フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 金色と紫色との循環せる眼   村山槐多 | トップページ | レオナルドに告ぐる辭 【★1913年パートへの差し込み追加分】 »

2015/07/20

人の世界   村山槐多 【★1913年パートへの差し込み追加分】

  人の世界

 

 吾にとつて、世界は、吾の次の者である。吾の世界は、吾あつて始めて存在する。吾無き時吾の世界もない。主觀的に見る時は、世界は吾が領分である。吾は、吾が世界の主である。

 故に吾々は吾々の世界を自由にする權利を持つてゐる。是を如何にも變ずること意のまゝである。

  此の權利有りてこそ始めて人間は生きることが出來る。人生は此の點に生ずる。

 もし吾々が一定した世界と云ふものゝ權力内にあるとしたならば、吾々は土偶の坊でなければならない。吾々の存在の價値は勿論ないのである。今吾が、かく話せる如く、この自由權はしかしながら、人間必須のものとして吾々に附與されてゐた。そこで人間は千差萬樣の違つた世界を有つ。一つとして、同じ世界を有つてゐる者はない。

 同じ一人にして一秒の後の其の人の世界は、すでに同じでない。一地球の一秒の刹那には、地球上のすベての人は一つとして同じ世界を有つて居る者はない。そして次の一秒に於て生じた各世界は、一つとして前秒の各世界の中で同類を有つ事はない。かうやつて地球は永劫に違つた世界の止まらぬ集合となつて廻轉する。この恐ろしき不定、『唯一』の刹那に依つて、人間は生きて行かれるのである。

 而して万人の各世界の相違が、甚しければ甚しい程、万人の各世界は大きくなる、即ち似寄つた考を有つた人間が少ない程、人類全體は進歩するのである。凡人が少ない程人間は進歩するのである。何となれば、各世界の變遷の差は過去の大小に比例するからである。

 天才とは實に、大きな、奇拔な世界の所有者に他ならぬ。天才の世界の出現に依つて、各世界は急激に進歩することが出來る。何故なれば、天才の世界は過去の、非常な多量を産するからである。一天才の産出する『過去』は、凡人千人の産出する過去よりも遙かに澤山である。そして、天才は最も人として滿足し得る人である。ニユートンの世界は如何であつたか。彼の世界には色と光とが新らしく現出した。そして彼の世界の色と光とは、遂に人類全體の各世界の公約數となつたのである。レオナルド、ダ、ヴヰチも、プラトーもダルウヰンも、アランポーも、すべて彼自身の世界を創造した。そは實に他の凡人の世界と何等交渉を有たない世界を創造した。そして、彼等の世界は、逆に、人類の上に擴大した。

 彼等は最も幸福な人であつた。何となれば、彼等は世界は人のものなりと云ふ權利を最もよく用ひ得たのだから。

 して、吾々が人生の目的は何であらうか。すなはち吾々が、全然異つた世界を創造することである。成可く天才の世界に近きものを吾自ら造り出すことである。誰にも這入り得ない吾のみの庭園を自己の中に創造することである。

 此處に獨創は、吾の人生の目的となる。『獨創』こそは、賞む可き哉。

 而して近代に至つて、以上の自覺は、吾々の上に許るされた。千七百九十三年の公布は、確に其の許可の一方式である。吾々はこの幸福なる時代を、感謝しなければならない。かくて近代は實に、全然個人の時代である。『支』は此の世に全滅した。吾々は一秒毎に孤獨である。吾には唯永久の變化あるのみとなつた。

 かくて、キユービストは、幾何學の教科書の如き世界を創造した。未來派は運動の天下を創造した。

 吾は待つ、更に怪奇な、突飛な世界が續々と出現せむことを。かくして人生は進歩し、超越するのである。

 地球は人の奴僕となる時が來るのである。

(一九一三、十月廿七日夜)(中學五年當時編輯) 

        ×

 絶えず進歩し向上せよ、一切は現出にあり。現在に過去と未來と係れり。そは肉體に對する外界なり。その時を進歩し充實せしめよ。

        ×

 自分は「鐵の童子」の大體を、早くも完成しかけて居る。是に出來る丈けの彫磨を加へた上、自分の少年時代の記念物とする考だ。是をダヌンチオの岩窟の少女位の印象深きものとした。

 レルモントフの浴泉記を讀んだ。實に齒切れのいい、痛快な小説である。ベツチコリンの性質は實に嘆ず可き哉。自分は彼のメリイ姫がプリンスに相似て居る樣な氣がしてならない。

 要するに人生は、血の強大をはかることだ。

        ×

 近來は皆、おとなしく、素直に、所謂「手ざはり快き」文章を皆作る。實につまらぬことなり。

 吾人の心は決して柔順なる可からず。

 吾人の心はシヤバンヌの繪よりロダンの彫刻を欲し、ルノアール、シスレー、ピサロよりもバン・ゴツホ、ドミヱーを要求す。

 ヱツチングは石版より偉大なり。是の故に、吾人はロート・レークよりロツブスを尊敬す。是故に吾人は歌麿よりも北齋を、江戸時代よりも奈良朝を、より多く慕ふ軍人は文士より偉し。

 吾人は殺人を尊重す。殺人は人に恐怖と重量とを與ふるが故なり。アラン、ポーは殺人を描きてレフアインされたり。

        ×

 吾人は脂肪に向つて滿腔の食慾を有つ可きなり。吾人は須らく西洋人の暴力を學ばざる可からず。

 西洋人の立派さよ。

        ×

 吾人は古代を慕ふといへども、あに、本居、加茂の輩等の國學的柔弱眼を以てせむや。

 吾人は異端の異端なり。是故に我等牛を喰ふ。

        ×

 大正明治の『纖弱なるペン職人』を學ぶ勿れ。

        ×

 われ切に豪奢を思ふ

 青梅のにほひの如く

 感せまる園の日頃に

 酒精なむる豪奢を

        ×

 文章世界で大野隆德が、僕の畫に就いて何か言つた。其批評は多くの人の僕に就いて言ふと、同一軌に屬する物であつた。

 僕は一體に、批評に對して餘り心を起さぬ方であるから、微笑して見て置いた。

        ×

 人間が都市生活から享ける快樂は、他人の容貌を澤山見られると云ふことである。

        ×

 新らしく生きよ、健康の薔薇畑の中に。赤く白く生きよ。

 わが未來は輝けり、われは朝の太陽なり、新しき血と光とに溢れたり。

 あゝめざめよ、強く、海の貴き曉に。

 汝が外界は汝を賞揚せり。汝に媚せり。汝玉座に到るををしむ勿れ。

 音樂を聞け。

 人生の春の樂は汝の血管と神經とに鳴り響かずや、更に又夏の樂しさへ。

 おどれ、悦べ、

 初夏の綠と群靑との中に。

        ×

  天は汝を愛す、すべてを天にまかせよ、汝は唯『甘受』の器を捧げてあれ。

 されど死をも又甘受する事を忘るな、汝は天の子なり、苦と樂との子なり。

        ×

 汝空の如くなれ、

 汝の瞳を靑にかへせ、汝の神經を靑にかへせ、汝の愚なる心を空にせよ。

        ×

 大膽であれ

 大膽に描け

 埃及人となりて第廿世紀の日本を描け。

        ×

 決死の人の美しさを今宵知る(一九一四年六月六日)。

        ×

 屈せず進め、屈せず進め、汝に大天才の素質あり。大なる藝術汝の腦中に燃え上らむとす、汝汝の藝術に放光せよ、

 

 

[やぶちゃん注:本篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では「感想」の部に入っており、実は私はこの「感想」に分類されてある六篇総てを遠い昔に電子化している。しかし、今回、これを読むと、これはアフォリズムと散文詩の折衷に近い。そこで、ここに改めて全くゼロから「槐多の歌へる」を基に電子化し、ここに配することとした。その理由は後ろから二つ目の連(条)に『決死の人の美しさを今宵知る(一九一四年六月六日)。』というクレジットがあることを根拠とする。本篇は「槐多の歌へる」には所収せず、本底本の続編で、翌大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「感想斷片」パートで初めて日の目を見たものである。これも国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該書の画像を底本として視認した。太字は底本では傍点「○」。

「  此の權利有りてこそ始めて人間は生きることが出來る。人生は此の點に生ずる。」この冒頭の二字下げはママ。

「土偶の坊」はママ。「全集」は「木偶の坊」。無論、頗る誤植が疑われはするが、暫くママとする。

「許るされた」はママ。

「千七百九十三年の公布」とはフランスのルーブル美術館成立史に関わるものと考えられる。フランス革命後、一七九三年七月二十七日の公布令で美術博物館の設立が決まることを指すのであろう。ちなみに翌一七九三年八月十日の共和国祭に合わせてルーブル美術博物館として開館され、さらに翌一七九四年には国立美術館となっている。]

「支」「ささへ」と訓ずるか。

「キユービスト」キュビスム(Cubisme フランス語)の芸術家。キュビスムはピカソの「アビニヨンの娘たち」(Les demoiselles d’Avignon 一九〇七年秋完成)を嚆矢とするとされる。

「鐵の童子」槐多の伝奇小説。「全集」年譜及び一九九六年春秋社刊の荒波力(ちから)氏の「火だるま槐多」の巻末年譜から推測すると、本作の執筆は大正二(一九一三)年十一月から、翌年の中学校卒業後の間に断続的に為されたことが類推出来る。私の電子テクストがある。

「ダヌンチオの岩窟の少女」「ダヌンチオ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダンヌンチオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。彼の「岩窟の少女」というのは一八九五 年 に『コンヴィート』誌に連載し、翌年刊行した小説「岩窟の乙女たち」(Le Vergini delle Rocce)を指していよう。恐らく、槐多が読んだのは大正二(一九一三)年新陽堂刊の矢口達訳「巌の処女」、これであろう(リンク先は国立国会図書館デジタルリブラリーの当該書)。

「レルモントフの浴泉記」これは夭折した帝政ロシアの詩人にして小説家ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов 一八一四年~一八四一年)の知られた小説「現代の英雄」(Герой нашего времени 一八四〇年刊)の中の第四章「公爵令嬢マリー」の部分(紀行文体裁)を森鷗外の妹小金井喜美子が訳したものである(この部分は主に敷名章喜氏の論文「入浴観の違いから生じる誤解」の注に拠った)。初出は鷗外主宰の『しがらみ草紙』(明治二五(一八九二)年~明治二七(一九九四)年)であるが、槐多が読んだのは恐らく明治三〇(一八九七)春陽堂刊の森鷗外編になる「かげ草」、これであろう(リンク先は国立国会図書館デジタルリブラリーの当該書の当該作)。

「ベツチコリン」自滅型恋愛小説「現代の英雄」の主人公青年将校グリゴーリー・アレクサンドロヴィッチ・ペチョーリン。「浴泉記」では「ベチヨリン」と表記されている。

「メリイ姫」公爵夫人「リゴウスキ」(「浴泉記」)の令嬢。ペチョーリンの親友グルシニツキーの恋人であるが恋愛関係に陥り、決闘にまで発展する。

「プリンス」既出の槐多のプエル・エテルヌス(永遠の少年)、一中の一級下の美少年稲生澯(いのうきよし)のことであろう。

「ロツブス」ベルギーの画家フェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)。エッチングやアクアチント技法の版画家として知られ、サンボリスムや世紀末作家のデカダンな挿絵をよく描いた。性と死と悪魔――如何にも槐多好みの作家である。

「是故に吾人は歌麿よりも北齋を、江戸時代よりも奈良朝を、より多く慕ふ軍人は文士より偉し。」「全集」は「是故に吾人は歌麿よりも北齋を、江戸時代よりも奈良朝を、より多く慕ふ。軍人は文士より偉し。」と句点を配する。それが正しいとは思うが、ママとする。

「レフアインされたり」refine。これは使役表現で、殺人を真に洗練させた、優美化させた、謂うなら、殺人を小説の素材に選んで、しかもそこに殺人の持つ美学を打ち立てたという意味で私は読む。

「文章世界」明治末から大正にかけて博文館が発行していた文芸雑誌。明治三九(一九〇六)年三月に創刊。参照したウィキ文章世界によれば、『当初は若者たちに実用的な文章を習得させるための投書・指導を目的として創刊されたが、初代の編集責任者に作家の田山花袋が就任したことから、小説や詩などの投稿も受け付け、やがてそちらが主流となっていった。田山とのつながりで国木田独歩・島崎藤村ら自然主義系の作家が多く連載し、投書の撰者も田山・島崎をはじめ正宗白鳥や徳田秋声・北原白秋・窪田空穂・内藤鳴雪などが名を連ね、明治末期には自然主義文学の拠点とみなされるようになった。また、投書者の中からは室生犀星・吉屋信子・内田百閒・今東光・横光利一らを輩出した。大正に入り、田山が編集から退くと徐々に衰退し』、大正九(一九二〇)年十二月を以って終刊した。

「大野隆德」(おおのりゅうとく/たかのり 明治一九(一八八六)年~昭和二〇(一九四五)年)は洋画家。千葉県生。明治四四(一九一一)年東京美術学校卒。文展・光風会展に入選、大正二(一九一三)年の東京大正博覧会で二等賞、後の大正四(一九一五)年、文展特選。後に光風会会員。槐多より十歳年上。ここに出る彼の槐多評は不詳。識者の御教授を乞う。

「あゝめざめよ、強く、海の貴き曉に。」「全集」は最後の句点がない。不審。

「おどれ、悦べ、」の「おどれ」はママ。

「埃及人」「エジプトじん」と読む。槐多は古代エジプトの壁画絵を好んだ。

「一九一四年六月六日」この年(大正三年)三月に京都府立一中を卒業(満十八歳。当時の中学は五年制)荒波氏の「火だるま槐多」の年譜によれば、卒業と同時に、『画家となるため上京を決意するが、家庭生活の苦境はなはだしく、パリ在住の従兄山本鼎に応援を頼』み、『五月一日、山本鼎が依頼してくれた小杉未醒の受け入れ態勢が整うまで、信州の鼎の実感で六月二四日まで待機』とあるから、まさにこの一行はその間のものである。この五月六日には『大阪朝日新聞京都付録版に「絵馬堂を仰ぎて」が掲載さ』れている。これは本邦に於けるナショナル・ギャラリーの建設を提唱したもので、私がで電子化している。槐多が青雲の志を懐いて上京したのはこの翌月の六月二十五日のことであった。]

« 金色と紫色との循環せる眼   村山槐多 | トップページ | レオナルドに告ぐる辭 【★1913年パートへの差し込み追加分】 »