夢野久作詩歌集成 『心の花』掲載短歌群 大正四(一九一五)年
[やぶちゃん注:以下は西原和海編「夢野久作著作集 6」に「未だ見ぬ国」の総表題で載る佐々木信綱主宰の竹栢会の短歌雑誌『心の花』に掲載された短歌六十一首である(但し、この総表題は以下の大正五(一九一六)年二月号の『心の花』掲載分の前書を西原氏が選んで掲げられたものと思われるので、ここでの電子データの総表題としては外した。因みに、歌群には前書を持たない歌群もある)。これらは西原氏の解題によれば、『心の花』大正四(一九一五)年七月号から翌大正五年五月号までの間で、七回(大正四年九月号・十一月と大正五年一月号は除く)に亙って発表された、夢野久作こと「杉山萠圓」(署名)の短歌である。既に本詩歌集成の冒頭注でも述べた通り、これらは大正六(一九二七)年の雑誌『黒白』で本格的な作家活動を始める二年も前の作品群であるが、西原和海氏が「夢野久作著作集 6」(二〇〇一年七月一日発行)の校了直前に発見され、急遽、同書に差し込まれたものであって、現在知られている夢野久作の作品群の中でも最も近年になって見出され紹介された貴重なものである。西原氏の労に謝意を表しつつ、電子化するものである。各号最初の一首の末に署名を附した。掲載誌情報は底本に従い、後に( )で附した。]
有明月
月一つ親船ひとつ大川のおぼろおぼろと海にまじはる 杉山萠圓
置時計コロンととけて唱ひ出すラマルセールの春のたそがれ
[やぶちゃん注:「ラマルセール」フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)のことであろうが、こうした音写は現在では見られないし、当時としても一般的であったとは思われず、歌語としては無理がある。]
ばるこんと樅の一樹と靑白き瓦斬の光りにしめる瀧夜
[やぶちゃん注:「瓦斬」は「瓦斯(ガス)」誤植のように思われるのであるが、「瓦斬」で検索をかけてみると、よく分からないが(それらも誤植なのかどうかが不明乍ら)、「ガス」の意味で「瓦斬」と記す記載を散見出来る。但し、「瓦斯」の「斯」は中国音の「スー」の音を用いたものである以上、「チャン」である「斬」を用いるのは慣用であったとしても誤りである。翌月号に出る一首では正しく「瓦斯」とあり、これは雑誌側の誤植である可能性が高いかも知れない。]
小糠雨床屋のびらの赤いんきしたゝりつくす長きひねもす
加賀樣のお屋敷うちの遲ざくら電車にとほく森閑と咲く
人行かぬ化學教室のうら庭の夕日にならぶサフランの花
[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。――「人行かぬ」「化學教室のうら庭」「夕日」というロケーション――そこに夥しく咲き並ぶ紅紫のサフラン(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科クロッカス属サフラン Crocus sativus)の色――既にして薬品臭の中に猟奇の匂いが私には漂っているように感じられる。]
有明の月のおもてにうすらぐはみじかき夢のかなしみの痕
五月雨は靑葉の底のお茶の水江戸のけがれを海へ海へと
しげりあふ心の森の暗きをば舌なまぐさき蛇這ひいでよ
[やぶちゃん注:佳品。]
子供等が唾を吐きてははやし居る若葉の谷のお茶の水橋
京はづれ珠數屋の店の打ち水に何か涼しく蝶のとひ寄る
不幸なる兒は大連にありといふ婆を雇ひぬ梅にがき頃
(大正四(一八一五)年七月号)
日の威力
眼醒むればまことや昨夜靑桐にうつつときゝし五月雨の音 杉山萠圓
瓦斯の灯をとほしくさりて電車待つ女の暗に五月雨ぞ降る
[やぶちゃん注:「灯」は底本のままで正字化しなかった。夢野久作の「氷の涯」の初出正字正仮名版を電子化した経験上、久作は「灯」と「燈」を厳密に使い分ける傾向が顕著であるからである。]
五月雨の大東京を去る夕べ空に虹呼ぶニコライの堂
[やぶちゃん注:「ニコライの堂」東京都千代田区神田駿河台にある日本ハリストス正教会の首座主教座大聖堂(ロシア正教会の聖堂ではない)。「ニコライ堂」は日本にロシア正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(後に大主教)聖ニコライに因む通称で、正式名称は「東京復活大聖堂」で「イエス・キリストの復活を記憶する大聖堂」の謂いである。緑青を纏った高さ三十五メートルのドーム屋根を特徴とする日本初にして最大級の本格的ビザンティン様式の教会建築と言われる。明治二四(一八九一)年の竣工で駿河台の高台に位置していたため、御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。この後の関東大震災で大きな被害を受けたが、一部の構成変更と修復を経て現在に至る。国重要文化財(以上はウィキの「ニコライ堂」に拠る)。]
風鈴を彼女は見遣り其頰を吾れは睨みて暮るゝ五月雨
樹には樹に草には草に夜半の夢結ぼれ兼ねつ五月雨の音
夏は來ぬ沖津潮風吹き晴らす離れ小島も靑葉見ゆれば
靑葉わか葉文机はやくたそがれて池水にのみ降るか五月雨
[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。]
夕榮えは天の僞り地の罪の血を血に洗ふくるしみの色
ゆあみして旅の心となりにけり都に六里靑葉する宿
人買ひと友の叫ぶに逃げ後れ坐りて泣きぬ夕凪の濱
[やぶちゃん注:久作版幼年思慕篇か。]
今死なむ女の前にさり氣無く海月の光浮かす夕凪
眞靑き空一ぱいの日の威力死に蠅を引く蟻に凝まる
[やぶちゃん注:「凝まる」は「かたまる」お訓じていよう。秀逸の一首と詠む。]
(大正四(一九一五)年八月号)
硝子瓶したゝる水の一滴に小さき秋の世界かゞやく 杉山萠圓
くろき雲いま團々と行く下の赤土山にわれは鍬ふる
[やぶちゃん注:以下、第一書房版「夢野久作全集」第七巻の中島河太郎氏の年譜によれば、久作は明治四三(一九一〇)年に慶應義塾大学分科に入学したものの、二年後の明治四五(一九一二)年、文弱を嫌った父茂丸の厳命(同年中に久作の愛弟が急死、父茂丸はそれを下らぬ勉学が元凶と断じたことに因る)によって中退、翌大正二(一九一三)年身体養成と称し、やはり父の命によって福岡県糟屋郡香椎(かしい)村唐原(とうのはる)(現在は福岡市東区唐原)で杉山農園を経営することとなったが、『生来農業は不得手であったため、経営方法は損得を超越し』たものとなり、失敗、翌大正四(一九一五)年、『思索的反省的な性格は農夫生活におちつけず、東京本郷の喜福寺で剃髪、直樹を泰道と改め』、その後はウィキの「夢野久作」によれば、『奈良や京都で修行し、吉野山や大台ケ原山に入』ったとある。しかし、二年後の大正六年には継母幾茂が産んだ弟五郎が亡くなって杉山家を久作が継がねばならなくなり、福岡へ戻って法名のまま還俗、再び唐原の農園経営に戻っている。時期的には微妙であるが、この一首はその最初の農園生活での一齣であるように思われる。]
眼に見えぬ悲しき魂が音立てゝ林の落葉うづまき去るは
樹々は皆われを見守る如くなり秋のまひるの靜かなる山
(大正四(一九一五)年一〇月号)
秋日和
賢こきは都に殘り愚なるは田舍にかへり秋更けにけり 杉山萠圓
[やぶちゃん注:「くろき雲」の私の注を参照されたい。]
かゝる時靑も香も無くわれ死なむ御空に土にまどかなる秋
秋の風今日勝馬の口取りて色旗樹てゝ薄原行く
[やぶちゃん注:「樹てゝ」老婆心乍ら、「たてて」と読む。]
小兒等が色付硝子眼に當てゝ美しと呼ぶ秋日さす街
ちんちろりんちんちろりんと蟲の鳴く眼をまんまるくみはる闇の夜
自轉車のがたがた云ふがうしろより追ひぬけて行く秋の野の道
さるをがせ森吹く風になびく時行者の鈴の近よりて來る
[やぶちゃん注:「さるをがせ」菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ(猿尾枷/猿麻桛)属 Usnea に属する地衣類の総称。ブナ林など落葉広葉樹林の高度の高い森林の樹上の樹皮に付着して枝か細い葉のように枝分かれして垂れ下がる糸状の地衣類。]
枯れし樹の梢あふげば大空のわがふる里のなつかしき哉
(大正四(二九一五)年十二月号)