『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 新居閣魔堂
●新居閣魔堂
新居閻魔堂(あらゐのゑむまだう)は。巨福呂阪より建長寺に至る道南に在り。寺を圓應寺といふ。石階(いしだん)の上に門あり。新居山(あらゐざん)の額を掲く。傍に日本最初新居子育閻魔王運慶作と刻せし石標を建てり。開建(かいけん)は建長二年。開山は智覺。もとは由比濱大鳥居の東南に在りしと云。其頃迄は別當修驗者にて寶藏院と云ひしとそ。堂は茅葺にて正面に大龕(だいがん)あり。鎖(とざ)して見るを得す。上に琰王殿(ゑんわうでん)の横扁(がく)を表す。左右壇上に倶生神の木像〔長四尺許〕を列す。其狀各々異なり。東隅に地藏尊等の小像をも安置せり。太宰春臺の湘中紀行に云。過二圓應寺一在二道左一。堂安二閻魔木像一。世傳運慶暴死入二地獄一。見二閻魔一。蘇而造ㇾ此。夫運慶之前造二閻魔像一者衆矣。世之愚人莫レ不二見而畏一ㇾ之。何暇ㇾ問其肖否乎。縱使下二運慶所一レ造果肖上邪。而不レ能レ使下二賢智一見而畏上レ之。則此像之所二以貴不レ在レ貌耳。記者亦説あれとも畧す。鎖龕(さがん)の内に在る者。蓋し運慶の作と稱する者ならむ。風土記の説に據れば。運慶の作にあらず。永正頃再造せしものならむといふ。堂右に鐘樓あり。元祿七年に鑄たる者にして。建長沙門東天溪叟の記せし銘を鐫(せん)せり。
[やぶちゃん注:「建長二年」一二五〇年。
「智覺」「鎌倉廃寺事典」によれば、建長寺通玄庵の僧で桑田道海。但し、彼は延慶二(一三〇九)年没で、同寺の逸品で所蔵品中、一体扱いで最古と考えられる初江王(重要文化財指定。閻魔王も重文指定であるが、建立そのままなのは頭部のみ)の胎内銘にある建長三年という造立年からはかなり隔たっていて彼を開山とするには無理があるとする(具体的には「鎌倉市史 社寺編」の円応寺の項を参照されたい)。白井永二編「鎌倉事典」には、初めは由比郷見越岩(大仏南東の峰である見越ヶ嶽のことであろう)にあったものを足利尊氏が「荒居鯨海□前、鶴岡在後、右長谷十二面當途五焉、左市鄽四ケ町屠兒焉」(作者不詳「荒居閻魔堂円応寺修造勧進状」)という海に面した場所に移建したという、とあり、『その後元禄十六年(一七〇三)、震災にあい大破したため、山ノ内小袋坂上に再び移転した。その移転の時期としては『建長寺参暇日記』により宝永元年(一七〇四)に移ったことが明らかとなった』とある。さらに、「鎌倉廃寺事典」では、由比ヶ浜在のこの荒居閻魔堂は既に明応九(一五〇〇)年から永正一七(一五二〇)年の間に堂宇が再興されており、しかもその時既に建長寺の管理下にあったと記す。
「其頃迄は別當修驗者にて寶藏院と云ひしとそ」これは私の持つ資料の中には認められない。
「琰王殿」「琰」は玉を磨いて光を出す、或いは輝く玉の意であるから、閻(魔)王殿を音通で美称したものであろう。
「倶生神」「くしやうじん(くしょうじん)」と読む。人の善悪を記録し、死後に閻魔大王に報告するという二人の神のこと。ウィキの「倶生神」によれば、『倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する』。『人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという』。『インドでは冥界を司る双生児の神であったが、仏教が中国に伝わると、司命などの中国固有の思想などと習合し、また中国で成立した偽経の中において様々な性格を付加されるに至った。また日本に伝えられるや、十王信仰と共に知られるようになり、絵画や彫刻などでも描写されている』とある。円応寺のものは重要文化財指定で鎌倉国宝館常設展示。同じく常設展示の初江王とともに私のお気に入りの仏像である。因みに十王(無論、円応寺は総て蔵する)とは、以下を指す(「/」の後はその本地仏と死後何日目に当該裁判官に審理されるかを示した。これは「ウィキの「十王」に拠った但し、御存じの向きも多いと思うが、こうした地獄思想は仏教が中国に渡って当地の道教と習合していく中で捏造された偽経「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経」(略して「預修十王生七経」とも言う)によって形成されたものである)。
秦広王/不動明王/初七日(死後六日後)
初江王/釈迦如来/二(ふた)七日(十三日後)
宋帝王/文殊菩薩/三七日(二十日後)
五官王/普賢菩薩/四七日(二十七日後)
閻魔王/地蔵菩薩/五七日(三十四日後)
変成王/弥勒菩薩/六七日(四十一日後) 読みは「へんじょう」
泰山王/薬師如来/七七日(四十八日後)
平等王/観音菩薩/百ヶ日(九十九日後)
都市王/勢至菩薩/一周忌(一年後)
五道転輪王/阿弥陀如来/三回忌(二年後)
即ち、特に閻魔が主任裁判官である訳ではないこと、また十審制で、現代日本の三審制よりも遙かに冤罪が生じにくく、それでも済度されないのは凡そとんでもない極悪非道中の最たる者でない限りは地獄に落ちない極めて緩やかな裁判システムとなっていることが判る。地獄の方が遙かに民主的で誤りがないのである。なお同寺には他に奪衣婆(だつえば:三途川(葬頭(そうず)河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者や子どもの衣服を剥ぎ取ることを専門とする老婆の鬼。「そうずばば」とも呼ぶ)や鎌倉国宝館寄託常設展示の木造鬼卒立像(重要文化財附属指定)、さらには私が最も偏愛する同じく常設展示の人頭杖(じんとうじょう:檀拏幢(だんだとう)とも言い、閻魔王の持つ杖で杖の上にに男女(男は忿怒相で三つ目)二つの頭部が載る。意外なことに、恐ろしい男の首が亡者の乏しい生前の善行を、女の首が亡者の生前の悪事を余すところなく告発する。)もある。
「四尺」一・二メートル。
「湘中紀行」儒者太宰春台(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の享保二(一七一七)年筆の鎌倉を旅した紀行文。
「過二圓應寺一在二道左一。堂安二閻魔木像一。世傳運慶暴死入二地獄一。見二閻魔一。蘇而造ㇾ此。夫運慶之前造二閻魔像一者衆矣。世之愚人莫レ不二見而畏一ㇾ之。何暇ㇾ問其肖否乎。縱使下二運慶所一レ造果肖上邪。而不レ能レ使下二賢智一見而畏上レ之。則此像之所二以貴不レ在レ貌耳。」我流で書き下しを試みたが、但し、どうも今一つ、上手く読めない。
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圓應寺を過ぐ。道の左に在り。堂、閻魔木像を安ず。世に傳ふ、運慶、暴(には)かに死し、地獄に入り、閻魔を見、蘇へりて此れを造ると。夫れ、運慶の前、閻魔像を造れる者は衆(あまた)あるも、世の愚人、見て之を畏れざる莫し。何ぞ其れ、肖(かたち)なるか否かを問ふに暇(いとま)あらんか。縱へば、運慶をして造らしむる所の果肖ならんか。而して賢智をして見て之を畏れせしむること能はず。則ち、此の像の貴き所以(ゆゑん)にして、貌(かたち)に在らざるのみ。
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分かったような、分んないような……識者の御教授を乞うものである。
「永正頃再造せしものならむといふ」「新編鎌倉志卷之七」の「新居閻魔堂」(注意されたいがこの時は由比ヶ浜在の頃である)『寛文十三年に此閻魔の像を修する時、腹(はら)の中より書付(かきつけ)出たり。建長二年出來、永正十七年再興、佛師下野法眼如圓、建長の役人德順判、興瑚判とあり』とあるのを指し、この「永正十七年」は一五一二年で、この年の「再興」とは、明応七(一四九八)年八月二十五日に発生したマグニチュード8を越えたとも言われる東海道沖大地震による津波被害を受けてのことかと思われる。二〇一一年九月の最新の研究によれば、この時、鎌倉を推定十メートルを超える津波が段葛まで襲い、高徳院の大仏殿は倒壊、以後、堂宇は再建されずに露坐となったとも言われている。この時、伊勢志摩での水死者が一万人、駿河湾岸での水死者は二万六千人に上ったと推定されている。
「元祿七年」一六九四年。
「建長沙門東天溪叟」不詳。識者の御教授を乞う。
なお、かの小泉八雲は来日直後にこの円応寺を訪ねている。私に偏愛する段で、未読の方は私が最近手掛けた電子テクスト『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(九)』及び「同(一〇)」で是非お読み戴きたい。ちゃんと閻魔や小鬼も登場する。]