

みつむれば不氣味になりぬ秋の月

 

 

 

 十月九日 水曜 

 

◎放屁六歌仙(玉井の許より眞面目なる歌を送り來れる返し)

一、世の中にしかめて笑ふもの一ツ詰込みすぎし鐡砲の音。

二、野も山も黃色き色に染めなして空に澄ませる秋の夜の月。

三、吾ならで誰をか嗅がん夜着の中音をも香をもしる人ぞしる。

四、屁を放れば臭いものとはしり乍ら止むに止まれぬ大和魂

五、飯も茶も斯くなるものか腹の中本來空の佛とひと聲

六、心なき身にもあはれはしられけり音も香もなき秋の一ツ屁

 

[やぶちゃん注:「玉井」不詳。]

 

 

 十月十日 木曜 

 

〇秋日さす鎭守の森に百舌の聲

〇晝もなほ蟲のこゑきく頃となりぬ遠く隔る友をしぞ思ふ。

〇出で舟の行衞や何處しら雲の水に沈める秋の海原

〇鬼神も夫婦の仲も和らぐる屁にまさる歌あらじとぞ思ふ。

〇遠からば音にもきけや百舌鳥の聲金風百里武藏野の原

 

[やぶちゃん注:「金風」老婆心乍ら、「きんぷう」とは秋風のこと。五行説で秋は金に当たることに因る。]

 

 

 十月十一日 金曜 

 

〇遠からば音にもきけや都鳥金風百里武藏野の原

〇男の子らよ夢と思ふな天地の力の凝此身心をば

 

[やぶちゃん注:前歌は前日の改作であるが、語呂は良くなった代わりに陳腐化し、百舌の鋭いSEの方が遙かに好ましいと私は思う。後者下の句の読み方が私には分からない。]

 

 

 

 十月二十日 日曜 

 

長谷寺の鐘に枕をもたぐれば窓に棚引く朝やけの雲

見渡せば岬に寄する白波に夕陽くだくる秋の海原

山舟の行ヱや何處白雲の果に連る秋の海原

 

[やぶちゃん注:「山舟」意味不詳。]

 

 

 

 十月二十六日 土曜 

 

 花も實も斯くなるものか冬木立とかや。祖母君の病に侍りて只夢の如く幻の如く折々の苦痛を訴え給ふ傍歌(小時の名)早くお母さん子供を取つておやり。晚飯も喰はず守りしよろうが。早く入れておやり。誰が命のお山も同じ事。さてふずに行かう。手を引いて。早く早く。皆早くお休み。夜遲くなると朝ねむい。何事となく平生の口癖を仰せらるをきゝて枯木の如き頰に熱の爲に紅をさし。瘠せたる手を擧げて何事か爲給はむとするを見れば生命とはかゝるものかと思ひて佛家の言のまことなるかと思はれつ。

 田の中に棄てた大根の花盛り。

 

[やぶちゃん注:以上は二十六日の日記全文である。この四日前の十二十二日より二日ほど、小康状態にあった祖母が昏睡に陥った。二十四日朝には覚醒して会話もするようになったが、徐々に様態は悪化している雰囲気が日記から伝わってくる。この前日の二十五日 (金)の条には、『今日も昨日と同じ御容態なり。「便所に連れて行つて何卒、早く早く、拜むから。よう」藥口癖の如く仰せらる。朝の程より雨なり。秋も早や半過ぎたりと覺し。今年は正月元日に弟死に七月に父病み今月は祖母君の病篤し。御大喪乃木將軍の死何れにしても面白からぬ年なりき』(全文)と記している。祖母友子のそれは一種の譫言(うわごと)で、脳に障害をきたし始めている様子である。「傍歌(小時の名)」というのがよく分からないのであるが、夢野久作は祖父三郎平とこの祖母友子(厳密には継祖母)の寵愛を受けて育ってたのだが、久作の母は家風に合わないという、真相はよく分からない理由によって久作二歳の時に離縁させられている(婚姻の際にはこの祖母友子が懇請して彼女を貰っているにも拘わらずである)。この久作の実母は――高橋ホトリ――という。この実母の「ホトリ」と「傍歌」の「傍」には何か関係があるか? 因みに夢野久作の本名は直樹である。]

 

 

 

 十月二十九日 火曜 

 

 衛祖母樣本日朝來軟便二回通薬物の效力を認む。脉迫八十。六度二三分。覺め給ふも眠り給ふも唯夢の如く幻の如く覺むるとも無くねむるとも無し。いと果敢なき心地す。

 午前中奈良原君と海岸を散歩す。

 祖母君の此頃の御詞譫言にはあれ常に可愛相にとか本統にねとか。早く助けておやりよとか一般に同情的なるが多し。曽子の言の眞なるを覺ゆ。

 ○古き世の古き光の姿して

   うつろひて行く秋の夕暮

 

[やぶちゃん注:同日分日記全文。「脉迫」はママ。

「奈良原君」親友奈良原牛之助であろう。頭山満の同志で「玄洋社の殺人鬼」と称された奈良原到(いたる)の子である。

「曽子の言」「論語」の「泰伯」篇にある、『曾子言曰、「鳥之將死、其鳴也哀。人之將死、其言也善」。』(曾子言ひて曰く、「鳥の將に死なんとす、其の鳴くや、哀し。人の將に死なんとす、其の言ふや、善し」と。)を指す。]

 

 

 

 十一月四日 月曜 

 

○事毎に知らでは止まじ知りたらば遂げでは止まじ

○云はね共早しる人の來りけり手を携えて共に行かむと

○腹を立てるが倒れる始め。苦勞したのも水の泡。

○春は三月櫻の花を咲くも散らすも雨に風

○姫百合の花も実も無き心もて雨にしをるゝ姿やさしさ。

○裏表ないとは云へど妾が心單二重じや御座んせぬ。□□思がね真綿なら。〆て上げ度い主の首。(を綿にして着せて上げ度い絹布団。)

 

[やぶちゃん注:同日分日記全文。「じや」はママ。「□□」は底本の判読不能字。]

 

 

 

 十一月二十日 水曜 

 
歸りの汽車中にて

 寂しさに留守を柿喰ふ女哉

 ⦅雪殘る山嶺を連ねて越後哉 東洋城⦆

 悲しさや黄菊白菊祖母の墓

 芭蕉塚誰が參ゐりけむ菊一枝

 霜深き雜木林の野菊哉

 眼覺むれば障子にうつる吊し柿

 小春日や障子に座せし母の影

 粥洗ふ土鍋にたかる目高哉

 釣場まで川添ひ三里蘆の花

 

[やぶちゃん注:同日分全文。「松根東洋城」は漱石門下の俳人(俳号は本名の豊次郎を捩ったもの)。伝統的な品格を重んじ、幽玄・枯淡を好んだ。句に「春雨や王朝の詩タ今昔」等。久作より十一年上で、この当時は宮内庁の役人であった。芥川龍之介は彼をリスペクトしていた。

 この前日の十一月九日(土)に祖母友子が逝去した(同日分日記は『此日午后九時祖母君逝き給ふ。』とあるのみ)。その前日の十一月八日(金)の日記には以下のようにある(全文)。

   *

 此夕祖母君の脉膊稍怪くどよめき始めぬ。東京に金策に出でし父上歸り給ひ折柄知らせによつて馳けつけし醫師竹内氏と共に皆枕頭に集まりぬ。祖母君は昏々として寐上に寢ね給ふ。御色愈白く御姿益々氣高く唯輕く喘ぎ給ふのみ。血と粘液を交えたる殆ど眞赤なる便臭なき便を排泄し給ふ。醫默して言はず。父も決然と起ちて次の間に退ぞきぬ。噫二十有四年父よりも母よりも吾を撫育し給ひし祖母上も遂にかくならせ給ふ。男乍ら胸迫りて得堪えず。

 夜半人無き折竊に耳に口つけて強く低く御祖母さんと呼びしに半ば眼をあけて此方を見給ふ。手を捏るに握りかへし給へり。以て生涯の記念とす。

   *

と記している。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 元箱根から静岡を経て名古屋へ到着

M649

図―649

 

 翌朝は八マイルを駕籠で行く可く、夙(はや)く出発した。この運輸の方法は、如何に記述しても、それがどんなものであるか、まるで伝えない。第一、一台の駕籠に人が三人つき、彼等はかわり番に仕事をする。四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした。箱根には――恐らく他の場所でも同様であろうが――外国人向きにつくった、余程長く、そして重い特別な駕籠がある。彼等は駕籠を担って、道路を斜に行く(図649)。更代は屢々行われる。二人がかつぎ出して、坂路では約九十歩、平地では百四十歩を行き、そこで持っている竹の杖で駕籠を支えて肩を更え、再び同じ歩数を進むと、予備の男が前方の男と更代し、更に肩を更えた後、前に駕籠を離れた男が、後方の男と更代する。坂を下りたり、平地を行ったりする時には、彼等は一種のヒョコヒョコした走り方をし、連続的に奇妙な、不平そうな声を立てる。各人の肩にかかる重さは、すくなくとも百斤はあるが、これで休みなく、坂を上下して、八マイルも十マイルも行くのだから、体力も耐久力も、大きにある訳である。

[やぶちゃん注:この649図面白い。図だけを示して「何が書いてあるか?」ってちょっと人に質問してみたくなる。

「八マイル」十二・八七キロメートル。

「四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした」「第三章 日光の諸寺院と山の村落 9 モース先生駕籠に乗る――その決死のスケッチ!」を参照。

「百斤」既注。原文“a hundred pounds”。約四十五・三六キログラム。

「十マイル」十六・〇九キロメートル。]

 

 この陸路の旅の旅程記を記憶することは困難であった。我々にはある日が一週の何曜日であるか一月の何日目であるか、判らなくなって了った。ある時駕籠旅行は素晴しく、ある時は飽々させた。美しい景色を見た。広くて浅いい河にかけた長い橋をいくつか渡った。興味のある茶店で休んだ。そしてあらゆる時に、この国民を他のすべての上に特長づける、礼儀正しい優待を受けた。我々は随所で、古い陶器や絵画やそれに類したものを探して、一時間前後を費し――浜松と静岡には一日いた――名古屋には数日滞在した。この旅行で気のついたのは、我々が泊った旅舎の部屋が、標語或は所感で装飾してあることで、そしてそれ等は翻訳されると必ず自然の美を述べたものか、又は道徳的の箴言、訓戒かであった。酒を飲む場所にあるものでさえ、これ等の題言の表示する感情は、非常に道徳的なものである。私は日本では酒場は見たことが無いが、これ等の上品な所感や、道徳的な格言を見た時、我国に於る同程度な田舎の旅籠(はたご)屋と、公開の部屋部屋で普通見受ける絵画とを、思い出さずにはいられなかった。このような所感の多くは、支那の古典から来ている。四つか五つの漢字が、如何に多くを伝えるかは、驚くばかりである。一例として、ここに Facing water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたものがあるが、これを我々の言葉で完全に述べると、「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」ということになる。これがどこ迄正しいか私は知らぬ。翻訳は我々の通辞がやったのである。

[やぶちゃん注:「Facing water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたもの」「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」この五字から成る漢文(詩文?)は一体何だろう? いろいろ考えてはみたのだが、完全にぴったりくるものを私は想起し得ないのである。「荘子」みたような、禅語みたような……さても識者の御教授を切に乞うものである。]

 

 駿河の国の静岡に到着した時、そこでは虎列刺(コレラ)が流行して、一日に三十人も四十人も死んでいた。大きな旅館は閉鎖してあり、我々は大分困難した上で、やっとその一つに入ることが出来た。主人は、万一虎列刺に因る死人が出ると、それが大きに彼の旅館の名声を傷つけるといった。我々は人力車を下りもしない内に、既に手早く消毒されて了った。人々は誰でも、簡単な消毒器を持っているらしかった。これは石炭酸の薄い溶液を入れた、小さな鉄葉(ブリキ)の柄杓の上部に、ハンダで鉄葉の管をつけた物である。他の場所でも我々は、まるで我々が病毒を持って来たかの如く消毒液の霧を吹きかけられた。ドクタア・ビゲロウはある所で、一軒の家の入口に立っていた男が、彼に向って、宛かも刀で彼を斬り倒すような、力強い身振をしたといった。このような敵意のある示威運動は、極めて稀にしか行われぬことである。私はたった一度しか、これに似た敵意を含む身振を経験していない。東京で娘と一緒に歩いていた時、ゆっくりと千鳥足で歩いて行く三人の男を追い越した。我々は人に追いつき、そして断らずに彼を追い越すことが、失礼であるとされているのを知らなかった。我々の無礼を憤った一人は、先へ走って行き、振り向いて路を塞ぎ、我々を斬り倒す如く、空想的な刀を空中に振り上げた。彼の二人の仲間は、笑いながら彼を引き捕えて、連れ去った。明かにこの男は、多少酔っていたのである。ドクタアがこの経験をした直後、田舎路を歩いて行くと、二人の中年配の、相当な身なりをした日本人が、通り過ごす我々に向って、非常に丁寧なお辞儀をした。有賀氏は、この行為は彼等の外国人に対する尊敬を示すものであるといった。

 

 我々は静岡で二泊し、まる一日を蒐集に費した。私は目的物がありそうな所へは、どこへでも入り込んだ。悪疫の細菌を持っていそうな物を決して食わず、また、これは元来日本ではめったにやらぬことだが、水を飲まぬように、常に注意している私には、この流行病はすこしも恐しくなかった。翌朝夙く我我はバネの無い、粗末な、ガタガタした駅馬車で出立し、およそこれ以上の程度のものは想像も出来ぬ位ひどく揺られた。正午、高い丘の脈の頂上に達した時、ドクタアは愛想をつかして馬車を思い切り、私もまたよろこんで彼の真似をした。フェノロサと有賀とは旅行を続けたが我々は午後三時迄仮睡し、各々二人引きの人力車をやとって、遠江の浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った。その晩我々は富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊を見た。彼等は道路に面して開いた大きな部屋を占領して、円陣をつくっていた。一人一人、手に固い扇子を持ち、それで拍子を取ってから、妙な踊と唱歌とをやったのであるが、先ずある方向を向き、次に他の方向を向き、円陣は一部分回転した。それは気味の悪い、特異的な光景であった。踊り手達は、我々が彼等の演技に興味を持ったことをうれしく思ったらしく、私に一緒に踊らぬかとすすめた。彼等は白い布で頭をしばっていた。この踊をする前に、私は彼等が二階の一室で、跪き、踊り、歌を唄うのを見たが、これは明かに富士の為に下稽古をするものらしかった。

[やぶちゃん注:「遠江の浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った」の「我々」は先に着いていたフェノロサと有賀と合流した「我々」である。

「富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊」この人々の恰好は確かに富士講のそれであるが、この踊りは何だろう。山王を祭るものや時宗の踊り念仏にも似ているように思われるが、私にはよく分からない。こうした祝祭の踊りが当時の富士講での成就歓喜の当たり前のものであったものか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

 幾分、憂欝な雰囲気で気をめいらせながら、虎列刺に襲われた浜松を後にした我々は、途中急な溪谷へさしかかり、車夫達は人力車を曳き上げるのに苦しんだ。半分ばかり登ったところで我々は、如何にも山間の渓流と見えるものが、谷の側面を流れ落ちるのに出合つた。フェノロサと私とは、誘惑に打ち勝つことが出来ず、ドクタア・ビゲロウがその水を飲むなというのも聞かず、僅かではあるが咽喉を通した。すると水は、如何にも気がぬけていて、美味でない。やがて谷の頂上に達すると、そこには広々とした水田があり、我々が山間の溪流だと思ったのは、この水田の排け水だったのである! 我々がどんなに恐れ驚いたかは、想像にまかせる。

[やぶちゃん注:この場所を特定出来る方、よろしく御教授下さい(藪野直史)。]

 

 翌日は人力車で豊橋まで行き、次の朝には陶器狩りをやって、よい品をいくつか手に入れた。その次の朝は十時に出発し、夕方大都会名古屋に着いた。ここで我々は四日滞在し、ドクタア・ビケロウは漆器と刀の鍔を、フェノロサは絵画をさがし、私は陶器を求めて、あらゆる場所を探索した。私が陶器いくつかを買い求めた、権左と呼ぶ人のいい老人は、私の探索に興味を持ち、我々をこの都会の一軒の骨董屋から他の骨董屋へと案内する役を買って出た。物を買うごとに口銭を取ったかどうか私は知らぬが、とにかく彼は我々の包みを持ち、あまり高いと思うものは値切り、彼が連れて行ってくれねばとても判らぬような場所へ我々を案内し、商人共に彼等の宝物を我々の部屋へ持って来させ、最後に私が買った陶器を荷づくりすること迄手伝った。これは二つの大きな箱に一杯になったのを、東京へ送った。我々が泊った旅館には、大きな卓子(テーブル)や椅子があり、非常に便利だった。商人達はしょつ中我々の部屋へ来たが、同時に八人、十人と来たこともあり、そして商品を床の上にひろげた。我々はいよいよ出発という時まで買物をした。そして私は陶器の蒐集に、いくつかの美事な品を附加した。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、七月二十七日に元箱根を発った一行は、その日とその翌日と静岡で二泊、『ついで浜松と豊橋にそれぞれ一泊したのち、八月一日の夕方に名古屋についたらしい。名古屋では四日間滞在、知り合いになった骨董屋の桜井権三に案内されて、モースは多くの陶器を仕入れている。』とある。

「口銭」原文“a commission”。老婆心乍ら、「こうせん」と読み、売買の仲介をする際の手数料を言う。]

 

 権左は私を名古屋の外辺に住んでいる、彼の友人のところへ連れて行った。この男はフジミと呼ばれる窯の創業者であるが、私はここで午前中を完全に賛した。儀式的な茶が私のために立てられ、この陶工が私の面前で茶を挽いた。彼が見せた古い陶器の蒐集中には、見事な品も多く、又彼は私に絵を画いてくれ、その代りとして私にも彼の為に絵を画くことをたのみ、私をその翌日茶の湯(茶の礼式)へ来いと招く等、我々は興味ある数時間を送った。家族の人々は私をこの上もなく親切に取扱ってくれ、私が坐っていた張出縁には冷水を充した、大きな浅いい漆塗の盥(たらい)を置き、娘がこの水越しに私をあおいでくれた。このようにして出来た涼風は、誠に気持がよかった。

[やぶちゃん注:この最後のシーン、まさに文章から少女の仰ぐ冷風が肌に感じられるほどに心地良い。なお、以下、その翌日に招待された茶の湯の観察記載が実に邦訳の段落数で十段も続く。

「フジミ」底本では直下に石川氏による『〔?〕』という割注が入るが、これは現在の名古屋市中区大須上前津の不二見焼、この陶工は初代村瀬八郎右衛門と断定してよいと思われる。通称八郎右衛門こと村瀬美香(びこう 文政一二(一八二九)年~明治二九(一八九六)年)は旧尾張名古屋藩藩士の陶芸家。義父市江鳳造(ほうぞう)に陶法を学び、嘉永五(一八五二)年に自宅に窯を開いて茶器を焼いた。「不二見焼」と称し、銘は「望岳」「不二山人」(ここまでは講談社「日本人名大辞典」に依る)。愛知県陶磁資料館公式サイト内の仲野泰裕氏の「窯場今昔100選」の(20) 不二見焼 (ふじみやき)によれば、この上前津の自宅は「風月双清村舎」と称した別邸で、その『庭に窯を築き、瀬戸から招いた技術者4人と父子併せた6人で製陶業を開始した』とあって、その後の経緯などが実に詳しく語られているので必見であるが、そこに『美香の趣味のやきものからこの頃までの作品の一部が、ボストン美術館のモースコレクションの中に茶碗、水指、花器など17点が認められる』とある。これはまさにこの時、じかにモースが美香から買い求めたものに違いない。因みに、ここは指物師であった私の義母の父の家のごく近くなので非常に驚いた。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 元箱根にて

M647

図―647

 

 箱根に於る我々の旅舎は、石を投げれば湖に届く位のところにあり、向うには湖水をめぐる山々の上に、富士が高くぬきんでて聳えている。ここは海抜二千フィート、湖の水は冷くて澄み、空気は清新で人を元気にする。私の鉛筆は如何なる瞬間にも忙しく動いて、景色のいい場所を写生していた。図647は颱風に伴う強い風に抵抗するべくつくられた、丈夫な垣根の一種である。道路に沿うた家ではどこでも、紡いだり織ったりすることが行われつつある。図648は米の袋その他の荒っぽい目的に使用する、粗造な藁の筵を織っている女を示す。

M648

図―648

 

[やぶちゃん注:一泊目の宿である元箱根の景。

「海抜二千フィート」六百九・六メートル。現在の正確な標高はウィキ元箱根によれば、七百三十一メートル(二千三百九十八フィート)である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 箱根寄木細工

 

 二つの部屋が相接する家にあっては、これ等の部屋は床にある溝と、上から下る仕切との間を走る、辷る衝立(ついたて)で分たれるに過ぎぬが、この仕切の上の場所は通常組格子の透し彫りか、彫刻した木か、形板で切り込んだ模様かで充してある【*】。これ等の意匠の巧妙と趣味、及び完全な細工は、この地方に色木の象嵌細工をつくるのに従事する人が多いことに因る。箱板は色をつけた木の、いろいろな模様によって、美しい効果を出した箱や引出のある小箱や、それに似たものを盛に製造する土地である。

[やぶちゃん注:箱根の寄木細工(よせぎざいく)は、『様々な種類の木材を組み合わせ、それぞれの色合いの違いを利用して模様を描く木工技術で』、『日本においては神奈川県箱根の伝統工芸品として有名であり』、二百年ほどの歴史を持つとウィキ寄木細工」に記されるほどにここ箱根が有名である。足柄下郡箱根町畑宿の株式会社金指(かんざし)ウッドクラフトの公式サイト内の箱根寄木細工の歴史に詳しい。それによれば、『箱根細工は、轆轤(ろくろ)を使って器やお盆を作る「挽物細工」と、板材を組み合わせて箱や箪笥を作る「指物細工」に大別され』るが、『箱根地方は日本国内でも特に樹種の多い地域で、古くから多くの木工芸品が生産され』、『戦国時代には既に箱根の地で木工芸品が作られていたという記録が残っており、当時は挽物細工が盛んに作られていた』らしいとあって、特に江戸時代になって東海道が整備されると、『湯治土産として箱根細工は広く知られるようにな』ったと概括する。寄木細工のルーツは十七世紀半ば、『駿府の浅間神社建立にあたって全国から集められた職人によるものと考えられて』おり、それから約二百年の間に『寄木細工の技術は静岡で発展し』たとある。江戸中期に湯治で箱根が賑わうようになると、『従来の挽物細工のほかに、指物細工も多く作られるようになり』、江戸後期、畑宿に生まれた石川仁兵衛(寛政二(一七九〇)年~嘉永三(一八五〇)年)『が静岡から寄木細工の技術を持ち帰り、それを取り入れた指物細工を作り出し』、ここに本格的な箱根寄木細工が誕生したと記す。以下、モース来訪の前後に亙る「海外に紹介された寄木細工」の叙述を引用させて戴く。

   《引用開始》

ペリー(17941858)の来航によって下田が開港すると、畑宿の「茗荷屋」が海軍へ売り込みをかけ、箱根細工は定番の土産物になります。横浜が開港すると、漆器、陶器などに混ざって寄木をはじめとする箱根細工も輸出され、神奈川一帯の発展に大きく寄与することになりました。

シーボルト(17961866)も江戸参府の際に箱根に立ち寄り、寄木細工を見たという記録が残っています。実際、彼がオランダに持ち帰った工芸品の中に、寄木細工をあしらったものがあります。

明治30年代、湯本茶屋の物産問屋、天野門右衛門らが中心となり、「箱根物産合資会社」が誕生します。箱根物産合資会社は数々の外国商会と活発な取引を行い、寄木細工を世界に発信して行きました。1904年、箱根物産合資会社はセントルイス万国博覧会に寄木細工を出品します。

   《引用終了》

1904年は明治三十七年である。一時、衰退したものの、引用先の「金指勝悦」などの努力により再び盛り返している(私は実は個人的に箱根の寄木細工や木製こけしに対して幼年期のある記憶から特に強い愛着を持っている。今も目の前の書斎の本棚にそれらは飾られてある)。]

 

 

* この細部を欄間と呼び、私が見た多くの興味ある形式は『日本の家庭』に記載してある。

[やぶちゃん注:既にこの欄間の箇所の一部を「第十七章 南方の旅 欄間」の注で図入りで紹介した。今回は、“Japanese homes and their surroundings”1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」から、まさにそこで引用した箇所の直前の部分ある(二段落前)、まさにここ箱根村で見てスケッチした部分の解説と附図(キャプションとも)を引用させて戴く。これはまさに本段落をよりよく理解するためには欠くべからざる、学術的にも翻訳著作権の侵害に当たらぬ正当なる範囲での引用であると信ずる。二つ目の段落(『そして、丹念に仕上げてゆく。』)の次が改行されてリンク先の『大和の五条にある旧家の欄間は、……』に繋がっているので、続けて読まれることをお勧めしておく。スケッチは底本では本文の各所に配されてあるがここでは前に纏めて出した。ルビは総て同ポイントであるが、私の判断で拗音化してある。言わずもがなであるが、「ソリッド・プランタ」の読みは「硬質の板」に対するルビである。また、当該書原文でモースは和名をramma、解説のある箇所では英語圏の読者に理解出来るように“panel”と記している。

   《引用開始》

Jh144

144図 箱根で見た欄間。

Jh145

145図 竹の欄間。

Jh146

146図 東京にある磁器製の欄間。

Jh147

147図 竹と透彫の板とも組合わせた欄間。

 

 一四四図に示した模様は、箱根村の旧家の欄間のものである。その部屋はかなりの大広間で、欄間は四面からなっており、欄間の長さは約二四フィートくらいであった。竹の簡素な格子細工は欄間には格好のしかも一般的な意匠(デイヴァイス)である。一四五図はこの種の素朴なものの一例で、よく見かける。東京のさる家で、同様の意匠で磁器製のものを見たことがある(一四六図)。――中央部縦の模擬竹はあざやかな紺色で、水平にしつらえた細めのものは白色であった。透彫でなくとも、模様のあいだの部分的な空間はそのままつぎの部屋に通じている。この素通し(オープン)の欄間があるため、襖を締めきった場合でも、部屋の通風がじゅうぶんに確保されるのである。透彫板と竹格子とを組み合わせたものもよく用いられている(一四七図)。

 意匠と製作の面で高度な技術を必要とする欄間の場合は、木彫職人(ウッド・カーヴァー)は硬質の板(ソリッド・プランタ)に下絵(デザイン)を描き、ついで下絵の周囲の木部を削り取り、これによって下絵を浮き出させる。そして、丹念に仕上げてゆく。

   《引用終了》

・「二四フィート」七メートル三十センチメートル強。]

M644_645図―644

図―645

[やぶちゃん注:右の平面図が「644」、左の立体図が「645」。]

M646

646

 

 各種の木片は、図644に示す如く、膠でしっかりくっつけて一の塊となし、それを図645のように横に薄く切ってその他の形式のものと共に、箱の蓋や引出の前面を装飾するのに用いる。以上二図は実物の二分一大である。図616は灰に埋めた僅かな炭火の上に膠壺を置き、細工をしている人を写生したものである。意匠は際限無くこみ入っているが、それに就て面白いことは、細工に用いる道具が、あたり前の大工道具に過ぎぬらしいことである。細工人は床に坐り、仕事台として大きな木片を使用する。

[やぶちゃん注:箱根町湯本の有限会社本間木工所の公式サイト内の寄木細工体験教室案内ページにある『伝統的文様の寄木コースター』の紋様が図644に近い。何時か、モースの描いたものと同じもの同じ形のものを探してみたい。]

2015/07/28

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  圓覺寺

    ●圓覺寺

圓覺寺は瑞鹿山と號す。鎌倉五山の第二なり。弘安五年十二月八日相摸守北條時宗の建(たつ)る所。開山は宋僧佛光禪師〔名は祖元字は子元〕なり。外門は已になし。總門には瑞鹿山の額を掲く。

[やぶちゃん注:やや長いので、段落ごとに注する。

「弘安五年」一二八二年。]

後光嚴天皇の宸筆なり。山門の額には圓覺興聖禪寺とあり。當初開堂の日白鹿(はくろく)群來し。又此地を開く時圓覺經を掘獲せしを以て山號寺稱(さんがうじしよう)とせり

花園天皇の宸筆ところ承りぬ。山門の製作は建長寺と異なるなし。佛殿には大光明寳殿と題せる額を表(へう)す。

[やぶちゃん注:「ところ」はママ。「とこそ」の誤植か。]

是れ亦後光嚴(ごくわうごん)天皇の宸筆に係る。其の下又額あり。表面に祈禱裏面に修正〔夢窓筆〕の文字(もんじ)を記せり。本尊寳冠の釋迦佛を安置す。脇士梵天帝釋は。卿殿の作なり。永和二年十月再興。永祿年中火災に遇ひ。寬永二年再建すと云ふ。方丈は聖觀音の木像を安置す。其の後山を白鹿洞といふ。上に鹿岩あり。鐘樓は佛殿の南の方山(やま)の上に在り。石階(せきかい)を蹈(ふん)て登るベし。洪鐘高さ八尺。掛くる用の鐡環(てつくわん)は劍工正宗の作る所といふ。銘文は左の如し。

[やぶちゃん注:「卿殿」不詳。識者の御教授を乞う。

「永和二年」一三七六年。

「永祿年中」一五五八年~一五七〇年。

「寬永二年」一六二五年。

「八尺」二・四二メートル。

 以下、鐘銘には一部に漢字の誤りがあるので「新編鎌倉志卷之三」に載るそれで訂した。]

   相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘銘

鶴岡之北富士之東。有大圓覺。爲釋氏宮。恢廓賢聖。蹴蹈象龍。範圍天地・槖籥全功。鎔金去鑛。鍛鍊頑銅。成大法器。啓廸昏蒙。長鯨吼月。幽谷傳空。法王號令。神天景從。祐民贊國。植德旌忠。停酸息苦。超越樊籠。高輝佛日。普扇皇風。浩々湯々。聲震寰中。風調雨順。國泰民安。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日。大檀那從四位上行相摸守平朝臣貞時勸緣同成大器。當寺住持傳法宋沙門子曇謹銘。

[やぶちゃん注:この銘は「當寺住持傳法宋沙門子曇謹銘。」以下の最後の部分が省略されている。以下に「新編鎌倉志卷之三」に載るものを示す。

   *

勸進者舊僧宗證、奉行、兵部橘朝臣邦博、同兵庫允源朝臣仲範、大工、大和權守物部國光、掌財、監寺僧至源、道虎、此月十七日巳時、大鐘昇樓、洪音發虛、謹具名目于后、喜捨助緣僐信、共壹千五百人、本寺僧衆、貮百三十員、大耆舊、慧寧・覺眼・宗證・道範・頭首、覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。

   *

以下、「新編鎌倉志卷之三」の私の注で私が試みた全文(ここで省略されたものをも含む)訓読文とオリジナル注を示しておく。

   *

   相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘の銘

鶴が岡の北、富士の東、大圓覺有り。釋氏の宮と爲(な)す。賢聖を恢廓(かいかく)し、象龍を蹴蹈(しゆうたう)す。天地を範圍して、槖籥(たくやく)功を全きす。金を鎔し、鑛を去り、頑銅を鍛錬す。大法器を成して、昏蒙を啓廸(けいてき)す。長鯨月に吼す。幽谷空に傳ふ。法王の號令、神天景從(けいぢゆう)す。民を祐け、國を贊(たす)け、德を植ゑて、忠を旌(あら)はす。酸を停め、苦を息む。樊籠を超越す。高く佛日を輝かし、普く皇風を扇ぐ。浩々湯々として、聲、寰中に震ふ。風調ひ、雨順ひ、國泰かに民安し。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日、大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時、緣を勸め、同じく大器を成す。當寺の住持、傳法、宋の沙門子曇謹みて銘す。勸進は舊僧宗證。奉行、兵部橘(たちばな)の朝臣邦博(くにひろ)。同兵庫の允源の朝臣仲範(なかのり)。大工、大和權の守物の部の國光。掌財、監寺僧至源・道虎。此の月十七日巳の時、大鐘樓に昇り、洪音虛に發す。謹みて名目を后に具ふ。喜捨助緣の僐信、共に壹千五百人、本寺の僧衆、貮百三十員、大耆舊は、慧寧・覺眼・宗證・道範、頭首は覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事は聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂(せいだう)は德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。

・「恢廓」広く大きなさまを言うが、ここは禅門として広く学僧聖賢のために門戸開いて、の意。

・「象龍を蹴蹈す」の「象龍」は聖人高僧の比喩で、「蹴蹈」は中国語では蹴躓けつまずくの意であるが、そうした聖賢が必ず足を留める、という意であろう。

・「槖籥」蹈鞴(たたら)で用いる鞴ふいごのこと(槖は袋状の物、籥は笛(吹管)の意)。

・「鑛」精錬していない金属。荒金。

・「啓廸」啓発と同じい。

・「景從」は影のように必ず伴うこと。いつも一緒にいること。

・「贊け」は前の「祐け」と同じい。

・「樊籠」は「ばんろう/はんろう」と読み、煩悩に縛られていることを言う。

・「正安三年」は西暦一三〇一年。

・「大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時」第九代執権北条貞時。

・「子曇」は最後に示される宋から渡来した当代の円覚寺住持西澗子曇(せいかんすどん)。

・「大耆旧」の「耆」は六十歳の意で、式典での賓者たる大年寄り。

・「頭首」は式典の実務指揮者のことであろう。

・「師侃」は音読みなら「シカン」。

・「知事」は通常、禅宗に於いては六知事のことを指す。即ち、庶務雑事を司る六つの役職で都寺(つうす:総監督。)・監寺(かんす:住持代理で実務責任者。)・副寺(ふうす:会計。)・維那(いの:実務担当者。)・典座(てんぞ:斎糧全般。賄方。)・直歳(しっすい:伽藍修理や寺領の山林田畑の管理及び作務一式担当。)の総称であるが、ここでは鐘竣工の儀式の庶務方の意であろう。七人いる。

・「西堂」は中国で古来、西を賓位とすることから、禅宗で当該所属寺院の先代住職を「東堂」と呼ぶのに対して、他の寺院の前住職を敬意を込めて呼ぶ際に用いる語である。

・「德凞」は音読みなら「トクキ」。]

妙香池方丈の北に在り。

蒼龍窟は妙香池(めうかういけ)の左山足にあり。

開山塔は方丈の西北に行くこと四五町の處に在り。正續院と名く。門に萬年山の額を掲く。即ち佛光禪師の祠堂なり。龕中木像を置く其の精工覽るべし。山上に坐禪窟あり。禪師の趺坐せし舊跡なり。

[やぶちゃん注:「四五町」四百三十七~五百四十五メートルほど。]

三浦導寸の墓は。境内(けいない)の北邊にあり。

塔頭には佛日菴 桂昌菴 傳宗菴 白雲菴 富陽菴 壽德菴 正傳菴 萬富山續燈菴 傳衣山黄梅院 如意菴 歸源菴 天池菴 藏六菴 龍門菴 海會菴 東雲菴 慶雲菴 珠泉菴 正源菴 寶龜菴 臥龍菴 利濟菴 定正菴 瑞光菴 大義菴 長壽院 瑞雲菴 寶珠院 靑松菴 大仙菴 等慈菴 妙光菴 頂門菴 雲光菴ありしよしなれども。今は大抵廢絶せり。存する者少し。但本寺の什寳は最も多し。今之を記せす

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  東慶寺

    ●東慶寺

東慶寺は松岡山と號す。比丘尼寺(びくにでら)にて。臨濟宗なり。北條時宗の室(しつ)秋田氏の開創せる所。秋田氏は義景の女(むすめ)にして。北條貞時の母なり。潮音院覺山志道和尚と號す。時宗は弘安七年四月四日に卒す。明年落飾して當寺を建立す。十月九日開山忌を行ふ。

本寺には明治以前一種の法規(はふき)あり。卽ち良人の邪見無道(じやけんぶだう)なる爲め。薄命に陷れる婦女。本尊に驅入れは。其の事情を糺し。其の次第に因り。夫婦の赤繩を別離し二十四ケ月間入院せしむること是(これ)なり。故に昔時(せきじ)は出入を誰何し。男子を禁せり。

延享二年十月。東慶寺役人村上嘉太夫か奉行所に差出せる同寺の由來書に云。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

鎌倉東慶寺開山覺山至道和尚は。北條平時宗室秋田城之介義景息女にて御坐候。平貞時へ覺山和尚願候は。乍出家息女子之事に候は。利益之種も無御座候。就夫女と申候は。不法の夫にも身を任せ候事も尋常に候得共。女之狹き心にては。風と邪之思立にて自殺などいたし候ものの有之事に候間。三ケ年之間當寺に相抱。何卒緣切候て。身輕に成候寺法相願候由。依之貞時被

天聽に。其意に任せられ候。其後第五世用堂和尚は。後醍醐帝之姫宮にて。此節御願被成。緣切女三ケ年辛勞成勤不便の儀に思召。二十四ケ月を限に被レ成候得は。出入三年に有之候故。月數御改被成候由。其後第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之姫君にて御座候。〔下略〕

かゝる寺法なれは。學者には議論甚だ多かりし。明治四年に至り官(くわん)之(これ)を禁せり。

山門には東慶總持禪寺の額。佛殿には祈禱の額を掲(かゝ)け。金銅のの釋迦、文殊、普賢の三像を安置す。寛永十一年十月駿河忠長卿の舊館を移し賜ひて建立せしよし。方丈脇寮等皆然り。

皇女用堂尼王〔應永三年丙子八月八日入寂〕の御墓(おんはか)。天秀尼公〔正保二年乙酉二月七日示寂〕の墓碑は。總て寺後の山麓に在り。皇女の御墓は。岩窟内にて。東西三間南北五間。木柵(もくさく)を廻らし。前面に鳥居を建つ。現に宮内省の管轄に屬せり。

[やぶちゃん注:「秋田氏」秋田城介(じょうのすけ)安達義景(承元四(一二一〇年~建長五(一二五三)年)のこと。頼朝流人時代からの側近であった安達盛長の孫に当たり、後に幕閣で権勢を振るうも、霜月騒動で内管領平頼綱によって滅ぼされる安達泰盛の父である(但し、安達氏は後に復権する。次注参照)。

「潮音院覺山志道和尚」覚山尼(かくさんに 建長四(一二五二)年~徳治元(千三百六)年)。北条時宗正室で母は北条時房娘。堀内殿・松岡殿とも呼ばれた(ここに出るように父の職名で「秋田氏」と呼ばれることは普通はないと思われる)。以下、ウィキの「覚山尼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)、『父義景が出生の翌年に死去したため、二十一歳離れた異母兄泰盛の猶子として養育された。鎌倉甘縄安達邸で育ち、弘長元年(一二六一年)に十歳で北条得宗家の嫡子で十一歳の時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した無学祖元の証言などから仲睦まかったとされ、文永八年(一二七一年)十二月、二十歳で嫡男・貞時を出産。日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。建治三年(一二七七年)には流産をしている』。『弘安七年(一二八四年)四月、病床にあった時宗は無学祖元を導師として禅興寺で落髪(出家)たとき、共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した。時宗は三十四歳で死去し、時宗の死後息子貞時が執権に就任、兄泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、父義景、兄泰盛の後を受けて遠江国笠原荘を領している。弘安八年(一二八五年)に、内管領平頼綱の讒言を信じた執権貞時が、泰盛を始めとする安達氏一族を誅殺する(霜月騒動)。この事件の際、安達一族の子供達を庇護したと見られ、その後の安達氏の勢力回復には覚山尼の存在が大きかったと思われる。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われている。五十五歳で死去』とある。

「弘安七年」一二八四年。時宗の死因は結核或いは心臓病とも言われるが、やはり文永・弘安の役の激務が祟っていると言える。

「延享二年十月」一七四五年。同年九月二十五日に第八代将軍徳川吉宗は将軍職を長男家重に譲っている。

「東慶寺役人村上嘉太夫か奉行所に差出せる同寺の由來書」以下、我流で書き下しておく。

   *

鎌倉東慶寺開山覺山至道和尚は、北條平(たいらの)時宗室、秋田城之介義景息女にて御坐候ふ。平貞時へ覺山和尚、願ひ候は、

「出家乍ら、息女子の事に候はば、利益の種も御座無く候ふ。夫(そ)れ就きて女と申し候はば、不法の夫にも身を任せ候ふ事も尋常に候得(さふらえ)ども、女の狹き心にては、風(ふ)と邪(よこしま)の思ひ立ちにて、自殺などいたし候ものの之れ有る事に候ふ間(あひだ)、三ケ年の間、當寺に相ひ抱へ、何卒、緣切り候ふて、身輕に成し候ふ寺法、相ひ願ひ候ふ。」

由。之に依つて、貞時、天聽に經られ、其の意に任せられ候ふ。其の後、第五世用堂和尚は、後醍醐帝の姫宮にて。此の節、御願成られ、緣切女の三ケ年の辛勞成勤、不便の儀に思し召し、二十四ケ月を限りに成らせられ候得ば、出入り三年に之れ有り候ふ故、月數、御改め成られ候ふ由。其の後、第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之の姫君にて御座候。〔下略。〕

   *

この「東慶寺役人村上嘉太夫」なる者が寺社「奉行」提出したという、東慶寺の『寺例書』(「てらためしがき」と訓ずるか)はかなり知られたもので、そこにはここに出るように開山以来の「同寺の由來」が書かれてある。これについて「鎌倉市史 社寺編」の同寺に条では、『疑問のあるところもあるものであるが』と前置きしつつも、この文書には『はじめは駈入の際離縁状を差出させず当山に入れ、二十四ケ月相勤めれば縁を切れることになっていたが、下山した女に元の夫が難儀を申しかけ、出入に及んだので、寺社奉行永井伊賀守直敬』『の命で、縁切証文及び親元の証文を整えるようになったとあるが、長井直敬は元禄七年(一六九四)より宝永六年(一七〇九)の間寺社奉行であるところからみて、この時代にはすでに縁切寺法が実施されていたことを知ることができる』とある。なお、この永井直敬(なおひろ 寛文四(一六六四)年~正徳元(一七一一)年)はこの寺社奉行当時の元禄一四(一七〇一)年九月一日、かの浅野長矩改易後を受けて下野烏山藩主から播磨赤穂藩主と移封された(その後さらに信濃飯山藩主・武蔵岩槻藩初代藩主に移封)、とウィキの「永井直敬」にある。この縁切寺法についてはウィキの「東慶寺」が殊の外詳しく、この文書の期間の詳細はそこの「縁切寺三年勤の背景」などを参照されることをお勧めする。

「第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之姫君」天秀尼(慶長一四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)豊臣秀頼娘で千姫の養女であるあ、母の名も出家前の俗名も不明で、参照したウィキの「天秀尼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『記録に初めて表れたのは大阪城落城直後でありそれ以前には』ないとし、『同時代史料としては、元和二年(一六一六年)十月十八日にイギリス商館長リチャード・コックスが松が岡を剃髪した女性の尼寺として紹介し、「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」と書いている』。『出家の時期は先の東慶寺の由来書に「薙染し瓊山尼(けいざんに)の弟子となる。時に八歳」とあり、また霊牌(位牌)の裏に「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の元和二年、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天』であった(下線やぶちゃん)。『天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていただろうが、塔銘によれば円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したとある。古帆周信は中国臨済宗楊岐派の幻住中峰禅師に始まる幻住派である』。『また沢庵宗彭に参禅しようとしていたことが、沢庵の書状により明らかになっている。書状であるので八月二十九日と日付はあるが、年は書かれていない。沢庵は寛永十六年(一六三九年)より江戸に戻り、徳川家光によって創建された萬松山東海寺の住持となっている。東慶寺の住職だった井上禅定は、天秀尼が参禅していた古帆周信が寛永十八年(一六四二年)二月一日に示寂しているので、沢庵に参禅しようとしたのはそのあとではないかとする』。『東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺(駆込寺)として有名であるが、江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのはここ東慶寺と群馬(旧上野国新田郷)の満徳寺だけであり両方とも千姫所縁である。寺の伝承では、天秀尼入寺の際、家康に文で「なにか願いはあるか」と問われて「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答え、それで同寺の寺法は「権現様御声懸かり」となったとある』。満で云えば未だ六、七歳の『子供と家康のやりとりが本当にあったのかは確認出来ないが、江戸時代を通じて寺社奉行に提出する寺例書や訴訟文書ではこの「権現様御声懸かり」の経緯を述べて寺法擁護の最大の武器としたこと、実際に東慶寺の寺法に幕府の後ろ盾があったことは確かである。縁切寺法と一般にはいわれるが夫婦の離婚にだけ関わるものではなく、中世以来のアジールの性格を持つ』とある。

「明治四年」一八七一年。この時の様子がウィキの「東慶寺」に「尼寺・縁切寺法の終焉」として以下のように描出されてある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『明治維新により縁切寺法は廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなるがそれも大半は横領される。最後の院代順荘尼を描いた一八九七年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に…総門山門はもとより方丈脇寮諸社なと朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち薪として一片の姻と化し」とある。順荘法孝尼は一九〇二年(明治三十五年)七十八歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じる。そういう「修繕の途なき」状態の中で仏殿が原三溪に引き取られる。なお、明治十年代には庫裡が山内村の小学校になった。これが現在の小坂小学校の前身のひとつであ』ったとある。

「寛永十一年」一六三四年。

「駿河忠長卿」江戸幕府第二代将軍徳川秀忠三男で家康の孫である大名徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)。極位極官が従二位大納言で領地が主に駿河国であったことから通称を「駿河大納言」と通称した。父と母江(ごう)の寵愛を一身に受け、実兄家光をさしおいて世子に擬せられたが実現せず、第三代将軍となった徳川家光との確執から寛永八(一六三一)年には甲斐に蟄居させられ、次いで上野高崎に幽閉された上、二年後の寛永十年十二月六日(グレゴリオ暦一六三四年一月五日)に二十八歳で自害させられた。ここに出る移築は翌年であるが、その仏殿は現在のものではなく、当該のそれは現在、その仏殿は明治四〇(一九〇七)年に横浜の三溪園に移築され、重要文化財として現存する。

「皇女用堂尼王〔應永三年丙子八月八日入寂〕」東慶寺第五世とする。後醍醐天皇皇女で護良親王の姉で弟の菩提を弔うために入庵したとする。「應永三年」は一三九六年。

「東西三間南北五間」東西五・四五メートル、南北九・〇九メートル。

「現に宮内省の管轄に屬せり」現在も同様。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 淨智寺

    ●淨智寺

淨智寺は。明月院と殆ど相對(あひたい)して。山内の路南に在り。金峯山と號す。鎌倉五山の第四にして。武藏守北條宗政相摸守北條師時父子の建立。故開山(こかいさん)は普寧(ふねい)(宗覺禪師)。請待開山は正念(自休)。準開山は宏海(眞應禪師)なり。佛殿は曇華殿の額を掲(かゝ)く。本尊は釋迦、彌勒、彌陀の三體なり。作者詳ならず。

開山塔を藏雲菴(ざううんあん)と名く。蓋し眞應師の塔なり。

甘露の井開山塔の後に在る淸泉(せいせん)をいふ。鎌倉十井の一なり。門外路傍に淸水(せいすい)涌出す之をは甘露水と稱せり。

盤陀石は甘露井(かんろゐ)の傍に在り。

鐘樓(せうろう)元は正慶九年の古鐘を掛しが。天文中北條氏康伊豆權現社の撞鍾に贈りしと云。塔頭は正紹菴、正源菴、龍華山眞際精舍、正覺菴、楞伽院、大圓菴、同證菴、正印菴、興福院、福生菴等今は大半廢絶し存(ぞん)する者幾(いくば)くもなし。

[やぶちゃん注:「北條宗政」(建長五(一二五三)年~弘安四(一二八一)年)北条時頼三男。右近衛将監・評定衆・引付頭人(ひきつけとうにん)を経て、建治三(一二七七)年、武蔵守となったが四年後に数え二十九で亡くなっている。

「北條師時」(建治元(一二七五)年~応長元(一三一一)年)北条宗政の子で母は北条政村娘であるが、父の死後に伯父北条時宗の猶子となっている。長門守護・小侍所・評定衆・引付頭人を経て、従兄弟で時宗嫡男であった執権北条貞時が正安三(一三〇一)年に出家すると同時に第十代執権となった。彼も三十七の若さで亡くなっている。この頃の得宗家絡みの若死には概ね激務に因る過労やそれに起因する病死であったと推測されている。ここにあるように、父宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされてるものの、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山の経緯についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海(「眞應禪師」は彼の諡号)が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に既に没していた。

「甘露の井開山塔の後に在る淸泉をいふ。鎌倉十井の一なり。門外路傍に淸水涌出す之をは甘露水と稱せり」「新編鎌倉志」で初めて示される名数「鎌倉十井」の一つに数えられているが、実は「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、

甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

とあって、当初より現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)ことが判る。ところがこれとは別に鎌倉「五名水」が存在し、そこに異説として「甘露水」なるものが恐らくは近代近くになって混入してきている。ともかくも孰れが原「甘露の井」であり、区別化された「甘露水」であったかは、私は水源が二つ以上あったことによって、江戸時代に最早「甘露の井」が同定出来なくなっていたこと、さらに「甘露水」なる紛らわしい呼称の登場が同定不能に拍車をかけたものと私は推測している(浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉の湧水は今は停止している)。

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅱ) 大正元(一九一二)年 (2)

 

 九月二日 月曜 

 

〇たちいづるあとは霞の春の旅宿に忘れし握飯哉

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。]

 

 

 

 九月十九日 木曜 

 

〇かく生れかく行ひてかく死にて思ひ殘さぬ大和魂

                    乃木大將を思ひて

 

[やぶちゃん注:乃木希典はこの六日前の明治天皇大葬当日であった大正元(一九一二)年九月十三日午後七時四十分頃、妻静とともに自刃殉死している(殉死当日の日記記載やそれへの言及はなく、この短歌の前後も全くの日常備忘録記載である)。当時、久作満二十三歳、因みに、推理夏目漱石の「ろ」主人公の「私」((リンク先末尾にある「●「私」《=学生》の時系列の推定年表」を参照されたい)はまさに二十三歳である。]

 

 

 

 九月二十日 金曜 

 

人知らぬ深山の奥の其奥に

 神代の儘の瀧つ瀨の音

 

 

 

 九月二十一日 土曜 

 

木枯しに葉も切れ切れの柿の木にさみしく照らす月の影かな

 

天かけるはやての雲のましぐらに辰巳に走る武藏野の原

(林病院に在りて生活す)

 

[やぶちゃん注:第一首目の「切れ切れ」の後半は底本では踊り字「〱」。「(林病院に在りて生活す)」というのは意味不詳乍ら、文語文で記し、二首目の歌の後書として記しているように見える(この日の短歌の前に一行空けで記されてある日記文は口語で書かれてある)。]

 

 

 

 九月二十二日 日曜 

 

〇あら浪の雲を洗ひて幾万里。

 

[やぶちゃん注:この句の直前に、同じ圏点を附して、

   *

〇全世界の人類を一個人として考えたる時吾人は玆に一大事実を發見せむ。天は何物をも示さず地も何物をも教えざるに人は自ら獨創にて神なるものを設けて之を崇拜したり。

   *

とある。]

 

 

 

 九月二十三日 月曜 

 

〇雨止みて五色に光る落葉哉。

 

 

 

 九月三十日 月曜 

 

月冴えてほのかに遠し二つ鐘(バン)

 

[やぶちゃん注:「二つ鐘(バン)」当該地よりも比較的遠い場所で火事が起ったことを示すために半鐘を二度ずつ打つことを言う。この二日前の九月二十八日の早朝、同居していた久作の祖母友子が中風の発作を再発、この日まで久作の日記には看病の様子が記されている。]

 

 

 

 十月四日 月曜 

 

祖父君を見舞に來る父見れば

 嬉しくもあり悲しくも悲しくもあり。

 

[やぶちゃん注:「悲しくも悲しくも」のダブりはママ。父茂丸(友子の長男)は発作で倒れたその日に東京より來鎌しており、十月一日の日記には父と一緒に入浴もしていて、この日が初めての見舞いな訳ではない。]

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅰ) 大正元(一九一二)年 (1)

 

   大正元(一九一二)年 久作満二十三歳

 

[やぶちゃん注:当時は慶應大学大学部文学科(大学令によって正式に文学部になるのは大正九年)三年。]

 

 八月一日 木曜 

 

五月雨に訪ふ歩とも無し圓覺寺

 とゞろに落つる松の下露。

 

若葉影並ぶ碧岩蓮華經

 吹く風淸く木の間くゞりて。

 

相模洋万里を亙る春風に

 綠色濃き鎌倉の山。

 

[やぶちゃん注:「万はママとした。「亙」は底本では「亘」であるが、この字は私が生理的に嫌いなので「亙」とした。「相模洋」は「さがみなだ」と訓じていよう。以下「洋」は私は総て「なだ」と読む。]

 

行く春の柵なれや花の色。

 

[やぶちゃん注:句点が打たれているが、これは俳句なのではなく、次の一首の上句別稿と私は推定する。「柵」は「しがらみ」と読ませるのであろう。]

 

春風のホゝに止まる花の色

 匂ひこぼるゝ山櫻哉。

 

水淸屍草むす屍數々に雄々しき人名をぞ止むる。

 

[やぶちゃん注:一行表記の特異点の一首。「淸」(底本は「清」)はママであるが、これは「漬」の誤字か誤判読か誤植の可能性が頗る高く、「水漬屍」(みづくかばね)としか思われない。「人」の後には「の」など脱落が想起される。

 以下、八月五日までは殆んどが詩歌の特異点であり、八月三日には舟遊びを語った僅かな美文調の日記が載る。底本の杉山龍丸氏の「註解」によって、当時、夢野久作の父茂丸は鎌倉市材木座に邸宅を持っていたことが知れた(私の父の実家は材木座である)。]

 

 

 

 八月二日 金曜 

 

◎春風になでまはさるゝ鎌倉の

  大佛樣大悲顏哉

 

◎峠茶屋茶碗にうつる若葉かな

 

[やぶちゃん注:これは明らかに夢野久作の現存する最古の数少ない俳句である。彼は後に川柳を好んで作るが、確実に川柳ではなく俳句と推定し得る作品はここまででは――敢えて挙げるならば直前の「行く春の柵なれや花の色」以外には――ない。駄句乍ら、次の次の「山の上」一句(これは寧ろ川柳か)とともに非常に貴重な一句と言える。]

 

〇かくて又とはむと思ふ夢

  醒めてか花の散り初めにけり。

 

〇山の上一句も出でぬ景色哉。

 

 

 

 八月四日 日曜 

 

〇あら吹く洋の荒浪亂れ立ちて岩にくだくる吾が心哉。

 

〇一劔雄圖遠乾坤有一人死生奚畏眼裡絶繊塵

 

[やぶちゃん注:禅語の一種の引用のようにも見えるが、前後の短歌と同じく圏点を打っているので、漢詩文と採る。「一劔(いつけん)の雄圖(ゆうと) 遠(えん)乾坤(けんこん) 一人(ひとり)有りて 死生(ししやう) 奚(なん)ぞ畏れん 眼裡(がんり) 繊塵(せんじん)を絶つ」と私は訓読した。]

 

〇秋の野の芒の末の富士の雪

  天下の冬の魁にけり

 

[やぶちゃん注:「魁にけり」は「さきがけにけり」と読む。]

 

〇これやこの夢とも見えずまこととも

  しら雪淸く高き冨の嶺

 

[やぶちゃん注:「冨」の字体は底本のママ。無論、「ふじ」と訓じている。]

 

〇人知れず黃金の箱に祕め置きて

  君にと思ふ吾心哉

 

 

 

 八月五日 月曜 

 

〇吾心家に野山に海に河に

  花に紅葉に國に力に。

 

〇水や空見果もつかぬ海の果に

  走る白帆の影をしぞ思ふ

 

〇相模洋はるかに望む三原山

  空に棚引く夕榮の雲。

 

〇忽ちに五色七彩雲飛びて

  勇々しく出でし初日影哉

 

〇あひ見てもまた會ひ見ても會ひ見ても

  あかぬは古き友にぞありける。

 

 

 

 八月六日 火曜 

 

〇何となく憐を知りえ夜更けて

  枕に近き蟲のこえごえ

 

[やぶちゃん注:「こえ」の「え」はママ(後の「寂しさを」のそれもママ)。「こえごえ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

〇遠山に紅葉一幹見えにけり

  山坂幾里隔てたるらむ

 

〇寂しさを打てや長谷寺の鐘のこえ

  由井濱邊に寄する白波

 

[やぶちゃん注:「由井濱邊に」はママ。「由比」が正しく、無論、これで「ゆひのはまべに」と訓じていよう。]

 

〇盜人もたまには入れや侘住居

  寢覺淋しき秋の夜長に

 

[やぶちゃん注:因みに、この翌日の八月七日の日記は打って変わって「〇弟の死」と題し、前年一月一日に亡くなった(恐らくは結核性肋膜炎)九つ違いの愛弟(異母弟)五郎を追懐する慙愧の念に満ちた非常に長いものである。因みに、その追憶の中に「昨年の秋」(時系列を追って書いたための一昨年の誤りと思われる)「余は彼と共に當鎌倉なる日蓮上人雨乞池附近の山に到りて菌を取りぬ」とあり、五郎はその帰りに激しい胸部痛を訴えたと記している。]

2015/07/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 箱根峠越え

 

 第二十章 陸路京都へ

 

 七月十六日。私は、我々の南方諸国への旅行の荷造りをするのに、多忙であった。これは先ず陸路京都へ行き、それから汽船で瀬戸内海を通るのである。私の旅券は、すくなくとも十二の国々に対して有効である。中原氏が私に吉川氏の長い手紙を持って来てくれた。周防の国なる岩国にいる彼の親類に私を紹介したものである。封筒には先ず所と国との名前を、次に人の名前を書く。そしてその一隅には、手紙に悪い知らせが書いてないことを示すために「平信」という字を書く。この字が無ければ凶報が期待され、受信者ほ先ず心を落つけてから手紙を読むことが出来る。我々は古い日本の生活をすこし見ることが出来るだろう。私は陶器の蒐集に多数の標本を増加しようと思う。ドクタア・ビゲロウは刀剣、鍔(つば)、漆器のいろいろな形式の物を手に入れるだろうし、フェノロサ氏は彼の顕著な絵画の蒐集を増大することであろう。かくて我々はボストンを中心に、世界のどこのよりも大きな、日本の美術品の蒐集を持つようになるであろう。

[やぶちゃん注:これは旅行出発の十日前の記載である。以前に述べたように、今回(明治一五(一八八二)年)のモースの三度目の来日の公式な目的は、ピーボディ科学アカデミー理事会承認になる東洋の民族学的資料の蒐集であった。以下の関西への旅もそうした陶器と民具収集を目的としたものであったが、そこはそれ、モース先生、紡績工場を見学したり、横穴古墳に潜り込んだり、例によって楽しいスケッチを残して呉れていて、またしても我々を飽きさせない。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『同行者はフェノロサとビゲロー、それに昔の教え子で今はフェノロサの弟子の有賀長雄。旅は陸路を選んだ。東海道の町々でモースは陶器などを、フェノロサとビゲローは工芸品や古美術などを収集しながら旅する予定だった』とある。この有賀長雄は「第十九章 一八八二年の日本 茶の淹れ方/東京生物学会主催「化醇論」講演」に出、既注であるが、再掲しておくと、後の法学者・社会学者の有賀長雄(あるがながお 万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年)である。当時(この明治一五(一八八二)年に東京大学文学部卒業)はフェノロサの弟子で、この二年後の明治一七(一八八四)年に元老院書記官となり、二年後の明治十九年からヨーロッパに留学、ローレンツ・フォン・シュタインに国法学を学んで、翌年に帰国、枢密院・内閣・農商務省に勤め、その後陸軍大学校・海軍大学校・東京帝国大学・慶應義塾大学・早稲田大学などで憲法・国際法を講じた。日清戦争及び日露戦争の際には法律顧問として従軍、ハーグ平和会議では日本代表として出席している。著書「社会学」は本邦初の体系的社会学的著作として知られる(以上はウィキの「有賀長雄」に拠った。姓は「ありが」とも読む)。

「中原氏」未詳乍ら、第十九章 一八八二年の日本 石人形に既出の人物。そこでは通訳であるが、これで明らかに次の吉川経建(きっかわつねたけ)と極めて親しい関係であることが判る。

「吉川氏」「第十九章 一八八二年の日本 石人形」に既出で既注であるが再掲する。元周防岩国藩第二代(最後)藩主で華族であった吉川経健(「建」ではなく「健」が正しいものと思われる。安政二(一八五五)年~明治四二(一九〇九)年)。ウィキの「吉川経健」によれば、初代藩主吉川経幹(つねまさ)の長男。官位は贈従二位・子爵・正四位駿河守。慶応三(一八六七)年に父の死去により跡を継いだ(但し、主家長州藩主毛利敬親(たかちか/よしちか)の命令でその死去が隠されたため、正式な跡目相続は明治元(一八六八)年十二月)。明治二(一八六九)年一月に叙任し、同年六月には戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世五千石を与えられ、同年中に版籍奉還によって藩知事となった。明治三(一八七〇)年、本家長州藩で脱退兵騒動が起こると、その鎮圧に努めたが、明治四(一八七一)年の廃藩置県によって免官となり、東京へ移った。以後は旧藩士に対し、義済堂を創設し、その自立を助けた。明治一七(一八八四)年に男爵、明治二四(一八九一)年には子爵となった。

「十二の国々」老婆心乍ら、日本の旧国名を指す。この直後にも「国」を宛名書きすると出るが、これは県名のことであろう(例えば明治四(一八七一)年廃藩置県により周防は旧暦七月十四日(一八七一年八月二十九日)を以って山口県及び岩国県の管轄となり、三ヶ月後の十一月十五日(一八七一年十二月二十六日)には第一次府県統合によって全域が山口県の管轄となっている。ここはウィキ周防のデータに拠る)。しかしもしかするとまだこの頃、「周防國」と書いて配達出来たものかも知れないなどとも考えてみる。]
 
 

M643

643

 

 七月二十六日。我々は駅馬車と三頭の馬とを運輸機関として、陸路京都へ向う旅に出た。三枚橋で我我は馬車に別れ、その最も嶮しい箇所箇所を、不規則な丸石で鋪道した、急な山路を登った。フェノロサと私とは村まで八マイルを歩き、ドクタアと一行の他の面々とは駕籠(かご)によった。ドクタアはこの旅行の方法を大いに楽しんだ。時々この上もない絶景が目に入った。自分の足をたよりに、力強く進行することは、誠に気分を爽快にした。路のある箇所は非常に急だったが、我々は速く歩いた。その全体を通じて、我々が速く歩き、また駕籠かきが一人当り駕籠の重さその他すべてを勘定して、殆ど百斤近くを支持していたにかかわらず、彼等が我々について来たことは、興味があった。時々我等は、重い荷を肩にかけた人が、これもまた速く歩いて峠を旅行するのに出会った。彼等は十二マイル離れた小田原へ行く途中なのであった。我々が通過した村には、どこにも新しい形式の張出縁や門口や、奇麗な内部やがあったが、このように早く歩いたので、二、三の極めて簡単な輪郭図以外には、何もつくることが出来なかった。この路は遊楽地へ行く外国人が屢々通行するので、日本人は一向我々に目をつけなかった。子供も、逃げて行ったり、臆病らしい様子をしたりしなかった。荷を背負って徒歩で行く人人以外に、重い荷鞍と巨大な荷物をつけた馬が、田舎者に引かれて行った。図643は荷鞍の写生で、馬の主人の日笠と雨外套(レインコート)と二足の草鞋(わらじ)以外に荷はつけてない。尻尾の下には不細工な、褥(しとね)を入れたような物が通っている。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『七月二十六日、一行は東京を離れた。まず馬車で小田原の三枚橋まで、それから箱根八里の道は徒歩と駕籠(かご)、箱根では芦ノ湖の湖畔、今の元箱根に泊ったらしい』とある。

「三枚橋」現在の小田原市箱根町湯本の箱根湯本駅から四百七十メートル弱下った(右にカーブしかけた所)早川に架かる橋。

「八マイル」十二・八七キロメートル。

「百斤」原文“a hundred pounds”。約四十五・三六キログラム。

「十二マイル」十九・三一キロメートル。この数値は東海道の小田原(現在の小田原起点)元箱根間を実測すると、峠を越えて元箱根の手前十三キロメートル弱地点に相当する。

「尻尾の下には不細工な、褥を入れたような物が通っている」不詳。鞦(しりがい)のための装備にしてはおかしい。或いはそれを総て畳んで丸めたものか? 識者の御教授を乞うものである。]

世界の三聖   夢野久作  (詩)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある七五調定型詩である。

 同氏の解題によれば、昭和一〇(一九三五)年六月一日発行の『九州文化』第二巻第三号に掲載されたものである(署名は夢野久作)。西原氏の解題には以上の書誌情報以外は載せられていない。以下、簡単に語注する。

・「エポバ」はママ。

・第一連最終行の「荊棘」は底本では(くさかんむり)が(へん)の部分だけにかかっている字体。

・「コンパラの花」題名が「世界の三聖」で第一連がキリスト、第三連が孔子と読めるから、この第二連は後半部からも釈迦である。そこで蓮華か沙羅双樹かなどと狙いをつけて調べて見ると、「拈華微笑(ねんげみしょう)」で検索するうち、篆刻家の田中快旺氏のブログ「楽篆堂」の「拈華微笑」で解説される中に、『霊鷲山で天上界の神・大梵天王が、お釈迦さまに金波羅華(こんぱらげ)という花を献上して、説法をお願いした。お釈迦さまは、それを手に取って、百万の人と神とに黙って差し出したが、皆その意味を図りかねた。ただひとり迦葉尊者が破顔微笑したので、仏法のすべてを授けたという』とあり、また、宮城県塩釜市の臨済宗東園寺住職千坂成也氏のブログ「布袋の袋」のキメるときは花だよね!拈華微笑で旧清水寺管主大西良慶師の華画賛「世尊拈華 頭陀微笑 絶言絶慮 霽日光風 只行得本 龍華三會 法界他方 永劫流通」を示されて訳された中に、『お釈迦さまが後継者を決めるときのこと』、『お釈迦さんは、梵天から渡されたコンパラ華(げ)という花を何も語らずに一輪持って弟子達に見せた。お釈迦様の説法が始まると思い心待ちにしていた弟子達は、何もしゃべらぬお釈迦さまを見て、ポカーン』としていると、『独り大迦葉のみが微笑を湛えた!』『そこで、お釈迦様は迦葉に法を伝えた事を宣言された』とあることから、これは他でもない、「拈華微笑(ねんげみしょう)」の、一般には白蓮華、白い蓮の花とされるものを指すことが判った。

・「枯じつゝ」「かれじつつ」で、枯れることなく、同時にまた、の意であろう。

・「拱す」は老婆心乍ら、「きようす(きょうす)」と読んでアーチ状に架かるの意。]

 

 

   世界の三聖

 

み空の舊徵求むれば   十字の星の光さし

この世のけがれ悲しめば 白百合の花露ふかし

エポバの榮え仰ふぎつゝ 羊を育て魚を獲る

たふとき業を憎しみて  荊棘の冠着せしは誰そ」

 

曉の星のぼる時     永遠の夢路の眼をひらき

コンパラの花枯じつゝ  おほあめつちをほゝゑます

王者の富を振りすてゝ  黃金の肌に破れ衣

足もあらはに鉢を持つ  乞食の惠うけぬは誰そ」

 

かの逝く河を嘆じては  古の道なつかしみ

かはり行く世を愁ひては 暮春の興を志す

星座は北に拱すれど   水は東に朝すれど

禮儀三百威儀三千    聖者いませし國いづこ」

 

 

[やぶちゃん注:これを以って西原版の「夢野久作著作集」所収の詩歌群はほぼ電子化を終了したことになるが、この他にも昭和五一(一九七六)年葦書房刊の久作の御子息杉山龍丸氏の編になる「夢野久作の日記」の中に多量の短歌や川柳を見出すことが出来る。私は十四年前にこの本を求めておき乍ら、実はまともに読んでいなかった。今回、遅まき乍らやっと拾い読みでも見開くことが出来ることとなり、ツン読のままにならずに済んだことを夢野久作自身に感謝し、向後も断続し乍らも「夢野久作詩歌集成」を続けて行く/行けることに感謝するものである。]

茶番神樂   夢野久作 (唄)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある歌謡である。

 同氏の解題によれば、昭和九(一九三四)年十月一日発行の『九州文化』第一巻第三号に掲載されたものである(署名は夢野久作)。西原氏の解題には以上の書誌情報以外は載せられていない。九州・山口・沖縄エリアの近代文学文化資料データベース作成のためのワーキング・プロジェクト・サイト「スカラベの会」の『「九州文化」 総目次』によれば、同誌は福岡市中島町九金文堂内の九州文化社より、 昭和九(一九三四)年八月から昭和一一(一九三六)年九月にかけて全十八冊が発行された同人雑誌で、本号の発行人は渋谷喜太郎(次の「世界の三聖」も同じ名義)。

 なお、底本では下段部分は二行に亙る場合、二段目の頭の位置から一字下げとなっている。]

 

 

   茶番神樂

 

茶番神樂の悲しさよ   おかめにヒヨットコ天狗の面

尼振り手振り頭振り   踊つてまはるおかしさよ 

            スツテン テレツク テレツクツ

 

愛嬬タップリお龜さん  鼻毛を伸ばしたヒヨツトコさん

テンテレツク天狗の面  高慢面のおかしさよ

            スツテン テレツク テレツクツ

 

茶番神樂のおかしさよ  色氣も喰氣も高慢も

みんな此世の馬鹿囃子  昔からある馬鹿囃子

            スツテン テレツク テレツクツ

 

今年もおんなじ馬鹿囃子 お龜にヒヨツトコヒユードンチヤン

笑つて見て居る悲しさよ テンテレツク天狗の面

            スツテン テレツク テレツクツ

福岡の孟蘭盆   夢野久作 (唄)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある「福岡の盂蘭盆」という歌謡(自作盆踊唄?)である。

 同氏の解題によれば、昭和五(一九三〇)年九月五日発行の地方誌と思われる『福岡』第四十四号に発表されたものとある(署名は夢野久作)。

 西原氏の解題には以下、『本編末尾の四行が、作者の小説「犬神博士」の中にも出て来る』として一部を引用、『本篇とはいくらか表現の違いが見られる。この小説の物語時点である明治の半ば頃、福岡周辺では実際にこのような歌が民間に生きていたと思われるのだが、さてどうであろうか』と述べておられる。「犬神博士」の初出はこの発表の一年後の『福岡日日新聞』昭和六(一九三一)年九月二十三日から翌昭和七(一九三二)年一月二十六日まで連載されたもので、当該小説の第「十五」章に現われる。以下、同章を総て引用しておく。tamiyagi2 校正データを使用させて戴き、同底本で校正した。

   *

 

     十五

 

 その頃の福岡市の話をしたら若い人は本当にしないかも知れぬ。東中洲がほとんど中島の町一通りだけあったので、あとは南瓜(かぼちゃ畑)のズット向うに知事の官舎と測候所が並んでいて、その屋根の上に風見車がキリキリまわっているのが中島橋の上から見えたの、箱崎と博多の間は長い長い松原で、時々追剝ぎが出ていたの、因幡町の土手の町の裏は一面の堀で、赤坂門や薬院門の切れ途を通ると蓮の花の香が噎(む)せ返るほどして、月夜には獺(かわうそ)がまごまごしていたの、西中洲の公会堂のあたりが一面の萱原(かやはら)であったの、西公園に住む狐狸が人を化かしていたのと言ったら、三百年も昔の事と思われるかも知れない。第一、そんな風では何処に町が在ったのかと尋ねる人が出て来るかも知れない。しかしそれでも、九州では熊本と長崎に亜(つ)ぐ大都会だったので、田舎ばかりまわっていた吾輩は、かなりキョロキョロさせられたものであった。

 吾輩はこの福岡市中を、父親の鼓に合わせて、心ゆくまで踊りまわって、心ゆくまで稼いだものであった。ところがさすがに福岡は昔からドンタクの本場だけあって芸ごとのわかる人が多かったらしい。男親の鼓調子にタタキ出される吾輩の踊りは、最初の約束通り全然エロ気分抜きの、頗る古典的なものであったが、却ってその方が見物を感心させたらしく、二十銭銀貨を一つや二つ貰わない日はなかったので、吾輩はトテモ得意になったものであった。生まれて初めて稼ぐ面白さを感じたように思った。

 その或る日の午後であった。男親と吾輩とは福岡部の薬院方面から柳原へかけて一巡すると東中洲へ入り込んで、町裏の共進館という大きな建築の柵内へ入り込んで、那珂川縁に並んでいる栴檀(せんだん)の樹の間の白い砂の上に茣蓙を敷いて午睡(ひるね)をした。これはこの頃夕方になると中洲券番のあたりへ人出が多い事がわかったので、夕方になってからそこを当て込んで一興業する準備の午寝(ひるね)であったが、やや暫く眠っているうちに、あんまり蟻が喰い付くので眼を醒ましてみると川一面に眩しい西日の反射がアカアカとセンダンの樹の間を流れてワシワシ殿の声が空一パイに大浪を打っていた。男親を振りかえって見ると、腐った蜊(あさり)のような口を開あいてガーガーとイビキを搔いている。

 その時であった。何処からか、

「チョットチョット」

 という優しい女の声がしたのでムックリ起き上って、キョロキョロとそこいらを見まわしてみると、木柵の向うから派手な浴衣を着たアネサンが、吾輩の顔を見てニコニコ笑いながら手招きしているのであった。

 吾輩はチョット面喰らった。コンナ美しいアネサンに知り合いはなかったから……。しかし元来見知りをした事のない吾輩は、すぐに茣蓙の上から立ち上って、チョコチョコ走りに柵の処へ来て見ると、そのアネサンの連れらしい肥った旦那が、そこにあった石屋の石燈籠の蔭に立って、やはりニコニコしているのが眼についた。

 アネサンは近づいて行く吾輩を見るとイヨイヨ眼を細くした。

「アンタクサナー。チョット妾達(わたしたち)と一緒に来なざらんナ。父(とと)さんも連れて……ナ……」

 と言い言い吾輩におひねりを一つ渡した。それを柵の間から猿みたいに手を出して受け取りがけに触ってみると、十銭銀貨が三枚入っている。吾輩は何故そんな事をするのか意味はわからなかったが、しかし、そんな意味を問い返す必要は毛頭ない金額であった。

 吾輩は眼を丸くしながら男親の処へ飛んで行ってゆり起した。そうして三十銭のおひねりを見せると、これも何だかわからないままねぼけ眼をこすりまわして、鼓と茣蓙を荷ぎ上げて、頰ペタの涎(よだれ)を拭い拭い大慌てに慌てて吾輩のあとから踉(つ)いて来た。

 立派な旦那とアネサンは、共進館前のカボチャ畠の間から町裏の狭い横露地に曲り込んで十間ばかり行ってから又一つ左に曲がると券番の横の大きな待合の前に出た。そこは十坪ばかりの空地になっていたが田舎の麦打場のように平かで、周囲の家にはまだ明るいのにランプがギラギラ点いていた。その中を夕方の散歩らしい浴衣がけの男女がぞろぞろしていたが、遠くの方の横町には大勢の子供が、

「燈籠燈籠灯(と)ぼしやあれ灯ぼしやあれや。消えたな爺さん婆さん復旧(まあど)いやあれ復旧いやあれやア」

 と唄う声が流れていた。

 その声に聞き惚れてボンヤリ突立っていると吾輩の振袖を男親が急に引っ張ったので、ビックリして振り返ってみると、その空地のまん中に今まで見た事もない四枚続きの青々とした花茣蓙が敷いてある。男親はその一角にかしこまって鼓を構えている。その真正面に今の旦那とアネサンがバンコ(腰かけ)を据えて団扇を使っていたが、アネサンは赤い酸漿(ほおずき)を赤い口から吐き出しながら旦那を振り返った。

「見よって見なざっせえ。上手だすばい」

 旦那は二つ三つ鷹揚にうなずいた。見れば見る程脂切った堂々たる旦那で、はだけた胸の左右から真黒な刺青(いれずみ)の雲が覗いているのが一層体格を立派に見せた。コンナ旦那は気に入るといくらでも金をくれるものである……と吾輩はすぐに思った。

 男親がその時に特別誂えの頓狂な声を立て、

「イヤア……ホウ――ッ」

 と鼓を打ち出した。吾輩は赤い鼻緒の下駄を脱いで、青い茣蓙の上に飛び上ると、すぐに両袖を担いで三番叟(さんば)を踏み出した。

 旦那とアネサンが顔を見交して黙頭(うなず)き合った。

   *

ここに出る囃し詞と思われる部分と、以下の久作の「福岡の盂蘭盆」の末尾の酷似した「 」で括られる囃し詞を以下に並べておく(比較しやすいように「犬神博士」版に合わせて以下の電子データの改行を排除し、字間を空けて示した)。

 

燈籠燈籠灯(と)ぼしやあれ灯ぼしやあれや。消えたな爺さん婆さん復旧(まあど)いやあれ復旧いやあれやア (「犬神博士」)

 

トウロトウロとうぼしヤアれとうぼしヤアれや 消えたお爺さん婆(ばば)さんまアどいやアれまアどいやアれや (「福岡の盂蘭盆」)

 

「犬神博士」版も「燈籠」は拍子から考えても「とうろ」と読んでいると思われるから、その異同は(表記の一部を比較し易くするために一部平仮名化した)、

①「とぼしや」(「犬神博士」)―「とぼしや」(「福岡の盂蘭盆」)

②「消えた」(「犬神博士」)―「消えた」(「福岡の盂蘭盆」)

③「まあどいやあれまあどいやあれや」(「犬神博士」)―「まあどいやあれまあどいやあれや」 (「福岡の盂蘭盆」)

の三箇所のみで、①と③は聴き書きの音写の違いに過ぎないと思われる。本「福岡の孟蘭盆」の二箇所の鍵括弧表記の部分は西原氏のおっしゃるように、古えの囃し文句の採録であると考えて間違いあるまい。

 電子化では踊り字「〱」は正字化した。「燈籠」の「籠」は底本では「篭」。迷ったが、「籠」とした。

 本唄は福岡弁と思われ、全く意味が採れない部分もあるが、到底、私の乏しい知識では注を附すことが出来ない。福岡弁と当地の民俗についてお詳しい方の後日の御指摘を俟つものである。]

 

 

   福岡の孟蘭盆

 

麻ガラと     テフチン松葉

オムカヒ火    燃えてしまふた

 

オハギモテ    オニシメ、オミズ

ナスビやら    キウリ、ボウブラ

オヒカリい    うつつて光る

 

レンの花     クンクンにほひ

蠟燭の      メタタキばして

御先祖の     おいでになると

線香ば      一パイ上げる

うつくしい    福岡の盆

「つんなんごうつんなんごう

 荒戸の濱まで行きまつせう」

 

まん丸い     パンパンシヤマの

寶滿にい     あがらつしやると

 

町中の      軒の提灯

濡れた地(ぢ)イ キラキラつつり

そのまへに    バンコ持ち出す

 

トツトウは    花火ばあげる

カツカーは    吹き上げかける

アネサンは    燈籠ばとぼし

オンダチア    ガンドウまはす

なつかしい    博多の孟蘭盆

 

 「トウロトウロ

    とうぼしヤアれとうぼしヤアれや

  消えたお爺さん婆(ばば)さん

    まアどいやアれまアどいやアれや」

古い日記の中から   夢野久作 短歌十二首

[やぶちゃん注:以下の総表題「古い日記の中から」という全十二首に「直木」という個人名が読み込まれた歌群は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある。

 同氏の解題によれば、『雑誌文芸』の昭和一〇(一九三五)年十二月号及び翌昭和一一(一九三六)年一月の二号で連載されたものである(署名は夢野久作)。

 西原氏の解題には書誌情報以外は載せられていない。しかし、発表時期と、徹底した俳諧的諧謔を用いながらも友人である「直木」なる人物への深い追悼の意で一貫している点、歌意のはしばしから「直木」なる人物が知られた同世代の小説家仲間であろうと思われることから、久作より二歳年下の直木三十五(明治二四(一八九一)年~昭和九(一九三四)年二月二十四日)であると考えてよい。歌の一節に「頭まで來てヤツト死んだ」とあるが、三十五は結核性脳膜炎で亡くなっている。]

 

 

  古い日記の中から

 

死ぬる死ぬるとおのが生命を高い價に賣喰ひにして直木は死んだ

 

[やぶちゃん注:「價」底本では「値」。]

 

俺は死ぬんだだから誰にも負けないぞ來るなら來いと直木は死んだ

 

俺の事は俺がするんだ間違つても文句を云ふなと直木は死んだ

 

女なら女で來てみろ病なら病氣で來いと直木が死んだ

 

Gペンで小さく小さく書いた字が見えなくなつて直木が死んだ

 

[やぶちゃん注:「小さく小さく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

尻の方から腐り上つて行くうちに頭まで來てヤツト死んだ直木

 

俺に取つて金は空氣と同じものだ何が税金だと直木が笑つた

 

半年の生命を本屋へ質に置いて本屋に葬式を出させた直木

 

逆王に這入つた直木は逆に利く桂馬に頭を遣られて死んだ

 

[やぶちゃん注:「逆王」私はこの年になっても金と銀との動かし方を知らない迂闊な男であるが、これは「逆王手」、王手をかけられたために動かした駒が、逆に相手に王手をかける打ち方のことであろうか? Masato Hasumi 氏のサイト内の逆王手って、どんな意味に将棋での意味が最後の注で記されてあるので参照されたい。]

 

前後から外れる直木の褌を當てにしてゐた奴が奪ひ合つた

 

ダメになつた頭で直木が碁を打つて、負けて遣つた奴に葬式をさせた

 

死ぬまでは死なゝいと書いた稿料を一文も取らずに直木は死んだ

2015/07/26

夢野久作 雑詠 短歌十四首

[やぶちゃん注:以下の歌群は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある総表題「雜詠」十四首である。

 同氏の解題によれば、昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載されたものである。西原氏によればこの雑誌は京都で刊行されていたもので、当雑誌の印刷所は「からふね印刷所」で、久作御用達の『獵奇』の印刷所と同じであることから、西原氏は『加羅不彌』の編集兼発行人である堀尾緋沙子なる人物はこの印刷会社の係累なのではないか、彼女は『獵奇』に投稿することもあり、そうした関係から久作への原稿依頼があったと思われると推理されておられる(夢野久作の日記等を駆使した詳細は底本解題をお読み戴きたい)。確かに「獵奇歌」の創作期ではあるが、詩想や詩句・書記法はずっと穏やかで「獵奇歌」とは一線を画している、というより、署名(夢野久作)を伏せたら、誰もあの血塗られた歌群の作者と同じ人物の歌とは思うまい。因みに、同時期獵奇歌」になる。久作満三十歳。]

 

 

   雜詠

 

 

冬の夜ふけひそかに耳の鳴るごとし遠き山べに雪ふるごとし

 

春まひる廣い座敷のまん中に泣かぬ孩兒が手足うごかす

 

[やぶちゃん注:「孩兒」は「がいじ」と読んでおく。幼な子・乳飲み子のこと。この歌――いいな――。]

 

ストーブのほのほしばらく押しだまり又ももの言ふわれひとりなれば

 

山をのぼり山を下れば此の思ひ今はた更にふかみゆくかな

 

わが古き罪の思ひ出よみがへるユーカリの葉のゆらぐ靑空

 

村に住む心うれしも村に住む心悲しも五月晴れの空

 

わが知らぬ世の大いなる運命かも雲より出でゝ雲に入る月

 

病院の音こともなき曉を患者はいかに耳すますらん

 

カステラの粉ホロホロと皿に落ちナプキンに落ち秋闌けにけり

 

[やぶちゃん注:「ホロホロ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

エスペラントと英語といづれが六ケしきヒラヒラと秋の夕浪の立つ

 

[やぶちゃん注:「ヒラヒラ」の後半は底本では踊り字「〱」。国際補助語である人工言語エスペラント語はこの四十二年前の一八八七年(明治二十年)に、当時のロシア領ポーランドのユダヤ人眼科医ザメンホフ(ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ(エスペラント語表記:Ludoviko Lazaro Zamenhof)が提案している。]

 

ニンジンの花に夕日の赤が一つ一つ浸みつき光り秋高晴るゝ

 

[やぶちゃん注:「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

墓は墓おもひおもひにむき立てり北にむかへる公孫樹さびしも

 

[やぶちゃん注:「おもひおもひ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

小さきコスモポリタンの墓とわれ死なば書いてやらんといひし友かな

 

わがおもひ胸にあまりて墓地にゆくさびしや墓地の死者に口なし(母戀ふ鳥)

 

[やぶちゃん注:この末書「母戀ふ鳥」の意図は私には不明である。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  上杉憲方墓

    ●上杉憲方墓

上杉憲方墓は。明月院方丈の西北岩窟内に在り。左石の窟壁に十六羅漢を彫附せり。憲方法號を明月院天樹道合といふ。應永元年十月廿四日卒。歳六十。

[やぶちゃん注:上杉憲方(のりまさ/のりかた 建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。初代関東管領上杉憲顕(のりあき)の子。は道合は法号・戒名で正式には明月院天樹道合(どうごう)。以下、ウィキ上杉憲方によれば、天授二年/永和二(一三七六)年に病床にあった兄の能憲から山内上杉家の所帯等を譲られ、二年後の能憲の死の直前にはやはり兄であった憲春が務めていた上野守護職や憲春の所領も憲方が知行すべき分として譲られている。能憲の死後、関東管領には憲春が任じられたが、山内上杉家の家督は憲方に渡っている。約一年後の天授五年/康暦元(一三七九)年三月七日に康暦の政変に乗じて京に攻め上ろうとする鎌倉公方足利氏満を諌死すべく憲春が自害し、攻略は中止され、翌四月の十五日、憲方は関東管領に任ぜられ、五月には憲春が維持していた上野守護職も憲方に安堵されている。弘和二/永徳二(一三八二)年一月には管領職から退いたが、六月には再任されている。『武将としての器量に優れ、氏満を補佐しながら小山義政・若犬丸父子の反乱鎮圧に功を挙げた(小山氏の乱)。それらの功績により上野・武蔵・伊豆・安房・下野の守護職を与えられている』。墓所は明月院に現存するが、『極楽寺駅付近に、上杉憲方夫妻の墓と伝わる七層塔・五層塔があり、付近には逆修塔と伝わる宝篋印塔も存在する』羅漢像が風化してあたかも亡者の群れに囲まれているようなこれより、苔むした後者の層塔の方が個人的には遙かに好きである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  明月院

    ●明月院

明月院は。管領屋敷(くわんれいやしき)の北に在り。安房守上杉憲方の創立する所開山は密室守嚴(みつしつしゆげん)和尚なり。始は禪興寺の塔頭にして庵號を唱へしといふ。本尊は觀世音。腹内(ふくない)に小佛像數千を籠(こむ)るぞいふ、開山守嚴の像及ひ開基憲方の木像を安置す。瓶の井は院後に在り。鎌倉十井の一なり。其の後山を六國見と稱す。安房上總下總武藏相摸伊豆の六國を望見するを得るに因る

[やぶちゃん注:今や、知らぬ者とてない明月院であるが、あの盛況は戦後に紫陽花を植えてからのことで、「あじさい寺」という呼称も一九六〇年代後半頃からのものであろう。例えば、「鎌倉攬勝考卷之五」を見よう(私の注ごと引く)。

   *

明月院 禪興寺の東北にあり。古えは塔頭なれ、今は却つて禪興寺の方丈なりと唱ふ。建長寺領の内、三拾壹貫文の領を附せり。明月院領の事を、永祿二年、【小用原所領役帳】に、卅一貫九百七拾文、相州東部岩瀨の内今泉とあり。開山は密室守嚴和尚、大覺禪師の法孫なり。開基は上杉安房守憲方也。法名を明月院大樹道合と號す。應永元年十月廿四日卒、歳六十。本尊觀音腹中に、小佛像數千を納む。虛空藏と愛染の像といふ。其傳えを失ふ。開山の像を安ず。此寺地は、最明寺時賴が大廈の幽亭を構へし舊跡なり。北條氏滅亡し、此亭も荒廢せし跡へ、上杉憲方が當寺を造立せしものなりといふ。明月院の舊地は、憲方が塔窟の前なる畠地なり。

「永祿二年」西暦一五五九年。

「密室守嚴」(みっしつしゅごん ?~元中七/明徳元・康応二(一三九〇)年)は蘭渓道隆の五代目の法孫。

「應永元年」西暦一三九四年。

「大廈の幽亭」大きな構えの屋敷の隠居所。

   *

 

Meigetuinnzennkoujizennzu

 

序でに上に掲げたのは同所に添えられた「明月院並禪興寺旧跡」である。図の右奥の高台に「明月院方丈」、その直ぐ左手に「客殿」、そこから下った位置に先に出た「禪興寺佛殿」と平の時頼塔」が、その左手奥のやぐらのところに次に出る「上杉憲方之塔」と記されていあるようである。右下の横向きの文字は、「山ノ内往還」か? また、左下の岩窟の前(雲上)には、「岩窟二三あり/其いにしへの/矢倉なるにや/古墳なるか/しれず」とある(二行目は自信がない)。このやぐらは私はよく知らない。配置から見ると現在は個人の邸宅敷地内にありそうな感じである。……それにしても今や、紫陽花の頃にはこの人気なき侘しい田園風景の場所に、絵図の右手前(ちょうど現在の横須賀線が小川に平行すると考えればよい)から、整理券を持ってゾロゾロと人が並んでいるという訳である。……

「瓶の井」「つるべ」とも「かめ」とも呼ぶ。『岩を掘り貫いて作ったとみられる。特に伝説はないものの、現在も明月院の庭水などに使用されているため、十井の中でも貴重な存在といえる』(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊「鎌倉事典」の記載)ものである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  最明寺の舊跡

    ●最明寺の舊跡

最明寺の舊跡は。禪興寺といひ。福源山と號す。明月院の門を入り左の方なり。平時賴の創建せし所とす。東鑑に建長八年七月十七日宗尊将軍山内の最明寺に御參り。此精舍建立の後。始て御禮佛也。同年十一月廿三日。相州時賴最明寺にて落飾。法名覺了房道崇戒といふ。開山は道隆なり。昔は七堂伽藍ありしが。今は全く廢寺となれり。但永正六年九月管領(くわんれい)政氏より。建長寺玉隱に當寺再興の事に就て書を贈りし事あれは。其の衰微に歸せしは久しきことゝしられたり。

[やぶちゃん注:本文にある通り、原形の「最明寺」が廃れ、その後「禪興寺」となったがこれもその塔頭であった明月院を除いて廃寺となった。最明寺は北条時頼が出家の準備として建立した、極めて個人的な持仏堂乃至は禅定室のようなものであって、建立後も住持がいた形跡がなく、時頼の死後(弘長三(一二六三)年十一月二十二日)、すぐに廃絶してしまったものと考えられている。但し、その比定位置は現在は、従来唱えられていた名月谷奥の狭い範囲などではなく、名月谷入口から東慶寺門前に及ぶ山ノ内街道北側のかなり広範囲な一帯に寺域を保持していたと考えられている。その後、ほぼ同地域に北条時宗を開基、蘭渓道隆を開山として最明寺廃絶数年内の文永五(一二六八)年か翌年辺りに開創されたものが禅興寺であった。禅興寺はその後、一旦廃絶したが、永正九(一五八一)年に再興され、その後は天正九(一五八一)年頃までは続いたと推定されている。その後に再び衰微し、貞亨二(一六八五)年に完成した「新編鎌倉志卷三には、昔は七堂伽藍が巍々と連なっていたが、今は仏殿しかなく、明月院の持分(もちぶん)となっていると記す状態で、結局、明治初期に禅興寺は廃絶、塔頭であった明月院のみが残ったのである(以下に、当該箇所を引いておく)。

   *

◯禪興寺〔附最明寺舊跡。〕 禪興寺(ぜんかうじ)は、福源山(ふくげんさん)と號す。淨智寺の向ひ、明月院の門を入りて左なり。關東十刹の第一也。平の時賴の建立、即ち最明寺(さいみやうじ)の舊跡なり。【東鑑】に、建長八年七月十七日、宗尊將軍、山の内の最明寺に御參り。此精舍建立の後、始めて御禮佛也。同年十一月廿三日、相州時賴、最明寺にて落飾、法名覺了房道崇(かくりやうばうだうそう)、戒師は宋の道隆(たうりう)とあり。當寺の開山も道隆なれども、無及德詮を第一祖とす。昔は七堂伽藍ありしと也。源の氏滿(うぢみつ)建立の時の堂塔幷に地圖、今明月院にあり。甚だ廣大なり。今は佛殿ばかりあり。明月院の持分なり。寺の僧の云く、上杉道合(だうがう)は、當時の檀那なり。明月院は、道合の菩提所なるゆへに、當寺を領するとなり。

   *

引用文中の「上杉道合」は上杉憲方(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。後掲される。

「建長八年」一二五六年。

「永正六年」一五〇九年。

「管領政氏」「政氏」は古河公方足利成氏の子二代目古河公方足利政氏(寛正三(一四六二)年~享禄四(一五三一)年)であるが、彼は公方でその補佐役の関東管領ではない。因み、この時の関東管領は上杉顕定である。なお、この頃は顕定との協調による、所謂、公方―管領体制の再構築の時期で、鎌倉支配の復活が見られる頃である。

「玉隱」臨済宗大覚派の僧で当時の建長寺住持であった玉隠英璵(ぎょくいんえいよ 永享四(一四三二)年~大永四(一五二四)年)。ウィキの「玉隠英璵」によれば、信濃国東部の武家滋野氏の出身と言われる。鎌倉禅興寺明月院の器庵僧璉(きあんそうれん)に学び、『その後継者として同院宗猷庵に居住した。応仁の乱後の鎌倉五山を代表する文人として知られ、漢詩や書に優れた。また、太田道灌と親交が厚く、道灌を通じて万里集九とも親しくした』(万里集九(ばんりしゅうく)の紀行文「梅花無尽蔵」は鎌倉の名紀行として知られる)。文明一八(一四八六)年に『万里集九が鎌倉を訪れた際には、玉隠の宗猷庵を宿所としている』。延徳三(一四九一)年に『行われた金沢文庫検査封鍼の際に立会人を務め』、明応七(一四九八)年には将軍足利義高によって建長寺百六十四世住持に任ぜられている。『後に明月院に退いて禅興寺の再建に尽くした。また、安房国の里見義豊を若年ながらその器量を高く評価して親交を深めた』とある。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  尾藤ケ谷

    ●尾藤ケ谷

尾藤ケ谷は。管領屋敷(くわんれうやしき)の對地(むかひ)淨智寺東鄰の谷なり。里人いふ昔は尾藤左近將監景綱こゝに居住す。故に名づくと。今猶ほ其の宅地と稱する所あり。[やぶちゃん注:新編鎌倉志三」に以下のようにある。私の注も含めて引く。

    *

○尾藤谷 尾藤谷(びとうがやつ)は、管領屋敷の向ひ、淨智寺の東鄰の谷(やつ)也。里人の云く、昔し尾藤左近將監景綱此に居す。又圓覺寺額(がく)の添狀(そへじやう)に、延慶元年十一月七日、進上、尾藤左衞門尉殿、越後の守貞顯(さだあき)とあり。此尾藤歟。又佛日菴に、小田原よりの文書あり。鼻頭谷(びとうがやつ)と書けり。

「尾藤景綱」(?~文暦元(一二三四)年)は鎌倉初期の武士。藤原秀郷の末裔で、北条泰時に近侍した。彼は鎌倉幕府史上、初代の家令となったが、「東鑑」によれば、その時既に泰時の邸内に彼が住居を構えていた旨、記載がある。但し、泰時邸は当時の幕府正面、現在の宝戒寺のある位置であることが判明しているので、本文のこれがもし尾藤の居宅とするならば、彼が身内の事件に端を発して出家した嘉禄三(一二二七)年以降のことかとも思われる。しかし彼は病没する前日まで家令として幕政実務を取り仕切っていたことが分かっており、彼をこの同定候補とするのには疑問がある。

「延慶元年」は西暦一三〇九年

「越後守貞顯」は幕府滅亡とともに自害した北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三(一三三三)年)。鎌倉幕府第十五代執権。彼は嘉元二(一三〇四)年に越後守、正和二(一三一三)年に武蔵守に遷任されているから、この添状と合致する。当時、彼は幕府寄合衆・引付頭人であった。但し、こちらの「尾藤左衞門尉」は何者か不詳。識者の御教授を乞う。

   *]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 德泉寺の舊跡

    ●德泉寺の舊跡

德泉寺の舊跡は。山内管領屋敷(くわんれいやしき)の東市家の後(うしろ)なりといふ。上杉朝宗の建立にして。開山は東嶽和尚〔文昱〕なり。朝宗の法號を德泉寺道元稽禪助庵主と號す。應永二十一年八月廿五日卒せり。

[やぶちゃん注:臨済宗。山号は霊芝山。管領屋敷跡(或いは東管領屋敷)と呼称される一帯の西部分で、現在の亀ヶ谷切通の上部入口の道の西北向かいに当たる。

「上杉朝宗」(ともむね 建武元(一三三四)年?~応永二一(一四一四)年?)は犬懸上杉家始祖上杉憲藤(のりふじ)の子で朝房(ともふさ)の弟。氏憲(禅秀)の父。関東管領。足利尊氏に従った父が北畠顕家との戦闘で暦応元・延元三年(一三三八)年に摂津(「信濃」ではない)で亡くなった後は、兄とともに家臣石川覚道に養育された。天授三・永和三年(一三七七)年に関東管領であった兄朝房から家督を譲られ、犬懸上杉家第二代当主となる。応永二(一三九五)年(現在知られる就任は「應永五年」ではない)から応永十二年(一四〇五)年まで関東管領を務めた。応永十六(一四〇九)年に鎌倉公方足利満兼の逝去とともに剃髪、禅助と号して上総に隠退、家督も氏憲に譲っている。

「東嶽和尚〔文昱〕」「ぶんいく」と読む。円覚寺第六十一世東岳文昱(?~応永二十三(一四一六)年)。]

我電子情報剽窃改竄頁――梟首!――「鎌倉タイム」の「新編鎌倉志 第一巻 黄門様による、元祖鎌倉ガイド」というおぞましきシロモノを糾弾する――

俺の「新編鎌倉志卷之一」の本文データを丸ごとごっそり無断使用し、カタカナをひらがなに改める小手先の改変をし、あたかも全く別個の別底本で電子化した(無論、俺の電子テクストへの言及など微塵もない)と称している笑止千万なページを発見しちまった。
 
「地元記者発、鎌倉ガイド」と名打つ「鎌倉タイム」の「新編鎌倉志 第一巻 黄門様による、元祖鎌倉ガイド」だ――
 
しかも捏造が徹底していないから元が私の振り仮名カタカナ版であることがばればれだ(残ってるよ! カタカナが! それもコピー・ペーストした際に特徴的な( )なしで後に続く形でだ!)。お前さんが底本としている奴は俺も持ってるが、「なるべく原文に忠実になるよう心がけておりますが、読みやすくするためふりがなを追加するなどしています」だあ? そんあこと言うなら、漢文脈にご丁寧な書き下しなんか( )書きでつけたことを何故言わねえ?!! 言わなきゃウソだろ? 言えねえよな。だってそれは――俺がやったんだからな!
 
――そもそもが書名を【 】記号で挟むというのはだね、あんたが一言も言っていない「大日本地誌大系」を底本にしねえ限り、偶然にもほどがあるほどおかしな仕儀なんだよ! ボケ! しかもしかも、途中で記事が切れているところもあるじゃあねえか! 偸むんならっかりかっちり盗まんかい! なんじゃあ? こりゃあ?!(ジーパン刑事風に) 
 
鎌倉好きの、こつこつと電子データ作りに苦労している人々の、これ、風上にも置けない代物である。
 
忠実を欠く文字』たぁ、どこのどいつに対する『忠実』だ?! 誰に『欠く』んだ?! この最下劣野郎が!

『小誌は史家の研究媒体ではありませんので瑣末と判断した部分は適当に流し、小見出しを追加、さらにはある規則性をもって入れ替えたりしてあります』なんていう屎呆けは笑止千万焼死万死だ!
そもそも、お前の考える「瑣末」って何だ?
 
「適当に」何を「流」したんだえ?
 
そんなにいい加減なのに、しかもブラック・ボックスの「ある規則性」たぁ、こりゃまた何でえ?
 
そもそもがお前にとっちゃ、「史家の研究」は「瑣末」なことだらけらしいが(言っとくが、俺は史家じゃあねえ。「瑣末」も「瑣末」野人蛮人藪野人たる鎌倉小市民だわ!)だから、その「ので」の結果のお前のテクストは一体何を目的としたものだと糺してえわけよ!
 
そんなお前の言う通りの会心のものを、俺があんたに頼まれたなら、もっと「瑣末」な部分を大幅にカットして、小学生にも愉しく読めるちょっちおもろい現代語訳にして、チョー読み易い「『鎌倉タイム』ばん やぶちゃんと歩くしんぺんかまくらし」として作ってやってもいいんだぜ? 勿論、無料でだ!!  
 
そうして何より腹ン立つのは、最後だ!

「無断掲載を禁じます」だあぁ!?!
 
何様のつもりだい!!!! 人のもん、黙って偸んどいて?!
 
「誰でもこのテクストをお使い下さい。但し、いい加減です」

としてあったら……いや、千歩譲って俺は一切口を噤んでたんになぁ……


思わずこれ見て――というより――これだけで怒り心頭に発して――失笑失禁して失神しそうになっちまったゼ! この救い難い馬鹿に!!
 
訴える気もおこらねえ。
 
一言――使ったよ――と言って呉れりゃ、真逆にハッピーだったのに実に残念だ
ということだ――パブリック・ドメインの電子データは拡散してよい、否、拡散し、より優れた正確なものに進化すべきであると私は考えている――しかしこの大嘘こいて私のを元に剽窃されたデータは寧ろ元の私のそれより致命的に改悪されていると私は断言出来る――お暇な方はどうぞ、ジックリ、見比べて戴きたい。
 
ただ――せめてこうしてネット上で――さらし首には、したるわ――

言っとくが、これは妄想じゃあ、――ねえ! だってさ、俺が間違いなく誤って作製したHTMLタグ部分に限って、不具合があるじゃねえか! 
どこが「大嘘」かだって?
そもそもがだ、先様が底本だと宣うておられるのは影印画像なんだ。OCRじゃ読み込めねえ代物だ。ということは、総て手打ちでやったということだよな? だのに何故、俺と同じ箇所に誤りが生じたり、俺が個人的に加えた送り仮名や歴史的仮名遣の読みが実に驚くべき〈ある共時性をもって〉(お前への見え見えの皮肉だ)そこにあるんだろう? そんなことが、これ、あると思うかね?! これはね、電子テクスト作りを十年もやってきた私の経験上からも、ゼッタイに! 120%、ありえないことなんだよ! 一つだけ言ってやろうか? おたくの電子データを「幷」と「并」で検索して見いな。おかしいな? 俺と同じところが「并」、「幷」となってるねぇ。……誰でもいいから聴いてみな。そんな可能性が起こる確率を、だよ! それともあんたは俺のクローンかな? 
♪ふふふ♪
 
遺恨のために俺のテクストを訂さずに残しおくこととしようかとも思ったが、それでは私のテクストをどっかのそれと同じように不良品のままに放置することになり、それを人々に供するというのは、これ、それこそ悪寒冷感クソ気持ち悪いので、やめにした。……さても「第二回目」とか言ってるな? 調子こいて続けるか? だったら――第二巻以降はどうか、ちゃんと一字一字タイピングして早稲田大学図書館蔵版を一から素手打ちでやっておくんない! そしたら、無名のこっちとらの勉学のためどころか、俺のと比較対照出来る、素晴らしいものになるだろう。大いに期待している。頑張られよ。
 
以上が全くの誹謗中傷というのなら――
テツテ的に対決しよう!――いつでも俺は待っている!――


【言うもおぞましいが、この記事を書いた二日後に見たら、あれあれ?! 当該頁が、お洒落にすっきり本文を除去して書き換えられていた。おまけに俺が指摘していない序と目録の頁も一緒に消失だ。
 
おかしかねえかい?

やましくねえなら、テツテ的に無視すりゃいい。キレイでセレブ好みの鎌倉ガイド・サイトだもんな。俺のような野人の「
譫言」など糞ほどのもんじゃねんだろ?
 
……いやいや、折角、俺の誤りの一部をも直して呉れてもいたんに。♪ふふふ♪
 
……しかしさ、言っとくとな、書き換えてもおかしいぜ! 「底本」って、何だよ?! テクストもねえのに「底本」たぁ、ちゃんちゃらおかしいぜ!――♪ふふふ♪
 
さても最後に――

先方からは未だに私には一言も、何も、ない。――正直、弁解でも何でも変更ページに一言あったなら、私はこの書いている自らも不愉快な記事を速やかに撤去する予定であった。

それが――「鎌倉タイム」というソーシャル・リベラルを気取ったサイトのケツを捲くった「答え」だったのである――

従って、この記事は永遠に消すつもりは――ない――
 
どうってことはないよな、確かに。――それでも――検索をかければ――おぞましく私の――この「おぞましい」記事が――ずっと残り続けるということは、よく覚えておきたまえ。
 
それが真正の――私の「梟首」――の謂いである。以上。
 
これだけ言っても腹も立てねえ、て前(めえ)は、言っとくが、記者、ジャーナリストの風上にもおけねえ、救いようのないモノホンの最下劣野郎だゼ!!!】

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 管領屋敷

    ●管領屋敷

管領屋敷(くわんれいやしき)の址は。明月院に至る路東の畠なり民部大輔上杉憲顯(のりあき)足利基氏の執事としてこゝに住し。子孫亦此所に居宅す。蓋し當時僭稱して執事を直ちに管領と唱へしに因り。管領屋敷の名を傳へたり。後(の)ち永祿四年三月。上杉謙信鶴岡八幡宮參詣の時。上杉舊館の蹤跡たるを以て。當所に假屋を設けて止宿せしことあり。

[やぶちゃん注:これについては伝承のみで、確固たる同定確証はなく、現在は最早、位置も定かには現認出来ない(一応、長寿寺の向いの東北一帯を「東管領屋敷」と呼称してはいる)。「新編鎌倉志卷之三」に、

   *

管領屋敷 管領屋敷は、明月院の馬場先(ばばさき)、東鄰の畠也。上杉民部の大輔憲顯(のりあき)、源の基氏の執事として此所に居す。其の後上杉家、代々此の所に居宅す。其の時鎌倉にても京に似せて、管領を將軍或は公方などと稱し、執事を管領と云故に、此の處を管領屋敷と云なり。後に上杉顯定、上州平井の城に居す。しかれども山の内の管領と云ふ。憲顯の末流を、山の内上杉と云なり。扇谷(あうぎがやつ)の上杉と云あり。扇谷の條下に詳かなり。

   *

とある。

「民部大輔上杉憲顯」(徳治元(一三〇六)年~応安元・正平二三(一三六八)年)は南北朝期の武将。関東執事から関東管領。足利尊氏・直義の従兄弟。特に直義とは同年で親しかった。鎌倉で足利義詮を補佐したが、もう一人の執事であった高師冬と対立、観応二・正平六(一三五一)年に師冬を滅ぼして関東の実権を握った。その後、兄と不仲になった直義を匿おうとして尊氏と対立、敗走、信濃に追放となった(観応の擾乱)。後、鎌倉公方足利基氏に許されて復帰、貞治二・正平一八(一三六三)年は入鎌して関東管領となった。足利氏による関東支配の中核を担い、更に関東上杉氏勢力の基盤を固めた人物。

「上杉顯定」(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)は戦国の武将。関東管領。越後守護上杉氏の出身であったが山内上杉家当主を継ぎ、四十年以上の長きに亙って関東管領職を務めた。古河公方足利成氏との対立、家臣長尾景春の反乱、同族の扇谷上杉定正との抗争、越後の長尾為景との戦い(この戦で戦死)など、兵乱の只中を生きた、山内上杉氏の最後の光芒を放った人物である。

「永祿四年三月」西暦一五六〇年。

「上杉謙信鶴岡八幡宮參詣の時」鎌倉好きを口にする方々の中にも、かの上杉謙信が最後の関東管領であって、この年に上杉憲政から譲り受けた関東管領職を公認させるために彼が鎌倉に来て鶴岡八幡宮を参拝し、長尾景虎から上杉政虎に改めたという事実を言うと、知らなかったと返す人が存外、多い。現在の研究ではこの拝賀の儀は同年の三月二十六か二十七日頃と推定されている。ユリウス暦で四月二十一日か二十二日で、後のグレゴリオ暦に換算すると五月一日か二日であるから目には青葉の大臣山(だいじんやま)であった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 山之内

    ●山之内

山之内は。粟船(あはふね)、本郷、倉田、戸塚の邊まてをいふ。里人(さとびと)は東は建長寺。西は圓覺寺の西野の道端(みちばた)。川邊に榎木(ゑのき)あるを境とすといへり。東鑑に建久三年三月二十日。山内に於て百ケ日の温室(ふろや)あり。往返(わうへん)の諸人(しよにん)幷に土民等浴(よく)すへきの由。札を路頭に立らる。後白河法皇御追福の爲め也とあり。又昔し首藤(しゆとう)刑部丞俊通始てこゝに居住し。山内を家號とす。今猶ほ其の第址あり

[やぶちゃん注:鎌倉一」の「山ノ内村」より引用する。下線やぶちゃん。

   *

山ノ内村[小坂郷山ノ内庄] 巨福呂坂邊より巨福呂谷村迄の間をいふ。むかしは離山粟船村邊は勿論、吉田本郷邊迄も山ノ内なりし事ものに見へたり。今は圓覺寺總門外より西續き、巨福呂谷村を堺とする由。往古は此地に寺はなく、皆武家屋敷と村民なりしかど、今は悉く寺院内に入、上杉管領屋敷跡といふも寺地に屬す。村地とする所は僅なり。治承四年十月六日、右大將家は武藏路よ鎌倉へ着御し給ひ、同九日、大庭平太郎景能を奉行として山の内の知家事(ちけじ)兼通が宅を移して、假の御亭に營作せらるゝとあり。又山ノ内を氏に稱するものは此地の産なり建久三年三月廿日、後白河法皇の御追福の爲に、俊兼奉行し、山ノ内の地にして百ケ日の間浴室を施行せられ、往還の諸人並村民等浴すべき由、路頭に札を建られしとあり。其地今は知べからず。建仁二年十二月十九日、賴家卿山ノ内の荘へ鷹場御覽に出給ふとあり。仁治元年十月十九日、前武州[泰時]の沙汰として、山ノ内の路を造らる。この路頭嶮難にして往還の煩ひあるに依てなり。いまも道路狹く、南の方は山に接し、北の方の路傍、建長寺境内より流出る水路有て嶮隘なる道路なり。建暦三年和田亂の時、一味の山ノ内の人々廿人とあり。其人々没收せられし地を同年に北條義時に賜ふとあれば、是より北條氏が領所と成けるゆへ、泰時に至て粟船村に常樂寺を基立し、又時賴は此地に別業を設け、建長寺、禪興寺を建立し、其子時宗圓覺寺を開基し、時賴の孫師時は浄智寺を創建し、又時宗が妻室の禪尼は松ケ岡の東慶寺を剏建せり。是所領の地なるゆへ數ケ寺院を造りし事なり。

   *

引用文中の「知家事」は鎌倉幕府の政所の職名。案主(あんじゅ・あんず:文書・記録等の作成保管に当たった職員。)とともに事務を分掌した。「浴室」はかつて主に寺院が貧民や病者を対象として行った施浴の施設。寺内の浴室を開放したり、仮設の施設を設けて行った。この時のものは一種の薬草を燻じた蒸し風呂様のものであったようである。

 以下、記事元である「吾妻鏡」建久三(一一九二)年三月二十日の条の当該記事も引いておく。

   *

廿日壬辰。於山内有百ケ日温室。往反諸人幷土民等可浴之由。被立札於路頭。是又爲 法皇御追福也。俊兼奉行之。今日御分也云々。平民部丞。堀藤次等沙汰之。以百人被結番。雜色十人在此内云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿日壬辰(みづのえたつ)。山内に於いて百ケ日の温室(うんじつ)有り。往反の諸人幷びに土民等、浴すべきの由、札を路頭に立てらる。是れ又、法皇御追福の爲なり。俊兼、之れを奉行す。今日(こんにち)の御分(ごぶん)なりと云々。

   *

「今日の御分なり」とはこれが頼朝自身の後白河法皇追福の功徳の分として民に施された期日限定の入浴場であったことの謂いと思われる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 足利尊氏墓

    ●足利尊氏墓

足利尊氏の墓は。長壽寺の境内(けいない)。西の方杉林(すぎばやし)の中。山麓の土窟内に在り。逆賊の墳墓爭てか永く全きを得む。今は人の倒す所と爲り。五輪の石塔離折して四方に散在す。何人か此に來りて憤慨せさる者あらむ。宜(むべ)なるかな。その此(こゝ)に及へること。此の寺の南を尊氏屋敷といふ。大倉幷に巽荒神(たつみくわうじん)の東にもあり。三所共に尊氏の舊宅在るべし。

[やぶちゃん注:以下、何故か全体が一字下げ。]

尊氏の法號を長壽寺殿妙義仁山大居士と號す。石塔には刻字なし。

[やぶちゃん注:私もずっと昔に参ったことがあるが、恐らく鎌倉になる知られた歴史上の人物の墓としては最も無惨な見るに堪えない寄せ集めである(私は実際、見るなり、「これは酷い!」お思わず口に出して叫んだことを記憶している)。「相模国風土記稿」に載る「尊氏廟塔」とする図では、高さ八尺(二メートル四十二センチメートル)の宝篋印塔で塔身部分(中央の通常は梵字や戒名などが彫られる部分)が通常のように方形でない蜜柑型の楕円をなした見た目可愛らしい感じ(が私にはする)のものであるが、現在のそれは似ても似つかぬ残骸と無関係なものの寄せ集めである(グーグル画像検索「足利尊氏の墓 長寿寺」を見よ)。戦前は尊氏は逆賊とされ、尊氏絡みのものを所有する寺院は文字通り、愛国少年らから石を投げつけられた(梁牌銘に尊氏のそれを持つ覚園寺の先の住職大森順雄氏から二十歳の頃に直接お聴きした話)。この『風俗畫報』の「逆賊の墳墓爭てか永く全きを得む。今は人の倒す所と爲り。五輪の石塔離折して四方に散在す。何人か此に來りて憤慨せさる者あらむ。宜なるかな。その此に及へること」という叙述も、如何にもな田舎芝居がかっていて、突如、義憤に襲われた振りをし、尊王の志士みたような台詞を、倒置法まで利かせて吐いており、如何にも気持ちが悪く異様で、本誌中でもイヤな感じの特異点と言える。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  長壽寺

    ●長壽寺

長壽寺は寳龜山と號す。鎌倉志等に足利基氏其の父尊氏の爲めに建(たて)る所とあれとも。風土記に當寺所藏に。建武三年八月當寺を諸山(しよさん)の列に定めし尊氏の公文(こうぶん)あり。是に據れは沒後の開基とするは中らす。今是非を决し難しとあり。昔は伽藍巍々たりしが。今は衰微し。惟久殿〔佛殿〕は其の名のみにて。獅王殿即ち客殿に本尊釋迦、文殊、普賢及ひ尊氏〔束帶〕開山古先和尚等の木像を安置す。

[やぶちゃん注:「鎌倉志等に足利基氏其の父尊氏の爲めに建る所とあれとも」「新編鎌倉志卷之三」の「長壽寺」の条には、

   *

◯長壽寺〔附尊氏屋敷〕 長壽寺(ちやうじゆじ)は、寶龜山(ほうきさん)と號す。關東諸山の第一なり。源の基氏父尊氏の爲に建立す。尊氏を長壽寺殿妙義仁山(めうぎにんざん)大居士と號す。〔尊氏、京都にては等持寺と云、鎌倉にては長壽寺と云。〕延文三年戊戌四月廿九日に薨ず。當寺に牌あり。開山は古先和尚、下の行狀に詳かなり。昔しは七堂ありしとなり。今は滅びたり。鐘は圓覺寺山門の跡にあり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあり、「鎌倉攬勝考卷之五」の同寺の条でも、

   *

長壽寺 山ノ内往來路に總門あり。寶龜山と號す。關東諸山の第一なり。足利尊氏將軍追福の爲に、鎌倉公方基氏朝臣の剏建なり。尊氏卿の法號を、長壽寺殿妙義仁山大居士と號す。延文三年戊戌四月廿九日薨逝。京都にては等持院殿と稱す。古えは當寺も七堂ありし由。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とする(但し、後者は多分に「新編鎌倉志」を引き写した可能性が高く、特にこの長寿寺の条はかなり杜撰な処理がなされている。リンク先(同寺が冒頭)の私の注を参照のこと)。対して、「新編相模国風土記稿」には以下のように記されて特異点を成している(私は同書籍を所持しないので国立国会図書館近代デジタルライブラリーの「大日本地誌大系 第三十九巻」版の当該箇所を視認した。なお、「當時」及び「例に定し」の「例」はママである。「蚤く」は「はやく」と訓ずる。住持名「中岑」は「ちうしん(ちゅうしん)」と読むと思う)。

   *

◯長壽寺 寶龜山と號す臨濟宗にて關東諸山の第一なり當寺所藏開山古先の行狀記〔永和二年、福山の石室が書記せしなり、〕及び【鎌倉志】【高僧傳】等みな源の尊氏〔延文三年四月廿九日薨ず、牌あり長壽寺殿妙義仁山大居士と記す、〕の薨ぜし後管領基氏父の爲に剏建すと記せど、當時所藏に。建武三年八月當寺を諸山の例に定し、尊氏の公文あり〔曰、當寺事、可爲諸山之列也、可被存其旨之狀如件、建武三年三月廿九日、長壽寺長老、尊氏の華押あり、〕是に據れば沒後の開基とするは中らず、今是非を決しがたし、昔は七堂伽藍具足せしとぞ今は悉く滅せり、舊は應永の鑄鐘ありしが蚤く逸して今は圓覺寺、正續院にあり、則應永の銘あり〔銘文は正續院條に註記す、〕彼山内に移せしは何の頃何の故たる事ふつに傳へず、彼院の條併見るべし、△客殿 獅子王殿と唱ふ、釈迦・文殊・普賢を本尊とし、古先・中岑二師の像及び尊氏束帶の像を置く、[やぶちゃん注:以下寺宝が続くが略す。]

   *

「惟久殿」は「ゐきゆうでん(いきゅうでん)」と読むのであろう。「惟」は「ユイ」とも音読み出来るが、如何にもごろが悪い感じがする。

「古先和尚」古先印元(こせんいんげん 永仁三(一二九五)年~応安七/文中三(一三七四)年)は臨済僧。薩摩生。円覚寺の桃渓得悟(とうけいとくご)に入門して十三歳で得度、文保二(一三一八)年には元に渡って、天目山の中峰明本らに師事した後、嘉暦元(一三二六)年に清拙正澄(せいせつせいちょう)の来日に随って帰国、正澄が建長寺に入ると経蔵の管理を担当した。建武四年/延元二(一三三七)年には、かの夢窓疎石に請われて甲斐国の恵林寺住持となり、更に足利将軍家の信任を受けて足利直義から京の等持寺の開山に、足利義詮からはこの長寿寺の開山に招かれ、更に天龍寺の大勧進をも務めている(他にも陸奥国岩瀬郡の普応寺など彼を開山とする寺院が知られる)。この間、康永三年/興国五(一三四五)年に京の真如寺、貞和五/正平四(一三五〇)年に万寿寺に住まいし、更に鎌倉の浄智寺を経て、延文四/正平一四(一三五九)年には円覚寺第二十九世に、次いで建長寺第三十八世となった。晩年はこの長寿寺に居住した。諡号は正宗広智禅師(以上はウィキの「古先印元」に拠った)。]

2015/07/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  龜ケ谷阪

    ●龜ケ谷阪

龜(かめ)ケ谷阪(やつさか)は。鎌倉七切通の一にして。扇ケ谷と山之内との中間に在り。長壽寺より南折し行く阪路(はんろ)をいふ。即ち南を扇ケ谷。北を山之内とす。元弘三年五月新田義貞北條氏の兵と戰ひし舊蹟なり。

[やぶちゃん注:「元弘三年五月新田義貞北條氏の兵と戰ひし舊蹟なり」これは巨福呂坂の誤りと思われる。「太平記」には亀ヶ谷坂の記載はない。元弘三年五月十八日(ユリウス暦一三三三年六月三十日/グレゴリオ暦に換算すると七月八日に相当)、鎌倉攻略の初戦に於いて新田義貞は六十万七千余騎の軍勢を三手に分け、極楽寺坂・化粧坂・巨福呂坂の三方から攻撃を開始している。極楽寺坂には大館(おおたち)宗氏・江田行義を将として、巨福呂坂には堀口貞満・大島守之を将としてそれぞれ十万余騎、中央の化粧坂からは新田義貞と弟脇屋義助が攻勢をしかけていることが明記されてある。この巨福呂坂を現在の亀ヶ谷坂と考える説もあるやに聞くが、「鎌倉市史 考古編」の「鎌倉城跡」(聴き馴れないかも知れぬが九条兼実の日記「玉葉」に記されている呼称である)の「規模構造」の「ロ 切通及び支城」の「亀ケ谷切通」の項に『山ノ内に入った敵は、建長寺手前から長寿寺のわきを経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通した亀ケ谷坂である。現在の切通は後世深く且つ広く改修したもので、当時は現在の切通の上方を狭い切通路が通っていた』から、当時のその『前方に逆茂木をならべ切通上に陣を敷いて待ちかまえたら、通ることは出来なかったろう』とあり、同じ険阻な切通しでも突き破れば一気に野戦から幕府建物への攻勢に持ち込める巨福呂坂に対し、より狭く、下っても左に迂回せねばならず、しかもその際に危険な尾根裾を行かねばならない亀ヶ谷ルートは私が大将なら選ばない。]

舊稿の中より   夢野久作

[やぶちゃん注:以下の総表題「舊稿の中より」という歌群は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」直後に配されてある「獵奇歌」の「SY君を弔ふ」十二首/「レーニン死す」十一首/計二十三首と前書からなるものである。但し、それぞれの前書から分かるように、これらは「獵奇歌」の最初の第一群が公開された昭和二(一九二七)年八月よりも前に詠まれたもので、それぞれ、「SY君を弔ふ」が十年前の大正六(一九一七)年の九月中旬(前書に「その年の暑中休暇が濟んだ頃」とある)、「レーニン死す」が三年大正一三(一九二四)年の春(ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин 一八七〇年~一九二四年)の死去は同年一月二十一日)に創作された歌群と推定出来る。

 同氏の解題によれば、この「「獵奇歌」を掲載中であった、『獵奇』の昭和七(一九三二)年四月号に掲載されたものである(署名は夢野久作)。同号に掲載された「獵奇歌」は十六首もあり、創作出来なかったことによる苦し紛れの掲載ではなく、素直に前書を信じてよいものである。因みに、掲載当時の久作の年齢は満四十三であるが、「SY君を弔ふ」は二十八(クラとの結婚の前年で、杉山家嗣子として還俗、唐原(とうのはる)の農園に戻った年である)、「レーニン死す」は三十五歳であった(この同年春三月に『九州日報』を退社(一度目の方)している)。

 なお、「SY君を弔ふ」(「SY君」は不詳)に現われる前書には看過出来ない差別的錯誤があるので注意されたい。彼はこの追悼歌を詠んだ「SY君」という故人について、彼は『遺傳の業病かゝつ』ていたと述べ、十二首の内一首を除いて『レプラ』『癩病』がちりばめられてある。これは無論、この歌友の罹患していた病気がハンセン病であることが判る。ハンセン病は細菌門放線菌門放線菌綱放線菌目コリネバクテリウム亜目マイコバクテリウム科マイコバクテリウム属マイコバクテリウム・レプラ Mycobacterium leprae による純粋な感染症であるが(現行、種名和名を「らい菌」とするが、私はこの謂い方も「癩病」を廃している以上、廃するべきと考える。されば学名をそのまま音写した)、歴史的に永い間、生きながら地獄の業火に焼かれるといった「天刑病」「業病」の差別、潜伏期が長いことから(一般的には三~五年であるが十年から数十年の後に発症する症例もある)感染症とは考えにくいという誤認、後の悪法「らい予防法」(昭和二八(一九三三)年)などに見るように日本政府自らが優生学政策を掲げたことなどから遺伝病であるというとんでもない誤解が広まっていたのである。そうした顕在的潜在的差別意識(それは患者であるSY君の言葉の中にさえ出現する)に対して充分に批判的視点を持ってお読みになられるようお願いする。そうして、かくも誤った認識によって、かくも凄絶に孤独に死んでいったハンセン病に罹患した人々がいた事実を記憶に刻み込んで戴きたい。

 

 

 

   舊稿の中より

 

 

 

     ㈠

 

 S・Y君を弔ふ

 

 大正五年の六月初旬、歌友S・Y君が長逝しました。S・Y君は凛々しい美男で、頭が優れて良かつたのですが、遺傳の業病にかゝつて以來、鄕里九州の或る半島の奧に一人住居の小舍を造り、其處(そこ)で死期を待つて居るといふ噂を、人傳(づ)てに度々聞きました。私はそのたんびに見舞ひに行かうか行くまいか。行つて良いものか惡いものかと思ひ迷つて居りますうちに、その年の暑中休暇が濟んだ頃、突然二三人の歌友が訪ねて來まして、S・Y君が死んだ。この前に見舞い行つた時にはまだ元氣だつたが……云々と報告をして呉れました。

 私は其(その)時に、何ともタマラナイ氣持ちになりましたが、今でも思ひ出すたんびに息苦しくなる樣(やう)です。左記は其時の歌友たちの話をタヨリに詠みました歌です。まことに誠意の無いしわざの樣(やう)ですが、せめてもの懺悔と思ひまして……。

 

   ◇

 

 春まひる

 夕暮れのごと蟲の飛ぶ

 レプラの友の住めるその家

 

 離れませ吾はレプラぞ

 神と人とに地が反(そむ)かする

 吾はレプラぞ

 

 秋更けし夕燒けのごと笑ふなり

 レプラの友の

 泣ける橫顏

 

 地に咲ける最(もつとも)醜くゝ美しき

 血潮の花ぞと

 レプラ囁く

 

 人の世に迷ひも悟りもあらばこそ

 たゞ美と生命ぞと

 レプラの友云ふ

 

 レプラ云ふ

 吾が血は肉は頽れ行けば

 骨のみ殘りて天を呪はむ

 

 レプラ云ふ

 吾が血は肉は頽れ行くよ

 心のみ吾に殘る無殘さよ

 

 癩病の友は云ひけり

 吾が骨の座りて殘らば

 よき諷刺畫ぞと

 

 霜の夜は天の笞(しもと)の

 皮に肉に骨に沁みると

 レプラの友泣く

 

 癩病の友は云ひけり吾が生命

 三年保たば

 神に謝せむと

 

 生きながら眼も唇も流れ失せて

 歌友は逝きぬ

 世は梅雨に入る

 

 蠅ヒシと群れて動かず

 梅苦(にが)き窓邊に死せる

 レプラの吾が友

 

 

 

      ㈡

 

  レーニンを弔ふ

 

 大正十三年一月レーニンが死にました時に詠んだ歌です。今頃少々トンチンカンかも知れませぬが、前の歌稿を探す序(ついで)に見當りましたから、何かの埋草にもと思ひまして……。

 

   ◇

 

 レーニン死す

 遠き露西亞の革命兒

 零下何度の冬のさ中に

 

 レーニン死す

 零下何度の寒風に

 ザーを殺した思ひ出も氷れ

 

[やぶちゃん注:「ザー」はロシア語の皇帝「ツァーリ」царь)の音写か? ロマノフ朝第十四代にして最後のロシア皇帝ニコライ二世(Николай II 一八六八年~一九一八年/在位は一八九四年十一月一日~一九一七年三月十五日)は流刑に処されたが、『チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、一九一八年七月十七日午前二時三十三分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人のヤコフ・ユロフスキー率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が元皇帝一家七人(ニコライ二世、アレクサンドラ元皇后、オリガ元皇女、タチアナ元皇女、マリア元皇女、アナスタシア元皇女、アレクセイ元皇太子)、ニコライ二世の専属医(エフゲニー・ボトキン)、アレクサンドラの女中(アンナ・デミドヴァ)、一家の料理人(イヴァン・ハリトーノフ)、従僕(アレクセイ・トルップ)の合わせて十一人をイパチェフ館の地下で銃殺した。これにより、元皇帝夫婦ニコライ二世とアレクサンドラの血筋は途絶えた』(引用は参照したウィキの「ニコライ二世」に拠るが、アラビア数字は漢数字に代えた)。]

 

 レーニン死す

 その思ひ出の寒風は

 人類のアクマを氷らすであらう

 

 レーニン死す

 兵上が流す熱涙が氷柱になつた

 素晴らしいレーニン

 

 レーニン死す

 墓場はモスコーの赤小路

 心臟ならば動脈瘤の位置

 

[やぶちゃん注:ウィキの「ウラジーミル・レーニンの死に至る部分と「死去」の項を引いておく(アラビア数字は漢数字に代え、注記号は省略した)。レーニンは『一九二二年三月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。五月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。八月には一度復帰するものの十一月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに十二月の二度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった』(中略)。『レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された』。レーニンの妻『クループスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の一九二三年三月六日に三度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、一九二四年一月二十日に四度目の発作を起こして翌一月二十一日に死去した』。『レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した二十七人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは八人だった。このことは梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は一人のみだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈、脳底動脈、内頸動脈、前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟ドミトリーはいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)』。葬儀は死の六日後の一九二四年『一月二十七日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は二十六日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった』(当時、トロツキーの滞在していた場所が二十六日には到底間に合わない所にあったということであろう)。『レーニンの遺体は、死後ほどなく保存処理され、モスクワのレーニン廟に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた』。『ソ連崩壊後、一九三〇年代から一九五〇年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ・ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「バルサム液」なる防腐剤を浸透させたもので、一年半に一回の割合で遺体をバルサム液漬けにするメンテナンスで現在まで遺体を保存しているという』。『なお、ロシア政府はエリツィンのころより、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、そのつど国内の猛反対にあい撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い』とある。]

 

 レーニン死す

 腦を解剖した醫師が

 頭を振つて苦笑ひした

 

 レーニン死す

 腦を覗いた醫者が云つた

 彼は神でも惡魔でも無かつた

 

[やぶちゃん注:以上の二首は前の注で示したレーニンの梅毒性の脳病変という風説に基づくものであろう。]

 

 レーニン死す

 惡魔と云はれた辯舌を

 一層強く鋭くする爲

 

 レーニン死す

 死骸を防腐するといふ

 科學の偶像が又一つ殖えた

 

[やぶちゃん注:「獵奇歌」(但し、この歌群の発表より二年後の昭和九(一九三四)年八月号の『ぷろふいる』掲載分)の中に、私の好きな、

 

 眞鍮のイーコン像から

 蠟細工のレニンの死體へ

 迷信轉向

 

の一首があるが、本歌はその初稿と考えてよかろう。]

2015/07/24

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅸ) / 獵奇歌 了

 

體温器窓に透かして眺め入る

死に度いと思ふ

心を透かし見る

 

タツタ一つ

罪惡を知らぬ瞳があつた

殘虐不倫な狂女の瞳(め)だつた

 

冬空が絶壁の樣に屹立してゐる

そのコチラ側に

罪惡が在る

 

   (昭和一〇(一九三五)年二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

無限に利く望遠鏡を

覗いてみた

自分の背中に蠅が止まつてゐた

 

眞鍮製の向日葵の花を

庭に植ゑた

彼の太陽を停止させる爲

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年四月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

おしろいの夜の香よりも

眞黑なる夜の血の香を

戀し初めしか

 

失戀した男の心が

剃刀でタンポヽの花を

刻んで居るも

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年五月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

世の中の坊主が

足りなくなつてゆく

醫學博士がアンマリ殖えるので

 

郊外の野山は

都會より殘忍だ

靜かに美しく微笑してゐるから

 

深海の盲目の魚が

戀しいと歌つた牧水も

死んでしまつた

 

[やぶちゃん注:「深海の盲目の魚が/戀しいと歌つた牧水」とは若山牧水の、

 

 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり

 

を指す。初出は知らないが、牧水の第四歌集「路上」(明治四四(一九一一)年博信堂書店刊)の巻頭を飾る一首として知られる。歌集刊行当時は久作二十二歳、慶応大学文科二年であった。なお、この一首は牧水の五年越しの人妻園田小枝子に対する恋の破れたその絶唱であるという。牧水の出身である宮崎県立延岡中学校、現在の延岡高校の同窓会ブログ「東海延友会」の工藤ゴウ氏の記事海底に眼のなき魚の棲むといふに詳しい。小枝子の写真や「路上」の初版表紙も見られる。必見。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年六月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

非常汽笛

汽車が止まると犯人が

ニツコリ笑つて麥畑を去る

 

汽缶車が

だんだん大きくなつて來る

菜種畠の白晝の恐怖

 

[やぶちゃん注:「汽缶車」三一書房版全集は「機関車」とする。「菜種畠」筑摩書房版全集を底本とする青空文庫版は「菜種畑」とする。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年七月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

毒藥と花束と

美人の死骸を積んだ

フルスピードの探偵小説

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年七月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

[やぶちゃん注:掲載はこの一首のみである。]

 

 

 

木の芽草の芽伸び上る中に

吾心伸び上りかねて

首を縊るも

 

波際の猫の死骸が

乾燥して薄目を開いて

夕日を見てゐる

 

自殺しに吾が來かゝれば

白い猫が線路の闇を

ソツと横切る

 

春風が

先づ探偵を吹き送り

アトから悠々と犯人を吹き送る

 

涯てしなく並ぶ土管が

人間の死骸を

一つ喰べ度いと云ふ

 

冬空にヂンヂンと鳴る電線が

死報の時だけ

ヒツソリとなる

 

[やぶちゃん注:「ヂンヂン」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

犯人の帽子を

巡査が拾ひ上げて

又棄てゝ行く

春の夕暮

 

血のやうに黑いダリヤを

凝視して少女が

ホツとため息をする

 

山の奧で仇讐同志がめぐり合つた

誰も居ないので

仲直りした

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年十月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

殺人狂が

針の無い時計を持つてゐた

殺すたんびにネヂをかけてゐた

 

腦髓が二つ在つたらばと思ふ

考へてはならぬ

事を考へるため

 

日の光り

腹の底まで吸ひ込んで

骨となりゆく行路病人

 

何もかも性に歸結するフロイドが

天體鏡で

女湯を覗く

 

[やぶちゃん注:この一首、浮世風呂の古浮世絵と、少し太い天体望遠鏡とフロイトらしい人物デッサンをエルンストの「慈善習慣」風にコラージュしてみたい欲求に駆られる。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年十一月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

風に散る木の葉の中の

惡黨が

池の向側に高飛びをする

 

囚人が

アハハと笑つてなぐられた

アハハと笑つて囚人が死んだ

 

中風の姑は何でも知つてゐる

死に度いと思ふ

妾の心まで

 

北極に行つて歸らぬ人々が

誰よりもノンキに

欠伸してゐる

 

[やぶちゃん注:「欠伸」の「欠」はママ。理由は既注。]

 

石コロが廣い往來の中央で

齒嚙みして居る

ポンと蹴つて遣る

 

一里ばかり撫でまはして來た

なつかしい石コロを

フト池に投げ込む

 

[やぶちゃん注:本歌が取り敢えず「獵奇歌」の掉尾である。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年十一月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅷ)

 

靑空に突き刺さり突き刺さり

血をたらす

南佛蘭西の寺の尖塔

 

夜の風に

紙片が地を匍うて行く

死人の門口でピタリと止まる

 

[やぶちゃん注:「匍うて」諸本、「匍ふて」とする。]

 

眞鍮のイーコン像から

蠟細工のレニンの死體へ

迷信轉向

 

[やぶちゃん注:言い得て妙で個人的に非常に気に入っている。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年八月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

   白骨譜

 

死刑囚は

遂に動かずなり行けど

栴檀の樹の蟬は啼きやまず

 

[やぶちゃん注:「栴檀」「栴檀木」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarachの別名。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。]

 

神樣の鼻は

眞赤に爛れてゐる

だから姿をお見せにならないのだ

 

一瓶の白き錠劑

かぞへおはり

窓の靑空じつと見つむる

 

濱名湖の鐵橋渡る列車より

フト……

飛降りてみたくなりしかな

 

天井の節穴

われを睨むごとし

わが舊惡を知り居るごとし

 

靑空は罪深きかよ

虻や蜻蛉

お倉の白壁にぶつかつて死ぬ

 

盲人がニコニコ笑つて

自宅へ歸る

着物の裾に血を附けたまゝ

 

[やぶちゃん注:「ニコニコ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

よそのヲヂサンが

汽車に轢かれて死んでたよ

歸つて來ないお父さんかと思つたよ

 

將軍塚

將軍の骨が棺の中で錆びた刀を

拔きかけてゐた

 

[やぶちゃん注:「將軍塚」こう固有名詞で呼称する古墳や墳墓は全国各地にあるが、特定の何処を指しているかは不詳である。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年八月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

靑空はブルーブラツク

三日月は死の唄を書く

ペン先かいな

 

大理石の伽藍の如き頭蓋骨が

莊嚴に微笑む

南極の海

 

ほの暗く

はるかな國離れ來て

桐の若葉に

さゆらぐ惡魔

 

 

   (昭和九(一九三四)年十月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

わが罪の思ひ出に似た

貨物車が犇きよぎる

白の陽の下

 

ぬかるみは果てしもあらず

微笑して

彼女の文を千切り棄てゆく

 

ニヤニヤと微笑しながら跟いて來る

もう一人の我を

振返る夕暮

 

[やぶちゃん注:「跟いて來る」老婆心乍ら、「ついてくる」と読む。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年十一月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

日も出でず

月も入らざる地平線が

心の涯にいつも横たはる

 

うなだれて

小暗き町へ迷ひ入り

獸の如く呻吟してみる

 

社長室の片隅に

黑く凋れ行く

赤いタイピストの形見のチユーリツプ

 

[やぶちゃん注:「凋れ行く」老婆心乍ら、「しをれゆく(しおれゆく)」と読む。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年十二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅶ)

 

   地獄の花

 

火の如きカンナの花の

咲き出づる御寺の庭に

地獄を思ふ

 

昨日までと思うた患者が

まだ生きて

今朝の大雪みつめて居るも

 

お月樣は死んでゐるの

と兒が問へば

イーエと母が答へけるかな

 

胃袋の空つぽの鷲が

電線に引つかゝつて死んだ

靑い靑い空

 

[やぶちゃん注:「靑い靑い」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

踏切にジツと立ち止まる人間を

遠くから見てゐる

白晝の心

 

靑空の冷めたい心が

貨物車を

地平線下に吸ひ込んでしまつた

 

自分自身の葬式の

行列を思はする

野の涯に咲くのいばらの花

 

 

   (昭和九(一九三四)年四月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

   死

 

自殺しても

悲しんで呉れる者が無い

だから吾輩は自殺するのだ

 

馬鹿にされる奴が一番出世する

だから

自殺する奴がエライのだ

 

何遍も自殺し損ねて生きてゐる

助けた奴が

皆笑つてゐる

 

あたゝかいお天氣のいゝ日に

道ばたで乞食し度いと

皆思つてゐる

 

悟れば乞食

も一つ悟れば泥棒か

も一つ悟ればキチガヒかアハハ

 

致死量の睡眠藥を

看護婦が二つに分けて

キヤツキヤと笑ふ

 

振り棄てた彼女が

首を縊くくつた窓

蒲團かむればハツキリ見える

 

 

   (昭和九(一九三四)年六月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

   見世物師の夢

 

滿洲で人を斬つたと

微笑して

肥えふとりたる友の歸り來る

 

明るい部屋で

冷めたい帽子を冠つたら

殺した友の顏を思ひ出した

 

ずつと前殺した友へ

根氣よく年賀状を出す

愚かなる吾

 

廣重は

慘殺屍體の上にある

眞靑な空の色を記憶した

 

煉瓦塀を仰げば

靑い靑い空

殺人囚がホツとする空

 

[やぶちゃん注:「靑い靑い」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

病死した友の代りに返事した

先生は知らずに

出席簿を閉ぢた

 

秋まひる靜かな山路に

堪へ兼ねて追剝を

した人は居ないか

 

人頭蛇を生ませてみたいと

思ひつゝ女と寢てゐる

若い見世物師

 

 

   (昭和九(一九三四)年七月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

甲子夜話卷之一 44 新太郎どの旅行に十三經を持せらるゝ事

44 新太郎どの旅行に十三經を持せらるゝ事

新太郎少將、旅行の時は、前行の諸武具は、世の作法通りにして、駕の先へ十三經の筥をわくに納(イ)れ、着料の具足櫃と同く持せしとぞ。

[やぶちゃん注:「新太郎」備前岡山藩初代藩主の外様大名池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)の通称。元和九(一六二三)年、第三代将軍徳川家光の偏諱を受けて光政と称する。姫路から鳥取を経て岡山に入城、三十一万五千余石を領した。幼時より学を好み、中江藤樹に師事、藤樹没後は熊沢蕃山を国政顧問として重用した。諸制を改革、文武を奨励して藩政改革に尽力、外様乍ら、幕府も一目置いていた名君として知られる。

「前行」「ぜんかう(ぜんこう)」貴人の外出の際に行列の先に立つ役方。

「十三經」「經」は「けい」とも「ぎやう(ぎょう)」とも読む(私は仏典と区別するために「けい」と読むことにしている)。宋代に定められた儒家の基本的経典とされる十三種。「周易」(易経)・「尚書」(書経)・「毛詩」(詩経)・「周礼(しゆらい)」・「儀礼(ぎらい)」・「礼記(らいき)」・「春秋左氏伝」・「春秋公羊(くよう)伝」・「春秋穀梁(こくりよう)伝」・「論語」・「孝経」・「爾雅(じが)」・「孟子」。

「筥」「はこ」。

「わく」不詳。完全密封式の葛籠ではなく、枠張りの箱外から中身の見えるもののことか。

「着料」「きれう/ちやくれう(きりょう/ちゃくりょう)」。衣服。

「具足櫃」「ぐそくびつ」。甲冑を入れておくための蓋付きの箱。]

譚海 卷之一 肥前國水上山安德帝開山たる事

 肥前國水上山安德帝開山たる事
 
○肥前の人かたりしは、安德帝入水の事は虛事也。我國に水上山と云(いふ)禪刹有(あり)、高山の頂(いただき)にありて、其(その)傍(かたはら)より湧出(わきいづ)る水、肥前一國の田をうるをす事ゆへ、水上山と稱する也。此寺の開山を神子(かみこ)禪師と稱し、是(これ)即(すなはち)安德帝の御事也。西海敗軍のとき、帝ひそかに軍(いくさ)をのがれて此に住僧と成(なり)、開山と成(なり)給ひしとぞ。國初迄は經山寺(きんざんじ)の末寺にして華僧住持と成(なり)しが、元和已來渡海の禁ありて、經山の往來絶(たえ)しより、今は京都南禪寺より支配する也。されども末寺にてはなし。此寺開山の外(ほか)むかしより輪番にて住持といふ事はなし。この水は神子禪師開山の時、雷公隨身して年來給仕せしが、天へ還り昇らんとせし時、師の恩に報じて此(この)水を出せし也。雷公岩を蹴裂(けさき)て出す所の水ゆゑ、今にたゆる事なしとぞ。又什物に寶刀一振有(あり)、錦の切(きれ)に卷(まき)て包(つつみ)たる事凡(およそ)百重(へ)ばかり、代々の住持終(つひ)にときみる事なし。祈雨(きう)の時此刀を取出(とりいだ)せば、一里四方甘雨(かんう)の瑞(ずい)ありとぞ。

[やぶちゃん注:「安德帝入水の事は虛事也」安徳帝存伝説はすこぶる多いが、義経伝説の陰に隠れたものか、あまり取り沙汰されることがない。まずはウィキの「安徳天皇」を参照することにしよう(アラビア数字を漢数字に代えた)。『安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があり、九州四国地方を中心に全国に』二十『あまりの伝承地がある』(但し、数値には要検証要請が附されてある)。以下、東北地方では、『青森県つがる市木造町天皇山には安徳天皇が落ち延びたという伝説が』、近畿地方では、『摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したと』し、『侍従左少辨・藤原経房(つねふさ、吉田家の祖となり『吉記』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と四人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永四年(源氏方年号で元暦二年、一一八五年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。しかし翌年五月十七日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。経房遺書は、文化一四年(一八一七年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保五年(一二一七年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。当時、読本作者・曲亭馬琴や国学者・伴信友などは偽作と断じたが、文人・木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物とした。経房遺書原本は明治三十三年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。経路であった鳥取県の岡益の石堂や三朝町などにも今も陵墓参考地を残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる』とある。失われた古文書の真偽は不詳乍ら、異様に細かく興味をそそられる伝承の一つである。中国・四国地方では、因幡国に逃れたものの、十歳(史実上の没年年齢は数えで八つ)で崩御したとする説があり、『壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。文治三年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている』とし、他にも『鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在』し、また、『鳥取県東伯郡三朝町中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る』という。四国では、『阿波国祖谷山(現在の徳島県三好市)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説』が残り、『平盛国が祖谷を平定し、麻植郡に逃れていた安徳帝を迎えたという。天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名がある。安徳帝はこの地に隠れ住み、十六歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたという(『美馬郡誌』)』。私は個人的にここに登場する平盛国が殊の外、好きである。清盛側近として働き、壇の浦合戦で捕虜となって総帥平宗盛父子とともに鎌倉に送られたが、頼朝に気に入られて死罪を免れ、岡崎義実の預りとなった。しかし、日夜無言のままに法華経に向い、そのまま飲食を絶ち、文治二(一一八六)年七月二十五日(壇ノ浦の平家滅亡は元暦二・寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日))に享年七十四で餓死し自害した老古武士である。「吾妻鏡」の同日の記事によれば、頼朝はこれを聞くと、「心中尤可恥之由被仰」(心中尤も恥づきの由仰せらる)とある。預かりの囚人にしたが故に死なせてしまったと激しく後悔したというのである。――元に戻る。さらに、『土佐国高岡郡横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説』もある。『平知盛らに奉じられ、松尾山、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが、正治二年(一二〇〇年)八月に二十三歳で崩御。鞠ヶ奈路に土葬されたとされ』たというのだが、これだと知盛も生きていたことになる。「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の彼は生き延びてはいけません! 次にいよいよ九州地方である。『福岡県筑紫郡那珂川町には昔から安徳という地名があるが、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・原田種直が帝を迎えたところという。『平家物語』では平家は大宰府に拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している』。また、『対馬に逃げ延びて宗氏の祖となったとする説』もあり、『対馬に渡った安徳天皇が島津氏の娘との間に儲けた子が宗重尚であるという』ものである(宗重尚(そうしげひさ)は対馬の国主宗氏の初代当主。ウィキの「宗重尚」によると生没年は未詳で、『所伝では、宗氏の祖知宗は平知盛の子で、壇の浦の戦い後、惟宗氏に養われたとし、桓武平氏であると称していたが、島津氏と同じく惟宗氏の出身だといわれる。父ははっきりしないが宗知宗、太宰府官人惟宗信国とする説もある』とし、寛元三(一二四五)年に『対馬の阿比留親元が反乱を起こしたため、これを討つために筑前国より対馬に入島』、翌寛元四年には『阿比留氏の反乱を平定し、対馬の国主となったとされる』ものの、『近年の研究では、父の知宗同様その存在が疑問視されている』とある)。また、『肥前国山田郷にて出家し、四十三歳で死去したとする説』があり、『二位尼らとともに山田郷に逃れたという。安徳帝は出家し、宋に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に没したという』(下線やぶちゃん)。この伝承に基づく変型譚が本話柄の伝承のである。他にも『薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説』があり、『平資盛に警護され豊後水道を南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたという。同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。昭和になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。この箱の中には三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた長浜豊彦(長浜天皇)なる人物がいた』という。これもブルッとくるほど好きな伝承である。同系列の変型譚では、硫黄島から更に大隅国牛根麓(うしねふもと:現在の鹿児島県垂水市牛根麓)に移り住んだが、十三歳で同地で没し、同所にある居世(こせ)神社に祀られているという説もある。因みに私のお薦めの安徳伝奇は、偏愛する漫画家諸星大二郎の「妖怪ハンター」シリーズの「海竜祭の夜」である。巨大な海蛇の頭が頑是ない幼帝の顏となった出現するあのコマは、一読忘れ難い戦慄と同時に曰く言い難い哀感を私に与えるのである。因みに言い添えておくと、「源平盛衰記」の終盤の「老松若松尋剣事」には、実は安徳帝は八岐大蛇の化身であって、源平合戦を起こし、三種の神器の宝剣を龍宮に取り戻そうとしたのだ(「吾妻鏡」には宝剣は祖母時子が持ち、安徳帝を抱いたまま入水したと載る)―というとんでもない下りがある。実は、本話の最後も「雷公」、栄尊に随身したのが雷神だから雨を降らすという理屈よりも、私は如何にも厳重に「錦の切に卷て包たる事凡百重ばかり、代々の住持終(つひ)にときみる事な」なかったという「什物」「祈雨の時此刀を取出せば、一里四方甘雨の瑞あり」という「寶刀一振」という宝剣こそ――かの失われた―三種の神器の一――天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)――なのではないか? と疑っているのである。現在、万寿寺にはこの宝剣はあるのであろうか? やはりお近くの方、御情報をお寄せ下さるならば、恩幸これに過ぎたるはない。

「水上山と云禪刹」現在の佐賀市大和町川上にある臨済宗南禅寺派水上山興聖万寿寺万寿寺。通称「お不動さん」という。なお、「水上山」という山号は禅宗寺院であれば「すゐじやうさん(すいじょうさん)」と音読みするはずであるが、いくら調べても読みが分からない。どなたかお近くにお住まいの方、御確認を願う。実は以下、鶴崎氏の個人サイト「鶴崎さん集合」にある「神子栄を語る」から引用させて戴くのだが、実はこのページ自体が何と、安徳帝生存伝説の検証となっている。今一つの「安徳天皇生存説/久留米」のページとともに必見である。さて、その記載によれば(アラビア数字を漢数字に代えさせてもらう。下線はやぶちゃん)、万寿寺は『仁治元年(一二四〇)神子栄尊が開山した寺で、四条天皇から「水上山興聖万寿寺」という寺名をもらったといわれる臨済宗の寺である。本尊は神子栄尊作と伝えられる不動明王である。「神子禅師年譜」によれば和尚は平康頼と筑後国三潴庄の住人藤吉種継の娘千代との間で生まれ四十一歳のとき宋(中国)に渡って修業し水上山に来た時が四十六歳の時といわれる。臨済宗東福寺を開山した聖一国師は当山第二世で、高城寺の開山円鑑禅師は当山第三世である。永正一四年(一五一七)六十四世天享和尚は竜造寺隆信の曽祖父家兼の弟で、後柏原天皇により勅願寺の論旨を賜り勅願第一世となった。九世是琢和尚は佐賀藩祖鍋島直茂のお側役として文禄の役に従軍している』(「大和町史」を参考とされている注記がある)とある。この神子栄尊は、生年が建久六(一一九五)年で、没年が文永九(一二七二)年(因みに安徳天皇の生年は治承二(一一七八)年)で、『筑後三潴荘夜明村(現在の久留米市大善寺夜明)に生まれ、七歳の時、筑後国柳坂の永勝寺にいた厳琳僧都(栄西の弟子)に従い。その後、肥前国小城郡小松山(現、小城町晴気あたり)で佛道を修業。嘉禎元年(一二三五)、四十一歳にして聖一国師と共に入宋し仏鑑禅師に学び嘉禎四年(一二三八)で帰朝』、『仁治元年(一二四〇)肥前国万寿寺を開き、寛元元年(一二四三)に円通寺、寛元三~四(一二四五―四六)に筑後国朝日寺を整備、その後宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の金堂造立等に関わったのち、建長元年(一二四九)に肥前国大町町に報恩寺を建てた。神子栄尊は、他に筑前の薦福寺、豊前の安楽寺を開山』。『鎌倉時代の豊前国の禅宗は、宇佐神宮の結びつきで広がっていった。豊前の円通寺は宇佐大宮司・宇佐公仲が神旨を得て七堂伽藍を造営、円通広利禅寺と称し、宇佐宮の北方』約五百メートルの『直線道路(円通寺通り)の突き当りに位置する。その後、建長五年(一二五三)に宇佐宮荘園の本家・二条良実に大乗戒を説き、良実は神子栄尊に弟子の礼をとっている』。『宇佐神宮の霊験により、神子と称し、晩年、別号を立てる事を朝廷に申し入れたが、朝廷が霊験を尊び別号を認めなかった。七十八歳で没』とある。これの詳細な事蹟よって、少なくとも本文に出るような彼自身が安徳帝であったという説はトンデモ説として退けられることが判る。伝承では安徳天皇の子が神子栄尊であるというのがプロトタイプ(少なくとも本話の)らしい。詳しい伝承や検証は是非、鶴崎氏の素敵な両ページをお読み戴きたい。

「經山寺」南宋の五山の一つで、現在の中華人民共和国浙江省杭州市余杭区径山鎮(きんざんちん)の径山にある臨済宗径山興聖萬壽禅寺。金山寺味噌(径山寺味噌とも書く)の濫觴とされる。

「元和」西暦一六一五年から一六二四年まで。

「渡海の禁」キリスト教禁教を主目的とした江戸幕府による広義の鎖国政策を指す。幕府は元和二(一六一六)年には明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定し、元和九(一六二三)年にはイギリスが業績不振のために平戸商館を閉鎖している。本格的な鎖国は寛永八(一六三一)年の奉書船制度(将軍が発給した朱印状に加えて老中の書いた奉書という許可証が必要)開始と、二年後の寛永十年に発せられた第一次鎖国令(奉書船以外の渡航を禁じ、海外に五年以上居留している日本人の帰国をも禁じた)である(以上はウィキ鎖国に拠った)。

「南禪寺より支配する也。されども末寺にてはなし」現在の万寿寺は南禅寺派である。江戸時代の末寺制度は専ら宗門改のためである。

「輪番」周辺の同宗の寺の住職が順繰りに兼務すること。]

譚海 卷之一 病犬を病せし藥の事

 病犬を病せし藥の事

江戸に病犬の出來たるは享保より此かた也。以前はなき事也。一年叔父宅にある犬、土用中に雀の樹より落(おち)て死したるをくひて、病つきくるひたるに、霍亂の藥を飮せければ、忽ち愈たりとぞ。

[やぶちゃん注:「病犬を病せし藥の事」の表題はママ。「癒せし」の誤りか。

「病犬」「やまいぬ」と訓じている可能性が高い。しかもこれは広義の噛み癖のある悪しき性質(たち)の犬の意の「病犬」ではなく、真正の狂犬病ウィキの「狂犬病」によれば、本邦では記録が残る最初の流行は江戸時代中期の享保一七(一七三二)年、『長崎で発生した狂犬病が九州、山陽道、東海道、本州東部、東北と日本全国に伝播していったことによる。東北最北端の下北半島まで狂犬病が到着したの』は宝暦一一(一七六一)年のことである、とある。長崎……この時の流行は異国船によって齎されたものか?……思い出さないか?……怪しげなエイズ・ウィルス発見者(私はエイズを想像した悪魔の科学者と確信している)ロバート・ギャロが日本の鎖国時代に長崎の出島にサルをペットに連れてきた外人がおりそれが日本人のエイズの濫觴だというトンデモ説を述べていたのを!……因みに……孰れも発症した場合は致死率がすこぶる高い病気(但し、例えば狂犬病発生地域に行く前に感染前(暴露前)接種=予防接種を行うか、感染動物に噛まれた後(暴露後)、なるべく早く、発症前にワクチンを接種するならば発病を免れる)であるという共通点までそっくりではないか……

「犬」「病つきくるひたるに」これは狂犬病ではない。また死んだ雀が病因とも限らず、病名は不詳である。ただの吐き下し、或いはただ小骨が咽頭に刺さっただけのようにも思われる。

「霍亂の藥」「霍亂」は漢方で日射病や熱中症を指す。また、広く、夏に発症し易い、激しい吐き気や下痢などを伴う急性の病態(コレラを含む)をも言った。「藥」愛犬とはいえ、高価な漢方調剤を飲ませたとも思われないから(霍乱の特効薬には木乃伊(ミイラ)などというとんでもないものもある)、当時、暑気払いに盛んに愛飲され、霍乱除けともされた枇杷葉湯辺りか。]

譚海 卷之一 またゝび猫の好事

 またゝび猫の好事

またゝびを火に焚(たく)ときは、香の至る所の猫ことごとく煙をしたひきたり、火邊に展轉俯仰し、狂氣したるがごとく涎(よだれ)をたり正體(しやうたい)を失ふ。數十疋群(むれ)をなす事也。又人疝氣(せんき)にて腰痛堪(たへ)がたきには、蓼(たで)をせんじ用ゆれば立處(たちどころ)に愈(いゆ)る事神(しん)の如し。

[やぶちゃん注:「まゝたび」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ Actinidia polygamaウィキの「マタタビ」によれば、『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。冷え性、神経痛、リューマチなどに効果があるとされる』とあり、ここで「粉」と称するのもこれであろう。「夏梅」という別名もある。他にもこのウィキの記載は短いながら興味深い箇所が多い。幾つか引用すると、まずマタタビは雌雄異株で、『雄株には雄蕊だけを持つ雄花を』、雌株は『花弁のない雌蕊だけの雌花をつける』が、雌株には『雄蕊と雌蕊を持った両性花をつける』ものがある(ここは他の記載で一部操作した)。六月から七月にかけて開花するが、『花をつける蔓の先端部の葉は、花期に白化し、送粉昆虫を誘引するサインとなっていると考えられる。近縁のミヤママタタビでは、桃色に着色する』とあり、所謂、ネコとの関係については、『ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた』。『同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある』とし(キク亜綱シソ目シソ科イヌハッカ属イヌハッカ Nepeta cataria。但し、本邦には元来は自生しない帰化植物。ウィキイヌハッカ」によれば、『日本ではキャット・ミントと呼ばれることもあ』り、『種名のカタリア(cataria)はラテン語で猫に関する意味があり、また英名の Catnip には「猫が噛む草」という意味がある。その名の通り、猫はこのハッカに似た香りのある草を好むが』、『これはこの草の精油にネペタラクトンという猫を興奮させる物質が含まれているからである。猫がからだをなすりつけるので、イヌハッカを栽培する際には荒らされることも多いが、この葉をつめたものは猫の玩具としても売られている』。『なお、猫に同様の効果をもたらす植物としてマタタビや荊芥』(けいがい:同イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia)『などがあるが、日本において特に有名な前者にちなみ、イヌハッカは「西洋マタタビ」と呼ばれることもある』とある)、和名の由来については、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』。「牧野新日本植物図鑑」(一九八五年北隆館刊/三三一頁)によると、『アイヌ語で、「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、おそらく果実を表した呼び名だろうとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正、八坂書房)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保、平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であるから、典型的な民間語源であると見るのが自然であろう』とある。博物学と民俗学が美事に復権した素晴らしい記載である。

「疝氣」は近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷(けつれい)シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある(「厥冷」は冷感の意)。一方、本「譚海」の「卷の十五」には、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』と述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は概ね平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、「譚海」の全文引用と( )内の寄生虫病の注は私の全くのオリジナルである。私は寄生虫が大好きな危険がアブナイ男なのである)。疝気にマタタビが有効であるとする記載は耳嚢 巻之七 疝痛を治する妙藥の事にも出る。

「蓼」ナデシコ目タデ科 Persicarieae 連イヌタデ属サナエタデ節 Persicaria に属する特有の香りと辛味を持つタデ類。ネット上でも双子葉植物綱タデ目タデ科 Polygonaceae の生薬を用いた調剤物について、患部を湿らせ温めるとあり、他にも皮膚の抵抗力を向上させる、スキンケアに効果があるとする。]

譚海 卷之一 羽州秋田にて狐人をたぶらかしたるを討取事


 羽州秋田にて狐人をたぶらかしたるを討取事

○羽州秋田にて、ある士鐡炮を攜へ鳥をうちに出ける。其路次(ろし)の堤(つつみ)を、行(いき)ては戾り、又立(たち)かへりては戾る人あり。さながら物に狂ふ樣に見えて恠(あやし)み見居(みをり)たるに、かたはなる林の内に狐居て、口に木の枝をくはへ、首を左右へ振𢌞(ふりまは)すに、堤の人狐の首の向ふ方へ行(ゆき)もどる也。左へ顧(かへりみ)れば左へ行(ゆき)、右へかへりみれば右へもどるをみれば、やがてさては狐に化されたるなりとみて、此士鐡砲をねらひすまして狐をうちければ、あやまたず狐倒れける。同時に堤の人も倒れて氣絕したるを呼起(よびおこ)しなどして、始(はじめ)てよみかえりたりとぞ。

今朝蜩初音

今朝蜩初音――4:16――

2015/07/23

三重県立美術館蔵村山槐多新発見詩篇 紫の天の戰慄

 

   紫の天の戰慄      村山 槐多

 

1雨ふれり

 雨薄くれなひにそことなくふる、癈人の血を帶びて

 薄暗きこの山麓にふれり

 ぬれて立つわが口には薄紫にいと惡しき草煙る

 不思議なる味とにほひと

 

2時にする快よき銀の音樂

 渦卷は金銀にきらめくよ情の渦卷

 わが神經の動かぬ淵に

 この渦卷にわが口に煙草は消え入る

 薄紫の物凄きひびきをつけて

 

3鋭どき山形眼を打つ

 雨はしたたる山の方

 綺羅を盡せし黒人のあやしき姿

 貴婦人の唇ちかき黒き星

 それにも似たる黒き山のあなたに

 

4惱める山の美貌に

 赤き杉の群に時に風狂ひ

 ときは木の葉は淫蕩をつくしてぞ散る

 涙浮べて物皆は戀を語れば

 わが心ふとかなしげに泣きそめつ

 

5すすり泣きしつ

 紫の天この時髙く戰慄す

 あざやかに冷冷と戰慄すなり

 冬の衣に身をかため人の働く

 水田の濁りたる水にも天は戰慄す

 

6無知なる水田はまたたきす

 ぬれて立つ哀れなるわれの上下に

 なげくとてか恐るるとてか泣くとてか

 紫の天戰慄美しく深く

 わが煙草のけむり上りゆくその天は

 

7雨ふれり

 雨薄くれなひにそことなくふり

 冷めたき足なみものみなの情の上に

 黒き山に赤き杉に水田に

 はたわが心の※(や)れたる淵の上に

[やぶちゃん字注:「※」=「疫」の「殳(るまた)」の左側に「弓」のような字が記された字体。]

 

8金銀と濃き紫との毒々しき淵の上に

 雨薄くれないひに風打ふるふ時

 天は絶えず戰慄す大きく冷めたく

 われを恐れてか わが眼と情の光とを

 美しき薄紫の煙草を

 

9恐れてか

       大正三年 一月十八日 江州にして

 

                     (落款)

 

[やぶちゃん注:県立三重美術館蔵「詩『紫の天の戦慄』1」及び「詩『紫の天の戦慄』2」の手書き稿を視認して起こした(リンク先は同美術館公式サイトのそれぞれの拡大画像)。署名もそのままである。使用漢字はなるべくそのままのものを採用した(例えば「神」は「神」ではなく、明確に「神」と書いている。「卷」か「巻」か等の迷ったものは正字を採った。向後、三重県立美術館蔵の原稿視認ではこれで行くので、以下ではこの注は略す)。

 詩のヘッド・ナンバーの「1」から「5」までが前者、「6」以降が後者(それぞれ紙色も四辺の形状も全く異なる別な紙片)に記されてある。

 書誌情報はクレジット(「詩『紫の天の戦慄』1」 同2 )にある通り、制作年を大正三(一九一四)年とし、材料は墨と紙とし、孰れの紙片も寸法を縦二十三・一、横三十一・七センチメートルとする。「1」の紙の色はかなり強いピンク色を呈しているのに対し、「2」はずっと赤みの落ちた代赭色である。しかし規格が全く同一のところを見ると、もとは同一の色附きのノート様のものであった可能性もある(色の有意な違いは後者が焼けて褪せたためかも知れない)。

 「2」の最後の「(落款)」とした位置には手彫り手製の、「カイタ」と中央にあるカット・ダイヤモンドのような(或いは瞑目した顏のカリカチャアのような)落款が押されてある。薄い黒い印肉を使用したものか、本文よりも落款は遙かに薄い。

 本詩篇は「9恐れてか」で途絶しているので未定稿であるが、連番の数字から纏まったものとして読むことが出来るもので、しかも驚くべきことに――恐らくアカデミックには旧知の事実であって驚いているのは気づくのが遅かった鈍愚な私だけなのであろうが――本詩篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」にも載らない――ということはそれまでに公刊された村山槐多の知られた作品集にも載らない――全くの新発見の未定稿詩篇であるということである(二〇一五年七月二十三日現在、ネット検索をしても電子化された形跡はない)。一読、用いられている詩句や全体の詩想もクレジットの同時期(満十八歳)の詩篇類と非常に強い親和性を感じさせるものである(私のブログ・カテゴリ「村山槐多」の「槐多の歌える」の「千九百十四年(20)」詩篇パートに準じた吾詩篇から「赤き火事あと」までの二十六篇参照)。以下、語注を附す。

 

・「癈人」はママ。「癈」は実際に或ある字ではある。音「ハイ」で、不治の病い・痼疾・障碍者になるの意であるから、字義的には「廢人」(廃人)と同じで問題ない。

・「はたわが心の※(や)れたる淵の上に」[(「※」=「疫」の「殳」の左側に「弓」のような字が記された字体)は前で注した「癈」の(やまいだれ)の中の「發」の「癶」(はつがしら)がとれたものに酷似している。当初、私は「疫」の字の誤記かと思ったが、今はどちらかというと「癈」の字を書こうとした可能性、或いは単に「廢」と同字扱いで槐多が好んで用いた可能性の方を考えたくなっている(確かに(やまいだれ)の方がテツテ的によいと私も思う)。また、「や」というルビはこの字の右手上方に配されてあり、「や」の下に何か書こうとした可能性も否定出来ない。その場合、「癈」字の原義からは「(やつ)れたる」等は想起出来る。但し、私は初読、「疫」であろうと「癈」であろうと或いは「廢」であろうと、対象が心の「淵」であり、その形容である以上、自然に「破(や)れたる淵」と読んでいたし、今もそう読んでいる。即ち、病んだ心の「荒れ果てた淵」の意である。大方の御批判を俟つものではある。

・「江州」クレジットの大正三年一月というのは、京都府立第一中学校卒業の二ヶ月前で、この六月に彼は上京する。この卒業直前の一、二月の部分には、どの年譜にも記載がないので、彼が滋賀近江へ行ったのかどうかは確認出来ない。出来ないがしかし彼が行ったのであろう。ただ少し気になるのはロケーションが琵琶湖湖畔ではない点である。水田(因みに私は「みづた」読んでいる)の広がる田園風景であるが、その遠景にだに琵琶湖の湖水はフレーム・インしていない(ように私には見える)。私は実は滋賀県は電車で通過したことがあるだけで琵琶湖湖畔に立ったこともない。この情景からロケ地が推定出来る方は、是非、御教授願いたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 米搗き / 第十九章 了

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図―841

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図―842

 

 米を搗(つ)くのには、大きな木造の臼を使用する。槌或は杵は、大きくて非常に重く、頭上はるかに振り上げる(図841)。彼は杵を空中に持ち上げる時、その柄の末端を左脚に当てるので、そこに小布団をつけている。この仕事をするには、強い男が必要である。杵の面は深くくぼんで鋭い辺を持ち、臼の中には図642に示すような、藁繩の太い輪が入っている。杵で打つと、米は輪の外側に押し出されてその内側へ落ち込む。この方法によっては米は循環し、すべての米が順々に杵でたたかれるようになる。同様な場合にこんな事が行われるのを、私はこの時迄見たことが無い。搗いた米から出る黄色い粉末は、袋に入れて顔を洗うのに使用する。我国では玉蜀黍(とうもろこし)の粉を、同様に使う。この米の粉は、また脂肪のついた皿や、洋燈を掃除するのにも使用する。

[やぶちゃん注:「藁繩の太い輪」水車のケースであるが、三鷹市公式サイト内の「水車のしくみ」のきね・搗臼つきうす)」の説明が非常に分かり易い。

 これを以って「第十九章 一八八二年の日本」が終わる。次の二十章からは、モースの京都や瀬戸内海を巡る旅が、いよいよ始まるのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 東京女子師範学校卒業式来賓となる

 七月十五日、私は東京女子師範学校の卒業式に行き、壇上ですべての演習を見得る場所の席を与えられた。主要な広間へ行く途中で、私は幼稚園の子供達が、可愛らしい行進遊戯をしているのを見た。そのあるものは床に達する程長い袂の、美しい着物を着た、そして此の上もなく愛くるしい顔をした者も多い、大勢の女の子達は、まことに魅力に富んだ光景であった。

[やぶちゃん注:「東京女子師範学校」明治七(一八七四)年に設立された官立師範学校。モースが臨席したこの三年後の明治一八(一八八五)年の東京師範学校への統合を経、明治二三(一八九〇)年に女子高等師範学校として分離・改組され、明治四一(一九〇八)年には東京女子高等師範学校に改称された。現在のお茶の水女子大学の旧制前身校(以上はウィキ東京女子師範学校に拠った)。]

 

 これが済むと彼等は大広間に入って行ったが、子供達はヴァッサー大学卒業の永井嬢がピアノで弾く音楽に歩調を合わせて、中央の通路を進んだ。彼等が坐ると、先生の一人によってそれぞれの名前が呼び上げられ、一人ずつ順番に壇上へ来て、大型の日本紙の巻物と、日本の贈物の手ぎれいな方法で墨と筆とを包み、紐の下に熨斗(のし)をはさんだ物とを、贈物として受けるのであった。彼らは近づくと共に、非常に低くお辞儀をした。両手で贈物を受取ると、彼等はそれを頭の所へ上げ、また一低くお辞儀をして、段々の所まで後退した。実にちっぽけな子供までが、ヨチヨチやって来たが、特別に恥しそうな様子の子が近づくと、壇上の皇族御夫妻から戸口番に至る迄一同が、うれし気な、そして同情に富んだ微笑を浮べるのは、見ても興味が深かった。

[やぶちゃん注:「ヴァッサー大学」原文“Vassar College”ウィキヴァッサー大学より引く。『アメリカ合衆国ニューヨーク州ポキプシー町に本部を置くアメリカ合衆国の私立大学である。1861年に設置された。 リベラル・アーツ・カレッジ。著名女子大学群であるセブンシスターズの一校として設立、1969年に男女共学化を実施。各誌の大学ランキングにおいて、最難関校またリベラル・アーツ教育のトップ大学のひとつとして数えられる』。

「永井嬢」永井繁子(後の婚姻後は瓜生(うりゅう)姓 文久二(一八六二)年~昭和三(一九二八)年)。ウィキ瓜生繁子より引く(一部、個人サイト「日本キリスト教女性史(人物編)」の瓜生繁子に載る情報を附加した)。『佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町(現・東京都文京区本郷)に生まれた。益田孝』(三井財閥を支えた実業家)『の実妹。幕府軍医永井久太郎の養女。夫は海軍大将の瓜生外吉男爵』。明治四(一八七一)年十一月に、岩倉使節団に随行して津田梅子・吉益亮子・上田貞子・山川捨松らとよもに『新政府の第一回海外女子留学生として渡米、ヴァッサー大学音楽学校に入学』(、それより十年間をアメリカで過ごした。明治一五(一八八二)年、『海軍軍人瓜生外吉と結婚』、後、明治一九(一八八六)年十月には東京女子高等師範学校兼東京音楽学校教員となったとある。「日本キリスト教女性史(人物編)」の記載によれば、『繁子は、結婚後もピアノ教師として多くの弟子を育成して音楽教育に重きをなした。彼女は日本でいち早く正式にピアノを習い、それを弟子に教授した女流音楽家であろう』とあり、また明治二五(一八九二)年三月の『読売新聞社の和洋婦人音楽家の人気投票で、幸田延』(繁子より八つ年下の当代の女流ピアニストでバイオリニスト)『の307点に次いで、繁子は288点を得ていることから推しても繁子の当時の名声が高かったことをうかがい知ることができる』と記されてある。本時制は明治十五年で、モースが『嬢』(原文“Miss Nagai”)と呼んでいることから見ると、結婚の直前であったものと思われる。]

 

 広い部屋を見渡し、かかる黒い頭の群を見ることは奇妙であった。淡色の髪、赤い髪はいう迄も無し、鼠色の髪さえも無く、すべて磨き上げたような漆黒の頭髪で、鮮紅色の縮緬や、ヒラヒラする髪針(ヘアピン)で美しく装飾され、その背景をなす侍女達は立ち上って、心配そうに彼等各自の受持つ子供の位置を探す可くのぞき込んでいる。小さな子供達が退出すると、次にはより大きな娘達が入場したが、そこここに花のように浮ぶ色あざやかな簪(かんざし)は、黒色の海に、非常に美しい効果を与えた。大きな娘達は、名前を呼ばれると主要通路を極めて静かに歩いて来て、壇上の皇族御夫妻並びに集った来賓に丁寧にお辞儀をし、机に近づき、また低くお辞儀をして贈物を受取り、それをもう一つのお辞儀と共に頭にまで持ち上げ、徐々に左に曲って彼等の席に戻った。彼等の中には卒業する人が数名いたが、それ等の娘達は、畳んだ免状を受取ると後向きに二歩退き、行儀正しく免状を開いて静かにそれを調べ、注意深く畳んでから、特殊な方法でそれを右手に持ち、再びお辞儀をして退いた。

 

 卒業式が済むと来賓は、日本風の昼餐が供される各室へ、ぞろぞろと入って行った。ある日本間では卒業生達に御飯が出ていたが、私は永井嬢と高嶺若夫人とを知っているので、庭を横切って彼等のいる部屋へ行き、そこに集った学級の仲間入りをして見た。美しく着かざった娘達が、畳の上にお互に向き合った長い二列をなして坐り、同様に美しく着かざった数名の娘にお給仕されているところは、奇麗であった。私は彼等のある者と共に酒を飲むことをすすめられ、また見た覚えのない娘が多数、私にお辞儀をした。式の最中に、我々の唱歌が二、三歌われた。「平和の天使」「オールド・ロング・サイン」等がそれであるが、この後者は特に上出来だった。続いて琴三つ、笙三つ、琵琶二つを伴奏とする日本の歌が歌われた。これは学校全体で唄った。先ず一人の若い婦人が、長く平べったく薄い木片を、同じ形の木片で直角に叩くことに依て、それは開始された。その音は鋭く、奇妙だった。彼女はそこで基調として、まるで高低の無い、長い、高い調子を発し、合唱が始った。この音楽は確かに非常に妖気を帯びていて、非常に印象的であったが、特異的に絶妙な伴奏と不思議な旋律とを以て、私がいまだかつて経験したことの無い、日本音楽の価値の印象を与えた。彼等の音楽は、彼等が唄う時、我々のに比較して秀抜であるように聞えた。勿論彼等は、我等の音楽中の最善のものを歌いもせず、また最善の方法で歌いもしなかったが、それにもかかわらず、ここに新しい方向に於る音楽の力に閑する観念を確保する機会がある。

[やぶちゃん注:「高嶺若夫人」既出既注の、今回の来日でも一緒になった旧知の、東京師範学校(本エピソード当時)で教えていた高嶺秀夫。

「平和の天使」既注

「オールド・ロング・サイン」オールド・ラング・サイン」スコットランド民謡で非公式乍ら準国歌とされる“Auld Lang Syne”)。「蛍の光」の原曲である。

「長く平べったく薄い木片を、同じ形の木片で直角に叩くことに依て、それは開始された」この楽器は何だろう? 当初、「直角に叩く」というところから子切子(こきりこ)かと思ったのだが、竹ならばモースは竹と言うはずであり、竹製の子切子をモースが「長く平べったく薄い木片」「同じ形の木片」とはまず表現しない。拍子木や柝(き)であったら「直角」には打たない。そもそもがこの後、モースが「非常に妖気を帯びてい」る(“very weird”)とする楽曲とは一体、何なのか? そんなにマイナーな曲とは思われず、しかも合唱出来るというのだが、和楽には全く冥い私にはおよそ見当がつかない。どうか、曲名だけでも識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 旗が靡いているかのように見える金属製の風見

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図――640

 

 薄い金属板で長地肌をつくり、それが風になびいているように色を塗り、陰影をつけた、奇妙な風見がある(図640)。

[やぶちゃん注:見てみたい。どなたか、御教授を。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 蠟燭と燭台

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 日本の蠟燭は植物蠟で出来ていて、変種も多い。会津で出来るものには彩色の装飾があり(図635)、そのあるものの図柄は浮彫りになっている。燭心はがらん胴な紙の管である。燭台には穴の代りに鉄の鐖(かかり)が出ていて、燭心の穴にこの鐖がしっかりと入り込む。かかる燭台は、余程以前に無くなったが英国にもあり、Pricket 燭台として知られていた。蠟燭は上方に燭心がとび出て、そしてとがるように細工してある。この形が如何に経済的であるかは、燃えて短くなった蠟燭を台から外し、すこしも無駄にならぬように、新しい蠟燭の上にくっつける時に判る(図636)。普通の蠟燭は上から下まで同じ太さだが、上等な物の中には、上部の直径が他の部分に比して大分大きく、かくて長く燃え続けるのもある。殆どすべての人が家持って歩く提灯は、蠟燭を燃やす。図637・638及び639は、燭台の各種の形を写生したものである【*】。運搬用の蠟燭台もいろいろあり、そのある物は実に器用に出来ている。また蓋のついた竹筒もあるが、これで人は風呂敷包みの荷物の中へ蠟燭を入れて持って歩くことが出来る(図639は図638を畳んだところを示す)。

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* セーラムのピーボディ博物館には、日本の燭台の大きな蒐集がある。そのある物は運搬用で畳むことが出来る。

[やぶちゃん注:「鐖」音は「キ・ケ・ゲ・ガイ」、訓では「かかり」「かま」、また「あご」とか「あげ」とも読む。もともとは釣針や銛或いは矢や槍の先端の部分に突起させている棘状の逆鉤(返し)を謂う語。ここは燭台の蠟燭を指すピン状の針を指す。

Pricket 燭台」英語の“pricket”は英和辞典を引くと、蠟燭を立てるための鋭利な金属の釘とある(原義に「二歳の雄鹿」とあり、もともとは若い牡鹿の角を指すか)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 モース、浅草花やしきにて山雀の芸に驚嘆する語(こと)

 

 東京の一区域で浅草と呼ばれる所は、立派な寺院と、玩具店と奇妙な見世物とが櫛比する道路と、人の身体にとまる鳩の群とで有名である。ドクタアと私とは、かかる見世物の一つを訪れた。三、四十人を入れる小さな部屋には高く上げた卓子(テーブル)があり、その後方に、我国の雀より小さくて非常に利口な、日本産の奇妙な一種の鳥を入れた籠がいくつかおいてある。彼等を展観した男は、この上もなく親切な態度と、最も人なつっこい顔とを持っており、完全に鳥を支配しているらしく見えた。小鳥達は早く出て芸当をやり度くてたまらぬらしく、籠をコツコツ啄(つつ)いていた。芸当のある物は顕著であった。見る者は、それ等の鳥が、如何にしてこのような事をするように馴らされたか、不思議に思う。

[やぶちゃん注:「ドクタア」ビゲローのこと。

「我国の雀より小さくて非常に利口な、日本産の奇妙な一種の鳥」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius である。ウィキのヤマガラの「人間との関係」の項に、『日本では、本種専用の「ヤマガラかご」を使い平安時代には飼育されていた文献が遺されている。学習能力が高いため芸を仕込む事もでき、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露された。特におみくじを引かせる芸が多く、1980年ごろまでは神社の境内などの日本各地で見られた。そのため年輩者には本種はおみくじを引く小鳥のイメージが強いが、おみくじ芸自体は戦後になってから流行し発展してきたもので、曲芸は時代の変化とともに変遷してきた事が記録から読み取れる。しかし鳥獣保護法制定による捕獲の禁止、自然保護運動の高まり、別の愛玩鳥の流通などにより、これらの芸は次第に姿を消してゆき、1990年頃には完全に姿を消した。このような芸をさせるために種が特定され飼育されてきた歴史は日本のヤマガラ以外、世界に類例を見ない』『なお、1945年以降消滅するまで代表的だったおみくじ引き以外にも、以下のような芸があった』。として「つるべ上げ」「鐘つき」「かるたとり」「那須の与一」「輪ぬけ」といった、まさにモースの見た演目を含むものが記されてある。川端たぬき氏のブログ「二〇世紀ひみつ基地」の画像(ここに出るモースのそれもある)も動画もある「小鳥のおみくじ芸・伝統の見世物」をご覧あれ! その記事によってまさにモースとビゲローが行ったのは、かの「花やしき」であることが判るのである!(以下、引用させて戴く)『牡丹と菊細工を主とした花園(植物園)として嘉永6年(1853)に誕生した、日本最古の遊園地とされる浅草「花やしき」。明治初年から遊戯施設が置かれ、珍獣・猛獣が飼育された「花やしき」でも「ヤマガラの芸」が評判を呼ぶ』とあるのである(「浅草公園 花やしき引札」の「山がら奇芸」の画像も必見!)。私も幼稚園の頃、大泉学園の寺の縁日で、カーバイトの光りに照らされたおみくじを引くヤマガラを見た、遠い遠い記憶がある。……私はリンク先の動画を見ながら、何かひどく懐かしい思いと同時に、ある致命的な欠損にかかる、不思議に深い耐え難い淋しさを感じてしまった……。]

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 私は実に大急ぎで写生をしたが、それでもそれ等は、如何なる記述よりも芸当が如何なるものであるかを、よく示すであろう。図628では籠が一フィートをへだて、お互に相面して開けてあり、その間に小さな玩具の馬が一置いてある。この曲芸では、一羽が馬にとび乗り、他の一羽が手綱を嘴にはさんで、卓の上をあちらこちらヒョイヒョイと曳いて廻る。鳥が籠から出て自分の芸当をやるのが、如何にも素速いのは愛嬌たっぷりであった。又別の芸当(図629)では、鳥が梯子を一段々々登り、上方の櫓(やぐら)に行ってから嘴でハケツを引き上げる。たぐり込んだ糸は脚で抑えるのである。その次の芸(図630)では、四羽の鳥がそれぞれの籠から出て来て、三羽は小さな台に取りつけた太鼓や三味線をつつき、一羽は卓上によこたわる鈴やジャラジャラいう物やを振り廻す。勿論音楽も、また拍子も、あったものではないが、生々とした騒ぎが続けられ、また鳥が一生懸命に自分の役をやるのは、面白いことであった。

[やぶちゃん注:「一フィート」三十・四八センチメートル。]

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 図631では、鳥が籠から売り出し、幾段かの階段を登って鐘楼へ行き、日本風に鐘を鳴らすように、ぶら下っている棒を引く。図632は弓を射ている鳥である。この鳥が実際行うのは、馬の頭(日本の子供に一般的である木馬)で終っている棒にある刻み目から、糸を外すことであるが、然し矢は射出され、的になっている扇がその支持柱から落ちる。

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633

 

 図633では、鳥が走り出して、神社の前にある鈴を鳴らす糸を引く。鳥はそこで一つの箱の所へ走り寄り、卓上から銅貨を拾ってそれ等をこの箱の内へ落し入れる。日本の教会或は寺院には、数個の鈴が上方に下げてあり、その横に紐が下っていて、この紐に依て鈴を鳴らすことが出来る。参詣者は祈禱する時これを行う。寄進箱は柄のついた小さな物で一週間に一度廻すというのでなく、長さ四、五フィート、深さ二フィートの大きな箱で、上方が開いているが、金属の貨幣が落ちる丈の幅をへだてて、三角形の棒で保護してある。この箱は一年中神社仏閣の前に置いてある。人は往来で立ち止り、祈禱をつぶやき箱の内に銭を投げ込むのだが、その周開の地上に、数個の銭が散在していることによっても知られる如く、屢々的が外れる。

[やぶちゃん注:「一週間に一度廻すというのでなく」この前後は原文は“The contribution box, instead of being a small affair on the end of a handle, passed around once a week, is a huge box, even four or five feet long and two feet deep, open above, but protected by triangular shaped bars just wide enough apart to allow the metal coin to drop through.”であるが、この箇所の意味が英語の苦手な私にはよく解らない。週に一度は必ずお参りして、の謂いだろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「長さ四、五フィート、深さ二フィート」横幅一・三~一・五メートル、深さ約六十一センチメートルの賽銭箱。]

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 最も駕く可き芸当は、図別634に示すものである。鳥は机の上から三本の懸物を順々に取上げ、小さな木にある釘にそれ等をかける。釘に届くために、鳥は低い留木にとび上らねばならぬ。小鳥を、このような行為の連続を行うべく仕込むには、無限の忍耐を必要とするに相違ない。別の芸当では、鳥が梯子をかけ上って台へ行き、偉い勢でいくつかの銭を一つずつ投げた。更に別の芸当では、傘を頭上にかざして長い梯子を走り上り、綱渡りをした。また一定の札を拾い上げ、箱に蓋をしたりした。鳥馴しの男は、喋舌(しやべ)る鸚鵡(おうむ)と、大きな鸚鵡に似た鳥とを持ち出し、一羽ずつ手にのせてそれ等に「如何ですか」とか「さよなら」とかいう言葉を、勿論日本語でだが、交互に喋舌らせた。それは全体として、私が見たものの中で最も興味のある、訓練された動物の芸当であった。芸当のあるものは、例えば物をつまみ上げるとか、巣をかける時に糸を引張るとかいう風な、鳥が日常生活にやる自然的の動作そのものであったが、それにしても、どうして鳥を、絵画をひろい上げ、それをそれぞれに適当した釘にかけるように仕込んだかは、我々には想像も出来ない。

[やぶちゃん注:モースが改行をしながらこれだけ語っているのは、本書では特異点で、彼がこの鳥たちの芸にいたく感動したことを物語っている。

「喋舌る鸚鵡と、大きな鸚鵡に似た鳥」わざわざこう言っているところを見ると、オウム目オウム科 Cacatuidae の中でも前者は普通のそれ、後者は有意に大きな別種であるらしい。鳥類は私の守備範囲にない。これらの識別のおつきになられる方は是非、御教授頂きたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 家相

 日本人は以前、家屋の建築に就て、非常に多くの迷信を持っていた。これは、いまだに下流の者は信じている。竹中の話によると、彼が小さかった時、家族が東京へ移ったが、彼の父が磁石を調べた結果、家のある場所が正当な方向に位していないことが判り、その為に彼はその後しばらくして別の家へ移転したそうである。この迷信は、知識階級の者はすでに棄てて顧みぬ。友人達は会うと最後に会った時のことや、互に出した手紙のことを物語るのが普通である。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 本の巻号について

 日本人は本の巻頭に番号をつけるのに、普通の一二、三以外に他の漢字を使用する。例えば三巻の書物があると、彼等は「上」「中」「下」を意味する漢字を使用し、二巻ならば「上」と「下」とを使用する。又、三巻の書物に「天」「地」「人」を意味する漢字を使用することもあり、二巻を「北西」「北東」を意味する漢字であらわすこともある。一般に何冊かの番号をつける時、番号に「巻物」を意味する漢字を前置する。これは古代書物が巻物の形をしていたからで、我々の Volume という語も、同じ語原を持っている。日本の十二宮は、我々と同じく動物の名で呼ばれる。磁石もまた十二宮を持つ十二の方位に分たれ、北は「鼠」、東は「兎」、南は「馬」、西は「鳥類」である。これ等の大きな方位の間に、二つの中間方位があり、北東に対して彼等は「丑虎」なる名を持つ。

[やぶちゃん注:これも分かり易いので原文を示す。

   *

In numbering the volumes of their books, besides the usual 1, 2, 3 the Japanese use other characters. For example, if there are three volumes they use the characters for "above," "middle," "below"; if there are two volumes, "above" and "below"; or for a work of three volumes they may use the characters meaning "heaven," "earth," and "man"; two volumes may be designated by characters meaning "northwest" and "northeast." It is customary in the case of a number of volumes to preface the numbering by a character which means "roll," as in ancient times the books were in form of rolls; our word "volume" has the same origin. The Japanese signs of the zodiac are called after the names of animals, as with us. The compass is also divided into twelve points with the signs of the zodiac; north, being "rat"; east, "rabbit"; south, "horse"; west, "birds." There are two intermediate points between these greater ones, and for northeast they have the name "bull-tiger."

   *

『二巻を「北西」「北東」を意味する漢字であらわす』「北東」はモースの勘違いで「南西」である。易の卦(け)で天と地を指すところの乾(ケン:戌亥(いぬい)/北西)と坤(コン:ひつじさる(未申)/北東)で、しばしば上下二巻の呼称となる。恐らくモースは対称位置で同音でもある艮(コン:うしとら(丑寅)/北東)と勘違いしたものであろう。

「我々の Volume という語も、同じ語原を持っている」英語のそれもラテン語の“volvere”(渦巻く・書巻を繙(ひもと)いて読む)に由来するらしい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 諺対照

 竹中は私にいろいろ面白いことを話してくれる。我国の諺なり格言なりをいうと、彼は日本に於る同様なものを挙げる。例えば、「お婆さんが針で舟を漕ごうとする時いったことだが、どんな小さなことでも手助けになる」を日本では「貝殻で大海を汲み出す」或は「錐で山に穴を明ける」という。広間に人が一杯集ったのを「床に錐を立てる余地も無い」と形容する。我国の「馬が盗まれた後で納屋の戸に鍵をかける」に匹敵するものに日本の「喧嘩すぎての棒ちぎれ」がある。

[やぶちゃん注:原文を提示する。

    *

Takenaka tells me many items of interest. In mentioning some of our proverbs or sayings he matched them with similar ones in Japan; thus, "Every little helps, as the old woman said when she tried to row a boat with a needle"; the Japanese say, "To dip out the ocean with a shell," and also, "To make a hole in a mountain with an awl"; and in describing a dense crowd in a hall, "There was no room to put an awl to the floor." Our saying, "Lock the barn door after the horse is stolen," is paralleled by the Japanese saying, "Carry the stick after the quarrel."

    *

「竹中」既出のモースの私設助手のような兄弟、竹中成憲か竹中(宮岡)恒次郎の孰れかであるが、如何にも面白そうに語っているところはモースのより可愛がった弟恒次郎の方にも見え、しかし彼は宮岡家の養子となっていて彼をモースは前で「小宮岡」と呼称しており、単に「竹中」と言った場合は兄を指すようにも見える。一応、兄ととっておく。

「貝殻で大海を汲み出す」近似したものに「嬰児の貝を以て巨海を測る」がある。これは一般には、到底成し遂げること出来ないことの譬えとして用いられる。元々は「漢書」の「東方朔伝」の「以筦窺天、以蠡測海、以筳撞鐘」(筦(かん)を以って天を窺ひ、蠡(れい)を以つて海を測り、筳(てい)を以つて鐘を撞く)、細い管を以って天を覗き、瓢箪で海の水を測り、小枝で大きな鐘を撞くという謂いで、見識が非常に狭いことを譬えた言葉である。そこからこの「蠡」(瓢箪)を法螺貝と解し、更にそれを扱うのを幼児として、赤子が大海の水を法螺貝で汲み出してその量を測ろうとする、といった無謀な行為、未熟な知識で遠大なものごとを推測することを謂う。「管窺蠡測(かんきれいそく)」という四字熟語もあるが、「平家物語」の倶利伽羅合戦の「木曽願書」に「今この大功を起すことたとへば嬰児の貝を以て巨海を測り蟷螂が斧を怒らかいて龍車に向かふが如し。然りといへども國の爲君の爲にしてこれを起す」で引かれるのが知られ、ここではそれが平家討伐への木曽の覚悟と確信として示されていることを考えれば、強ち、場違いな類似比較とは言えない。

「錐で山に穴を明ける」主意とここでの対照としては分かり、ありそうな諺ではあるが、見出し得ない。識者の御教授を乞う。

「床に錐を立てる余地も無い」云わずもがなであるが、「立錐の余地もない」で、人や物が密集していて、僅かの隙間もないことの譬え。出典は「史記」の「呂氏春秋」の「為欲」や「留侯世家」である。

「喧嘩すぎての棒ちぎれ」「喧嘩過ぎての棒千切り」「争い果てての千切り木」などとも言い、喧嘩が終わってしまってから、棒切れを持ち出すこと。時機に遅れて効果のないことの譬え。「後の祭り」と同義。]

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅵ)

 

冬の風つめたく晴れて

木の空に

大根の死骸かぎりなし

 

[やぶちゃん注:沢庵漬けにするための大根干しの景か。ふと見つけた個人ブログ「九州・福岡県糸島から野菜と食材をお届けするmamagocoro(ママゴコロ)のブログ」の「大根干して漬物に」の景が私にはしっくりきた。]

 

天人が

どこかの森へ落ちたらしい

シインとしてゐる春の眞晝中

 

白塗りのトラツクが街をヒタ走る

何處までも何處までも

眞赤になるまで

 

[やぶちゃん注:「何處までも何處までも」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

これが女給

こちらが女優の尻尾です

チヨツト見分けがつかないでせう

 

レコードの割れ目を

針が辷る時

歌つてゐる奴の冷笑が見える

 

地獄座のフツトライトが

北極光さ

悔い改めよといふ意味なのさ

 

黃道光は

空の女神の脚線美さ

だから滅多にあらはれないのさ

 

[やぶちゃん注:「黃道光」「くわうだうくわう(こうどうこう)」とは、日没後は西空に、日の出前は東空に黄道(ecliptic:太陽が天空を回る見かけ上の通り道である円周軌道、地球の太陽に対する軌道面。英語は月がこの面を通過する時にのみ日食や月食が起こることに由来する。因みに「黄道」はウィキ黄道によると学術的にも「おうどう」と読んでもよいとされている)に沿って太陽を中心に帯状に見える淡い光の帯のこと。地球の軌道面に沿って散在する希薄なガスや微粒子が太陽光を散乱するために見られる現象。]

 

戀愛禁斷の場所が

今の世に在るといふ

床の間の在るお座敷がソレだと……

 

[やぶちゃん注:個人(複数)ブログ「旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集)」の床の間」に、床の間とは『和室建築において、通常は座敷の上座側にあって畳よりも床を一段高くした空間。多くはハレの空間である客間の一角に設けられ、床柱、床框などで構成され、板張りと畳敷がある。歴史的には東山文化の書院造において採用された形式で、観賞用として壁に掛け物を掛けたり、床に生け花や置物などを飾ることが多い』が柳田國男は「木綿以前の事」の中で、『床の間の発達は、室町時代の風習として君主が臣下の家に客として訪問することが多くなったことが、特別の上座を必要としたものではないかと指摘している。通常は絵画鑑賞の形式の変化などによって床の間の発生を説明することが多いなか、永原慶二は柳田の説を室町時代の社会のありかたと深く結びついた洞察だとして高く評価している』とある。また、別なネット記載のコメントに、とある僧の話であったとして、『床の間は男の間という意味で、男性(家の主)の出世運を左右する』であって、『床の間に掛け軸や花以外の物を置くと、主の運を下げるとも言』われているとあった。これは特別なまさに前述のような「ハレ」を将来する特殊空間装置としての「床の間」を意味しており、そこで恋愛を含む性愛行動は禁忌であるのは言うまでもないということになる。]

 

女を囮に

脱獄囚を捕まへた

脱獄囚よりも殘忍な警官

 

十七歳の少女の墓を發見して

頭を撫でゝ

お辭儀して遣る

 

脱獄囚を逐うて

警官が野を横切る

脱獄囚がアトから横切る

 

打ち明けて云はれた時に

ドウしたらいゝのと

娘が母に聞いてみる

 

泣き濡れた

その美しい未亡人が

便所の中でニコニコして居る

 

[やぶちゃん注:「ニコニコ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

姙娠した彼女を思ひ

唾液を吐く

黃色い月がさしのぼる時

 

笹の間にサヤサヤのぼる冬の月

眞實々々

薄血したゝる

 

[やぶちゃん注:「サヤサヤ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

白い赤い

大きなお尻を並べて見せる

ナアニ八百屋の店の話さ

 

 

   (昭和七(一九三二)年四月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「れふきのうた」)

 

 

 

   うごく窓

 

病院の何處かの窓が

たゞ一つ眼ざめて動く

雪の深夜に――

 

驛員が居睡りしてゐる

眞夜中に

骸骨ばかりの列車が通過した

 

母の腹から

髮毛と齒だけが切り出された

さぞ殘念な事であつたらう

 

梟が啼いた

イヤ梟ぢや無いといふ

眞暗闇に佇む二人

 

吹き降りの踏切で

人が轢死した

そのあくる日はステキな上天氣

 

 

   (昭和八(一九三三)年十二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

[やぶちゃん注:前回から一年と八ヶ月ものスパンが空いている。しかも発表詩を同昭和八年五月に創刊したばかりの『ぷろふいる』(京都)に移しているが、これは先の掲載誌『獵奇』(京都)が前年の五月号(前掲「獵奇歌」掲載の翌月号)を以って終刊したことによる。『ぷろふいる』『獵奇』ともに関西系の探偵小説専門誌であった。]

 

 

 

   うごく窓

 

白き陽は彼の斷崖と

朝な朝な

冷笑しかはしのぼり行くかな

 

[やぶちゃん注:「朝な朝な」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

地下室に

無數の瓶が立並び

口を開けて居り呼吸をせずに

 

ひれ伏した乞食に人が錢を投げた

しかし乞食は

モウ死んでゐた

 

嫁の奴

すぐにお醫者に走つて行く

わしが病氣の時に限つて

 

ラムネ瓶に

蠅が迷うて死ぬやうに

彼女は百貨店で萬引をした

 

晴れ渡る靑空の下に

鐵道が死の直線を

黑く引いてゐる

 

草蔭するどく黑く地に沁みて

物音遠き

死骸の周圍

 

 

[やぶちゃん注:「沁みて」諸本、「泌みて」とする。後者でも「しみて」とは読めるが、「にじみて」とも読めてしまう。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

2015/07/22

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅴ)

  
 
透明な硝子の探偵が

前に在り うしろにも在り

秋晴れの町

 

月のよさに吾が戀人を

蹴殺せし愚かものあり

貫一といふ

 

[やぶちゃん注:「貫一」云わずもがな、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(読売新聞に明治三〇(一八九七)年一月一日から明治三五(一九〇二)年五月十一日までの実に四年強と云う驚くべき期間に断続して続編形式で連載されたが、紅葉の死によって未完成に終わった。連載当時の久作は満八歳直前(彼の誕生日は明治二二(一八八九)年一月四日)から十三歳、未だ小学生(尋常及び高等)であった)の主人公間(はざま)貫一。因みにウィキ金色夜叉によれば、『文芸評論家北嶋廣敏によれば、主人公・間貫一のモデルは児童文学者の巖谷小波である。彼には芝の高級料亭で働いていた須磨という恋人がいた。が、小波が京都の新聞社に2年間赴任している間に、博文館の大橋新太郎(富山唯継のモデル)に横取りされてしまった。小波は別に結婚する気もなかったのでたいして気にも留めていなかったというが、友人の紅葉が怒って料亭に乗り込み須磨を足蹴にした。熱海の海岸のシーンはそれがヒントになったという』(実は私は今日調べてみるまでこの事実は知らなかった。正直、吃驚した)。]

 

自分より優れた者が

皆死ねばいゝにと思ひ

鏡を見てゐる

 

キリストは馬小屋で生れた

お釋迦樣はブタゴヤで生まれた

と……子供が笑ふ

 

[やぶちゃん注:「ブダゴヤ」云わずもがな乍ら、釈迦、ゴータマ・シッダッタは現在のインドのビハール州ガヤー県ブッダガヤ(仏陀伽邪)で悟ったとされる。]

 

十六吋主砲の

眞向うの大空が

眞赤に眞赤に燃えてしたゝる

 

[やぶちゃん注:「十六吋主砲」口径四〇・六四センチメートルの超弩級の大型戦艦の主砲。具体的には本歌発表の十二年前の大正九(一九二〇)年に完成していた大日本帝国海軍の長門型戦艦一番艦で日本海軍の象徴として親しまれた戦艦「長門」(排水量は基準値三万二千七百五十九トン/後の唱和一一(一九三六)年の改装後は三万九千百三十トン)は竣工当時、世界初且つ最大口径の十六・一インチ(当時日本はメートル法を採用していたため実口径は四十一センチメートルぴったり)主砲(四一式四十五口径四十一糎連装砲)四基を搭載していた(以上はウィキ「長門」(戦艦)に拠った)。]

 

キツト死ぬ

醫師會長の空椅子に

白い新しいカヴアがかゝつた

 

羽子板の羽二重の頰

なつかしむ稚な心に

針をさしてみる

 

腸詰に長い髮毛が交つてゐた

ジツト考へて

喰つてしまつた

 

恐怖劇が

チツトモ怖くなくなつた

一所に見てゐる女が怖くなつた

 

古着屋に

女の着物が並んでゐる

賣つた女の心が並んでゐる

 

今日からは別人だぞと反り返る

それが昨日の俺だつた

馬鹿………………

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集を底本とする青空文庫では、三行目のリーダが三点リーダ五字分十六ドットしかない。第一書房版全集は本テクストと同じく六字分十八ドットある。]

 

   (昭和七(一九三二)年三月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「れふきのうた」)

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅳ)

 

トラムプのハートを刺せば

黑い血が……

クラブ刺せば……

赤い血が出る

 

ストーブがトロトロと鳴る

忘れてゐた罪の思ひ出が

トロトロと鳴る

 

[やぶちゃん注:二箇所の「トロトロ」は二箇所とも底本では踊り字「〱」。]

 

雪だつた

ストーブの火を見つめつゝ

殺した女を

思うたその夜は……

 

死刑囚が

眼かくしをされて

微笑したその時

黑い後光がさした

 

子供等が

相手の瞳にわが瞳をうつして遊ぶ

おびえごゝろに

 

やは肌の

熱き血しほを刺しもみで

さびしからずや

惡を説く君

 

[やぶちゃん注:後の與謝野晶子こと鳳(ほう)晶子の処女歌集「みだれ髪」(與謝野鐡幹編明治三四(一九〇一)年八月十五日東京新詩社・伊藤文友館共版)に所収された中でも最も人口に膾炙する一首、

 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

の初出は前年の『明星』明治三十三年十月刊の第七号(同誌は同年四月創刊)で、初出当時、夢野久作は満十一歳、大分尋常高等小学校二年であった。]

 

夕ぐれは

人の瞳の並ぶごとし

病院の窓の

向うの軒先

 

眞夜中に

枕元の壁を撫でまはし

夢だとわかり

又ソツと寢る

 

親の恩を

一々感じて行つたなら

親は無限に愛しられまい

 

屍體の血は

コンナ色だと笑ひつゝ

紅茶を

匙でかきまはしてみせる

 

梅毒と

女が泣くので

それならば

生かして置いてくれようかと思ふ

 

紅い日に煤煙を吐かせ

靑い月に血をしたゝらせて

畫家が笑つた

 

黑い大きな

吾が手を見るたびに

美しい眞白い首を

摑み絞め度くなる

 

闇の中を誰か

此方を向いて來る

近づいてみると

血ダラケの俺……

 

投げこんだ出刃と一所に

あの寒さが殘つてゐよう

ドブ溜の底

 

煙突が

ドンドン煙を吐き出した

あんまり空が淸淨なので……

 

[やぶちゃん注:「ドンドン」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

雪の底から抱へ出された

佛樣が

風にあたると

眼をすこし開けた

 

病人は

イヨイヨ駄目と聞いたので

枕元の花の

水をかへてやる

 

[やぶちゃん注:「イヨイヨ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

   (昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

[やぶちゃん注:前回からは実に十ヶ月のスパンがある。]

 

 

 

宇宙線がフンダンに來て

イライラと俺の心を

キチガヒにしかける

 

[やぶちゃん注:「イヨイヨ」の後半は底本では踊り字「〱」。オーストリア生まれで後にアメリカ合衆国に移住した物理学者ヴィクトール・フランツ・ヘス(Victor Franz Hess 一八八三年~一九六四年:「ビクター」とも音写する。ナチスの台頭を嫌って一九三八年にアメリカへ渡りニューヨークのフォーダム大学教授となって一九四四年にアメリカの市民権を獲得)が気球を用いた放射線の計測実験(一九一一年から一九一二年)を行って地球外から飛来する高エネルギーの放射線を発見し、当時、地球上で検知し得る放射線が宇宙起源であることを証明した(この業績によって彼は後の一九三六年のノーベル物理学賞を受賞している。ここまではウィキヴィクトール・フランツ・ヘスに拠った)から、この歌はそれから二十年ほどが経過している。トンデモ説での非科学的人体影響説よりもなによりも、統合失調症の関係妄想例ではすこぶる高い確率で悪い電波という概念が出現するから、これもそうした新しい時代の新しい狂気の様態を踏まえていて私には頗る興味深い。まさに「ドグラ・マグラ」の久作ならではの一首と言えよう。]

 

隣室に誰か來たぞと盲者が云ふ

妻は行き得ず

ジツト耳を澄ます

 

眼が開いたら

芝居を見ると盲者が云ふ

その顏を見て妻が舌を出す

 

血壓が

次第々々に高くなつて

頸動脈を截り度くなるも

 

インチキを承知の上で

賭博打つ國際道德を

なつかしみ想ふ

 

[やぶちゃん注:「國際道德」まさにこの歌が『獵奇』に載った昭和七(一九三二)年一月、この前年の満州事変に対して(満州国建国は二ヶ月後の三月)、連盟はリットン調査団を結成している。国際連盟理事国であった日本は孤立して行き、翌一九三三年二月二十四日に日本は連盟を脱退する。]

 

二人の戀に

ポツンと打つたピリオツド

ジツト考へて紙を突き破る

 

日本晴れの日本の町を

支那人が行く

「それがどうした」

「どうもしないさ」

 

キリストが

或る時コンナ豫言をした

俺を抹殺するものがある……と

 

妻を納めた柩の中から

マザマザと俺の體臭が匂つて來る

深夜……………………

 

 

   (昭和七(一九三二)年一月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇の歌」

[やぶちゃん注:前回からはこれもやはり十ヶ月のスパンがある。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  建長寺


    
建長寺

建長寺は。巨福呂阪の道(みち)北に在り巨福山號す。鎌倉五山の第一なり。相摸守平時賴の建立に係る東鑑に建長五年十一月廿五日建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に事始有て既に造畢すとあり。證とすべし。開山は寛元四年に來朝せし宋の大覺禪師、名は道隆蘭溪と號せし者なり。外門(そともん)二所。其の東外門に海東法窟。西外門には天下禪林と題せる額を掲く。共に崇禎元年十一月竹西書と署名せり竹西は朝鮮人なり。門外に金龍水あり。鎌倉五名水の一なり。總門には巨福山の額を表す。筆者詳ならす。或は曰く寧一山と。或は趙子昻(てうすこう)と。而して巨(こ)の字上の一畫(いつくわく)の下に一點を加て書したり。時人(じじん)褒美して。此額此點を加へて百貫の價を添(そへ)たりといひしより。百貫點と稱すといふ。門内左右に六株の白槇(びやくしん)あり。皆老樹にして左方中央に立る者。最も大、六席を容(い)るベし。蓮花の銅盤ありて水を吐けり。山門は箱棟茅葺にて白木作り。下邊(かへん)は左右各六本の柱にて見透(みとう)しなり。建長興國禪寺と二行に書したる大額を掲(かゝ)く。楠の一枚板にて縱九尺横六尺とす。宋僧子曇(しどむ)の筆と稱すれども。相摸風土記には勅額ならむとの説あり。太宰春臺の湘中紀行に。大門北爲樓門。署曰建長興國禪寺。宋僧子曇書。額扁甚長濶。今門不諸重屋間。覆而懸之樓下。仰而視之。若屋宇然。殆乎竟門。觀此乃知門故高大と記せり。實に此觀なきにあらず。樓上には十大羅漢ありしが。今は僅かに八體を存すといふ。七月十五日門下(もんか)にて施餓鬼會あり。終りて梶原施餓鬼といふを行ふよし。鎌倉志に傳説あれとも信するに足らず。佛殿には祈禱の牌を掛く。二重屋根銅瓦にて。殿は瓦疊(かはらたゝみ)なり。正面大蓮花の上に地藏菩薩、丈六の木造を安置す。之を濟田地藏といふ。蓋し濟田某の護持佛應行(おうげう)の作長一寸五分の小像を此(この)體中(たいちう)に藏(をさ)めしに由る。抑此地は古昔(むかし)刑塲にして。地獄谷(ぢごくがやつ)と字し。地藏の小堂あり。故に舊にて仍(よつ)て是を本尊とすと云格天井の群鳥は。狩野法眼(かのはうげん)の筆。欄間の天人は左甚五郎の作と稱す。右正面の格子内(うち)に太鼓と陣鐘あり。大皷は徑(わたり)五尺八寸胴一丈八尺。楠の一本木なり。皷皮(こひ)一面破ること尺許。導者云。近侍(きんじ)兵士(へいし)の惡戯(あくぎ)に係ると惜むべし。堂内には北條時賴の木像あり。束帶にて龕内(がんない)に坐せり。前牌に最明寺殿崇公太禪定門神儀と記す其の他德川家歷世(れきせい)當山歷世和尚の靈牌(れいはい)を列置す。

[やぶちゃん注:やや長いので、パートごとに注し、注の後を一行空けておいた。

「東鑑に建長五年十一月廿五日建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に事始有て既に造畢すとあり」「吾妻鏡」の建長五(一二五三)年十一月二十五日の条に以下のようにある。

   *

廿五日庚子。霰降。辰尅以後小雨灌。建長寺供養也。以丈六地藏菩薩爲中尊。又安置同像千體。相州殊令凝精誠給。去建長三年十一月八日有事始。已造畢之間。今日展梵席。願文草前大内記茂範朝臣。淸書相州。導師宋朝僧道隆禪師。又一日内被冩供養五部大乘經。此作善旨趣。上祈 皇帝萬歳。將軍家及重臣千秋。天下太平。下訪三代上將。二位家并御一門過去數輩没後御云々。

やぶちゃんの書き下し文

廿五日庚子。霰(あられ)、降る。辰の尅以後、小雨灌(そそ)ぐ。建長寺の供養なり。丈六の地藏菩薩を以つて中尊と爲(な)し、又、同像千體を安置す。相州、殊に精誠を凝らさしめ給ふ。去ぬる建長三年十一月八日、事始(ことはじめ)有りて、已に造畢(ざうひつ)の間(あひだ)、今日、梵席(ぼんせき)を展(の)ぶ。願文の草は前大内記(さきのだいないき)茂範朝臣。淸書は相州。導師は宋朝僧道隆禪師。又、一日の内に五部の大乘經を冩し、供養せらる。此の作善(さぜん)の旨趣(しいしゆ)は、上は皇帝の萬歳(ばんせい)を祈り、將軍家及び重臣の千秋(せんしう)、天下の太平を祈り、下は三代の上將、二位家幷びに御一門の過去、數輩の没後を訪ひ御(たま)ふと云々。

   *

引用文中の「相州」は北条時頼、「三代」は源家三代の将軍、「二位家」は北条政子。

「寛元四年」西暦一二四六年。

「其の東外門に海東法窟。……」私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之四」の冒頭の部分に以下の額の図が総て載るので参照されたい。

「崇禎元年十一月竹西書」崇禎(すうてい)は明代最後の第十七代皇帝毅宗(崇禎帝)の治世中に用いられた元号。元年は西暦一六二八年に当たる。

「寧一山」「ねいいつさん(ねいいっさん)」と読む。一山一寧(いっさんいちねい 一二四七年~文保元(一三一七)年)のこと。台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)出身の臨済僧。来朝(「宋朝」は「來朝」の誤り)を正和二(一三一三)年とするが、前年の誤り。彼は又、「宋」からの渡来僧ではなく、過去の日本遠征(元寇)で失敗した元の第六代皇帝成宗が日本を従属国とするための懐柔策として送ってきた朝貢督促の国使としてであった。妙慈弘済大師という大師号も、そのために成宗が一寧に贈ったものである。以下、参照にしたウィキの「一山一寧」によれば、『大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉し』てしまう。『それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる』。『修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した』。『幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き』、永仁元(一二九三)年の火災以降、衰退しつつあった『建長寺を再建して住職に迎え、自らも帰依した。円覚寺・浄智寺の住職を経』、正和二(一三一三)年『には後宇多上皇の招きにより上洛、南禅寺』三世となり、そこで没している。

「趙子昻」(一二五四年~一三二二年)元代第一流の能書家。

「白槇」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で建長寺のものは、和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis と思われる。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられる。

「六席」「席」は茣蓙・莚のことで、大人一人分の座る面積の六人分の謂いであろう。

「箱棟」は「はこむね」と読み、大棟(おおむね:屋根の頂部の水平な棟)を箱状に板で覆ったものを言う。

「縱九尺横六尺」縦幅二・七メートル、横幅一・八メートル。

「宋僧子曇の筆と稱すれども。相摸風土記には勅額ならむとの説あり」「子曇」は西澗子曇 (せいかんしどん 一二四九年~嘉元四(一三〇六)年)浙江省出身の南宋の臨済僧。文永八(一二七一)年の来日後に一度戻ったが、正安元(一二九九)年に先に出た一山一寧に随って再来日した。北条貞時に信任され、鎌倉の円覚寺・建長寺住持となった。書画をよくした。諡号は大通禅師。道号は「西礀」とも書き、法名は「すどん」とも読む(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。「相模国風土記稿」は恐らく、「鎌倉攬勝考卷之四」の本額の解説の、「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を、土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし」とあるのに基づいて記したものか。ただ、この文章はやや意味が取り難い。「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を」の後に「傳へず、」或いは「記さず、」などの語の脱落が想起され、その後に「土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし。」と続かないとおかしい。因みにこの「訛」は「あやまり」と訓じているものと思われる。

「太宰春臺の湘中紀行」既注。以下、引用部を我流で訓読しておく。

   *

大門が北、樓門たり。署して曰く、「建長興國禪寺」と。宋僧子曇が書。額扁、甚だ長濶たり。今は門、諸重の屋間に掛くること能はず、覆ひて樓下に之を懸く。仰ぎて之を視るに、屋宇(おくう)の若くして然り。殆んど、門に竟(おは)る。此れを觀れば此れ、乃ち門の故(もと)より高大なるを知る。

   *

何だかよく解らぬ。識者の御教授を切に乞う。

「終りて梶原施餓鬼といふを行ふよし。鎌倉志に傳説あれとも信するに足らず」「新編鎌倉志卷之三」(私の電子テクスト)建長寺の「山門」の条に、『又此門下にて、七月十五日に、梶原施餓鬼(かじはらせがき)と云ふを行ふ。相ひ傳ふ、昔、開山在世の時に、武者一騎來て、施餓鬼會の終りたるを見て、後悔の色有りて歸る。時に禪師これを見て、呼びかへさせて、又施餓鬼會を設けて聽(き)かしむ。時に彼の武者、我は梶原景時(かぢはらかげとき)が靈なりといひて謝し去る。爾(しか)しより以來、此寺には毎年七月、施餓鬼の會終て後(のち)、梶原施餓鬼と云ふを設くるなり。心経を梵音(ぼんをん)にて、二三人にて誦(よ)む。餘(よ)の大衆は無言にて行道するなり。是を此寺にて梵語心經と云なり』とある。

「瓦疉」甃(いしだたみ)のように床に瓦を敷き詰めてあることを謂うのであろう。

「丈六」既注であるが再掲する。仏像の丈量、背丈を示す基準。仏身は身長が一丈六尺(約四・八五メートル)とされることから仏像も丈六を基準とした(実際の造立時には等身大のそれ以外にこの丈六を基準五倍・十倍或いは、その二分の一などで造像された。坐像丈六像は半分の約八尺 (二・四三メートル)、半丈六像は約八尺の立像を言う。

「濟田地藏」同じく「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の「佛殿」の条を引く。

   *

佛殿 祈禱の牌(はい)を懸けて、毎晨祈禱の經咒(きやうじゆ)怠らず。本尊地藏、應行(わうぎやう)が作。相ひ傳ふ、此の寺建立なき以前、此の地を地獄谷(ぢごくがやつ)と云ひ、犯罪の者を刑罰せし處なり。平の時賴の時代に、濟田(さいた)と云ふ者、重科に依りて斬罪に及ぶ。太刀とり、二(ふた)大刀まで打てども切れず。刀を見れば折れたり。「何の故(ゆゑ)かある」と問ひけるに、濟田、荅(こた)へて曰く、「我れ、平生地藏菩薩を信仰して常に身を放たず。今も尚髻(もとど)りの内に祕す」と云ふ。依つてこれを見れば、果して地藏の小像あり。背(せなか)に刀(かたな)の跡あり。君臣、歎異して、則ち濟田が科(とが)を赦(ゆる)す。濟田、此の地藏を心平寺の地藏の肚中(とちう)に收(をさ)むとなり。此の寺草創の時、佛殿の地藏の頭内に移す。長(たけ)一寸五分、臺座ともに二寸一分、立像の木佛(もくぶつ)なり。背(せなか)に刀(かたな)の跡ありと云ふ。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

文中に出る「心平寺」とは地獄谷刑場にあった鎮魂のための地蔵菩薩を本尊とした禅宗寺院で、建長元(一二四九)年創建と伝え、本尊と建立地から見れば、建長寺のプロトタイプとも言える寺である。小袋坂上に移り、小袋坂新道開通前までは本寺の名残である地蔵堂があった。現在は横浜三溪園内に移築しされて現存する。

「長一寸五分」像高四・五センチメートル。

「格天井の群鳥」「格天井」は「ごうてんじやう(ごうてんじょう)」、和様式の格子状になったもので、中央部分が折り上げとなっている(禅宗では大陸の様式に則り、仏殿は平板な鏡天井で龍などの絵を描くことが多いから、本尊を地蔵とすることに加え、この仏殿はかなり特異と言える)。金箔押しの鳳凰らしきものが描かれているが、現在は剥落が著しい。

「狩野法眼の筆」不詳。現在のデータにはない。

「欄間の天人は左甚五郎の作」これも現在は特に名指されていないように思われる。

「太鼓」と「大皷」の相違はママ。

「徑五尺八寸胴一丈八尺」太鼓の直径一メートル七十五センチ七ミリメートル、胴部分の長さが五メートル四十五センチ四ミリメートル。

「德川家歷世當山歷世和尚の靈牌を列置す」後で出るように、この仏殿は寛永年間に久能山に建立した徳川家の御霊屋(みたまや)の拝殿を正保三(一六四六)年に譲りうけて移築したものである。移建はかの沢庵宗彭の肝煎りとされる(以上は「鎌倉市史 社寺編」に基づく)。]

 

鎌倉志に建築當時の簗碑銘を載せたり。

[やぶちゃん字注:以下の簗碑銘は底本では全体が一字下げ。]

左の方

今上皇帝。千佛埀レ手扶持。諸天至レ心擁護。長保二南山壽一。久爲二北闕尊一。同三胡越於二一家一。通三車書於二萬國一。正五位下行相摸守平朝臣時賴敬書。

右の方

伏願三品親王征夷大將軍。干戈偃息。海晏河淸。五穀豐登。萬民康樂。法輪常轉。佛日增輝。建長五年癸巳十一月五日。住持傳法宋沙門道隆謹立。

[やぶちゃん注:「鎌倉志に建築當時の簗碑銘を載せたり」「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の「梁牌銘」で示した私の訓読文(影印本の訓点に拠る)を以下に示す。

   *

【梁の左の箇所】

今上皇帝、千佛手を垂れて扶持し、諸天心を至して擁護す。長く南山の壽を保ち、久しく北闕の尊と爲る。胡越を一家に同じ、車書を萬國に通ず。正五位下行相模の守平朝臣時賴敬して書す。

【梁の右の箇所】

伏して願はくは、三品親王征夷大將軍、干戈偃息し、海晏河淸し、五穀豊登、萬民康樂、法輪常に轉じ、佛日輝を增さん。建長五年癸巳十一月五日。住持傳法宋の沙門道隆謹みて立つ。]

 

風土記云。今の佛殿は久能山御宮拜殿更に再造せられし時。其舊殿を賜ふと云。或は崇源院殿御靈屋(おたまや)の拜殿を賜はりしなりと。

[やぶちゃん注:「風土記」「新編相模国風土記稿」。因みに唐門も同じく久能山からの移築である。

「崇源院」(天正元(一五七三)年~寛永三(一六二六)年)江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の妻お江(ごう)の法名。浅井長政三女で母は織田信長の妹お市。長姉は淀殿(茶々)。最初に佐治一成(秀吉により強制的に離縁)次に秀吉の甥豊臣秀勝(死別)、秀忠は三人目の夫である。]

 

法堂二重屋白木作(しらきつく)り。間口十三間佛殿の後に在り。常日は之を鎖せり。

方丈を龍王殿といひ。書院を聽松軒といふ。蘸碧池は書院に庭に在り。影向其の側に立てり。

[やぶちゃん注:「法堂」「はつたう(はっとう)」と読む。仏法を説く御堂の意で、禅寺で住持が修行僧に教えを説きつつ指導にあたる建物で、通常は仏殿の後方にあって禅宗寺院の中心的な空間である。他宗の講堂に相当する。当初の法堂は、創建から二十二年後の建治元(一二七五)年に建長寺開基であっ第五代執権北条時頼の十三回忌に創建されたものであったが、かなり以前に失われ、現在の法堂は文化一一(一八一四)年に再建(棟上)されたもの。関東一の大きさを誇る。

「十三間」二十三・六三メートル。

「蘸碧池」「影向の松」前者は「さんへきち」、後者は「やうがうのまつ(ようごうのまつ)」と読む。因みに、「影向」(一般名詞としては「えいごう」とも読む)とは神仏が現世に現前のものとして現れること、或いは神仏が一時手的に応現すること。この場合、神仏が仮の姿に変じて現れることを「権現(ごんげん)」という(また姿を見せずに現れることをも含む)。「新編鎌倉志卷之三」の建長寺より引く。

   *

蘸碧池(さんへきち)幷に影向(やうがう)の松 共に書院の庭あり。【元享釋書】に、福山寢室の後(うしろ)に池あり。池の側(かたはら)に松あり。其の樹條(こえだ)、直(なを)し。一日斜めに偃(のべふ)して室に向かふ。衆僧これを怪しむ。禪師語りて云はく、偉服(いふく)の人、松の上に居て我と語る。我、問ふ、「何れの處に住する」と。對(こた)へて曰はく、「山の左(ひだり)鶴岡(つるがをか)なり」と。語り巳(をは)つて見へず。其の人の居るを以つての故に松偃(のべふ)すのみ。諸徒の曰はく、鶴が岡は八幡大神の祠所なり。恐らくは神こゝに來るのみ。これより其の徒、其の樹に欄楯(らんじゆん)して、名づけて靈松と云ふとあり。今或は影向の松と云ふ。

   *

引用文中の「欄楯」とは仏塔を取り巻く柵のことを指す。この話はまさに、仏に神が従って教化されて取り込まれたのだとする如何にもな、本地垂迹説の変形譚である。]

 

開山塔(かいさんたう)は。佛殿の東に在り。外門の額嵩山は。佛光禪師の筆。中門の額西來庵は。筆者詳ならす。其の後山を嵩山といひ。其の峯を兜卒巓と稱す。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」の建長寺に、『嵩山(すうざん)幷に兜率巓(とそつてん) 開山塔の後ろの山を嵩山と號し、峯(みね)を兜率巓と云ふ。兜率巓に、開山幷びに佛光の石塔あり。佛光禪師は、圓覺寺の開山なれども、建長寺にて葬むる故に、塔は嵩山にあり』とある。]

 

勝上巘(しやうじやうけむ)は。方丈の後即ち北方の高山をいふ。瞻望すれは蒼翠(さうすゐ)掬すへし。曲折して登る甚た嶮なり。上には半僧坊の祠宇、座禪窟、仙人澤幷に五名水の一なる不老水あり。觀瀾閣上より眺望すれは。鎌倉地方の山水寸眸の中に落つ。一覽亭跡を除ては當所を以て風景第一とす。山麓に茶亭(さてい)あり。草履を賃貸す。沿道寸幟列植し其の數を知らず。皆(みな)半僧坊に獻する者なりといふ。頭塔甚た多し左(さ)に列記す

[やぶちゃん字注:以下は底本では一行に二字空けで五つの塔頭名を記す。ブログでの表示を考え、一字空けに変えた。]

華藏院 禪居庵 玉雲庵 廣德庵 寶珠庵

龍峯庵 龍源庵 正統庵 天源庵 寶泉庵

向上庵 妙高庵 長好院 正宗庵 同契庵

千龍庵 雲外庵 回春庵 雲光庵 通玄庵

正受庵 都史庵 傳芳庵 梅岑庵 大智庵

大統庵 梅洲庵 金龍庵 廣巖庵 龍淵庵

正本庵 華光庵 龍興庵 長生庵 大雄庵

瑞林庵 建初庵 傳衣庵 正法院 金剛院

吉祥庵 一溪庵 岱雲庵 實際庵 竹林庵

正濟庵 東宗庵 壽昌院

當時の盛況想ふベし。今は此中存する者實に寥々(れうれう)たり。「建長寺の庭を鳥掃子にて掃(は)く」とは淸潔の譬なるに、目下見る所に據れは。境内纖塵を絶するといふを得ず。名藍にして此の如し。懷古の情に堪へざるなり。什寳甚た多し。今之を記載せず。

[やぶちゃん注:「瞻望」は「せんばう(せんぼう)」と読み、遠く見渡すこと。

「觀瀾閣上」「上」まで傍点「●」が附されてある。「觀瀾閣」は「くはんらんかく(かんらんかく)」と読み、眺望する小亭であったかと思われるが、「新編鎌倉志卷之三」にさえ、『今は亡びたり。勝上巘坐禪窟の前に跡有』とする。ここもその跡の高台地を指している。

「一覽亭跡」前出の「瑞泉寺」の条に出た瑞泉寺後山の一覽亭跡のこと。

「建長寺の庭を鳥掃子にて掃く」「鳥掃子]は「とりぼうき」で、繊細な鳥の羽で作ったほうき、羽箒(はぼうき)のこと。この諺は知られた鎌倉が登場する狂言の「鐘の音(ね)」にも引かれている非常に古いもので(鳥箒を竹箒ともする)、禅宗で寺法厳しき建長寺の境内は古えより、掃除がゆき届いていて地理一つ落ちてないと言われたことから、掃除が行き届いていて、塵一つ落ちていないさま、そこから、清浄であること、きれいな様子、何もないことを意味する故事成句となったものである。この条、軍人が悪戯して太鼓の皮を破いたと寺の案内僧が歎く声を挟んだり、しかしねぇ、人のことは言えねえなぁ、かの清浄の代名詞だった庭の、このザマは何だと呟くあたり、いつになく筆者の人格がよく姿を現わしていてまっこと好感が持てるのである。]

「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」「北條九代記」縦書廃止

「新編鎌倉志」及び「鎌倉攬勝考」と「北條九代記」に幾つかに配していたIE限定の縦書版は使用される頻度も少ないと推測され、容量も馬鹿にならないので廃止することとした。万一、御要望が寄せられれば、復活する用意はある。悪しからず。

              心朽窩主人敬白

2015/07/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 大日本水産会での講演

 七月五日、私は招かれて、日本水産委員会で智的な日本人の聴衆を前に、講演をなした。華族女学校で会った皇族の一人が出席され、非常に親切に私に挨拶された。私は欧洲や米国の水産委員会がやりとげた事業と、魚類その他海産物の人工繁殖による成功とに就て話をした。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、明治一五(一八八二)年六月の『モースの来日目的は陶器および民具類の収集だったので、動物の採集や貝塚の研究はまったく行なわなかったが、講演は何度かしている。その最初が』本文にも前に出た、『六月三十日に木挽町明治会堂で開かれた東京生物学会主催の「化醇論」(進化論)』で、それに続くものがこれで、『大日本水産会の招待で、農商務省の議事堂において「水産の緊要」と題して、欧米の水産事業と人工養殖について話した。同会の会頭は東伏見親王で、このときモースは名誉会員に選ばれている。『東京日日新聞』の七月十四~十七日号に連載された講演要旨によると、漁業資源の減少についての欧米での事例をまず概観したのち、アメリカでのサケとカキの養殖について、人工受精の方法と稚魚・幼生の飼育法を図を使ってかなり具体的に説明しているが、当時そのような試みがまだ行なわれていなかった我が国にとっては、少なからず参考になったことと思われる』。『モースはこのあとも、十三日には二箇所で講演、十五日には女子師範学校卒業式に出席するなど相変わらず忙しかったが、今度の訪日の目的である陶器収集の旅に出る準備も着々と進めていた』とある。

「華族女学校で会った皇族の一人」「華族女学校」は第十八章 講義と社交(Ⅱ) 家族学校講演と慶応義塾での進化論講話と剣道試合観戦に出てきた華族学校の女子部門で現在の学習院女子中・高等科の前身。「皇族の一人」とは磯野先生の言われる、『東伏見親王』、即ち、元帥海軍大将でもあった東伏見宮依仁親王(よりひとしんのう 慶応三(一八六七)年~大正一一(一九二二)年)その人であろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 蛆の集団移動と対捕食者防衛術

M626

図―626

M627

図―627

 

 ある朝私の召使いが、明らかに或る種の蠅の蛆と思われる虫の、奇妙な行列に、私の注意をうながした。彼等は三分の一インチほどの透明な、換言すれば無色な幼虫で、非常に湿っているのでお互にくっつき合い、長いかたまった群をなして、私の部屋の前の平な通路を這って行った。彼等は仲間同志の上をすべり、この方法によってのみ乾燥した表面を這うことが出来るのであり、またこの方法によってのみ、彼等は行列の両側をウロウロする、数匹の小さな黄色い蟻から、彼等自身を保護することが出来るのである。時に一匹の虫が行列から離れると、蟻は即座にそれを取りおさえ、引きずって行って了う。行列の先端が邪魔されると、全体が同時に停止する。私は行列の先方に長い溝を掘ったが、首導者連が肩形にひろがって、横断す可き場所をさぐり求める有様は、誠に興味が深かった。図626は長さ二フィートの行列の一部分で、図627は展開した行列の先頭である。行列は徐々に家の一方側へ行き、そこで割目へかくれて了った。この旅行方法が、保護の目的を達していることは明白である。蟻は、この一群から個々の虫を引き離すことが出来ないのだから。

[やぶちゃん注:「或る種の蠅の蛆と思われる虫」昆虫にお詳しい方は、この叙述で双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscomorpha の、例えばどのグループのハエかぐらいは同定出来てしまうのであろうか? 御教授を是非、乞いたく思う。

「三分の一インチ」一インチは八・五四センチメートルだから、凡そ八ミリメートル。

「小さな黄色い蟻」体色からハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科ヒメアリ属ヒメアリ Monomorium intrudens か(当初は私の家にもしばしば入り込んできては嚙みつく、家屋害虫として知られるイエヒメアリ Monomorium pharaonis かと思ったが、調べて見るとこれは少なくとも本州の諸都市に進入したのは昭和になってかららしい)。

「二フィート」六〇・九六センチメートル。]

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅲ)

 

何故に

草の芽生えは光りを慕ひ

心の芽生えは闇を戀ふのか

 

殺したくも殺されぬ此の思ひ出よ

闇から闇に行く

猫の聲

 

放火したい者もあらうと思つたが

それは俺だつた

大風の音

 

眼の前に斷崖が立つてゐる

惡念が重なり合つて

笑つて立つてゐる

 

獸のやうに女に飢ゑつゝ

神のやうに火にあたりつゝ

あくびする俺

 

淸淨の女が此世に

あると云ふか……

影の無い花が

此世にあると云ふのか

 

ぐるぐるぐると天地はめぐる

だから俺も眼がくるめいて

邪道に陷ちるんだ

 

ばくち打つ

妻も子もない身一つを

ザマア見やがれと嘲つて打つ

 

 

   (昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

 

 

 

自殺しようか

どうしようかと思ひつゝ

タツタ一人で玉を撞いてゐる

 

にんげん

皆良心を無くしつゝ

夜のあけるまで

ダンスをしてゐる

 

[やぶちゃん注:太字「にんげん」は底本では傍点「ヽ」。]

 

獨り言を思はず云うて

ハツとして

氣味のわるさに

又一つ云ふ

 

[やぶちゃん注:諸本は一行目を「獨り言を思はず云つて」とする。ここは朗読してみると一目瞭然、「云うて」リズムの方が重い停滞を生んで軽い「云つて」よりも遙かによい。]

 

誰か一人

殺してみたいと思ふ時

君一人かい…………

………と友達が來る

 

號外の眞犯人は

俺だぞ………と

人ごみの中で

怒鳴つてみたい

 

飛びだした猫の眼玉を

押しこめど

ドウしても這入らず

喰ふのをやめる

 

メスの刄が

お伽ばなしを讀むやうに

ハラワタの色を

うつして行くも

 

五十錢貰つて

一つお辭儀する

盜めば

お辭儀せずともいゝのに

 

人間の屍體を見ると

何がなしに

女とフザケて笑つてみたい

 

 

   (昭和五(一九三〇)年四月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

 

 

 

   血潮したゝる

 

闇の中に闇があり

又闇がある

その核心から

血潮したゝる

 

骸骨が

曠野をひとり辿り行く

行く手の雲に

血潮したゝる

 

教會の

彼の尖塔の眞上なる

靑い空から

血しほしたゝる

 

洋皿のカナリアの繪が

眞二つに

割れたとこから

血しほしたゝる

 

すれ違つた白い女が

ふり返つて笑ふ口から

血しほしたゝる

 

眞夜中の

三時の文字を

長針が通り過ぎつゝ

血しほしたゝる

 

水藥を

花瓶に棄てゝアザミ笑ふ

肺病の口から

血しほしたゝる

 

日の影が死人のやうに

縋り付く倉の壁から

血しほしたゝる

 

たはむれに

タンポヽの花を引つ切れば

牛乳のやうな血しほしたゝる

 

大詰めの

アンチキシヤウの美くしさ

赤いインキの血しほしたゝる

 

 

   (昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』・署名「夢野久作」

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 神童小モーツアルト

M624

図―624

M625

図―625

 

 七月二日、私はメーソン氏が西洋式に歌うように訓練した、師範学校の学級の、公開演奏会に列席した。この会は古い支那学校のよい音響上の性質を持っている美事な広間で行われた。学級につぐに学級が出て来て、各種の選曲を歌った。音楽それ自身は、我国の小学校の音楽で、大して六角敷(むずかし)くはないが、彼等が我我の方式で歌うのを聞くことは驚く可きであった。彼等の声には、我国の学校児童の特色である所の溌溂たる元気は欠けていたが、而も日本人は教えれば西洋式に歌い得ることは疑ない。もっとも、我々式の音楽を彼等に扶植するのが望ましい事であるかどうかは、全然別問題である。ピアノの弾奏もあり、そのあるものは著しく上手だった。また提琴(ヴァイオリン)、クラリネット、フリュート、バス・ヴィオル等の管絃団(オーケストラ)があって、「栄光あるアポロ」、「平和の天使」、「ハーレックの人々」その他の曲を、まったくうまく演奏した。小坂三吉という五つになる小さな子供は、鍵板に手が届き兼ねる位なのだが、著しい巧妙さを以て、簡単な曲をピアノで弾いた(図624)。彼の演奏は大いに興味を引き起し、メーソン氏は彼を日本のモツアルトと呼んだ! 図625はメーソン氏がヴァイオリンで弾く音楽を、黒板に書いている三吉である。彼はそこでそれを歌ったが、彼が如何に速く音調を聞き知ったかは、実に目覚しいものであった。台が無くては黒板に手が届かぬ位彼は小さかったが、而も彼ははきはきした子供で、彼をざっと写生した図を見せてやったら、うれしく思ったらしかった。

[やぶちゃん注:「メーソン氏」既注であるが再掲しておく。音楽教育のお雇い外国人として文部省音楽取調掛で西洋音楽の指導を行ったアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason 一八一八年~一八九六年)。ウィキの「ルーサー・ホワイティング・メーソン」によれば、『メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった』。一八六四年から一八七九年のボストン滞在時代に、『合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり』、一八八〇(明治十三)年に『明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは文部省音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。『小學唱歌集』にも関わった。日本にピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込んだのもメーソンである』。『メーソンは当時音楽取調掛に勤務していた岡倉覚三(天心)とも親しかったという』。『メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち』、この明治一五(一八八二)年に日本を離れているが、実は『メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった』とある。『合衆国に帰国したメーソンは、ヨーロッパ各国を歴訪を4度行い、何百もの楽譜の収集と指導法の視察を行った』。『帰国後も伊沢に書簡を送り、本格的なオーケストラ発展のためには、難かしいオーボエやホルンの演奏家を養成すべきと説いている』とある。盲人の音楽による教育にも熱心であった。明治学院大学機関リポジトリの手代木俊一氏の論文「明治と讃美歌:明治期プロテスタント讃美歌・聖歌の諸相」に彼の日本での業績が詳述されている。必見。老婆心乍ら添えておくと、ここに出る『文部省音楽取調掛』とは職務ではなく、後の東京芸術大学音楽部の前身機関で、この時の学校は本郷に設けられていた。

「支那学校」底本では直下に石川氏の『〔聖堂〕』という割注が入る。湯島聖堂である。第十一章 六ケ月後の東京 28 吉備楽を聴くの私の注を参照されたい。

「学級につぐに学級が出て来て、各種の選曲を歌った」原文は“Class after class came in and sang various selections.”――複数のレッスン・クラスが次々と登壇しては、彼らの最も得意とする選り抜きの曲を演奏詠唱した。――の謂いであろう。

「バス・ヴィオル」原文“bass-viol”。これはヴィオラ・ダ・ガンバ(viola da gamba)と、種にアメリカで好んで用いられるダブル・ベース(double bass)の意があるが、ここは小型の前者であろう。

「栄光あるアポロ」原文"Glorious Apollo,"。既注。HGC and KGC alumni singing Glorious Apolloでお聴きあれ。イギリスのサミュエル・ウェブ(Samuel Webbe  一七四〇年~ 一八一六年)の作曲。讃美歌風である。後に「小学唱歌集」の「君が代」(現在のそれとは異なる廃曲版であるが歌詞は同じ)の原曲となった。

「平和の天使」"Angel of Peace,"。佐藤慶治氏の英語楽曲を原曲とする翻訳唱歌の歌詞分析『小学唱歌集』を中心として(PDFファイル)によれば、マサイアス・ケラーによって作詞作曲された“Keller`s American hymn”にオリヴァー・ヴェンデル・ホームズが新たな詩をつけたものとある。何とまあ、それによれば君が代を言祝ぐ歌曲とある。Carl Behr 氏のアップされている“ Keller's American Hymn by First Brigade Band”をリンクさせておく。

「ハーレックの人々」"Men of Harlech,"。イギリスのウェールズ地方の民謡。「ハーレック」はウェールズ北西部のトレマドック湾に面した海岸保養地として知られる地で、十三世紀、イングランド王エドワード一世によるウェールズ遠征の際、ハーレック城(ハーレフ城)がカーナーヴォン城に先行して築城されたが、本歌のそれもその城を指す。個人サイト「イギリス古城散歩」のHarlech によれば、『薔薇戦争(The Wars of the Roses)当時はランカスター(Lancaster)王家に与する貴族が籠城し、イングランドで唯一のランカスター側の城となり、勇名を馳せたが』、一四六八年に『ペンブローク(Pembroke)伯のハーバート(Herbert)が』七千の兵で『包囲し、落城させた。この時の勇者の歌が、ハーレックの勇者(Men-of-Harlech)の歌の基』で、当時、城には五十人がたて籠っていたとある。Mark Mains 氏のアップされた“Men of Harlech”をリンクさせておく。

「小坂三吉」不詳。何だか、神童小モーツアルトの、後のこと、知りたや……]

村山槐多電子化の今後の予定

今後のブログ・カテゴリ「村山槐多」は、県立三重美術館蔵の詩稿断片との校合を行った後、短歌集成にとりかかる予定である。――

死の遊び 村山槐多 /附 やぶちゃん版――定本 村山槐多第二の遺書―― 今まで我々が読んでいた彼の遺書は正確ではなかった ――

 

  死の遊び

 

死と私は遊ぶ樣になつた

靑ざめつ息はづませつ伏しまろびつつ

死と日もすがら遊びくるふ

美しい天の下に

 

私のおもちやは肺臟だ

私が大事にして居ると

死がそれをとり上げた

なかなかかへしてくれない

 

やつとかへしてくれたが

すつかりさけてぽたぽたと血が滴たる

憎らしい意地惡な死の仕業

 

それでもまだ死と私はあそぶ

私のおもちやを彼はまたとろうとする

憎らしいが仲よしの死が

 

 

[やぶちゃん注:「全集」の「詩」パートの掉尾である。クレジットはないが、確かに掉尾に置くに相応しく、恐らくは現存する槐多の詩篇の内で最も末期の眼に近いものと言ってよい。

「ぽたぽたと」「全集」は「ぼたぼたと」とする(諸本、皆「ぼたぼたと」)。底本は画像を拡大すると、「ぽたぽた」の前方は濁点か半濁点かは植字が擦れ潰れて判読出来ないが、後半は明確に「ぽた」と打ってある。「ぼたぽた」もあり得ないとは言えないが、私はこれはここのオノマトペとしては半濁音「ぽたぽた」が相応しいと感じるものである。大方の御批判を俟つ。

「とろうとする」はママ。

   §

 まず、草野心平「村山槐多」の年譜の没年大正八(一八一九)年の頭の部分を引く。

   《引用開始》

 一月、午前中は日本美術院の研究所でモデルを描き、午後は写生と自室での制作に没頭する。不規則な食生活、痛飲が続く。

 二月、第五回日本美術院試作展覧会(一日から十日、上野竹之台陳列館)に「松と榎」「雪の次の日」「松の群」「自画像」「松と家」「大島風景」「某侯爵邸遠望」「代々木の一部」を出品する。美術院賞乙賞受賞(奨励賞を改めた美術院賞は甲乙二賞が与えられた)。

 七日、第二の遺書を書く。

 十四日の夜、前日からの風邪を拗らせ寝込む。流行性感冒であった。

 十五日、山崎省三の友人の医者に応診を依頼する(肋膜が悪化)。小雪が霙になり、そして雨になり、曇ったり降ったりの天気が続く。

   《引用終了》

ここに出る『第二の遺書』は以前全集」電子化が、今回ここでは大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「感想斷片」パートで初めて日の目を見たそれをゼロから、以下に再電子化して示す。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

       第二の遺書

 

 神に捧ぐる一九一九年二月七日の、いのりの言葉。

 私はいま、私の家へ行つて歸つて來たところなのです。牛込から代々木までの夜道を、夢遊病者の樣にかへつて來たとこです。

 私は今夜また血族に對する強い宿命的な、うらみ、かなしみ、あゝどうすることも出來ないいら立たしさを新に感じて來たのです。其の感じが私の炭酸を滿たしたのです。(中略)

 あゝすべては虐げられてしまつたのだと私は思ひました。何度か、もうおそらく百度くらゐ思つた同じことをまた思ひました。

 親子の愛程はつきりと強い愛はありましようか、その當然すぎる珍しからぬ愛でさへ私たちの家ではもう見られないのです。何といふさびしい事でしよう。

 しかも、とりわけて最もさびしい事は其の愛が私自身の心から最も早く消えさつてゐることなのです。私は母の冷淡さをなじつても、心に氷河のながれが私の心の底であざわらつてゐることを感ぜずには居られませんでした。私がかく母をなじり、流行性感冐の恐ろしさを説き、弟の手當を説いたかなりにパウシヨラケートな言葉も實は、私の愛に少しも根ざしてはゐないのでした。それどころか、恐ろしい、みにくい、利己の心が、たしかに其の言葉を言はせたのです。眞に弟を思つたのではないのです。私はたゞたゞ私自身の生活の自由と調和とが家庭の不幸弟の病氣等に依つてさまたげられこわれんことを恐れて居るのです。弟の病氣が重くなつては私の世界が暗くなるからなのです。

 ああ眞に弟を思ひその幸福のためにいのつてやる貴いうつくしい愛はどこへ行つたのでしよう。またはいつ落としてしまつたのでしよう。其れはとにかくない物なのだ。私の心のみか、私の家の中にはどこにもないものなのだ。何たるさびしさでしよう。私は母をなじつて昂奮して外へ飛び出し、牛込から乘つた山の手電車の入口につかまつてほんとに泣きました。涙がにじみ出ました、ほんとです。ほんとです。このさびしさが泣かずにゐられましようか。私は泣きました。愛のない家庭といふ世にもみにくい家庭が私のかゝり場所かと思つて。それよりも私を、このみにくい私を、何たる血族だらう。このざまは何だらう。虐げられてしまつたのだ。すつかり虐げられてしまつたのです。もとはこれではなかつた。少なくとも私の少年時代は。

 神さま、私はもうこのみにくさにつかれました。

 涙はかれました。私をこのみにくさから離して下さいまし。地獄の暗に私を投げ入れて下さいまし。死を心からお願いするのです。

 神さま、ほんとです。いつでも私をおめし下さいまし。愛のない生がいまの私のすべてゞす。私には愛の泉が涸れてしまひました、ああ私の心は愛の廢園です。何といふさびしさ。

 こんなさびしい生がありましようか。私はこの血に根ざしたさびしさに殺されます。私はもう影です。生きた屍です。神よ、一刻も早く私をめして下ださいまし。私を死の黑布でかくして下ださいまし。そして地獄の暗の中に、かくして置て下さいまし。どんな苦をも受けます。たゞ愛のない血族の一人としての私を決してふたゝび、ふたゝびこの世へお出しにならない樣に。

 私はもう決心しました。明日から先はもう冥土の旅だと考へました。

 神よ、私は死を恐れません。恐れぬばかりか慕ふのです。たゞ神さまのみ心に逆らつて自殺する事はいたしません。

 神よ、み心のまゝに私を、このみにくき者を、この世の苦るしい涙からすくひ玉はんことを。

 くらいくらい他界へ。(右は槐多が病床に就く數日前死に先立つこと十三日前の手記である――編者)

 

   *

 以下、半ば啞然、半ば憤激を以って以上の〈槐多第二の遺書〉に注する

「(中略)」明らかに槐多の友人であった編者山本路郎(本名・山本二郎。くどいが、槐多の縁戚の全集編者山本太郎氏とは血縁関係は全くない)氏が何かを憚って省略したことを意味している。即ち、ここに示された〈槐多第二の遺書〉は完全なものではないことを山本路郎氏ははっきりときっぱりと示しておられるのである。――ところが!――驚くべきことに!――この中略指示は――現在我々が見ることの出来る如何なる〈槐多第二の遺書〉からも――抹消されている――のである!

「強い愛はありましようか」の「しようか」はママ。以下の「しよう」も同じであるので、この注は略す。

「パウシヨラケート」“passional”・“passionary”・“passionate”を混用した造語(或い誤用)と思われる。激発的憤激的なといったニュアンスを強く持った感情的な、という意味であろう。

「こわれん」はママ。

「一刻も早く私をめして下ださいまし」及び「かくして置て下さいまし」(「置て」もママ)の二箇所の「下ださい」はママ。

「たゞ愛のない血族の一人としての私を決してふたゝび、ふたゝびこの世へお出しにならない樣に。」平成五(一九九三)年彌生書房刊の「増補版 村山槐多全集」ではここが、「たゞ愛のない血族の一人としての私を決心してふたび、ふたびこの世へお出しにならない様に。」となっている(「決心して」と、「ふたゝび」・「ふたたび」の違いに着目)。これは一体、どいういうことか?! しかも同じ編者の「世界の詩 村山槐多詩集」(一九八〇年版)では「決して」と正しく示されているのに、である! 

「苦るしい涙から」の「苦るしい」はママ。

「 くらいくらい他界へ。」この改行はママである。最後に駄目押しで槐多に代わって怒っておく!――最後に――またしても! である!――現在、我々の見る〈槐多第二の遺書〉ではすべて(!)この「くらいくらい他界へ。」は改行せず、「神よ、み心のまゝに私を、このみにくき者を、この世の苦るしい涙からすくひ玉はんことを。くらいくらい他界へ。」と前の行の末尾にくっついているのである!

 以下、怒りを抑えられないものの、どうしても彌生書房版全集の年譜から槐多の最期は引かさせてもらうしかない。その山本太郎氏の文章には他の追従を許さない確かな強烈な臨場感があるからである。

 二月の条。二月の初旬には第二の遺書に見るように、実家との関係が致命的に悪化し、『鐘下山房の火の気のない部屋に槐多は寝ていた。訪ねてきた友人には風邪だといった。隙間風が新聞紙をふるわせていた。槐多のふとんには殆ど綿というものがなかった。「あんまり寒いから来月金が入ったらワラでも買って戸棚のなかで寝るか」と槐多は笑っていた。近所の納豆売の婆さんが視多の面倒をみることになった』。『雪や雨の多い月であった』。槐多の友人らは病状の悪化した槐多のために、『小杉氏や山本鼎のところにカンパにでかけ』たりした。

   《引用開始》

二月一八日 夜、酒仲間の大工の正さんが塊多の友人山本路郎のところにかけこんできた。槐多が飛び出していなくなった、というのだ。外は嵐だった。雪まじりの雨が激しく、電線がきれ、くらやみだった。提灯をつけ家のまわりをさがした。山崎省三もきた、雑木林のなかも探した、槐多の家の雨戸は外れ、夜具はひきさかれていた。牛込の槐多の両親へ急をしらせると、母と小さい妹は風邪でねていた。夜二時頃、草叢のなかでうめき声がするのを山崎省三が発見した。泥をぬぐい着物をきせかえると槐多はまた外へとびだそうとする。夜があけた。牛込から母もやってきた。医者は「夕方までもつまい」と帰っていった。槐多は時々眼をさまし、「家へ帰りたい」といった。「鐘下山房」にねかすと、槐多は「お母さん僕はもう京都へ帰って来たのですか」などといった。

一九日 夕方医者が注射をうちにきた。槐多はうわごとをいいはじめた。中学時代の美少年や、お玉さんの名を口にした。「柿の樹七本、松三本」(近所のけしきで彼が描きたかった場所の一つだ)とか、面白い曲線と直線の画法のことなどをくちばしった。

二〇日 午前二時、槐多は「白いコスモス」「飛行船のものうき光」という謎めいた数語をのこしてついに死んだ。満二十二才五ケ月。

 石井鶴三によってデス・マスクがとられた。桐ケ谷の火葬場へ旅先から父もいそいで帰ってきていた。骨壺を友人の今関啓司が「僕がもちます」と父の手から奪いとった。

   《引用終了》

死因は流行性感冒による結核性肺炎とされる。

 これ以降の部分は草野心平「村山槐多」の年譜から引く(意識的に逝去記事をダブらせた)。

   《引用開始》

 二十日、午前二時三十分死去する。

 同日夜、通夜が取り行なわれる。母たま、弟桂次、山本鼎、小杉未醒、山崎省三ら親友達、日本美術院院友ら三十余名が列席。石井鶴三によってデスマスクが採られる。

 二十一日、桐ケ谷村の茶毘所(現在の桐ケ谷火葬場)で茶毘に付され、仮葬儀が営まれる。その晩、一同への労らいの晩餐会が、槐多名残の代々木の八幡館で行なわれる。

 二十八日、谷中の巧徳林寺で本葬儀が営まれ、同墓地に仮埋葬される。

 十一月、村山塊多遺作展(十一日から三十日、兜屋画堂)が開催される。油絵二十四点、水彩画七点、素描四十二点が出品される。遺作展の初日、兜屋画堂主人野島熙正の主催で追悼会が同会場において行なわれる。友人達の他、山本鼎、小杉未醒、森田恒友、黒田清輝、瀧田樗陰、石井柏亭、林倭衛らが出席する。

 

 大正九年(一九二〇)

 六月、『槐多の歌へる』(アルス社)が出版される(千余枚の遺稿を山崎省三が中心になって纏める)。出版記念会が萬世橋の〝みかど″で開かれ、文壇から芥川龍之介、川路柳虹、竹友藻風、畑耕一らが出席する。

 十月、友人達の手により、雑司ケ谷の村山家の墓地に巧徳林寺から遺骨を移し、墓石(有島武郎が買い取ってくれた「カンナと少女」の代金百円で、雑司ケ谷の石屋に依頼し、自然石に〝槐多墓″と刻ませたもの)が置かれる。謚号「清光院浄譽槐多居士」(昭和三十七年建立の村山家の墓石より)。

   《引用終了》

 因みに、荒波氏の「火だるま槐多」によれば、「みかど」での出版記念会は七月のことである。芥川龍之介はこれとは別に、田端自笑軒での槐多の偲ぶ会がにも出席している。そこに参会したのは水木伸一(田端で槐多と共同生活をした経験のある青年画家)・「槐多の歌へる」の出版社アルス社社長北原鉄雄・槐多の従兄弟洋画家山本鼎・鉄雄の兄北原白秋(なお且つ山本鼎の夫人は白秋と鉄雄の妹である)で純粋な客は水木と芥川龍之介だけであった。水木の回想によれば、龍之介は静かに夜が更けてゆく中、「無言で本のみを黙読していた」という。芥川龍之介は村山槐多と面識はなかったが、槐多る」推薦文もい(リンク先は私の電子テクスト。因みに龍之介は槐多より四歳年上であった)。芥川龍之介と村山槐多――その精神の交合……龍之介は槐多に――何を――見たのだろう……龍之介の自死はこの八年後のことである……]

2015/07/20

太古の舞姫 村山槐多 / 村山槐多詩篇電子化終了

これを以って、現在知られる村山槐多の詩篇に類するものはほぼ電子化注を完了したものと思われる。――残す一篇は明日にしよう――



  太古の舞姫

 

 或時自分はふと考へた。自分が此邑に住居を定めてから、何年經つた事になるだらう。自分は知らなかつた。

 そこで村民に尋ねて見た。高麗人の如く又銅像の如き一種神聖な、ぼんやりした容貌を有つた此村の民の一人に尋ねて見た。恰度この村民は奇怪な形をした農具を以て粗い田んぼをたがやして居る處であつた。

「お前は俺が何年此村にゐるのだか覺えてゐるか」

其農夫は自分の顏を見て禮をなして大聲に答へた。

「へえ、だんな、曇つた日では御座りませぬか」

 自分は驚いて其顏を見つめた。此農夫は俺を馬鹿にしたな。そこで自分はじつとその男を睨みつけた。

 その男は非常に驚いて自分を見つめて居た。その口は、恐怖に痙攣し、その眼はまたゝきもせず日輪の如く圓く大きかつた。自分は長い間この哀れな男を見つめて居た。成程曇つた日であつた。

 美くしい、かなしい、晝の靄がすつかり四方にかゝつて北の方に見える村の屋根は靑く輝きそのかなたに眞黑な金銅石の樣な山がそびえて居た。かくて二人化石した睨み合ひは私の突然の發聲にさまされた。

「はつはつは。お前は耳が遠かつた」

 此時この男は自分の口の動きを見てとつて叫んだ。

「だんな冷たい日では御座いませんか」

「さうぢや」

 私は大きく叫んだ。そして其男の石のわれ目の如く冷たく黑き耳穴に口を近づけて叫んだ。

「お前俺は何年此村に住んで居るのだ」

 男は甚だしく驚いた樣であつた。

 彼は遠い遠いまるで山麓の洞穴の奧で山頂の山犬のうなりを聞く樣な、又水中で打鳴らす樣な美しいさびた聲で叫んだ。

「だんなは、三千五百八十年此村に住んで御座る」

 男は此言葉を言ひ終ると一所にべたつと伏した。

 自分はおやと思つたが、此心配は空しかつた。男はもはや田の耕作を繼續して居た。狂氣の如く眼赤き牛は、濘猛なるうなりを上げ土塊は、はね上つて居る。自分は其男の肩が、駱駝の如く背むしであるのに氣がついた。しかし、何より自分は此男の此返答に戰慄した。

 そして激しい悲哀を感じつゝ自分の家にたどり着いた。

 自分の家の床は地を離るゝ事四尺である。自分が段々を上つて戸を開けた時中は暗黑であつた。そして中央の爐の中に、眞赤の火焰が一溜りゆらいで居た。

 自分はその火焰に手をかざして坐した。

 そして沈思した時に狂的な念が自分の頭の中で靜かに淋しく、何の音響をも立てず、それて居て石斧で切るが如き苦悶の叫びを上げるのを感じた。

 そして無窮の苦痛が一千年間の後ふと蘇生して更に一千年間の後に新らしからんが如くに感じた。

「三千五百八十年」自分はつぶやいた。

 火焰熱帶の惡神の舌の如くに奇異なる形をなして暗の中に一の薄明りをもたらした。自分はその薄明りをじつと眺めてゐた。然しその薄明りは悲哀の極であつた。心なき貧者が一千年間海岸の岩石の下に埋まつ居た。小舟を掘り出して燃す時の明に神祕なる煙りであらうと思はるゝ樣な此血色をした薄明りは全く永劫の悲哀であつた。

「この火焰は地軸から上つて居る」

 私は然しその淋しい小さい火焰と薄明りとを、じつと見つめて居た。

 私の眼には涙がみなぎつて居た。その涙は一千年前に死火山の腹から轉がり落ちた、重たいとび色の石を一千年間濕らし續けるに全たく充分であつた。

 更にその岩は今も尚落ちて居るであらう。その岩の落ちてある處に黑い薄い衣をまとうた女が瘦せこけて海の方を眺めてゐる。その女は風が吹くと骨も肉もない唯衣ばかりになつてひらひらとほの黑く舞ひ遊ぶ。その女の眼に寫る海の沖合の水の如き涙であつた。その海には一千年間雨と雪と、あられと、雹とが降らなかつた。水量が一厘も增さず一厘も減らなかつた。かかる類の古い涙が自分の眼に上り自分の眼はその涙に耽つた。

 自分は苦痛に耐へられなかつた。身體は冷めたく冷えた癖に腦は常世國の如く、熱帶性の蒸氣に閉されて居た。

 しかも外には日はかくれて居るのだらう。

 自分はまた、火焰を見つめて居た。この火は不思議な事には絶ゆる時がなかつた。永遠の火、永遠の薄明りであつた。

 自分はこの空氣の如き火を見つめて居て何年經つたらう。一千年も見つめて居たがまだ自分は倦む事を知らなかつた。火も絶ゆる時がなかつた。

 この火は全然悲哀の極みであつた。此火の前で此火のもたらす古びし薄明の助けに依りおぼろげながら、自分は、二千五百八十年の凡なる自分の行跡をたどり行つた。

 之は此村の生活であつた。此美くしい、悲しい歷史の火は自分の長々しい沈思愛玩中常に永久に變らなかつた。

 其後自分は立上つた。その時自分の心には苦痛が洪水の如く增大して肉は痛み傷ついて步行にも困難であつた。自分の眼は眞珠の如く深海の美を藏し、自分の皮膚は、鰐魚の皮の如く怖ろしかつた。

 自分は步いた、歩いて外へ出た、自分の家の床は大地より四尺高かつた。故に自分は段々を下りた。かくて自分は村を通つた。其時は最早日沒、自分の悲慘なる追憶は、二千五百年間を逆か上つて、二千五百八十年目にまで達して居たのであつた。

 此追憶を私は語る事は出來ぬ、それは伊布夜坂の如く世界と靈魂との境であるから自分はしかしこの日沒後遂に、二千五百八十年の最古の追憶に於て最も親しむ可き者の現存する場所を發見した。自分はそれでその場所を目的として步いたのである。

 自分が此村を過ぎた時、村民が九十九人出て來て自分に禮をした。おうそれが此村の全人數だつた。その中にはさきの、かの耳遠き男も居た。そして是等の九十九人の者共の中九十八人の眼玉は星の如くきらびやかに輝やいた。

 自分は是等の星の銀光の中を通過した時、こゝは天だなと思つた、それで一番あとに殘つた村長に訊いて見た。

 然し此の自分の出發した村は天の本體ではなかつた。

 天の如く超空氣の形を備へたものではなかつた。然し自分が、これからの道程は殆んど天であつた。其處には、N(窒素)及びO(酸素)の四容積及び一容積を以て組成されたる空氣は全然なかつた。自分は殆んどO(酸素)のみの中を突進したのである。

 古のギリシアの哲人が考へた如く、もし人間の體中が火焰を以て滿たされてあるのであつたならば、自分は殆んど爆發したのである。

 ああ、然し自分が村を離れた時、不思議にも曇れる田んぼの果てには一箇の月輪が上つたのである。

 此月は、不思議にも美なる、泣澤女命の眼の如き月であつた。

 此月が與ふる光は鋭どく細かに、方解石の大塊の如く、圍りに靑銀の怪しき、月しろを有つて居た。

 この月は少しく缺けて居た。自分はその月の方角に向つて進んだ。自分は冷たき潮流に、逆する大船の如く壯大なる考へが木綿を突破して風の走るが如く、苦しみ、悲しみを浸飾する樣な感じを、眼と腦との連絡に有つた。そして震へた。

 銀の繊維は顫動した。此顫動のうちに自分は八十里來た。時に、自分はいつしか峨々たる山嶽を上つて行つた。自分は月の姿を逸した。

 自分はかくてその山頂に立つた。此山には草木が一本も無かつた。誰が泣き枯したのであらう。それは或は、素戔雄命では無からうか。

 自分はまづ、自分の來し方を顧りみてみた。恐るべき哉、月はかくれて暗黑何物をも辨ぜぬ。自分は暗黑を拔く事、果して何尺の位置にあるであらう。

 山は實に暗黑に見えた、そしてその中に電光の如く灰白の岩石が明滅した。

 自分は再び前方を見下さねばならぬ。

 自分は、ゴルゴンの首を睨む想ひを以て冷めたき下界に對した。

 ああ、自分の前方には自分の場所があつた。

 此山の頂き卽ち、自分の立脚點は、はからざりき、大世界、有數の大絶壁の、頂きをなして居るのであつた。自分は恐怖に打たれた。見下した、はるかの下界に、暗夜にも拘らず、明に大なる圓形の湖水が見えた。その湖水は、幽靈族の神器の一たる神鏡の如く圓かつた。そして、そが有する透明は、神の荒魂を寫す樣な透明であつた。

 實に人間と、精靈界との區別をつける『恐怖』が象徴化された樣な透明を以て、それは實に靜に九萬九千九百立方尺以上の暗黑を透して輝いた湖水であつた。

 この湖水は此湖に急轉直下せる大絶壁を以て圍まれた物であつた。東西南北よりぶつかつた大山系の精の飮料水を貯へた物である。卽ち大井戸の底をなして居るのである。此外輪をなして居る大絶壁山はすべて火山性の彫刻的外觀を持つた山であつた。恐怖と暗影多き山であつた。

 月は存在すれど、曇つたために見えざる、怪しき假面の夜の暗黑は冷めたく大きく此外輪山にこもつて、其の最深處をアイヌの藝術の如くに點々と作つて居た。自分は月世界の寒風に立つた形であつた。自分の面には鉛色の産毛が凄然と一定の方向に向つて直立した。

 而して、全身は冷たかつた。自分は心臟の鼓動の如く戰慄した。而かし苦痛は心の底に引とつて愉快なる哀歌が心底をくつがへして起つた。自分は何時迄も大井戸の一のふちに立つて千丈の底なる、輝く湖水を見つめて居やうと考へた。

 が自分の大なる疑ひを何うするのだ。二千五百八十年の追憶は再び、コンドル、の如く、嶮しき凝視を續けて居る。

 自分はこの暗黑の大絶壁を是よりかの深處の水に下らねばなるまい。

 自分は凍つた手と足とをこの丑寅の奇蹟に掛けて下つて行つた。自分は足場足場を求めて下つて行つた。外氣は追々と神祕になつて行く。向ふ側の大絶壁の高さは異常に增して行く事がわかる。自分は殆んど、一千尺、も下つた時、恐る可き械會は自分の足を踏み外さしめた。

「ああ」此叫びは烈風の如くに自分を濘猛なる速度で以て湖上へ投げ込んだ。

 自分は斧と共に、パーシユースの靴に乘つた如く感じた。如何なる音響が水けむりに伴つたか、自分は槍の如く眞逆樣に水中に突入した。

 自分は大なる、うなり、と共に眼をみはつた時すでに自分は浮き上り行くのであつた。

 非常なる水の冷めたさ、更に自分を驚嘆せしめる事は水中は天の如く暗黑ではないのだ。

 幾千個のプリズム、レンズ、或は有史時代、幾萬年の努力が到達するであらう處の永劫の白晝は實に大なる層をなしたる透明に輝き、實に冷たく自分を呑んで居る。冷たさは非常だ。

 自分が浮き上るに要した時間は、此湖水の透明にして深き事は、身の毛もよだつものであつた。此湖水はどこを測つても、マンモス象の牙の沒するはおろか月をも沒するであらうと思はるゝ。しかも自分は泳ぎながら顏を水面につけたならば、夜に拘らず底の光景を明かに看取し得るのである。そして黑く長く滑らかなる石造の魚がかなしげに遊泳する處が見えるのである。此魚の動くのを見た時自分は惡魚を恐れはじめた。

 而して、その恐怖は『陸― 陸―』と自分に向つて絶叫した。

 自分は無暗にこの燐光の水の中を進んだ。自分の體には何時の間にか氷が張り氷柱が自分の脇に垂れて居る。此つらら、は鐵或は惡しき運命の如く重く自分を引いた。

 而かも程なく自分は唯一の上り得可き箇所を見つけた。そして這ひ上つた。

「ああ、俺の知覺神經は、大きくなつたぞ、ああ、胸は、二千五百八十年の俺の原始に返つた。」

 自分は氷をはがし氷柱を脇からはなした。どうも神祕な氷である。涙は心から傳つた。自分は神を念じた。其神は今雲間に居るのである。自分は不可思議なる、靈的運命の爲めに此不幸、或は幽幻なる湖岸にはるかに小さく慄へて居るのである。 (未完成)

 

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、クレジット・書誌情報なき擬似叙事的散文詩(伝奇小説の断片のようにも見える)。前の「電氣燈の感覺(徵けき夢の中より)」とは何か高い親和性が感じられるように思う。末尾にある『(未完成)』は入れ方から見て、編者のものではなく、槐多自身の書入れのように見える。太字は底本では傍点「ヽ」、太字下線は傍点「○」である。槐多の作品中でも私のすこぶる偏愛する一篇である。まさに文字通り、その天馬空を翔けるが如き、イリュージョンをどうか!

「かくて二人化石した睨み合ひは私の突然の發聲にさまされた」は「全集」では「かくて二人の化石した睨み合ひは私の突然の發聲にさまされた」となっている。

「三千五百八十年」はママ。「全集」は「二千五百八十年」に訂する(但し、次注参照)神武天皇即位紀元で「二千五百八十年」は西暦一九二〇年である。……因みに……槐多が死んだのは大正八(一九一九)年で――彼が雑司ヶ谷墓地に仮埋葬されたのは大正八(一九一九)年六月――であった……

『「三千五百八十年」自分はつぶやいた』ここは「全集」も同じで「三千五百八十年」のままである。因みに、神武天皇即位紀元で「三千五百八十年」は西暦二九二〇年である。……今年二〇一五年から何と九百五年後である……

「濘猛なるうなりを上げ」はママ。私は「獰猛」の誤字か誤植と思うが(通字ではない)、「全集」も珍しく「濘猛」のままであるので、例外的にママとした。ところが後でもう一回出る「濘猛」方は「全集」は「獰猛」と訂しているのである。何だか「全集」のやっている校訂が私にはよくわからない。阿呆臭いので後の方はもうこの注を略す。

「四尺」一・二メートル。

「全たく」はママ。「全集」も訂せず。

「自分は、二千五百八十年の凡なる自分の行跡をたどり行つた」ここ以降、ご覧の通り、「二千五百八十年」となっている。

「此追憶を私は語る事は出來ぬ、それは伊布夜坂の如く世界と靈魂との境であるから自分はしかしこの日沒後遂に、二千五百八十年の最古の追憶に於て最も親しむ可き者の現存する場所を發見した。」「全集」は「此追憶を私は語る事は出來ぬ、それは伊布夜坂の如く世界と靈魂との境であるから。自分はしかしこの日沒後遂に、二千五百八十年の最古の追憶に於て最も親しむ可き者の現存する場所を發見した。」と句点を打つ。「伊布夜坂」は日本神話に於ける死者の国である黄泉国と現世界の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の別名とされる。

「そして是等の九十九人の者共の中九十八人の眼玉は星の如くきらびやかに輝やいた」の「中」は底本では「百」である。これは明らかに意味が通じない。「全集」は「中」とする。ここは単純な誤植と断じ、例外的に「全集」を採用した。但し、この「星の如くきらびやかに輝やい」ていない一人は如何なる存在なのかは、文脈では遂に明らかにされない。一種の神への生贄とするために眼を潰した一年神主であろうか? 識者の御教授を乞うものではある

「古のギリシアの哲人が考へた如く、もし人間の體中が火焰を以て滿たされてあるのであつたなら」変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴とした万物流転説(パンタ・レイ) で知られるギリシアの自然哲学者ヘラクレイトスの生命観を指すか。ウィキの「ヘラクレイトス」に彼は、『燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると』考えたとある。

「泣澤女命」「なきさはめのみこと(なきさはめみこと)」或いは「なきさはめ(なきさはめ)」と訓じているか。ウィキの「ナキサワメ」に、『日本神話に登場する神。『古事記』では泣沢女神、『日本書紀』では啼沢女命と表記され、哭沢女命とも書かれる』。『神産みの段で、妻のイザナミを亡くし、その遺体にすがって泣いたイザナギの涙から化生した女神。泉の湧き水の精霊神とされる』。『神名の「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は泣く様子の形容である。「メ」とあるので女神である』。『『古事記』では「香山(かぐやま)の畝尾の木の下に坐す神」と記される。『延喜式神名帳』には畝尾都多本神社(奈良県橿原市木之本町に現存。通称「哭沢神社」)が記載されており、啼沢女命が祀られている』とある。

「月しろ」月白・月代と書き、本来は月の出の直前に東の空が有意に白んで明るく見えることを言うが、ここでは出た月の持っている尋常ならざる妖しい輝きを言っているらしい。

「八十里」三百十四キロメートル。

「此山には草木が一本も無かつた。誰が泣き枯したのであらう。それは或は、素戔雄命では無からうか」「古事記」で、素戔雄命(すさのをのみこと)が「夜の食国」(よるのおすくに)或いは海原を治めるよう、父イサナキより命ぜられたにも拘わらず、母イサナミの死を子どものように嘆き悲しみ続けたあまり、「八拳須心前(やつかひげむねのさき)に至るまで啼きいさちき」、長い鬚が胸に垂れるほどの立派な青年となっても泣いてばかりいて、彼がかく泣き続けために、「靑山(あをやま)は枯山(からやま)の如く泣き枯らし、河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾しき。 是(ここ)を以ちて惡しき神の聲は、狹蠅如(さばへな)す皆滿(みなみ)ち、萬(よろづ)の物の妖(わざわひ)悉(ことごと)に發(おこ)りき」、緑なす山はすっかり枯れ木の山ようにな――るまで泣き枯らす――ほど、川や海は悉く泣くことに使い果たして――その水を皆、乾し上げてしまった――ほど。かくして遂に、その悪しき神と化したそのおぞましき声は、夏の蠅のようにわんわんと世に充ち満ちて、ありとある、まがまがしき禍いが悉く起こった、とあるのを受けるものである。……スサノヲはまさに槐多そのもの、淋しがり屋の孤独な荒ぶる神である。……

「自分はまづ、自分の來し方を顧りみてみた」「全集」は「自分はまづ、自分の來し方を顧りみていた」となっている。頗る不審である。

「はからざりき」「全集」は「はかりざりき」となっている。頗る不審である。

「自分は恐怖に打たれた」底本は「自分の恐怖に打たれた」。誤植と断じ、「全集」に従い、例外的に「は」と訂した。

「九萬九千九百立方尺」単純換算すると、二万九千九百七十立方メートル。

「アイヌの藝術」恐らくはアイヌ文様、特に「モレウ」と呼ばれる渦巻き(川の流れの渦や流氷・風・木々に絡まる蔓から発想されたという)の曲線模様をイメージしているように私には思われる。

「千丈」三千メートル。

「見つめて居やう」はママ。

「丑寅の奇蹟」鬼門即ち最惡絶対の凶の状況の中にあって生ずるところの奇蹟的な展開の謂いであろう。

「一千尺」三百三メートル。

「パーシユースの靴」ペルセウス(Perseus)がゴルゴーン三姉妹の一人メドゥーサの首を獲るために身につけたものの一つである、ヘルメースの空を飛翔出来る翼の生えた黄金のサンダル「タラリア」のこと。]

電氣燈の感覺(徴けき夢の中より)   村山槐多 ――「全集」の驚くべき無視について――

 

  電氣燈の感覺

     (徴けき夢の中より)

 

 自分は、或る古い日の晝、嶮しき山嶽を攀じ其の頂に立つた。

 そはもはや消え渡る冬の名殘の懷かしさを、中央に都を有せる國と、中央に湖を有せる國との、一つは快活なる、一つは靜寂なる兩風景の上にのぞみ見む爲めであつた。

 自分は輝ける淋しき雲の上に立つた。

 何たる事ぞ、曇つた雨雲が天を閉して殆んど天の中心に近きこの山頂では、下界を見る事が出來ないのである。

 自分は痛く失望した。而して冷めたい感覺を底の底まで眼の當り見た。而して顫へた。

 忽然、自分は眼球が或角度をなした兩線の間を突進するが如く、漸々と壓迫を受けて來た事を感じた。忽ち眼前に出現したのは一人の女であつた。

 其の女の美しきことよ。

 この女はギリシャの星座圖に記るされたる神の名の一つを有して居る者と思はれる位に神聖であつた。其の眼は薄暮の如く靑かつた。

 其の鼻は瘦せて方解石の如くとがつてゐた。

 而して其の面は全く灰白であつた。月光の如き胴と、星光の如き四肢とは、身慄ひもしなかつた。大聲で、ラツパの如く叫んだ時、自分は戰慄した。

「少年よ我が後に從ひ來れ」

 忽ち一條の銀色に輝いた金屬の線が、魔者の如く自分にからみついた。其れと共に自分の四肢は、痛烈なる痙攣を始めた。

 自分は其の時、自己の腦にない事を呟やいた。

 次の刹那には驚く可し。自分は丈高きこの怪女の後に從いて、この山嶽の壁上の如き背を眞しぐらに走り下りつゝあつた。

 自分は爽快に耐へなかつた。この走り下る速力の中に自分の心にはこの女の心が、ありありとうつり行くのである。

 第一に自分の心に現れたのは、刄先の如く危なく、寶石の如く透明なる綠靑であつた。この透明なる綠靑は實に美しい立派な色であつた。この色は秋の大空の如く上から下へ薄くなつてゐた。そして、微細なる局部の運動が靈の如く、宏大なる全體をぱちぱちときらめかしく輝かして見せた。

 そのぱちぱちと輝く綠靑の中に、自分が第二に、千二百十一人の瘦せた、若人が、ヱヂプト浮彫の或箇所の如く、一齊に北から南へ向けて走つた其の一刹那の偉觀を見た時、再び千二百十一人の若人が氷の如く冷めたき、眼を光らせて一齊に南から北へ向けて走らんとするのを見た、其時自分はすでに、此の山嶽を下り終りて、尚麓から眞しぐらに、都のある國の中央へとかけてゐたのである。

 女の心は忽ち私の心に現れた。

「一層速く、速く、速く」

 私の胸は再び空中より落下する空中飛行家の神經の如く、恐怖の絶對に快きまで戰慄した。實に爽快である。

 自分の眼は前を行く女が、永久に一秒毎に微塵を破碎し行くが如く輝く白衣を見つめるのみであつた。

 而して一寸空が眼に入つた。

 怪しき哉そは、晴れし日の薄暮の色をなして、星がぱちぱちと輝やいてゐた。

 自分は一秒と八分毎に大なる痙攣にどきついた。かくて投槍に靈をひそめたる次の刹那女は立ちどまつた。自分の身に纏つた金屬線が悲壯な落下の音響を地面に發した時、自分の耳は悦びの地震を超した。

 恐る可し。女の消えたことに氣が附いた。

 更に驚く可し。自分の前に、擴大鏡で見たるダイヤモンドの如き一個の電燈がともつてゐたのである。

 美しい美しい電燈が銀と靑色との永劫の晝を、ぱちぱちと、玻璃の牢屋より自分に見せてゐた。

 自分は、ふと、がつかりした眼でじつと其れを見つめた其時冬の夜は身を暗中に折る樣に悲壯にこの低き都に下つてゐた。

 そして街は、北から南、西から東へかけて更に神祕なる銀白色に、きらびやかに輝いてゐた、而して北の方を見れば黑き山嶽の陰は自然の夜の冷笑を天の中心に近く落ち着けてこつちを向いてゐた。

 

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、クレジット・書誌情報なき散文詩(幻想小説の断片ともとれる)。私は妙に次の「太古の舞姫」と本編は親和性を感じてしまうのは、単に続けて読んだからだろうか。そして、どうしても言っておかねばならないことがある。それは、底本の大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」では、この詩篇の末尾に、編者によって以下の附記があることである。

   《引用開始》

(此の一文は自家に初めて電燈を引用した時、書いたものであつた。編者)

   《引用終了》

これは彌生書房版全集ではカットされており、しかも全集編者山本太郎氏は注はおろか、解題でもこの槐多の親友であった山本路郎(本名・山本二郎/同じ山本姓であるが、全く血縁関係はない)氏のこの貴重な言葉を全く載せていないという事実である。これはどういうことか? 幻想伝奇小説のように見えるこの一篇が、実は、電燈の明かりを初めて自分の家に引いて、その煌々たる明るさに心から感激した少年槐多が、そこからインスピレーションを得て創造した貴重なイリュージョンであったのだと、九分九厘、本人が山本二郎氏に語ったに違いないことは、この特異点の注からも明らかであることは言を俟たぬ。 それをかくも美事に抹消してしまった山本太郎氏の行為は、私には全く以って理解も納得も出来ない、すこぶる解せないことなのである。大方の識者の御批判を俟つものではある。

「この怪女の後に從いて」の「從いて」はママ。]

レオナルドに告ぐる辭 【★1913年パートへの差し込み追加分】

 
 
  レオナルドに告ぐる辭

 

 わがレオナルドよ。

 われ君の生涯を思ふ時、常に強き革、我が身體を縛するなり。そは君は友なればなり。我も亦君と同じ道を歩むものにてあればなり。君が十九才の時までに君は畫家として著名なりき。強力と其の美とに著名なりき。しかして、我は今十九才なり。我は畫家としての自己の力量に愧じるところ多し。ああ、レオナルドよ、君は我に秀れたり。されど君はすでに、わが時代の礎石に過ぎざるなり。我は今多くの君に秀れたる考を有てることを君に告ぐるなり。美と力とに於て我君に劣る、されど我は信ず、我は君に劣らざるなり。唯われは今境遇の強いたる惡しき假面を冠れり。しかるに君はよき假面を冠りたり。其の差あるのみなり。

 こゝにわれは君と同じく第十九の歳を出發せむとす。以後我は君の如く歩まむ。君の如く製作し、君の如く思考せむ、げに我は君を愛す、而して君が心事を知る。君が製作の多く完全に至らざりし所以をも知る。君が完成を告ぐる能はざりし所以のものは、しかも又我これを有せるなり。

 あゝレオナルドよ、余は君の未完成なるが故に君を愛し君を崇拜するなり。君はいさゝかの彫刻といさゝかの繪畫とを殘せり、しかも君は如何に多くの事を成したるぞ。

 君は總てを成したり。君が成したるは眞に成したるなり。其の故に今人は、君が少き藝術を享く、君が少なき藝術に驚嘆す。

而して君は微笑する。モナ・リザの如く微笑す。

ああ、彼の微笑は幾度かわが生命に喰ひ入りしぞ。彼の微笑に君の生あり。彼の微笑に人類の頂點あり、我も微笑せむ、我も微笑をもて、我生を微笑せむ。

 レオナルドよ、我は君の如く生きむ。君の如く進まむ。

 我は偉なる未完成の我を、君の如く微笑せむかな。

 

 

[やぶちゃん注:本篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では「感想」の部に入っており、実は私はこの「感想」に分類されてある六篇総てを遠い昔に電子化している。しかし、今回、これを読むと、これは明らかに散文詩である。そこで、ここに改めて全くゼロから「槐多の歌へる」を基に電子化し、ここに配することとした。その理由は第二段落目に『しかして、我は今十九才なり』と述べていることを根拠とする(大正三(一九一三)年で槐多は数え十九歳である)。本篇は「槐多の歌へる」には所収せず、本底本の続編で、翌大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「感想斷片」パートで初めて日の目を見たものである。これも国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該書の画像を底本として視認した。にしても、自らをレオナルド・ダ・ヴィンチに比肩させるとは、まず、驚くべき不遜のプライド、流石は槐多!

「強力」「きやうりよく(きょうりょく)」である。ダ・ヴィンチが力持ちだったという話は私は聴いたような聴かなかったようなではっきりしないが、ここは強力な驚くべき能力・才能の意であろう。

「愧じる」「強いたる」「少き」はママ。

「而して君は微笑する。モナ・リザの如く微笑す。」と次の「ああ、彼の微笑は……」の段落冒頭の一字空けがないのはママである。]

人の世界   村山槐多 【★1913年パートへの差し込み追加分】

  人の世界

 

 吾にとつて、世界は、吾の次の者である。吾の世界は、吾あつて始めて存在する。吾無き時吾の世界もない。主觀的に見る時は、世界は吾が領分である。吾は、吾が世界の主である。

 故に吾々は吾々の世界を自由にする權利を持つてゐる。是を如何にも變ずること意のまゝである。

  此の權利有りてこそ始めて人間は生きることが出來る。人生は此の點に生ずる。

 もし吾々が一定した世界と云ふものゝ權力内にあるとしたならば、吾々は土偶の坊でなければならない。吾々の存在の價値は勿論ないのである。今吾が、かく話せる如く、この自由權はしかしながら、人間必須のものとして吾々に附與されてゐた。そこで人間は千差萬樣の違つた世界を有つ。一つとして、同じ世界を有つてゐる者はない。

 同じ一人にして一秒の後の其の人の世界は、すでに同じでない。一地球の一秒の刹那には、地球上のすベての人は一つとして同じ世界を有つて居る者はない。そして次の一秒に於て生じた各世界は、一つとして前秒の各世界の中で同類を有つ事はない。かうやつて地球は永劫に違つた世界の止まらぬ集合となつて廻轉する。この恐ろしき不定、『唯一』の刹那に依つて、人間は生きて行かれるのである。

 而して万人の各世界の相違が、甚しければ甚しい程、万人の各世界は大きくなる、即ち似寄つた考を有つた人間が少ない程、人類全體は進歩するのである。凡人が少ない程人間は進歩するのである。何となれば、各世界の變遷の差は過去の大小に比例するからである。

 天才とは實に、大きな、奇拔な世界の所有者に他ならぬ。天才の世界の出現に依つて、各世界は急激に進歩することが出來る。何故なれば、天才の世界は過去の、非常な多量を産するからである。一天才の産出する『過去』は、凡人千人の産出する過去よりも遙かに澤山である。そして、天才は最も人として滿足し得る人である。ニユートンの世界は如何であつたか。彼の世界には色と光とが新らしく現出した。そして彼の世界の色と光とは、遂に人類全體の各世界の公約數となつたのである。レオナルド、ダ、ヴヰチも、プラトーもダルウヰンも、アランポーも、すべて彼自身の世界を創造した。そは實に他の凡人の世界と何等交渉を有たない世界を創造した。そして、彼等の世界は、逆に、人類の上に擴大した。

 彼等は最も幸福な人であつた。何となれば、彼等は世界は人のものなりと云ふ權利を最もよく用ひ得たのだから。

 して、吾々が人生の目的は何であらうか。すなはち吾々が、全然異つた世界を創造することである。成可く天才の世界に近きものを吾自ら造り出すことである。誰にも這入り得ない吾のみの庭園を自己の中に創造することである。

 此處に獨創は、吾の人生の目的となる。『獨創』こそは、賞む可き哉。

 而して近代に至つて、以上の自覺は、吾々の上に許るされた。千七百九十三年の公布は、確に其の許可の一方式である。吾々はこの幸福なる時代を、感謝しなければならない。かくて近代は實に、全然個人の時代である。『支』は此の世に全滅した。吾々は一秒毎に孤獨である。吾には唯永久の變化あるのみとなつた。

 かくて、キユービストは、幾何學の教科書の如き世界を創造した。未來派は運動の天下を創造した。

 吾は待つ、更に怪奇な、突飛な世界が續々と出現せむことを。かくして人生は進歩し、超越するのである。

 地球は人の奴僕となる時が來るのである。

(一九一三、十月廿七日夜)(中學五年當時編輯) 

        ×

 絶えず進歩し向上せよ、一切は現出にあり。現在に過去と未來と係れり。そは肉體に對する外界なり。その時を進歩し充實せしめよ。

        ×

 自分は「鐵の童子」の大體を、早くも完成しかけて居る。是に出來る丈けの彫磨を加へた上、自分の少年時代の記念物とする考だ。是をダヌンチオの岩窟の少女位の印象深きものとした。

 レルモントフの浴泉記を讀んだ。實に齒切れのいい、痛快な小説である。ベツチコリンの性質は實に嘆ず可き哉。自分は彼のメリイ姫がプリンスに相似て居る樣な氣がしてならない。

 要するに人生は、血の強大をはかることだ。

        ×

 近來は皆、おとなしく、素直に、所謂「手ざはり快き」文章を皆作る。實につまらぬことなり。

 吾人の心は決して柔順なる可からず。

 吾人の心はシヤバンヌの繪よりロダンの彫刻を欲し、ルノアール、シスレー、ピサロよりもバン・ゴツホ、ドミヱーを要求す。

 ヱツチングは石版より偉大なり。是の故に、吾人はロート・レークよりロツブスを尊敬す。是故に吾人は歌麿よりも北齋を、江戸時代よりも奈良朝を、より多く慕ふ軍人は文士より偉し。

 吾人は殺人を尊重す。殺人は人に恐怖と重量とを與ふるが故なり。アラン、ポーは殺人を描きてレフアインされたり。

        ×

 吾人は脂肪に向つて滿腔の食慾を有つ可きなり。吾人は須らく西洋人の暴力を學ばざる可からず。

 西洋人の立派さよ。

        ×

 吾人は古代を慕ふといへども、あに、本居、加茂の輩等の國學的柔弱眼を以てせむや。

 吾人は異端の異端なり。是故に我等牛を喰ふ。

        ×

 大正明治の『纖弱なるペン職人』を學ぶ勿れ。

        ×

 われ切に豪奢を思ふ

 青梅のにほひの如く

 感せまる園の日頃に

 酒精なむる豪奢を

        ×

 文章世界で大野隆德が、僕の畫に就いて何か言つた。其批評は多くの人の僕に就いて言ふと、同一軌に屬する物であつた。

 僕は一體に、批評に對して餘り心を起さぬ方であるから、微笑して見て置いた。

        ×

 人間が都市生活から享ける快樂は、他人の容貌を澤山見られると云ふことである。

        ×

 新らしく生きよ、健康の薔薇畑の中に。赤く白く生きよ。

 わが未來は輝けり、われは朝の太陽なり、新しき血と光とに溢れたり。

 あゝめざめよ、強く、海の貴き曉に。

 汝が外界は汝を賞揚せり。汝に媚せり。汝玉座に到るををしむ勿れ。

 音樂を聞け。

 人生の春の樂は汝の血管と神經とに鳴り響かずや、更に又夏の樂しさへ。

 おどれ、悦べ、

 初夏の綠と群靑との中に。

        ×

  天は汝を愛す、すべてを天にまかせよ、汝は唯『甘受』の器を捧げてあれ。

 されど死をも又甘受する事を忘るな、汝は天の子なり、苦と樂との子なり。

        ×

 汝空の如くなれ、

 汝の瞳を靑にかへせ、汝の神經を靑にかへせ、汝の愚なる心を空にせよ。

        ×

 大膽であれ

 大膽に描け

 埃及人となりて第廿世紀の日本を描け。

        ×

 決死の人の美しさを今宵知る(一九一四年六月六日)。

        ×

 屈せず進め、屈せず進め、汝に大天才の素質あり。大なる藝術汝の腦中に燃え上らむとす、汝汝の藝術に放光せよ、

 

 

[やぶちゃん注:本篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では「感想」の部に入っており、実は私はこの「感想」に分類されてある六篇総てを遠い昔に電子化している。しかし、今回、これを読むと、これはアフォリズムと散文詩の折衷に近い。そこで、ここに改めて全くゼロから「槐多の歌へる」を基に電子化し、ここに配することとした。その理由は後ろから二つ目の連(条)に『決死の人の美しさを今宵知る(一九一四年六月六日)。』というクレジットがあることを根拠とする。本篇は「槐多の歌へる」には所収せず、本底本の続編で、翌大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「感想斷片」パートで初めて日の目を見たものである。これも国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該書の画像を底本として視認した。太字は底本では傍点「○」。

「  此の權利有りてこそ始めて人間は生きることが出來る。人生は此の點に生ずる。」この冒頭の二字下げはママ。

「土偶の坊」はママ。「全集」は「木偶の坊」。無論、頗る誤植が疑われはするが、暫くママとする。

「許るされた」はママ。

「千七百九十三年の公布」とはフランスのルーブル美術館成立史に関わるものと考えられる。フランス革命後、一七九三年七月二十七日の公布令で美術博物館の設立が決まることを指すのであろう。ちなみに翌一七九三年八月十日の共和国祭に合わせてルーブル美術博物館として開館され、さらに翌一七九四年には国立美術館となっている。]

「支」「ささへ」と訓ずるか。

「キユービスト」キュビスム(Cubisme フランス語)の芸術家。キュビスムはピカソの「アビニヨンの娘たち」(Les demoiselles d’Avignon 一九〇七年秋完成)を嚆矢とするとされる。

「鐵の童子」槐多の伝奇小説。「全集」年譜及び一九九六年春秋社刊の荒波力(ちから)氏の「火だるま槐多」の巻末年譜から推測すると、本作の執筆は大正二(一九一三)年十一月から、翌年の中学校卒業後の間に断続的に為されたことが類推出来る。私の電子テクストがある。

「ダヌンチオの岩窟の少女」「ダヌンチオ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダンヌンチオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。彼の「岩窟の少女」というのは一八九五 年 に『コンヴィート』誌に連載し、翌年刊行した小説「岩窟の乙女たち」(Le Vergini delle Rocce)を指していよう。恐らく、槐多が読んだのは大正二(一九一三)年新陽堂刊の矢口達訳「巌の処女」、これであろう(リンク先は国立国会図書館デジタルリブラリーの当該書)。

「レルモントフの浴泉記」これは夭折した帝政ロシアの詩人にして小説家ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов 一八一四年~一八四一年)の知られた小説「現代の英雄」(Герой нашего времени 一八四〇年刊)の中の第四章「公爵令嬢マリー」の部分(紀行文体裁)を森鷗外の妹小金井喜美子が訳したものである(この部分は主に敷名章喜氏の論文「入浴観の違いから生じる誤解」の注に拠った)。初出は鷗外主宰の『しがらみ草紙』(明治二五(一八九二)年~明治二七(一九九四)年)であるが、槐多が読んだのは恐らく明治三〇(一八九七)春陽堂刊の森鷗外編になる「かげ草」、これであろう(リンク先は国立国会図書館デジタルリブラリーの当該書の当該作)。

「ベツチコリン」自滅型恋愛小説「現代の英雄」の主人公青年将校グリゴーリー・アレクサンドロヴィッチ・ペチョーリン。「浴泉記」では「ベチヨリン」と表記されている。

「メリイ姫」公爵夫人「リゴウスキ」(「浴泉記」)の令嬢。ペチョーリンの親友グルシニツキーの恋人であるが恋愛関係に陥り、決闘にまで発展する。

「プリンス」既出の槐多のプエル・エテルヌス(永遠の少年)、一中の一級下の美少年稲生澯(いのうきよし)のことであろう。

「ロツブス」ベルギーの画家フェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)。エッチングやアクアチント技法の版画家として知られ、サンボリスムや世紀末作家のデカダンな挿絵をよく描いた。性と死と悪魔――如何にも槐多好みの作家である。

「是故に吾人は歌麿よりも北齋を、江戸時代よりも奈良朝を、より多く慕ふ軍人は文士より偉し。」「全集」は「是故に吾人は歌麿よりも北齋を、江戸時代よりも奈良朝を、より多く慕ふ。軍人は文士より偉し。」と句点を配する。それが正しいとは思うが、ママとする。

「レフアインされたり」refine。これは使役表現で、殺人を真に洗練させた、優美化させた、謂うなら、殺人を小説の素材に選んで、しかもそこに殺人の持つ美学を打ち立てたという意味で私は読む。

「文章世界」明治末から大正にかけて博文館が発行していた文芸雑誌。明治三九(一九〇六)年三月に創刊。参照したウィキ文章世界によれば、『当初は若者たちに実用的な文章を習得させるための投書・指導を目的として創刊されたが、初代の編集責任者に作家の田山花袋が就任したことから、小説や詩などの投稿も受け付け、やがてそちらが主流となっていった。田山とのつながりで国木田独歩・島崎藤村ら自然主義系の作家が多く連載し、投書の撰者も田山・島崎をはじめ正宗白鳥や徳田秋声・北原白秋・窪田空穂・内藤鳴雪などが名を連ね、明治末期には自然主義文学の拠点とみなされるようになった。また、投書者の中からは室生犀星・吉屋信子・内田百閒・今東光・横光利一らを輩出した。大正に入り、田山が編集から退くと徐々に衰退し』、大正九(一九二〇)年十二月を以って終刊した。

「大野隆德」(おおのりゅうとく/たかのり 明治一九(一八八六)年~昭和二〇(一九四五)年)は洋画家。千葉県生。明治四四(一九一一)年東京美術学校卒。文展・光風会展に入選、大正二(一九一三)年の東京大正博覧会で二等賞、後の大正四(一九一五)年、文展特選。後に光風会会員。槐多より十歳年上。ここに出る彼の槐多評は不詳。識者の御教授を乞う。

「あゝめざめよ、強く、海の貴き曉に。」「全集」は最後の句点がない。不審。

「おどれ、悦べ、」の「おどれ」はママ。

「埃及人」「エジプトじん」と読む。槐多は古代エジプトの壁画絵を好んだ。

「一九一四年六月六日」この年(大正三年)三月に京都府立一中を卒業(満十八歳。当時の中学は五年制)荒波氏の「火だるま槐多」の年譜によれば、卒業と同時に、『画家となるため上京を決意するが、家庭生活の苦境はなはだしく、パリ在住の従兄山本鼎に応援を頼』み、『五月一日、山本鼎が依頼してくれた小杉未醒の受け入れ態勢が整うまで、信州の鼎の実感で六月二四日まで待機』とあるから、まさにこの一行はその間のものである。この五月六日には『大阪朝日新聞京都付録版に「絵馬堂を仰ぎて」が掲載さ』れている。これは本邦に於けるナショナル・ギャラリーの建設を提唱したもので、私がで電子化している。槐多が青雲の志を懐いて上京したのはこの翌月の六月二十五日のことであった。]

金色と紫色との循環せる眼   村山槐多

[やぶちゃん注:以下の散文詩三篇「金色と紫色との循環せる眼」「電氣燈の感覺(徴けき夢の中より)」「太古の舞姫」は「槐多の歌へる」には所収せず、本底本の続編で、翌大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「散文詩」パートで初めて日の目を見たものである。私は既に「やぶちゃん版村山槐多散文詩集」で「全集」版を電子化しているが、今回は初出「槐多の歌へる」版でゼロから再電子化した。彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では「散文詩」パートに大正六(一九一七)年作の「童話『五つの夢』」(以前に述べたが、私はこれを散文詩としてではなく文字通り童話として採り、後日別に再電子化する予定である)の後に三篇纏めて投げ込まれてある。クレジットは一切なく、時期同定は難しく、軽々に云々することは渡しには出来ないが、「全集」年譜及び草野の「村山槐多」の年譜によれば、この明治四四(一九一一)年、京都府立第一中学校(現在の府立山城高等学校)三年当時、『強盗』『空の感』『魔羅』『銅貨』『孔雀石』『アルカロイド』『靑色廢園』『新生』といった回覧雑誌を相次いで作成し、創作作品を数多載せていた。「全集」版の同年の最後には本『全集所収の詩はもちろん、小説、戯曲などはここに発表されているものである』とある。されば、驚くべきことにこれらの散文詩は槐多満十五歳の時の作である可能性さえもあるということになるのである。取り敢えず、私の詩篇集成では、末期の詩篇の直前に置くことにする(私も実は「全集」編者の山本太郎氏と同じく、末期直前の詩篇は末期のそれとして詩篇類の最後に配したくなる部類の人間であるということは告白しておこう)。これも国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該書の画像を底本として視認した。]
 
 

  金色と紫色との循環せる眼

 

 吾が眼球は一日、異樣に美しき色の循環をうつし、吾が視神經は、しばらく鳴りどよむばかり光惚にとられた。この事を記す。

 それは、佛國畫工グエスタフ、モロが畫面の怪しき光輝に比すべきばかり古き年代を經た、一ツの赤き、五重の塔が重たく建つた下に、吾經驗した事である。此塔は巧なる建築であつた。優雅な歡樂の絶えず行はれる町の中のある坂の上に立つてゐた。其美しさは印度の奇異な動物の相を具してゐたある非常な聖者が惰落した爲に變じた動物の形を具へて居た。仰ぎ見る者は誰人も、其の遊惰なる嚴格に戰慄せぬはなかつたのである。そして其の塔の眼には溢るゝばかりの慈愛があつた。そして塔の最下の室には、黃金の皮膚を有つた佛像が坐して居た。其の像は、扉の外から見えた。そして其の光は、覗き見る者の頭を下げさせる。

 ある春の薄暮であつた。吾が塔の下にまたも立つて居たのは。吾は何の爲めに立つてゐたのかわからなかつた。だがこの塔を、はつきりと眼に滿たして、じつと立つて居る自らの嬉しさは、たとへる物もないのであつた。天地がこの、赤き、なつかしき五重の塔と吾とを、永劫の世の中からいづこかへかくしてしまう樣に感じた程であつた。

 其時一人の痴愚なる坊主が美しい薄ら明りの中を、吾に近附いた。そして吾が耳に口をつけて言つた。

「これ八坂の塔え」

「あゝ」

 吾は少しおどろいたが、其の美しい音聲に光惚となつた。

「この上に以前住んではつた」

 誰だらう。

「誰が住んではつた」

 坊主は眼を見張つたが、微かに呟いた。

「其れは人や」

 この意味なき言葉が、其の時、水蒸氣の樣に、香水の香の樣に、消えて行く、たそがれの霧の中に、この坊主も又消え入つてしまつたのである。で後には塔と吾れとが、梵鐘に伏せられた樣な物凄さで殘つてゐた。何とも云れぬ美しい魂をうける春のたそがれの薄ら明りの中に。

 はでやかに、遙か下に見える都は燈火を飾り出した。その上の空の靑さ。薄明るさに寶玉の星は輝きそめる。塔は全く暗く、影の重量の增すと共に重たくなつた。赤い塔は黑紫色のあでやかな塔となつた。吾が眼には餘りに、重たく、高く、大きくなつてしまつ

た。だが吾は塔を離れなかつた。其下をふらふらと廻つてゐた。この塔の圍を八回廻つた時、吾は一人の美しき女が來てゐるのを發見した。吾は八回とも無人であつたのに引き比べて大に驚ろいて、じつと注視した。其時である、吾が視神經が破壞せむとしたのは。

 吾は一と目ですでに、此の女が色情狂であることを知つた、其肌は怪しき紅色を呈し、其の細帶一本で押へられた派手な衣裳は見るのも猥らがましく、其の殆んど露出した肉體に引きかづかれてゐるのである。一種の強い電光めいて光る其の白い左足を、股迄靂はし乍ら平然として此の女は上を仰ひでゐる。女は塔を打ち見守つてゐる。吾は其時思はず塔の上に飛び上つてぴつたと塔へ身を押しつけて、じつと、女を注視したのである。其の女の眼を、塔を寫つせる眼を注視したのである。

 美しき女であつた。

 其の面は孔雀石の如く靑色を帶びてゐたが、その唇は眞紅に輝いた。而してたそがれの濃い空氣で、其の東洋的な容貌は著しく神祕になつてゐた、殊に其の女は狂氣であつた故に。

 其の女は、ぢつと、ぢつと、まるで石像の樣にぢつと立つてゐる。不思議相に見つめるは唯塔、この美しく物凄き塗のみなのである。

 それで、吾も、ぢつと、ぢつと、其の女を見守つた。

 自分の、うづくまれる處と女との距離が二間ばかり有るが、光の具合で、仰むいてゐる女の顏は、氣味惡るい程明確に吾が眼球に寫るのである。女の顏は丸くて豐麗である。吾は思はず、何處かで見た、博士スタインの發掘せるトルキスタンの佛像の寫眞を念頭に浮べた。其面はげに砂漠的であつた。埋れたる豪奢であつた。唇は斷え間なく薄明りの中で戰慄してゐるのが見える、そして其の眼を吾がじつと、じつと見下した時であつた、その上方に向ける仇めかしく好色に大なる眼に美しき色が環してゐるのが見えた。自分はびつくりした。

 この狂女の眼の中に、無數の金色の微粒子がきらきらきらきらしてゐる。而して此の金のきらきらは、次第に紫色の微粒子にうつり行く。また其の微粒子は金に化する、かくて絶えまなく一の圓い軌道を作つて、金色と環色とのきらきらが、この女の眼の中で循環してゐるのである。おゝ、其の美麗さに、吾は實に氣も遠くなつた。氣も狂ほしくなつた、恰もスピサリスコープを覗く樣なこの美しさ、あでやかさ、不思議さは、わが理性を打ち亡ぼした。吾にはも早やこの狂女は佛であつた。偉大な美の聖者となつて、千萬の燭に照らされて、吾が前に現れたのである。吾は泣いた。泣いて戰慄した。忽ち金色と紫色との循環は急速になつた。そして、その色の循環は、この狂女の眼から全世界に廣ろがつた。此の赤き五重の塔も、美しき春のたそがれも、燈かざり初めし美しの都もすべて金色と紫色とに循環し出した。吾はうめいた。一聲高くうめいた。眞赤な血が全身に沸騰した。

 吾はいきなり、この色情狂の女に飛びかゝつた。そして、其の眼球に指を突込んでえぐり出した。

 美しく鋭き悲鳴が、この春の薄明りに傳はり、不思議な塔に反響した。だが吾が手には眞赤な血に染まつた、寶玉の樣な眼球がある。吾は嬉しさに叫んで、そしていきなり走り出した。この塔の下の町を、まつしぐらに京都の町へ走り下つた。金色と紫色とのきらきらを絶へまなく身に浴び乍ら、眞紅の眼球を右手の掌に載せて、まつしぐらに京都の美しい燈火の中に馳け入つたのである。

 

 

[やぶちゃん注:私はこの猟奇的幻想譚を頗る偏愛する。これは――この時代――この八坂の塔――かの呪われた詩人にして火達磨画狂槐多の作として日本幻想文学の傑作の一篇と言ってもよいと思っている。

「光惚」はママ。後も同じである。本注は略す。

「エグエスタフ・モロ」フランス象徴派の画家ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau 一八二六年~一八九八年)。

「五重の塔」以下で示される通り、通称「八坂の塔」、清水寺のごく近く、現在の京都市東山区清水八坂上町にある、観音霊場として知られる臨済宗建仁寺派霊応山法観寺(ほうかんじ)の五重塔。ウィキの「法観寺によれば、永享一二(一四四〇)年に再建されたもの(伝承によれば五重塔は崇峻天皇五(五九二)年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされるが、実際の寺の創建は七世紀頃と推定される)で、高さ四十九メートル、『東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築である。中心の礎石は創建当初のものが残っておりそのまま使われている。初層内部には大日如来を中心とする五智如来像を安置する。塔は重要文化財に指定されている』とある。

「吾經驗した事である」はママ。「全集」は「吾が經驗した事である」となっている。

「印度の奇異な動物の相を具してゐたある非常な聖者が惰落した爲に變じた動物」「惰落」はママ。この伝承を持つ動物は不学にして不詳である。インドで忌避される動物というと想起出来るのは悪魔の乗り物とされる水牛ぐらいである。識者の御教授を乞う。

「此の女は上を仰ひでゐる」の「仰ひで」はママ。

「不思議相に見つめるは唯塔、この美しく物凄き塗のみなのである」「相」「塗」はママ。「全集」は「不思議さうに見つめるは唯塔、この美しく物凄き塔のみなのである」となっている。「塗」は単なる誤植の可能性が高いが、暫くママとする。

「それで、吾も、ぢつと、ぢつと、其の女を見守つた」「全集」は「それで、吾も、じつと、其の女を見守つた」となっている。リフレインがないのは不審である

「二間」三・六メートル。

「博士スタインの發掘せるトルキスタンの佛像」「博士スタイン」は中央アジアの探検調査で知られる、イギリスに帰化したハンガリー出身の探検家シュテイン・マールク・アウレール(Sir Marc Aurel SteinStein Márk Aurél 英語音を音写するとオーレル・スタイン 一八六二年~一九四三年)。参照したウィキの「オーレル・スタイン」によれば、彼は一九〇〇年(明治三十三年)に東トルキスタン地域へ第一回の探検旅行に出発、『新疆省を探検し、ホータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査した』とあり、また、一九〇六年(明治三十九年)には第二回の『探検を行い、敦煌の仏画・仏典・古文書類、いわゆる敦煌文献を持ち帰った』とあるから、槐多の言うのは恐らく敦煌発掘のそれであろう。

「金色と環色とのきらきら」の「環色」はママ。「全集」は「環色」は「紫色」となっている。確かに誤植の可能性が強いとは思うが、暫くママとする。

「スピサリスコープ」スピンサリスコープ(Spinthariscope)のこと。α線が蛍光体に衝突した際に見られる蛍光(シンチレーション)の検出器である。科学匙史家中尾麻伊香博士の「核をめぐる科学文化」のスピンサリスコープによれば、発明者はグロー放電(低圧気体中に於ける持続的放電現象)実験のためのクルックス管や、かのマイケル・ファラデーの名著「ロウソクの科学」(The Chemical History of a Candle:一八六一年刊)編者としても知られるイギリスの化学者・物理学者サー・ウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 一八三二年~一九一九年)で、彼は『硫化亜鉛スクリーンにラジウムの放射線(α線)をあてるとシンチレーションと呼ばれる蛍光を発する現象をレンズを通して観察できることを発見したこと、そしてこの蛍光の検出器(スピンサリスコープ)を考案』、一九〇三(明治三十六)年五月に『王立協会でスピンサリスコープを公開』、同月発行の『ケミカル・ニューズ』に報告を載せたとあり、『放射能現象を可視化したこの器具は、商業的に売りだされ、一般の人々が放射能現象を見ることを可能にし』たとある。まさか、こんな装置が槐多の文章に出て来るとは、お釈迦さまでも、ご存じあるメエ!

「忽ち金色と紫色との循環は急速になつた」の「忽ち」は底本では「忽ら」。誤植と断じて訂した。無論、「全集」も「忽ち」となっている。]

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅱ)

 

森中の枯れ木は

ひとり芽を吹かず

一心こめた毒茸を生やす

 

[やぶちゃん注:「毒茸」は「どくたけ」と訓じてたい。]

 

狼が人間の骨を

ふり返りふり返り去り

冬の日しづむ

 

妖怪に似た生あたゝかい

我が腹を撫でまはしてみる

春の夜のつれつれづれ

 

自殺やめて

壁をみつめてゐるうちに

フツと出て來た生あくび一つ

 

交番の巡査が

一つ咳をした

霜の夜更けに俺が通つたら

 

伯父さんエ

此の剃刀を磨いでよと

繼子が使ひに來る雪の夕

 

[やぶちゃん注:諸本は一行目を「伯父さんへ」とする。]

 

死に度い心と死なれぬ心と

互ひちがひに

落ち葉踏みゆく落ち葉踏みゆく

 

[やぶちゃん注:「落ち葉踏みゆく落ち葉踏みゆく」の後半は底本では踊り字「〱」である。「踏」は「蹈」かも知れない。但し、私は生理的にこの字体が嫌いであるし、「踏」を好んで用いた作家も多いので、ここは所詮、私の恣意的変換であるものなれば、敢えて私の好みを反映した。また通常、踊り字「〱」「〲」は直前にある動詞部分を総て繰り返すのが不文律の鉄則であるのだが「落ち葉踏みゆく踏みゆく」としたのではこの一首、如何にもな破調に過ぎたものになると判断し、掟破りでかく表記した。大方の御批判を俟つ。]

 

埋められた死骸はつひに見付からず

砂山をかし

靑空をかし

 

知らぬ存ぜぬ一點張りで

行くうちに可笑しくつて

空笑ひが出た

 

[やぶちゃん注:「空笑ひ」は「そらわらひ」と訓じておく。一般的には「ひとりわらひ」で、破調であるからそれでもよかろうとは思う。空笑(音「クウショウ」)は訳もなく突然笑い出してしまうことを言う。]

 

海にもぐつて

赤と綠の岩かげに吾が心臟の

音をきいてゐる

 

此の顏はよも

犯人に見えまいと

鏡のぞいてたしかめてみる

 

毒茸がひとり

茶色の粉を吹く

何事もよく暮るゝ秋の日

 

[やぶちゃん注:「毒茸」は「どくたけ」と訓じてたい。「粉」は「こ」。]

 

彼女の胸に

此の短劍が刺さる時

ふさはしい色に春の陽しづめ

 

美しく毛蟲がもだえて

這ひまはる硝子ガラスの瓶の

夏の夕ぐれ

 

   (昭和四(一九二九)年六月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

[やぶちゃん注:前回の掲載が前年の同誌の十一月号であるから、半年以上、間が空いている。第一書房版全集年譜を見ると、この間に発表した目ぼしい作は「押絵の奇蹟」(『新青年』昭和四年一月)、「いなか、の、じけん」中の「模範兵士」「兄貴の骨」「X光線」(順に『獵奇』同年三月・四月・五月)、「支那米の袋」(『新青年』同年四月)であるが、他にこの昭和四年九月二十日に「ドグラ・マグラ」の草稿「狂人」(第二推敲稿)を擱筆しているとあるから、このインターバルは恐らくはそのためであろう。]

 

 

 

何者か殺し度い氣持ち

たゞひとり

アハアハアハと高笑ひする

 

[やぶちゃん注:「アハアハアハ」の後ろの二つの「アハ」は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

屠殺所に

暗く音なく血が垂れる

眞晝のやうな滿月の下

 

[やぶちゃん注:「垂」は旧字の「埀」を好んで書く作家が思いの外少なく、同じく私自身が生理的に好まない字体なのでママとした。]

 

風の音が高まれば

又思ひ出す

溝に棄てゝ來た短刀と髮毛

 

殺しても殺してもまだ飽き足らぬ

憎い彼女の

横頰のほくろ

 

[やぶちゃん注:「殺しても殺しても」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

日が照れば

子供等は歌を唄ひ出す

俺は腕を組んで

反逆を思ふ

 

わるいもの見たと思うて

立ち歸る 彼女の室の

挘られた蝶

 

[やぶちゃん注:「挘られた」は「むしられた」。]

 

わが心狂ひ得ぬこそ悲しけれ

狂へと責むる

鞭をながめて

 

 

   (昭和四(一九二九)年七月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

 

 

 

うつゝなく人を佛になし給へ

み佩刀(はかせ)近く

香まゐらする

 

[やぶちゃん注:「香まゐらする」は、第一書房版及び筑摩書房版「全集」孰れも「吞みまゐらする」である。よく考えてみれば、これは「香(かう)」でないと、意味が通じないと私は思う。但し、底本には編者注はない。]

 

君の眼はあまりに可愛ゆし

そんな眼の小鳥を

思はず締めしことあり

 

彼女を先づ心で殺してくれようと

見つめておいて

ソツト眼を閉ぢる

 

蛇の群れを生ませたならば

………なぞ思ふ

取りすましてゐる少女を見つゝ

 

頭の無い猿の形の良心が

女と俺の間に

寢てゐる

 

フト立ち止まる

人を殺すにふさはしい

煉瓦の塀の横のまひる日

 

欲しくもない

トマトを少し嚙みやぶり

赤いしづくを滴らしてみる

 

幽靈のやうに

まじめに永久に

人を呪ふ事が出來たらばと思ふ

 

觀客をあざける心

舞ひながら假面の中で

舌を出してみる

 

 

   (昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

2015/07/19

恐らく未だ嘗て並んで掲げられたことがないであろう村山槐多の「陰萎人の詩句」二篇を並べてみた

ここで既に公開し、注も附したが、ここで並べておきたくなった(専ら村山槐多自身のために)。但し、「Ⅰ」についてはハンセン病患者に対する謂われなき差別感覚が含まれいているので、当該公開記事の私の注を必ず参考にされ、そうした部分に対しては批判的視点を持ってお読み戴くようお願いする。


 

  陰萎人の詩句

 

XSに、

ああ、あなた、美しい眼のひと

薔薇の根から見た靑空の樣に美しい眼の持主、

それはほんとですか、

あなたが、この美しいうらわかい女が

生身から引はがした孔雀の皮の樣に美しい人が、

滴る血の樣に生々したあなたの樣なお孃さんが

まつたくなのですか

ほんとですか、ほんとですか

ああ、あなたのとろめく眼ざし、死なぬ螢、

ああ、あなたの輝く唇、熱あるルビー石、

ああ、しなやかな全身につたの樣にからまつた、

あなたの若さと、やさしさと戀とたましひ、

ああまつたくほんとですか

あなたが、あなたが、あなたが、

ああ、あなたが

あの恐ろしい Rai-byo だと云ふ話は、

 

そんなことは大した事ではないが

ほんとですか、お孃さん、

うそでせう、

 

×鏡の中の自分に、

 

ほんとかね、おい、おい、おい、

この立派な靑年が

この美しい豐年のりんごが

ルネツサンスに居さうな智と健康とに輝いたこの男が、この美少年が、

この力士が、この少尉が、

ほんとかね、ほんまかね、

おい、おい、ほんとかね、

お前がたしかに、

Rai-byo で陰萎だと云ふ話は

 

うそだらう、    ――十二、二、

 

 

 

  陰萎人の詩句Ⅱ

 

  ×

草花のしぼむ樣に、

つかれてしぼむだわが□□よ、

  ×

しぼみしぼみゆく□□のうれひを

もみけす、酒、女、

オペラの音樂、

赤い松の木、

靑い空、

ああ、

  ×

ねむの木がさはつたらねむつた、

女よ、薄いガランスの絹布よ

わが□□をねむらせて、

  ×

顫へてしぼむ□□

氣體となりゆく寶石の柱、

  ×

喉をいためるとて

たばこをよす男を輕蔑す、

血をはくからとて

酒をのまぬ男をわらう、

しかし、

  ×

日が眞紅のベラを出す

女もベラを出す、

カフエの夕日、

さびし、かなし、

  ×

風はさぶし

わが顏お能の面のごとし

風に怒れ、

風を叱れ、

  ×

淸きあの女

ふさはしや

陰萎のわたしに

  ×

女は猩々の樣にあかくなつて

ソーダをすする、

魔女の休息だ

さて彼はいまだ飮みつづけて居る、

強いつよいコニヤツク

  ×

淺草の酒、

十二社のさけ

して代々木の酒、

うまい、いづれもうまし

  ×

血が出る

肺から

こはれたふいごから、

心から、
          
――一月二十二日

 

 

陰萎人の詩句Ⅱ   村山槐多

 

  陰萎人の詩句Ⅱ

 

  ×

草花のしぼむ樣に、

つかれてしぼむだわが□□よ、

  ×

しぼみしぼみゆく□□のうれひを

もみけす、酒、女、

オペラの音樂、

赤い松の木、

靑い空、

ああ、

  ×

ねむの木がさはつたらねむつた、

女よ、薄いガランスの絹布よ

わが□□をねむらせて、

  ×

顫へてしぼむ□□

氣體となりゆく寶石の柱、

  ×

喉をいためるとて

たばこをよす男を輕蔑す、

血をはくからとて

酒をのまぬ男をわらう、

しかし、

  ×

日が眞紅のベラを出す

女もベラを出す、

カフエの夕日、

さびし、かなし、

  ×

風はさぶし

わが顏お能の面のごとし

風に怒れ、

風を叱れ、

  ×

淸きあの女

ふさはしや

陰萎のわたしに

  ×

女は猩々の樣にあかくなつて

ソーダをすする、

魔女の休息だ

さて彼はいまだ飮みつづけて居る、

強いつよいコニヤツク

  ×

淺草の酒、

十二社のさけ

して代々木の酒、

うまい、いづれもうまし

  ×

血が出る

肺から

こはれたふいごから、

心から、

 ――一月二十二日

 

 

[やぶちゃん注:「陰萎人の詩句Ⅰ」の続編(「Ⅰ」の注で述べたが、これは是非とも「まらなえびとのしく」と読みたい)であるが、こうした形式は槐多の詩篇では特異点である。「Ⅰ」「Ⅱ」としながらも恐らくは一度として二つ並列して置かれたことのない詩篇と思われる。なお、「全集」では編者山本太郎氏は四ヶ所すべての伏字を『魔羅』と推定しておられる。

「酒をのまぬ男をわらう」はママ。

「ベラ」初読――舌――の意と感じた。自信はない。「日本国語大辞典」を引いた。すると、盗賊仲間の隠語で小刀などの刃物、特に凶器にする刃物を指すとあった。槐多好みではある。他に、方言として耳たぶ(奈良宇陀郡)、舌(新潟県南魚沼郡・石川県能美(のみ)郡・長野県上田郡・高知県・宮崎県西薄き群諸塚)などと出ている。私は私自身の直感として、太陽のそれはともかくも、特に「女も」「出す」とすれば、私にはやはり「舌」しかしっくりこない。大方の御批判を俟つものである。

「十二社」前後の地名から考えて現在の東京都新宿区西新宿四丁目近辺の旧地名及び通称地名か? とすれば「じゅうにそう」と読む。旧花街である。

「一月二十二日」「全集」の大正八(一九一九)年(彼は明治二九(一八九六)年九月二十九日生まれであるから、満で二十二歳であった)の冒頭には、前年からの状況を記し、『冬になると彼は毎日ひどく早く起きた。友人をおこしてまわるのだ。太陽が八幡の森から出る美しさを槐多は友人に語った。青いドテラの上にブルーズをきて首にはいつもタオルをまいていた。そして友人の絵具箱からガランスを「一寸」といってはかり、パレットにしぼりだしてはぷいと写生にでかけてしま』い、『友人の画布だろうが絵具だろうが、おかまいなしにみな槐多は使つてしまう。猛烈な意欲で絵を描きはじめた。槐多は何かにせきたてられ急いでいた。彼だけが近づく死のあし音をきいていた』と記す(この年譜、年譜というより、筆者山本太郎の語りという方が相応しい、特異な面白いものである)。「ブルーズ」とは“blouse”。フランス語で画家が好んで着た仕事着としてのコートのことで、元は労働者や百姓の作業着である。ブラウスのこと。草野心平の「村山槐多」の同年の一月の年譜には『午前中は日本美術院の研究所でモデルを描き、午後は写生と自室での制作に没頭する。不規則な食生活、痛飲が続く』とある。]

畫具と世界―種々の感想   村山槐多

 

    畫具と世界―種々の感想

 

×

わが全身はたえまなくわが世界と交接する、眼も、耳も、鼻も、青も、肌も、肺も。わが全身はくまなく好色だ。中でも二つの眼玉は凄いほどのドン・フアンだ、私は自分でこの二人のドン・フアンを律する事が出來ぬ。

けふも見よ、彼等は代々木の松の木とつるんで居た。□□の血で眞赤に染んだ世界と。

×

ああ、うら若い□□のたくましい□□に於けるが如く、物凄いある超自然の感じを以て自然はわが全身にせまる、この感じは、ああこの感じは。

×

眞夜中の眞のくらやみにふとめざむれば、わが世界は、わが全身をおしつけて眼から涙を押し出した。夜があけて、太陽が出たらああ、眼から何が出やう。

×

痛ましい血族のある最後の血の袋が私のからだ。やぶれかけた血の袋がこの私。

一九一九年の一月の末のある夜、代々木にころがつた赤いソーセージ。ああこの血の袋を世界が押しつぶさうとするではないか。

×

むちを上げて私をたたいておくれ、私の肺をひきさき、私の心臟に穴をあけ、私の胃をくさらせ、私の骨をくだき、私の肉にうじむしをははせておくれ。最後に腦みそを赤インクで染め□□を斷つておくれ、もつと最後に眼玉をくりぬいておくれ、そしてとどのつまりに私の靈を地獄へ追ひこんでおくれ、私の可愛いい、うつくしい惡魔さん。

×

ああ、すべては喜劇と悲劇とだ、すべてはシネマトグラフで輕業でパノラマでキネオラマだ、その他だ。何故ならば女が私にひぢをくはした事は、悲劇で、私がえらい畫描きになれば、それは喜劇だ、あらゆる家庭や世間の出來事はシネマトグラフのたえまない興行で眼にうつる景色はパノラマだ。

こんな風に考へたあとでやつぱりいけない。

さびしくなつた、私は見物と役者とのあひのこか。

×

をどれ、をどれ、をどれ、をどれ、手をふるはし足をふるはせ、そして血のめぐりを強め、美の絹服を織れよ、そして心をもおどらせよ。

そして心のちり、すなはち屈托とさみしさとをふりおとせよ、をどれ、おどれ、おどれ、眞から水が一杯ほしくなるまで。

×

絶えず磨け、みがけ、そしてすりへらせ、心を、しんほど光る金剛石を、そうだ心をみがけ、せめてみがいた樣に見せておけ。

×

食べつくさぬお菓子がある、たべやう、たべやう、なくなるまで、このたとへ方は自然についてのなんと云ふ淺はかな言ひ方だらう、しかし五十年かかつてもそのお菓子がなくならなかつたら。

×

一切はかりのすがたである事がすこしづつわかつて行く、すべては流轉すると云ふ事がすこしづつわかつて行く、この世界が、おのれの影があざやかになつてゆく、そのたんびに私は哄笑する。その癖に、私はわづか一圓のお金で死ぬ程くるしむ事もあれば、十町の泥道で死ぬ程、氣がふさぐ事もある、ましてや人殺しをしたら、親不孝をしたら、どんなに私はつまづきまよふ事だらう、一切のぼんなうを斷つ事は出來ることか、是か非か。

×

やはりガランスを文房堂へ行つてかふ事にしやう。一月二十六日夜

 

 

[やぶちゃん注:本篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では「感想」の部に入っており、実は私はこの感想」分類てあ総て電子化している。しかし、今回、「槐多の歌へる」を読むと、そこでは詩篇としてこれを採り上げており、しかも再度この「畫具と世界―種々の感想」を熟読してみるに、これはアフォリズムというよりも散文詩に近いことが判った。そこで底本に従い、ここに改めて全くゼロから「槐多の歌へる」を基に電子化した。なお、「全集」では各段落冒頭を総て一字下げにしてある。また、伏字部分を編者山本太郎氏は以下のように推定復元しておられる。伏字を含む箇所を補填して一条分総てをしめす。

   §

わが全身はたえまなくわが世界と交接する、眼も、耳も、鼻も、青も、肌も、肺も。わが全身はくまなく好色だ。中でも二つの眼玉は凄いほどのドン・フアンだ、私は自分でこの二人のドン・フアンを律する事が出來ぬ。

けふも見よ、彼等は代々木の松の木とつるんで居た。魔羅の血で眞赤に染んだ世界と。

    *

ああ、うら若い女性のたくましい乳房に於けるが如く、物凄いある超自然の感じを以て自然はわが全身にせまる、この感じは、ああこの感じは。

    *

むちを上げて私をたたいておくれ、私の肺をひきさき、私の心臟に穴をあけ、私の胃をくさらせ、私の骨をくだき、私の肉にうじむしをははせておくれ。最後に腦みそを赤インクで染め魔羅を斷つておくれ、もつと最後に眼玉をくりぬいておくれ、そしてとどのつまりに私の靈を地獄へ追ひこんでおくれ、私の可愛いい、うつくしい惡魔さん。

    §

「染んだ」は「しんだ」或いは「そんだ」でマ行五段活用動詞「染む」(そむ/しむ)の連用形である「染み」の撥音便形に完了・存続の助動詞「だ」が付いた形。すっかり染まってしまった。

「眼から何が出やう」の「出やう」はママ。

「シネマトグラフ」cinématographe (フランス語)は、世界初の撮影と映写の機能を持つ複合映写機のこと。一八九〇年代に発明され、世界初の実写映画の作成と映画を商業公開することで映画史に名を残した。参照したウィキの「シネマトグラフによれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『リュミエール兄弟が発明したとも、レオン・ボウリーが発明したとも言われている』が、『一説には、エジソンの開発したキネトスコープを、リュミエール兄弟の父であるアントワーヌが一八九四年のパリにて目の当たりする。これをきっかけに、息子兄弟に動画の研究を勧め、キネトスコープを改良、映像をスクリーンに投影することによって、一度に多くの人々が鑑賞できるシネマトグラフを開発。リュミエール兄弟は特許を取得したとされる』。『シネマトグラフを用いて、一八九四年に世界初の実写映画『工場の出口』(原題:La Sortie de l'usine Lumière à Lyon)が作成された。製作・監督はルイ・リュミエール、フランスのリヨンで撮影された、五〇秒ほどのモノクロ無声ドキュメンタリー映画である』が、最後のものは私も見たことがあるかなり知られたものである。本篇は大正八(一九一九)年年初の作であるから、「工場の出口」から二十五年後のことである。

「パノラマ」半円形に湾曲した背景画などの前に立体的な模型を配し、照明によって広い実景を見ているような感じを与える装置で、本邦では明治二三(一八九〇)年に上野公園で初めて公開された。なお、映画用語としては狭義にはフィルムの縦横比が3:1のものを指すがここは前者であろう。

「キネオラマ」和製英語「kineorama」で映画の意の「キネマ」(kinemakinematograph の略)と「パノラマ」(panorama)の合成語。パノラマ写真に色彩光線を当てて、景色を変化させて見せる装置。明治末から大正にかけての興行物として流行った。

「心をもおどらせよ」はママ。後の三度出る「おどれ」もママ。

「そうだ心をみがけ」の「そうだ」はママ。

「たべやう」(二箇所)ともにママ。

「一圓」現在の凡そ千四百円ほどに相当。

「十町」ほぼ一キロメートル。

「文房堂」「ぶんぱうだう(ぶんぽうどう)」と読む。現在も神田神保町にある創業明治二〇(一八八七)年の老舗画材店。それでも公式サイトを見ると、専門家用絵具を発売したのはこの二年後の大正一〇(一九二一)年とあるから、槐多が求めたガランス(茜色)の絵の具は舶来品であったものと思われる。]

一九一八年の末にお玉さんに言ふ事   村山槐多

 

    一九一八年の末にお玉さんに言ふ事

 

お玉さん

あなたはまだ生きておいでですか、健康ですか、あのスペイン風邪になぶられませんでしたか、

あなたの唇の色はやつぱり椿の花の色の樣に輝いて居ますか。

いや、いや、是等の問ひを掛ける事は何たる愚な事でしやう。

もしあなたが死んで居たら病氣であつたら、あの美しい唇が紫色にかはつて居たら。

私がかうやつてどうして平然とあなたに言葉をならべて居られましやうか。

あなたは生きて居るにきまつて居ます。

あなたが依然として健康に生をつづけていらつしやるに相違ない證據はいまこの瞬間私が活々としたあなたの全存在をすこしの苦もなく何の不自然さもなくまざまざと眼前に考へる事ができる事です。

いつでもあなたに會へると云ふ事は何の疑念もなく信じられるからです。

もしあなたが何かの不幸に會つて居れば、あなたの靈がどうして空間を通じて私の心の何等かの感應を起こさずに居りましやう、私の前に鳥の群が不吉な聲をあげて泣く事があらずに過ぎませう。

どうして私がたとへ地下の牢屋の中に居たとても、あなたの運命に無智で過ごす事があり得ませう。

あなたは丈夫なのです、そして幸福なのです、あなたはやはり以前と同じくいや以前に倍して美しいのです、輝やいて居るのです。

お玉さん、私はいまあなたにあてゝ言ふ事をもしあなたが感じて呉れたなら、この思ひが屆いたならば。

私は事實無線電信の技手の樣にあなたに向けて言つて居るのですよ、ただあなたの靈をあてにして言ふのですよ、電波が必ず千里の先に感ずる事がたしかである樣に、この私の思ひがあなたの心に感ずる事はたしかなのです、必ずあなたは感ずるのです、ただこの言葉をあなたが了解するか、どうか、暗號が解き得るかどうかが問題です、私はこんな風にあなたが私のいま念じて居る事を感じる事と想像します。あなたはどこかに居る、あなたはふと氣がふさぎ始める、あなたの瞳は深く据つてきてじつと遠いところを見つめる、まるで百万里もさきの事をうかがはうと云ふ樣に。あなたは首をすこしかたむける。

何となくあなたの心は涙ぐむ、さびしさがけぶる、「どうしたのだろう妾は何をぼんやりして居るのだろう、どうしてこんな風になるんだろう」とあなたは考へる。

しばらくするとあなたは笑つて「何でもないんだわ、陽氣の故なのよ、ま、お茶でものみましやう」とふたたび元にかいる。

たゞそれつきりなのだ、あなたはその時、私と云ふ事の微塵すらも感じないのでしやう。

しかるにあなたのその瞬間に、私ははつきりとあなたの耳にささやいて居るのです、

はつきりとあなたの靈に物語つて居るのです、だからもしその時あなたがふと新聞紙でも手にして居て「村」と云ふ字と「山」と云ふ字とを偶然一所に眼に入れでもすれば、あなたははつきりとその「妙な氣分」の全幅の意味をさとる事でしやう、

「村山」と云ふ男の事があなたの心のけむりの如くひろがるでしやう。

お玉さんあまりに是等の空想のうぬぼれめいて居る事を許して下さい。

けれども私はこんなスビリチユアリストめいた考を抱く程に眞に深く眞に強くあなたを思つて居るのです。

命をあげてあなたを思つて居るのです、

私は時としてびつくりするのです、自分自身にびつくりするのです、

「そんなに、お前はあの女を思つて居るのかね、そりやまあほんとかね」と私は眞顏になつて自身に何度たづねたことでしやう、しかしそれは絶對にほんとなのでした、あなたは私の水です、鹽です、天です、地です。

お玉さんあなたが無くては私は生きて居られなかつたのです、是程の思ひを私が持つて居ながらいや私の全部をこめてほとばしるこの思ひが、お玉さんあなたに毛程の反應をも示さないと云ふ事を私が信じられましやうか。そんな殘酷な斷定の元に自分の戀を持つて一時でも生きて居られましやうか。

私はこの思ひが單にあなたに達したと云ふ事だけでも信じなければならないのです、

それでなくては生きて居られないのです。

悲劇役者が最も悲劇的に演じたる自分の印象が觀客を泣かせるかはりに大笑さした場合の悲哀とさびしさは耐へがたい物でしやう、しかしながらそれとても一人の觀客もない劇場を持つて居るよりは幸福なのです、生きて居る事はすくなくとも出來るのです。

その故にお玉さん、私に言はして下さい、この言葉を認容して下さい。

「あなたは絶えず、いまでも私を感じて居るのです、私があなたの事を思ふ時は、あなたはどこに居ても、どんな時にでも、やはり私の事を心に思ひ起すのだらう」と。

いやいや、これは言ふまでもない事なのです、どうしてあなたが私の事を感じずに居られましやう、私の幽靈を見ずにすまされましやう。

あなたはそれどころか絶えまなき苛責を私について感じて居るのかも知れません。

その苛責を私はあなたに強めてあげたいのです、かき立てたいのです。

お玉さん。

私は今年の春あなたの結婚の事をきゝました。

その時たしか二三人の友人がそばに居た樣に思ひました、あなたの結婚の報告を私はかなり平然とききました、そして大きな聲で笑つたと思ひます、それにつれて二三人の友人も何か戯談を言ひながら、しばらくにぎやかに笑ひくづれました、しかしその實ひがしづまつたあとの私の心の中はどんな色をして居たとお思ひですか、この笑ひは美しくよそほつた寶石にかざられた、らくだの列、豪華なアラビヤの隊商の列でした、その過ぎ去つたあとには、やつぱり茫漠たる荒れすさびた砂漠がのこつたのです、この砂漠のさびしさは耐へがたい物ではありませんか、私はなぜ笑つたかと思ひました。隊商をとほしたあとは以前よりさらにさびしくなるにきまつて居るのです、私は灰色の沈默に落ちました、恐らくその時、すこしでも私を觀察した人があつたならば、この世にまれなる程の絶望の影と云ふよりむしろ他界の影が私の心にふりさがつて居るのを一見して見てとれたのでしやう。しかしだれもこの報知が私をいささかでもかなしませると思ふ人は居ませんでした、私があなたの事をあまり口にしなくなつてから、かなり久しいあとの事でもあり且人々は、私のあなたに對する戀なる物を正氣の沙汰とは思つて居ない樣でした、誰も戯談としての Affair と扱かつて居たのです。

それに私の思ひ切つて下品な嘲笑的な戯口が私の悲哀をごまかすのに充分でありました、しかし私は自分自身をごまかす事は思ひもしませんでした、私のいささかなりとものこつて居た「幸福の燭」はその刹那にむざむざと吹き消されてしまつたのです。私はそのあと獨りぼつちになつて、あなたをつくづくと考へてみた事をおぼえて居ます、あなたの結婚と云ふ事は本質的には私の感情に向つて何の價格も持つて居ないわけなのです、失戀はすでにその以前に定まつて居た事實なのです物、私はあなたから全然レヒユーズされて居る男なんです物、そのあなたの一つの行動が私の感情に何の義務と責任とを持ちましやう、私はそんな風にまづこの事を考へ込んでしまはうと努めました處が私は泣けて來ました、私の眼は涙でかくれてしまひました、「意氣知のない奴め、何の理由がお前を泣かせるのか」

と私は自分にたづねました。

「もしお前が泣くとすればそれはお前があの女にレヒユーズされた、あの時がその時だつたのだ、その時に泣きつくして涙を涸らしつくさなければならなかつたのだ、そのあとの機會でお前はもう泣く權利はないのだ」と私はどなりました、しかし涙はやはり流れました、私はまつたく俄にしよげてしまひました。

ああお玉さん、あなたはそのすこしまへ私の友人に私の事を二三度尋ねて下すつたさうですね、あなたはなぜそんな事をなすつたのです、さう云つた事がどれだけ私のお目出たさを浮からした事でしやう、そしてさう云つた事があなたの結婚と云ふ事から生じた私の幻

滅をどれだけ深いものにしたでしやう、この弱音を私は心からあなたにうつたへます。

私はせめて合理的にでもあなたに勝たうとしました、しかしそれは徒勞でした、且自分で思ひ切りました、私はあなたに負け、あなたにふみにじられても好

いのです。

そこに一すじの蜘蛛の糸めいた幸福福がのこつて居るのです、あなたにふみにじられて居ると云ふ事に私はまだ生きて居られると云ふ幸福があるのです、もし私があなたと戰はうと云ふ意志を持てば生きて居られないのです。

お玉さん、私は吹き消された、「幸福の燭臺」を前にしていかに長く闇の中に坐つて居た事でしやう、今でもその闇はつづき私の沈思はつづいて居ると云ふ事を知つて下さい、

そして私がやはり全部の私をあげて暗の中より私の「燭」を吹き消したあなたの息をあなたの美しい唇をあなたの喉を、あなたの血を思つても身ぶるひするその肉體をその靈を垣間でも見やうとひたすらに念じて居る者である事を知つて下さい。

私はあなたの結婚の事をきいて一月もたゝない内に恐ろしい運命に立すくみました、私は肺炎に襲はれました、全身のつかれなやみたる血は、肺のやぶれ目をこじあけて數千の火蛇の如く外へのがれ出ました。

數回の喀血は私を半ば死神の穴ぐらへひつぱり落しました、がまた私は生の力をとりもどしました、まる九箇月の後やつとほゞ私は舊態にかへつたのです、

この失戀者はまたかた書きを一つ加へたのです、肺病人と云ふかた書きを。

お玉さん、あなたはこの私の言葉をきいて何か、あなたの結婚が私の肺病をみちびいた樣にお考へになりませんか。

そんな事は大した誤りですよ、私はそんな風に考へられる事を最も恐れます。

それのみか私があの恐ろしい病氣のクライマツクスに達して居ながらまた回復し得たと云ふのはやはり、あなたと云ふ物があつたからだと思つて居るのです、あなたに對する愛が私の肉體に生の力をかぎりなく生かして呉れたからだと思つて居るのです、お玉さん。

私にとつてあなたは命のすくひ主です、私の生活は、あなたに對する愛によつてささへられて居るのです、私はいつまでもあなたを愛しなくてはなりません、それを許して下さい、

あなたの結婚は幸福ですか、いやこの問ひは愚かです、あなたのそばにどうして不幸があり得ましやう、ああ、この事を考へると私は嵐の中をとばされる樣です、ねたましさは私の全身をやきます。

私の闇はますます深いばかりです、

ああしかし何のためにこの闇がのろいえましやう、あなたはわが太陽です、灯です。

私のねがう所はただあなたの幸福です、明るさです、私は私の闇を、さらに、さらに暗くしましやう。

あなたの明るさを、さらに、さらに明るくするために。

お玉さん、もう私はこれでよします、もしよさないと私は死ぬまで書きつづける事になりましやうから。どうか、どうかさきに申した樣に、この暗から光への消息が、私の思ひがせめてあなたに達するだけは達する樣に。

是は神さまにいのるのです。ではごきげんよう。

       あなたの暗なる

                   槐多より

お玉さま、

 

 

[やぶちゃん注:本篇は「全集」では何故か、「日記」の大正七(一九一八)年のバートの最後(直前の日記は九月二十五日)に配されてある。しかも末尾には編者によるものとしか思われない『〔一九一八年作〕』というクレジットまで入っている。「日記」と同じノートに書かれていたとしても編者も『作』としているように、これは一種の散文詩である。だからこそ底本「槐多の歌へる」にもここに入っているのである。これは按ずるに、編者山本太郎氏がこの如何にも世俗的に、槐多がストーカーした失恋した相手であるかの「電車と靜物」に出る「お玉さん」に向けた偏執的ラブレター様のこの散文詩を、末期の韻文詩篇の中に一緒に入れるのを生理的に嫌ったとしか思われないのである。無論、詩集の編纂にそのようなことが許されるとは全く思わない。因みに言っておく――私はこの槐多のストーキングを異常と――見做さない人間――である――私の中には――槐多が――いる――のである。……

 なお、「全集」では、各段落の行頭は一字下げになっているが、底本がご覧の通りで、言うまでもないことであるが、長くなった文が二行目に亙っても全く一行目と同位置から二行目以降も始まっている。

「スペイン風邪」一九一八年から翌一九一九年にかけて世界的に流行したインフルエンザのパンデミック。世界中で五億人が感染し、死者は五千万から一億人に達したと考えられている。参照したウィキの「スペインかぜ」によれば、第一波は一九一八年三月に『米国デトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり』 第一次世界大戦中であったために『米軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り』、五~六月に『ヨーロッパで流行』、続く第二波は、一九一八年の秋に『ほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重症な合併症を起こし死者が急増』、その後の第三波は一九一九年春から秋にかけて、第二波と同じく世界的に流行したとあり、しかも日本ではこの第三波による被害が最も大きかったと記す(下線やぶちゃん)。「お玉さん」がどうなったか……後のこと、知りたや……

「いや、いや、是等の問ひを掛ける事は何たる愚な事でしやう」の「しやう」はママ。以下の「しやう」も同じなので略す。

「もしあなたが死んで居たら病氣であつたら、あの美しい唇が紫色にかはつて居たら。」「全集」では「もしあなたが死んで居たら病氣であつたら、あの美しい唇が紫色にかはつてゐたら。」である。私には編者の、「死んで居たら」は許せるが、「かはつて居たら」は許せない、という生理的感覚は全く理解出来ないと言っておく。

「いつでもあなたに會へると云ふ事は何の疑念もなく信じられるからです」の「疑念もなく」の「なく」は底本では「たく」である。誤植と断じて「なく」とした。「全集」も無論、「なく」である。

「どうしたのだろう妾は何をぼんやりして居るのだろう、どうしてこんな風になるんだろう」の三箇所の「だろう」はママ。

「元にかいる」はママ。「全集」は「元にかへる」に訂する。

「しかるにあなたのその瞬間に、私ははつきりとあなたの耳にささやいて居るのです、」行末の読点は「全集」では句点。この詩篇では「全集」は統一整序することなく、句読点を底本のように打っているように見えるのであるが、ここが違うのは不審である。

「私はこの思ひが單にあなたに達したと云ふ事だけでも信じなければならないのです」の「信じなければならない」は底本では「信じなければたらない」である。「たらない」誤植と断じて「ならない」とした。「全集」も無論、「ならない」である。

affair」ちょっとした出来事や下らぬ事件とも訳し得るが、「戯談」(じやうだん)としての」と条件づけるのであるから、一時的で不純なの意味合いの極度に強いところの恋愛・浮気・情事の謂いであろう。

「戯口」私は「ざれぐち」と訓ずる。

「失戀はすでにその以前に定まつて居た事實なのです物、」はママ。「全集」は「失戀はすでにその以前に定まつて居た事實なのですもの。」となっている。句点に変化している点も注意。

「私はあなたから全然レヒユーズされて居る男なんです物、」はママ。「全集」は「私はあなたから全然レヒユーズされて居る男なんですもの、」となっている。こちらは同じく読点のままになっている点にも要注意。「レヒユーズ」“refuse”は断乎とした強い態度で拒絶するの意の他、限定的に、人の言い分を刎ねつける、女が男の求愛を拒むという意もある。

「意氣知のない奴め」はママ。「全集」は「意氣地のない奴め」に訂する。

「一すじ」はママ。

「垣間でも見やう」の「見やう」はママ。

「私はあなたの結婚の事をきいて一月もたゝない内に恐ろしい運命に立すくみました、私は肺炎に襲はれました」という叙述によって、槐多が「お玉さん」結婚の事実を耳にしたのは(結核性肺炎の発作に襲われたのは四月中旬)この大正七年の三月中下旬であったことが判る。

「まる九箇月の後やつとほゞ私は舊態にかへつたのです」この槐多の言う通りであるならば、槐多自身が身体の一時的な小康を認識し得たのは大正七年の十月半ば過ぎであったことが判る。これは前に引いた草野の年譜の『十月末頃、幾分健康を回復し、見舞に来た山本二郎に付添われ、鴨川発の汽船で帰京する』という記載と概ね一致する。

「私はいつまでもあなたを愛しなくてはなりません」はママ。不思議なことに、キレイ好きの「全集」もママである。

「私の闇はますます深いばかりです、」「全集」は「私の闇はますます深いばかりです。」と読点を句点に変えている。

「ああしかし何のためにこの闇がのろいえましやう」の「のろい」と「ましやう」はママ。「全集」は「ああしかし何のためにこの闇がのろひえませう」と訂する。

「私のねがう所は」はママ。

「この暗から光への消息が、」「全集」は「この私から光への消息が、」となっている。私にはこの「私」、どう考えてもこれ、「全集」の誤植としか思われないのだが?! 如何?!

いのり   村山槐多

 

  いのり

 

     ×  わが神はわれひとりの神なり

神よ、神よ

この夜を平安にすごさしめたまへ

われをしてこのまま

この腕のままこの心のまま

この夜を越させてください

あす一日このままに置いて下さい

描きかけの畫をあすもつづけることの出來ますやうに、

 

    ×

神よ

いましばらく私を生かしておいて下さい

私は一日の生の爲めに女に生涯ふれるなと言はれればその言葉にもしたがひましやう

生きて居ると云ふその事だけでも

いかなるクレオパトラにもまさります

生きて居れば空が見られ木がみられ

畫が描ける

あすもあの寫生をつづけられる     ――十二、八、

 

 

[やぶちゃん注:「×   わが神はわれひとりの神なり」特異点表記。「わが神はわれひとりの神なり」はポイント落ち。「全集」では「×」はない。また、今まで述べていないが、創元文庫版は抄詩集で現在一纏めにされて「×」で繫がって示されている詩篇をぶつ切りにして、出して居るのであるが、驚くべきことに、この詩篇に関しては、二連を別々な詩篇として分け、第二連目(「神よ/いましばらく私を生かしておいて下さい」以下)を無題詩としている。

「したがひましやう」はママ。

「――十二、八、」底本では下インデント五ミリメートル上げのポイント落ちで配されてあり、「全集」では「うそだらう。」の次行下インデントポイント落ちで、しかも「――十二月八日」と書き換えられてある。この時、槐多に神が与えた現世での実際の滞在日数は残り七十三日であった。……]

グリーンピースやシーシェパードやその他もろもろどもへ

豆ご飯や海犬や太地の老漁夫を恫喝してる不良外国人連中は、なぜ、普天間に行って米軍基地に薬瓶をを投げ入れてジュゴンを救おうとしないんだ?! なぜ、福島の第一原発の前まで立ち入って放射線を浴びながら地球を不可逆的に汚染するそれを動かすなとシュプレヒコールを挙げないんだ?! そうしたら俺はお前らを少しは見直してやるんだがな――

2015/07/18

誰をどうすると言うんだ? お前らは?!

誰をどうすると言うんだ? お前らは?!

「日本人」などケチ臭い――救わねばならぬのは Homo sapiens だということに皆、気づいているのに、知らんぷりしちゃあ、いけねえゼ――

感懐

現状を打破し、真に改変し得る、超法規的なたった一つの方法は自然現象としてのカタストロフ或いはそれに伴う原子力発電所の不可逆的なメルトダウンという「現象」以外の何物でもない。――

しかし乍ら、それはまた寧ろ、今の下らぬ権力側に位置する人間たちにとって都合のよい素材とされる(そう近視眼的に思う)可能性の方が実は遙かに高いとも思われるのである。

だけれども、それによって、人類の「未来」は(そのようなものがあるとすれば、である)確かに速やかに絶たれるに違いないという確信は、僕の中に確固としてある。

しかし僕はそうした「事実」を、結果として、よい、と考えている人間である。

何故なら――人類は生物として、この全的な生命を育む地球には不要であるから。

……君や僕ではない……君も僕も含む、総てのおろかな「人類」は、不要だということである――

一本のガランス   村山槐多

 

  一本のガランス

 

ためらふな、恥ぢるな

まつすぐにゆけ、

汝のガランスのチユーブをとつて

汝のパレツトに直角に突き出し

まつすぐにしぼれ

そのガランスをまつすぐに塗れ

生(き)のみに活々と塗れ

一本のガランスをつくせよ

空もガランスに塗れ

木もガランスに描け

草もガランスにかけ

□□をもガランスにて描き奉れ

神をもガランスにて描き奉れ

ためらふな、恥ぢるな

まつすぐにゆけ

汝の貧乏を

一本のガランスにて塗りかくせ   ――十二、四、

 

 

[やぶちゃん注:恐らく、槐多の詩の中で最も人口に膾炙するものである。さればこそ伏字より何より、二行目の「全集」では〈殺菌〉除去されてしまった最後の読点は復権して記憶されるべきものであると私は信じて疑わない人間である。なお、伏字について、「全集」編者山本太郎氏は、

 

魔羅をもガランスにて描き奉れ

 

と推定復元しておられる。

「――十二、四、」底本では下インデント五ミリメートル上げのポイント落ちで配されてあり、「全集」では「うそだらう。」の次行下インデントポイント落ちで、しかも「――十二月四日」と書き換えられてある。]

ガランス   村山槐多

 

  ガランス

 

このガランスは一本が二圓ちかくした

だがこれをぎゆつとしぼり出す事は

何たる快樂だらう

 

二圓はどぶの中へでもとんでしまへ

このガランスが千圓しても高くはないぞ

これをぎゆつとしぼり出す事は

女郎買よりも快樂だぞ

二圓で酒が一本ついて一晩まはしがなかつたより

たしかにガランスは德だ

ガランスの快樂は善い

 

 

[やぶちゃん注:本篇は次の知られた「一本のガランス」と合わせて創作されたものと思われる(クレジットがこの詩篇にはなく、前後にはある点に着目されたい。)

「ガランス」色名。garance(フランス語)。御存じ、槐多の好きな茜(あかね)色・朱赤色・やや沈んだ紅色の絵の具こと。

「二圓」ネット情報によれば消費者物価指数で換算すると、この大正七(一九一八)年(米騒動による物価急騰で円の価値が急速に下がった年である)。の一円は現在の千七百五十円とあるから、チューブ絵具一本で三千五百円相当であるが、例えば、銀座「ライオン」のビールは一杯十八銭、映画二十銭、小学校教員の初任が十二円から二十円とあるから、実際の感覚からは、もう少し高い感じはする。

「まはし」江戸の「回し」から想像すると、一晩で女郎が複数の客を掛け持ちすることで、実際の目当ての女郎と結局、床入り出来ないことを言うことになるが?……う~ん……識者の御教授を乞うものである。]

陰萎人の詩句Ⅰ 村山槐多 ――附 第一の遺書――

 

  陰萎人の詩句Ⅰ

 

XSに、

ああ、あなた、美しい眼のひと

薔薇の根から見た靑空の樣に美しい眼の持主、

それはほんとですか、

あなたが、この美しいうらわかい女が

生身から引はがした孔雀の皮の樣に美しい人が、

滴る血の樣に生々したあなたの樣なお孃さんが

まつたくなのですか

ほんとですか、ほんとですか

ああ、あなたのとろめく眼ざし、死なぬ螢、

ああ、あなたの輝く唇、熱あるルビー石、

ああ、しなやかな全身につたの樣にからまつた、

あなたの若さと、やさしさと戀とたましひ、

ああまつたくほんとですか

あなたが、あなたが、あなたが、

ああ、あなたが

あの恐ろしい聲 Rai-byo だと云ふ話は、

 

そんなことは大した事ではないが

ほんとですか、お孃さん、

うそでせう、

 

×鏡の中の自分に、

 

ほんとかね、おい、おい、おい、

この立派な靑年が

この美しい豐年のりんごが

ルネツサンスに居さうな智と健康とに輝いたこの男が、この美少年が、

この力士が、この少尉が、

ほんとかね、ほんまかね、

おい、おい、ほんとかね、

お前がたしかに、

Rai-byo で陰萎だと云ふ話は

 

うそだらう、           ――十二、二、

 

 

[やぶちゃん注:「陰萎人の詩句Ⅰ」この詩題を『芸術新潮』一九九七年三月号の「特集 村山槐多の詩」で、早稲田大学教授丹尾安典(たんおやすのり)氏は「陰萎人になるまえに、出会え、槐多!」という磊落な素敵な文章で「まらなえびと」と訓じておられ、私は読んだ当時、思わず、快哉を叫んだものである。

  •  

×鏡の中の自分に、」はそのままを電子化してある。改造文庫版では、この一行は三字下げで(前後を出した)、

   *

 

そんなことは大した事ではないが

ほんとですか、お孃さん、

うそでせう、

 

   ×鏡の中の自分に、

 

ほんとかね、おい、おい、おい、

この立派な靑年が[やぶちゃん注:以下略。]

 

   *

となっている。しかし、これは如何にも変な感じである。このような変則行は、他の詩篇には全く見られないものだからである。また「全集」では、「×」がなく、一字下げで(前後を出した)、

   ※

 

そんなことは大した事ではないが

ほんとですか、お孃さん、

うそでせう、

 

 鏡の中の自分に、

 

ほんとかね、おい、おい、おい、

この立派な靑年が[やぶちゃん注:以下略。]

 

   ※

となっている。これは「×」を誤植と考える見方であろう。

 なお私は実は、今一つの別な可能性も考えている。即ち、この「×」が底本で頻繁に用いられる詩の区切りに用いられる記号と全く同じであるという点からで(前後を出した)、

   ◆

 

そんなことは大した事ではないが

ほんとですか、お孃さん、

うそでせう、

 

    ×

鏡の中の自分に、

 

ほんとかね、おい、おい、おい、

この立派な靑年が[やぶちゃん注:以下略。]

 

   ◆

の誤植の可能性である。参考までの申し添えておく。

  •       

「XSに、」改造文庫は同じであるが、「全集」は「X」を除去し単に「Sに、」となっている。不審である。この「XS」なる人物は恐らく「さわちゃん」という娘のことと思われる。「全集」の山本太郎氏の年譜の翌大正八(一九一九)年の冒頭部に、『「さわちゃん」という癩病の村娘の美しさに心を奪われたり、例の茶目ぶりを発揮して娘たちをからかったりしていた』とあるからである。ただ、この後に続いて実は山本氏は以下のように本詩篇の表題を掲げて記してもいる。

   《引用開始》

 この頃の塊多はしきりに人に酒をすすめた。自分はサイダーをのみながら「これからは人の酔うのをみて酔う」というような事をしきりにいったりした。甲州街道のカフェーの女給「さよちゃん」の淋しい美しさを讃えたのも、この頃である(陰萎人の詩句1)。淋しい美に槐多は鋭敏になっていた。

   《引用終了》

この叙述では、本詩篇の「XS」はこちらの「さよちゃん」(確かにイニシャルはSであるが)ということになる訳だが、如何なものか? これは私は山本氏の全くの誤認としか思われない。

 なお、槐多は草野心平「村山槐多」から先に引いたように、この大正七(一九一八)年『十一月末、奨学金により、東京府豊多摩郡代々幡町大字代々木千首十八番地の一軒家を借りる(代々木練兵場や駒場農科大学へは近くであったが、東京の電車路へは遠く、新宿に通じていた京王電車へ出るには十五、六町の距離があった。六畳・四畳の二間に台所の付いた家で、「鐘下山房」と自ら名付ける)』て、まさにこの詩が書かれた十二月には『新居「鐘下山房」で制作に熱中する。代々木に集まった仲間達、山崎省三、杉村鼎介、山本二郎らと自分達のグループを〝代々木ユートビア〟と愛称し生活を共にする』という、まさに槐多の最後の最後の燃焼期に突入していた。「全集」年譜でも翌年の冒頭部分に、『代々木の家はあばら屋だったが、六畳四畳二間に、台所がついていた。槐多は樋の底の破片に油絵具を塗り半月形の表札をつくった。家のすぐ横に村(代々木村)の半鐘があったので「鐘下山房」と名づけていた。家賃の通帳や庚やのごようききのくる生活を税多は新世帯のようだと楽しんでいた。近くに山崎氏などの友人も下宿し、当時小丘にかこまれた代々木の田園は、槐多の健康を次第に恢復させていった』とあるのだが、同時に『この頃、第一の遺書を』(草野年譜)も書いている事実を見逃してはならない(私はずっと昔に槐多の「遺書」を「全集」底本の恣意的正字化で電子化しているが、今回ここでは、遺書の初出である本底本の続編である「槐多の歌へる其後及び槐多の話」を国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認して新たに示すことにした。これが私の村山槐多の電子テクストの第一の「遺書」の定本決定版と考えて戴いてよろしい。但し、字間空けやポイント違いは無視した。底本では最後の署名は三字空きの下インデントである)。

   *

 

   遺書

 自分は、自分の心と、肉體との傾向が著しくデカダンスの色を帶びて居る事を十五、六歳から感付いて居ました。

 私は落ちゆく事がその命でありました。

 是れは恐ろしい血統の宿命です。

 肺病は最後の段階です。

 宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げやう、引き上げやうとして下すつた小杉さん、鼎さん其の他の知人友人に私は感謝します。

 たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陷ちるでしやう。最底の地獄にまで。さらば。

     一九一八年末       村山槐多

 

   *

二箇所の「やう」と「でしやう」はママである。「鼎さん」は洋画家山本鼎(妻家子は北原白秋妹)。槐多の従兄で、彌生書房版「村山槐多全集」の編者山本太郎氏の父。なお、槐多の友人としてしばしば登場する「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「山本路郎」(草野心平によればペンネーム)こと山本二郎という人物はこの槐多の血族の山本家とは関係がないので注意されたい。

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「Rai-byo」癩病。現在はハンセン病と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。但し、槐多はこの詩篇では「鏡の中の自分に」と呼びかけて自らをその「Rai-byo」の病者であるという前半の美少女(これは先に示した通り、鐘下山房の近村の村娘「さわちゃん」であろう)のパートと鏡像関係にしてあり、少なくとも詩篇の後半では「Rai-byo」という語をまさに具体なハンセン病ではなく、宗教的な「業病」「天刑病」という意味に還元して自身に使用しいているように読めることには気づく。無論、それによって彼のハンセン病への差別意識が許されるわけではないことは言を俟たぬから、ハンセン病への正しい理解を以って本詩篇を批判的に読まれることを望むことは言うまでもない。

――十二、二、」底本では下インデント五ミリメートル上げのポイント落ちで配されてあり、「全集」では「うそだらう。」の次行下インデントポイント落ちで、しかも「――十二月二日」と書き換えられてある。]

ブログ700000アクセス突破記念 火野葦平 蓮の葉

つい先程、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、700000アクセスを突破した(七十万アクセス目は「芥川多加志」で検索されて訪問された iPad3 の方であった)。その記念として何時もの通り、火野葦平の「河童曼荼羅」から記念テクストとして「蓮の葉」を公開する。因みにこれは、前回公開した「傳令」の正統な続編という体裁をとった小品である。底本の傍点「ヽ」は太字で示した。【2015年7月18日 藪野直史】

 

   蓮の葉

 

 その夜も、私は、蓮の葉で姿を消すと、惡道のこころに滿ちて、家を出た。

 私の足は闇市場へむいてゐた。晴れわたつた秋の星空はきらめき澄みわたり、やはらかに吹く雨風がひやりと顏にあたる。もし風に色がついてゐて肉眼に見うるものならば、なにもない空間に靑い風がつきあたつて、そこで左右にわかれたり、はねかへされたりするのを見て、ひとびとは奇異の思ひにうたれることであらう。一直線に吹いてきた風がさういふ混亂をきたす空間に、實は姿を消した私がゐるわけなのだが、さいはひに風が無色なので、たれも私の存在に氣づく者はない。それでもつきあたれば困るので、私は市場ちかくになつて雜沓がはげしくなると、うろうろと氣をつかつて人を避けねばならなかつた。向かふからは私が見えないので、遠慮もなく歩みよつてくるからだ。それでも避け損じてぶつつかることがある、するとその男ははつと妙なことだといふ顏をするが、まさかこの二十世紀の科學の世に、忍術使ひや妖怪變化(ええうかいへんげ)がゐるといふことは氣づかないから、なにかの錯覺だらうと思ひなほす風で、首をかしげはするがさして騷ぎたてることもない。私は笑ひだすまいとこらへるのがなかなか骨だが、とにかく氣づかれないやうにあらゆる注意をはらひながら、やがて、すでに灯がともつて獨特のざわめきを示してゐる闇市場のなかへはいりこんできた。

 終戰後、絶望的な表情をおびて、敗北日本の地上に生じたもろもろの汚物のうち、この闇市場こそはもつとも精彩をはなち、一種けだものに似た奔放さをもつて、人間の墮ちてゆくべき姿のたくましさを顯著に示したものであつた。ただけふ一日の命を絶對のものとして、昨日を忘れ、明日をも考へず、思想も道義も情操もすべて弊履(へいり)のごとくすてさつたむきだしの人間の姿は、しかし罪惡をただちに構成するとはかぎらず、賤しさはかぎりがないが、またかなしいものでもあつた。貪慾と詐謀(さぼう)とエゴイズムとが塵芥(じんかい)を燒く煙のごとく市場中にみなぎつてゐて、けたたましく發する聲もどこか狐狸のたぐひのたてひきに似、さまぎまの音響のなかでまた親しみをおぼえるのだ。

[やぶちゃん注:「たてひき」「立て引き」或いは「達引き」と書き、原義は、義理や意気地を立て通すこと。また、そのために起こる争い。そこから広義の談判・交渉の意となった。ここはそれ(因みに、他にも、気前よく見せるために他人の代わりに金品を出すこと、特に遊女が客の遊興費を出してやることも言う)。]

 ここにはふつうの家庭では手にはいる望みのないもの、町の店では見ようとしても見られぬものが、まるで強力な牽(けん)引力をもつた祕密のエレキで吸ひよせられたやうに、一點に集中されて、ならべられてあつた。ずらりとならんだ店、屋臺、燒き網、天ぷら、うで卵、鰻、蟹、おでん、壽司、銀めし、ビフテキ、トンカツ、ぜんざい、しるこ、林檎、梨、柿、――かうならべる必要もあるまい。ともかくなんでもないものはないわけなのだ。さまざまの宣傳文句をかいた大きな赤提灯やのれんが秋風にたなびき、狡猾(かうくわつ)さうな眼、獰猛(だうまう)な顏、下品な言葉、そして、むつちりした眉の張りもあらはな、姐御(あねご)らしい濃化粧の女のぎよろりとした眼に、こそこそとした媚びた挨拶をするやくざらしい者もあるが、多くはほんたうに生活に窮した人々の必死のあがき、戰災者や引揚者のせつぱつまつた生活の唯一の方法としての切實さがあらはれてゐて、惡と埃のたまり場のやうなこの市場にも、無言のうちに、かかる境地へ追ひおとしてきたものに對する庶民の憤然たる抗議が感じられるのであつた。しかし、まあ理窟はどうでもよい。私は、かういふごたごたした世界が好きなのだからしかたがない。支那や南方にゐるときでも、小盜兒(シヨウトール)市場や賊街市、場末の路地にある小酒家をさまよふことがなによりもたのしみであつたのだから、思ひもかけず戰爭に負けると、支那と同じやうな闇市が日本にもできたことが、私には或る意味でたのしくてたまらないのだ。私は暇さへあればここをうろついた。ところが、いまや、私には隱身のかくれ簑たる蓮の葉がある。たれにも氣づかれず、なんの氣がねするところもなく、すべてを觀察し得る立場に置かれると、闇市場といふものがまつたく異つた表情をもつて私のまへにあらはれてきた。私の身體が人の眼についてゐるときには、私は闇市場の表通りをあるいたにすぎない。ところが姿が消えると、私は空氣のごとく自由にどこへでもはいつてゆくことができる。どんな奧まつたところにはいりこんでいつたところで、たれからも見とがめられる心配はなく、私は飽くこともなく、いつさいの深所をさぐることができるのだ。私が有頂天になつたのはいふまでもあるまい。人間の下等の根性が忍術を得た瞬間に私をとりこにし、これまではとりすましてゐた見榮がすこしも必要ではなくなつて、私はたちまち無間地獄(むげんぢごく)に墮(お)ち、ほとんど惡魔のこころになりはてた。なにをしても人に氣づかれないといふ絶對の安心があれば、人間といふものがなにを欲するやうになるかといふ最後の惡逆の一線まで、私は降りてきたのである。姿を消してゐるときの私といふ別個のものがここにあらたに出現し、蓮の葉をぬいだときにはこれまでの私として、あひかはらずとりすましてをればよくなつたのだ。すこし意味はちがふけれども、どうやら、河童のおくりもののおかげで、私はヂキル博士とハイド氏のやうな具合になつたのである。さうしてヂキルとハイドよりももつと都好合なことに、惡の化身となつた私はいまや全然人の眼につかぬ空氣となつてゐるのだ。はじめは闇市場を面白半分にさまよふたのしみのみに蓮の葉をつかつてゐた私は、なにをしてもたれからも氣づかれないといふ絶對の條件のもとに、しだいに人間の本性をあらはしてきた。

[やぶちゃん注:「小盜兒(シヨウトール)市場」昭和一四(一九三九)年十一月二十三日の原稿受理のクレジットを最後に持つ、満洲の『新大陸』編輯部北本孝尊氏の「滿洲小兒市場と農機具」(PDFファイル)に以下のようにある(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『滿洲名物の一つに、小盜兒市場と云ふのがある。小盜兒(シヨウトル)とは日本の言葉で云へば、泥捧の事である』。『そこで、別の名を泥捧市とも呼ばれ、日本からの旅行者などには、小盜兒市場と云ふよりも、泥捧市の方が通つてゐる位である。もともとこれは、小盜兒市場と云ふ名のものでもなく、本當は露天市場と云ふ歷きとした、公認の名があるのであるが、滿洲名物の小盜兒群が、いつとはなしにさまざまの臟品を持込み、そこに密集してゐる露天商人に二足三文で賣飛ばし、商人達は彼等小盜兒かち捨値同樣で買つたものを他の同業者に轉賣したり又は一般の人々に賣り付ける事が習はしとなり、終には小盜兒群を目當てに一儲けを企む露天商人、古物商人の群れと、反對にこれら露天商人や古物商人を目當てに手當り次第小盜兒を極め込む多數の蠅の樣な連中と、一方盜られたものを探し出し取戻さうとする被害者、盗られはしないがその中から堀出し物を見付け出さうとする好事家などが三つ巴、四つ巴となつて露天市場に出入する内に、小盜兒市場と云ふ現實的な名に置換へられて仕舞つたのである』とある。「小盜兒」は中国音では「xiǎo dào ér」(シャオタゥアール)で、「兒」はこの場合、人を侮り軽んじる卑称の接尾語であって、不良少年や若い子悪党の意ではないと思われる。]

 ところが、私はさういふ狀態のなかにあつて、ただ、あながちに得意滿面としてゐたわけではない。今宵も私は姿を消して闇市場へはいつてきたが、そのたのしさとをかしさの半面には、いひやうもない苦澁をも胸の底に藏してゐたのである。それは私が河童から蓮の葉をもらつてからの三カ月のあひだに、すこしづつ私の胸のなかに芽ばえてきたひとつの懷疑によつて裏づけられ、急速度に惡魔の道へ墮ちてゆく私を、その急速度の速度をすこしはゆるめてゐたかも知れぬものであつた。

 この蓮の葉を私がいちばんはじめにこころみたのは、三カ月ほどまへ、或る知人に對してであつた。知人といつても四五度會つたきりだが、或る日、Mといふその男は同じ年輩くらゐの女をともなつて私の家をおとづれてきた。Mはすこしは文學もやるとかで、自分のかいた原稿を持つてたづねてきてから知りあひになつたのだが、その女といふのも詩や歌をつくつてゐるとのことであつた。Mは小肥りで、猪首の、まじめらしい口のききかたをする、三十四五の男で、復員前の捕虜生活の體驗を書いたといふ長い記錄を私のところへ持つてきてゐた。S子といふつれの女は從妹(いとこ)といふことで、鼻のひくいのが難であつたが、瓜實顏の上品な顏立ちをしてゐた。私と會見して、MとS子との間になにもとくべつな話題の展開があつたわけではない。Mはきまじめな調子で、おきまりの、これから勉強していきたいのでよろしくたのむといふやうなことをいつただけで、口數のすくないS子の方もほぼ同樣であつた。MとS子は三十分ほどゐて歸つて行つたが、送りだしたあとで、ふつと私は蓮の葉をおもひだし、それをかぶると二人のあとからついて出たのである。二人はならんで坂をくだつてゆく。私はただ足音がきこえないやうに注意すればよいので、フエルトの草履をはき、一間とははなれてゐない二人の背後からしたがつて歩いた。つまり私は二人からは絶對に發見されずに、かれらの話すことはことごとくきき得る位置に身をおいたのである。二人の話しかたはがらがらと快活で、私のところにゐたときとはまたつく異つてゐた。わづか數十分前のとりすましたS子のおちよぼ口は、わくりとはまぐり煮つめられた蛤のやうにあいて、間斷なくしやべりたて、Mは傳法に眉をゆすつては卑屈な笑ひ聲をたててゐた。ひとりが、先生、先生ていへばいい氣になつてゐる、といへば、ひとりが、あんなの、どこがえらいの、といひ、片方がこのごろ榮養失調とみえて太鼓腹もへこんだ、あはれをとどめてふきだすのをがまんするのに弱つた、といへば、片方があれは女房の下にしかれてゐる顏よ、といひ、小説家が、それでもあんなのは利用しなくちや駄目だよ、まあ原稿をあづけとばなんとか道をつけてくれるかもわからん、僕のはあんまり自信はない作品だが、なにしろ捕虜生活の記錄といふのはまだ珍しいし、あの先生もそこはなんとか色をつけてくれると思ふのだが、といへば、詩人が、あたしの詩だつて、ほんとは走りがきなんだけど、あのひと女にあまいにきまつてるから、なんかの雜誌くらゐには推薦してくれるかもしれないわ、といつた。男は急になにかおもひついたやうに立ちどまつた。あ、僕はちよつと用事を思ひだした。ぜひ、けふ、誠文堂に寄らなくちやならん、本代を持つてゆく約束をしてゐたんだ、それで、S子さん、すまんが、あなた百圓ほどいま持つてないか、明日かへすが、出るときにうつかりして蟇口(がまぐち)をわすれてきたんだ。さう、いいわ、ちやうど持つてるから。さうかい、ありがたう、そんなら、さきに歸つててくれたまへ。S子が百圓札を一枚とりだしてわたすと、Mはそれをおどけておしいただくやうにしてから、洋服の右ポケツトにつつこんだ。今度はいつ合へるの? さうだな、この次の火曜にしよう、といふ別れの言葉をのこして、二人は町角で正反對の方面に歩きだした。もうすこしと思ひ、私はMのうしろからまたついて行つた。疎開あとの菜園に建てられた共同便所を見つけて、つかつかとMはそのなかへはいつた。さうしてだれもゐないものかげに身をひそめると、服の内ポケツトから、蟇口をとりだして、さつきS子からまきあげた百圓札を無造作に押しこんだ。一枚の紙幣がなかなかはいりにくかつたのは、すでに蟇口には金がつまつてゐたからであらう。それからにたりと笑つて、小便をすませると通りに出た。さうして、そこから二町ほどはなれたところにある、小さな飮食店の、きたないのれんを排して消えた。Mはその店にはいるときには臆病さうにあたりを見まはし、まるでどぶ鼠が石垣の間にかくれるやうに、さつととびこんだのである。あら、Mさん、よくきたわね、といふきんきんした女の聲がきこえた。もうこれ以上Mを追跡する必要も興味もなくなつて、私は家へひきかへした。私はただ苦笑するばかりだつた。

[やぶちゃん注:「M」この男、どうも背後に政治的なスパイの臭いがプンプンするのは私の気のせいか? それにしても札がはち切れんばかりの蟇口というのはどうも胡散臭い。ド素人のチャラ男とは思われないのである。

「一間」一・八メートル。

「わくりと」あんぐりと、とかぱっくりと、と同じオノマトペイアの造語か。或いは……河童語かも知れない。

「傳法に」「でんぽふ(でんぽう)に」或いは「でんぼふ(でんぼう)に」と読む。ここでは、粗暴で無法な振る舞いをするさまを言う形容動詞。原義は芝居や見世物等に無料で押入る者を指す。これは江戸時代、浅草伝法院の寺男達が寺の威を笠に着て、境内の見世物等をタダで見物したことから出た語で、転じて他に、女のいさみ肌・女侠客のことにも用いる。

「二町」約二百十八メートル。]

 蓮の葉の偉力はしだいに私を深味にひきいれた。私はつひに誘惑に負けて、盜みをさへするやうになつた。店頭につやつやしい光澤をはなつてならべられてゐる果物、林檎、蜜柑、柿、葡萄、その一つを私はとる。私の手にふれた瞬間に、林檎でも柿でもすつと消ええる。常人は林檎が減つたことに氣づきはするが、眼前にゐる犯人を發見することはできない。かたはらにゐる者に嫌疑をかけて、口論となり、喧嘩となる。私はまた果物をもとにかへす。商人たちはあつけにとられるが、忍術つかひがさういふことをしたといふことには、毛頭氣づく筈もない。さうして、嫌疑をかけた相手が、こはくなつてかへしたものとし、品物はかへつたが、盜心をにくんで、さらに喧嘩はおさまらない。さいはひにして、そのときは私はそれをいたづらですますことができたが、つひにほんたうの泥棒となるときがきた。冬の雪のなかでも麥酒(ビイル)の好きな私にたいして、ずらりと麥酒の山がきづかれてあつてはたまつたものではない。町では手に入らず、たまにあつても莫大な値段で、新圓には緣のない私など、手の出しやうもない麥酒が、闇市場の倉庫にびつしりと積んであるのだ。もし私が蓮の葉をもつてゐなかつたら、そんなものの存在すら氣づかずにすんだであらう。しかしいまや風のごとくどこにでもはいつて行ける私は、ある夜、喧騷をきはめる闇市場の、裏手の、ほとんどたれも氣づかない石塔場のブリキ小屋が、麥酒の寶庫であることを知つた。足場のわるいまつ暗なその場所に、店のおやぢがときどきこつそり通つては麥酒をとりだしてきた。いやしい私は見ただけでもうぐうと咽喉が鳴り、腹の蟲が猛烈にさわぎだして、どうにも誘惑に勝つことができなくなつた。さうして私は自分の竊盜(せつたう)にたいして牽強附會(けんきようふかい)をおこなつて、みづからの行儀を正常化しようとこころみた。この麥酒はもとはどこから出たか。おそらく配給か業務用かの安い麥酒を横ながしして、眼の出る闇値で賣つてゐるものにちがひない。公定は六圓乃至八圓、それを、ここの値段はだいたい一本六十圓から百圓、さすればあたかもその巨利といふものは泥棒行爲にも比すべきものだ。自分が一本や二本とつたからとて、損害をかけることには全然ならず、むしろその惡德行爲をこらしめることになる。私はさうきめた。泥棒にも一理窟とはこのことであらう。私は鼠小僧次郎吉のやうに義賊となつたわけである。さうして、私はつひにその倉庫から麥酒を二本拔きだしてきた、飮んだ。麥酒の味はにがかつた。酩酊(めいてい)すると、頭からずり落ちさうになる蓮の葉をあわててささへて、逃げるごとくわが家へ歸つた。

[やぶちゃん注:「新圓」昭和二一(一九四六)年二月十六日夕刻、当時の幣原内閣は戦後のインフレーション対策のために金融緊急措置令を発し、新紙幣(新円)の発行と、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策を行った。以下、参照したウィキ新円切よれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから現金確保の為の預金引き出し集中の発生、また一方で政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がり、激しいインフレが発生した対策が背景としてあ』り、『この時同時に事実上の現金保有を制限させるため、発表翌日の十七日より預金封鎖し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で、一九四六年三月三日付けで旧円の市場流通の差し止め、一世帯月の引き出し額を五百円以内に制限させる等の金融制限策を実施した。これらの措置には、インフレ抑制(通貨供給量の制限)とともに、財産税法制定・施行のための、資産差し押さえ・資産把握の狙いもあった。このとき従来の紙幣(旧円)の代わりに新しく発行されたのがA百円券をはじめとするA号券、いわゆる新円である』。『インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は国債等債券同様にほぼ無価値になった』が、『硬貨や小額紙幣は切替の対象外とされ、新円として扱われ効力を維持した。そのため小銭が貯め込まれた。また市民は旧円が使えるうちに使おうとしたため、旧円使用期限までの間は、当局の狙いとは逆に消費が増大した』。『占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。十分な新円紙幣を日本政府が用意できな』かった『ため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた』。『また新円紙幣の印刷が間に合わないため、回収した旧円紙幣に証紙を貼り新円として流通させた。この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。証紙付き紙幣は後に新紙幣との引換えが行われた後に廃止され無効となった』とある(下線やぶちゃん)。因みに本作は昭和二二(一九四七)年九月文芸春秋新社刊の小説集「怒濤」に所収しているから、作品内時制は新円切替からそう時間の経っていない時期であることが判る。]

 私の破廉恥行儀ははてもなくひろがつた。私にあたへられた有利な絶對的位置は、私をさまぎまの欲望にかりたてた。私はつひに友人たちの家庭のなかへしのびこむやうになつた。私はさういふ私の行爲のなりゆきをいちいちここへならべようとは思はない。また語るにたへぬこともあれば、はなすをはばからねばならぬこともある。人間といふものが表と裏とでどんなにちがふものか、また思ひもかけずどんな祕密を持つてゐるものか、さういふことがすべて私の忍術のまへになまなましく、なんのかくしだてもなく露呈されてきた。役人の家にしのびこんで見ると、かれが役所でいつたりしてゐることと正反對の生活をしてゐることがたちどころにわかる。闇を撲滅しなくてはならぬとひとびとに説き、淸廉でとほつてゐる人の家の、押入や、床下、物置などに、闇物資が山積されてゐる。女ぎらひといはれ、女房孝行と評判の男が祕密の場所に女をかこつてゐる。かれらは私がかたはらにゐることなどはまつたくわからないので、どんなことでもいひ、どんなことでもする。人間がたつた一人で、どこからも自分を見てゐる者がないと確信したときに、どんなことをするかといふことが、まざまざと眼前に展開される。私はつひに賤しい色情のとりことなつて、つひに知人の閏房にまで立ちいたる。男女ふたりきりの肉體の饗宴を、部屋のかたすみでじつと見てゐる私といふものは、いつたいなんであらう。晝は髭をはやし、ステッキをふり顎をひねつて鹿爪らしい口のききかたをする紳士が、女とのまじはりでどのやうに獸にちかいおこなひをするか、また、しとやかな明眸(めいぼう)の女がどのやうにこの陶醉のなかでおぼれた姿態をしめすか、しきられた世界のなかで羞恥をわすれられた行爲のたけだけしさは、私の胸を壓し、私を息ぐるしくする。それはしかしきたないばかりではない。含羞(がんしう)のうつくしさをもつておこなはれる淸純のまじはりもあつて、私は人間の祕密がすべて唾棄すべきものばかりだとは毛頭思はないが、いづれにしろ、人の眼からは守られてゐなければならぬ生活の部分が、のこりもなくなまなまと私の眼にしめされるといふことは、さいしよの誘惑による興味と好奇とをしだいに超えて、私にはひとつの試煉となり、苦澁となつてきた。そして、五人もの母親で貞節の名のあるKの細君が、むかし學生時代に戀しあつたことのあるといふ男とよりをもどして、ときどき合つてゐることを知り、そのあひびきの濃艷な場面に立ちあつて、私はつひに忍術の恐怖にとらはれるにいたつた。私の下等な好奇心はいつか私には苦痛をあたへるものとかはつて、蓮の葉にたいする疑念が生じてきた。便利な面白いものとしてよろこんだこの河童のおくりものが、私には重荷になつてきたのだ。たしかに、私はこれによつてなにもかも知ることができる。知人たちのみならず、私の父の、母の、妻の、弟の、子の、祕密をも知らうと思へば知ることができるのだ。じつさい私はさういふ誘惑にしばしばおそはれたが、いまだ私の肉親にたいしてはこれをこころみなかつた。こころみる勇氣がどうしてもわいてこなかつたのだ。知ることがおそろしく、生活の破滅をさそふ戰慄を私にあたへた。人間の眞實をふかく探求することが文學者の使命だといはれる。さすれば私は蓮の葉によつてそのことを苦もなく實現することができる。私の忍術のまへにはなにびともその裸身のすがたをかくすことができない。さうして私のまへにはもはや祕密などといふものはさらになくなつたのだ。私は自分のきらひな人間にどんな復讐でもし、欲しさへすればなんの證據ものこさずに殺人することすら可能である。しかしながら、その倣岸(がうがん)の思惟(しゐ)がしだいに私を倦怠にみちびいてきたとき、私は卒然として、蓮の葉の効用について疑念がわいた。人間の祕密とはなんであらう。またその人間の祕密を飽くなく探求しようといふ文學の熱情とはなんであらう。人間がその智能のゆるされた垣のなかで、あがき苦しむそのやうな熱情の純粹さが、宗教的なものとなつて、人間にかがやきをあたへるのではないであらうか。そこに求道のよろこびもわくのではなからうか。人間のすがたを裏も表もむざんにのぞき知りつくすことが、眞に人間を知ることかどうか。それが幸福かどうか。また、いかにも私の忍術は人間の醜惡と汚濁(をだく)をいつさい看破することはできるが、なほその心情についてはうかがひ知ることのできぬものがある。立派な人物だと思ふ男がかげでは破廉恥な行動をする。あこがれてゐたうつくしい女人が、くらい場所では娼婦にちかいといふことを知る。その知りかたが蓮の葉によるといふことが、自分にとつてはたしてさいはひであるかどうか。私は盜まうと思へば唇すらもぬすむことができるが、そのやうな盜みかたが、自分を滿足させるかどうか。女人を愛し、女人からも愛されて、その愛情の象徴として唇がさしだされるのでなければ、唇の價値がどこにあらう。戀愛の生理は心情に裏づけられなければ、その接觸は動物となんらかはりのないものではないか。人間の祕密の價値はうかがひ知ることのできぬ幕の存在によつてはじめて高められ、うつくしいのではないか。かくて私は蓮の葉を抛棄(はうき)しようといふこころがしだいにきざしてきたのである。人間の祕密はそつとしておいてはじめてうつくしく、またむやみにほじくつてはならぬ祕密もある。その祕密を限界のある人間の凡庸な頭腦と、限定された行動とによつてさぐることのなかに、人間の生き甲斐があるのではないか。手がとどかぬと焦躁する祕密が苦もなく知り得るといふことになれば、その無味乾燥はいひやうもなく、またその倦怠もかぎりがない。私はさうして蓮の葉の効用をうたがひはじめるとともに、このために惡魔となつて墮落してゆく自分の姿に戰慄のこころがわいた。私が探求の姿勢をうしなつたとき、もはや人間の眞實から遠ざかつてゐたと知つて、私の貪婪(たんらん)で下等な趣味、知人の閨房にまで立ちいたる獸のこころにはげしい嫌惡の情がわいた。私は自身にはげしく鞭をあてはじめた。にもかかはらず、なほいやしい私はこのすばらしい隱身の具をただちに破りさる決斷がなかなかつかないのだ。さうして、また、今宵も、麥酒にありつかうといふきたない慾心をいだいて、闇市場へさまよひでたわけである。

[やぶちゃん注:「貪婪」飽くことを知らないこと、大変に欲深(よくぶか)であること、また、そのさま、貪欲の意の「貪婪」は「どんらん」の他にも「とんらん」そして、ここのように「たんらん」とも読む。「貪」の「ドン」は慣用音で、もともとの漢音は「タン」「トン」である。]

 ほとんど毎夜のごとく盜みだすのであるが、闇市の倉庫にはつぎつぎに麥酒が補給されてゐて、無駄足になることはなかつた。私はまたも麥酒をしたたかに飮んで、酩酊した。

 不夜城といはれるこの一角は喧騷にみち、さまざまのにほひが交錯して鼻がいたくなるほどである。ここで幅をきかしてゐる一人の姐御に、私はまへから氣づいてゐたが、「おでん、かん酒」の紺ののれんをかけた、ぐつぐつと關東煮の鍋が湯氣をたててゐる、ブリキ屋根の屋臺のなかに、今宵もかの女は大胡坐(おほあぐら)をかいて、燒酎をかたむけてゐた。年のころは三十前後、大柄で、顏のつくりもすべて大道具ぞろひ、とくに鼻孔が大きいのがめだつが、それでも妙に仇つぽくて、そのはちきれさうな肉體のつやつやしさは、あたりに情念のほむらを放出してゐるやうに見えた。實は私は或る夜この女の歸宅するのをつけて行つて、その家庭の情況を見知つてゐた。闇市を徘徊する屈強の男たちも、この女には一目置いてゐて、女親分といふところだが、じつは家にかへるとよい母親で、五つになる男の子をやさしくいたはり可愛がつてゐた。たれの子かわからないが、その女親分は自分の過失のつぐなひをするやうに、その子に自分の生活のいつさいをささげるといふやうな獻身的犧牲の樣子があらはれてゐた。べつに男が通つてくるでもなく、市場のあばずれは意外に家ではしとやかな母であつた。私が惡魔になりきつてゐたならば、むしあつい夜の、しどけない女の寢姿に不倫の行爲もなし得るのであつたが、私はさいはひに生來の氣弱から、そこへ墮ちることからはまぬがれ得た。あやふい一線である。私は顏があからむばかりだ。動悸もうつ。しかし、私はわづかに淸淨になつて、誘惑から遠ざかる。ところが、今宵は、意外なできごとによつて、私はこの女親分のまへに姿をさらすことになつてしまつた。

 夜明けにいたるまであかあかと灯がたゆたひ、色とにほひと音とが華麗に亂舞して、この不夜城の雜沓はつづくのであるが、その姐御はのこしてある子供が氣がかりになると見えて、たいてい十二時までで店をしまつてかへるのが習慣になつてゐた。その男の子はくりくりとした色白のかはいい子で、腰が海老(えび)のやうに曲つた婆さんが守りをしてゐた。實は私は家を出るときに、鐡製の機關車の玩具を持つてゐた。いつかその姐御の子供がしきりに欲しがつてゐたが、まだ町には木製玩具ばかりで、鐡玩具のすくないときだつた。私はちやうど自分の子供の飽いた機關車があつたので、それを女の子供にやるつもりで、腰にぶらさげてゐた。そこで、姐御が店をしまつて歸路につくと、あとからついて行つた。麥酒をすこし飮みすぎて、若干朦朧としてゐたので、いつものやうにこまかい注意がとどかなかつた。寺のあるくらい通りを、赤緒の下駄を鳴らして急ぎ足で歸るスーツ姿の姐御は、ときどき、怪訝さうにうしろをふりかへる。夜で人通りはまつたくなく、星あかりでかすかに明るかつたが、女がふりかへるのは、私の足音がきこえるからであつた。私はフェルトの草履をはいてゐたので、氣をつければ音はしないのだが、醉つてゐたために、足がみだれて、ときどき、ペたペたと鳴つた。たれも見あたらぬ深夜の町で、一間とははなれてゐない背後に足音がきこえては、いかに豪膽な女でも不氣味にちがひあるまい。巨大な姐御もしだいに不安と恐怖のいろが顏に濃くなつてきて、歩度はさらに早まつたが、たうとう走りだした。私もついて走つた。おくれて、鍵をかけられてしまつては、さすがの私も入ることができないからだ。それはかへつて女を恐れさせた。もはや私の足音はかくしやうがなく、ペたペたぺたぺたぺたと女の背後からくつついてゐたからだ。疎開あとの菜園の横を拔け、煉瓦塀に沿つて、やがて近くなつた女の家への路を、私たちは走つた。

 ところが、奇妙なことがおこつた。女のあとから走つてゐた私は、とつぜん頭をばさばさとかきむしられる氣配に、おもはず、あつと聲をたてた。うしろへひきたふされさうな感じがしたが、とつさのことで、なにかさつぱりわからなかつた。天からにはかになにか落ちてきたかと立らどまつてあふむいたが、空には星がきらめいてゐるばかりで、なんの變化も見られなかつた。すると、立ちどまつてゐた姐御が、ふりむいて、私の方を見、けたたましい、魂ぎるやうな叫び聲をたてると、毬がころげるやうにして一散に逃げだした。ロケットででも押されるやうな速さだつた。かの女はあきらかに私の姿を見たのだ。とつぜん天から降つてわいたやうに出現した私を、亡靈とでも思つたのであらう。なんとしたことか。私は知らぬ間に姿があらはれてゐたのだ。蓮の葉がはづれて落ちたかと地上を見たが、どこにも見あたらなかつた。蓮の葉はのせただけでは落ちやすいので、顎紐をつけて頭巾のやうにかぶることにしてゐた。その蓮の葉がいつかなくなつてゐるのだ。さつきのかきむしられるやうな衝擊はなんであらう。私は腑におちぬことばかりなので、あつけにとられてぽかんと立つてゐた。

 すると、足もとから私をよびかけるものがあつた。ぺちペちと皿をはじくやうな音なので、それが河童であることはすぐにわかつた。河童の姿は見えなかつたが、あきらかに輕侮の念をまじへた語調で、河童は、自分はあなたを見そこなつた。蓮の葉を進呈したのもあなたを信用してのことだつたが、これで姿を消して女のあとを追つかけるやうなことをしてもらふためではなかつた。けふは月の二十五日で、山に石地藏の釘を見にきて、まだ拔けてゐないので、珍しさまぎれに闇市場を見物にきた。そしたらあなたのいやしい行爲に出あつておどろいた。蓮の葉はとりかへすことにする。――さういふ意味のことをいつた河童は、いひ終ると、そのまま立ち去つた模樣であつた。

 私はだまつてゐた。なにもいふことはできない。羞恥で顏が赤らみ、頭がひとりでに垂れた。蓮の葉にたいして疑念がわき、その疑念はいくらか純粹で高貴なものとうぬぼれてゐたのに、なほ優柔不斷で、いさぎよく蓮の葉を抛棄(はうき)する勇氣がなかつた。その未練はやはり助平根性で、日和見的であつた。そしてつひに河童から輕蔑されるにいたつた。蓮の葉をいまは惜しいとはおもはないが、その失ひかたがみづからの心を基點とせず、強奪されることに原因してゐたことは、私の心を重くした。はげしい自己嫌惡のために、私はもはや人に口をきく資格もなくなつたと隱栖(いんせい)の思ひすらわいた。

 悄然と歩をはこんで、私は女の家のまへまで行つた。そして、腰に下げてゐた鐡製の機關車を入口の扉のかたはらにぶら下げると、秋ふかく冷氣のしみる深夜の町を、星あかりに照らされ、重い心をいだいて、家路についた。

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅰ)

[やぶちゃん注:以下、知られた怪歌群「獵奇歌」を正字正仮名で電子化する。西原和海編「夢野久作著作集」第六巻の西原氏の解題によれば、夢野久作の「獵奇歌」は昭和二(一九二七)年から昭和一〇(一九三五)年に亙って『探偵趣味』『獵奇』(この誌名は、この電子データでは一貫して正字で示すことにした)『ぷろふいる』の三誌の探偵小説誌に断続的に発表された、久作の怪奇異常なイメージを短歌した作品群の総称であるが、掲載誌によっては「うた」「獵奇の歌」「れふきうた」という表題で掲げられているものもあり、『恐らくこの「猟奇歌」というのは、作者自身による命名ではなく、同誌編輯部によるものであっただろう』と推測されておられる(因みにこれは私なども「りょうきか」と読んできたのであるが、西原氏によれば、これは「れうきうた(りょうきうた)」と読むのが正しいと記しておられ、ウィキペディアの「猟奇歌」も新字正仮名の「青空文庫」版「猟奇歌」もそう読みを示す)。なお、掲載時の署名は西原氏によれば、『「夢野久作」の他、「ゆめの・きうさく」「Q」「夢の久作」などが用いられ』ているとある。

 底本は西原和海編「夢野久作著作集」第六巻を元とした。これは編者西原氏が『久作の「猟奇歌」は、本巻に集成した形をもって、いわば〝定本〟の体裁を有したことになる』と記されておられる、現在の望み得る最上の「獵奇歌」のテクストだからである。但し、例によって私のポリシーによって発表当時の雰囲気、更には正字の持つところの私が勝手に呼ぶ〈擬似的「獵奇性」〉を味わうために、恣意的に正字に変換してある(何度も述べているから一言だけにするが、「蟲」と「虫」、「戀」と「恋」では見た一瞬の印象が全く異なる)。なお、今回は作業時間を短縮するため、加工用の原データとして「青空文庫」版「猟奇歌」(柴田卓治氏入力・久保あきら氏校正版)を使用させて戴いた。ここに記して厚く御礼申し上げる(因みに、青空文庫版は新字であり、しかも筑摩書房ちくま文庫一九九二年刊「夢野久作全集」第三巻(私は所持しない)が底本で、そこには西原氏が底本解題で夢野久作の作ではないと断定されておられる八首が混入している点に注意されたい。当然のことながら、その八首は私の以下の電子テクストからは除外してある)。前書は底本の情報に従い、前に掲げ、書誌データは掲載誌分短歌の後に、( )で附した。]

 

 

 

獵奇歌(れふきうた)   夢野久作

 

 

 

殺すくらゐ 何でもない

と思ひつゝ人ごみの中を

濶歩して行く

 

ある名をば 叮嚀に書き

ていねいに 抹殺をして

燒きすてる心

 

ある女の寫眞の眼玉にペン先の

赤いインキを

注射して見る

 

この夫人をくびり殺して

捕はれてみたし

と思ふ應接間かな

 

わが胸に邪惡の森あり

時折りに

啄木鳥の來てたゝきやまずも

 

 

   (昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』・署名「夢野久作」総表題は「うた」

[やぶちゃん注:『探偵趣味』に載ったのはこの一回のみ。『探偵趣味』は「探偵趣味の会」により大正一四(一九二五)年九月の創刊されたもので、同会は江戸川乱歩(乱歩は三重出身で早稲田大学政治経済学部予科に入るまでの青少年期は名古屋で過ごした)と『大阪毎日新聞記者』春日野緑が発起した関西系探偵小説同人誌である。] 

 

 

此の夕べ

可愛き小鳥やはやはと

締め殺し度く腕のうづくも

 

よく切れる剃刀を見て

鏡をみて

狂人のごとほゝゑみてみる

 

高く高く煙突にのぼり行く人を

落ちればいゝがと

街路から祈る

 

[やぶちゃん注:「高く高く」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

殺すぞ!

と云へばどうぞとほゝゑみぬ

其時フツと殺す氣になりぬ

 

人の來て

世間話をする事が

何か腹立たしく殺し度くなりぬ

 

今のわが恐ろしき心知るごとく

ストーブの焰

くづれ落つるも

 

ピストルのバネの手ざはり

やるせなや

街のあかりに霧のふるとき

 

ぬす人の心を抱きて

大なる煉瓦の家に

宿直をする

 

かゝる時

人を殺して酒飮みて女からかふ

偉人をうらやむ

 

人體のいづくに針を刺したらば

即死せむかと

醫師に問ひてみる

 

春の夜の電柱に

身を寄せて思ふ

人を殺した人のまごゝろ

 

殺しておいて瞼をそつと閉ぢて遣る

そんな心戀し

こがらしの音

 

ピストルの煙の

にほひばかりでは何か物足らず

手品を見てゐる

 

ペンナイフ

何時までも銹さびず失くならず

その死にがほの思ひ出と共に

 

 

   (昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』・署名「ゆめの・きうさく」・総表題は「獵奇歌」

 

 

 

一番に線香を立てに來た奴が

 俺を…………

………と云うて息を引き取る

 

若い醫者が

 俺の生命を預つたと云うて

ニヤリと笑ひ腐つた

 

だしぬけに

 血みどろの俺にぶつかつた

あの横路地のくら暗の中で

 

頭の中でピチンと何か割れた音

 イヒヽヽヽヽ

……と……俺が笑ふ聲

 

白い乳を出させようとて

 タンポヽを引き切る氣持ち

彼女の腕を見る

 

棺の中で

 死人がそつと欠伸した

その時和尚が咳拂ひした

 

[やぶちゃん注:「欠伸」は底本のままとした。私は初出誌は未見であるので、事実そうであるかどうかは不明であるが、私は私の「氷の涯」の電子化作業の中で、久作が「欠伸」(あくび)と記す場合、他の「缺席」などと異なり、「欠」を用いている事実に従った。]

 

抱きしめる

 その瞬間にいつも思ふ

あの泥沼の底の白骨

 

ニセ物のパスで

 電車に乘つてみる

超人らしいステキな氣持ち

 

靑空の隅から

 ジツト眼をあけて

俺の所業を睨んでゐる奴

 

自轉車の死骸が

 空地に積んである

乘つてゐた奴の死骸も共に

 

闇の中から血まみれの猿が

 ヨロヨロとよろめきかゝる

俺の良心

 

[やぶちゃん注:「ヨロヨロ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

監獄に

 はいらぬ前も出た後も

同じ靑空に同じ日が照つてゐる

 

白い蝶が線路を遠く横切つて

 汽車がゴーと過ぎて

血まみれの戀が殘る

 

見てはならぬものを見てゐる

 吾が姿をニヤリと笑つて

ふり向いて見る

 

眞夜中に

 心臟が一寸休止する

その時にこはい夢を見るのだ

 

枕元の花に藥をそゝぎかけて

 ほゝゑむでねむる

肺病の娘

 

倉の壁の木の葉が

 幽靈の形になつて

生血がしたゝる心臟が

切り出されたまゝ

 

 

   (昭和三(一九二八)年十月号『獵奇』・署名「Q」・総表題は「獵奇歌」

 

 

 

けふも沖が

 あんなに靑く透いてゐる

  誰か溺れて死んだだんべ

 

[やぶちゃん注:「だんべ」小学館「日本国語大辞典」によれば、これは「だんべい」或いは「だんべえ」で連語「であるべし」の変化したもので、「であろう」「だろう」の意の関東方言とするが、同義の用法としての方言としては他に、「だんべい」「だんべえ」で山形・福島・茨城・栃木・群馬・埼玉・神奈川・山梨・静岡(加茂郡)が、「だべ」で青森・秋田が、「だべい」で岩手(東磐井郡)・福島が、「だっぺい」で福島(南部地方)・茨城・群馬・千葉が、「だっぺ」で新潟(南魚沼郡)が、そして本歌の表記の「だんべ」では岩手・秋田・栃木・埼玉が採集例示されてある。歌には「沖」とあるから、ロケーションが地方で、ネイティヴであるとすれば、この情景は岩手か秋田の可能性があるとは言えるかも知れない。]

 

水の底で

 胎兒は生きて動いてゐる

  母體は魚に喰はれてゐるのに

 

日が暮れかゝると

 わが首を斬る刃に見えて

  生血がしたゝる監房の窓

 

あの娘を空屋で殺して置いたのを

 誰も知るまい

  藍色の空

 

地平線になめくぢのやうな雲が出て

 見まいとしても

  何だか氣になる

 

血だらけの顏が

 沼から這ひ上る

  俺の先祖に斬られた顏が

 

啞の女が

 口から赤ん坊生んだゲナ

  その子の父の袖をとらへて

 

ドラツグの蠟人形の

 全身を想像してみて

  冷汗ながす

 

[やぶちゃん注:これは恐らく、当時流行った衛生博覧会の薬物中毒者の激しく損壊した身体の一部を模したムラージュであろう。ムラージュ(Moulage)とは傷病の記録や医療教育に使用された模型などの呼称で、特に皮膚学会に於いて本邦の旧医学界で盛んに用いられた、驚くべきリアリティで再現された蝋製病理標本である。因みに、久作の生地、福岡の九州大学には大正初期から五百体近くのムラージュが製作され、置かれてあった(九州大学公式サイト産業医科大学皮膚科学名誉教授・九州大学皮膚科自遠会会長旭正一氏の「ムラージュについて」に拠る)。こちらで現存するそれらのムラージュを見ることも出来る(但し、縦覧してみたが、この中には薬物中毒病変由来のものは残念ながらない模様である)。但し、ムラージュ乍ら、頗る強烈であるから、久作の詠うように「冷汗ながす」ものである。……クリックはくれぐれも自己責任で。……♪ふふふ♪……【2017年4月7日追記】「ドラツグ」を違法薬物の「ドラッグ」と思い込んでいたのであるが、本日、ツイッターの間武氏の投稿で、江戸川乱歩の「悪魔の紋章」の中に蝋人形の製作会社名として出ると知り、早速、たまたま所持していた光文社文庫版(二〇〇三年刊)全集の同作のそこの注を見たところ、『薬小売の全国チェーンである有田ドラッグ商会が、ショーウィンドーに性病患者の性器や顔の蠟人形を展示していたことがモデルとなっていると思われる』とあった。この「ドラツグ」もそれだったのだ!

 

自分が轢いた無數の人を

 ウツトリと行く手にゑがく

  停電の運轉手 動いてゐる

 さても得意氣にたつた一人で

 

暗の中で

 俺と俺とが眞黑く睨み合つた儘

  動くことが出來ぬ

 

すれちがつた今の女が

 眼の前で血まみれになる

  白晝の幻想

 

自惚れの錯覺すなはち戀だから

 子供は要らない

  ザマア見やがれ

 

ピストルが俺の眉間を睨みつけて

 ズドンと云つた

  アハハのハツハ

 

毎日毎日

 向家の屋根のペンペン草を

  見てゐた男が狂人であつた

 

夏木立ヒツソリとして

 ぬす人の心の色に

  月の傾むく

 

カルモチンを紙屑籠に投げ入れて

 又取り出して

  ジツと見つめる

 

[やぶちゃん注:「カルモチン」しばしば自殺に用いられる睡眠剤の商品名。正式な化合物名はブロムワレリル尿素(bromvalerylurea ブロムイソバレリルカルバミド)。ウィキの「ブロムワレリル尿素」によれば、一九〇七(明治四十年)に登場した薬物で、『商品名としては、「ブロバリン」(Brovarin、日本新薬)、「リスロンS」(佐藤製薬)「カルモチン」(武田薬品工業・販売中止)がある。現在市販され、ブロムワレリル尿素を含有する鎮静剤には、「ウット」(WUTT、伊丹製薬、アリルイソプロピアルアセチル尿素などとの配合剤)がある。また、鎮静作用から市販の鎮痛剤にも配合される』。かつてはバルビツール酸系(尿素と脂肪族ジカルボン酸とが結合した環状化合物)よりも『中毒になり難い事などから良く用いられたが、ベンゾジアゼピンの登場により廃れ、現在では医療用としては殆ど用いられない』。後の一九五〇年代から一九六〇年代の『第二次自殺ブームの主役となった薬であり、多くの若者がこの薬で自殺を試みた。そのため、自殺を防ぐ目的で市販薬では一定量を超えた薬は発売が禁止され、医師が発行する処方箋の必要な要指示薬に変更され』ているとある。『自殺目的などで大量服用し急性中毒を引き起こす場合があるが、致死性は低』く、『太宰治は生涯心中を含めカルモチンによる自殺を幾度と無く図るも何れも未遂に終わ』っているともある。]

 

色の白い美しい子を

 何となくイヂメて見たさに

  仲よしになる

 

   (昭和三(一九二八)年十一月号『獵奇』・署名「Q」・総表題は「獵奇歌」

ついさっき! うれぴーことあり!

ついさっき、三重県立美術館の公式Twitterが同館蔵の村山槐多遺稿での校合を目論む僕のツイートを「お気に入り」に入れて下さった!! うれぴー!!!

夢野久作詩歌集成 『心の花』掲載短歌群 大正五(一九一六)年

 

   未だ見ぬ國

 

秋の夕かのニコライの鐘打てば病院の窓いくつ閉すも   杉山萠圓

 

[やぶちゃん注:これ、ロケーションが病院であるところに膽(まさに「キモ」)がある。]

 

麥の芽の黑土原に輝やけば羽根大きなる鳶低く飛ぶ

 

山の彼方まだ見ぬ國に巨人ありて寢そべりて居る秋高晴るゝ

 

黑ん坊が腕組をして立ち並ぶ平たく丸き落日の下

 

まじめなる吾が顏をふと見出でけり厨の隅の水甕の底

 

野の涯に破れたる甕の捨てゝあり中に一匹のこほろぎ住めり

 

[やぶちゃん注:禪の公案を髣髴とさせる。]

 

秋の風山の手線のシグナルのカタリと色をかはしける哉

 

梨畑の雞を鼬にとられにき其夜の月はまんまるかりき

 

[やぶちゃん注:既にして猟奇歌。]

 

あやつりのおいらんの首がつくりとうなだれて見る秋の夜の灯

 

[やぶちゃん注:後の川柳「あやつりは役目が濟むと首を釣り」より遙かによい。やはり既にして遙かに猟奇歌。]

 

艸に來て艸の色してきりぎりす今宵の月に霜に枯るるか

 

男はありと云ふ女は無しと云ふ何事かしらず冬になりゆく

 

[やぶちゃん注:ありがちな前衛短歌のようだが、面白い。]

 

樹の幹をわが拳もて打ちたゝきわが罪責むる冬のたそがれ

 

   (大正五(一九一六)年二月号)

 

 

 

眼閉れば風の聲のみ胸に滿つ雲行き絶えよ草枯れ果てよ   杉山萠圓

 

春淺みしろかねの矢の野に落ちてゆくへもしらず曉となる

 

血ばしつた卵の黄味のおそろしやまん中の眼のわれをにらめる

 

[やぶちゃん注:目の付け所がよい。久作ならではの一首である。]

 

此月此日水より淡き陽の下に風茫々と野山をめぐれる

 

霜の朝殘んの月に似たる哉此の世を寒くひとり行く身は

 

[やぶちゃん注:「殘んの月」老婆心乍ら、「のこんのつき」と読む。明け方の空に残っている月、残月のこと。]

 

(大正五(一九一六)年三月号)

 

 

 

   重たき雨

 

春いく日心重たき雨の色緋に紅に崩るゝ牡丹   杉山萠圓

 

渡殿に燭のまばたく夢心地牡丹はいつか崩れ了(をは)んぬ

 

から國の御代も果かや力なし牡丹のいくつ崩れゆく春

 

春いく日褒姒(ほうじ)は遂に笑まずして牡丹のいくつ崩れ了んぬ

 

[やぶちゃん注:「褒姒」西周の幽王の后で、決して笑わない絶世の美女(名は陝西褒城にあった姒姓を持つ国人の国である褒が献じた女であったことに由来するという)。幽王は彼女を何とか笑わようとするが悉く失敗する。ところが、たまたま、手違いで諸侯を参集させる合図の烽火(のろし)を上げてしまい、諸侯が群参する様を見たところが、彼女が微笑んだため、彼はその後、褒姒の微笑み見たさに、たびたび烽火を上げ、諸侯は辟易してしまう。後に彼女のせいで幽王の后の座を追われた申后の父申侯が西方の異民族犬戎(けんじゅう)とともに幽王を攻めてきた。直ちに烽火を上げたが、諸侯は何時ものそれと呆れて全く参集せず、幽王は殺され、西周は滅んだ(褒姒の消息は捕虜になったとも殺されたとも伝え定かではない)殷の妲己(だっき)・夏の末喜(ばっき)と並ぶ傾城傾国の美女とされるが、唯一、私の好きなファム・ファータルである(いや、もう一人、越の西施がいた)。]

 

花の雨わびつゝひとり帶とけば夢心地して燭のまばたく

 

南國の淫らなりける罪悔いて毒を仰ぎし黑ダリヤ花

 

[やぶちゃん注:キク目キク科キク亜科ハルシャギク連ダリア属 Dahlia の内濃い暗赤色の花弁の色を持つダリア。グーグル画像検索「ダリア」をリンクしておく(因みに、その向きの好きな方は即座に小説にもなったアメリカで起ったブラック・ダリア殺人事件を思い出されるであろうが(私も実はそうであった)、あれはずっと後、戦後の昭和二二(一九四七)年一月の事件である。]

 

彼の女ゴジツク式の寺の窓暮るゝが如くわれとへだてぬ

 

紫陽花が田舍を出でてはるばるとお江戸に着きぬ五月雨の頃

 

   (大正五(一九一六)年五月号)

夢野久作詩歌集成 『心の花』掲載短歌群 大正四(一九一五)年 

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」に「未だ見ぬ国」の総表題で載る佐々木信綱主宰の竹栢会の短歌雑誌『心の花』に掲載された短歌六十一首である(但し、この総表題は以下の大正五(一九一六)年二月号の『心の花』掲載分の前書を西原氏が選んで掲げられたものと思われるので、ここでの電子データの総表題としては外した。因みに、歌群には前書を持たない歌群もある)。これらは西原氏の解題によれば、『心の花』大正四(一九一五)年七月号から翌大正五年五月号までの間で、七回(大正四年九月号・十一月と大正五年一月号は除く)に亙って発表された、夢野久作こと「杉山萠圓」(署名)の短歌である。既に本詩歌集成の冒頭注でも述べた通り、これらは大正六(一九二七)年の雑誌『黒白』で本格的な作家活動を始める二年も前の作品群であるが、西原和海氏が「夢野久作著作集 6」(二〇〇一年七月一日発行)の校了直前に発見され、急遽、同書に差し込まれたものであって、現在知られている夢野久作の作品群の中でも最も近年になって見出され紹介された貴重なものである。西原氏の労に謝意を表しつつ、電子化するものである。各号最初の一首の末に署名を附した。掲載誌情報は底本に従い、後に( )で附した。]

 

   有明月

 

月一つ親船ひとつ大川のおぼろおぼろと海にまじはる   杉山萠圓

 

置時計コロンととけて唱ひ出すラマルセールの春のたそがれ

 

[やぶちゃん注:「ラマルセール」フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)のことであろうが、こうした音写は現在では見られないし、当時としても一般的であったとは思われず、歌語としては無理がある。]

 

ばるこんと樅の一樹と靑白き瓦斬の光りにしめる瀧夜

 

[やぶちゃん注:「瓦斬」は「瓦斯(ガス)」誤植のように思われるのであるが、「瓦斬」で検索をかけてみると、よく分からないが(それらも誤植なのかどうかが不明乍ら)、「ガス」の意味で「瓦斬」と記す記載を散見出来る。但し、「瓦斯」の「斯」は中国音の「スー」の音を用いたものである以上、「チャン」である「斬」を用いるのは慣用であったとしても誤りである。翌月号に出る一首では正しく「瓦斯」とあり、これは雑誌側の誤植である可能性が高いかも知れない。]

 

小糠雨床屋のびらの赤いんきしたゝりつくす長きひねもす

 

加賀樣のお屋敷うちの遲ざくら電車にとほく森閑と咲く

 

人行かぬ化學教室のうら庭の夕日にならぶサフランの花

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。――「人行かぬ」「化學教室のうら庭」「夕日」というロケーション――そこに夥しく咲き並ぶ紅紫のサフラン(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科クロッカス属サフラン Crocus sativus)の色――既にして薬品臭の中に猟奇の匂いが私には漂っているように感じられる。]

 

有明の月のおもてにうすらぐはみじかき夢のかなしみの痕

 

五月雨は靑葉の底のお茶の水江戸のけがれを海へ海へと

 

しげりあふ心の森の暗きをば舌なまぐさき蛇這ひいでよ

 

[やぶちゃん注:佳品。]

 

子供等が唾を吐きてははやし居る若葉の谷のお茶の水橋

 

京はづれ珠數屋の店の打ち水に何か涼しく蝶のとひ寄る

 

不幸なる兒は大連にありといふ婆を雇ひぬ梅にがき頃

 

   (大正四(一八一五)年七月号)

 

 

 

   日の威力

 

眼醒むればまことや昨夜靑桐にうつつときゝし五月雨の音   杉山萠圓

 

瓦斯の灯をとほしくさりて電車待つ女の暗に五月雨ぞ降る

 

[やぶちゃん注:「灯」は底本のままで正字化しなかった。夢野久作の「氷の涯」の初出正字正仮名版を電子化した経験上、久作は「灯」と「燈」を厳密に使い分ける傾向が顕著であるからである。]

 

五月雨の大東京を去る夕べ空に虹呼ぶニコライの堂

 

[やぶちゃん注:「ニコライの堂」東京都千代田区神田駿河台にある日本ハリストス正教会の首座主教座大聖堂(ロシア正教会の聖堂ではない)。「ニコライ堂」は日本にロシア正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(後に大主教)聖ニコライに因む通称で、正式名称は「東京復活大聖堂」で「イエス・キリストの復活を記憶する大聖堂」の謂いである。緑青を纏った高さ三十五メートルのドーム屋根を特徴とする日本初にして最大級の本格的ビザンティン様式の教会建築と言われる。明治二四(一八九一)年の竣工で駿河台の高台に位置していたため、御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。この後の関東大震災で大きな被害を受けたが、一部の構成変更と修復を経て現在に至る。国重要文化財(以上はウィキの「ニコライ堂」に拠る)。]

 

風鈴を彼女は見遣り其頰を吾れは睨みて暮るゝ五月雨

 

樹には樹に草には草に夜半の夢結ぼれ兼ねつ五月雨の音

 

夏は來ぬ沖津潮風吹き晴らす離れ小島も靑葉見ゆれば

 

靑葉わか葉文机はやくたそがれて池水にのみ降るか五月雨

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。]

 

夕榮えは天の僞り地の罪の血を血に洗ふくるしみの色

 

ゆあみして旅の心となりにけり都に六里靑葉する宿

 

人買ひと友の叫ぶに逃げ後れ坐りて泣きぬ夕凪の濱

 

[やぶちゃん注:久作版幼年思慕篇か。]

 

今死なむ女の前にさり氣無く海月の光浮かす夕凪

 

眞靑き空一ぱいの日の威力死に蠅を引く蟻に凝まる

 

[やぶちゃん注:「凝まる」は「かたまる」お訓じていよう。秀逸の一首と詠む。]

 

   (大正四(一九一五)年八月号)

 

 

 

硝子瓶したゝる水の一滴に小さき秋の世界かゞやく   杉山萠圓

 

くろき雲いま團々と行く下の赤土山にわれは鍬ふる

 

[やぶちゃん注:以下、第一書房版「夢野久作全集」第七巻の中島河太郎氏の年譜によれば、久作は明治四三(一九一〇)年に慶應義塾大学分科に入学したものの、二年後の明治四五(一九一二)年、文弱を嫌った父茂丸の厳命(同年中に久作の愛弟が急死、父茂丸はそれを下らぬ勉学が元凶と断じたことに因る)によって中退、翌大正二(一九一三)年身体養成と称し、やはり父の命によって福岡県糟屋郡香椎(かしい)村唐原(とうのはる)(現在は福岡市東区唐原)で杉山農園を経営することとなったが、『生来農業は不得手であったため、経営方法は損得を超越し』たものとなり、失敗、翌大正四(一九一五)年、『思索的反省的な性格は農夫生活におちつけず、東京本郷の喜福寺で剃髪、直樹を泰道と改め』、その後はウィキの「夢野久作」によれば、『奈良や京都で修行し、吉野山や大台ケ原山に入』ったとある。しかし、二年後の大正六年には継母幾茂が産んだ弟五郎が亡くなって杉山家を久作が継がねばならなくなり、福岡へ戻って法名のまま還俗、再び唐原の農園経営に戻っている。時期的には微妙であるが、この一首はその最初の農園生活での一齣であるように思われる。]

 

眼に見えぬ悲しき魂が音立てゝ林の落葉うづまき去るは

 

樹々は皆われを見守る如くなり秋のまひるの靜かなる山

 

   (大正四(一九一五)年一〇月号)

 

 

 

   秋日和

 

賢こきは都に殘り愚なるは田舍にかへり秋更けにけり   杉山萠圓

 

[やぶちゃん注:「くろき雲」の私の注を参照されたい。]

 

かゝる時靑も香も無くわれ死なむ御空に土にまどかなる秋

 

秋の風今日勝馬の口取りて色旗樹てゝ薄原行く

 

[やぶちゃん注:「樹てゝ」老婆心乍ら、「たてて」と読む。]

 

小兒等が色付硝子眼に當てゝ美しと呼ぶ秋日さす街

 

ちんちろりんちんちろりんと蟲の鳴く眼をまんまるくみはる闇の夜

 

自轉車のがたがた云ふがうしろより追ひぬけて行く秋の野の道

 

さるをがせ森吹く風になびく時行者の鈴の近よりて來る

 

[やぶちゃん注:「さるをがせ」菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ(猿尾枷/猿麻桛)属 Usnea に属する地衣類の総称。ブナ林など落葉広葉樹林の高度の高い森林の樹上の樹皮に付着して枝か細い葉のように枝分かれして垂れ下がる糸状の地衣類。]

 

枯れし樹の梢あふげば大空のわがふる里のなつかしき哉

 

   (大正四(二九一五)年十二月号)

2015/07/17

本日はこれにて閉店

本日はこれにて閉店――心朽窩主人敬白

命   村山槐多

 

  命

 

命はかすれながらつづく

それは色のけむりだ

 

それは薄いひくい紫の色階だ

それは消え去るもので

しよせんは一またたきのまぼろしだ

 

その薄いけむりはつづく

その命にささへられて肉體は立つ

 

ピストルを打つ樣に光をうつ

日の強さ

 

それを幽かにかすめて

薄い紫がつづく

 

    ×

金色の酒をくみて

うたひさはぎしあとに

つかれおぼえて

吐きし薔薇色の酒よ

うらめしきその酒、

 

    ×

黑い顏の男よ

紫じみて見える男よ

すこし狂じみても居る男

泣くな

なげくな

しよげるな

 

日毎にお前は海べりの砂丘に

よろめき上る

狂の樣に日にあたつて居る

暑くはないか、くるしくはないのか

物ずきな男よ

 

お前はゾロアスタ一教徒か

日にかつえて居る男

日に裸をこがしては

泣いたり笑つたりひつくりかいつたりする男よ

 

 

[やぶちゃん注:「全集」年譜の大正七(一九一八)年(二十三歳)には、十月の中旬頃として(以下に見るように年譜であるため「全集」では十月に相当の部分が太字)という書き出しで以下のように記されてある。少し長いが、詩篇を読み解く上で、当時の槐多の心境を押し量るにどうしても必要であり、本詩篇の成立時期を推理する上でも欠かせない。筆者の山本太郎氏も許して下さるであろう。

   《引用開始》

一〇月の中旬頃、外房の波太という小さな漁村外房の波太という小さな漁村に塊多はいた。そして勝浦の東条村の東条病院に入院した。京都時代に過したあの土蔵に似た部屋が病院の分院に使われていた。

 しかし塊多は日々回復する健康を信じ、再生の悦びにもえ、九十九里の片田舎から脱出しようと決心した。一日に二、三里ずつ歩いて東京へ出ようとして歩きはじめ、七日目の夕方彼はついに倒れた。旅人宿にもぐりこむと喀血が塊多を襲った。再生の悦びは忽ち昏い絶望にかわった。

 塊多は宿屋をとびだすと近所の酒屋へかけこみ酒を一升かった。それをのみながら海の方へ歩いて行った。海辺の宿にいるという若い画家をたずねた。彼はあっけにとられているその絵かきをつかまえ気炎を吐いた。心は虚ろであった。岩礁の方へかけて行った。残った酒を毒のようにあおり、のんでは血を吐き、血を吐いてはのみつづけた。岩の上は紅に染った。潮がみち槐多の体を濡らした。彼はいまは冴えかえった意識で静かに死を待っていた。

 浜の料亭で漁夫たちがさんざめく声がきこえてきた。しかし一時間の後、枕多は宿の主人に発見され車で病院へおくられた。雨が降ってきたので親切な宿の主人は傘をもって海岸へ彼を探しにきたのだ。

 電報におどろき山本鼎もとんできた。一〇日ばかりたち、槐多は鴨川からの汽船にのり東京へ帰った。

 牛込の両親のもとに数日いた彼は、再び代々木の奥の一軒家を借り、最後の孤独な生活に入っていった。

   《引用終了》

この「波太」は「はた」と読むが、明治までは「なぶと」と訓じたらしい。九十九里の遙か南の南房総、現在の鴨川市太海(ふとみ)で内房線安房鴨川駅の一つ手前である。

 次に同じ時期とその後を草野心平の「村山槐多」の年譜で見よう。

 先の詩篇で引用したように、九月『二十五日、小杉未醒から送金十円を旅費にし、汽車で勝浦に行き、高砂館に投宿する』に続いての部分である。

   《引用開始》

 十月中頃、小湊、天津あたりの安宿を転々とし、波太という漁村で多量に喀血、瀕死の状態に陥る。鴨川町東條村の東條病院に運び込まれ、同病院に入院。[やぶちゃん注:中略。]

 十月末頃、幾分健康を回復し、見舞に来た山本二郎に付添われ、鴨川発の汽船で帰京する。

 帰京した翌日から、牛込区神楽町の両親の許で静養する。

 十一月、当時本郷区駒込東片町に住み、清水汽船他数社を経営する実業家・清水賞太郎から、椀多、山崎省三、今関啓司の三人に奨学金が毎月三十円ずつ支給される(清水賞太郎からの三人への奨学金付与は、同氏と懇意だった山本鼎の口利によるものである)。

 十一月末、奨学金により、東京府豊多摩郡代々幡町大字代々木千百十八番地の一軒家を借りる(代々木練兵場や駒場農科大学へは近くであったが、東京の電車路へは遠く、新宿に通じていた京王電車へ出るには十五、六町の距離があった。六畳・四畳の二間に台所の付いた家で、「鐘下山房」と自ら名付ける)。

   《引用終了》

まるで、宿痾から解き放たれたかのような草野の書き振りであるが、実際には――この後、三ヶ月後の――翌大正八(一八一九)年二月二十日未明――村山槐多は――白玉楼中の人となるのである……。

……因みに、ここに出る波太は、かの、つげ義春の「ねじ式」のモデル地なのだった!――ナビ」ページの「空想をかきたてる路地たち」という写真を是非クリックされたい。あの蒸気機関車が飛び出してくる路地だ!――そうか?! 迂闊だった!……「やなぎや主人」の内房線で向かったN浦といい、そこでの男のかのステキに猥雑でステキに梶井的なその振る舞いといい……実は――つげのイメージは遠く梶井基次郎とともに村山槐多とも通底していたのだった!……
 
「うたひさはぎしあとに」の「さはぎし」はママ。「ひつくりかいつたり」もママ。]

わが命   村山槐多 (附 冒頭稿及び異同)

 

  わが命

 

あぶの樣にうなつて居るわが命よ

お前はまだお前の本體にかいらぬか

病んでから五月はたつた、

死神の手からにげて四月はたつた、

お前はまだ幽かにうなつて居る

お前はまだ影だ

こはれたまゝだ

 

情なき汝が聲よ

いかに自分が完全なる充溢せる汝をのぞんで居るかを知るか

私ののぞんで居るのは

張り切つたツヱツペリン航空船の樣な命だ

はぜんとするダイナマイトだ

人をけ殺す狂馬の命

羅馬の鬪士が命だ

 

まだお前は自分の心を滿たさぬ

そんなかげろうの樣な

すゝりなくヴヰオロンの樣な命

つぶやきうなるのをやめろ

力と量とを得ろ

 

    ×

樂器の如くなりひびく少女を腕にかかへたや

 

    ×

性慾をどう始末すべきかまだまださしせまつた事ではないらしい

 

    ×

愛らしい少女に□□□を描いてみせたら

少女の顏はさらに愛らしく輝やいた、

色情はすべての美の元か

 

    ×

古いひようたんが木に吊るさがつてしんとして居る

 

    ×

わが體なにとなくだるし是はやまひ故か氣のつかれか

 

    ×

この秋は吉か凶か、しかしそれどこではない、

 

    ×

赤酒を盛りし杯をはこぶウヱーターか

われはわがともすれば溢れ出でんとする

血をもちて生く

 

    ×

砂上にあふむきにひつくりかへる時空は

菲萃に澄み微風海より吹く、

この恍惚たる生の一瞬、

 

    ×

時としてわが心、身をはなれ空より

われとわが身を見る、

砂上に横たはる痛ましき人肉一片、

 

    ×

鋼鐵の肌をもちし小女よ

その肌を日に燃やして戀するか、

 

    ×

ルユーベンスの油畫流れよりしと思ひしは

海中にすつくと出でし漁夫の體

 

    ×

病んで居るギリシア人でありたい、

 

    ×

世界は赤だ、靑でも黄でもない、

 

    ×

あるすてばちの心を自分は起す、

しかしすてばちにはもう何べんなつたろう、

すてばちはもう自分をなぐさめなくなつた

 

    ×

おれのつなわたりも終りにちかづいた、

つなは斷れさうだ

 

 

[やぶちゃん注:結核罹患後の詩篇であることが具体的に明確に記されている、現存する中で最初の詩篇である。「病んでから五月はたつた、/死神の手からにげて四月はたつた、」――彼の結核性急性肺炎の発作(推定)は大正七(一九一八)年四月中旬で(同四月末までには小康状態を取り戻したかのように「全集」年譜では読めるが、果して本当にそうかどうかは分からない。寧ろ、「死神の手からにげて四月はたつた」という謂いから考えるなら、一時的な小康状態に復したのは五月中下旬であったと断言してよい)、草野心平の「村山槐多」(昭和五一(一九七六)年日動出版刊)の年譜の方がこの辺りの事実記載は詳しく、それによれば、『六月、一時治癒していた結核性肺炎が再発』(細かいことだが、結核罹患ではこういう「結核性肺炎が治癒」という謂い方自体がおかしいと私は思う。五月蠅いと思われるであろうが、かく拘るのは私自身が結核性カリエス――肺ではないが、彼ら結核菌のシツコさはあなたがたよりはよっぽど詳しい――の罹患経験者だからである。悪しからず)『山崎省三との共同生活を打ち切り、牛込々神楽町の両親の家に移る。神楽町の自宅で「煙草吞み」(百号)を院展に出展すべく製作する』(これは落選し、後に破り捨てた)。『八月中頃、健康回復を期して房州に出掛ける。鳴浜村の木賃宿(稲荷屋)に投宿』したとある(この時点では発症から四ヶ月で、ここの。「病んでから五月はたつた」に一ヶ月足らない)。この間、九月七日に院展のために上京し、三日後の十日には友人『山本二郎と連れ立ち作田』(現在の千葉県山武郡九十九里町作田(さくだ。九十九里町の北側に位置する。作田川を隔てて南西側が前に出た片貝で、一方、作田の北東がやはり前に出た鳴浜である)『に出掛ける。同地投宿。翌日、帰京する山本二郎を片貝に送る』とある。また、ここには続いて『この頃、離れ島に渡ることを突然思い付く』(以下に附された槐多が調査したというデータによれば、その島というのは「御倉島」とあるが、これは伊豆の御蔵島(但し、古くは「御倉島」とも書いた模様)のことであろう)が、『結局体力的、金銭的理由で断念』したとある。そして九月『二十五日、小杉未醒から送金十円を旅費にし、汽車で勝浦に行き、高砂館に投宿する』とある。この時点で突然の四月半ばの発作から五ヶ月「病んでから五月はたつた」と合致し、前で私が推測した通り、一時的な小康状態に復した「死神の手からにげて四月はたつた」のが五月中下旬であるとすれば(翌月には再発しているものの)、この「四月」とも合致するのである。

 §

題名は底本・「全集」ともに以上のように「わが命」である
が、今回、県立三重美術館所蔵になる詩篇冒頭詩稿を視認したところ、「わが命に」とあることを知った。他に「わが命」とする改稿決定稿がないとは断言出来ないものの、私は高い確率で本当は、これが正しい表題なのではないかと思っている。以下、なるべく忠実に同詩稿断片を活字化してみる。〔 〕は抹消字を示す。標題上の「レ」は槐多のチェック記号。

   *

 

 レ わが命に

あぶの樣にうなつて居るわが命よ

お前はまだお前の本体にかいらぬか、

病んでから五月はたった、

死神の手からにげて四月はたった

お前はまだ幽かにうなって居る

お前はまだ影だ、

こはれたままだ、

 

情なき汝が聲よ

いかに自分が完全なる充溢せる汝をのぞんで居るかを知るか

私ののぞんで居るのは

張り切ったツヱツペリン航空船の樣な命だ、はぜんとするダイナマ〔ト〕イトだ、

人をけ殺す狂馬の命

羅馬の鬪士が命だ、

 

まだお前は自分〔に〕の心を滿たさぬ

そんなかげろうの樣な

すすりなくヴヰオロンの樣な命

つぶやきうなるのをやめろ

力と量とを得よ

 

   *

以上の詩稿【稿】と「槐多の歌へる」【槐】との違いは以下の通り。但し、正字と略字の違い及び拗音化の有無と踊り字使用の有無は除いた。

【稿】(詩題)「わが命に」→【槐】(詩題)「わが命」

【稿】「お前はまだお前の本体にかいらぬか、」→【槐】「お前はまだお前の本体にかいらぬか、」(●但し、この読点は他に比して小さく、原稿の汚れの可能性も否定は出来ない。)

【稿】「死神の手からにげて四月はたった」→【槐】「死神の手からにげて四月はたつた、」(●稿には明らかに読点はない。)

【稿】「張り切ったツヱツペリン航空船の樣な命だ、はぜんとするダイナマイトだ、」→【槐】「張り切つたツヱツペリン航空船の樣な命だ」(改行)「はぜんとするダイナマイトだ」(●稿は明らかに一行で連続している。さらに言うならば稿はその行末の詰りから、次の行「人をけ殺す狂馬の命」も続いている可能性をも示唆してするものではある。)

【稿】「羅馬の鬪士が命だ、」→【槐】「羅馬の鬪士が命だ」(●稿には明らかに読点がある。)

【稿】「力と量とを得よ」→【槐】「力と量とを得ろ」

 

以上は通常の詩の校訂上、無視してよい部類のものでは、決してない。

   §

「お前はまだお前の本體にかいらぬか」の「かいらぬか」はママ。「全集」は「かへらぬか」となっている。

「ツヱツペリン航空船の樣な命」我々が想起する知られた「ツエッペリン号」は「LZ 127」を公式名とするドイツの商業航空会社ツェッペリン社製の巨大飛行船の一つである愛称「グラーフ・ツェッペリン」(ツェッペリン伯号)であるが、これは一九二八年九月十八日が初飛行で、本詩篇当時(大正七(一九一八)年には存在していない)。同社製の硬式飛行船第一号は一九〇〇年の「LZ1」で、槐多が想起したものはそれかそれ以降に改良された船である。なお、老婆心乍ら、イメージの強烈な落下炎上した飛行船は同社の旗艦であった「LZ129」、ヒンデンブルク号であるが、あのアメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で発生した爆発事故も一九三七年五月六日のことであり、この槐多の「張り切つた飛行船の樣な命」「はぜんとするダイナマイト」のような「命」というイメージの中にあの映像はないので注意が必要かと思われる(以上は主にウィキツェッペリン及びそのリンク先ウィキに拠った)。

「愛らしい少女に□□□を描いてみせたら」の伏字について、「全集」で編者山本太郎氏は『ちんぼ』と推定復元されておられる。

「ひようたん」はママ。

「菲萃」「樹下」の注で似たような「菲翠」を注したが、この「菲萃」もまた現代中国語で「翡翠」を示し、誤字ではない。にも拘らず、「全集」はやはり「翡翠」と〈訂〉してしまっている。

「鋼鐵の肌をもちし小女よ」「全集」は「小女」を「少女」とする。ただの「少女」の誤字か誤植と判断したのであろうか。そうかも知れない。が、そうでないかも知れない。「こむすめ」と読むつもりだった可能性を稿によって完全に否定出来るのであれば、その〈訂正〉は正しい。稿がないのであれば、それは捏造による〈改悪〉である。

「しかしすてばちにはもう何べんなつたろう、」の「なつたろう」はママ。]

大驚愕!!!!!!!!

遅まきながら、三重県立美術館公式サイトを訪ねてもて顎が外れるほど、驚いた――何と――僕たちはそこ(村山槐多の素描、草稿等 全六十点リスト)で――同美術館が所蔵する幻の村山槐多の生の詩稿の総て(所蔵分抄出ではなく総て!)を拡大画像で読むことが出来るのである!!!――尚且つ――そこには何と! 未だかつて活字化されたことがない、抹消された槐多の未発表詩稿さえ含まれているではないか!!!!!!

向後、部分的なものではあっても、これを基にして僕は村山槐多の詩篇の更なる原形復元をしたいと思っているのである――今日、早速に、次の「わが命」の電子化でやらかそうと思っている……

2015/07/16

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  新居閣魔堂

    ●新居閣魔堂

新居閻魔堂(あらゐのゑむまだう)は。巨福呂阪より建長寺に至る道南に在り。寺を圓應寺といふ。石階(いしだん)の上に門あり。新居山(あらゐざん)の額を掲く。傍に日本最初新居子育閻魔王運慶作と刻せし石標を建てり。開建(かいけん)は建長二年。開山は智覺。もとは由比濱大鳥居の東南に在りしと云。其頃迄は別當修驗者にて寶藏院と云ひしとそ。堂は茅葺にて正面に大龕(だいがん)あり。鎖(とざ)して見るを得す。上に琰王殿(ゑんわうでん)の横扁(がく)を表す。左右壇上に倶生神の木像〔長四尺許〕を列す。其狀各々異なり。東隅に地藏尊等の小像をも安置せり。太宰春臺の湘中紀行に云。過圓應寺道左一。堂安閻魔木像一。世傳運慶暴死入地獄一。見閻魔一。蘇而造此。夫運慶之前造閻魔像一者衆矣。世之愚人莫見而畏一ㇾ之。何暇問其肖否乎。縱使下二運慶所一レ造果肖邪。而不使下二賢智見而畏上レ之。則此像之所以貴不貌耳。記者亦説あれとも畧す。鎖龕(さがん)の内に在る者。蓋し運慶の作と稱する者ならむ。風土記の説に據れば。運慶の作にあらず。永正頃再造せしものならむといふ。堂右に鐘樓あり。元祿七年に鑄たる者にして。建長沙門東天溪叟の記せし銘を鐫(せん)せり。

[やぶちゃん注:「建長二年」一二五〇年。

「智覺」「鎌倉廃寺事典」によれば、建長寺通玄庵の僧で桑田道海。但し、彼は延慶二(一三〇九)年没で、同寺の逸品で所蔵品中、一体扱いで最古と考えられる初江王(重要文化財指定。閻魔王も重文指定であるが、建立そのままなのは頭部のみ)の胎内銘にある建長三年という造立年からはかなり隔たっていて彼を開山とするには無理があるとする(具体的には「鎌倉市史 社寺編」の円応寺の項を参照されたい)。白井永二編「鎌倉事典」には、初めは由比郷見越岩(大仏南東の峰である見越ヶ嶽のことであろう)にあったものを足利尊氏が「荒居鯨海□前、鶴岡在後、右長谷十二面當途五焉、左市鄽四ケ町屠兒焉」(作者不詳「荒居閻魔堂円応寺修造勧進状」)という海に面した場所に移建したという、とあり、『その後元禄十六年(一七〇三)、震災にあい大破したため、山ノ内小袋坂上に再び移転した。その移転の時期としては『建長寺参暇日記』により宝永元年(一七〇四)に移ったことが明らかとなった』とある。さらに、「鎌倉廃寺事典」では、由比ヶ浜在のこの荒居閻魔堂は既に明応九(一五〇〇)年から永正一七(一五二〇)年の間に堂宇が再興されており、しかもその時既に建長寺の管理下にあったと記す。

「其頃迄は別當修驗者にて寶藏院と云ひしとそ」これは私の持つ資料の中には認められない。

「琰王殿」「琰」は玉を磨いて光を出す、或いは輝く玉の意であるから、閻(魔)王殿を音通で美称したものであろう。

「倶生神」「くしやうじん(くしょうじん)」と読む。人の善悪を記録し、死後に閻魔大王に報告するという二人の神のこと。ウィキの「倶生神」によれば、『倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する』。『人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという』。『インドでは冥界を司る双生児の神であったが、仏教が中国に伝わると、司命などの中国固有の思想などと習合し、また中国で成立した偽経の中において様々な性格を付加されるに至った。また日本に伝えられるや、十王信仰と共に知られるようになり、絵画や彫刻などでも描写されている』とある。円応寺のものは重要文化財指定で鎌倉国宝館常設展示。同じく常設展示の初江王とともに私のお気に入りの仏像である。因みに十王(無論、円応寺は総て蔵する)とは、以下を指す(「/」の後はその本地仏と死後何日目に当該裁判官に審理されるかを示した。これは「ウィキの「十王に拠った但し、御存じの向きも多いと思うが、こうした地獄思想は仏教が中国に渡って当地の道教と習合していく中で捏造された偽経「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経」(略して「預修十王生七経」とも言う)によって形成されたものである)。

 秦広王/不動明王/初七日(死後六日後)

 初江王/釈迦如来/二(ふた)七日(十三日後)

 宋帝王/文殊菩薩/三七日(二十日後)

 五官王/普賢菩薩/四七日(二十七日後)

 閻魔王/地蔵菩薩/五七日(三十四日後)

 変成王/弥勒菩薩/六七日(四十一日後) 読みは「へんじょう」

 泰山王/薬師如来/七七日(四十八日後)

 平等王/観音菩薩/百ヶ日(九十九日後)

 都市王/勢至菩薩/一周忌(一年後)

 五道転輪王/阿弥陀如来/三回忌(二年後)

即ち、特に閻魔が主任裁判官である訳ではないこと、また十審制で、現代日本の三審制よりも遙かに冤罪が生じにくく、それでも済度されないのは凡そとんでもない極悪非道中の最たる者でない限りは地獄に落ちない極めて緩やかな裁判システムとなっていることが判る。地獄の方が遙かに民主的で誤りがないのである。なお同寺には他に奪衣婆(だつえば:三途川(葬頭(そうず)河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者や子どもの衣服を剥ぎ取ることを専門とする老婆の鬼。「そうずばば」とも呼ぶ)や鎌倉国宝館寄託常設展示の木造鬼卒立像(重要文化財附属指定)、さらには私が最も偏愛する同じく常設展示の人頭杖(じんとうじょう:檀拏幢(だんだとう)とも言い、閻魔王の持つ杖で杖の上にに男女(男は忿怒相で三つ目)二つの頭部が載る。意外なことに、恐ろしい男の首が亡者の乏しい生前の善行を、女の首が亡者の生前の悪事を余すところなく告発する。)もある。

「四尺」一・二メートル。

「湘中紀行」儒者太宰春台(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の享保二(一七一七)年筆の鎌倉を旅した紀行文。

「過圓應寺道左一。堂安閻魔木像一。世傳運慶暴死入地獄一。見閻魔一。蘇而造此。夫運慶之前造閻魔像一者衆矣。世之愚人莫見而畏一ㇾ之。何暇問其肖否乎。縱使下二運慶所一レ造果肖邪。而不使下二賢智見而畏上レ之。則此像之所以貴不貌耳。」我流で書き下しを試みたが、但し、どうも今一つ、上手く読めない。

   *

圓應寺を過ぐ。道の左に在り。堂、閻魔木像を安ず。世に傳ふ、運慶、暴(には)かに死し、地獄に入り、閻魔を見、蘇へりて此れを造ると。夫れ、運慶の前、閻魔像を造れる者は衆(あまた)あるも、世の愚人、見て之を畏れざる莫し。何ぞ其れ、肖(かたち)なるか否かを問ふに暇(いとま)あらんか。縱へば、運慶をして造らしむる所の果肖ならんか。而して賢智をして見て之を畏れせしむること能はず。則ち、此の像の貴き所以(ゆゑん)にして、貌(かたち)に在らざるのみ。

   *

分かったような、分んないような……識者の御教授を乞うものである。

「永正頃再造せしものならむといふ」「新編鎌倉志卷之七」の「新居閻魔堂」(注意されたいがこの時は由比ヶ浜在の頃である)『寛文十三年に此閻魔の像を修する時、腹(はら)の中より書付(かきつけ)出たり。建長二年出來、永正十七年再興、佛師下野法眼如圓、建長の役人德順判、興瑚判とあり』とあるのを指し、この「永正十七年」は一五一二年で、この年の「再興」とは、明応七(一四九八)年八月二十五日に発生したマグニチュード8を越えたとも言われる東海道沖大地震による津波被害を受けてのことかと思われる。二〇一一年九月の最新の研究によれば、この時、鎌倉を推定十メートルを超える津波が段葛まで襲い、高徳院の大仏殿は倒壊、以後、堂宇は再建されずに露坐となったとも言われている。この時、伊勢志摩での水死者が一万人、駿河湾岸での水死者は二万六千人に上ったと推定されている。

「元祿七年」一六九四年。

「建長沙門東天溪叟」不詳。識者の御教授を乞う。

 なお、かの小泉八雲は来日直後にこの円応寺を訪ねている。私に偏愛する段で、未読の方は私が最近手掛けた電子テクスト『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(九)』及び「同(一〇)」で是非お読み戴きたい。ちゃんと閻魔や小鬼も登場する。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  靑梅聖天

    ●靑梅聖天

靑梅聖天(あふめしやうてん)は。雪の下より巨福呂阪に登る左の小阪に在る小祠なり。因(よつ)て此阪を聖天阪といふ。實に幽徑(ゆうけい)にして。始て遊ふ者は路窮れりと爲す。此の小祠を青梅聖天といへるは。俗傳に鎌倉の將軍一日疾劇しく。時ならすして靑梅を欲す。諸所(しよしよ)を尋ぬるに此の祠前に於て俄かに靑梅の實のるを見る。乃ち之を將軍に奉(ほう)して。疾癒ぬ。故に名くと。

[やぶちゃん注:この記載は「新編鎌倉志卷之三」の「靑梅聖天」に拠るが、そこでは「あをむめのしやうてん」と読んでいる。現在の雪ノ下二丁目、旧巨福呂坂切通(現在は民家で行き止まりになっていて通行は不能であるが、江戸末期まではこの旧切通)の傍らに立つが、あまり知られているとは言えない。南北朝期の作とされる双身歓喜天を祀る(私は残念ながら写真のみで実見したことはない。現在は七月十六日の例祭時以外は国宝館寄託か? アンドエム氏のブログ「恵比寿ゲイバー★アンドエムのブログ」の鎌倉×密教展で後姿の写真が見られる。かなり人型に近いそれである(一般の歓喜天は人身象頭)はことは分かるものの、やはり鼻は象である)。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この他に将軍地蔵を祀り、境内には別に稲荷社があってこれは丸山稲荷と呼称するとある。なお、私はかつて新編鎌倉志一」の鶴岡八幡宮の中の「相承院」の条に出る、「押手(おして)の聖天」とこの歓喜天は同一物ではないかと考えたが(その時のままに注は残してある)、今回、今一度よく調べて見たところ、廃仏毀釈によって破砕された相承院のあった位置はこの青梅聖天からは現在の県道二十一号の小袋坂の下を挟んで二百メートル以上離れている点、ここに示されているように青梅聖天が独自の伝承をかなり古くから持っていた点などから考えて、この二つの聖天像は全くの別物と判断するに至ったことを言い添えておく。]

曇りし日の數分   村山槐多

 
 
  曇りし日の數分

 

空は眼に見えぬ銀砂をまいた

それは吹きとばされた

風が吹きとばした

もろこしの葉もともに

 

さびしさよ空は明るまんとして

また沈んでゆく

海は鳴る、遠くで

それはもろこし畑にこだまする

 

ざつとおやぢは金に枯れたもろこしを

束ねて投げ出した

空はふとねむたい眼をあける

そしてまたねむつたのか

 

とたん風がひゆうひゆうと吹き過ぎる

なすの花が千ばかりきらめく

すなけぶりが海べからくる

ちしやの葉がひびきを立てた。

 

 

[やぶちゃん注:これは間違いなく、大正七(一九一八)年四月中旬の結核発症後、同年九月に療養のために移った九十九里浜の情景に他ならない。この詩篇を以って確定的な結核発覚後に書かれた明確な一篇と名指すことが出来ると私は信ずる
 
太字「ちしや」は底本では傍点「ヽ」。老婆心乍ら、「ちしや」はレタスのこと。]

木と空に   村山槐多

 

  木と空に

 

木が風にふるへる

死神の眼の樣にくらい葉が

ざわざわとゆらぐ

絶えまなく葉は光る

 

命がその度に輝やく

幽な紫に

私の命が

もどかしさうに哀しさうに

 

空が木をみつめて居る

絶えまなくふるへる木を

それから私を

 

その空をふつと風が吹き消す

私はまばたきする

命は消えさうだ
 
 
 
 
[やぶちゃん注:注するまでもなく、この強烈な死神蠟燭のようなイメージは明確に結核発症後の詩篇と読める。]

雨ふり   村山槐多  (◎一部箇所推定版)

【追記:本詩篇は2015年8月3日附で雨ふり 村山槐多 (決定版) ――国立国会図書館の差替画像によってまたしても彌生書房版全集の誤りを発見――」という決定版を別に電子化した。そちらを必ずご覧あれかし。但し、ここは僕の推理の過程として残しおくこととした。


  雨ふり

 

雨がふつて來てしまつた

雨がふる、空を慄はせてふつて

私の頭の毛を濡せる

草木と同じに

 

仲よく私も濡れる

草木と同じに

 

雨は愛嬌よくふつて

私の頭の毛を濡せる

 

雨よ

お前のいたづらを

私はうちへかいつて

かはいた手拭に言ひつけるよ

 

    ×

美しいおばさん

まつたく私はあなたが好きだ

頰ペたにかじりつきたい程

あなたは私のりんごだ、戀人だ、可愛ゆい人だ

あなたは貧しい

かなしさうにあなたはうなだれて居た

おばさんのかなしさうな樣子を見ると

自分は胸がふさがる

美しいおばさん

私は持つてるものを皆あげちやつた

今でも上げたいのだ

だけれど困つたことには

私は一錢もないのです

實を言へば私はまだ晩の御飯もたべない

ゆるしてお呉れよ

おばさん

おばさん

 

    ×

うつくしい無心の女

あなたは遠くにきらめく靑い星だ

とらへがたく及びがたい物だ

淸く高く聖なる物だ

そう私は思つて居る

そう信じて居る

そこで私はいつも嬉しい

あなたをそう思つて居るから

 

    ×

私は描かう

すべて悦びと歡樂とに溢れし物を

醉ひし若者等を

美しき女の群を

花咲き亂るゝ風景を

 

貧しくみにくき物に私は唾液を吐かう

ひたすらに私は追ふ

すべての甘き快き物を、

 

    ×

櫻の花が咲いた

けむりの樣な空に輝きそめた

燈のともる樣に咲いた

美しい、

 

それを見て私の心臟は音を立て始めた

時計が直つてきた樣に

私の唇に酒と戰ふ唾液が湧き出た

噴水塔に水が送られた樣だ

 

さあ遊ばう

飮まう

美しい花、お前さんと

身も世も打忘れてじやれましやう

 

お前さんが散る時

わかれのかなしみがふと來るまでは

お前さんのあるかぎりは

私たちは一滴の涙の影もあるまい

 

    ×

私は醉つた

そなたはまだか

そら一時が鳴る、あかるくうつくしくひびく

何ていゝお天氣だろう

 

お菓子の樣に硝子の樣に

甘い輝いた群集ぢやないか

窓の外をとうるのは 

 

晴れた空だ

薔薇色の地面だ

酒だ、さかづきだ、瓶だ、

 

美しいそなたは

もつとおあがり

とろりと醉ふまで、

 

    ×

眞赤な幕を引くと

眞黄な小さいおどけがおどる

小さい愛らしいおどけ者がおどる

 

眞靑な空が映る

歩いて行く澤山の女の眼に

きらきらと空は輝やく

 

花が咲く、咲いてはしぼむ

 

物の響が耳よりも心につたはる

 

春のうらわかさがものみなに溢れる

うれしくてたまらないやうに

お菓子の樣なおどけがおどる

 

赤のうしろで黄の點が、

 

    ×

神の定め給へるわが一生は

刻々に盡きてゆく

死の暗のうめきはきこゆ

近きかなたに

 

盡きよ盡きよわが生の間

喜びあれなげきあれ

樂あれ苦あれ

かくして盡きよ

 

わが神に常にわれたより

その定めをまつ

常に常にわれはうなづきて

その定めを受く

 

神の定め給へるわが一生は

刻々に過ぎてゆく

われはそのうちにうなづく

死の闇の至るまで常にうなづく

 

    ×

ぶどうの房の如く

諸々の惡はたはゝに

わが心より垂れ下る

 

神よこの憎むべきこのみを

わが心よりとりすて給へ

 

神よ

神よ

 

われは涙とともにいのる

心の眞底より

 

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

 

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ

 

    ×

私は死を怖れない

私はもう死んで居るから

私の心の底は冷めたい、固い

眼をとぢて居る

息をしないで居る

 

一切は墓場の上の幻だ

私のやる事は

私の生は

みんなそれだ

 

私は何も怖くない

私はその底それ自身

虛無だ

 

    ×

私はなにだらう

私は空氣だ

私はどこにもある

どこへでもゆく

 

美しい女の唇にも舞つてるし

牢屋の中の殺人犯の黑い肺にもとびこむ

人を殺す爲めに動いた腕の中の血にも現はれた

天にも地にも私はある 

 

私はそれ一つでそれすべてだ

私は天下御免(めん)の者だ

 

いやしくもある

貴とくもある

高くもある

低くもある

善くもある

わるくもある

 

その底で私は馬鹿だ

 

    ×

勝て、勝て、勝て

一切は善い、

一切は善い、

 

自分を尊べ

自分の行をたゝへろ

 

その美しさに

ほれぼれと

自分に見入れ、

 

それで善いのだ

それが絶對なのだ

 

    ×

火花の樣に飛んではねて生きやうと

始終思ひながら

つまらない物につまづく

そしてしおれる

 

悦びの外に何も知らずに居やうと

始終念じながら

かなしみは數々つきまとふ

 

このもどかしさに飽きた

私はさびしさに耐へず

ひとり伏して居る

 

    ×

ほんとの事はただ一つ

それは死だ

一切はその上の幻だ、花火だ、けぶりだ

 

美しい幻は見たいが

それより上に用はない

 

強い剛い立派な

黑いダイアモンドの樣な死

その行先のきまつた私

この世に何ののぞみがあらうよ

 

    ×

血が私の口から滴り

死神がくゝと笑ふ

このむごたらしい事實が

よくも起つた、

 

私まで笑つた

あまりの唐突さを

笑つてだまつた

そして泣いた

 

それから九十九里の海べへかけ出して

ぼんやり沖を見た、

 

    ×

自ら私は腕を見、足を見る

この美しい貴とき命のいとなみに見入る

赤い健康はいまその上にゆらめく

炎の樣に輝やいて居る

 

しかも私は愁ひて居る

命の力がわきにそれて

この腕この足のなえ靑ざめん時の來る事あるを知れば

 

健康は私にとつて小さい油壺持つランプのその

明るさだ、灸の色だ、

油はぢきに盡きる

油の量を私は知る

 

健康を見る事は愁ひだ

それ故私はもう思ふまい

自分の身體を見まい、

 

 

[やぶちゃん注:本詩篇は私は大正七(一九一八)年四月中旬の結核性急性肺炎の発症後に書かれた最初の詩篇と読む。まず、詩中で「春」が詠まれていること、「死」のイメージへの傾斜が今までになく極めて具体的なニュアンスを以って語られていること、がまず、そう推定する根拠である。そして「それから九十九里の海べへかけ出して/ぼんやり沖を見た、」という詩句である。確かにこの前年末から年始にかけて「モナリザ」の「をばさん」への恋情を吹っ切ろうとして彼は九十九里浜へ向かったことは先に書いたが、私はここの描写はその時の回想とはちょっと思われないのである。そして「全集」年譜によれば、彼は結核発症から四、五ヶ月後の、この年の九月に千葉九十九里浜へ転地療養しているからである。『病気あがりの槐多は九十九里の村や磯を歩き、考えた。あの弾力ある肉体は失われていた。「自殺の念も時々現れる。いけない」と日記に書いている。全集に所収の晩年の詩、死の想念とたたかう詩はこの頃書かれたものだ。九十九里は槐多にとって生と死を懸命に問う場所でもあった』とあることが、私の推定を支持して呉れるものと思う。
 
   §    
 
本詩篇の中で、次の「×」で括られた三つのパート

   ■

    ×

ぶどうの房の如く

諸兄の惡はたはゝに

わが心より垂れ下る

 

神よこの憎むべきこのみを

わが心よりとりすて給へ

 

神よ

神よ

 

われは涙とともにいのる

心の眞底より

 

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ

 

    ×

私は死を怖れない

私はもう死んで居るから

私の心の底は冷めたい、固い

眼をとぢて居る

息をしないで居る

 

一切は墓場の上の幻だ

私のやる事は

私の生は

みんなそれだ

 

私は何も怖くない

私はその底それ自身

虛無だ

   ■

の内で、

   ★

神よ

 

われは涙とともにいのる

心の眞底より

 

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

 

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ

 

    ×

私は死を怖れない

私はもう死んで居るから

私の心の底は冷めたい、固い

   ★

の二十八行分は、彌生書房版「増補版 村山槐多全集」の当該部を参考にしながら、恣意的に正字化し、これまでの底本の特性から推理して句点などを除去し、記号等を変更操作したものである。何故というに、底本としている国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像は、この相当箇所(底本の444頁と445頁)が別な画像に入れ替わってしまっているためである(国立国会図書館側の作成ミスと思われる)。
但し、その際、若干の問題を感じたのは、

   ●

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

 

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ

   ●

の箇所の二行の空きの部分で、彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では、この二行の空きが、他よりも半行ほど詰っている点であった(こんな現象は同全集の組版では他に見られないと思う)。しかし、確かに意図的に間を空けているように見えることは事実である。これを無視するかどうするか悩んだのであるが、底本の『槐多の歌へる」の両開き頁をカウントしてみると、二頁の組版として二十八行で組まれていることから、この二行を詰めると、画像脱落頁が二頁で二十六行になってしまい、前後に空行も入らないことは明白であることから、敢えて以上のように表記する(二行の一行分の空行を挿入)こととした。大方の御批判を俟つものではある。なお、本日只今、国立国会図書館へは正しい画像へ差替えてもらえるよう、通知しておいた。正しいものが差し替えられた際には、本テクストはその画像に基づき、再度、校合する。

   §

「濡せる」(二箇所)はママ。「全集」は孰れも「濡らせる」。

「私はうちへかいつて」はママ。「全集」は「かへつて」。

「かはいた」はママ。

「おばさん」は総てママ。

「そう私は思つて居る」の「そう」もママ。これ以下、三個所も同じ。

「じやれましやう」はママ。

「お天氣だろう」はママ。

「窓の外をとうるのは」はママ。

「眞黄な小さいおどけがおどる」の「おどる」はママ。これ以下、三箇所も同じ。

「ぶどう」はママ。

「諸々の惡はたはゝに」の「たはゝ」はママ。

「私はなにだらう」はママ。

「生きやうと」はママ。

「そしてしおれる」はママ。

「悦びの外に何も知らずに居やうと」の「居やう」はママ。]

雜念   村山槐多

 

  雜念

 

光り泡だち樣々の思ひ心に滿つ

紫の夜の更けゆくに連れて

夜光虫の如くたいまつの如く

消えては現はるゝ樣々の思ひ

 

ねむりの力も及びがたきか

わが心は眩しさとうるさくとに惱む

されども樣々に無數に消えては現はれ

寶玉のあられの如く思ひぞふる

 

光り泡だちてあはれ樣々の思ひは

うるさく眩しくある時は美しく強く

酒の滴りか、雨か、あられかの如く

紫色の深夜をこめて絶えずふりつづく

 

ねむりよ深く靜なるねむりよ

とくかゝる思ひの群を青き暗もてかきけし

われをすくへやこのいらだたしさより

この果つる時なき夜すがらの幽靈より、

 

    ×

人をいざなひて惡所に落し

物をとりぬいつはりぬ

罪を重ね重ねぬ

 

神はいづこよりわれを見給ふや

その鋭どき神の御瞳われに見ゆ、

はるかに遠くに

 

神の凝視に守られつゝ

恐らく一生の問

われは罪を重ねゆくならん

 

あはれなるわれかな、

 

    ×

あしたに神を思ひ

夕べに罪を犯しぬ

美しき空と

醜くき嵐と

絶えず戰ふわが身の上に

 

さびしさ極まりて

しづかに居がたくなりつ

さてわれは身をうごかし

美しき業か

惡しき業をなすなり

 

この日頃は

惡しき業のみして

わがさびしさは日々に深し

 

さりとて

善き業のみに走りて

得るさびしさを思へば

惡しき業もよけれ

 

性惡なるわれよ

 

    ×

天然痘よ

われに來りうつれ

われは汝を望む

汝のしうねくわれを捕へて

死か

しからずんば

恐ろしき假面をわれに着せん事を

 

    ×

惡病の都に

慄へつゝ生き居る事の

不思議にも面白し

 

すべては運命の眼のうちにあり。

 

    ×

善人の友よ

君にわれはジン酒の如く強きはぢを感ず

餘りに善き君の故に

われを許せ

君をいつはり君をおとし入れ君を賣りて

尚君に熱き友情を以つてむくいられつゝあるわれを許せ

われは君の前に

神の前にある如く伏し拜がむ

 

    ×

友よ

わが風貌とわが業とは醜し

されどもわが心は

白き鳩の如く淸く

君にくちつけつゝあり

 

    ×

すこし暗い樣だね

眞晝間ではないの

それだのにまつたく暗いね

このざまはなんだ

 

何んでもかでもがいぢけてふさいで

しなびた花の樣にうつむいて居るね

女の新築の家も原も

 

空の光をもつと強めるんだね

日はどうなつてるのだい

 

日がかすんでる

 

空を明るくするんだ

さあね、うでまくりをするんだよ

 

ともつた電球を千も持つて來て

どしどし空へ投げてお呉れ

光彈を打つてお呉れ

銀の花火を上げてお呉れ

ぼんぷで水をふき掛けてお呉れ

 

誰か一人天へ飛んで行つて

雲にピストルを打つんだ

追つ拂ふんだ

 

硝子をまきちらせ

太陽に酒を呑ませろ

 

すこし暗い

やりきれない

空のひかりをどうにかしないと

やりきれない

やりきれない、

 

 

[やぶちゃん注:「鋭どき」「醜くき」「しうねく」「拜がむ」はママ。

「天然痘」直近の大流行は明治の三度目の明治二十九~三十年(一八九六年~一八九七年)で、死者は実に死者一万六千人に達した。記憶にはないものの、槐多の生まれはまさにこの最中(さなか)、明治二九(一八九六)年九月十五日(横浜市神奈川町)月である。この翌年になるが、大正八(一九一九)年で、大正時代最高死者数九百三十八人を出しているから、この槐多の謂いは決していい加減なものではないことがお分かり戴けよう。以上は、エドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功よりも六年も前に既に種痘による予防接種を行っていた本当の種痘の創始者(彼のそれは牛痘ではなく天然痘患者から採取した膿(痘痂)を使った人痘法)である秋月藩医緒方春朔の顕彰サイトの「天然痘関係歴史略年表」に拠った。但し、このある意味で余裕の疾患願望は寧ろ、この詩が結核性急性肺炎の発作に襲われるよりも前、直前であったことを逆に示唆するように思われる。宿痾結核に冒されていることが判っていたのなら、「天然痘よ/われに來りうつれ/われは汝を望む/汝のしうねくわれを捕へて/死か/しからずんば/恐ろしき假面をわれに着せん事を」とは逆立ちしても詠めないであろうからである。結核がまさに彼が望む通り、槐多に「來り」「うつ」っていて「しうねく」槐多を「捕へて」「死」を齎すことを予感し得たに違いないから、である。

ある風   村山槐多

 

  ある風

 

空に響く不思議な物音

細い喇叭の鳴る樣な

 

それはある風の横ぎる音だ

凉しい美しい顏の飛びゆく音

 

それを絶えず寒い野蠻な風が追ひまくる

小鳥の樣に綺麗な風はにげ廻はる

 

空に響く美しい物音は

それできこえたりきこえなかつたのだ

 

美しい眞晝

私はそのある風の音に耳澄まして

一日野原で寢そべつた

 

    ×

春のひぐれに眼がかすむ

心もかすむ

そぞろ歩くうら若い女たちも

空も地も

みんなかすむ

 

私の心が殊にかすむ

飛んで消える樣なさみしさに

 

ああ、なんてさびしいのだららう

ちつともうれしくない

 

洒の樣に強い春の空氣の中の

このさびしさはなんだい

 

ああ眼も心もかすむ

かすんで消えて入る

ひぐれの空に

 

いつのまにやら私は

はてしらず物ういかすみの中へ落ちてゆく

 

    ×

物はこまの樣に私のまはりにまひめぐる

私は見つめて居る

モナリザの笑ではないか、その時の私の笑は

 

靑いこま

赤いこま

黄ろいこま

みなくるくるくると舞つて走る

 

私はこまつかいだ、

 

    ×

善い藝術には面と會つた事がない

所が善い女には會つた

そこで私は夢中になる

藝術以上に

何んの不思議があるのだ、

 

    ×

藝術を作り藝術の悦樂に身を沈めて送る月日こそ黄金時代だ

自分は未だその時代は知らぬ、自分はいま哀れなる身だ、何故なれば未だ

その法悦に浸り得ない多くのぼんのうを持つて居る、

いつかはそれを解脱しやう

要は魔羅の鎭まる時をまつ事だ、

魔羅と藝術との戰はいつ果てる事か、

 

    ×

ぶどう酒を盛つた樣な顏の

うつくしい生きた女はどこに居る

 

    ×

心と肉とはいつまで和せずある事か

われその惱みをつづく

 

    ×

惡者は薔薇の園にかくれて泣けり

美しく可愛ゆく照る物の中に

その身を埋めてひた泣きに泣く

 

この惡者こそわれなりき

ジゴマよりも惡き者、

 

    ×

神よ君はわが身を靜に見て居給へりや

澄みし眼をもて

美しき君よ

 

君の凝視ある故に

惡業を重ねてなほわれは生き永らふ

伏してあやまる君ある故に

われは絶えざる惡業をつづけ得

 

神よわれを許し給へ

いつもいつも淸く美しき無心の眼もて

叱るともとがむるともなく見つめ給ふ

美しき神よゆるしませ

 

惡業はわが幸なり

わが身の惡業の日重なるにつれて

われは君の美しさを更に深くも感ずれば

 

    ×

心の底よりわれ悔いて

澄みたる神の眼を仰ぐ

許し給へ

過去を許し給へ

君の眼の如くわれ澄みわたらん

この今、

たとへ明日はまた罪を犯すとも。

 

 

[やぶちゃん注:本詩中に、「春のひぐれに眼がかすむ」とある。これが共時的な嘱目吟であるとすれば、私は、恐らくは彼が最初の結核性肺炎の症状を呈する直前の創作ではないかと推理する。「全集」年譜の大正七(一九一八)年の四月の条によれば(下線やぶちゃん)、『美術院第四回秀作展に「樹木」「自画像」「九十九里の浜」「男の習作」外二点を出品し、美術院賞金(甲種)を受く。大作「風船玉をつく女」未完成に終る』とあり、その頃、『根津六角堂』(本来は現在の台東区谷中にあった東京美術院所有の建物で明治三一(一八九八)年九月に竣工した木造二階建て。同院が明治三九(一九〇六)年十二月に茨城県五浦に移るまでの活動拠点であったが、これは移築されているはずから、所謂、その「六角堂」に後に建てられた同名の建物か)『中に山崎省三と再び共同生活をはじめる。槐多は毎日一枚はコンテの自画像を描いた。神に祈るような敬虔な槐多と、生殖器を描いた絵の反故のなかで眼を光らせている槐多とが激しく交替する日々の連続であった』(この文は実に本詩篇を髣髴とさせる)とあるが、次に四月中旬』(原本もゴシック太字)として『突然、結核性肺炎におそわれる。友人、知己の看護で治る』とある(「治る」というのは無論、急性の肺炎状態は取り敢えず小康状態にという謂いである)。以降の詩篇には既にあった魂の形而上的死の傾斜にも増して宿痾たる結核による現実的な死のイメージが陰影を加えてゆくことになるのである。

「それできこえたりきこえなかつたのだ」はママ。

「こまつかい」はママ。あれほど歴史的仮名遣に潔癖な「全集」が、これはママである。実に訝しい。弄ることを確信犯とするならテツテ的にせよ、洩らすなら、やるな! と言いたいのである

「解脱しやう」はママ。

「要は魔羅の鎭まる時をまつ事だ、/魔羅と藝術との戰はいつ果てる事か、」この箇所、「魔羅」を伏せていない。結局、底本は他も、神経質に伏せる必要はこれ、なかったんじゃないのかなぁ……。当時の出版事情にお詳しい方の御意見をお聴きしたいものである。

「ぶどう酒」はママ。

「ジゴマ」怪盗ジゴマ。これはこの大正七(一九一八)年の五、六年前、本邦で爆発的人気を誇った悪漢映画の主人公の名である。以下、ウィキジゴマから引く。「ジゴマ」(Zigomar)は、元はフランスの作家レオン・サジイ(Léon Sazie 一八六二年~一九三九年)の書いたピカレスク・ロマン、怪盗小説シリーズで、ここでのそれは、それを原作とした映画の方の主人公で、明治末から大正初期の『日本で爆発的なブームとなり、多くの独自の映画・小説も作られ、子供への影響から映画の上映禁止にまで及んだ』。一九〇九年に『ル・マタン』紙に新聞連載小説(ロマン・フィユトン Roman- feuilleton)として掲載、連載後に単行本化されて全二十八冊が刊行された。『パリを舞台に変装の怪人ジゴマが、殺人、強盗などの犯罪を繰り返す』もので、早くも二年後の一九一一年には『映画化され、また同年に日本でも公開された。小説の邦訳は』後の、昭和一二(一九三七)年の久生十蘭訳『新青年』四月号別冊付録(『長篇探偵小説』と銘打って掲載された)が嚆矢らしいが、これは翻訳と言うものの、『ストーリーが原作とは変えられている部分も多い』とある。映画化は一九一一年エクレール社製作、ヴィクトラン・ジャッセ監督・脚色の「ジゴマ」(Zigomar)であったが、ストーリーは原作と大きく異なる。続編として同監督で翌年に「ジゴマ/後編」(Zigomar contre Nick Carter)が、翌々年に「ジゴマ/探偵の勝利」(Zigomar, peau d'anguille)が製作されている。『豊富なアクションシーンで、後に作られた「ファントマ」とともに、アメリカで流行する連続活劇の原形と言われる。また撮影トリックによる瞬間的な変装シーンなども先駆的な表現だった』。本邦では、映画「ジゴマ」が「探偵奇譚ジゴマ」の邦題で明治四四(一九一一)年十一月に福宝堂が買い付け、『浅草の金龍館で封切られ(弁士加藤貞利)、封切り当初から大評判となる。劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げるほどだった。これは日本における洋画の最初のヒットともなった』。気をよくした福宝堂は続いて「シリーズ第二弾」と称して、何と『女賊の活躍するまったくの別作品を『女ジゴマ』の題で』同年十二月から『公開、これも大ヒットとな』って、翌年(明治末年)三月まで上映された。第三弾は正規の『ジゴマ後編』(公開時は『ジゴマ続編』)を同五月より公開、「ジゴマ」「女ジゴマ」も再映し、続いて「第四弾」と謳って同六月(翌月大正に改元)にはまたしても類似の凶賊と探偵の対決物である「悪魔バトラ」を、第五弾として十月(既に大正元年)には女賊ソニヤの活躍する「ソニヤ」を公開した。以下、「和製ジゴマ登場」の項。『福宝堂のヒットに続こうと他の興行会社はジゴマ映画を日本』での製作にいち早く乗り出し、大正元年(一九一二)年八月には『吉澤商店製作の『日本ジゴマ』が公開、これは千人の手下を持ち日本ジゴマと呼ばれる怪賊荒島大五郎と探偵の追走・対決劇で、房総半島での当時としては珍しい大掛かりな実地ロケを行い、また外国映画の手法も取り入れたものだった。さらに続編として『ジゴマ改心録』、『大悪魔』を』九月に公開、エム・パテー商会も「新ジゴマ大探偵」なる作品をを同月に公開、『いずれも連日大入りの大ヒットとなった』。『東京でのヒットに続き、福宝堂の全国の上映館でもジゴマを公開。また弁士駒田好洋の巡業隊がジゴマのフィルムを番組に加えて』、同時に『地方巡業を行い、「頗る非常大博士」の名で知れ渡っていた駒田の人気も相まって、これも大入り満員続きとなった』。『映画のヒットに続き』、同年中に『映画の翻案や、独自ストーリーによる、舞台がフランスのもの、日本のものなど様々なジゴマの小説化も相次』ぎ(リンク先に類書二十三冊のリストが載る)、『これらは映画の人気に加え』、七月の『明治天皇崩御による演劇興行自粛による読書ブームの影響もあって多くの版を重ね、また他にも探偵ものバトラ、ソニヤ、大悪魔などのシリーズも刊行された。読者は主に小中学生で、書店、図書館、貸本屋を通じて読まれた』とある。ところが、こうした『ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では』同大正元年十月上旬、『ブームの分析や影響』が八回連載で『取り上げられた。こういった世論の高まりの中』、同十月九日には、『警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった』。『しかしジゴマブームによって』、大正元(一九一二)年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の三倍の千二百万人に達し(そのうち映画は八百五十一万人)、『活動写真界の大きな成長をもたらした。また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった』。『その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり』、大正二(一九一三)年には『ジゴマ探偵小説の出版も無くなる。類似書としては、ジゴマの残党が登場する』、押川春浪「恐怖塔」(大正三(一九一四)年刊)や同年刊の江見水蔭「三怪人」などがあった。『また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。』一方、この上映禁止は大正一三(一九二四)年になってやっと『解禁となったと、吉山旭光『日本映画史年表』には記載されている』とある。更に、『ジゴマは当時「ジゴマ式」「ジゴマル」(横暴、出没自在の意)などの新語も生み出し』た。大正四(一九一五)年には『「ヂゴマ団」を称する犯罪事件なども起きた』。なお、その後では、一九八八年の『映画『怪盗ジゴマ 音楽篇』(寺山修司脚本)や、同年の怪盗ジゴマの登場するテレビドラマ『じゃあまん探偵団 魔隣組』(石ノ森章太郎原作)などがある。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズにも、ジゴマの影響があると言われている』とある。]

音の連續   村山槐多

 

  音の連續

 

音がつらなつて心の底にきこえる

喇叭のふちの樣に輝いた心に

 

美しい音だ

耳を澄ますとその音は私の眼でひゞき

眼をみはつておどろけばその音は

私の總身で

 

私の全身に音が起り

それがつらなつて順々にきゝ知る

 

凉しい嬉しい音だ

高く強く澄みきつた音だ

 

ダイヤをひゆつと晴れた空にとばす時か

フルートの一息の吹奏か

 

階段を走り上る踊子の足音か

 

悦ばしい音がたえまなくひびく

嬉しくなる

 

幸福だ

何と云ふ幸福な私の心

 

音がひびく、いつまでもつづく

かけあしの兵隊だ

遠い花火の連續だ

 

はつはつはつと

ほんとに私の喉まで笑ひ出した、

 

    ×

苦がい命をかみしめて

君の面を見てくらす

それしと思ふ一ときは、

 

    ×

善い女貴とい女まるい女

玉の樣な女

そなたはそんな女だ

 

そなたは北極のまん中に輝やく氷山の樣に冷めたい

ひとりぼつちだ、透明だ

 

そなたは風のひびきだ

 

そなたは心だ

そなたはしたしめないある高い物だ

完全な直圓體だ、高等數學だ

 

そなたは心のものさしだ

私の心の、

 

    ×

マチスの覗(ねら)ふ單純化はチヽアンの單純化だ

我等の覗ふ複雜化は歌麿の複雜化だ、

 

    ×

運命は美しい布だ

奇怪な印度さらさだ

 

花は輝やき人は走り

馬は血に染む

 

笑ふ物、泣く物

高まる物、低き物

 

この布を裸身につけて

われは踊る

 

いのちの短かき一をどり

 

    ×

そなた見捨てゝひとり來た

九十九里の濱に

美しい海のほとりに、

 

    ×

寒い風がひゆつと私を吹きとうした

こゝは九十九里の濱だ

四つん這ひになつても追つかない程な

茫々とした砂つ原だ

 

海が惡龍の樣にあの砂丘のあつちにかくれて居る

そしてうなつて居る

 

私はひとりぼつちだ

女を、不思議な戀人を離れて私は來た

このすさまじい海邊に居る

 

寒い風が私をいたはつて呉れない

私はひとりだ

 

はやくあの人の眼の前に

また私のゆがんだ顏を持つてかいらう

 

 

[やぶちゃん注:「ある四十女に」で引いた「全集」の大正六(一九一七)年四月の年譜記載に従うなら、この中で語りかける女は、かの「をばさん」「モナリザ」ということになる。リンク先の記載ではあたかも四月中に房州へ旅立ったかのように読めるが、これは記載の不親切で、彼の日記を見ると旅立ったのは大正六年も押し詰まった十二月二十八日で(底本に載る同日の日記中に、『午食後兩國ステーシヨンへ行つて成東行の汽車に乘つた、四時過鳴浜につく、日が暮れたので、いなりやなる安宿へとまつた』とある)、草野心平「村山槐多」の年譜には、『翌年・大正七年一月二日の帰京まで鳴浜、片貝に写生旅行をする』とある。鳴浜(なるはま)村と片貝(かたかい)町は孰れも現在の千葉県山武郡(旧山辺郡)の、九十九里浜中央に位置し、昭和三〇(一九五五)年には片貝町・豊海(とよみ)町と鳴浜村の一部が合併して九十九里町と改称している。

「ダイヤをひゆつと晴れた空にとばす時か」「全集」は「ダイヤをひゆつと晴れた空はとばす時か」となっている。「全集」の誤植としか思われない。一体、この彌生書房「増補版 村山槐多全集」の校正は誰がやったのか? と叫びたくなること頻りである。

「苦がい」はママ。

「それしと思ふ一ときは、」はママで「全集」も何も注さないが、私が馬鹿なのか、この一行、意味が分からない。

「ひとりぼつちだ、透明だ」の「ひとりぼつち」は底本では「ひとりぱつち」。誤植と断じて訂した。無論、「全集」は「ひとりぼつち」となっている。

「チヽアン」既注。ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオTiziano Vecellio

「寒い風がひゆつと私を吹きとうした」はママ。

「かいらう」はママ。]

百圓札   村山槐多

 

  百圓札

 

私をメランコリヤに落すのは

私の貧乏だ

 

私は絶えず見る

路を歩く時も

物を見る時も

 

不思議な幻を

 

私は音樂とぜい澤品の滿ち溢れたにぎやかな街の空に

またその幻を見た、

 

はつきりと

百圓札が百枚きらきらと飛びちがふ中に

私の手がぬつと出るところ

 

金、金、金

私は血眼で

金をほしがつて居る、

宮殿指示   村山槐多

  

 千九百十八年(23

  

  宮殿指示

 

みなさま御覽なされ

私のさす方を

 

金、硝子、玉、銀、鐵、銅、大理石、

あらゆる輝やく物が握み合つて叫び合ふ

 

赤熱したオベリスクだ

かつと、ごちやごちやと空に棒立つ、

あれがすばらしい御殿だ、體積十億立方米、

 

總體の色が紫だ

日が降ると血がかる

 

總體が一つの樂器だ

絶えずうめき鳴りきしめく

柱に、天井に、床に、それぞれ樂器が埋めてある

絶えないオルケストーラ

耳をすまして御覽なされ

 

總體が一つの香料だ

椅子も玉座も玄關も屋根も皆にほふ

蜜蜂が數萬御殿へ日毎に集まつて狂ひ死ぬ

こゝからその有樣は見えますまいて

だがにほひはつたはりましようがな

 

ところがこのすばらしい宮殿には

たつた王樣がひとりぼつちでお住まひだ

 

みな樣御覽なされ

王樣が窓から見える

黄金のパレツトを手にして

畫を描いて居られる

 

みなさま土下座をなされたい

王樣がお出ましだ

 

王樣は是から淺草へ行幸だ

泡盛を呑みに、

 

    ×

走る走る走る

黄金の子僧ただ一人

入日の中を走る、走る走る

ぴかぴかとくらくらと

入日の中へとぶ樣に走る走る

走れ子僧

金の子僧

走る走る走る

走れ金の子僧

 

    ×

世界がかきくもる

ぬえが現はれる前の空の樣に

 

私はまた愛の恐ろしい曇天に會つた

そしてわけもなくふさいで居る

 

ばかばか、ばか、

と云つても空は晴れない、

私の心の空は

 

 

[やぶちゃん注:「ましようがな」及び四箇所の「子僧」は総てママ。太字「ぬえ」は底本では傍点「ヽ」。]

官能の正當なる動作   村山槐多

 

 官能の正當なる動作

 

 眼 淸く正しく外物を見る事

外に眼の動作あるべからず、眼を以て人の感情をあやつらんと考へるが如きは末なり、

 

 耳、物の音を正確にききとる事

 

 鼻、物のにほひを正しくかぎわける事

 

 舌、物の味を正しく味う事

煙草、酒を斷つべし、是等は五感の一切を麻痺せしむる物なれど殊に舌を惡くす、

 

 食ふ事、是最大の事なり

 

     ×

あの女は多くの自らに觸れて來る物のすべてから自らをすくはうとして居る、

それはよくわかる、

自分はその中の一箇に過ぎぬかも知れない、が、自分にとつては、彼女は多き物のすべてだ、自分は彼女のおもしろいなぐさみ物の一つかもしれない、しかし、自分にとつては彼女は今の女王だ、彼女のすべての姿勢、すべての聲、すべての心の中に自分は自分の今を見出す、

瞬間の主義、運命の主義が自分を絶えずデカダンな思想に驅る、しかし、その他に何の自分の生き場所があらう、過去も現在も、つぶれて居る、こはされて居る、何の爲に未來に向つて用意する必要があらう、

愛する友   村山槐多

 

  愛する友

 

大佛の樣な顏の友だち

君は實にまるく淸らかだ

そして幸福だ、

君の顏を見て居ると微笑する外はない

限り知られぬうららかさを以て

そしてかゝる君を友とした事の悦びに

自分の心はとび立つばかりにうれしくなる、

君には何んでもかでもやりたくなり

如何なる事をも盡してやらうと思ふ

有德の君子よ

圓滿無量の人よ

君のチャームは君の德だ

磁石の樣な友よ

病める時   村山槐多

 

  病める時

 

鐵槌にうたれた樣に自分は倒れた

起き上る勇氣もなく自分はのめつてしまつた

身はだるく骨は枯れた

心は沈み絶望はかびの樣にはびこつた、

 

ああこの時どこにのがれ場所があるのだ

何をたよりに生きて居る事が出來るのだ

 

    ×

神よ罪を犯したりしわれは

今日の罪を今日許し給へ

明日の新らしき命の爲に

 

    ×

氣が狂ふ

慾情がこうまで強い物とは知らなかつた

人間の肉の慾が

 

    ×

プロペラの如くわがリンガム廻轉す

 

 

[やぶちゃん注:「こうまで」はママ。老婆心乍ら、「リンガム」は男根。英語では通常はlingam であるが、他にもlingalingumなどとも綴るようで、元はサンスクリット語。ヒンドゥー教(特にシバ派に属するリンガヤータ派)で繁栄を表わすシバ神の象徴として崇拝される、男根をかたどった長円型の石を指す。但し、原義はシンボル、象徴の意。]

跳び上る犬   村山槐多

 

  跳び上る犬

 

犬が跳び上ります私を目がけて

ゼンマイか、まりの樣に跳び上ります

 

綺麗な愛らしい犬だ

利巧で強いはしつこい犬だ

 

ぴよんぴよんぴよんぴよん跳び上ります

私をめがけて一心に、幾度も

 

犬が跳び上ります

私の眼を覗つて

 

私がお前をああ可愛いいと一寸思つた

その眼を犬が一寸見た

 

それから美しい銀のまりの樣に

犬は絶えず跳び上ります

 

私の眼をねらつて

ぴよんぴよんぴよんと跳び上ります

 

    ×

強い紫のにじんだ寶玉(たま)が

ころころころと光の中をころがりゆく

いくつもいくつも

さびしい響きがそれにともなひ

私の耳にふりこむ

 

あの寶玉(たま)は雨かしら

それとも私の心の散りゆくさまか

さびしい空しい

泣きたくなる

 

ころころころと走つてゆく紫の寶玉(たま)

とまれとまれ、とまれ光の中に

私の力を

私の情を

しだらなくどこかへはこび去る、にくいその寶玉(たま)

 

    ×

ぬるき火の瀧は金に綠に赤に

地をさして落ち

裸のわれは蛙の如くその下に

はねかへり泣き叫ぶ

 

われは瀧を上らんとして

はね飛ぶ事千べんなり

いらだゝしきこの夢

さめし後われを戰慄せしめぬ

 

夢の中にてわが姿は

さながらにひしやげつぶれたる

蛙なりき、

2015/07/15

私は

正直言えば……私は三島由紀夫が真剣になって自分の思想をテーブル上の皿を取って交叉させて語り出した時、「それじゃ、まるで皿屋敷だね」といなした、三島を愛した渋沢龍彦でありたい人間である……

違憲立法審査権

「なぜ『集団的自衛権』の首相発言に、最高裁判所は沈黙を続けているのか。」

私はこのブログ主の言っていること以外に――《合法的に》――この忌まわしい法案を阻止することは実は出来ないと感じているのであるが、これは間違いだろうか?……

悪は悪人が作り出すのではなく思考停止の凡人が作る

悪は悪人が作り出すのではなく思考停止の凡人が作る――ハンナ・アーレント「全体主義の起源」

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  巨福呂阪

    ●巨福呂阪

巨福呂阪(こふくろさか)は巨福路阪に作り。或は小袋阪とも書す。鎌倉七口の一にして。雪の下より建長寺の前に出る切通(きりどほし)なり嘉禎元年十二月賴經不例に因て。四角四境の祭を行ひし時。當所四境の一たり。仁治元年十月。建長二年六月。道路を修造せし事東鑑に見え。元弘三年五月新田義貞鎌倉を攻めし時。堀口三郎貞滿。大島讃岐守守之〔或は義前に作る〕等を大將にして。此の口に向はしめしこと文和元年閏二月新田義興、脇屋義治鎌倉を襲ひし時。南遠江守房總の兵を率て。此の口を警固せしこと。共に太平記等に載せたり。

[やぶちゃん注:「嘉禎元年十二月賴經不例」西暦一二三五年。「吾妻鏡」の同年十二月十八日の条に頼経の疱瘡罹患の記事が出る。詳細は私の電子テクスト「北條九代記 卷第七 六月祓 付 將軍家御疱瘡」を参照されたい。

「四角四境の祭」陰陽道で疫神の災厄を祓うために家の四隅と国(この場合は鎌倉御府内)の四方の境で行った祭祀。「吾妻鏡」の同嘉禎元十二月二十日の条に、

   *

廿日戊申。爲御不例御祈。於御所南庭。被行七座泰山府君祭。忠尚。親職。晴賢。資俊。廣資。國継。泰宗等奉仕之。及黄昏。被行四角四境祭。御所艮角〔陰陽大允晴茂〕。巽角〔圖書助晴秀〕。坤角〔右京權亮經昌〕。乾角〔雅樂助滿貞〕。小袋坂〔雅樂大夫泰房〕。小壺〔近江大夫親貞〕。六浦〔陰陽小允以平〕。固瀨河〔縫殿助文方〕。

○やぶちゃんの書き下し文

廿日戊申。御不例の御祈の爲、御所の南庭に於いて、七座の泰山府君祭を行はる。忠尚・親職・晴賢・資俊・廣資・國繼・泰宗等、之れを奉仕す。黄昏に及び、四角四境祭を行はる。御所の艮(うしとら)の角〔陰陽大允(だいじよう)晴茂(はるもち)〕、巽(たつみの角〔圖書助(ずしよのすけ)晴秀〕。坤(ひつじさる)の角〔右京權亮(ごんのすけ)經昌〕、乾(いぬゐ)の角〔雅樂助(うたのすけ)淸貞〕、小袋坂〔雅樂大夫(うたのたいふ)泰房〕、小壺〔近江大夫(おうみのたいふ)親貞〕、六浦〔陰陽小允(せうじよう)以平(もちひら)〕、固瀨河(かたせがは)〔縫殿助(ぬいのすけ)久方〕。

   *

とある。

「仁治元年十月」「吾妻鏡」仁治元(一二四〇)年十月十九日の条の後半に、『爲前武州御沙汰。被造山内道路。是嶮難之間。依有往還煩也。』(前武州の御沙汰として、山内に道路を造らる。是れ、嶮難の間、往還の煩ひ有るに依つてなり。)とある。「前武州」は北条泰時。

「建長二年六月」「吾妻鏡」建長二(一二五〇)年六月三日の条に、『三日丁酉。山内幷六浦等道路事。先年輙爲令融通鎌倉。雖被直險阻。當時又土石埋其閭巷云々。仍如故可致沙汰之由。今日被仰下云々。』(三日丁酉。山内幷びに六浦(むつら)等の道路の事、先年、輙(たやす)く鎌倉に融通(ゆづう)せしめんが爲(ため)に、險阻を直(なほ)さると雖も、當時、又、土石、其の閭巷(りよかう)に埋むと云々。仍つて故(もと)の如く沙汰致すべきの由、今日仰せ下さると云々。)とある、「山内」が小袋坂のことである。

「元弘三年」一三三三年。

「堀口三郎貞滿」堀口貞満(ほりぐちさだみつ 永仁五(一二九七)年~延元三/建武五(一三三八)年)は清和源氏で上野国に土着した新田氏の支族で、上野国新田郡新田荘の東南端にある堀口郷(現在の群馬県太田市堀口町)を支配していた。参照したウィキ堀口貞満によれば、この元弘三年の新田義貞挙兵に参加、巨福呂坂(こぶくろざか)からの鎌倉攻略に功あって、翌建武元(一三三四)年の論功考賞で正六位上大炊助(おおいのすけ)に叙任されている(翌年には従五位上美濃守となる)。『以後、義貞の重臣として活躍。足利尊氏が中先代の乱に乗じて建武政権に叛旗を翻すと、矢作川での戦いで足利軍と戦ったと『梅松論』に記されている』。建武三年に『西国で勢力を盛り返した尊氏が京都を占拠すると、義貞の軍に従い、後醍醐天皇らとともに比叡山に逃れた。このとき後醍醐天皇へ尊氏から密使が来て、天皇が義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、貞満が出発直前の天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任することで新田軍が官軍であることを保証してから下山したことは、『太平記』でも有名な一節となっている』。その後も『義貞に従って、子の貞祐らとともに越前及び美濃各地』で転戦、美濃から越前への『進軍中に没した。貞祐が堀口氏を継ぎ、北朝方との戦いを継続した』とある。

「大島讃岐守守之〔或は義前に作る〕」やはり新田荘大島(現在の太田市大島)を姓とする新田氏族。

「文和元年閏二月新田義興、脇屋義治鎌倉を襲ひし時」文和元年は西暦一三五三年(但し、改元された観応三年九月二十七日はユリウス暦一三五二年十一月四日なので文和の年初は一三五二年である)。足利尊氏が相模早河尻(はやかわじり:小田原市早川)の戦いで弟直義を破って一月五日に鎌倉入りし、二月二十六日に直義が急逝(最前述べた通り、毒殺の可能性大)したが、この閏二月になると、幕府と南朝との講和状態が破れ、新田義貞の次男義興(よしおき)と三男義宗(よしむね)及び義貞の甥脇屋義治(わきやよしはる)は後醍醐天皇皇子宗良(むねなが/むねよし)親王を奉じて上野(こうずけ)で挙兵して南下、南朝軍としてこの閏二月十八日に鎌倉を攻略、尊氏を武蔵の狩野川(現在の横浜市内)へ敗走させたことを指す。但し、その後、素早く反撃に出た尊氏は連勝を重ね、翌三月十二日には鎌倉を奪還している。

「南遠江守」足利尊氏の家臣南(南部)宗継(みなみ/なんぶ むねつぐ 生没年未詳)のこと。足利氏代々の執事を務めた高氏の一族。知られた高師直・師泰兄弟と宗継の父惟宗とは従兄弟関係にある。伊勢南部氏の祖。]

夢野久作川柳集Ⅳ

[やぶちゃん注:以下の川柳三句は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「歌芳子夫人追悼川柳会」という標題で載る夢野久作の筆になると西原氏が推定する文章(同氏の解題によれば『九州日報』昭和二(一九二七)年六月二十七日号に掲載されたもの)中に現われる夢野久作の柳号「三八」名義で載るものである。歌芳子夫人というのは『九州日報』主筆篠崎昇之介の妻歌子の柳号。「かほうし」と読むか。諸川柳から察するに未だ若妻であられたようである。当該文によれば、追悼川柳会は同年六月二十二日午後七時に福岡市外吉塚の篠崎卓応接間にて夫昇之介(柳号「南蛮鉄」)を『はじめとして男ばかり総計十一人』、正会は故人の本名の「歌」と「子」を読み込むもので、その後に即興題で「線香」も詠まれた。久作(三八)のものは互選入選の総評の「子の部」に三句載っている。評も一種の自注と思われる。久作満三十八歳。

 最後に『九州日報』についてウィキ九州日報を参考に記しておく。事業者は「九州日報社」(本社は福岡県福岡市中島町、現在の福岡市博多区中洲中島町にあった)で、明治二〇(一八八七)年八月に玄洋社系の新聞『福陵新報』(社長は右翼の巨魁頭山満で久作の父杉山茂丸は頭山の腹心として知られた。久作の当社への入社もその縁故による)として創刊された日刊新聞で、福岡県を中心に九州一円で販売されていた。現在の『西日本新聞』の前身の一つで明治三一(一八九八)年五月に紙名を『九州日報』に改題、大正一五(一九二六)年十月には株式会社九州日報社に改組している(その後、昭和一五(一九四〇)年に読売新聞社(現在の読売新聞東京本社)の経営に移管、二年後の昭和十七年八月十日には新聞統制によって『福岡日日新聞』と合同され、『西日本新聞』となり、翌年には福岡日日新聞合資会社と合併して九州日報社の社名も消滅した)。同紙「関連人物」としては、浪曲師でかの辛亥革命を支えた革命家宮崎滔天が『「番外記者」として活躍』、「夢野久作」も『遊軍記者として活躍。関東大震災の際は九州日報の記者として被災地を取材』した旨の特記がなされてある。]

 

目もみえぬ赤兒に幟(のぼり)見上げさせ 三八

 

[やぶちゃん注:続いて「アカ坊」なる会員の一句、

 若い父嬰兒(あかご)へ旅の歌をかき

という句を併置し、『評』として『此二句、好取組。但し、後者働きあり。』とアカ坊の句に軍配を挙げている。]

 

子を抱いた奴は洗はず湯に這入り     三八

 

[やぶちゃん注:後の『評』に『近來の臭句。川柳だから我まんできたもの。』とある。]

 

生れ不思議のやうに子をながめ      三八

 

夢野久作川柳集Ⅲ

[やぶちゃん注:以下の川柳六句は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「南五斗会例会――第二回」という標題で載る夢野久作の筆になると西原氏が推定する文章(同氏の解題によれば『九州日報』大正一四(一九二五)年十二月二十一日号に掲載されたもの)中に現われる夢野久作の柳号「三八」名義で載るものである。評も一種の自注と思われる。久作満三十六歳。]

 

   心中

死に覺悟やつと二人の月を見る       三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『喰はせ足らぬ。』とある。]

 

   噂

繪日傘けふも噂の町を行き         三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『キレイ。』とある。]

 

   白粉

姑がジロジロと見る白さなり        三八

 

[やぶちゃん注:「ジロジロ」の後半は底本では踊り字「〱」。続く『評』に『ジロジロがいゝ。』(この「ジロジロ」の後半も踊り字「〱」)とある。]

 

   火鉢

生返事(なまへんじ)吸殼を火にくべはじめ 三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『ある図。』とある。]

 

   火鉢

喰つて來たと火鉢の隅で一つうけ      三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『生世話(きぜわ)ぶりがいゝ。』とある。「生世話」は生世話物(きぜわもの)の略。歌舞伎の世話物の中でも写実的傾向の著しい内容・演出によるものを指し、文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)以降の江戸歌舞伎で発達した。ウィキの「生世話物によれば、演出としては『主として舞台が商家、町人や農民の住居、遊郭、町中や田舎の一角などの場合に採用される。台詞回しや鳴物は従来のままだが、衣装、小道具、背景などはなるべく本物に近い物を使うことでリアリテイを強調する。また、当世風の言葉廻しや当時流行していた音楽、小物、風習などを使うこともあり、今日からでは貴重な風俗資料でもある』とあり、十八世紀末に初代並木五瓶(ごへい)が江戸に下って「五大力恋緘(ごさいりきこいのふうじめ)」や「富岡恋山開(とみがおかこいのやまびらき)」などの『世話物で上方の写実的作風を移植』、同時期の寛政四(一七九二)年十一月には、『四代目岩井半四郎が』「大船盛蝦顔見世(おおふなもりえびのかおみせ)」で、『最下層の売春婦である切見世女郎の三日月おせんを演じ、江戸の劇壇に生世話物勃興の動きが』生まれ、続く十九世紀初めの『化政期に、四代目鶴屋南北が登場する。南北は、一つの狂言で時代物と世話物の世界をないまぜにする作風で、時代物世話物に長じた七代目市川團十郎、実悪の五代目松本幸四郎、怪談劇に優れた三代目尾上菊五郎、美貌の立女形五代目岩井半四郎等名優に恵まれたこともあって、世話物の場面で当時の下層社会の生態をリアルに描く趣向をとった新しい形態の劇が生まれ、ここに生世話物のジャンルが確立された。南北の生世話物の代表作としては、「東海道四谷怪談」「絵本合法衢」「於染久松色読販」「謎帯一寸徳兵衛」「盟三五大切」「桜姫東文章」「心帯解色絲」などがあり、そのいくつかは今日の人気狂言でもある』。『幕末期には生世話物は三代目瀬川如皐などを経て、河竹黙阿弥によって洗練される。黙阿弥は写実を徹底させ、名優四代目市川小團次、三代目澤村田之助らの活躍で』「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)」「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」「鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)」「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり)」「処女翫浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」といった『市井の人々の哀歓を綴った名作が作られた。彼の生世話物には南北に見られる猥雑さは影をひそめ、抒情性や様式美に重点が置かれているのが特徴で、明治期になるとそれはより顕著になる。 そんなときに黙阿弥と提携した五代目尾上菊五郎は若年期に小團次の薫陶を受けており、後継者として生世話物の伝統を守り続けた。旧作の上演を行う一方、新作でも、散切物で新時代の様を舞台に表そうとしたり、「神明恵和合取組」では、住居の再現に町火消のめ組関係者から子細な聞き取りを行い、「盲長屋梅加賀鳶」の按摩道玄の衣装を町の古着屋から買い求めるなど、リアリズムを追及する姿勢は最後まで崩さなかった』とある。]

 

   詩

詩が好きな彼女は遂に詩を孕み       三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『末句おもしろし。』とある。]

夢野久作川柳集Ⅱ

[やぶちゃん注:以下の川柳十句は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「川柳南五斗会――旧稿討議選評」という標題で載る夢野久作の筆になると西原氏が推定する文章(同氏の解題によれば『九州日報』大正一四(一九二五)年九月二十八日号に掲載されたもの)中に現われる夢野久作の柳号「三八」名義で載るものである。評も一種の自注と思われる。]

 

   煙草               三八

吸ひつけたあとは他人の面(つら)になり

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『つら憎い。但し作者は馬ツ面(つら)の大男。』とある。]

 

   巡査               三八

うなだれて若い巡査がかへる也

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『ヒリツと來ぬがどことなく。』とある。]

 

   博士

星一つみつけて博士世ををはり      三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『それらしい。』とある。この一句は実は、かの怪作「ドグラ・マグラ」(初稿は本格的な作家デビューをした大正一五(一九二六)年の小説「狂人の解放治療」であるが、その後十年近くをかけて推敲に次ぐ推敲を重ね、改稿・擱筆・再改稿を繰り返して昭和一〇(一九三五)年一月十五日に松柏館書店より書き下ろしとして発表した。因みに久作はこの翌昭和十一年三月十一日に満四十七歳で急逝している)に登場する正木博士の「遺言書」なるもの(といっても複雑なの入子構造になっているのでこう指示すること自体が無意味である)の末尾の部分(本文の後半、全体の七割弱の位置。引用は三一書房版全集第四巻を用いた)、

   *

 ……ああ愉快だ。こうやって自殺の前夜に、宇宙万有をオヒャラかした気持ちで遺言書を書いて行く。書きくたびれるとスリッパのまま、廻転椅子の上に坐り込んで、膝を抱えながらプカリプカリと、ウルトラマリンや、ガムボージ色の煙を吐き出す。……そうするとその煙が、朝雲、夕雲の棚引くように、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるものの如く結ばれつ解けつ、悲しそうに、又は嬉しそうに、とりどりさまざまの非幾何学的な曲線を描きあらわしつつ薄れ薄れて消えて行く。それを大きな廻転椅子の中からボンヤリと見上げている、小さな骸骨みたような吾輩の姿は、さながらにアラビアンナイトに出て来る魔法使いをそのままだろう…………ああ眠い。ウイスキーが利いたそうな。ムニャムニャムニャ……窓の外は星だらけだ。……エ――ト……何だったけな……ウンウン。星一つか……「星一つ、見付けて博士世を終り」か……ハハン……あまり有り難くないナ……ムニャムニャムニャ………[やぶちゃん注:以下略。]

   *

に突如、登場している。]

 

   花火

お父樣僕の花火をみんなあげ       三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『何でもないんだがねえ。』とある。]

 

   ヤケ

ほそりゆく手で水藥を花にかけ      三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『あんまりキレイすぎて意味がわからない位ぢやないの?』とある。]

 

   火事

天空を摩して煙突燒け殘り        三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『「大銀杏(いちやう)大空高く燒け殘り」と云ふ類句あり。俳味。』とある。私は「大銀杏」は確かに俳句であるが、この川柳の方が遙かに凄絶にして鬼趣があってよいと感ずる人間である。]

 

   火事

もう下火だと身ぶるひが小便し      三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『身ぶるひが先か小便が先かで一もんちゃく。』とある。この評言から、評執筆は久作(三八)自身であることが分かるように思われる。]

 

   あやつり

あやつりは役目が濟むと首を釣り     三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『深味はないが……。』とある。確かに、が、いい鬼趣の句である。]

 

   あやつり

人形にお辭儀さして村を出る       三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『大きい。』とある。この句、自由律俳人尾崎放哉の新発見句だと偽って発表すれば、知らない人は容易に信用しそうな気がするね。]

 

   ペテン

角道(かくみち)を知らぬ顏して王が逃げ 三八

 

[やぶちゃん注:続く『評』に『その手もあるナ。』とある。]

あふれ落つるあつき涙のうれしさよかほどに熱きなみだあるわれよ   杉山萠圓

[やぶちゃん注:以下の短歌一首は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「赤泥社短歌会」という標題で載る夢野久作の筆になると西原氏が推定する文章(同氏の解題によれば『九州日報』大正八(一九一九)年三月二十七日号に掲載されたもの)中に現われる杉山萠圓名義の夢野久作の一首。]

 

あふれ落つるあつき涙のうれしさよかほどに熱きなみだあるわれよ   杉山萠圓

貧しい酒   村山槐多

 

   貧しい酒

 

友だちと二人して私は呑んだ

辛い苦いさびしい酒を

安い盃からうんと呑んだ

 

そしてすつかり醉つぱらつた

額に皺をよせて二人は狂ひ廻つた

山犬の樣にリスの樣に

 

そして泥たんぼの上へひつくりかへり

とんぼがへり、ひとにかみついたり

怒つたり笑つたりした

 

「ああ、ああ、つらいつらい

何故こんな酒を呑まなくては居られないのか」

と二人は言ひました

 

がつかりした時に

醉ひがすつかりさめた時に

 

    ×

涙こぼすを恐るゝ故

われ哀れなる物事を見聞きせじ

美しき女子を見まじ

美しき景色も見まじ

 

鬼の如く見ゆと人は言ふ

われを見て

されどわれを見て

涙にもろき男と見し人は

よもあるまじ

 

玉ちやん玉ちやん

君こそその人にてあるべかりき

されどもしからざりしぞ

わがうらみなる

 

    ×

ぶどう棚をくぐり拔ける樣に

私は樣々の燈の下をくぐり拔けた

ぶどうよりも大粒な

紫、白、群靑、銀、オレンジなどの色の

強い愛らしい樣々な燈の下を拔けた

 

 

[やぶちゃん注:二箇所の「ぶどう」はママ。

「美しき景色も見まじ」「全集」は「美しき景色を見まじ」となっている。これは「も」でなくてはなるまい。

孔雀の舌   村山槐多

 

  孔雀の舌

 

クレオパトラは孔雀の舌を食べて

にぎやかに踊りました

 

クレオパトラは疲れて眠り

曉(あかつき)に眼をさまして

かはやにまゐりました

 

孔雀の舌も踊りつかれて

にげてゆきました

 

クレオパトラのお尻から

 

    ×

おいらんよ

飛行機の音がきこえる

天井のずつと上の方で

おいらんは見たいかい

見に來ないか

僕は見たくない

ああ云ふ物は

ちつとも見たくなくなつた

 

    ×

妖怪に會ふよりも

彼女に會ふ事が恐はくなつた

戀ひしくて耐らなかつた女が

 

それ程までに恐はくなつた

不思議な變り方だ

恐はい、恐はい、恐はい

どうぞ裸になつて下さい   村山槐多

 

  どうぞ裸にをつて下さい

 

うつくしい□□□□

どうぞ裸になつて下さい

まる裸になつて下さい

ああ心がおどる

どんなにうつくしかろ

あなたのまる裸

とても見ずにはすまさぬ

どうぞ裸になつて下さい

 

 

[やぶちゃん注:本文二行目の「どうぞ」は底本では「どうそ」。ここは誤植と断じて訂した。「おどる」はママ。「全集」では編者注があり、伏字部分を『お珠さん』と推定復元するが、槐多がストーカーした彼女の固有名詞をここに復元出来る根拠は示されていない。]

戀人に   村山槐多

 

  戀人に

 

金剛石坑夫がざくろの樣な一つを見つけたより

私はそなたに出會はした時に喜ぶ

ぎよつとする、ぶるつと來る

そう言ふ時そなたはいつでも下を向いてしまふが

この次にはまつすぐに私の限を見つめて見な

私の眼はびつくりする程輝やいて居るから

恐らくそなたもまたその眼を

素晴らしいダイアモンドと見まちがへるだらう

 

    ×

響よりとらへにくいそなたの心

光にも似て

高かつたり低かつたり

強かつたりよはかつたり

 

とらへにくいそなたの心

 

    ×

電車は電氣で走れ

私は愛で動く

愛が私をあやつる

私を晩から夜半までもはたらかせ

火花の散る程かけまはらせる

私をさか落しにし

私を天へつきとばし

私に私を忘れさせる

愛よ

強い力のある愛よ

 

めつたに私にのりうつるなよ

 

 

[やぶちゃん注:「そう言ふ時」「よはかつたり」はママ。

第四連(「×」区分の第三パートの第一連末尾)の

 

私に私を忘れさせる

愛よ

強い力のある愛よ

 

の部分の「愛よ」は、「全集」では何故か「愛よ愛よ」とリフレインされている。これも詩稿でも見つかったものなのか? 不審である。

ある四十女に   村山槐多

 

  ある四十女に

 

美しいそなたの額は

過去の宴樂につかれて老ひ

その色は眞珠の如く曇る

 

美しいそなたが心は

打しをれて泣き濡る

 

あはれなるあはれなる女よ

われはそなたを愛す

突風の古びし薔薇の木を傾くる如く

 

美しきなよやかなる過去に

血の如きいまのわれは感ず

 

老いし宴樂の女よ

われはそなたの前に顫ふ

炎の白金の面にためらふ如く

 

女よ女よ

われは胸顫はしてそなたを見つむ

美しき戀の思ひに

 

若き女の眼よりも鋭どく

かくも強くかくも深く

われをまどはするそなたが瞳よ

 

    ×

わが靈は木の果の風にゆるゝ樣に

にほやかにゆすれて居る

美しい物にみにくい物に樣々に眼をやりつつ

たえまなくゆすぶれる

 

ああこのゆするゝ響につれて

私はふらふらと進んでゆく

たえまなくはてしなく

ふらふらと私はゆく

 

 

[やぶちゃん注:「過去の宴樂につかれて老ひ」の「老ひ」、「打しをれて泣き濡る」の「濡る」はママ。

「ある四十女」この女性は、「全集」年譜(山本太郎編)の大正六(一九一七)年の四月の条に以下のようにある「をばさん」という女性である。やや長いが引用させて戴く。

   《引用開始》

 美術院第三回習作展に油絵「湖水と女」素描コスチュームの娘」出品、美術院賞金を受く。この年はコンクールで数度の賞金をうけた。夏、山崎省三と再び大島へゆき、帰ってから、四谷に住まう。

 根津時代みんながツリーの「ワレンス夫人」ダヴィンチの「モナ・リザ」とよんでいた「をばさん」に恋を感じ、さかんに描く。彼女は凄艶ともいうべき芸者あがりの四〇女で「はあちゃん」という女の子といっしょにくらしていた。淋しい女の翳も槐多の心をとらえた。

 槐多は「をばさん」の生活を助ける決心をし、工場(両国の)で働くサラリーをみんな彼女のうちへもちこんだ。絵の仕事をぎせいにして働いた。むろん「をばさん」とは特別の関係はなかった。絵の勉強と女性をたすける生活のための仕事のジレンマにくるしんだ槐多は、とうとう「をばさん」と別れる決心をし、九十九里へ旅立つ。

   《引用終了》

文中の「根津時代」とは前年大正五(一九一六)年春例の「お玉さん」に入れ上げ、小杉未醒の所から出て自活した根津の裏通りの貸間で過ごした頃を指す。『ツリーの「ワレンス夫人」』というのは、私が馬鹿なのか、よく分からない。思想家ルソーが愛人となった後援者ヴァランス男爵夫人(Madame de Warens 「ヴィラン」「ワレンス」などとも音写する)のことかとも思ったが「ツリー」がおかしいし、後の『ダヴィンチの「モナ・リザ」』と並列するからには、肖像画かと思って調べて見たが、ぴったりくるものがない。識者の御教授を乞うものである。また、「工場(両国の)で働くサラリー」とあるのは、その頃の槐多が生活費を稼ぐために午後通っていた両国の木製の筆入れを製造する工場での「焼き絵」の仕事の収入を指す。焼き絵とは、熱した鏝(こて)などの金属や薬品を用いて、絵や文様を紙・木材・象牙・皮革などに焼きつける技法を言う。

 私は永らく、ここに出る槐多の代表作の一つである槐多の「モナ・リザ」とも言うべき「湖水の女」及び同年九月の美術院展第四回に出品した妖気に満ちた怪作「乞食と女」の和装の女性は、この「モナ・リザ」である「をばさん」であろうと思っていた。草野心平も「村山槐多」でそう述べているのであるが、しかし、少なくとも前者のモデルは近年の調査によって、この「をばさん」ではないとされ(『芸術新潮』一九九七年三月号「特集 村山槐多の詩」)、「ポーラ美術館」公式サイト内のコレクションの「湖水と女」にも、この女性は『槐多の後援者、笹秀松の妻の操であるという説が有力となってきた。槐多の遠縁にあたる笹操はすらりとした長身の美女で、この《湖水と女》が描かれた』時は三十一歳頃で『あったという。夫の秀松は、大柄で磊落な性質で知られており、《のらくら者》』(大正五(一九一六)年)『のモデルといわれている』とある。従って前者は私の印象を撤回するとしても、「乞食の女」のサディストと霊性を同時に孕んだ「女」の方は、明白にこの「をばさん」に違いないという印象は変わらぬ。そうして草野は微妙に留保しているものの、この「鬼の線」を額に走らせている横顔の醜悪なマゾヒスティクな乞食はやはり明らかに槐多自身のカリカチャアである(この日動出版の草野の「村山槐多」の第三章『槐多と「モナ・リザ」』は、強力なヴァーチャル・リアリティを持った筆致で記されている。未読の方には是非お薦めしたい)。なお、この「をばさん」については一九九六年春秋社刊の荒波力(ちから)氏の「火だるま槐多」の大正七(一九一八)年譜の四月の条の最後に、『この頃、「おばさん」の行方が分からなくなり、槐多との交渉は終る』と記されてある。

ある日ぐれ   村山槐多

 

  ある日ぐれ

 

血の強いにほひが

草木から、星から、走る車から

どくどくと、ほとばしる

 

血は血に滴(した)たり

血は血に飛ぶ

 

生きたる物から滴たる

 

その強さと恐ろしさとに

わたしはぎよつとした

 

どくどくと血が滴たる

萬物の動脈が切れた

 

命が跳ね上つた

そして落ちる

まつさかさまに

 

これはどうした事だ

 

逃げろ逃げろぐづつくな

血は滴る一滴、三滴、五滴、九滴

天から、地から、街から、電車から、

 

こりやどうだ

血のにほひの強さつたらない

 

ぎよつとしてたたづむ私の體軀からも

血が點々として滴たるぞ

 

血は血に

血は血に滴たる

 

あ。

 

 

[やぶちゃん注:第九連と第十連は「全集」では(底本の「たたづむ」は以下の通り、訂されてある)、

   *

こりやどうだ

血のにほひの強さつたらない

ぎよつとしてたたずむ私の體軀からも

血が點々として滴たるぞ

   *

連続した一連となっている。三篇連続で底本と異なり、大いに不審である(繋がらなければならない必然性絶対性は全く認められないと私は思う)。しかもこの行空きは改頁ではなく、同頁内(三一五頁)ではっきりと示されたものである。]

唇   村山槐多

 

  唇

 

美しい多淫なあの女は唇をよせた

花を見せる樣なしなをつくり

 

唇は唇を睨んだ

私は猿の頰に似て居り

下唇に幽かな金色の染點がついて居た

 

その染點をそつと嗅いだら

高い煙草のやにだつた

私は一聲泣ひて

この唇をなめた

 

 

[やぶちゃん注:「泣ひて」はママ。]

樹下   村山槐多

 

  樹下

 

美しい葉つぱが垂れかさなり

私のこはい顏を紫の陰影で深める

秋だな

と私はうなづいて寒さに顫へた

樹々は私を圍んで居た

秋さ

と彼等はこたへた

金色の葉つぱをざわざわさせて

 

それはお前たちばかりが知つた事かと

私は樹月の下をくぐり拔けて

明るい空の眞下まで行つた

 

菲翠の樣な空がまた

秋さと言つた

 

 

[やぶちゃん注:第一連の「と私はうなづいて寒さに顫へた」と「樹々は私を圍んで居た」は、「全集」では分離されて「樹々は私を圍んで居た」以下の四行が第二連となっている。しかし、底本ではここは三三一頁から三三二頁のめくりの改頁で、版組は完全に前者が最終行まで、後者が冒頭行から組まれている。即ち、これは連続した二行であることは言を俟たない。しかもここに行空けがなければおかしい(「あってもよい」ではない)とは私はさらさら思わない。

「菲翠」はママ。「全集」は「翡翠」と訂する。誤字或いは誤植であることは分かるが、誤植であることを証明出来ない以上、ママ注記で出すべきである。何故なら、これは注なしで容易に翡翠の誤りであろうと誰もが認知でき、読みを停滞させないからである。因みに言っておくが、現行では中国ではこれは誤字ではなく、翡翠のことである。「菲翠」で検索を掛けてみられるがよい。そこら中に翡翠の画像とちゃんとしたその説明文や標題中に夥しく「菲翠」と出るのを発見されるであろう。]

深夜の猿   村山槐多

 

  深夜の猿

 

私がめざめた

しつこく女と遊ぶ夢から

そしてがつくりとした

 

窓の外で

冷めたい霧が星をくもらせる

地に霜がしがみつく

かつちりと

 

で、まつくらだ

まつくらな眞の夜中だ

 

ふと、ぎよつとして私が起きた

 

はるか怪しい響がつたはる

霧と霧のはざまから

森の底の

遠い禽獸園から

はるかにきこえる

 

猿が一聲泣いたのだ

鋭どうさびしう

 

がたがたと私は身を顫はせた

深夜のこの一聲が

私の心の聲ときこえて

 

しばしば耳を澄ました

がそれつきりで

夜は深々とふけわたつた。

 

    ×

眞赤な花の咲いた

薔薇の木のとげにさされて

猿が一聲泣いた

その泣聲がとある日きこえた

美しい君の頰から

不思議で耐らぬ

 

    ×

うつくしき眼われを見守る

いつも、いづこにも

動かざる星の如く

消えざる幻の如く

過ぎざる時の如く

 

ああわれその眼のために動けり

をどれりはたらけり

その眼あればこそ

 

うつくしき眼よそなたの眼よ

 

いつも、いづこにも

うつくしき眼わが行なひを見守りて

時に晴れ時にくもる

 

うつくしき眼よ

 

 

[やぶちゃん注:「うつくしき眼よそなたの眼よ」この一行、「全集」では前の連の末尾に続いている。しかし底本を見ると、この前の「その眼あればこそ」の部分三三〇頁が終わって、見開き改頁で左頁の初めに本一行が示されているのであるが、版組を見ると明らかに「その眼あればこそ」の後には有意な行空きがあるとしか読めない。失礼乍ら、彌生書房版「村山槐多全集」はこうした細部の校訂がはっきり言って致命的に杜撰である。]

2015/07/14

雨ふり   村山槐多

 

  雨ふり

 

しゆつしゆつと音立てゝ

強い雨がふる

高臺に草は濡れて

空をうらんで居る

 

高臺の上から

私の眼が見下して居る

雨にひしやげ押しながされ

泣いてくだける村の屋根を

 

美しい薄靑い霧を

泣いて走る小僧を

首をふる凉しい高い木を

くたばつたカンナ畑を

 

しゆつしゆつと雨は射る

私は心(しん)まで濡れてしまつた

傘の持ち樣が不器用だし

おまけにその傘がやぶれて居る

 

    ×

氷のかけが私の手のひらに載つかつた

と思つたら消えた

 

足さきが地に凍りついた

と思つたら離れた

 

紫の月がうつくしい息吹の中に

凄い顏を見せる

冬の眞夜中はふけた

 

    ×

輝く月が紫のけぶりに沈んで

うつくしい夜と離れた

 

私はどつと暗に落ちこんだ

恐ろしさに慄へて私は立すくむ

 

高い樹木らは冷酒をあふつて

ならず者の樣に私をかこんだ

 

    ×

屍□をゆめみて冷たい室に居り

障子に風の顫ふ響ひとりきき

 

さてはちまたに氷山の空をとびくと

せまき小みちに逃げ入り

 

 

[やぶちゃん注:「全集」編者山本太郎氏は「屍□をゆめみて冷たい室に居り」を、

   *

屍骸をゆめみて冷たい室に居り

   *

と推定復元されている。これでは意識的伏字とは思われないから、山本氏は判読不能字を復元されたということであろう。]

失戀の記録   村山槐多

 

  失戀の記録

 

紅い日光がしやべくつて居た、何かしら埒もない事を、

田端から谷中へ通ふ道の上を通じて

日もすがら飽きもせず、

 

靑い空が硝子をはめた樣に強く晴れて居た、

 

ばつたりと私は會つた美しい女に、知らぬ女に。

 

乞食に近い身なりで私は歩いて居た、丁度その女があつちから鳥の樣に近づいて來た時

 

女の凉しい眼が私の顏をあかくさせた、

 

それからその女が忘れられぬ、

 

また會つた、次の日に、次の次の日にも、

 

その女を見さへすると私は凉しい美味な飮料を呑んだ樣に思ふのであつた「戀」と心が輝やきつ述べた、

 

「あれはモデル女だよ」と友の一人がささやいた日から私は女を捕へにかかつた。私の仕事は畫であつたものだから。

 

美しい名が私の唇に上りはじめた、その女の名の「お珠さん」と云ふのは

 

モデルの市にお珠さんを見る事が私のたゞひとつの仕事になつた、畫を描く事も忘れ果てゝ

 

とうとう私達の仕事場に女の姿が現はれた、美しい長い姿を圍んで私も夢の樣に畫布に向つた。

 

私の言つた戯談に笑ふ時その小さい齒から色ある響きがそれに答へた、

 

とうとう知り合になつた、嬉しさに人知れず踊つて居た、たゞひとり暗き人なき所で、

 

うちへつれて來て二人切りで畫を描いた時、お珠さんの眼がすこし怖い光を帶びて私を見た、

 

「私をお思ひない、一心に」とお珠さんに言ひつけられた、

 

女の姿が見えなくなつた、私は探しまはつた。

かなしくなりながら、

 

淺草の活動寫眞館の暗の中でその人を見た

おどろきに眼がくらむ、女は貧しい故にこんな所のやとひ人とならねばならない、

 

私も貧しい、どうする事も出來ない。

 

それから夜毎に淺草へ通つた。顫へながら、高ぶる戀の思ひに、

 

瓦斯と電燈との光、群集をくぐつて夜更けて家へとかへる珠ちやんを淺草から吉原へと夜毎に追つた。

 

話しかける一ときを作らうとして作り得ず、おかしい愚な追跡をくりかへした、

女は私をこはがり始めた、

 

醉つては走る狂の樣な私の姿が女の神經を恐怖の極みに進めてゆく、

 

私の戀は噴水の樣に高まつた、

 

ある夜まち伏せて居た酒場の戸の陰から

投げつけた酒杯が女の足下で銀に微塵にくだけた、

 

女は狂態をむしろ憤つた、

 

私は吉原の裏へ引つ越した、彼女の家は間ぢかに、

 

女は顫へて居る、殺到する男の豫感に、

 

美しい月夜に似た灰色のある眞晝、私は女を捕へた、とあるいぶせき小路に、

 

私は打ち明けた、眼をつぶらなければ言へぬ程の激しい思ひを、

 

女の眼は靜まりその顏は石の樣に冷めたくなつた、美しい刹那のヒステリア

 

私は戀を失つた、女は私を逃げた、忙然とのこされて涙の泉が私の心に澄み輝いた

 

その夜から歌の樣なすてばちな亂肆の生命が私の身を酒と卑しい女とに投げ入れた

 

私は私を失つた

 

涙と一所に私は東京を離れて遠い國へと旅立つた。

 

    ×

寒いあやうひ空は照る

金の草木のその上に

 

秋は靜にうつくしき

季節と人は今ぞ知る

 

活々と戀は生きかへる

美しき君が顏に。

 

    ×

槍の樣に雨がふる

 

眞蒼に恐れて屋根は輝やく

夜はふけてゆく

恐ろしい夜はふけてゆく

寒さに慄へて私は窓邊に居る

さびしく貫しく弱く

 

    ×

うるほひて晴れたる

美しき日の下に紫の道は走る

その顏の佛に似たる友どちと

ほほ笑みてわれ歩む

 

日もすがら地を歩む

日かげに似たるものぐさの二人

たゞ語りたゞ笑ひたゞゆく

あてどなきかなたへ

 

若き日の行く音に

さびしく耳立てゝさすらへり

美しき日赤き街輝やきて叫び動けど

たゞぼんやりと道を二人はゆく

 

瓦斯マントルに似て光る雲

靑きかげを二人にそそぐ

美しき悲哀心にくもり

しばしは共に默りゆけり

 

 

[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年の春、槐多が小杉家を出て自活生活に移ったのも、この「お玉さん(お珠さん)」故であったと考えてよかろう。しかし、本篇を一読すれば直ちに思い至る通り、毎日彼女に手紙を送り(「全集」年譜や前掲の草野心平「村山槐多」によれば、その葉書には署名代わりに決まって目玉一つを描いてあったという)、彼女の家の近くに引っ越す、酩酊して凄むなど、大方の現代人から見れば、完全鉄壁典型無二なストーカー以外の何者でもないという印象であろう。

「その女を見さへすると私は凉しい美味な飮料を呑んだ樣に思ふのであつた「戀」と心が輝やきつ述べた、」この末尾「心が輝やきつ述べた、」はママ。「つ述べた」の部分は私には意味不明である。

「モデルの市」絵のモデルを斡旋しまた雇うためにあった専門の紹介所らしい。

「私達の仕事場」日本美術院研究所のデッサン・ルーム。ここで注しておくと、日本美術院は明治三一(一八九八)に東京美術学校を排斥されて辞職した岡倉覚三(天心)が自主的に連座して辞職した美術家達とともに谷中の大泉寺に結成したものを濫觴とする。以後盛衰を繰り返した後に解散したが、岡倉の逝去の翌大正三(一九一四)年、その意志を引き継がんとして、文展(文部省美術展覧会)に不満を持つ旧院生であった横山大観や下村観山らが日本美術院を再興した。場所は谷中三崎坂南町で、槐多が籍を置いたのはその洋画部であるが、大正九(一九二〇)年にまさに槐多を引き受けていた小杉未醒(放庵)が同院を離脱したことにより、洋画部所属の同人らが連袂退会し、解消してしまったとウィキ日本美術院にはある。老婆心乍ら、この美術団体は現在の公益財団法人日本美術院、「院展」のそれである。

『「私をお思ひない、一心に」とお珠さんに言ひつけられた、』の「お思ひない」はママ。「全集」は「私をお思ひなさい、一心に」と鮮やかに〈訂〉しているが、私は彼女がどこの出身かは知らないが、「ない」を「なさいな」という命令形でとることに違和感がない人間である。

「亂肆」聞き馴れない熟語であるが、「肆」の原義は、ほしいまま・我儘・恣(ほしいまま)にするの意であるから、著しく我儘な、の意であろう。

「涙と一所に私は東京を離れて遠い國へと旅立つた」の「一所」はママ。「全集」は「一緒」とある。ここまで、底本では、例の二字分高い位置からの組であったものが、以下の「寒いあやうひ空は照る」からは最後まで二字下がっている。この箇所は明らかに意図的な版組ではある。底本のこの行は改頁三二〇頁の初行で、明らかに意識的に半組をその後から下げいているからである。但し、冒頭注で述べたように、ブログ版では読み難くなるだけで益がないので無視する。なお、「全集」も無視している。

「寒いあやうひ空は照る」はママ。「全集」は「寒いあやふい空は照る」と訂する。

「その顏の佛に似たる友どちと」「全集」は「友どち」を「友だち」とする。こんな捏造が許されていいはずが――ない!――

「瓦斯マントル」ガスマントルは白熱ガス灯の燃料であるが、ここはそれを用いたガス灯の灯の光のことを指している。ウィキガス灯」の「白熱ガス灯」に(アラビア数字を漢数字に代えた。下線はやぶちゃん)、白熱ガス灯は『ガスマントルを利用することにより、従来の裸火ガス灯と比較して、一灯の出力が四十燭光程度にまで伸びたガス灯。 ガスマントルは、一八八六年(明治十九年)、カール・ヴェルスバッハによって発明された。麻や人絹の織物に硝酸セリウム・硝酸トリウムを含浸させたもので』、それをガスの供給バルブの上に被せて、『一旦火を付け灰化させるとガスの炎で発光する。日本では明治二十七年頃からガスマントルを利用したガス灯が出現した。 タングステン電球が普及するまでは相当数が用いられた。従来の裸火のガス灯と区別する為に白熱ガス灯という。現在見ることのできるガス灯の大半はこの白熱ガス灯である』。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  明王院

    ●明王院

飯盛山寛喜寺(いゝもりさんくわんきじ)五大堂と號す公方屋敷より東。海道よりは北河の向(むかう)にあり。里民或は大行寺ともいふ。眞言宗仁和寺の末寺(ばつじ)にて賴經將軍の祈願所なり。東鑑に寛喜三年十月十六日。將軍家御願として二階堂の内に五大尊堂を建立すへきの由。方角(ほうかく)日時を校量(かうりやう)せらる。同年十一月十八白。五大尊の像造始らる。嘉禎元年二月十日。堂建立將軍家渡御あり。同年三月五日。鐘樓を立らる。同年六月廿九日。鐘を懸らる。同日に五大明王の像を安置す。同く明王院五大尊堂供養の儀あり。願文は大藏卿菅爲長草す。内大臣實氏淸書す。安鎭は辯の僧正定豪將軍家出御とあり。今堂に不動一尊を安す。筑後の法橋作。寛永年中の回祿に。四尊は燒亡して不動一尊殘れりと云ふ。藥師大日の像もあり。東鑑を見れば、此五大堂。初は甘繩の地に可建由なりしか。賴經の若宮大路の屋敷より鬼門に當るを以て此地に定むるとなり。

[やぶちゃん注:古義真言宗。寺名は建立発願時の年号をそのまま使ったもの。「五大堂」とは後に出る通り、「五大尊」、五大明王を祀った堂のこと。五大明王は不動明王〔中央〕・降三世(ごうざんぜ)明王〔東方〕・大威徳明王〔南方〕・軍荼利(ぐんだり)明王〔西方〕、そして真言宗では金剛夜叉明王を、天台宗では烏枢沙摩(うすさま)明王(後注参照)を北方に配するのが一般的な安置法である。特に密教で行われる修法の一つである「五壇の法」(「五壇の御修法(みずほう)」「五大尊の御修法」と称し、個別に五壇に勧請安置なし、それら総てに国家安泰・兵乱鎮定・現世利益などを祈願する修法。天皇や国家の危機に際して行われる非常に特別な秘法)を修する。この五大尊で修されるの特殊な呪法で、しかもここが現存する鎌倉将軍の発願による唯一の寺院となると、これ、発願者頼経が京都に送還された事件の背後で、幕府を呪詛したという流言飛語が流れた(執権時頼お得意の謀略と私は読んでいる)ことと、この明王院、どうも切り離しては私は考えられないのである。

「河」胡桃川(滑川)。

「里民或は大行寺ともいふ」「新編鎌倉志卷之二」「明王院」の引用。

「末寺(ばつじ)」「末」を「ばつ」とするのは末娘の意の「末女(ばつじょ)」などに例があるが、一般には「まつじ」と普通に読む。

「寛喜三年十月十六日」寛喜三年は西暦一二三一年。「吾妻鏡」の同条を引く。

   *

十六日戊辰。霽。二階堂内可建立五大尊堂之地者。本堂地池上也。可糺彼方角之由。被仰下之間。周防前司親實。式部大夫入道光西〔御堂奉行〕。藤内左衞門尉定員等相伴陰陽師晴賢已下。攀上本堂後山。校量方角。從御所相當寅与申間。不可有憚之由。令一揆。然而明年者。可爲王相方。而故二位殿御時。所被用本所之僧坊一宇在之。可爲御本所。彼坊自可被立御堂之地。當乾方歟。猶以戌方分歟之由。晴賢申之。各令歸參。言上其趣。戌尅。於武州御第。爲尾藤右近入道奉行。有御堂造營日時之定。其後有献盃羞膳。親實。光西等候其座。

○やぶちゃんの書き下し文

十六日戊辰。霽。二階堂内に五大尊堂を建立すべきの地は、本堂の地の池の上なり。彼(か)の方角を糺すべきの由、仰せ下さるるの間、周防前司親實、式部大夫入道光西〔御堂の奉行〕、藤内左衞門尉定員等、陰陽師晴賢已下を相ひ伴ひ、本堂後山に攀ぢ上りて、方角を校量(けうりやう)す。御所より寅と申の間に相ひ當り、憚り有るべからざるの由、一揆(いつき)せしむ。然れども、明年は、王相方(わうさうかた)たるべし。而るに故二位殿の御時、本所に用ゐらるる所の僧坊一宇、之れ在り。御本所と爲すべし。彼(か)の坊、御堂を立たらるべきの地より、乾(いぬゐ)の方に當るか、猶ほ以つて戌の方の分か、の由、晴賢、之れを申す。各々歸參令せしめ、其の趣を言上す。戌の尅、武州の御第に於いて、尾藤右近入道を奉行として、御堂造營の日時の定め有り。其の後、献盃(けんぱい)・羞膳(しうぜん)有り。親實、光西等、其の座に候ず。

   *

以上の内、「校量」は較量とも書き、ある物事を本(もと)に他の物事を推し量ることで本文のように「こうりょう」とも読む。「一揆」は狭義には中世鎌倉・室町期の特殊な用語として同族の武士などが共通の利害関係に基づいて政治的軍事的に団結して進退をともにすること及びそうした組織の呼称であるが、ここは一般名詞として心を同じにすること、一致団結ほどの意である。「王相方」とは陰陽道で時と方角が良からぬ状態を指すものと思われる(王相方で方違えを行うという古記事が散見される)。「故二位殿」は北条政子。「羞膳」の「羞」は「料理を勧める」意で、料理・ごちそうの意である。注意すべきは、この発願の初めは、建立地が永福寺内に内定した事実である。

「嘉禎元年」一二三五年。厳密には六月はまだ文暦(ぶんりゃく)二年(九月十九日に嘉禎に改元)。この六月の「吾妻鏡」は殆んどが明王院の記事で埋まっている。

「大藏卿」大蔵省の長官。

「菅爲長」九条家下家司で公卿の菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年)。彼は長命であった上にブレーンとして属した九条家が親幕派であったこと、学者肌で生前の北条政子とも懇意であったことなどから、幕府受けが良かっただけでなく、正二位・参議・大蔵卿叙任という異例の昇進を遂げている(ウィキの「菅原為長」を参照されたい)。

「内大臣實氏」西園寺実氏(建久五(一一九四)年~文永六(一二六九)年)。承久の乱で父公経とともに幽閉された親幕派である。この嘉禎元年中に右大臣、寛元四(一二四六)年には太政大臣に昇っている。

「安鎭」仏堂新造の鎮魂の修法。

「定豪」鶴岡八幡宮別当。彼がこの明王院の初代別当となっている。

「筑後の法橋」仏師であるが不詳。「法橋」は「ほつきやう(ほっきょう)」で、法橋上人位という律師の僧綱(そうごう)に授けられる僧位の略称で法印・法眼の下位であるが、後に一般僧、更には仏師や絵師も叙任されるようになった。

「寛永年中」一六二四年~一六四五年。この火災焼亡記事は「新編相模国風土記稿」に拠るものであろう。

「初は甘繩の地に可建由なり」「吾妻鏡」の前掲の記事のたった三日後の寛喜三(一二三一)年十月十九日の記事を引く。

  *

十九日辛未。雨頻降。改二階堂御堂之地甘繩。城太郎南。千葉介之北。被點定西山之傍。兩國司亦巡檢給。今日。相當于橘寺供養之日。不吉也云々。仍陰陽道數輩被召決之。泰貞。晴茂。長重。文元一同申之。件寺供養者寛治五年也。而供養与作事各別事也。甚不可有憚云々。亦齋藤兵衞入道淨圓申云。辛未日。有不吉所見云々。云彼云此。無御承引兮。被用今日也。法橋圓全申云。粗考先規。辛未之例非一。所謂後一條院寛仁四年正月十九日辛未。興福寺阿彌陀堂御塔柱立。堀河院康和二年七月六日辛未。於春日社一切經供養。同日於日吉社大般若經供養。鳥羽院元永元年閏九月廿二日辛未。熊野山一切經供養〔有御幸〕。崇德院保延二年三月四日辛未。熊野山本宮五重御塔供養。後鳥羽院元曆元年閏十月十日辛未。法皇御願於蓮花王院萬部四卷御經供養等也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日辛未。雨、頻りに降る。二階堂御堂の地は甘繩(あまなは)に改め、城太郎が南、千葉介が北、西山の傍らを點定(てんぢやう)せらる。兩國司、亦、巡檢し給ふ。今日、橘寺供養の日に相ひ當り、不吉なりと云々。

仍つて陰陽道數輩に之れを召し決せらる。泰貞・晴茂・長重・文元、一同に之れを申すに、件(くだん)の寺供養は寛治五年なり。而うして供養と作事とは各々別事なり。甚だ憚り有るべからずと云々。

亦、 齋藤兵衞入道淨圓、申して云はく。

「辛未(かのとひつじ)の日、不吉の所見有り。」

と云々。

彼(かれ)と云ひ、此(これ)と云ひ、御承引無くして、今日を用ゐらるるなり。法橋圓全、申して云はく。

「粗(ほぼ)、先規を考ふるに、 辛未の例、一(いつ)に非ず。所謂、後一條院の寛仁四年正月十九日辛未、 興福寺阿彌陀堂御塔の柱立(はしらだて)、堀河院の康和二年七月六日辛未、 春日社に於いて一切經を供養す、同日、日吉社(ひえしや)に於いて大般若經を供養す、鳥羽院の元永元年閏九月廿二日辛未、熊野山の一切經供養〔御幸有り。〕、崇德院の保延二年三月四日辛未、熊野山本宮の五重御塔供養、後鳥羽院の元曆元年閏十月十日辛未、法皇御願、蓮花王院に於いて萬部四卷の御經供養等なり。」

と云々。

   *

とある。当時の公権力者(この時でさえかの智将北条泰時である)が如何に吉凶に振り回されたかが、喜劇のように読める。かくして翌十月二十日は早速に甘繩にまたしても校量を行わせ、「是自御所坤方也。方角無其憚。作事不可有難由申之。」(是れ、御所より坤(ひつじさる)の方なり。方角に其の憚り無し。作事難有るべからざる由、之れを申す)と一度は落ち着くのだが……ところが……凡そ一年後(貞永元年には九月が閏月)の貞永元(一二三二)年十月二十二日の記事を見よう。

   *

廿二日戊戌。天晴。爲將軍家御願。明年可被立五大尊堂事。未被議定其地。仰人々被求勝地。毛利藏人大夫入道西阿領大倉奥地可然之由。有其沙汰。今日。依仰相州。武州相具親職。晴賢。文元。珍譽。金藏等監臨給。毛利入道。接津守。駿河前司。隱岐入道。後藤大夫判官。伊賀式部入道等同參進。地形勝絶越日來巡檢方々之由。各定申。仍可爲此地之由。被思食云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿二日戊戌。天、晴る。將軍家御願の爲、明年、五大尊堂を立てらるべき事、未だ其の地を議定せられず。人々に仰せて勝地を求めらる。毛利藏人大夫入道西阿領の大倉奥地、然るべしの由、其の沙汰有り。今日、仰せに依つて相州・武州・親職・晴賢・文元・珍譽・金藏等を相ひ具し、監臨し給ふ。毛利入道・接津守・駿河前司・隱岐入道・後藤大夫判官・伊賀式部入道等、同じく參進す。地形の勝絶、日來(ひごろ)巡檢の方々(はうばう)に越ゆるの由、各々定め申す。仍つて此の地たるべきの由、思しめさるると云々。

   *

なんじゃあ?! すこぶる景勝地だあ?! 今までの議論は、何だったんじゃい! と言いたくなる合議なわけで、さても本文に出るご大層な「賴經の若宮大路の屋敷より鬼門に當るを以て此地に定むるとなり」なんてえのは後付で、やっと三年後の文暦二(一二三五)年一月二十一日の起工当日の「吾妻鏡」に突如、出現するのである。何だか、私は呆れてしまうのである。……

   *

廿一日乙卯。御願五大堂建立の事、相州・武州、度々巡撿。被撰鎌倉中之勝地。去年雖被定城太郎甘繩地。猶不相叶。頗思食煩之處。相當于幕府鬼門方。有此地。毛利藏人大夫入道西阿領也。依爲御祈禱相應之所。被點之。即被引地訖。仍今日先摠門計被建之。相州。武州。大膳權大夫以下數輩被相向伊賀式部入道光西爲奉行。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日乙卯。御願の五大堂建立の事、相州・武州度々(たびたび)巡撿(じゆんけん)し、鎌倉中の勝地を撰(えら)ばる。去年(こぞ)、城(じやうの)太郎が甘繩の地を定めらると雖も、猶ほ相ひ叶はず、頗る思し食し煩ふの處、幕府の鬼門方に相ひ當たりて、此の地、有り。毛利藏人大夫(くらうどのたいふ)入道西阿(せいあ)は領なり。御祈禱相應の所たるに依つて、之れを點ぜらる。即ち、地を引かれ訖(をは)んぬ。仍つて今日、先づ摠門(そうもん)計(ばか)り、之れを建てらる。相州・武州・大膳權大夫以下數輩、相ひ向かはる。伊賀式部入道光西・清判官(しんのはんがん)季氏等、奉行たり。

「毛利藏人大夫入道西阿」宝治合戦で自刃した毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年:彼は実は北条方に就こうとしたが三浦義村の娘であった妻の批難により三浦方に組した。)のこと。彼は大江広元の四男であった。「公方屋鋪蹟」で述べた通り、ここら辺りは、もともと大江広元邸の敷地内であったことがよく分かる(因みに、彼の官位にある「藏人大夫」であるが、この「大夫」というのは五位の別称であるから「蔵人の五位」と同義である。但し、「蔵人の五位」というのは「五位の蔵人」とは意味が違って――元蔵人であったが今は職には就いていない五位の人――即ち――六位の蔵人を勤めていて五位に上がったものの、五位の蔵人に空席がなかったため、蔵人の職を辞めることになった人――を指す特殊な謂い方であるので注意されたい)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  光觸寺〔附熊野權現社〕

    ●光觸寺〔附熊野權現社〕

光觸寺は藤觸山と號す。時宗にて藤澤淸淨光寺(せうじやうくわうじ)の末寺なり。本堂に寺號の額を掛く〔後醍醐天皇の宸筆〕開山は一遍なり。本尊彌陀〔運慶作〕觀音〔安阿彌作〕勢至〔湛慶作〕を安す。此本尊を頰燒禰陀といふ。厨子は持氏寄進の物なりとぞ。堂中に尊氏氏滿滿兼持氏の牌あり。

熊野牡 村の鎭守とす。十二所の村名是に發起すと云ふべし。

[やぶちゃん注:寺伝によれば元は真言宗で一遍の感化により改宗したとする。最後に足利氏歴代の位牌(現存)の記載があるが、詳しい謂われは私は知らない。公方屋敷に近いので、特段、不思議とは思われない。この寺は私が鎌倉で最も偏愛する寺である。何十回訪れたか、もう思い出せない。ここは一つ、「新編鎌倉志」の原形である「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光觸寺」(私のブログ版電子テクスト)をリンクさせておこう。

「藤觸山」藤澤山が正しい。「新編鎌倉志卷之を無批判に引用した誤り。現在(当然、本誌刊行時も)は岩蔵山(がんぞうざん)であるが、「鎌倉市史 社寺編」の光触寺の項に『江戸初期には藤沢山といった』とある。因みにここに出る時宗総本山で本寺の「藤澤」の「淸淨光寺」、通称、遊行寺、正式名藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺も同山号である。

「運慶」(?~承応二(一二二三)年)鎌倉期の造仏界を代表する慶派の名匠。七条仏所の総帥。平安末から鎌倉初期に活躍した奈良の仏師康慶の子で、復古的傾向の中にも写実的で剛健な新しい作風の運慶様式を完成させた。記録に残るものでは安元二(一一七六)年の奈良円成寺(えんじょうじ)の大日如来像を初めとし、治承四(一一八〇)年の東大寺と興福寺焼亡後の復興造営に父康慶や一門の仏師らと参加、建久七(一一九六)年には大仏殿の虚空蔵菩薩像や持国天像を造立している。建仁三(一二〇三)年の東大寺総供養の際、運慶は僧網の極位である法印に任ぜられているが、これは奈良仏師系の仏師としては初めての快挙であった。

「安阿彌」仏師康慶の弟子快慶(生没年未詳)のこと。「安阿彌陀佛」という彼の号の略称。作品の多くに初期は仏師快慶・丹波講師・巧匠安阿弥陀仏、後には法橋快慶・法眼快慶などの署名を残す。東大寺の重源上人に帰依して安阿弥陀仏と号し,建久年間(一一九〇~一一九九年)の東大寺復興造仏に師康慶や兄弟弟子運慶を助けて正系仏師慶派一門の繁栄に大きな役割を果した。

「湛慶」承安三(一一七三)年~建長八(一二五六)年)仏師。運慶の長男。快慶dと同じく建久年間に東大寺再興の造仏事業に祖父康慶・父運慶を助け、また興福寺北円堂の造像にも名を連ねる。建暦三(一二一三)年に法勝寺塔造仏により法印に昇叙した(以上の三名の記載は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「頰燒禰陀」「ほおやけみだ」(「頰燒阿禰陀」の略)と読む。伝承は新編鎌倉二」「鎌倉卷之五の「光觸寺」の項及び私の注、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光觸寺」に詳述しているのでお読み戴きたい。私がいっとう好きな鎌倉の説話である。

「熊野牡」やはり私の好きな現在の十二所神社のこと(正しくは「じゅうにそう」であるが、私はつい、「じゅうにそ」と発音してしまう)。以下、ウィキ熊野神社鎌倉市の同神社の項(鎌倉市には現在でも複数の旧熊野社が現存する)から引く(アラビア数字を漢数字に代え、注記号及び改行を省略した)。『十二所の鎮守社。中世には三浦十二天(『吾妻鏡』)、近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)・十二天明神社、または熊野十二所権現社とも称された。創建年代は定かではなく、弘安元年(一二七八年)との伝承があるが、寿永元年(一一八二年)八月十一日の条には北条政子の出産に際して、奉幣使が派遣されたとの記述が(『吾妻鏡』)、さらに八月十三日の条には十二所神社のほか諸社に源頼家誕生を祝って神馬を奉納した旨が記されている(『吾妻鏡』)ことなどから、遅くとも十二世紀末までには確立していたと見られる。古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられる(『新編相模国風土記稿』)が、天保九年(一八三八年)に現在地に再建された』(新編鎌倉二」に『熊野の權現の小祠 堂の前にあり。鎭守なり』とある)『当時、別当寺院を務めていた明王院所蔵の記録『十二所権現社再建記』によると、この再建事業は、氏子三十余軒による土地・用材の寄進と土木開墾の奉仕によるものであるという。明治新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称され、一八三七年(明治六年)、十二所地区の鎮守として村社に列せられた』。

最後に。以下は鎌倉攬勝考卷之五に既に掲載済乍ら、一九七八年の三月――私が二十一歳の春――雪の光触寺(後者は正確には光触寺の奥の谷戸昌楽寺谷で撮影したもの)で私が撮った二枚の写真である。
 

Kouokuji1

 
[光触寺境内にて ©藪野直史]

 
Kousokuji2
 

[光触寺奥昌楽寺谷にて ©藪野直史]]

ひぐらしの道のなかばに母と逢う   寺山修司

 
 

ひぐらしの道のなかばに母と逢う   寺山修司

 
 
 
(『暖鳥』(昭和二六(一九五一)年十一月初出、句集「われに五月を」に所収)

晴れた空   村山槐多

 

   晴れた空

 

澄み切つた雨ふりだつた

それはきのふの夜で

 

今日の空は紫がかる程靑い

孔雀の背中を思はせる

晴れた、晴れて居る

すつかり晴れてしまつた

 

私は歩くちよこちよこと

重たい棒をぶらさげて

 

だれだ、だれだ、だれだ

だれだか天から私の頭に

ぶどうの玉を投げつける

 

紫のぶどうの玉が絶えまなく

私の頭にぶつつかる

ぶつつかつてつぶれる。

 

美しい空だ。につと笑つてる

私の眼も口も耳も鼻も

それにつかつて居る

アルコホルに浸つた果物の樣に

 

晴れた、晴れて居る

すつかり晴れてしまつた。

 

    ×

光る樣に笑つたあの人は

私の貴とい寶物だ

 

いつまでもいつまでもなくすまいと思ふ

 

私は落したり拾つたりして居る

私の寶物を

私はよろよろと行く

私は醉人の樣に

 

 

[やぶちゃん注:「ぶどう」はママ。]

電車と靜物   村山槐多

 

  電車と靜物

 

矢の樣に電車がゆく

美しい果物の籠と

美しい女と

二つの靜物をのつけて

 

眺め入つて居ると

かごは女の體上に落ち

電車はとまり

二つの靜物がその代りにどこかへ歩き出した、

 

    ×

琥珀のまるが點々と

眞晝の花に見えまする

 

赤い胴の三味線が

遠い虛空で鳴りまする

 

まるくかごんでいいひとの

まるいせなかを抱きませう

 

    ×

湯屋のおかみさんの肉感的な事よ

裸で番臺に上る事だけはおねがひだからよしな

 

    ×

きくもいまはしき地獄の音

玉ちやんと云ふ名

 

    ×

鬼の線が俺の顏に走つて居る

鏡の前で嘆息した

鬼の線は〇〇にもやはり

 

    ×

もどかしい病的な私の靑春はひたはせに走せてゆく、

もう二十二才になつた、西洋風にしてこの九月で二十一才だ、

空虛に淋しくもやりすごした事よ

しかし美しさは確にあつた、すくなくともすこしはその上に斑になつて現はれて居た、

金色の斑を持つた灰色の矢の如くそれはとび去つた、

かくして自分はあと三十年四十年の運命に定められた時間をもつ、

この時間をどう費さうか、

與へられた金に就いて靑原の入口で考へる蕩兒の樣に私は立どまつて考へやう、

限り知らぬ希望を以つて、

第一に私のやりたい事は自分を宏大な藝術として完成する事だ、

それを見れば人眩らみ醉ひ泣く所の恐ろしいある魔をつくる事だ、

自然の諸相の精粹をつかみとつて

わが杯に調合するのだ、

そして不思議な媚藥をつくるのだ、

畫室がほしい、女がほしい、

美しい生活がほしい、心も消ゆる樣な遊びがほしい、

大海の樣に廣く、強く動ける精神が、

空の樣に澄めるはげしい感情がほしい、

踊りたい、萬物の滿足の上に、

 

    ×

滿つたわが心と肉と

金色に光る

美しい夏の日の

大島の海べに

 

死骸の樣に

すてた果物の樣に

時としてダイヤの樣に

燦々と光る

 

さびしいさびしい默りより

いつそれは輝く鳥の樣に

空を翼で打ち

空をふるはせる事か

 

    ×

善き心

めざめるな

われは惡をもて身を立てんとす

書き心よわれを放て、

マクベスの終りわれを待つこと

われよく知るものながら。

 

    ×

猛鳥の如き女

わが夢の空を飛ぶ

 

されどもめざめし時

わが眼は常にひかる

空の如くはかなき女に

 

しやもの如く相撲つ

二つの思ひわが心の中、

 

    ×

時をして風の如く

吹き過ぎゆかしめ

その中に石佛の如く

微笑して坐し居らん

 

ああああ

かくも觀ずる事の乾きよ

われその影だにも

心の中に見る事なし

 

一刻は萬貫の土塊の如く

力が心に落ち

あせりさわぎ

苦難止む時もなし

 

    ×

たばこにすへし舌を

一盞の水にくちそそぐ

淸き明るき白晝

美しき泉津の村に。

 

    ×

血と一所にせきを吐く

美麗な女が居た

「妾は病氣です」と言つた

強い紫の明りがかつと天から來て

その人を射拔いた。

 

「妾はもうだめなの」と言つて

はつきりと涙をこぼした

 

私は遠くから眺めて居たが

とんで行つてその人に言つた

「大丈夫です大丈夫です」と

 

そして見ぬふりしてまたとび去つた

紫の光と一所に

はるかのはるかのかなたへ

 

    ×

猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命が私にからみつく、猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に。

しうねく強く

家の貧苦、酒の癖、遊怠の癖、みなそれだ、

ああ、ああ、ああ、

 

切りつけろそれらに、

とんでのけろはねとばせ、

私が何べん叫びよばはつた事か、苦しい、さびしい、

 

血を吐く樣に藝術を吐き出して狂の樣に踊りよろこばう、

 

何と言つてもあの形に現はし難い悦び――を多分「藝術」と云ふのだらうが

あれが自分の全部だ、すべてを棒に挨れ、よせつけるな、あれだけに、

あれだけにしがみ付かう、その外はどうあらうとかまつた事か。

 

    ×

歡をつくせ、心

絶えず打笑へ

 

酒の如く澄んであれ

その底によろこびを含んで

 

絶えず泣けうれしさ餘り

娘の如くふるへてあれ

 

うつくしく

うつくしく

 

たのしく

たのしく

 

心よ

心よ

 

 

[やぶちゃん注:「立どまつて考へやう」の「やう」、「あせりさわぎ」の「さわぎ」、「しうねく強く」の「しうねく」はママ。

 底本では「もどかしい病的な私の靑春はひたはせに走せてゆく、」の一連(「踊りたい、萬物の滿足の上に」まで)だけが全体二字上げの組版となっている。

「玉ちやん」槐多がこの前年大正五年に狂ったように熱愛した着物モデル(但し、「「着物モデル」だと彼女のことを教えたのは槐多の画友で後の洋画家山崎省三。次の詩「失戀の記録」を参照されたい)。草野心平によれば(「村山槐多」昭和五一(一九七六)年刊)、この前年に詩篇や日記が異様に少ないのは、その「お玉さん」への恋愛とその失恋の影響がであるとする。また、彼女こそ『槐多のある暗いそして狂的な運命のキッカケになった』女であり、彼女への『失恋からの放浪の』『当時としても伝説めいた』『独り旅』が始まったと記す。本詩篇の後半の大島の旅もその一齣である。謂わば、彼女は槐多の最初のファム・ファータルであったと言ってよかろう。

「鬼の線」自画像でも確認出来る、槐多の額の眉間に縦に刻まれた深い皺を彼は自身で「鬼の線」と呼んで嫌っていた。近年、彼のデッサンの描画力を『鬼の線』と呼んで賞讃するらしいが、槐多が聴いたら、どう思うであろうか。

「鬼の線は〇〇にもやはり」「全集」で編者山本太郎氏は「魔羅」と推定復元されておられる。

「たばこにすへし舌を」の「すへし」は「すへ」が「饐」の意であるなら「すゑ」が正しい。「全集」は「すゑ」と訂されてある。

「泉津の村」現在の東京都大島町泉津(せんづ)。町の東部に位置し、太平洋に面しているが村域の殆どは山である。

「猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命が私にからみつく、猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に。」この一行は「全集」では、句読点が除去された上、改行されて以下のようになっている。

   *

猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命が私にからみつく

猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に

   *

なお、この一行、表現としては摑み難い。「猛毒ある蛭か」「蛇か」から調合した怪しい「藥品の樣に」、「私にからみつく」「猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命」だ、と私は採るが、どうも「猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に」が推敲段階の詩句のように絡みついていらつかせる。

「血を吐く樣に藝術を吐き出して狂の樣に踊りよろこばう、」は「全集」では読点を除去し、

   *

血を吐く樣に藝術を吐き出して

狂の樣に踊りよろこばう

   *

と改行、二行の連に仕立て変えてある。不審。]

2015/07/13

歩く屍   村山槐多

 

  歩く屍

 

瘦せた醜い屍體が歩いた

それが私だつた

蟲が湧きくさつて居つた

 

美しい日ぐれだつた

凄いなまめかしい月が顏をそむけた

紫の息吹の中になやんだ

 

その下を私が歩いた

ああ、ああ、それが私だつた

恐ろしい事實だつた。

 

 ×

神よ罪を犯したりわれは

今日の罪を今日許し給へ

明日の新らしき命の爲めに、

 

 ×

俺は夢を見よう、絶え間ない夢を見つづけやう

此世は霧の形で月光の色であらせやう

一生夢みやう、何かしらすさまじく貴とく興ある事どもを

餓死、貧困、屈辱、不運、醜惡もその夢の中の一つの黑い斑點だ、

戀、歡樂、美しい自然、名譽、それもまた夢の明るさだ、夢だ、夢だ、

夢の中に描き夢の中に働き夢の中にうたはう、

夢の中に紫の煙草をくゆらし公園にやすもう、

げんなりとし、にやにやと笑ひもしやう、

 

 ×

一切の過去には眼を瞑(つぶ)らう

新しい生が自分に現はれる、私はそれに心を打込まう、

一切の過去は思ふまい、空しき憂(うれ)ひだ、そんな物は。新らしい凉しい生活が俺を待つて居る、双手を高くさし上げて、

 

 ×

燃え狂ふ渦卷、

心のつむじ風、

 

顫(ふる)へたる身の舞踏

猛火しき思ひの走驅、

 

ああ、ああその上を照らす夏の光

眞紅に金に

 

ああああ苦しき時よ

身も心もちぎられるばかり

 

女よ、女よ、女よ

わが眼を避けよ、

 

われは電の如くとびつかん

女に、

 

 ×

愛する女よ

自分の心の中にそなたの食ひ入つて居る程がどんなにか大きい物かと思つて居るのか、恐らくそなたには冷笑一つにすら値しまい、

そなたには多くの男との接觸があり私には殆んどそなた一つしかない、

それでそなたが私に拂ふ注意も唯多くの男に分けて居るそれの一部に過ぎまい、

この口惜しささびしさにも係はらず自分は遂に

そなたを自分の心から追ふ事の出來ないのは如何なる譯(わけ)なのか、

自分は卑怯者なのか、ぐづなのか、

ぐづでもよし卑怯者でもよし

自分のそなたに對する愛は事實なのだから仕樣がない、取消す事の出來ない事實だ、

女よ、女よ

自分をいつまでこの無念さ、「思ひ通ぜず」の樣に放つて置くのか、

ただ一人神が知つて居る。

 

 ×

私が花の鉢を投げ落した、美しい、薄紫のシネラリアの一鉢を、二階の窓から下の空地(あきち)の上へ、

鉢はきやつと叫んで微塵に碎けてしまつた

「あらつ」とその時その空地に立つて居た娘がびつくりして聲を上げた、その聲の美しさ、その瞳の輝やかしさ、

 

 ×

私が立ちん坊にたばこの火を借りた

立ちん坊は大急ぎで懷中を探つてマッチを出して貸した、そしてその上紙袋をさし出して言つた、

「どうです、一つ甘いのを」と

それはお菓子の袋であつた、

 

 ×

火よりも暑い紫の空が大地にけむつてる

ふらふらと吹くそよ風はわたしと共に歩いてる

ああああ夏よ美しい焦熱地獄のこの季節

私の喉は金箔にかつと塗られてはく息も

肉の物とは思はれぬ金氣を交ぜた金色だ

あついあつい、あついあつい

北極から氷山が空をとんでこないかしらん

 

 ×

さんらんたる藝術の中に

われ坐す

 

ぜいたくに、

強烈に、

執拗に、

深刻に、

 

 ×

女よ女よ

自分の靈に食ひ入つた貪慾な獸の樣な

美しい女よ

自分には今はお前はただ獸としてのみ考へられる、自分の眼の上のこぶなる恐ろしい獸として

 

お前は恐ろしい獸だ、まつたく恐ろしい獸だ、

お前はまた自分達の近くに現はれたさうだ、

私は逃げなくてはならなくなつた、

お前の眼を避ける爲めに手段を講じなくてはならなくなつた

 

ああしかし心底では、私は、お前がもう恐ろしくはない、お前は自分の戀人ではない、

ただ獸だ、獸だ、

 

 ×

女、女

またお前はおれをひく

おれの心は噴水の樣にお前の方へと高まる

ひくのをよして呉れ

おれは度々しくじつたではないか

愚かにも引かれるままにひかれた爲に

助けてくれ

助けてくれ

 

 ×

安らかの思ひに時を保たせよ

大空の色の如く

吐く一抹の霞の色を保てよ

ああ燃えんとする血、心を押へて

靜かに靜かにおしつけよ

苦し、狂ほし

その故に安らかなる思ひを

いつまでも保たんとわれは思ふ

 

 ×

小杉夫人は鋭い一の聲音である

自分は感謝しなぐさめられる

自分を助け導びく小さな女王だ。

 

 ×

呑氣者と人が自分を言つた、

人の世はそれ程までに苦しい物か知らん。

自分は可成りに苦しみあくせくして居るではないか

 

 ×

電車の中の一箇のなまめかしき靜物――

この靜物は林檎より描きにくい

□□□□□だけに

 

 ×

ものういが立ち上つて首を振つた

かくしたつてだめだ

お前の名は□□だろう

 

 

[やぶちゃん注:底本では「俺は夢を見よう、絶え間ない夢を見つづけやう」と次の「一切の過去には眼を瞑らう」、及び「愛する女よ」と次の「私が花の鉢を投げ落した、美しい、薄紫のシネラリアの一鉢を、二階の窓から下の空地の上へ、」で始まる四パートが、他の一行字数の比較的短い詩篇よりも有意に二字分上から組まれている。これは槐多自身の詩篇配置の可能性が高いようにも思われるが(但し、底本自体の編者が字数を稼ぐために行った仕儀の可能性も有意にはある)、初期公開のブログではブラウザ上、美しくなく且つ逆に読み難くなるので再現していない。なお、「全集」もまた、この違いを全く再現していない
 
「全集」は最後に山本『編註』があり、終りから二つ目の連の三行目の五字伏字は『不詳』としつつ、最終連は以下の字で推定復元されている。当て嵌めた最終連をすべて示す。

   *

ものうい俺の竿が立ち上つて首を振つた

かくしたつてだめだ

お前の名は魔羅だらう

   *

「俺は夢を見よう、絶え間ない夢を見つづけやう」「つつけやう」、及び同連の続く「此世は霧の形で月光の色であらせやう」の「あらせやう」、「一生夢みやう」の「夢みやう」、「夢の中に紫の煙草をくゆらし公園にやすもう」の「やすもう」、「げんなりとし、にやにやと笑ひもしやう」の「しやう」、そしてずっと飛んで、最終行の「お前の名は□□だらう」の「だろう」もママである。

「シネラリア」キク亜綱キク目キク科キク亜科ペリカリス属シネラリア Pericallis × hybrida。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・靑・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることから忌まれるためである。しかし乍ら、“Cineraria”という語は“cinerarium”、実に「納骨所」の複数形であるから、“Florist's Cineraria”とは「花屋の墓場」という「死の意味」なのである――余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか? グーグル画像検索「シネラリアをリンクしておく。

「貪慾」は底本では「貧慾」で「全集」でもそうなっているが、これは意味上、どう考えても「貪」の誤字か誤植であると判断して例外的に訂した。大方の御批判を俟つ。

「自分には今はお前はただ獸としてのみ考へられる、自分の眼の上のこぶなる恐ろしい獸として」全集では間の読点が除去された上、

   *

自分には今はお前はただ獸としてのみ考へられる

自分の眼の上のこぶなる恐ろしい獸として

   *

と改行している。

「小杉夫人」東京に上京(大正三(一九一四)年六月二十五日)後、翌七月五日から寄寓し始めた田端の画家小杉未醒(放庵)妻。槐多は同年九月に日本美術院研究生となり、大正五(一九一六)年の春まで厄介になった。槐多の生活面を少しでも健全な方へ向かわせようとした『美しい小さい奥さん』(大正三年七月附山本二郎宛書簡)であったらしい。

「お前の眼を避ける爲めに手段を講じなくてはならなくなつた」「全集」はこの行の末尾に句点を打っているのであるが、これは今までの同全集の整序のセオリーから見ると、打った理由が分からない、おかしな追加である。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 一心院舊蹟/月輪寺舊跡/牛蒡谷

    ●一心院舊蹟

一心院舊蹟は光觸寺の南の方に柏原山(かしはゝらやま)と云あり。其下にあり。其所の名を明石(あかし)といふ。故に明石の一心院と云傳ふ。寺の蹟とも又堂の庭(には)ともいふ處あり。

[やぶちゃん注:以上は新編鎌倉二」のほぼ丸写しである。最後の以下の部分をカットしている。『巖窟(いはや)の内に木像の朽ちたる有り。一心院の舊跡也と云傳ふ』。]

 

    ●月輪寺舊跡

月輪寺(げつりんじ)舊蹟は光觸寺の北霧(きり)が澤の内に好(よしみ)と云ふにあり。故に好見の月輪寺といふ。其處に房屋敷といふ處あり。月輪寺の蹟なり。鎌倉年中行事に勝長壽院心性院遍照院一心院月輪院。此五人は公方樣の護持僧(ごぢさう)なりとあり。心性(しんしやう)遍照(へんせう)の二院。其蹟分明ならす。

[やぶちゃん注:「月輪寺(げつりんじ)」私は「がつりんじ」と読むのであるが、白井永二編「鎌倉事典」(昭和五一(一九七六)年東京堂刊)は「げつりんじ」(貫達人氏執筆)、貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)は「がちりんじ」と読んでいる。以上も新編鎌倉二」の丸写しである。]

 

    ●牛蒡谷

牛蒡谷(ごばうがやつ)は光觸寺の北にあり。此谷に首塚といふ巖窟あり。里人は首やぐらといふ〔鎌倉俗諺に巖窟をやぐらといふなり〕相傳ふ相摸入道平高時滅亡の時。一門の首を此に埋むとなり。

[やぶちゃん注:光触寺の胡桃川と鎌倉六浦街道を越えた、十二所神社の東の谷戸の名。現在は番場ヶ谷の方が通りが良いか。私の最も愛する人気なき幽邃の鎌倉の山中である。谷戸の奥、左に折れて瑞泉寺の貝吹地蔵下に出る山路の途中に、「お塔の窪」という場所があり、数穴のやぐらと計十八基の石塔があり、中に鎌倉最古期の宝篋印塔も含まれる。これは籾塔(もみとう)で、宝篋印陀羅尼を書いた紙で仏舎利に見立てた籾粒を包んで、五穀豊穣や災厄除けなどを祈願して納めたもので、かなり昔の調査で籾が入れられていた(確か相輪部のジョイントの凹み部分)ことが判っている(現在は全く保存がなされておらず、惨憺たる有様である。なお、ここのものは石製であるが、籾塔は通常は木製である)。中央の五輪塔が伝承では北条高時の首塚とされている。これも損壊が危ぶまれる状態である。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鹽甞地藏/大慈寺舊跡/梶原屋敷蹟

    ●鹽甞地藏

鹽甞地藏(しほなめぢざう)は道端辻堂の内にあり。石像なり。光觸寺(くわうしよくじ)の持分なり。六浦の鹽賣(しほうり)鎌倉へ出る毎に。商の最花とて鹽を此石地藏に供する故に名く。或は云。昔此石像光を放ちしを。鹽賣像を打朴して鹽を甞させける。それより光を放たす。故に名くと云ふ。此鹽賣は如何なる人にや。鶴岡の一鳥居より此所まて二十町ばかりあり。

[やぶちゃん注:「光觸寺(くわうしよくじ)」は「こうそくじ」が正しい。以下、編者が引いたと思しい「新編鎌倉志卷之二」の「鹽甞地藏」の全文を示す。

   *

○鹽甞地藏 鹽甞地藏(しほなめぢざう)は、道の端(はた)、辻堂の内にあり。石像なり。光觸寺の持分(もちぶん)なり。六浦(むつら)の鹽賣シホウリ、鎌倉へ出るごとに商ひの最花(はつほ)とて、鹽を此の石地藏に供する故に名く。或は云、昔此石像光(ひかり)を放ちしを、鹽賣、像を打朴(うちたほ)して鹽を甞(なめ)させける。それより光を放たず。故に名くと云ふ。異域にも亦是あり。程明道、京兆の鄠(う)の簿(ぼ)に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々(としとし)傳へ云ふ、其の首(くび)光を放つと。男女集まり見て晝夜喧雜たり。是よりさき政(まつりごと)をなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。明道始て到る時、其僧を詰(なじ)つて云く、我聞く石佛歳々光を現ずと、其の事有りや否(いな)や。僧の云く、これあり。明道戒(いまし)めて云、又光を現ずるを待ちて、必ず來り告よ。我職事あれば往事(ゆくこと)あたはず。まさに其首(くび)を取て、就(つい)て是を見るべしと云ふ。是よりして又光を現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。此鹽賣も如何なる人にや。鶴が岡の一鳥居より、此所まで、廿町ばかりあり。

   *

文中の原形の中国の志怪小説中の「鄠(う)」とは、現在の中華人民共和国陝西省西安市にある戸県(こけん)の旧名。「簿」は主簿のことと思われる。中央・各郡県の属官で、帳簿を管理し、庶務を司った職である。これもいい加減にカットして引用しているために、塩売りが石地蔵のが光るはずがない、これは神霊にあらず、狐狸の類いの民を惑わさんとする怪異と見ぬき、かくしたという筋が分かり難くなった嫌いがある。]

 

    ●大慈寺舊跡

大慈寺の舊蹟は五大堂と光觸寺との間南の谷にあり。東鑑に建保二年七月廿七日。大倉大慈寺供養なり。新御堂と號す。實朝將軍の時なり。後正嘉元年十月一日。修理の事あり。本堂丈六堂新阿彌陀堂釋迦堂三重塔鐘樓等壯嚴(さうごん)の美。殆ど古蹟に過たりと。宗尊親王の時なり。

[やぶちゃん注:現在は明王院の東一帯に比定されている(「南の谷」とあるが、これは「新編鎌倉志卷之二」から引いた結果で、この「南」という記載には「鎌倉廃寺事典」が強い不審を示している。なお同事典によれば、江戸時代まではこの伽藍の内、丈六堂だけは残っていたらしく(「相模国風土記稿」に記載がある)、『現在、十二所七十四番地小野寺氏の土地の呼び名を丈六という。丈六堂の跡と考えられている』とある。この番地から見ると、現在の、鎌倉六浦街道から左に折れた丘の上にあるイエズス会鎌倉修道院黙想の家に登る当たりがそこに相当する。

「建保二年」一二一四年。「吾妻鏡」のこの年の七月は一日の実朝からの大慈寺供養導師を葉上僧正栄西に懇請する記事と、その二十七日に大々的に行われた、この大倉大慈寺新御堂供養次第の二つの記事のみである。

「正嘉元年」一二五七年。この十月一日に行われた供養も非常に大規模なもので、この月の記事は後四つあるが、全体の八割以上がこの供養の次第で埋められている。その荘厳(しょうごん)もまさに強者どもが夢の跡――「殆ど古蹟に過たり」――という訳である。

「丈六堂」「丈六」は一般名詞では仏像の丈量、背丈を示す基準。仏身は身長が一丈六尺(約四・八五メートル)とされることから仏像も丈六を基準とした(実際の造立時には等身大のそれ以外にこの丈六を基準五倍・十倍或いは、その二分の一などで造像された。坐像丈六像は半分の約八尺 (二・四三メートル)、半丈六像は約八尺の立像を言う。ここは本尊である丈六の阿弥陀如来像を納める堂宇である。この像の仏頭だけは現存し、光触寺に安置されている(次の「梶原屋敷蹟」も参照のこと)。非常に大きい。

「壯嚴(さうごん)」ここは、浄土などの仏国土及び仏・菩薩などの徳を示す寺院の美しい姿や飾り。或いは仏堂・仏像などを美しく飾ることや、その飾りの謂いであるから、厳密には「しやうごん(しょうごん)」と読むほうがよい。]

 

    ●梶原屋敷蹟

梶原屋敷は五大堂の北方山際にあり。梶原平三景時の舊蹟なり。東鑑に景時は正治二年十二月十八日に鎌倉を追出され。相撲國一宮へ下る。彼(かの)家屋を破却して。永福寺の僧坊に寄附せらるとあり賴家の時なり。今此所に大なる佛像の首ばかり草庵に安置す。

[やぶちゃん注:梶原景時の追放劇は私の「北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ」及び「北條九代記 梶原平三景時滅亡」をお読みになるに若くはない!

「正治二年」一一九九年。

「今此所に大なる佛像の首ばかり草庵に安置す」位置の近さ及び仏頭だけが現存するということから、これは前の「大慈寺舊蹟」で私が注した、現在は光触寺に安置されている阿弥陀像の頭部としか思われない。「新編鎌倉志卷之二」の「梶原屋敷」を見ると(下線やぶちゃん)、

   *

○梶原屋敷〔附大巧寺舊跡〕 梶原屋敷(かぢはらやしき)は、五大堂の北の方山際にあり。梶原平三景時が舊跡なり。【東鑑】に、景時は、正治二年十二月十八日に、鎌倉を追ひ出され、相模の國の一の宮へ下る。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。賴家の時也。今此所に、大きなる佛像の首ばかり、草菴に安置す。按ずるに、【東鑑脱漏】に、安貞元年四月二日、大慈寺の※内に於て、二位家〔平の政子〕第三年忌の爲に、武州泰時、丈六堂を建らるとあり。此の所大慈寺へ近ければ、疑ふらくは其の丈六佛の首ならん歟。又里老の云く、昔し大行寺と云ふ眞言寺(てら)此所にあり。賴朝の祈願所にて、或は此の寺にて、軍(いくさ)の評議して勝利を得られたり。故に大巧寺と改む。後に小町へ移し、日蓮宗となる。今の小町の長慶山大巧寺是なりと。しかれども、【東鑑】等の記録に見へず。按ずるに、五大堂を大行寺と號すれば、昔しの大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。分明ならざるなり。

[やぶちゃん字注:「※」=「土」+「郭」。]

   *

最後の部分はまた混乱を招くのであるが、私はともかくもこの、

①「今此所に大なる佛像の首ばかり」「安置す」る「草庵」=「大慈寺丈六堂」

であり、また、

②「梶原屋敷蹟」にある「草庵」にあった「大なる佛像の首」=現在の光触寺所蔵の丈六と思しい阿弥陀如来木造頭部

であると思うのである。というよりも、現在は梶原屋敷跡は別として、そのように実際には認知されているものと私は勝手に思っているのである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  太刀洗水

    ●太刀洗水

鎌倉志には梶時か太刀を洗し所と記し。里俗は朝比奈と云傳ふ

[やぶちゃん注:「鎌倉志卷之八」の冒頭の「朝比奈切通」の中にある「上總介(かずさのすけ)石塔」の下り(独立項ではない)に出る。

   *

上總石塔 大切通と小切通との間、田の中にあり。上總の介、未だ考へず。平の廣常(ひろつね)が事歟(か)。廣常は、高望王九代孫にて、上總介高望(たかもち)王九代の孫に手、上總の常隆(つねたか)が子なり。武勇の名譽關東に振へり。坂東の八平氏、武林の八介(すけ)の其の一人也。賴朝卿に屬して、義兵を助け、良策戰功多し。後に讒言に因て、賴朝に疑はれ、壽永二年十二月に殺されたり。【愚管抄】に、介の八郎廣常を、梶原景時(かじはらかげとき)をして討せたり。景時、雙六(すごろく)打て、さりげなしにて、局を越へて、頓(やが)て頸(くび)をかいきりて、もてきたりけるとあり。後に廣常、謀叛にてあらざる事、支澄明白にて、賴朝これを殺したるを後悔し給ひたる事、【東鑑】に見へたり。鎌倉より切通(きりどをし)の坂へ登る左の方に、岩間(いはま)より涌出でる淸水あり。梶原が太刀洗水(たちあらひみづ)と名く。或は、平三景時、廣常を討ちし時、太刀を洗ふたる水と云ふ事歟。是も鎌倉五名水の一つなり。或は此邊に上總介廣常が宅ありつるか。【東鑑】に、賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉(をほくら)の新造の御亭に御移徙(わたまし)とあり。此邊よりの事歟。

   *

景時が讒言して頼朝の命で景時本人が暗殺した「平の廣常」とは房総平氏惣領家頭首にして東国最大の勢力を誇った上総介広常(?~寿永二(一一八四)年)のこと。謀殺については、幾つかの伝承が残る。以下、ウィキの「上総広常」より引用すると、「吾妻鏡」治承五(一一八一)年六月十九日の条などでは、石橋山で敗退した頼朝を千葉の浜で騎乗のまま出迎えたその時から、『頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともある』ことなどが遠因とされ、謀殺についても寿永二(一一八三)年十二月に『頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時に命じて、双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男能常は自害し、上総氏は所領を没収された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である』とする。更に慈円の「愚管抄」の巻六によれば、後に頼朝が初めて京に上洛した建久元(一一九〇)年のこと、後白河法皇との対面の中で広常誅殺の話に及んで、頼朝は『広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいた為、殺させたと述べた事を記している』とある。ここで言う「関東の自立」とは所謂、同じ下総国佐倉を領した平将門のような新皇の名乗りによる完全な独立宣言を暗示させているのであろう。「吾妻鏡」では、謀殺直後の壽永三 (一一八四) 年一月小十七日の条に、以上の広常冤罪の証しとなる記事が示されている(以下、リンク先では当該記事の引用と書き下しがある。お時間のある方は是非お読みあれかし)。なお、「新編鎌倉志」には『賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉の新造の御亭に御移徙とあり。此邊よりの事歟』とあるが、私はこの十二所が個人的に大好きで、幾度となく訪れているのだが、幕府が出来る直近に、あの今でさえ山深い辺地に、かの豪将上総介広常の屋敷があったこと自体、かなり疑問に思っているのである。そもそも騙し討ちの太刀の血糊を洗った泉水が「梶原の太刀洗水」と称して後に名水となるというのも、実は穏やかならざる気がして解せない。広常邸跡と称する場所も古地図を見ると十二所の朝比奈切通の近くにあったりするのだが(三十数年前、私は半日山中を彷徨ってそれらしい高台に立ったこともある)、実際の感覚としては私には十二所に広常邸があったというのは信じ難いというのが本音である。

「里俗は朝比奈と云傳ふ」この文、今一つ、前文と上手く繋がっていない。思うにこれは、現在は専ら「梶原の太刀洗い水」としてしか称されていない湧水が、この当時、里俗では「朝比奈水(あさひなのみず/あさひなすい)」と呼称していた、そうしてそれはまさにこの切通し開鑿と名称に纏わるところの伝承である、和田義盛三男で剛腕で知られた朝夷奈(朝比奈)三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説に基づく呼称がこの湧水にあったのではなかろうかと推理するのである。この少し峠へ向かった先には「三郎滝」もある。但し、無論、本朝夷奈切通(実は「あさいなきりどおし」が本来は正しい)は、北条泰時の命で、仁治二(一二四一)年四月に着工されたもので、和田一族はとっくに滅んでいるのであって俗説の根拠は全くないのであるが(但し、巨魁漢伝承にありがちなように、義秀は乱中に遁走し、行方知れずとなったとされている)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  大休寺蹟/飯盛山/御馬冷場/公方屋鋪蹟/八幡宮

    ●大休寺蹟

淨妙寺域内にて石垣猶存せり。廢井(はいせい)あり。當寺は熊野山號し。足利左兵衞督直義の創建にて。月山希一を開祖とす。此邊とも直義か宅地なりと云ふ。

[やぶちゃん注:「此邊とも直義か宅地なりと云ふ」は「此の邊ども、直義が宅地なりと云ふ」である。この周辺が直義の旧宅宅地であったこと、晩年は法体であった直義の法名は大休寺殿贈正二位古山慧源大禪定門であったことから、本寺が直義個人の菩提寺であったことが判る。「鎌倉廃寺事典」によれば、浄妙寺の傍らで、前項の延福寺旧跡の西にあったとする。現在の浄妙寺の西側の山腹にある浄明寺の鎮守熊野神社の登り口付近が同定地とされる。廃寺年代は不詳ながら、室町中期以降。]

 

    ●飯盛山

十二郷谷の右にあり。當時山上に淺間社ありしとぞ。管領成氏か時は例歳(れいさい)六月潔齋して參詣ありしとなり。

[やぶちゃん注:以下、位置関係を分かり易く認識するために、「新編鎌倉志卷之二」のこの飯盛山と次の御馬冷場(おんうまひやしば)の記載が附帯する「公方屋敷」を引く(附帯項の《 》は私が附したもの)。

   *

○公方屋敷〔附飯盛山御馬冷場〕 公方屋敷(くばうやしき)は、淨妙寺の東(ひがし)芝野(しばの)なり。此の所ろ、源の尊氏の舊宅にて、代々關東管領(くわんれい)の屋敷なり。【太平記】に、元弘三年五月二日の夜半に足利殿の二男、千壽王殿、大藏谷(をほくらがやつ)を落て、行き方知れず成り給ふと有るは、此屋敷なり。相模入道滅亡の後、尊氏は京都に居し、千尋王殿は義詮(よしあき)と號し、此の所に居住す。後に上洛有りて、其の舍弟基氏、關東の管領として、此屋敷に居住す。爾(しか)るより以來、氏滿・滿兼・持氏、相ひ續いで居住也。持氏沒落の後、持氏の末子成氏、永壽王とて、土岐左京の大夫持益(もちます)あづかりて、信州にありしを、越後の守護上杉相模の守房定(ふささだ)、京都の公方へ訴訟して、關東の主君とす。寶德元年二月十九日、鎌倉へ下向。此の所に御所造營有て居住なり。此の地繁昌の時、鎌倉にても京に似せて、管領を將軍と云ひ、或は公方、又は御所と稱す。故に爰を今に公方屋敷と云ふ也。里俗或は尊氏屋敷・基氏屋敷・持氏屋敷などゝ云ふは此故なり。成氏、後に下野の古河(こが)へ退(しりぞ)く。其の子孫義氏、鎌倉へ歸居(ききよ)を願ふの由、鶴が岡に願文數通あり。いづれの時か、古河の公方御歸ヘりあらんとて、畠(はたけ)にもせず。今に芝野にしてをけりと、里老語れり。關東管領興廢の事、【鎌倉大草子】【鎌倉年中行事】【鎌倉九代記】等に詳なり。尊氏屋敷は、巖窟堂(いはやだう)の南方、又長壽寺の南鄰にもあり。三所共に尊氏の舊宅と云ふ。《飯盛山》此の所の南方に高き山あり。飯盛山(いひもりやま)と云ふ。富士權現を勸請す。【鎌倉年中行事】に源の成氏、六月一日、飯盛山の富士參詣とあり。此ならん。又此の公方屋敷東の山際に、御馬冷場(をんむまひやしば)とて、巖窟(いはや)の内に水あり。賴朝の馬、生唼(いけずき)・磨墨(するすみ)の、すそしたる所なりと云ひ傳へて二所(ふたとこ)ろあり。淨妙寺より此邊まで、足利家の屋敷と見へたれば、賴朝に限るべからず、馬も二疋のみならんや。鶴が岡の鳥居の前より此地まで十五町あり。

   *

引用文中の「すそしたる」は「馬の脚を洗った」の意である。なお、扇ヶ谷の扇の井の背後の山も飯盛山と呼称するので注意が必要。

「十二郷谷」「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」に(リンク先は私のブログ・テキスト)、

   *

   十二郷谷〔十二所村トモ云〕

淨妙寺ヨリ東南ノ谷、民家三軒今ニアリ。川越屋敷ト云ハ十二郷谷ノ東隣也。

引用文中の「川越屋敷」は河越重頼(?~文治元(一一八五)年)の屋敷地のことと思われる。武蔵国入間郡河越館の武将で新日吉社領河越荘の荘官。頼朝の命で義経に娘(郷御前)を嫁がせた事から源氏兄弟の対立に巻き込まれて誅殺された(事蹟はウィキの「河越重頼」に拠る)。但し、ここに彼の屋敷があったという事実を証明するものはない。この記載だと、現在の広域の十二所(じゅうにそ)を示すようにも読めるのであるが、余りに広過ぎる。どうもこの「十二郷谷」というのは浄妙寺のすぐ東の尾根の反対側を南北に走る谷戸及びその南の、胡桃川(滑川)左岸を南に延びる谷戸辺りの名称のように思われる。現在、この左岸直近にはやぐらが残るが、それは現在、「十二郷谷入り口やぐら」と呼称されてもいる。]

 

    ●御馬冷揚

公方屋舖の東山際に水涸(みづかれ)し池あり。賴朝の馬生唼磨墨のすそせし所なりと云ふ。東國紀行にも此事を記せり。

[やぶちゃん注:前の私の注の「新編鎌倉志卷之二」の「公方屋敷」の引用を参照のこと。現在の明王院南西百三十メートルほどの位置に比定されている。

「生唼磨墨」は前の引用にもあるように「いけずき」「するすみ」と読み、源頼朝の持っていた名馬。「平家物語」の名場面「宇治川の先陣争い」で知られ、生唼(「生食」「池月」とも書くが、後者なら「いけづき」となる。名の表記が変わるのは馬主の身分の違いを憚った変名と思われる)は佐々木高綱に、磨墨は梶原景季に、それぞれに戦闘に先立って与えられた。「生唼」とは、馬でありながら生き物に喰らいつくような勇猛なる馬の意、「磨墨」は墨を磨ったようなあくまで深く玄(くろ)い毛並の意である。]

 

    ●公方屋鋪蹟

淨妙寺の東の芝野をいふ。足利尊氏玆に在住し。後(のち)其子孫關東管領たる數世此舘に在て兵馬の權(けん)を執れり。當時管領を斥(しりぞけ)て將軍又は公方又は御所などと稱せしより今に土俗公方屋敷蹟と呼へり。

[やぶちゃん注:前の「飯盛山」の私の注の「新編鎌倉志卷之二」の「公方屋敷」の引用を参照のこと。鎌倉八」の「公方家營館舊跡〔附公方家代々之大概〕」の冒頭の基氏の条の頭で、

   *

○基氏朝臣〔左馬頭。〕 御館の地は、五大堂と淨明寺の間の地をいふ。徃昔此所は、右大將賴朝卿治世の始より、大膳大夫大江廣元が宅地にて、建暦三年五月、和田亂の時、將軍の御所兵燹に罹りしゆへ、實朝公此亭へ御移、同八月二日新御所へ此亭より御移徙といふ。仁治年中、五大堂の地を定め給ふ時に、堂地まで彼屋敷の地先かゝりしといふこと、【東鑑】に見へたり。

 廣元は嘉祿元年六月十日に卒す〔七十八〕。其四男藏人大夫入道西阿は、毛利氏を稱して、此廣元が第に住居し、寶治元年六月、三浦泰村・同光村が陰謀には黨せざれども、西阿の妻室は泰村が妹なるゆへ、妻室の言に因て、兵起りし時泰村が陣に馳加り、合戰敗績に及びければ、終に三浦が一族とゝもに右大將家の法華堂に籠り、西阿入道父子兄弟自殺し、遺跡沒收の後に、此軸を足利左馬頭義氏入道正義に賜ひしより、足利家の屋敷となり、代々の第地には宮内少輔泰氏住給ひ、左馬頭義氏は爰にすみ給ふ。【東鑑】に、足利左馬頭正義が大倉の亭とあるは、此所の事也。其後尊氏將軍の御父、讃岐守貞氏入道觀爰に住ければ、將軍〔尊氏。〕も同敷住居せられ、元弘二年、讃岐入道此所にて歿し給ふといふ。

   *

とある。実際、この北背後の明王院の裏山に当たる胡桃山には大江広元の墓と伝わる石造五層塔が残ってもいる(というより、西御門の頼朝の墓の近くにある伝大江広元墓はずっと後代、文政六(一八二三)年に、広元からの血族を信ずる長州藩(毛利家。当時は第十代藩主毛利斉熙(なりひろ)の代)によって建立された新造供養塔に過ぎない)。]

 

    ●八幡宮

公方屋舖蹟の傍にあり。小八幡と稱す地形を推考するに。鎌倉年中行事に成氏の勸請せし上の八幡と稱するは是なるべし。例祭は十一月十五日なり。又傍に小祠あり。持氏を祭ると云ふ。例祭二月九日。御酒を供す。

[やぶちゃん注:一種の屋敷神かと思われるが、「鎌倉廃寺事典」で「小八幡社」として載る現存しない社である。明治三〇(一八九七)年当時も最早存在していなかったと考えてよい。今までもそうだが、「相模国風土記稿」を無批判に抄出する傾向が強い本書は、こうした当時最早存在しなくなっているものを検証なしに矢鱈に引く傾向がある。ちょっとマイナーな場所の場合、ガイドブックとしては悪質とも言え、検証の杜撰さが非常に気になるところではある。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  延福寺蹟

    ●延福寺蹟

淨妙寺域内西北にあり。足利左馬頭高義其(その)母契忍禪尼追福の爲。爰に創建し。山を雲谷と名け。足庵を開山祖とすと云ふ。觀應三年二月廿六日。直義入道惠源當寺に在(あつ)て頓滅(とんめつ)せり。

[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」によれば、室町中期、享徳三(一四五四)年成立の「殿中以下年中行事」に足利氏菩提寺十二箇寺の中に見えるのを最後として、廃寺年代は不詳である。現在、比定地の竹林の奥に足利氏一族のものかと思われるやぐらと石塔が辛うじて残っている。以上は、浄妙寺蔵「稲荷山浄妙禅寺略記」に基づく「新編相模国風土記稿」の記載であるが、「鎌倉廃寺事典」でこれは当該部分『契忍禪尼爲早世左馬頭高義、剏建延福壽聖禪寺、以薦冥福、請足庵麟和尚爲一世』の読み誤りであって、「爲早世」は『高義にかかり、したがって開基は高義でなくその母契忍禅尼貞氏室であって、早世した高義の為にこの人が建立した、という意味に解するべきである』とある。足利高義は貞氏の長男で母は正室であった北条顕時の娘釈迦堂殿で、これが後の契忍禅尼である。足利尊氏・足利直義(ただよし)の異母兄で、彼らの母は貞氏側室で勧修寺流上杉氏の上杉頼重の娘清子(後に大方禅尼)であった。ウィキ足利によれば、『元服に際して、北条氏得宗家当主の北条高時』『より偏諱を受けて』『高義と名乗』っている。『鎌倉時代の足利氏嫡流家の歴代当主の諱はこれまで「得宗の当主の偏諱+通字の「氏」」で構成されてきた』にも拘わらず、『高義の名には「氏」が付かずに清和源氏の通字である「義」の字が使われている背景にはこの当時の足利氏と北条得宗家の良好な関係の象徴であり、北条得宗家が足利氏の鎌倉将軍および得宗家への忠節と引換に「源氏嫡流」として認められたとする見方もある』とあり、本来ならば彼が足利家棟梁として君臨するはずであった。『左馬頭に任じ、延福寺殿(円福寺殿)と号したことが系図に見える』『が、早世したために詳細な足跡は不明である』。正和四(一三一五)年十一月に『「足利左馬助」名で鶴岡八幡宮の僧侶・円重に対して供僧職安堵の書状を出しており(「鶴岡両界壇供僧次第」)』この時既に、『足利家の家督を継承していたらしい』ことが窺える。ところが、三年後の文保二(一三一八)年九月には、『家督を譲ったはずの父・貞氏が再び安堵状を出しており、この時までに高義は没したと考えられている。足利氏歴代当主の死没日がほぼ正確に記載されている『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」には高義の死没日も記載されており』、それに基づくなら高義は文保元(一三一七)年に没している。『また、『前田本源氏系図』の高義の注記には「左馬助、従五位下、早世廿一、」と』あって、享年二十一としており、これを採用するならば生年は永仁五(一二九七)年生まれとなる、とある(下線やぶちゃん。因みに貞氏次男で異母弟の足利尊氏(初名は「高氏」)は嘉元三(一三〇五)年生まれである)。一方、「風土記稿」には割注で本寺は別に『圓福寺』とも書いたとあり、この「圓福寺」という寺名は、元亨三(一三二三)年の「北条貞時十三年忌供養記」(「鎌倉市史 史料編第二」の円覚寺文書第六九号一〇三頁。得宗貞時は第九代執権で応長元(一三一一)年没)の「諸山布施」の項に『円福寺〔聡愚〕』とある(「市史」には「明極」と傍注されているから、これは元からの渡来僧であった明極楚俊(みんきそしゅん 弘長二(一二六二)年~建武三(一三三六)年)であることが分かる)。以上を綜合すると、「鎌倉廃寺事典」が推定するように、浄妙寺の開創は文保元(一三一七)年以降で、元亨三(一三二三)年には既に建立されていたことが判るのである。因みに、明極聡愚について調べるうち、宮城県公式サイト内の文化財の中に、宮城郡松島町瑞巌寺蔵の「雲版」(重要文化財)の記載(画像附)を見出した。そこに、『この雲版は、瑞巌寺が伊達政宗によって建てられる前に、鎌倉時代からあった円福禅寺の庫裏にかかっていた雲版である。表面中央牌上に「円福庫院雲版」と鋳出し、下に蓮華状の撞座、左右に雲上の日月とを表している。住持明極誌嘉暦丙寅秋という銘を刻しており、北条貞時の十二回忌に円福寺住持として請僧を務めた九世明極聡愚和尚が』、嘉暦元(一三二六)年に作らせたとみられる、とある(下線やぶちゃん。ただこの叙述の内、『北条貞時の十二回忌』というのは没後十五年が経過しており、おかしい)。雲板の画像も是非、確認されたい。

「足庵」「鎌倉廃寺事典」に足庵祖麟とし、「延宝伝燈録」には寿福寺・万寿寺に住持したことは載るものの、この延福寺に就いては記載がない、とある。

「觀應三年二月廿六日。直義入道惠源當寺に在て頓滅せり」二頭政治から兄尊氏と離反した直義は鎌倉を拠点として反尊氏勢力を糾合しようとしたが、東海道で連敗、鎌倉で武装解除されて本寺に幽閉された直義は正平七/観応三・文和元(一三五二)年二月二十六日に急死している。一般には病死とされているが、「足利系図」「太平記」では尊氏による毒殺と記す(私もそう思う)。享年四十七であった。]

2015/07/12

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  淨妙寺

    ●淨妙寺

稻荷山(いなりさん)と號す。臨濟宗にて五山の第五なり。文治四年足利上總介義兼玆に草創して極樂寺と號す。律師行勇を請して第一世とす正治元年三月八日。義兼卒す。茶毘して當寺の後山(こうざん)に塔を建つ〔寺傳畧記に見えたれど今其塔亡失せしにや跡だになし〕當時は密宗たりしが。義兼の男左馬頭義氏禪風に歸依し。遂に當時密塲を改め禪刹とす。時に建仁元年なり。建曆二年實朝大倉稻荷の夢想を感(かん)し。義氏に令して當時造營を加ふ。最(もつとも)華美を盡せり。三年四月。功(こう)成(なつ)て二位禪尼の白檀(びやくだん)の彌陀と新造の釋迦とを安す。建長六年十二月甘一日。義氏卒して當時に葬(さう)す。元弘元年九月五日讚岐守貞氏卒しけれは茶毘して當寺に塔を建つ。元應元年に至り。足利尊氏大倉稻荷の神德(じんとく)に報せん爲伽藍を修飾して山を稻荷と號し。元亨二年。上奏し。亡父貞氏の法名を執(とつ)て寺を淨妙寺と改む。

[やぶちゃん注:創建の頃の記載は「相模国風土記稿」から写したもの。実は「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」にはこれら創建時の記載はない。

「文治四年」西暦一一八八年。

「足利上總介義兼」(久寿元(一一五四)年~正治元(一一九九)年)は足利氏第二代当主で、頼朝直参の側近にして幕府御家人。以下、ウィキ足利によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、父は足利氏始祖足利義康(源義家の孫)で、母は藤原範忠の娘。彼女は血縁としては源頼朝の母方の従姉妹に当たるが、祖父である藤原季範の養女となったことから頼朝にとっては義理の叔母になり、義兼は父方母方双方の関係に於いて頼朝に近い存在であった。『父・義康が早世したために、幼少期には伯父である新田義重の軍事的庇護を受けていたとされる。異母兄の義清・義長は妾腹の子であったために、本拠の下野国足利庄を嫡出である義兼に譲り、自分たちは京において上西門院に仕えていたが、寿永二年(一一八三年)の水島の戦いに木曽義仲の麾下として参加して戦死している。義清自身も足利の根本所領の一つの梁田御厨を管理し所領としており、この義清が(そして次兄の義長も同時に)亡くなったことから嫡男となったと考えられる』。『義兼自身は、治承四年(一一八〇年)に源頼朝が伊豆国で挙兵すると、八条院と以仁王の関係からか、比較的早い時期から頼朝に従っていた。翌治承五年(一一八一年)二月には頼朝の仲介を受けて北条政子の妹、時子と結婚した。このように頼朝と近い関係にあったことも嫡男となった要素の一つと言える』。『元暦元年(一一八四年)五月、木曽義仲の子・義高残党の討伐において戦功を挙げた。その後は頼朝の弟・範頼の手勢に与して平氏討伐で戦功を挙げた。その功績により、頼朝の知行国となった上総国の国司(上総介)に推挙されている。文治五年(一一八九年)の奥州合戦にも従軍。建久元年(一一九〇年)に出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)、追討使に任じられ、乱を平定している』。『文治元年(一一八五年)には頼朝の知行国である上総介に任ぜられ、同五年に頼朝が知行を返上するまで務めるなど、義兼は源氏一門として頼朝の「門葉」として幕府において高い席次を与えられていたが、頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれることとなった』。『建久六年(一一九五年)三月に東大寺において出家し、義称(ぎしょう)と称した。この出家は、頼朝をはじめとする周囲から排斥されることを恐れての処世術であったと言われている。その後は足利の樺崎寺に隠棲し、正治元年(一一九九年)三月八日に樺崎寺にて死去し、同所に葬られている。生入定であったとも伝えられている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である』。栃木県足利市家富町にある真言宗の『鑁阿寺は、義兼の持仏堂を義氏が発展させたものとされる』。『長男の義純は畠山氏及び岩松氏・田中氏の祖となり、次男の義助は承久の乱で戦死したが、その子孫は桃井氏の祖となって世に続いた。正室所生の三男義氏が嫡男として足利氏の家督を継いでいる』。

「行勇」鎌倉時代の臨済僧荘厳房退耕行勇(たいこうぎょうゆう 長寛元(一一六三)年~仁治二(一二四一)年)。相模国生まれ。寿福寺で明庵栄西の法を嗣ぎ、源頼朝・北条政子らの幕閣中枢の信頼を得た。寿福寺・建仁寺の住持を勤め、貞応二(一二二三)年には高野山金剛三昧院を開いて禅と密教の兼修道場とした。浄妙寺の他、東勝寺(嘉禎三(一二三七)年)の開山(北条泰時開基)ともなっている。

「義兼の男左馬頭義氏」足利家第三代当主足利義氏(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子で、そのために家督を継げた。正室は泰時の娘。北条義時・泰時父子を補佐し、晩年は幕府長老として重きを成した。

「義兼の男左馬頭義氏禪風に歸依し。遂に當時密塲を改め禪刹とす。時に建仁元年なり」「建仁元年」は西暦一二〇一年、「密塲」真言密教の修行道場のことであるが、どうもこの叙述はおかしい。現在の知見では、当寺が本来の真言宗の極楽寺から禅刹に転ずるのは、建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住持となってからであって、浄妙寺への改名もその頃と考えられているが、その時期は早くても正嘉元(一二五七)年頃と推定されており、既に足利義氏は死亡しているからである。無論、生前の彼の遺言であった可能性も十分に考えられるが、本寺はその後、近世近代に至るまで、回禄衰亡損壊が激しく、鎌倉五山第五位ながら(但し、五山に列したのはずっと後の文和二(一三五三)年以降)、実は確実な事蹟情報に全く以って欠けるのである。

「建曆二年實朝大倉稻荷の夢想を感し。義氏に令して當時造營を加ふ。最(もつとも)華美を盡せり。三年四月。功(こう)成(なつ)て二位禪尼の白檀(びやくだん)の彌陀と新造の釋迦とを安す。」西暦一二一二年。これは「新編相模国風土記稿」の割注に寺伝略記(浄妙寺蔵「稲荷山浄妙禅寺略記」)によるとある極めて具体な叙述なのであるが、例えば当然載っていなければおかしい「吾妻鏡」等、裏付けの取れる別資料は不思議なことに、ない。実際、「鎌倉市史 社寺編」の「浄妙寺」の条はここに出る、南北朝以前のデータを、そもそもが全くといっていいほど、採用していないのである。

「義氏卒して當時に葬す」ママ。「當寺」の誤植。
 
「元弘元年」一三三一年。言わずもがな、幕府滅亡の二年前である。

「讚岐守貞氏」尊氏・直義兄弟の父で足利家第七代当主足利貞氏(文永一〇(一二七三年)~元弘元・元徳三年(一三三一)年)。菩提寺であるこの浄妙寺を再興している。

「元應元年」一三一九年。

「元亨二年」一三二二年。但し、以下の寺名変更を含め、これも寺伝略記の記載である。ただ、幕府滅亡後に新たに改めて公的な勅許を得たと考えるなら、特におかしくはない。上奏し。

「亡父貞氏の法名」浄妙寺殿義観。]

譚海 卷之一 勢州龜山の醫師三折の事

 勢州龜山の醫師三折の事

○勢州龜山に三折と云(いふ)醫師有(あり)。豪富(がうふ)にて伎能(ぎのう)も勝(すぐれ)たりしが、臨終に遺言しけるは、我(われ)死たりとも寺へ葬るべからず、路邊へ埋め墓所を建(たつ)べし、凡(およそ)疾病有(ある)人我を禱(いのり)願ふ者あらば、其病(やまひ)の内一つは愈しやるべし、我(わが)云(いふ)事僞(いつはり)なくば墓所へ泉を出(いだ)すべし、是(これ)をしるしとおもふべしと云(いひ)ける。はたして墓所近き谷に淸水わき出(いづ)。人々奇特(きどく)の事に思ひていのり願ふに、病氣平癒せずといふ事なし。今は墓邊の田地みな人家に成(なり)て、往來群集し、茶屋芝居のたぐひ軒をならべて繁華の地と成(なり)ぬとか。

[やぶちゃん注: 「勢州龜山」現在の三重県亀山市にあった伊勢亀山藩。東海道で鈴鹿峠越えを控えた亀山宿の宿場町として栄えた城下町。この話、同亀山市の公式広報サイト内の「温故知新」の中の「東海道の昔の話(19) 亀山の名医」という投稿記事に、全く同じ話が別ソースの現代語で載っている。そのソースは恐らくは小寺玉晁(こでらぎょくちょう)の「見聞録」とあるのだが、旧尾張名古屋藩陪臣で随筆家であった小寺玉晁(寛政一二(一八〇〇)年~明治一一(一八七八)年:本名は広路、字(あざな)は好古、別号に連城亭・随筆園など。書画・香道・算術・狂歌・国学などを学び、好事家・雑学者として知られ、「尾張芝居雀」「見世物雑誌」「反古袋(ほごぶくろ)」など百五十余の著作を残した。ここは講談社「日本人名大辞典」に拠る)の書いた「見聞雑々集」(リンク先は早稲田大学古典籍データベース)であろうと思われる。それ(先の現代語訳)には以下のような細部補足がある。

●嘉永年間(一八四八年~一八五三年)の実話である。

●三折の開業していたのは亀山の東町であった。

●『彼は豪快な気風で医術も優れており、患者を親身になって診察し、弱者、貧者からは一銭も報酬を受けとらないほど、仁徳すぐれた医者で知られていた』という。この部分、本文が「豪富」とする部分と字面が微妙に似ていながら、中身はかなり違う印象を受ける

●三折が病に倒れたのは『六十才を過ぎて間もなく』のことであった。

●『親族は他の有名な医者にかかるよう勧めたが』、三折は「自分は医者である。自分の身体のことは自分が一番よく判っている。」と、頑として『自分の意思を曲げず。弱った不自由な身体に鞭打って患者の施療を続けていた』が遂に臨終を迎えることとなった。

●その遺言の内容は『私が死んだときは盛大な葬式をしないでください。また寺に埋葬する必要もありません。どこかの路辺に私の身体を埋めて墓標を立てるだけでけっこうです。私は死んでも怪我や病気で悩む人を必ず助けます。長年医者だった私が云うことに間違いはありません。いつか私の墓所に清水が涌き出ますから、それを服用してください。これを信じてください。かならず治るはずです』であった(下線やぶちゃん)。これは本話よりもより叙述が整理されて分かり易く、納得し易く出来ている。霊水湧出が予言の信憑性を高めるだけでなく、その霊水を服用することで諸病悉く平癒するという箇所が論理的に腑に落ちるように密接に構成されているのである。

●三折の墓は遺言に従い、亀山或いはその辺縁の『路辺の谷間に埋葬』され、『簡単な白木の墓標』が立てられた。

●予言通りに霊水が湧出し、人々は『奇特なことと思って墓所に祈り、半分疑いながらも病や怪我を抱えた人びとはこの清水を服用した』ところが、『病気や傷も日にちを経ていくうちに治ってい』き、それどころか『他の医者に見離された重い病人も平癒』したのであった。

●そうしてその『噂が噂を呼び、亀山の彼の墓所には沢山の参詣する人が来訪し、そばから涌き出る清水を求める人々で溢れるようになった』という。いわば、その結果としてその辺りが繁華な町となったという謂いと読める。地図上で見ると東町自体は亀山城の東三百メートルほどに位置する繁華街のように思われるが、ただ、三折の墓は『路辺の谷間』であって、この現在の東町の中に建てられていたとは到底思われないので、東町以外の近在地でなくてはならないと私は思う。

●最後にニュース・ソースについて投稿者が記したと思しい、『これは嘉永年間に尾張名古屋城下に伝わってきた亀山の噂話で』、『これを尾張藩の学者が書きとめたものだが、主人公の医者の三折と墓所、そして清水についての詳しいことはいまも判らない』と記すので、この伝承地を現在ではもはや同定出来ないことが分かる。]

夢野久作 川柳集

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「南五斗会集」(西原氏の推定では「なんごとかいしゅう」と読む)という標題で載る夢野久作の作になる川柳群である。これは西原氏の解題によれば、『九州日報』に大正一四(一九二五)年九月七日号から翌一五(一九二六)年六月二十一日号までで発表された『「南五斗会集」と題するコラムに、他の会員作品にまじって掲載されたもので、久作の柳号は「三八」』(読み不詳)『であった』とある。川柳会名の『その意は〝何(なん)ごとかい〟に通じるものであったかと思われる』と述べておられ、また、この川柳会は恐らく掲載紙である『九州日報』社内の『関係者を中心に営まれていたのではなかったかと想像される』とある。因みに、以前に注した通り、この大正十四年四月一日附で久作は『九州日報』に再入社しており、本川柳の最後の句が載った号の前月である大正十五年五月に、また『九州日報を退社して、本格的な作家活動に入っていったのであった。掲載情報は底本に従い、後に( )で附した。]

 

 

    自暴自棄

 

ほそり行く手で水藥を花にかけ

 

その夕べ□雨戸をヤケに閉め

 

[やぶちゃん注:底本では「□」の右に編者西原氏の注で『(一字不明)』とある。]

 

万万をやけに怒鳴つて涙ぐみ

 

死んで見ろと云はれてヤケが腕を組み

 

母ひとりヤケが寢てゐる家を知り

 

泣き乍らおなじオモチヤをタゝきつけ

 

一ト月(つき)の範圍でヤケになつて見る

 

自暴自棄母はオヤヂのせゐにする

 

   (大正一四(一九二五)年九月七日)

 

 

    火事

 

天空を摩して煙突燒け殘り

 

もう下火だと身ぶるひが小便し

 

火事ときいて瞽女(ごぜ)はヒツソリうなだれる

 

學校の火事を泣いたで賞められる

 

   (大正一四(一九二五)年九月十四日)

 

 

   あやつり、ペテン

 

あやつりは役目が濟むと首を釣り

 

人形にお辭儀をさして村を出る

 

低い聲で云つたところがペテン也

 

オシツコと呼んでお乳へすがりつき

 

女房が泣くとあやつり思ひ出し

 

角道(かくみち)を知らぬ顏して王が逃げ

 

   (大正十四(一九二五)年九月二十一日)

 

 

   蟲

 

パヽの蟲どこに居るのとマヽにき、

 

(大正十四(一九二五)年九月二十八日)

 

   噂、借

 

繪日傘けふも噂の町を行き

 

ごあいさつ先づ赤ちやんの顏を借り

 

   (大正十四(一九二五)年十月五日)

 

 

   赤、鼻

 

赤電車けふもニツコリ帽を脱ぎ

 

赤い舌出したところをふり向かれ

 

感慨無量拔いた鼻毛をジツと見る

 

   (大正十四(一九二五)年十月十九日)

 

 

   闇

 

うどん屋の提燈へ來てホツとする

 

   (大正十四(一九二五)年十月二十六日)

 

 

   白粉(おしろい)、火鉢

 

姑がジロジロと見る白さなり

 

鉛毒の女形が小屋を背負つて立ち

 

嫁の手は火鉢の隅に拜むやう

 

喰つて來たと火鉢の隅で一ツうけ

 

   (大正十四(一九二五)年十一月二日)

 

 

   下手

 

うしろから挨拶下手がお辭儀をし

 

   (大正十四(一九二五)年十一月九日)

 

 

   衣物、膝

 

着飾つて女房は裏の口から出

 

横町に曲つて膝に唾をつけ

 

(大正十四(一九二五)年十一月二十三日)

 

 

   切符、店

 

定期劵見せぬ代りのお辭儀なり

 

夜店物安いねなどゝ買はぬ奴

 

(大正十四(一九二五)年十二月七日)

 

 

   役者

 

鉛毒が後家の弗(ドル)箱喰ひ破り

 

女房が死に水を取るいゝ役者

 

   (大正一五(一九二六)年三月十五日)

 

 

   髮、花

 

髮の出來逃げ込む先でからかはれ

 

それまでは有髮の尼で通つて來

 

銀杏髷(いちやうまげ)止められぬ程御意(ぎよい)に召し

 

人生の花を見つけて犬が吠え

 

花も實も棄てゝ悲劇を喜劇にし

 

人花が娘から咲くむごいこと

 

   (大正一五(一九二六)年五月三十一日)

 

 

    臍、夢

 

思案ごと忘れて臍の胡麻(ごま)を掘り

 

正夢の話をきけば寢小便

 

夢ばかり見てゐると書く噓ばかり

 

夢に見たが眞綿で首のしめ初め

 

夢を見るやうな目つきで臍を掘り

 

夢の場面やる本人の馬鹿らしさ

 

   (大正一五(一九二六)年六月十四日)

 

 

   ◇欠伸、瘤

 

湯のぬるさあくびの尻が歌になり

 

オヂサンの瘤をうしろで見付け出し

 

   (大正一五(一九二六)年六月二十一日)

 

[やぶちゃん注:最後の川柳の標題の「欠伸」は底本の「欠」をそのままとした。これは先般行った夢野久作の「氷の涯」の中で彼が「あくび」の意で「欠伸」と書き、その他の「缺乏」等では「缺」を用いていたせいである。但し、ここは原本は「缺」となっているかも知れない。]

夏の夜   村山槐多

  夏の夜

 

なだらかに花の雨が

あかい燈の上を横ざまにかすめる

美しい強い夏の晩だ

とんとんとんとんと

 

三味の音が矢の樣にとびかひ

わが心は勢よく立上る

幽かな蚊の血を含(ふく)む音は隣室に

眞靑な夜の空は窓に

 

えゝ

□□□□□□□か。

 

 

[やぶちゃん注:末尾に編者山本太郎氏の注があり、伏字を『をんなとをとこ』と推定復元されているが、根拠は一切、示されていない。]

化粧   村山槐多

  化粧

 

ごらんごらん

女が素つ裸になつて鏡を睨んだ

お白粉を振りまいた

裸一杯に

 

ごらんよ

この眞白なばけ物が手早く

ぎらつく樣な紫のきものをかぶつた

裸一杯に

 

    ×

二十過ぎた女が

「かあちやん」とあまえて言つた

その時肉感が猛々しく起つた

美しいあつい夏の日中

 

「かあちやん」とあまへる女よ

そのあどけないにつとした笑よ

今に貴樣を美しい貴樣を

豚の樣に醜くい「かあちやん」にしてやるぞ

 

    ×

怪しき熱われをおそひ

わが額紫にをののく

 

ああああ奇しき熱

われを忙然たらしめ

醜くき物あたりに滿ち

世は光をなくしぬ

 

 

[やぶちゃん注:「あまへる」はママ。

「忙然」「ばうぜん」は「全集」は「茫然」とする。意味はそれでよい。しかし乍ら、この「忙然」という用字は誤りではなく、空海の「三教指帰(さんごうしいき)」などに用例さえある古いものであるから、従えない。]

深夜の耳   村山槐多

  深夜の耳

 

奇妙な金色の耳が何かしらにじつときき澄まして居る、ぴくぴくと動いて居る。深い深い夜中の闇に、なる程ある幽かなれど滋味ある物音が傳はつて來るのだ、遠くから、まるで世の果からでも來る樣な遙(はる)けさの、耳はしきりにそれを明にせんとしてもがく、その物音の端では私は恐しい物にさぐりあてた、そこには一人の力強い男がかよわい女□□□□□□□□□□□□不思議にも美しい□□□□□□□□のである。

 

    ×

環状の燈光はわが眼うばひ

撒いた樣に町の上に

荒木町の上に

 

三味線のひびきは耳に

辛いたばこは口に

夜の窓が私は好きだ

 

    ×

わが命は燃えさかる

靑空のかなたに延ぶ

女の股より頭に突拔く

白と赤との境に輝やく

 

ああああ狂ほしくも

幽靈の如く人魂の如し

 

また鐵工場の火花の如し

強く鋭とくあつし

 

音して燃ゆる命よ

音させて投げ

音させて物をくだかん

ダイナマイトの如きわが命

 

戀よ戀よ戀よ

酒よ酒よ酒よ

わが命を消し止めよ

苦し苦し苦し

 

    ×

どうするんだい、

どうするんだい、

 

女がどなる

金切聲でどなる

美しい男をとらへて

怒る樣に泣く樣に

 

腐つたざくろがちぎれておちた、

紫のあぶくが空に浮く

苦しい血つぽい夕ぐれだ、

 

女がどなる

金切聲でどなる

小鳥の樣な男をつかまへて

あまえる樣にいぢめる樣に

 

ああああ

聞く身の辛さよ。

 

    ×

裸の女がうんと

薄着をして神樂坂を歩く

そいつらは香水の瓶の樣に

樣々なにほひを空に殘こす

 

ああ惡鬼、雌の鬼ども

そいつらはそいつらは

眞白い顏には熱がさし

につと薄明りの中に笑ふ

 

笑つてばかり居る

それから瞳だ、ぴくぴくとしだらなく

美しくなまめかしく

氣をそそるではないか、

 

にぎやかな夜の空氣

消えては起る蓄音機のうた

藝者が紫の花をちぎりすてた

すつと女の一群が飛んだ、

 

 

[やぶちゃん注:最初の散文的な異様に長い一文の連のみ底本では版組が二字分、上っている。
 
 個人的に私は昔から「不思議にも」この詩に惹かれている。特にそのコーダはそこら辺で詩人面している凡百の連中のそれより、まっこと、詩であると思うのである。

「荒木町」は現在の東京都新宿区荒木町であろう。ウィキ荒木町(新宿区)によれば、『荒木町一帯は、江戸時代には美濃国高須藩藩主・松平義行の屋敷があったところであった。荒木町北辺に接している津の守坂通りも、義行(摂津守)の名が由来となっている』とあり、『この屋敷には滝を伴った大きな池があった。この池で徳川家康(義行という説もある)が乗馬用の策(ムチ)を洗ったことから「策の池」と呼ばれた。明治時代には屋敷が退き池や庭園が一般にも知られるようになり、荒木町一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地となり料理屋が軒を連ね芸者らが行き交う風情ある花街となった。町域内には今でも車力門通りや杉大門通りの通り沿いや路地裏などに各種飲食店が散見でされ、かつての花街の風情を残した部分を見ることができる。また「策の池」も規模はかなり縮小したが、現在でも津の守弁財天のところに残って』いて、昭和三十年代の『雰囲気を色濃く残した町として訪れる人は多い』とある。仮にここから後に出る大正時代に隆盛を誇った花街であった「神樂坂」下までを、靖国通りから神田川左岸を外堀通り沿いに北上したとしても、たかだか二キロメートルほどで着く。

「強く鋭とくあつし」の「鋭とく」はママ。「全集」は「鋭し」とする。微妙に気に入らないのでママとする。]

命をかへる歌   村山槐多

  命をかへる歌

 

命をかへなさい、すつかりかへなさい

淫らな物、いやしい物、ものうい物、ひそかな物、恐しい物

そんな物に血の出る樣にしがみついて居た命を

すつかりかへておしまひなさい

 

お前の命がさつぱりと身綺麗になつたら

淸く、高く、まめに公明に樂しげになつたならば

どんなにいいのだらう

さつぱりとかへておしまひなさい

 

お前の命が生々と獸の樣に踊り上る爲めに

命をかへろとすすめましよう

 

    ×

お酒を呑みましよをぢさん

たばこを喫ひましようをばさん

とにかく面白い事樂しい事はみんなしましよう

遠慮なく致しましよう

その内に苦しい礎石を持つた「一生」のお家が

腐つてつぶれてしまひましよう

私達は笑つてそれを眺めましよう

 

    ×

お前の身體から來る要求のうちで

もしお前さんにやましい事、暗い事、こそこそした事をさせやう事物がありましたら

一生懸命に押へつけておしこみなさい、

これが節制と云ふ

樂しさにとつて何よりのお守りでしよう

 

    ×

私は自動車の樣に力強く走りましやう

子供の樣に笑ひましやう、うたひましや、遊びまましやう、

空の樣に物を見ましやう

始終悦こんで居ましやう、眼の前にある物を愛しましやう。

過去をすつかり忘れましやう、

未來の事ばかりを考へましやう、

世界は私にとつてまるで新しい物でしよう

その中へ眼をみはつてもぐり込みましやう

そうだ、そうだ、そうだ

何にもなかつた、何にもなかつた、

是れからだ、是れからだ、

 

    ×

私はごつんと頭をなぐられて

過去の記憶がすつかりなくなつてしまつた、

何んでしやう「是まで」と云ふのは

何んでしやう「二十二才」と云ふのは

私はまるで不思議な物ばかりの中をうろつく

眼であり耳であり鼻であり口であり

その外に何もありません

私は笑ひ私は悦ぶばかりです

何もかなしい事、苦しい事、じれつたい事はありません、

私はうれしさにてんてこまひするばかりです、

 

    ×

私がはじめて眼をさましました、

赤ん坊が始めて物を見た樣に、

そして立ち上りました、

私は大きな聲で申しましやう、

「これからだこれからだ」と

そして第一番に美しく澄んで深い靑天とくちつけましやう、

 

    ×

ある血の出る樣な炎天の眞晝である、汗をたらたら流して大曲の橋の上を電車にのりかへ樣と來かかれば江戸川の兩側に人が澤山立つて居る。

さてはまた太田畫伯の二人目かと胸をどきつかせて覗くと上手から黑い石の樣なものが浮きつ沈みつして流れて來るのだ、岸の人々は何だらうと驚異の眼を輝やかせて首をかしげて居る。

やがてその黑い物が橋の眞下に來たのをよくよく見れば一匹の大きなすつぽんが首を上げて泳いで行くのであつた。

「何だすつぽんか」と笑聲があつちこつちで起つた。

すつぼんは知らん顏をしてずんずん飯田橋の方へ泳いで行つた。

暑くるしい人間どもを冷笑する樣な眼つきで見上げながら悠々かんかんと、

 

 

[やぶちゃん注:最後の散文的な一行字数の長い連のみ、底本では版組が二字分上っている。
 
「命をかへろとすすめましよう」「たばこを喫ひましようをばさん」はママで、以下に使用される「ましよう」も総てママ
(「ませう」が正しい。以下、略す)。

「とにかく面白い事樂しい事はみんなしましよう」以下末尾でリフレインされる「ましよう」も総てママ(同じく「ませう」が正しい。以下、略す)。

「こそこそした事をさせやう事物」の「させやう」はママ。

「私は自動車の樣に力強く走りましやう」の「ましやう」はママで、以下で繰り返し使用されるそれもママ(同じく「ませう」が正しい。以下、略す)。

「世界は私にとつてまるで新しい物でしよう」もママ(「でしやう」が正しい)。

「そうだ、そうだ、そうだ」はママ。

「何んでしやう」(二箇所)はママ。「「何でせう」が正しい)。

「暑くるしい人間どもを冷笑する樣な眼つきで見上げながら悠々かんかんと、」の読点はママ。

「大曲」「おほまがり(おおまがり)」。現在の東京都文京区水道一丁目の白鳥(しらとり)橋附近の古くからの地名。西から東に流れてきた神田川が、ここで大きなカーブを描いて南南東に方向を変えることに由来する。下流直近の「飯田橋」までは五百六十メートルほど。

「太田畫伯」不詳。識者の御教授を乞う。

「かんかんと」幾つも同音異義語があるが、槐多は当該の漢字を思い出せなかったから平仮名書きしたと仮定して前の「暑くるしい人間どもを冷笑する樣な眼つきで見上げ」ているという傲岸な態度と「悠々」とにマッチする形容動詞は、正直で気性が強いさま、はなはだ剛直にの意の「侃侃と」であろうと推理する。]

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(7) 三 子宮

     三 子 宮

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[「かものはし」の雌の生殖器]

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[「カンガルー」の雌の生殖器]

 

 鳥類などでは卵が卵巣を離れてから體外へ出るまでに通過する管を全部輸卵管と呼ぶが、獸類ではこの管を三部に區別し、卵巣に最も近くて卵が單に通過するだけの部を輸卵管または喇叭管といい、その次にあつて子がその内で育つ處を子宮といひ、子宮から體外に開くまでの間を膣といふ。この中で最も大切な所は子宮であるが、種々異なつた獸類を比べて見ると、初め鳥類のと少しも違はぬやうな輸卵管が左右に一本づつあるものが、下端の方から漸々相合著して終に人間に見るやうな一箇の子宮が體の中央線に位するに至るまでの進歩の道筋が明に知れる。まづ「かものはし」などを見ると、輸卵管は左右別々に肛門の内側に開き、相合して一本となつて居る處はどこにもない。出口に近い處に卵が暫く留まつて、その内の子が發育するから、その部を子宮と名づけるが、鳥類と同じことで、特に膣と稱すべき部は全くない。次に「カンガルー」の類では如何にといふに、この類では膣の開口は一つの孔であるが、その内は直ちに二本に分れて居る。これに準じて雄の方の交接器も左右二本に分れてある。膣が左右に分れて居るから、それより奥の子宮や輸卵管は勿論左右に一つづつある。生殖器の開口と肛門とは別の穴であるが共同の輪狀筋肉で恰も巾著の口の如くに括(くゝ)られて居る有樣は、鳥類や「かものはし」の類と普通の獸類との中間に位するものといへる。「うさぎ」・「ねずみ」などを見ると膣は單一であるが、子宮は明らかに二つ竝んであつて、その膣に續く孔も左右別々に開いて居る。また犬・猫などになると、子宮は下の方は合して一つとなり、上の方は左右に分れて居るから、恰も人といふ字を倒した如くである。最後に猿・人間などでは子宮は全く單一となり、ただ喇叭管だけが左右一對をなして居る。このやうに種々の獸類を比べて見ると、人間や猿などの如くに、膣の奧にたゞ一個の茄子狀の簡單な子宮があるのは、初め「かものはし」に於る如き左右一對の長い輸卵管が出口の方から少しづつ相合著して、一歩一歩進み來つた最後の階段であることが明に知れるであらう。

[やぶちゃん注:「雄の方の交接器も左右二本に分れてある」ネット上の画像などを見ても、このカンガルーののペニスの二股というのは上手く現認出来ない。記載でも妖しげな漢方サイトの精力剤としての販売解説に『カンガルーの雄のペニスは二股に分かれていることでも知られてい』るなんどと力説されてあるのばかりが目立つので、何だか眉唾っぽく感じ始めたりもしていたのだが、東京都豊島区の「みわエキゾチック動物病院」公式サイト内の「フクロモモンガについて」同種は和名に「モモンガ」とつくが、カンガルー目フクロモモンガ上科フクロモモンガ科フクロモモンガ Petaurus breviceps で立派な有袋類、齧歯(ネズミ)目リス科リス亜科モモンガ族モモンガ属 Pteromys momonga とは全く関係ない生物であるので要注意!)の「ペニス脱」の項に(改行部を繫げた。下線はやぶちゃん)、『フクロモモンガをはじめ、有袋類は他の哺乳類とは解剖学的に大きな違いがいくつかあります。その一つがペニス(陰茎)の形と陰嚢の位置です。ほとんどの哺乳類のペニスは陰嚢より頭側にありますが、フクロモモンガでは陰嚢の方がペニスよりも頭側にあります。また、ほとんどの哺乳類はペニスを一本しか持っていませんが、フクロモモンガのペニスは先端が二つに分かれてまるで2本のペニスを持っているように見えます。このため、フクロモモンガの雌の膣の構造も他の動物とは大きく異なっています。雄のフクロモモンガはペニスを出したり引っ込めたりすることがよくあります。このとき何らかの理由でペニスがもとに戻らなくなるとフクロモモンガ自身が気にして舐めたりかじったりしてしまいます。初期の段階であれば元に戻すことも可能ですが、赤黒く腫れ上がったり、真黒に壊死したりしてしまうとペニスの先端部を切除しなければいけません。ペニスが出っぱなしになって、気にして舐めたりかじったりしている場合にはできるだけ早くフクロモモンガの診察が可能な動物病院で診てもらいましょう』とあることで、悩み解消! 正式な獣医の方のこの書き方から、下線部はカンガルーにも通ずることは明白である。未だ疑惑をお持ちの方は、そうさ、FUKU♥MOMO氏のブログ「ほっとひといき~FUKU♥MOMO CAFE~」のこちらの記事に、飼っておられる「チッチ&カー君」の睡眠中のその現象(ペニス脱)を撮った画像が出る! 二股ッツ! 文句あるまい!

「巾著」老婆心乍ら、「きんちやく(きんちゃく)」(巾着)、財布のことである。]

 

 さて子宮なるものは、これを具へる個體の生存を標準として考へると、なくとも日々の生活には差支のない筈のものを暫く貯へ置く袋に過ぎぬから、尿を貯へるための膀胱と同じ價値のものであるが、種族の生存を標準として見ると、極めて重大な價値を有する。子宮内に子を入れて居る間は、母親は種族の生命を己が手に預かつて居るやうなもので、自分が死ねば種族の將來をも亡ぼすことに當る。即ち子が早く死んで出ても、親は生き殘るが、親が死ねば子は到底助からぬから、姙娠中の母親は種族維持の上には最も大切なもので、この點では大に父親と違ふ。長い間餘計な重さを支へ、餘計な食物を食ふのも、最後に非常な苦しみを怺へるのも、一として自己一身のためではなく、全く種族のためであるゆえ、姙娠は、いはば種族のために個體が奉公をして居る如きものである。されば姙娠中の婦人は自己の屬する種族の維持繁榮のために一身を捧げて居るわけに當るから、周圍の者からは特別の待遇を受け、ただならぬ身として鄭重に取扱はれるが、自身も當然のこととして敢へてこれを辭せぬ。受精の際に他人に見られたならば恥じて絶え入るべき程の婦人が、受精の結果なる姙娠を幾分か誇るが如き態度の見えるのは、おそらく種族のために重大な任務を盡くして居るといふ無意識的の自覺が、どこかに潜んで居るからであらう。いづれにしても、子宮は個體の一小部分でありながら、全く種族のために働く特別の器官であるから、その影響する所も頗る廣く、子宮に何か異常があれば全身はそのために健康を失ふ。何處の病院に行つても婦人科はあるが、男子科はない。そして婦人科の病といふのは、殆ど皆子宮に關係のある病ばかりである。

[やぶちゃん注:「怺へる」「こらへる」と訓ずる。
 
「姙娠は、いはば種族のために個體が奉公をして居る如きものである。されば姙娠中の婦人は自己の屬する種族の維持繁榮のために一身を捧げて居るわけに當るから、周圍の者からは特別の待遇を受け、ただならぬ身として鄭重に取扱はれるが、自身も當然のこととして敢へてこれを辭せぬ。受精の際に他人に見られたならば恥じて絶え入るべき程の婦人が、受精の結果なる姙娠を幾分か誇るが如き態度の見えるのは、おそらく種族のために重大な任務を盡くして居るといふ無意識的の自覺が、どこかに潜んで居るからであらう」
これはまっこと、賢明にして唯一の人間哲学の表明であると私は思う。マタニティ・ハラスメントに対して逆批判する輩は、この生物学者丘先生の真理を今一度、黙考するべきであろう。また、「同性としていい迷惑」的な逆批判をする女性には丘先生が妊婦に対して行った精神分析と同じ対偶分析がなされねばなるまい、という気が大いにした。]

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(6) 二 胎生(Ⅲ) カンガルーの赤ちゃん

Kangaroo2
 

[カンガルー][やぶちゃん注:底本大正十五(一九二六)年東京開成館刊第四版のもの。]

 

Kangaroo1


[カンガルー][やぶちゃん注:講談社学術文庫版(昭和五六(一九八一)年刊)のもの。]

 

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版と底本としている国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)とは挿絵が異なる(講談社学術文庫版は絵、底本は写真)ので、両方をアップした。底本のそれは前記リンク先画像をダウンロードしてトリミング、補正をしてある。講談社学術文庫版はその凡例には、底本を有精堂昭和四四(一九六九)年刊『丘浅次郎著作集「生物学講話」』とし、『必要に応じて東京開成館第四版(大正十五年刊・初版大正五年刊)を参照した』とあるのであるが、図版については、『旧版の図版』を用いたという言い方をしており、この『旧版』というのは、かく挿絵が異なる事実から推して、「生物學講話」の東京開成館から刊行された大正五(一九一六)年の初版の方を指しているとしか思われない。従って、底本の絵の方が古く、写真の方が新しいと判断出来る。]

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[カンガルーの幼兒]

[やぶちゃん注:こちらの画像は講談社学術文庫版のものを用いた。]

 

 獸類で卵生するのは稀な例外であつて、その他は悉く胎生であるが、同じ胎生といふ中にもまた種々の階段がある。例へば大きな「カンガルー」は身の丈が約二米以上もあつて殆ど人間と同じ位であるが、その姙娠の狀態を見ると、人間の女が九箇月の後に身長約〇・五米體重三瓩もある大きな子を産むに反し、姙娠僅に一箇月で殆ど人の拇指の一節にも足らぬほどの小さな子を産む。この子は人間の胎兒のほゞ二箇月位のものに相當し、手足の指もまだ判然とは出來ぬ位故、そのまゝでは到底生活は續けられぬ。それ故、母親は更にこれを腹の前面にある特別の袋に入れ、袋の内にある乳房の先を子の口に嵌め、乳汁を注ぎ込んでなほ數箇月の間養育するが、かうして出來上つた子が、初めて人間の生まれたての赤子と同じ位の大きさに達する。即ち人間ならば子を九箇月の間子宮の内に入れて置く所を、「カンガルー」は一箇月だけ子宮の内に、殘り八カ月は腹の外の袋に入れて養ふのである。「カンガルー」の子は一度乳房を口に入れたら、そのまゝいつまでも離さず、また乳房は延びて子の胃の腑までも達するから少々引張つた位では子は決して親の體からは離れぬ。それ故、昔「ヨーロッパ」人が初めて「カンガルー」を見たときには、この獸は芽生によつて繁殖すると思ひ誤り、その通り報告した。かく胎生する獸類の中にも、小さな子を早く産み出すものと、十分育つまで子を腹の内に入れて置くものがあるのは、胎生の子を養ふための仕掛けに樣々の相違があるからである。

[やぶちゃん注:「カンガルー」有袋上目カンガルー目カンガルー形亜目カンガルー上科カンガルー科 Macropodidae 。画像のそれは同定し得ないが、とりあえず模式種オオカンガルー(別名ハイイロカンガルー)Macropus gigantues を挙げておく。但し、ウィキの「カンガルー」によれば、『別の分類ではネズミカンガルー科 Potoridae をカンガルー科に統合し、カンガルー科をカンガルー亜科 Macropodinae(先の分類でのカンガルー科)とネズミカンガルー亜科 Potorinae に分ける』ともある(以下、引用は同所)。分布は『オーストラリア大陸、タスマニア島、ニューギニア島に生息している。大型の(狭義の)カンガルー、小型のワラビー、樹上性のキノボリカンガルーなどがいるが、同じカンガルー属 Macropus にオオカンガルーもアカクビワラビーも中間サイズのワラルーもおり、大型カンガルーとワラビーの区別は分類学的なものではない』(私には最後の部分は眼から鱗であった)。『「カンガルー(kangaroo)」は、もともとカンガルー(跳ぶもの)を指した現地語 gangurruが変化したものであると考えられる』。『西洋人がカンガルーを指して「あの動物は何と言うのか」と聞いたところ、現地人は(外国語では何を言いたいのか)「わからない」という意味で「カンガルー」と答え、これがこの動物の通称となったという逸話が、テレビの情報番組で紹介されたり、中学の英語の教科書にも載ったことがあるが、これは俗説である。なお、オーストラリア周辺には多くの部族が住むため、すべての部族がカンガルーのことをこう呼ぶわけではない』(というより、未開民族との接触でしばしば語れる、多分に軽侮が潜在するところの後世に作られたいやったらしい偽説というべきであろうと私は感ずる)。『カンガルーという語がはじめて記録されるのは、ジェームズ・クックの最初の航海について記述したジョセフ・バンクス(王立協会会長を務めた貴族)の文章で、このときは「Kangaru」と綴られた。元々はグーグ・イミディル語で灰色のカンガルーの意味であったが』、(ウィキジェームズ・クックの方の記載では、当地のアボリジニが話した「オオカンガルー」を指すGuugu Yimidhirr語方言とある)『すぐにカンガルー全体を示す英語として使われるようになった』。体長は小さいもので二十五センチメートルから大きい種では一メートル六十センチメートルまで達し、体重も五百程度の種から八十五キログラム(「老婆心乍ら本文中の「瓩」は「キログラム」「キロ」と読む)に達する大型種まで多様である。「生態」等は、省略するのでリンク先を参照されたい。以下、本文と関わる「繁殖」の項(ウィキっちゃっちゃ生まれたばかりの嬰児写真リンク)。『他の有袋類と同様、育児嚢(いくじのう)で子どもを育てる。実際の育児嚢の内側は非常に臭いと言う』。『多くのカンガルーは繁殖環境のよい時にのみ繁殖を行う。繁殖に適さない環境の場合、雄は精子を作らない。繁殖に適した環境になると繁殖活動を開始する』。『カンガルーの雌は交尾をするとすぐに出産するが、繁殖に適さない環境や、育児嚢に子供がいる間は受精卵が子宮へ着床するのを遅らせることにより、発生を遅らせることが出来る』。『もし繁殖に適した環境が続いた場合、カンガルーの雌は再び交尾を行い、育児嚢の中にいる離乳前の子供と、育児嚢からは出ているが離乳前の子供、そしてさらにもう一つを胎芽の状態でとどめておくことができる。その時に袋で育てている子供が死ぬか、もしくは袋から出てしばらくすると発生が再開する』。新生児一グラム程度か、或いは『それに満たない、かつ未熟な状態で生まれる。生まれたての赤ちゃんは総排出腔から育児嚢の中へ自力で移動し、乳首を見つける』。『完全に親離れする(袋に戻らなくなる)までに、オオカンガルーで通常で』約四十四週間、長いと十八ヶ月間かかることもあり、種によって異なるものの、概ね三十週間から四十週間くらいである、とある。因みに、私とカンガルーはすこぶる相性(臭いが?)がいいらしい。ただ一度の海外修学旅行引率でオーストラリアに行った際、動物公園で私の周りに異様にカンガルーが集まってしまい、一匹も近寄って呉れない女生徒が「ずるい!」と不満を漏らしたのを思い出した。]

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(5) 二 胎生(Ⅱ) カモノハシとハリモグラの赤ちゃん

Kamonohasi

[かものはし]

Harimoguranoko

[「針もぐら」の子]

 

 また獸類は模範的の胎生であるというたが、これも悉く然りとはいはれぬ。即ち獸類の中にも、その胎生の有樣には種々程度の違うたものがあつて、極めて稀な場合には卵の形で生まれるものさへある。卵生する獸類といふのは、今日僅にオーストラリヤ地方に限り棲息する二三の珍しい種類で、鳥類の如くに生殖器の開き口と肛門とが一つになつて居るから、總括して單孔類と名づける。「あひる」の如き嘴を有する「かものはし」、「針鼠」に似てしかも吻の長い「針もぐら」などがその例であるが、これらは直徑二糎位の丸い卵を一度に一個ずつ産む。しかし生まれたばかりの卵の殼を切り開いて見ると、中には既に相應に發育した幼兒の形が出來て居るから、鳥類などの簡單な卵生とは趣が違ふ。假にこれらの類で、卵が生まれる途端に殼が割れたと想像すれば、卵生と名づけてよいか胎生と名づけてよいか判斷が難しからう。「針もぐら」は産んだ子を更に腹の外面にある凹みの中に入れて温めるが、「かものはし」は常に水中を泳ぐもの故、卵を身に附けて歩くことは出來ぬ。卵が産まれるまで留まつて居る處は、鳥類に於けると同じく輸卵管の末端であるが、近來の研究によると、その部の粘膜から一種の乳の如き滋養液を分泌し、子はそれを吸うて發育するとのこと故、この點も幾分か普通の獸類に似て居る。

[やぶちゃん注:「生殖器の開き口と肛門とが一つになつて居る」既に述べたが、こうした生物の器官を総排泄腔と称する。

「單孔類」哺乳綱原獣亜綱単孔目 Monotremata のこと。本邦では代表種の名を採ってカモノハシ目とも呼ぶ。以下、ウィキの「カモノハシ目」より引く。『カモノハシ科と2つの化石科を含むカモノハシ亜目(Platypoda)と、ハリモグラ科を含むハリモグラ亜目 Tachyglossa)に分かれる』が、現存するのは科(family)はカモノハシ科 Ornithorhynchidae とハリモグラ科 Tachyglossidae のみで、『化石を含めても4科しかいない。現生群はわずか2科3属5種しかいないが、オーストラリア区に広く分布する』。『単孔目(カモノハシ目)は、現存する哺乳類としては唯一、爬虫類や鳥類のように卵を産むグループとして知られている(卵生である)。(大部分の鳥類と同じように)母親が卵を温めて子を孵化させ、孵化した子は(他のすべての哺乳類と同じように)母乳によって育てられる。母親は他の哺乳類のような乳首をもたず、子は母親の乳腺から染み出した乳をなめている』。『爬虫類や鳥類と同様の総排出腔をもつ(これが単孔目 Monotremata という名の由来である)。尿や糞の排出も生殖も、全てここで共通に行われる』。『内温動物であるが、気温により保ちうる体温が変動するなど、有胎盤類や多くの鳥類に比べ、体温調節能力が低い』。『以上のような特徴から、単孔目(カモノハシ目)は、進化史の中で、非常に早い時期(おそらく三畳紀)に他の全ての哺乳類のグループと分岐したと考えられ、現生哺乳類で最も原始的なグループとされる。そのため、このグループは、「原獣亜綱」として、亜綱のレベルで他の哺乳類(獣亜綱)と区別されている』。

「あひる」鳥綱カモ目カモ科マガモ属マガモ Anas platyrhynchos を家禽化して人為的に生み出した品種アヒル Anas platyrhynchos var. domesticus

「かものはし」私自身がカモノハシの生態をよく知らないので、以下、自身が学びながら注したため、引用が長くなった。お許しあれ。単孔目カモノハシ科カモノハシ Ornithorhynchus anatinus  (Shaw, 1799)。一属一種。以下、ウィキの「カモノハシ」に拠る。『オーストラリア(クイーンズランド州東部、ニューサウスウェールズ州東部、ビクトリア州、タスマニア州)。分布域内では、熱帯雨林、亜熱帯雨林、ユーカリなどの硬葉樹林、高山地帯などの淡水の河川や湖沼などに』棲息する。『カモノハシがヨーロッパ人により最初に発見されたのは』一七九八年のことで、毛皮やスケッチが首長国であったイギリスへ送られたが、『科学者達は、当初はこの標本は模造品であると考え』、『「それが本物であることを疑わずにはいられない」と主張』したり、『アジア人の剥製師に』よって、『ビーバーのような動物の体にカモのくちばしを縫い付けた物であると考え』た者もいた。『Ornithorhynchus anatinus という学名はギリシア語で「鳥の口吻」を意味する』“ornithorhynkhos”と、『ラテン語で「カモのような」を意味する“anatinus”からなる』。全長はが最大六十三センチメートル、が最大五十五センチメートル、尾長は孰れも八・五~十五センチメートル、体重はが一~三キログラム、が七百グラムから一・八キログラムに達すし、全身に一平方センチメートル当り六百本以上の『柔らかい体毛が生えている。体毛の色は背面は褐色から茶褐色で、腹面は乳白色である。外側の毛は水を弾き、内側の毛は保温性に優れている』。『名前の通りカモのように幅が広く、ゴムのような弾性のあるくちばしを持ち、外見上の大きな特徴の一つとなっている。このくちばしには鋭敏な神経が通っていて、獲物の生体電流を感知することができる』。『四肢は短く、水掻きが発達している。オスの後脚には』石灰質で出来た蹴爪があり、ここから毒(後述)『が分泌されている。メスも若い時には後脚に蹴爪があるが、成長の過程で消失する』。『哺乳類ではあるが乳首は持たず、メスが育児で授乳の際は、腹部にある乳腺から乳が分泌される』。『カモノハシはオスもメスも蹴爪を持って生まれるが、オスのみが毒の混合物を分泌する蹴爪を持って』おり、『この毒は主にディフェンシンのようなタンパク質類(DPL)で構成されており、その中の三種はカモノハシ特有のものである』。『このディフェンシンのようなタンパク質はカモノハシの免疫機構により生産されている。イヌのような小動物を殺すのには十分な強さの毒で、ヒトに対しては致死的ではないものの、被害者が無力になるほどの強い痛みがある』。『毒による浮腫(むくみ)は傷の周囲から急速に広がり、四肢まで徐々に広がっていく。事例研究から得られた情報によると、痛みは持続的な痛みに対して高い感受性を持つ感覚過敏症となり、数日から時には数ヶ月も続くことが指摘されている』(因みにカモノハシの本毒によるヒトの死亡例報告はない)。『毒はオスの足にある胞状腺で生産されており、この腎臓の形をした胞状腺は後肢の踵骨の蹴爪へ、管によってつながっている。メスのカモノハシ』には未発達の蹴爪の芽があるが、これは発達することなく、誕生後一年経つ前に脱落し、毒腺も機能を持たない。『毒は哺乳類以外の種によって生産される毒とは異なった機能を持つと考えられている。毒の効果は生命に危険を及ぼすほどではないが、それでも外敵を弱めるには十分な強さである。オスのみが毒を生産し、繁殖期の間に生産量が増すため、この期間に優位性を主張するための攻撃的な武器として使われると考えられている』。以下、「生態」の項。『群れは形成せず単独で生活し、夕方や早朝に活動が最も活発になる薄明薄暮性である』。『水中では目を閉じて泳ぐが、くちばしで生体電流を感知し獲物を探す。動かなければ最大』十一分程度、『水中に潜っていることができるが、通常』の潜水時間は一~二分ほどである。『食性は肉食性で昆虫類、甲殻類、貝類、ミミズ、魚類、両生類等を食べる』。『陸上を移動する場合、前足が地面に着く時に水掻きのある指を後ろに折りたたむようにして歩く』。『水辺に穴を掘り巣にする。巣穴の入り口は水中や土手にあり、さらに水辺の植物等に隠れ、外からはわからないようになっている』。緯度によりズレがあるが、繁殖期は八月から十月で、『繁殖形態は哺乳類では非常に珍しい卵生で、巣穴の中で』一回に一~三個の卵を産む。卵の大きさは約一・七センチメートルで、『卵殻は弾性がありかつ粘り気のある物質で覆われている。卵はメスが抱卵し』、凡そ十日から十二日で孵化する。『子供はくちばしの先端に卵嘴を持ち、卵嘴を使用して卵殻を割って』自律的に出てくる。成体の四分の三程度の大きさになるまでに離乳し、約四ヶ月で独立、は約二年で成熟し、寿命は最大で二十一年』という。『日本国内の動物園で飼育された事例はない』が、私はタスマニアで飼育されているそれを実見したことがある。実に可愛い(個人的には獣亜綱有袋上目オーストラリア有袋大目フクロネコ目フクロネコ科フクロネコ亜科タスマニアデビル Sarcophilus harrisii の昼寝姿が最も可愛いと感じたが)。

「針鼠」哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae。五属十六種が知られ、ヨーロッパ・アフリカ・中近東・日本を除く東アジア・ロシア・インドに棲息する。因みに彼らの背や側部を覆う自己防衛用の針のような棘は体毛の一本一本が纏まって硬化したものである。彼らはその形状から、ここで語られる単孔目のハリモグラや齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科アメリカヤマアラシ科 Erethizontidae のヤマアラシ類(因みにヤマアラシの棘は毛の進化した針毛)と混同されやすいが、孰れも系統分類学的にはハリネズミとは全く無関係である(ウィキの「ハリネズミ」に拠った)。

「針もぐら」同じく、私自身がハリモグラの生態をよく知らないので、以下、自身が学びながら注したため、引用が長くなった。お許しあれ。まず、ウィキの「ハリモグラ科」から引く。ハリモグラ科 Tachyglossidae は『脊椎動物亜門哺乳綱カモノハシ目(単孔目)ハリモグラ亜目の唯一の科で』、分類説によっては『ハリモグラ目 Tachyglossa 唯一の科と』もする。『単孔目の中で、カモノハシ亜目(カモノハシのみが現生)と姉妹群をなすグループで』、『ハリモグラ科には、ハリモグラ属のハリモグラと、ミユビハリモグラ属に属する』三種の計四種が現生する。『英語圏では Echidna(エキドナ、ギリシア神話に登場する上半身が美女で下半身はヘビという魔神)、または、Spiny Anteater(トゲのあるアリクイ)と呼ばれる』。このハリモグラ類は『オーストラリア(タスマニアを含む)およびニューギニアに、ミユビハリモグラ属はニューギニアに分布』している。以下、狭義の種としてのカモノハシ目ハリモグラ科ハリモグラ属ハリモグラ Tachyglossus aculeatu (Shaw, 1792) に就いて、ウィキの「ハリモグラ」から引く。ハリモグラ Tachyglossus aculeatu は、『現存している原獣亜綱カモノハシ目ハリモグラ科の4種のうちの1種であり、ハリモグラ属 Tachyglossus の唯一の種である。ハリモグラは背面がトゲで覆われている。また特有の吻と特化した舌を持ち、それを使い獲物であるアリやシロアリを素早く捕らえる。現存している他の単孔類であるカモノハシやミユビハリモグラ属のように、ハリモグラも卵を産み、メスは子育ての期間にのみ育児嚢を発達させ、母乳で子供を育てる』。本種は『オーストラリア(タスマニア島を含む)の砂漠を除くほぼ全域と、ニューギニア島南西部の高地および海岸地帯』に棲息し、『分布域内では、餌となるアリやシロアリが豊富であれば、生息できる』。全長は三十~四十五センチメートル(口吻は約七・五ミリメートル)、体重約二~七キログラム(『タスマニア亜種 T. a. setosus は大陸亜種よりも大きく、また体毛はトゲよりも長くなる』)。『首は外部に見えないため首と胴が一緒になっているように見える。耳の穴は頭部の両側についているが、耳介は持たない。目は小さく、くさび形の口吻の基部にある。鼻孔と口は口吻の先端にある』が、彼らは五ミリメートル以上、口を開けることが出来ない。『ハリモグラの体は、腹部、顔、脚を除きクリーム色のトゲで覆われている』。最大五センチメートルにもなるこの棘は、『体毛が変化したもので』、『トゲの筋肉はそれぞれ独立していて、トゲを別々に動かすことができる』。『ハリモグラの四肢は土を素早く掘るのに適応している。四肢は短いが、強力な爪がついて』おり、四肢ともに五本の指を有し、後足の第二指及び第三指の爪は『長く伸び、トゲの間を清潔に毛繕いすることができるよう、後ろ向きに曲がっており、“groomig claw”(毛繕いをする爪)と呼ばれ』ている。『また、オスは後肢にカモノハシのオスと同じように蹴爪があるが、この蹴爪はカモノハシとは違い、毒を出さない』。カモノハシのように、ハリモグラの体温は低く、摂氏三十度から三十二度の間であるが、『不活発になったり冬眠を行うという証明のないカモノハシとは違い、ハリモグラの体温は』摂氏五度近くまで就下する。『ハリモグラは息を荒くしたり、汗腺がないため汗をかくことはなく』、『暑い時にはシェルターを探す。秋から冬にかけて、ハリモグラは不活性状態もしくは冬眠する』。『他の単孔類のように総排出腔を持ち、尿や糞、卵が通過する』『オスは体内に精巣を持ち、体外には陰嚢はなく、先端が4つに分かれた特殊な陰茎を持つ。妊娠したメスは腹部に、幼獣を育てるための育児嚢を発達させる』。『ハリモグラの筋肉構造は独特のものである。皮筋は大量の筋からなり、皮膚の直下にあり、体全体を覆っている。皮筋の様々な部分の収縮により、ハリモグラは形態を変えることができ、最も特徴的な形状は危険が迫った時にボールのように丸まることであり、腹部を守り、鋭いトゲで防御する。他の動物よりも全長に対し短い脊髄を持ち、胸腔をできる限り広げられる』。『顔、あご、舌の筋肉構造はハリモグラが採食するのに特化している。ハリモグラの舌は獲物を捕らえる唯一の手段であり』、開口不全の口吻から凡そ十八センチメートルも出すことが出来る。。『舌は糖タンパク質が豊富な粘液を出すため粘ついている。この粘液は口吻から舌を出し入れする潤滑油の役割と、アリやシロアリを粘着させて捕らえるのに役立つ。舌を出す行動は、舌の形を変え、舌を前方へ出すのを強制する環状筋を収縮させ、舌の基部とあごの二つのオトガイ舌筋を収縮させることにより可能となる。出した舌は血流により堅くなり、木や土壌を貫通することができるようになる。舌を引っ込める時は、2つの内部縦走筋の収縮により行われる。ハリモグラは歯を持たず、舌が引っ込められる時に捕らえられた獲物は口蓋の奥にあるケラチン質の歯のようなもので擦り潰される』。舌の動きは恐ろしく速く、一分間に百回も出し入れすることが可能で、『腸はアリなどの外骨格や餌と同時に飲み込んだ土を粉砕するために長くなっており、成獣で』総延長が約三・四メートルにも及ぶ、とある。『多くの生理学適応性がハリモグラの生活スタイルを手助けしている。穴に潜るので、身の回りの空気中の二酸化炭素が高レベルであっても耐えられ、二酸化炭素濃度が高い環境であっても生存ができる。耳は低周波を感じることができ、アリやシロアリが地中から出す音を感じることができる。鼻は周囲環境の情報を収集するための機械受容器と温度受容器で覆われている』。『ハリモグラの嗅覚は良く発達しており、仲間や捕食者を捜すのに使われている。良く発達した視神経をもち、視覚的分別能力と空間記憶能力はネズミのそれと同程度である』。『ハリモグラの脳と中枢神経系は、有胎盤類の進化的比較のために手広く研究された。ハリモグラは体の大きさと比較し、他の動物よりも大きな前頭前皮質を持ち、レム睡眠を行うことが知られ、脳は有胎盤類の前障と同等のを持っており、このことはこれらが共通の祖先から分化したことを示している』。『ハリモグラは単独性で、子供を育てるために穴を掘るのを別とすると、特定のシェルターやねぐらは持たない。特定のなわばりを持たず、行動圏は幅広い』。『獲物を掘り当てるためやシェルターにする穴を掘るために前足の爪を使い、強力に穴を掘ることができる。もし危険が迫り、逃げ場所が見つからなかった時には素早く地面を掘る』。以下、「繁殖」の項。単独性のハリモグラは五月から九月の間に繁殖相手を探す(明確な繁殖期は地方により異なる)。『繁殖期の間、雌雄ともに強い匂いを発する。1989年に最初に観察されたのであるが、求愛行動の間、オスはメスを探し出し、追いかける。最大4週間続く求愛行動では、最大10頭のオスの列が1頭のメスを追いかける。この求愛行動の期間は場所により様々である』。『分布域の冷温な場所、例えばタスマニアなどでは、メスは冬眠から目覚めた数時間以内に交尾を行うことがある』。『交尾の前に、オスはメスの、特に総排出口の匂いに注意して匂いをかぐ。オスはしばしばメスの周りを回りながら観察し、そして2頭が腹部と腹部を合わせられるように、同じような体勢をとる』。『左右対称の、ロゼットのような、先端が4つに分かれた陰茎(爬虫類に似ている)を、射精の間は半分が閉じ、交互に使用する。各々約100の精子の塊がさらに高い精子の運動性を与えるようで、オス間の精子の競争の可能性がある』。『それぞれの交尾により一つの卵が生産され、メスは繁殖期の間、ただ1度だけ交尾することが知られている。つまり、各々の交尾は成功する』。受精は卵管で行われ、妊娠期間は二十一~二十八日で、『その間メスは育児するための巣穴を掘る。この巣穴の中の気温は』摂氏十五度前後に保たれ、『他の哺乳類の育児のための巣穴よりも』著しく低い。『妊娠期間の後、腹部に発達させた育児嚢に』、直径十四~十六ミリメートルの弾性を持った卵を一つ産み、産卵後十日でその育児嚢の中で孵化をする。『胎芽は抱卵期間中に卵歯を発達させ、それを使用し卵殻を割る。卵歯は孵化後すぐに消える』。新生児は約一・五センチメートル、体重三百から四百グラムしかない。『新生児は母親の乳輪を自身で探し出す。単孔類は乳首を持たず、この乳輪は母乳が染み出してくる特化した部分である』。『新生児が母乳を飲む方法はまだ知られていないが、各々の授乳期間に多量の母乳を摂取することが観察されて』いる。『母乳の主成分は脂肪、プロテイン(フコシルラクトースとシアリルラクトース)、鉄分が多く含まれ』、ピンク色を呈する。幼獣は棘が成長するため、二~三ヶ月で育児嚢から出て来る。幼獣の乳離れは約六ヶ月で、授乳期間は約二百日、幼獣は凡そ百八十日から二百四十日後には巣穴を出る(下線やぶちゃん)。『性成熟の年齢は不確実であるが』四~五年とされ、繁殖頻度は二年に一回から六年に一回であることが判明しており、寿命も野外では最大四十五年と長いことが分かっている。また、『単孔類の仲間のカモノハシのように、ハリモグラの性染色体のシステムは非常に珍しく、オスはメスよりも性染色体数が少ない。メスはXXXXXXXXXX(5対)であるが、オスの最後のX染色体は対とはならず、XYXYXYXYX(4対と1つ)である。染色体間に不充分な同一性しかないために、減数分裂時の対合』(ついごう:synapsis。二本の染色分体からなる相同染色体くっつき合って四本の染色分体が一つになることを言う。)『ではXXXXXとYYYYの2種類のみの精子の遺伝子型しか可能とならず、そのためにこの性染色体の複雑なシステムが保存されている』とある。]

2015/07/11

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(4) 一 胎生(Ⅰ)

     二 胎生

 

 胎生といふ中にも種々の階段があつて、決して一樣ではない。例へば蛇類や「ゐもり」の類の胎生するものでは、そのまゝ生まれ出ても、子になるべき大きな卵がたゞ暫く輸卵管の末に留まり、子の形が出來上つた頃に生まれるに過ぎぬから、親は單に子に場處を貸すだけで、名は胎生というても實は卵生と餘り違はぬ。これに反して獸類の如きは、初め微細な卵細胞が母の體内に留まつて居る間に、絶えず母から滋養分を受けて發育成長し、ほゞ親と同じ形狀を具へたものとなつて産まれるのであるから、これこそ眞に模範的の胎生で、姙娠中の親子の關係は極めて親密である。かやうに兩極端を取つて比較すると著しく違ふが、その間には無論さまざまの途中の階段に位するものがある。

[やぶちゃん注:『「ゐもり」の類の胎生するもの』これは脊椎動物亜門両生綱平滑両生亜綱無足(アシナシイモリ)目Gymnophiona のアシナシイモリ類の有意な数の種に見られるものである。但し、このアシナシイモリ類、私も水族館で見たことがあるが、「イモリ」いは全く見えない。四肢と肢帯を持たない上に、体は細長い円筒状で、多くの体節的な環状の皮膚の襞(環帯)を持っており、目も皮膚に覆われていて(明暗を感じる程度にしか役に立たない)、ミミズと言われたら、なるほどと首肯するほど似ている。参照したウィキの「アシナシイモリ」には、『地中生に高度に適応しており(一部の種は水生である)、極めて特殊化が進んでいるにもかかわらず、現生両生類中最も原始的な形質を残している』とある。そして「繁殖」の項には、『全ての種で体内受精を行う。オスの総排泄腔の後部が反転して陰茎状の交接器(phallodeum)になり、メスの総排泄腔に2〜3時間挿入して精子を渡す』。『オスでもミュラー管』(Müllerian ducts は中腎傍管(paramesonephric ducts)ともいい、動物の♀の発生途中に両側に出現する管状組織で卵管・子宮・膣の上半分の原形となるもの)『が退化せずに発達し、腺構造となる。おそらく精子に栄養を与える器官と思われる』。アシナシイモリの現生種はオアシナシイモリ科 Rhinatrematidae(二属九種)・ヌメアシナシイモリ科 Ichthyophiidae(二属三十九種)・ケララアシナシイモリ科 Uraeotyphlidae(一属五種)・アフリカアシナシイモリ科 Scolecomorphidae(二属六種)・アシナシイモリ科 Caeciliidae(二十六属九十九種)・ミズアシナシイモリ科 Typhlonectidae(五属十三種)の六科百七十一種にも及ぶが(但し、シノニムも多く含まれると推測されるとあり、しかもその多くはたった一つの標本で同定されているものだという。ウィキの分布地図の通り、赤道を挟む熱帯域にかなり広汎に分布している。また、『海を渡れないにもかかわらず、東南アジア、インド、中南米、マダガスカルを除く熱帯アフリカに分布しており、まだこれらが一体でパンゲア大陸を形成していた三畳紀以前に起源を持つことを窺わせる』とある。なお、本邦には棲息しない)、そのうちの『25%の種が卵生であり、一般に母親が抱卵して守ることが知られる。水生の幼生期を過ごす種と、孵化前に変態を終えて直接発生する種がある』。『75%の種が胎生である。母親の卵管の上皮が増殖して分泌物を含んだ袋ができ、卵管内の幼生は卵黄を吸収し終わった後、それを歯でこすり落として食べる。この歯は胎児期に特有のもので、成体のものとは異なる。成体の歯は生後まもなく生えてくる。ふつう胎児は変態を終えてから生み出される』(下線やぶちゃん)とある。こうなって来ると、ミミズというより、かのエイリアンのそれっぽい。]
  
 
Sikyuunyuu

[「さめ」の子が黄身の嚢で輸卵管の内面に附著する狀]

 

 魚類中で「さめ」などには、大きな卵が親の輸卵管の出口に近い處に留まつて發達するものがあるが、かゝる場合には親は單に場處を貸すに止まらず、輸卵管の内面より乳の如き一種の滋養液を分泌して子に供給し、子はこれを受けて速に發育する。「あかえひ」では姙娠すると、輸卵管の内面から細い絲の如き突起が澤山に生じ、これから滋養液を分泌するが、この突起は束になって胎兒の眼の後にある左右の噴水孔から入り込み、胃に達して滋養分を直にその中へ送り入れる。また「ほしざめ」では胎兒の腹から續いて居る黄身の嚢が親の輸卵管の内面に密著し、一寸引張つた位ではなかなか離れぬが、これも親から子に滋養分が供給せられるための仕掛けであつて、その有樣は後に述べる獸類の胎盤に大いに似た所がある。かやうな次第で、卵が長く親の輸卵管内に留まる場合には、身體の互に密接して居ることを利用して、親が子に少しづつ滋養分を與へ、その發育を助けることが行はれ、且一歩一歩進みゆく樣子が見えるが、子はそのため一層十分に發育して大きく強くなつて産まれるから、種族保存の上に有効であるは論を待たぬ。魚類に限らず如何なる動物に於ても、輸卵管の一部で卵が留まつて發育する場處は特に太くなつて居るが、その部分を子宮と名づける。

[やぶちゃん注:ここに示された卵胎生の軟骨魚類の輸卵管で見られる栄養補給システムは既に生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(2) 一 卵生(の「ほしざめ」の注で私が記したものである。「滋養液」は其処で記した「子宮乳」のことである。なお、今回、再度、調べてみたところ、人気の高い軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科オニイトマキエイ属 Manta birostris も体内受精を行い、幼生は輸卵管内で発育・孵化する卵胎生で、子どもは産まれたときすでに体盤幅一~~一・二メートル、体重も五十キログラム前後に達することが分かった(マンタの平均的個体は三~五メートルであるが、最大で八メートルにも達し、体重は何と三トンにもなると参照したウィキオニイトマキエイにあった)。(卵胎生)。二〇〇七年六月十六日に「沖縄美ら海水族館」で世界で初めてマンタの出産に成功したが、両親の交尾は二千六年六月八日に確認されていることから、妊娠期間は三百七十四日であった。子マンタの体幅は既に一・九メートルもあった。但し、この時の子は五日後に父マンタとの接触による傷などが原因(推定)で死亡している。その後も同水族館ではマンタの出産と増殖にチャレンジしている。この部分はネット上の諸記載を比較検討してオリジナルに書いた)。]

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(3) 一 卵生(Ⅱ)

Tugumi_sigi

[鳥の體と卵]

[左)よく飛ぶ鳥、つぐみ (右)よく飛ばぬ鳥、しぎ]

 

 なほ鳥類の中にも、親の身體の割合に卵のやや小さな種類と大きな種類とがあるが、これも飛翔の力と關係して居る。生育上最もよく飛ぶ必要のある鳥は、なるべく身を輕くするために、卵巣内の卵も幾分か小さく、隨つて産まれた卵も稍々小さいが、「きじ」や雞などの如く常に地上に住んで居て、飛ぶことが少々拙でも生存の出來るやうな鳥では、卵は十分の滋養を含んで幾分か大きくなる。そこで、大きな卵から孵つて出る雛は發育もそれだけ進んで居るから、始から獨りで走り廻つて餌を求めるが、小さな卵から出た雛は勢ひ發育が不十分なるを免れぬから、孵つても始の間は自分で何をすることも出來ぬ。小さな卵を産む鳥は常に身が輕くて、よく飛べるといふ利益がある代りに、雛が孵つてから骨折つてこれを世話せねばならぬ面倒があり、大きな卵を産む鳥は身體が幾分か重くなつて飛ぶ時には多少不便であるが、雛の孵つてからの世話は餘程樂である。自然界はすべてかうしたもので、いづれの方面にも利益ばかりを得ることは到底許されぬ。「さうは問屋で卸さぬ、」といふ世俗の言葉は、こゝにもよく當て嵌るやうに見える。

Kiui

[ニユージーランド産の鴫駝鳥とその卵]

[やぶちゃん注:本図は底本の画像が薄く粗く、肝心の『卵』がほとんど見えないので、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものを用いた。]

 

[やぶちゃん注:挿絵(これは底本の画像)の「つぐみ」はスズメ目ツグミ科ツグミ Turdus eunomus で体長は全長約二十四、翼開長約三十九センチメートル。「しぎ」はチドリ目チドリ亜目シギ科 Scolopacidae のシギ類である。本邦で最も多く見られる種である「浜千鳥」ことオバシギ属ハマシギ Calidris alpine などは実はツグミより小さい(全長は約二十一、翼開長約三十七センチメートル)であるが、中型種はツグミより遙かに大きく、本邦に於けるシギの最大種であるシギ科 Numenius 属ホウロクシギ Numenius madagascariensis 及びダイシャクシギ属 Numeniusダイシャクシギ Numenius arquata では体長約六十センチメートルにも達する。

「さうは問屋で卸さぬ、」読点はママ。老婆心乍ら、この「然(さ)うは問屋が卸さない」

とは、買い手が法外に安い値段を言い掛けた場合、そんな安値では問屋が卸売りなどしない、商売が成り立たない、とんでもないの意味で、そんなに具合よく行くものではないとか、身勝手な要求をしても簡単に応じては貰えないとか、更には、広くなかなか思い通りには行かないことの譬えとして用いられるようになった語である。

「鴫駝鳥」漢字でこう書くのは現在の、

古顎上目シギダチョウ目の唯一の科であるシギダチョウ(鴫駝鳥)科 Tinamidae に属する古くは深胸類 Carinatae とも言った北アメリカ大陸南部・南アメリカ大陸の森林や草原に棲息する、短距離しか飛翔出来ないシギダチョウ類

を指すのであるが、ウィキシギダチョウ科の模式属オオシギダチョウ Tinamus major を見ても、この絵とは似ても似つかないし、分布域も異なる。しかして、もう、お分かりと思われるが、この絵の鳥は一目瞭然、ニュージーランドに棲息する飛べない鳥(ここでは飛べない鳥であることから丘先生は登場させたと考えてよい)

古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx

の鳥の「キーウィ」に他ならない。この丘先生の混乱はどこに起因するのか考えてみようとしたところが、ウィキシギダチョウ科の「系統と上位分類」の項を見て腑に落ちた。シギダチョウ類については『伝統的に、単独でシギダチョウ目を構成してきた。古口蓋型の口蓋を持つため、ダチョウ目などと共に古顎類に分類される』。『かつて古顎類は、竜骨突起を持つ深胸類 Carinatae(シギダチョウ目のみ)と、竜骨突起を失った平胸類 Ratitae(他の全ての目)に分かれ、互いに姉妹群だと考えられていた。Mayr (1979) はその考えに従い、平胸類の目を統合し広義のダチョウ目とし、Sibley分類もそれを踏襲した』。『しかしDNAシーケンス解析により、平胸類は側系統であることが判明した。ダチョウ目以外の古顎類が単系統をなす可能性が高いが、シギダチョウ目の姉妹群がレア目なのかヒクイドリ目+キーウィ目なのかは不確実である』。なお、『「シギダチョウ」という名に反し、ダチョウとは(もちろんシギとも)特に近縁ではない』とある。即ち、本書刊行当時は、少なくとも鳥類の専門家以外の生物学者の間では、古顎類のダチョウ目を除くレア・シギダチョウ・ヒクイドリ・キーウィ目の鳥が近縁として十把一絡げにされていた、その模式鳥類が「鴫駝鳥」であったからであろうと思われる。キーウィは一科一属とされるが、ウィキキーウィには『ダチョウ目やモア目に含める説もある』とある(しかし、ウィキシギダチョウ科の「系統と上位分類」の分子系統図からはダチョウ目はあり得ない。同ウィキでも後の方でもそれを述べている)。キーウィは『ニワトリくらいの大きさ翼は、すっかり退化してしまっていて、まったく飛べない。翼は近くから見ても外見上まったく無いように見えるほどに退化している。骨の構造上は、翼(前肢)は一応は存在しているが、成熟した個体をとらえて羽毛を強引にめくるようにして調べてみても、その長さはせいぜい』五センチメートルほどしかないまでに『退化している。翼が退化したかわりに、同程度の体格を持つ他の鳥類に比べてたくましい脚を持ち、速く走る』。『ニュージーランド固有の鳥で、ニュージーランドの国鳥とされていて、しばしばニュージランドやニュージランド人のシンボル、象徴とされる』。かつては一千万羽ほどいたらしいが、今では三万羽ほどまで減少してしまっていて『危機的な状況だという。ひとつは、人間が食用に捕えていたからだという。また、人間がニュージーランドに持ち込んだネコなどの哺乳類にキーウィは適応しておらず、それらの哺乳類がキーウィの雛をとらえて食べてしまうからだという』。『「キーウィー」と口笛のような声で鳴くため、ニュージーランドの先住民であるマオリ族からキーウィーと名付けられた』。『天敵のいない環境に適応していることから、ネコやネズミなどの移入動物(人間が作為的に持ち込んだ動物)の影響で雛が食べられてしまい、個体数は減少傾向にあり、絶滅の危機にある。人間を警戒しない。好奇心で人間の後をついていくこともある』。『夜行性で、視力が弱く、昼間は樹の洞などに隠れている。夕方以降、餌を求めて歩き回る。くちばしの尖端に鼻孔があり、またセンサーのようになっているヒゲを用いて、鋭敏な嗅覚によって餌を探す。地面にくちばしを差し込んで、地中にいるミミズや昆虫の幼虫、果実などを探し、食べている』。『メスは体重の1/4ほどの卵を産む抱卵はオスがするが、卵が大きいため卵全体を暖めることができず、卵の上下で温度差が』摂氏十度近くにもなる、とある(下線やぶちゃん)。既に述べた通り、ニュージーランド固有種であるが、以下の五種(内、一種は二亜種に分かれるので総計六種)が棲息する(但し『より少ない種しか認めない説もある』)。

 Apteryx australis

 Apteryx haastii

 Apteryx mantelli

 Apteryx owenii

 Apteryx rowi

(なお、『果物「キウイフルーツ」は、ニュージーランドからアメリカ合衆国へ輸出されるようになった際、ニュージーランドのシンボルであるキーウィに因んで1959年に命名された』とあり、これも目からキゥイ。]

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(2) 一 卵生(Ⅰ)

  
 
      一 卵 生

 

 卵生と胎生とを比較して見るといづれにもー得一失があつて、種族保存の上にいづれを有利とするかは、その種族の習性によつて違ふ。受精後の卵は親の體からいへば最早一種の荷物に過ぎぬから、速に卵を産み出してしまへば、親の身體はそれだけはやく輕くなり運動も樂になる代りに、子はそれだけ多く外界の危險に曝される。何動物でも卵の時代や卵から孵つたばかりの時代は、最も弱く最も死に易いときであるから、卵生する動物は特に卵を保護する種類の外は、非常に多くの卵を産まぬと種族繼續の見込みが立たぬ。そして數多く卵を産めば卵の粒は勢ひ小さくならざるを得ぬが、卵が小さければそれより孵化して出る幼兒も小さく弱いから、それだけ卵の數を多く産まねば安心が出來ぬ。これに反して、胎生の方では子の發育する始は、母の體内にあつて十分に保護せられて居るから、多數が死に失せる如き心配はない。それから少數の卵を生じ、少數の幼兒を産むだけでも種族維持の見込みは確に立つ。この點を考へると、卵生に比べて胎生の方が明に一歩進んで居るやうであるが、子を長く體内に留めて置けば、その間母親は餘計な荷物を負うて居るわけ故、運動も幾分か妨げられ、且もし自分が殺される場合には腹の内の子までが共に殺されて、後に子孫を遺すことが出來ぬといふ不利益がある。

[やぶちゃん注:「その間母親は餘計な荷物を負うて居るわけ故」この部分、講談社文庫版では、『その間母親はよけいの子まで負(お)うているわけゆえ』となっている。これは恐らくは体内の子供を『餘計な荷物』と物のように表現しているのが問題と考えて誰か(丘先生自身ではないような気がする)が書き換えたのではあるまいか? しかしそうだとすれば文字通り『餘計な』ことをしたものである。これでは明らかに日本語としておかしくなっていることに書き換えた人間は気づいていないからである。]

 
Umitanago

[うみたなご]

[やぶちゃん注:本図は底本の画像は薄く粗いので、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をした。] 

 動物の種類を數多く竝べて見ると、全部胎生するものはたゞ獸類だけであつて、その他は殆ど悉く卵を産むから、全體としては無論卵生の方が遙に多數を占めて居る。鳥類でも魚類でも昆蟲でも貝類でも皆卵生である。しかし、卵を産むものの中にも例外として、胎生する種類の含まれて居ることは決して珍しくない。たとえば魚類中の「ほしざめ」・「あかえい」・「うみたなご」とか、蛇類中の「まむし」とか、昆蟲類中の「ありまき」とか、貝類中の「たにし」とかいふ如きものは、いづれも卵生する部類に屬しながら、自分は胎生する。かくの如く、大概の組には例外として胎生するものが一種や二種はあるが、たゞ鳥類だけは悉く卵生であつて、一種として例外はない。これはなぜかといふに、鳥類は主として空中を飛するもので、餌を捕へるにも敵から逃げるにも、飛翔の巧みなることを要するが、姙娠は身を重くして甚しく飛翔を妨げるからである。抑々飛翔は動物の運動法の中で最も進歩したもので、最も速力の大なる代りに最も多く筋力を要し、これをよくするものは僅に鳥類、蝙蝠類、昆蟲類の外にはない。他の運動法に比して飛行の困難なることは、船や車が何千年の昔から用ゐられて居ながら、飛行機が漸く近年になつてできたのを見ても知れる。されば鳥類の身體は飛翔のためには他の何物をも犧牲に供し、他の方面では如何なる不便を忍んでも專ら飛翔のよく行はれ得るやうな仕組になつて居る。鳥類の骨の中まで空氣の入つて居ることも、絶えず脱糞して一刻も腸内に不用の物を貯へて置かぬことも、尿が獸類に於ける如き多量の液體でなく、恰も練乳の如くに濃くして少量なることも、皆身を輕くするための方便に過ぎぬ。生殖器官もそれと同じく、なるべく身を輕くして、しかもなるべく完全な子の生まれるやうな手段が行はれ、卵生ではあるが、卵生中の特に發達したものとなり、他に比類のない大きな卵を生ずるに至つたのであらう。他の動物の卵が皆小さくて多くの場合には人に知られぬに反し、鳥の卵だけは太古から食用に供せられ、單に卵といへば直に鳥の卵と思はれるのも皆その瀆に大なるためであるが、その大なる理由は陸上の高等動物なる鳥類が安全に種族を繼續し得べき完全な雛を生ずるに足りるだけの多量の黄身を含むからである。

[やぶちゃん注:「卵を産むものの中にも例外として、胎生する種類の含まれて居ること」卵胎生。ウィキの「卵胎生(アカデミズム崇拝者のために後で平凡社「世界大百科事典」の記載を掲げておく)によれば、『卵胎生(らんたいせい、英語:ovoviviparity)とは、動物のメス親が、卵を胎内で孵化させて子を産む繁殖形態で』『哺乳類以外の動物は一般には卵を産むが(卵生)、魚類・爬虫類・貝類等の一部に卵胎生が見られる』。『卵胎生は、卵を胎内で孵化させるものを指す。 卵胎生では、子が利用する栄養は卵内のもの(卵黄)だけで、ガス交換以外には母体からの物質供給に依存しないのが原則である』。『魚類の多くは卵生で交尾をせず体外受精するが、魚類でも卵胎生の種の一部には体内受精の必要性から交尾・交接をし、オスの尻びれが交尾器・交接器として発達しているものがみられる』。以下、「進化と分類上での位置付け」の項。『卵胎生は、卵生から胎生への進化上の段階と考えることができ』、『卵生は比較的低コスト、卵胎生・胎生では子がより成長して、体が大きい等生き残りに有利な状態で生まれる傾向が強い』。『胎生は哺乳類の大きな特徴であるが、卵胎生・胎生は無脊椎動物を含む様々な生物種で見られる。これは平行進化と考えることができる』。『紀元前4世紀には、すでにアリストテレスが軟骨魚類が卵胎生であること等に注目して、他の魚類と別に分類していることは興味深い』。また、『海中での生活が卵胎生を生じる例があ』って、『現生の動物ではウミヘビにその例がある』とし、さらに『中生代の魚竜も卵胎生であったことが化石から知られている。なお首長竜は胎生であった事が二〇一一年になって実証されている』と記す。以下、「卵胎生か胎生か」という項。『あるものを卵胎生と呼ぶか胎生と呼ぶかは流動的で』、『魚類のサメやエイの一部・ハイランドカープ、ボア科など一部のヘビ等では臍帯・胎盤などの器官があり、母体から子へ栄養供給がある。これらは哺乳類と同じ胎生と捉えられている(真胎生とも呼ばれている)』。『また、胎内で孵化後に母体からの分泌液を子が経口摂取したり、胎児が無精卵や他の胎児を食べるものもある』。『このように卵胎生と胎生の間には様々な進化上の移行段階と見ることができる例が知られており、近年は、卵胎生と胎生は厳密に区別するべきものではないと考えられ始めている。これまで卵胎生ととらえてきた生物を、胎生と呼ぶように変わってきたケースもある』(下線やぶちゃん)とある。因みに私も、この最後の見解を強く支持するものである。

「ほしざめ」軟骨魚綱メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ(星鮫)Mustelus manazo 。和名は背部体表面に白い星状斑文があることによる。卵胎生で六月〜八月に排卵・交尾・受精が行われる。胎盤は形成されず、孵化後は卵黄を吸収しつつ、その後はの子宮内に分泌される子宮乳を摂取して育ち、受精後凡そ十ヶ月余りで体長二十三〜三十センチメートルに成長、翌年の四月から五月にかけて出産する(ここはしばしば御厄介になっている「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のホシザメ」を参照した)。なお、軟骨魚類には卵胎生が甚だ多く、必ずしも珍しくないので注意されたい。これを注してしまったので一応バランスが悪いので、例外的に後も注しておく。

「あかえい」軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ Dasyatis akajei 。卵胎生で、春から夏にかけて、浅海で五~十匹の稚魚を産む。出産直後の稚魚は体長十センチメートル程度で背も腹も一様に淡褐色を呈するが、体型は既に親と同じである(以上はウィキアカエイに拠る)。

「うみたなご」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ウミタナゴ科ウミタナゴ属ウミタナゴ亜種ウミタナゴ Ditrema temmincki temmincki(和名は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科タナゴ亜科タナゴ属 Acheilognathus の淡水魚であるタナゴ Acheilognathus melanogaster に魚体が似ることに由来するが、両種は近縁性の全くの種であるので注意)。以下、ウィキウミタナゴ」から引く(注記碁は省略した)。体長は二十センチメートル程度で、『北海道中部以南の日本各地の沿岸に生息する。胎生で春から初夏にかけて子供を産む』。『冬の防波堤での玉ウキ釣りの対象魚として親しまれている。漁港に係留してある漁船の下などに群れていることが多く、場所によっては魚影を見ることが出来』海辺近くの人にとっては馴染みの魚である。『胎生で増えることから、安産の「おまじない」として食べる地方もある一方、島根地方ではウミタナゴが子供を生む様を逆子が生まれてくるのに重ねて縁起が悪いともされている。身は淡白な白身で小骨が多い。塩焼きにされることが多いが、素揚げや煮物、刺身やなめろうにされることもある』。グーグル画像検索「ウミタナゴ 卵胎生をリンクしておく(魚を捌けない人は見ない方が無難)。

「まむし」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii 。卵胎生で、夏に交尾し、翌年の八~十月に一回で五~十五匹の幼蛇を、二~三年に一度のペースで産む(出産はの総排泄腔が用いられる)。参照したウィキの「ニホンマムシによれば、『言い伝えに、「マムシは口から子供を産む。だから、子が生まれる際に牙で子が傷つかぬよう、妊娠中のマムシは牙を折るために積極的に噛みつく」といったものがある。 しかし、毒蛇にとって牙は重要なもので、定期的に生え換わるようになっており、常にマムシは牙をもっている。もちろん、子が口から生まれてくるわけではないものの』、『他の動物全般に言えることだが、実際に妊娠中の個体は神経質になる傾向があり、「積極的に噛みつく」ということはあながちデマではない』とある。

「ありまき」昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科に属するアブラムシ科 Aphididae・カサアブラムシ科 Adelgidae・ネアブラムシ科 Phylloxeridae の仲間の総称。一般には「アブラムシ(油虫)」であるが、「アリマキ(蟻牧)」とも呼称する(私は前者が「ゴキブリ」類と認識一致しているため、生理的に後者の方がいい)。ウィキアブラムシの「生物的特徴」の項に、『春から夏にかけてはX染色体を2本持つ雌が卵胎生単為生殖により、自分と全く同じ、しかも既に胎内に子を宿している雌を産む。これにより短期間で爆発的にその数を増やし、宿主上に大きなコロニーを形成する。秋から冬にかけてはXO型、つまりX染色体の一本欠けた雄が発生し、卵生有性生殖を行う。卵は寒い冬を越し、暖かくなってから孵化する。このとき生まれるのは全て雌である。南方系の種には広域移動を行うものも知られ、』主に四月~六月に『東南アジア方面から気流に乗って飛来し野菜・果樹新芽の茎上や葉の表面・裏面に現れ始め』、九月から十一月には『野菜・果樹から移動し、その後、越冬せずに死滅する』と記す。

「たにし」腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称であるが、ウィキの「タニシ」によれば、本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)に四種が棲息する。タニシと卵胎生の様態については大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺の私の注で詳しく記したので、そちらを参照されたい。

個人サイト「鳥便り」の「卵生 胎生の鳥がいない訳」の頁に、脊椎動物の綱で鳥類に胎生の種が一種もいないことへの推論とそれへの反論が併置されていて、非常に勉強になる。また、最後にサイト主は、鳥類の場合、『体内で受精された卵は、何回かの卵割が進んでから産卵される』が、ここで厳密な分類基準として、『卵が産卵された後に発生を開始する場合を卵生』、『受精卵が発生を開始した後に産み出される場合を胎生と定義する』と――即ち、『卵割の開始をもって発生の開始』とする観点に立つならば(私、藪野はこれを大いに支持するものである)、『大多数の鳥類は、卵生とみえても、実は胎生とも言うこともできる』と記しておられる。平凡社の「世界大百科事典」の「卵胎生」にも実は(全文を引く。コンマを読点に代えた)、『動物の生殖の一型式。受精卵が母体内で孵化し、ある程度発生が進んだ胚を生む型式をいう。ただし狭義の胎生のように胚が母体からの栄養の補給を受けることはなく、みずからの卵黄を消費して発生を進める点で狭義の胎生と区別される。この型式をもつものとしては、マムシ、タニシ、グッピー、アリマキなどが有名である。なお体内で孵化はしないけれども、鳥類のように受精をしてのちある程度発生が進行してから産卵するものをも広義に卵胎生と呼ぶことがある』(下線やぶちゃん)とあるので、実はこの方の見解はすこぶる正当なものなのであった。まっこと、目から卵。]

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(1) 緒言

  第十三章 産卵と姙娠

 

 受精が體外で行はれる動物では、卵はまだ子とならぬ前に親の體から出で去るから、子が直に親から生まれるといふことはないが、精蟲が雌の體内に入り來る種類では、子の生涯はまづ母の體内で始まり、或る期限の後に生まれ出ることになる。この期限内の雌の狀態を姙娠と名づける。その長さは動物の種類によつて著しく違ひ、蠶の如くに數分に過ぎぬものもあれば、雞の如くに十數時間を經るものもあり、また牛・馬・人間などの如くに九箇月乃至一年に達するものもある。精蟲と卵細胞とが合しても、その大きさは卵細胞だけの時と少しも違はぬから、早く生まれるものでは、子は殆んど受精前の卵と同じ姿で生まれるが、長く母の體内に留まる類では、その間に子は絶えず發育變形して元の卵とは全く形狀の異なつたものとなつて世に現れる。通常卵のまゝで生まれるのを卵生といひ、親と同じ形を具へて生れるのを胎生と名づけて區別するが、卵生にも胎生にもさまざまな階段があつて、産まれた卵の殼の内に幼兒が十分に發育して居る場合もあれば、まだ親の形に似ない不完全な幼兒が裸で産み出されることもあるから、この区別は決して重要なものではない。たゞ普通に人の知つて居る動物の中で、獸類は悉く胎生し、鳥類は殘らず卵生するから、昔から特に人の注意を引いたのである。

[やぶちゃん注:「その長さは動物の種類によつて著しく違ひ」Thayer Watkins氏の妊娠期間および動物のスケール(機械翻訳らしい邦文頁)のデータによれば、

人間       266日

チンパンジー   227日

ゴリラ      257日

オランウータン  260日

ヒヒ       187日

牛        284日

バイソン     270日

アメリカヘラジカ 245日

ラマ       330日

ヤギ       150日

ヒツジ      148日

クマ       210日

オオカミ      64日

アジア象     645日

アフリカ象    640日

ライオン     108日

ヒョウ       94日

ブタ       114日

ウサギ       33日

とある。その他のサイトで追加しておくと、妊娠期間の最短は、

オポッサム     12日~14日/最短8日

とあり(オポッサム(opossum)は原始的な形態を保存する有袋類で、オーストラリアに多い同類の中では例外的に、北アメリカ大陸から南アメリカ大陸にかけて棲息している。獣亜綱後獣下綱有袋上目オポッサム目オポッサム科 Didelphidae に属し、七十種以上の種が含まれる。これは有袋類中、最多である。以上はウィキオポッサムに拠る)、次いで

ハムスター     14日~30日

辺りがくるらしい。他に、

イヌ        60日

バンダ       80日~200日

クジラ      350日

ともある。他の情報でもゾウが妊娠期間の最長例とあって、最も長い場合は二十八箇月とあるから、

ゾウ     最長840日

ということになる。

「蠶の如くに數分に過ぎぬ」但し、東京農工大学公式サイト内で見つけたカイコの受精生理を読むと、実際には交尾したカイコガの♂♀は、♂の外部生殖器にある確実な交尾を行うための鈎状の捕握器がなかなか外れずに交尾状態がずっと(三十から一時間以上)続くため、人為的に割愛(雌雄を捩って引き離す)さないと離れないとあることから、丘先生のそれは自然状態ではなく、養蚕に於いてその割愛を即座に行うと直ちに産卵がなされる事実観察に基づくものであるように思われる。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十四年 紀南

  

 昭和三十四年

  

 紀南

 

岬に土ありて藷づる引けば藷

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「藷」は「いも」、甘藷。サツマイモ。和歌山県東牟婁郡串本町の潮岬(しおのみさき)での藷掘りでの吟。本州最南端の串本町では温暖な気候を利用して古くから地元だけで消費されていた果肉が鮮やかな黄色でしっとりとした食感の非常に甘い薩摩芋が栽培されている(参照した後に示す和歌山県公式サイトの記載によれば、串本町には慶長二〇・元和元(一六一五)年に既に栽培していた記録があると記す。但し、ウィキサツマイモによれば、サツマイモがフィリピンから中国を経て宮古島に伝来したのが一六一〇年代初頭、その後沖繩本島(琉球王国)を経て本土の薩摩国種子島に伝わったのは元禄一一(一六九八)年三月、薩摩藩で「カライモ」と称して本格的に栽培されるようになったのは一七〇〇年代初頭とあるから、この古記録が正しいとすると、驚くべきことに、遙かその凡そ百年以前に恐らくは黒潮を伝って独自にサツマイモがこの地に齎されていたということになる)。「和歌山県」公式サイト内の「東牟婁地方の食材コレクション」によれば、近年、「なんたん蜜姫」(商標登録出願中)というブランド名で売り出されているとある。]

 

礁の道女藷担(か)く肩かへては

 

子の干柿口より享けて口濡れる

 

廃馬ならず花野に手綱ひきずつて

 

一摑み落葉を置けば水急ぐ

 

みな聳ちて冬山那智に聚まれる

 

冬山中いま暮る滝に会ひ得たり

 

滝凍てしめず落下すなほ落下す

 

全山の寒暮滝壺よりひろごる

 

冬の旅滝山に入り滝尊む

 

滝を神としとどろくものとし禰宜かがむ

 

冬滝の天ぽつかりと青を見す

 

滝山を出づる沖には冬白浪

 

  太地(たいぢ)

 

鯨割く血潮三和土に流れ難く

 

鯨の血蟹の行動さまたげず

 

冬潮にしづみて散らず鯨の血

 

鯨の血流れて海に入り沈む

 

海に生きし大鰭離す鯨より

 

閉ぢし眼の一文字雨の古鵙よ

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三三(一九五八)年十二月の条に、『新宮公民館俳句大会のため、紀南の旅に出かける。潮岬での藷掘り、那智の滝、太地では鯨を割くのを見る』とある。]

2015/07/10

(無題「全身に酒はしみゆき……」)   村山槐多

全身に酒はしみゆき

ぶどうの房のゆるるに似たる

美しき豐なる思ひみなぎり

われはうれしさに耐へがたし

 

酒杯を打ちて語れる

電の如くはげしき友よ

わが心ののどかさは

五月の野の如し

 

唇は甘味になれんとし

心は光のうちに消えんとす

何もなし何もなし

われは愚人となりて坐せり

 

ただ酒にもてあそばる

小鳥の舌の如く顫へて

またつかれに似たる

埒もなきうるはしの醉に、

 

林檎の水に沈むが如く

花の燃へ落つるが如く

美しき醉は次第に

われを抱きて沈む

 

酒杯を打ち眼を血走らせ

手負ひしが如く語る友よ

君の昂上をわれは遠きかなたより

打ながめほほ笑むを知らずや、

 

    ×

うるはしき少女よ

小鳥の樣に首打放り

花を求め繪をねだる

 

甘き風ましぐらに吹き

咲かんとして櫻はためらふ

 

さびしくわれは眼をあげて

この春のはじめの樣(さま)に

微笑をいざなはれぬ

 

    ×

岩の如くわれは坐せり

春の笛の鋭き吹奏は

風の如くわれを打てり

われは岩の如く打默す

 

苦がき曲がりたるわが心よ

春は羽根の如く空をとびて

われを笑はし躍らしめんとするに

岩の如く默してあり、

 

    ×

力を私はしまつておく

女が寶玉を祕藏する如く

 

時々私はそれを取り出す

それをみせびらかす

その美しい豪華な一ときを樂しむ

 

力のしまひ場所のある限り

その鍵のなくならぬ限り

私はこよなくも富んだ者である

 

その力は現世の最貴であり

そしていつでもとり出せるから

 

     ×

美しい血のうるほひよ

電車の中、路の上

いつまでもめつける事の出來る

人間の血のうるほひよ

 

このうるほひのある間

自分は世にも幸福である、

 

    ×

君ちやん

おれは眞劍だ

この眞劍さを知つて居て呉れ

おれは暴風の中の小鳥の樣に

そなたの前にをののいて居る。

 

    ×

眞紅の燈しびが白晝

少女の頰をてらし

雲は煮えたぎりし絹布の樣に輝やき

草木は美裝をこらし

家は鑛物の樣に立つて居る

 

牛は醉つて居るし犬は色情に狂ひ

人々はうたつて居る

 

自分は

酒も呑まず

煙草も喫はず

女にもふれぬ

と固く決心して眉を上げた、

 

そして紅く燃える綠の平原を

飛びゆく彈丸の樣に通過して

遠くへ逃げて行つた、

 

    ×

何をわれ作り出さんとする

このさびしさをもて

この光なき心をもて

われ何を作るべきか

ああ神よ

われは何物をつくるべく選ばれたるものなるか。

われにつくるべき物なし

されども何物をか作らんとする慾望身をやかんとす、

神よ、

わが道を明に啓示し給へ、

 

    ×

われは茫然とす、

眞に茫然とす、

長き放埓の後に

輕くめざめて、

 

何物もなかりき

しかり何物も、

 

    ×

二十才の女よ、美しい神秘な物、

黄色い果實のくだける樣な

何とも言へぬなやましさよ、

泣いたり笑つたりするのであらう、

それから甘へたりすねたり、

女よ、女よ、つんつんとしてその底には

淫婦の微笑をおしかくしたる、

充(み)ち切つた女よ、

君のわがまゝな選擇の中に私もとり上げられん事を

神に祈つて置かう。

 

    ×

耐へがたい

五月の空 夜の

點々と燈 川にうつり

涙に似たる 銀の星

空にふる

ああ、ああ、

わが靑春

あへなく 過ぎゆく。

 

    ×

紫の花、火に燒くるが如し

なまめかしき女の眼

執念深き蛇の血が薄く

そのまはりに汗ばみたり。

 

その眼は星の如く動きゆく

新富町の河岸を

その眼はじつと深き戰慄を射込んだ

私の春情になやむ心の底に、

 

    ×

美は火花なり

影、はやく、閃めき強し

 

その火花は

いまわが世界を轟かす

かのひとの面に、

かのひとのからだに、

 

戀は燃ゆ、爐の如く

君に、君に

君に、

 

    ×

ああわれをまどはし

ひきよせる美しの力

その危險性をよくしりたれども

いかで抗するを得んや

 

恐ろしきサイレンのうたよ

われは一切をなげうつとも

 

    ×

全身はしびれわななき

惡は滿ち溢る

 

ああ惡魔の血にかへられし

呪はしきわれ自らよ、

 

強き「美」の一たび飛び來りて

わが善き靈をよみがへらしめよ、

 

よみがへれ、よみがへれ

わが善き心。

 

 

[やぶちゃん注:本篇は無題である。「全集」は「全身に酒はしみゆき」と標題する。

「ぶどう」はママ。

「花の燃へ落つるが如く」の「燃へ」はママ。

「昂上」熟語としては「向上」に同じい。内田魯庵の「家庭の読書室」に『知識慾も精神上の昂上心も無い先生たちは一向不自由をしない』という用例がある。

「いつまでもめつける事の出來る」の「めつける」はママ。西日本の広範な方言としては一般的。私は鎌倉生まれで関東在住が長いが(中高の六年間は富山県高岡市伏木)「めっける」はしばしば用いる。

「君ちやん」不詳。女性ではあろう。

「家は鑛物の樣に立つて居る/牛は醉つて居るし犬は色情に狂ひ」この改行部分、底本では改頁であるが、明らかに一行分の空きが作られていることが視認出来る。「全集」は連続している。従わない。

「われにつくるべき物なし」改造文庫版(但し、抜粋)も同じ。ところが「全集」は「われにつくるべき物なり」とある。これでは詩句として繋がらない。明らかに「全集」の誤植である。

「君のわがまゝな選擇の中に私もとり上げられん事を」「全集」は「とり上げられる事を」となっている。不審。

「新富町の河岸」東京都中央区新富町であろう。東が月島、西が銀座、南が築地、北が八丁堀で、花街として賑わった。当時は松竹の経営に移った新富座もあった。osampo-ojisan氏のブログ「東京地形・湧水さんぽ」の第17回 新富町駅~月島駅には、『明治時代の地図を見ると、この入船橋交差点から八丁堀駅に続いている新大橋通りはかつて運河があり、新富河岸という舟入り場があったようだ。それゆえ、ここは入舩町と呼ばれたのだろう』ともあるが、果してこの時代にその河岸が残っていたかどうかまでは確認出来なかった。識者の御教授を乞うものである。]

無題(「わが靈は汚がされ終りぬ……」)   村山槐多

 

 

 

 千九百十七年(22

 

 

 

 

わが靈は汚がされ終りぬ、靑銅の磨かれし面を見る如き活き輝やき強く重みありしその靈は、いま女陰を蔽ふ布の如し。

餘りにわれ群集と交はることを好み、平俗の生活と接し、貴とき孤獨を忘れし事の報ひなり。

汚れし靈を元の姿に倍したる榮耀にかへせ、群集になれ親しみたる平安と薄笑とを、寒く、淋しく恐ろしき孤獨にかへせ。

恐ろしきダァクチエンヂをわれは構想す。恐ろしき新生をわれは思ふ、めざめ動き、立ち躍れ、わが破壞の本能よ。こはせ、突きやぶれ、すべてのわが世を。

わが情熱の冷えわが慾念の消えぬ閑に、ただ獨りわれ歩まん事を欲す。

狂人の如く。仙人の如く。

わが靈を救はん道は是れなり。

土より光にかへらん道は是なり。

 

       ×

自分は要するに夢想家であつた且またある事をつくづくと悟る、自分は常に自分の姿を觀みてその時の自分が過去の自分より衰へ退いて居る事を感じるそして常に自らを激せしめ反省せしめる爲には「元の自分にかへれ」と言ふ言葉を使つた。だが一體元の自らの姿とは何であらう。その正體は結句自分の弱き精神につらなり生じたる夢想でありのがれ場所であつたに過ぎぬ。

この事はこの頃になつて可成りはつきりと解つて來た、つまり自分が段々と獨りぽつちにはうり出されて來たのである。

自分は勇氣を要する。不完全極まる自己、卑しく醜くき自己の他に過去にも現在にも自分の所有物はないと云ふことを承認し得る勇氣だ。一切の虚榮と一切の傳説とを去つてただ一箇の立ちん坊として生れかへる勇氣だ。

過去の痛ましく醜くき行爲の連續は自分を可成り愚にした。是も前述の意味で感じるのだが自分は今自分の姿を省察し得るわづかの透明さをも心に失ひかけて居る。自分は街頭の行人とその歩を共にし然も恥づることなくなり掛けて居る。むしろなつて居る。

そして聰明であり強大であらうとする欲求を考へる事すらものうい樣な弱々しさ怠惰さを覺える。

自分はとりもなほさず輝やきあるこの世を失ひかけて居るのだ。

裸になつて自らを整理し新らしくやり出すべき時はこの時だ。自分はやらう。眞實にやらう。

自分は一切過去に逃げまい、現在の一つにかじり付かう。眞の評價僞らざる價格を以て自からを買はう。

自分の實感に強く正直である事、嬰兒の如くであらねばならぬ、このことは現世に於て實に難い事だ、しかしその難きことをやることは生命を眞に用ひ現世を味はう事だ。

自分はよほど今愚である、自分は今如上の決意をしつゝも、いづくに、如何なるスタートに、自分の足を付くべきかを知る事が出來ない、しかし愚なれば愚でよし。

自分は眼をつぶつて現在の自分そのまゝから出立するであらう。淋しく暗き思ひは自分を打つ自分はこの淋しく暗く影薄き所から歩み始めるのだ一切を考へず唯自分の實感にたよりそのなすがままに行かう。

自分の仕事が自然を征服すると云ふ大きな仕事であると云ふことを恐れさへしなければ、自分は必ず如何なる場合にも幸であらう。

自分より愚であり醜である人間中に居る時は自分は不快なだけにむしろ幸福である。

自分の山頂はその高さを增すばかりであるから。

物は明確でなくてはならぬが自分の欲する處は陰の點綴された明確さである。皮肉さではない情熱のこもつた「わかつて居て知らぬ」と云ふ所である。その「ばかさ」に自分は自分の藝術のねらひをつける。

 

       ×

われは大なる過ちに落ちたり。そが中に貴きタイムを浪費したり。われは卑しき女を戀しその低き階級を愛し自らを低く卑しくせん爲に力をつくしたり。

おろかにも笑ふべき過ちなりしかな。さればわれわが靈の汚れゆく悦びて高まる事を嫌ひたり。

心を暗くし愚にする爲に酒くらひたれど心を淸く輝やかす爲に書を讀まざりき。かくしてわれは汚らはしく哀れなものとなりさびしさと自棄とに追はれそめたり。われは今悟る。この過ちを逃がれ出でむと思ふ。

われは總て高きを慕ひ低きを卑しみ高きへ高きへと上るべし。われは哄笑を卑しみ沈默を愛すべし。

われはすぐれたものとなり。すぐれたる女を戀せん。

 

 

[やぶちゃん注:私は既にやぶちゃん版村山槐多散文詩集で「全集」版を電子化しているが、今回は初出「槐多の歌へる」版でゼロから再電子化した。本散文詩は無題である。「全集」では「散文詩」パートに「わが霊は汚がされ終りぬ」と題し、大正六(一九一七)年作として載せる。]

 

[やぶちゃん注:「消えぬ閑に」「閑」はママ。「全集」は「間」に訂する。誤植の可能性が高いが、敢えてママとする。

「觀みて」ママ。「全集」全く同じ。しかし、これは読めない。私はこれは「顧みて」の誤字か誤植ではあるまいかと疑っている。

「その正體は結句」この「結句」を「全集」は「結局」とする。従えない。

「この事はこの頃になつて可成りはつきりと解つて來た、つまり自分が段々と獨りぽつちにほうり出されて來たのである。」「ほうり」はママ。「全集」はこの文章を前段に繋げてしまっている(なお、「ほうり」は「はふり」に訂している)。

「卑しく醜くき自己」「全集」は「卑しき醜くき自己」とする。不審。

「そして聰明であり強大であらうとする欲求を考へる事すらものうい樣な弱々しさ怠惰さを覺える。」末尾の句点は底本にはないが、他と比して句点を打った。但し、この箇所には問題があって、この一行は底本の見開き右五二頁の最終行最終マスまで詰っている。そのために当時の組版上、句点が打てなかったのだとも思われるのであるが、私が問題とするのは、続く「自分はとりもなほさず……」以下が、果たして本当に改行された一行であるどうかという点にある。繋がったもの一段落であったとしてもおかしくはないからであるが、暫くは「全集」に従い、改行としておく(実は、この疑問は次行の「眞實にやらう。」と「自分は一切過去に逃げまい……」の箇所でも生じている。ここも暫く「全集」通り、改行とした)。

「自分より愚であり醜である人間中に居る時は自分は不快なだけにむしろ幸福である。」の頭の「自分」は底本では「分自」であるが、これは誤植と断じて、「自分」とした。無論、「全集」も「自分」である。

「おろかにも笑ふべき過ちなりしかな。さればわれわが靈の汚れゆく悦びて高まる事を嫌ひたり。」と「心を暗くし愚にする爲に酒くらひたれど心を淸く輝やかす爲に書を讀まざりき。かくしてわれは汚らはしく哀れなものとなりさびしさと自棄とに追はれそめたり。われは今悟る。この過ちを逃がれ出でむと思ふ。」も前に示した疑問(連続している可能性)が生ずる部分である。暫く「全集」に従う。

「われはすぐれたものとなり。すぐれたる女を戀せん。」「全集」は真ん中にある句点を除去して、詰めている。]

女と夜   村山槐多

  女と夜

 

女は泣く

女は泣く

鋭どく美しきその泣聲は

わが唇に近し

 

ああ君よ涙になやむ美しき君のおもてを

かく近く眼にするわれの

いかに幸福を極めたるかな今宵

 

されども女は泣く

女は嬉しきが如く哀しきが如く

わが貴き ENERGY の奔流の下に

聲をかぎりに泣く

 

痛ましくもまたうるはしきかなこの狂態

かくも美しき肉體をして叫ばしむるは

われにあらずや

 

    ×

躍りゆくさびしき者よ

多くの高きかきを越えて

躍りゆく強き者よ

いづこへと汝はゆく

 

美しき高き一箇の人

未曾有の怪物と

かくわれは汝の呼ばれん事を希ふ

數刻の後に

 

躍りゆけいづかたへなりと

うまずたゆまず躍りゆけ

高きかきけはしき地につまづくも

ただ微笑して起き上りとび越えよ

 

よきかなさびしき者よ

世に汚されぬ貴とき人

寶庫の扉に描かれし

金無垢の人物

 

     ×

「貧」の光背を負へるわれは

苦しくもいま道を歩めり

慘憺たる行程よ

野良犬にも劣りたるかな

 

されどもわが腦は

なほ金色に輝やけり

深き深き暗の奧に

輝がやきをひそめたり

 

大なる物の

さびしき生長よ

われは微笑しこの自らを見る

よきかなこの鈍牛よ

 

若きいのちをまきちらさん

大地の上へ

 

 

[やぶちゃん注:「鋭どく」「輝がやき」はママ。「かき」は「墻」であろう。本篇を以って大正五(一九一六)年の詩篇パートは終っている。]

(無題/「人々よ……」)   村山槐多

 

 

 

 千九百十六年(21

 

 

 

    ×

人々よ

わが惡しき凡庸を笑ふか

笑へ、嘲けれ

この惡しき遊惰が

如何なる健康を産むかを

われは心に數千の寶玉を貯はへ

身に黄金を裝ひて

汝等の前に現はるべし

必ず現はるべし

その時汝等の驚ろきは

わが知る所ならず

 

    ×

貧しくも光れ輝やけ

強きダイヤモンドの如く

靑く、赤く、黄いろく

とゞろきめぐるこの世に

 

血走りさわぐわが體に

靈こそはめざめたれ

めざめたれめざめたれ

曉の眼の如く

 

いざわれは光らん輝かん

かくて走らん自動車の如く

とくとく勇ましく

晝夜わかたず

 

    ×

ただ現在のみを愛せよ

現在によかれよと心はねがふ、

 

    ×

ダヌンチオの本を古本屋さんにわたすと

お禮に五十錢玉を呉れた、

ぴかぴか光る銀の五十錢を、

私は牛乳屋へ行つてあつい乳を呑ましてもらつた、

お禮に五錢やつた、

たばこ屋さんであさひを貨つたから十錢出した、

ふらふら歩いて居る内に乞食に五錢出した、

夕方に活動寫眞へ這入つたら

入口で美しいねいさんに十錢とられた、

出てなわのれんでごはんをたべて二十錢銀貨を出したら

二錢かへして呉れた、

二錢もつてかへつた、

二錢抱いて寢ちやつた、

 

    ×

なわのれんをくゞると

愛らしい女の子は私にごはんを

持つて來て呉れた

澤山たべておなかがふくれた

善い氣持さ

「おあしはいくらだい」と私が言ふと

その子がよせ算をしてくれる

「はい二十錢」

安い物だ、かちんと銀貨をやつた、

さあと立ち上つて外へ出ると

外は花の樣に晴れて居る

 

    ×

室をとび出て薔薇の樣な空の下に立ちどまり

「はていまゝで吸つてた卷たばこはどこへすてたかな」

と思へば氣になり出す

も一ペん室にもどつてあちこちさがせば

灰に半分なつたたばこめは

横になつた手鏡の上にのつて居た、

 

    ×

苦しめよ

一切の苦しみを味はへよ、

そは腐肉の鹽を吸ふ業なり

苦痛こそ汝の

ただ一箇の蘇生の道なり、

 

    ×

われは美しき若者と呼ばれ

光榮ある美術家と呼ばれん事を

強きギリシア的思想のもとに願ひ

そこに達せんと努むべし、

われはよき節制と

よき勤勉とに依りて

心に光を滿たし

身に輝きを添へん、

われは信實を貴とび

卑しき噓僞をにくまん、

われはいま此こにざんげす

過去の惡しき放埓の生活を、

しかして入る

嚴格なる眞の快樂の道に、

あゝ惡魔よ、われを去れ、

われを去れ、

 

 

[やぶちゃん注:本篇は無題である。「全集」は「人々よ」と題する。

「ねいさん」「なわのれん」(二箇所)はママ。

「ダヌンチオの本」「ダヌンチオ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダンヌンチオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキガブリエーレ・ダンヌンツィオに拠る)。彼の本(彼についての解説本ではなく)で槐多が読んだものを推定するなら、この三年前の大正二(一九一三)年に刊行されて爆発的な人気を博した生田長江訳の「死の勝利」(Il Trionfo della Morte 一八九四年作)ではないかと思われる。

最後から二つ目の連の冒頭「苦しめよ」の後には底本では、読点のような汚れのようなものが視認出来る。しかし、他の読点の箇所から明らかに下がっており、形もそれらの活字と異なっていて、しかも有意に滲んでいる。かなり迷ったが、汚れと判断して無視した。「全集」には打たれていない(今までも概ねそうだが、「全集」の句読点は底本初出とは全く異なり、明らかに編者によって〈殺菌〉整序されてしまっている。そのために本来の槐多の詩のリズムが完膚なきまでに把握出来なくなっていしまっていると私は大真面目に思っている)。

「噓僞」はママ。「全集」は「虚偽」とする。

「出てなわのれんでごはんをたべて二十錢銀貨を出したら」この一行は「全集」では、

   *

出てなわのれんでごはんをたべて

二十錢銀貨を出したら

   *

と改行されている。]

秋立つ 夢野久作 / (同改稿) 秋立ちぬ 夢野久作  (詩篇)

[やぶちゃん注:以下の最初のものは西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「秋立つ」という詩である。これは西原氏の解題によれば、大正一四(一九二五)年九月十日発行の『福岡』第一巻第一号に「海若藍平」(「かいじゃくらんぺい」と読む)名義で発表されたものである。

 本詩は四年後、「秋立ちぬ」と改題して若干の改稿が加えられて、昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩誌『加羅不禰(からふね)』第四号に再掲されており(恐らくは「夢野久作」名義か)、同じく西原氏の「夢野久作著作集 6」に所収する。それを「*  *  *」を挟んで、後に掲げておいた。]

 

  秋立つ

 

ある町のある夜更け

ある鍛治の槌の音

ふと冴えて

   秋立ちぬ

 

ある海のある魚のある一群のその一つ

ふと飛びて

   秋立ちぬ

 

ある空のある星座

ある星のひそやかに飛びうせて

   秋立ちぬ

 

ある夕べ

ある人のある思ひ

ふとせまり

涙落ち

   秋立ちぬ

 

 

   *  *  *

 

  秋立ちぬ

 

ある町の ある夜ふけ

ある鍛治の 鎚の音 ふと冴えて

             秋立ちぬ

 

ある海の ある魚の

ある群れの その一尾 ふと飛びて

             秋立ちぬ

 

ある空の ある星座

ある星の ひそやかに 飛び失せて

             秋立ちぬ

 

ある夕べ ある人の

ある思ひ フトせまり 涙落ち

             秋立ちぬ

祈る乙女 夢野久作 (歌曲歌詞)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「祈る乙女」という詩(歌曲歌詞)である。これは西原氏の解題によれば、前の「夏の夜」と同じく大正一三(一九二四)年九月三十一日発行の『月刊ふたば楽譜』第三十一・三十二合編号に「杉山泰道」名義で所収されたもので、横田三郎氏の譜面とともに載るとある(以下、夜」の私の冒頭注を参照のこと)。]

 

  祈る乙女

 

春の朝(あした)のうらゝな光りに

眞(まこと)に眞に手を合はすれば

ひらりひらり燕の群が

空の果から翻(ひるがへ)り來(きた)る

空の果から翻り來る

 

祈りて明し祈りて暮せば

いつか醒(め)ざむる乙女の心

眞(まこと)眞と輝き渡る

靑い涼しい若葉の世界に

靑い涼しい若葉の世界に

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(16) 五 縁組(Ⅳ) まとめ

Gorirakazoku

[『「ゴリラ」の家族』]

[やぶちゃん注:本図は底本では省略されていて存在しない(本底本の挿絵の省略は珍しい。最早、動物園で馴染みの知られたゴリラの図を載せる必要はないと考えたものか)ので、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものである。]

 

 これに反して獸類には一夫一婦のものは極めて稀で、「さい」の類が雌雄一對で生活するといふ話はあるが、これも眞僞の程が疑はしい。多くの場合では牝牡はたゞ交尾の時だけ相近づき、その他のときは別に生活して、子を育てることは牝ばかりでする。猫や犬はその例である。但し狐などは子が育つまでは牡も牝と一緒に居るが、子が相應な大きさまでに育つと牡は去つてしまふ。また牝牡が常に集まつて生活して居る種類ならば大概一夫多妻で、小鳥類に見る如き嚴重な一夫一婦の緣組は決してない。馬・牛・羊・鹿なども一疋の牡が多くの牝を率ゐ、「をつとせい」なども牡は體が遙に大きく、大抵一疋で二三十疋の牝を統御して居る。かやうな種類では生まれた子が成長しても組を離れぬので、老若、牝牡を交へた大きな群が生ずる。アフリカの平原にいる「しまうま」・「かもしか」類の大群や、アメリカの廣野にいた野牛の大群は、かくして成り立つたものである。猿類には數百匹の大群をなすものもあるが、普通の種類は十數疋乃至數十疋位づつが一團を造つて生活する。そして各團には必ず一疋の強い牡があつて絶對に權威を振ひ、その命に從はぬものは殘酷に罰し懲らす。その代り敵でも近づいたときには、この牡が獨り蹈み止まつて部下のものを安全に逃げ去らしめる。團中の牝は悉くこの一疋の牡の妻妾であつて、若しも他の若い牡が牝に近づきでもすれば、殆ど死ぬ程の目に遇はされる。すべての牝は常に努めて團長の機嫌を取り、果物などを持つて來て捧げ、團長は威張つてこれを食ひながら兩手で左右に一疋づつ牝を抱へたりしてゐる。即ちこの牡は牙と勇氣との實力によつて、他から犯すことのできぬ位置を保つて居るのである。猩々などの如き人間に近い大きな猿は常に小さな家族を成して、親と子とが一處に生活して居るが、これも決して嚴重な一夫一婦ではないらしい。

[やぶちゃん注:「獸類には一夫一婦のものは極めて稀」哺乳類の中で一夫一婦制を採っているのは全体の三%と極めて低い。調べて見ると、生態学的に一夫一婦制を採っていると認識されているものは、類人猿ではサル目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属 Hylobates のテナガザル類、他の名の知れているものでは食肉(ネコ)目イヌ科イヌ亜科イヌ属コヨーテ Canis latrans、イヌ科タヌキNyctereutes procyonoides(五亜種有り)、ウマ目バク科バク属マレーバク Tapirus indicus などがいる。ペット・サイト「PECO」の「愛する伴侶と一生を共にする…一夫一妻制の動物を集めてみました」も参照されたい。

『「さい」の類が雌雄一對で生活するといふ話はあるが、これも眞僞の程が疑はしい』現在の記載ではサイが一夫一婦制であるという記述は見当たらない。

『「をつとせい」なども牡は體が遙に大きく、大抵一疋で二三十疋の牝を統御して居る』これはあたかも♂の方が♀よりも有意に大型である性的二型と一夫多妻が密接に連関しているかのように書かれてあるが、現在の生物学及び生態学の知見では性的二型は寧ろ、本来は一夫一婦制を支持する生態形態であると考えられているようであるから、この丘先生の叙述は少しおかしい(後の注のオランウータン研究者久世濃子サイトの「Q and A」の「オランウータンは一夫多妻ですか?」の記載冒頭を参照されたい)。

「かもしか」とあるが、アフリカとあり、改訂版では「羚羊」と書き換えられているので、これは現在のウシ目ウシ亜目ウシ科 Bovidae のレウヨウ或いはアンテロープ(Antelopeのことである。ウィキの「レイヨウ」によれば、『ウシ科の大部分の種を含むグループ。分類学的にはおおよそ、ウシ科からウシ族とヤギ亜科を除いた残りに相当し、ウシ科の』約百三十種のうち約九十種がこのグループに含まれ、かく呼称されるが、「レイヨウ」は正規の生物学的な分類群ではなく、「レイヨウ」『と呼ばれる生物は、ウシ科の多くの亜科(ヤギ亜科以外の全て)に分かれて存在する。多くはレイヨウ同士より、それぞれがウシかヤギにより近い関係にある。多くの異なる種があり、大きさも、小型のものから非常に大型化する種まで、さまざまである』。『古くは「カモシカ」と呼ばれることもあった。「カモシカのような足」というときの「カモシカ」は、本来はレイヨウのことである。しかし現在でいうカモシカはヤギ亜科に含まれ、レイヨウには含まれない』。『なお、レイヨウの亜科のひとつにアンテロープ亜科(ブラックバック亜科)があるが、このアンテロープはAntelopeではなく、模式のブラックバック属 Antilope のことである。アンテロープ亜科はアンテロープの中の1亜科であり、オリックス、インパラなど代表的なレイヨウの多くが別亜科である』(下線やぶちゃん)。……「かもしか」のような肢の「かもしか」は「羚羊」で「カモシカ」でなく「カモシカ」は「レイヨウ」でないし、「アンテロープ」亜科の「アンティロープ」は「アンテロープ」でない……落語みたような話である。

「アメリカの廣野にいた野牛」アメリカ合衆国中西部からカナダ西部に棲息するウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科バイソン属アメリカバイソン Bison bison 。丘先生が「いた」とという過去形を用いているのは、乱獲と保護政策をとらなかった結果、十九世紀末には個体数が約七百五十頭にまで激減していたからである(本書初版は大正五(一九一六)年)。現在は保護策によって北米全域で約三十六万頭にまで回復している(以上はウィキアメリカバイソンに拠った)。

「猩々などの如き人間に近い大きな猿は常に小さな家族を成して、親と子とが一處に生活して居るが、これも決して嚴重な一夫一婦ではないらしい」「猩々」はインドネシア(スマトラ島北部及びボルネオ島)・マレーシア(ボルネオ島)に棲息する霊長目ヒト上科ヒト科オランウータン亜科オランウータン属 Pongo を指す(現在はボルネオオランウータン Pongo pygmaeus とスマトラオランウータン Pongo abelii の二種とする見方が有力。かつては後者は前者の亜種扱いとされた)。オランウータン研究者久世濃子サイトの「Q and A」の「オランウータンは一夫多妻ですか?」によれば、元来は一夫一婦制であったと思われるが、現在は実質的には乱婚形式を採っていると考えられる、とある。丘先生はここに本来はオランウータンの家族画像を入れたかったのであろうが、適当なものが見当たらず、ヒト科ゴリラ属 Gorilla の家族の挿絵を入れられたものと推察する。]

 

 このやうに鳥類には一夫一婦のものが頗る多いに反し、獸類の方は大概一夫多妻であるのはなぜかといふに、これは恐らく子を育てるに當つて、兩親が同樣の役を務めるか否かに關係することであらう。鳥類は卵生であるから卵を産んだ後は雌も雄と同樣に身が輕く、卵を温めるにも雛を育てるにも、雌雄が同じ仕事をすることが出來るが、獸類は胎生であつて、長い間胎内に兒を養ふことも、生まれ出た兒を乳汁で育てることも、皆雌の獨占事業であるから、雄は別に世話のしやうもない。鳥類では壞れ易い卵を安全に温めるための巣を造るにも、速く成長する雛に十分の餌を與へるにも、雌雄二疋が力を協せてこれに從事することが種族維持の目的に最も適するから、自然に一夫一婦の定が生じ、獸類の方では形の具はつて生まれた子に、雌が乳を吞ませさへすれば種族維持の見込みが立つから、雄はたゞ子の育つ間、敵に對して雌と子とを護るものがあるに過ぎぬのであらう。

[やぶちゃん注:以上を以って「第十二章 戀愛」は終了する。]

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(15) 五 縁組(Ⅲ) 鳥類 /やぶちゃん附 フタゴムシ

 以上はいづれも他の動物の體内に寄生する下等の蟲類であるから、その雌雄が一生涯相離れずに居るのも、たゞ種族を繼續するために受精を確實にする手段に過ぎぬが、鳥類・獸類の如き高等な動物になると、別に他の原因から、雌雄の緣組を定めて長く同棲する必要が生ずる。即ちこれらの動物は子を産み放しにしては、種族繼續の見込みが立たぬから、産んでから後暫くこれを保護し養育せねばならぬが、子を保護し養育するには、兩親が力を協せてこれに從事することが最も有効な場合も生ずる。子を育てる鳥類や獸類の中には一夫多妻のものもあり、雌のみが子の世話をし雄は一向に構はぬやうなものもあるが、種類によつては嚴重に一夫一婦で生涯一處に暮す者も決して少くない。小鳥類を飼うた人はよく知つて居る通り、卵を温めるにも雌雄が交代し、雛が孵つてからも兩親でこれに餌を運ぶやうな種類は幾らもある。一體鳥類にはかやうなものが多く、「きじ」・雞の類を除けば、その他燕・鳩・「がん」・「かも」・「はくてう」・鶴などいづれも皆一夫一婦で子を育てる。鷲・鷹なども一夫一婦で生活し、生殖の外の仕事にも常に力を協せて働く。例へば餌を取るに當つても共同することが多い。

[やぶちゃん注:「雌雄が一生涯相離れずに居る」丘先生は例示していないが、実は一生涯交尾し続ける凄絶な生物が他にもいる。この現象を文字通り、れっきとした生物学用語で「終生交尾」というのであるが、その生物とは、その名も「フタゴムシ」と言い、扁形動物門単生綱多後吸盤目に属する種で、コイ・フナに寄生するフタゴムシDiplozoon nipponicum及びウグイ属に寄生する同種の仲間Diplozoon sp.の二種が本邦での棲息報告例としてある。雌雄同体で、彼等は当該魚類の鰓に寄生して吸血している、やはり所謂、寄生虫である(本種による寄生魚類の貧血症が水産関係の論文に発表されているのも確認した)。このせいぶつについては、筒井康隆の「私説博物誌」(昭和五五(一九八〇)年新潮文庫刊)に所収している(筒井は「多後口目」と記載するがこれは旧称と思われる)。以下、筒井の記述を引用する(これについては実は私は古いブログ記事(二〇〇七年一〇月七日)驚異終生交尾のフタゴムシ(「和漢三才圖會」注記訂正)で既に書いている。これもそれを幾分、整序したものである。因みに、この記事は私のブログ・アクセスのランキング特異点で常にベスト三十内(本日只今の私のブログ記事数は一万七百件である)を維持し続けている。ヤフーもグーグルも「フタゴムシ」で検索するとトップ・ページにこの私の記事が出るから、一生コイツスというのはサスガに印象モーレツ、大人気であることが分かる。お蔭で私のブログもアクセスが順調に増え続けるという、双子虫大明神さまさまなんである)。

   《引用開始》

幼虫は、卵からかえった時は、〇・二五ミリくらいの大きさで、水の中を泳いで魚の鰓にたどりつく。もし、一〇時間以内にたどりつかないと、そのまま死んでしまうそうだ。鰓に寄生した幼虫は成長して、一ミリぐらいの大きさになる。これはデボルバと呼ばれ、以前はフタゴムシとは別の種類の寄生虫であろうと思われていたらしい。

 この虫には雌雄の区別はなく、同じからだをしている。生殖器が成熟すると、二匹の虫が互いにからだをねじってカットのような[やぶちゃん注:図(カット)を指すが、著作権上の問題から省略する。その代わり、以下の滋賀県立大学環境科学部環境生態学科浦部美佐子氏の「寄生虫フォトアルバム」のページの中段の鮮やかなDiplozoon sp.を参照されたい。そこには『目黒寄生虫館のシンボルマークになっている虫です』とあるが、実際、そのフォルムは何だか不思議に愛らしいのである。]状態になり、くっつきあう。それぞれが背中に小さな突起と、腹に吸盤を持っているので、吸盤で相手の突起をしっかりとつかんでしまうのだ。その恰好のまま一生、といってもたったの一ヶ月あまりであるが、魚の鰓に吸着して生き続けるのである。なぜそんないやらしい恰好のままでと不思議に思い、二、三の本を読んでみたが理由は書かれていない。相手にめぐりあう機会が少ないからではないかと思って父に訊(たず)ねてみたが、そうではあるまいということである。ど助平だからというのでもないらしい。つまりセックスが好きで好きでしかたがないからやり続けているのではないのだ。そういうみっともない状態でいることが生きのびる上に欠かせないからである。というのはこのフタゴムシ、二匹をはなすと死んでしまうのである。いわば命がけで相手にしがみついているというわけだ。

   《引用終了》

この引用部の後は、例の筒井独特の人間の男女が常に交尾しているというSFショートショート風のおとぼけエッセイとなるのであるが、どうして以上の生物学的記載は頗る真面目なのである。何てったって、彼の父君は本書の「あとがき」で「あの」日高敏隆(!)が逢うやビビって学者としての自信をなくしたと記すほどの、元大阪天王寺動物園園長でもあった京大動物学教室出身の動物学者筒井嘉隆氏なのである。

「子を育てる鳥類」「には」「種類によつては嚴重に一夫一婦で生涯一處に暮す者も決して少くない」ウィキの「類」によれば(注記号を省略した。下線やぶちゃん)、鳥類の種の九十五%は『社会的に一夫一婦である。これらの種のつがいは、最低でもその繁殖期の間か、場合によっては数年ないし配偶者が死ぬまで続く。一夫一婦は、雄による世話および両親による子育てが可能となり、雌が育雛(いくすう)の成功のために雄の手助けが必要である種にとってきわめて重要である』。但し、『多くの社会的に一夫一婦である種において、配偶者以外との交尾(婚外関係)は一般的で』もある。『雌にとって、婚外交尾による利点は、その子により良い遺伝子を得られることや、配偶者による不妊の可能性に対して保険をかけることなどがある。婚外交尾に関わった種の雄は、かれらの作った子の親子関係を裏付けるために、その相手をしっかりと保護する』。無論、種によっては『一夫多妻、一妻多夫、複婚、それに乱婚(多夫多妻)もある。複婚の一種である一夫多妻の配偶システムは、雌が雄の手助けなしで哺育を行うことができる場合に生ずる。なかには環境に応じてさまざまな配偶システムを採用する種もある』とあり、また『同性愛の行動は、数多くの鳥類の種の雄または雌で観察されており、これには交尾、つがいの形成、雛の共同哺育などがある』ともある。]

2015/07/09

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(14) 五 縁組(Ⅱ) 気管開嘴虫

Kikankaisityu

[雞の寄生蟲]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものである。底本の図より細部が観察出来るのでこちらを採用した。]
 
 
 また雞類の氣管に寄生して一種の病氣を起す蛔蟲に似た寄生蟲があるが、この蟲は雌雄交接したまゝでい一生涯離れることがない。雌の生殖器の開く孔は腹面の中程にあり、雄の生殖器は體の後端に開いて居るから、二疋交接すると恰も丁の字の如くになる。しかも交接したまゝで離れることがないから雌雄の體は相接觸する處で癒著して、強ひてこれを離さうとすればその部が破れる。この蟲は雌の産卵する孔が雄のために塞がれて居るから、卵を産むことができず、卵は雌の體内で發育し、後に親の體を破つて自分で生まれ出るのである。片山病の寄生蟲に比して、この蟲の方が雌雄の關係がさらに親密である。

[やぶちゃん注:ここに記された寄生虫については鳥類の寄生虫ということで、邦文のネット記載が乏しく、同定にやや手間取った。知られたニワトリの養鶏業で嫌われる寄生虫には線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫目盲腸虫上科ニワトリ回虫科 Ascaridia 属ニワトリカイチュウ(鶏回虫)Ascaridia galli がいるが、ウィキの「鶏回虫」の記載を見るとニワトリ・シチメンチョウ・クジャクの小腸、稀れに盲腸や胃に寄生するとあって寄生部位が合わないし、何より、標本写真を見ても、これは普通にまんまの回虫であって丘先生の示されるような特異な形状で♂♀など合体したものが一つも見当たらない。そこで、獣医学のニワトリの寄生虫病及び養鶏関係の専門論文等を片っ端からダウンロードして縦覧したところ、「気管開嘴虫(きかんかいしちゅう)」という寄生虫名に目が止まった。獣医学辞典の引用記載を、とある頁で発見、そこには『開嘴虫科に属する線虫で、水禽以外の鳥類、特に鶉鶏目と燕雀目の気管に寄生し、鶏、七面鳥、キジ、ホロホロ鳥などにみられる。虫体は気管または気管支粘膜に鉤着し、肉芽性炎症、気管の閉塞や狭窄、気管支肺炎などを起こし、幼雛での死亡率が高い』とあった。そこで、今度はこの「気管開嘴虫 学名」で検索をかけて見たところ、数少ないヒットの中に遂に「Syngamus trachea」という学名を見出した。そこで次に、これが本記載の当該種であるかどうかを確かめるためにグーグル画像検索Syngamus tracheaをかけてみたところ、ドンピシャリ! 丘先生が「二疋交接すると恰も丁の字の如くになる」と言う、挿絵にある図とクリソツな画像が原色で強烈に並んだ!(気管解剖カラー写真も含まれているので相当に激烈であるから、リンクのクリックはくれぐれも自己責任で!) 後は国立遺伝学研究所学名検索ウィキ線形動物によってこれが、

線形動物門 Nematoda 双腺綱 Secernentea 桿線虫亜綱 Rhabditia エンチュウ(円虫)目 Strongylida Syngamidae Syngamus 属キカンカイシチュウ(気管開嘴虫) Syngamus trachea

であることを突き止め得た(以上は上位をタクソンはウィキ線形動物の旧来の分類で示した。分子系統解析によって再編されている暫定的なものはウィキ線形動物を参照されたい。国立遺伝学研究所の学名検索とは一部に異同が見られるが、恐らくは分類再編の関係と思われる、因みに、声を大にして言いたいが、アカデミズム絶対信望の輩が鼻でせせら笑って馬鹿にするウィキだがね、国立遺伝学研究所学名検索をあんた、見て御覧な! それぞれのタクソンの後ろには、ほれ! 英文の当該ウィキへのリンクが張られてるんだぜ! ハッハッハ!)。英語では“Gapeworm”(ゲィプワーム)という。“gape”には英和辞典でちゃんと「開嘴虫症」という意味が載っていたが、この単語はこれ、もともとが「口をぽかんと開ける」という動詞で、この寄生虫症によって鶏が嘴(くちばし)を開けて死ぬことに由来するとある(!)。英文ウィキ“Gapeworm”をリンクしておく(これも解剖写真が附されているので自己責任)。抵抗なく見られる確かなSyngamus trachea の模式図としてロシア語サイトをリンクさせておこう。どうです? 間違いないでしょう?]

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(13) 五 縁組(Ⅰ) 日本住血吸虫

   五 緣組

Nihonjyuuketukyutyu

[片山病原蟲]

 

 動物の中には、どの雄とどの雌との間にでも定なく交接の行はれるものもあれば、生殖期間だけ一疋の雄と一疋の雌とが共同生活をするものもあり、また互に相手を定めて生涯一夫一婦で暮らすものもある。これには皆それぞれ理由のあることで、いづれの場合でも必ずその種族の維持に差し支へのないだけのことが行はれて居る。即ち甲の種類には夫婦の定があり、乙の種類にはその定がないのも、たゞ同じ目的のために異なつた手段が用ゐられて居るといふに過ぎぬ。偕老同穴といふ海綿の内部には、必ず雌雄一對の「えび」が居て、この「えび」は死ぬまで相離れることがないとは、既に前に述べた所であるが、これに類する他の例を擧げて見るに、我が國に近頃有名な地方病を起こす寄生蟲がある。もと岡山・廣島兩縣の境に近い片山村といふ處で最も盛であつたために、片山病といふ名が附いたが、その病原は、「ヂストマ」に類する一種の寄生蟲で、常に血管内の血液の中に生活する。他の「ヂストマ」類と違うて、この蟲は雌雄異體であり、雄は幾分か扁たいが雌はまるで絲のやうに細長い。そして雄は腹面を内にして體を管狀に卷き、その中に常に雌を抱いて居る有樣は恰も「有平」を心にした卷き煎餅の如くである。雌雄ともに腹面の前端に口があり、その後に吸盤があるが、雄と雌とは腹と腹とを向け合せ、口と口とで互に吸ひ著き、雄は雌を抱きかゝへたまま決して離れぬやうにして、死ぬまで血液の中に漂うて居る。偕老同穴の「えび」は同じ部屋の内に一生同棲して決して遠くへ離れぬといふだけであるが、片山病の寄生蟲は雄が日夜雌を抱いたまゝ一刻も離さぬから、この方が親密の度が遙に深い。

[やぶちゃん注:『偕老同穴といふ海綿の内部には、必ず雌雄一對の「えび」が居て、この「えび」は死ぬまで相離れることがない』第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(7)を参照。

「片山村」旧広島県深安郡旧神辺町片山地区。現在は福山市神辺町大字川南。高屋川の左岸(南)附近。

「片山病」扁形動物門吸虫綱二生吸虫亜綱有壁吸虫目住血吸虫科住血吸虫属ニホンジュウケツキュウチュウ Schistosoma japonicum がヒトに寄生(通常は経皮感染による)することによって発症する寄生虫病(人獣共通感染症)である日本住血吸虫症(かつての他の流行地であった山梨県甲府盆地に於いては固有病名として「地方病」、佐賀県筑後川流域では「佐賀流行病」などと呼称され、さらに古く江戸以前には「水腫脹満(すいしゅちょうまん)」「腹張(はらっぱ)り」「積聚(しゃくじゅ)の脹満(ちょうまん)」などと記されてある。但し、最初に述べておくが、本感染症は日本国内では一九七六年以来、新感染者はおらず、二〇〇〇年までに撲滅されている)。ウィキ地方病日本住血吸虫症(この記事はウィキの中でも「秀逸な記事」に選ばれた優れた記載である)によれば、このニホンジュウケツキュウチュウ Schistosoma japonicum は淡水産巻貝の腹足綱盤足目リソツボ上科イツマデガイ科オンコメラニア属 Oncomelaniaミヤイリガイ(宮入貝/別名・カタヤマガイ)Oncomelania hupensis nosophoraを『中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生』することによって感染・発症するものである。その症状はウィキ日本住血吸虫によれば、『まずセルカリアが侵入した皮膚部位に皮膚炎が起こる。次いで急性症状として、感冒様の症状が現れ、肝脾腫を認める場合もある。慢性期には虫が腸壁に産卵することから、発熱に加え腹痛、下痢といった消化器症状が現れる。好酸球増多も認められる。虫卵は血流に乗って様々な部位に運ばれ周囲に肉芽腫を形成するが、特に肝臓と脳における炎症が問題になり、肝硬変が顕著な例では、身動きができないほどの腹水がたまる症状が出て、死に至る』。『このように日本住血吸虫が重篤な症状を引き起こすのは、成体が腸の細血管で産卵した卵の一部が血流に乗って流出し、肝臓や脳の血管を塞栓することによるところが大きい』とある。両ウィキの他にも、「日本獣医師会」公式サイト内の佐藤秀夫氏の日本住血吸虫病(片山病)の終息と広島県の取り組みもコンパクトにまとめられた片山病の記載として必読である。

『この蟲は雌雄異體であり、雄は幾分か扁たいが雌はまるで絲のやうに細長い。そして雄は腹面を内にして體を管狀に卷き、その中に常に雌を抱いて居る有樣は恰も「有平」を心にした卷き煎餅の如くである。雌雄ともに腹面の前端に口があり、その後に吸盤があるが、雄と雌とは腹と腹とを向け合せ、口と口とで互に吸ひ著き、雄は雌を抱きかゝへたまま決して離れぬやうにして、死ぬまで血液の中に漂うて居る』ウィキ日本住血吸虫によれば、ニホンジュウケツキュウチュウ Schistosoma japonicum は『紐状の形の、細長い吸虫。雌雄異体で、雌は黒褐色で細長く、雄は雌よりも淡い色で太くて短い。雄の腹面には抱雌管と呼ばれる溝があり、ここに雌がはさみこまれるようにして、常に雌雄一体になって生活する』。体長は雄が九~十八ミリメートル、雌が十五~二十五ミリメートルで、『ヒトを含む哺乳類の血管(門脈)内に寄生し、赤血球を栄養源にする』とある(グーグル画像検索Schistosoma japonicumをリンクしておく)。「有平」は有平糖(あるへいとう)のこと。白砂糖と水飴を煮つめて練り棒状としたり、花・鳥・魚など種々の形に作って彩色した砂糖菓子の一種。室町末期にヨーロッパから伝来したもので、現在は主に祝儀・供物用に用いられる。

「ヂストマ」本邦では扁形動物門 Platyhelminthes 吸虫綱 Trematoda に属する生物を広く「ジストマ」「二口虫」と呼んできた。これは本吸虫類に特徴的な主に対象に張りつくために備わっている二つの吸盤(口吸盤と腹吸盤)の両方を、古くは口と見誤って、「di」(二)+「stoma」(口)と呼称したことに由来するが、英語の“Distoma”(ジストマ)は二生吸虫亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫(カンテツ)亜科カンテツ(肝蛭)Fasciola hepatica に代表されるカンテツ類のみを限定的に指すので、現行では広汎名としての和称の「ジストマ」は使用しない方がよい。]

ある美少年に贈る書   村山槐多

  ある美少年に贈る書

 

君よかくの如く、

また君に書を贈る者を君はよく知つて居るだらう

彼は惡鬼だ。無力を裝ふに豪惡のマスクを以てし肉を裝ふに靈を以てし絶えず劣惡な繪畫を描いて居る怪物だ。彼がもう二三年來君をつけ覗つて居ることは君がよく承認する處だろうと思ふ

君はそれに對して如何なる感じを持つて居るか恐らく君の心には或る一種不可思議なる恐喝を感じて居るに相違ない。事實恐喝が續いた

西の都にありし日の事の回想がこの怪物をして醜惡なる微笑に耽らせるに足る

中學校の教室から君に手渡されたラブレター

あの時君は恐ろしく赤くなつた君の昂奮が「恐れ」に關連して居た事を察するに難くない。それから夜毎に乞食の樣ななりをした(いつでもそうだ)かの怪物が君の家のまはりをうろつき始めた彼は近衞坂と呼ぶ君の家の横の坂を上つたり下つたりした

君は確かにその姿を二三度見つけたに相違ない

それから二三度續いたラブレタァ、怪物が京都を去つて災害が漸やく去つたと思ふと再びラブレタァの連續遂に君は返事を書いたね

怪物が泣いて嬉しがつたのを知つて居るか、

ああ其後一年は過ぎた。無難にそして君は東京へやつて來た五月の或る美しい夜君は再び怪物の襲來を受けた始めて二人が打解けて話をしたのだ

君はこの怪物が柄になく美しいナイーブな思を有つて居ることを發見した事と思ふすくなくとも或安堵を得たことと思ふそうありたいと怪物は村山槐多は願つて居るのだ、彼の戀は未だ連續して居るから。彼は君の美に死ぬまで執着して居る

彼はすつぽんだブルドツグだ君から彼を離すには君は彼に君の「美」を與へるの他はない

君はこの怪物に君を飽きるまで眺めさせなければならない彼が君を口説いたらう

「肖像畫をかゝして呉れ」と

それがとりも直さず彼の戀の言葉なのだ

ああ世にも不運なる君よ

君は恐るべき怪物につかれた彼は君にとりついたが最後君から彼は美を吸ひとらずには居ぬ

彼は「美を吸ふ惡魔」だ

永遠に生命の限り彼は君につきまとひ君が空になるまで君の美を追求せずには居ぬのであろう

君がそれを憎みそれを厭ふ事はこの怪物にとつて何等の痛みでもない

この怪物は無神經だ

センチメンタル。なき意志のみで出來た人間だから以上の不貞腐れを君に贈る

  一九一五年五月

                  怪物より

 

 

[やぶちゃん注:私は既にやぶちゃん版村山槐多散文詩集で「全集」版を電子化しているが、今回は初出「槐多の歌へる」版でゼロから再電子化した。
 
「君がよく承認する處だろうと思ふ」の「だろう」はママ。

「回想」は底本の用字。

「近衞坂」既注。これによって本詩が槐多の愛した美少年、京都府立第一中学校の一級下の稲生澯(きよし)であることがはっきりする。前掲の紫の微塵 村山槐多を参照されたい。なお、槐多の稲生へのラブレターは「全集」には載らないが、三重県立美術館蔵の、ピンク色の紙に認められたステキなそれを、『芸術新潮』一九九七年三月号の「特集 村山槐多の詩」の見開き頁の巨大な画像で読むことが出来る。近い将来、電子テクスト化しようと思っている。

「(いつでもそうだ)」ママ。

「そうありたいと」ママ。

「執着して居る」「全集」は「執着してゐる」。不審。

「美を吸ふ惡魔」「全集」は「美を吸う惡魔」。「全集」の誤植か校正洩れと思われる。

「居ぬのであろう」ママ。

「それを厭ふ事」「全集」は「美を吸う惡魔」。「全集」の誤植か校正洩れと思われる。

「センチメンタル。なき」句点はママ。「全集」では除去されて「センチメンタルなき」と問題なく読めるようになっている。それ(句点トルツメ)でよいと思うが、敢えてママとした。]

製作と感想   村山槐多

  製作と感想

 

俺は描いてゐる。大きなカンヷスをつかまへて俺は素描をし終つた。

その素描にはまだまだ下の世の空氣が、俗人の影響が微笑して居た。

が俺はかう言ふことが出來た。

「はづかしくない事を俺はした」と。

そこには俺の眞實の眼が作用して居た、それが○○の習慣に勞れ、煙草のもたらす眩暈になやむ俺の眼であつたにしろ、俺は眞實を描いた、

見える所を描いた。

そこで俺は色彩にかからんとして居る。

俺はやはり俺の眞實を語らう、

俺は時として火炎の如く高まる俺の○○の力を以つて、

俺のカンヷスに色彩をほどこそう、

火とダイヤモンドとの壯麗な畫面を形作らう、

そしてそこには俺の強い未來を暗示しやう、

過去の頽廢(デガダンス)が素描を形成した、

が健康なる未來が色彩を閃(ひら)めかすであらう。

ああ、このカンヷスの完成は

天才誕生の美しい曙だ、

見よ、日本全土の幸福を。

俺はこゝに製作しつつある。

 

靜かに沈默して

そしてひとりただひとり

俺の製作をつづけやう。

一切の俗衆を離れて

聖者の樣に描かう。

 

 

[やぶちゃん注:「ほどこそう」「暗示しやう」「つづけやう」はママ。

伏字については「全集」では注でそれぞれを以下の文字に山本太郎氏が推定復元している。行ごと推定復元したものを示す。

   *

そこには俺の眞實の眼が作用して居た、それが自瀆の習慣に勞れ、煙草のもたらす眩暈になやむ俺の眼であつたにしろ、俺は眞實を描いた、

   *

俺は時として火炎の如く高まる俺の魔羅の力を以つて、

   *

私はこの山本氏の推定復元案に支持・不支持をするだけの知見は持たない、とだけ言っておく。

「頽廢(デガダンス)」「デガダンス」は「頽廢」のルビ。「全集」は「デカダンス」とするが、拡大してみるとほぼ間違いなく「デガダンス」と濁点が打たれていると私は見る。

「靜かに沈默して」底本は「沈默」が「波默」であるが、これは誤字或いは誤植と断じ、かくした。「全集」も無論、「沈默」となっている。]

空飛ぶ吾   村山槐多

 
 
  空飛ぶ吾

 

吾は汝等より遙に高く飛べり

汝等は汝等相互につとめいそしめよ

吾は汝等に關するものにあらず

 

吾身體を金色の明光刺貫き

吾靈はダイヤモンドの如く光る

吾は身の重さを高く天空に上げて

飛び行くなり高く高く

 

汝等の小さき成功は大正の時代を象作り

汝自身の高慢を形成す

よし汝等はよし汝等はよき者共なり

されどいかに汝等大なりといへども

吾は汝等を高く飛べり

 

吾と相共にかける諸々の靈共よ

ヂオツトよ、ポンペー人よ、ギリシア人よ

またエジプトの藝術家よ

汝等は吾に驚くや、目を見はるにあらずや

吾は飛べり貴き天界に

「新らしき古代」の美麗なる雲のうちを

はるかにはるかに凡庸の上を飛べり

 

    ×

君よ

君が端麗なる容姿は

常に忘れがたし

常に來たりてわが心をおのゝかしむ

 

君はわが世界のすべてに宿る

その一つ紫の矢車草の花にわれ見たり

君の微笑の影を

そは心を波打たし泣かしめたり

 

    ×

戀がおれをひつゝかんだぞ

ああかうなると

繪が何だ、繪が何だ

が俺は有難く思はうよ

物の象を描くのを仕事にする人間の一人に

おれはなつてゐる事を

 

そしてやつぱりおれは繪描きで居よう

このおもしろい職業に止どまろう

 

そうしてそうして戀をするのだ

繪をすてずに戀人を持たう

 

戀人にすてられた時に繪があり

繪にすてられた時戀人がある

 

心の淸い人の怒ることを俺は言つたな

 

がおれはそうして暮すのだ

その他にどうして俺の生きて行く手段があらう

 

    ×

貴樣等はすべて臭い

貴樣等は豚だ、賤民だ、

 

俺には貴樣等の口から出る惡嘲に、

自尊の言葉にまたその糞眞面目に

しつぺ反しをする犬の精氣がある

確にある、

 

俺の力量が現れ奔ばしる時を俺は豫言する

その時貴樣らの惡嘲が

臺灣のやもりより澤山ふるとも

俺はびくともしないのだ、

 

哀しいかな過去の俺が

その時を有たなかつた、

是は敗北だ、貴樣らの腹中に住む條蟲より

更に俺は劣惡であつたのだ、

 

が俺は現はれて見せる、きつと必ず

貴樣らはその時を待つて居ろ、

まつて居ろ、まつて居ろ、

ああ肥へた善い豚共、

 

     ×

K――よ

俺は貴下に感謝する

貴下はわれらの國より明確なる素質を檢出し

われらをして強い力を得せしめた、

われらは貴下ありしがために

始めて聲を上げることが出來る、

世界に向つて飛び込む事が出來る、

貴下は開拓者だ、水先案内人だ、

貴下の藝術を見る時俺は是等の讃唱の念に涙ぐまずには居られない、

貴下よ、

貴下の恐ろしい躍進の力が更に更に強く

更に大きくならんことをのぞむ、

貴下が大なる阿修羅の如く日本國に出現せんことをのぞむ、

世界が貴下に驚ろかされんことをのぞむ、

貴下は強き光曜だ、

貴下と對批する時、俺は恥ぢざるを得ない

すくなくとも現在の俺は。

が貴下よ、

俺はとび越すであろう

貴下の頭上を

高く必ず飛び越へるであろう

その時がいつか、

それは知らぬ、

吾力がいつ君の力に追ひつくか、

それも知らぬ

たゞ貴下よ

貴下を飛び越すことは現在の俺の強い心願だ、欲求だ、

俺は現在遊んで居る

けれど俺が俺の素質に驚ろき

猛烈な勤勉に至る時を俺は近き未來に要言する、

貴下よ、

ぐんぐん描いて呉れ、

われらの腐りかゝつた頭を

君のトアールでどやしつけて呉れ、

頭の上らぬ程どやしつけて呉れ

俺は俺は

必ず貴下を躍り越して見せる、

 

       ×

出來るだけの事を正直に極めて正直に俺はして行かう、

俺が惡い時は惡くならう、

俺が愚な時には愚にならう、

この外にどうして人間としての道があるのであらうか、俺の道があらうか、

一切のまどわしにまどわされぬ、

もう一人のまねはしない、

この事を痛切に俺は感じて居る、

すべての手段と云ふ事は忌むべきことだ、

とりわけて空なる物を空ならずと見せる手段は、

 

       ×

俺の生命は美麗極まるのだがそれは酸化して居る

現在はそれが酸化の狀態から還元しないまでゝある

心が俺の生命が輝き弄はしる時が來る丁度一點のマツチの火が大火となつて紫の夜半の暗黒に燃え上る樣に

その時こそああ實にその時からこそ

俺の眞の藝術家としての生活が始まるのだ

見よ群集は愚である彼等は愚な事をして居る

彼等の愚昧は續く事であらう彼等のあるものは覺めて居る

力強く覺めて居るそれらの覺醒を吾はその非常の時に對する彼等が用意たらしめよ俺は潛んで居るそして微笑して居るこの微笑は人の知らぬ處である

がその非常時は來る必ず來るその輝くダイヤモンドがこの年に一九一五年の秋に投ぜられるであろう

群集の上に。大日本の矢天に。

 

       ×

一九一五年をして赤く明るき年たらしめよ、

たゞれたる美の時間たらしめよ

俺は摑むのだ、その恐ろしき時間をしつかと握むのだ、

そして吹き出すのだ、

俺の畫布の面に、

必ず俺の畫布は輝やくであらう、

深き健康と歡樂との光に、

ああ二十才の年齡よ、

俺がどうしてこの美麗なる讃すべき年齡に捧物をせずに居られやうか、

この時間は俺にとつて全能の王だ、俺はその臣下だ、

 

見よ、日本國に藝術が起りつゝある、

天才は出でんとして居る、それらの秀れたる種子が、打出されたる彈丸の如くに生長し行く時、

何として俺が安閑として居られやう、

一切を棄てよ、

汝に安住を得せしめ平和を感ぜしむる一切を唾棄すべし

汝の職業は戰鬪だ、

恐ろしい戰鬪だ、

「汝、衆に近づくな

孤獨に生きよ」これは眞理だぞ

そして力をこめて、錬金道士の苦しい努力を以つて汝の美しい輝いたる生命を自らのうちに還元しろ

一體何をして居たのだ、汝は是までの貴とい歳月を、

汝は落ちた、俗衆の唯中に落ちた、

 

 

[やぶちゃん注:「おのゝかしむ」「止どまろう」「そうしてそうして」「がおれはそうして暮すのだ」「肥へた」「俺はとび越すであろう」「高く必ず飛び越へるであろう」(「越へる」「あろう」の二箇所)「一切のまどわしにまどわされぬ」(「まどわし」「まどはされぬ」の二箇所)「までゝある」(通常は濁点付きを繰り返す場合、「ゞ」とする。「全集」はそうなっている)「輝いたる」は総てママ。「全集」はこれらが総て〈殺菌〉訂正されてある。なお、底本では二〇八頁をめくると、「是は敗北だ、貴樣らの腹中に住む條蟲より」から同連続パートの終る「ああ肥へた善い豚共、」が前頁と同じ位置に印刷されているにも拘わらず、続く記号「×」以降の「K――よ」以下が総て二字上げとなっている。しかし、その左見開きの二〇九頁以降、日記などを含む「千九百十五年」パートが終了する二三四頁まで総てがその二字上った版組となっていて、次の「千九百十六年」パートの初めである二三七頁では再び二字下がった版組に戻っている。これは単純な植字台の版組の誤りで、無視した。

「ヂオツト」中世後期のフィレンツェのお抱え絵師としてイタリア・ルネサンスの先駆けとなった名匠ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone 一二六七年頃~一三三七年)。代表作はパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の装飾画で、参照したウィキジョット・ディ・ボンドーネによれば、『この一連のフレスコ壁画は聖母マリアとイエス・キリストの生涯を描いたもので、初期ルネサンス絵画の中でも最高傑作のひとつといわれている』とある。

「ポンペー人」かの古代ローマのポンペイの民。ポンペイの守護神は美と恋愛の女神ウェヌスであり、しばしば「快楽の都市」と称されるから、槐多が突如、名を出すのも不思議ではない。

「臺灣のやもり」「やもり」は底本では傍点「ヽ」。ネット検索をかけると、台湾ではヤモリをよく見かけるという記載が有意にある。品川の「天来書院」の公式サイト内の「たびかがみ」の【解説】ヤモリという虫という面白い解説中にかなり学術的にも詳しい記載があり、必読である。また、ヤモリについては、私の直近の生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(9) 四 歌と踊り(Ⅰ)の『樹の枝で「とかげ」の類がなかなかよく歌ふ』の注も参考になろうとは思う。

「貴下は強き光曜だ」の「光曜」はママ。「光耀」の誤字か誤植であろうが、そのままとした。「全集」は「光耀」である。

「K」不詳。イニシャル「K」で始まる名匠画家或いは彫刻家は私はちょっと思い浮かばない。識者の御教授を乞う。
 
「對批」はママ。「全集」は「對比」(正字化した)するが、微妙に留保したい。槐多にとってはここは「批」でなくてはならなかったような気がするからである。

「トアール」トワール・トワル、フランス語の“toile”のことであろう。原義は彫塑に用いる型取り用の粗布(そふ)であるが、そこから本邦では、人台(じんだい:デッサン・裁縫・デザインに使用する人体模型)を指す。

「この外にどうして人間としての道があるのであらうか、俺の道があらうか、」「全集」はこの二つのの読点を除去した上、「俺の道があらうか」を改行している。不審である。

「心が俺の生命が輝き弄はしる時が來る丁度一點のマツチの火が大火となつて紫の夜半の暗黒に燃え上る樣に」これで有意に長い一行であるので注意。

「力強く覺めて居るそれらの覺醒を吾はその非常の時に對する彼等が用意たらしめよ俺は潛んで居るそして微笑して居るこの微笑は人の知らぬ處である」これで有意に長い一行であるので注意。「全集」は「處」を「所」としているが単に新字表記ならば「処」とすべきであって正当な校訂とは言えない。

「がその非常時は來る必ず來るその輝くダイヤモンドがこの年に一九一五年の秋に投ぜられるであろう」「あろう」はママ。これで有意に長い一行であるので注意。槐多はこの前年(大正三(一九一四)年に京都から東京へ上京、画家小杉未醒(放庵)の田端の家に寄寓、同年九月に日本美術院研究生となって、十月の二科展には四点を出品、この大正四年三月には奇作「尿(すばり)する裸僧」や未完となった大作「女子等と癩者」が、また十月にの第二回美術院展には水彩の名品「カンナと少女」を出品して院賞を受賞する一方、怪奇小説「魔猿伝」を執筆、少年誌『武侠世界』に掲載されている。また私生活では前年末より酒量が増し、両親が上京して東京で住むようになって、特に父との葛藤からデカダンへの傾斜が著しくなったと彌生書房版全集年譜(山本太郎編)にはある。因みに、これはあくまで槐多の内的世界や美術への宣言ではあるが、大正四(一九一五)年前後の日本の美術界を見ると(以下、ウィキの「日本美術史」よりの引用)、『大正期の洋画界では、前衛美術の影響から自然主義的な官展の画風を嫌い在野の立場から反官展を表明する美術団体の結成が相次ぎ、大正元年に高村光太郎・斎藤与里らが中心となり、後期印象派やフォーヴィスムの画家が終結したフュウザン会、大正3年にはニ科会、大正4年には岸田劉生らの草土社が結成され、ニ科会と草土社は双璧となる』。『一方、文部省は官展の停滞を打破するため大正8年に帝国美術院を設置し、従来の文展を廃止し新たに帝国美術院展示会(帝展)を開催し、帝展では従来の外光派的写実主義の画家が中心でありつつも、フォーヴィスム等の前衛画風を取り入れた独自のスタイルを生み出していた』。翻って彼を包む外界に目を転ずると、この大正四(一九一五)年は第一次世界大戦開戦二年目であって、この年の一月に日本は中華民国に対し、所謂、「対華二十一ヶ条の要求」を突きつけて大陸での権益を増強させ、軍国主義への傾斜が増して行き、対して中国での反日運動が激化していった年でもあった。

「矢天」ママ。意味不詳。軍国主義昂揚の時期と同期するから字面は感覚的には腑に落ちるような感じはするが、これは単に植字工が「天」を誤って「矢」と拾い、正しく「天」を入れたものの、「矢」を抜き忘れただけのものかも知れない。因みに「全集」はただ「天」となっている。

「俺は摑むのだ、その恐ろしき時間をしつかと握むのだ、」の「握む」はママ。「全集」はこちらも上と同じく「摑む」となっている。

「ああ二十才の年齡よ、」槐多は明治二九(一八九六)年九月十五日生まれ。無論、数え二十である。

「天才は出でんとして居る、それらの秀れたる種子が、打出されたる彈丸の如くに生長し行く時、」「全集」は読点を除去した上、「打出されたる彈丸の如くに生長し行く時」を改行している。またしても不審である。]

夏の夜   夢野久作 (五七調定型詞)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「夏の夜」五七調定型詩(歌曲歌詞)である。これは西原氏の解題によれば、大正一三(一九二四)年九月三十一日発行の『月刊ふたば楽譜』第三十一・三十二合編号に「杉山泰道」名義で所収されたもので、横田三郎氏の譜面とともに載るとある。横田氏は明治後期から昭和初期にかけて音楽教育で活躍し、恐らく当時は修猷館中学(現在の福岡県立修猷館高等学校)の教諭で、後に福岡女子専門学校(現在の福岡女子大学)教授となった音楽家である。現在の修猷館高等学校館歌(校歌)の作曲者でもある。当時、夢野久作満三十二歳。中島河太郎編の第一書房版年譜によれば、同年三月一日附で九州日報を退社(但し、翌大正十四年四月一日再入社、十五年五月に再退社している。因みに同十五年四月に『新青年』の創作探偵小説募集で夢野久作(同筆名の最初の使用作とされる)「あやかしの鼓」が二等入選し、また、その時には既に「ドクラ・マグラ」の初稿「狂人の解放治療」が書かれていた)この翌十月に博文館主催の探偵小説募集に「侏儒」(杉山泰道名義)を応募、選外佳作となっている。なお、最初に示した「夢野久作短歌集成」という標題は彼のこうした詩や俳句も拾うこととするために「夢野久作詩歌集成」に変更することにした。]

 

  夏の夜

 

黄昏時(たそがれどき)海鳴り遠く

月見草(つきみぐさ)おとなふ蟲は

何人(なにびと)の悲しき魂(たま)か

ほのかなる羽音のみして

 

霧深き草の葉末に

有明の月のおもて

白々と薄らぎ行くは

見つくさぬ夢の悲しみ

2015/07/08

僕は

党派やイデオロギーの痙攣状態――それが今の日本、いや、世界の限界である――と、哀しく思うのである――「哀しく」というところに僕の限界性を感じながら……

壇蜜はんへ

壇蜜はん、こないだ、あんたの出とるNHKの中国語講座に出てた男――データ処理が残らないのがいいですねいうとった彼や――あれはな、日本人や! えらい、上手いやろう、中国語。でも、日本人なんやで!! ありゃな! わての教え子や!!! 大事なんはな、あんなに上手い男が生粋の日本人やということを、テロップでさえ出さんことへの怒りや! 儂は今の日本も中国も嫌いや! しかし大事なことはその嫌いな二つの国を懸命に繫ごうとしとる一人の男のおることを、ちゃんとちゃんと伝え! っうことやなんや!!! 

アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (六) 豚と胡椒

 
 
    六 豚と胡椒

 

 一、二分の間(あひだ)、アリスは佇んで、その家(うち)を眺めながら、これから何をしようかと、思案して居ました。と、突然に什着(しきせ)を着た取次(とりつぎ)の下男が、森から走つて出てきました。(アリスは此の男が仕着を、着て居るものですから、取次の下男だと思つたのでした。それでなくて顏だけで判斷すると、魚(さかな)だと言つたことでせう。)この男は指關節(ゆびふし)で戸をトントンと叩きました。するとやつぱり仕着せを着た、もう一人の下男が戸を開けて出て來ました。丸顏で蛙のやうに大きな目をした男でした。そしてこの下男達は、二人とも頭一面に縮れ生えた髮に、髮粉(かみこ)を付けて居りました。その人達の樣子や何かすベてが、アリスには大變物珍しく、思はれてきましたので、もつといろいろ知り度(た)くて、アリスは森から少し匍(は)ひだして、耳をかたむけました。

[やぶちゃん注:「(アリスは……魚だと言つたことでせう。)」の丸括弧の閉じる方は底本では丸括弧でなく、鍵括弧になっている。誤植と断じて訂した。

「髮粉(かみこ)」髪をカラーリングするための粉。十八世紀のフランスで流行し始めたファッションで、主剤は小麦粉・白土・澱粉。それを白以外にも黒・紫・赤・青・灰色などに染めたものを振りかけて用いた。参考にした「ポーラ文化研究所」の「フランス貴族も髪のおしゃれにカラーリングしてたってホントですか?」によれば、『当時、上流階級の男女の髪型といえば外出時はかつら、もしくは地毛に入れ毛やつけ毛を使った盛髪がキホン。その上に香油やポマードを塗って、仕上げに髪粉を噴きつけて完成というもの。粉を噴きつけるなんて想像するだけでも大変ですが、専用ルームでマスクとケープを装着し、顔や服が粉だらけにならないようガードして噴きつけていたんだとか。けっして優雅じゃないこの方法、それでもこの時代、髪粉が大量に使われたワケは、髪の汚れを目立たなくする、髪の量を多くみせるという、うれしいプラス効果もあったから。今は手軽にヘアカラーが楽しめる時代、ほんとうに便利でよかったですよね』とある。また、別の記載によれば、カツラが基本であった当時のファッションに於いて、カツラの髪の色と自分の髪の色が違いを誤魔化すためにパウダーが使われ始めたともあり、更に、同時期には「おしろい」が男女ともに流行って、そうした人工的な白い肌に合った色としてブロンドやプラチナ・ブロンドの髪がもて囃されたからともあった。加うるに、当時は洗髪習慣がなかったことから、頭髪の臭いを隠すために香水をこの髪粉に含ませて噴きつけたともあった。]

 魚(さかな)の下男は、脇にかかへて居た自分ほどの大きさの封筒をとりだして、もう一の下男に渡しながら、かごそか聲で言ひました。「公爵夫人へ、女王(じよわう)樣より、球打遊(たまうちあそ)びの御招待」といひました。蛙の下男は、同じやうにおごぞかな聲で、ただ言葉の順序を一寸(ちよつと)變へただけで、言ひました。「女王樣より、公爵夫人へ球打遊びの御招待。」

[やぶちゃん注:「球打遊び」原文は“croquet”。本邦のゲートボールの原型で、芝生のコートで行われるイギリス発祥の球技クロッケー(音写では「クロゥケイ」に近い)。ウィキの「クロッケーによれば、マレットと称する木槌によって木製或いはプラスチック製の球を打ち、六個の門(フープと呼ぶ)を通して行き、最後に中央に立っているペグ(杭)に当てる早さを競う。日本クロッケー協会公式サイトの「クロッケー歴史年表」によれば、

一八五三年(本邦では幕末の嘉永六年)に『イギリスにおいてクロッケーと言う名称でゲームが大衆化』したとある。本書の原作は一八六五年に刊行されているから、かなりナウいスポーツであったことが分かる。]

 それから二人は大層腰を低くして御辭儀をしましたので、二人の髮の毛はもつれあつてしまひました。

 アリスは此の樣子があまりをかしいので、吹き出したくなりましたものですから、聞こえてはいけないと思つて森の中を走つて歸りました。少したつてアリスが覗いて見ると、魚(さかな)の下男はゐなくなつてもう一人の下男が、玄關の側(そば)の地面に腰を下(おろ)し、馬鹿げた顏をして、空を見つめて居ました。

 アリスはビクビクしながら、戸口まで行つて戸を叩きました。

「戸を叩く必要なんかないよ」とその下男が云ひました。「それには二つの理由(わけ)がある。第一にわたしは、か前さんと同じ戸口の外に居る。第二に家の内側では大騷ぎをして居るから、誰もお前が戸を叩いたつて聞えやしないよ。」實際、家の内側では大層な物音がして居りました――たえず唸るやうな、くさみをするやうな音がして、時時皿か土瓶でも粉粉にこはれるやうに、ガラガラといふ物音が響いてゐました。

「それでは」とアリスが言ひました。「どうしたら家へ入れますでせうか。」

 下男はアリスの言ふことなんかには構はずに言ひつづけました。「二人の間に戸があるとすれば、戸を叩くのに何か考へがあるにちがひないさ。たとへばお前さんが戸の内側に居て、戸を叩くなら、わしはお前さんを外にだしてやることができるといふものだ。」かう云ひながらも始終下男は空を見て居りました。アリスは隨分失禮なことだと思ひました。「けれども多分(たぶん)上の方を見ないでは居られないのだわ。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。

「目が頭のてつぺんのところについて居るんだもの。でもとにかく尋ねたんだから、返事をしてくれてもよさそうなものだわ。ねえ、どうしたらうちに入れるんでせう。」とアリスは大きな聲で繰返して言ひました。

「わしは明日迄ここに坐つて居(ゐ)るよ――。」と下男は言ひました。

 この時家の戸があき、大きなお皿が下男の頭へ向つて、眞直(まつすぐ)にとんできて、鼻を掠(かす)めて、その下男の後(うしろ)にある樹にあたつて、粉粉に壞れてしまひました。

「――それともその明くる日まで居(ゐ)るかも知れない。」と下男は何事もなかつたやうに同じ調子で言ひました。

「どうしたら入れるのでせうか。」とアリスは又大きな聲で言ひました。

「お前はとにかく内に入りたいのだな。」と下男は言ひました。「それが第一の問題なんだらう。」勿論それに違ひありませんでした。けれどもアリスはさう言はれるのが嫌(きらひ)でした。「動物などのいふことはほんとに、いやになつてしまふわ。氣ちがひにでもなりさうだわ。」とつぶやきました。

 下男はこれを好い機會だと思つて、調子を變へてまた言ひだしました。

「わしはここに、いつまでも、いつまでもズツと續けて坐つて居(ゐ)るよ」と言ひました。

「ではわたし、どうすればいいの。」とアリスが言ひました。

「お前の好きなことをすればいいよ。」と下男は言つて、口笛を吹き始めました。

「まあ、こんな人に何を言つても無駄だわ。」とアリスはあきらめたやうに言ひました。「この人は全くお馬鹿さんなのだわ。」かう言つてアリスは戸を開けて内に入つていきました。

 戸を開けると突きあたりは大きな臺所(だいどころ)でした。そして隅から隅まで煙で一杯になつてゐました。公爵夫人は臺所の眞中で赤ん坊に乳をやりながら、三本足の腰掛に坐つて居ました。料理番は火の前で身體(からだ)をまげて、スープが一杯入つて居るらしい、大鍋をかきまはしてゐました。

「このスープにはキツト胡椒(こしよう)が入りずぎて居るのだわ。」とアリスはくしやみをしながら、できる丈(だ)け大きな聲で言ひました。

 まつたくのところ、胡椒がひどくその室中(へやぢゆう)にとんでゐるのでした。公爵夫人ですら時時くしやみをしました。そして赤ん坊は、ひつきりなしにくしやみをしたり、わあわあ泣いたりしてゐました。この臺所の内でくしやみをしなかつた二人のものは、料理番と、竃(かまど)のそばにすわつて耳から耳まで大きな口をして、ニヤニヤ笑つて居る大猫とだけでした。

「あの失禮ですが、」とアリスは自分から先づ話しだすのは、禮儀作法にかなつて居るかどうだか分らないものですから、少しおどおどしていひました。「何故あなたの猫はあんなにニヤニヤして居るのですか。」

「あれはチエシヤー猫なのだ。」と公爵夫人は言ひました。(チエシヤー猫はいつも知つて居るやうを顏をして居るのです。)「それがその理由(わけ)なのさ。豚兒(ぶたつこ)や。」

[やぶちゃん注:「チエシヤー猫」“Cheshire Cat”は無論、架空の猫であるが、ウィキの「チェシャ猫」によれば、『当時はありふれていた「チェシャ猫のように笑う」という英語の慣用表現をもとにキャロルが作り出したキャラクターである』とし、『「チェシャ猫のように笑う」(grin like a Cheshire cat)という英語表現は、キャロルが作品を書いた当時はありふれた慣用表現であった。この成句の由来ははっきりとわかっていないが、雑誌『Notes and Queries』では1850年から1852年にかけて、この成句の由来について盛んな議論が戦わされ』。たが、それは――①イングランド北西部に実在するチェシャ州 (the county of CheshireCheshire county)の州域は顎の形をしており、そのため、「顎州」と呼ばれることもある。②チェシャ州で作られていたチェシャ・チーズは一時期、「猫」の形をしていた。③チェシャ州のとある看板描きが宿屋の看板に「吠えるライオン」を描いたが、「笑っている猫」の顔にしか見えなかった。――というものであったという(この説を紹介しているロジャー・グリーンは③が由来としては最もそれらしいと述べているという)。『チェシャ州はキャロルが生まれた地方であり、また』アリスのモデルであるアリス・プレザンス・リデル(Alice Pleasance Liddell 一八五二年~一九三四年)の『リデル家の紋章は三頭のライオンであった』。一九七九年刊の「ルイス・キャロル伝」の『著者アン・クラークは、チェシャ州の首都チェスターに住んでいたジョナサン・キャザレルという人物に関する説を紹介している。キャザレルの紋章には猫が1304年という年号とともに描かれており、キャザレル自身は怒ると歯をむき出す(grin)癖があった。チェシャチーズが猫の形をして、かつ笑って(grin)いるのは彼の貢献をたたえてのものであるという』。『しかしチェシャ州の住民がもっとも好んでする説明は、「チェシャ州には酪農家がたくさんあり、ミルクとクリームが豊富にあるので常に猫が笑っている」というものである』。また、『何人かの研究者は、キャロルがリッチモンドにあるクロフト教会の彫刻からチェシャ猫のキャラクターを着想したという説を唱えている』。それはキャロルの父が『1843年から1868年にかけてこの地方の牧師を勤めており、キャロル自身も1843年から1850年までこの地で生活していた』ことに拠る。『アリスの注釈者であるマーティン・ガードナーは、キャロルが月の満ち欠けからチェシャ猫のキャラクターを着想したのではないかという説を紹介している。月の満ち欠けは昔から狂気と結びつけて考えられてきたものであり、また三日月の形はにやにや笑う口の形そのものである』。『フィリス・グリーンエイカーは、その精神分析的な研究書の中において、チェシャ猫のキャラクターは「チーズに化けた猫が、チーズを喰うねずみを喰うところを想わせるから、まさにキャロル的な魅力を持つ」と指摘している』。また「不思議の国のアリス」刊行以前、『アリスと同じマクラミン社から出版されてヒット作となったチャールズ・キングスレーの『水の子どもたち』(1863年)には、水中から顔を出したカワウソがチェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを浮かべていた、というくだりがあ』り、更に「不思議の国のアリス」は出版される際、『その版形は『水の子』に倣って決められている』ともあって、実は『「チェシャ猫」のキャラクターとそのエピソードは、『不思議の国のアリス』を正式に出版する際に付け加えられたもので、物語の原型である手書き本の『地下の国のアリス』には登場しない』という事実があると記されている。]

 アリスはこのおしまひの言葉が、あまり亂暴なので驚いてとび上りました。けれどもアリスは直ちに、それか赤ん坊に言ひかけたので、自分に向つて言つたのではないといふことが分りました。それで元氣をだして又云ひ始めました。

「チエシヤー猫はいつもニコニコ笑つて居るものだ、と言ふことは知りませんでした。ほんとのところ、わたし猫が笑へるものだとは知りませんでした。」

「猫はみん々笑へるんだよ」と公爵夫人は言ひました。「そして大抵の猫は知つてゐるよ。」

[やぶちゃん注:「そして大抵の猫は知つてゐるよ。」原文は“and most of 'em do.”。この台詞は、「大抵の猫は笑うことを知ってるさ。笑えるんだよ」という謂いである。]

「わたし笑ふ猫を知りませんでしたの。」とアリスは婦人が話相手になつてくれたのが、嬉しくて大層叮嚀(ていねい)に言ひました。

「お前は何にも知つて居ないねえ。それはほんたうだよ。」と公爵夫人は言ひました。

 アリスは、どうもこの言葉つきか氣に入りませんでした。そして何か外に新しい會話の題(だい)をひきだしたいと思ひました。アリスが何かの題にきめようと考へてゐますと、料理番の女はスープの大鍋を竃(かまど)から下(おろ)しました。そして直ちに自分の手の屆くものを何でもとつて、公爵夫人と赤ん坊に向つて投げかけだしました。――初めに火箸(ひばし)を、それから小皿や大旦や平皿を雨のやうに役げつけました。公爵夫人は當つても平氣ですましてゐました。そして赤ん坊は前からズツと泣き通(どほ)しで居ましたから、何かあたつて痛いから泣くのか、少しも分りませんでした。

「まあ、どうか氣をつけてして下さい。」とアリスは怖がつてあちらこちらを跳び廻りながら叫びました。「まあ、あの子の大切な鼻がとれるわ。」外れて大き々皿が赤ん坊の鼻をかずめて、もうすこしのことで、もいでしまふところでした。

「誰でも自分の仕事に氣をつけてしさへすれば、」としやがれた聲で、公爵夫人が言ひました。「世界はズツと早く廻つていくだらうよ。」

「それはためにならないでせう。」とアリスは自分の學問を示すのに、いい時だと思つて、大層喜んでいひました。「まあさうなると夜と晝とが、どうなることか考へてごらんなさい。御承知のやうに地球はおのが軸(ぢく)の上を廻るのに二十四時間かかるのですよ――。」

「おの(斧(をの))だつて」と公爵夫人は言ひました。「首をちよんぎつておしまひ。」

[やぶちゃん注:「おの(斧(をの))だつて」これもキャロル得意の言葉遊び。前のアリスの台詞の中の地球の自転の地「軸」を意味する“axis”(アクシス)を公爵夫人は“axes”と聴き――これは実は“axis”の複数形(「軸」は加算名詞)であるが、同じ綴りで“ax”(手斧・首切り用の斧)の複数形でもある――かくも関係妄想的展開を起こすのである。]

 アリスは科理番がほんとに、言はれた通りにするかどうか、心配さうにそつちをちらと見ました。けれども料理番は忙がしく、スープをかきまはしながら、何にも耳に入らないやうでした。それでアリスは又言ひつづけました。「二十四時間だと思ひますけれど、それとも十二時間だつたかしら、わたし――。」

「まあ、うるさいね。」と公爵夫人は言ひました。「わたし數字なんか嫌ひだよ。」かういつて、夫人は自分の赤ん坊に乳をやりはじめました。さうしながら子守唄のやうなものを唄つて、唄の終ひに赤ん坊をひどくゆりました。

 

  男の子にはガミガミ言つてやれ、

    くしやみをしたら毆(ぶ)つてやれ。

   人困(ひとこま)らせにやるんだもの、

     せつつく事を知つてゐて。

   合唱(これには赤ん坊も料理番も一緒でした。)

   ワウ、ワウ、ワウ

 公霞夫人は次の歌の文句を唄ひながら、赤ん坊を荒荒しく高く上げたり落したりしました。

 赤ん坊はひどく泣きましたからアリスには唄の文句が聞えない位(くらゐ)でした。

 

  わたしの子供にはガミガミ言ひまする、

   くしやみをすれば毆(なぐ)ります。

   氣のむくだけ胡椒をば、

    充分嗅ぐことができるんだもの。

   合唱  ワウ、ワウ、ワウ、

「おい、お前よければ少しお守をしておくれ。」と公爵夫人はアリスに言ひながら赤ん坊を投(はふ)りつけました。「わたしはこれから出かけて、女王樣との球打遊(たまうちあそ)びの仕度(したく)をしなければならないのだJと言つて室(へや)から急いで出ていきました。料理番はフライ鍋を夫人のうしろからぶつつけましたが、それはあたりませんでした。

 アリスは、やつとのことで赤ん坊をうけとりました。赤ん坊は奇妙な形をして居て、手足を八方にのばしました。『まるでひとでのやうだわ。」とアリスは考へました。アリスが抱きとりました時、赤ん坊は蒸氣機關のやうに荒い鼻息をしてゐました。そして身體(からだ)を二重(ふたへ)に折つてみたり、眞直(まつすぐ)にのばしてみたりするので、初め一寸(ちよつと)の間(あひだ)は、全くそれを抱いて居ることがアリスには精一杯のことでした。

 間もなく、アリスは赤ん坊をお守するよい方法を考へつきました。(それは赤ん坊を撚(よ)つて結び目のやうなものにして、それからほどけないやうに右耳と左足をしつかり抑へておくことでした。)かうやつてアリスは、赤ん坊を外に抱いてでました。「わたしが抱いてでなかつたら、この赤ん坊なんか一日か、二日のうちに殺されてしまふわ。それをすてて行くのは人殺(ひとごろし)をするやうなものだわ、」とアリスは考へました。アリスはこの終(しま)ひの言葉を大きな聲で言ひました。すると赤ん坊は、返事に豚のやうにブウブウ言ひました。(このときには、くしやみは止めてゐました。)「ブウブウお言ひでない。」とアリスは言ひました。「そんなのチツトもいい話しぶりぢやないわ。」

 赤ん坊はまたブウブウ言ひました。アリスは赤ん坊が、どうかしたのではないかと思つて、大層心配さうに顏を見て居ました。たしかにそれは大變上(うへ)を向いた鼻がでした。鼻と云ふよりもむしろ嘴(くちばし)のやうでした。又その目(め)は赤ん坊にしてはずゐぶん小さいものでした。それでアリスは全く赤ん坊の顏が嫌(いや)になつてしまひました。「でも此の子はすすり泣(なき)をしてゐたのかもしれないわ。」とアリスは考へて、涙かでてゐやしないかと、又赤ん坊の眼(め)を見ました。

[やぶちゃん注:「赤ん坊はまたブウブウ言ひました」の「ブウブウ」は底本では「ブウフウ」であるが、原文でも差異はなく、誤植と断じて訂した。]

 涙なんか一つもありませんでした。「ねえ、坊やが豚にでもなるのなら、わたしはかまつてあげないわよ。いいかい。」とアリスは眞面目くさつて言ひました。可哀さうな赤ん坊は、又しくしく泣きました。(又はブウブウいひました。これはどちらとも云ふことができませんでした。)それから二人はしばらくの間(あひだ)默つて歩いていきました。

 アリスはそのときかうか考へ始めました。「まあ、わたしうちに歸つたらこの子をどうしませう。ナると赤ん坊か又ひどく、ブウブウ泣き始めましたから、アリスは少少驚いて赤ん坊の顏を見ました。こん度は全く間違ひなし、それは豚にちがひありませんでした。それでアリスはこん々ものを抱いて、この先きあるいていくのは、全く馬鹿らしいと思ひました。で、アリスはこの子を下におろしてやりました。するとヒヨコヒヨコと、森の中へ歩いていつたので、安心をしました。「あれが大きくなつたら、」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひだしました。「ずゐぶんみつともない子になるでせう。でも豚にすればきれいな方だわ。」さう言つて、アリスは自分の知つて居るうちで豚にしたら、よささうな子供のことを考へました。それからかう獨語(ひとりごと)をいひだしました。「人の子と豚にかへる、ほんとに方法が分つて居るといいのだけれども――。」するとそのとき驚いた事に二、三尺離れた樹の枝にチエシヤー猫が坐つて居るのが見えました。

 猫はアリスの顏を見ても、ニヤニヤしてばかりゐました。素直な猫だとアリスは思ひました。けれども大層長い爪と、大きな齒を澤山もつて居るので、アリスはこりや丁寧にあしらはないと、いけないと思ひました。

「チエシヤーのニヤンちやん。」アリスはかう呼びかけて、猫が嫌ひはしないかと、少しおぢおぢしました。けれども猫は前より大きな口をあけて、ニヤニヤして居るばかりでした。「まあ氣に人つて居るらしいわ。」とアリスは考へて、言ひ續けました。「濟みませんが、ここから行くにはどの道をいけばよろしいんでせう。」

「それは、お前さんの行きたいと思つて居るところできまるよ。」と猫はいひました。

「わたしどこでもかまはないのです。」とアリスは言ひました。

「それぢやどつちを行つても構はないさ。」と猫が言ひました。

「――どこかへ行(い)けさへすれば。」とアリスは辯解(いひわけ)らしく言ひ加へました。

「まあ、お前ながいこと歩いて行(い)きさへすれば、どこかに行(い)けるよ。」と猫は言ひました。

 アリスはこの言葉が、もつともだと思ひましたので、今度は別の問(とひ)をだしました。「この邊には、どんな人が住んで居るのでせうか。」

「あの方角には、」と猫は、右の前足をぐるぐる廻して言ひました。「お帽子屋〔帽子屋と言つても帽子を賣つたり作つたりする人のことではありませんアダ名の帽子屋です。〕が住んで居(ゐ)る。それからあの方角には、」と別の前足を動かして言ひました。「三月兎(ぎわつうさぎ)が住んで居る。どつちでも、氣のむいた方へ行つてごらん。二人とも氣違ひだよ。」
 
[やぶちゃん注:「お帽子屋」原文
“Hatter”ウィキ帽子屋によれば、以下に注する「三月兎」と同様に『「帽子屋のように気が狂っている」(mad as a hatter)という、当時よく知られていた英語の慣用句を元にキャロルが創作したキャラクターである。この表現はより古い言い回しの「mad as an adder」からの転訛とも考えられるが、それとともに当時の現実の帽子屋は、帽子のフェルトの製造過程で使われる水銀(フェルト地を硬くするために当時使われていた)のためにしばしば本当に気が狂ったということもある。水銀中毒の初期症状である手足の震えは当時「帽子屋の震え」と呼ばれており、やがて舌がもつれ、さらに症状が進むと幻覚や精神錯乱の症状が起こった。現在のアメリカのほとんどの州やヨーロッパの国々には水銀の使用を禁じる法律がある』とあり、また、『帽子屋のキャラクターは、オックスフォード大学クライスト・チャーチの用務員で奇人として知られていたシオフィラス・カーターがモデルになっているといわれている。彼はどんな天候のときにもシルクハットを被っていたことで「狂った帽子屋」として知られていた。彼は発明家でもあり、起床時間になると跳ね上がって眠っている人を放り出すベッドというような珍妙な発明をし、これは』一八五一年に行われた『ロンドン万国博覧会でも展示されている』とあり、さらにエリス・ヒルマンという研究者は、当時『「気狂いサム」として知られていたマンチェスターの人物サミュエル・オグデン』も挙げられている。彼は一八一四年に『ロンドンを歴訪したロシア皇帝の特注の帽子を作ったという。ヒルマンはまた、「Mad Hatter」がなまって「Mad Adder」に聞こえれば「狂った計算機/計算屋」になり、キャロル自身を含めた数学者全般とも解することができ、あるいは計算機械の研究に熱中しすぎておかしくなっていると言われていたケンブリッジ大学の数学教授チャールズ・バベッジも思わせると書いている』ともある。

「三月兎」原文“March Hare”。但し、この名の実在種が存在するわけではなく、本作のチェシャ猫や帽子屋と並ぶトリックスターである。ウィキ三月ウサギによれば、『三月ウサギは、「三月のウサギのように気が狂っている」(Mad as a March hare)という、当時はよく知られていた英語の成句をもとにキャロルが創作したキャラクターである。この成句は繁殖期である三月に雄のノウサギが見せる落ち着かない振る舞いを示している』(ノウサギは真主齧上目グリレス大目ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ヨーロッパノウサギ Lepus europaeus )。但し、実際のノウサギの繁殖期は八ケ月の長きに及ぶもので、『三月だけ特に繁殖行動が盛んになるというわけではないらしい。このノウサギの繁殖期の観察を行った科学者は』「愚神礼讃」で知られる宗教改革を唱えた神学者エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus 一四六六年~一五三六年)の『句に「沼のウサギのように狂った」というものがあり、この沼(marsh)が三月(March)に転訛したのだと述べている』とある。]「けれどわたし、氣違ひの人達のところなんかへ行きたくないわ。」とアリスは言ひました。

「だが、さうはいかないよ。ここではみんなが氣違ひなんだ。わたしも氣違ひだし、お前も氣違ひなのだ。」と猫は言ひました。

「わたしが氣違ひだといふことが、どうして分つて。」とアリス言ひました。

「お前は氣違ひに相違ないよ。」と猫が言ひました。

「それでなければ、こんなところへ來やしないよ。」

 アリスはそんなことで、氣違ひだといふことにならないと思ひましたが、尚(なほ)續けて言ひました。「それではお前が氣違ひだといふことが、どうして分るの。」

「まづ第一に、」と猫は言ひました。「犬は氣違ひではない。お前それを認めるかい。」

「さう思ふわ。」とアリスが言ひました。

「よろしい、それでは。」と猫は續けて言ひました。

 犬がおこると唸(うな)つて、嬉しいと尻尾(しつぽ)をふることは、お前さん御承知だらう。ところでわたしは、嬉しいと唸るし、おこると尻尾をふるんだ。それだからわたしは氣違ひなのだよ。」

「わたしは、そのことを唸(うな)るといはないで、ゴロゴロいふと言ひますわ。」

とアリスが言ひました。

「どうとでもを言ひなさい。」と猫は言ひました。「お前さんは今日(けふ)女王樣と球打遊(たまうちあそ)びをするのかい。」

「わたし球打(たまうち)が大好きなんだけれども、まだ招待をうけてゐないわ。」とアリスは言ひました。

「あそこでなら私に會へるよ。」さう言つたかと思ふと、猫は姿を消してしまひました。

 アリスはこれには、そんなに驚きませんでした。といふのも色色な珍らしい出來事には、もう馴れて居たからでした。それからアリスがまだやつぱり猫の居たところを見て居ますと、突然に又猫が姿をあらはしました。

「ついでのことだが、赤ん坊はどうなつたい。」と猫は言ひました。「私や訊(き)くのを忘れさうだつたよ。」

「あの子は豚になつたよ。」とアリスは、猫がまるで、あたりまへに戻つて來たかのやうに、靜かに答へました。

「うん、さうだらうと、わたしも思つて居た。」と猫は言つて、又姿を消してしまひました。

 アリスは猫が、また出てくるのかと思つて待つて居ましたが、もう出て來ませんでした。それからアリスは、三月兎(ぐわつうさぎ)が住んで居ると云ふ方角へ向つて歩いていきました。「わたし帽子屋には前にあつたことかあるわ。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。「三月兎(ぐわつうさぎ)はきつと、とても素敵に面白いとり思ふわ。それに今は五月なんだから、さう氣違ひじみてもゐないと思ふわ。――すくなくとも三月ほど氣が變ぢやないでせう。」アリスはかう言つて上を見ました。すると又猫が樹の枝の上に坐つて居りました。

「お前はピツグ(豚)といつたのかい、フイツグ(無花果)といつたのかい。」と猫が言ひました。

[やぶちゃん注:原文は“"Did you say pig, or fig?" said the Cat.”。]

「豚と言つたのだわ。」とアリスは答へました。

「そうしてわたしお前がそんなに突然(だしぬけ)に現はれたり、消えたりなんかしないでくれればいいと思ふわ。わたしほんとに目がまはりさうよ。」

「よろしい。」と猫は言ひました。今度はそろりそろりとまづ尻尾の先から消えて、しまひにはニヤニヤ笑ひがのこりました。それはからだの外(ほか)の部分が消えてしまつても、あとまで殘つてゐました。

「まあ、わたし今までにニヤニヤ笑ひをしない猫は、幾度も見てゐるけれど、猫がゐなくてニヤニヤ笑ひだけなんて、初めて見たわ。これが生れて初めて見たふしぎなことだわ。」とアリスは言ひました。

 アリスがさう長くは歩かないうちに三月兎(ぐわつうさぎ)の家(いえ)が見えてきました。アリスはこれがほんとの兎の家だと思ひました。なぜなら煙突は兎の耳のやうな形をしてゐましたし、屋根は兎の毛皮でふいてありましたからです。隨分大きな家(うち)でしたから、アリスは蕈(きのこ)の左側をかじつて二尺位(ぐらゐ)の背になつてからではないと、近づく氣になれませんでした。その時ですらアリスはビクビクしながら家(うち)の方へ歩いていき、こんな獨語(ひとりごと)をいひました。「何だかやつぱり兎もひどい氣違ひかもしれないわ。わたし兎のかはりに帽子屋に會ひに行けばよかつたらしいわ。」

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一九)

 

       一九 

 

 『たゞこれだけ――鳥居、貝殼、綾織模樣り小蛇、石――を見物に行つたのか?』と讀者はいふかも知れない。

 その通りだ。しかし實際私は魅惑を感させられたのだ。この場所には、何とも云へない、一種の忘れ難い、竦(ぞつ)とするやうな氣分の伴ふ妙趣がある。

 この妙趣は珍異な光景のみから生ずるのではない。さまざま微妙な感覺や思想が織込まれ混じ合つて起るのだ。森や海の心地よい銳い香、悠々自由に吹く風の、血色を晴れやかにし、元気を快活にするやうな肌觸り、古びた神祕的な苔蒸せる石像の默々たる哀訴、千歲聖土と稱せらる〻地を踏むと思へば、油然として湧き起る一種敬虔の念、世々の巡禮の足に踏まれて、形のないまでに磨滅せる岩の階段を見ては、人間的義務として禁じ難き、信仰に對する同情の感など、一々數へ切れない。

 その外、消し難い記憶がある。靄(もや)の不思議な幕を隔てて、海を繞らせる眞珠貝の都を初めての眺め。天鵝絨の如く滑かで、跫音の立たぬ、褐色の砂地を越えて、可愛らしい島ヘ近づいて行く邊の風吹き渡る入口。靑銅の大鳥居の凄い莊嚴さ。輕快な露臺が銳い影を投げて、風變りて、高い勾配のある、奇怪な檐を有てる町。海風に搖らる〻、染めた布の暖簾や、謎のやうな文字を書いた旗。奇異な店肆の眞珠光り。

 それから、すばらしい日光の印象――神々の國の日光――西洋で見るよりも更に高き太陽。また、海と天日の間に聳ゆる、あの綠色で、神聖な、靜けき島の峯からの壯觀。また、神聖そのま〻の如く靈的で、光そのま〻に淸く白い雲を有てる空の記憶。また、その雲は實際雲でなくて夢か、或は一種の靑い涅槃に永遠溶け込まんとする菩薩の靈のやうに見えた。

 それから、また辨天――美の神、愛の神、雄辯の女神――の奇しき物語。彼女がまた海の女神と稱せらる〻のも當然である。その故は、海こそは語り手のうちで最も古く、最も優れたもの――久遠の詩人、韵律世界を振蘯し、宏辭何人も傚ひ難き神祕的讚歌の唱謠者ではないか?

[やぶちゃん注:「千歲聖土」江島神社は社伝によれば、欽明天皇一三(五五二)年に神宣に基づいた欽明天皇の勅命によって江の島の南の洞窟に宮を建てたのを始めとすると伝えるから、ハーンが訪れた明治二三(一八九〇)年からは千三百三十八年前となる。

「油然」老婆心乍ら、「ゆうぜん」で、盛んに湧き起こるさま、心に浮かぶさまをいう。

「靄の不思議な幕を隔てて、海を繞らせる眞珠貝の都を初めての眺め。天鵝絨の如く滑かで、跫音の立たぬ、褐色の砂地を越えて、可愛らしい島ヘ近づいて行く邊の風吹き渡る入口。靑銅の大鳥居の凄い莊嚴さ。輕快な露臺が銳い影を投げて、風變りて、高い勾配のある、奇怪な檐を有てる町。海風に搖らる〻、染めた布の暖簾や、謎のやうな文字を書いた旗。奇異な店肆の眞珠光り。」この部分、失礼乍ら、落合氏の訳は如何にもこなれておらず、詰屈にして聱牙(ごうが)である。「海を繞らせる眞珠貝の都を初めての眺め」等は、「都を」は誤植で、「都の」でないと、完全に躓く。愛する平井呈一氏の訳は以下の通り。

   《引用開始》

お伽の国の霧のヴェールをへだてて、海に囲まれた真珠貝の町を初めて眺めた時のあの景色。また、ビロードを張りつめたような、足音も立てない茶色の砂浜を、潮風に吹かれながら、美しい島へと、乗り込んで行った時のあの心持。唐銅(からかね)の大鳥居の、あの神がかりじみた荘厳味。高い露台の影をくっきりと投げている奇妙な坂町の、おかしな軒を並べた夢のような町。潮風にへんぽんとひるがえる色とりどりの染めのれんや、謎(なぞ)めいた文字を記した幟(のぼり)のはためき。あっと驚くようなあの店屋の中の真珠光。

   《引用終了》

「その故は、海こそは語り手のうちで最も古く、最も優れたもの――久遠の詩人、韵律世界を振蘯し、宏辭何人も傚ひ難き神祕的讚歌の唱謠者ではないか?」「韵律」は「いんりつ」で韻律、韻文の持つリズム、「振蘯」は振盪に同じく、激しく揺り動かすこと、「宏辭何人も傚ひ難き」は「こうじなんぴともならひがたき」と読んで、「宏辭」は宏詞と同じで、優れた詞章、「傚ひ難き」は真似することが出来ないの意である。う~ん、ここも落合先生、やっぱりちょっと詰屈聱牙で御座います。すみませんが、また平井先生のを引かさせて戴きまする。

   《引用開始》

なぜというに、海こそは、最も古い話術の名人、――海こそは、永遠の詩人、波の韻律をもって世界を震盪(しんとう)する、神の讃歌の歌い手ではないか。その海の大いなる調べは、いかなる人間も、これを学ぶことはできないだろう。

   《引用終了》

 最後に。……遂にハーンは江の島で弁天の像を見そこなったことになる。そのことについて、「一七」で、ハーンは中津宮に到達した時点で、『が、そこに辨天はゐない! 辨天は神道家の手によつて隱されてしまつた。この第二の祠は第一の祠と同樣に空虛だ』と既に述べて、この最後の部分では特にそれについて不服も何も述べていないのであるが、では実際には弁天像――正式には妙音弁財天女像――「裸弁財天」の別名で知られていた――幼女のような女性器を忠実に彫り込まれてあった――琵琶を抱えた形の全裸体座像の――彼女は一体、何処に居たのであろうか?――彼女は彼が『そこに辨天はゐない!』と心の内で叫んだその時この時! 確かにすぐ――ハーンのすぐ近くに居たのである! では、何故、拝観出来なかったのか?……それはかの悪名高き廃仏毀釈と、その会陰彫琢への好奇によって彼女が著しく傷ついて少女の惨殺遺体のようになっていたからであると考えてよい。……しかも管理していた江島神社の神官は、異国人であったハーンが破損が激しくても是非にと切に望んだとしても、恐らくはその秘所の彫琢の特異性に於いて、淫祠邪教の偶像と誤認されることを虞れ、殊更に見せようとしなかったものとも推理されるのである。私の所持する昭和二八(一九五三)年芸苑巡礼社刊の堀口蘇山著になる「江島 鶴岡 弁財天女像」によれば、以下のようにある。『神仏分離後、尊像は中津宮の一隅に居候した。裸形が奇心を呼びて土地の子供等が格子の間から竹棒で秘部を突いた』。『子供故に竹棒の先には大した力は這入らなかつた。それが為に秘部は胡粉が落ちたのみで』、『その中の核子』(彫琢されたクリトリスのこと)『は寸傷すら蒙らなかった』。『或る日には社司の眼を盗んで中に入り、お前一寸こつちへ来い。と呼んで手を引張り、足を引張つた。遂に』『手と足とを捥ぎ取られて紛失した』(同書にはその、現在あるように修復される前の損壊画像も掲げられてある)。さらにそこに『横向きになつてゐた爲か左の手足のみが損失しただけで、右手は完全に保存され右足は脚踉(ひざ)から先で、まあまあ不幸中の幸であつた。之は土地の古老二三人から聞いた実話であつて、その古老達はその徒小僧』(いたずらこぞう)であり、且つ腕白な餓鬼連中の『親分格であつた。当像が貴き尊体であることを私が説明をした。その時には古老連はそんなことゝは知らなんだ、勿体ないことをしてすまないと懺悔話を一入』(ひとしお)『して笑いつつ別れたことがあつた』とある。これは時代的に見てもハーンが訪れた時から時間が経っての後の話とは到底思われない、貴重な明治後期の話であろうと思われる。ここでは天女像が見られるようにではなく、横向きにした状態で、中津宮の格子のある場所に押し込められていたことが分かる。更に、同書には修理前の昭和四(一九二九)年春の当弁天像の保管場所についても、『中津宮の右側の上段に安置されてあつた』、『即ち修復前には此の上段の床下の一隅に破損したまゝ置かれてあった』ともあるのである(以上の下線は総てやぶちゃん)。……実際、同書に載る修復前の複数の写真を見る限り(正直、猟奇事件の惨殺遺体そのものである)、ハーンは見なくて正解だった、と、心底、私は思っているぐらいである。…… 

 

Sec. 19

   'And this,' the reader may say,—'this is all that you went forth to see: a torii, some shells, a small damask snake, some stones?'

   It is true. And nevertheless I know that I am bewitched. There is a charm indefinable about the place—that sort of charm which comes with a little ghostly 'thrill never to be forgotten.

   Not of strange sights alone is this charm made, but of numberless subtle sensations and ideas interwoven and inter-blended: the sweet sharp scents of grove and sea; the blood-brightening, vivifying touch of the free wind; the dumb appeal of ancient mystic mossy things; vague reverence evoked by knowledge of treading soil called holy for a thousand years; and a sense of sympathy, as a human duty, compelled by the vision of steps of rock worn down into shapelessness by the pilgrim feet of vanished generations.

   And other memories ineffaceable: the first sight of the sea-girt City of Pearl through a fairy veil of haze; the windy approach to the lovely island over the velvety soundless brown stretch of sand; the weird majesty of the giant gate of bronze; the queer, high-sloping, fantastic, quaintly gabled street, flinging down sharp shadows of aerial balconies; the flutter of coloured draperies in the sea wind, and of flags with their riddles of lettering; the pearly glimmering of the astonishing shops.

   And impressions of the enormous day—the day of the Land of the Gods— a loftier day than ever our summers know; and the glory of the view from those green sacred silent heights between sea and sun; and the remembrance of the sky, a sky spiritual as holiness, a sky with clouds ghost-pure and white as the light itself—seeming, indeed, not clouds but dreams, or souls of Bodhisattvas about to melt for ever into some blue Nirvana.

   And the romance of Benten, too,—the Deity of Beauty, the Divinity of Love, the Goddess of Eloquence. Rightly is she likewise named Goddess of the Sea. For is not the Sea most ancient and most excellent of Speakers -the eternal Poet, chanter of that mystic hymn whose rhythm shakes the world, whose mighty syllables no man may learn?

夢野久作「赤泥社詠草」8(後半全歌)/「赤泥社詠草」了

 

     赤泥社詠草

雛つれて畠に遊ぶにはとりも春の姿となりにける哉

春の雲むかしの人の旅のごと松の並木のうへをわたるも

眼さむれば吾が家にあらぬ淋しさよまことにまことに松風の音

   (大正八(一九一九)年三月七日) 

 

春の夕陽沈み果つれば力なく心も共にうなだれてかへる

春の小川闇より闇へ流れゆくおのが心もおのが涙も

村に入り村を出づれば新らたなる物思ひ湧く春の道すがら

   (大正八(一九一九)年三月九日) 

 

     赤泥社詠艸

かいつぶりいつもひとりで浮いて居るおれもひとりで淋しいが好き

わが朝の博物館に櫻散る木乃伊(ミイラ)の夢の數千年して

木蓮の夕陽を今日の名殘りにて唐銅鋲(からかねびやう)の山門閉す

   (大正八(一九一九)年三月十八日) 

 

     赤泥社詠艸

春の夜の心もともに更けゆくやおほあめ地(つち)のわれひとりして

此儘(このまゝ)に死にはせぬかと思はれて又眼をひらきともし灯を見る

家をめぐる樹はことぐく芽を吹きぬ室の掃除をふと思ひ立つ

   (大正八(一九一九)年三月二十一日) 

 

夕燒けの燃え立つ雲の下にして長きわかれとなりにけるかな

春の陽はさみしく沈みはてにけり麥の下葉のそとゆらぎけり

春の陽の沈まんとすれど丘の上の松のひと本みじろぎもせず

   (大正八(一九一九)年四月二日) 

 

春の夜のハーモニカ吹く人やたれ月薄雲を流れやまずも

まひる日中しんかんとして耳の鳴る雛芥子(ひなげし)の花咲き並ぶ畠

海の深さ一丈はかりと思はれぬ春の夕陽の沈み入るとき

   (大正八(一九一九)年四月三日)

 

わかわかく弱き祕め事知れりとや笑みつゝ春の陽は沈みゆく

春の夕陽汽車は野を越え川を越え笛もきこえずなりにける哉

春の夕陽空(から)荷馬車を引く人らこゑ高らかに語らひてゆく

   (大正八(一九一九)年四月四日)

 

黑服の巡査がよぎる麥畑の彼方に夏は近づきにけり

靑葉かげ金色の眼の靑蛙ひそかに夏を迎へける哉

此(この)日頃野山に殘る色も無し世はひたすらに梅雨に入るかも

   (大正八(一九一九)年四月五日)

 

莞艸のあから樣なる花の色六月にして日のよぎりゆく

靑空が故郷と云ひし基督(キリスト)はわれより淋しき男なりけり

灯をうつす轍(わだち)の跡の水たまり五月雨頃はもの思はする

   (大正八(一九一九)年六月一日)

 

[やぶちゃん注:「莞艸」森下愛理沙氏のブログ「森下愛理沙のブログ」の韓国の工芸品 その1 莞草工芸で、『莞草で作られる小物入れや器「莞草(ワンチョ)」とは、イグサによく似た、日本名カンエンガヤツリ(カヤツリグサ科)という1年草で、韓国では「ワンゴル」とも呼ばれています。この莞草を編んで小物入れや器を作る「莞草工芸」は、韓国の代表的な伝統工芸のひとつです』。『ワンゴルは湿地帯に生息し、背丈は長いもので2メートルにも達します。日本では絶滅危惧種の類に指定されている非常に珍しい植物です。仁川(インチョン)広域市の江華島(カンファド)は、古くから良質の莞草が生息していることで知られ、今もなお最大の莞草生産地です。江華島の莞草は、柔らかくて強く、白色で艶があります。より白いものにするために、刈り取った莞草の皮を1枚むいて使う地方もありますが、江華島の良質な莞草は皮をむかずに使われるのが特徴。皮をむいたものに比べ、艶と丈夫さを兼ね備えているのです』。『ござからさまざまな容器にいたるまで、色や柄も多彩な莞草(ワンチョ)工芸は生活に必要な道具に活用されてきました』とあった(以下、解説が続き、非常に美しい箱細工や製作工程の写真もある。必見)。これは単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属カンエンガヤツリ(灌園蚊帳吊)Cyperus exaltatus var. iwasakii で和名は江戸時代の本草学者岩崎灌園に因むものである。帰化植物であるが、本邦では限定的にしか植生せず、森下愛理沙氏のおっしゃるように、本のレッドデータ検索システムを見ると絶滅危惧類(VU:Vulnerable /危急)に指定されており、現在は久作のいた福岡には植生しない。但し、見ると、隣りの山口に分布が認められる(但し、ほかの情報を見ると、本来は本邦でも関東以北の分布である)から、久作の誤認とは言い切れない。カンエンガヤツリの花序は調べみるとなかなかに大形でレッドデータち」同種記載によれば、複生し、花穂の長さ二~四センチメートル小穂は長さ五~七ミリメートルで十~二十個の花をつけるとある。一応、グーグル画像検索カンエンガヤツリをリンクさせておく。「あから樣なる花の色」と言えなくもない。ただ、久作がもっと一般的な私たちも普通に見かけるカヤツリグサ属 Cyperus 類のどれそれを「莞艸」と表記した可能性はある(というか高い気はする)。ただ、花期は九から十月とあって歌の『六月』と合わないから、やはりこれはカヤツリグサ科の別種と考えた方が良いかもしれない。寧ろ私は久作がそいの「花の色」を敢えて「あから樣な」色とした理由に心惹かれる。実は全くの直観であるが、これには何かセクシャルな意味が隠れているいるような気もするのである。

 以上を以って「赤泥社詠草」は終っている。]

電車の中の軍人に   村山槐多

 
 
  電車の中の軍人に

 

俺の電車が走つて行く

外は五月のすばらしい野だ天だ

東京の郊外を走り飛ぶ

俺の好きなボギー車に俺は居る

 

恐ろしい醜惡の人々を滿載したな

第一に泥でこね上げた田舍おやぢが五六人

臭い樣なポーズをとつて居る

それから日本語をしやべる女異人

抱かれて泣きわめく白子の樣な赤ん坊

 

一面の糞色、にきび、腐つた脂肪

臭い息、無智な大馬鹿共

それらがこの電車の中でうようよとして居る

それから過淫に疲れた女の皺だらけの顏

 

俺はふと躍り上つた

俺の横なる二人の士官の

健康の威嚇に

何と云ふ美しさだ

 

強い黄色人種我等の戰士

俺は君を讃嘆する

君のその隆々たる容貌と態度とが

俺の腐つた下落した心を高める

 

軍人よ軍人よ

俺は下らない繪を描いた覺えがある

その不滿と悔とが俺を泣かせる

俺は苛立たしくもかく灰にまみれて居る

 

然るに君は何とした誇りに輝いて居る事よ

カーキー色の歩兵士官よ君には

畫學は何でもなからう

君の一擊は俺の生命を立ところに奪ふことであらう

 

ああ俺は君をうらやむ、ねたむ

君には畫の不滿がない

然るに俺にはある、俺は神經衰弱だ白痴だ

君はすばらしい精氣にダイヤモンドの如く輝やく

 

俺はかなしくなつた

だが見ろ今に俺が君の如くに輝やくぞ

君の劍が君の腰に光る如く

俺の誇りが必ず輝やくのだ

 

ああ電車は走る走れ、早く走つてしまへ

俺も今に走るぞ

この光榮ある軍人に負けない光榮の天に

走り込んで見せるのだ

 

愚な馬鹿

劍を吊つた□有難い帝國の干城よ

貴樣は何をさういばつて居るのか

新兵の□□どもよ。

 

     ×

あらゆる「しな」を去れ

直情の人であれよ

貧乏たい飾を去れ

そして眞底の一つの塊であれ

たとへそれが小さく醜くとも

「眞は」「眞」だ

眞は輝やくであらう

僞金の山より

一匁の金は貴といのだ

確かに「眞」であれ

ただ一つであれ

簡單であれ眞劍であれ

それによつて汝は汝の藝術は

自由と鋭利と豐饒とを得る事が出來る

幸に永遠の快樂に達し得る

 

    ×

おれが言葉を役する時不用意を極めて居た事よ

それは俺の思想が痛ましい雜淫に依て荒されて居たからだ

單純にせよ、すくなくとも

そしてそれと共に俺の言葉も單純にならなければならぬ

單純にして死活的なる事ピストルを出る彈丸の如くであらねばならぬ

おれの喉をピストルにせよそして沈默せよ

べろべろしやべるな

沈默が靈を貴くするだらう

 

    ×

何と云ふ耐へ難い悲哀であらう

俺は悲哀の海底に沈められた瓶中の惡魔だ

何をして居た何をして居た。何を俺はして居た

俺の劣等な低い現在が俺を苛立たせる

すべてが破滅だ

すべてを棄てなければ駄目だ

俺は俺のとぢ込められた卑劣な下惡な牢獄から

とびださなければならぬ

空の樣に海の樣に自由な世界ヘ

チシアンのロダンのグリース人の世界へ

躍進しなければならぬ

この耐へ難い苦痛の中から

一足飛びに飛ばなければならない

俺は飛ぶのだ飛び上るのだ。

 

   ×

概念に依て作畫する輩よ

俺も過去はそれであつた

汝等の仲間であつた

ああ、が今となると俺は強い自信を以て言ふ

「貴樣等は豚だ」と

俺は豚から飛び出した一つの神靈だ

ああ出鱈目の繪畫

面もなく色もない繪よ

 

    ×

逃亡よ

逃亡よ

おれは汝を戀して居る

おれは逃げるのだ

この世界から

眞實唯一の俺の世界へ

逃げよう逃げよう

 

    ×

ああ東京よ

俺の豚小屋よ

俺は一つの魔法を持つて居る

その魔法が何日使はれるかは俺も知らぬが

その時汝はかつと金色に輝やくであらう

豚どもも人間と變るであらう

有難くその時をまつて居ろ

 

    ×

小さくうれしがり

小さく成功する馬鹿者よ

お前はみゝずだ

お前の藝術は泥だ

お前はそれをはき出したのだ

その泥がきれいだらうが汚なからうが

それが一體何だおれにかなふか

さめきつたおれに。白晝の天子に

おれは天子だ

天子の仕事はさう容易には汝等に

みみず共に賞揚されぬ

 

 

[やぶちゃん注:異様な長詩で前半の現実の情景は後半では情念に呑み込まれてゆく。伏字のある第十一連については、編者山本太郎氏の推定復元注記がある。それに従った第十一連のみを以下に示す(厳密には復元字の著作権は山本氏にあるが、これを以って著しい著作権侵害を行っているは私は思っていない。なお向後、この私の見解は略す)。

   *

愚な馬鹿

劍を吊つた猿有難い帝國の干城よ

貴樣は何をさういばつて居るのか

新兵の軍人どもよ。

   *

因みに「干城」は「かんじやう(かんじょう)」で国を防ぎ守る軍人や武士のこと。「詩経」「周南」の「兎罝(としゃ)」(兎罝:兎を捕るための目の詰まってしっかりした網のこと)に基づく。「干」は盾の意である。

「ボギー車」鉄ちゃんでない私は注を附けねばならぬ。ウィキの「ボギー台車」に拠れば、これはボギー台車を装備した鉄道車両の名称で、『車体に対して水平方向に回転可能な装置をもつ台車の総称』である。『車体の短い小型車では、車体と2本の車軸を直接サスペンションでつなぐ固定二軸車で対応できたが、次第に大量輸送手段として鉄道が普及してくると、車体長を大型化しても曲線通過に支障がないよう、車体とは独立してある程度回転できる機構を採用した』ボギー台車を附けたボギー車が登場した、とある。]

第五連二行目「俺は君を讃嘆する」は「全集」では「俺は君を讃美する」となっている。不審である。確かに表現上は「俺は君を」であるなら「讃嘆する」のではなく、「讃美する」の方が用語としては正しいがしかし、それは修辞の厳密性というレベルの問題でしかない(なお、これまで注していないが、底本自体がここまで「讚」ではなく「讃」の字体を用いている)。

第七連四行目「立ところ」はママ。「全集」は「立どころ」となっている。

第八連四行目「輝やく」はママ。今までも、槐多の好むこの用語の場合には必ず「や」を送っている。彼の癖であり、私は実は全く違和感を感じない。従ってこの「輝やく」のママ注記はこれを以って省略する。

第十二連(最初の「×」直後の連)三行目の「貧乏たい飾を去れ」はママ。読みは不明。「全集」では「貧乏くさい飾を去れ」と〈読み易く問題なく〉書き直されてある。しかし本当にこれは「貧乏くさい」の誤記或いは誤植であろうか? これを以って槐多は「貧乏(やぼつ)たい」と読ませる積りでなかったと言い切れようか? 私は「貧乏くさい」という言葉を別な類語にせよと言われれば直ちに「野暮ったい」という語を思い浮かべる。この二語の相性は思いの外よいのである。

同じ行の「眞底」は恐らくは「しんそこ」で、心底、心の奥底の謂いと読む。

同じく十二連六行目の『「眞は」「眞」だ』の鍵括弧位置はママ。「全集」は『「眞」は「眞」だ』と補正する。

同じく十二連九行目の「一匁」は「いちもん」(一文。はした錢)と読みたい。

同「貴とい」はママ。「全集」は「貴い」と訂しているが私には違和感は全く、ない。「とうとい」は例えば感動詞の場合に「貴と」と表記するからである。但し、次の連の最後で槐多は「貴くする」と送り仮名を現行のようにも振っている(因みに脱線するが、私は私自身の自動認識作用として「貴い」は「とうとい」、「尊い」は「たっとい」としか読めない人間である、その相互入れ替えはあってはならない、両者の訓は厳然と区別されるべきであると考えている人間である)。

第十三連二行目「それは俺の思想が痛ましい雜淫に依て荒されて居たからだ」は「全集」では何故か、

   *

それは俺の思想が痛ましい雜淫に依て

荒されて居たからだ

   *

と改行されている。従えない。

同じく十三連の後ろから二行目「べろべろしやべるな」はママ「全集」では「べらべらしやべるな」と訂されてある(繰り返し部分は底本も「全集」も孰れも実際には踊り字「〱」である)。「ら」は確かにしばしば「ろ」に判読を誤り、また植字・校正時にも誤り勝ちではある。従って「べらべら」の訂正が正しい可能性は頗る高い。高いが、私は従えない槐多なら如何にも「べろべろ饒舌(しゃべ)るな!」と言いそうだからである

第十四連七行目にある「下惡」はママ。あまり聴き馴れないが違和感も不審もない。「全集」もそのまま採っている。

同じく十四連十行目「チシアンのロダンのグリース人の世界へ」の、

「チシアン」は槐多の好きだった「ウルビーノのヴィーナス」で知られるイタリア・ルネサンスのヴェネツィア派を代表する巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio 一四八八~一四九〇年頃~一五七六年)のこと。当時は“Tiziano”をかく音写していた。

「グリース人」は無論、“Greece”でギリシャ人。

第十七連四行目「その魔法が何日使はれるかは俺も知らぬが」の「何日」はママ。「全集」は「何時」となっている。]

鏡に   村山槐多



  鏡に

 

「鏡を見ろ鏡を、泣くな、しつかりと見入るんだぜ

お前の顏がお前を見て居るぜ

その顏は猿の死顏だ

人間の顏ではない」

 

「あれは猿さ、俺ではないのだ、だが俺も同然だ

俺が旨く手なづけた可愛い猿さ

俺はあの猿を分捕る爲にはずい分苦しんだ

末やつと手に入れた實に可愛いゝ猿なのだ」

「お前には可愛いいかもしれぬが

俺にはずい分と憎らしいぜ

あの眼玉はあの口はあの鼻は俺を戰慄させる

何と云ふ醜惡であらう

 

「はつは俺を貴樣は何だと思ふのだ

つむじまがり、天のじやくと云ふのが俺の事だ

俺はお前が戰慄する程な醜惡に

戰慄する程な美を感じる人樣なのだ」

 

「負をしみを言ふな どう言つて見た處で

お前は猿だ はつは、お前は猿だ猿だ」

 

 

[やぶちゃん注:二箇所の「ずい分」はママ。「全集」では二箇所とも「ずゐ分」とする。

第二連の二つ目の直接話法を示す鍵括弧は最後の閉じるがない。「全集」では第二連目の最終行「何と云ふ醜惡であらう」で、

   *

何と云ふ醜惡であらう」

   *

と閉じている。他の部分がすべて会話によってのみ構成されている詩篇の特徴から考えてもそうあるのが自然ではあり、鍵括弧を槐多が打ち損なったか、誤植の可能性が非常に高いとは思われる。ここはしかし、敢えて底本に従っておいた。因みに思うに、この第二連目は全体の詩篇構造としては、以下のように二つの連に分けた方がよいようにも思われなくもない(「全集」に従い、脱落している鍵括弧を挿入した)。

   *

「あれは猿さ、俺ではないのだ、だが俺も同然だ

俺が旨く手なづけた可愛い猿さ

俺はあの猿を分捕る爲にはずい分苦しんだ

末やつと手に入れた實に可愛いゝ猿なのだ」

 

「お前には可愛いいかもしれぬが

俺にはずゐ分と憎らしいぜ

あの眼玉はあの口はあの鼻は俺を戰慄させる

何と云ふ醜惡であらう」

   *

但し、二者(というよりも一人の槐多の中の二人の槐多)の言い掛け合いとして、本第二連の拮抗を効果的にぶつけ合うには寧ろ、本篇のように繋げた方が効果的とも言える。]

2015/07/07

號令に   村山槐多

  號令に

 

「進め進め進め」どこからか

物凄い號令がきこえる

俺はでは進まう

 

無闇に進まう

とにかく俺は人間だ

猿かもしれぬが

そして東京市外田端で

一九一五年五月かうやつて生きて居る

進んで居る

進めと云ふなら

もつと進まう

どんどんと進むぜ

おいその號令の聲よ

君の要求はきつと滿足さしてやるぞ

俺は進むのだ

球の躍り   村山槐多

 
 
  球の躍り

 

美しい玻璃の球が

絶えまなく轉がる

その色は靑だ。薄紅だ。強い紫だ

金だ。きびしい銀だ

その感じはあでやかであり喜びである

またすがすがしくかなしく狂染みて居る

何とした日であらう

絶えまなくそれらにぶつかり

絶えまなく躍つて居る

俺は躍つて居る

それらの美しい球がまあ一秒一秒の

俺の感情かしら

 

それならば俺はぶつつかつた

十二時間に四萬三千二百の

すべて達つた色をした玻璃のその球に
 
 
 
 
[やぶちゃん注:「絶えまなく躍つて居る」「全集」はここを「ゐる」とし、しかし次行の「居る」はママである。一向に理解が出来ない。]

綠金の鷄   村山槐多

 
 
   綠金の鷄

 

綠のにはとり

重たく歩き

鋭どき瞳こそ

黑くきらめけ

 

あはれ美しき

うすらあかりの

四月はじめつかたの

山國の高原

 

歩け歩るけ

重たく歩け

眞紅の連山

藍を帶びてならぷ

 

なれこそは綠のにはとり

小さきルビイのとさか

精力の錆か

數點の黄金

    ×

俺は易々としてさう言ひ得るのだ

 

したい事はしろ

したくない事はするな

此二途を嚴格に扱はなければならぬ

汝の生活はかくして輝やく事が出來る

 

意志を尊重しろ

末葉の感情をほろぼせ

そしてどんどんと奔流と共に流れろ

あゝ その他に吾道はなかつたのだ

 

    ×

したければする

したくなければしない

俺の生活は是だ、是だ

この他に何物があらう

 

總てを「村山槐多」と云ふ奔流に投げ入れ

俺もたゞそのまゝに進むばかりだ

ぶつかる何物かよ

俺は汝が必ず貴く得がたき物なるを信ず

 

一九一五年五月の汝は醜劣を極めて居る

汝はおつちよこであり拙なる役者である

あゝだがそれも奔流の一路だつたのだ

忘れ去らう、そして進まう

 

薔薇色の空は靑色と化し

靑空は夜空となる

不思議な天空の神秘が

俺の生活の中に隱れて居る

 

俺は強大なる藝術を創造するであらう

すばらしい覺世界を内にするであらう

それはわかり切つた事だ

 

 

[やぶちゃん注:「鋭どき」「歩るけ」「輝やく」はママ。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 榮螺

 

【和品】

榮螺 漢名未知順和名佐左江中夏ノ書ニ出處未

見之本邦ニ甚多シ頗佳品トス無毒然レ𪜈堅硬ノ物

不益人殻ニ角多キアリ無角アリ鎌倉ノ海ニ左顧ノ榮

螺アリ下ノ半邊ノミアリテ小ナリメクリニ角アリイツレモ

左ノ方に顧ル生ナルヲヨク打テ煮レハ軟ニナル

やぶちゃんの書き下し文

【和品】

榮螺(サヾヱ) 漢名、未だ知らず。順が「和名」に『佐左江(サヾヱ)』。中夏の書に出づる處、未だ之を見ず。本邦に甚だ多し。頗る佳品とす。無毒。然れども、堅硬の物、人に益せず。殻に角〔(つの)〕、多きあり、無角あり、鎌倉の海に左顧(まき)の榮螺あり、下の半邊のみありて小なり。めぐりに角あり。いづれも左の方に顧〔(まく)〕る。生なるをよく打ちて煮れば、軟かになる。

[やぶちゃん注:腹足綱古腹足目サザエ科リュウテン属 Turbo サザエ亜属 Batillus サザエ Turbo cornutus 或いは Turbo (Batillus) cornutus 寺島良安和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部から「榮螺」を引いておく〔 〕内は私の訳)。

   *

さざゑ

     【和名、佐左江。】

榮螺

「和名抄」に「食經」を載せて云ふ、『榮螺子は蛤に似て圓き者なり。』と。

按ずるに蚌(ばう)は長く、蛤(かう)は團く、螺(ら)は曲り尖る。此の物、螺の屬にして蛤に似ず、體、團くして、尾、盤曲(めぐ)り尖り、外、灰-皁〔黒。〕色。岨(たかひく)あり。内、白く、口、圓く深く、厴(へた)、圓く厚く堅く白色にして、細小なる鮫粒〔鮫肌のような粒状突起。〕有り。裏、赤褐色、滑かなり。之を煮て、厴を脱(のぞ)き、其の肉、一端は黑く、一端は黄にして、中は白く、尾は長く、盤-屈(めぐ)りて、碧色にて腸を包む。肉味、甘くして、硬く、厚し。腸・尾を去りて切りて、醤油を和して再たび殻に盛り、之を煮熟して食ふ。之を壺熬(つぼいり)〔或いは「つぼやき」と読んでいよう。〕と謂ふ。攝〔摂津。〕・泉〔和泉。〕の産は、小さくして圓く、殻背、甚だ麁(もろ)からず。角(つの)無く、味、最も勝れり。或は生ながら炭火に投じて、厴、開くを俟(ま)ちて、醤酒に和して、煮て食ふ。腸、苦く、而も亦、佳なり。之を苦燒(にがやき)と謂ふ。諸螺の中、特に上饌に充つ。關東の産、殻、角有りて、大なり。

[やぶちゃん字注:=「山」+「吾」。]

   *

因みに、良安は他には附している中国音を「榮螺」には附していない(次注参照)。

「漢名、未だ知らず」現行の中国語では「角蠑螺」であるが、時珍「本草綱目」(明代)には載らない。但し、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「サザエ」の項には(コンマを読点に代えた)、何故か、食の王国のはずの『中国人はサザエをさして珍重せず料理書をみても、サザエを使った料理はほとんど見当たらない』とされつつ、唐代に書かれた陳蔵器の「本草拾遺」には、『サザエの蓋を焼いて粉末にしたものは、疥癬や頭瘡を治したり、ヘビやサソリやハチに襲われたさい、その痛みをやわらげる効果があると』記してあるとあった。この原文を探してみたところ、中文サイトの「香」解説に「本草拾遺」から『主甲疽、瘺瘡、蛇蠍蜂螫、疥癬、頭瘡、瘡』と引くのを見出した。しかもこの解説文中には『蠑螺』とある。「蠑螺」は現行では「珠螺」などの古腹足目サザエ科リュウテン属リュウテンサザエ(龍天栄螺)Turbo petholatus などの本邦のサザエを含むリュウテン属 Turboの漢名である。

「中夏」中華。「大言海」には、「夏」は「華夏」の略でかの古代中国の国であった「夏」又は「夏」で大きいの意、とある。

「殻に角、多きあり、無角あり」私は和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部の「榮螺」の前項の「にし/あぎ 蓼螺」(アカニシ)の注でこれらの腹足類は同種であっても、生息域が外洋に面し波浪が強ければ有角となり、比較的波の穏やかな内湾のものは無角となると述べ、今までそう思っていたのであるが、今回、ウィキサザエを読んだところ、『殻に棘があるものと無いものがあり、それぞれ有棘型、無棘型と呼ばれるが、棘の発達の度合いは色々あり、成長の途中から棘が出たり、あるいは消失したりする場合もある』(但し、この箇所には要出典要請が求められている)。『棘の発達した外海の個体を水流のない水槽などに移して飼育すると、その後は多くの個体で棘を形成しなくなり、逆に棘の発達しない個体を外海に放流すると棘を形成することが知られている。このため、かつては「波の荒い外海に棲む個体は流されるのを防ぐために棘を形成し、波の荒くない内海ではその必要が無いため棘無しになる」という説があった。しかし、実際には波の荒い地域であってもトゲ無しの個体が確認され、またその逆の場合も存在し、飼育実験でも個体によっては棘の有無と水流とが合致しない例もあることから、棘の有無には環境要因と遺伝的要因の両方が関与しているのではないかと考えられるようになった』(但し、この箇所にも要出典要請が求められてはいる)とあった。この筆者の説を以って貝類蒐集家たる私もそれを支持するものである。

「鎌倉の海に左顧(まき)の榮螺あり、下の半邊のみありて小なり。めぐりに角あり。いづれも左の方に顧〔(まく)〕る」「新編鎌倉志卷之七」の現在の逗子の「杜戸明神」の項に、

   *

賴朝の泉水 岩間(いはま)に淸冽たる水あり。昔は左卷(ひだりまき)の榮螺(さざい)あり。若し是を得れば神物なりとて、其の儘(まま)海へ歸(かへ)し入るゝなり。又此の砂濵に相思子(すがい)も多くあり。

   *

とある。この「左卷の榮螺」について、私はそこで以下のような注を附した。

   *

腹足類(巻貝)の巻きの方向は貝の頂頭部を上にして、殻の口が見えるように持った際、殻の口が向かって右側に見えるものを右巻き、左側に見えるものを左巻きと規定する。通常、巻く方向は種によって定まっており、腹足類の九割の種は右巻きと言われる(右旋回する理由はよく分かっていない)。但し、左右両巻きがどちらも存在する種にあっては内臓の配置も左右逆になっていることが確かめられており、現在の知見では巻く方向は、単体の遺伝子若しくは強く連鎖した複数個の遺伝子によって決定されていると考えられていることから、サザエの特異な左巻き個体出現し(発見論文を確認したわけではないが存在するようである)が常に「神物」として、特異的に同一海域に戻されプールされ続ければ、森戸の海岸に左巻きの遺伝子を持ったサザエが多く生息していたとしても不思議ではないように思われる。

   *

なお、平凡社の「世界大百科事典」のサザエの項の「民俗」に千葉徳爾氏が『巻貝としては右巻きのものが一般的であるが、左巻きのサザエもあり、《鎌倉巡覧記》に見える源頼朝が舟遊びのときに左巻きにしたサザエをまいたので、鎌倉産のサザエは皆左巻きになったという伝説は、それがまれなものであるということを説明するものであった』(コンマを読点に代えた)と記しておられるのであるが、肝心の、この出典である「鎌倉巡覧記」というのは、上記の「新編鎌倉志」の原型となった「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の誤りである。当該部はその「杜戸」の条で、『左リ卷ノ采螺、昔ハアリシガ、今ハナシト也。若是ヲ取レバ神物也トテ、其僅海へ歸シ入ルト云』とあるのを指す。但し、この益軒の言うところの「左巻きの栄螺」であるが、下の半分位しかない、即ち、螺殼の巻が異常に小さく、その周囲に有意な棘が出るというのは正直、非常に不審である。もしかすると全く異なった別な貝を誤認している可能性もあるやに思われる。]

走る汽罐車   村山槐多

 
 
  走る汽罐車

 

鋭どくも走れる汽罐車は

幾度かわが眼に入りぬ

さながら紫の矢の如く

わが心を驚かしき

 

田端ステーシヨンを眺めんが爲め

いくたびかわれは道灌山に立ちたり

ますぐなるレールのその平行の確實さの

あまたあるうれしさを味はひにき

 

幾度か汽罐車は走せ過ぎにき

いと快活にいとはやくも

われはそを見る毎に嬉しさの心に充ち

躍り上りき

 

走れる汽罐車はそのけむりを

呼吸の如く天に投げて走りぬ

生きたるが如きその疾走は

うら若く美しかりき

 

常にそは走れり

ステーシヨンの構内なれば

たゞ一臺にてそれ走りまはれり

放たれたる鳥の如く

 

たゞ一臺自らのみをもて走れる

愛すべき汽罐車

われはそを見る毎に

われもまたその如く走らんと心に思ひき

 

小さく走りゆく汽罐車は

幾たびかわが眼に入りぬ

それ常にわが眼に入れたきかな

われは走る汽罐車を常に愛すれば

   ×

薄靑き一月の晴れたる空に

たそがれの冷めたくきたる

岩石の如き常磐樹の群は

靜かに默す

 

たゞひとり

薄紫の道路をかへれば

わが足はこごえ

わが心はさびし

 

ふとかゝる時たくましき君が肉の

熱さはわが心に再生す

わが心に思ひ出らる

 

黄なるココアの腕のけぶるが如く

わが心に君の思ひ出は

美しく立ちのぼるなり

 

 

[やぶちゃん注:想像した通りに――私藪野にとってである――展開する詩篇である。

「鋭どくも」はママ。

「走せ」は「全集」では「走(は)せ」とルビする。

「靜かに默す」この一行は問題で、「全集」では「靜に默すか」となっている。不審である。

「黄なるココアの腕のけぶるが如く」の「腕」は若い頃は「椀」の誤字ではないかと思っていたが、今の私は――これは確かに「腕(うで)」でなくてはならぬ――と独りごちている。……]

雪ふりの夜   村山槐多

 
 
 雪ふりの夜

 

紫の雪ふりの打つゞき

美しきその夜の空氣に

わが鐵色の神經は濡れたり

わが思は打沈むなり

 

紫濃き夜のうちを

しとしとゝ雪はやまず

地は白く濡れはてたり

わが思ひも濡れはてたり

 

あゝ冷めたきこの雪の夜を

われは過ごさんとする美しきわが友と

氷の如き床の上に

にほやかなるわが友の寢衣すがたほのかに光り十時靜かに鳴る

かなしきかなわれらはねむらんとするなり

 

 

[やぶちゃん注:「わが思は打沈むなり」の「思」はママ。「全集」は「思ひ」と送る。また、「全集」は「にほやかなるわが友の寢衣すがたほのかに光り十時靜かに鳴る」を「にほやかなるわが友の寢衣すがたほのかに光り」で改行し、「十時靜かに鳴る」を独立行としているが、これには私は従えない。これは底本通り、「にほやかなるわが友の寢衣すがたほのかに光り十時靜かに鳴る」で一行であるべきである。]

夢野久作「赤泥社詠草」7(特異点短歌十八首掲載)

 

落葉林そこあかとなきさみしさに眞晝の月を見出ける哉

 

此(この)窓の足のめさめに今日の事忘れんとおく白菊の鉢

 

冬の日は遙かに遙かに西へ落ち又羽織も着ずに樹に依りてあれば

 

吾が心今しも吾に歸りくるか黄蠟の灯の瞬き息(や)まず

 

[やぶちゃん注:「灯」は久作が小説中でも好んで「燈」と差別化して用いる字であり、後掲する一首には底本自体が「燈」とするものがあることから、本字で示した。]

 

枯野行けば我肩にそと日の照りて何か囁く春近きかも

 

淋しきは吾が性(さが)なれば今宵又春雨の窓閉(とざ)さずて寢(い)ぬ

 

田の中に一本柿の紅葉せるを人指(ゆびさ)せり秋高晴るゝ

 

美しき毛蟲が悶(もだ)へて這ひまはるビイドロ瓶の夏の夕暮

 

吾(わが)馬鈴薯のごと可笑(をか)しければ切れば切る程いくつも芽を吹く

 

秋眞晝半ば見開く眼の中に大鳶(とび)一つ冷ややかに舞ふ

 

吾家の何處かに蜂が巣を掛けて見當らぬ儘冬となりゆく

 

秋の風吹きしく中にもろこしの實をもがれつゝなほたちてあり

 

秋の空いと高ければ風見車日ねもすめぐりめぐりやまずも

 

驛長の赤き帽子の悲しさよ此(この)山峽の春の黄昏

 

[やぶちゃん注:「山峽」は「やまかひ(やまかい)」と訓じたい。]

 

染々(しみじみ)と吾身一つの愛しさよ雪降る窓の燈を消す

 

吾が胸の何かの悲しさ羽ばたきて雪の野渡る一羽の鴉

 

赤き硝子(ガラス)靑き硝子を眼に當てゝ兒(こ)等遊び居り秋高晴るる

 

[やぶちゃん注:「秋高晴るる」は「あきたかばるる」という一語として詠んでいるように私には感じられる。]

 

旅にして悲しき夢の多かりきわけて今宵の窓打つ霰

 

   (大正八(一九一九)年二月二十七日)

 

[やぶちゃん注:短歌十八首一挙掲載の特異点である。先に示した国立国会図書館レファレンスには、大正八年二月二十七日(木)(第一〇一七〇號)・一面・杉山萠圓「無題」(短歌十八首)、とある。]

夢野久作「赤泥社詠草」6

     闇

 

五位鷺(ごゐさぎ)の啼きすぎし闇のたゞ中にわれひとりが心みつむる

 

腕は腕に足等は足におのがじゝわれに背(そむ)きて酒のめといふ

 

秋まひる塵風(ちりかぜ)起す街をゆくわがふところのあばら撫でつゝ

 

   (大正八(一八一九)年一月二十七日)

夢野久作「赤泥社詠草」5

      ペン

 

神よきけみにくき土の凝(こ)り凝りて男となりし吾(わが)恨みきけ

 

いざゝらば三界の罪に手をけがし人生(う)む神の打たむ哉

 

闇の中血潮したゝるペンのあり空に書きけり今われ死すと

 

   (大正八(一八一九)年一月二十二日)

夢野久作「赤泥社詠草」4

     まごゝろ

 

中國の水無き川の石河原白く流れて冬は來にけり

 

わが性(さが)と人はいひて止みなまし天(あま)そゝろ木を仰ぎなげくは

 

わが庭の草枯れ雲もゆき絶えて眼(ま)のなたりなる冬のまごゝろ

 

   (大正八(一八一九)年一月十九日)

夢野久作「赤泥社詠草」3

 

戀知らぬ男と生れ三十の秋のいく日をわれ老(おい)んとす

 

[やぶちゃん注:夢野久作の生年は明治二二(一八八九)年であるから、この年は数えで三十であった。]

 

いつはりのみちし世なるになれも亦枯れ木の森に高なくか鵙(もず)

 

[やぶちゃん注:加藤楸邨の「人間をやめるとすれば冬の鵙」より遙かに抒情性が高く、枯葉の匂いがする。]

 

冬されば貴族の如き戀をして乞食の如く死なむとぞ思ふ

 

[やぶちゃん注:既にして「猟奇歌」の臭いがしてきた……。]

 

   (大正七(一八一八)年十二月二十二日)

夢野久作「赤泥社詠草」 2

 
 
稻負へば音さやさやと耳に満ち胸にあふれて足急がるる

 

穩順(おとな)しく寢(い)ねよと母は叱れども子は泣きかまで霜の夜更けぬ

 

わが庭の落葉の塚を燒き了へて心靜に冬を待つかな

 

   (大正七(一八一八)年十二月五日)

夢野久作詩歌集成 始動 「赤泥社詠草」1

夢野久作が雑誌『探偵趣味』『猟奇』『ぷろふいる』の三誌に昭和二(一九二七)年から昭和一〇(一九三五)年にかけて、断続的に「猟奇歌」と総称される一連の怪奇幻想趣向に満ちた短歌群二五一首を発表していることは、まさにその猟奇性ゆえに頓に知られる事実である。

但し、大正六(一九二七)年の雑誌『黒白』で本格的な作家活動を始める二年も前、大正四(一九一五)年の佐々木信綱主宰の竹栢会の知られた短歌雑誌『心の花』に既に杉山萠圓(ほうえん)或いは杉山泰道(彼の本名は直樹。孰れも正に同年出家後の法名)の署名で短歌を発表していた事実は凡そ一般に知られているとは思われない。と言っても私も一九九六年葦書房刊の西原和海氏編の「夢野久作著作集」によって初めて知って驚愕したのであるが、驚愕はそれのみ止まらない。西原氏の丹念な発掘によって例えば、大正六四月には萠圓名義で書評「翡翠を読んで」を『心の花』に載せている(西原編「夢野久作著作集 6」の作品年表に拠る(但し、これは残念なことにデータのみで著作集には所収していない)。この「翡翠」とは何を隠そう、の(!)芥川龍之介書評それ、龍之介が最後に愛した才媛、片山廣子の処女歌集「翡翠」(「かはせみ」と読む)以外の何物でもないではないか!

西原氏の著作集には第一巻と第六巻に夢野久作の詩歌が載る。西村版の著作集は現在最良の夢野久作作品集の校本であり、例えば「猟奇歌」などは、第一書房版全集も一九九一年~一九九二年刊行のちくま文庫版十一巻全集(私は所持しない)のそれ(青空文庫版は後者を底本とする)には、何と、久作の作歌でないと断じられる無署名作品八首が含まれていることが指摘されており、西原氏は第六巻解題に於いて、『「猟奇歌」は、本巻に集成した形をもって、いわば〝定本〟の体裁を有したことになる』と述べておられるのである。

されば、他人の歌が混入していない正しき「猟奇歌」の電子データが公にされる必要があると私は考える。

ただ、それだけでは私の節が満足しない。

そこで底本としては西原氏の第一巻に載る、夢野久作若き日の詩歌群から始めて、第六巻の、後の「猟奇歌」を含むミステリアスな歌群までをここで電子化し始めることとする。

そして私のいつものテクスト・ポリシーに則り、戦前の作であるこれらについては、漢字を表記を恣意的に正字化して示すこととする。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

では……。

 

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「赤泥社詠草」である。これは西原氏の解題によれば『九州日報』大正七(一九一八)年十一月二十四日号~翌大正八年六月一日の間に断続的に十六回発表された夢野久作こと「杉山萠圓」(署名)の短歌六十三首である。『九州日報』(後の『西日本新聞』)は父杉山茂丸(玄洋社系国家主義者の巨魁)が社主を務めたことがあり、久作はこの投稿途中かその直後かに同新聞社の記者となっている((第一書房版年譜に拠る。大正十一年より同『九州日報』の家庭欄に多くの童話を発表し始め、大正一三(一九二四)年三月一日に同社を退社している))。掲載情報は底本に従い、後に( )で附したが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」事例報告でより詳細な掲載データ一覧を見ることが出来る。

 

賢きは都の殘り愚かなるは田舍に歸り秋老けにけり

 

秋風を右に左にかへり見て野の夕まぐれ馬の嘶く

 

いつしかにまゐるとも無くまゐり來ぬ落葉林の奥のみやしろ

 

 

   (大正七(一八一八)年十一月二十四日)

2015/07/06

北條九代記 卷第七 六月祓 付 將軍家御疱瘡

      ○六月祓 付 將軍家御疱瘡

去ぬる三月五日、武藏守泰時の孫、歳十一にて、御所に於て元服あり。彌五郎經時(つねとき)とぞ名付けける。これは修理亮時氏(しゆりのすけときうぢ)の嫡子なり。同八月朔日、小侍所(こさぶらひどころ)の別當に補(ふ)せらる。同十二月二十一日、將軍賴經公、正三位に叙せられ、以前に任ぜられ給ふ權中納言を辭退あり。去年十一月五日、天福二年を改めて、文曆と號す。文曆二年八月に、又改元ありて、嘉禎(かてい)と號せらる。此年の六月に、閏(うるふ)のありければ、「六月祓(みなづきはらひ)の事、當来月の中、何(いづれ)を用ひらるべきや」と、藤内(とうない)判官定員(さだかず)を以て有職(いうそく)の輩(ともがら)に尋ねらる。河内〔の〕入道、申されけるは、「義解令(ぎけのりやう)の如くならば、閏月を用ひらるべき事、分明(ぶんみやう)なり、古歌にも、のちの晦(みそか)を晦(みそか)とはせよと候。治承(ぢしやう)四年、建久八年、建保(けんぱう)六年、皆(みな)閏月を用ひられ候」と申されしかば、成例(じやうれい)の多分(たぶん)に就(つ)くべしとて、閏六月晦日を以て、祓(はらひ)をば定められける。同十月八日、將軍家を、陸奥出羽〔の〕按察使(あんさつし)に任じ、十一月十九日に、從一位に叙せられけり。同十八日より、將軍家御不例、御疱瘡(ごはうさう)出で給ふ。是に依て四角、四境の神祭(じんさい)、その外諸方の神社、佛寺に仰せて、御祈禱樣々なり。又、大佛師康定(かうぢやう)に仰せて、一夜の内に、千躰薬師の像、一尺六寸を造立せしめ、竝に、羅睺(らご)、計都(けいと)の二星の像、本命星(ほんみやうせい)、藥師の像を、造らしむ。羅睺星の像は、面貌(めんみやう)忿怒(ふんぬ)の相(さう)有りて、靑牛(せいぎう)に乘(のり)て、左右の手に月日を捧げ、計都星は、是も面貌は忿怒強盛(がうせい)の相を表し、靑龍(しやうりう)に乘(のつ)て、左右の手に日月を捧げ給へり。陰陽師(おんやうじ)親職(ちかもと)に仰せて、三萬六千の神祭を修せしめらる。財寶をつくし、誠信(じやうしん)を凝(こら)して、神佛の擁護(おうご)を祈誓ありけるに、丹誠(たんせい)の懇祈(こんき)、佛神の納受(なふじゆ)ましましける故にや、將軍家、不日(ふじつ)に快然(くわいぜん)し給ひ、酒湯(さかゆ)御引きましましけり。鎌倉中の貴賤、萬歳を唱へ、相州、武州、殊に喜悦の眉(まゆ)をぞ開かれける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福二(一二三四)年三月五日、八月一日、十二月二十八日、文暦二(一二三五)年六月三十日、嘉禎元(一二三五)年十月十七日、十一月十八日・二十六日、十二月十八日・二十日・二十七日・二十八日、嘉禎二年一月九日の記事等に基づく。

「去ぬる三月五日」天福二(一二三四)年三月五日。

「彌五郎經時」「彌四郎」の誤り。後の第四代執権北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)。第三代執権北条泰時の嫡男北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年に病没。享年二十八)の長男で、母は賢母として知られる安達景盛の娘松下禅尼(まつしたぜんに)であるから、第五代執権北条時頼の同母兄でもある。

「小侍所の別當」将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理し、将軍及びその御所の警備を統括した小侍所の長官。ウィキの「小侍所」によれば、建保七(一二一九)年一月二十七日(四月十二日に承久に改元。旱魃及び三合(さんごう:陰陽道の厄年の一つで太歳・太陰・客気の三神が合することをいう)理由とする)に発生した『将軍源実朝暗殺に対する反省から、新将軍に予定された九条三寅(後の頼経)の警備のため』、同(改元して承久元年)七月二十八日に『侍所から分離して設置される。初代別当は北条重時。鎌倉幕府においては、別当には北条氏一族の有力者が任命され、その下に所司以下の諸役が置かれた。小侍所では「番帳」を作成してこれを基に一日一晩の宿直にあたる番役や将軍外出の際の供奉人の選定を行い、その催促・統轄を行った。こうした役職の選定には代々幕府に仕えていた東国御家人の一族であるという家柄が重視された他、弓馬・蹴鞠・管弦などの諸芸に通じている事も考慮されたため、これに選ばれることは名誉であるとされていた。また、小侍所の中でも特殊な例として陰陽師の存在があげられる。これは実朝暗殺の際に後鳥羽上皇の命によって所職を奪われて事実上の追放とされた実朝近侍の』三名の『陰陽師(安倍泰貞・安倍親職・安倍宣賢)を小侍所の職員としたのを嚆矢とし、将軍や幕府の為に陰陽道の儀式を行っている』。「北條九代記」本文にもしばしば出るこの三名は、『承久の乱においても鎌倉方勝利のための祈祷を行い、乱後に下向した安倍国道や惟宗文元』(これむねふみひと)『とともに鎌倉陰陽師(関東陰陽道)の基礎を築いた』とある。

「去年十一月五日、天福二年を改めて、文曆と號す」天福二(一二三四)年十一月五日に天変地震により改元。

「文曆二年八月に、又改元ありて、嘉禎と號せらる」「九月」の誤り。文暦二(一二三五)年九月十九日に地震頻発により改元。

「六月祓」夏越祓(なごしのはらえ)ともいう。六月晦日(みそか)に半年間の心身の穢(けが)れを祓う行事で、現在でも神社の本殿の前に作った菅(すげ)や茅(ち)で作った輪を潜ったり(茅の輪くぐり)、京都の上賀茂神社境内に於ける「奈良の小川」への人形(ひとがた)流しで知られるように、人形を作ってそれを自分の分身として体を撫で息を吹きかけて罪や穢れを移し、海や川に流したり、水盤に張った水に投げ入れたりする行事として残る。

「藤内判官定員」幕府官僚藤内判官大夫藤原定員(生没年未詳)。第四代将軍九条頼経に京から随従した近臣。将軍御所を奉行した。後の寛元四(一二四六)年の宮騒動で当時の執権北条時頼の下へ弁明の使者として出向いたが受け入れられず、安達義景に預けられて出家した。

「有職」朝廷や公家の制度・故実などに精通している学識経験者。

「河内入道」歌人で「源氏物語」を校訂した河内本でもしられる古典学者源光行(長寛元(一一六三)年~寛元二(一二四四)年)。ウィキの「源光行によれば、寿永二(一一八三)年、『京にいた光行は、平家方であった父の源光季の謝罪と助命嘆願のため、鎌倉に下向し、叔父の飯富季貞の助命を嘆願していた従兄弟の源宗季と共に源頼朝に助命を願った』。『その結果は定かではないが、頼朝にその才能を愛されて、そのブレーンとなり、鎌倉幕府が成立すると、政所の初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶ為に、鎌倉・京都間を往復した』。『一方で、幕府の高官でありながら、朝廷からも河内守、大和守に任命され、結果として後の承久の乱の際に去就を迷い、後鳥羽上皇方に従ってしまったが、この際も、その才能を惜しんだ人々の助命嘆願のおかげで、重刑を免れ』ており、このシーンでも幕府の相談役として重宝されていたことが分かる。『北条泰時の命で和歌所・学問所などを設置し』たりもしている。

「義解令」「令義解(りょうのぎげ)」のこと。「養老令」の解釈書。十巻。淳和天皇が右大臣清原夏野らに命じて天長一〇 (八三三)年に成立したもので、同三年に明法博士額田今足が朝廷に対して令の解釈について統一的見解の必要性を説いたことから作成されたもの(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「治承四年」一一八〇年であるが、この年は閏月はない。治承二(一一七八)年(閏六月有り)の誤り。

「建久八年」一一九七年。

「建保六年」一二一八年。であるが、この年に閏月はない。建保四(一二一六)年(閏六月有り)の誤り。

「成例」既に成せる例。前例。

「多分に就くべし」多く認められるものに従うのが宜しい。

「同十月八日」嘉禎元(一二三五)年十月八日。

「按察使」元は唐名の官職名で本邦ではしばしば「あぜち」とも読む。令外の官の一つで、奈良時代、国司の施政や諸国の民情などを巡回視察した官であった。平安期には陸奥・出羽のみを任地として大納言・中納言の名目上の兼職となっていた。

「從一位」「從二位」の誤り。

「四角、四境の神祭」四角四境祭。陰陽道で疫神の災厄を祓うために家の四隅と国(この場合は鎌倉御府内)の四方の境で行った祭祀。

「大佛師康定」鎌倉時代の慶派仏師。康運の子とされる。現行では「こうてい」と読んいる。

「千躰薬師」増淵勝一氏の訳注に『同一の面に多数の薬師像を彫刻したもの』とある。

「一尺六寸」四十八・四センチメートル

「羅睺(らご)」羅睺星(らごうせい:一般的には「らごう」と読むが、本条では二箇所とも「らご」。但し、これ自体が羅睺羅(らごら)の略であるから問題ない)。梵語「Rāhu」の音写で、日月の光を覆って日食や月食を起こすとされた猛悪の阿修羅を指す。羅睺阿修羅王。ウィキの「ラーフ」によれば、『ラーフ(Rāhu)は、インド神話に登場する』、四本の腕と一本の『尾をもつアスラの名。あるいはインドの天文学におけるナヴァ・グラハという』九つの惑星(九曜)の一つである羅睺とあり、『神話によると、乳海攪拌のあと、神々とアスラは不死の霊薬アムリタをめぐって争い、アムリタは神々の手にわたった。神々は集まってアムリタを飲んだが、その中にラーフというアスラが神に化けてアムリタを口にした。それを太陽と月が発見し、ヴィシュヌ神に知らせた。ヴィシュヌ神は円盤(チャクラム)を投げてラーフの首を切断したが、ラーフの首は不死になってしまった。そして天に昇り、告口したことを怨んで太陽と月を飲み込んで日蝕や月蝕を起こす悪星になったという。一方、ラーフの体も天に昇ってケートゥという凶兆の星になったとされる』とある。

「計都」計都星。羅睺星同様、インド神話に於いて日食や月食を起す凶星とされ、また彗星や流星ともされる。ウィキの「ケートゥ」によれば、『一般的な説では、月の降交点(西洋占星術ではドラゴンテール)に存在するとされた天体である。暗黒で普段は見ることはできないが、ケートゥが太陽や月を隠すことで日食や月食が起こる。同様に、月の昇交点にはラーフ(羅睺)があり、ラーフとケートゥで食が起こりうる天球上の』二点を示しているとするが、『異説として、ケートゥが昇交点、ラーフが降交点と逆のこともある』とし、『一部経典では月の遠地点とされ、これは西洋占星術でのリリスについての一説と同じである』(「エヴァンゲリオン」の「リリス」である)。『神話によれば、ラーフの胴体が星になったものである。乳海攪拌のさい、ラーフはアムリタを盗み飲みしたためにヴィシュヌ神に首を切り落とされたが、首とともに天に昇って、首はラーフ、胴体はケートゥという遊星になった』とあり、『鳥に乗る図や下半身が蛇の形で描かれる』。『ラーフ、シャニ(土星)とともに凶兆の星とされ、南インドの寺院ではよく祀られている』ともある。両ウィキの載せる「仏像図彙」の図像も、両者は頗る似ている。

「本命星」北斗七星を形成する七つの貧狼星・巨門星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星に、金輪星と妙見星を合わせたものを九星と称するがそれぞれの人の生まれた年にはこの九星の孰れかが相当し、それをその人の「本命星(ほんみょうせい)」とする。

「忿怒強盛」非常に激しい忿怒相のことを指す。

「三萬六千の神祭」既注であるが再掲する。三万六千神祭。天変地異を除き、天下泰平を願う祭。「屬星」は属星祭で危難を逃れて幸運を求めるために対象者(この場合は無論、将軍頼経)の属星をまつる祭。大属星祭。

「不日に」幾日も経たないうちに。

「酒湯(さかゆ)」「ささゆ」とも読み、「笹湯」とも書いた。疱瘡に罹患した子どもが幸いにして治った時に子供に浴びさせた酒を混ぜた湯で、笹の葉を湯に浸して振りかけたともいう。但し、この酒湯の習慣は江戸時代に行われたもので、「吾妻鏡」の嘉禎二(一二三六)年正月九日の頼経の疱瘡平癒の記事には『疱瘡の後、今日御沐浴の儀あり』と出るものの、「酒湯」という語は出ないので要注意。]

モデル女に   村山槐多

(この詩の前に長い無題の一篇があるが、そこで言及されるピカソの絵について現在、教え子が調査中なので、その一篇の公開はペンディングとする)




  モデル女に

 

あゝ美しきかな

汝の全體

 

先づ吾を戰慄せしむるは

汝の胸上なる二つの肉感的なる球なり

美しくとがりたる乳房なり

汝の腕なり

そは鍾乳石にも比すべきかまた

汝の首なりまた

汝の長く肥りたる兩足の交錯なり

そこにうねれる凸凹の美しさよ

あでやかなる肉はまた汝の□□に浮く

そこに紫の□の威あるかな

 

あゝ美しきかな

女の裸體

 

われはむしろ「□□□」の名を受けて世界中の□□□をのぞきまはらん

    ピカソ展覽會のカタログを見て

    ピカソの戀をおぼえそめけり

ムツシユーピカソ――

ピカソさん

あなたの畫に僕はすつかり

崇拜を捧げます

 

私もあなたの如く

立派に描きたう思つて居る

日本のゑかきの

新兵です

 

 

[やぶちゃん注:「全集」では「ムツシユーピカソ――」のダッシュが存在しない。以前にも少し引用したが、彌生書房版の初版(昭和三八(一九六三)年)の編者山本太郎氏の編集後記には、「槐多の歌へる」『に於て「□□□」式のいわゆる伏字の部分は、当時の出版コードによるものと思われるが、原典散逸していまは埋める術もない。槐多の多く好んで用いた語句とともに、明瞭に類推しうる箇所は編者註として補塡したが、大部分は伏字のまま残す事にした。徒らな歪曲をさけたい為でもある』とあり、本篇では編註で挙げられてある。それはあくまで山本氏の類推であるわけだが、我々はつい、その註が本文に無造作に挿入されてあると、補填された正当な原詩型と勘違いして読んでしまう傾向が強い。私は山本氏の推定補填がおかしいと言っているのではない。ないが、しかし、これは本来、本文とは別に項立てて行うべきものではないかと考えるものである。ここではそこで、山本氏の著作権を侵害することを敢えて承知で(極めて厳密に言えば、推定復元部分は山本氏の著作権に当たる)、ここでは、山本氏の推定通りの文字を伏字と交換して、全篇を示し、その可否を読者の手に委ねたいと思うのである(「無頼漢」の「頼」は正字化して挿入した)。

   *

 

  モデル女に

 

あゝ美しきかな

汝の全體

 

先づ吾を戰慄せしむるは

汝の胸上なる二つの肉感的なる球なり

美しくとがりたる乳房なり

汝の腕なり

そは鍾乳石にも比すべきかまた

汝の首なりまた

汝の長く肥りたる兩足の交錯なり

そこにうねれる凸凹の美しさよ

あでやかなる肉はまた汝の谷間に浮く

そこに紫の毛の威あるかな

 

あゝ美しきかな

女の裸體

 

われはむしろ「無賴漢」の名を受けて世界中のモデルをのぞきまはらん

    ピカソ展覽會のカタログを見て

    ピカソの戀をおぼえそめけり

ムツシユーピカソ――

ピカソさん

あなたの畫に僕はすつかり

崇拜を捧げます

 

私もあなたの如く

立派に描きたう思つて居る

日本のゑかきの

新兵です

 

   *]

 

甲子夜話卷之一 43 了円翁、公家の事

43 了円翁、公家の事

予が侍妾の中に外山家の女ありき。其父もと公家なりしが、年若きとき身持ことならず、退身して隱遁せし人なり〔名了圓〕。予、其人と問答せし中に、奇と覺ゆることを一二記す。其一は、予云ふ、公家は貴きことなり。古より髮をも剃らず、總髮にて有るこそ目でたけれとかたりしかば、答に、いやいや左ようには無し。我等若輩の頃迄は、攝關などは格別、大納言の衆中武家傳奏などは勿論、我等祖父なども、皆々月代を剃居たり。還て總髮はめづらしき程にて、多は武家の通なりき。然を何れの頃より〔年代今忘〕、漸々に今の如くなりぬ。曾て今の風は復古なるべけれど、中古の風には非ずと。又其一は、刑罰はじめとか云て〔其名忘〕、毎年正月某日〔月日忘〕、何の處にか〔亦忘〕、罪人を率出して〔此罪人と云者は此ことばかりを勤として、常は何か家業をして居る者なり。例年此事行はるゝ時には、罪人の代として刑場に出ると云。眞の刑罰は總て武家にて行るゝゆゑ、是は朝廷の儀式計と聞ゆ〕、撿非違使正面に列し、其下にかの罪人をひき出づ。其外其事に與る者、皆々官服を着せり。罪人も亦烏帽子着服ありて、敷皮の上に坐す。時に側より罰文を讀めば、太刀執も同じく服色して、其後に囘り、太刀を揚て首を打つ。其太刀は刃にはあらで、木の〔其木忘〕、小杪(エダ)を執なり。罪人は太刀執の首を打とき、彼の冒し烏帽子を脱(ヌギ)て、敷皮の上に匿、其身は退去る時に、側の人其烏帽子を取りて、撿非違使にさゝげて事畢と云。成ほど世の俳優に類したれども、古政の遣れるなるべし。又其一は、了圓在勤のときは正四位式部少輔にて、主上〔桃園院〕の御側に侍る勤なりし。御坐所平常の朝淸の洒掃は、衣冠を着す。世の煤拂と云も歳末にはあり。此時も同く衣冠にてす。やはり俗間の如く、主上別殿に遷らせ玉ふ御跡にて、御坐所の御調度を悉く持出て、天井より御席までの塵坌を皆掃除するなり。又御遊のときは、是亦衣冠にて、御園地の船に從乘りて棹さす等のこともすると、語れり。これ九重のうへにては、固より斯ごときことなるべけれど、武家の心にて見れば殊なることのやうに思はる。

■やぶちゃんの呟き

「了円」不詳。

「侍妾」「じせふ(じしょう)」と読む。身分の高い人の傍にあって、その身の回りの世話をする侍女。「そばめ」とも当て読み出来るが、別に側室などではない。
 
「外山家」「とやまけ」。藤原氏の末裔とされる日野家の分流の一つで、江戸時代には公家の堂上家、明治時代以降は華族の子爵家となった家柄。参照したウィキの「外山家」によれば、『江戸時代中期に日野弘資の二男外山光顕を初代として成立した新しい日野家の分家。本家の日野家と同様に名家の家格。外山家から公卿になった者は五名あり』、権大納言一名、権中納言二名、非参議二名。『家禄は御蔵米三十石』。『五代当主の光実は日野家一門の烏丸家からの養子。また光実の養女補子(じつは光実の弟の町資補の娘)は徳川斉昭の生母。外山家からは同じ日野家の分流である北小路家と豊岡家に養子が出されている』。『九代当主光輔の代に明治維新を迎え、十二代当主英資の代に子爵に列した』。なお、『初代光顕の次男長澤資親は徳川綱吉に召し出され、高家長澤氏の初代とな』っているとある。この話の中でこの了円なる人物が「我等祖父なども、皆々月代を」剃っていた、と例示するのは、文脈から考えてもこのウィキの『外山家から公卿になった』五名の内の一人であった可能性がすこぶる高いと思われる。

「身持ことならず」「みもつことならず」で、身持ちが悪い、と同じで、身を持ち崩しての意。

「大納言の衆中武家傳奏などは」「大納言の衆(しふ)中(ちう)、武家傳奏などは」で――、正三位大納言の位に昇る方々の中でも武家伝奏職などは勿論――の意。

「月代」「さかやき」。

「還て」「かへつて」。却って。

「多は武家の通なりき」「おほくはぶけのとほりなりき」。

「然を」「しかるを」。

「年代今忘」「年代は今は忘れたり」。以下割注も同様に訓じていよう。

「刑罰はじめ」処罰シークエンスの再現劇を行うことで逆に実際の都への厄の侵入を払い去る、一種の逆説的な祝祭的予祝行事であるらしい。小学館の「日本国語大辞典」によれば、これは「着※(ちゃくだ)の政(まつりごと)」(「※」=「金」+「太」)と呼ばれる行事であることが分かった。「着※(ちゃくだ)」は鉄製の鎖で足をつなぐ枷)のことで、令制の罪人処理の一つで、囚獄司が徒役の罪人の足に足枷(あしかせ)をつけて三、四人を繋いだ状態で種種の使役に従事させることを言った(別名「ちゃくたい」とも)ものであるが、「着※(ちゃくだ)の政(まつりごと)」というのは平安時代に東西の市で陰暦五月及び十二月に行われた検非違使主催の行事であったという。それ『以来続けて行われ、江戸時代には囚人に擬した者を鞍馬村から召し、首に白布をかけ、鉄のあしかせをつけて、検非違使に笞(むち)で打つまねをさせた。軽罪の断罪をすませた意味であろうといわれる。ちゃくたいのまつりごと』とあって、「年中行事絵巻」の同行事の絵まで載っている。グーグル画像検索「年中行事絵巻 着 の政のワード・フレーズで出るものが概ね同行事のそれであるようである。ご覧あれ。

「率出して」「ひきいだして」。

「此罪人と云者は此ことばかりを勤として」この「罪人」という役を演じる者は、専らこの「着※(ちゃくだ)の政(まつりごと)」に於いてこの罪人役のみを演じる事を勤めとしており。

「計」「ばかり」。ここは松浦が、間違っては困るので一言言っておくと、以下は公家の行う、本当の処刑ではない芝居に過ぎないものだ、という注意書きとして附言したものである。

「撿非違使」「けびゐし(けびいし)」。検非違使。

「與る」「あづかる(あずかる)」。

「敷皮」「しきがは(しきがわ)」。

「罰文」「ざいもん」と読んでおく。

「太刀執」「たちとり」。

「服色」「ふくいろ」。服の色であろう。

「揚て」「あげて」。

「小杪(エダ)」小枝。

「執なり」「とるなり」。

「首を打」「くびをうつ」。

「彼の」「かの」。

「冒し」「かぶりし」。

「匿」「かくし」。斬首した首のシンボル、厄の依代(よりしろ)である。

「退去る」「しりぞきさる」。

「事畢」「ことをはる」。

「成ほど世の俳優に類したれども」見るからに、今の世の俳優の演じる馬鹿馬鹿しい芝居に類したものではあるけれども。

「正四位式部少輔」「少輔」は「せういう(しょうゆう)」と読む。式部省(文官の人事考課・礼式及び選叙(叙位及び任官)・行賞を司り、宮内中高等職員の養成機関である大学寮を統括した、八省の内でも中務省に次いで重要な省とされた)の次官。

「桃園院」桃園天皇(寛保元(一七四一)年~宝暦一二(一七六二)年)在位は延享四(一七四七)年から没するまで。因みに「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜が起筆であるから、六十年以上は前の話である。

「御坐所」「おまし」と訓じておく。固有名詞としての「昼の御座(おまし)」である。

「朝淸の洒掃」「てうせいのさいさう」。の朝の清掃。

「煤拂」「すすはらひ」。

「持出て」「もちいでて」。持ち出して。

「塵坌」「じんぷん」。坌(フン)も塵(ちり)の意。

「從乘りて」「よりきたりて」と訓じておく。従ってともに乗船致いて。

「固より」「もとより」。

「斯ごとき」「かくのごとき」。

「武家の心にて見れば殊なることのやうに思はる」というのは、武家の立場から、天皇の警護や補佐・補助という観点からみると、その平常の執務室の清掃や池塘での舟遊びの際の船頭役など、特にしゃっちょこばって衣冠束帯なんぞという点で、静山、何となく危機管理としては違和感を感じたものであろう。

譚海 卷之一 隱岐國燒火權現の事

 隱岐國燒火權現の事

○隱岐國(おきのくに)に燒火權現(たくひごんげん)とてをはしますは、甚(はなはだ)神靈有る事也。海舶(かいはく)暗夜(やみよ)に方角を忘却したる時、此神を念ずれば海上に火光(くわくわう)を現す。その光に就(つき)て舶(ふね)をやれば、人家島嶼(たうしよ)に至るとなり。此(この)神往古(わうこ)は出雲國たくしまと云(いふ)所にをはしませしが、後鳥羽院隱岐へ遷幸の時、神もともにうつりをはしまして、たくしまは御旅所のごとく荒廢數百年に及べり。寶曆元年三月燒火權現出雲の國人(こくじん)の夢に示しての玉(たま)ふやう、久しく隱岐國におはせしが、此度(このたび)更に出雲へ歸りすませ玉(たま)ふべき也。されどもその驗(しるし)なくしては人(ひと)信ずまじければ、あらたなるしるしをみせ給ふべきよし、同時に人々夢にみけり。右たくしまの舊所の社前に鰐淵山(がくえんざん)とて、武藏坊辨慶學問せし所の山有(あり)。その山に手をたてたるやうなる磐石(ばんじやく)のさし出(いで)たる有(ある)しが、一夜(いちや)半腹(はんぷく)より打折(うちおり)たるやうにかけて谷へまろび落(おち)たり。此ひゞき一國に震動して、人大(おほい)に駭(おどろ)き噪(さは)げり、是(これ)權現の還り住(すま)せ給ふしるし也。其後荒廢の地はにぎはひ、隱岐國は寂寞(じやくまく)の地に成(なり)かへりたりとぞ。

[やぶちゃん注:「燒火權現」島前の西ノ島、現在の島根県隠岐郡西ノ島町の南にある西ノ島の最高峰焼火山(たくひやま:標高四百五十一・七メートル)八合目近くに鎮座する焼火(たくひ)神社。廃仏毀釈までは焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号した真言宗修験道の霊場で、航海の安全を守る神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた。ここはウィキの「焼火神社によったが、焼火神社公式サイトも非常に豊富なデータを与えてくれ、必見なのであるが、気になるのはこの「譚海」に出る伝承自体が少なくとも現在の焼火信仰のオーソドックスな伝承ではないと思われる点である。以下の、「鰐淵山」以降「たくしま」などの一連の話が、上記二箇所の情報の中に殆んど出てこない点である(後者にある「西ノ島町誌」の「史跡と伝承」パートに黒木御所国分寺論争の中に「国分寺説」の根拠にとなった史料として「送進鰐渕寺文書等目録」が挙げられている)。底本の竹内氏の注には、鰐淵山は島根県出雲市別所町の『意保美小川の谷にあり、鰐淵寺がある。鰐淵山の岩上に出雲神社(諏訪明神)があり、傍に大きい立岩もある。この辺にタクシマの地名はないが、焼島(たくしま)は大根島』(だいこんじま:島根県東部の中海(なかうみ)の中央にある島)『の旧名で、隠岐の焼火権現が一時ここにとどまられたからという伝承があった』と記しておられる。即ち、この「譚海」に語られた伝承は、北は隠岐から旧出雲地方を自由自在に渡り歩いた永い時間の中で附会拡張された伝承――「焼火山縁起」にある一条天皇の御代(十世紀末から十一世紀初頭)に『海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと』(ウィキの「焼火神社)する古伝承に始まり、後鳥羽・後醍醐配流といった歴史的事実に修験道によって語られた種々の霊験が混淆して形成されたもの――であることが透けて見えてくるように思われる。

「出雲國たくしま」前の注の竹内氏の注の引用を参照。但し、竹内氏が同定されている大根島についてウィキ大根島には、『有史上は『出雲国風土記』に「たこ島」という名前で記載があり、奈良時代当時は牧場として土地利用されていたようである。その後、島の火山灰土質が高麗人蔘と牡丹の栽培に合っているので江戸時代より栽培が盛んになった』。『『出雲国風土記』には、杵築の御崎のたこを捕らえた大鷲がこの島に飛来したことにより「たこ島」と名付けられたとの言い伝えが紹介されている。たこから太根(たく)そして大根(たいこ)と変化して今に至る。一方、人参を大根とよびかえたのが島の名の由来という説もある』といった程度のことしか記されてはいない。さらに調べて見ると、確かにこの大根島にも焼火神社がある(大根島中心部最高峰の大塚山山頂)ことが確認出来たが、さたつ氏のブログ「大山周辺体感記2」の焼火(たくひ)神社島根県松江市八束町波入)」によれば(画像有り)、永正八(一五一一)年に『隠岐より勧請? 祭神は大日孁貴尊(天照大神の別名)。室町後期に火災に遭い、一旦三所神社へ。その後再建される事は無く小祠があるのみ』とあって、ここに記されるような、原焼火神社の遺構ではない。ここに記されるような原焼火神社が本当あったとは思われず、寧ろ、この永正の逆輸入が反転して出来た新しい伝承である可能性が高い。そもそもが後鳥羽院遷幸と一緒にという辺り、これ、如何にも胡散臭い。

「後鳥羽院隱岐へ遷幸の時」承久三(一二二一)年七月中旬。

「寶曆元年」西暦一七五一年。但し、この年は寛延四年十月二十七日に宝暦に改元されているので、正しくは「三月」は未だ寛延四年である。当時は第九代将軍徳川家重で、この年の六月二十日に父吉宗が逝去している。

「鰐淵山」現在の島根県出雲市で天台宗浮浪山鰐淵寺の背後にある(山名というより、この寺の名として知られているようである)。ウィキ鰐淵によれば、伝承では推古天皇二(五九四)年に『信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝のほとりで修行を行っている際に誤って滝壺に落とした仏器を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて奉げたとの言い伝えから生じた。ここで言う「鰐」はワニザメを指すと言われる。なお、出雲市東林木町(ひがしはやしぎちょう)の万福寺(大寺薬師)も同様に』同一年に『智春の開山を伝えている。以上はあくまでも伝承であり、創建の正確な時期や事情は明らかでない。鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、当寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したものと思われる。浮浪の滝は鰐淵寺の入口から渓流を』五百メートルほど『さかのぼった地点にある。水量は少なく、滝壺の奥には蔵王堂が建つ』。『後白河法皇の『梁塵秘抄』に収録された今様に「出雲の鰐淵や日の御碕」と歌われており、平安時代末期頃には修験行場としても発展し日本全国に知られるようになったものと思われる』とあり、これは先に私が修験道の山伏らのネットワークによって本話柄が形成されたものであろうと推定したことを傍証するものと思われる。

「武藏坊辨慶學問せし」同じくウィキ鰐淵には「弁慶に関する伝承」の項があり、そこに、弁慶は仁平元(一一五一)年に松江に生まれ、十八の年より三年の間、この『鰐淵寺にて修行したとされる。その後、姫路の書写山圓教寺、比叡山と移り、更に源義経の家来となり義経に従い国内を転戦したが、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後再び鰐淵寺に身を寄せ、この際多くの伝説・遺品を残した。特に、弁慶が大山寺から一夜で釣鐘を運んだとの伝説は広く世に知られ、その際に持ち帰ったとされる』寿永二年(ユリウス暦一一八三年相当)の銘のある『銅鐘は国の重要文化財に指定されている』とある。]

ブログ開設10周年記念 夢野久作「氷の涯」 PDF縦書版

ブログ開設10周年記念 夢野久作「氷の涯」 PDF縦書版(2.34MB)――ルビ・オリジナル注・全挿絵五葉附――

「心朽窩旧館」に公開した(但し、完全な校訂をした訳ではないのでβ版とし、冒頭注以外の私の注のリンクは機能しないので面倒でも本ブログ版のリンクを利用されたい。これだけの量のテクストと注を10日で仕上げたのは僕のこの10年の電子化作業の最速の記録で、恐らく暫くこれを自身破ることはないように思う)。

ブログ版で読むのに挫折された方(丸括弧後読み振りは実際、僕も読み難い)には是非お薦めする。

氷の涯 夢野久作 (22) 了 ――キリ―― ブログ開設10周年記念

一部、前の部分をダブらせてある。
 
今日はブログ開設10周年記念である。それに合わせてコーダを今日までずらした。本ブログ読者諸君に深謝する――

而して……そのお詫びも用意してある……♪ふふふ♪……




「……そりやあ左樣(さう)ね……」

 ニーナは何かしら外(ほか)の事を考へて居るらしく形式的にうなづいた。

 その顏を見い見い僕は淋しく笑つた。

「お前と一緒に逃げたお蔭で、とうとう結末が付いちやつたね」

 ニーナはプイツと拗(す)ねたやうな恰好でペーチカの方に向き直つた。さうして思ひ出したやうに、梨の喰(く)ひさしとナイフを頭の上に高々とさし上げて、

「……あアあ、妾(わたし)の仕事もおしまひになつちやつたア。……アンタに惚れたのが運の盡きだつたわよ」

 といふうちに又もガリガリと梨を嚙り始めるのであつた。

 僕は美味(うま)い葉卷の煙を天井に吹き上げてゐた。

 氣のせいか又も二三發、停車場(ていしやじやう)の方向で銃聲を聞いたやうに思ひながら……。

 病氣のせゐもあつたらう。すべてを諦め切つてゐた僕の神經は此時、水晶のやうに靜かに澄み切つてゐた。さうして此時ぐらゐ煙草が美味(うま)いと思つたことは無かつた。天井から吊るした十燭(しよく)の電燈が、ちよつと暗く……又明るくなつた。

[やぶちゃん注:●「十燭」現行の白熱電球の十ワット相当で非常に暗い。]

 その時にニーナは又も、新しい小さい梨を一つポケツトから出して、今度は丁寧に皮を剝いた。さうして其の白い、マン丸い、水分の多い肌合ひを暫くの間ヂツと眺めまはして居たが、やがてガブリと嚙み付くと、スウスウと汁を畷り上げながら無造作に云つた。

「ねえアンタ」

「何だい」

「……妾(わたし)と一緒に死んでみない……」

 僕はだまつてゐた。ちやうど考へてゐたことを云はれたので……

「ねえ。……ドウセ駄目なら銃殺されるよりいゝわ。ステキな死に方があるんだから……」

「フーン。どんな死に方だい」

 と僕は出來るだけ平氣で云つた。少し許(ばか)り胸を躍らせながら……ところが、それから梨を嚙み嚙み説明するニーナの言葉を聞いてゐるうちに僕はスツカリ興奮してしまつた。表面は知らん顏をして葉卷の煙を吹き上げ吹き上げしてゐたが、恐らく此時ぐらゐ神經をドキドキさせられた事はなかつたであらう…。

 僕はニーナの話を聞いてゐるうちに、今の今までドンナ音樂を聞いても感じ得なかつた興奮を感じた。僕の生命(いのち)の底の底を流れる僕のホンタウの生命(いのち)の流れを發見したのであつた。……さうして全然生れ變つた樣な僕自身の心臟の鼓動を、ガムボージ色に棚引く煙(けむり)の下(した)にいきいきと感じたのであつた。

[やぶちゃん注:●「ガムボージ色」“Gamboge”はインドシナ半島に植生するオトギリソウ科の雌黄樹から採る透明感のある黄又は黄褐色のガム樹脂。有毒。

 ――以下、残りの印象的なコーダの部分に注打ちたくないので、総て、ここに示すこととする。……ニーナの……素敵な笑顔の……澄んだ瞳に、乾杯!――

●「無煙炭」固定炭素含有量九十三~九十五%以上の炭化の最も進んだ石炭。黒色で硬く、金属光沢がある。火力が強く、殆んど無煙で燃焼する。揮発成分が少いために短炎で燃える(非粘結性でコークスにはならない)。着火点は凡そ摂氏四百九十度で火が点き難い難点があるが、火力が強く、一旦着火すれば一定温度を保って安定して燃え続ける。 ●「荷馬車揚場」船舶に積まれた荷を陸に揚げると同時に、その場で馬車に積めるようになっている場所の謂いであろう。 ●「ルスキー島」о́стров Ру́сскийо́стров(オストロフ)はロシア語で「島」。ロシア沿海地方南部ウラジオストクの南洋上にあるルースキー島。ウィキの「ルースキー島」によれば、『日本海北西部のピョートル大帝湾中央部にあるムラヴィヨフ=アムールスキー半島の南沖に浮かんでおり、半島先端の港湾都市ウラジオストクとは狭い東ボスポラス(東ボスフォルとも)海峡で分かれている。ムラヴィヨフ=アムールスキー半島とルースキー島がピョートル大帝湾を二分しており、西はアムール湾、東はウスリー湾となっている。ポポヴァ島、レイネケ島、リコルダ島などと共にイェフゲニー諸島を構成している』。面積は九十七・六平方キロメートルあるが、起伏が多く、高さ三百メートル弱の峰が連なって(最高峰はルースキー山で標高二百九十一メートル)おり、『海岸は険しい断崖が多い。ルースキー島の中央には、北西から南東に向けて細長いノヴィク湾が入っており、島はほぼ二分されている。対岸のウラジオストク市街との間は渡船で結ばれているが、ルースキー島連絡橋が建設されている』とある。エンデイングのためにグーグル・マップのウラジオストクとルースキー島をリンクしておく。 ●「或る老看守から傳へ聞いて居たものださうだが」の「だが」は底本では「なが」。誤植と断じて「全集」に従って例外的に訂した。]

 ニーナはその晩から部屋を飛出して準備を始めた。さうして昨日(きのふ)の午前中に三階(がい)に住んでゐる支那人崔(さい)の手を經て、馬付きの橇(トロイカ)を一臺手に入れる約束をした。それから宿の拂ひと買物をした殘りのお金で、昨夜から今日一日ぢう、御馳走を食べ續けて無煙炭(むえんたん)をドシドシペーチカに投げ込んだ。

 僕は病氣も何も忘れて此の遺書を書き始めた。發表していゝか惡いかを君の判斷に任せるために……尤も書きかけの西比利亞漂浪記(シベリアへうらうき)の中から抽(ひ)き出して書いたのだから、大して骨は折れなかつた。

 ニーナはまだ編物を續けてゐる。寄せ絲で編んだハンドバツグ見たやうなものが出來上りかけてゐる。

 注文した馬と橇(トロイカ)はモウ下の物置の中に、鋸屑(おがくづ)を敷(し)いて繫いで在る。張り切つてゐる若馬だから一晩ぐらゐ走り續けても大丈夫だと、世話をしてくれた崔(さい)が保證した。

 僕等は今夜十二時過(すぎ)に此の橇(トロイカ)に乘つて出かけるのだ。先づ上等の朝鮮人參を一本、馬に嚙ませてから、ニーナが編んだハンドバツグに、やはり上等のウヰスキーの角瓶を四五本詰め込む。それから海岸通りの荷馬車揚場(あげば)の斜面に來て、そこから凍結した海の上に辷(すべ)り出すのだ。ちやうど滿月で雲も何も無いのだからトテモ素敵な眺めであらう。

 ルスキー島(しま)をまはつたら一直線に沖の方に向つて馬を鞭(むちう)つのだ。さうしてウヰスキーを飮み飮み何處までも何處までも沖へ出るのだ。

 さうすると、月のいゝ晩だつたら氷がだんだんと眞珠のやうな色から、虹のやうな色に、變化して、眼(め)がチクチクと痛くなつて來る。それでも構はずグングン沖へ出て行(ゆ)くと、今度は氷(こほり)がだんだん眞黑(まつくろ)く見えて來るが、それから先は、ドウなつてゐるか誰(たれ)も知らないのださうだ。

 この話はニーナが哈爾賓(ハルピン)に居るうちにドバンチコから聞いてゐたさうで、そのドバンチコは又、或る老看守から傳へ聞いて居たものださうだが、大抵の者は、途中で醉ひが醒めて歸つて來るさうである。又年寄りの馬はカンがいゝから、橇(トロイカ)の上の人間が眠ると、すぐに陸(をか)の方へ引返(ひきかへ)して來るさうで、その爲に折角(せつかく)苦心して極樂往生を願つた脱獄囚が、モトの牢屋のタヽキの上で眼を醒ました事があるといふ。

「……しかしアンタと二人なら大丈夫よ」

 と云つて彼女が笑つたから、僕は此のペンを止(と)めて睨(にら)み付けた。

「若(も)し氷(こほり)が日本(にほん)まで續いて居たらドウスル……」

 と云つたら彼女は編棒(あみばう)をゴヂヤゴヂヤにして笑ひこけた。

――をはり――    

2015/07/05

「氷の涯」は「舞姫」であり同時に極東版心中物である

軍隊という「国家」から「冤罪」によって完全にスポイルされ、しかもニーナの踊り子という生業(なりわい)によって辛くも生き、死をともにする文弱軍人上村作次郎とは、少なくとも僕の求めるところのあるべき「太田豊太郎」である。

そういう観点に於いて森鷗外の「舞姫」の皮肉にしてしかも心地よきパロディである。

そうしてキリの素晴らしさはまさに、ウラジオストクのルスキー島を廻って「転回」するところのコーダの詩想はこれ、浄瑠璃の世界を恐るべき極東に移した、稀有の心中物のキリ場以外のなにものでもない。

僕は今、確かに確信犯として「氷の涯」を我がものにした――そんな気がするのである。……

つまるところ

つまるところ、人は自分の猟場で得た得物を自慢したいだけの惨めな存在に他ならない――

ツイッターに就いて

僕は日本人には頗る嫌われてるらしいことが分かる。1200人を超えるツイッターのフォロワーの70%は僕が語り合うことの出来ない外国の人々ばかりなのである。……しかし……正直……頗る附きで実は嬉しいのだ……

氷の涯 夢野久作 (21)――キリ前――

「……わからないかい……」

「……わからないわ」

「今までの出來事をズーツと一遍通り考へ直して御覽……記憶(おぼ)えて居るだらう。何度も話したんだから……」

「ええ。だけど……わからないわ。……イクラ考へてもわからないわ。アタマが何樣(どう)かしてんのよ今夜は……」

「……十梨(となし)が、星黑から分けて貰つた官金の一部だと云つて、憲兵の前に提出した十六枚の二十圓札の話をしたらう」

「ええ。聞いたわ。その二十圓札つて云ふのは、十梨が星黑を殺した時に奪ひ取つた星黑の給料だつたに違ひ無いつてアンタがさう云つたわ。その中の一枚の裏つ側(かは)に、星黑がつけた赤インキの飛沫(とばつちり)の形をアンタがチヤント見覺えて居たつて云ふ話でせう。象(ざう)のお尻に太陽が光つてゐる形になつて居たつて云ふ……だけどそれがドウかしたの……」

「ウン。その二十圓札の番號と、朝鮮銀行の支店に控へて有る札番號と引合はせれあ、十五萬圓の一部ぢや無いことが、すぐにわかる筈だらう。十梨が云つた事がミンナ噓だつたつて事やなんかも一緒に……」

「……まあツ……どうして今まで氣が付かなかつたんでせう。あたし馬鹿ね。ヨツポド……」

「ナアニ。みんな馬鹿なんだよ。今から考へると、これは十梨のオツチヨコチヨイが、あんまり話を上手に作らう作らうと思つて焦躁(あせ)り過ぎた爲に出來た大手拔(おほてぬ)かりだね。多分、十五萬圓を手附かずのまゝソツクリ銀月の女將に預け込んで、自分一人で星黑の死骸を始末しに行つて居るうちに、十梨が勝手にヒネリ出した淺知惠に違ひ無いと思ふんだ。銀月の女將が一枚這入つてりやあ、そんなヘマなセリフを附ける氣遣ひは無いからね。……ところが、その時には當の本人の十梨も、相手の憲兵も、陪審員の僕も、そのほかの連中(れんぢう)も一人として氣が付かなかつたんだから妙だね」

「……やつぱり運よ。物事つてソンナもんよ……だけどその話は、そんな時に云ひ出すよりも、今になつてアンタから左樣(さう)云つて遣つた方が利き目がありはしない……」

「それあさうさ。しかし……其の二十圓札がズウツと憲兵隊に保管して在ればつて云ふ話だからね。十梨が放免された處から見ると、その二十圓はトツクの昔に沒收されちやつたらうよ」

「……そりやあ左樣(さう)ね……」

 ニーナは何かしら外(ほか)の事を考へて居るらしく形式的にうなづいた。

 その顏を見い見い僕は淋しく笑つた。

「お前と一緒に逃げたお蔭で、とうとう結末が付いちやつたね」

 ニーナはプイツと拗(す)ねたやうな恰好でペーチカの方に向き直つた。さうして思ひ出したやうに、梨の喰(く)ひさしとナイフを頭の上に高々とさし上げて、

「……あアあ、妾(わたし)の仕事もおしまひになつちやつたア。……アンタに惚れたのが運の盡きだつたわよ」

 といふうちに又もガリガリと梨を嚙り始めるのであつた。

 僕は美味(うま)い葉卷の煙を天井に吹き上げてゐた。

 氣のせいか又も二三發、停車場(ていしやじやう)の方向で銃聲を聞いたやうに思ひながら……。

 病氣のせゐもあつたらう。すべてを諦め切つてゐた僕の神經は此時、水晶のやうに靜かに澄み切つてゐた。さうして此時ぐらゐ煙草が美味(うま)いと思つたことは無かつた。天井から吊るした十燭(しよく)の電燈が、ちよつと暗く……又明るくなつた。

[やぶちゃん注:●「十燭」現行の白熱電球の十ワット相当で非常に暗い。]

 その時にニーナは又も、新しい小さい梨を一つポケツトから出して、今度は丁寧に皮を剝いた。さうして其の白い、マン丸い、水分の多い肌合ひを暫くの間ヂツと眺めまはして居たが、やがてガブリと嚙み付くと、スウスウと汁を畷り上げながら無造作に云つた。

「ねえアンタ」

「何だい」

「……妾(わたし)と一緒に死んでみない……」

 僕はだまつてゐた。ちやうど考へてゐたことを云はれたので……

「ねえ。……ドウセ駄目なら銃殺されるよりいゝわ。ステキな死に方があるんだから……」

「フーン。どんな死に方だい」

 と僕は出來るだけ平氣で云つた。少し許(ばか)り胸を躍らせながら……ところが、それから梨を嚙み嚙み説明するニーナの言葉を聞いてゐるうちに僕はスツカリ興奮してしまつた。表面は知らん顏をして葉卷の煙を吹き上げ吹き上げしてゐたが、恐らく此時ぐらゐ神經をドキドキさせられた事はなかつたであらう…。

赤き火事あと   村山槐多

  赤き火事あと

 

赤しあかし痛ましき火事のあと

そはいまだ蛇の舌に似たり

紫の水蒸氣の奔騰

赤く崩る

 

ああ凄慘たる晝なるかな

幽なる悲哀と激しき狂ひ泣きと

うれしさと豪放と交々あり

 

赤しあかし一夜の燃燒のあと

すべて灰塵となれり

 

美しとにかくに火事のあとは

 

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「交々あり」は「こもごもあり」と読む。本篇で大正三(一九一四)年のパートが終わる。]

大原の小春   村山槐多

  大原の小春

 

美しい空は段々に薄紫になれば

わがなさけも段々に醉ひゆけば

歩くさへものろい程に

心は入るなつかしい恍惚

 

西びとの薄絹のヴエールめきて

しつとりと咲く猫柳の冷めたい花の上に

遠い燈火の樣に輝やいて

美しい紅ひのあまたの星が光る

 

歩き行く大原に日は輝きて

美しいいにしへの夢が改璃のかけらを

五色の玻璃のかけらをふらし

われはあぶなげに見つめつつゆく

 

菫色、薄紫、また紅いろ

農家の屋根が比叡山の下に光り居る

あの中に寂光院がかくれて居る

かのいにしへの美しい官女のあとが

 

かつと金色の叡山の美しいうねり

眞に紅の杉の木がとびとびに

歩きゆく小道の草生には花が咲く

猫柳が、たんぽぽが、紫のすみれが

 

汗ばむばかり温かいわれの心に

その時ふるへて居る薄いなさけ

「ああ大原へはるばる來てまで

君を思ふのか」と叫ぶ薄いなさけ

 

わたしと同じ樣に都を出て來て

一人の京の人がわがかたはらにいこふて

じつと見つめるは遠い遠い

寂光院の屋根か、かの人の面影か

 

    ×

わたしがあの美しい少年(ちひさご)に

笑つて別れた日

紫のかげは地に浮び

空は赤かつた

 

あああの時の哄笑のなやましさ

二人はたがひにはづかしく

少年の頰は薄紅かつた

そして眸(ひとみ)はまたたいた

 

眸はまことにまたたいた

星の樣に薄く靑く

だがわたしは笑つた

ああなぜあんなに強く高く

わたしはあの時笑つたらう

 

 

[やぶちゃん注:「紅ひの」「いこふて」はママ。]

午後の紫野   村山槐多

  午後の紫野

 

女の血潮、紫の旗のはためき

孔雀の涙、孔雀の毛、心肺

西洋の金貨、綠、群靑

靜脈を露出した山々の色

 

ああ苦しく暑い湯釜の

百度に達する刹那も午後の時

美しい風景がいま汗みどろになつて

泣いて居る、泣いて居る

 

働く若い娘、その唇と頰、麥の芽

赤い動脈、血の流れる田、山

寶玉の光輝、天の叫び

私は彈丸の樣にこの風景の中を飛びゆく

穀物のにほひする女   村山槐多

  穀物のにほひする女

 

北の美しの村月

幻の樣にほのかに

ながめて居る私に

小春の風がそよぐよ

 

ああこの金と靑との

小屋のかげに立つた

たくましい女の肌は

穀物のにほひがする

 

それを私はにほひだ

いまにほひだ

この美しい霞を通して

一目見たばかりで

 

美しの金の赤の村々

北山ののどかさに立つて

女をかくして居る

穀物のにほひのする女を

多情のたくましい女を

 

 

[やぶちゃん注:二十の頃、読んだ時、小学生の頃に見たジュゼッペ・デ・サンティスの「にがい米」(“Riso amaro”一九四九年イタリア)のシルヴァーナ・マンガーノの体臭を感じたものだった。]

2015/07/04

「氷の涯」のニーナを演じられるのは

「氷の涯」のニーナを演じられるのは「カラマーゾフの兄弟」が愛読書だったマリリンだけだっていう気がする――

紫の微塵 村山槐多 付 村山槐多画「稻生像」

  紫の微塵(稻生の君に捧ぐ)

 

紫の微塵となりてわがなさけ

小春の靑き空に散る

麗はしの火花こそ散れ

薄靑き山春の空に

 

紫の微塵となりしわが戀よ

いづこに君をとらふとて

心の上に散りしぶく

噴水か花粉の如く麗はしく

 

紫の微塵は君にもつれつつ

君は派手なる燭めきて見え

空にはめたる寶玉の

面はしばし打霞む

 

紫の微塵となりてわがこころ

小春の空に散りしきぬ

なげきと空とすすりなく

火花と君といでかくる

 

紫の微塵となりて片戀は

玻璃をくだきて君に散る

いづこに戀をとらふべき

ただ微塵なれ綺麗なれや

 

紫の微塵となりてわが思ひ

君が姿のきらめきに

心耐へせず泣きめぐる

小春の空の麗しき靑き光に。

 

    ×

そは紫にかきみだされし

美しき園の日かげなり

われらふたりくちつけし

ふたり薄紅く泣きしは

 

 

[やぶちゃん注:「稻生君」京都府立第一中学校の一級下の稲生澯(きよし)。槐多の、本篇を髣髴とさせる印象的な彩画が残る、槐多の熱愛した美少年の一人で槐多の短歌に「光の皇子」「プリンス」などと出る人物である。草野心平の「村山槐多」(昭和五一(一九七六)年日動出版刊)によれば、槐多が満十五、中学三年(明治四四(一九一一)年)の頃からと推測している。槐多は当時、鷗外・漱石・上田敏・ボードレール・ランボーを片っ端から読破、『特にエドガ・アラン・ポウの怪奇小説に心酔し、グロテスクな仮面を自分で作り、それをかぶって神楽岡辺りをぶらつい』たが、先の詩篇にも出たこの神楽岡(吉田山)にまさにこの稲生の家があったと記す。但し、草野はその後にまさに本篇全篇を引いた後、『われらふたりくちつけし/ふたり薄紅く泣きしは」そんなことは先づなかった。それは槐多が卒業するまで「美少年」と立話したのも三度位しかなかった筈である』と記すが、この主張には私は微妙に留保を表明したい(そもそも槐多より七つ下の草野は生前の槐多と交流があったわけではない。また、草野は別な箇所で『私自身は同性愛的世界にひどく冷淡』である旨を記した上で、槐多の同性愛傾向を『ひどくパルナシアン的なそしてプラトニックな同性愛だった為に、全く独自な浪漫の短歌が生まれた』などという、私に言わせれば本末転倒な論理を弄んでいるからである。草野が一般的同性愛感情に批判的でありながら、槐多の場合は純化されたそれであったが故に珠玉の詩や短歌を生み出せたなどと言っている、この謂いは、本質的に同性愛者を理解出来ない(潜在的に差別している)結果として引き出されるところの、ありがちな、頗る浅薄な、おぞましいステロタイプな似非文芸評にしか見えないからである)。

 

Inouzou

 

 これは大正二(一九一三)年頃の画家村山槐多の手になる水彩「稲生像」である(彌生書房版全集からスキャンした。文化庁見解によって絵画作品を平面的に撮影しただけの写真には著作権は認められていない)。]

死と過去と   村山槐多

  死と過去と

 

わが過去は汚れし玻璃の器なり

正倉院の玻璃にして

古き豪奢の遺物は

ほのかにもわが心の倉に輝やく

 

ああかなしきかな

わが心を領したる鬼は嗟嘆す

一切は古び一切は汚れたり

靈も何もわが世も

 

わが未來は豫測せられたる新奇に滿たさるるのみ

その先に狂人の面は浮ぶ

ああ苦痛よ、赤きなさけよ

汝はいま古き布の如くわが過去の玻璃をかくせり

 

死はわが前にうらわかき女の如く

その豐なる双手をひろげたり

われは抱かれんかな

その實しき裸體の胸に

氷の涯 夢野久作 (20) ……あと二回で……ステキな……大団円!……

 ニーナはしかし答へなかつた。頸の雪雫(ゆきしづく)を拂ひ落し拂ひ落しペーチカに薪を二三本投げ込んで椅子を引寄せながら、燃え上る焰をヂーツと見詰めてゐたが、やがて温まつたと見えて血色を恢復すると、右のポケツトから大好物の巨大(おほき)な日本梨を出して、皮のまゝカブリ付いた。その片手に左のカクシからレターペーパに包んだ葉卷を三本引つぱり出して、僕の枕元に投付けてくれたが、それは漂浪中(へうらうちう)に欲しい欲しいと云つてゐた上等の挨及製(エヂプトせい)だつたので、すぐに一本に火を點けて吸ひ始めた。

 その中(うち)にニーナは突然に僕の顏を振り返つてニツコリ笑つた。

「ねえアンタ。妾(わたし)たちモウ駄目なのよ」

 トテモいい氣持に陶醉しかけて居た僕は、しかし平氣で煙(けむり)を吹き上げた。

「フー、どうして駄目なんだい」

 ニーナは平生(いつも)の通り、梨の汁を飮み込み飮み込み話し出した。平氣な、茶目氣(ちやめけ)を帶びた口調で……。

「此方(こつち)の方へもスツカリ手がまはつてんのよ」

と云ふのであつた……。

 ニーナは今まで默つてゐたけれども、浦鹽に來るとすぐから哈爾賓の樣子に氣を付けて、それとなく探りまはして居たものであつたが、けふが今日(けふ)まで、それこそ何の情報も聞かなかつた。日本軍の西比利亞撤兵(シベリアてつぺい)が果して出來るかどうかと云つた樣な議論は、何處に行つても人種の區別なしに鬪はされて居たが、しかしカンジンの十五萬圓事件は勿論のこと、オスロフの銃殺事件さへも傳はつてゐる模樣が無かつたので、トテモ氣味が惡くて仕樣が無かつた。絶對祕密にされて居れば居るほど探索の手が嚴しいのぢや無いかと思つて出來る限りお化粧を濃くしてゐた。

 ところが今夜になつて思ひがけない不意打(ふいうち)を喰(く)つてしまつた。

 スヱツランスカヤでも一流のレストラン・ルスキーの地下室で踊つてゐる最中であつた。ピアノの前の卓子(テーブル)でウイスキーを飮んでゐる色の黑い日本紳士が二人、ニーナの顏を見い見い何かしら話し合つて居る樣子が妙に氣になつたから、いつもの通り背向(うしろむ)きになつて踊りながら近づいてみた。すると日本語だつたから、よくはわからなかつたが「イヤ違ふ」とか「イヤ、さうらしい」とか云つて爭ひながら笑ひ合つて居るのであつた。それから少しばかり聲を潜めながら「此事件は可なりトンチンカンだ」とか「オスロフと十五萬圓は別々の問題らしい」とか話し合つてゐる聲が、彈み切つた音樂の切れ目切れ目に聞えたが、あんまり長いこと傍(そば)にゐると疑はれるかも知れ無いと思つて、又も踊りながら遠ざかつて行(ゆ)くと、その中の一人がニーナの足の下に十留(ルーブル)の金貨をチリヽンと投げた。

[やぶちゃん注:●「十留(ルーブル)」前に出した一九二〇年代(本作の作品内時間一九二〇年)の一米ドルは当時の日本円で二円で、凡そ現在の六百円相当が参考になるが、実はこの一九二〇年という年が曲者で、ロシアは内戦によってこの時、六百倍という恐るべきインフレに陥ってルーブルの価値が急落、一米ドルに対する換算レートが一九一四年には二ルーブルであったのに対して、この一九二〇年は何と、一二〇〇ルーブルになっていたという。とすると急落前なら十ルーブルは十円、現在の三千円だったものが、この頃には一円弱で三百円にもならない状態であった。但し、これは為替レート上のものであるから、国内の価値としては前者換算で考えて問題なく、確かにこの場面でのダンサーへの投げ銭にしては「氣前」がいい(次段)ということになるのであろう。]

 ニーナはコンナ氣前のいゝお客に一度もぶつかつた事がなかつたので、少々氣味が惡かつた。でも挨拶をしない譯には行(ゆ)かなかつたから一と踊り濟ますと思ひ切つて、勇敢に笑ひかけながら其の卓子(テーブル)に近づいて行くと、その中の一人がダシヌケに手を伸ばしてニーナのベレー帽をスポリと引き拔いた。

「アハハハハ。見たまへ君。斷髮だらう。ソバカスは解からないが、年頃もちやうど似通(にかよ)つてゐる。……ネエ。さうぢや無いかナハヤさん。君は一體いくつなんだい」

 と其の紳士が上手な露西亞語で尋ねた時には、流石のニーナも身體中の血が凍つたかと思つた。お化粧をしてゐなかつたら直ぐにも顏色を看破(みやぶ)られたであらう。

 ところが、よく氣を付けてみると其の紳士たちは二人とも可なり醉つてゐるらしかつた。だから冗談半分のつもりで其樣(そん)な事をしたものであらう。相手の年老(としと)つた方の紳士はトロンとした瞳をニーナの眞正面に据ゑながらゲラゲラと笑つた。手の甲で鼻の下をコスリあげコスリあげ覺束(おぼつか)ない露西亞語で怒鳴つた。

「……オイ。娘つ子、貴樣の名前はニーナつて云ふんだらう。……隱すと承知せんぞ」

 モウ度胸のきまつてゐたニーナは莞爾(につこり)とうなづいて見せた。ハツキリした日本語で答へて遣つた。

「えゝ。さうですよ。日本語でニーナ。露西亞語でオイシイ、ウヰスキー……」

[やぶちゃん注:●おちゃらけはそれぐらいにして、因みに「ニーナ」(Нича)について調べて見ると、sonohara氏のサイト「さらに怪しい人名辞典」のこちらに、“Антонина”或いは“Нинель”という女性名のロシア語略称形とし、前者「アントニーナ」の原形“Antonia Ridge”「Antonia Ridge」という赤いバラの品種があること、また、後者「ニネーリ」は何と! レーニン(Lenin)のアナグラムで造られた名ともある! 別にまた“Нича”の略称形として“Ника”を挙げ、そこでは『ロシア語では(Nika)の綴りがギリシャ神話の女神「ニケ」を指す』ともある。私の好きなサモトラケのニケ、手が翼となった勝利の女神だ!……。]

 二人の日本紳士は卓子(テーブル)をたゝいて哄笑した。それからニーナの兩手を兩方から引つぱつてホールの眞中に出ると、店附(みせつ)きの音樂師に錢(ぜに)を投げてデタラメなダンスを始めた。その中でも年老つた方の紳士がニーナのベレー帽を冠(かぶ)つて踊り出したので滿場の大喝采を博したが、その踊りにくかつたこと……今にも手の震へを感付かれて、外へ引つぱり出されるかと思ひ思ひ、無理に笑つて戲弄(ふざ)け合つてゐた。その間の情なかつたこと……。

 そのうちに二人はニーナを引つぱつて元の席へ戻ると、強いジン酒(しゆ)を三杯注文した。そこでお盆が來るや否や、ボーイがまだ下へ置かないうちに素早く手を伸ばしたニーナは、三杯とも一息にグイグイグイと飮み干すと、アツと驚いてゐる人々を尻目にかけながら、風車(かざぐるま)のやうにギリギリ舞ひをして地下室を飛び出した。さうしてその足ですぐにルスキーの裏手へ廻つて、給仕頭のムカツツイといふ赤ツ鼻(ぱな)の禿頭(はげあたま)に顏を貸して貰つて、タツタ今貰つた金貨を摑ませて遣つた。

[やぶちゃん注:●「ルスキーの裏手へ廻つて」底本では「ルスキー」は「スルキー」。明白な誤植であるので「全集」に則り、訂した。]

 ところが此のムカツツイと云ふのが又妙な男で、まだ何も尋ねないうちに金貨を摑んだニーナの手を押し戻すと脂切(あぶらぎ)つた眼をギヨロギヨロさせながら、毛ムクジヤラの指を一本ピツタリと唇に當てた。

「……あの二人の日本人の事が聞きてえつて云ふんだらう。……ナ……さうだらう……氣を付けなよ。あれあ此の間からヤツト開通した哈爾賓直通の列車に乘つて來たばかしの怖いヲヂサンたちだよ。若い方が通譯で、年老つた方が鑛山技師(くわうざんぎし)つて云ふ觸れ込みだがね。何でも前月(あとげつ)の末(すゑ)に哈爾賓で、赤い連中を根こそぎ退治して來たつてんで、チヨツトばかりメートルを揚(あ)げて御座るんださうだ。……ところでナハヤさん……そんな事あ何樣(どう)でもいゝが此頃、浦鹽(こつち)の方へドエライお布告(ふれ)が廻つて居るのを知つてるかい……ウン。知らねえだらう。云つて聞かせようか。……何でも半年ばかり前の事だつて云ふがね。哈爾賓で經理部の大將と、大きな料理屋の女將と、その情夫(いろをとこ)だつて云ふ通譯を殺して、公金を搔つ攫(さら)つて赤軍に逃げ込んだつて云ふモノスゴイ一等卒が居るんだ。しかも其の通譯つて男が、無罪放免になつて、憲兵隊本部の入口を二三歩あるき出すと、その瞬間に、何處からか飛んで來た小銃彈で殺られてしまつた。すると又それから間もなく、經理部の大將の死骸を詰めたトランクが、松花江(しやうくわかう)のズツト下流の川中島(かはなかじま)に流れ着いてゐるのを、支那人の船頭が發見(めつけ)て報告したといふので大騷ぎになつたさうだがね。理窟はよくわから無いけれども多分その公金をチヨロマカした兵隊が、自分の祕密を知つて居る二人を殺したのだらうつて云ふ見込みなんだ……しかもその兵隊は、ニーナつて云ふ女と一緒にモータボートで松花江(スンガリー)を下つたつて事が、色んな方面からわかつて居るんだ。序(ついで)に赤軍に逃げ込んだらしい……つて云ふ嫌疑もかゝつて居るさうだがね。もしかすると浦鹽(こつち)の方角にズラカツて居るかも知れねえつてんで嚴しいお布告(ふれ)が、ツイ二三日前に日本軍のタムロへ舞ひ込んだつて事が、此の俺樣の地獄耳にチヨツピリ引つかゝつて居るんだ。そんな祿でもねえ野郎にクツ付いてゐるニーナつて娘つ子は可哀想なもんだつて云つてコチトラ仲間でタツタ今評判して居た處なんだ。……ナニ、俺ケエ。おらあ此家(こゝ)の給仕頭(きふじがしら)よ。白でも赤でも何でもねえ。無色透明、浦鹽見通(うらじほみとほ)しの千里眼樣(せんりがんさま)だ。さう云つたらわかるだらう……ハツハツ。さあさあ解つたら此の水を飮んで今夜は早く家(うち)に歸りな。助かり度(た)けあ俺んトコへ逃げて來る事だ。片付けるものを片付けてナ……いゝかい。人間は何でも思ひ切りが大切だからな。氷(こほり)の解けるまでヂツトして居れあ大概(てえげえ)、捕まるにきまつてるからな。詰まらねえ義理を立てゝそんな男に……ナニイ……そんな用事で來たんぢやあねえ?……ふうん。そんなら何の用事で俺を呼んだんだ。ナニイ。あの帽子……彼(あ)の靑いベレー帽子(ばうし)を俺に取返して呉れつて云ふのか。アウン。大事な守護符(おまもり)でも這入つてんのか。ナニイ。あの紳士たちがドウするか試して見たい……チツプを附けて温柔(をとな)しく返して呉れるかどうか、ちよいとヒヤカシてみたい……? ブルルル。ト飛んでもねえ……圖々しい阿魔(あま)だな手前(てめえ)は……ソンナ事をして本物のニーナと間違へられたらドウする。停車場(ていしやば)の裏(うら)が怖くねえのか。さもなくとも俺が此の指を一本、斯樣(かう)曲げて店のピアノ彈きに見せたら、お前のお乳(ちゝ)が蜂の巣になるのを知らねえか。馬鹿野郎……」

[やぶちゃん注:●「前月(あとげつ)」先月。前の月。過ぎ去った一ヶ月は現在の後(あと)、以前にあるという意から生じた近世語と思われる。 ●「タムロ」は恐らくはロシア語ではなく日本語の「屯(たむろ)」で、日本軍のウラジオストクの駐屯地のことであろう。「たむろっている」とよく我々が口にする「たむろ」は「党」とも書き、もともと上代語で集団・兵隊の意である。]

 ニーナはさう云ふムカツツイに兩手で赤ンベエをして見せながら、横つ飛びに逃げて來たが、生れてコンナ怖ひ思ひをした事は無かつた。お酒の醉ひも何も一ペンに醒めてしまつた。

「だからモウ駄目よ。あの赤つ鼻の禿頭(はげあたま)はボルセビイキの密偵の癖に妾(わたし)に惚れてゐるんだよ。だから云ふ事を聞かないとドンナ事をするか知れたもんぢやない。あの二人の日本紳士だつて醉ひが醒めて氣が付いたらキツト血眼(ちまなこ)になるに決つてゐるわよ」

[やぶちゃん注:●「ボルセビイキ」レーニンが率いた左派の一派ボリシェヴィキ(большевики ロシア語で「多数派」の意)。ロシア社会民主労働党左派から分裂形成された。三月革命後の臨時政府を支持せず、十一月革命を起こしてプロレタリア独裁を樹立。一九一八年に「ロシア共産党」と改称しているが、その後もこの語は彼ら左翼思想集団の代名詞として使用され続けた。ボリシェビキ。]

 といふうちに彼女は梨の大きいのに降參したらしく、喰(く)ひ殘しの半分をナイフで荒つぽく剝き初めた。

「フーン。それぢや十五萬圓はやつぱり銀月の中の何處かに隱して在つたんだな」

「さうよ。それが燒けちやつた事が判つたもんだから赤の連中が、ムシヤクシヤ腹(ばら)で十梨を殺したのよ」

「惜しい事をしたな。無罪の證據になるんだつたのに…」

「證據なんかなくたつてアンタは無罪ぢやないの……」

「お前に對してだけはね……」

「妾(わたし)は有罪だつて何だつて構やしないわ」

「ハツハツハツ……しかし驚いたなあ。星黑(ほしぐろ)の死骸まで俺のせゐになつちやふなんて……」

「馬鹿にしてんのね。そんな嫌疑を一ペンに引つくり返す證據が殘つて居ると面白いわね」

「ウン。タツタ一つ素敵なのが殘つて居るんだ。今しがたお前の話を聞いてる中(うち)に思ひ出したんだがね」

「……まあ……ドンナ證據……」

2015/07/03

泣け人々   村山槐多

  泣け人々

 

泣け人々美しき涙を見せよ

悦びて泣け悲しみを悦べよ

涙を賞ししめりたる汝が神經の

薄明りに身をすてよ

ただひとときを泣け人よ

よし薄紅の櫻花火を交え

酒注ぐ人も醉ひて燈赤くともるとも

泣け人々ただ春ある故に

汝ある故に、泣け人々よ

涙を出だせ美しき汝が寶玉を

 

 

[やぶちゃん注:「交え」はママ。「汝ある故に、泣け人々よ」の読点は「全集」では、ない。「に」「泣」の字間は狭いが、底本の他の箇所を見ると字間なく読点が打たれている箇所があり、拡大して見てもこれは――読点に見えるただの汚れ――ではなく、確かに読点と私は判断する。またここに打って何ら、おかしくない。]

雨夜の泣涕   村山槐多 ――「全集」編者に怒る!――

  雨夜の泣涕

 

強き紫のひかり燈火より來れり

君思ひわれは泣きけり

ひそやかに暗き夜はわが涙の

冷めたき寶玉を拾ふ

 

とろとろと外に雨ふれり

薄くれないの雨かな、ふりしきるは

光陰顯す露はきらめくなり

電光時に雨に交はれり

 

わが思ひは滿たされたり悲嘆に

時に大理石めきたる明光

わが泣涕を滴らす薄紫に

樂音あり燈火あり暗夜あり

 

爛々と輝ける眼の底に

遠くはるけく映れり君の影ほのかに

雨ふりの薄明り見すかせば

わが涙は寶玉なり五色の虹を交へたり

 

強き紫のひかり薄らぎゆけり

薄紅の虹もてる暗夜に

爭鬪不可思議にわが神經をこそこめたれ

美しく一滴の赤血したたれりその上に

 

 

[やぶちゃん注:題名と第三連三行目の「泣涕」が「全集」では孰れも「涕泣」に変えられている。これは一体、どういうことか?!――「涕泣」は「泣涕」とも書くことは周知の事実で、辞書にさえちゃんと載っている。高等学校の漢文の授業でさえ私は教授したことがある。底本が二箇所ともこうなっているのは明らかに誤植とは思われない。槐多自身の草稿が「泣涕」であったと考えるのがごく自然である。草稿も校正稿も残っていないとすれば、誰が一体何故何のために、こんな書き換えをしたのか? 答えは一つしかない。――「全集」編者である山本太郎氏が、自身、「泣涕」に対して語幹上の違和感を覚えて、勝手により一般的な「涕泣」に書き換えた――のである。しかし私は、こんなことが「全集」詩篇編纂時に許される行為だとは、全く以って思わない。これはここでどうしても一度、声を大にして叫んでおくものである!!――

「薄くれない」はママ。]

雨と肌   村山槐多

  雨と肌

 

ふる雨に打たれて

薄ばらの水に浴びる

顫へつつまた微笑して

冷々と兩肌を撫づる

 

冷めたき冷めたき三月の

薄ばらの水と雨

なつかしき君の瞳の

薄明りの中にわれこそ睨め

 

けふのみはわが肌は

なめらかなる大理石なり

かなしみもいかりもけふは

香水の如く蒸發するなり

 

雨はふるわが肌に

絶えまなくちらちらとして

薄ばらの水と雨に

耐へがたき心よさもて

過ぎし日に   村山槐多

  過ぎし日に

 

ああわれ過ぎし日に辭せん

「さよなら」と叫ばん

われは立つ過去の山頂に

われかけらん天空を

今日よりはかけらん

大蛇と聞へる犬鷲の如くにとばん

 

げに眞紅の山頂に立ちたるは

強きわれなるかな

太陽を藏し星を秘めたる

無限の美しき天空の外わが道なし

いざ行かんいざ行かん

天空を飛び行かん

 

過ぎし日よ汝はみにくく憎むべし

されどわれは汝を賞づ

汝はわれを養ひたり

この山頂に立たしめたりき

 

「さよなら」とわれ叫ばん

いざいざわれは汝を離れて

とび行かん未見の空のあなたに

 

    ×

吾は握まん美しき人生を

酒盞を傾むくる如く

吾は吾生を呑まん

吾全體の光輝の中に

吾生を破り去らん

 

吾は進まんかの鷲の如く

空中を飛びつつ

或る時は野に蛇を殺し

或る時は山頂に小鳥を掠めん

 

吾生は經歷す光輝の中を

勇氣ある旅客なり

吾生はかくて遂に高く踏(ふ)まん

萬民の上なる位を

 

   ×

われは野に生く

かのヨハネの如く

野の風と輝きとわれを育つ

われは野の子なり野の人なり

 

われは野に高山を仰ぎ

野に大海を望む

われは潤歩す電氣の如く走る

野を、愛すべき野を

 

野の人と語り

野の都に歌はん

一切はわが野に浸る

わが強き野の風と光輝とに

 

 

[やぶちゃん注:第五連一行目「吾は握まん美しき人生を」は「全集」では「吾は把まん美しき人生を」となっている。不審。個人的には「把」よりもより動感の感じられる「握」の方が好きである。]

孔雀の尾の樣なまつ毛   村山槐多

  孔雀の尾の樣なまつ毛

 

そなたの眼(まみ)の毛の列は

紫深しなつかしや

孔雀の尾をば切りとりて

そなたの眼につけた樣に

 

赤い笛をば吹きならし

この春越しにうたひましやう

そなたの顏の綺麗さを

夢の戰(いくさ)をつづけましやう

 

泣いてそなたの限を見れば

泣いたわたしがうつりましよ

孔雀の色の毛のかなた

 

瞳の色の燈の樣な

靑い孔雀の紋のよな

そなたの眼にも毒があろ

 

 

[やぶちゃん注:第二連の二箇所の「ましやう」はママ。]

闇の中に   村山槐多

  闇の中に

 

都のいらか金箔に赤に輝く入日どき

斜めに覗ふ太陽の恐ろしき心にも

まさりて惡しきわが心わが靈は

ただ打顫ふ美しき紫の暗の中に

 

紫の闇の中にわが心打顫へ

ひたすらにおびえ、ひたすらに打おびえ

外の赤さに引かへて、ここの暗さの劇しさに

泣き泣く外にすべもなく

 

ああこの闇を脱け出でて西にまともし

惡漢の金と赤とのささげ物笑みて受けばや

虐殺のおはりし夜の闇黑を

とく逃げ出でむ

 

ああされどわれはただ打顫ふ

故わかず紫の闇の中に

美しき薄明りほのかに差せども

物の音もみやびなれども

 

ああわれは血のみなぎりし

赤鬼を戀し、慕ひ、すげなくされぬ

いまわれは故わかぬ罪業に唯顫へつつ

玻璃色の影の如くに美しき人を思へり

 

赤に金に萬象は悦び染まり

重量に耐へぬその時

いと憎しわが君よこの闇に

ただひとりわれを逃る美しきその人よ

 

鐘はうつ、たんたんとわが闇の外

にぎやかに太陽の惡の火焰に打染まる全部の上に

にぎやかに物音す人笑ふ

ああわれはただひとり打顫ふかくされし闇の中

 

 

[やぶちゃん注:「おはりし」はママ。]

氷の涯 夢野久作 (19)――エンディングの月を考証する――

 それから橇(トロイカ)で浦鹽(うらじほ)に這入つてスヱツランスカヤの裏通りの公園に近い處にある穢(きたな)い乞食宿(こじきやど)に泊つた。舊式煉瓦(きうしきれんぐわ)を四角い煙突みたいに積み上げた五階の天井裏の一室で、ぺーチカの薪を擔(かつ)ぎ上げるのが一仕事であつた。宿主(やどぬし)の名前は忘れたがシワクチヤナとかクチヤクチヤナ(洒落ではない)とか云ふ浦鹽(うらじほ)生え拔きの因業婆(いんごふばゝあ)で、醜業婦(しうげふふ)や旅藝人、密輸入者、賭博打(ばくちうち)、インチキ兩替屋(りやうがへや)なぞが各階にゴチヤゴチヤしてゐた。

[やぶちゃん注:「スヱツランスカヤ」須藤康夫氏のサイト「百年の鉄道旅行」の「東清鉄道 ウラジオストック」に掲げられてある戦前の日本製の地図及びグーグル・マップを見ると、ゾロトイローグ(金角)湾(グーグル・マップは「ソロトイ・ログ」)の北岸を東西に走る通りに「スヴェトランスカヤ通り」というのを現認出来る。多くのネット記載から、現在もここはウラジオストク一二の繁華街で、レストランなども並んでいることが分かるので、ここであろう。エンデイング近くで、駅裏での処刑の銃声らしきものが聴こえてくるシーンがあることを考えると、彼らの木賃宿はこのスヴェトランスカヤ通りの西(現在の金角湾に南北に南北に渡る橋よりも西側)辺りにあったのではないかと推定される。]

 此處に落ちつくとニーナは、クチヤクチヤ婆さんを通じて何處かの親分にワタリを附けたらしい。例の通りの鉛白粉(なまりおしろい)と紅棒(べにぼう)で毒々しくお化粧をして、スヱツランスカヤの大通りに並ぶレストランや珈琲店(カフヱ)を軒別(けんべつ)に踊つてまはつた。

 しかし僕は一歩も外に出さなかつた。

「浦鹽(うらじほ)には日本軍が駐屯してゐる。おまけに亞米利加(アメリカ)の軍艦が引上げてからと云ふもの、どうした譯か日本軍のスパイの詮議が滅茶苦茶に八釜(やかま)しくなつたらしい。一週間に一人位(くらゐ)宛(づつ)、停車場裏(ステーシヨンうら)の廣場で銃殺される音が聞えるといふからヂツとして待つて居なさい。そのうちに氷(こほり)が解けたら、ジヤンクに乘つて上海(シヤンハイ)にゆけるから……」

 さう云つて僕に黑麺麭(くろパン)と、酒と、罐詰めを當(あ)てがひながら口笛を吹き吹き出て行つた。僕は其の留守中にいつも手風琴(てふうきん)を彈いたり、西比利亞漂浪記(シベリアへうらうき)を書いたりしてゐたが、長いこと旅行を續けた揚句に來た幽囚(いうしう)同樣の生活だつたから、たまらなくわびしかつた。疲れ切つて歸つて來る彼女の醉拂(よつぱら)ひ姿はなほさら文句なしに悲しかつた。さうして二月に入ると僕はスツカリ健康を害してしまつたらしく、ニーナの留守中に薪を荷(かつ)ぎ上げるのが容易ならぬ苦痛になつて來た。多分一度罹つた肋膜が再發したものであらう。輕い熱と咳さへ出て來たのであつたが、しかし僕は苦心して此事をニーナに知らせないやうにした。

 けれども、かうした僕の苦心は、そんなに續ける必要が無かつた。二月に入つてから間もない一昨日(さくじつ)(八日(か))の晩の事であつた。ニーナが平生(いつも)よりも早く九時半頃(ごろ)、帽子も冠(かぶ)らないまゝ大雪を浴びて歸つて來たから寢てゐた僕は眼を醒まして、

「……どうしたんだえ……」

 と問うた。またお客と喧嘩して來やがつたな……と思ひながら……。

[やぶちゃん注:「二月」大正一〇(一九二一)年二月。いつもお世話になっているページ」で調べると、その二月「八日」は火曜日(この夜が新月)で、以下の会話のシークエンスは二月十日木曜の晩に設定されてある。……ということは……本作の印象的なコーダは……そこから丸二日後、遅くとも四日後と考えられるから(支度に有意にかかっていることが分かるが、探索の手が伸びる可能性が示唆されているから、これ以上は考え難い)、それは――二月十三日(日曜)・十四日(月曜)十五日(火曜)未明の午前零時――ではなかったろうか……因みに……それらの夜の月は……切れそうな上弦の三日月である……そうして……そうして十五日だったなら……彼らが旅立つ午前零時頃……月の光は……旅立つ二人を……煌々と照らし出していたものと思われる……]

泣く紫の眼   村山槐多

 泣く紫の眼

 

まばゆきまばゆき眼もとは

たそがれに紫に染まりて

美しき君は泣く爲に泣く

薄薔薇の涙は襟にしづくす

 

君が前の空には

ほのかに集まる、沈みゆく日光の微塵

薄あかりうるはしく慄へつつ

君が涙の眼にうつる

 

まばゆきまばゆき君が眼

戀人をいざなうたそがれの霞に

涙に濡れたる派手なる金銀の襟に輝やける

寶玉の角にて顏を切らん子は誰ぞ

 

美し美し雨に濡れし櫻は

散らず描ける雲となりて

薄ら明りの風景の一點にかかる

華美なる君が泣くほとりの

 

 

[やぶちゃん注:「いざなう」はママ。]

夜の美少女   村山槐多

  夜の美少女

 

それでも默つてはる、けつたいな事

ほんまにけつたいなお孃はん

「どなたぞ待つといやすのかそんな暗いところで

薄靑い石竹色のベベを着て」

 

「あんたはこはいことおへんのか

惡漢が出たらどうおしやすのえ

そんな美しい顏しておいやすからは

あてでもかどわかしたうなりますがな」

 

「ま、默つてやはる、それでも、けつたいな

ばけものかしら、何ぞがばけて居るのやろか

こはやの、あて何やこはうなつてきた

ま、どうやろこの美麗な庭は

濃い紫の水晶の中に沈んだ樣な氣がする

ま、ほんまに綺麗えな、どうえ

電氣がとぼつてるやおへんか

 

あんまり綺麗で凄(すご)おすえな、今晩は

芝居の惡漢(わるもの)でも出て來さうな

そやのにお見やすな、あこにほれ

美しいお孃はんが立つてはる

 

「もしもしお孃はん何でそないにぽかんと

こんな暗いとこに立つておいやすのや

もつと灯のある方へお出でやすな

美しい石竹の樣なお孃はん」

あてほんまに醉うてるのやけど、美麗な今晩」

 

「美しい愛らしいお孃さんあなたはよもや

好きな人を待つといやすのではござりまへんやろな」

何で小さいこの石竹色のおひとに

そんな事がありまひよかいな、あほらしや

 

ま、けつたいえな、この美麗な夜に

あのお孃はんが消えてしまうたえ

惡漢にでもお會ひやさへんとええが

ああ、それはどうでもええけれど

ま、ほんまに今晩は

綺麗な晩えな、

 

 

[やぶちゃん注:第三連五行目「濃い紫の水晶の中に沈んだ樣な氣がする」は「全集」では「薄い紫の水晶の中に沈んだ樣な氣がする」となっている。不審。詩想から言っても私は「濃い」が相応しいと思うのだが。……

第五連は「全集」では、最終行の鍵括弧が消去されて、

   *

「もしもしお孃はん何でそないにぽかんと

こんな暗いとこに立つておいやすのや

もつと灯のある方へお出でやすな

美しい石竹の樣なお孃はん」

あてほんまに醉うてるのやけど、美麗な今晩

   *

となっている。全体の構成から見ても、この除去は正しいようには見える。]

一人の美少女に   村山槐多

  一人の美少女に

 

私はあなたを見たえ、はぢめて

紫色のたそがれで

あなたの月みたひな燈が都の辻々で

一ときに點ぜられたときやつた

 

あなたは珈琲(コーヒー)いろの路上で

巧にまりを二つついて居た

一つは金色一つは紫色で

とんとんとんとおどりみたいな手ぶりで

 

うれしかつたえ、あなたの顏は

きれいであでやかでそれは美しかつた

もうあしたの曉の光がさして來た

あなたのほんのりとした眼もとに

 

それでもたそがれで宜(よろ)しゆおした

わたしは薄闇をよいしをに永いこと

あなたをそばでみとれてた

美しいお娘はんほんまえ

 

あなたは友禪の振袖をうるさそうに

はねのけてとんとんとんと

情を地べたにやる樣についてたまりを

しまひに抱いていなはつた

 

それから私は忘れられぬ

あなたのしなやかな姿が

淸水の新塔みたいに派手やかな

あなたの衣裳が、紫の帶が

 

 

[やぶちゃん注:「はぢめて」「月みたひな」「おどり」「よいしをに」「うるさそうに」はママ。

「淸水の新塔」これは清水寺の奥の院前の道を南の清閑寺方面へ歩いた先にある塔頭泰産寺の三の重塔、通称、子安塔のことか。重要文化財。清水寺の寛永再興時の再建で高さ十五メートル、仁王門近くにある三重の塔の凡そ半分である。参照したウィキの「清水寺」によれば、『元は仁王門下の南側、警備詰所のあたりにあったが』、明治四四(一九一一年)に『現在地に移築された。名前のとおり、安産に大きな信仰を集めてきた』とある。西門の先に建つ和様の三重の塔の方が現在は遙かに「派手やか」であるが、これは昭和六二(一九八七)年に『完了した解体修理により、外部の極彩色が復元され』たものとあることから、子安塔と推測したが、京知らずの我なれば、識者の御判断を仰ぐものである。]

たそがれの美少女   村山槐多

  たそがれの美少女

 

紫の酒をとうべて醉ひしれぬ春の都は

夜は來る深き夜はいと妖艷に

うるはしき玉の如き燈火は點ず

辻々にゆきもどる若人のため

 

まだ殘る日のかげに遊べるあり

美しの少女あまた打群れて

その派手やかに着かざる衣裳(いしよう)は

人目を眩ず薄明り亂して

 

玻璃いろの人形めきたる

榮ちやんもたえまなく銀色のまりをつき

お手玉に燦爛と耽る子もあり

 

にほひよき薄明り美少女の群をたたへて

ただ消えゆくばかりなり春の夜に

時に燈火は叫ぶおごそかに「少女よ去れ」と

 

 

[やぶちゃん注:「とうべて」はママ。「全集」は「たうべて」と訂する。

「衣裳(いしよう)」底本のルビは「しよう」のみ。「全集」に準じた。
 
「榮ちやん」少女の実名か?]

偏光   村山槐多

  偏光

 

わが眼美しき物に悦び

物みななべて照り輝やきにき

光は泣く事なく

物體は悦びにき

 

されどこの彫刻めきてなつかしき豪奢の時は

いつしか過ぎわが眼に美しき物は

漸(や)うやくに兇惡の相を帶び

光は泣きしきる

 

天地は睨みし

物みなすべて寫樂が眼ざしを悦び

やつれたり

わが眼の周圍に

 

ある遊歩の時われはわが眺望の頽廢を

もたらせしを見出しぬ

いと憎くいとうらかなし

こはわれの戀人なりき、

 

わが見る物は美しくみな照り輝き

光は豐にして孔雀石の色を帶びにき

すべて圓滿にして佛の如く

すべて豐年の樂しさを具へにき

 

されどこの彫刻めきてなつかしき豪奢の時は

いつしか過ぎ去り

美しき物はすべて狂氣し泣きうめきたり

すべて陰險と兇惡とを具へたり

 

天地は美しき惡漢となり

ものみな寫樂の描きたる眼を具へたり

たくましき物はやつれ進み

樂しき物は泣かんとしたり

 

この雨の落る時薄紅のくれがた遊歩の時

われは見出づこの眺跳(ちやうちやう)の頽廢をもたらせし物

ああいと憎くいとかなしけれども

そはわれの戀人なりき

 

 

[やぶちゃん注:「全集」で、まず不思議なのはここでは「頽廢」を「頽廃」とせずに、正字で示している点である。以前の詩篇では新字化しているのにも拘わらず、である。ここを「全集」の新字というコンセプトを外してまで特別に「廢」にしなければならない理由が私には見当つなないのにも拘わらず、である。

「この雨の落る時薄紅のくれがた遊歩の時」ここは「全集」では、「この雨の落る時 紅のくれがた遊歩の時」となっている。これはもう由々しき誤植(脱活字)で話にならない。しかも編者の異なる改造文庫(草野心平編)でも全く同じく一字空きとなっているのは一体どいうことか!!

「眺跳」不詳。――「この眺跳の頽廢をもたら」したのは、ああっ!……「憎く」もあり、痛く「かなし」と感ずるのだ「けれども」、何と……それを「もたら」したものは、かの「われの戀人」であったのだ!――という詩想から考えれば、この「眺跳」は「わたし」の切に惹かれ愛する「戀人」であるわけであるからして、「眺跳」はその対極としてのネガティヴな意味でなくてはならない。とすれば、例えば「佻佻」(てうてう/ちょうちょう:行くも労苦に耐へ得ざる姿・浅はか・軽薄・輕佻浮薄の意)などが私には想起はされるが。識者の御教授を乞うものである。]

にぎやかな夕ぐれ(K.I に)   村山槐多

  にぎやかな夕ぐれK.I に)

 

「にぎやかな夕ぐれやおへんか

ほんまににぎやかやおへんか」

何がにぎやか、何がにぎやか

薄靑い濃い夕ぐれ

 

美しい空が東山に

紫の珠が雨みたいに東山に

星が血のりめいて酒びたりの春の空に

紫に薄くれないに

 

「ほんまににぎやかやおへんか」

たどりゆくは女の群

寶玉でそろへた樣な多情な群

美しいお白粉にきらきらと

 

燈が燈が燈が加茂川の岸べに

金色に、アークランプも櫻色に

「ほんまににぎやかやおへんか

きれいな夕ぐれやおへんかいな」

 

わたしはたどる紫の貴とい薄紫の

神樂岡の裾を浮き浮きとした足どりに

たらりたらりと酒が滴たる

あざみ形の神經から

 

「にぎやかやおへんかいな」

わたしは答へるうれしさに

「そうどすえなあ」

美しい女の群に會ふや數々

 

「にぎやかな夕ぐれどすへな

ほんまににぎやかな

あの美しいわたしの思ふ子は

此頃どないに綺麗やろえな」

 

近衞坂を下れば池の面に

空がうつる薄紫の星の臺が

ほのかにもるゝ銀笛の響は

わが思ふ子の美しい家の窓から

 

「にぎやかな夕ぐれやおへんか

ほんまににぎやかやおへんか」

この時泣いて片戀のわれはつぶやく

「そやけどほんまはさびしおすのえなあ」

 

 

[やぶちゃん注:「K.I」京都府立第一中学校の一級下の稲生澯(いのうきよし)。後掲する紫の微塵(稻生の君に捧ぐ)の私の注を参照されたい。

「神樂岡」「かぐらがをか(かぐらおか)」は京都市左京区南部、京大東方にある吉田山の異称。

「近衞坂」不詳。吉田山の南西位置、現在の近代吉田寮及び京都市立吉田近衛中学校、近衛通を主とする京都市左京区吉田近衛町があるが、種々の画像・地図を見ても、「坂」はないので、この一帯とは思われない。そもそもが近衛坂を検索をしても、一般に知られた京都の近衛坂がなかなか見つからない。京都市公式サイト内の中山家遠祖墳表記碑 碑文の大意の中に(コンマを読点に変更した。下線やぶちゃん)、『その結果わかったのは、『薩戒記』にいうところの真如堂は、古くは今の真如堂の地の東数町に相当し、旧真如堂村の地名が今なお残っている。観音堂はすなわち吉田寺のこと。昔は近衛坂の南、善正寺の西に位置した。今なお吉田畝という地名が残る。現在の地名から昔のことを推量すると、あまりまちがったことにはならない。すなわち中山堂は今の真如堂の前、近衛坂の北、いにしえの車大路のそばにあったと考えるのが妥当であろう』という叙述が見つかった。また、東京都調布市の浄土宗慈眼山西照寺公式サイト内の岡崎の「新黒谷」の法然の事蹟記載中に、法然の隠遁地としてこの「近衛坂」について(下線やぶちゃん)、『近衛坂は金戒光明寺とその側にある真如堂(天台宗)の間と』法然が記している、ともあった。ところが、この二つの情報を現在の地図上で見て見ても、不思議なことに地点を絞り上げることが出来ないのである。詩の本文に「下れば池」があるというのが大きなヒントとは思われるが、地図上ではやはりそれを限定し得ない。但し、前の情景が「神楽岡」、現在の吉田山の吉田緑地であるから、そこから北或いは東北方向に下る孰れかの坂道を指してゐるものとは推測出来る。私は京都に数度しか行ったことのない迂闊な男である。どうか、この槐多の近衛坂、何方か、御教授方、お願い申し上げる。]

京都人の夜景色   村山槐多

  京都人の夜景色

 

ま、綺麗やおへんかどうえ

このたそがれの明るさや暗さや

どうどつしやろ紫の空のいろ

空中に女の毛がからまる

ま、見とみやすなよろしゆおすへな

西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに

どうどつしやろえええなあ

 

ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい

灯がとぼる、アーク燈も電氣も提灯も

ホイツスラーの薄ら明りに

あては立つて居る四條大橋

じつと北を見つめながら

 

虹の樣に五色に霞んでるえ北山が、

河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな

靑うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が

きらきらと映つとおすは

三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ

藝妓はんがちらちらと見えるのに

 

ま、もう夜どすか、早いえな

あ空が紫でお星さんがきらきらと

たんとの人出やな、美しい人ばかり

まるで燈と顏との職場

あ、びつくりした電車が走る

あ、こはかつた

 

ええ風が吹く事、今夜は

綺麗やけど冷めたい晩やわ

あては四條大橋に立つて居る

花の樣に輝く仁丹の色電氣

うるしぬりの夜空に

 

なんで、ぽかんと立つて居るのやろ

あても知りまへん

 

 

[やぶちゃん注:「ま、見とみやすなよろしゆおすへな」「全集」は「ま、見とみやすなよろしゆおすえな」。

「きらきらと映つとおすは」「全集」は「きらきらと映つとおすは」。

「あても知りまへん」「全集」は「あても知りまへんに。」とする。改訂した理由や注は一切なく、根拠不明である。これも原稿或いは校正稿が残存していて、訂することが出来た――しかもそれを一切情報として提示せず――にとでもいうことなのだろうか? 向後、この皮肉な注は略すが、ともかくも彌生書房版「村山槐多全集」の本文校訂に私は現在、激しい猜疑心を持っていることを告白しておく。]

沈みゆく都   村山槐多

  沈みゆく都

 

薄靑き群靑交ぜて紫に

汚れたる玻璃色の月ある空に照りかへすは

燈火飾れる古き都なり

夜の山水ほのかにそこを取り卷く

 

都は沈淪すこの暗くこはれし夜の

おぼろなる月の影に

都は沈む酒の海のいと深き底

おお沈みゆく古き都は

 

されど燈火は玉の如く輝やく

明るさあでやかさよ辻々に

この沈みゆく廢れし都の眞夜中を

誰がためにかくばかり汝らはけはひするぞ

 

われさまよひて、とある小路に

少女に會へりいと愛らしき

その美しきまぶたには曉の影ありき

淸く品よき薄薔薇に染まりたる

 

さて少女おどろきてわれをながめつ、

   ×

薄紅のアークライトよ

そが中心の火花よ

丁度葡萄酒を飮みゆく樣に

そは夜と共に更けゆく。

2015/07/02

樂しき夕ぐれ   村山槐多



   樂しき夕ぐれ

 

樂しやこの夕ぐれの空は黄水晶

靑き孔雀石光りきらめきて

調ぶる琴は六段なり

かの人の言葉づかひをふと思ひ出づ

 

尺八のなつかしき合奏

きくわれの心は金銀の光とともに浮き立ちて

ぞろぞろとめぐりあるけり

夕ぐれの春の虛空を

 

樂しやな炎の色のうぐひすが泣く

五カラツトの空の領地に

六段はひびきて絶えず

哀歡わが心に消え滴たるなり

 

 

[やぶちゃん注:「滴たる」はママ。]

氷の涯 夢野久作 (18)

 それから二晩ほど走るうちに、機械が惡くなつたらしく、何度も何度も故障が起りはじめた。さうして豫定よりもズツト早くガソリンが無くなりかけたので、トウトウ諦めた彼女は、道路の見える處まで來てボートを乘り棄てた。あとから地圖に引合はせてみると、そこはハバロフスクから百五十露里ばかり手前のペトロスカヤ付近だつたらしい。ボートは河岸の草の茂みの中に引上げて置いたから洪水(おほみづ)が出ない限り見付からないだらう。

[やぶちゃん注:●「ペトロスカヤ」不詳。ハバロフスクから百五十キロメートル上流となるとアムール川(黒龍江)左岸の「ゴロヴィノ」という場所辺りであるが、「ペトロスカヤ」に近い地名は見当たらない。或いは旧地名か、右岸の中国領内の地名のロシア語呼称であったものか。識者の御教授を乞うものである。]

 晩秋の光に滿ち滿ちた大河岸(おほかはぎし)の、廣い廣い露草の中に立つた時、僕は何がなしにタメ息をさせられた。靑い靑い大空を仰ぎながら、もういよいよ駄目だ……と思つた。

 食事が濟むと彼女は飮料水の全部をバケツの中にブチマケて、片手で固練白粉(かたねり)を溶きながら、首から上を氣味の惡いほど眞白に塗り上げた。それから細長い情熱的な眉を引いて、唇を赤黄色(あかきいろ)いベニガラ色に染めつけると、今度は僕を丸裸體(まるはだか)にして、黑い支那服じみた奇妙な恰好の古いダブダブ服を着せた。それから軍服と兵隊靴(ぐつ)を、ボートの下に突込(つきこ)むと、代りに古い赤革のゲートル靴(ぐつ)を穿かせて、鍔の廣い、黑い、伊太利(イタリー)風のお釜帽子(かまばうし)を冠(かぶ)せて、大きな色眼鏡(いろめがね)をかけさせて、それから食料とお金と化粧道具と、ピストルを納めた上に、僕の雨外套と、毛布と、飯盒(はんがふ)を結びつけた露西亞式(ロシアしき)の古背嚢(ふるはいなう)を僕の肩に載せかけて、一番最後に巨大な新しい手風琴(てふうきん)を渡した。

[やぶちゃん注:●「固練白粉(かたねり)」硬めに作った練(ね)り白粉(おしろい)のこと。粉白粉と油或いはグリセリンと練り合わせて柔らかな固形にした白粉。水若しくは化粧水で溶いて塗る。舞台メークなどの濃厚な化粧に用いられる。現在のファンデーション・ケーキに相当する(以上はウィキの「おしろい」に拠った)。 ●「お釜帽子」大正時代のモボが好んで被ったソフト・ハットの頭を潰したものを当時は「御釜帽」と呼んだ。中原中也の知られた写真を想起されるとよろしいか(リンク先は“Wikimedia Commons”の単体写真)。]

 彼女は其處で二、三歩退(しりぞ)いて僕の姿を眺めると腹を抱へて笑ひ出した。

「ホホホハハハ……ハラショ……オーチヱンハラシヨ……とてもよく似合つたわ。濟(す)まあしてんのねアンタは……盲啞(まうあ)學校の生徒さんソツクリよ。ホホヽヽハハヽヽ……いゝこと、アンタはザバイカル生まれのボヂイ、ガルスキーつて云ふ人よ。それから妾(わたし)はプリアト、モンゴル生まれのナハヤ、ガルスキー……二人は夫婦なのよ。……いいこと……見てらつしやい」

[やぶちゃん注:●「オーチヱンハラシヨ」“Очень хорошо”(とってもいいわ!/よく出来ました!) ●「ザバイカル」“Забайкалье”。「ザバイカリエ」「外バイカル」とも訳す。ロシア東部のバイカル湖東の広域名ザバイカリエ地方。現在のブリヤート共和国の一部及びロシア連邦のイルクーツク州に相当するとウィキの「ザバイカル」にはあるが、少し納得がいかないのでもう少し調べてみたところ、服部倫卓(みちたか)氏の「服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪(ブログ版)」に以下のような記載を見出せた。『「Предбайкалье(プレドバイカリエ)」という聞き慣れない言葉に出くわした。「Задбайкалье(ザバイカリエ)」という言葉はもっとポピュラーで、「外バイカル」という意味であり、ヨーロッパ側から見てバイカル湖の向こう、すなわちブリヤート共和国およびザバイカル地方(昔のチタ州)のことを指す地名である。「プレドバイカリエ」というのは、「前バイカル」という意味だから、バイカル湖の手前という意味なのだろう。こちらのサイトなどを見ると、前バイカルというのは、実質的にイルクーツク州のことを指しており、同州の雅語になっているような感じがする。ザバイカリエ(外バイカル)とプレドバイカリエ(前バイカル)を総称し、単に「Байкальский регион(バイカルスキー・レギオン)」、すなわちバイカル圏と呼ぶ』。完全に腑に落ちた。 ●「プリアト」現在のロシア連邦を構成する共和国の一つである東シベリアのバイカル湖の南東部に位置するブリヤート共和国(Республика Бурятия ブリヤート語:Буряад Республика)周辺の地方名(ウィキの「ブリヤート共和国」に拠る)。ウィキの「ブリヤート人」には、『ブリヤート人はモンゴル族の一部であり、モンゴル先祖はバイカル湖から形成し始めてから草原地代へ進行する、モンゴル秘史に記載する蒼き狼と白い鹿がバイカル湖を横断して草原へ移動されモンゴル民族が発足する。バイカル湖周辺が人類文明の一原点であり、アルタイ諸民族の発祥地だとされる』とある。]

 と云ふうちに彼女は素早く支那服を脱いで、強健なオリイブ色の手足を朝の斜光に曝し出した。その上からジプシー一流の赤と黄色のダンダラの舞踏服に、何と云ふか知ら無い茶色の革紐を膝の下まで編み上げたスリツパ樣(やう)の革草履を素足にからみ付けて、靑天鷲絨(あをびらうど)のベレー帽を耳の附け根まで引下げた。その上から赤裏(あかうら)の靑マントを威勢よく引きまはして、紫と紅(あか)の房(ふさ)を引きはえた黄金塗(きんぬり)の鈴太鼓(ジヤンポン)を一個(つ)小脇に抱へると、籠から出た小鳥のやうに肩を一つゆすり上げた。

[やぶちゃん注:●「鈴太鼓(ジヤンポン)」「全集」では『ジヤンポンロ』とルビする。「鈴太鼓」は本邦では歌舞伎舞踊の小道具の一つで、胴の枠に鈴を付けた直径約十七センチメートルの扁平な小太鼓を指し、平凡社の「世界大百科事典」によれば(記号の一部を変更した)、『振鼓(ふりつづみ)ともいうが、胴に数個の鈴を入れたもの。歌舞伎では女方(おんながた)の踊りに用いられ、両手に持った鈴太鼓を、打ち合わせたり、膝や床を打ったりして音をたて、リズミカルに踊る。「娘道成寺」「男舞」「浅妻舟」や、「鏡獅子」の胡蝶の踊りなどに見られる。「娘道成寺」では、白拍子(しらびようし)花子が芸づくしの舞踊の最後に。『花に心を……』で鈴太鼓の踊りを見せ、鐘入りとなる』とある。ここでは以下に掲げた底本の挿絵を見ると、タンバリンのことであることが分かる(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)。このルビの「ジヤンポン」及び「ジヤンポンロ」というのは外国語ではなく、日本語のオノマトペイアか? 識者の御教授を乞う。]

 

Koorinohate5

 

 彼女は其處で、何でもいゝから僕の好きなものを彈いて見ろと命令した。多分さうして僕を試驗した上で、簡單な曲を口移しに教へる積りらしかつたが、案外にも僕が譜だけ知つてゐるジプシー舞踊曲「ドンドン燃やせ――深山(みやま)の焚火(たきび)」を大きなベース入りで彈き出したので、彼女は靑褪(あをざ)める位(くらゐ)驚いて……どうして知つてゐるか……と眼を丸くした。それから古めかしいコチロンやタンゴを二つ三つ彈いてゐるうちに、草の中でステツプを狃(な)らしてゐた彼女は、

「モウいゝ……それだけあれば澤山よ」

 と云ふかと思ふと、高い草を押し分けながら、ステツプを踏み踏みサツサと歩き出した。舞踏好きの彼女はもう哈爾賓の出來事なんかトウに忘れてしまつた樣に浮かれ出してゐるのであつた。

[やぶちゃん注:●『ジプシー舞踊曲「ドンドン燃やせ――深山の焚火」』不詳。二木紘三氏のブログ「二木紘三のうた物語」に作詞ポローンスキィ・作曲プリゴージィとして「私の焚火」という曲を確認出来る(曲も聴ける!)。これか? 識者の御教授を乞う。 ●「コチロン」これはどうもフランス風の古式のスクエア・ダンスのことらしい。“Cotilon”はフランス語でペチコートの意であると、「浜松スクエアダンス愛好会」公式サイト内の「スクエアダンス初めて物語」にあった。 ●「狃(な)らしてゐた」この場合は、ステップを慣らす、練習するの意である。]

 坊主頭の彼女のあとから草を押しわけてゆく自分の姿を振り返つた時、僕は涙も出なかつた。

 二人は、それから一枚の露國地圖を賴りにして、西比利亞(シベリア)の曠野(くわうや)を漂浪(へうらう)し始めた。……と云つても大した事は無い。ペトロウスカヤからハバロウスクに出て、其處から烏首里江(ウスリーかう)沿(ぞ)ひに鐵道線路を避けながら興凱湖(こうがいこ)へ出て、ニコリスクから浦鹽(うらじほ)に南下したものであるが、それでも三四百里(日本里(にほんり))ぐらゐの徒歩旅行であつたらうか。

[やぶちゃん注:「烏首里江(ウスリーかう)」ウスリー川(現行中国語:烏蘇里江/ロシア語река Уссури)。アムール川の支流の一つで、ロシア沿海地方・ハバロフスク地方と中国東北部吉林省・黒竜江省の国境を成す。ロシア沿海地方の中央を貫くシホテアリニ山脈を水源とし、ウスリー・タイガと呼ばれる松や広葉樹林の原生林を西に流れた後、東北に向きを変えてロシア・中国の国境を流れ、ハバロフスクの近くでアムール川に合流する。合流点に中露の領土争いの対象となってきた中州である黒瞎子(こっかっし)島(黒瞎子の中国語を音写すると「ヘイシャーズ」/ロシア側はостров Большой Уссурийский「大ウスリー島」と呼ぶ)がある。全長約八百九十七キロメートル、流域面積十九万三千平方キロメートルに及ぶ。中国側からの主要な支流は二つあり、一つは黒龍江省と吉林省の境に発し、黒龍江省を東へ流れ、穆稜・鶏西市などを経て虎林市付近で合流する「穆稜河」で、今一つはハンカ湖(後注参照)を源に国境を北へ流れて合流する「松阿察河(ソンガチャ河)」である(以上はウィキウスリに拠った)。 ●「興凱湖(こうがいこ)」ハンカ湖(о́зеро Ха́нка)の中国名(興凱の中国語を音写すると「シンカイ」)中国東北部の黒竜江省とロシア連邦の沿海地方との間の国境地帯にある広大な湖。中国側は黒龍江省鶏西市に属すが、市街からは百二十キロメートルも離れている。湖面面積は四千百九十平方キロメートルで、湖の北寄りに直線状の国境線が引かれており、南側三千三十 平方キロメートルがロシアに、北側千百六十 平方キロメートルが中国に属している。私は即、黒澤明の「デルス・ウザーラ」を思い出す。あの葦を刈る音は凄かったな。…… ●「ニコリスク」は底本では「ニユリスク」であるが、これは誤植と断じて例外的に「全集」の「ニコリスク」を採った。これは現在のロシア連邦の沿海地方南部にある都市ウスリースク(Уссурийск)で、ィキウスリースクによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『かつては清国領で「双城子」と呼ばれていた。一八六六年、この地が清国領からロシア領になって六年後、ニコライ一世の名をとってニコリスコエ村が置かれた。東清鉄道との連絡を図るウスリースク鉄道の建設後、この村の重要性は増大し、一八九八年、ニコリスク・ウスリースキー市となった。一九三五年、スターリンの側近クリメント・ヴォロシーロフの名を取りヴォロシロフ市に改称された。スターリンの死後ヴォロシーロフは失脚し、一九五七年、現在のウスリースク市に改称された』とあり、本作の小説内時間の一九二〇年前後は「ニコリスク・ウスリースキー」が都市名だからである。『ウラジオストクの百キロメートルほど北に位置し、シベリア鉄道と中国からの鉄道(旧・東清鉄道)・北朝鮮からの鉄道が合流・分岐する交通の要衝である』。また『交易都市だけに中国・北朝鮮との密輸や日本車密輸、売春斡旋を行うマフィアの活動が盛んである。二〇〇四年には、ウスリースクを根拠にするマフィア幹部が自らの武勇伝や犯罪、投獄を「当事者」に演じさせた実録ドラマを地元テレビ局で放映させ、生々しい実話や実弾発射を用いたアクションなどで注目を集めた。なお、ウスリースクはウスリー川沿岸地方に経済的影響力を持つが、その名に反してウスリー川やその支流は流れていない』ともあって、この後の段のエピソードと合わせると、うひゃあ! って感じがする。 ●「浦鹽(うらじほ)」ウラジオストク(Владивосто́к 音写だと「ヴラヂヴァストーク」に近い)。ロシア極東部沿海地方(プリモールスキイ地方 Приморский край)の州都。ウィキの「ウラジオストク」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『十九世紀末、日本海を通じての太平洋への玄関口として、また北に位置するロシアが悲願とする不凍港として極東における重要な港町に位置づけられ、ロシア帝国海軍バルト艦隊、太平洋艦隊の分遣隊がおかれた。これは、のちに強化されてウラジオストク巡洋艦隊となった。ウラジオストクには造船所やドックが建造されたが、これができるまでロシア極東にはまともな艦船の整備施設がなく、日本の施設に依存していた』。『日露戦争時には、ウラジオストク巡洋艦隊は通商破壊に活躍し、黄海海戦ののち旅順艦隊の残存艦はウラジオストク巡洋艦隊に合流した。日露戦争後はその構成艦船の主要なものがほとんどバルト海へ帰還し、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小された。一九〇五年までに中国領満州のハルビンを経由してモスクワとウラジオストクを繋ぐシベリア鉄道(一部、東清鉄道)が建設された。一九一二年に日本とウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅(一九一四年からは東京駅)―金ヶ崎(後に敦賀港に改称)で運行される(ボート・トレイン)』。『ロシア革命後、ウラジオストクには、日本、イギリス、アメリカの干渉軍が進駐した(シベリア出兵)。一九二〇年~一九二二年の間、極東共和国の支配下にあり、各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は、九万七千人から四十一万人までに増加した。一九二二年十月二十五日、最後の干渉軍部隊が撤収し、ウラジオストクは赤軍の支配下に入った。市の人口は、十万八千人にまで減少した』とある(作品内時間の当時でのそれは一九二一年)。『かつては非常に規模の大きな日本人街があり、一九二〇年頃(大正九~十年頃)には六千人近くの日本人が暮らし、日本とロシアの交流は非常に活発に行われていた。町には浦潮本願寺などがあり、日本人による商店や企業が多数進出していた』とある。 ●「三四百里(日本里(にほんり))」千百七十九~千五百七十キロメートル。起点の「ペトロウスカヤ」が不祥であるが、大体の位置から直線でハバロフスクとウラジオストクまでを計測すると、七百八十七キロメートルほどであるから、陸路徒歩となれば軽く千キロメートルは超えるので、誇張表現とは言えない。]

 それは僕の生涯の中で、一番思ひ出の深かつた……樂しいと云ふ意味ではない。自分の魂が空虛の中(うち)に消え込んでゆくやうな氣持での……生活であつたが、その詳細は此處に必要が無いから大略(たいりやく)して置く。別に「西比利亞漂浪記(シベリアへうらうき)」といふのを書いてゐるにはゐるが、これも尻切れトンボになつたから燒棄(やきす)てる積りだ。

 僕の腮鬚(あごひげ)とニーナの髮は、この漂浪(へうらう)中に可なり伸びて來た。僕の腮鬚は赤く縮れてゐたので、頭を坊主刈(ばうずがり)にしておくと、さながらのギリアークに見えたらしい。又ニーナはいゝ加減な斷髮少女に見えて來たのを、眞中(まんなか)から二つに分けて撫で付けてゐた。
 

[やぶちゃん注:「ギリアーク」ニヴフ。以下、ウィキニヴフに拠る。樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族で古くはギリヤークと呼ばれたが、現在では彼らの自称に基づいてニヴフ(アムール川下流部で「人」を意味する語)と呼ばれている。『アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語ニヴフ語を持つ。アムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なる』。]

 二人が演ずる手風琴(てふうきん)とジプシーの踊りの一座は到る處の村々の人氣を呼んだ。山奧の富裕な村の結婚式や祭禮にぶつかつた時はへトヘトになるはど持て囃された。

 しかし雪が降つて來ると旅行のスピードが急に倍加して來た。驛傳(えきでん)の橇(トロイカ)を利用して、酒場酒場を拾つて歩かなければならなくなつたからであつた。
 
[やぶちゃん注:●「橇(トロイカ)」「トロイカ」(тройка)はもともと「三」「三つの組み」を意味するロシア語で、そこから三頭立ての馬橇(或いは馬車)を指す語となった。]

 僕は其の旅行中に色々な事を見たり聞いたりした。

 飢饉の爲めに洞穴に逃げ込んで死んだ一家族の木乃伊(みいら)を見た。赤軍の不換紙幣(ふくわんしへい)による強制徴集に應じなかつたために、虐殺されて、燒き拂はれた大村(たいそん)の中を通過した。赤軍の村(と云つても純然たる赤(あか)ではない。一番タチの惡い強盜半分の武裝部落)に這入つて訊問されかけたのを、ニーナが首領とウオツカの飮みくらをして胡麻化したこともあつた。白軍だかチエツコだかわからない兵隊を五人づつ針金で縛つて銃殺した死骸を、道端に何處までもどこまでも並べて在る荒野原(あれのはら)を通つた時には、二人とも息を詰めて生汗(なまあせ)を滴(た)らした。そのほか地圖に無い高い山や、大きな湖を發見したこと……西比利亞の住民に取つては赤とか、白とか云ふ思想がオヨソ意味ないものであること……それよりも一九一七年に露都(ろと)で組織された第一女軍(ぢよぐん)の評判が到る處に行(ゆ)き渡つてゐること……二度ほど出會つた大吹雪の恐ろしかつた事……生まれて初めて見たオーロラが神祕的に壯嚴(さうごん)であつたこと……興凱湖(こうがいこ)の月の夜(よ)に僕が何氣なく彈いて聞かせた「カツポレ」の曲を、ニーナがトテモ悲しくて踊れないと云つて涙ぐんだこと……なぞ思ひ出せば數限りもない。

[やぶちゃん注:●「赤軍の不換紙幣による強制徴集」今一つ、よく分からない。ロシア史にお詳しい方の御教授を乞うものである。 ●「チエツコ」これこそ先に注したチェーカー(ЧК)、レーニンによってロシア革命直後の一九一七年十二月に人民委員会議直属機関として設立された秘密警察組織「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」(Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем)の通称ではあるまいか。英語では“Cheka”ドイツ語では“Tscheka”で、音写では「チェカー」「チェカ」とも表記するからである。 ●「露都」モスクワ(Москва́)。ソビエトによって首都機能が移転され、ソビエト連邦及びロシア・ソビエト社会主義共和国の首都となったのは作品内時間一九二一年の二年前の一九一八年であった。 ●「第一女軍」不詳。ソ連が第二次世界大戦時に前線に投入する組織的な女性兵隊組織を作ったことは知られているが、革命当時の公的な固有名詞として「第一女軍」らしきものは調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。 ●『興凱湖(こうがいこ)の月の夜(よ)に僕が何氣なく彈いて聞かせた「カツポレ」の曲を、ニーナがトテモ悲しくて踊れないと云つて涙ぐんだこと』文句なしに皮肉にステキに面白いではないか。……ニーナは和音階の滑稽節の底にしみじみとした仄かな哀しみを知る不思議な女なのである……。]

 二人が浦鹽(うらじほ)に來たのは別に深い意味があつての事ではなかつた。二人の變裝に自信が付いて來るに連れて、都會が戀しくなつたからでもあつたらうし、一つには夫れとなく哈爾賓の樣子を聞いてみたい……といふ僕の良心的な氣持ちの動きも手傳つてゐたであらう。翌年(今年)の正月の初めに、ニコリスクで白軍に押へられて、危なくスパイの嫌疑を受けるところであつたのを、ちやうどニーナから教はつてゐたジプシー語が役に立つて、無事に放免されたのは滑稽であつた。

[やぶちゃん注:●「翌年(今年)」大正十(一九二一)年。 ●「ジプシー語」ロマ語(ロマニー語)。インド・ヨーロッパ語族インド語派の言語でインドから北アフリカ・ヨーロッパへ移住した少数民族ロマ(差別的に「ジプシー」と呼称されたが、現在は「ロマ」が推奨されている)が使用する言語。以下、ウィキロマより引用する。『インド・ヨーロッパ語族とされるが、流浪した分だけあちらこちらの言語から語彙を借用語として取り入れている。男性名詞・女性名詞、単数と複数の区別がある。また、もともと自身の文字はなく、現在ではラテン文字で筆記されている』。『極初期のロマ語の実態に関する確かな歴史的な文献はない。また、ロマの先祖や、インド亜大陸からの移住の動機についてのどんな歴史的な証拠もない。ただ、インド・アーリア語における性区分』から、七~十世紀頃に『サンスクリットなどの影響を受けたと考えられ、ロマの祖先がインド亜大陸から出たのは』十世紀頃と推測されている。『南アジアからの出発の後、狭い範囲のクルド語とアルメニア語、比較的長期に滞在していたトルコのアナトリア地方の言語や、ギリシャ語の影響が認められている』。十三世紀前半に『始まるモンゴル人の欧州侵入は西方移住の引き金となった。ロマ人はその後、欧州の広い範囲に離散し、点在しているロマのグループは地方の共同体の分化が発生し、それは多くの異なった方言に分かれた現代のロマ語に大いに影響した』とある。]

氷の涯 夢野久作 (17)

 その食事の最中に彼女は、ソバカスで隈取(くまど)つた、睫(まつげ)の長い眼を上向(うはむ)けて(僕が彼女の顏を注意して見たのは、此時が初めてゞあつた)澄み渡つた大空をアツチ、コツチと見まはしながら、何かしきりに考へてゐるらしかつたが、そのうちに食事が濟んでしまふと、彼女はクルリと向うむきになつて艇尾(スタン)の甲板に倚(よ)りかかつた。さうしてレターペーパと鉛筆を取出す片手間に、僕の顏をジロリと見た。

「……ネエ……妾(わたし)もう自烈度(じれつた)くなつたから、こゝから赤軍に復讐して遣るわよ。モウいつ哈爾賓に歸れるか解(わ)からなくなつちやつたんだから、今のうちに赤軍のスパイ網(まう)を、根こそげ日本軍にブチ撒(ま)けて遣らうと思ふのよ。オスロフだつて知らなかつた事を、妾(わたし)はチヤントこの眼で見まはして來たんだから……ネエ。いゝでしよ。……通りかゝりの小舟に賴んで、これを日本軍の司令部に持つて行つたら、タンマリお金が貰へるんだつて云つて遣つたら、大抵無事に屆くでせう。日本軍は信用があるんだから……序(ついで)にアンタと妾(わたし)の「左樣なら」も書いとくわ。ねえ。いゝでしよ」

 さう云ふうちに彼女は船底から、飮みさしの眞黑なウオツカの角瓶を引つぱり出して、さも氣持ちよささうにコルクの栓をスツポンと引き拔いた。おほかた彼女一流の、惡魔のやうな記憶力を喚び起す目的であつたらう。

 しかし正直のところ其時の僕に取つては、そんな事はドウでもよかつたのであつた。夜(よ)が明けるに連れてハツキリと蘇つて來る色々な殘念さ、面目(めんぼく)なさ、相濟(あひす)まなさに、石の樣に囚はれてしまつてゐた僕は、物を云ふ力も無いまゝ頭から毛布を引冠(ひつかぶ)つて、ゴロゴロした荷物の上に横になつたのであつた。さうして暫く經つてから

「……ネエネエ。アンタ。とても面白い事があるのよ。ネエネエ。……この上流に金鑛(きんくわう)か何か有るらしいのよ。いつも哈爾賓に金塊(なまこ)を持つて來るつていふ評判の船が、ツイ今しがた此方(こつち)の岸近くを下つて行(い)つたのよ……だから妾(わたし)は直ぐに陸に上(あが)つて、銀貨を四五枚、手紙に結(ゆは)ひ付けたのを、その船の甲板(デツキ)に投込んで遣つたの。さうしたら主人らしい立派な支那人が出て來て、手紙を拾ひ上げて擴(ひろ)げて見るなり、眼(め)をマン丸くして妾(わたし)の顏を見たのよ、おほかた日本軍司令部の宛名と、ニーナ・オリドイスキーつて云ふ妾(わたし)のサインが讀めたのでせう。兩手を胸に當てながら、叮嚀にお辭儀しいしい下(くだ)つて行つたわよ。小さな大砲を載せたキレイな船だつたわ。恰好は平べつたい舊式だけど……まだ、うしろ姿が見えてゐるわよ。……ホラ……今、本流に曲り込むとこよ。四五人突立つて此方(こつち)の方を指(ゆびさ)しながら何か云つてるわよ。……ネエネエ……」

 と話しかけるニーナの聲を夢うつゝのやうに聞きながら、酒臭い彼女の身體(からだ)を毛布の下に抱き寄せたのであつた。

 日が照り出して居たのでトテモ暑かつた。

[やぶちゃん注:●以下、一行空き。但し、「全集」では空きなしで続いている。]

氷の涯 夢野久作 (16)

[やぶちゃん注:ここに底本の挿絵を配す(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)。]

Koorinohate4
 
 僕は何も云はなかつた。否……云へなかつたのだ。

 ニーナの話を聞いてゐるうちにスツカリ醉ひが醒めてしまつた僕は、最早、何一つ考へる力も無いくらい疲れ切つて居る自分のアタマを、頭蓋骨の内側にシミジミと自覺して居たのだ。

 それは此二、三日の間突發して來た恐ろしい出來事の重なり合ひに對して、あらん限り絞り上げて來た僕の腦味噌が、急激な神經衰弱に陷つてしまつたせいかも知れない。事件の眞相が頭の中心でボーツとなつてしまつて、ニーナの僕に對する途方も無い見損(みそこな)ひを笑ふことも辯解する事も出來なくなつたばかりでない。自分一身の處置を、これからドウしていゝかすら見當が付かなくなつてしまつたのだ。たゞ兩手を顏に當てゝ石の樣に固くなつたまゝ、形容も想像も及ば無い無鐵砲なジプシー女の、斷乎たる決心に引きずられて行(ゆ)く意氣地(いくぢ)の無い自分自身の兵隊姿を、眼の底に凝視しながら、痺れ上つた頭の中心の遠く遠くにジイイーと鳴る血管の音を聞き澄まして居るばかりであつた。

 けれども、其のうちに彼女の話が終ると、僕はホツと溜息をしながら顏を上げた。さうして彼女が投げ込んだ梨の波紋を何氣なく振り返つたが、そのまゝハツと息を詰めた。

 背後(うしろ)はるかに隔つた大鐵橋の左手が、大きな大きな夕日の色に染まつてゐる。さうしてその大光焰(だいくわうえん)の中心に、見紛ふ方ない銀月の雄大な鐵骨が、珊瑚(さんご)のやうに美しくイルミネートされながら輝きあらはれて居るのを、ボートの背後(はいご)に起つた長い長い波動が巨大な眞紅の鳥のやうに、又は夕燒雲のやうに搔きまはしながら引きはえて居るのであつた。

[やぶちゃん注:●「巨大な眞紅の鳥のやうに」「全集」ここを『巨大な真紅の島のように』とする。ハルピンには確かにこの「銀月」のあると思しい位置の直近の松花江の川中に「太陽島」という当時からの何となく、火災にイメージのダブる避暑地(観光地)があるにはあるが、これはどう考えても――燃え盛る「銀月」の紅蓮の炎を火の鳥とした比喩――であり――『「鳥」であつて「島」なんかぢやあない!』――と私は叫びたいのである! これは私はとんでもない単行本或いは「全集」の誤植(久作が「島」に変えるはずがない)であると断ずるものである。

 僕は身動き一つしないままその光を一心に振り返つてゐた。何の音もなく雲の下腹(したばら)を焙(あぶ)り出してゐるその偉大な大光明(だいくわうみやう)の核心を、いつまでも、いつまでも凝視して居たが、そのうちに何とも云へ無い奇妙な氣持ちで胸が一パイになつて來た。

 それは狼狽でも驚きでもなかつた。ただ無闇にシインと靜まり返つた、物狂ほしいやうな……底悲しいやうな氣持であつた。おそらく僕の醉ひざめの沈み切つた神經が、僕自身の絶望的な前途を豫感した微妙な動搖であつたらう。僕がこの時知らず識らずに陷つてゐた大失敗……銀月の女將の執念と云つてもいゝ恐ろしい運命の谷底に向つて、ニーナと二人連れで突進して居たことを、僕自身にもわから無い心の底の心が直感して居た、その戰慄であつたらう。

 その大光明を振返つて居た僕は、何かなしに、もう二度と再び哈爾賓に歸れない樣な氣持ちになつて來たのであつた。同時にかうしてグングンと人間世界から引離されて行(ゆ)く自分自身のたまらない一種の淋しさが、時々刻々に倍加して行(ゆ)くのをヒシヒシと感じたのであつた。

 ……何故あのまゝに自首して出なかつたらう。すべての罪を、自分一人に結び付けられても構はない。誤解された陸軍歩兵一等卒としての愚かな一生を終らなかつたらう……と云つた樣な極めて、超自然的な後悔の氣持が、靜かな十二汽筒(シリンダー)の震動につれて、あとからあとから湧き出して來た。さうして見る見る取返しの付かなくなつて行(ゆ)く自分自身の運命を、千萬無量の思ひに湧きかへる上流の火の粉と艇尾(ていび)の波紋の美觀と一緒にして、ウツトリと見惚(みと)れて居たのであつた。

 そのうちに僕はヤツト氣が付いてニーナの方を振り向いた。無言のまゝブルブルと震へる指をソツと彼女の肩に置いた。

「……マア……キレイ……」

とニーナは振り返りさま日本語で叫んだ。ピタリと器械を止めながら、危險を忘れて河の中流にコースを取つた。それにつれて火光(くわくわう)を眞正面(まとも)に受けたニーナの顏が見る見る眞赤に輝き出した。僕の顏をチラリと見ながら露語で尋ねた。

「……あれは銀月ぢやない……」

僕は無言のまゝうなづいた。

「……アンタが火を放(つ)けたんでせう……」

 僕は泣きも笑ひも出來ない氣持になつた。法廷に引出された人間のやうに顎(あご)を震はしながら云つた。

「……そればかりぢやないよ。ニーナさん。あの光りの中心に……銀月の女將の……白骨が寢てゐるんですよ」

「……まあッ……嬉しいツ……」

 とニーナは又も日本語で叫びながら坐席を飛び出して來た。重なり合つたガソリンの罐を飛び越えて、艇尾に坐つて居る僕の首つ玉に飛び付いて、雨の降るやうに接吻し散らした。

「……あぶないよ。ニーナ……ボートが引つくり返るよ……見つかるよ官憲に……」

 と云ひ云ひ押し除けようとしたがニーナはなかなか離れなかつた。

 ボートはいつの間にか艇尾を下流に向けながら押し流されて居た。

 すると其時であつた。何處からか傳はつて來た……ビシツ……といふ烈しい空氣の震動と殆んど同時に、

 ツタ――ンンン……

 と云ふ銃聲が、兩岸の暗(やみ)をはるか震撼(しんかん)して行つた。……と續いて二ツ三ツ……

 ピシツ……ツタ――ン……

 ピシツ……ツタ――ン……

 ピシツ……ツタ――ンンン……

 それは日本の官憲のものだか、赤軍の監視隊のものだかわからなかつた。いづれにしても僕達を十五萬圓の拐帶犯人と睨んでゐるには違ひ無いと思はれた。

 しかし僕は慌てゝ身を伏せたりなんかしなかつた。アタマがどうかなつて居たせゐであつたらう……兩手で舷側(げんそく)を押へながら、何とも云へない一種のなつかし味(み)を感じつゝ音のする方向を振り返つてゐた。射たれてもいゝ。捕へられても構はない。その方が早わかりだ……と云つた樣な遣(や)る瀨(せ)ない氣持に囚はれつゝ……。

 不思議なことにニーナも僕と同じ樣な姿勢を執つてゐた。何と思つて居たのかわからないが……或は彼女獨得(どくとく)の無鐵砲な好奇心から相手の正體を見定める積りだつたかも知れない。お椀帽子(わんばうし)を冠(かぶ)り直しながら伸び上つて、三四百米突(メートル)ばかり向うの河岸の草原(くさはら)の中から、パツパツと迸(ほとばし)る小さな火光(くわくわう)を透かし覗いて居る樣であつたが、そのうちに思ひもかけない左手の水面がパツと跳ね上つて、横シブキの冷めたい霧がサツとボートの上を掠めると、ニーナはプーツと頰を膨らましながら平手で顏を撫でまはした。

「ププッ……ニチエウオ――」

 と一と聲叫んだと思ふと、ガソリンの罐を跳(をど)り越えてハンドルに飛び付いた。星あかりに私の方を透かしながら、ニツコリと笑つた……と思ふうちに兩舷(りやうげん)の排氣管(エキゾーストパイプ)からモノスゴイ火煙(ひけむり)が流れ出して河の中心に半圓を描(ゑが)いた。蒼白い、明煌々(めいくわうくわう)たるヘツドライトを射出(いだ)すと同時に、ボートよりも大きい、高い、長い浪を眞白に盛り上げて、背後(うしろ)の大光焰(だいくわうえん)を轟々と吹き散らし始めた。

[やぶちゃん注:●「ププッ……ニチエウオ――」“Будтo…здоровы…”(きっと……大丈夫!――)か? ロシア語の出来る方の御援助を乞う。 ●「排氣管(エキゾーストパイプ)」“exhaust pipe”。“exhaust”は「排気装置」の意。 ●「モノスゴイ火煙(ひけむり)が流れ出して河の中心に半圓を描(ゑが)いた」は「全集」では『モノスゴイ火煙が流れ出した。艇尾(スターン)が河の中心に半圓を描いた』と加筆されている。ルビの「スターン」は船舶用語“Stern”で船尾・艫(とも)の謂い。]

 僕は振り落されさうになつた身體(からだ)を辛うじて喰ひ止(と)めた。兩手で顏を蔽(おほ)うてグツタリとうなだれながら心の底でつぶやいた。

「……すみません。皆さん。濟みません。……僕にはドウしていゝか……どうなるのかわかりません……許して下さい……」

 と云つた意味の事を、當(あ)てどもなく祈り續けた。

 島(しま)の間(あひだ)をいくつもいくつも通り越して、哈爾賓の光りが全く見えなくなつてもニーナは速力を落さなかつた。あぶないからハバロフスクまで逃げるのだと云つた。さうして夜が明けると、道路に遠い支流を上つて、深い犬蓼(いぬたで)の茂みにボートを乘り入れて、白パンとコーンビーフと冷水(れいすゐ)の朝飯を攝(と)つた。

[やぶちゃん注:●以下、一行空き。但し、「全集」では空きなしで続いている。]

金剛光中の遊戯   村山槐多

  金剛光中の遊戯

 

    l

とある日紫の空そよとも動かず

太陽の金絲は重たく輝やけり

とある廢園の垣のすきまより

覗き見たるわれはおどろけり

    2

三人の貴婦人遊戯するなり

何事とも知らざれど遊びたはむる

まばゆき金剛光の中に

なまめかしくそが紅の着物は戯むる

    3

あるひは泣き或は美しく

あるひは悦び或はみにくし

すべてあでにみやびやかなる振舞にて

ひたと耽れり美しくあやしき遊戯に

    4

金剛光はかきみだされふみにぢられて

かしこにここにあへぐなり

貴婦人の貴き四肢のふるまひに

寶玉の冷たさを打消しつ

    5

われその美しさに面あかめつ

見入りし時貴婦人の綠と群靑と櫻色との

三すじの帶はゆるやかにまたいとも鋭く

ふと三角形をつくりけり金剛光のその中に

    6

あなはしけやき貴婦人の遊びは

金剛光のその中に花とにほひつ

われには見えぬ大なるブラジルのダイヤモンドの遊戯

この晴れし日の廢園に

    7

太陽の金絲はすべてこの貴婦人に耽溺し

空はそよとも動かざりき

なべての物は重たくは見えたれども

すべてみなカラツトをもて計られたり

    8

美しき鋭き女聲は

印度の舞妓の豪奢なる衣をまとひ

あでやかに空におどれり金剛光の中を出でて

紫に銀に靑に

    9

われはみとれて時忘れしが

いつしかに靑きたそがれ落ちきたりて

廢園の貴婦人の遊戯も去りて

空なる金剛光演劇の舞臺の燈よりあざやかにあとに殘りぬ。

 

 

[やぶちゃん注:「4」の「ふみにぢられて」「あへぐなり」、「5」の「三すじ」、「8」の「おどれり」はママ。なお、本篇末には編者山本太郎氏による『註』が附されてあり、『金剛光とは鑛物學上金剛石の發する光の事 adamautive 』とある(改造文庫版註もこの綴り)。この最後にある英語は普通の辞書には載らない語であるが、研究社の「リーダーズ+プラス」を見ると、「非常に固い・堅固無比の・磐石の・不屈の」という形容詞“adamant”には、名詞としては詩語で「鉄石のような固さ」、古語として「無砕石」(想像上の石で実際にはダイヤモンドや鋼玉などを指す)があり、形容動詞として“adamantly”もある。さらに「光沢などがダイヤモンド(金剛石)のような」という意の“adamantine”という単語も見出せる。接尾語“-ive”は「~の傾きのある」「~の性質を有する」の意を意味するが、概ね、名詞として用いられるものが多いから、ここは編者山本太郎氏は「ダイヤモンドのような光」の意でこの単語を出しておられるものかとは思われるものの、一般的な英語とは思われず(ネット検索でも見当たらない)、失礼乍ら、この“adamautive”という綴りは“adamantive”の誤植(活字がひっくり返った)としか思えないのであるが、如何であろう?

全篇の最後、「8」の最終行の「金剛光演劇」は「全集」では「金剛光遊戯」となっている。これも例外的に原稿が残っていて、かく校訂したものなのだろうか?

2015/07/01

宵の曲   村山槐多

  宵の曲

 

今宵薄き石竹色の大空に月出でて

都は金絲交りたる豪奢極めし織物となる

あやにしき、紫の天鵝絨となる

燈火さへ點々ときらめきしかば

 

この時美しき模樣姿を現はしぬ

美しき女連れたる人々のそぞろ歩きや

縱横になつかしの靄の中のあちこち

ほんのりと情含みし眼に光る玉の數々

 

十八金の黄金の唇眞紅に染めたる

美しの女はやさしくも手を曳かれて

いそぎ足火を喰ふ鳥の姿にてとく過ぎてゆく

蠻人めきし若者と

 

いにしへ新羅より孔雀もたらす使者の如

紫の女をともなひたる人もあり

プリズムを覗く不思議さはでやかさをも着物にしたる

大理石めきたる頰の女もきたる

 

この壇に行く數々の足なみに

薄紫の情熱となげき添はり

肉感は電めきてうつとりと光る

香水や物語や肌のにほひや

 

ああその色見たるだに美しの人々よ

ななめに行きかふ幾度となく同じ處を

さながらに西びとの夜の踊りを見る如く

酒の香ほのかに濁るこのよひ

 

玻璃製の薄ばらの月は三絃の

街の連れ引よりそひて壇へと上る

悦ばしや情をさそふ派手なる燈も光る都大路をそゞろ歩く美しの男

女たちや

 

美しき金絲は

にしきの上に照らされし夜の都を貫ぬきて

あてどなく歩める群に

美しき女つれたる人人の上に輝やく

 

戀慕なりやあそびなりや音樂なりや

石竹色の大空に酒と改璃泣く

うらわかき男女たちのそぞろ歩きや

豪奢なるいかめしき都の宵を、

 

   ×

夜の紫の空を

薄き葡萄酒に染めしかと怪しむ

薄くれなゐにともれる

夜ふけのアーク燈は

わが心を染め

澱める水の面にうつれり

 

 

[やぶちゃん注:本篇は最終連が六行でこれまでの彼の形式の中では頗る破調である。

「石竹色」ナデシコ科の植物セキチク(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis )花のような淡い赤色。ウィキの「石竹色」によれば、『セキチクは中国原産種でおもに観賞用に栽培され、その花は赤や白やそれらの色を組み合わせた模様など多くの種類が存在するが、色名としては桃色に近い花の色のことをさす。撫子色、ピンクととほぼ同じ色合いであり、同様の語源を持つ。英語ではチャイニーズピンク(Chinese pink)という』とある。この色である。

「天鵝絨」ビロード。読みもそう読みたい。

第五連一行目「この壇に行く數々の足なみに」に初出し、実際には本篇の冒頭からロケーションであるところの「壇」とは何か? 京都であるからど素人の私などは清水辺りの高台などを想起はするものの不詳である。そもそも京都に住む人が単に「壇」と呼んだ場合、何処かを指すのか指さないのかも私は存じない。識者の御教授を乞うものである。

同じく第五連二行目「薄紫の情熱となげき添はり」の「添はり」は読み不詳。「そなはり」と訓じているか?

同じく第五連三行目「肉感は電めきてうつとりと光る」の「電」は何と読むのか? 「めきて」と続く以上、「いなづま(いなずま)」か「いかづち」か?

第七連一行目「玻璃製の薄ばらの月は三絃の」の「薄ばら」は底本では「薄ぼら」。誤植と断じて「全集」通り、「薄ばら」とした。

同じく第七連三行目「悦ばしや情をさそふ派手なる燈も光る都大路をそゞろ歩く美しの男」は一行字数ではやはり特異点である。]

孔雀石の小箱   村山槐多

  孔雀石の小箱

 

君に捧げん美しきこよひ

赤き燈騷ぐ街を過ぎ行き

持ちゆきて捧げん

この孔雀石の小箱を

 

いかなる微笑君が顏に狂ふらん

いかに悦びたまはん

捧ぐるは恐ろしき鬼なれど

受くるは美しの君

 

恐らくは悦びたまはん

されどおどろき給はん

この孔雀石の箱には何をか入れたる

いと怪しき物ならん

 

げに極めて怪しき物なり

恐ろしき捧げ物なり

眞に媚藥なり鬼どものあはせたる媚藥なり

奇しき紫のにほひよ

 

ああわれは鬼にして

赤き面も恐ろしく

持ちゆきて君に捧げん

美しきこよひこの孔雀石の小箱を

 

憎らしきまでに嬉し

わが心着かざりて嬉しさに泣きしきれり

見よいまわれはこの孔雀石の小箱を

君に捧げんとてゆくなり

 

 

[やぶちゃん注:「孔雀石」美しい緑色の縞模様を呈する銅由来(炭酸水酸化銅:錆の緑青の主成分。)の鉱物マラカイト(malachite)。微結晶の集合体に生ずる縞模様が孔雀の羽の模様に似ていることに由来する。その粉末は岩絵具、顔料として古来から用いられ、「青丹(あおに)」と呼ばれた。グーグル画像検索「malachiteをリンクさせておく。]

氷の涯 夢野久作 (15)

 ……そのドバンチコつて云ふのは、ズツト前に妾(わたし)の處に居た掃除人でね、妾(わたし)の身の上をよく知つて居て、蔭になり日向になり可愛がつてくれた、トテモ信心深い爺(ぢい)やなの。それだのに銀月の女將(おかみ)の意地惡が司令部の内情を探らせ度(た)いばつかりにオスロフを欺(だま)して、アノ馬鹿聾(ばかつんぼ)に化けた朝鮮人夫婦を妾(わたし)んとこへ押込んだお蔭で、とうとう追ひ出されてしまつたのよ。妾(わたし)はお母樣から聞いてチヤント知つてゐたけど、爺やが云つちやいけないつて云つたから默つて居たのよ。それあ可哀想な、正直な爺やなの……妾(わたし)その爺やにアンタの話を聞かせてビツクリさせて遣つたわ。妾(わたし)もずゐぶん無鐵砲だけど、アンタの向う見ずに負けちやつたわ。あのサナカに飛込んでオスロフを助けやうなんて……。

 ……ドバンチコ爺さんは妾(わたし)の話をトテモ感心して聞いてゐたわ。マン丸く見開いた眼に涙を一パイに溜めてね。さうして、「其の上村(うへむら)といふ兵隊さんこそホンタウの勇者(ゆうしや)だ。キツト正教會の信者に違ひ無い」つて云つて眼をシヨボシヨボさして居たわよ。何故つて云ふとね。正教會のお説教の本にコンナ文句があるんですつて……「一羽の雀だつて決して無駄に殺しちやいけない。神樣が其の雀にお附(つ)けになつた價値(ねうち)は、殺した後でなけれはわからないものだ。さうして其時に殺した人間はキツト後悔するものだ」つて云ふのよ。だから無暗(むやみ)に人を殺さうとしては可(い)けないつて云つて、妾(わたし)は昨日(きのふ)から散々お説教を聞かされちやつたのよ。

 ……妾(わたし)は其のお説教にスツカリ降參しちやつたわ。感心しちやつたわ。だつてチヤンとその通りになつて來たぢや無いの。ね。……アソタは一羽の雀よ。いゝこと……ホホホ……。

 ……妾(わたし)と夫婦約束して居たアブリコゾフが捕まつた事は、ドパンチコの處へ行つてから聞いたのよ。お蔭で赤軍の祕密がバレてしまつたと云つて、其話を知らせに來たレポーターが憤慨してゐたわよ。妾(わたし)はそれつ切りアブリコゾフに愛想(あいさう)が盡きてしまつた。あんな意氣地(いくぢ)なしの襤褸男(ぼろをとこ)とは夢にも知らなかつた。

[やぶちゃん注:●「レポーター」この場合の“reporter”は左派運動家の中の「通信員」の意。]

 ……けれど妾(わたし)は口惜(くや)しがる隙(ひま)なんか無かつた。今度はアンタを救ひ出さなければならなかつたから……。十五萬圓事件の陰謀と、赤軍の計畫して居る哈爾賓の搔きまはし計畫と、オスロフ一家の祕密死刑に對する白軍のヒドイ怨みの中から、どうしてアンタを救ひ出さうかと思つて一生懸命になつて居た。

 ……妾(わたし)は其爲に思ひ切つてバリカンで頭を刈つてしまつた。それから中學生に化けたり、メツセンジヤーボーイの自轉車を乘逃げしたりして、町中に散らばつてゐる赤軍のスパイから情報を聞き集めて居るうちに種々(いろいろ)な事がわかつて來た。

 ……何よりも先に哈爾賓附近の赤軍には「日本軍が遠からず滿州を引上げるに違ひ無い。だからそれを機會に哈爾賓を中心にして滿州を赤化してしてしまへ」といふ指令が來てゐたので、各地方から、あらゆる優秀なスパイを集中させて居た。だから今度の事件でも赤軍の方から探らなければトテモ眞相が摑めなかつたに違ひ無い。その中でも朝鮮銀行から出て行く日本軍の軍資金は、ズツト前から赤軍が涎(よだれ)を垂らして居たもので、それに連れて金費(かねづか)ひの荒い星黑(ほしぐろ)主計と十梨(となし)通譯の行動なんかが、スパイ連中(れんぢう)の注意の焦點になつて居たのだから堪(たま)らない。何もかも手に取るやうにわかつて居た。

 ……星黑と十梨が十五萬圓を拐帶(かいたい)して土曜日の晩に逃げ込んだのは、やつぱり彼(あ)の料理屋の銀月だつた。それまで二人は何處かに隱れて飮んで居たらしい。日が暮れてからテイルランプを消した自動車に乘つて銀月に乘付けた二人の姿が、張込んでゐたスパイの眼にチラリと止まつたのだ。

 ……だけど星黑は可愛さうに、その晩から、そのあくる日の日曜の晩にかけて、殺されるかドウかしてしまつたらしいの。

 ……何故つて云ふと星黑は、その土曜日の晩から月曜日の夕方まで一度も姿を見せなかつたのに、十梨は土曜日の夜遲く、一旦、司令部に歸つて、その翌(あく)る朝早くモウ一度銀月へ行くと、スツカリ姿を變へて裏口から出て來た。カーキ色の飛行服に身を固めて、大きな塵除(ちりよ)けの眼鏡をかけて、大型のトランクを積んだサイドカーを押してゐたので、ちよつと誰だか見當が付かなかつたが、それでも背丈(せい)の高さと猫背の恰好が、どうやらソレらしく見えたので、もしやと思つた張込みの赤(あか)の一人が、自轉車で一生懸命に追ひかけてみた。すると、そんな事とは氣付かないらしいサイドカーが、意外千萬にもグングン傅家甸(フーチヤテン)を突き拔けて、格別用事の在りさうにも無い河沿いの堤防(どて)の上を、一直線匠下流の方へ飛ばし始めたので、スツカリ面喰らはせられてしまつた。さうして、とうとう途中で遲れて見失つてしまつたが、それでもヤツト四十露里(ろり)ばかり下流の河岸(かはぎし)で、飛行服を脱いだ通譯姿の十梨が、先刻(さつき)のトランクとサイドカーを河に沈めている處に間に合つたから、その位置を間違はない樣に見定めた。

[やぶちゃん注:●「四十露里」約四十キロメートル。「露里」はメートル法以前のロシアの長さの単位の訳語で、単数形は“верста”(versta:ヴィルスター又はヴェルスター、ベルスタ、ヱルスター等と表記)、複数形は“вёрсты”(vyorsty:ビョールスティ又はヴョールストィ)であるが、日本ではカタカナ表記では複数形でも「ヴィルスター」表記が普通である。日本の「里(り)」に比して「露里(ろり)」と訳される。但し、日本の律令制の「一里」が三・九二七キロメートルであるのに対し、1верста(=500сажень:サージェン。ヴィルスターの下位単位)は約一・〇六六八キロメートルに過ぎず、現在の我々の感覚的にも一キロメートルとした方がすっきりするし、間違いがない。]

 ……それから十梨は、そこいらに落ちてゐる流木を拾ひ集めて一露里半ばかり隔たつた處に在る小高い丘の上に登つて行つた。そこで手に持つた包みの中から、軍服らしいものを取り出して、流木と一緒クタに石油を振りかけながら燒いてゐる樣子であつたが、距離が遠かつたから、その軍服の肩章や、襟章なんかはよくわからなかつた。そのうちに十梨は立ち上つて、地圖らしいものをポケツトから出して照し合はせながら、四方八方を見まはし初めたので、見付かつては大變と思つて、草の中に潜りながら引返して來たが、十梨の姿は、そのまま下流の方向へ、草を分け分け消え失せて行つたやうであつた。…‥といふ報告が、その日の午後になつて、ナハロフカの舊教會に隱れてゐる、赤軍の首腦部の處に來た。

[やぶちゃん注:●「一緒クタ」底本では「一緒コタ」。誤植と断じ、「全集」に従った。 ●「十梨の姿は、そのまま下流の方向へ、草を分け分け消え失せて行つたやうであつた」次の段で赤軍の連中が不思議がっているが、ここは「下流」であることが大きな意味を持っている。十梨はデッチアゲをリアルに見せるため、時間稼ぎは無論、何よりも実際に自身を疲労困憊させるために、わざわざ松花江の下流方向へ向かい、それからご苦労にもまた上流のハルピン市街へと戻るルートを敢えて採っているのである。]

 ……赤軍の首腦部の連中は、かうした十梨の怪行動について、ずゐぶん頭をひねつてゐた。星黑が自分で軍服を燒ゐたやうに見せかけてゐるらしい事は、アラカタ推測が付くが、それから徒歩で、下流の方向に行つた理由(わけ)がどうしてもわからないと云つて困つてゐた。前の日の土曜の晩に、コツソリ星黑を誘ひ出して、其處まで連れて來て殺したのぢや無いか。さうしてモウ一度空つぽのトランクを持つて、後始末をしに行つたんぢや無いか……と云つたやうな細かい説明をつける者も居たが、しかし、どつちにしても其のトランクの中味が、お金ぢや無いかと云ふ疑ひはみんな十分に持つてゐた。

 ……赤軍の連中は、だからその晩の七時半頃に、四五人でサイドカーとオートバイに飛乘つて、現場に行つてみた。妾(わたし)も其の中に混つて居たが、案内に立つた赤の一人が、「ここだ」と指(ゆびさ)した川隈(かはぐま)に小さな碇(いかり)の付いた綱を投げ込んで、サイドカーと結び合はせて沈めて在つたトランクを草の中に引上げて、細い月あかりの下(した)で開いてみると、中からは、後頭部(うしろがみ)と下腹部(したつぱら)を背後(うしろ)から射拔(いぬ)かれた星黑主計の、丸裸體(はだか)の變色屍體(へんしよくしたい)と、十梨が脱いで行つたらしい飛行服と、重たい鐵片が出て來た。それはずゐぶんスゴイ見物(みもの)であつたが、しかし、お金は一文も這入つていなかつたから、そのまゝ元の通りに暗い水の底へ沈めて來た。

[やぶちゃん注:●「河隈」川の流れが折れ曲っている箇所。蛇行部。 ●「後頭部(うしろがみ)と下腹部(したつぱら)を背後(うしろ)から射拔(いぬ)かれた星黑主計の、丸裸體(はだか)の變色屍體(へんしよくしたい)」「全集」では「裸體(はだか)」の箇所を除いてルビがない(本全集は全体が異様にルビに禁欲的で、久作の味なルビ打ち部分が著しく減衰させられている)。私はこれと「後頭部と下腹部背後から射拔かれた星黑主計の、丸裸體(はだか)の變色屍體」という文字列とはこれ、読者に全く異なった印象、ルビありの方が頗る凄惨な遺体の印象を与える、と思う。これは全く別な表現である。]

 ……だから……さうした事實から考へ合はせてみると、十五萬圓のお金は、十中八九まで銀月の中のドコかに隱して無ければならぬ。つまり銀月の女將と、十梨通譯だけが知つてゐる祕密の場所に仕舞つてなければならない筈であつたが、さうした場所は今の處、銀月の家の中よりほかに考へられない……と云ふのが、みんなの一致した意見だつた。

 ……銀月の女將がカタリナ皇后にも負けない大惡黨で、十梨が其のお先棒になつてゐる證據は、あれだけの事實で百二十パーセントに裏書きされてしまつた。……もつともモウ一人、阪見(さかみ)つて男が、銀月の男妾(をとこめかけ)になつて居るつて話だけど、此の男は、大變な飮み助で、いつもグウグウ寢てばかり居るので、赤軍ではテンデ問題にしてゐなかつた。打つちやつて置いたら今にキツト、十梨が銀月に入り込むに違ひないつて云つてゐた。

[やぶちゃん注:●「カタリナ皇后」ロマノフ朝第八代ロシア皇帝である女帝エカチェリーナ二世アレクセーエヴナ(Екатерина II Алексеевна 一七二九年~一七九六年)のことであろう(ドイツ語や英語由来の“Katharina II.”は「カタリーナ」と音写される)。第七代皇帝ピョートル三世(一七二八年~一七六二年)の皇后であったが、一七六二年六月二十八日(皇帝在位約六ヶ月)にして自らを支持する近衛部隊のクーデターによって女帝となった。参照したウィキの「エカチェリーナ2世」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『私生活面では生涯に約十人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる男性愛人を抱え、夜ごと人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ一世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった』とある。]

 ……銀月の女將はアンタを味方につけて、何かの役に立てようと思つて御馳走をしたに違ひ無いのだ。萬一、十梨が裏切りさうな素振りを見せた場合に、アンタの手で片づけてて貰はうと思つたのかも知れない。それともアンタを殺すか、お金を遣つて逃がすかして、司令部の中の事を銀月に内通してゐたのはアンタだと思はせようとしたのかも知れない。それともモツト都合よく行(ゆ)けば、自分と十梨の罪をスツカリ、アンタに塗り付けて今までの陰謀の尻拭ひをする計畫だつたのかも知れない。

 ……銀月から出た邦文タイプライターの呼出し手紙がアンタに屆ゐた事は、赤の一人が化けてゐた郵便配達夫から、直ぐにナハロフカの首腦部へ通知して來た。すると陰謀に狃(な)れ切つてゐる首腦部の連中はタツタそれだけで、今云つた樣な底の知れ無い女將の計畫を察して、その頭のスゴサに驚いてゐたが、又、その中(うち)に間もなくアンタが、ハルピン一流の床屋でお化粧をして、銀月に乘込んだ事を見張りの者が知らせて來たので、赤軍の連中は今更のように女將の魔力に驚いてゐた。さうして直ぐにも其計畫の裏を搔いて、十五萬圓を此方(こつち)の物にする爲に、アンタを赤軍に引入れようか、どうしようかと相談を始めた。

[やぶちゃん注:●「狃れ」「狎れる」に同じいが、「狃」は文字通り、犬が人に馴れ親しむを原義とする。]

 ……妾(わたし)は赤軍の首腦部がアンタの事をあんまり詳しく知つてゐるので、氣味が惡くなつてしまつた。それはアンタが、司令部のお使ひを一人で引受けてゐるばかりでなく、女や、酒や、賭博(ばくち)なんぞを見向きもしないのでみんな不思議がつて居た……ばかりでなく閑暇(ひま)さへあれば哈爾賓の市中を歩きまわつて、何かしら視察したり研究したりして居るらしいので、もしかすると日本政府の祕密監察官(ゲーペーウー)みたやうな人間ぢや無いかと思つて怖がつて居たせゐらしい。……しかし一方には、アンタがそんな人間ぢや無い。アンタは正直な日本の兵隊さんで温柔(をとな)しいお坊ちやんに過ぎない。アンタが本屋から買つて行(ゆ)く樂譜や雜誌が、高尚なクラシカルなものに限られて居るのを見てもわかる……と云ふ者が可なり多かつた。しかしアタマだけは通りがゝりの兵隊さんと違つてゐるから、此際(このさい)にウツカリした事を云ひ出して、アベコべに此方(こつち)の祕密を見拔かれる樣な事になつては大變だ。此のまゝ放つて置いて、見殺しにした方がいい。さうして萬一無事に銀月から出て來る樣な事になつたら、司令部に歸り着かないうちに、手輕く片づけた方がいゝ。十五萬圓の金を取出す機會は、アトでいくらでも考へ出せるだらう。アンナ頭のいゝ人間が司令部に居たら、將來の仕事の邪魔になる虞(おそれ)がある。現にニーナさんの仙人掌(サボテン)通信の祕密を見破つた位(くらゐ)だし、アブリコゾフを押へて根こそげ白狀させたのも、あの當番卒の働きかも知れないのだから、今のうちに片付けた方がいゝと云ふ説が出て、ヤツサモツサと大議論の末、とうとうアンタを抹殺する事に話がきまつて、其の役目を妾(わたし)が仰せつかつてしまつた。其の時にも妾(わたし)は思はずカーツとなつたけど、よく考へてみるとトテモいゝ都合だと氣が付いたから知らん顏をして引受けて置いた。
 
[やぶちゃん注:●「祕密監察官(ゲーペーウー)」「ゲーペーウー」(ГПУ)はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局(
Государственное политическое управление/ラテン文字表記:Gosudarstvennoye politicheskoye upravlenie/GPU)の通称。ソビエト連邦のレーニン及びスターリン政権下に於いて反政府的運動・思想を弾圧した秘密警察で日本語では「国家政治保安部」とも呼ばれるが(ここまではウィキの「ゲーペーウー」に拠る)、作品内時間の一九二〇年にはまだ「ゲーペーウー」は存在しておらず、その前身である「チェーカー」(ЧК)でなくてはおかしい(「チェーカー」から「ゲーペーウー」への改名は作品内時間の二年後、一九二二年二月六日である。従って話者のニーナも下村も「ゲーペーウー」を使うはずがないのである。……「……久作さん……ハヽヽ……とんだ處を藪野に突つかれましたネエ……」)。チェーカーはレーニンによってロシア革命直後の一九一七年十二月に人民委員会議直属機関として設立された秘密警察組織の通称で、正式名称は「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」(Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем)で略称も正式には「ヴェーチェーカー」(ВЧК)である。ここで参照したウィキの「チェーカー」によれば、『「チェーカー」と呼んだ場合にはこの名称から「全ロシア」が取れることとなる。その管轄がロシア共和国に留まらなかったことからこう呼ばれる場合もあるが、「ヴェー」抜きで呼んだ場合は「全ロシア非常委員会」の各都市の支部を指す可能性もあり、正式名称に沿って「ヴェーチェーカー」と呼ぶ事が好まれる』とあり、また、『ソ連では、チェーカー勤務者や一般に国家保安機関に勤務する者のことをチェキスト(чекист チキースト・非常委員)と呼んだ』とある。因みに、GPU(ゲーペーウー)はスターリン死後の一九五三年九月に廃止され、翌一九五四年三月十三日に改組された情報機関・秘密警察であるソ連国家保安委員会(Комитет государственной безопасности)、略称「КГБ(カーゲーベー)/KGB」に引き継がれた。]

 ……しかしその次に提出された十梨通譯の處分問題は、アンタと正反對に滿場一致で、わけもなく可決された。

 十梨通譯は元來上海に居る支那人の富豪と日本人の妾(めかけ)との間に生まれた混血兒で、第三インターナシヨナルに屬する歐露人(おうろじん)の手先になつてゐたものであつたが、母親と一緒に東京に歸つて居るうちに、上手に履歴書を僞造して、日本軍に雇はれたばかりぢやない。慾道心(よくだうしん)に○國(こく)の軍事探偵みたやうなお役目までも祕密に引受けて居ることが、思ひがけないところから判然(わか)つて來た。……と云ふのは、ほかぢやない。十梨は英語と支那語が出來ないことを自慢みたやうに云ひ觸らして居たが、ズツト前、平康里(へいかうり)で支那人の娼婦(ぢよらう)を戲弄(からか)つてゐた言葉が純粹の上海語(シヤンハイご)だつたので、もしやと思つて四馬路(スマロ)の支部に問ひ合はせてみると、案の定、今云つたやうな事實と一所(しよ)に、上海で十梨を買收してゐた○國人(こくじん)の名前を通知して來たばかりでなく、チヨコチヨコと小怜悧(こりかう)に裏切りしてまはるのが、十梨の持つて生れた性分らしい……と云つたやうな餘計な事まで、附け加へて來たのであつた。

[やぶちゃん注:●「第三インターナシヨナル」コミンテルンのこと。本作品時間内の二年前である一九一九年、レーニン率いるロシア共産党を中心とした各国共産党及び左派社会民主主義者グループによってモスクワで創設された国際的労働者組織。 ●「四馬路(スマロ)」。現在の上海市内の福州路。蘇州河の南側にあって各租界に近く、また、名高い娼婦街でもあったから、地下組織のアジトにはもってこいと言える。]

 ……だから赤軍の建前から云ふと、十梨は直ぐに裏切者として、處分しなければならない筈であつた。上海からも催促して來てゐる位(くらゐ)であつたが、しかし夫れは十五萬圓の行方が解つてからの後の方がいゝ。星黑が盜み出した金は多分、銀月の中の何處かに隱して在ると思はれるが、しかしまだハツキリとした斷定は出來ない。十梨だつて油斷はして居ないに違ひ無いから、ことによるとお金はまだ銀月の女將に引渡さないで、何處かに隱して居ないとも限らぬ。だから夫れを一分一厘間違ひ無い處まで探り出すには、無罪放免になつた後(のち)の彼奴(きやつ)の行動に氣を附けて居るのが一番早道だらう。さうしてイヨイヨお金の在所(ありか)がわからなければ、引つ捕(とら)へて白狀させる事にしよう。それから處分しても遲い事はない……と云ふ事にきまつた。だから十梨を片づける役目は、まだ誰(たれ)にも指命(しめい)されなかつた。

 ……妾(わたし)はソソナ相談がアラカタきまると、話の變らないうちに大急ぎで對岸のドバンチコ爺やの所へ歸つた。けれども今度は爺やに何も話さなかつた。あの爺やはモウずつと前から妾(わたし)の性分を見貫いて居たんだからね。……お孃さんの身體(からだ)にはコルシカ人(じん)の血が流れてゐる。しかも夫れはウツカリすると神樣に反逆しようとする恐ろしい血だ。憎くらしい人間にめぐり合ふと、その人間の息の根を止めなければドウしても承知出來なくなる血だ。コルシカ人は夫れを正義の血と云つて居るけれども、それは人間世界の正義で、神樣の世界の正義ぢやない。……とか何とかトツテモ六つかしい事を云つて、間(ま)がなスキがなお説教をして居たんだからね。ソンナ爺やに妾(わたし)が今思つてゐる樣な事の百分の一でも話さうもんなら、それこそ生命(いのち)がけで邪魔するにきまつてゐるからね……。

[やぶちゃん注:●「コルシカ人」コルシカ人(イタリア半島の西に位置するフランス領のコルシカ島の出身及びその血族)は血の繋がりや家族の絆を極めて大切にするとされ、非常に強い名誉心を持ち、一旦、恥を受けたからには死を賭してそれを雪(すす)ごうとするという。因みに、最も知られたコルシカ人はナポレオン・ボナパルトであろう。また、コルシカ島はシシリア島のマフィアと並らぶ犯罪組織コルシカ・ユニオン(Unione Corse)の発祥地の一つとしても知られるが、コルシカ・ユニオンは他の犯罪組織に比べても有意に結束力が強く手強(てごわ)いとされている。まさに、ニーナの「血」が騒ぐのである。

 ……だから妾(わたし)は家へ歸つて、ドバンチコのお神さんやウジヤウジヤ居る子供たちと一緒に正餐(ごはん)を食べてしまふと、みんなが球根を片づけに行つた隙にコツソリと裏口へ拔けて、花畑の向うの厩(うまや)の天井裏に這ひ上つて、其處に隱して置いた寶石だの、お金だのを取り出した。それはみんなアブリコゾフやオスロフから貰つたものばつかりだつたが、それから河を渡つて傅家甸(フーチヤテン)の支那人の質屋を二三軒まはつて居るうちに、妾(わたし)の顏を知つてゐる支那人が居て、一番大きな贋造紅玉(にせルビー)を、一番高く價踏(ねぶ)みしたから、其處でスツカリ型をつけてしまつた。それから河岸(かし)のヨツトクラブへ引返(ひきかへ)してズツト前にオスロフが買ひかけた事のある此のモーターボートと、油と、そのほか色んなものを買ひ込んだ。實を云ふと郊外の踏切から線路(廣軌(くわうき))の上に自動車を乘り上げて走ると、汽車よりもズツト早く逃げられると思つたけど、汽車の通らない時間を調べるのが面倒臭かつたし、途中で警戒されて居るといけないから止(よ)した。

[やぶちゃん注:●「實を云ふと……」の台詞! スゴ!! これだからニーナはスキさ!! ●「廣軌」私は車の運転免許を欲しいとも思わないばかりでなく、残念なことに鉄ちゃんでもない。ウィキの「広軌」によれば、広軌(Broad gauge)とは、鉄道線路のレール間隔をあらわす軌間が標準軌の1435mm4 ft 8 1⁄2 in)を超えるものを言い、ロシアとモンゴルなどの近隣諸国では現在も1520mm とあり、しかもそこには『元は1524mm5フィート』とあるから、当時の長さもこの五フィート、一メートル五十二センチ四ミリであったと考えられる。因みに少し後(本作発表は昭和八(一九三三)年)であるが、日本初の国産実用四輪駆動車として昭和一一(一九三六)年から量産された大日本帝国陸軍の小型軍用乗用車で、日中戦争時に使われた九五式小型乗用車(通称・くろがね四起(よんき))の全幅は一・三メートルであった(ウィキの「九五式小型乗用車」に拠る)

 ……それから色眼鏡をかけた中國人に變裝して、銀月の横町に、自動車(タクシー)を用意して待つてゐた。仕合せと銀月には何の警戒も附いて居なかつたので、冒險をする必要はなかつたが、其代り隨分待ち遠しかつた。第一警戒が無い爲に、アンタが銀月に居るのか居ないのか、確かな見當が付かなかつたので、何とかして探り出す方法は無いかとソレばつかり苦心して居た。

 ……すると、ちやうどいゝ事に十時頃だつたか、赤軍の本部に居る可愛いメツセンジヤーボーイの姿をしたレポーターが、自轉車に乘つて通りかゝつた。その小僧は路次の中に隱れてゐる妾(わたし)の姿を見ると直ぐに片手をうしろ向きに上げて「引き上げろ」といふ合圖をしたから、妾(わたし)は大急ぎで追付いて、ハンドルを摑まへながら、路次の中へ引つぱり込んで樣子を聞いてみると、その話がトテモ大變なの……「ニーナさんは此の前に上村一等卒を殺しかけてシクジツタんだから、サツキの指令は取り消した方がいゝつて云ふ事に、首腦部で話がきまつた」つて其の小僧が云ふの。さうして其代りに、日本軍の司令部へ宛てた密告書を出すことになつた。「上村一等卒はオスロフに買收された赤軍のレポーターだ」つて云ふ内容で。白軍から出した樣に見せかけた手紙を、タツタ今セントランの郵便受箱に入れて來た處だ。その中には、今までの上村一等卒の怪しい行動がみんな書いて有るから、大抵申し開きが出來ないで殺されるだらう。それよりも司令部の連中が今の間に其の手紙を見て、こつちの方に手配りを始めたらケンノンだから早くどこかへ逃げなさい」つて云ふうちに其の小僧は顏を眞赤にしながら、妾(わたし)を振り切つて逃げて行つた。

 ……可哀(かはい)さうにあの小僧は殺されて居るかも知れない。何故つて云ふと赤軍では、ドンナに無茶な指令を出しても、その理由を絶對に説明しない事になつて居る。さうして萬一それを犯した事がわかつたら、事情のある無しに拘はらず死刑にする……といふ嚴重な規定があるのだから……尤も妾(わたし)は哈爾賓の赤軍の中でもタツタ一人の女だつたし、今までの仕事もあつたお蔭で、首領株(しゆりやうかぶ)とおんなじに信用されてゐたんだから、あの小僧も其積りでウツカリ饒舌(しやべ)つたかも知れない。

 ……ところで妾(わたし)は其の指令を受取つても動かなかつた。あの小僧と一緒に死刑にされてもガンバリ通す決心をしてしまつた。その指令のおかげでアンタが銀月の中に居る事が確かになつたのだから、イヨイヨ度胸をきめてそのまんま辛抱を續けてゐると、ヤツト十一時頃になつてアンタがブラリブラリと出て來たからイキナリ短劍を突きつけて自動車に乘せた。それからアトを跟(つ)けられて居るか、どうかを見るために、トルコワヤ街を下つて、チヤリナゴナリナヤ街を一直線に、鐵道工場の横まで來て自動車を歸して、線路を乘越して河岸(かし)から此のボートに乘込んだのだ。最早(もう)ヨツト倶樂部(くらぶ)の前を乘越したし、鐵橋の下も傅家甸(フーチヤテン)の横も通り拔けたから大丈夫だ。アトは今の間(あひだ)に妾(わたし)の裏切りを感づいて、河岸(かし)に出てゐるかも知れない赤軍の監視と、モツト下流の方で星黑の行方を搜索してゐるかも知れない日本の憲兵隊が怖いだけだ。

[やぶちゃん注:●「短銃」「全集」は(正字化した)『短劍』であるから、久作がそう書き換えたものらしいが、寧ろ私は、上村が大人しく車に載るとすれば(しかもまたグズグズしてもいられない火急の折りである)、ここはピストルでないとピンとこない。 ●「跟(つ)けられて」「跟」は音「コン」で、くびす・踵(かかと)が原義。他に、従う・後について行くの意がある。 ●「チヤリナゴナリナヤ街」不詳。先に引用した満州小考には当時のハルピンの街路名の一覧があるが、似たようなものはない。ルートから見て、松花江近くの街路名か。]

 ……しかし、それよりも何よりも、妾(わたし)が一番怖かつたのは誰(たれ)でもないアンタだつた。アンタが妾(わたし)の變裝を一眼(め)で見破つて居るらしいのに、兩手をポケツトに突込んだまま妾(わたし)の云ふなりになつて來たので、何をされるか判らないと思つてヒヤヒヤして來たが、タツタ今、梨を剝いて呉れたので、ホツト安心した。……けれど、それと同時に、アンタが日本の官憲に逮捕されても、やつぱりあんな風に默りコクつたまま銃殺されてしまふのかと思ふと、悲しくなつて涙が出た。

 …‥でも、そんなに苦勞をしたお蔭で、アンタと妾(わたし)だけが、かうして助かる事が出來たんだから嬉しい。ホンタウの事を正直に話す勇氣のある者は、アンタと妾(わたし)だけだから

 ……妾(わたし)はオスロフを可愛さうと思はない。あの男は、あれでなかなかの好色漢(すけべい)だ。滿洲里(まんちうり)にもポクラニーチナヤにも妾(めかけ)を置いて居るのだ。おまけに奧さんが肺病だもんだから、死んだら妾(わたし)をオメカケにする積りで居る事が、奧さんに祕密(ないしよ)で寶石を買つて呉れたり、コツソリお酒を飮ませたりして眺めてゐる眼付(めつき)でよくわかつて居たの……イヽヱ。さうなの。ドバンチコもさう云つてたの。お父さんには用心なさいつて云つて居た位だから……。

[やぶちゃん注:●「ポクラニーチナヤ」底本は「ポタラニーチナヤ」であるが、誤植と断じ、既出の表記で訂した。既注。]

 ……ただ可哀相(かはいさう)なのはお祖母樣(ばあさん)と奧さんであつた。妾(わたし)を親身の孫や娘のやうに可愛がつて下さつたので、十梨と銀月の女將が飛んでも無い寃罪(むじつ)の罪を云ひかけて殺してしまつた。それを思ふと妾(わたし)は身體(からだ)中がふるへ出す。骨の髓まで黑い血が走り込んで行(ゆ)く。神樣の正義は神樣が守りやあいゝ。人間の正義は人間が守るばつかりだ。妾(わたし)は讐敵(かたき)を討たずには居(を)られない。あの婆さんと奧さんの爲に……さうしてアンタの寃罪(むじつ)を晴らす爲に……。

 ……十梨と銀月の女將はドパンチコの云ふ小雀ぢやない。二匹の毒蛇だ。哈爾賓の地の下に潜つて、一番恐ろしい毒を吹いてゐる雌と雄の金蛇(きんへび)だ。妾(わたし)は近いうちに哈爾賓に引返(ひきかへ)してキット讐敵(かたき)を取つて見せる」

 といふうちに彼女はスツカリ昂奮したらしい。二つ目の梨の喰ひさしを松花江(しようくわかう)の流れ目がけて、力一パイたゝき込んだ。

三十三間堂   村山槐多

  三十三間堂

 

金紫の雲は赤き燈を隱して天を過ぎ

太陽は發射す強き光彈を

痛ましき美しき一眞晝

傲然と三十三間堂輝やく

 

薄暗き貴人の家の群集の中に

淫婦が産みたる童のみの恐ろしき群の中に

美しきかな古き古き三十三間堂は

一體の銅佛の如く神々し

 

ああ三なる數字よ

汝はギリシアの數字にして

またこの堂の數字なり

この黑くけはしくまた美しき堂の數字なり

 

三万三千三百三十三體の黄金の死物は

この三十三間堂の主なり

赤き彩色は磨滅したり

かつと屋根は輝く

 

激(はげ)しき塵は舞ふ燦爛(さんらん)と

この古堂の周圍を

太陽は赤し靑し天空に

この貧人の町の空に

 

三十三間堂は輝き奇怪なる射的は

圓く三十三間堂につらなる

失はほのかに飛ぶ三十三間を

その響きの奇しさよ

 

沈默せり三十三間堂

堂のあまたの扉は閉され

痴愚なる旅人と汚き貧人と

三万三千三百三十三體の佛像に戯れたり

吾詩篇   村山槐多   ――彌生書房版「村山槐多全集」の校訂の杜撰さを糾弾する――

 
 
 
千九百十四年(19
 
 
 

 

     吾詩篇

        フライムの子らは武具ととのへ

        弓をたづさへしに戰の日にうし

        ろをそむけたり

          (詩篇第七十八篇九)

 

第一、喇叭にあはせてうたひたる村山槐多の歌

一、もろもろの民は愚なるかな。彼等は豚と童子との雜種兒なり 二、彼等はその心のうちに『人間』を幽閉す。彼等は『人間』のバスチエーユを負ふ。その牢獄を破れよ 三、汝は汝の神なり。汝よ。汝その牢獄を破り『人間』をして豚と童子とに代らしめよ。四、すべての民を赤裸にせよ。彼等の皮膚を靑蛙にするが如くむきすてよ。五、汝はトルコの女子に讃美せられんよりむしろ亞弗利加の黑奴に卑しめられん事を希ふ。六、裸形こそは『人間』。神の友。汝の戀人なれ。七、裸形の民を生命の奔流に躍らしめよ。八、汝彼等をひきゐて地球の如く大なる眼のまたたきの刹那刹那に生きよ。九、汝は眞に賞むべきかな。ソロモンの富も汝の微塵なり。十、汝は富む。汝は太陽をも領す。汝は萬物萬事の主なり。十一、汝生きよ。人間の上に生きよ。裸形の上に生きよ。十二、もろもろの民は愚なれば彼等は自らの腦髓を、肝臟を、胃を、一たびも見る事なくして生を通過す。十三、彼等は哀れむべきかな。彼等は知らざる者の恩惠を受くるなり。偶然の善き玩具なり。十四、されど萬軍の主たる汝よ。吾よ。希はくは吾をして吾腦髓を、生きたる大腦を見さしめよ。十五、汝は萬軍の主なり。汝をそむく者も嘲ける者も怒る者も赦する者も悦ぶ者もすべて汝の臣下汝の所領なり。十六、汝よ『人間』を牢獄より出さしめよ。豚と童子とを殺戮せよ。十七、もろもろの民のもろもろの生きたる大腦を抉りて彼等の眼にねぢ込めよ。十八、われ切に汝に希ふ。ああ汝よ。美しく豐麗なる汝よ。

第二 紫野にありし時村山槐多の歌

一、わが靈は汝の今日の美しさに消え入るばかりに恍惚たり。汝は美しきかな 二、汝は今日半徑の相等しき球體の如し。三、汝の球體は發育す。球より球へ發育す。四、汝は圓滿なり天地の如し。五、汝はいかに美しきかな。汝はいささかの缺所なし。宇宙の如く時の如し。六、火よ。山よ。星よ。地よ。もろもろの動物よ。人間よ植物よ。吾をほめたたへよ。七汝等がかく現存するは吾の賜物なり。八、汝等がかくも美しく強く豐なるは萬物の主たる吾健康の圓きが故なり。九、汝等われを讃へよ。あらん限りの聲を上げてわれを讃へよ。十、吾は是一人の客。天地は是俳優なり。演舞者なり。

第三 村山槐多嘗ておのが首を刎ねんとしてうたへる歌。

一、ああ天地よ。汝等の號泣の聲はわが心を微笑せしむ。何故に汝等はかく悲しむや。二、汝等は哀れむべきかな。汝等は末期にせまれり 三、汝等は今血を被らんとす。四、ああ汝等の哀泣の可笑しきかな。汝等泣くを止めよ。涙は不吉ならずや。五、われ汝等のうちにわれを憎む者嘲ける者その他一切を棲息せしめたり。これわが愚なる汝等に對する悦びなりき。六、ああされど今汝等泣くは何故ぞ。汝等は泣く。われはされどこの不吉の世界を微笑す。七、ああわれ汝等の涙を大なる雲の如き海綿をもて拭きとらん。われは餘りに大なり。汝等は遂にわれに裏ぎらず。八、われもまた微笑して汝等に主たらん。われいまだ汝等を去るを止めん。

第四 太鼓にあはせてうたへる村山槐多の歌

一、切にわが希ふは血。かの赤きいのちの液體。血をこそ滿たせ萬民を汝が生命の器に。二、血の他に幸なし。血の他に美なし。三、人よ血に富め汝が肉を血の洪水に投げ入れよ。大和の強く美しき民族よ。汝等血をこそ求め。四、天平のわれらは嘗て亞米利加印度人の如く赤色なりき。しかもいま痛ましくもわれら頽廢したるかな。五、われら健康の藝術を切に欲す。六、われらが歌に血を注そぎたくましき肉を具へよ。七、われらが歌を太陽の如く天空に投げんかな。八、われらが歌に獅子の如く虎の如かれ。九、われらかの歌麿の女子を炎天にさらし猿の血をその面に注射せん。十、われら寫樂の惡しき眼に輝やきを入る。十一、われら運動と共に筋肉と共に藝術を立つ。十二、これわれらが祖先のとりし道。十三、健康の藝術をもて大和を飾れ。強健なる大和を立てよ。十四、汝等の祖先は血に溢れよく走りよく歌ひたり。十五、天平以後の病める世紀を平安朝を江戸を驅逐せよ。十六、切にわが希ふは健康の藝術。血液の大海より騰上する喜怒哀樂。十七、血の他に幸なし。血の他に美なし。十八、野に出でよ炎天に出でよ人々。汝等の記號は日輪ならずや。十九、勇ましく雄々しき大和民族。汝等の眞にかへれ。日輪の眞紅にかへれ。二十、野獸の如く汝が戀人を逐へ。哀れむべき病的世紀の戀愛を破れ。二十一、白き女を殺戮せよ血のただ中に。肉を食へ血を滿たせ大和の人々。

 

[やぶちゃん注:私は既にやぶちゃん版村山槐多散文詩集で「全集」版を電子化しているが、今回は初出「槐多の歌へる」版でゼロから再電子化した。全体が各標題を持つ四つの段落からなる散文詩である。なお、例えば、「第一」の冒頭「一、もろもろの民は愚なるかな。彼等は豚と童子との雜種兒なり」の末尾の句読点なしはママであるが、底本では直ぐに次の箇条番号「二」に続いており、非常に読み難い。そこでわざと最後に一字空けを施した。同様の句読点なしの箇所には同じ処理を施した(以下ではこの注は略す一字空けの箇所は概ねそうした私の処理とお考え戴いてお読みになられたい。例外箇所は後注した)。なお、「全集」はこうした箇所には悉く句点や読点を打つて整序してあるが、今までの校合から感じる猜疑から、これには従わなかった。

「第一」の「三、汝は汝の神なり。汝よ。汝その牢獄を破り『人間』をして豚と童子とに代らしめよ。」の最後の句点は「全集」では――何故か不審なことに――読点になっている。従わない。

「フライム」通常は「エフライム」と音写する。イスラエル十二支族中、最強とされた部族エフライム族(後に「エフライム」は、北のイスラエル王国を指す語として「旧約聖書」の他所に現われる)。参照した私の所持するフランシスコ会聖書研究所訳注「聖書 詩篇」(昭和四三(一九六八)年中央出版社刊)の注によれば、『弓をもつ兵が多いことで有名であったが、戦いのときにはそれほど勇敢ではなかったらしい』とあり、詩篇のこの箇所は、神との契約を守らず、心からの信仰によって生きようとせず、神の秘蹟を忘れたこのエフライムたちが、まことの戦いの場での情けない敗走の様を描く。

「第一」の標題にのみ、「第一、」という読点が打たれている。「第二」から「第四」のそこは字空きである。「全集」総てに綺麗に読点を打つ。

「第一」の「十五」の冒頭「汝は萬軍の主なり」は「全集」では「十五、吾は萬軍の主なり」となっている。「全集」編纂時、この散文詩については原稿が見つかって校合したのか? 不審である。無論、前の「十四」で詩人は「汝」と「吾」をほぼ完全に同一化して表現しているから、詩の達意としての齟齬はない。ないが、しかし、ここまでの十四章の呼びかけは「汝」に対するものが殆どであり、冒頭「吾」で始まる呼びかけはない(「十四」では「汝」に次いで初めて呼びかけてはいる)。「十八」の冒頭は「われ」で始まるが、これは「希ふ」主体であり、呼びかけでない。「旧約聖書」の「詩篇」の引用項前後との関連性を考え、「詩篇」の当該箇所を読んだが、ピンとくる部分はない。ともかくも原稿との校合がなされていないとすれば、これを「吾」に変えてよい理由は私には――全くない――としか思えないのである。識者の御批判を俟つ。

「第二」の「一」、「わが靈は汝の今日の美しさに消え入るばかりに恍惚たり。汝は美しきかな 」の末尾の空欄はママで私が挿入したものではない。無論、誤植、句点の脱落は疑われる。

「第二」の「七」の数字の後の読点なしはママ。無論、単なる脱字も疑われる。

「第三」の標題「第三 村山槐多嘗ておのが首を刎ねんとしてうたへる歌。」の末尾の句点はママ。「全集」は除去されている(既に述べた通り、「第三、」と読点を打つ)。

「第三」の「七」の「汝等は遂にわれに裏ぎらず」は「全集」では「汝等は遂にわれを裏ぎらず」となっている。

「第四」の「三」「汝等血をこそ求め。」はママ。

「題四」の「九」「十」の数字の後には読点がなく、すぐ続いているが、これは前後から読点の脱落と断じて例外的に読点を打った。

「第四」の「歌麿」は「全集」では「歌磨」となっている。私の所持する昭和二六(一九五一)年の創元文庫版「村山槐多詩集」、「全集」と同じ彌生書房の同じ山本太郎編のシリーズ「世界の詩」の「村山槐多詩集」では「歌麿」となっているから、これはもう「全集」の誤植である。その誤植のままに「全集」の底本として三十有余年放置されてきた事実は看過出来ない。私は重箱の隅を突いているではない。こうした杜撰が散見されるにも拘らず、一方で、槐多の意志とは無関係な驚くべき改変を詩篇の語句に無造作に、一言もなしに施している、この彌生書房版全集に対して、私は一種、裏切られたという感情を拭えない故である。

「騰上」「とうじやう(とうじょう」と読み、高く上昇すること。

「第四」の「十七」の「血の他に幸なし。」の句点は「全集」にはなく、そのまま続いているが、これも「全集」の誤植である。]

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