にぎやかな夕ぐれ(K.I に) 村山槐多
にぎやかな夕ぐれ(K.I に)
「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
何がにぎやか、何がにぎやか
薄靑い濃い夕ぐれ
美しい空が東山に
紫の珠が雨みたいに東山に
星が血のりめいて酒びたりの春の空に
紫に薄くれないに
「ほんまににぎやかやおへんか」
たどりゆくは女の群
寶玉でそろへた樣な多情な群
美しいお白粉にきらきらと
燈が燈が燈が加茂川の岸べに
金色に、アークランプも櫻色に
「ほんまににぎやかやおへんか
きれいな夕ぐれやおへんかいな」
わたしはたどる紫の貴とい薄紫の
神樂岡の裾を浮き浮きとした足どりに
たらりたらりと酒が滴たる
あざみ形の神經から
「にぎやかやおへんかいな」
わたしは答へるうれしさに
「そうどすえなあ」
美しい女の群に會ふや數々
「にぎやかな夕ぐれどすへな
ほんまににぎやかな
あの美しいわたしの思ふ子は
此頃どないに綺麗やろえな」
近衞坂を下れば池の面に
空がうつる薄紫の星の臺が
ほのかにもるゝ銀笛の響は
わが思ふ子の美しい家の窓から
「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
この時泣いて片戀のわれはつぶやく
「そやけどほんまはさびしおすのえなあ」
[やぶちゃん注:「K.I」京都府立第一中学校の一級下の稲生澯(いのうきよし)。後掲する「紫の微塵(稻生の君に捧ぐ)」の私の注を参照されたい。
「神樂岡」「かぐらがをか(かぐらおか)」は京都市左京区南部、京大東方にある吉田山の異称。
「近衞坂」不詳。吉田山の南西位置、現在の近代吉田寮及び京都市立吉田近衛中学校、近衛通を主とする京都市左京区吉田近衛町があるが、種々の画像・地図を見ても、「坂」はないので、この一帯とは思われない。そもそもが近衛坂を検索をしても、一般に知られた京都の近衛坂がなかなか見つからない。京都市公式サイト内の「中山家遠祖墳表記碑 碑文の大意」の中に(コンマを読点に変更した。下線やぶちゃん)、『その結果わかったのは、『薩戒記』にいうところの真如堂は、古くは今の真如堂の地の東数町に相当し、旧真如堂村の地名が今なお残っている。観音堂はすなわち吉田寺のこと。昔は近衛坂の南、善正寺の西に位置した。今なお吉田畝という地名が残る。現在の地名から昔のことを推量すると、あまりまちがったことにはならない。すなわち中山堂は今の真如堂の前、近衛坂の北、いにしえの車大路のそばにあったと考えるのが妥当であろう』という叙述が見つかった。また、東京都調布市の浄土宗慈眼山西照寺公式サイト内の「京都岡崎」の「新黒谷」の法然の事蹟記載中に、法然の隠遁地としてこの「近衛坂」について(下線やぶちゃん)、『近衛坂は金戒光明寺とその側にある真如堂(天台宗)の間と』法然が記している、ともあった。ところが、この二つの情報を現在の地図上で見て見ても、不思議なことに地点を絞り上げることが出来ないのである。詩の本文に「下れば池」があるというのが大きなヒントとは思われるが、地図上ではやはりそれを限定し得ない。但し、前の情景が「神楽岡」、現在の吉田山の吉田緑地であるから、そこから北或いは東北方向に下る孰れかの坂道を指してゐるものとは推測出来る。私は京都に数度しか行ったことのない迂闊な男である。どうか、この槐多の近衛坂、何方か、御教授方、お願い申し上げる。]