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2015/07/31

譚海 卷之一 越中國もず巣をかくるをもて雪を占事

 越中國もず巣をかくるをもて雪を占事

越中の人語りしは、其(その)國雪深き所故、もずと云(いふ)鳥毎年晩秋に冬月くふべき餌に、蛙諸蟲のたぐひをとり來りて、樹に巣を營みかけ置く也。多くは杉の木に巣かくる事也。その巣の高低にて、今年の雪の淺深をしるといへり。和歌にもずの草くきとよめる物なるべし。

[やぶちゃん注:本条はスズメ目スズメ亜目モズ科モズ Lanius bucephalus の営巣行動と謂う所の「百舌の早贄(はやにえ)」を混同していておかしい。これは巣を除去して、早贄の位置としてならば、伝承として知られたものあるからである。

 まず営巣の方を片付けてしまうと、モズは巣によって越冬などはしない。ウィキの「モズ」によれば、営巣は無論、繁殖のためであって、冬も終る二月頃から始まり八月頃までには、『樹上や茂みの中などに木の枝などを組み合わせた皿状の巣を雌雄で作り』、四~六個の卵を産む(年に二回繁殖することもある)。『メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十四~十六日で、『雛は孵化してから』約十四日で巣立つ。

 次に主題である「百舌の早贄」であるが、これについては私は既に生物學講話 丘淺次郎 三 餌を作るもの~(1)で古歌に詠まれたそれも含めて注を附している。ここではそれを少しいじって再掲することとする。丘先生のリンク先の記事も面白い。是非、お読みあれ。

 「百舌(鵙)の早贄」はスズメ目スズメ亜目モズ科モズ Lanius bucephalus の特異習性として知られるが、ここで津村が述べ、長く一般にも言われてきたような冬季の食糧を確保するためという見解は、実は現在では必ずしも主流ではない。というよりもこの早贄行動は根本的には全くその理由が解明されていないというのが現状である。以下、ウィキの「モズ」の当該箇所を引用しておく(下線や太字は総てやぶちゃん)。『モズは捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む行為を行い、「モズのはやにえ(早贄)」として知られる。稀に串刺しにされたばかりで生きて動いているものも見つかる。はやにえは本種のみならず、モズ類がおこなう行動である』(本邦で見られるモズ科はモズ Lanius bucephalus 以外に、アカモズ Lanius cristatus superciliosus・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus の五種)。『秋に最も頻繁に行われるが、何のために行われるかは、全く分かっていないはやにえにしたものを後でやってきて食べることがあるため、冬の食料確保が目的とも考えられるが、そのまま放置することが多く、はやにえが後になって食べられることは割合少ない。近年の説では、モズの体が小さいために、一度獲物を固定した上で引きちぎって食べているのだが、その最中に敵が近づいてきた等で獲物をそのままにしてしまったのがはやにえである、というものもあるが、餌付けされたモズがわざわざ餌をはやにえにしに行くことが確認されているため、本能に基づいた行動であるという見解が一般的である』。『はやにえの位置は冬季の積雪量を占うことが出来るという風説もある冬の食糧確保という点から、本能的に積雪量を感知しはやにえを雪に隠れない位置に造る、よって位置が低ければその冬は積雪量が少ない、とされる』(私もまさに中学高校時代を過ごした富山県高岡で山里の古老から聞いた記憶があり、自宅のあった高岡市伏木矢田新町の二上山を下った尾根などでは、散歩中にしばしば蛙や蜥蜴の「百舌の早贄」を見かけたものである)。しかし食糧確保であるという大前提が崩れている状況では、後者は論理的に納得し得る内容を伴わない。因みに「はやにえ」は歴史的仮名遣では「はやにへ」と表記する。

「和歌にもずの草くきとよめる物」生物學講話 丘淺次郎 三 餌を作るもの~(1)では以下のように注した。

   *

万年青氏の「野鳥歳時記」の「モズ」に、以下の二首が挙げられている。鑑賞文も引用させて戴く(失礼乍ら、一部の誤表記を直させて貰った)。

 垣根にはもずの早贄(はやにへ)たててけりしでのたをさにしのびかねつつ   源俊頼

「夫木和歌抄」より。『この歌の意味するところは、モズは前世でホトトギスから沓(くつ)を買ったが、その代金(沓手)を払うことが出来なかった。現世になってモズはその支払いの催促を受け、はやにえを一生懸命つくってホトトギス』(しでのたおさ:ホトトギスの異称。)『に供えているのだというのである。モズの不思議な習性は、昔から人の関心を寄せていたようだ』。

 榛の木の花咲く頃を野らの木に鵙の早贄はやかかり見ゆ   長塚節

 『榛の木の花は、葉に先立って二月頃に咲き、松かさ状の小果実をつける。これが鳥たちにとって結構な餌となるので、この木があると野鳥が集まる所だと推測できる。謂わば、探鳥の目当てのシンボルともなる木で』ある、と記される。
   *

ただ、私のミスでこの時、引用先をリンクし忘れ、今回、探してみたが、残念なことに万年青氏の引用先は既に消失している模様であった。しかしどうも「余生歳時記」というブログをお書きになっておられる方が、それをお書きになっていたのではないかと思われるので、そう私が推測した同氏の記事余命は楽しく過ごそうよをリンクさせて戴き、御礼に代えさせて頂こうと思う。

 さて、ここでは歌語の「もずの草くき」であるが、「日本国語大辞典」を引くと、これは「もずの草茎」或いは「もずの草潜」と表記し、読みは別に「もずのかやぐき」とも読むもので、元来は、『モズが春になると山に移り、人里近く姿を見せなくなることを、草の中にもぐり隠れたといったもの』とあって、この原義は早贄の生態行動とは全く違う(季節が反対で行動も全く異なる)ことが判る。ともかくもこの原義で用いられた例として同辞典は以下の二首を挙げている。

 

春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば 作者不詳(「万葉集」巻・十・一八九七番歌)

 

たのめこし野辺の道芝(みちしば)夏ふかしいづくなるらむ鵙の草ぐき 藤原俊成(「千載和歌集」恋三・七九五番歌)

 

一方、同辞典ではとして『「もず(百舌)の早贄」に同じ』ともする。これはどうも誤用と思われ、しかも幾つかの古歌を見たが、探し方が悪いのか、原義で用いられているものばかりが目につき、早贄の謂いで「もずのくさぐき」を用いるのは近世以降の俳諧(秋の季語)ばかりである。幾つか拾う。

 

やき芋や鵙の草莖月なき里  言水(「金剛砂」)

 

草莖を失ふ百舌鳥の高音かな 蕪村(「新五子稿」)

 

草莖を預けばなしで又どこへ 一茶(「七番日記」)

 

草茎をたんと加へよ此後は  一茶(「七番日記」)

 

草茎のまだうごくぞよ鵙の顏 一茶(句稿断片)

 

なお、今回、神戸市教育委員会公式サイト内の加藤昌宏氏の「神戸の野鳥観察記」の3.モズのはやにえ(速贄)をとても面白く、また興味深く読まさせて戴いた。お薦めである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 華光院/上杉定正邸跡

    ●華光院

華光院は壽福寺の東向(ひがしむかひ)なり。龍興山と號す。眞言宗、開基を賴舜と云ふ〔天福元年八月廿二日寂す〕本尊不動を安す。

[やぶちゃん注:廃寺。窟堂の背後の尾根の向こう側、現在の新しい寺である日蓮正宗の護国寺(一九六九年建立。横須賀線で北鎌倉から鎌倉へトンネルを抜けると左手に見えてくるドーム状の銀色の建物。因みにここが次の項に出る関東管領上杉定正邸旧跡である)の南にあった。新編鎌倉志四」から引く。

   *

◯華光院 華光院(けくはういん)は、壽福寺の東向(ひがしむかふ)なり。本尊は不動。 佐介谷(さすけがやつ)稻荷別當の所居也。昔は壽福寺の塔頭(たつちう)にて、壽福新命入院の時は先づ此院に入て、それより壽福へ入院すと云ふ。營西は、顯密禪なる故に、始より眞言宗なり。今は別院となりぬ。

   *

「鎌倉廃寺事典」の「華光院(けこういん)」には、『佐助稲荷は室町時代から鶴岡供僧の支配である』。しかるにここで「新編鎌倉志」は寿福寺の別院と言っており、『鶴岡と寿福寺の両方に属している』ことになり、何だかおかしいといったニュアンスの記載がなされてあり、『延宝八年(一六八〇)「除地覚」には「鶴岡支配花光院」と見える』と記すから、江戸中期以降は鶴岡支配であったものであろう(廃寺年代は不詳であるが、どうも雰囲気からすると明治の廃仏毀釈辺りらしい)。しかしとすると、本尊は、かのダイレクトな憂き目を見たと考えられ、憐れなは不動なりということになろうか(山越えして窟不動に逃げればよかったにのぅ)。因みに、「除地」というのは年貢諸役を免除された土地で有力な寺社の境内や無年貢証文のある田畑・屋敷などを言う。

「天福元年」一二三三年。北条泰時の治世である。]

 

    ●上杉定正邸跡

慈光院の門前にあり。修理大夫定正は修理大夫(しゆりたゆふ)持朝か子なり。享德の頃より。此地に住し。成氏の子政氏を輔翼(ほよく)して政務を沙汰せし事鎌倉九代記に見えたり。其頃世に扇谷の上杉殿と稱せしなり。定正明應二年十月五日に卒(しゆつ)せり。今は纔(わずか)に其遺蹤ありて田圃たり。

[やぶちゃん注:前項で述べた通り、現在の新興の寺である日蓮正宗護国寺境内地がここに相当する。

「上杉定正」(嘉吉三(一四四三)年或いは文安三(一四四六)年~明応三(一四九四)年)は相模国守護で扇谷上杉家の当主。上杉持朝三男。名臣太田道灌を暗殺した暗愚な主君として、また滝澤馬琴の伝奇「南総里見八犬伝」の極悪党の関東管領「扇谷(おうぎがやつ)定正」(実際には彼は関東管領ではないので注意)の名でも知られる(ここは立地も無論、扇ヶ谷)。以下、今まで鎌倉地誌記載でちゃんと注したことがない(私は鎌倉の室町史・戦国史になると鎌倉時代史の熱が急激に就下してしまい今一つ触手が動かなうなることをここに自白しておく)ことに気づいたので、参照したウィキ上杉定正より例外的にほぼ全文を引かさせて戴き、事蹟を示す(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『扇谷上杉家は関東管領上杉氏の一族で、相模守護を務め関東管領を継承する山内上杉家の分家的存在であった。扇谷家は鎌倉公方・足利持氏と山内家が対立して持氏が滅ぼされた永享の乱で山内家に味方し、享徳三年(一四五三年)以来の持氏の子の古河公方・足利成氏との長期の戦いである享徳の乱でも山内家を支え』た。『扇谷家家宰の太田道真・道灌父子は、河越城(埼玉県川越市)、江戸城(東京都千代田区)を築城するなどして、扇谷家の勢力は大いに拡大した。山内家と扇谷家は両上杉家と呼ばれるようになっていた』。『文明五年(一四七三年)、扇谷家当主だった甥の上杉政真が五十子の戦いで古河公方に敗れて戦死した。若い政真には子がなかったため太田道灌ら扇谷家老臣達の評定の結果、政真の叔父にあたる上杉定正が家督を継ぐ』。『定正は関東管領・山内上杉顕定と共に五十子陣に在陣して古河公方成氏と対峙した。しかし、文明八年(一四七六年)に山内家の有力家臣・長尾景春が反乱を起こし、翌文明九年(一四七七年)に五十子を急襲、定正と山内顕定は大敗を喫して上野国へ敗走する(長尾景春の乱)』。『上杉方は危機に陥るが、扇谷家家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏をはじめとする各地の長尾景春方を打ち破り、定正も転戦して扇谷家本拠の河越城を守った』。『文明十四年(一四八二年)に長尾景春は没落し、古河公方・成氏とも和睦が成立した。だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と山内顕定は不仲になる。また、乱の平定に活躍した家宰・太田道灌の声望は絶大なものとなっており、定正の猜疑を生んだ』。『文明十八年(一四八六年)七月二十六日、定正は太田道灌を相模糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招いて暗殺。死に際に、道灌は「当方滅亡」(自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという意味)とうめいたという』。『謀殺の理由について、定正は「上杉定正消息」で家政を独占する太田道灌に対して家臣達が不満を抱き、道灌が(扇谷家の主君にあたる)山内顕定に逆心を抱いたためと語っている。これは定正の言い分であり、道灌の方も「太田道灌状」にて定正の冷遇に対する不信を述べている。実際には、家中での道灌の力が強くなりすぎ定正が恐れたとも、扇谷家の力を弱めようとする山内顕定の策略に定正が乗ってしまったとも言われる』。『太田道灌謀殺により道灌の子・太田資康をはじめ多くの家臣が扇谷家を離反して山内顕定の元に走り、定正は苦境に立つ。道灌の軍配者(軍師)の斎藤加賀守のみは定正の元に残り、定正はこれを喜び重用した。山内家と扇谷家の緊張が高まり、長享二年(一四八八年)の山内顕定の攻撃によって戦端が開かれた(長享の乱)。更に異母兄の三浦高救も扇谷家当主の座を狙って動き始めた』。『これに対して定正は長尾景春を味方につけ、仇敵であった古河公方・足利成氏とも同盟を結んで対抗。戦上手の定正は実蒔原の戦い、須賀谷原の戦い、高見原の戦いに寡兵をもって勝利して大いに戦意を高め、「五年のうちに上野・武蔵・相模の諸士は、自分の幕下に参じるであろう」と豪語したものの、関東管領である山内家とその一族に過ぎない扇谷家の実力は隔絶しており、連戦に疲弊し次第に劣勢になった。この頃(長享三年(一四八九年))、山内顕定の不当性と自らの苦境を綴った、重臣曽我祐重に宛てた定正の書状が遺されている』。『定正は古河公方を軽んじた振舞いに出るようになり遂に盟約は崩壊し、これを定正の驕りと見た家臣の中には山内顕定や古河公方に寝返る者も現れた。重臣の大森氏頼は諫言して山内顕定や古河公方との和解を勧めるが、定正はこれに従わず山内家との抗争を続けていく。』『明応二年(一四九三年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国に乱入して堀越公方・足利茶々丸を駆逐した。この伊勢宗瑞の伊豆討入りには定正の手引きがあったとの見方が古来強い。定正は伊勢宗瑞と結ぶことになる』。『明応三年(一四九四年)、扇谷家重臣・大森氏頼と三浦時高が相次いで死去する。同年十月、定正は伊勢宗瑞とともに武蔵国高見原に出陣して山内顕定と対陣するが、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去。享年四十九。太田道灌の亡霊が定正を落馬させたのだとする伝説がある。長岡市にある定正院が菩提所と伝えられている』。『定正・大森氏頼・三浦時高の三将の死は扇谷家にとって大きな痛手となった。甥で養子の上杉朝良が跡を継ぐが、伊勢宗瑞とその子氏綱の侵攻に押され、扇谷家は徐々に所領を蚕食されていく』とある。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 窟堂

    ●窟堂

窟堂は松源寺の西山の根にあり。巖窟の濶(ひろさ)三間許。高七尺。其中巖面に不動の像〔弘法の畫く所と云〕を彫るのみ。今は堂宇なし。

[やぶちゃん注:妙にあっさりしている。「新編鎌倉志卷之四」を私の注ごと掲げる。……実はここは……私の個人的な記憶の中にある、ある苦い思い出の場所で、そこで自分が発した愚かな言葉なんどもよく覚えているのである……さればこそ……恐らくは二度と行かない……場所である。……

   *

〇巖窟不動 巖窟(いはや)不動は、松源寺の西、山の根にあり。巖窟の中に、石像の不動あり。弘法の作と云ふ。【東鑑】に、文治四年正月一日、佐野太郎基綱が窟堂(いはやだう)の下の宅燒亡。鶴が岡の近所たるに因て、二品〔賴朝。〕宮中燈に參り給ふとあり。此の處の事ならん。此前の道を巖窟小路(いはやこうぢ)と云ふ。【東鑑】に、大學の助義淸、甘繩(あまなは)より、龜谷(かめがやつ)に入。窟堂の前路を經るとあり。此路筋(みちすぢ)ならん。【東鑑】には、窟堂とあり。俗、或は岩井堂(いはゐだう)と云ふ。巖窟堂(いはやだう)、今は教圓坊と云ふ僧の持分なり。昔しは等覺院の持分なりけるにや。岩井堂日金事、可被立卵塔之由承候、先以目出候、然者、自御万歳夕、至于三會之曉、留慧燈於彼地、可覆慧雲於他界給之條、殊以令庶幾候之間、以彼所、限永代奉避渡候了、兼又同以被申方候之由承候、其段可令存知候也、恐々謹言、應永卅三年七月十七日、等覺院法印御房へ、尊運判とある〔尊運は、今河朝廣(いまかはともひろ)の子なり。〕状あり。又岩井日金事、如來院僧正、任證文、成敗不可有相違候、恐々謹言、五月九日、等學院へ、空然判とある状あり〔空然は、古河(こが)の源の政氏(まさうぢ)の子。〕

●「巖窟不動」は現在の窟不動を祀る窟堂(いわやどう)。現在の小町通りを八幡宮方向へ突っ切り、鉄(くろがね)の井の手前を扇ヶ谷へ向かう左の小道に折れて窟小路を行くと、横須賀線の踏切の手前にある。

●「教圓坊」は「鎌倉攬勝考卷之七」の「巖窟不動尊」では「散圓坊」とし、尚且つ、僧名ではなく小庵名とする。

●「等覺院」とは鶴ヶ岡八幡宮寺の十二箇院の内にある等覚院のこと。「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」を参照。

●「尊運」は当時の鶴岡八幡宮寺別当(応永二十四(一四一七)年~永享三(一四三一)年在職)。八条上杉朝広の子(本文の「古河」姓については調べ得なかったが、この朝広の実母が今川上総介泰範室であることと関係するか)、扇谷上杉家当主上杉氏定の養子となった。尊運書状は「鎌倉市史 資料編第一」所収の文書第七七号で校訂した。以下に、影印の訓点に従って書き下したものを示す(送り仮名を補訂した)。

 

岩井堂日金の事。卵塔を立てらるべきの由承り候ふ。先づ以て目出(めでた)く候ふ。然れば、御万歳夕べより、三會の曉に至りて、慧燈を彼の地に留して、慧雲を他界に給ふべきの條、殊に以て庶幾せしめ候ふの間、彼の所を以て、永代を限り避り渡し奉り候ひ了んぬ。兼て又、同じく以て申さるゝ方候ふの由承り候ふ。其の段、存知せしむべき候ふなり。恐々謹言。

   應永卅三年七月十七日

    等覺院法印御房へ

             尊運判

 

以下、空然書状を影印の訓点に従って書き下したものを示す(送り仮名を補訂した)。

 

岩井日金の事。如來院の僧正、證文に任じて、成敗相違有るべからず候。恐々謹言。

   五月九日

    學院へ

             空然判

 

●「源政氏」は足利成氏の子で、第二代古河公方。その子である「空然」(「こうねん」と読む)は足利義明(?~天文七(一五三八)年)のこと。若くして法体となり、鶴岡八幡宮若宮別当(文亀三(一五〇三)年~永正七(一五一〇)年在職)にあった。永正の乱で父政氏と兄高基(後の第三代古河公方)の抗争が勃発すると還俗、父兄双方と対立して自ら「小弓公方」を称した。北条氏綱との国府台合戦で戦死。]

   *

「三間」五・四五メートル。

「七尺」二・一二メートル。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 毛利藏人大夫季光墓

    ●毛利藏人大夫季光墓

五輪塔なり。面(おもて)に藏人從五位下大江季光朝臣之墓、寳治元年歳次丁未、六月五日と記す。文政六年。毛利家より建(たつ)る所なり。昔此地に季光か室家尼となりて。爰に草菴を結ひ居住せしと云傳ふ。此(この)國緣(こくゑん)を以て建しなるべし。

[やぶちゃん注:大江広元四男毛利季光の墓である。これは珍しく極めて正しい位置(当時は窟堂の背後の山の頂にあった)に記されている、この時制にマッチしたもので、トンデモ記事の多いガイドブックである本書としては稀有のケース。たまには『風俗画報』もやって呉れるのである。但し、現在はこの墓はここには――ない――のである.だから,よくやった! と言いたいのである。だから貴重な記載なのである。この墓はこの後の大正一〇(一九二一)年に伝頼朝の墓の東の父広元の墓の側に移築されたからである(移築年は岡戸事務所の「鎌倉手帳(寺社散策)」の大江広元・毛利季光・島津忠久の墓に拠った)。既に述べたが、毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年は宝治合戦で北条方に就こうとしたが、三浦義村の娘であった妻(まさにここに出る尼である)の批難により三浦方に組し、自刃した悲劇の人物である。この墓は鎌倉九」に以下のようにある(私の注も引いておく。ここでは墓(供養塔)を設けたのは別人でずっと後の永享年間(一四二九年~一四四一年)ことであることとあって、この方が信頼出来る)。

   *

大江季光入道西阿墓石 鶯谷尼菴の庭に在りしといふ。是は雪の下淨國院住僧元運といふもの、永享中に造立せし由。此僧侶は、大江氏の出にて、大江時廣の末孫なるが、同族の因たるをもて、其追福の爲に造立せし由。今は其塔も、剝落頽破して其形も全からず。大半土中へ埋しといふ。

[やぶちゃん語注:「雪の下淨國院」は「新編鎌倉志 卷之一」の鶴岡八幡宮の塔頭十二院の筆頭に掲げられている、以下に引用しておく。

淨國院 以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴が岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、東顏(ひがしがは)より西顏まで、寺町(てらまち)をなす。建久二年に、賴朝卿二十五の菩薩に形(かた)どり、院宣を奏し請て、供僧二十五坊を建立せらる。其の後應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號を改め院號とす。源の成氏の代まで、廿五院有しと見へたり。【成氏の年中行事】に載せたり。永正の比(ころ)より、漸漸(ぜんぜん)に衰へて、七院のみありしを、東照大神君、文祿二年に、十二院を再興し給ふと也。淨國院の開基は、【社務職次第】に云、初佛乘坊・忠尊、號大夫律師、山城人也、法性寺禪定殿下忠通猶子也。(初めは佛乘坊・忠尊、大夫律師と號す。山城の人なり。法性寺禪定殿下忠通の猶子なり。)

「大江時廣」は広元の子。三代将軍実朝近習。京都守護であった兄親広が後鳥羽方に就いて失脚したため、嫡男として大江家を嗣いだ。因みに彼以降は長井(若しくは永井)氏を名乗っており、この僧も俗名は長井(永井)姓であったと考えられる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 松源寺

    ●松源寺

松源寺は日金山と號す。鐡觀音の西巖窟中の中壇にあり。本尊は地藏運慶か作。相傳(あひつた)ふ賴朝卿伊豆に配流の時。伊豆日金に祈て我世に出でば必ず地藏を勸請せんと約せし故にこゝに移すと云ふ。

[やぶちゃん注:廃寺であることが示されていないのは新編鎌倉志のほぼ完全な引き写しのため。

   *

〇松源寺 松源寺(せうげんじ)は、日金山(にちきんさん)と號す。銕觀音の西、巖窟堂(いはやだう)の山の中壇にあり。本尊は地藏、運慶が作。相傳ふ、賴朝卿、伊豆に配流の時、伊豆の日金に祈つて我(われ)世に出でば必ず地藏を勸請せんと約せし故に、こゝに移すと云ふ。

   *

鎌倉の「日金地藏堂」を引く。

   *

日金地藏堂 岩屋堂の東にて、山の半腹にあり。本尊地藏、運慶作。右大將家、豆州謫居の頃より、御誓願有て、爰に移し給ふといふ。別當日金山彌勒院松源寺といふ。眞言新義。御室御所の末なり。弘長三年四月七日、群盜十餘人、地藏堂にかくれ居るの間、夜行の輩行向ひ、其庭にて生虜とあり。玆の地藏堂の事なり。

   *

地蔵の方の呼称では「日金」は「ひがね」と読むようである。以前、現在の雪ノ下にあった松源寺の本尊であったが、廃仏毀釈令で長谷寺に移管され、後に現在の横須賀市武(たけ)の東漸寺に移されている。日金地蔵は鎌倉時代の仏師宗円の作と伝えられる木造半跏像で、頼朝が蜂起する際に伊豆日金山の地蔵菩薩に戦勝と源氏再興を祈願し、成就の後にその像を模して造ったと伝えられる。但し、オリジナルの地蔵は松源寺の火災で焼失、現在の東漸寺蔵の日金地蔵は地蔵胎内墨書銘によって寛正三(一四六二)年、仏師宗円による造立であることが分かっている。東漸寺は toshi-watanabe 氏のブログ「折々の記」の横須賀武の東漸寺を訪ねるが詳しい。

「伊豆日金」は現在の静岡県熱海市伊豆山にある走湯権現日光山東光寺のこと。応神天皇四(二七三)年、松葉仙人の開山と伝えられる古刹で、現在の本尊延命地蔵菩薩像も頼朝の建立とされる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  志一稻荷社

    ●志一稻荷社

志一稻荷は僧志一の觀請なり、此僧は筑紫の人にて訴訟の事ありて鎌倉に來り。既に訟も達しけるに。文狀(もんじやう)本國に忘置り。時に平生(へいぜい)此僧に仕へし狐。一夜の中に本國に往來して。彼狀を取來て志一に授け其儘死せり。依て稻荷に祀りしと鎌倉志に見えたり。志一鎌倉に來り。左道を以て人を蠱惑(こわく)し。且康安安元年上洛せし事太平記に記せり

[やぶちゃん注:で「新編鎌倉志」のプロトタイプ「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」から、この現在の鶴岡八幡宮から道を隔てた西北の斜面を登ったところにある志一稲荷と同じい「志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕」の本文と私の注を引く(以上はサイト一括版。同日記の私のブログ版電子テクストの「志一上人の石塔」はこちら)。

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   志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕

 右ノ石塔若宮ヨリ西脇ノ町屋ノ後ロノ山上ニアリ。土俗ノ云ルハ、志一ハ筑紫ノ人也。訴訟有テ下ラレ、スデニ訴訟モ達シケルニ、文状ヲ古里ニ忘置テ如何セント思ハレシ時、常々ミヤヅカヒセシ狐アリシガ、一夜ノ内ニ故郷ニ往キ、彼文状ヲクハヘテ曉ニ歸り、志一ニタテマツリ、其マヽ息絶テ死ケリ。志一訴訟叶ヒシカバ、則彼狐ヲ稻荷ニ祭リ、社ヲ立ツ。坂ノ上ノ脇ニ小キ社有。是其小社也。志一ハ左馬頭基氏ノ代ニ、上杉崇敬ニヨリ鎌倉へ下ラレケルト無極抄ニ見へタリ。太平記ニ仁和寺志一坊トアリ。又志一細川相摸守淸氏ニタノマレ、將軍ヲ咒咀シケルトアリ。此僧ノ事歟、未審(未だ審らかならず)。又此所ヲ鶯谷トモ云トナン。

●「無極抄」は近世初期の成立になる「太平記評判私要理尽無極抄」という「太平記」の注釈書である。

●「細川相摸守淸氏」細川清氏(?~正平一七/康安二(一三六二)年)は室町幕府第二代代将軍足利義詮の執事。官位は左近将監、伊予守、相模守。参照したウィキの「細川清氏」によれば、『正平九年・文和三年(一三五四年)九月には若狭守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。翌正平一〇年/文和四年(一三五五年)の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。正平一三年/延文三年(一三五八年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、二代将軍足利義詮の最初の執事に任ぜられた』。『清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事頼章の弟仁木義長や斯波高経らの政敵も多かった。正平一五年/延文五年(一三六〇年)五月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に畠山国清ら諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍義詮の意に逆らうことも多かったという』。『同年(康安元年、三月に改元)九月、将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。これについて、「太平記」は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の「難太平記」では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、十月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津天王寺に至り南朝に降った。十二月には楠木正儀・石塔頼房らと共に京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された』。『正平十七年/康安二年(一三六二年)、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町、坂出市)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。「太平記」によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。但し、新編鎌倉志卷之四」には、

 

〇志一上人石塔 志一上人の石塔は、鶴が岡の西、町屋の後ろ、鶯谷(うぐひすがやつ)と云ふ所の山の上にあり。里人云く、志一は、筑紫の人也。訟へありて鎌倉に來れり。已に訟へも達しけるに、文狀を本國に忘れ置きて、如何せんと思はれし時、平生、志一につかへし狐ありしが、一夜の中に本國に往き、明くる曉、彼の文狀をくわへて歸り、志一に奉り、其まゝ息絶へて死しけり。志一、訟へかなひしかば、則ち彼の狐を稻荷の神と祭り祠(し)を立つ。坂の上の小祠、是れ也。志一は、管領(くわんれい)源の基氏の他に、上杉家、崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。【太平記】に、志一上人鎌倉より上りて、佐々木佐渡の判官入道道譽(だうよ)の許へおはしたり。細川相模守淸氏(きようぢ)にたのまれ、將軍を咒詛(しゆそ)しけるとあり。

 

と記す。「太平記」巻三十六「淸氏叛逆の事」によれば、志一は佐々木道誉のもとにあって、細川清氏に頼まれて荼枳尼天の外法(ウィキの「荼枳尼天」に『狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている』とあり、志一と稲荷のラインが美事に繋がる)を以って将軍を呪詛したことが記されている。

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序でに、同じく私の電子テクスト鎌倉九」の同じく志一稲荷のことを指している「志一上人墓碑」も原文と私の注(ダブっておらず補填的)を引き、対照参照に供しておく。

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志一上人墓碑 馬場小路の町屋の後なる西の方にあり。爰を鷺が谷といふ。此の志一は仁和寺の僧にて、外法成就の志一上人と、【太平記】にも載たり。もと筑紫の人なるが、詔ありて鎌倉へ來れりといふ。貞治の頃にやありけん、其の秋、京都へ上りし時、佐々木道譽が家へ參り、さまざま物語りのうへ、細川相模守殿より、所願候間、速かに願成就ある樣に祈りてたべとて、願書一通を封じ、供具の料とて一萬匹副へて贈られしと、何心なく語りければ、淸氏何事の所願に候哉(や)、其の願書披見せんことを、懇切に再三上人をすかしければ、無是非(ぜひなく)願書を取り寄せ、道譽に見せければ、道譽、大いに悦び、伊勢の入道が宅へ行き、細川淸氏、陰謀の証據發覺せしことを讒訴せしより、淸氏は將軍の爲に終ひに討たれ、家を失ひけり。其の發(おこ)りは、志一が愚直なるより、天下の大亂をおこし、死傷するもの多し。依つて上人も京に住し得ず、又鎌倉へ歸り、寂せし年月しれず。又一説に鎌倉へ下向の時、文書を故郷に忘れ、如何せんとせしに、志一が使ひし狐一夜の内に在所へ歸り、其の文書を持ち來たり、志一に渡し、即時に斃れしゆへ、彼の狐を埋めて祠を建て、稻荷と祝ひしは、巨福呂坂上の小祠、是なりといふ。陀枳尼天(だきにてん)の法者なれば、狐を使ひしことは勿論なり。鎌倉へ下りし、初め畠山國淸(くにきよ)、野心有りて、志一に外法(げはう)を修せしめ、又、細川淸氏と國清、同意なるに依つて、上人をして淸氏にも、咒詛を祈らせん爲に計りし事なりといふ。

●「馬場小路」は正しくは「ばんばこうじ」と読み、鶴岡八幡宮西側を走る道で、鉄の井から旧鶴岡八幡宮寺二十五坊跡辺り(小袋坂の下、道路が左へ大きくカーブル辺り)までを指した。

●「畠山國淸」(?~貞治元・正平十七(一三六二)年?)は南北朝期の武将。尊氏・直義に従って九州・畿内を転戦、京都を制圧して和泉守護となり、次いで紀伊守護となった。一度は直義についたが、結局、尊氏に寝返り、鎌倉公方足利基氏の補佐を命ぜられて関東執事となって鎌倉入りし、権勢を振るった(但し、彼は着任早々、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移して入間川御陣としている)。後に失脚、基氏と争うが敗北、その後の消息はよく知られていない。

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 現在は訪れる観光客も少ないが、旧巨福呂坂切通の直近であったから、古えの様相はもっと賑やかであったに違いない。]

2015/07/30

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(8) 四 羊膜

 

      四 羊膜

Kerann

[雞卵内の發育

(い)雛の體 (ろ)羊膜]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 蛙の卵または「さけ」の卵を生かして置き、その發生を調べて見ると、初め球形の卵の一粒が漸々形が變つて全部がたゞ一疋の子の身體のみとなるが、雞の卵を雌雞に温めさせてその日の發生を調べると、卵からはたゞ雛の身體のみが出來るのでなく、早くから雛の身體を包む薄い膜の囊も出來る。この囊を「羊膜」と名づける。雞の卵も元來は一個の細胞であるが、生まれた卵は受精後十數時間を經たもの故、その間に細胞の數は殖えて一平面に竝び已に明な層をなして居る。黃身の上面に必ず一つの小さな圓い白い處があるのは、即ちこの細胞の層である。俗にこれを「眼」と稱へて、これから雛の眼玉が出來るやうに言ふが、それは無論誤で、實はこれから雛の全身が出來るのである。親雞に温められると、この白い眼の如き處が漸々大きな圓盤狀となり、その周圍は延びて終に黃身を包み終り、その中央部即ち始め眼のあつた邊では、細胞層が曲がつたり折れたり癒著したり切れたり、極めて複雜な變化を經て終に雛となるが、後に雛になる部分の周圍からは、細胞層が恰も子供の着物の縫ひ上げの如き特別の褶を生じ、この褶が四方から雛の身體を圍んで、卵から孵つて出るときまで恰も囊に入れた如くに全く包んで入る。前に羊膜と名づけたものは即ちこの細胞層の薄膜である。このやうに雞などでは、初め細胞の層ができて、その一部は雛の體となり、殘りの部は雛を包む囊となるのであるから、これを譬へていへば、恰も布を縫うて人形を造るに當り、大きな布を切らずに用ゐ、人形に續いたまゝの殘りの部でその人形を包んだ如くである。同一の材料の一部で人形を造り、その續きでこれを包む囊を造つたと想像すれば、丁度雛の卵の内で、同じ細胞層から雛の身體と雛を包む羊膜とが出來るのと同じわけに當る。

[やぶちゃん注:「羊膜」昆虫類及び脊椎動物羊膜類の発生過程で形成される胚膜の一つである。英名“amnion”。受精卵が卵割を経て数百から千個ほどの細胞の集まりになると、その一部に将来胚を形成する部域が分化してくるが、それにつれてその周辺の外胚葉及び中胚葉の細胞が襞(ひだ)となって持ち上がって来、胚体の上に前後左右から覆い被さるように伸びて胚体の上部で出会い、出会った部分の隔壁が消えると、胚は結局、二重の膜、羊膜と漿膜(しようまく)となる。その孰れもが中胚葉に裏打ちされた外胚葉の薄膜で、これらを総称して羊膜と呼称する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「黃身の上面に必ず一つの小さな圓い白い處がある」胚である。]

4week

[第四週の胎兒と羊膜]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 發生中に判斷の出來ることは、脊骨を有する動物の中でも鳥類・獸類・龜・蛇・「とかげ」の類に限ることで、魚類や蛙・「ゐもり」の類には決してない。「ゐもり」と「やもり」とは外形がよく似て居るので隨分混同して居る人も少くないが、その發生を調べると、「ゐもり」の方は羊膜が出來ぬから魚類と同じ仲間に屬し、「やもり」には立派な羊膜が出來から寧ろ鳥類の方に近い。されば發生に基づいて分類すると、脊椎動物を無羊膜類と有羊膜類との二組に分ち、前者には魚類と兩棲類とを入れ、後者には哺乳類、鳥類、爬蟲類を組み込むことが出來る。人間も他の獸類と同じく、發生中には羊膜が出來て常に胎兒は羊膜内の羊水の中に漂うて居る。二箇月三箇月の頃に流産すると小さな胎兒が薄い羊膜の囊に包まれたままで生まれ出るが、月滿ちて生まれる場合には、羊躁はまづ破れて羊水が流れ出で、それと同時に兒が子宮から出て來る。但し稀には「袋兒」と稱へて、羊膜が破れず、これを被つたまゝで兒が生まれることもある。

5manth

[五箇月の胎兒

胎兒を包む薄い膜の囊は所謂羊膜である この圖では羊膜の一部を縱に切り開いて内部の胎兒を直接に示した 胎兒の肩の上に載つてゐるやや太い紐は臍の緒]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。個人的に非常に感銘する作画で、これこそ現今の写真に勝る博物画の美観と言えると私は信じて疑わない。]

 

 動物を通常胎生と卵生とに分けるが、以上述べた通り、羊膜を生ずるのは胎生するものと、卵生するものの一部とに限られてある。蛙も雞も同じく卵生であるが、その發生を調べて見ると、羊膜の有無に就いては卵生の雞は卵生の蛙に似ずして、却つて胎生の獸類の方に遙に近い。大きな卵を産む鳥と微細な卵細胞を生ずる獸類とに、なぜ羊膜が出來て、その中間の大きさの卵を産む蛙になぜ羊膜が出來ぬかとの疑問は返答が難かしいやうに思はれるが、段々調べて見ると、獸類は決して極昔の先祖以來常に微細な卵ばかりを生じたのではなく、最初はやはり今日の龜や「とかげ」の類もしくは「かものはし」などの如き大きな黃身を含んだ卵を産んだのが、その後次第に胎生の方向に進み、卵は少しづつ小さくなつて、終に今日見る如き極めて微細な卵細胞を生ずるに至つたものらしい。かく考へねばならぬ論據は發生學上の詳細な點にあるゆえ、こゝには略するが、たゞ羊膜の生ずる有樣だけから見ても、獸類と鳥類とは共に初め比較的大きな卵を産む爬蟲類から起り、鳥類の方は飛翔の必要上益々完全な卵生の方に進み、獸類の方は卵を安全ならしめるために長く體内に留め置き、母體と子の體との相接觸する所から、その間に新な關係が生じ、母體から絶えず滋養分を供給し、卵はそのため豫め多量の黃身を含み居る必要がなくなり、終に模範的の胎生となつたのであらうと思はれる。かやうに考へると、獸類の微細な卵から子が發生するに當つて、鳥類に於けると同じやうに羊膜の生ずるのは、共に先祖の爬蟲類から遺伝によつて傳はつたものとして、初めて了解することが出來る。

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 十王堂橋/鐡井/鐡觀音堂

    ●十王堂橋

十王堂僑は。傍(かたはら)に十王堂ありし故に名く。大船(おほふな)に通する鐵道線路の傍藥師堂の前に架せり鎌倉十橋の一なり。

[やぶちゃん注:北鎌倉駅を出て鎌倉街道を大船方向に百三十メートルほど行った小袋谷川(或いは山ノ内川。大方が暗渠になっているもののこの橋は残っている)架かる橋。この直近に十王堂があったことに由来する(白井永二編「鎌倉事典」に拠れば、ここにあった十王像は現在の円覚寺境内の総門を入ってすぐの左側にある十王堂桂昌庵に、また十王図六幅は同続燈庵に移されてあるとある。大昔に風入で見たかなぁ? 記憶ないわ……)。]

 

    ●鐡井

雪下西南方の路傍に在り。鎌倉十井の一にて。昔井中(ゐちう)より鐡の觀音像を得たり故に名く。

[やぶちゃん注:小町通りをどん詰りまで行った鎌倉街道に出る右手にある。白井永二編「鎌倉事典」に拠れば、『明治六年(一八七三)以前は、井戸の西方にある小堂にこの像(首のみ。胴は崩れた)を安置していたが、そののち、東京人形町観音寺へ移転し、そこの本尊となった』とある。「人形町ゆるりお散歩ガイド」の大観音寺で尊像を現認出来る。また、この像は別に扇ヶ谷にあった古刹新清水寺(せいすいじ)の本尊であったと伝承されていて、東京の寺院についてはいつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の「大観音寺」の頁で「中央区史」の縁起を引く中に、『大観音寺(日本橋人形町二の三)聖観音宗に属し、人形町大観音の別称は、御前立大観音像に、所在地の人形町を冠して世人が通称したのによる。本尊は丈五尺あまりの首像で青銅の蓮台上に鎮り、作者は高麗名工というが、もと源頼朝の守護仏でその室政子の創立にかゝる寿福寺とともに鎌倉屈指の霊場であった扇ヶ谷清水寺の本尊であった。明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年石田可村、山本卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし、明治九年にいたり人形町通り蠣殻町二丁目に仮堂をいとなみ、さらに同十三年二月許可を受けて、間口五間五尺五寸奥行六間四層楼の大悲閣を建立して正遷座を執行した。これより堂宇経営の基礎漸く調い、信徒の詣る者も日々に加わったが、大正大震災による劫火によって、たちまち堂宇は灰燼に帰した。以来本尊は日鮮会館の屋上に仮安置され、昭和十五年十月十七日堂容を新にし、同時に大震火災に頽れた御前立像の再鋳を行った』とある(下線やぶちゃん)。またしてもおぞましき廃仏毀釈の犠牲になりかけるも、一命をとりとめた観音ということになるのである。なお、貫・川副共著の「鎌倉廃寺事典」も同じ部分を抜粋で引き、『頼朝のことはあやふやであるけれども、鎌倉に伝わる話と合致するところもなくはないし、明治以後のことは、一応信頼出来ると思う』としている。]

 

    ●鐡觀音堂

銕の觀音の首〔長六尺〕のみを置く。是は昔堂前の井中堀得(ほりえ)しものにて新淸水〔廢寺〕寺の本尊なりしと云ふ。

[やぶちゃん注:「堀」はママ。前の「鐡井」の注を参照。「新編相模国風土記稿」を無批判に調子に乗って引き写す本『風俗画報』の最悪の箇所の一つで、前の「中央区史」にある通り、『明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年石田可村、山本卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし』た時点で、もう「鐡觀音堂」はなかった。これ、昨今の鎌倉で訳の分からない店屋やレストランがあっという間に出来てはふっと潰れるといったのとはわけが違う。十四年後の明治三〇(一八九七)年、この鎌倉ガイドブックを片手に、このありもしない堂を探した人々に対する『風俗画報』の罪は決して、軽くはない。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鍜冶藤源次助實の舊地

    ●鍜冶藤源次助實の舊地

鍛冶(かぢ)藤源次助實(とうげんじすけざね)の舊地は東慶寺の山を隔てゝ北鄰に在り。

[やぶちゃん注:「藤源次助實」鎌倉時代の名刀工とされる人物。講談社「日本人名大辞典」によれば、備前(岡山県)福岡一文字派。助成(すけしげ)の子とされ、後にここ相模鎌倉山の内にうつり「鎌倉一文字」の呼称もある。銘は「助真」。現存作のうち二口(ふたふり)が国宝で、内、一口は日光東照宮蔵の徳川家康佩刀で「日光助真」とよばれて有名、とある。「国立国会図書館協同レファレンスサービス」の鎌倉市中央図書館の「管理番号鎌中-2014032)」鎌倉市山ノ内の「藤源治(とうげんじ)」という地名の由来を知りたいのデータに「皇国地誌 山ノ内村残稿」に助真屋敷跡が山ノ内村にあったことが確認さたと出る。本誌の「鎌倉實測圖」に書き込まれた(「鍜治藤源次助直旧地」と誤っている)位置を現在の地図で調べると、鎌倉市山ノ内一三二〇‎附近で、何と生地店で「一文字」という店舗が存在することが判った。北鎌倉駅から実測で二百メートルも離れていないごく直近であるが、ここは踏破したことがない(というより、知られた案内書にもこの名は載っていないことが上記レファレンス・データからも分かる。そもそもがこの電子化で実は私は初めて知ったような気がする)。今度ここは是非、訪ねてみようと思っている。

 最後に平凡社「世界大百科事典」の「相州物(そうしゅうもの)」の項を引いて、神奈川の刀鍛冶を概観しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。下線やぶちゃん)。『相州鎌倉は一一九二年(建久三)源頼朝によって幕府が開かれてから栄えたが、刀工に関しては最古の刀剣書』「観智院本銘尽(かんちいんほんめいづくし)」に、既に保元年間(一一五六年~一一五九年)に、『沼間(逗子市)に三浦氏の鍛冶で〈三くち丸〉を作ったという源藤次(げんのとうじ)同じく〈あおみどり〉〈咲栗(えみぐり)〉を作ったという藤源次(とうげんじ)らがいたことが記されている』(この名を継承或いは通称したものらしい)ものの、『これらの刀工の作は現存せず、事実上は鎌倉中期に山城国粟田口派の国綱、備前国直宗派の国宗、一文字派の助真らが鎌倉に移住したことによって相州物の歴史は始まるといえる。だが、これらの刀工もそれぞれの派の伝統的な作風を継承するにとどまり、いわゆる相州伝といわれる特色ある作風を展開していくのは、国綱の子と伝える国光が出現してからである。国光は通称を新藤五といい、自らの作刀に〈鎌倉住人新藤五国光作〉と銘したものがのこる。鎌倉の地において鍛刀したことを明示した最も古い刀工であり』、『永仁元(一二九三)年から元亨四(一三二四)年までの年紀作が残っている。『その作風は、粟田口派の直刃を得意として、いちだんと地と刃の沸(にえ)が強くつき、刃中の金筋や砂流しなどの働きが豊富であって、ことに短刀の製作に秀で、太刀はきわめて少ない。その門人に行光と正宗がおり、正宗に至って相州伝の作風が完成された。この相州伝とは、硬軟の鉄を組み合わせて鍛えた板目に地景が入った美しい地肌と沸が厚くつき、金筋・稲妻・砂流しなどの働きが多い湾(のた)れの刃文に特色がある。正宗の作品は太刀・短刀ともに多いが、在銘作は少なく、京極家伝来の〈京極正宗〉、最上家伝来の〈大黒正宗〉、本庄家伝来の〈本庄正宗〉と号のある短刀、また尾張家伝来の名物〈不動正宗〉の短刀など数点にすぎない。正宗の子に貞宗がおり、父の作風を継いで上手であるが、比較的おだやかなものが多い。南北朝時代を代表するものに広光と秋広がおり、この両工はさらに沸を強調した皆焼(ひたつら)とよばれる刃文を創始した。室町時代の相州物は末相州物とよばれ、中でも綱広家は同名が江戸末期まで継承された。また後北条氏の城下町小田原で鍛刀した康国・康春らは小田原相州とよばれている』とある。]

アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (七) 氣違ひの茶話會

 
 
    七 氣違ひの茶話會(さわくわい)

 

 家の前の樹の下に、一つのテーブルが置いてありました。そして三月兎(ぐわつうさぎ)とお帽子屋とかそれに向つて、お茶をのんで居りました。山鼠(やまねずみ)が二人の間に坐つたまま、グウグウ混て居りました。すると前の二人は山鼠をクツシヨンにして肘(ひぢ)をその上にのせ、その頭の上で話をして居ました。「山鼠は隨分氣持ちがわるいでせうねえ。」とアリスは考へました。「でもまあ、よくねて居るから何ともないだらうけれど。」

[やぶちゃん注:「三月兎とお帽子屋」孰れも前の「(六) 豚と胡椒」で注を附したので参照されたい。

「山鼠」原文“Dormouse”。ネズミ目ヤマネ科 Gliridae のヨーロッパヤマネ属ヨーロッパヤマネ Muscardinus avellanarius 。英名は“Hazel Dormouse”であるが、本種は『ブリテン諸島に自生する唯一のヤマネ科の動物であり、単にDormouseとも呼ばれる』と参照したウィキの「ヨーロッパヤマネにある。グーグル画像検索「Muscardinus avellanariusをリンクしておく。因みに、本邦産のヤマネ(山鼠・冬眠鼠)は固有種(種小名は正に正真正銘)であるヤマネ科ヤマネ属 Glirulus ヤマネ Glirulus japonicus で別種である。参照したウィキの「ヤマネ」によれば、『現生種では本種のみでヤマネ属を構成する。別名ニホンヤマネ』とも言い、同属の化石種ならば『ヨーロッパの鮮新世の地層から発見されている』。『日本が大陸と地続きで温暖な時代に侵入した遺存種と考えられて』おり、山口県の五十万年前『(中期更新世中期)の地層から化石が発見されている』。このヤマネ(ニホンヤマネ)は『大陸産ヤマネからは、数千万年前に分岐したと推定され、日本列島に高い固有性を誇る。遺伝学的研究によれば、分布地域によって、別種と言ってよいほどの差異が見られる』とある。グーグル画像検索「Glirulus japonicusもリンクさせておくので比較してご覧になられることをお薦めする。]

 テーブルは大きなのでしたが、三人はその隅つこの方にかたまつて坐つて居ました。アリスがやつて來たのを見ると、二人が、「席がない、席がない。」とどなりました。

「あいたところは澤山あるぢやないの。」とアリスは怒つてさう言つて、直ぐに、テーブルの隅にあつた、大きな安樂椅子に腰を下しました。

「葡萄酒をお上り。」と三月兎はすすめるやうにいひました。

 アリスはテーブルを見まはしましたが、か茶の外には葡萄酒なんかありませんでした。「葡萄酒なんか見あたらないわ。」とアリスは言ひました。

「少しもないよ」と三月兎が言ひました。

「それでは、ないものをすすめるなんて失禮ぢやありませんか。」とアリスは怒つて言ひました。

「招待をうけないで坐るのは失禮ぢやないか。」と三月兎は言ひました。

「わたし、お前さんのテーブルとは知らなかつたのです。」とアリスは言ひました。「三人よりもつと多勢の爲に置いてあるんぢやないの。」とアリスは言ひました。

「お前の髮は切らなければいけない。」とお帽子屋は言ひました。お帽子屋はしばらくの間、不思議さうな顏をして、アリスをヂツと見て居たのでした。それでこれがお帽子屋の最初の言葉でした。

「人の事、あんまり立ちいつていふもんぢやないわよ。」とアリスは少しきびしく言ひました。

「ずゐぶん失禮だわ。」

 お帽子屋はこれを聞いて目を大きくあけました。けれども、それからお帽子屋の言つたことは「烏(からす)は何故(なぜ)寫字机(しやじつくゑ)に似て居(ゐ)るのだらうか。」といふことだけでした。

[やぶちゃん注:この謎かけの原文は“"Why is a raven like a writing-desk?"。研究社の「新英和中辞典」やウィキの「ワタリガラス」等によれば、“raven” は広義の大型のカラス或いはスズメ目カラス科カラス属ワタリガラス Corvus corax(カラスの通常の総称である“crow”よりも大きく、死や悪病を予知する不吉な鳥とされ、光沢の強い黒い羽毛は髪などの黒いものの比喩に用いられる(これは日本語の「烏の濡れ羽色」という形容と酷似している。因みに知られたエドガー・アラン・ポーの幻想詩篇「大鴉」の原題はこの“The Raven”である。また、本種は日本では北海道の冬の渡り鳥として観察出来る)。“writing-desk”は、引き出し付きの書き物机(通常は上部が高く傾斜している)或いは筆記道具が入っていて同時にそれが筆記台にもなる携帯用の箱のことを言う。]

「さあ、これから面白くなつてくるわ。」とアリスは考ヘました。「みんなが謎をかけはじめたならうれしいわ――あたしきつと當(あ)てられるわ。」と大きな聲でつけ加へました。

「お前がそれに答えを見つけられるつていふつもりなのかい。」と三月兎が言ひました。

「さうだとも。」とアリスは言ひました。

「それではおまへの思つて居ることを言はなければいけない。」と三月兎はつづけて言ひました。

「わたし言ひますわ。」とアリスはあわてて答へました、「すくなくとも――すくなくとも、わたしの言つてることを、わたしは思つて居るのですわ、――それは同じですわ、ねえ。」

「少しも同じぢやない。」とお帽子屋は言ひました。「それでは『わたしはわたしの食べて居るものを見ている』といふのと、『わたしの見てゐるものを、わたしはたべてゐる』といふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

 すると三月兎がそれに附け加へて言ひました。「それでは 『わたしが手に入れたものを、わたしは好きだ』と言ふのと、『わたしはわたしの好きなものを手に入れた』と云ふのと同じだとお前は言はうといふのだねえ。」

[やぶちゃん注:底本は「『わたしはわたしの好きなものを手に入れた』」の最初の二重鍵括弧が落ちている。誤植と断じて補った。]

 すると山鼠がそれにいひ加へました。それは眠つたままものを言つて居るやうに見えました。

「それでは、『わたしは、わたしがねてゐるとき呼吸をする』と云ふのと、『わたしは呼吸をするとき、寢る』と云ふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

「お前さんにはそれは同じことだよ。」(山鼠はいつも寢て居るといふことからでて來たのです。)とお帽子屋は言ひました。これで會話はおしまひになつて、みんなはしばらく默つてしまひました。けれどもアリスは自分の知つて居る限りの鳥(とり)と、寫字机(しやじづくゑ)のことをのこらず(といつてもさう澤山ではありませんでしたが)思ひ出して見ました。

[やぶちゃん注:「けれどもアリスは自分の知つて居る限りの鳥(とり)と、寫字机のことをのこらず(といつてもさう澤山ではありませんでしたが)思ひ出して見ました」の「鳥(とり)」はママ。実はここの原文は“"It is the same thing with you," said the Hatter, and here the conversation dropped, and the party sat silent for a minute, while Alice thought over all she could remember about ravens and writing-desks, which wasn't much.で(下線やぶちゃん)、明らかに原文は“ravens”で「烏(からす)」なのであるが、私は敢えてそのまま電子化することにした。無論、誤植のの可能性が非常に高く、ルビも植字工が誤植した者に校正係が勝手に「とり」とルビを振ったものである可能性がいや高いとは言えるのであるがしかし、私は(後に見るように)「烏(からす)は何故(なぜ)寫字机(しやじつくゑ)に似て居(ゐ)るのだらうか。」という、この最初の謎かけ自体が一種のアナグラムに違いないと思われること、更に穿って言うならば、ただでさえ、生物の多くの種名を挙げることなどおよそ出来ない欧米人(例えば一般の欧米人は一般の日本人のようには昆虫や魚貝類の名を個別的に挙げることが圧倒的に不得手である)の中の、そのまた中の少女アリスを想起するに、到底、カラスの種名を挙げ得ることは出来ず(尤も、私も一般的な「烏」である森林性ながら平地へも進出して勢力を拡大したスズメ目カラス科カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos 、それに次いでハシボソガラス Corvus corone しか挙げられないのだけれど。なお、我々が最もカラスらしいカラスとして認識しているハシブトガラスはヨーロッパには棲息しない)、まさに“which wasn't much”――ろくなことは思い出せませんでしたが――に決まってるからである。因みに研究社の「新英和中辞典」ではカラスを意味する単語としてカラスの総称としての“crow”を挙げ、更に大型のカラスを“raven”、中型のを“crow”,小型のそれを“jackdaw”或いは“rook”と一般に呼んでいるとある。]

 まづ口を切つたのはお帽子屋でした。「今日は何日だい。」とアリスの方を向いて言ひました。お帽子屋はそれまでポケツトから、懷中時計をとりだして、不安さうに眺めたり、時時振つたり、それから耳許に持つていつたりしてゐました。

 アリスは一寸考へて、「四日です。」と言ひました。

[やぶちゃん注:少なくともここまで物語内の時制が何月かは示されていない。冒頭の川辺の土手からエピローグのそこでのうたた寝からの目覚めという設定は春か夏であるが、イギリスは四月中旬くらいからでないと暖かくならないし、夏でも普通は日本のようには酷暑にはならない(私は十年前にアイルランドを旅した際には恐るべき暑さに閉口したが、冷房自体が殆んどの建物についていなかったのを思い出した)。さらに当時三十歳の独身(彼は生涯妻を娶らなかった)のルイス・キャロルが家族ぐるみで親しく付き合っていたリデル家(オックスフォード大学の数学講師であったキャロルの住んでいた学寮クライスト・チャーチの学寮長一家)の三姉妹、ロリーナ(Lorina Charlotte Liddell 十三歳)、アリス(Alice Pleasance Liddell 十歳:無論、彼女がアリスのモデルである)、イーディス(Edith Mary Liddell 八歳)らとともに習慣となっていたテムズ河畔をボートで遡るピクニックに出かけた一八六二年七月四日、この日に口頭で彼らに語り出したのが、まさに「不思議の国のアリス」(刊行は三年後の一八六五年十一月二十六日)のプロトタイプであったことを考えれば(以上は主にウィキの「不思議の国のアリス」に拠った)、この作品内時間は七月と考えてよい。]

「二日違つて居るよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「それでわしはバタは仕事に何の役にもたたないといつたのだ。」と怒(おこ)つた顏で、三月兎を見ながら言ひました。

[やぶちゃん注:「それでわしはバタは仕事に何の役にもたたないといつたのだ。」原文は“ "I told you butter wouldn't suit the works!"”で、原文は確かに“the works”であるが、これでは分からない話がますます分からなくなってしまう。これは「仕事」ではなく、時計という「器械」「機器」「機器構造」の謂いであろう(福島正実氏の訳も『機械』である)。時計に点す機械油の代わりに三月兎の差し出したと思われる高級バターを使ったが、結局そのお蔭で時計がおかしくなって日付が合わなくなったんだ、と批難しているのである。]

「ありやあ一番上等のバタだつたよ。」と三月兎はおとなしく答へました。

「うん、だがパン屑もいくらか入つて居たよ」とお帽子屋はぶつぶつ言ひました。「パン切ナイフなんか、入れてはいけなかつたんだよ。」

 三月兎は時計をだして、沈んだ顏をして見てゐました。それから時計を茶呑茶碗に入れてまた見ました。けれども最初の言葉通り、又、「ありや一番上等のバタだつたよ。ねえ。」と云ふよりほかにいい考へがでてきませんでした。

 アリスは物珍らしく、兎を肩越しに見て居ました。

「何んて面白い時計でせう」とアリスは言ひました。「何日(いくか)かを示して、何時(なんじ)かを示さないのね。」

「ふん、そんを用があるもんか。」とかとお帽子屋はつぶやきました。「お前の時計は年(ねん)が分るかい。」

「無論分りつこないわ。」とアリスはきつぱり答へました。「でも、それは隨分永い間同じ年で、とまつてゐるからよ。」

「それは丁度わたしのと同じだ。」とかお帽子屋がいひました。

 アリスはひどく、分らなくなつてしまひました。お帽子屋の言葉は何の意味もないやうにアリスには思へました。けれども、それはたしかに英語でした。「わたしあなたのいふことが、少しも分りませんわ。」と、できる丈(だけ)叮嚀にアリスは言ひました。

[やぶちゃん注:原文は“"Which is just the case with mine," said the Hatter.”“case”をどうとるかで意味が変わるように思われる。正しく長く年を指し続けることこそが私にとっての人生上の(人間が生きる上での――私はこれが後の方の帽子屋の台詞と関係するように思う)まさに大問題なのだ、と帽子屋は言っていると私は読むが、それが意味の上でも勿論のこと、認識の上でも理解出来ない、とアリスは言うのであろう。]

「山鼠は又寢てしまつた。」とお帽子屋は言つて、その鼻の中に熱いお茶を注(つ)ぎ込みました。

 山鼠はいらいらした様に、頭をふりました。そして目を開けないで、かう言ひました。「無論さ、無論のことさ。そりやわたしが言はうとした通りだよ。」

「お前(まへ)謎がとけたかい。」とお帽子屋はアリスの方を向きながら言ひました。

「いいえ、わたしやめたわ。」とアリスは言ひました。「答(こたへ)は何なの。」

「わたしにも、チツとも考へつかないよ。」とお帽子屋は言ひました。

「わたしにも。」と三月兎は言ひました。

 アリスは、いやになつたものですから、溜息をつきました。

「お前さんたち、そんな答のない謎をかけて、時をむだにするより、もつとそれを、上手につかふ工夫がありさうなものだわ。」とアリスは言ひました。

[やぶちゃん注:ここに至って我々は先の帽子屋の出した「烏は何故寫字机に似て居るのだらうか」という謎かけは答えがないのだとはぐらかされてしまうのである。私のような偏執的な人間はここで星一徹卓袱台とまでは行かないまでも、気持ちの悪い鬱々悶々たる思いにふさぎ込んでしまうところなのであるが、幸いなことに今回は、ウィキの「帽子屋で以下のように解説されているのに出逢って、取り敢えずは作者自身の種明かしがあってまさに眼から鱗であった(アラビア数字を漢数字に代え、注記号は省略した)。

   《引用開始》

「狂ったお茶会」のはじめのほうで、帽子屋はアリスに「カラスと書き物机が似ているのはなぜ?」("Why is a raven like a writing desk?")というなぞなぞを投げかける。アリスはしばらく考えても答えがわからずに降参するが、帽子屋や三月ウサギは自分たちにもわからないと答え、結局答えのない問いかけであったということがわかる。この本来答えのないなぞなぞは、ヴィクトリア朝の家庭の中でその答えをめぐってしばしば話題になり、一八九六年の『不思議の国のアリス』の版のキャロルによる序文には、後から思いついた答えとして以下の回答が付け加えられた。

"Because it can produce a few notes, though they are very flat; and it is nevar put with the wrong end in front!"

(訳)なぜならどちらも非常に単調/平板(flat)ながらに鳴き声/書き付け(notes)を生み出す。それに決して(nevar)前後を取り違えたりしない!

「決して」は正しい綴りは"never"であるが"nevar"とするとちょうど"raven"(カラス)と逆の綴りになる。しかしこのキャロルのウィットは当時編集者に理解されず、"never"の綴りに直されて印刷されてしまった(キャロルはこれを訂正する機会のないまま間もなく亡くなっている。このキャロルの本来の綴りは、一九七六年になってデニス・クラッチによって発見された)。

キャロルが答えを付けて以降も、さまざまな人物がこのなぞなぞに対する答えを考案している。例えばアメリカのパズル専門家サム・ロイドは、「なぜなら、どちらもそれに就いて/着いてポーが書いたから」("Because Poe wrote on both" エドガー・アラン・ポーが「大鴉」を書いていることにちなむ)、「なぜなら、どちらにもスティール(steel/steal)が入っているから」(机の脚にスチール(steel)が入っていることと、カラス(raven)という単語に奪う・盗む(steal)の意味が含まれることとをかけている)など複数の答えを提示している。

オルダス・ハクスリーは、このなぞなぞに対し、"Because there is a B in both and an N in neither. "という答えを提示している。この文は「どちらもBを含み(実際には含んでいない)、どちらにもNが含まれない(実際には含まれている)」という意味にも「both(どちらも)という単語にはbが入っており、neither(どちらにもない)という単語にはnが入っている」という意味にも読める。ハックスリーはまた、『人間の形而上学的な問いというものはいずれもこの帽子屋のなぞなぞのようにナンセンスなもので、実際にはどれも現実についてではなく、言語についての問いにすぎないと記している』。

   《引用終了》

ハックスリーの解も面白く、これは数学者であったキャロルも別解として認定してくれそうな気が私はする。]

「若しお前さんが、わたしと同じに、時と知り合(あひ)なら、それをむだにするなんぞとはいはないだらう。それぢやなくて、あの人と云ふんだよ」

[やぶちゃん注:原文は“"If you knew Time as well as I do," said the Hatter, "you wouldn't talk about wasting it. It's him."”アリス同様に「いやにな」るほど訳の分からない箇所であるが、これについて、山下稚加氏の論文「『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』における言葉遊び、マザーグースの翻訳の可能性」の「言葉遊び・キャロルが作り出した語、またはナンセンス語」のに、英語の慣用表現を巧く用いたものとして、以下の解析されてある。

   《引用開始》

ここでは、名詞を固有名詞にするという技がはいっている。' I might do something better with the timethan waste it in asking riddles that have no answers.'(もう少し時間をうまく使ったら?そんな答もないなぞなぞばかり聞いて時間を無駄にしていないで。)というアリスに、'If you know Time as well as I do, you wouldn't talk about wasting it. It's him.'(もし私と同じくらい時間と良く知り合っていたなら、それを無駄にするなんて呼び方はしないね、彼だよ。)このカッコ内の訳は自分で訳したものである。ここでは、いきなり、timeTimeと、また大文字にすることで、固有名詞にして時間さんという扱いにするところから始まる。そのあと、アリスは何のことだか分からずでも話しをすすめていく。そこで、いくつも、timeをつかった慣用表現を出して、話はどんどん違う方向にむかっていく。たとえば、beat time(拍子を打つ), killmurdertime(暇をつぶす)などをそのままの単語の意味でとって、時間をたたく、時間を殺す、など話はどんどん恐ろしくなるのだ。日本語でも、実は時間を利用した慣用表現がいくつか存在する。「時を刻む(きざむ)」「時間をつぶす」などだ。これを上手く当てはめてその続きの文を翻訳すると、

「たぶんないわね、でも、音楽を教わるときには、こうやって時間をきざむわよ」

「おぅ、それだそれ、そのせいだよ。かれだってきざまれたらかなわないよ。・・

これなら、そういう意味じゃないことは分かりつつ、うまく言葉のあやを使い面白く、理解することが可能になる。この例では、原作から日本語への翻訳は日本語にも慣用表現が存在することで、成功していると思う。

   《引用終了》

なお、福島正実氏の訳では、この帽子屋の台詞は以下のように私にとっては面白く訳されてある。

   《引用開始》

「あんたが私くらい『時間(タイム)』のことを知ってるなら」と帽子屋が言いました。「『時間(タイム)』をつぶすなんていいかたはしないものだよ。『時間(タイム)』は人間(ヒム)だよ」

   《引用終了》]

 アリスは、いやになつたものですから、溜息をつきました。

「わたし、お前さんの云ふことが分らないわ。」とアリスは言ひました。

「無論わからないだらう。」とお帽子屋は、馬鹿にしたやうに、頭をつきだして言ひました。「多分お前は時に話しかけたことはないだらう。」

「恐らくないことよ。」とアリスは用心深く答へました。けれどわたし音樂を稽古するとき、時をうつ(拍子をとる)ことを知つて居りますわ。」

「ああ、それで分つたよ。」とお帽子屋は言ひました。

「あいつは打たれるのをいやがるだらう。そこでか前があれと仲良くして居さへすれば、お前の好きなやうに時計を動かしてくれるよ。たとへて言へば、朝の九時が本を讀みはじめる時間だとすると、お前は時にちよいと小さい聲で合圖するんだ。すると目(め)ばたきするうちに、針がまはるのだ、それで晝飯の一時半といふことになるんだ。」

(三月兎は、すると小聲で獨(ひとり)ごとをいひました。「わしはそればかりのぞむのだ。」)

「それは素敵らしいわねえ。」とアリスは考へこんで言ひました。「でも、さうなると――それでお腹(なか)までへるといふことはないでせう。」

「多分初めはないだらう。」とお帽子屋は言ひました。「だがお前さへその氣になりや、一時半に合(あは)す事が出來るやうになるさ。」

[やぶちゃん注:「だがお前さへその氣になりや、一時半に合(あは)す事が出來るやうになるさ。」の初めの鍵括弧は底本にはない。誤植と断じて加えた。]

「それがお前さんのやり方なの。」とアリスは尋ねました。

 お帽子屋は悲しさうに頭をふりました。「わたしにはやれないよ」と答ヘました。「わたし達はこの三月に、喧嘩をしたのだ。丁度あれが氣違ひになるまへにさ――。」(とお茶の匙で三月兎を指ざしながら)――「ハートの女王主催の大音樂會があつた時だつたよ。それにわしも歌はなければならなかつたのだ。

 

  「ひらり、ひらり、小さな蝙蝠(かうもり)よ、

   お前は何を狙つて居るの。」

「お前この歌を知つて居るだらうねえ。」

「わたし聞いたやうよ。」とアリスがいひました。

[やぶちゃん注:福島正実氏の訳ではここにこの歌詞が『有名な「きらきら星よ」の替え歌』である旨の割注が入っている。「きらきら星よ」はこの主題によるモーツァルトの変奏曲で知られるあれである。ウィキの「きらきら星によれば、この原曲は十八世紀末の『フランスで流行したシャンソン"Ah! Vous dirais-je, Maman"(あのね、お母さん)の日本語名(邦題)。イギリスの詩人、ジェーン・テイラーの』一八〇六年の『英語詩 “The Star” による替え歌"Twinkle, twinkle, little star"(きらめく小さなお星様)が童謡として世界的に広ま』ったものとある。]

「次はかうなんだ、ねえ。」とお帽子屋は歌ひつづけました。

 

 「世界の上を飛び廻り、

    まるでみ空(そら)の茶盆(ちやぼん)のやうだ。

      ひらり、ひらり――」

 

 そのとき山鼠が身體(からだ)をふつて、睡りながらうたひました、「ひらり、ひらり、ひらり、ひらり――。」いつまでたつてもやめませんでしたから、みんなは抓(つね)つてやめさせました。

「さて、わしはまだ第一節を歌ひきらない中(うち)にだね。」とお帽子屋は話しだしました。「女王はどなりだしたんだ。『あの男は時(とき)を殺(ころ)して居る。首を切つてしまへ』つて。」

「まあ、なんてひどい野蠻(やばん)なのでせう。」とアリスは叫びました。

「それ以来ズツと、」とお帽子屋は悲しさうな聲で言ひつづけました。

「あいつは、わたしの賴むことをしてくれないのだ。それでいつでも六時なのだよ。」

[やぶちゃん注:紅茶の国イギリスではハイ・ティーHigh teaと言って午後六時頃に勤めから帰った主人が家族とともに紅茶を飲んだ。これは通常はそのまま夕食となった。名称は居間のロー・テーブルではなく、食堂のテーブル(ハイ・テーブル)で飲むことに因ると日本コカコーラ公式サイト内「紅茶花伝」の「紅茶辞典」の「紅茶の一日」にある。]

 それでアリスは、ハツキリと一つの考へが浮んできました。「それでここにこんなにお茶道具がならんで居るのですか。」と尋ねました。

「うん、さうなんだよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「いつでもお茶の時刻なんだ。それで、お茶道具を洗ふ時間なんてないんだよ。」

「それぢやお前さんは、いつもぐるぐる動きまはつて居るのねえ。」とアリスは言ひました。

「その通りだ。さうきまつてしまつたのだから。」とお帽子屋は言ひました。

「けれどもいつお前さんは初めにかへつていくの。」とアリスは元氣をだして尋ねました。

「話の題を變へるといいなあ。」と三月兎はあくびをしながら、口を入れました。「わしにこの話にはあきてきたよ。若い御婦人に一つ話しだしてもらひたいよ。」

「わたし話なんか知らないことよ。」とアリスはこの申し出に一寸驚いて言ひました。

「それでは山鼠が話さなければいけない。」と二人が言ひました。「目をさませよ、山鼠」かう言つて二人はその横腹を兩方からつねりました。

 山鼠はそろそろと目を開けました。「わしは寢入つてなぞゐやしないよ。」としやがれた細い聲で言ひました。「わしはおまへ達が話してた言葉は一一聞いてゐたのだよ。」

「何か話を聞かせないか。」と三月兎は言ひました。

「さあ、どうぞ、か願ひします。」とアリスか賴みました。

「さあ早くやれよ。」とお帽子屋はつけ加へました。

「さうでないと、話がすまないうちにまた寢てしまふからなあ。」

「むかし、むかし三人の小さい姉妹(きやうだい)がありました。」と、大急ぎで山鼠が話しだしました。「そしてその子たちの名前は、エルジーに、レーシーに、チリーといひました。三人は井戸の底にすんでゐました――。」

「その人達は何を食べて生きてゐたの。」とアリスはいひました。アリスはいつも食べたり飮んだりすることに大層興味を持つてゐました。

「その人たちは砂糖水(さたうみづ)をのんで生きてゐたよ。」と山鼠は少しの間(あひだ)考へて言ひました。

「それでは暮していけなかつたでせうねえ。」とアリスはやさしく言ひました。「病氣になつたでせうねえ。」

「さうなんだよ。」と山鼠が言ひました。「大層わるかつたよ。」

 アリスは、こん風變りなくらし方をしたら、どんなだらうかと一寸考へてみましたが、あまり妙に思へたものですから、つづけて尋ねました。

「では、なぜその人達は井戸の底で暮してゐたの。」

「もつとお茶をお上り。」と三月兎はアリスに熱心にすすめました。

「わたしまだ何にも飮んでゐませんわ。」とアリスは怒つて言ひました。「それだから、もつとなんて飮みやうがないわ。」

「お前はもつと少しは飮めないと云ふんだらう。何にも飮まないより、もつと多く飮む方か大層樂だよ。」とお帽子屋がいひました。

[やぶちゃん注:原文は“"You mean you can't take less," said the Hatter: "it's very easy to take more than nothing."” これは直前の"so I can't take more."というアリスの言い方の揚げ足を取っているようだ。福島正実氏の訳は、『「あんたのいうのはもっと少なくは飲めないという意味だろう」と、お帽子屋がいいました。「ゼロよりもっと多く飲むのは、わけないじゃないか。」』となっている。]

「誰もお前さんの意見なんかききはしないよ。」とアリスが言ひました。

「さあ、人の事をたちいつて喋(しやべ)るのは誰だ。」とお帽子屋は得意になつてたづねました。

 アリスはこれに何と言つてよいか全く分りませんでした。それでアリスは自分でお茶とバタ附パンをとり、それから山鼠の方をむいて又、質(たづ)ねました。「なぜ井戸の底に住んで居たの。」

 山鼠は又一、二分考へてから言ひました。「それは砂糖水の井戸だつたのだ。」

「そんなものはないわ。」とアリスは大層怒つて言ひだしました。お帽子屋と三月兎とは「シツ、シツ。」と言ひました。すると山鼠がふくれていひました。

「もしか前さんが、禮をわきまへなければ、自分でそのお話のけりをつけた方がいいよ。」

「いいえ、どうか先を話して下さい。」とアリスは大層おとなしくいひました。

[やぶちゃん注:最後の句点は底本にはないが補った。]

「わたしもう口出しなんかしませんわ。一つ位(くらゐ)そんな井戸があるかも知れないわね。」

「一つだつて、」と山鼠は怒つていひました。けれどもつづけていふことを承知しました。「さてこの三人の姉妹(きやうだい)は――この三人の姉妹(きやうだい)は、汲みだすことを覺えました。」

[やぶちゃん注:原文は“"One, indeed!" said the Dormouse indignantly. However, he consented to go on."And so these three little sisters—they were learning to draw, you know——"”福島正実氏の訳では後者の部分は『「それで、この三人の姉妹は――、みんな絵を描く(ドロー)のをならっていましたので――」』(「ドロー」は「絵を描く」全体のルビ)とある。以下、次のアリスの台詞が『「その人たちは、何の絵を描(ドロー)いてたの?」』(「ドロー」は「絵を描」の部分のルビ)となり、次の帽子屋の台詞で初めて『「糖蜜を汲んで(ドロー)いたのさ」』(「ドロー」は「汲んで」全体のルビ)と初めて汲むが出る。本訳では“draw”の意味の言葉遊びによる半可通状態が全く訳し出されていない。]

「何を汲みだしたの。」とアリスはさつきの約束を、スツカリ忘れて言ひました。

「砂糖水をだよ。」と山鼠は今度は、チツトも考へないで言ひました。

「わたしはきれいな、コツプが欲しい。」とお帽子屋が口を入れました。「みんな場所を變へようぢやないか。」

 お帽子屋はかう言ひながら動きだしました。山鼠があとにつづいていきました。アリスは少しいやいやながら、三月兎のゐた場所へ坐りました。席をかへた事で得をしたのは、お帽子屋だけでした。アリスは前ゐたところよりズツト惡い場所でした。といふのは三月兎が、今しがたミルク壺を皿の上でひつくり返したからでした。

 アリスは山鼠を、おこらしてはいけないと思ひましたので、大層氣をつけて話しだしました。

「けれども、わたし分らないわ。その人達はどこから、砂糖水を汲みだしたのでしやうねえ。」

「お前さん淡水(まみづ)は、淡水(まみづ)の井戸から汲みだすだらう。」とお帽子屋はいひました。「それぢや砂糖水は、砂糖水の井戸から汲めるわけぢやないか、――え! 馬鹿!」

「でもその人達は井戸の中にゐたんでせう。」とアリスは今お帽子屋のいつた終(しま)ひの言葉には、氣づかないやうな風をして、山鼠にむかつて言ひました。

「無論井戸の中にゐたのさ。」と山鼠はいひました。

[やぶちゃん注:この山鼠の最後の台詞は原文は“well in.”と短い。これは前のアリスの“But they were in the well,”という疑義の言葉尻を食って捻ったものらしい。福島正実氏は前のアリスの台詞を『だけど、姉妹は井戸の中(イン・ザ・ウェル)にいたのよ。』(「井戸の中」全体にルビ)とし、それを受けて『ずっと深くね(ウェル・イン)。』(カタカナは全体のルビ)となっている。また「ポポロ工作室の小さな教養図書館@西の『不思議の国のアリス』 東の『かぐや姫』 ファンタジー世界へ誘う傑作集」(Atelier Popolo 編集)の訳では、『彼女たちは井戸《well》の中で快適《well》に過ごしているんだよぉ。』」となっており(グーグル・ブックスで視認)、青空文庫の大久保ゆう氏の訳「アリスはふしぎの国で」では、『「もちろんせまい。」とヤマネ。「だからそこそこに。」』と粋に洒落ている(因みに、大久保氏は諸氏の多くが「描く」と訳す“draw”を、「かきわける」という語で統一して処理している)。]

 この返事は可哀想(かはいさう)なアリスを、ますます分らなくさせたものですから、アリスはもう口を入れないで、しばらくの間(あひだ)山鼠に勝手にしやべらせてゐました。

「姉妹(きやうだい)たちは、汲みだすことを覺えました。」と山鼠は大層睡たかつたものですから、欠伸(あくび)をして目を擦(こす)りながら言ひました。

「いろんなものを汲みだしました。――M(エム)の字のつくものは何んでも。」

「どうしてMの字のつくものを。」とアリスが言ひました。

「何故それではいけないといふのだ。」と三月兎が言ひました。

 アリスは默つてしまひました。

 山鼠はこの時兩眼(りやうがん)をとぢて、コクリコクリと睡り始めました。けれどもお帽子屋につねられたのでキヤツと言つて目をさましました。そして言ひつづけました。「――先づMの字で始まつて居るものは、鼠わなMouse traps(マウス・トラツプ)、お月さま(Moon(ムーン))、もの覺え(Memory(メモリー))、それから、どつさり(Muchness(マツチネス))、――それにお前も知つてゐる、似たり寄つたり(Much of Muchness(マツチ・オブ・マッチネス))といふものをさ。お前今までに「似たり寄つたり」を汲みだすのを見たことがあるかい。」

[やぶちゃん注:「鼠わな(Mouse traps(マウス・トラツプ)、」の読点は底本にはないが補った。「Much of Muchness」は辞書で見ると、「Much of a Muchness」が英語表現として正しく、実は原文もちゃんとそうなっているのであるが、訂するとルビがおかしくなるのでママとした。福島正実氏の訳では何故か、『似たり寄ったり(Much of the Muchness)』となっており、先に出した「ポポロ工作室の小さな教養図書館@西の『不思議の国のアリス』 東の『かぐや姫』 ファンタジー世界へ誘う傑作集」の訳では、本書と同じ綴りでしかも『「Much of Muchness《=もうたくさん》」』としている(同訳では前の「Muchness」も「Muchness《=とてもたくさん》』としている)。序で乍ら、次のアリスの台詞の中間部の「アリスは全く」の箇所は底本では「アリスはは全く」となっているが衍字と断じて除去した。しかしここにきてこれ、Mのつくものを――汲みだす――ではそれこそ文意を汲むことが出来ぬ。これはやはり――描く――でなくては無理がある。]

「おや、おまへさん今、わたしにものを訊(き)いたのねえ。」とアリスは全くこんがらがつていひました。「わたし知らないわ――。」

「それぢや、お前は話をしていけない。」とお帽子屋が言ひました。

 この失禮な言葉でアリスはもう我慢ができなくなつてしまひました。で、すつかり怒つて、立ち上つて歩きだしました。山鼠は直(すぐ)に寢入つてしまひました。他(ほか)のものはアリスの出ていくのには、氣をとられてゐないやうでした。けれどもアリスは呼び返されるだらうと思つて、一、二度振り返つて見ました。一番しまひにふり返りましたとき、二人は山鼠を急須(きふす)の中に入れようとしてゐました。

「とにかく、わたしはもう決して、あすこへいかないわ。」とアリスは森の中をテクテク歩きながら言ひました。「あんな馬鹿げた茶話會には、わたし生れて初めていつたわ。」

 丁度アリスが、かういひましたとき、気がついて見ると一本の樹に戸がついてゐて、その中に入れるやうでした。「ずゐぶん珍らしいのね。」とアリスは考へました。「でも今日は何から何まで、珍らしづくめだもの。だからやつぱり又、直(すぐ)入つてみてもいいと思ふわ。」さういつてアリスは内へ入つていきました。

 又もやアリスは、長い廣間の内にでました。そしてすぐ側(そば)にガラスのテーブルがありました。「さあ、今度はうまくやれさうだわ。」と獨(ひとり)ごとを言ひながら、金(きん)の鍵を手にとつて、庭につづいて居る戸をあけました。それからアリスは、背(せい)が一尺位(ぐらゐ)になるまで、蕈(きのこ)をかぢり始めました。(アリスは蕈をポケツトに入れてゐたのでした)。それから小さい廊下を通つていつて、そして目の覺(さ)めるやうな花床(はなどこ)や、凉しい泉水のある綺麗な庭にでていきました。

2015/07/29

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅳ) 大正元(一九一二)年 (4)

 十一月二十一日 木曜 

 

朝先生を訪ふ。槳基さし易經を讀み午飯に豚を喰ひて歸る。

 

柳散るや隣の狂女物凄き(國)聲許りして此日暮れつゝ

 

あそこから月が出るらし雜木森

 

又土耳古負けた相など月見哉

 

鳴かず飛ばず故郷で四度月見哉

 

云ひけらく寺に柚味噌禪の味

 

歸りて即興帳を作りて駄句る

 

いひけらく寺に柚味噌禪の味(國)

 

かさかさと壁にすれ合ふ糸瓜哉

 

[やぶちゃん注:「かさかさ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

秋雨を軍歌で歸る兵士哉

 

大佛の顏大きなる枯木立(國)

 

古枯や乾坤捲いて何處へか(國)

 

木枯の吹き殘しけり柿一ツ

 

かしこけれどみあとなつかし菊畑

 

 

[やぶちゃん注:同日文日記全文。「槳基」はママ。他の箇所でも久作は将棋をこう書いている。四箇所に出る「(國)」は何を意味しているのか不詳。謂わずもがな乍ら、「歸りて即興帳を作りて駄句る」は日記本文である。]

 

 

 

 十一月二十二日 金曜 

 

 今日は祖母君の二七日なり。人の一生は日記帳の如し元來白紙のみ。自がじし書き込むなり。生死も亦記事に過ぎず。然れ共維は佛家の説なり。吾之をとらず。

 

 夜長く表紙つめたし日記帳

 

[やぶちゃん注:以下、『午后九時父上歸り給ふ。』(改行)『千葉の地面買決定、奈良原外出の報告』が日記全文。]

 

 

 

 十一月二十三日 土曜 

 

○木枯や四十八灘一息に

 

○木枯の吹き出づる方や沖の島

 

○凩の行衞や何處雲萬里

 

○寢ころべば野菊を雲の行きかひて

 

○靜けさを何に驚く夜長哉

 

○秋の空高天ケ原は其上に

 

○躓いて親指痛し秋の暮

 

 

 

 

 十一月二十四日 日曜 

 

○菊畑此處よりにげし狂女哉

 

○凩や昨夜の夢ももろ共に

 

○木枯しや勘當されし子の行ヱ

 

○茅わけて山へと去りぬ天狗風

 

○鬼ごつこ男にげ込む菊畑

 

○桐の葉で下駄の汚れをぬぐひけり

 

○柳散りて行きつ歸りつ小守哉

 

 

 

 十一月二十五日 月曜 

 

○寢るに惜しき炭火に語り明しけり

 

○百舌の聲須彌壇上の一句哉

 

○小供落ちて無花果熟れて盲井戸

 

[やぶちゃん注:「盲井戸」は「めくらいど」であるが、所謂、筒井筒を持たない、ただすっぽりと開いている井戸を指すようである。古い地誌書を調べると板やコンクリートなどで蓋をしたものとは別に「めくら井戸」という語が並列して出るが、これは井戸の上に吸水システムを作って井戸そのものは地面の下に封鎖してしまうか建物の床下に隠してしまう井戸を指しているように読める。]

 

○通夜の夜や佛のみ覺めて菊の花

 

○木枯や枕に寄する備前物

○袖を眼に鬼燈膝に落しけり

 

○馬の糞喰ひたるあたり女郎花

 

○笛吹いて汽車走り行く枯野哉

 

○木枯や雨戸おそろし夜もすがら

 

〇阿蘇の烟南へ十里秋の風

 

 

 

 十一月二十六日 火曜 

 

〇山里夕日靜に柿の數

 

 

 

 十二月三日 火曜 

 

有り難や木佛金佛阿彌陀佛叩く木魚の音はぽんぽん

 

[やぶちゃん注:「ぽんぽん」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 十二月四日 水曜 

 

火事止みて犬の聲絶えて風過ぎて

 ひややかに殘る冬の夜の月

 

 

 

 十二月八日 日曜 

 

木枯の雲も木の葉も捲き去りて晴れたる朝日心地よき哉

 

寂しさを打てや長谷寺の鐘のこゑ鎌倉五山冬の夜の月

 

吹き散らせ天地も共に木枯よ憂に重き吾命をも

 

 

 

 十二月九日 月曜 

 

茶菓子あり火あり炭あり夜長哉

 

[やぶちゃん注:これを以降の年末の日記には詩歌類は載らない。]

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅲ) 大正元(一九一二)年 (3)

 

 十月八日 火曜 

 

祖母君を看につどうみうち人

 見れば昔を思ひ出でけり

 

秋の夜半湧き立つ蟲の聲ひろき

 中に浮べる有明の月

 

みつむれば不氣味になりぬ秋の月

 

 

 

 十月九日 水曜 

 

◎放屁六歌仙(玉井の許より眞面目なる歌を送り來れる返し)

一、世の中にしかめて笑ふもの一ツ詰込みすぎし鐡砲の音。

二、野も山も黃色き色に染めなして空に澄ませる秋の夜の月。

三、吾ならで誰をか嗅がん夜着の中音をも香をもしる人ぞしる。

四、屁を放れば臭いものとはしり乍ら止むに止まれぬ大和魂

五、飯も茶も斯くなるものか腹の中本來空の佛とひと聲

六、心なき身にもあはれはしられけり音も香もなき秋の一ツ屁

 

[やぶちゃん注:「玉井」不詳。]

 

 

 十月十日 木曜 

 

〇秋日さす鎭守の森に百舌の聲

〇晝もなほ蟲のこゑきく頃となりぬ遠く隔る友をしぞ思ふ。

〇出で舟の行衞や何處しら雲の水に沈める秋の海原

〇鬼神も夫婦の仲も和らぐる屁にまさる歌あらじとぞ思ふ。

〇遠からば音にもきけや百舌鳥の聲金風百里武藏野の原

 

[やぶちゃん注:「金風」老婆心乍ら、「きんぷう」とは秋風のこと。五行説で秋は金に当たることに因る。]

 

 

 十月十一日 金曜 

 

〇遠からば音にもきけや都鳥金風百里武藏野の原

〇男の子らよ夢と思ふな天地の力の凝此身心をば

 

[やぶちゃん注:前歌は前日の改作であるが、語呂は良くなった代わりに陳腐化し、百舌の鋭いSEの方が遙かに好ましいと私は思う。後者下の句の読み方が私には分からない。]

 

 

 

 十月二十日 日曜 

 

長谷寺の鐘に枕をもたぐれば窓に棚引く朝やけの雲

見渡せば岬に寄する白波に夕陽くだくる秋の海原

山舟の行ヱや何處白雲の果に連る秋の海原

 

[やぶちゃん注:「山舟」意味不詳。]

 

 

 

 十月二十六日 土曜 

 

 花も實も斯くなるものか冬木立とかや。祖母君の病に侍りて只夢の如く幻の如く折々の苦痛を訴え給ふ傍歌(小時の名)早くお母さん子供を取つておやり。晚飯も喰はず守りしよろうが。早く入れておやり。誰が命のお山も同じ事。さてふずに行かう。手を引いて。早く早く。皆早くお休み。夜遲くなると朝ねむい。何事となく平生の口癖を仰せらるをきゝて枯木の如き頰に熱の爲に紅をさし。瘠せたる手を擧げて何事か爲給はむとするを見れば生命とはかゝるものかと思ひて佛家の言のまことなるかと思はれつ。

 田の中に棄てた大根の花盛り。

 

[やぶちゃん注:以上は二十六日の日記全文である。この四日前の十二十二日より二日ほど、小康状態にあった祖母が昏睡に陥った。二十四日朝には覚醒して会話もするようになったが、徐々に様態は悪化している雰囲気が日記から伝わってくる。この前日の二十五日 (金)の条には、『今日も昨日と同じ御容態なり。「便所に連れて行つて何卒、早く早く、拜むから。よう」藥口癖の如く仰せらる。朝の程より雨なり。秋も早や半過ぎたりと覺し。今年は正月元日に弟死に七月に父病み今月は祖母君の病篤し。御大喪乃木將軍の死何れにしても面白からぬ年なりき』(全文)と記している。祖母友子のそれは一種の譫言(うわごと)で、脳に障害をきたし始めている様子である。「傍歌(小時の名)」というのがよく分からないのであるが、夢野久作は祖父三郎平とこの祖母友子(厳密には継祖母)の寵愛を受けて育ってたのだが、久作の母は家風に合わないという、真相はよく分からない理由によって久作二歳の時に離縁させられている(婚姻の際にはこの祖母友子が懇請して彼女を貰っているにも拘わらずである)。この久作の実母は――高橋ホトリ――という。この実母の「ホトリ」と「傍歌」の「傍」には何か関係があるか? 因みに夢野久作の本名は直樹である。]

 

 

 

 十月二十九日 火曜 

 

 衛祖母樣本日朝來軟便二回通薬物の效力を認む。脉迫八十。六度二三分。覺め給ふも眠り給ふも唯夢の如く幻の如く覺むるとも無くねむるとも無し。いと果敢なき心地す。

 午前中奈良原君と海岸を散歩す。

 祖母君の此頃の御詞譫言にはあれ常に可愛相にとか本統にねとか。早く助けておやりよとか一般に同情的なるが多し。曽子の言の眞なるを覺ゆ。

 ○古き世の古き光の姿して

   うつろひて行く秋の夕暮

 

[やぶちゃん注:同日分日記全文。「脉迫」はママ。

「奈良原君」親友奈良原牛之助であろう。頭山満の同志で「玄洋社の殺人鬼」と称された奈良原到(いたる)の子である。

「曽子の言」「論語」の「泰伯」篇にある、『曾子言曰、「鳥之將死、其鳴也哀。人之將死、其言也善」。』(曾子言ひて曰く、「鳥の將に死なんとす、其の鳴くや、哀し。人の將に死なんとす、其の言ふや、善し」と。)を指す。]

 

 

 

 十一月四日 月曜 

 

○事毎に知らでは止まじ知りたらば遂げでは止まじ

○云はね共早しる人の來りけり手を携えて共に行かむと

○腹を立てるが倒れる始め。苦勞したのも水の泡。

○春は三月櫻の花を咲くも散らすも雨に風

○姫百合の花も実も無き心もて雨にしをるゝ姿やさしさ。

○裏表ないとは云へど妾が心單二重じや御座んせぬ。□□思がね真綿なら。〆て上げ度い主の首。(を綿にして着せて上げ度い絹布団。)

 

[やぶちゃん注:同日分日記全文。「じや」はママ。「□□」は底本の判読不能字。]

 

 

 

 十一月二十日 水曜 

 
歸りの汽車中にて

 寂しさに留守を柿喰ふ女哉

 ⦅雪殘る山嶺を連ねて越後哉 東洋城⦆

 悲しさや黄菊白菊祖母の墓

 芭蕉塚誰が參ゐりけむ菊一枝

 霜深き雜木林の野菊哉

 眼覺むれば障子にうつる吊し柿

 小春日や障子に座せし母の影

 粥洗ふ土鍋にたかる目高哉

 釣場まで川添ひ三里蘆の花

 

[やぶちゃん注:同日分全文。「松根東洋城」は漱石門下の俳人(俳号は本名の豊次郎を捩ったもの)。伝統的な品格を重んじ、幽玄・枯淡を好んだ。句に「春雨や王朝の詩タ今昔」等。久作より十一年上で、この当時は宮内庁の役人であった。芥川龍之介は彼をリスペクトしていた。

 この前日の十一月九日(土)に祖母友子が逝去した(同日分日記は『此日午后九時祖母君逝き給ふ。』とあるのみ)。その前日の十一月八日(金)の日記には以下のようにある(全文)。

   *

 此夕祖母君の脉膊稍怪くどよめき始めぬ。東京に金策に出でし父上歸り給ひ折柄知らせによつて馳けつけし醫師竹内氏と共に皆枕頭に集まりぬ。祖母君は昏々として寐上に寢ね給ふ。御色愈白く御姿益々氣高く唯輕く喘ぎ給ふのみ。血と粘液を交えたる殆ど眞赤なる便臭なき便を排泄し給ふ。醫默して言はず。父も決然と起ちて次の間に退ぞきぬ。噫二十有四年父よりも母よりも吾を撫育し給ひし祖母上も遂にかくならせ給ふ。男乍ら胸迫りて得堪えず。

 夜半人無き折竊に耳に口つけて強く低く御祖母さんと呼びしに半ば眼をあけて此方を見給ふ。手を捏るに握りかへし給へり。以て生涯の記念とす。

   *

と記している。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 元箱根から静岡を経て名古屋へ到着

M649

図―649

 

 翌朝は八マイルを駕籠で行く可く、夙(はや)く出発した。この運輸の方法は、如何に記述しても、それがどんなものであるか、まるで伝えない。第一、一台の駕籠に人が三人つき、彼等はかわり番に仕事をする。四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした。箱根には――恐らく他の場所でも同様であろうが――外国人向きにつくった、余程長く、そして重い特別な駕籠がある。彼等は駕籠を担って、道路を斜に行く(図649)。更代は屢々行われる。二人がかつぎ出して、坂路では約九十歩、平地では百四十歩を行き、そこで持っている竹の杖で駕籠を支えて肩を更え、再び同じ歩数を進むと、予備の男が前方の男と更代し、更に肩を更えた後、前に駕籠を離れた男が、後方の男と更代する。坂を下りたり、平地を行ったりする時には、彼等は一種のヒョコヒョコした走り方をし、連続的に奇妙な、不平そうな声を立てる。各人の肩にかかる重さは、すくなくとも百斤はあるが、これで休みなく、坂を上下して、八マイルも十マイルも行くのだから、体力も耐久力も、大きにある訳である。

[やぶちゃん注:この649図面白い。図だけを示して「何が書いてあるか?」ってちょっと人に質問してみたくなる。

「八マイル」十二・八七キロメートル。

「四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした」「第三章 日光の諸寺院と山の村落 9 モース先生駕籠に乗る――その決死のスケッチ!」を参照。

「百斤」既注。原文“a hundred pounds”。約四十五・三六キログラム。

「十マイル」十六・〇九キロメートル。]

 

 この陸路の旅の旅程記を記憶することは困難であった。我々にはある日が一週の何曜日であるか一月の何日目であるか、判らなくなって了った。ある時駕籠旅行は素晴しく、ある時は飽々させた。美しい景色を見た。広くて浅いい河にかけた長い橋をいくつか渡った。興味のある茶店で休んだ。そしてあらゆる時に、この国民を他のすべての上に特長づける、礼儀正しい優待を受けた。我々は随所で、古い陶器や絵画やそれに類したものを探して、一時間前後を費し――浜松と静岡には一日いた――名古屋には数日滞在した。この旅行で気のついたのは、我々が泊った旅舎の部屋が、標語或は所感で装飾してあることで、そしてそれ等は翻訳されると必ず自然の美を述べたものか、又は道徳的の箴言、訓戒かであった。酒を飲む場所にあるものでさえ、これ等の題言の表示する感情は、非常に道徳的なものである。私は日本では酒場は見たことが無いが、これ等の上品な所感や、道徳的な格言を見た時、我国に於る同程度な田舎の旅籠(はたご)屋と、公開の部屋部屋で普通見受ける絵画とを、思い出さずにはいられなかった。このような所感の多くは、支那の古典から来ている。四つか五つの漢字が、如何に多くを伝えるかは、驚くばかりである。一例として、ここに Facing water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたものがあるが、これを我々の言葉で完全に述べると、「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」ということになる。これがどこ迄正しいか私は知らぬ。翻訳は我々の通辞がやったのである。

[やぶちゃん注:「Facing water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたもの」「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」この五字から成る漢文(詩文?)は一体何だろう? いろいろ考えてはみたのだが、完全にぴったりくるものを私は想起し得ないのである。「荘子」みたような、禅語みたような……さても識者の御教授を切に乞うものである。]

 

 駿河の国の静岡に到着した時、そこでは虎列刺(コレラ)が流行して、一日に三十人も四十人も死んでいた。大きな旅館は閉鎖してあり、我々は大分困難した上で、やっとその一つに入ることが出来た。主人は、万一虎列刺に因る死人が出ると、それが大きに彼の旅館の名声を傷つけるといった。我々は人力車を下りもしない内に、既に手早く消毒されて了った。人々は誰でも、簡単な消毒器を持っているらしかった。これは石炭酸の薄い溶液を入れた、小さな鉄葉(ブリキ)の柄杓の上部に、ハンダで鉄葉の管をつけた物である。他の場所でも我々は、まるで我々が病毒を持って来たかの如く消毒液の霧を吹きかけられた。ドクタア・ビゲロウはある所で、一軒の家の入口に立っていた男が、彼に向って、宛かも刀で彼を斬り倒すような、力強い身振をしたといった。このような敵意のある示威運動は、極めて稀にしか行われぬことである。私はたった一度しか、これに似た敵意を含む身振を経験していない。東京で娘と一緒に歩いていた時、ゆっくりと千鳥足で歩いて行く三人の男を追い越した。我々は人に追いつき、そして断らずに彼を追い越すことが、失礼であるとされているのを知らなかった。我々の無礼を憤った一人は、先へ走って行き、振り向いて路を塞ぎ、我々を斬り倒す如く、空想的な刀を空中に振り上げた。彼の二人の仲間は、笑いながら彼を引き捕えて、連れ去った。明かにこの男は、多少酔っていたのである。ドクタアがこの経験をした直後、田舎路を歩いて行くと、二人の中年配の、相当な身なりをした日本人が、通り過ごす我々に向って、非常に丁寧なお辞儀をした。有賀氏は、この行為は彼等の外国人に対する尊敬を示すものであるといった。

 

 我々は静岡で二泊し、まる一日を蒐集に費した。私は目的物がありそうな所へは、どこへでも入り込んだ。悪疫の細菌を持っていそうな物を決して食わず、また、これは元来日本ではめったにやらぬことだが、水を飲まぬように、常に注意している私には、この流行病はすこしも恐しくなかった。翌朝夙く我我はバネの無い、粗末な、ガタガタした駅馬車で出立し、およそこれ以上の程度のものは想像も出来ぬ位ひどく揺られた。正午、高い丘の脈の頂上に達した時、ドクタアは愛想をつかして馬車を思い切り、私もまたよろこんで彼の真似をした。フェノロサと有賀とは旅行を続けたが我々は午後三時迄仮睡し、各々二人引きの人力車をやとって、遠江の浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った。その晩我々は富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊を見た。彼等は道路に面して開いた大きな部屋を占領して、円陣をつくっていた。一人一人、手に固い扇子を持ち、それで拍子を取ってから、妙な踊と唱歌とをやったのであるが、先ずある方向を向き、次に他の方向を向き、円陣は一部分回転した。それは気味の悪い、特異的な光景であった。踊り手達は、我々が彼等の演技に興味を持ったことをうれしく思ったらしく、私に一緒に踊らぬかとすすめた。彼等は白い布で頭をしばっていた。この踊をする前に、私は彼等が二階の一室で、跪き、踊り、歌を唄うのを見たが、これは明かに富士の為に下稽古をするものらしかった。

[やぶちゃん注:「遠江の浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った」の「我々」は先に着いていたフェノロサと有賀と合流した「我々」である。

「富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊」この人々の恰好は確かに富士講のそれであるが、この踊りは何だろう。山王を祭るものや時宗の踊り念仏にも似ているように思われるが、私にはよく分からない。こうした祝祭の踊りが当時の富士講での成就歓喜の当たり前のものであったものか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

 幾分、憂欝な雰囲気で気をめいらせながら、虎列刺に襲われた浜松を後にした我々は、途中急な溪谷へさしかかり、車夫達は人力車を曳き上げるのに苦しんだ。半分ばかり登ったところで我々は、如何にも山間の渓流と見えるものが、谷の側面を流れ落ちるのに出合つた。フェノロサと私とは、誘惑に打ち勝つことが出来ず、ドクタア・ビゲロウがその水を飲むなというのも聞かず、僅かではあるが咽喉を通した。すると水は、如何にも気がぬけていて、美味でない。やがて谷の頂上に達すると、そこには広々とした水田があり、我々が山間の溪流だと思ったのは、この水田の排け水だったのである! 我々がどんなに恐れ驚いたかは、想像にまかせる。

[やぶちゃん注:この場所を特定出来る方、よろしく御教授下さい(藪野直史)。]

 

 翌日は人力車で豊橋まで行き、次の朝には陶器狩りをやって、よい品をいくつか手に入れた。その次の朝は十時に出発し、夕方大都会名古屋に着いた。ここで我々は四日滞在し、ドクタア・ビケロウは漆器と刀の鍔を、フェノロサは絵画をさがし、私は陶器を求めて、あらゆる場所を探索した。私が陶器いくつかを買い求めた、権左と呼ぶ人のいい老人は、私の探索に興味を持ち、我々をこの都会の一軒の骨董屋から他の骨董屋へと案内する役を買って出た。物を買うごとに口銭を取ったかどうか私は知らぬが、とにかく彼は我々の包みを持ち、あまり高いと思うものは値切り、彼が連れて行ってくれねばとても判らぬような場所へ我々を案内し、商人共に彼等の宝物を我々の部屋へ持って来させ、最後に私が買った陶器を荷づくりすること迄手伝った。これは二つの大きな箱に一杯になったのを、東京へ送った。我々が泊った旅館には、大きな卓子(テーブル)や椅子があり、非常に便利だった。商人達はしょつ中我々の部屋へ来たが、同時に八人、十人と来たこともあり、そして商品を床の上にひろげた。我々はいよいよ出発という時まで買物をした。そして私は陶器の蒐集に、いくつかの美事な品を附加した。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、七月二十七日に元箱根を発った一行は、その日とその翌日と静岡で二泊、『ついで浜松と豊橋にそれぞれ一泊したのち、八月一日の夕方に名古屋についたらしい。名古屋では四日間滞在、知り合いになった骨董屋の桜井権三に案内されて、モースは多くの陶器を仕入れている。』とある。

「口銭」原文“a commission”。老婆心乍ら、「こうせん」と読み、売買の仲介をする際の手数料を言う。]

 

 権左は私を名古屋の外辺に住んでいる、彼の友人のところへ連れて行った。この男はフジミと呼ばれる窯の創業者であるが、私はここで午前中を完全に賛した。儀式的な茶が私のために立てられ、この陶工が私の面前で茶を挽いた。彼が見せた古い陶器の蒐集中には、見事な品も多く、又彼は私に絵を画いてくれ、その代りとして私にも彼の為に絵を画くことをたのみ、私をその翌日茶の湯(茶の礼式)へ来いと招く等、我々は興味ある数時間を送った。家族の人々は私をこの上もなく親切に取扱ってくれ、私が坐っていた張出縁には冷水を充した、大きな浅いい漆塗の盥(たらい)を置き、娘がこの水越しに私をあおいでくれた。このようにして出来た涼風は、誠に気持がよかった。

[やぶちゃん注:この最後のシーン、まさに文章から少女の仰ぐ冷風が肌に感じられるほどに心地良い。なお、以下、その翌日に招待された茶の湯の観察記載が実に邦訳の段落数で十段も続く。

「フジミ」底本では直下に石川氏による『〔?〕』という割注が入るが、これは現在の名古屋市中区大須上前津の不二見焼、この陶工は初代村瀬八郎右衛門と断定してよいと思われる。通称八郎右衛門こと村瀬美香(びこう 文政一二(一八二九)年~明治二九(一八九六)年)は旧尾張名古屋藩藩士の陶芸家。義父市江鳳造(ほうぞう)に陶法を学び、嘉永五(一八五二)年に自宅に窯を開いて茶器を焼いた。「不二見焼」と称し、銘は「望岳」「不二山人」(ここまでは講談社「日本人名大辞典」に依る)。愛知県陶磁資料館公式サイト内の仲野泰裕氏の「窯場今昔100選」の(20) 不二見焼 (ふじみやき)によれば、この上前津の自宅は「風月双清村舎」と称した別邸で、その『庭に窯を築き、瀬戸から招いた技術者4人と父子併せた6人で製陶業を開始した』とあって、その後の経緯などが実に詳しく語られているので必見であるが、そこに『美香の趣味のやきものからこの頃までの作品の一部が、ボストン美術館のモースコレクションの中に茶碗、水指、花器など17点が認められる』とある。これはまさにこの時、じかにモースが美香から買い求めたものに違いない。因みに、ここは指物師であった私の義母の父の家のごく近くなので非常に驚いた。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 元箱根にて

M647

図―647

 

 箱根に於る我々の旅舎は、石を投げれば湖に届く位のところにあり、向うには湖水をめぐる山々の上に、富士が高くぬきんでて聳えている。ここは海抜二千フィート、湖の水は冷くて澄み、空気は清新で人を元気にする。私の鉛筆は如何なる瞬間にも忙しく動いて、景色のいい場所を写生していた。図647は颱風に伴う強い風に抵抗するべくつくられた、丈夫な垣根の一種である。道路に沿うた家ではどこでも、紡いだり織ったりすることが行われつつある。図648は米の袋その他の荒っぽい目的に使用する、粗造な藁の筵を織っている女を示す。

M648

図―648

 

[やぶちゃん注:一泊目の宿である元箱根の景。

「海抜二千フィート」六百九・六メートル。現在の正確な標高はウィキ元箱根によれば、七百三十一メートル(二千三百九十八フィート)である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 箱根寄木細工

 

 二つの部屋が相接する家にあっては、これ等の部屋は床にある溝と、上から下る仕切との間を走る、辷る衝立(ついたて)で分たれるに過ぎぬが、この仕切の上の場所は通常組格子の透し彫りか、彫刻した木か、形板で切り込んだ模様かで充してある【*】。これ等の意匠の巧妙と趣味、及び完全な細工は、この地方に色木の象嵌細工をつくるのに従事する人が多いことに因る。箱板は色をつけた木の、いろいろな模様によって、美しい効果を出した箱や引出のある小箱や、それに似たものを盛に製造する土地である。

[やぶちゃん注:箱根の寄木細工(よせぎざいく)は、『様々な種類の木材を組み合わせ、それぞれの色合いの違いを利用して模様を描く木工技術で』、『日本においては神奈川県箱根の伝統工芸品として有名であり』、二百年ほどの歴史を持つとウィキ寄木細工」に記されるほどにここ箱根が有名である。足柄下郡箱根町畑宿の株式会社金指(かんざし)ウッドクラフトの公式サイト内の箱根寄木細工の歴史に詳しい。それによれば、『箱根細工は、轆轤(ろくろ)を使って器やお盆を作る「挽物細工」と、板材を組み合わせて箱や箪笥を作る「指物細工」に大別され』るが、『箱根地方は日本国内でも特に樹種の多い地域で、古くから多くの木工芸品が生産され』、『戦国時代には既に箱根の地で木工芸品が作られていたという記録が残っており、当時は挽物細工が盛んに作られていた』らしいとあって、特に江戸時代になって東海道が整備されると、『湯治土産として箱根細工は広く知られるようにな』ったと概括する。寄木細工のルーツは十七世紀半ば、『駿府の浅間神社建立にあたって全国から集められた職人によるものと考えられて』おり、それから約二百年の間に『寄木細工の技術は静岡で発展し』たとある。江戸中期に湯治で箱根が賑わうようになると、『従来の挽物細工のほかに、指物細工も多く作られるようになり』、江戸後期、畑宿に生まれた石川仁兵衛(寛政二(一七九〇)年~嘉永三(一八五〇)年)『が静岡から寄木細工の技術を持ち帰り、それを取り入れた指物細工を作り出し』、ここに本格的な箱根寄木細工が誕生したと記す。以下、モース来訪の前後に亙る「海外に紹介された寄木細工」の叙述を引用させて戴く。

   《引用開始》

ペリー(17941858)の来航によって下田が開港すると、畑宿の「茗荷屋」が海軍へ売り込みをかけ、箱根細工は定番の土産物になります。横浜が開港すると、漆器、陶器などに混ざって寄木をはじめとする箱根細工も輸出され、神奈川一帯の発展に大きく寄与することになりました。

シーボルト(17961866)も江戸参府の際に箱根に立ち寄り、寄木細工を見たという記録が残っています。実際、彼がオランダに持ち帰った工芸品の中に、寄木細工をあしらったものがあります。

明治30年代、湯本茶屋の物産問屋、天野門右衛門らが中心となり、「箱根物産合資会社」が誕生します。箱根物産合資会社は数々の外国商会と活発な取引を行い、寄木細工を世界に発信して行きました。1904年、箱根物産合資会社はセントルイス万国博覧会に寄木細工を出品します。

   《引用終了》

1904年は明治三十七年である。一時、衰退したものの、引用先の「金指勝悦」などの努力により再び盛り返している(私は実は個人的に箱根の寄木細工や木製こけしに対して幼年期のある記憶から特に強い愛着を持っている。今も目の前の書斎の本棚にそれらは飾られてある)。]

 

 

* この細部を欄間と呼び、私が見た多くの興味ある形式は『日本の家庭』に記載してある。

[やぶちゃん注:既にこの欄間の箇所の一部を「第十七章 南方の旅 欄間」の注で図入りで紹介した。今回は、“Japanese homes and their surroundings”1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」から、まさにそこで引用した箇所の直前の部分ある(二段落前)、まさにここ箱根村で見てスケッチした部分の解説と附図(キャプションとも)を引用させて戴く。これはまさに本段落をよりよく理解するためには欠くべからざる、学術的にも翻訳著作権の侵害に当たらぬ正当なる範囲での引用であると信ずる。二つ目の段落(『そして、丹念に仕上げてゆく。』)の次が改行されてリンク先の『大和の五条にある旧家の欄間は、……』に繋がっているので、続けて読まれることをお勧めしておく。スケッチは底本では本文の各所に配されてあるがここでは前に纏めて出した。ルビは総て同ポイントであるが、私の判断で拗音化してある。言わずもがなであるが、「ソリッド・プランタ」の読みは「硬質の板」に対するルビである。また、当該書原文でモースは和名をramma、解説のある箇所では英語圏の読者に理解出来るように“panel”と記している。

   《引用開始》

Jh144

144図 箱根で見た欄間。

Jh145

145図 竹の欄間。

Jh146

146図 東京にある磁器製の欄間。

Jh147

147図 竹と透彫の板とも組合わせた欄間。

 

 一四四図に示した模様は、箱根村の旧家の欄間のものである。その部屋はかなりの大広間で、欄間は四面からなっており、欄間の長さは約二四フィートくらいであった。竹の簡素な格子細工は欄間には格好のしかも一般的な意匠(デイヴァイス)である。一四五図はこの種の素朴なものの一例で、よく見かける。東京のさる家で、同様の意匠で磁器製のものを見たことがある(一四六図)。――中央部縦の模擬竹はあざやかな紺色で、水平にしつらえた細めのものは白色であった。透彫でなくとも、模様のあいだの部分的な空間はそのままつぎの部屋に通じている。この素通し(オープン)の欄間があるため、襖を締めきった場合でも、部屋の通風がじゅうぶんに確保されるのである。透彫板と竹格子とを組み合わせたものもよく用いられている(一四七図)。

 意匠と製作の面で高度な技術を必要とする欄間の場合は、木彫職人(ウッド・カーヴァー)は硬質の板(ソリッド・プランタ)に下絵(デザイン)を描き、ついで下絵の周囲の木部を削り取り、これによって下絵を浮き出させる。そして、丹念に仕上げてゆく。

   《引用終了》

・「二四フィート」七メートル三十センチメートル強。]

M644_645図―644

図―645

[やぶちゃん注:右の平面図が「644」、左の立体図が「645」。]

M646

646

 

 各種の木片は、図644に示す如く、膠でしっかりくっつけて一の塊となし、それを図645のように横に薄く切ってその他の形式のものと共に、箱の蓋や引出の前面を装飾するのに用いる。以上二図は実物の二分一大である。図616は灰に埋めた僅かな炭火の上に膠壺を置き、細工をしている人を写生したものである。意匠は際限無くこみ入っているが、それに就て面白いことは、細工に用いる道具が、あたり前の大工道具に過ぎぬらしいことである。細工人は床に坐り、仕事台として大きな木片を使用する。

[やぶちゃん注:箱根町湯本の有限会社本間木工所の公式サイト内の寄木細工体験教室案内ページにある『伝統的文様の寄木コースター』の紋様が図644に近い。何時か、モースの描いたものと同じもの同じ形のものを探してみたい。]

2015/07/28

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  圓覺寺

    ●圓覺寺

圓覺寺は瑞鹿山と號す。鎌倉五山の第二なり。弘安五年十二月八日相摸守北條時宗の建(たつ)る所。開山は宋僧佛光禪師〔名は祖元字は子元〕なり。外門は已になし。總門には瑞鹿山の額を掲く。

[やぶちゃん注:やや長いので、段落ごとに注する。

「弘安五年」一二八二年。]

後光嚴天皇の宸筆なり。山門の額には圓覺興聖禪寺とあり。當初開堂の日白鹿(はくろく)群來し。又此地を開く時圓覺經を掘獲せしを以て山號寺稱(さんがうじしよう)とせり

花園天皇の宸筆ところ承りぬ。山門の製作は建長寺と異なるなし。佛殿には大光明寳殿と題せる額を表(へう)す。

[やぶちゃん注:「ところ」はママ。「とこそ」の誤植か。]

是れ亦後光嚴(ごくわうごん)天皇の宸筆に係る。其の下又額あり。表面に祈禱裏面に修正〔夢窓筆〕の文字(もんじ)を記せり。本尊寳冠の釋迦佛を安置す。脇士梵天帝釋は。卿殿の作なり。永和二年十月再興。永祿年中火災に遇ひ。寬永二年再建すと云ふ。方丈は聖觀音の木像を安置す。其の後山を白鹿洞といふ。上に鹿岩あり。鐘樓は佛殿の南の方山(やま)の上に在り。石階(せきかい)を蹈(ふん)て登るベし。洪鐘高さ八尺。掛くる用の鐡環(てつくわん)は劍工正宗の作る所といふ。銘文は左の如し。

[やぶちゃん注:「卿殿」不詳。識者の御教授を乞う。

「永和二年」一三七六年。

「永祿年中」一五五八年~一五七〇年。

「寬永二年」一六二五年。

「八尺」二・四二メートル。

 以下、鐘銘には一部に漢字の誤りがあるので「新編鎌倉志卷之三」に載るそれで訂した。]

   相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘銘

鶴岡之北富士之東。有大圓覺。爲釋氏宮。恢廓賢聖。蹴蹈象龍。範圍天地・槖籥全功。鎔金去鑛。鍛鍊頑銅。成大法器。啓廸昏蒙。長鯨吼月。幽谷傳空。法王號令。神天景從。祐民贊國。植德旌忠。停酸息苦。超越樊籠。高輝佛日。普扇皇風。浩々湯々。聲震寰中。風調雨順。國泰民安。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日。大檀那從四位上行相摸守平朝臣貞時勸緣同成大器。當寺住持傳法宋沙門子曇謹銘。

[やぶちゃん注:この銘は「當寺住持傳法宋沙門子曇謹銘。」以下の最後の部分が省略されている。以下に「新編鎌倉志卷之三」に載るものを示す。

   *

勸進者舊僧宗證、奉行、兵部橘朝臣邦博、同兵庫允源朝臣仲範、大工、大和權守物部國光、掌財、監寺僧至源、道虎、此月十七日巳時、大鐘昇樓、洪音發虛、謹具名目于后、喜捨助緣僐信、共壹千五百人、本寺僧衆、貮百三十員、大耆舊、慧寧・覺眼・宗證・道範・頭首、覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。

   *

以下、「新編鎌倉志卷之三」の私の注で私が試みた全文(ここで省略されたものをも含む)訓読文とオリジナル注を示しておく。

   *

   相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘の銘

鶴が岡の北、富士の東、大圓覺有り。釋氏の宮と爲(な)す。賢聖を恢廓(かいかく)し、象龍を蹴蹈(しゆうたう)す。天地を範圍して、槖籥(たくやく)功を全きす。金を鎔し、鑛を去り、頑銅を鍛錬す。大法器を成して、昏蒙を啓廸(けいてき)す。長鯨月に吼す。幽谷空に傳ふ。法王の號令、神天景從(けいぢゆう)す。民を祐け、國を贊(たす)け、德を植ゑて、忠を旌(あら)はす。酸を停め、苦を息む。樊籠を超越す。高く佛日を輝かし、普く皇風を扇ぐ。浩々湯々として、聲、寰中に震ふ。風調ひ、雨順ひ、國泰かに民安し。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日、大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時、緣を勸め、同じく大器を成す。當寺の住持、傳法、宋の沙門子曇謹みて銘す。勸進は舊僧宗證。奉行、兵部橘(たちばな)の朝臣邦博(くにひろ)。同兵庫の允源の朝臣仲範(なかのり)。大工、大和權の守物の部の國光。掌財、監寺僧至源・道虎。此の月十七日巳の時、大鐘樓に昇り、洪音虛に發す。謹みて名目を后に具ふ。喜捨助緣の僐信、共に壹千五百人、本寺の僧衆、貮百三十員、大耆舊は、慧寧・覺眼・宗證・道範、頭首は覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事は聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂(せいだう)は德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。

・「恢廓」広く大きなさまを言うが、ここは禅門として広く学僧聖賢のために門戸開いて、の意。

・「象龍を蹴蹈す」の「象龍」は聖人高僧の比喩で、「蹴蹈」は中国語では蹴躓けつまずくの意であるが、そうした聖賢が必ず足を留める、という意であろう。

・「槖籥」蹈鞴(たたら)で用いる鞴ふいごのこと(槖は袋状の物、籥は笛(吹管)の意)。

・「鑛」精錬していない金属。荒金。

・「啓廸」啓発と同じい。

・「景從」は影のように必ず伴うこと。いつも一緒にいること。

・「贊け」は前の「祐け」と同じい。

・「樊籠」は「ばんろう/はんろう」と読み、煩悩に縛られていることを言う。

・「正安三年」は西暦一三〇一年。

・「大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時」第九代執権北条貞時。

・「子曇」は最後に示される宋から渡来した当代の円覚寺住持西澗子曇(せいかんすどん)。

・「大耆旧」の「耆」は六十歳の意で、式典での賓者たる大年寄り。

・「頭首」は式典の実務指揮者のことであろう。

・「師侃」は音読みなら「シカン」。

・「知事」は通常、禅宗に於いては六知事のことを指す。即ち、庶務雑事を司る六つの役職で都寺(つうす:総監督。)・監寺(かんす:住持代理で実務責任者。)・副寺(ふうす:会計。)・維那(いの:実務担当者。)・典座(てんぞ:斎糧全般。賄方。)・直歳(しっすい:伽藍修理や寺領の山林田畑の管理及び作務一式担当。)の総称であるが、ここでは鐘竣工の儀式の庶務方の意であろう。七人いる。

・「西堂」は中国で古来、西を賓位とすることから、禅宗で当該所属寺院の先代住職を「東堂」と呼ぶのに対して、他の寺院の前住職を敬意を込めて呼ぶ際に用いる語である。

・「德凞」は音読みなら「トクキ」。]

妙香池方丈の北に在り。

蒼龍窟は妙香池(めうかういけ)の左山足にあり。

開山塔は方丈の西北に行くこと四五町の處に在り。正續院と名く。門に萬年山の額を掲く。即ち佛光禪師の祠堂なり。龕中木像を置く其の精工覽るべし。山上に坐禪窟あり。禪師の趺坐せし舊跡なり。

[やぶちゃん注:「四五町」四百三十七~五百四十五メートルほど。]

三浦導寸の墓は。境内(けいない)の北邊にあり。

塔頭には佛日菴 桂昌菴 傳宗菴 白雲菴 富陽菴 壽德菴 正傳菴 萬富山續燈菴 傳衣山黄梅院 如意菴 歸源菴 天池菴 藏六菴 龍門菴 海會菴 東雲菴 慶雲菴 珠泉菴 正源菴 寶龜菴 臥龍菴 利濟菴 定正菴 瑞光菴 大義菴 長壽院 瑞雲菴 寶珠院 靑松菴 大仙菴 等慈菴 妙光菴 頂門菴 雲光菴ありしよしなれども。今は大抵廢絶せり。存する者少し。但本寺の什寳は最も多し。今之を記せす

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  東慶寺

    ●東慶寺

東慶寺は松岡山と號す。比丘尼寺(びくにでら)にて。臨濟宗なり。北條時宗の室(しつ)秋田氏の開創せる所。秋田氏は義景の女(むすめ)にして。北條貞時の母なり。潮音院覺山志道和尚と號す。時宗は弘安七年四月四日に卒す。明年落飾して當寺を建立す。十月九日開山忌を行ふ。

本寺には明治以前一種の法規(はふき)あり。卽ち良人の邪見無道(じやけんぶだう)なる爲め。薄命に陷れる婦女。本尊に驅入れは。其の事情を糺し。其の次第に因り。夫婦の赤繩を別離し二十四ケ月間入院せしむること是(これ)なり。故に昔時(せきじ)は出入を誰何し。男子を禁せり。

延享二年十月。東慶寺役人村上嘉太夫か奉行所に差出せる同寺の由來書に云。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

鎌倉東慶寺開山覺山至道和尚は。北條平時宗室秋田城之介義景息女にて御坐候。平貞時へ覺山和尚願候は。乍出家息女子之事に候は。利益之種も無御座候。就夫女と申候は。不法の夫にも身を任せ候事も尋常に候得共。女之狹き心にては。風と邪之思立にて自殺などいたし候ものの有之事に候間。三ケ年之間當寺に相抱。何卒緣切候て。身輕に成候寺法相願候由。依之貞時被

天聽に。其意に任せられ候。其後第五世用堂和尚は。後醍醐帝之姫宮にて。此節御願被成。緣切女三ケ年辛勞成勤不便の儀に思召。二十四ケ月を限に被レ成候得は。出入三年に有之候故。月數御改被成候由。其後第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之姫君にて御座候。〔下略〕

かゝる寺法なれは。學者には議論甚だ多かりし。明治四年に至り官(くわん)之(これ)を禁せり。

山門には東慶總持禪寺の額。佛殿には祈禱の額を掲(かゝ)け。金銅のの釋迦、文殊、普賢の三像を安置す。寛永十一年十月駿河忠長卿の舊館を移し賜ひて建立せしよし。方丈脇寮等皆然り。

皇女用堂尼王〔應永三年丙子八月八日入寂〕の御墓(おんはか)。天秀尼公〔正保二年乙酉二月七日示寂〕の墓碑は。總て寺後の山麓に在り。皇女の御墓は。岩窟内にて。東西三間南北五間。木柵(もくさく)を廻らし。前面に鳥居を建つ。現に宮内省の管轄に屬せり。

[やぶちゃん注:「秋田氏」秋田城介(じょうのすけ)安達義景(承元四(一二一〇年~建長五(一二五三)年)のこと。頼朝流人時代からの側近であった安達盛長の孫に当たり、後に幕閣で権勢を振るうも、霜月騒動で内管領平頼綱によって滅ぼされる安達泰盛の父である(但し、安達氏は後に復権する。次注参照)。

「潮音院覺山志道和尚」覚山尼(かくさんに 建長四(一二五二)年~徳治元(千三百六)年)。北条時宗正室で母は北条時房娘。堀内殿・松岡殿とも呼ばれた(ここに出るように父の職名で「秋田氏」と呼ばれることは普通はないと思われる)。以下、ウィキの「覚山尼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)、『父義景が出生の翌年に死去したため、二十一歳離れた異母兄泰盛の猶子として養育された。鎌倉甘縄安達邸で育ち、弘長元年(一二六一年)に十歳で北条得宗家の嫡子で十一歳の時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した無学祖元の証言などから仲睦まかったとされ、文永八年(一二七一年)十二月、二十歳で嫡男・貞時を出産。日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。建治三年(一二七七年)には流産をしている』。『弘安七年(一二八四年)四月、病床にあった時宗は無学祖元を導師として禅興寺で落髪(出家)たとき、共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した。時宗は三十四歳で死去し、時宗の死後息子貞時が執権に就任、兄泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、父義景、兄泰盛の後を受けて遠江国笠原荘を領している。弘安八年(一二八五年)に、内管領平頼綱の讒言を信じた執権貞時が、泰盛を始めとする安達氏一族を誅殺する(霜月騒動)。この事件の際、安達一族の子供達を庇護したと見られ、その後の安達氏の勢力回復には覚山尼の存在が大きかったと思われる。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われている。五十五歳で死去』とある。

「弘安七年」一二八四年。時宗の死因は結核或いは心臓病とも言われるが、やはり文永・弘安の役の激務が祟っていると言える。

「延享二年十月」一七四五年。同年九月二十五日に第八代将軍徳川吉宗は将軍職を長男家重に譲っている。

「東慶寺役人村上嘉太夫か奉行所に差出せる同寺の由來書」以下、我流で書き下しておく。

   *

鎌倉東慶寺開山覺山至道和尚は、北條平(たいらの)時宗室、秋田城之介義景息女にて御坐候ふ。平貞時へ覺山和尚、願ひ候は、

「出家乍ら、息女子の事に候はば、利益の種も御座無く候ふ。夫(そ)れ就きて女と申し候はば、不法の夫にも身を任せ候ふ事も尋常に候得(さふらえ)ども、女の狹き心にては、風(ふ)と邪(よこしま)の思ひ立ちにて、自殺などいたし候ものの之れ有る事に候ふ間(あひだ)、三ケ年の間、當寺に相ひ抱へ、何卒、緣切り候ふて、身輕に成し候ふ寺法、相ひ願ひ候ふ。」

由。之に依つて、貞時、天聽に經られ、其の意に任せられ候ふ。其の後、第五世用堂和尚は、後醍醐帝の姫宮にて。此の節、御願成られ、緣切女の三ケ年の辛勞成勤、不便の儀に思し召し、二十四ケ月を限りに成らせられ候得ば、出入り三年に之れ有り候ふ故、月數、御改め成られ候ふ由。其の後、第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之の姫君にて御座候。〔下略。〕

   *

この「東慶寺役人村上嘉太夫」なる者が寺社「奉行」提出したという、東慶寺の『寺例書』(「てらためしがき」と訓ずるか)はかなり知られたもので、そこにはここに出るように開山以来の「同寺の由來」が書かれてある。これについて「鎌倉市史 社寺編」の同寺に条では、『疑問のあるところもあるものであるが』と前置きしつつも、この文書には『はじめは駈入の際離縁状を差出させず当山に入れ、二十四ケ月相勤めれば縁を切れることになっていたが、下山した女に元の夫が難儀を申しかけ、出入に及んだので、寺社奉行永井伊賀守直敬』『の命で、縁切証文及び親元の証文を整えるようになったとあるが、長井直敬は元禄七年(一六九四)より宝永六年(一七〇九)の間寺社奉行であるところからみて、この時代にはすでに縁切寺法が実施されていたことを知ることができる』とある。なお、この永井直敬(なおひろ 寛文四(一六六四)年~正徳元(一七一一)年)はこの寺社奉行当時の元禄一四(一七〇一)年九月一日、かの浅野長矩改易後を受けて下野烏山藩主から播磨赤穂藩主と移封された(その後さらに信濃飯山藩主・武蔵岩槻藩初代藩主に移封)、とウィキの「永井直敬」にある。この縁切寺法についてはウィキの「東慶寺」が殊の外詳しく、この文書の期間の詳細はそこの「縁切寺三年勤の背景」などを参照されることをお勧めする。

「第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之姫君」天秀尼(慶長一四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)豊臣秀頼娘で千姫の養女であるあ、母の名も出家前の俗名も不明で、参照したウィキの「天秀尼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『記録に初めて表れたのは大阪城落城直後でありそれ以前には』ないとし、『同時代史料としては、元和二年(一六一六年)十月十八日にイギリス商館長リチャード・コックスが松が岡を剃髪した女性の尼寺として紹介し、「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」と書いている』。『出家の時期は先の東慶寺の由来書に「薙染し瓊山尼(けいざんに)の弟子となる。時に八歳」とあり、また霊牌(位牌)の裏に「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の元和二年、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天』であった(下線やぶちゃん)。『天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていただろうが、塔銘によれば円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したとある。古帆周信は中国臨済宗楊岐派の幻住中峰禅師に始まる幻住派である』。『また沢庵宗彭に参禅しようとしていたことが、沢庵の書状により明らかになっている。書状であるので八月二十九日と日付はあるが、年は書かれていない。沢庵は寛永十六年(一六三九年)より江戸に戻り、徳川家光によって創建された萬松山東海寺の住持となっている。東慶寺の住職だった井上禅定は、天秀尼が参禅していた古帆周信が寛永十八年(一六四二年)二月一日に示寂しているので、沢庵に参禅しようとしたのはそのあとではないかとする』。『東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺(駆込寺)として有名であるが、江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのはここ東慶寺と群馬(旧上野国新田郷)の満徳寺だけであり両方とも千姫所縁である。寺の伝承では、天秀尼入寺の際、家康に文で「なにか願いはあるか」と問われて「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答え、それで同寺の寺法は「権現様御声懸かり」となったとある』。満で云えば未だ六、七歳の『子供と家康のやりとりが本当にあったのかは確認出来ないが、江戸時代を通じて寺社奉行に提出する寺例書や訴訟文書ではこの「権現様御声懸かり」の経緯を述べて寺法擁護の最大の武器としたこと、実際に東慶寺の寺法に幕府の後ろ盾があったことは確かである。縁切寺法と一般にはいわれるが夫婦の離婚にだけ関わるものではなく、中世以来のアジールの性格を持つ』とある。

「明治四年」一八七一年。この時の様子がウィキの「東慶寺」に「尼寺・縁切寺法の終焉」として以下のように描出されてある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『明治維新により縁切寺法は廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなるがそれも大半は横領される。最後の院代順荘尼を描いた一八九七年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に…総門山門はもとより方丈脇寮諸社なと朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち薪として一片の姻と化し」とある。順荘法孝尼は一九〇二年(明治三十五年)七十八歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じる。そういう「修繕の途なき」状態の中で仏殿が原三溪に引き取られる。なお、明治十年代には庫裡が山内村の小学校になった。これが現在の小坂小学校の前身のひとつであ』ったとある。

「寛永十一年」一六三四年。

「駿河忠長卿」江戸幕府第二代将軍徳川秀忠三男で家康の孫である大名徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)。極位極官が従二位大納言で領地が主に駿河国であったことから通称を「駿河大納言」と通称した。父と母江(ごう)の寵愛を一身に受け、実兄家光をさしおいて世子に擬せられたが実現せず、第三代将軍となった徳川家光との確執から寛永八(一六三一)年には甲斐に蟄居させられ、次いで上野高崎に幽閉された上、二年後の寛永十年十二月六日(グレゴリオ暦一六三四年一月五日)に二十八歳で自害させられた。ここに出る移築は翌年であるが、その仏殿は現在のものではなく、当該のそれは現在、その仏殿は明治四〇(一九〇七)年に横浜の三溪園に移築され、重要文化財として現存する。

「皇女用堂尼王〔應永三年丙子八月八日入寂〕」東慶寺第五世とする。後醍醐天皇皇女で護良親王の姉で弟の菩提を弔うために入庵したとする。「應永三年」は一三九六年。

「東西三間南北五間」東西五・四五メートル、南北九・〇九メートル。

「現に宮内省の管轄に屬せり」現在も同様。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 淨智寺

    ●淨智寺

淨智寺は。明月院と殆ど相對(あひたい)して。山内の路南に在り。金峯山と號す。鎌倉五山の第四にして。武藏守北條宗政相摸守北條師時父子の建立。故開山(こかいさん)は普寧(ふねい)(宗覺禪師)。請待開山は正念(自休)。準開山は宏海(眞應禪師)なり。佛殿は曇華殿の額を掲(かゝ)く。本尊は釋迦、彌勒、彌陀の三體なり。作者詳ならず。

開山塔を藏雲菴(ざううんあん)と名く。蓋し眞應師の塔なり。

甘露の井開山塔の後に在る淸泉(せいせん)をいふ。鎌倉十井の一なり。門外路傍に淸水(せいすい)涌出す之をは甘露水と稱せり。

盤陀石は甘露井(かんろゐ)の傍に在り。

鐘樓(せうろう)元は正慶九年の古鐘を掛しが。天文中北條氏康伊豆權現社の撞鍾に贈りしと云。塔頭は正紹菴、正源菴、龍華山眞際精舍、正覺菴、楞伽院、大圓菴、同證菴、正印菴、興福院、福生菴等今は大半廢絶し存(ぞん)する者幾(いくば)くもなし。

[やぶちゃん注:「北條宗政」(建長五(一二五三)年~弘安四(一二八一)年)北条時頼三男。右近衛将監・評定衆・引付頭人(ひきつけとうにん)を経て、建治三(一二七七)年、武蔵守となったが四年後に数え二十九で亡くなっている。

「北條師時」(建治元(一二七五)年~応長元(一三一一)年)北条宗政の子で母は北条政村娘であるが、父の死後に伯父北条時宗の猶子となっている。長門守護・小侍所・評定衆・引付頭人を経て、従兄弟で時宗嫡男であった執権北条貞時が正安三(一三〇一)年に出家すると同時に第十代執権となった。彼も三十七の若さで亡くなっている。この頃の得宗家絡みの若死には概ね激務に因る過労やそれに起因する病死であったと推測されている。ここにあるように、父宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされてるものの、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山の経緯についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海(「眞應禪師」は彼の諡号)が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に既に没していた。

「甘露の井開山塔の後に在る淸泉をいふ。鎌倉十井の一なり。門外路傍に淸水涌出す之をは甘露水と稱せり」「新編鎌倉志」で初めて示される名数「鎌倉十井」の一つに数えられているが、実は「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、

甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

とあって、当初より現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)ことが判る。ところがこれとは別に鎌倉「五名水」が存在し、そこに異説として「甘露水」なるものが恐らくは近代近くになって混入してきている。ともかくも孰れが原「甘露の井」であり、区別化された「甘露水」であったかは、私は水源が二つ以上あったことによって、江戸時代に最早「甘露の井」が同定出来なくなっていたこと、さらに「甘露水」なる紛らわしい呼称の登場が同定不能に拍車をかけたものと私は推測している(浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉の湧水は今は停止している)。

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅱ) 大正元(一九一二)年 (2)

 

 九月二日 月曜 

 

〇たちいづるあとは霞の春の旅宿に忘れし握飯哉

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。]

 

 

 

 九月十九日 木曜 

 

〇かく生れかく行ひてかく死にて思ひ殘さぬ大和魂

                    乃木大將を思ひて

 

[やぶちゃん注:乃木希典はこの六日前の明治天皇大葬当日であった大正元(一九一二)年九月十三日午後七時四十分頃、妻静とともに自刃殉死している(殉死当日の日記記載やそれへの言及はなく、この短歌の前後も全くの日常備忘録記載である)。当時、久作満二十三歳、因みに、推理夏目漱石の「ろ」主人公の「私」((リンク先末尾にある「●「私」《=学生》の時系列の推定年表」を参照されたい)はまさに二十三歳である。]

 

 

 

 九月二十日 金曜 

 

人知らぬ深山の奥の其奥に

 神代の儘の瀧つ瀨の音

 

 

 

 九月二十一日 土曜 

 

木枯しに葉も切れ切れの柿の木にさみしく照らす月の影かな

 

天かけるはやての雲のましぐらに辰巳に走る武藏野の原

(林病院に在りて生活す)

 

[やぶちゃん注:第一首目の「切れ切れ」の後半は底本では踊り字「〱」。「(林病院に在りて生活す)」というのは意味不詳乍ら、文語文で記し、二首目の歌の後書として記しているように見える(この日の短歌の前に一行空けで記されてある日記文は口語で書かれてある)。]

 

 

 

 九月二十二日 日曜 

 

〇あら浪の雲を洗ひて幾万里。

 

[やぶちゃん注:この句の直前に、同じ圏点を附して、

   *

〇全世界の人類を一個人として考えたる時吾人は玆に一大事実を發見せむ。天は何物をも示さず地も何物をも教えざるに人は自ら獨創にて神なるものを設けて之を崇拜したり。

   *

とある。]

 

 

 

 九月二十三日 月曜 

 

〇雨止みて五色に光る落葉哉。

 

 

 

 九月三十日 月曜 

 

月冴えてほのかに遠し二つ鐘(バン)

 

[やぶちゃん注:「二つ鐘(バン)」当該地よりも比較的遠い場所で火事が起ったことを示すために半鐘を二度ずつ打つことを言う。この二日前の九月二十八日の早朝、同居していた久作の祖母友子が中風の発作を再発、この日まで久作の日記には看病の様子が記されている。]

 

 

 

 十月四日 月曜 

 

祖父君を見舞に來る父見れば

 嬉しくもあり悲しくも悲しくもあり。

 

[やぶちゃん注:「悲しくも悲しくも」のダブりはママ。父茂丸(友子の長男)は発作で倒れたその日に東京より來鎌しており、十月一日の日記には父と一緒に入浴もしていて、この日が初めての見舞いな訳ではない。]

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅰ) 大正元(一九一二)年 (1)

 

   大正元(一九一二)年 久作満二十三歳

 

[やぶちゃん注:当時は慶應大学大学部文学科(大学令によって正式に文学部になるのは大正九年)三年。]

 

 八月一日 木曜 

 

五月雨に訪ふ歩とも無し圓覺寺

 とゞろに落つる松の下露。

 

若葉影並ぶ碧岩蓮華經

 吹く風淸く木の間くゞりて。

 

相模洋万里を亙る春風に

 綠色濃き鎌倉の山。

 

[やぶちゃん注:「万はママとした。「亙」は底本では「亘」であるが、この字は私が生理的に嫌いなので「亙」とした。「相模洋」は「さがみなだ」と訓じていよう。以下「洋」は私は総て「なだ」と読む。]

 

行く春の柵なれや花の色。

 

[やぶちゃん注:句点が打たれているが、これは俳句なのではなく、次の一首の上句別稿と私は推定する。「柵」は「しがらみ」と読ませるのであろう。]

 

春風のホゝに止まる花の色

 匂ひこぼるゝ山櫻哉。

 

水淸屍草むす屍數々に雄々しき人名をぞ止むる。

 

[やぶちゃん注:一行表記の特異点の一首。「淸」(底本は「清」)はママであるが、これは「漬」の誤字か誤判読か誤植の可能性が頗る高く、「水漬屍」(みづくかばね)としか思われない。「人」の後には「の」など脱落が想起される。

 以下、八月五日までは殆んどが詩歌の特異点であり、八月三日には舟遊びを語った僅かな美文調の日記が載る。底本の杉山龍丸氏の「註解」によって、当時、夢野久作の父茂丸は鎌倉市材木座に邸宅を持っていたことが知れた(私の父の実家は材木座である)。]

 

 

 

 八月二日 金曜 

 

◎春風になでまはさるゝ鎌倉の

  大佛樣大悲顏哉

 

◎峠茶屋茶碗にうつる若葉かな

 

[やぶちゃん注:これは明らかに夢野久作の現存する最古の数少ない俳句である。彼は後に川柳を好んで作るが、確実に川柳ではなく俳句と推定し得る作品はここまででは――敢えて挙げるならば直前の「行く春の柵なれや花の色」以外には――ない。駄句乍ら、次の次の「山の上」一句(これは寧ろ川柳か)とともに非常に貴重な一句と言える。]

 

〇かくて又とはむと思ふ夢

  醒めてか花の散り初めにけり。

 

〇山の上一句も出でぬ景色哉。

 

 

 

 八月四日 日曜 

 

〇あら吹く洋の荒浪亂れ立ちて岩にくだくる吾が心哉。

 

〇一劔雄圖遠乾坤有一人死生奚畏眼裡絶繊塵

 

[やぶちゃん注:禅語の一種の引用のようにも見えるが、前後の短歌と同じく圏点を打っているので、漢詩文と採る。「一劔(いつけん)の雄圖(ゆうと) 遠(えん)乾坤(けんこん) 一人(ひとり)有りて 死生(ししやう) 奚(なん)ぞ畏れん 眼裡(がんり) 繊塵(せんじん)を絶つ」と私は訓読した。]

 

〇秋の野の芒の末の富士の雪

  天下の冬の魁にけり

 

[やぶちゃん注:「魁にけり」は「さきがけにけり」と読む。]

 

〇これやこの夢とも見えずまこととも

  しら雪淸く高き冨の嶺

 

[やぶちゃん注:「冨」の字体は底本のママ。無論、「ふじ」と訓じている。]

 

〇人知れず黃金の箱に祕め置きて

  君にと思ふ吾心哉

 

 

 

 八月五日 月曜 

 

〇吾心家に野山に海に河に

  花に紅葉に國に力に。

 

〇水や空見果もつかぬ海の果に

  走る白帆の影をしぞ思ふ

 

〇相模洋はるかに望む三原山

  空に棚引く夕榮の雲。

 

〇忽ちに五色七彩雲飛びて

  勇々しく出でし初日影哉

 

〇あひ見てもまた會ひ見ても會ひ見ても

  あかぬは古き友にぞありける。

 

 

 

 八月六日 火曜 

 

〇何となく憐を知りえ夜更けて

  枕に近き蟲のこえごえ

 

[やぶちゃん注:「こえ」の「え」はママ(後の「寂しさを」のそれもママ)。「こえごえ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

〇遠山に紅葉一幹見えにけり

  山坂幾里隔てたるらむ

 

〇寂しさを打てや長谷寺の鐘のこえ

  由井濱邊に寄する白波

 

[やぶちゃん注:「由井濱邊に」はママ。「由比」が正しく、無論、これで「ゆひのはまべに」と訓じていよう。]

 

〇盜人もたまには入れや侘住居

  寢覺淋しき秋の夜長に

 

[やぶちゃん注:因みに、この翌日の八月七日の日記は打って変わって「〇弟の死」と題し、前年一月一日に亡くなった(恐らくは結核性肋膜炎)九つ違いの愛弟(異母弟)五郎を追懐する慙愧の念に満ちた非常に長いものである。因みに、その追憶の中に「昨年の秋」(時系列を追って書いたための一昨年の誤りと思われる)「余は彼と共に當鎌倉なる日蓮上人雨乞池附近の山に到りて菌を取りぬ」とあり、五郎はその帰りに激しい胸部痛を訴えたと記している。]

2015/07/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 箱根峠越え

 

 第二十章 陸路京都へ

 

 七月十六日。私は、我々の南方諸国への旅行の荷造りをするのに、多忙であった。これは先ず陸路京都へ行き、それから汽船で瀬戸内海を通るのである。私の旅券は、すくなくとも十二の国々に対して有効である。中原氏が私に吉川氏の長い手紙を持って来てくれた。周防の国なる岩国にいる彼の親類に私を紹介したものである。封筒には先ず所と国との名前を、次に人の名前を書く。そしてその一隅には、手紙に悪い知らせが書いてないことを示すために「平信」という字を書く。この字が無ければ凶報が期待され、受信者ほ先ず心を落つけてから手紙を読むことが出来る。我々は古い日本の生活をすこし見ることが出来るだろう。私は陶器の蒐集に多数の標本を増加しようと思う。ドクタア・ビゲロウは刀剣、鍔(つば)、漆器のいろいろな形式の物を手に入れるだろうし、フェノロサ氏は彼の顕著な絵画の蒐集を増大することであろう。かくて我々はボストンを中心に、世界のどこのよりも大きな、日本の美術品の蒐集を持つようになるであろう。

[やぶちゃん注:これは旅行出発の十日前の記載である。以前に述べたように、今回(明治一五(一八八二)年)のモースの三度目の来日の公式な目的は、ピーボディ科学アカデミー理事会承認になる東洋の民族学的資料の蒐集であった。以下の関西への旅もそうした陶器と民具収集を目的としたものであったが、そこはそれ、モース先生、紡績工場を見学したり、横穴古墳に潜り込んだり、例によって楽しいスケッチを残して呉れていて、またしても我々を飽きさせない。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『同行者はフェノロサとビゲロー、それに昔の教え子で今はフェノロサの弟子の有賀長雄。旅は陸路を選んだ。東海道の町々でモースは陶器などを、フェノロサとビゲローは工芸品や古美術などを収集しながら旅する予定だった』とある。この有賀長雄は「第十九章 一八八二年の日本 茶の淹れ方/東京生物学会主催「化醇論」講演」に出、既注であるが、再掲しておくと、後の法学者・社会学者の有賀長雄(あるがながお 万延元(一八六〇)年~大正一〇(一九二一)年)である。当時(この明治一五(一八八二)年に東京大学文学部卒業)はフェノロサの弟子で、この二年後の明治一七(一八八四)年に元老院書記官となり、二年後の明治十九年からヨーロッパに留学、ローレンツ・フォン・シュタインに国法学を学んで、翌年に帰国、枢密院・内閣・農商務省に勤め、その後陸軍大学校・海軍大学校・東京帝国大学・慶應義塾大学・早稲田大学などで憲法・国際法を講じた。日清戦争及び日露戦争の際には法律顧問として従軍、ハーグ平和会議では日本代表として出席している。著書「社会学」は本邦初の体系的社会学的著作として知られる(以上はウィキの「有賀長雄」に拠った。姓は「ありが」とも読む)。

「中原氏」未詳乍ら、第十九章 一八八二年の日本 石人形に既出の人物。そこでは通訳であるが、これで明らかに次の吉川経建(きっかわつねたけ)と極めて親しい関係であることが判る。

「吉川氏」「第十九章 一八八二年の日本 石人形」に既出で既注であるが再掲する。元周防岩国藩第二代(最後)藩主で華族であった吉川経健(「建」ではなく「健」が正しいものと思われる。安政二(一八五五)年~明治四二(一九〇九)年)。ウィキの「吉川経健」によれば、初代藩主吉川経幹(つねまさ)の長男。官位は贈従二位・子爵・正四位駿河守。慶応三(一八六七)年に父の死去により跡を継いだ(但し、主家長州藩主毛利敬親(たかちか/よしちか)の命令でその死去が隠されたため、正式な跡目相続は明治元(一八六八)年十二月)。明治二(一八六九)年一月に叙任し、同年六月には戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世五千石を与えられ、同年中に版籍奉還によって藩知事となった。明治三(一八七〇)年、本家長州藩で脱退兵騒動が起こると、その鎮圧に努めたが、明治四(一八七一)年の廃藩置県によって免官となり、東京へ移った。以後は旧藩士に対し、義済堂を創設し、その自立を助けた。明治一七(一八八四)年に男爵、明治二四(一八九一)年には子爵となった。

「十二の国々」老婆心乍ら、日本の旧国名を指す。この直後にも「国」を宛名書きすると出るが、これは県名のことであろう(例えば明治四(一八七一)年廃藩置県により周防は旧暦七月十四日(一八七一年八月二十九日)を以って山口県及び岩国県の管轄となり、三ヶ月後の十一月十五日(一八七一年十二月二十六日)には第一次府県統合によって全域が山口県の管轄となっている。ここはウィキ周防のデータに拠る)。しかしもしかするとまだこの頃、「周防國」と書いて配達出来たものかも知れないなどとも考えてみる。]
 
 

M643

643

 

 七月二十六日。我々は駅馬車と三頭の馬とを運輸機関として、陸路京都へ向う旅に出た。三枚橋で我我は馬車に別れ、その最も嶮しい箇所箇所を、不規則な丸石で鋪道した、急な山路を登った。フェノロサと私とは村まで八マイルを歩き、ドクタアと一行の他の面々とは駕籠(かご)によった。ドクタアはこの旅行の方法を大いに楽しんだ。時々この上もない絶景が目に入った。自分の足をたよりに、力強く進行することは、誠に気分を爽快にした。路のある箇所は非常に急だったが、我々は速く歩いた。その全体を通じて、我々が速く歩き、また駕籠かきが一人当り駕籠の重さその他すべてを勘定して、殆ど百斤近くを支持していたにかかわらず、彼等が我々について来たことは、興味があった。時々我等は、重い荷を肩にかけた人が、これもまた速く歩いて峠を旅行するのに出会った。彼等は十二マイル離れた小田原へ行く途中なのであった。我々が通過した村には、どこにも新しい形式の張出縁や門口や、奇麗な内部やがあったが、このように早く歩いたので、二、三の極めて簡単な輪郭図以外には、何もつくることが出来なかった。この路は遊楽地へ行く外国人が屢々通行するので、日本人は一向我々に目をつけなかった。子供も、逃げて行ったり、臆病らしい様子をしたりしなかった。荷を背負って徒歩で行く人人以外に、重い荷鞍と巨大な荷物をつけた馬が、田舎者に引かれて行った。図643は荷鞍の写生で、馬の主人の日笠と雨外套(レインコート)と二足の草鞋(わらじ)以外に荷はつけてない。尻尾の下には不細工な、褥(しとね)を入れたような物が通っている。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『七月二十六日、一行は東京を離れた。まず馬車で小田原の三枚橋まで、それから箱根八里の道は徒歩と駕籠(かご)、箱根では芦ノ湖の湖畔、今の元箱根に泊ったらしい』とある。

「三枚橋」現在の小田原市箱根町湯本の箱根湯本駅から四百七十メートル弱下った(右にカーブしかけた所)早川に架かる橋。

「八マイル」十二・八七キロメートル。

「百斤」原文“a hundred pounds”。約四十五・三六キログラム。

「十二マイル」十九・三一キロメートル。この数値は東海道の小田原(現在の小田原起点)元箱根間を実測すると、峠を越えて元箱根の手前十三キロメートル弱地点に相当する。

「尻尾の下には不細工な、褥を入れたような物が通っている」不詳。鞦(しりがい)のための装備にしてはおかしい。或いはそれを総て畳んで丸めたものか? 識者の御教授を乞うものである。]

世界の三聖   夢野久作  (詩)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある七五調定型詩である。

 同氏の解題によれば、昭和一〇(一九三五)年六月一日発行の『九州文化』第二巻第三号に掲載されたものである(署名は夢野久作)。西原氏の解題には以上の書誌情報以外は載せられていない。以下、簡単に語注する。

・「エポバ」はママ。

・第一連最終行の「荊棘」は底本では(くさかんむり)が(へん)の部分だけにかかっている字体。

・「コンパラの花」題名が「世界の三聖」で第一連がキリスト、第三連が孔子と読めるから、この第二連は後半部からも釈迦である。そこで蓮華か沙羅双樹かなどと狙いをつけて調べて見ると、「拈華微笑(ねんげみしょう)」で検索するうち、篆刻家の田中快旺氏のブログ「楽篆堂」の「拈華微笑」で解説される中に、『霊鷲山で天上界の神・大梵天王が、お釈迦さまに金波羅華(こんぱらげ)という花を献上して、説法をお願いした。お釈迦さまは、それを手に取って、百万の人と神とに黙って差し出したが、皆その意味を図りかねた。ただひとり迦葉尊者が破顔微笑したので、仏法のすべてを授けたという』とあり、また、宮城県塩釜市の臨済宗東園寺住職千坂成也氏のブログ「布袋の袋」のキメるときは花だよね!拈華微笑で旧清水寺管主大西良慶師の華画賛「世尊拈華 頭陀微笑 絶言絶慮 霽日光風 只行得本 龍華三會 法界他方 永劫流通」を示されて訳された中に、『お釈迦さまが後継者を決めるときのこと』、『お釈迦さんは、梵天から渡されたコンパラ華(げ)という花を何も語らずに一輪持って弟子達に見せた。お釈迦様の説法が始まると思い心待ちにしていた弟子達は、何もしゃべらぬお釈迦さまを見て、ポカーン』としていると、『独り大迦葉のみが微笑を湛えた!』『そこで、お釈迦様は迦葉に法を伝えた事を宣言された』とあることから、これは他でもない、「拈華微笑(ねんげみしょう)」の、一般には白蓮華、白い蓮の花とされるものを指すことが判った。

・「枯じつゝ」「かれじつつ」で、枯れることなく、同時にまた、の意であろう。

・「拱す」は老婆心乍ら、「きようす(きょうす)」と読んでアーチ状に架かるの意。]

 

 

   世界の三聖

 

み空の舊徵求むれば   十字の星の光さし

この世のけがれ悲しめば 白百合の花露ふかし

エポバの榮え仰ふぎつゝ 羊を育て魚を獲る

たふとき業を憎しみて  荊棘の冠着せしは誰そ」

 

曉の星のぼる時     永遠の夢路の眼をひらき

コンパラの花枯じつゝ  おほあめつちをほゝゑます

王者の富を振りすてゝ  黃金の肌に破れ衣

足もあらはに鉢を持つ  乞食の惠うけぬは誰そ」

 

かの逝く河を嘆じては  古の道なつかしみ

かはり行く世を愁ひては 暮春の興を志す

星座は北に拱すれど   水は東に朝すれど

禮儀三百威儀三千    聖者いませし國いづこ」

 

 

[やぶちゃん注:これを以って西原版の「夢野久作著作集」所収の詩歌群はほぼ電子化を終了したことになるが、この他にも昭和五一(一九七六)年葦書房刊の久作の御子息杉山龍丸氏の編になる「夢野久作の日記」の中に多量の短歌や川柳を見出すことが出来る。私は十四年前にこの本を求めておき乍ら、実はまともに読んでいなかった。今回、遅まき乍らやっと拾い読みでも見開くことが出来ることとなり、ツン読のままにならずに済んだことを夢野久作自身に感謝し、向後も断続し乍らも「夢野久作詩歌集成」を続けて行く/行けることに感謝するものである。]

茶番神樂   夢野久作 (唄)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある歌謡である。

 同氏の解題によれば、昭和九(一九三四)年十月一日発行の『九州文化』第一巻第三号に掲載されたものである(署名は夢野久作)。西原氏の解題には以上の書誌情報以外は載せられていない。九州・山口・沖縄エリアの近代文学文化資料データベース作成のためのワーキング・プロジェクト・サイト「スカラベの会」の『「九州文化」 総目次』によれば、同誌は福岡市中島町九金文堂内の九州文化社より、 昭和九(一九三四)年八月から昭和一一(一九三六)年九月にかけて全十八冊が発行された同人雑誌で、本号の発行人は渋谷喜太郎(次の「世界の三聖」も同じ名義)。

 なお、底本では下段部分は二行に亙る場合、二段目の頭の位置から一字下げとなっている。]

 

 

   茶番神樂

 

茶番神樂の悲しさよ   おかめにヒヨットコ天狗の面

尼振り手振り頭振り   踊つてまはるおかしさよ 

            スツテン テレツク テレツクツ

 

愛嬬タップリお龜さん  鼻毛を伸ばしたヒヨツトコさん

テンテレツク天狗の面  高慢面のおかしさよ

            スツテン テレツク テレツクツ

 

茶番神樂のおかしさよ  色氣も喰氣も高慢も

みんな此世の馬鹿囃子  昔からある馬鹿囃子

            スツテン テレツク テレツクツ

 

今年もおんなじ馬鹿囃子 お龜にヒヨツトコヒユードンチヤン

笑つて見て居る悲しさよ テンテレツク天狗の面

            スツテン テレツク テレツクツ

福岡の孟蘭盆   夢野久作 (唄)

[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある「福岡の盂蘭盆」という歌謡(自作盆踊唄?)である。

 同氏の解題によれば、昭和五(一九三〇)年九月五日発行の地方誌と思われる『福岡』第四十四号に発表されたものとある(署名は夢野久作)。

 西原氏の解題には以下、『本編末尾の四行が、作者の小説「犬神博士」の中にも出て来る』として一部を引用、『本篇とはいくらか表現の違いが見られる。この小説の物語時点である明治の半ば頃、福岡周辺では実際にこのような歌が民間に生きていたと思われるのだが、さてどうであろうか』と述べておられる。「犬神博士」の初出はこの発表の一年後の『福岡日日新聞』昭和六(一九三一)年九月二十三日から翌昭和七(一九三二)年一月二十六日まで連載されたもので、当該小説の第「十五」章に現われる。以下、同章を総て引用しておく。tamiyagi2 校正データを使用させて戴き、同底本で校正した。

   *

 

     十五

 

 その頃の福岡市の話をしたら若い人は本当にしないかも知れぬ。東中洲がほとんど中島の町一通りだけあったので、あとは南瓜(かぼちゃ畑)のズット向うに知事の官舎と測候所が並んでいて、その屋根の上に風見車がキリキリまわっているのが中島橋の上から見えたの、箱崎と博多の間は長い長い松原で、時々追剝ぎが出ていたの、因幡町の土手の町の裏は一面の堀で、赤坂門や薬院門の切れ途を通ると蓮の花の香が噎(む)せ返るほどして、月夜には獺(かわうそ)がまごまごしていたの、西中洲の公会堂のあたりが一面の萱原(かやはら)であったの、西公園に住む狐狸が人を化かしていたのと言ったら、三百年も昔の事と思われるかも知れない。第一、そんな風では何処に町が在ったのかと尋ねる人が出て来るかも知れない。しかしそれでも、九州では熊本と長崎に亜(つ)ぐ大都会だったので、田舎ばかりまわっていた吾輩は、かなりキョロキョロさせられたものであった。

 吾輩はこの福岡市中を、父親の鼓に合わせて、心ゆくまで踊りまわって、心ゆくまで稼いだものであった。ところがさすがに福岡は昔からドンタクの本場だけあって芸ごとのわかる人が多かったらしい。男親の鼓調子にタタキ出される吾輩の踊りは、最初の約束通り全然エロ気分抜きの、頗る古典的なものであったが、却ってその方が見物を感心させたらしく、二十銭銀貨を一つや二つ貰わない日はなかったので、吾輩はトテモ得意になったものであった。生まれて初めて稼ぐ面白さを感じたように思った。

 その或る日の午後であった。男親と吾輩とは福岡部の薬院方面から柳原へかけて一巡すると東中洲へ入り込んで、町裏の共進館という大きな建築の柵内へ入り込んで、那珂川縁に並んでいる栴檀(せんだん)の樹の間の白い砂の上に茣蓙を敷いて午睡(ひるね)をした。これはこの頃夕方になると中洲券番のあたりへ人出が多い事がわかったので、夕方になってからそこを当て込んで一興業する準備の午寝(ひるね)であったが、やや暫く眠っているうちに、あんまり蟻が喰い付くので眼を醒ましてみると川一面に眩しい西日の反射がアカアカとセンダンの樹の間を流れてワシワシ殿の声が空一パイに大浪を打っていた。男親を振りかえって見ると、腐った蜊(あさり)のような口を開あいてガーガーとイビキを搔いている。

 その時であった。何処からか、

「チョットチョット」

 という優しい女の声がしたのでムックリ起き上って、キョロキョロとそこいらを見まわしてみると、木柵の向うから派手な浴衣を着たアネサンが、吾輩の顔を見てニコニコ笑いながら手招きしているのであった。

 吾輩はチョット面喰らった。コンナ美しいアネサンに知り合いはなかったから……。しかし元来見知りをした事のない吾輩は、すぐに茣蓙の上から立ち上って、チョコチョコ走りに柵の処へ来て見ると、そのアネサンの連れらしい肥った旦那が、そこにあった石屋の石燈籠の蔭に立って、やはりニコニコしているのが眼についた。

 アネサンは近づいて行く吾輩を見るとイヨイヨ眼を細くした。

「アンタクサナー。チョット妾達(わたしたち)と一緒に来なざらんナ。父(とと)さんも連れて……ナ……」

 と言い言い吾輩におひねりを一つ渡した。それを柵の間から猿みたいに手を出して受け取りがけに触ってみると、十銭銀貨が三枚入っている。吾輩は何故そんな事をするのか意味はわからなかったが、しかし、そんな意味を問い返す必要は毛頭ない金額であった。

 吾輩は眼を丸くしながら男親の処へ飛んで行ってゆり起した。そうして三十銭のおひねりを見せると、これも何だかわからないままねぼけ眼をこすりまわして、鼓と茣蓙を荷ぎ上げて、頰ペタの涎(よだれ)を拭い拭い大慌てに慌てて吾輩のあとから踉(つ)いて来た。

 立派な旦那とアネサンは、共進館前のカボチャ畠の間から町裏の狭い横露地に曲り込んで十間ばかり行ってから又一つ左に曲がると券番の横の大きな待合の前に出た。そこは十坪ばかりの空地になっていたが田舎の麦打場のように平かで、周囲の家にはまだ明るいのにランプがギラギラ点いていた。その中を夕方の散歩らしい浴衣がけの男女がぞろぞろしていたが、遠くの方の横町には大勢の子供が、

「燈籠燈籠灯(と)ぼしやあれ灯ぼしやあれや。消えたな爺さん婆さん復旧(まあど)いやあれ復旧いやあれやア」

 と唄う声が流れていた。

 その声に聞き惚れてボンヤリ突立っていると吾輩の振袖を男親が急に引っ張ったので、ビックリして振り返ってみると、その空地のまん中に今まで見た事もない四枚続きの青々とした花茣蓙が敷いてある。男親はその一角にかしこまって鼓を構えている。その真正面に今の旦那とアネサンがバンコ(腰かけ)を据えて団扇を使っていたが、アネサンは赤い酸漿(ほおずき)を赤い口から吐き出しながら旦那を振り返った。

「見よって見なざっせえ。上手だすばい」

 旦那は二つ三つ鷹揚にうなずいた。見れば見る程脂切った堂々たる旦那で、はだけた胸の左右から真黒な刺青(いれずみ)の雲が覗いているのが一層体格を立派に見せた。コンナ旦那は気に入るといくらでも金をくれるものである……と吾輩はすぐに思った。

 男親がその時に特別誂えの頓狂な声を立て、

「イヤア……ホウ――ッ」

 と鼓を打ち出した。吾輩は赤い鼻緒の下駄を脱いで、青い茣蓙の上に飛び上ると、すぐに両袖を担いで三番叟(さんば)を踏み出した。

 旦那とアネサンが顔を見交して黙頭(うなず)き合った。

   *

ここに出る囃し詞と思われる部分と、以下の久作の「福岡の盂蘭盆」の末尾の酷似した「 」で括られる囃し詞を以下に並べておく(比較しやすいように「犬神博士」版に合わせて以下の電子データの改行を排除し、字間を空けて示した)。

 

燈籠燈籠灯(と)ぼしやあれ灯ぼしやあれや。消えたな爺さん婆さん復旧(まあど)いやあれ復旧いやあれやア (「犬神博士」)

 

トウロトウロとうぼしヤアれとうぼしヤアれや 消えたお爺さん婆(ばば)さんまアどいやアれまアどいやアれや (「福岡の盂蘭盆」)

 

「犬神博士」版も「燈籠」は拍子から考えても「とうろ」と読んでいると思われるから、その異同は(表記の一部を比較し易くするために一部平仮名化した)、

①「とぼしや」(「犬神博士」)―「とぼしや」(「福岡の盂蘭盆」)

②「消えた」(「犬神博士」)―「消えた」(「福岡の盂蘭盆」)

③「まあどいやあれまあどいやあれや」(「犬神博士」)―「まあどいやあれまあどいやあれや」 (「福岡の盂蘭盆」)

の三箇所のみで、①と③は聴き書きの音写の違いに過ぎないと思われる。本「福岡の孟蘭盆」の二箇所の鍵括弧表記の部分は西原氏のおっしゃるように、古えの囃し文句の採録であると考えて間違いあるまい。

 電子化では踊り字「〱」は正字化した。「燈籠」の「籠」は底本では「篭」。迷ったが、「籠」とした。

 本唄は福岡弁と思われ、全く意味が採れない部分もあるが、到底、私の乏しい知識では注を附すことが出来ない。福岡弁と当地の民俗についてお詳しい方の後日の御指摘を俟つものである。]

 

 

   福岡の孟蘭盆

 

麻ガラと     テフチン松葉

オムカヒ火    燃えてしまふた

 

オハギモテ    オニシメ、オミズ

ナスビやら    キウリ、ボウブラ

オヒカリい    うつつて光る

 

レンの花     クンクンにほひ

蠟燭の      メタタキばして

御先祖の     おいでになると

線香ば      一パイ上げる

うつくしい    福岡の盆

「つんなんごうつんなんごう

 荒戸の濱まで行きまつせう」

 

まん丸い     パンパンシヤマの

寶滿にい     あがらつしやると

 

町中の      軒の提灯

濡れた地(ぢ)イ キラキラつつり

そのまへに    バンコ持ち出す

 

トツトウは    花火ばあげる

カツカーは    吹き上げかける

アネサンは    燈籠ばとぼし

オンダチア    ガンドウまはす

なつかしい    博多の孟蘭盆

 

 「トウロトウロ

    とうぼしヤアれとうぼしヤアれや

  消えたお爺さん婆(ばば)さん

    まアどいやアれまアどいやアれや」

古い日記の中から   夢野久作 短歌十二首

[やぶちゃん注:以下の総表題「古い日記の中から」という全十二首に「直木」という個人名が読み込まれた歌群は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある。

 同氏の解題によれば、『雑誌文芸』の昭和一〇(一九三五)年十二月号及び翌昭和一一(一九三六)年一月の二号で連載されたものである(署名は夢野久作)。

 西原氏の解題には書誌情報以外は載せられていない。しかし、発表時期と、徹底した俳諧的諧謔を用いながらも友人である「直木」なる人物への深い追悼の意で一貫している点、歌意のはしばしから「直木」なる人物が知られた同世代の小説家仲間であろうと思われることから、久作より二歳年下の直木三十五(明治二四(一八九一)年~昭和九(一九三四)年二月二十四日)であると考えてよい。歌の一節に「頭まで來てヤツト死んだ」とあるが、三十五は結核性脳膜炎で亡くなっている。]

 

 

  古い日記の中から

 

死ぬる死ぬるとおのが生命を高い價に賣喰ひにして直木は死んだ

 

[やぶちゃん注:「價」底本では「値」。]

 

俺は死ぬんだだから誰にも負けないぞ來るなら來いと直木は死んだ

 

俺の事は俺がするんだ間違つても文句を云ふなと直木は死んだ

 

女なら女で來てみろ病なら病氣で來いと直木が死んだ

 

Gペンで小さく小さく書いた字が見えなくなつて直木が死んだ

 

[やぶちゃん注:「小さく小さく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

尻の方から腐り上つて行くうちに頭まで來てヤツト死んだ直木

 

俺に取つて金は空氣と同じものだ何が税金だと直木が笑つた

 

半年の生命を本屋へ質に置いて本屋に葬式を出させた直木

 

逆王に這入つた直木は逆に利く桂馬に頭を遣られて死んだ

 

[やぶちゃん注:「逆王」私はこの年になっても金と銀との動かし方を知らない迂闊な男であるが、これは「逆王手」、王手をかけられたために動かした駒が、逆に相手に王手をかける打ち方のことであろうか? Masato Hasumi 氏のサイト内の逆王手って、どんな意味に将棋での意味が最後の注で記されてあるので参照されたい。]

 

前後から外れる直木の褌を當てにしてゐた奴が奪ひ合つた

 

ダメになつた頭で直木が碁を打つて、負けて遣つた奴に葬式をさせた

 

死ぬまでは死なゝいと書いた稿料を一文も取らずに直木は死んだ

2015/07/26

夢野久作 雑詠 短歌十四首

[やぶちゃん注:以下の歌群は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」後に配されてある総表題「雜詠」十四首である。

 同氏の解題によれば、昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載されたものである。西原氏によればこの雑誌は京都で刊行されていたもので、当雑誌の印刷所は「からふね印刷所」で、久作御用達の『獵奇』の印刷所と同じであることから、西原氏は『加羅不彌』の編集兼発行人である堀尾緋沙子なる人物はこの印刷会社の係累なのではないか、彼女は『獵奇』に投稿することもあり、そうした関係から久作への原稿依頼があったと思われると推理されておられる(夢野久作の日記等を駆使した詳細は底本解題をお読み戴きたい)。確かに「獵奇歌」の創作期ではあるが、詩想や詩句・書記法はずっと穏やかで「獵奇歌」とは一線を画している、というより、署名(夢野久作)を伏せたら、誰もあの血塗られた歌群の作者と同じ人物の歌とは思うまい。因みに、同時期獵奇歌」になる。久作満三十歳。]

 

 

   雜詠

 

 

冬の夜ふけひそかに耳の鳴るごとし遠き山べに雪ふるごとし

 

春まひる廣い座敷のまん中に泣かぬ孩兒が手足うごかす

 

[やぶちゃん注:「孩兒」は「がいじ」と読んでおく。幼な子・乳飲み子のこと。この歌――いいな――。]

 

ストーブのほのほしばらく押しだまり又ももの言ふわれひとりなれば

 

山をのぼり山を下れば此の思ひ今はた更にふかみゆくかな

 

わが古き罪の思ひ出よみがへるユーカリの葉のゆらぐ靑空

 

村に住む心うれしも村に住む心悲しも五月晴れの空

 

わが知らぬ世の大いなる運命かも雲より出でゝ雲に入る月

 

病院の音こともなき曉を患者はいかに耳すますらん

 

カステラの粉ホロホロと皿に落ちナプキンに落ち秋闌けにけり

 

[やぶちゃん注:「ホロホロ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

エスペラントと英語といづれが六ケしきヒラヒラと秋の夕浪の立つ

 

[やぶちゃん注:「ヒラヒラ」の後半は底本では踊り字「〱」。国際補助語である人工言語エスペラント語はこの四十二年前の一八八七年(明治二十年)に、当時のロシア領ポーランドのユダヤ人眼科医ザメンホフ(ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ(エスペラント語表記:Ludoviko Lazaro Zamenhof)が提案している。]

 

ニンジンの花に夕日の赤が一つ一つ浸みつき光り秋高晴るゝ

 

[やぶちゃん注:「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

墓は墓おもひおもひにむき立てり北にむかへる公孫樹さびしも

 

[やぶちゃん注:「おもひおもひ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

小さきコスモポリタンの墓とわれ死なば書いてやらんといひし友かな

 

わがおもひ胸にあまりて墓地にゆくさびしや墓地の死者に口なし(母戀ふ鳥)

 

[やぶちゃん注:この末書「母戀ふ鳥」の意図は私には不明である。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  上杉憲方墓

    ●上杉憲方墓

上杉憲方墓は。明月院方丈の西北岩窟内に在り。左石の窟壁に十六羅漢を彫附せり。憲方法號を明月院天樹道合といふ。應永元年十月廿四日卒。歳六十。

[やぶちゃん注:上杉憲方(のりまさ/のりかた 建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。初代関東管領上杉憲顕(のりあき)の子。は道合は法号・戒名で正式には明月院天樹道合(どうごう)。以下、ウィキ上杉憲方によれば、天授二年/永和二(一三七六)年に病床にあった兄の能憲から山内上杉家の所帯等を譲られ、二年後の能憲の死の直前にはやはり兄であった憲春が務めていた上野守護職や憲春の所領も憲方が知行すべき分として譲られている。能憲の死後、関東管領には憲春が任じられたが、山内上杉家の家督は憲方に渡っている。約一年後の天授五年/康暦元(一三七九)年三月七日に康暦の政変に乗じて京に攻め上ろうとする鎌倉公方足利氏満を諌死すべく憲春が自害し、攻略は中止され、翌四月の十五日、憲方は関東管領に任ぜられ、五月には憲春が維持していた上野守護職も憲方に安堵されている。弘和二/永徳二(一三八二)年一月には管領職から退いたが、六月には再任されている。『武将としての器量に優れ、氏満を補佐しながら小山義政・若犬丸父子の反乱鎮圧に功を挙げた(小山氏の乱)。それらの功績により上野・武蔵・伊豆・安房・下野の守護職を与えられている』。墓所は明月院に現存するが、『極楽寺駅付近に、上杉憲方夫妻の墓と伝わる七層塔・五層塔があり、付近には逆修塔と伝わる宝篋印塔も存在する』羅漢像が風化してあたかも亡者の群れに囲まれているようなこれより、苔むした後者の層塔の方が個人的には遙かに好きである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  明月院

    ●明月院

明月院は。管領屋敷(くわんれいやしき)の北に在り。安房守上杉憲方の創立する所開山は密室守嚴(みつしつしゆげん)和尚なり。始は禪興寺の塔頭にして庵號を唱へしといふ。本尊は觀世音。腹内(ふくない)に小佛像數千を籠(こむ)るぞいふ、開山守嚴の像及ひ開基憲方の木像を安置す。瓶の井は院後に在り。鎌倉十井の一なり。其の後山を六國見と稱す。安房上總下總武藏相摸伊豆の六國を望見するを得るに因る

[やぶちゃん注:今や、知らぬ者とてない明月院であるが、あの盛況は戦後に紫陽花を植えてからのことで、「あじさい寺」という呼称も一九六〇年代後半頃からのものであろう。例えば、「鎌倉攬勝考卷之五」を見よう(私の注ごと引く)。

   *

明月院 禪興寺の東北にあり。古えは塔頭なれ、今は却つて禪興寺の方丈なりと唱ふ。建長寺領の内、三拾壹貫文の領を附せり。明月院領の事を、永祿二年、【小用原所領役帳】に、卅一貫九百七拾文、相州東部岩瀨の内今泉とあり。開山は密室守嚴和尚、大覺禪師の法孫なり。開基は上杉安房守憲方也。法名を明月院大樹道合と號す。應永元年十月廿四日卒、歳六十。本尊觀音腹中に、小佛像數千を納む。虛空藏と愛染の像といふ。其傳えを失ふ。開山の像を安ず。此寺地は、最明寺時賴が大廈の幽亭を構へし舊跡なり。北條氏滅亡し、此亭も荒廢せし跡へ、上杉憲方が當寺を造立せしものなりといふ。明月院の舊地は、憲方が塔窟の前なる畠地なり。

「永祿二年」西暦一五五九年。

「密室守嚴」(みっしつしゅごん ?~元中七/明徳元・康応二(一三九〇)年)は蘭渓道隆の五代目の法孫。

「應永元年」西暦一三九四年。

「大廈の幽亭」大きな構えの屋敷の隠居所。

   *

 

Meigetuinnzennkoujizennzu

 

序でに上に掲げたのは同所に添えられた「明月院並禪興寺旧跡」である。図の右奥の高台に「明月院方丈」、その直ぐ左手に「客殿」、そこから下った位置に先に出た「禪興寺佛殿」と平の時頼塔」が、その左手奥のやぐらのところに次に出る「上杉憲方之塔」と記されていあるようである。右下の横向きの文字は、「山ノ内往還」か? また、左下の岩窟の前(雲上)には、「岩窟二三あり/其いにしへの/矢倉なるにや/古墳なるか/しれず」とある(二行目は自信がない)。このやぐらは私はよく知らない。配置から見ると現在は個人の邸宅敷地内にありそうな感じである。……それにしても今や、紫陽花の頃にはこの人気なき侘しい田園風景の場所に、絵図の右手前(ちょうど現在の横須賀線が小川に平行すると考えればよい)から、整理券を持ってゾロゾロと人が並んでいるという訳である。……

「瓶の井」「つるべ」とも「かめ」とも呼ぶ。『岩を掘り貫いて作ったとみられる。特に伝説はないものの、現在も明月院の庭水などに使用されているため、十井の中でも貴重な存在といえる』(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊「鎌倉事典」の記載)ものである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  最明寺の舊跡

    ●最明寺の舊跡

最明寺の舊跡は。禪興寺といひ。福源山と號す。明月院の門を入り左の方なり。平時賴の創建せし所とす。東鑑に建長八年七月十七日宗尊将軍山内の最明寺に御參り。此精舍建立の後。始て御禮佛也。同年十一月廿三日。相州時賴最明寺にて落飾。法名覺了房道崇戒といふ。開山は道隆なり。昔は七堂伽藍ありしが。今は全く廢寺となれり。但永正六年九月管領(くわんれい)政氏より。建長寺玉隱に當寺再興の事に就て書を贈りし事あれは。其の衰微に歸せしは久しきことゝしられたり。

[やぶちゃん注:本文にある通り、原形の「最明寺」が廃れ、その後「禪興寺」となったがこれもその塔頭であった明月院を除いて廃寺となった。最明寺は北条時頼が出家の準備として建立した、極めて個人的な持仏堂乃至は禅定室のようなものであって、建立後も住持がいた形跡がなく、時頼の死後(弘長三(一二六三)年十一月二十二日)、すぐに廃絶してしまったものと考えられている。但し、その比定位置は現在は、従来唱えられていた名月谷奥の狭い範囲などではなく、名月谷入口から東慶寺門前に及ぶ山ノ内街道北側のかなり広範囲な一帯に寺域を保持していたと考えられている。その後、ほぼ同地域に北条時宗を開基、蘭渓道隆を開山として最明寺廃絶数年内の文永五(一二六八)年か翌年辺りに開創されたものが禅興寺であった。禅興寺はその後、一旦廃絶したが、永正九(一五八一)年に再興され、その後は天正九(一五八一)年頃までは続いたと推定されている。その後に再び衰微し、貞亨二(一六八五)年に完成した「新編鎌倉志卷三には、昔は七堂伽藍が巍々と連なっていたが、今は仏殿しかなく、明月院の持分(もちぶん)となっていると記す状態で、結局、明治初期に禅興寺は廃絶、塔頭であった明月院のみが残ったのである(以下に、当該箇所を引いておく)。

   *

◯禪興寺〔附最明寺舊跡。〕 禪興寺(ぜんかうじ)は、福源山(ふくげんさん)と號す。淨智寺の向ひ、明月院の門を入りて左なり。關東十刹の第一也。平の時賴の建立、即ち最明寺(さいみやうじ)の舊跡なり。【東鑑】に、建長八年七月十七日、宗尊將軍、山の内の最明寺に御參り。此精舍建立の後、始めて御禮佛也。同年十一月廿三日、相州時賴、最明寺にて落飾、法名覺了房道崇(かくりやうばうだうそう)、戒師は宋の道隆(たうりう)とあり。當寺の開山も道隆なれども、無及德詮を第一祖とす。昔は七堂伽藍ありしと也。源の氏滿(うぢみつ)建立の時の堂塔幷に地圖、今明月院にあり。甚だ廣大なり。今は佛殿ばかりあり。明月院の持分なり。寺の僧の云く、上杉道合(だうがう)は、當時の檀那なり。明月院は、道合の菩提所なるゆへに、當寺を領するとなり。

   *

引用文中の「上杉道合」は上杉憲方(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。後掲される。

「建長八年」一二五六年。

「永正六年」一五〇九年。

「管領政氏」「政氏」は古河公方足利成氏の子二代目古河公方足利政氏(寛正三(一四六二)年~享禄四(一五三一)年)であるが、彼は公方でその補佐役の関東管領ではない。因み、この時の関東管領は上杉顕定である。なお、この頃は顕定との協調による、所謂、公方―管領体制の再構築の時期で、鎌倉支配の復活が見られる頃である。

「玉隱」臨済宗大覚派の僧で当時の建長寺住持であった玉隠英璵(ぎょくいんえいよ 永享四(一四三二)年~大永四(一五二四)年)。ウィキの「玉隠英璵」によれば、信濃国東部の武家滋野氏の出身と言われる。鎌倉禅興寺明月院の器庵僧璉(きあんそうれん)に学び、『その後継者として同院宗猷庵に居住した。応仁の乱後の鎌倉五山を代表する文人として知られ、漢詩や書に優れた。また、太田道灌と親交が厚く、道灌を通じて万里集九とも親しくした』(万里集九(ばんりしゅうく)の紀行文「梅花無尽蔵」は鎌倉の名紀行として知られる)。文明一八(一四八六)年に『万里集九が鎌倉を訪れた際には、玉隠の宗猷庵を宿所としている』。延徳三(一四九一)年に『行われた金沢文庫検査封鍼の際に立会人を務め』、明応七(一四九八)年には将軍足利義高によって建長寺百六十四世住持に任ぜられている。『後に明月院に退いて禅興寺の再建に尽くした。また、安房国の里見義豊を若年ながらその器量を高く評価して親交を深めた』とある。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  尾藤ケ谷

    ●尾藤ケ谷

尾藤ケ谷は。管領屋敷(くわんれうやしき)の對地(むかひ)淨智寺東鄰の谷なり。里人いふ昔は尾藤左近將監景綱こゝに居住す。故に名づくと。今猶ほ其の宅地と稱する所あり。[やぶちゃん注:新編鎌倉志三」に以下のようにある。私の注も含めて引く。

    *

○尾藤谷 尾藤谷(びとうがやつ)は、管領屋敷の向ひ、淨智寺の東鄰の谷(やつ)也。里人の云く、昔し尾藤左近將監景綱此に居す。又圓覺寺額(がく)の添狀(そへじやう)に、延慶元年十一月七日、進上、尾藤左衞門尉殿、越後の守貞顯(さだあき)とあり。此尾藤歟。又佛日菴に、小田原よりの文書あり。鼻頭谷(びとうがやつ)と書けり。

「尾藤景綱」(?~文暦元(一二三四)年)は鎌倉初期の武士。藤原秀郷の末裔で、北条泰時に近侍した。彼は鎌倉幕府史上、初代の家令となったが、「東鑑」によれば、その時既に泰時の邸内に彼が住居を構えていた旨、記載がある。但し、泰時邸は当時の幕府正面、現在の宝戒寺のある位置であることが判明しているので、本文のこれがもし尾藤の居宅とするならば、彼が身内の事件に端を発して出家した嘉禄三(一二二七)年以降のことかとも思われる。しかし彼は病没する前日まで家令として幕政実務を取り仕切っていたことが分かっており、彼をこの同定候補とするのには疑問がある。

「延慶元年」は西暦一三〇九年

「越後守貞顯」は幕府滅亡とともに自害した北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三(一三三三)年)。鎌倉幕府第十五代執権。彼は嘉元二(一三〇四)年に越後守、正和二(一三一三)年に武蔵守に遷任されているから、この添状と合致する。当時、彼は幕府寄合衆・引付頭人であった。但し、こちらの「尾藤左衞門尉」は何者か不詳。識者の御教授を乞う。

   *]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 德泉寺の舊跡

    ●德泉寺の舊跡

德泉寺の舊跡は。山内管領屋敷(くわんれいやしき)の東市家の後(うしろ)なりといふ。上杉朝宗の建立にして。開山は東嶽和尚〔文昱〕なり。朝宗の法號を德泉寺道元稽禪助庵主と號す。應永二十一年八月廿五日卒せり。

[やぶちゃん注:臨済宗。山号は霊芝山。管領屋敷跡(或いは東管領屋敷)と呼称される一帯の西部分で、現在の亀ヶ谷切通の上部入口の道の西北向かいに当たる。

「上杉朝宗」(ともむね 建武元(一三三四)年?~応永二一(一四一四)年?)は犬懸上杉家始祖上杉憲藤(のりふじ)の子で朝房(ともふさ)の弟。氏憲(禅秀)の父。関東管領。足利尊氏に従った父が北畠顕家との戦闘で暦応元・延元三年(一三三八)年に摂津(「信濃」ではない)で亡くなった後は、兄とともに家臣石川覚道に養育された。天授三・永和三年(一三七七)年に関東管領であった兄朝房から家督を譲られ、犬懸上杉家第二代当主となる。応永二(一三九五)年(現在知られる就任は「應永五年」ではない)から応永十二年(一四〇五)年まで関東管領を務めた。応永十六(一四〇九)年に鎌倉公方足利満兼の逝去とともに剃髪、禅助と号して上総に隠退、家督も氏憲に譲っている。

「東嶽和尚〔文昱〕」「ぶんいく」と読む。円覚寺第六十一世東岳文昱(?~応永二十三(一四一六)年)。]

我電子情報剽窃改竄頁――梟首!――「鎌倉タイム」の「新編鎌倉志 第一巻 黄門様による、元祖鎌倉ガイド」というおぞましきシロモノを糾弾する――

俺の「新編鎌倉志卷之一」の本文データを丸ごとごっそり無断使用し、カタカナをひらがなに改める小手先の改変をし、あたかも全く別個の別底本で電子化した(無論、俺の電子テクストへの言及など微塵もない)と称している笑止千万なページを発見しちまった。
 
「地元記者発、鎌倉ガイド」と名打つ「鎌倉タイム」の「新編鎌倉志 第一巻 黄門様による、元祖鎌倉ガイド」だ――
 
しかも捏造が徹底していないから元が私の振り仮名カタカナ版であることがばればれだ(残ってるよ! カタカナが! それもコピー・ペーストした際に特徴的な( )なしで後に続く形でだ!)。お前さんが底本としている奴は俺も持ってるが、「なるべく原文に忠実になるよう心がけておりますが、読みやすくするためふりがなを追加するなどしています」だあ? そんあこと言うなら、漢文脈にご丁寧な書き下しなんか( )書きでつけたことを何故言わねえ?!! 言わなきゃウソだろ? 言えねえよな。だってそれは――俺がやったんだからな!
 
――そもそもが書名を【 】記号で挟むというのはだね、あんたが一言も言っていない「大日本地誌大系」を底本にしねえ限り、偶然にもほどがあるほどおかしな仕儀なんだよ! ボケ! しかもしかも、途中で記事が切れているところもあるじゃあねえか! 偸むんならっかりかっちり盗まんかい! なんじゃあ? こりゃあ?!(ジーパン刑事風に) 
 
鎌倉好きの、こつこつと電子データ作りに苦労している人々の、これ、風上にも置けない代物である。
 
忠実を欠く文字』たぁ、どこのどいつに対する『忠実』だ?! 誰に『欠く』んだ?! この最下劣野郎が!

『小誌は史家の研究媒体ではありませんので瑣末と判断した部分は適当に流し、小見出しを追加、さらにはある規則性をもって入れ替えたりしてあります』なんていう屎呆けは笑止千万焼死万死だ!
そもそも、お前の考える「瑣末」って何だ?
 
「適当に」何を「流」したんだえ?
 
そんなにいい加減なのに、しかもブラック・ボックスの「ある規則性」たぁ、こりゃまた何でえ?
 
そもそもがお前にとっちゃ、「史家の研究」は「瑣末」なことだらけらしいが(言っとくが、俺は史家じゃあねえ。「瑣末」も「瑣末」野人蛮人藪野人たる鎌倉小市民だわ!)だから、その「ので」の結果のお前のテクストは一体何を目的としたものだと糺してえわけよ!
 
そんなお前の言う通りの会心のものを、俺があんたに頼まれたなら、もっと「瑣末」な部分を大幅にカットして、小学生にも愉しく読めるちょっちおもろい現代語訳にして、チョー読み易い「『鎌倉タイム』ばん やぶちゃんと歩くしんぺんかまくらし」として作ってやってもいいんだぜ? 勿論、無料でだ!!  
 
そうして何より腹ン立つのは、最後だ!

「無断掲載を禁じます」だあぁ!?!
 
何様のつもりだい!!!! 人のもん、黙って偸んどいて?!
 
「誰でもこのテクストをお使い下さい。但し、いい加減です」

としてあったら……いや、千歩譲って俺は一切口を噤んでたんになぁ……


思わずこれ見て――というより――これだけで怒り心頭に発して――失笑失禁して失神しそうになっちまったゼ! この救い難い馬鹿に!!
 
訴える気もおこらねえ。
 
一言――使ったよ――と言って呉れりゃ、真逆にハッピーだったのに実に残念だ
ということだ――パブリック・ドメインの電子データは拡散してよい、否、拡散し、より優れた正確なものに進化すべきであると私は考えている――しかしこの大嘘こいて私のを元に剽窃されたデータは寧ろ元の私のそれより致命的に改悪されていると私は断言出来る――お暇な方はどうぞ、ジックリ、見比べて戴きたい。
 
ただ――せめてこうしてネット上で――さらし首には、したるわ――

言っとくが、これは妄想じゃあ、――ねえ! だってさ、俺が間違いなく誤って作製したHTMLタグ部分に限って、不具合があるじゃねえか! 
どこが「大嘘」かだって?
そもそもがだ、先様が底本だと宣うておられるのは影印画像なんだ。OCRじゃ読み込めねえ代物だ。ということは、総て手打ちでやったということだよな? だのに何故、俺と同じ箇所に誤りが生じたり、俺が個人的に加えた送り仮名や歴史的仮名遣の読みが実に驚くべき〈ある共時性をもって〉(お前への見え見えの皮肉だ)そこにあるんだろう? そんなことが、これ、あると思うかね?! これはね、電子テクスト作りを十年もやってきた私の経験上からも、ゼッタイに! 120%、ありえないことなんだよ! 一つだけ言ってやろうか? おたくの電子データを「幷」と「并」で検索して見いな。おかしいな? 俺と同じところが「并」、「幷」となってるねぇ。……誰でもいいから聴いてみな。そんな可能性が起こる確率を、だよ! それともあんたは俺のクローンかな? 
♪ふふふ♪
 
遺恨のために俺のテクストを訂さずに残しおくこととしようかとも思ったが、それでは私のテクストをどっかのそれと同じように不良品のままに放置することになり、それを人々に供するというのは、これ、それこそ悪寒冷感クソ気持ち悪いので、やめにした。……さても「第二回目」とか言ってるな? 調子こいて続けるか? だったら――第二巻以降はどうか、ちゃんと一字一字タイピングして早稲田大学図書館蔵版を一から素手打ちでやっておくんない! そしたら、無名のこっちとらの勉学のためどころか、俺のと比較対照出来る、素晴らしいものになるだろう。大いに期待している。頑張られよ。
 
以上が全くの誹謗中傷というのなら――
テツテ的に対決しよう!――いつでも俺は待っている!――


【言うもおぞましいが、この記事を書いた二日後に見たら、あれあれ?! 当該頁が、お洒落にすっきり本文を除去して書き換えられていた。おまけに俺が指摘していない序と目録の頁も一緒に消失だ。
 
おかしかねえかい?

やましくねえなら、テツテ的に無視すりゃいい。キレイでセレブ好みの鎌倉ガイド・サイトだもんな。俺のような野人の「
譫言」など糞ほどのもんじゃねんだろ?
 
……いやいや、折角、俺の誤りの一部をも直して呉れてもいたんに。♪ふふふ♪
 
……しかしさ、言っとくとな、書き換えてもおかしいぜ! 「底本」って、何だよ?! テクストもねえのに「底本」たぁ、ちゃんちゃらおかしいぜ!――♪ふふふ♪
 
さても最後に――

先方からは未だに私には一言も、何も、ない。――正直、弁解でも何でも変更ページに一言あったなら、私はこの書いている自らも不愉快な記事を速やかに撤去する予定であった。

それが――「鎌倉タイム」というソーシャル・リベラルを気取ったサイトのケツを捲くった「答え」だったのである――

従って、この記事は永遠に消すつもりは――ない――
 
どうってことはないよな、確かに。――それでも――検索をかければ――おぞましく私の――この「おぞましい」記事が――ずっと残り続けるということは、よく覚えておきたまえ。
 
それが真正の――私の「梟首」――の謂いである。以上。
 
これだけ言っても腹も立てねえ、て前(めえ)は、言っとくが、記者、ジャーナリストの風上にもおけねえ、救いようのないモノホンの最下劣野郎だゼ!!!】

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 管領屋敷

    ●管領屋敷

管領屋敷(くわんれいやしき)の址は。明月院に至る路東の畠なり民部大輔上杉憲顯(のりあき)足利基氏の執事としてこゝに住し。子孫亦此所に居宅す。蓋し當時僭稱して執事を直ちに管領と唱へしに因り。管領屋敷の名を傳へたり。後(の)ち永祿四年三月。上杉謙信鶴岡八幡宮參詣の時。上杉舊館の蹤跡たるを以て。當所に假屋を設けて止宿せしことあり。

[やぶちゃん注:これについては伝承のみで、確固たる同定確証はなく、現在は最早、位置も定かには現認出来ない(一応、長寿寺の向いの東北一帯を「東管領屋敷」と呼称してはいる)。「新編鎌倉志卷之三」に、

   *

管領屋敷 管領屋敷は、明月院の馬場先(ばばさき)、東鄰の畠也。上杉民部の大輔憲顯(のりあき)、源の基氏の執事として此所に居す。其の後上杉家、代々此の所に居宅す。其の時鎌倉にても京に似せて、管領を將軍或は公方などと稱し、執事を管領と云故に、此の處を管領屋敷と云なり。後に上杉顯定、上州平井の城に居す。しかれども山の内の管領と云ふ。憲顯の末流を、山の内上杉と云なり。扇谷(あうぎがやつ)の上杉と云あり。扇谷の條下に詳かなり。

   *

とある。

「民部大輔上杉憲顯」(徳治元(一三〇六)年~応安元・正平二三(一三六八)年)は南北朝期の武将。関東執事から関東管領。足利尊氏・直義の従兄弟。特に直義とは同年で親しかった。鎌倉で足利義詮を補佐したが、もう一人の執事であった高師冬と対立、観応二・正平六(一三五一)年に師冬を滅ぼして関東の実権を握った。その後、兄と不仲になった直義を匿おうとして尊氏と対立、敗走、信濃に追放となった(観応の擾乱)。後、鎌倉公方足利基氏に許されて復帰、貞治二・正平一八(一三六三)年は入鎌して関東管領となった。足利氏による関東支配の中核を担い、更に関東上杉氏勢力の基盤を固めた人物。

「上杉顯定」(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)は戦国の武将。関東管領。越後守護上杉氏の出身であったが山内上杉家当主を継ぎ、四十年以上の長きに亙って関東管領職を務めた。古河公方足利成氏との対立、家臣長尾景春の反乱、同族の扇谷上杉定正との抗争、越後の長尾為景との戦い(この戦で戦死)など、兵乱の只中を生きた、山内上杉氏の最後の光芒を放った人物である。

「永祿四年三月」西暦一五六〇年。

「上杉謙信鶴岡八幡宮參詣の時」鎌倉好きを口にする方々の中にも、かの上杉謙信が最後の関東管領であって、この年に上杉憲政から譲り受けた関東管領職を公認させるために彼が鎌倉に来て鶴岡八幡宮を参拝し、長尾景虎から上杉政虎に改めたという事実を言うと、知らなかったと返す人が存外、多い。現在の研究ではこの拝賀の儀は同年の三月二十六か二十七日頃と推定されている。ユリウス暦で四月二十一日か二十二日で、後のグレゴリオ暦に換算すると五月一日か二日であるから目には青葉の大臣山(だいじんやま)であった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 山之内

    ●山之内

山之内は。粟船(あはふね)、本郷、倉田、戸塚の邊まてをいふ。里人(さとびと)は東は建長寺。西は圓覺寺の西野の道端(みちばた)。川邊に榎木(ゑのき)あるを境とすといへり。東鑑に建久三年三月二十日。山内に於て百ケ日の温室(ふろや)あり。往返(わうへん)の諸人(しよにん)幷に土民等浴(よく)すへきの由。札を路頭に立らる。後白河法皇御追福の爲め也とあり。又昔し首藤(しゆとう)刑部丞俊通始てこゝに居住し。山内を家號とす。今猶ほ其の第址あり

[やぶちゃん注:鎌倉一」の「山ノ内村」より引用する。下線やぶちゃん。

   *

山ノ内村[小坂郷山ノ内庄] 巨福呂坂邊より巨福呂谷村迄の間をいふ。むかしは離山粟船村邊は勿論、吉田本郷邊迄も山ノ内なりし事ものに見へたり。今は圓覺寺總門外より西續き、巨福呂谷村を堺とする由。往古は此地に寺はなく、皆武家屋敷と村民なりしかど、今は悉く寺院内に入、上杉管領屋敷跡といふも寺地に屬す。村地とする所は僅なり。治承四年十月六日、右大將家は武藏路よ鎌倉へ着御し給ひ、同九日、大庭平太郎景能を奉行として山の内の知家事(ちけじ)兼通が宅を移して、假の御亭に營作せらるゝとあり。又山ノ内を氏に稱するものは此地の産なり建久三年三月廿日、後白河法皇の御追福の爲に、俊兼奉行し、山ノ内の地にして百ケ日の間浴室を施行せられ、往還の諸人並村民等浴すべき由、路頭に札を建られしとあり。其地今は知べからず。建仁二年十二月十九日、賴家卿山ノ内の荘へ鷹場御覽に出給ふとあり。仁治元年十月十九日、前武州[泰時]の沙汰として、山ノ内の路を造らる。この路頭嶮難にして往還の煩ひあるに依てなり。いまも道路狹く、南の方は山に接し、北の方の路傍、建長寺境内より流出る水路有て嶮隘なる道路なり。建暦三年和田亂の時、一味の山ノ内の人々廿人とあり。其人々没收せられし地を同年に北條義時に賜ふとあれば、是より北條氏が領所と成けるゆへ、泰時に至て粟船村に常樂寺を基立し、又時賴は此地に別業を設け、建長寺、禪興寺を建立し、其子時宗圓覺寺を開基し、時賴の孫師時は浄智寺を創建し、又時宗が妻室の禪尼は松ケ岡の東慶寺を剏建せり。是所領の地なるゆへ數ケ寺院を造りし事なり。

   *

引用文中の「知家事」は鎌倉幕府の政所の職名。案主(あんじゅ・あんず:文書・記録等の作成保管に当たった職員。)とともに事務を分掌した。「浴室」はかつて主に寺院が貧民や病者を対象として行った施浴の施設。寺内の浴室を開放したり、仮設の施設を設けて行った。この時のものは一種の薬草を燻じた蒸し風呂様のものであったようである。

 以下、記事元である「吾妻鏡」建久三(一一九二)年三月二十日の条の当該記事も引いておく。

   *

廿日壬辰。於山内有百ケ日温室。往反諸人幷土民等可浴之由。被立札於路頭。是又爲 法皇御追福也。俊兼奉行之。今日御分也云々。平民部丞。堀藤次等沙汰之。以百人被結番。雜色十人在此内云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿日壬辰(みづのえたつ)。山内に於いて百ケ日の温室(うんじつ)有り。往反の諸人幷びに土民等、浴すべきの由、札を路頭に立てらる。是れ又、法皇御追福の爲なり。俊兼、之れを奉行す。今日(こんにち)の御分(ごぶん)なりと云々。

   *

「今日の御分なり」とはこれが頼朝自身の後白河法皇追福の功徳の分として民に施された期日限定の入浴場であったことの謂いと思われる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 足利尊氏墓

    ●足利尊氏墓

足利尊氏の墓は。長壽寺の境内(けいない)。西の方杉林(すぎばやし)の中。山麓の土窟内に在り。逆賊の墳墓爭てか永く全きを得む。今は人の倒す所と爲り。五輪の石塔離折して四方に散在す。何人か此に來りて憤慨せさる者あらむ。宜(むべ)なるかな。その此(こゝ)に及へること。此の寺の南を尊氏屋敷といふ。大倉幷に巽荒神(たつみくわうじん)の東にもあり。三所共に尊氏の舊宅在るべし。

[やぶちゃん注:以下、何故か全体が一字下げ。]

尊氏の法號を長壽寺殿妙義仁山大居士と號す。石塔には刻字なし。

[やぶちゃん注:私もずっと昔に参ったことがあるが、恐らく鎌倉になる知られた歴史上の人物の墓としては最も無惨な見るに堪えない寄せ集めである(私は実際、見るなり、「これは酷い!」お思わず口に出して叫んだことを記憶している)。「相模国風土記稿」に載る「尊氏廟塔」とする図では、高さ八尺(二メートル四十二センチメートル)の宝篋印塔で塔身部分(中央の通常は梵字や戒名などが彫られる部分)が通常のように方形でない蜜柑型の楕円をなした見た目可愛らしい感じ(が私にはする)のものであるが、現在のそれは似ても似つかぬ残骸と無関係なものの寄せ集めである(グーグル画像検索「足利尊氏の墓 長寿寺」を見よ)。戦前は尊氏は逆賊とされ、尊氏絡みのものを所有する寺院は文字通り、愛国少年らから石を投げつけられた(梁牌銘に尊氏のそれを持つ覚園寺の先の住職大森順雄氏から二十歳の頃に直接お聴きした話)。この『風俗畫報』の「逆賊の墳墓爭てか永く全きを得む。今は人の倒す所と爲り。五輪の石塔離折して四方に散在す。何人か此に來りて憤慨せさる者あらむ。宜なるかな。その此に及へること」という叙述も、如何にもな田舎芝居がかっていて、突如、義憤に襲われた振りをし、尊王の志士みたような台詞を、倒置法まで利かせて吐いており、如何にも気持ちが悪く異様で、本誌中でもイヤな感じの特異点と言える。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  長壽寺

    ●長壽寺

長壽寺は寳龜山と號す。鎌倉志等に足利基氏其の父尊氏の爲めに建(たて)る所とあれとも。風土記に當寺所藏に。建武三年八月當寺を諸山(しよさん)の列に定めし尊氏の公文(こうぶん)あり。是に據れは沒後の開基とするは中らす。今是非を决し難しとあり。昔は伽藍巍々たりしが。今は衰微し。惟久殿〔佛殿〕は其の名のみにて。獅王殿即ち客殿に本尊釋迦、文殊、普賢及ひ尊氏〔束帶〕開山古先和尚等の木像を安置す。

[やぶちゃん注:「鎌倉志等に足利基氏其の父尊氏の爲めに建る所とあれとも」「新編鎌倉志卷之三」の「長壽寺」の条には、

   *

◯長壽寺〔附尊氏屋敷〕 長壽寺(ちやうじゆじ)は、寶龜山(ほうきさん)と號す。關東諸山の第一なり。源の基氏父尊氏の爲に建立す。尊氏を長壽寺殿妙義仁山(めうぎにんざん)大居士と號す。〔尊氏、京都にては等持寺と云、鎌倉にては長壽寺と云。〕延文三年戊戌四月廿九日に薨ず。當寺に牌あり。開山は古先和尚、下の行狀に詳かなり。昔しは七堂ありしとなり。今は滅びたり。鐘は圓覺寺山門の跡にあり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあり、「鎌倉攬勝考卷之五」の同寺の条でも、

   *

長壽寺 山ノ内往來路に總門あり。寶龜山と號す。關東諸山の第一なり。足利尊氏將軍追福の爲に、鎌倉公方基氏朝臣の剏建なり。尊氏卿の法號を、長壽寺殿妙義仁山大居士と號す。延文三年戊戌四月廿九日薨逝。京都にては等持院殿と稱す。古えは當寺も七堂ありし由。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とする(但し、後者は多分に「新編鎌倉志」を引き写した可能性が高く、特にこの長寿寺の条はかなり杜撰な処理がなされている。リンク先(同寺が冒頭)の私の注を参照のこと)。対して、「新編相模国風土記稿」には以下のように記されて特異点を成している(私は同書籍を所持しないので国立国会図書館近代デジタルライブラリーの「大日本地誌大系 第三十九巻」版の当該箇所を視認した。なお、「當時」及び「例に定し」の「例」はママである。「蚤く」は「はやく」と訓ずる。住持名「中岑」は「ちうしん(ちゅうしん)」と読むと思う)。

   *

◯長壽寺 寶龜山と號す臨濟宗にて關東諸山の第一なり當寺所藏開山古先の行狀記〔永和二年、福山の石室が書記せしなり、〕及び【鎌倉志】【高僧傳】等みな源の尊氏〔延文三年四月廿九日薨ず、牌あり長壽寺殿妙義仁山大居士と記す、〕の薨ぜし後管領基氏父の爲に剏建すと記せど、當時所藏に。建武三年八月當寺を諸山の例に定し、尊氏の公文あり〔曰、當寺事、可爲諸山之列也、可被存其旨之狀如件、建武三年三月廿九日、長壽寺長老、尊氏の華押あり、〕是に據れば沒後の開基とするは中らず、今是非を決しがたし、昔は七堂伽藍具足せしとぞ今は悉く滅せり、舊は應永の鑄鐘ありしが蚤く逸して今は圓覺寺、正續院にあり、則應永の銘あり〔銘文は正續院條に註記す、〕彼山内に移せしは何の頃何の故たる事ふつに傳へず、彼院の條併見るべし、△客殿 獅子王殿と唱ふ、釈迦・文殊・普賢を本尊とし、古先・中岑二師の像及び尊氏束帶の像を置く、[やぶちゃん注:以下寺宝が続くが略す。]

   *

「惟久殿」は「ゐきゆうでん(いきゅうでん)」と読むのであろう。「惟」は「ユイ」とも音読み出来るが、如何にもごろが悪い感じがする。

「古先和尚」古先印元(こせんいんげん 永仁三(一二九五)年~応安七/文中三(一三七四)年)は臨済僧。薩摩生。円覚寺の桃渓得悟(とうけいとくご)に入門して十三歳で得度、文保二(一三一八)年には元に渡って、天目山の中峰明本らに師事した後、嘉暦元(一三二六)年に清拙正澄(せいせつせいちょう)の来日に随って帰国、正澄が建長寺に入ると経蔵の管理を担当した。建武四年/延元二(一三三七)年には、かの夢窓疎石に請われて甲斐国の恵林寺住持となり、更に足利将軍家の信任を受けて足利直義から京の等持寺の開山に、足利義詮からはこの長寿寺の開山に招かれ、更に天龍寺の大勧進をも務めている(他にも陸奥国岩瀬郡の普応寺など彼を開山とする寺院が知られる)。この間、康永三年/興国五(一三四五)年に京の真如寺、貞和五/正平四(一三五〇)年に万寿寺に住まいし、更に鎌倉の浄智寺を経て、延文四/正平一四(一三五九)年には円覚寺第二十九世に、次いで建長寺第三十八世となった。晩年はこの長寿寺に居住した。諡号は正宗広智禅師(以上はウィキの「古先印元」に拠った)。]

2015/07/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  龜ケ谷阪

    ●龜ケ谷阪

龜(かめ)ケ谷阪(やつさか)は。鎌倉七切通の一にして。扇ケ谷と山之内との中間に在り。長壽寺より南折し行く阪路(はんろ)をいふ。即ち南を扇ケ谷。北を山之内とす。元弘三年五月新田義貞北條氏の兵と戰ひし舊蹟なり。

[やぶちゃん注:「元弘三年五月新田義貞北條氏の兵と戰ひし舊蹟なり」これは巨福呂坂の誤りと思われる。「太平記」には亀ヶ谷坂の記載はない。元弘三年五月十八日(ユリウス暦一三三三年六月三十日/グレゴリオ暦に換算すると七月八日に相当)、鎌倉攻略の初戦に於いて新田義貞は六十万七千余騎の軍勢を三手に分け、極楽寺坂・化粧坂・巨福呂坂の三方から攻撃を開始している。極楽寺坂には大館(おおたち)宗氏・江田行義を将として、巨福呂坂には堀口貞満・大島守之を将としてそれぞれ十万余騎、中央の化粧坂からは新田義貞と弟脇屋義助が攻勢をしかけていることが明記されてある。この巨福呂坂を現在の亀ヶ谷坂と考える説もあるやに聞くが、「鎌倉市史 考古編」の「鎌倉城跡」(聴き馴れないかも知れぬが九条兼実の日記「玉葉」に記されている呼称である)の「規模構造」の「ロ 切通及び支城」の「亀ケ谷切通」の項に『山ノ内に入った敵は、建長寺手前から長寿寺のわきを経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通した亀ケ谷坂である。現在の切通は後世深く且つ広く改修したもので、当時は現在の切通の上方を狭い切通路が通っていた』から、当時のその『前方に逆茂木をならべ切通上に陣を敷いて待ちかまえたら、通ることは出来なかったろう』とあり、同じ険阻な切通しでも突き破れば一気に野戦から幕府建物への攻勢に持ち込める巨福呂坂に対し、より狭く、下っても左に迂回せねばならず、しかもその際に危険な尾根裾を行かねばならない亀ヶ谷ルートは私が大将なら選ばない。]

舊稿の中より   夢野久作

[やぶちゃん注:以下の総表題「舊稿の中より」という歌群は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」直後に配されてある「獵奇歌」の「SY君を弔ふ」十二首/「レーニン死す」十一首/計二十三首と前書からなるものである。但し、それぞれの前書から分かるように、これらは「獵奇歌」の最初の第一群が公開された昭和二(一九二七)年八月よりも前に詠まれたもので、それぞれ、「SY君を弔ふ」が十年前の大正六(一九一七)年の九月中旬(前書に「その年の暑中休暇が濟んだ頃」とある)、「レーニン死す」が三年大正一三(一九二四)年の春(ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин 一八七〇年~一九二四年)の死去は同年一月二十一日)に創作された歌群と推定出来る。

 同氏の解題によれば、この「「獵奇歌」を掲載中であった、『獵奇』の昭和七(一九三二)年四月号に掲載されたものである(署名は夢野久作)。同号に掲載された「獵奇歌」は十六首もあり、創作出来なかったことによる苦し紛れの掲載ではなく、素直に前書を信じてよいものである。因みに、掲載当時の久作の年齢は満四十三であるが、「SY君を弔ふ」は二十八(クラとの結婚の前年で、杉山家嗣子として還俗、唐原(とうのはる)の農園に戻った年である)、「レーニン死す」は三十五歳であった(この同年春三月に『九州日報』を退社(一度目の方)している)。

 なお、「SY君を弔ふ」(「SY君」は不詳)に現われる前書には看過出来ない差別的錯誤があるので注意されたい。彼はこの追悼歌を詠んだ「SY君」という故人について、彼は『遺傳の業病かゝつ』ていたと述べ、十二首の内一首を除いて『レプラ』『癩病』がちりばめられてある。これは無論、この歌友の罹患していた病気がハンセン病であることが判る。ハンセン病は細菌門放線菌門放線菌綱放線菌目コリネバクテリウム亜目マイコバクテリウム科マイコバクテリウム属マイコバクテリウム・レプラ Mycobacterium leprae による純粋な感染症であるが(現行、種名和名を「らい菌」とするが、私はこの謂い方も「癩病」を廃している以上、廃するべきと考える。されば学名をそのまま音写した)、歴史的に永い間、生きながら地獄の業火に焼かれるといった「天刑病」「業病」の差別、潜伏期が長いことから(一般的には三~五年であるが十年から数十年の後に発症する症例もある)感染症とは考えにくいという誤認、後の悪法「らい予防法」(昭和二八(一九三三)年)などに見るように日本政府自らが優生学政策を掲げたことなどから遺伝病であるというとんでもない誤解が広まっていたのである。そうした顕在的潜在的差別意識(それは患者であるSY君の言葉の中にさえ出現する)に対して充分に批判的視点を持ってお読みになられるようお願いする。そうして、かくも誤った認識によって、かくも凄絶に孤独に死んでいったハンセン病に罹患した人々がいた事実を記憶に刻み込んで戴きたい。

 

 

 

   舊稿の中より

 

 

 

     ㈠

 

 S・Y君を弔ふ

 

 大正五年の六月初旬、歌友S・Y君が長逝しました。S・Y君は凛々しい美男で、頭が優れて良かつたのですが、遺傳の業病にかゝつて以來、鄕里九州の或る半島の奧に一人住居の小舍を造り、其處(そこ)で死期を待つて居るといふ噂を、人傳(づ)てに度々聞きました。私はそのたんびに見舞ひに行かうか行くまいか。行つて良いものか惡いものかと思ひ迷つて居りますうちに、その年の暑中休暇が濟んだ頃、突然二三人の歌友が訪ねて來まして、S・Y君が死んだ。この前に見舞い行つた時にはまだ元氣だつたが……云々と報告をして呉れました。

 私は其(その)時に、何ともタマラナイ氣持ちになりましたが、今でも思ひ出すたんびに息苦しくなる樣(やう)です。左記は其時の歌友たちの話をタヨリに詠みました歌です。まことに誠意の無いしわざの樣(やう)ですが、せめてもの懺悔と思ひまして……。

 

   ◇

 

 春まひる

 夕暮れのごと蟲の飛ぶ

 レプラの友の住めるその家

 

 離れませ吾はレプラぞ

 神と人とに地が反(そむ)かする

 吾はレプラぞ

 

 秋更けし夕燒けのごと笑ふなり

 レプラの友の

 泣ける橫顏

 

 地に咲ける最(もつとも)醜くゝ美しき

 血潮の花ぞと

 レプラ囁く

 

 人の世に迷ひも悟りもあらばこそ

 たゞ美と生命ぞと

 レプラの友云ふ

 

 レプラ云ふ

 吾が血は肉は頽れ行けば

 骨のみ殘りて天を呪はむ

 

 レプラ云ふ

 吾が血は肉は頽れ行くよ

 心のみ吾に殘る無殘さよ

 

 癩病の友は云ひけり

 吾が骨の座りて殘らば

 よき諷刺畫ぞと

 

 霜の夜は天の笞(しもと)の

 皮に肉に骨に沁みると

 レプラの友泣く

 

 癩病の友は云ひけり吾が生命

 三年保たば

 神に謝せむと

 

 生きながら眼も唇も流れ失せて

 歌友は逝きぬ

 世は梅雨に入る

 

 蠅ヒシと群れて動かず

 梅苦(にが)き窓邊に死せる

 レプラの吾が友

 

 

 

      ㈡

 

  レーニンを弔ふ

 

 大正十三年一月レーニンが死にました時に詠んだ歌です。今頃少々トンチンカンかも知れませぬが、前の歌稿を探す序(ついで)に見當りましたから、何かの埋草にもと思ひまして……。

 

   ◇

 

 レーニン死す

 遠き露西亞の革命兒

 零下何度の冬のさ中に

 

 レーニン死す

 零下何度の寒風に

 ザーを殺した思ひ出も氷れ

 

[やぶちゃん注:「ザー」はロシア語の皇帝「ツァーリ」царь)の音写か? ロマノフ朝第十四代にして最後のロシア皇帝ニコライ二世(Николай II 一八六八年~一九一八年/在位は一八九四年十一月一日~一九一七年三月十五日)は流刑に処されたが、『チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、一九一八年七月十七日午前二時三十三分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人のヤコフ・ユロフスキー率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が元皇帝一家七人(ニコライ二世、アレクサンドラ元皇后、オリガ元皇女、タチアナ元皇女、マリア元皇女、アナスタシア元皇女、アレクセイ元皇太子)、ニコライ二世の専属医(エフゲニー・ボトキン)、アレクサンドラの女中(アンナ・デミドヴァ)、一家の料理人(イヴァン・ハリトーノフ)、従僕(アレクセイ・トルップ)の合わせて十一人をイパチェフ館の地下で銃殺した。これにより、元皇帝夫婦ニコライ二世とアレクサンドラの血筋は途絶えた』(引用は参照したウィキの「ニコライ二世」に拠るが、アラビア数字は漢数字に代えた)。]

 

 レーニン死す

 その思ひ出の寒風は

 人類のアクマを氷らすであらう

 

 レーニン死す

 兵上が流す熱涙が氷柱になつた

 素晴らしいレーニン

 

 レーニン死す

 墓場はモスコーの赤小路

 心臟ならば動脈瘤の位置

 

[やぶちゃん注:ウィキの「ウラジーミル・レーニンの死に至る部分と「死去」の項を引いておく(アラビア数字は漢数字に代え、注記号は省略した)。レーニンは『一九二二年三月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。五月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。八月には一度復帰するものの十一月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに十二月の二度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった』(中略)。『レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された』。レーニンの妻『クループスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の一九二三年三月六日に三度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、一九二四年一月二十日に四度目の発作を起こして翌一月二十一日に死去した』。『レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した二十七人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは八人だった。このことは梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は一人のみだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈、脳底動脈、内頸動脈、前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟ドミトリーはいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)』。葬儀は死の六日後の一九二四年『一月二十七日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は二十六日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった』(当時、トロツキーの滞在していた場所が二十六日には到底間に合わない所にあったということであろう)。『レーニンの遺体は、死後ほどなく保存処理され、モスクワのレーニン廟に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた』。『ソ連崩壊後、一九三〇年代から一九五〇年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ・ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「バルサム液」なる防腐剤を浸透させたもので、一年半に一回の割合で遺体をバルサム液漬けにするメンテナンスで現在まで遺体を保存しているという』。『なお、ロシア政府はエリツィンのころより、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、そのつど国内の猛反対にあい撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い』とある。]

 

 レーニン死す

 腦を解剖した醫師が

 頭を振つて苦笑ひした

 

 レーニン死す

 腦を覗いた醫者が云つた

 彼は神でも惡魔でも無かつた

 

[やぶちゃん注:以上の二首は前の注で示したレーニンの梅毒性の脳病変という風説に基づくものであろう。]

 

 レーニン死す

 惡魔と云はれた辯舌を

 一層強く鋭くする爲

 

 レーニン死す

 死骸を防腐するといふ

 科學の偶像が又一つ殖えた

 

[やぶちゃん注:「獵奇歌」(但し、この歌群の発表より二年後の昭和九(一九三四)年八月号の『ぷろふいる』掲載分)の中に、私の好きな、

 

 眞鍮のイーコン像から

 蠟細工のレニンの死體へ

 迷信轉向

 

の一首があるが、本歌はその初稿と考えてよかろう。]

2015/07/24

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅸ) / 獵奇歌 了

 

體温器窓に透かして眺め入る

死に度いと思ふ

心を透かし見る

 

タツタ一つ

罪惡を知らぬ瞳があつた

殘虐不倫な狂女の瞳(め)だつた

 

冬空が絶壁の樣に屹立してゐる

そのコチラ側に

罪惡が在る

 

   (昭和一〇(一九三五)年二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

無限に利く望遠鏡を

覗いてみた

自分の背中に蠅が止まつてゐた

 

眞鍮製の向日葵の花を

庭に植ゑた

彼の太陽を停止させる爲

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年四月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

おしろいの夜の香よりも

眞黑なる夜の血の香を

戀し初めしか

 

失戀した男の心が

剃刀でタンポヽの花を

刻んで居るも

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年五月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

世の中の坊主が

足りなくなつてゆく

醫學博士がアンマリ殖えるので

 

郊外の野山は

都會より殘忍だ

靜かに美しく微笑してゐるから

 

深海の盲目の魚が

戀しいと歌つた牧水も

死んでしまつた

 

[やぶちゃん注:「深海の盲目の魚が/戀しいと歌つた牧水」とは若山牧水の、

 

 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり

 

を指す。初出は知らないが、牧水の第四歌集「路上」(明治四四(一九一一)年博信堂書店刊)の巻頭を飾る一首として知られる。歌集刊行当時は久作二十二歳、慶応大学文科二年であった。なお、この一首は牧水の五年越しの人妻園田小枝子に対する恋の破れたその絶唱であるという。牧水の出身である宮崎県立延岡中学校、現在の延岡高校の同窓会ブログ「東海延友会」の工藤ゴウ氏の記事海底に眼のなき魚の棲むといふに詳しい。小枝子の写真や「路上」の初版表紙も見られる。必見。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年六月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

非常汽笛

汽車が止まると犯人が

ニツコリ笑つて麥畑を去る

 

汽缶車が

だんだん大きくなつて來る

菜種畠の白晝の恐怖

 

[やぶちゃん注:「汽缶車」三一書房版全集は「機関車」とする。「菜種畠」筑摩書房版全集を底本とする青空文庫版は「菜種畑」とする。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年七月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

毒藥と花束と

美人の死骸を積んだ

フルスピードの探偵小説

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年七月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

[やぶちゃん注:掲載はこの一首のみである。]

 

 

 

木の芽草の芽伸び上る中に

吾心伸び上りかねて

首を縊るも

 

波際の猫の死骸が

乾燥して薄目を開いて

夕日を見てゐる

 

自殺しに吾が來かゝれば

白い猫が線路の闇を

ソツと横切る

 

春風が

先づ探偵を吹き送り

アトから悠々と犯人を吹き送る

 

涯てしなく並ぶ土管が

人間の死骸を

一つ喰べ度いと云ふ

 

冬空にヂンヂンと鳴る電線が

死報の時だけ

ヒツソリとなる

 

[やぶちゃん注:「ヂンヂン」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

犯人の帽子を

巡査が拾ひ上げて

又棄てゝ行く

春の夕暮

 

血のやうに黑いダリヤを

凝視して少女が

ホツとため息をする

 

山の奧で仇讐同志がめぐり合つた

誰も居ないので

仲直りした

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年十月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

殺人狂が

針の無い時計を持つてゐた

殺すたんびにネヂをかけてゐた

 

腦髓が二つ在つたらばと思ふ

考へてはならぬ

事を考へるため

 

日の光り

腹の底まで吸ひ込んで

骨となりゆく行路病人

 

何もかも性に歸結するフロイドが

天體鏡で

女湯を覗く

 

[やぶちゃん注:この一首、浮世風呂の古浮世絵と、少し太い天体望遠鏡とフロイトらしい人物デッサンをエルンストの「慈善習慣」風にコラージュしてみたい欲求に駆られる。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年十一月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

風に散る木の葉の中の

惡黨が

池の向側に高飛びをする

 

囚人が

アハハと笑つてなぐられた

アハハと笑つて囚人が死んだ

 

中風の姑は何でも知つてゐる

死に度いと思ふ

妾の心まで

 

北極に行つて歸らぬ人々が

誰よりもノンキに

欠伸してゐる

 

[やぶちゃん注:「欠伸」の「欠」はママ。理由は既注。]

 

石コロが廣い往來の中央で

齒嚙みして居る

ポンと蹴つて遣る

 

一里ばかり撫でまはして來た

なつかしい石コロを

フト池に投げ込む

 

[やぶちゃん注:本歌が取り敢えず「獵奇歌」の掉尾である。]

 

 

   (昭和一〇(一九三五)年十一月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅷ)

 

靑空に突き刺さり突き刺さり

血をたらす

南佛蘭西の寺の尖塔

 

夜の風に

紙片が地を匍うて行く

死人の門口でピタリと止まる

 

[やぶちゃん注:「匍うて」諸本、「匍ふて」とする。]

 

眞鍮のイーコン像から

蠟細工のレニンの死體へ

迷信轉向

 

[やぶちゃん注:言い得て妙で個人的に非常に気に入っている。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年八月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

   白骨譜

 

死刑囚は

遂に動かずなり行けど

栴檀の樹の蟬は啼きやまず

 

[やぶちゃん注:「栴檀」「栴檀木」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarachの別名。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。]

 

神樣の鼻は

眞赤に爛れてゐる

だから姿をお見せにならないのだ

 

一瓶の白き錠劑

かぞへおはり

窓の靑空じつと見つむる

 

濱名湖の鐵橋渡る列車より

フト……

飛降りてみたくなりしかな

 

天井の節穴

われを睨むごとし

わが舊惡を知り居るごとし

 

靑空は罪深きかよ

虻や蜻蛉

お倉の白壁にぶつかつて死ぬ

 

盲人がニコニコ笑つて

自宅へ歸る

着物の裾に血を附けたまゝ

 

[やぶちゃん注:「ニコニコ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

よそのヲヂサンが

汽車に轢かれて死んでたよ

歸つて來ないお父さんかと思つたよ

 

將軍塚

將軍の骨が棺の中で錆びた刀を

拔きかけてゐた

 

[やぶちゃん注:「將軍塚」こう固有名詞で呼称する古墳や墳墓は全国各地にあるが、特定の何処を指しているかは不詳である。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年八月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

靑空はブルーブラツク

三日月は死の唄を書く

ペン先かいな

 

大理石の伽藍の如き頭蓋骨が

莊嚴に微笑む

南極の海

 

ほの暗く

はるかな國離れ來て

桐の若葉に

さゆらぐ惡魔

 

 

   (昭和九(一九三四)年十月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

わが罪の思ひ出に似た

貨物車が犇きよぎる

白の陽の下

 

ぬかるみは果てしもあらず

微笑して

彼女の文を千切り棄てゆく

 

ニヤニヤと微笑しながら跟いて來る

もう一人の我を

振返る夕暮

 

[やぶちゃん注:「跟いて來る」老婆心乍ら、「ついてくる」と読む。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年十一月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

日も出でず

月も入らざる地平線が

心の涯にいつも横たはる

 

うなだれて

小暗き町へ迷ひ入り

獸の如く呻吟してみる

 

社長室の片隅に

黑く凋れ行く

赤いタイピストの形見のチユーリツプ

 

[やぶちゃん注:「凋れ行く」老婆心乍ら、「しをれゆく(しおれゆく)」と読む。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年十二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅶ)

 

   地獄の花

 

火の如きカンナの花の

咲き出づる御寺の庭に

地獄を思ふ

 

昨日までと思うた患者が

まだ生きて

今朝の大雪みつめて居るも

 

お月樣は死んでゐるの

と兒が問へば

イーエと母が答へけるかな

 

胃袋の空つぽの鷲が

電線に引つかゝつて死んだ

靑い靑い空

 

[やぶちゃん注:「靑い靑い」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

踏切にジツと立ち止まる人間を

遠くから見てゐる

白晝の心

 

靑空の冷めたい心が

貨物車を

地平線下に吸ひ込んでしまつた

 

自分自身の葬式の

行列を思はする

野の涯に咲くのいばらの花

 

 

   (昭和九(一九三四)年四月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

   死

 

自殺しても

悲しんで呉れる者が無い

だから吾輩は自殺するのだ

 

馬鹿にされる奴が一番出世する

だから

自殺する奴がエライのだ

 

何遍も自殺し損ねて生きてゐる

助けた奴が

皆笑つてゐる

 

あたゝかいお天氣のいゝ日に

道ばたで乞食し度いと

皆思つてゐる

 

悟れば乞食

も一つ悟れば泥棒か

も一つ悟ればキチガヒかアハハ

 

致死量の睡眠藥を

看護婦が二つに分けて

キヤツキヤと笑ふ

 

振り棄てた彼女が

首を縊くくつた窓

蒲團かむればハツキリ見える

 

 

   (昭和九(一九三四)年六月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

 

 

 

   見世物師の夢

 

滿洲で人を斬つたと

微笑して

肥えふとりたる友の歸り來る

 

明るい部屋で

冷めたい帽子を冠つたら

殺した友の顏を思ひ出した

 

ずつと前殺した友へ

根氣よく年賀状を出す

愚かなる吾

 

廣重は

慘殺屍體の上にある

眞靑な空の色を記憶した

 

煉瓦塀を仰げば

靑い靑い空

殺人囚がホツとする空

 

[やぶちゃん注:「靑い靑い」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

病死した友の代りに返事した

先生は知らずに

出席簿を閉ぢた

 

秋まひる靜かな山路に

堪へ兼ねて追剝を

した人は居ないか

 

人頭蛇を生ませてみたいと

思ひつゝ女と寢てゐる

若い見世物師

 

 

   (昭和九(一九三四)年七月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

甲子夜話卷之一 44 新太郎どの旅行に十三經を持せらるゝ事

44 新太郎どの旅行に十三經を持せらるゝ事

新太郎少將、旅行の時は、前行の諸武具は、世の作法通りにして、駕の先へ十三經の筥をわくに納(イ)れ、着料の具足櫃と同く持せしとぞ。

[やぶちゃん注:「新太郎」備前岡山藩初代藩主の外様大名池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)の通称。元和九(一六二三)年、第三代将軍徳川家光の偏諱を受けて光政と称する。姫路から鳥取を経て岡山に入城、三十一万五千余石を領した。幼時より学を好み、中江藤樹に師事、藤樹没後は熊沢蕃山を国政顧問として重用した。諸制を改革、文武を奨励して藩政改革に尽力、外様乍ら、幕府も一目置いていた名君として知られる。

「前行」「ぜんかう(ぜんこう)」貴人の外出の際に行列の先に立つ役方。

「十三經」「經」は「けい」とも「ぎやう(ぎょう)」とも読む(私は仏典と区別するために「けい」と読むことにしている)。宋代に定められた儒家の基本的経典とされる十三種。「周易」(易経)・「尚書」(書経)・「毛詩」(詩経)・「周礼(しゆらい)」・「儀礼(ぎらい)」・「礼記(らいき)」・「春秋左氏伝」・「春秋公羊(くよう)伝」・「春秋穀梁(こくりよう)伝」・「論語」・「孝経」・「爾雅(じが)」・「孟子」。

「筥」「はこ」。

「わく」不詳。完全密封式の葛籠ではなく、枠張りの箱外から中身の見えるもののことか。

「着料」「きれう/ちやくれう(きりょう/ちゃくりょう)」。衣服。

「具足櫃」「ぐそくびつ」。甲冑を入れておくための蓋付きの箱。]

譚海 卷之一 肥前國水上山安德帝開山たる事

 肥前國水上山安德帝開山たる事
 
○肥前の人かたりしは、安德帝入水の事は虛事也。我國に水上山と云(いふ)禪刹有(あり)、高山の頂(いただき)にありて、其(その)傍(かたはら)より湧出(わきいづ)る水、肥前一國の田をうるをす事ゆへ、水上山と稱する也。此寺の開山を神子(かみこ)禪師と稱し、是(これ)即(すなはち)安德帝の御事也。西海敗軍のとき、帝ひそかに軍(いくさ)をのがれて此に住僧と成(なり)、開山と成(なり)給ひしとぞ。國初迄は經山寺(きんざんじ)の末寺にして華僧住持と成(なり)しが、元和已來渡海の禁ありて、經山の往來絶(たえ)しより、今は京都南禪寺より支配する也。されども末寺にてはなし。此寺開山の外(ほか)むかしより輪番にて住持といふ事はなし。この水は神子禪師開山の時、雷公隨身して年來給仕せしが、天へ還り昇らんとせし時、師の恩に報じて此(この)水を出せし也。雷公岩を蹴裂(けさき)て出す所の水ゆゑ、今にたゆる事なしとぞ。又什物に寶刀一振有(あり)、錦の切(きれ)に卷(まき)て包(つつみ)たる事凡(およそ)百重(へ)ばかり、代々の住持終(つひ)にときみる事なし。祈雨(きう)の時此刀を取出(とりいだ)せば、一里四方甘雨(かんう)の瑞(ずい)ありとぞ。

[やぶちゃん注:「安德帝入水の事は虛事也」安徳帝存伝説はすこぶる多いが、義経伝説の陰に隠れたものか、あまり取り沙汰されることがない。まずはウィキの「安徳天皇」を参照することにしよう(アラビア数字を漢数字に代えた)。『安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があり、九州四国地方を中心に全国に』二十『あまりの伝承地がある』(但し、数値には要検証要請が附されてある)。以下、東北地方では、『青森県つがる市木造町天皇山には安徳天皇が落ち延びたという伝説が』、近畿地方では、『摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したと』し、『侍従左少辨・藤原経房(つねふさ、吉田家の祖となり『吉記』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と四人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永四年(源氏方年号で元暦二年、一一八五年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。しかし翌年五月十七日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。経房遺書は、文化一四年(一八一七年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保五年(一二一七年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。当時、読本作者・曲亭馬琴や国学者・伴信友などは偽作と断じたが、文人・木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物とした。経房遺書原本は明治三十三年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。経路であった鳥取県の岡益の石堂や三朝町などにも今も陵墓参考地を残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる』とある。失われた古文書の真偽は不詳乍ら、異様に細かく興味をそそられる伝承の一つである。中国・四国地方では、因幡国に逃れたものの、十歳(史実上の没年年齢は数えで八つ)で崩御したとする説があり、『壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。文治三年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている』とし、他にも『鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在』し、また、『鳥取県東伯郡三朝町中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る』という。四国では、『阿波国祖谷山(現在の徳島県三好市)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説』が残り、『平盛国が祖谷を平定し、麻植郡に逃れていた安徳帝を迎えたという。天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名がある。安徳帝はこの地に隠れ住み、十六歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたという(『美馬郡誌』)』。私は個人的にここに登場する平盛国が殊の外、好きである。清盛側近として働き、壇の浦合戦で捕虜となって総帥平宗盛父子とともに鎌倉に送られたが、頼朝に気に入られて死罪を免れ、岡崎義実の預りとなった。しかし、日夜無言のままに法華経に向い、そのまま飲食を絶ち、文治二(一一八六)年七月二十五日(壇ノ浦の平家滅亡は元暦二・寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日))に享年七十四で餓死し自害した老古武士である。「吾妻鏡」の同日の記事によれば、頼朝はこれを聞くと、「心中尤可恥之由被仰」(心中尤も恥づきの由仰せらる)とある。預かりの囚人にしたが故に死なせてしまったと激しく後悔したというのである。――元に戻る。さらに、『土佐国高岡郡横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説』もある。『平知盛らに奉じられ、松尾山、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしたが、正治二年(一二〇〇年)八月に二十三歳で崩御。鞠ヶ奈路に土葬されたとされ』たというのだが、これだと知盛も生きていたことになる。「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の彼は生き延びてはいけません! 次にいよいよ九州地方である。『福岡県筑紫郡那珂川町には昔から安徳という地名があるが、文献に限って言えば落人伝承としてではなく、同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・原田種直が帝を迎えたところという。『平家物語』では平家は大宰府に拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している』。また、『対馬に逃げ延びて宗氏の祖となったとする説』もあり、『対馬に渡った安徳天皇が島津氏の娘との間に儲けた子が宗重尚であるという』ものである(宗重尚(そうしげひさ)は対馬の国主宗氏の初代当主。ウィキの「宗重尚」によると生没年は未詳で、『所伝では、宗氏の祖知宗は平知盛の子で、壇の浦の戦い後、惟宗氏に養われたとし、桓武平氏であると称していたが、島津氏と同じく惟宗氏の出身だといわれる。父ははっきりしないが宗知宗、太宰府官人惟宗信国とする説もある』とし、寛元三(一二四五)年に『対馬の阿比留親元が反乱を起こしたため、これを討つために筑前国より対馬に入島』、翌寛元四年には『阿比留氏の反乱を平定し、対馬の国主となったとされる』ものの、『近年の研究では、父の知宗同様その存在が疑問視されている』とある)。また、『肥前国山田郷にて出家し、四十三歳で死去したとする説』があり、『二位尼らとともに山田郷に逃れたという。安徳帝は出家し、宋に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に没したという』(下線やぶちゃん)。この伝承に基づく変型譚が本話柄の伝承のである。他にも『薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説』があり、『平資盛に警護され豊後水道を南下し、硫黄島に逃れて黒木御所を築いたとされる。安徳帝は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたという。同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはなかった。しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分したが、長浜家にも中身を明かさなかった。昭和になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされる。この箱の中には三種の神器のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる天叢雲剣が入っていたのではないかという説もある。硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた長浜豊彦(長浜天皇)なる人物がいた』という。これもブルッとくるほど好きな伝承である。同系列の変型譚では、硫黄島から更に大隅国牛根麓(うしねふもと:現在の鹿児島県垂水市牛根麓)に移り住んだが、十三歳で同地で没し、同所にある居世(こせ)神社に祀られているという説もある。因みに私のお薦めの安徳伝奇は、偏愛する漫画家諸星大二郎の「妖怪ハンター」シリーズの「海竜祭の夜」である。巨大な海蛇の頭が頑是ない幼帝の顏となった出現するあのコマは、一読忘れ難い戦慄と同時に曰く言い難い哀感を私に与えるのである。因みに言い添えておくと、「源平盛衰記」の終盤の「老松若松尋剣事」には、実は安徳帝は八岐大蛇の化身であって、源平合戦を起こし、三種の神器の宝剣を龍宮に取り戻そうとしたのだ(「吾妻鏡」には宝剣は祖母時子が持ち、安徳帝を抱いたまま入水したと載る)―というとんでもない下りがある。実は、本話の最後も「雷公」、栄尊に随身したのが雷神だから雨を降らすという理屈よりも、私は如何にも厳重に「錦の切に卷て包たる事凡百重ばかり、代々の住持終(つひ)にときみる事な」なかったという「什物」「祈雨の時此刀を取出せば、一里四方甘雨の瑞あり」という「寶刀一振」という宝剣こそ――かの失われた―三種の神器の一――天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)――なのではないか? と疑っているのである。現在、万寿寺にはこの宝剣はあるのであろうか? やはりお近くの方、御情報をお寄せ下さるならば、恩幸これに過ぎたるはない。

「水上山と云禪刹」現在の佐賀市大和町川上にある臨済宗南禅寺派水上山興聖万寿寺万寿寺。通称「お不動さん」という。なお、「水上山」という山号は禅宗寺院であれば「すゐじやうさん(すいじょうさん)」と音読みするはずであるが、いくら調べても読みが分からない。どなたかお近くにお住まいの方、御確認を願う。実は以下、鶴崎氏の個人サイト「鶴崎さん集合」にある「神子栄を語る」から引用させて戴くのだが、実はこのページ自体が何と、安徳帝生存伝説の検証となっている。今一つの「安徳天皇生存説/久留米」のページとともに必見である。さて、その記載によれば(アラビア数字を漢数字に代えさせてもらう。下線はやぶちゃん)、万寿寺は『仁治元年(一二四〇)神子栄尊が開山した寺で、四条天皇から「水上山興聖万寿寺」という寺名をもらったといわれる臨済宗の寺である。本尊は神子栄尊作と伝えられる不動明王である。「神子禅師年譜」によれば和尚は平康頼と筑後国三潴庄の住人藤吉種継の娘千代との間で生まれ四十一歳のとき宋(中国)に渡って修業し水上山に来た時が四十六歳の時といわれる。臨済宗東福寺を開山した聖一国師は当山第二世で、高城寺の開山円鑑禅師は当山第三世である。永正一四年(一五一七)六十四世天享和尚は竜造寺隆信の曽祖父家兼の弟で、後柏原天皇により勅願寺の論旨を賜り勅願第一世となった。九世是琢和尚は佐賀藩祖鍋島直茂のお側役として文禄の役に従軍している』(「大和町史」を参考とされている注記がある)とある。この神子栄尊は、生年が建久六(一一九五)年で、没年が文永九(一二七二)年(因みに安徳天皇の生年は治承二(一一七八)年)で、『筑後三潴荘夜明村(現在の久留米市大善寺夜明)に生まれ、七歳の時、筑後国柳坂の永勝寺にいた厳琳僧都(栄西の弟子)に従い。その後、肥前国小城郡小松山(現、小城町晴気あたり)で佛道を修業。嘉禎元年(一二三五)、四十一歳にして聖一国師と共に入宋し仏鑑禅師に学び嘉禎四年(一二三八)で帰朝』、『仁治元年(一二四〇)肥前国万寿寺を開き、寛元元年(一二四三)に円通寺、寛元三~四(一二四五―四六)に筑後国朝日寺を整備、その後宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の金堂造立等に関わったのち、建長元年(一二四九)に肥前国大町町に報恩寺を建てた。神子栄尊は、他に筑前の薦福寺、豊前の安楽寺を開山』。『鎌倉時代の豊前国の禅宗は、宇佐神宮の結びつきで広がっていった。豊前の円通寺は宇佐大宮司・宇佐公仲が神旨を得て七堂伽藍を造営、円通広利禅寺と称し、宇佐宮の北方』約五百メートルの『直線道路(円通寺通り)の突き当りに位置する。その後、建長五年(一二五三)に宇佐宮荘園の本家・二条良実に大乗戒を説き、良実は神子栄尊に弟子の礼をとっている』。『宇佐神宮の霊験により、神子と称し、晩年、別号を立てる事を朝廷に申し入れたが、朝廷が霊験を尊び別号を認めなかった。七十八歳で没』とある。これの詳細な事蹟よって、少なくとも本文に出るような彼自身が安徳帝であったという説はトンデモ説として退けられることが判る。伝承では安徳天皇の子が神子栄尊であるというのがプロトタイプ(少なくとも本話の)らしい。詳しい伝承や検証は是非、鶴崎氏の素敵な両ページをお読み戴きたい。

「經山寺」南宋の五山の一つで、現在の中華人民共和国浙江省杭州市余杭区径山鎮(きんざんちん)の径山にある臨済宗径山興聖萬壽禅寺。金山寺味噌(径山寺味噌とも書く)の濫觴とされる。

「元和」西暦一六一五年から一六二四年まで。

「渡海の禁」キリスト教禁教を主目的とした江戸幕府による広義の鎖国政策を指す。幕府は元和二(一六一六)年には明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定し、元和九(一六二三)年にはイギリスが業績不振のために平戸商館を閉鎖している。本格的な鎖国は寛永八(一六三一)年の奉書船制度(将軍が発給した朱印状に加えて老中の書いた奉書という許可証が必要)開始と、二年後の寛永十年に発せられた第一次鎖国令(奉書船以外の渡航を禁じ、海外に五年以上居留している日本人の帰国をも禁じた)である(以上はウィキ鎖国に拠った)。

「南禪寺より支配する也。されども末寺にてはなし」現在の万寿寺は南禅寺派である。江戸時代の末寺制度は専ら宗門改のためである。

「輪番」周辺の同宗の寺の住職が順繰りに兼務すること。]

譚海 卷之一 病犬を病せし藥の事

 病犬を病せし藥の事

江戸に病犬の出來たるは享保より此かた也。以前はなき事也。一年叔父宅にある犬、土用中に雀の樹より落(おち)て死したるをくひて、病つきくるひたるに、霍亂の藥を飮せければ、忽ち愈たりとぞ。

[やぶちゃん注:「病犬を病せし藥の事」の表題はママ。「癒せし」の誤りか。

「病犬」「やまいぬ」と訓じている可能性が高い。しかもこれは広義の噛み癖のある悪しき性質(たち)の犬の意の「病犬」ではなく、真正の狂犬病ウィキの「狂犬病」によれば、本邦では記録が残る最初の流行は江戸時代中期の享保一七(一七三二)年、『長崎で発生した狂犬病が九州、山陽道、東海道、本州東部、東北と日本全国に伝播していったことによる。東北最北端の下北半島まで狂犬病が到着したの』は宝暦一一(一七六一)年のことである、とある。長崎……この時の流行は異国船によって齎されたものか?……思い出さないか?……怪しげなエイズ・ウィルス発見者(私はエイズを想像した悪魔の科学者と確信している)ロバート・ギャロが日本の鎖国時代に長崎の出島にサルをペットに連れてきた外人がおりそれが日本人のエイズの濫觴だというトンデモ説を述べていたのを!……因みに……孰れも発症した場合は致死率がすこぶる高い病気(但し、例えば狂犬病発生地域に行く前に感染前(暴露前)接種=予防接種を行うか、感染動物に噛まれた後(暴露後)、なるべく早く、発症前にワクチンを接種するならば発病を免れる)であるという共通点までそっくりではないか……

「犬」「病つきくるひたるに」これは狂犬病ではない。また死んだ雀が病因とも限らず、病名は不詳である。ただの吐き下し、或いはただ小骨が咽頭に刺さっただけのようにも思われる。

「霍亂の藥」「霍亂」は漢方で日射病や熱中症を指す。また、広く、夏に発症し易い、激しい吐き気や下痢などを伴う急性の病態(コレラを含む)をも言った。「藥」愛犬とはいえ、高価な漢方調剤を飲ませたとも思われないから(霍乱の特効薬には木乃伊(ミイラ)などというとんでもないものもある)、当時、暑気払いに盛んに愛飲され、霍乱除けともされた枇杷葉湯辺りか。]

譚海 卷之一 またゝび猫の好事

 またゝび猫の好事

またゝびを火に焚(たく)ときは、香の至る所の猫ことごとく煙をしたひきたり、火邊に展轉俯仰し、狂氣したるがごとく涎(よだれ)をたり正體(しやうたい)を失ふ。數十疋群(むれ)をなす事也。又人疝氣(せんき)にて腰痛堪(たへ)がたきには、蓼(たで)をせんじ用ゆれば立處(たちどころ)に愈(いゆ)る事神(しん)の如し。

[やぶちゃん注:「まゝたび」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ Actinidia polygamaウィキの「マタタビ」によれば、『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。冷え性、神経痛、リューマチなどに効果があるとされる』とあり、ここで「粉」と称するのもこれであろう。「夏梅」という別名もある。他にもこのウィキの記載は短いながら興味深い箇所が多い。幾つか引用すると、まずマタタビは雌雄異株で、『雄株には雄蕊だけを持つ雄花を』、雌株は『花弁のない雌蕊だけの雌花をつける』が、雌株には『雄蕊と雌蕊を持った両性花をつける』ものがある(ここは他の記載で一部操作した)。六月から七月にかけて開花するが、『花をつける蔓の先端部の葉は、花期に白化し、送粉昆虫を誘引するサインとなっていると考えられる。近縁のミヤママタタビでは、桃色に着色する』とあり、所謂、ネコとの関係については、『ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた』。『同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある』とし(キク亜綱シソ目シソ科イヌハッカ属イヌハッカ Nepeta cataria。但し、本邦には元来は自生しない帰化植物。ウィキイヌハッカ」によれば、『日本ではキャット・ミントと呼ばれることもあ』り、『種名のカタリア(cataria)はラテン語で猫に関する意味があり、また英名の Catnip には「猫が噛む草」という意味がある。その名の通り、猫はこのハッカに似た香りのある草を好むが』、『これはこの草の精油にネペタラクトンという猫を興奮させる物質が含まれているからである。猫がからだをなすりつけるので、イヌハッカを栽培する際には荒らされることも多いが、この葉をつめたものは猫の玩具としても売られている』。『なお、猫に同様の効果をもたらす植物としてマタタビや荊芥』(けいがい:同イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia)『などがあるが、日本において特に有名な前者にちなみ、イヌハッカは「西洋マタタビ」と呼ばれることもある』とある)、和名の由来については、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』。「牧野新日本植物図鑑」(一九八五年北隆館刊/三三一頁)によると、『アイヌ語で、「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、おそらく果実を表した呼び名だろうとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正、八坂書房)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保、平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であるから、典型的な民間語源であると見るのが自然であろう』とある。博物学と民俗学が美事に復権した素晴らしい記載である。

「疝氣」は近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷(けつれい)シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある(「厥冷」は冷感の意)。一方、本「譚海」の「卷の十五」には、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』と述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は概ね平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、「譚海」の全文引用と( )内の寄生虫病の注は私の全くのオリジナルである。私は寄生虫が大好きな危険がアブナイ男なのである)。疝気にマタタビが有効であるとする記載は耳嚢 巻之七 疝痛を治する妙藥の事にも出る。

「蓼」ナデシコ目タデ科 Persicarieae 連イヌタデ属サナエタデ節 Persicaria に属する特有の香りと辛味を持つタデ類。ネット上でも双子葉植物綱タデ目タデ科 Polygonaceae の生薬を用いた調剤物について、患部を湿らせ温めるとあり、他にも皮膚の抵抗力を向上させる、スキンケアに効果があるとする。]

譚海 卷之一 羽州秋田にて狐人をたぶらかしたるを討取事


 羽州秋田にて狐人をたぶらかしたるを討取事

○羽州秋田にて、ある士鐡炮を攜へ鳥をうちに出ける。其路次(ろし)の堤(つつみ)を、行(いき)ては戾り、又立(たち)かへりては戾る人あり。さながら物に狂ふ樣に見えて恠(あやし)み見居(みをり)たるに、かたはなる林の内に狐居て、口に木の枝をくはへ、首を左右へ振𢌞(ふりまは)すに、堤の人狐の首の向ふ方へ行(ゆき)もどる也。左へ顧(かへりみ)れば左へ行(ゆき)、右へかへりみれば右へもどるをみれば、やがてさては狐に化されたるなりとみて、此士鐡砲をねらひすまして狐をうちければ、あやまたず狐倒れける。同時に堤の人も倒れて氣絕したるを呼起(よびおこ)しなどして、始(はじめ)てよみかえりたりとぞ。

今朝蜩初音

今朝蜩初音――4:16――

2015/07/23

三重県立美術館蔵村山槐多新発見詩篇 紫の天の戰慄

 

   紫の天の戰慄      村山 槐多

 

1雨ふれり

 雨薄くれなひにそことなくふる、癈人の血を帶びて

 薄暗きこの山麓にふれり

 ぬれて立つわが口には薄紫にいと惡しき草煙る

 不思議なる味とにほひと

 

2時にする快よき銀の音樂

 渦卷は金銀にきらめくよ情の渦卷

 わが神經の動かぬ淵に

 この渦卷にわが口に煙草は消え入る

 薄紫の物凄きひびきをつけて

 

3鋭どき山形眼を打つ

 雨はしたたる山の方

 綺羅を盡せし黒人のあやしき姿

 貴婦人の唇ちかき黒き星

 それにも似たる黒き山のあなたに

 

4惱める山の美貌に

 赤き杉の群に時に風狂ひ

 ときは木の葉は淫蕩をつくしてぞ散る

 涙浮べて物皆は戀を語れば

 わが心ふとかなしげに泣きそめつ

 

5すすり泣きしつ

 紫の天この時髙く戰慄す

 あざやかに冷冷と戰慄すなり

 冬の衣に身をかため人の働く

 水田の濁りたる水にも天は戰慄す

 

6無知なる水田はまたたきす

 ぬれて立つ哀れなるわれの上下に

 なげくとてか恐るるとてか泣くとてか

 紫の天戰慄美しく深く

 わが煙草のけむり上りゆくその天は

 

7雨ふれり

 雨薄くれなひにそことなくふり

 冷めたき足なみものみなの情の上に

 黒き山に赤き杉に水田に

 はたわが心の※(や)れたる淵の上に

[やぶちゃん字注:「※」=「疫」の「殳(るまた)」の左側に「弓」のような字が記された字体。]

 

8金銀と濃き紫との毒々しき淵の上に

 雨薄くれないひに風打ふるふ時

 天は絶えず戰慄す大きく冷めたく

 われを恐れてか わが眼と情の光とを

 美しき薄紫の煙草を

 

9恐れてか

       大正三年 一月十八日 江州にして

 

                     (落款)

 

[やぶちゃん注:県立三重美術館蔵「詩『紫の天の戦慄』1」及び「詩『紫の天の戦慄』2」の手書き稿を視認して起こした(リンク先は同美術館公式サイトのそれぞれの拡大画像)。署名もそのままである。使用漢字はなるべくそのままのものを採用した(例えば「神」は「神」ではなく、明確に「神」と書いている。「卷」か「巻」か等の迷ったものは正字を採った。向後、三重県立美術館蔵の原稿視認ではこれで行くので、以下ではこの注は略す)。

 詩のヘッド・ナンバーの「1」から「5」までが前者、「6」以降が後者(それぞれ紙色も四辺の形状も全く異なる別な紙片)に記されてある。

 書誌情報はクレジット(「詩『紫の天の戦慄』1」 同2 )にある通り、制作年を大正三(一九一四)年とし、材料は墨と紙とし、孰れの紙片も寸法を縦二十三・一、横三十一・七センチメートルとする。「1」の紙の色はかなり強いピンク色を呈しているのに対し、「2」はずっと赤みの落ちた代赭色である。しかし規格が全く同一のところを見ると、もとは同一の色附きのノート様のものであった可能性もある(色の有意な違いは後者が焼けて褪せたためかも知れない)。

 「2」の最後の「(落款)」とした位置には手彫り手製の、「カイタ」と中央にあるカット・ダイヤモンドのような(或いは瞑目した顏のカリカチャアのような)落款が押されてある。薄い黒い印肉を使用したものか、本文よりも落款は遙かに薄い。

 本詩篇は「9恐れてか」で途絶しているので未定稿であるが、連番の数字から纏まったものとして読むことが出来るもので、しかも驚くべきことに――恐らくアカデミックには旧知の事実であって驚いているのは気づくのが遅かった鈍愚な私だけなのであろうが――本詩篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」にも載らない――ということはそれまでに公刊された村山槐多の知られた作品集にも載らない――全くの新発見の未定稿詩篇であるということである(二〇一五年七月二十三日現在、ネット検索をしても電子化された形跡はない)。一読、用いられている詩句や全体の詩想もクレジットの同時期(満十八歳)の詩篇類と非常に強い親和性を感じさせるものである(私のブログ・カテゴリ「村山槐多」の「槐多の歌える」の「千九百十四年(20)」詩篇パートに準じた吾詩篇から「赤き火事あと」までの二十六篇参照)。以下、語注を附す。

 

・「癈人」はママ。「癈」は実際に或ある字ではある。音「ハイ」で、不治の病い・痼疾・障碍者になるの意であるから、字義的には「廢人」(廃人)と同じで問題ない。

・「はたわが心の※(や)れたる淵の上に」[(「※」=「疫」の「殳」の左側に「弓」のような字が記された字体)は前で注した「癈」の(やまいだれ)の中の「發」の「癶」(はつがしら)がとれたものに酷似している。当初、私は「疫」の字の誤記かと思ったが、今はどちらかというと「癈」の字を書こうとした可能性、或いは単に「廢」と同字扱いで槐多が好んで用いた可能性の方を考えたくなっている(確かに(やまいだれ)の方がテツテ的によいと私も思う)。また、「や」というルビはこの字の右手上方に配されてあり、「や」の下に何か書こうとした可能性も否定出来ない。その場合、「癈」字の原義からは「(やつ)れたる」等は想起出来る。但し、私は初読、「疫」であろうと「癈」であろうと或いは「廢」であろうと、対象が心の「淵」であり、その形容である以上、自然に「破(や)れたる淵」と読んでいたし、今もそう読んでいる。即ち、病んだ心の「荒れ果てた淵」の意である。大方の御批判を俟つものではある。

・「江州」クレジットの大正三年一月というのは、京都府立第一中学校卒業の二ヶ月前で、この六月に彼は上京する。この卒業直前の一、二月の部分には、どの年譜にも記載がないので、彼が滋賀近江へ行ったのかどうかは確認出来ない。出来ないがしかし彼が行ったのであろう。ただ少し気になるのはロケーションが琵琶湖湖畔ではない点である。水田(因みに私は「みづた」読んでいる)の広がる田園風景であるが、その遠景にだに琵琶湖の湖水はフレーム・インしていない(ように私には見える)。私は実は滋賀県は電車で通過したことがあるだけで琵琶湖湖畔に立ったこともない。この情景からロケ地が推定出来る方は、是非、御教授願いたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 米搗き / 第十九章 了

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図―841

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図―842

 

 米を搗(つ)くのには、大きな木造の臼を使用する。槌或は杵は、大きくて非常に重く、頭上はるかに振り上げる(図841)。彼は杵を空中に持ち上げる時、その柄の末端を左脚に当てるので、そこに小布団をつけている。この仕事をするには、強い男が必要である。杵の面は深くくぼんで鋭い辺を持ち、臼の中には図642に示すような、藁繩の太い輪が入っている。杵で打つと、米は輪の外側に押し出されてその内側へ落ち込む。この方法によっては米は循環し、すべての米が順々に杵でたたかれるようになる。同様な場合にこんな事が行われるのを、私はこの時迄見たことが無い。搗いた米から出る黄色い粉末は、袋に入れて顔を洗うのに使用する。我国では玉蜀黍(とうもろこし)の粉を、同様に使う。この米の粉は、また脂肪のついた皿や、洋燈を掃除するのにも使用する。

[やぶちゃん注:「藁繩の太い輪」水車のケースであるが、三鷹市公式サイト内の「水車のしくみ」のきね・搗臼つきうす)」の説明が非常に分かり易い。

 これを以って「第十九章 一八八二年の日本」が終わる。次の二十章からは、モースの京都や瀬戸内海を巡る旅が、いよいよ始まるのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 東京女子師範学校卒業式来賓となる

 七月十五日、私は東京女子師範学校の卒業式に行き、壇上ですべての演習を見得る場所の席を与えられた。主要な広間へ行く途中で、私は幼稚園の子供達が、可愛らしい行進遊戯をしているのを見た。そのあるものは床に達する程長い袂の、美しい着物を着た、そして此の上もなく愛くるしい顔をした者も多い、大勢の女の子達は、まことに魅力に富んだ光景であった。

[やぶちゃん注:「東京女子師範学校」明治七(一八七四)年に設立された官立師範学校。モースが臨席したこの三年後の明治一八(一八八五)年の東京師範学校への統合を経、明治二三(一八九〇)年に女子高等師範学校として分離・改組され、明治四一(一九〇八)年には東京女子高等師範学校に改称された。現在のお茶の水女子大学の旧制前身校(以上はウィキ東京女子師範学校に拠った)。]

 

 これが済むと彼等は大広間に入って行ったが、子供達はヴァッサー大学卒業の永井嬢がピアノで弾く音楽に歩調を合わせて、中央の通路を進んだ。彼等が坐ると、先生の一人によってそれぞれの名前が呼び上げられ、一人ずつ順番に壇上へ来て、大型の日本紙の巻物と、日本の贈物の手ぎれいな方法で墨と筆とを包み、紐の下に熨斗(のし)をはさんだ物とを、贈物として受けるのであった。彼らは近づくと共に、非常に低くお辞儀をした。両手で贈物を受取ると、彼等はそれを頭の所へ上げ、また一低くお辞儀をして、段々の所まで後退した。実にちっぽけな子供までが、ヨチヨチやって来たが、特別に恥しそうな様子の子が近づくと、壇上の皇族御夫妻から戸口番に至る迄一同が、うれし気な、そして同情に富んだ微笑を浮べるのは、見ても興味が深かった。

[やぶちゃん注:「ヴァッサー大学」原文“Vassar College”ウィキヴァッサー大学より引く。『アメリカ合衆国ニューヨーク州ポキプシー町に本部を置くアメリカ合衆国の私立大学である。1861年に設置された。 リベラル・アーツ・カレッジ。著名女子大学群であるセブンシスターズの一校として設立、1969年に男女共学化を実施。各誌の大学ランキングにおいて、最難関校またリベラル・アーツ教育のトップ大学のひとつとして数えられる』。

「永井嬢」永井繁子(後の婚姻後は瓜生(うりゅう)姓 文久二(一八六二)年~昭和三(一九二八)年)。ウィキ瓜生繁子より引く(一部、個人サイト「日本キリスト教女性史(人物編)」の瓜生繁子に載る情報を附加した)。『佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町(現・東京都文京区本郷)に生まれた。益田孝』(三井財閥を支えた実業家)『の実妹。幕府軍医永井久太郎の養女。夫は海軍大将の瓜生外吉男爵』。明治四(一八七一)年十一月に、岩倉使節団に随行して津田梅子・吉益亮子・上田貞子・山川捨松らとよもに『新政府の第一回海外女子留学生として渡米、ヴァッサー大学音楽学校に入学』(、それより十年間をアメリカで過ごした。明治一五(一八八二)年、『海軍軍人瓜生外吉と結婚』、後、明治一九(一八八六)年十月には東京女子高等師範学校兼東京音楽学校教員となったとある。「日本キリスト教女性史(人物編)」の記載によれば、『繁子は、結婚後もピアノ教師として多くの弟子を育成して音楽教育に重きをなした。彼女は日本でいち早く正式にピアノを習い、それを弟子に教授した女流音楽家であろう』とあり、また明治二五(一八九二)年三月の『読売新聞社の和洋婦人音楽家の人気投票で、幸田延』(繁子より八つ年下の当代の女流ピアニストでバイオリニスト)『の307点に次いで、繁子は288点を得ていることから推しても繁子の当時の名声が高かったことをうかがい知ることができる』と記されてある。本時制は明治十五年で、モースが『嬢』(原文“Miss Nagai”)と呼んでいることから見ると、結婚の直前であったものと思われる。]

 

 広い部屋を見渡し、かかる黒い頭の群を見ることは奇妙であった。淡色の髪、赤い髪はいう迄も無し、鼠色の髪さえも無く、すべて磨き上げたような漆黒の頭髪で、鮮紅色の縮緬や、ヒラヒラする髪針(ヘアピン)で美しく装飾され、その背景をなす侍女達は立ち上って、心配そうに彼等各自の受持つ子供の位置を探す可くのぞき込んでいる。小さな子供達が退出すると、次にはより大きな娘達が入場したが、そこここに花のように浮ぶ色あざやかな簪(かんざし)は、黒色の海に、非常に美しい効果を与えた。大きな娘達は、名前を呼ばれると主要通路を極めて静かに歩いて来て、壇上の皇族御夫妻並びに集った来賓に丁寧にお辞儀をし、机に近づき、また低くお辞儀をして贈物を受取り、それをもう一つのお辞儀と共に頭にまで持ち上げ、徐々に左に曲って彼等の席に戻った。彼等の中には卒業する人が数名いたが、それ等の娘達は、畳んだ免状を受取ると後向きに二歩退き、行儀正しく免状を開いて静かにそれを調べ、注意深く畳んでから、特殊な方法でそれを右手に持ち、再びお辞儀をして退いた。

 

 卒業式が済むと来賓は、日本風の昼餐が供される各室へ、ぞろぞろと入って行った。ある日本間では卒業生達に御飯が出ていたが、私は永井嬢と高嶺若夫人とを知っているので、庭を横切って彼等のいる部屋へ行き、そこに集った学級の仲間入りをして見た。美しく着かざった娘達が、畳の上にお互に向き合った長い二列をなして坐り、同様に美しく着かざった数名の娘にお給仕されているところは、奇麗であった。私は彼等のある者と共に酒を飲むことをすすめられ、また見た覚えのない娘が多数、私にお辞儀をした。式の最中に、我々の唱歌が二、三歌われた。「平和の天使」「オールド・ロング・サイン」等がそれであるが、この後者は特に上出来だった。続いて琴三つ、笙三つ、琵琶二つを伴奏とする日本の歌が歌われた。これは学校全体で唄った。先ず一人の若い婦人が、長く平べったく薄い木片を、同じ形の木片で直角に叩くことに依て、それは開始された。その音は鋭く、奇妙だった。彼女はそこで基調として、まるで高低の無い、長い、高い調子を発し、合唱が始った。この音楽は確かに非常に妖気を帯びていて、非常に印象的であったが、特異的に絶妙な伴奏と不思議な旋律とを以て、私がいまだかつて経験したことの無い、日本音楽の価値の印象を与えた。彼等の音楽は、彼等が唄う時、我々のに比較して秀抜であるように聞えた。勿論彼等は、我等の音楽中の最善のものを歌いもせず、また最善の方法で歌いもしなかったが、それにもかかわらず、ここに新しい方向に於る音楽の力に閑する観念を確保する機会がある。

[やぶちゃん注:「高嶺若夫人」既出既注の、今回の来日でも一緒になった旧知の、東京師範学校(本エピソード当時)で教えていた高嶺秀夫。

「平和の天使」既注

「オールド・ロング・サイン」オールド・ラング・サイン」スコットランド民謡で非公式乍ら準国歌とされる“Auld Lang Syne”)。「蛍の光」の原曲である。

「長く平べったく薄い木片を、同じ形の木片で直角に叩くことに依て、それは開始された」この楽器は何だろう? 当初、「直角に叩く」というところから子切子(こきりこ)かと思ったのだが、竹ならばモースは竹と言うはずであり、竹製の子切子をモースが「長く平べったく薄い木片」「同じ形の木片」とはまず表現しない。拍子木や柝(き)であったら「直角」には打たない。そもそもがこの後、モースが「非常に妖気を帯びてい」る(“very weird”)とする楽曲とは一体、何なのか? そんなにマイナーな曲とは思われず、しかも合唱出来るというのだが、和楽には全く冥い私にはおよそ見当がつかない。どうか、曲名だけでも識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 旗が靡いているかのように見える金属製の風見

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図――640

 

 薄い金属板で長地肌をつくり、それが風になびいているように色を塗り、陰影をつけた、奇妙な風見がある(図640)。

[やぶちゃん注:見てみたい。どなたか、御教授を。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 蠟燭と燭台

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 日本の蠟燭は植物蠟で出来ていて、変種も多い。会津で出来るものには彩色の装飾があり(図635)、そのあるものの図柄は浮彫りになっている。燭心はがらん胴な紙の管である。燭台には穴の代りに鉄の鐖(かかり)が出ていて、燭心の穴にこの鐖がしっかりと入り込む。かかる燭台は、余程以前に無くなったが英国にもあり、Pricket 燭台として知られていた。蠟燭は上方に燭心がとび出て、そしてとがるように細工してある。この形が如何に経済的であるかは、燃えて短くなった蠟燭を台から外し、すこしも無駄にならぬように、新しい蠟燭の上にくっつける時に判る(図636)。普通の蠟燭は上から下まで同じ太さだが、上等な物の中には、上部の直径が他の部分に比して大分大きく、かくて長く燃え続けるのもある。殆どすべての人が家持って歩く提灯は、蠟燭を燃やす。図637・638及び639は、燭台の各種の形を写生したものである【*】。運搬用の蠟燭台もいろいろあり、そのある物は実に器用に出来ている。また蓋のついた竹筒もあるが、これで人は風呂敷包みの荷物の中へ蠟燭を入れて持って歩くことが出来る(図639は図638を畳んだところを示す)。

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* セーラムのピーボディ博物館には、日本の燭台の大きな蒐集がある。そのある物は運搬用で畳むことが出来る。

[やぶちゃん注:「鐖」音は「キ・ケ・ゲ・ガイ」、訓では「かかり」「かま」、また「あご」とか「あげ」とも読む。もともとは釣針や銛或いは矢や槍の先端の部分に突起させている棘状の逆鉤(返し)を謂う語。ここは燭台の蠟燭を指すピン状の針を指す。

Pricket 燭台」英語の“pricket”は英和辞典を引くと、蠟燭を立てるための鋭利な金属の釘とある(原義に「二歳の雄鹿」とあり、もともとは若い牡鹿の角を指すか)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 モース、浅草花やしきにて山雀の芸に驚嘆する語(こと)

 

 東京の一区域で浅草と呼ばれる所は、立派な寺院と、玩具店と奇妙な見世物とが櫛比する道路と、人の身体にとまる鳩の群とで有名である。ドクタアと私とは、かかる見世物の一つを訪れた。三、四十人を入れる小さな部屋には高く上げた卓子(テーブル)があり、その後方に、我国の雀より小さくて非常に利口な、日本産の奇妙な一種の鳥を入れた籠がいくつかおいてある。彼等を展観した男は、この上もなく親切な態度と、最も人なつっこい顔とを持っており、完全に鳥を支配しているらしく見えた。小鳥達は早く出て芸当をやり度くてたまらぬらしく、籠をコツコツ啄(つつ)いていた。芸当のある物は顕著であった。見る者は、それ等の鳥が、如何にしてこのような事をするように馴らされたか、不思議に思う。

[やぶちゃん注:「ドクタア」ビゲローのこと。

「我国の雀より小さくて非常に利口な、日本産の奇妙な一種の鳥」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius である。ウィキのヤマガラの「人間との関係」の項に、『日本では、本種専用の「ヤマガラかご」を使い平安時代には飼育されていた文献が遺されている。学習能力が高いため芸を仕込む事もでき、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露された。特におみくじを引かせる芸が多く、1980年ごろまでは神社の境内などの日本各地で見られた。そのため年輩者には本種はおみくじを引く小鳥のイメージが強いが、おみくじ芸自体は戦後になってから流行し発展してきたもので、曲芸は時代の変化とともに変遷してきた事が記録から読み取れる。しかし鳥獣保護法制定による捕獲の禁止、自然保護運動の高まり、別の愛玩鳥の流通などにより、これらの芸は次第に姿を消してゆき、1990年頃には完全に姿を消した。このような芸をさせるために種が特定され飼育されてきた歴史は日本のヤマガラ以外、世界に類例を見ない』『なお、1945年以降消滅するまで代表的だったおみくじ引き以外にも、以下のような芸があった』。として「つるべ上げ」「鐘つき」「かるたとり」「那須の与一」「輪ぬけ」といった、まさにモースの見た演目を含むものが記されてある。川端たぬき氏のブログ「二〇世紀ひみつ基地」の画像(ここに出るモースのそれもある)も動画もある「小鳥のおみくじ芸・伝統の見世物」をご覧あれ! その記事によってまさにモースとビゲローが行ったのは、かの「花やしき」であることが判るのである!(以下、引用させて戴く)『牡丹と菊細工を主とした花園(植物園)として嘉永6年(1853)に誕生した、日本最古の遊園地とされる浅草「花やしき」。明治初年から遊戯施設が置かれ、珍獣・猛獣が飼育された「花やしき」でも「ヤマガラの芸」が評判を呼ぶ』とあるのである(「浅草公園 花やしき引札」の「山がら奇芸」の画像も必見!)。私も幼稚園の頃、大泉学園の寺の縁日で、カーバイトの光りに照らされたおみくじを引くヤマガラを見た、遠い遠い記憶がある。……私はリンク先の動画を見ながら、何かひどく懐かしい思いと同時に、ある致命的な欠損にかかる、不思議に深い耐え難い淋しさを感じてしまった……。]

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 私は実に大急ぎで写生をしたが、それでもそれ等は、如何なる記述よりも芸当が如何なるものであるかを、よく示すであろう。図628では籠が一フィートをへだて、お互に相面して開けてあり、その間に小さな玩具の馬が一置いてある。この曲芸では、一羽が馬にとび乗り、他の一羽が手綱を嘴にはさんで、卓の上をあちらこちらヒョイヒョイと曳いて廻る。鳥が籠から出て自分の芸当をやるのが、如何にも素速いのは愛嬌たっぷりであった。又別の芸当(図629)では、鳥が梯子を一段々々登り、上方の櫓(やぐら)に行ってから嘴でハケツを引き上げる。たぐり込んだ糸は脚で抑えるのである。その次の芸(図630)では、四羽の鳥がそれぞれの籠から出て来て、三羽は小さな台に取りつけた太鼓や三味線をつつき、一羽は卓上によこたわる鈴やジャラジャラいう物やを振り廻す。勿論音楽も、また拍子も、あったものではないが、生々とした騒ぎが続けられ、また鳥が一生懸命に自分の役をやるのは、面白いことであった。

[やぶちゃん注:「一フィート」三十・四八センチメートル。]

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 図631では、鳥が籠から売り出し、幾段かの階段を登って鐘楼へ行き、日本風に鐘を鳴らすように、ぶら下っている棒を引く。図632は弓を射ている鳥である。この鳥が実際行うのは、馬の頭(日本の子供に一般的である木馬)で終っている棒にある刻み目から、糸を外すことであるが、然し矢は射出され、的になっている扇がその支持柱から落ちる。

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633

 

 図633では、鳥が走り出して、神社の前にある鈴を鳴らす糸を引く。鳥はそこで一つの箱の所へ走り寄り、卓上から銅貨を拾ってそれ等をこの箱の内へ落し入れる。日本の教会或は寺院には、数個の鈴が上方に下げてあり、その横に紐が下っていて、この紐に依て鈴を鳴らすことが出来る。参詣者は祈禱する時これを行う。寄進箱は柄のついた小さな物で一週間に一度廻すというのでなく、長さ四、五フィート、深さ二フィートの大きな箱で、上方が開いているが、金属の貨幣が落ちる丈の幅をへだてて、三角形の棒で保護してある。この箱は一年中神社仏閣の前に置いてある。人は往来で立ち止り、祈禱をつぶやき箱の内に銭を投げ込むのだが、その周開の地上に、数個の銭が散在していることによっても知られる如く、屢々的が外れる。

[やぶちゃん注:「一週間に一度廻すというのでなく」この前後は原文は“The contribution box, instead of being a small affair on the end of a handle, passed around once a week, is a huge box, even four or five feet long and two feet deep, open above, but protected by triangular shaped bars just wide enough apart to allow the metal coin to drop through.”であるが、この箇所の意味が英語の苦手な私にはよく解らない。週に一度は必ずお参りして、の謂いだろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「長さ四、五フィート、深さ二フィート」横幅一・三~一・五メートル、深さ約六十一センチメートルの賽銭箱。]

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 最も駕く可き芸当は、図別634に示すものである。鳥は机の上から三本の懸物を順々に取上げ、小さな木にある釘にそれ等をかける。釘に届くために、鳥は低い留木にとび上らねばならぬ。小鳥を、このような行為の連続を行うべく仕込むには、無限の忍耐を必要とするに相違ない。別の芸当では、鳥が梯子をかけ上って台へ行き、偉い勢でいくつかの銭を一つずつ投げた。更に別の芸当では、傘を頭上にかざして長い梯子を走り上り、綱渡りをした。また一定の札を拾い上げ、箱に蓋をしたりした。鳥馴しの男は、喋舌(しやべ)る鸚鵡(おうむ)と、大きな鸚鵡に似た鳥とを持ち出し、一羽ずつ手にのせてそれ等に「如何ですか」とか「さよなら」とかいう言葉を、勿論日本語でだが、交互に喋舌らせた。それは全体として、私が見たものの中で最も興味のある、訓練された動物の芸当であった。芸当のあるものは、例えば物をつまみ上げるとか、巣をかける時に糸を引張るとかいう風な、鳥が日常生活にやる自然的の動作そのものであったが、それにしても、どうして鳥を、絵画をひろい上げ、それをそれぞれに適当した釘にかけるように仕込んだかは、我々には想像も出来ない。

[やぶちゃん注:モースが改行をしながらこれだけ語っているのは、本書では特異点で、彼がこの鳥たちの芸にいたく感動したことを物語っている。

「喋舌る鸚鵡と、大きな鸚鵡に似た鳥」わざわざこう言っているところを見ると、オウム目オウム科 Cacatuidae の中でも前者は普通のそれ、後者は有意に大きな別種であるらしい。鳥類は私の守備範囲にない。これらの識別のおつきになられる方は是非、御教授頂きたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 家相

 日本人は以前、家屋の建築に就て、非常に多くの迷信を持っていた。これは、いまだに下流の者は信じている。竹中の話によると、彼が小さかった時、家族が東京へ移ったが、彼の父が磁石を調べた結果、家のある場所が正当な方向に位していないことが判り、その為に彼はその後しばらくして別の家へ移転したそうである。この迷信は、知識階級の者はすでに棄てて顧みぬ。友人達は会うと最後に会った時のことや、互に出した手紙のことを物語るのが普通である。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 本の巻号について

 日本人は本の巻頭に番号をつけるのに、普通の一二、三以外に他の漢字を使用する。例えば三巻の書物があると、彼等は「上」「中」「下」を意味する漢字を使用し、二巻ならば「上」と「下」とを使用する。又、三巻の書物に「天」「地」「人」を意味する漢字を使用することもあり、二巻を「北西」「北東」を意味する漢字であらわすこともある。一般に何冊かの番号をつける時、番号に「巻物」を意味する漢字を前置する。これは古代書物が巻物の形をしていたからで、我々の Volume という語も、同じ語原を持っている。日本の十二宮は、我々と同じく動物の名で呼ばれる。磁石もまた十二宮を持つ十二の方位に分たれ、北は「鼠」、東は「兎」、南は「馬」、西は「鳥類」である。これ等の大きな方位の間に、二つの中間方位があり、北東に対して彼等は「丑虎」なる名を持つ。

[やぶちゃん注:これも分かり易いので原文を示す。

   *

In numbering the volumes of their books, besides the usual 1, 2, 3 the Japanese use other characters. For example, if there are three volumes they use the characters for "above," "middle," "below"; if there are two volumes, "above" and "below"; or for a work of three volumes they may use the characters meaning "heaven," "earth," and "man"; two volumes may be designated by characters meaning "northwest" and "northeast." It is customary in the case of a number of volumes to preface the numbering by a character which means "roll," as in ancient times the books were in form of rolls; our word "volume" has the same origin. The Japanese signs of the zodiac are called after the names of animals, as with us. The compass is also divided into twelve points with the signs of the zodiac; north, being "rat"; east, "rabbit"; south, "horse"; west, "birds." There are two intermediate points between these greater ones, and for northeast they have the name "bull-tiger."

   *

『二巻を「北西」「北東」を意味する漢字であらわす』「北東」はモースの勘違いで「南西」である。易の卦(け)で天と地を指すところの乾(ケン:戌亥(いぬい)/北西)と坤(コン:ひつじさる(未申)/北東)で、しばしば上下二巻の呼称となる。恐らくモースは対称位置で同音でもある艮(コン:うしとら(丑寅)/北東)と勘違いしたものであろう。

「我々の Volume という語も、同じ語原を持っている」英語のそれもラテン語の“volvere”(渦巻く・書巻を繙(ひもと)いて読む)に由来するらしい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 諺対照

 竹中は私にいろいろ面白いことを話してくれる。我国の諺なり格言なりをいうと、彼は日本に於る同様なものを挙げる。例えば、「お婆さんが針で舟を漕ごうとする時いったことだが、どんな小さなことでも手助けになる」を日本では「貝殻で大海を汲み出す」或は「錐で山に穴を明ける」という。広間に人が一杯集ったのを「床に錐を立てる余地も無い」と形容する。我国の「馬が盗まれた後で納屋の戸に鍵をかける」に匹敵するものに日本の「喧嘩すぎての棒ちぎれ」がある。

[やぶちゃん注:原文を提示する。

    *

Takenaka tells me many items of interest. In mentioning some of our proverbs or sayings he matched them with similar ones in Japan; thus, "Every little helps, as the old woman said when she tried to row a boat with a needle"; the Japanese say, "To dip out the ocean with a shell," and also, "To make a hole in a mountain with an awl"; and in describing a dense crowd in a hall, "There was no room to put an awl to the floor." Our saying, "Lock the barn door after the horse is stolen," is paralleled by the Japanese saying, "Carry the stick after the quarrel."

    *

「竹中」既出のモースの私設助手のような兄弟、竹中成憲か竹中(宮岡)恒次郎の孰れかであるが、如何にも面白そうに語っているところはモースのより可愛がった弟恒次郎の方にも見え、しかし彼は宮岡家の養子となっていて彼をモースは前で「小宮岡」と呼称しており、単に「竹中」と言った場合は兄を指すようにも見える。一応、兄ととっておく。

「貝殻で大海を汲み出す」近似したものに「嬰児の貝を以て巨海を測る」がある。これは一般には、到底成し遂げること出来ないことの譬えとして用いられる。元々は「漢書」の「東方朔伝」の「以筦窺天、以蠡測海、以筳撞鐘」(筦(かん)を以って天を窺ひ、蠡(れい)を以つて海を測り、筳(てい)を以つて鐘を撞く)、細い管を以って天を覗き、瓢箪で海の水を測り、小枝で大きな鐘を撞くという謂いで、見識が非常に狭いことを譬えた言葉である。そこからこの「蠡」(瓢箪)を法螺貝と解し、更にそれを扱うのを幼児として、赤子が大海の水を法螺貝で汲み出してその量を測ろうとする、といった無謀な行為、未熟な知識で遠大なものごとを推測することを謂う。「管窺蠡測(かんきれいそく)」という四字熟語もあるが、「平家物語」の倶利伽羅合戦の「木曽願書」に「今この大功を起すことたとへば嬰児の貝を以て巨海を測り蟷螂が斧を怒らかいて龍車に向かふが如し。然りといへども國の爲君の爲にしてこれを起す」で引かれるのが知られ、ここではそれが平家討伐への木曽の覚悟と確信として示されていることを考えれば、強ち、場違いな類似比較とは言えない。

「錐で山に穴を明ける」主意とここでの対照としては分かり、ありそうな諺ではあるが、見出し得ない。識者の御教授を乞う。

「床に錐を立てる余地も無い」云わずもがなであるが、「立錐の余地もない」で、人や物が密集していて、僅かの隙間もないことの譬え。出典は「史記」の「呂氏春秋」の「為欲」や「留侯世家」である。

「喧嘩すぎての棒ちぎれ」「喧嘩過ぎての棒千切り」「争い果てての千切り木」などとも言い、喧嘩が終わってしまってから、棒切れを持ち出すこと。時機に遅れて効果のないことの譬え。「後の祭り」と同義。]

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅵ)

 

冬の風つめたく晴れて

木の空に

大根の死骸かぎりなし

 

[やぶちゃん注:沢庵漬けにするための大根干しの景か。ふと見つけた個人ブログ「九州・福岡県糸島から野菜と食材をお届けするmamagocoro(ママゴコロ)のブログ」の「大根干して漬物に」の景が私にはしっくりきた。]

 

天人が

どこかの森へ落ちたらしい

シインとしてゐる春の眞晝中

 

白塗りのトラツクが街をヒタ走る

何處までも何處までも

眞赤になるまで

 

[やぶちゃん注:「何處までも何處までも」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

これが女給

こちらが女優の尻尾です

チヨツト見分けがつかないでせう

 

レコードの割れ目を

針が辷る時

歌つてゐる奴の冷笑が見える

 

地獄座のフツトライトが

北極光さ

悔い改めよといふ意味なのさ

 

黃道光は

空の女神の脚線美さ

だから滅多にあらはれないのさ

 

[やぶちゃん注:「黃道光」「くわうだうくわう(こうどうこう)」とは、日没後は西空に、日の出前は東空に黄道(ecliptic:太陽が天空を回る見かけ上の通り道である円周軌道、地球の太陽に対する軌道面。英語は月がこの面を通過する時にのみ日食や月食が起こることに由来する。因みに「黄道」はウィキ黄道によると学術的にも「おうどう」と読んでもよいとされている)に沿って太陽を中心に帯状に見える淡い光の帯のこと。地球の軌道面に沿って散在する希薄なガスや微粒子が太陽光を散乱するために見られる現象。]

 

戀愛禁斷の場所が

今の世に在るといふ

床の間の在るお座敷がソレだと……

 

[やぶちゃん注:個人(複数)ブログ「旅と歴史用語解説(歴史学・考古学・民俗学用語集)」の床の間」に、床の間とは『和室建築において、通常は座敷の上座側にあって畳よりも床を一段高くした空間。多くはハレの空間である客間の一角に設けられ、床柱、床框などで構成され、板張りと畳敷がある。歴史的には東山文化の書院造において採用された形式で、観賞用として壁に掛け物を掛けたり、床に生け花や置物などを飾ることが多い』が柳田國男は「木綿以前の事」の中で、『床の間の発達は、室町時代の風習として君主が臣下の家に客として訪問することが多くなったことが、特別の上座を必要としたものではないかと指摘している。通常は絵画鑑賞の形式の変化などによって床の間の発生を説明することが多いなか、永原慶二は柳田の説を室町時代の社会のありかたと深く結びついた洞察だとして高く評価している』とある。また、別なネット記載のコメントに、とある僧の話であったとして、『床の間は男の間という意味で、男性(家の主)の出世運を左右する』であって、『床の間に掛け軸や花以外の物を置くと、主の運を下げるとも言』われているとあった。これは特別なまさに前述のような「ハレ」を将来する特殊空間装置としての「床の間」を意味しており、そこで恋愛を含む性愛行動は禁忌であるのは言うまでもないということになる。]

 

女を囮に

脱獄囚を捕まへた

脱獄囚よりも殘忍な警官

 

十七歳の少女の墓を發見して

頭を撫でゝ

お辭儀して遣る

 

脱獄囚を逐うて

警官が野を横切る

脱獄囚がアトから横切る

 

打ち明けて云はれた時に

ドウしたらいゝのと

娘が母に聞いてみる

 

泣き濡れた

その美しい未亡人が

便所の中でニコニコして居る

 

[やぶちゃん注:「ニコニコ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

姙娠した彼女を思ひ

唾液を吐く

黃色い月がさしのぼる時

 

笹の間にサヤサヤのぼる冬の月

眞實々々

薄血したゝる

 

[やぶちゃん注:「サヤサヤ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

白い赤い

大きなお尻を並べて見せる

ナアニ八百屋の店の話さ

 

 

   (昭和七(一九三二)年四月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「れふきのうた」)

 

 

 

   うごく窓

 

病院の何處かの窓が

たゞ一つ眼ざめて動く

雪の深夜に――

 

驛員が居睡りしてゐる

眞夜中に

骸骨ばかりの列車が通過した

 

母の腹から

髮毛と齒だけが切り出された

さぞ殘念な事であつたらう

 

梟が啼いた

イヤ梟ぢや無いといふ

眞暗闇に佇む二人

 

吹き降りの踏切で

人が轢死した

そのあくる日はステキな上天氣

 

 

   (昭和八(一九三三)年十二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

[やぶちゃん注:前回から一年と八ヶ月ものスパンが空いている。しかも発表詩を同昭和八年五月に創刊したばかりの『ぷろふいる』(京都)に移しているが、これは先の掲載誌『獵奇』(京都)が前年の五月号(前掲「獵奇歌」掲載の翌月号)を以って終刊したことによる。『ぷろふいる』『獵奇』ともに関西系の探偵小説専門誌であった。]

 

 

 

   うごく窓

 

白き陽は彼の斷崖と

朝な朝な

冷笑しかはしのぼり行くかな

 

[やぶちゃん注:「朝な朝な」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

地下室に

無數の瓶が立並び

口を開けて居り呼吸をせずに

 

ひれ伏した乞食に人が錢を投げた

しかし乞食は

モウ死んでゐた

 

嫁の奴

すぐにお醫者に走つて行く

わしが病氣の時に限つて

 

ラムネ瓶に

蠅が迷うて死ぬやうに

彼女は百貨店で萬引をした

 

晴れ渡る靑空の下に

鐵道が死の直線を

黑く引いてゐる

 

草蔭するどく黑く地に沁みて

物音遠き

死骸の周圍

 

 

[やぶちゃん注:「沁みて」諸本、「泌みて」とする。後者でも「しみて」とは読めるが、「にじみて」とも読めてしまう。]

 

 

   (昭和九(一九三四)年二月号『ぷろふいる』・署名「夢野久作」)

2015/07/22

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅴ)

  
 
透明な硝子の探偵が

前に在り うしろにも在り

秋晴れの町

 

月のよさに吾が戀人を

蹴殺せし愚かものあり

貫一といふ

 

[やぶちゃん注:「貫一」云わずもがな、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(読売新聞に明治三〇(一八九七)年一月一日から明治三五(一九〇二)年五月十一日までの実に四年強と云う驚くべき期間に断続して続編形式で連載されたが、紅葉の死によって未完成に終わった。連載当時の久作は満八歳直前(彼の誕生日は明治二二(一八八九)年一月四日)から十三歳、未だ小学生(尋常及び高等)であった)の主人公間(はざま)貫一。因みにウィキ金色夜叉によれば、『文芸評論家北嶋廣敏によれば、主人公・間貫一のモデルは児童文学者の巖谷小波である。彼には芝の高級料亭で働いていた須磨という恋人がいた。が、小波が京都の新聞社に2年間赴任している間に、博文館の大橋新太郎(富山唯継のモデル)に横取りされてしまった。小波は別に結婚する気もなかったのでたいして気にも留めていなかったというが、友人の紅葉が怒って料亭に乗り込み須磨を足蹴にした。熱海の海岸のシーンはそれがヒントになったという』(実は私は今日調べてみるまでこの事実は知らなかった。正直、吃驚した)。]

 

自分より優れた者が

皆死ねばいゝにと思ひ

鏡を見てゐる

 

キリストは馬小屋で生れた

お釋迦樣はブタゴヤで生まれた

と……子供が笑ふ

 

[やぶちゃん注:「ブダゴヤ」云わずもがな乍ら、釈迦、ゴータマ・シッダッタは現在のインドのビハール州ガヤー県ブッダガヤ(仏陀伽邪)で悟ったとされる。]

 

十六吋主砲の

眞向うの大空が

眞赤に眞赤に燃えてしたゝる

 

[やぶちゃん注:「十六吋主砲」口径四〇・六四センチメートルの超弩級の大型戦艦の主砲。具体的には本歌発表の十二年前の大正九(一九二〇)年に完成していた大日本帝国海軍の長門型戦艦一番艦で日本海軍の象徴として親しまれた戦艦「長門」(排水量は基準値三万二千七百五十九トン/後の唱和一一(一九三六)年の改装後は三万九千百三十トン)は竣工当時、世界初且つ最大口径の十六・一インチ(当時日本はメートル法を採用していたため実口径は四十一センチメートルぴったり)主砲(四一式四十五口径四十一糎連装砲)四基を搭載していた(以上はウィキ「長門」(戦艦)に拠った)。]

 

キツト死ぬ

醫師會長の空椅子に

白い新しいカヴアがかゝつた

 

羽子板の羽二重の頰

なつかしむ稚な心に

針をさしてみる

 

腸詰に長い髮毛が交つてゐた

ジツト考へて

喰つてしまつた

 

恐怖劇が

チツトモ怖くなくなつた

一所に見てゐる女が怖くなつた

 

古着屋に

女の着物が並んでゐる

賣つた女の心が並んでゐる

 

今日からは別人だぞと反り返る

それが昨日の俺だつた

馬鹿………………

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集を底本とする青空文庫では、三行目のリーダが三点リーダ五字分十六ドットしかない。第一書房版全集は本テクストと同じく六字分十八ドットある。]

 

   (昭和七(一九三二)年三月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「れふきのうた」)

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅳ)

 

トラムプのハートを刺せば

黑い血が……

クラブ刺せば……

赤い血が出る

 

ストーブがトロトロと鳴る

忘れてゐた罪の思ひ出が

トロトロと鳴る

 

[やぶちゃん注:二箇所の「トロトロ」は二箇所とも底本では踊り字「〱」。]

 

雪だつた

ストーブの火を見つめつゝ

殺した女を

思うたその夜は……

 

死刑囚が

眼かくしをされて

微笑したその時

黑い後光がさした

 

子供等が

相手の瞳にわが瞳をうつして遊ぶ

おびえごゝろに

 

やは肌の

熱き血しほを刺しもみで

さびしからずや

惡を説く君

 

[やぶちゃん注:後の與謝野晶子こと鳳(ほう)晶子の処女歌集「みだれ髪」(與謝野鐡幹編明治三四(一九〇一)年八月十五日東京新詩社・伊藤文友館共版)に所収された中でも最も人口に膾炙する一首、

 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

の初出は前年の『明星』明治三十三年十月刊の第七号(同誌は同年四月創刊)で、初出当時、夢野久作は満十一歳、大分尋常高等小学校二年であった。]

 

夕ぐれは

人の瞳の並ぶごとし

病院の窓の

向うの軒先

 

眞夜中に

枕元の壁を撫でまはし

夢だとわかり

又ソツと寢る

 

親の恩を

一々感じて行つたなら

親は無限に愛しられまい

 

屍體の血は

コンナ色だと笑ひつゝ

紅茶を

匙でかきまはしてみせる

 

梅毒と

女が泣くので

それならば

生かして置いてくれようかと思ふ

 

紅い日に煤煙を吐かせ

靑い月に血をしたゝらせて

畫家が笑つた

 

黑い大きな

吾が手を見るたびに

美しい眞白い首を

摑み絞め度くなる

 

闇の中を誰か

此方を向いて來る

近づいてみると

血ダラケの俺……

 

投げこんだ出刃と一所に

あの寒さが殘つてゐよう

ドブ溜の底

 

煙突が

ドンドン煙を吐き出した

あんまり空が淸淨なので……

 

[やぶちゃん注:「ドンドン」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

雪の底から抱へ出された

佛樣が

風にあたると

眼をすこし開けた

 

病人は

イヨイヨ駄目と聞いたので

枕元の花の

水をかへてやる

 

[やぶちゃん注:「イヨイヨ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

   (昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

[やぶちゃん注:前回からは実に十ヶ月のスパンがある。]

 

 

 

宇宙線がフンダンに來て

イライラと俺の心を

キチガヒにしかける

 

[やぶちゃん注:「イヨイヨ」の後半は底本では踊り字「〱」。オーストリア生まれで後にアメリカ合衆国に移住した物理学者ヴィクトール・フランツ・ヘス(Victor Franz Hess 一八八三年~一九六四年:「ビクター」とも音写する。ナチスの台頭を嫌って一九三八年にアメリカへ渡りニューヨークのフォーダム大学教授となって一九四四年にアメリカの市民権を獲得)が気球を用いた放射線の計測実験(一九一一年から一九一二年)を行って地球外から飛来する高エネルギーの放射線を発見し、当時、地球上で検知し得る放射線が宇宙起源であることを証明した(この業績によって彼は後の一九三六年のノーベル物理学賞を受賞している。ここまではウィキヴィクトール・フランツ・ヘスに拠った)から、この歌はそれから二十年ほどが経過している。トンデモ説での非科学的人体影響説よりもなによりも、統合失調症の関係妄想例ではすこぶる高い確率で悪い電波という概念が出現するから、これもそうした新しい時代の新しい狂気の様態を踏まえていて私には頗る興味深い。まさに「ドグラ・マグラ」の久作ならではの一首と言えよう。]

 

隣室に誰か來たぞと盲者が云ふ

妻は行き得ず

ジツト耳を澄ます

 

眼が開いたら

芝居を見ると盲者が云ふ

その顏を見て妻が舌を出す

 

血壓が

次第々々に高くなつて

頸動脈を截り度くなるも

 

インチキを承知の上で

賭博打つ國際道德を

なつかしみ想ふ

 

[やぶちゃん注:「國際道德」まさにこの歌が『獵奇』に載った昭和七(一九三二)年一月、この前年の満州事変に対して(満州国建国は二ヶ月後の三月)、連盟はリットン調査団を結成している。国際連盟理事国であった日本は孤立して行き、翌一九三三年二月二十四日に日本は連盟を脱退する。]

 

二人の戀に

ポツンと打つたピリオツド

ジツト考へて紙を突き破る

 

日本晴れの日本の町を

支那人が行く

「それがどうした」

「どうもしないさ」

 

キリストが

或る時コンナ豫言をした

俺を抹殺するものがある……と

 

妻を納めた柩の中から

マザマザと俺の體臭が匂つて來る

深夜……………………

 

 

   (昭和七(一九三二)年一月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇の歌」

[やぶちゃん注:前回からはこれもやはり十ヶ月のスパンがある。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  建長寺


    
建長寺

建長寺は。巨福呂阪の道(みち)北に在り巨福山號す。鎌倉五山の第一なり。相摸守平時賴の建立に係る東鑑に建長五年十一月廿五日建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に事始有て既に造畢すとあり。證とすべし。開山は寛元四年に來朝せし宋の大覺禪師、名は道隆蘭溪と號せし者なり。外門(そともん)二所。其の東外門に海東法窟。西外門には天下禪林と題せる額を掲く。共に崇禎元年十一月竹西書と署名せり竹西は朝鮮人なり。門外に金龍水あり。鎌倉五名水の一なり。總門には巨福山の額を表す。筆者詳ならす。或は曰く寧一山と。或は趙子昻(てうすこう)と。而して巨(こ)の字上の一畫(いつくわく)の下に一點を加て書したり。時人(じじん)褒美して。此額此點を加へて百貫の價を添(そへ)たりといひしより。百貫點と稱すといふ。門内左右に六株の白槇(びやくしん)あり。皆老樹にして左方中央に立る者。最も大、六席を容(い)るベし。蓮花の銅盤ありて水を吐けり。山門は箱棟茅葺にて白木作り。下邊(かへん)は左右各六本の柱にて見透(みとう)しなり。建長興國禪寺と二行に書したる大額を掲(かゝ)く。楠の一枚板にて縱九尺横六尺とす。宋僧子曇(しどむ)の筆と稱すれども。相摸風土記には勅額ならむとの説あり。太宰春臺の湘中紀行に。大門北爲樓門。署曰建長興國禪寺。宋僧子曇書。額扁甚長濶。今門不諸重屋間。覆而懸之樓下。仰而視之。若屋宇然。殆乎竟門。觀此乃知門故高大と記せり。實に此觀なきにあらず。樓上には十大羅漢ありしが。今は僅かに八體を存すといふ。七月十五日門下(もんか)にて施餓鬼會あり。終りて梶原施餓鬼といふを行ふよし。鎌倉志に傳説あれとも信するに足らず。佛殿には祈禱の牌を掛く。二重屋根銅瓦にて。殿は瓦疊(かはらたゝみ)なり。正面大蓮花の上に地藏菩薩、丈六の木造を安置す。之を濟田地藏といふ。蓋し濟田某の護持佛應行(おうげう)の作長一寸五分の小像を此(この)體中(たいちう)に藏(をさ)めしに由る。抑此地は古昔(むかし)刑塲にして。地獄谷(ぢごくがやつ)と字し。地藏の小堂あり。故に舊にて仍(よつ)て是を本尊とすと云格天井の群鳥は。狩野法眼(かのはうげん)の筆。欄間の天人は左甚五郎の作と稱す。右正面の格子内(うち)に太鼓と陣鐘あり。大皷は徑(わたり)五尺八寸胴一丈八尺。楠の一本木なり。皷皮(こひ)一面破ること尺許。導者云。近侍(きんじ)兵士(へいし)の惡戯(あくぎ)に係ると惜むべし。堂内には北條時賴の木像あり。束帶にて龕内(がんない)に坐せり。前牌に最明寺殿崇公太禪定門神儀と記す其の他德川家歷世(れきせい)當山歷世和尚の靈牌(れいはい)を列置す。

[やぶちゃん注:やや長いので、パートごとに注し、注の後を一行空けておいた。

「東鑑に建長五年十一月廿五日建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に事始有て既に造畢すとあり」「吾妻鏡」の建長五(一二五三)年十一月二十五日の条に以下のようにある。

   *

廿五日庚子。霰降。辰尅以後小雨灌。建長寺供養也。以丈六地藏菩薩爲中尊。又安置同像千體。相州殊令凝精誠給。去建長三年十一月八日有事始。已造畢之間。今日展梵席。願文草前大内記茂範朝臣。淸書相州。導師宋朝僧道隆禪師。又一日内被冩供養五部大乘經。此作善旨趣。上祈 皇帝萬歳。將軍家及重臣千秋。天下太平。下訪三代上將。二位家并御一門過去數輩没後御云々。

やぶちゃんの書き下し文

廿五日庚子。霰(あられ)、降る。辰の尅以後、小雨灌(そそ)ぐ。建長寺の供養なり。丈六の地藏菩薩を以つて中尊と爲(な)し、又、同像千體を安置す。相州、殊に精誠を凝らさしめ給ふ。去ぬる建長三年十一月八日、事始(ことはじめ)有りて、已に造畢(ざうひつ)の間(あひだ)、今日、梵席(ぼんせき)を展(の)ぶ。願文の草は前大内記(さきのだいないき)茂範朝臣。淸書は相州。導師は宋朝僧道隆禪師。又、一日の内に五部の大乘經を冩し、供養せらる。此の作善(さぜん)の旨趣(しいしゆ)は、上は皇帝の萬歳(ばんせい)を祈り、將軍家及び重臣の千秋(せんしう)、天下の太平を祈り、下は三代の上將、二位家幷びに御一門の過去、數輩の没後を訪ひ御(たま)ふと云々。

   *

引用文中の「相州」は北条時頼、「三代」は源家三代の将軍、「二位家」は北条政子。

「寛元四年」西暦一二四六年。

「其の東外門に海東法窟。……」私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之四」の冒頭の部分に以下の額の図が総て載るので参照されたい。

「崇禎元年十一月竹西書」崇禎(すうてい)は明代最後の第十七代皇帝毅宗(崇禎帝)の治世中に用いられた元号。元年は西暦一六二八年に当たる。

「寧一山」「ねいいつさん(ねいいっさん)」と読む。一山一寧(いっさんいちねい 一二四七年~文保元(一三一七)年)のこと。台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)出身の臨済僧。来朝(「宋朝」は「來朝」の誤り)を正和二(一三一三)年とするが、前年の誤り。彼は又、「宋」からの渡来僧ではなく、過去の日本遠征(元寇)で失敗した元の第六代皇帝成宗が日本を従属国とするための懐柔策として送ってきた朝貢督促の国使としてであった。妙慈弘済大師という大師号も、そのために成宗が一寧に贈ったものである。以下、参照にしたウィキの「一山一寧」によれば、『大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉し』てしまう。『それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる』。『修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した』。『幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き』、永仁元(一二九三)年の火災以降、衰退しつつあった『建長寺を再建して住職に迎え、自らも帰依した。円覚寺・浄智寺の住職を経』、正和二(一三一三)年『には後宇多上皇の招きにより上洛、南禅寺』三世となり、そこで没している。

「趙子昻」(一二五四年~一三二二年)元代第一流の能書家。

「白槇」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で建長寺のものは、和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis と思われる。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられる。

「六席」「席」は茣蓙・莚のことで、大人一人分の座る面積の六人分の謂いであろう。

「箱棟」は「はこむね」と読み、大棟(おおむね:屋根の頂部の水平な棟)を箱状に板で覆ったものを言う。

「縱九尺横六尺」縦幅二・七メートル、横幅一・八メートル。

「宋僧子曇の筆と稱すれども。相摸風土記には勅額ならむとの説あり」「子曇」は西澗子曇 (せいかんしどん 一二四九年~嘉元四(一三〇六)年)浙江省出身の南宋の臨済僧。文永八(一二七一)年の来日後に一度戻ったが、正安元(一二九九)年に先に出た一山一寧に随って再来日した。北条貞時に信任され、鎌倉の円覚寺・建長寺住持となった。書画をよくした。諡号は大通禅師。道号は「西礀」とも書き、法名は「すどん」とも読む(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。「相模国風土記稿」は恐らく、「鎌倉攬勝考卷之四」の本額の解説の、「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を、土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし」とあるのに基づいて記したものか。ただ、この文章はやや意味が取り難い。「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を」の後に「傳へず、」或いは「記さず、」などの語の脱落が想起され、その後に「土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし。」と続かないとおかしい。因みにこの「訛」は「あやまり」と訓じているものと思われる。

「太宰春臺の湘中紀行」既注。以下、引用部を我流で訓読しておく。

   *

大門が北、樓門たり。署して曰く、「建長興國禪寺」と。宋僧子曇が書。額扁、甚だ長濶たり。今は門、諸重の屋間に掛くること能はず、覆ひて樓下に之を懸く。仰ぎて之を視るに、屋宇(おくう)の若くして然り。殆んど、門に竟(おは)る。此れを觀れば此れ、乃ち門の故(もと)より高大なるを知る。

   *

何だかよく解らぬ。識者の御教授を切に乞う。

「終りて梶原施餓鬼といふを行ふよし。鎌倉志に傳説あれとも信するに足らず」「新編鎌倉志卷之三」(私の電子テクスト)建長寺の「山門」の条に、『又此門下にて、七月十五日に、梶原施餓鬼(かじはらせがき)と云ふを行ふ。相ひ傳ふ、昔、開山在世の時に、武者一騎來て、施餓鬼會の終りたるを見て、後悔の色有りて歸る。時に禪師これを見て、呼びかへさせて、又施餓鬼會を設けて聽(き)かしむ。時に彼の武者、我は梶原景時(かぢはらかげとき)が靈なりといひて謝し去る。爾(しか)しより以來、此寺には毎年七月、施餓鬼の會終て後(のち)、梶原施餓鬼と云ふを設くるなり。心経を梵音(ぼんをん)にて、二三人にて誦(よ)む。餘(よ)の大衆は無言にて行道するなり。是を此寺にて梵語心經と云なり』とある。

「瓦疉」甃(いしだたみ)のように床に瓦を敷き詰めてあることを謂うのであろう。

「丈六」既注であるが再掲する。仏像の丈量、背丈を示す基準。仏身は身長が一丈六尺(約四・八五メートル)とされることから仏像も丈六を基準とした(実際の造立時には等身大のそれ以外にこの丈六を基準五倍・十倍或いは、その二分の一などで造像された。坐像丈六像は半分の約八尺 (二・四三メートル)、半丈六像は約八尺の立像を言う。

「濟田地藏」同じく「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の「佛殿」の条を引く。

   *

佛殿 祈禱の牌(はい)を懸けて、毎晨祈禱の經咒(きやうじゆ)怠らず。本尊地藏、應行(わうぎやう)が作。相ひ傳ふ、此の寺建立なき以前、此の地を地獄谷(ぢごくがやつ)と云ひ、犯罪の者を刑罰せし處なり。平の時賴の時代に、濟田(さいた)と云ふ者、重科に依りて斬罪に及ぶ。太刀とり、二(ふた)大刀まで打てども切れず。刀を見れば折れたり。「何の故(ゆゑ)かある」と問ひけるに、濟田、荅(こた)へて曰く、「我れ、平生地藏菩薩を信仰して常に身を放たず。今も尚髻(もとど)りの内に祕す」と云ふ。依つてこれを見れば、果して地藏の小像あり。背(せなか)に刀(かたな)の跡あり。君臣、歎異して、則ち濟田が科(とが)を赦(ゆる)す。濟田、此の地藏を心平寺の地藏の肚中(とちう)に收(をさ)むとなり。此の寺草創の時、佛殿の地藏の頭内に移す。長(たけ)一寸五分、臺座ともに二寸一分、立像の木佛(もくぶつ)なり。背(せなか)に刀(かたな)の跡ありと云ふ。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

文中に出る「心平寺」とは地獄谷刑場にあった鎮魂のための地蔵菩薩を本尊とした禅宗寺院で、建長元(一二四九)年創建と伝え、本尊と建立地から見れば、建長寺のプロトタイプとも言える寺である。小袋坂上に移り、小袋坂新道開通前までは本寺の名残である地蔵堂があった。現在は横浜三溪園内に移築しされて現存する。

「長一寸五分」像高四・五センチメートル。

「格天井の群鳥」「格天井」は「ごうてんじやう(ごうてんじょう)」、和様式の格子状になったもので、中央部分が折り上げとなっている(禅宗では大陸の様式に則り、仏殿は平板な鏡天井で龍などの絵を描くことが多いから、本尊を地蔵とすることに加え、この仏殿はかなり特異と言える)。金箔押しの鳳凰らしきものが描かれているが、現在は剥落が著しい。

「狩野法眼の筆」不詳。現在のデータにはない。

「欄間の天人は左甚五郎の作」これも現在は特に名指されていないように思われる。

「太鼓」と「大皷」の相違はママ。

「徑五尺八寸胴一丈八尺」太鼓の直径一メートル七十五センチ七ミリメートル、胴部分の長さが五メートル四十五センチ四ミリメートル。

「德川家歷世當山歷世和尚の靈牌を列置す」後で出るように、この仏殿は寛永年間に久能山に建立した徳川家の御霊屋(みたまや)の拝殿を正保三(一六四六)年に譲りうけて移築したものである。移建はかの沢庵宗彭の肝煎りとされる(以上は「鎌倉市史 社寺編」に基づく)。]

 

鎌倉志に建築當時の簗碑銘を載せたり。

[やぶちゃん字注:以下の簗碑銘は底本では全体が一字下げ。]

左の方

今上皇帝。千佛埀レ手扶持。諸天至レ心擁護。長保二南山壽一。久爲二北闕尊一。同三胡越於二一家一。通三車書於二萬國一。正五位下行相摸守平朝臣時賴敬書。

右の方

伏願三品親王征夷大將軍。干戈偃息。海晏河淸。五穀豐登。萬民康樂。法輪常轉。佛日增輝。建長五年癸巳十一月五日。住持傳法宋沙門道隆謹立。

[やぶちゃん注:「鎌倉志に建築當時の簗碑銘を載せたり」「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の「梁牌銘」で示した私の訓読文(影印本の訓点に拠る)を以下に示す。

   *

【梁の左の箇所】

今上皇帝、千佛手を垂れて扶持し、諸天心を至して擁護す。長く南山の壽を保ち、久しく北闕の尊と爲る。胡越を一家に同じ、車書を萬國に通ず。正五位下行相模の守平朝臣時賴敬して書す。

【梁の右の箇所】

伏して願はくは、三品親王征夷大將軍、干戈偃息し、海晏河淸し、五穀豊登、萬民康樂、法輪常に轉じ、佛日輝を增さん。建長五年癸巳十一月五日。住持傳法宋の沙門道隆謹みて立つ。]

 

風土記云。今の佛殿は久能山御宮拜殿更に再造せられし時。其舊殿を賜ふと云。或は崇源院殿御靈屋(おたまや)の拜殿を賜はりしなりと。

[やぶちゃん注:「風土記」「新編相模国風土記稿」。因みに唐門も同じく久能山からの移築である。

「崇源院」(天正元(一五七三)年~寛永三(一六二六)年)江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の妻お江(ごう)の法名。浅井長政三女で母は織田信長の妹お市。長姉は淀殿(茶々)。最初に佐治一成(秀吉により強制的に離縁)次に秀吉の甥豊臣秀勝(死別)、秀忠は三人目の夫である。]

 

法堂二重屋白木作(しらきつく)り。間口十三間佛殿の後に在り。常日は之を鎖せり。

方丈を龍王殿といひ。書院を聽松軒といふ。蘸碧池は書院に庭に在り。影向其の側に立てり。

[やぶちゃん注:「法堂」「はつたう(はっとう)」と読む。仏法を説く御堂の意で、禅寺で住持が修行僧に教えを説きつつ指導にあたる建物で、通常は仏殿の後方にあって禅宗寺院の中心的な空間である。他宗の講堂に相当する。当初の法堂は、創建から二十二年後の建治元(一二七五)年に建長寺開基であっ第五代執権北条時頼の十三回忌に創建されたものであったが、かなり以前に失われ、現在の法堂は文化一一(一八一四)年に再建(棟上)されたもの。関東一の大きさを誇る。

「十三間」二十三・六三メートル。

「蘸碧池」「影向の松」前者は「さんへきち」、後者は「やうがうのまつ(ようごうのまつ)」と読む。因みに、「影向」(一般名詞としては「えいごう」とも読む)とは神仏が現世に現前のものとして現れること、或いは神仏が一時手的に応現すること。この場合、神仏が仮の姿に変じて現れることを「権現(ごんげん)」という(また姿を見せずに現れることをも含む)。「新編鎌倉志卷之三」の建長寺より引く。

   *

蘸碧池(さんへきち)幷に影向(やうがう)の松 共に書院の庭あり。【元享釋書】に、福山寢室の後(うしろ)に池あり。池の側(かたはら)に松あり。其の樹條(こえだ)、直(なを)し。一日斜めに偃(のべふ)して室に向かふ。衆僧これを怪しむ。禪師語りて云はく、偉服(いふく)の人、松の上に居て我と語る。我、問ふ、「何れの處に住する」と。對(こた)へて曰はく、「山の左(ひだり)鶴岡(つるがをか)なり」と。語り巳(をは)つて見へず。其の人の居るを以つての故に松偃(のべふ)すのみ。諸徒の曰はく、鶴が岡は八幡大神の祠所なり。恐らくは神こゝに來るのみ。これより其の徒、其の樹に欄楯(らんじゆん)して、名づけて靈松と云ふとあり。今或は影向の松と云ふ。

   *

引用文中の「欄楯」とは仏塔を取り巻く柵のことを指す。この話はまさに、仏に神が従って教化されて取り込まれたのだとする如何にもな、本地垂迹説の変形譚である。]

 

開山塔(かいさんたう)は。佛殿の東に在り。外門の額嵩山は。佛光禪師の筆。中門の額西來庵は。筆者詳ならす。其の後山を嵩山といひ。其の峯を兜卒巓と稱す。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」の建長寺に、『嵩山(すうざん)幷に兜率巓(とそつてん) 開山塔の後ろの山を嵩山と號し、峯(みね)を兜率巓と云ふ。兜率巓に、開山幷びに佛光の石塔あり。佛光禪師は、圓覺寺の開山なれども、建長寺にて葬むる故に、塔は嵩山にあり』とある。]

 

勝上巘(しやうじやうけむ)は。方丈の後即ち北方の高山をいふ。瞻望すれは蒼翠(さうすゐ)掬すへし。曲折して登る甚た嶮なり。上には半僧坊の祠宇、座禪窟、仙人澤幷に五名水の一なる不老水あり。觀瀾閣上より眺望すれは。鎌倉地方の山水寸眸の中に落つ。一覽亭跡を除ては當所を以て風景第一とす。山麓に茶亭(さてい)あり。草履を賃貸す。沿道寸幟列植し其の數を知らず。皆(みな)半僧坊に獻する者なりといふ。頭塔甚た多し左(さ)に列記す

[やぶちゃん字注:以下は底本では一行に二字空けで五つの塔頭名を記す。ブログでの表示を考え、一字空けに変えた。]

華藏院 禪居庵 玉雲庵 廣德庵 寶珠庵

龍峯庵 龍源庵 正統庵 天源庵 寶泉庵

向上庵 妙高庵 長好院 正宗庵 同契庵

千龍庵 雲外庵 回春庵 雲光庵 通玄庵

正受庵 都史庵 傳芳庵 梅岑庵 大智庵

大統庵 梅洲庵 金龍庵 廣巖庵 龍淵庵

正本庵 華光庵 龍興庵 長生庵 大雄庵

瑞林庵 建初庵 傳衣庵 正法院 金剛院

吉祥庵 一溪庵 岱雲庵 實際庵 竹林庵

正濟庵 東宗庵 壽昌院

當時の盛況想ふベし。今は此中存する者實に寥々(れうれう)たり。「建長寺の庭を鳥掃子にて掃(は)く」とは淸潔の譬なるに、目下見る所に據れは。境内纖塵を絶するといふを得ず。名藍にして此の如し。懷古の情に堪へざるなり。什寳甚た多し。今之を記載せず。

[やぶちゃん注:「瞻望」は「せんばう(せんぼう)」と読み、遠く見渡すこと。

「觀瀾閣上」「上」まで傍点「●」が附されてある。「觀瀾閣」は「くはんらんかく(かんらんかく)」と読み、眺望する小亭であったかと思われるが、「新編鎌倉志卷之三」にさえ、『今は亡びたり。勝上巘坐禪窟の前に跡有』とする。ここもその跡の高台地を指している。

「一覽亭跡」前出の「瑞泉寺」の条に出た瑞泉寺後山の一覽亭跡のこと。

「建長寺の庭を鳥掃子にて掃く」「鳥掃子]は「とりぼうき」で、繊細な鳥の羽で作ったほうき、羽箒(はぼうき)のこと。この諺は知られた鎌倉が登場する狂言の「鐘の音(ね)」にも引かれている非常に古いもので(鳥箒を竹箒ともする)、禅宗で寺法厳しき建長寺の境内は古えより、掃除がゆき届いていて地理一つ落ちてないと言われたことから、掃除が行き届いていて、塵一つ落ちていないさま、そこから、清浄であること、きれいな様子、何もないことを意味する故事成句となったものである。この条、軍人が悪戯して太鼓の皮を破いたと寺の案内僧が歎く声を挟んだり、しかしねぇ、人のことは言えねえなぁ、かの清浄の代名詞だった庭の、このザマは何だと呟くあたり、いつになく筆者の人格がよく姿を現わしていてまっこと好感が持てるのである。]

「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」「北條九代記」縦書廃止

「新編鎌倉志」及び「鎌倉攬勝考」と「北條九代記」に幾つかに配していたIE限定の縦書版は使用される頻度も少ないと推測され、容量も馬鹿にならないので廃止することとした。万一、御要望が寄せられれば、復活する用意はある。悪しからず。

              心朽窩主人敬白

2015/07/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 大日本水産会での講演

 七月五日、私は招かれて、日本水産委員会で智的な日本人の聴衆を前に、講演をなした。華族女学校で会った皇族の一人が出席され、非常に親切に私に挨拶された。私は欧洲や米国の水産委員会がやりとげた事業と、魚類その他海産物の人工繁殖による成功とに就て話をした。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、明治一五(一八八二)年六月の『モースの来日目的は陶器および民具類の収集だったので、動物の採集や貝塚の研究はまったく行なわなかったが、講演は何度かしている。その最初が』本文にも前に出た、『六月三十日に木挽町明治会堂で開かれた東京生物学会主催の「化醇論」(進化論)』で、それに続くものがこれで、『大日本水産会の招待で、農商務省の議事堂において「水産の緊要」と題して、欧米の水産事業と人工養殖について話した。同会の会頭は東伏見親王で、このときモースは名誉会員に選ばれている。『東京日日新聞』の七月十四~十七日号に連載された講演要旨によると、漁業資源の減少についての欧米での事例をまず概観したのち、アメリカでのサケとカキの養殖について、人工受精の方法と稚魚・幼生の飼育法を図を使ってかなり具体的に説明しているが、当時そのような試みがまだ行なわれていなかった我が国にとっては、少なからず参考になったことと思われる』。『モースはこのあとも、十三日には二箇所で講演、十五日には女子師範学校卒業式に出席するなど相変わらず忙しかったが、今度の訪日の目的である陶器収集の旅に出る準備も着々と進めていた』とある。

「華族女学校で会った皇族の一人」「華族女学校」は第十八章 講義と社交(Ⅱ) 家族学校講演と慶応義塾での進化論講話と剣道試合観戦に出てきた華族学校の女子部門で現在の学習院女子中・高等科の前身。「皇族の一人」とは磯野先生の言われる、『東伏見親王』、即ち、元帥海軍大将でもあった東伏見宮依仁親王(よりひとしんのう 慶応三(一八六七)年~大正一一(一九二二)年)その人であろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 蛆の集団移動と対捕食者防衛術

M626

図―626

M627

図―627

 

 ある朝私の召使いが、明らかに或る種の蠅の蛆と思われる虫の、奇妙な行列に、私の注意をうながした。彼等は三分の一インチほどの透明な、換言すれば無色な幼虫で、非常に湿っているのでお互にくっつき合い、長いかたまった群をなして、私の部屋の前の平な通路を這って行った。彼等は仲間同志の上をすべり、この方法によってのみ乾燥した表面を這うことが出来るのであり、またこの方法によってのみ、彼等は行列の両側をウロウロする、数匹の小さな黄色い蟻から、彼等自身を保護することが出来るのである。時に一匹の虫が行列から離れると、蟻は即座にそれを取りおさえ、引きずって行って了う。行列の先端が邪魔されると、全体が同時に停止する。私は行列の先方に長い溝を掘ったが、首導者連が肩形にひろがって、横断す可き場所をさぐり求める有様は、誠に興味が深かった。図626は長さ二フィートの行列の一部分で、図627は展開した行列の先頭である。行列は徐々に家の一方側へ行き、そこで割目へかくれて了った。この旅行方法が、保護の目的を達していることは明白である。蟻は、この一群から個々の虫を引き離すことが出来ないのだから。

[やぶちゃん注:「或る種の蠅の蛆と思われる虫」昆虫にお詳しい方は、この叙述で双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscomorpha の、例えばどのグループのハエかぐらいは同定出来てしまうのであろうか? 御教授を是非、乞いたく思う。

「三分の一インチ」一インチは八・五四センチメートルだから、凡そ八ミリメートル。

「小さな黄色い蟻」体色からハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科ヒメアリ属ヒメアリ Monomorium intrudens か(当初は私の家にもしばしば入り込んできては嚙みつく、家屋害虫として知られるイエヒメアリ Monomorium pharaonis かと思ったが、調べて見るとこれは少なくとも本州の諸都市に進入したのは昭和になってかららしい)。

「二フィート」六〇・九六センチメートル。]

夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅲ)

 

何故に

草の芽生えは光りを慕ひ

心の芽生えは闇を戀ふのか

 

殺したくも殺されぬ此の思ひ出よ

闇から闇に行く

猫の聲

 

放火したい者もあらうと思つたが

それは俺だつた

大風の音

 

眼の前に斷崖が立つてゐる

惡念が重なり合つて

笑つて立つてゐる

 

獸のやうに女に飢ゑつゝ

神のやうに火にあたりつゝ

あくびする俺

 

淸淨の女が此世に

あると云ふか……

影の無い花が

此世にあると云ふのか

 

ぐるぐるぐると天地はめぐる

だから俺も眼がくるめいて

邪道に陷ちるんだ

 

ばくち打つ

妻も子もない身一つを

ザマア見やがれと嘲つて打つ

 

 

   (昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

 

 

 

自殺しようか

どうしようかと思ひつゝ

タツタ一人で玉を撞いてゐる

 

にんげん

皆良心を無くしつゝ

夜のあけるまで

ダンスをしてゐる

 

[やぶちゃん注:太字「にんげん」は底本では傍点「ヽ」。]

 

獨り言を思はず云うて

ハツとして

氣味のわるさに

又一つ云ふ

 

[やぶちゃん注:諸本は一行目を「獨り言を思はず云つて」とする。ここは朗読してみると一目瞭然、「云うて」リズムの方が重い停滞を生んで軽い「云つて」よりも遙かによい。]

 

誰か一人

殺してみたいと思ふ時

君一人かい…………

………と友達が來る

 

號外の眞犯人は

俺だぞ………と

人ごみの中で

怒鳴つてみたい

 

飛びだした猫の眼玉を

押しこめど

ドウしても這入らず

喰ふのをやめる

 

メスの刄が

お伽ばなしを讀むやうに

ハラワタの色を

うつして行くも

 

五十錢貰つて

一つお辭儀する

盜めば

お辭儀せずともいゝのに

 

人間の屍體を見ると

何がなしに

女とフザケて笑つてみたい

 

 

   (昭和五(一九三〇)年四月号『獵奇』・署名「夢野久作」・総表題は「獵奇歌」

 

 

 

   血潮したゝる

 

闇の中に闇があり

又闇がある

その核心から

血潮したゝる

 

骸骨が

曠野をひとり辿り行く

行く手の雲に

血潮したゝる

 

教會の

彼の尖塔の眞上なる

靑い空から

血しほしたゝる

 

洋皿のカナリアの繪が

眞二つに

割れたとこから

血しほしたゝる

 

すれ違つた白い女が

ふり返つて笑ふ口から

血しほしたゝる

 

眞夜中の

三時の文字を